Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

祝福と呪いから祝福のみへ

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

理性と信仰のアレオパゴス

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

カエサルのもの

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

福音と信仰―マルコ1章

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

カイロスの徴

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

25年8月改訂:内村鑑三晩年の「哲学熱」と真理の楕円説―純福音の析出をめぐって―(その三、最終)

五、「代刑代贖」論の窮境と論駁―律法と混濁した福音―

5・1十字架に罪への怒りを見る

 [問3]:何故内村は3:25-26節を「キリスト教の中心点」、「最重要の句」として鍵の「鍵」と主張するのか(1928.12.2、26:186)?鍵が信義不分離の啓示の報告であるとき、「今や業の律法とは分離され」たはずの律法に基づく義例えば代罰は排除されたのではないか?

 内村は「神の忿怒と贖罪」(1916.4、22:237)において25-6節が「代刑代贖(贖罪)」「代刑代罰」理論の基礎にあると解する。神の怒りに内村は侮るべからざる神の真実を見る。「神は愛である、而して愛なるが故に彼は罪に対して熱烈の忿怒を発し給ふ」(237)。神の怒りは罪の値である死を逃れる悔い改めを促す。その証拠にイエスのパリサイ人への呻きの言葉で始まる偽りへの七つの叱責を挙げる(Mat.22:13)。「余輩は人類の罪に対する神の忿怒を離れてキリストの十字架を考ふることは出来ない・・神は其独子の上に人類のすべての罪を置き給ふた・・キリストは茲に人類を代表して人類の受くべき罪の適当なる結果(刑罰)を己が身に受け給ふた。・・十字架は聖子の受くべき審判としては悉く不正であり、然れども神に反逆き来たりし人類の審判(刑罰)としては悉く正しくあった」(239-40)。

 内村はイザヤ53章を引き言う、[主張6a]:「キリストの十字架を人類の罪の代刑代罰として見る」。彼は鍵25-6節「神はその血に由りてイエスを立て信ずる者の挽回(なだめ)の祭物(そなへもの)とし給へり」[1]を挙げ、十字架を罪と罪人とに対する「神の態度を更(かへ)るために必要であった」と罰から赦しへの態度変更の出来事と解する。「ここに代贖と赦免と救ひとが最も明らかである」(22:241)。内村はこの二節に「神は愛である又義である」という「楕円形」なる「基督教的真理」の「心霊的宇宙」が描かれているとする。義と愛のディレンマが「十字架上の死に由て解決され」たとする(cf.Ps.85:10)。[主張6b]:「義罰を経ざる赦免は信頼するに足らない、愛を施すに途がある、又之に与かるに途がある」とし「キリストが我らの罪の代りに十字架上に於いて罰せられたという事を」信ずると結論づける。

 「講義」においては表現「代罰」は避けられるが、「意訳」により25-6節の解釈が補強されている。「自訳」では「神は予めイエスを立てて其血によりて信ずる者の宥和(なだめ)の供物となし給へり、是神の忍耐を以てする巳往(すぎこしかた)の罪の赦免に関し今の時に彼の義を彰さんため也、即ちイエスを信ずる者を義とし給う方で、ご自身も尚義たらんため也」とあるが、こう「意訳」される。「神はイエスを立てて宥めの供物となし給へり(是れ信仰に由りて受けられるべきもの、其血を以て提供せられしものなり)・・是れ一には神が忍耐の中に既往の罪を見逃し給ひし事につきて其義を彰はさんため、二には、今の時に其義を彰はさんためなり。是れ神自から義たり、而して同時に亦イエスを信ずる者を義とせんがためなり」(26:186)。意訳では罪を見逃してきた律法に基づく義を恢復するべく「見逃し給ひし事につきて其義を彰はさんため」と祝福と呪いのもとにあるモーセの業に基づく義をもはや見逃さないという仕方で読む。しかしテクストは「~つきて」ではなく「見逃し故に(dia)」と福音啓示の「好機」の理由づけの一文である。さらに25節の連言「そして(kai))」が自訳の「尚」が「同時に亦」とされ業の律法に基づく神の義と信に基づく義認の同時性が強調され、キリストの十字架の一つの出来事のうちに二種類の義を読む。審判の義と信仰義認の愛が十字架の代罰において共存しえたと意訳により提示されるに至る。

 内村は「十字架の福音」が「福音」であるとし「キリストの十字架・・神の愛、その義、その怒り、その赦免、すべてが其[福音]の中に含まれている」と非分節的に言うとき、律法の混在を十字架に見ており純福音の析出に失敗していると言わねばならない。一方で「全く律法を離れて信仰だけの人となったのが真の基督者である」(26:167)とあれほど律法からの解放を伝えていたが、代罰の主張において当の神が律法の枠の中で或いはそれと共に福音を啓示していたことになる。

 鍵概念は七十人訳で用いられるhilastērion である。この語は文字通りには神がモーセと会見すべく造作を命じた幕屋に置かれ、その上に犠牲の子羊の血がふりかけられる契約の箱の「蓋」を意味する。この語は「宥めの供物(Sühne Opfel)」や「贖罪の犠牲(sacrifice of atonement)」また「恩恵の座(Gnadensthul)」(Luther)や「現臨の座(a locus of divine presence)」(C.Talbert)、「会見の場(meeting place)」等と訳されてきた(『信』上612)。キリストの十字架の血を、罰を含む犠牲の一種として理解するか、そこにおいて神が人にまみえる福音の実現の蓋ないし座と看做すかで分かれる。

 内村は「宥めの供物」を「宥め」という訳語に引きずられ、親子関係の比喩により、悪事を為した子に怒るとき、「親より子を宥めることはできない」とする。その比喩のもとで「到底神より人を宥めると云ふ事のありうる筈はない。・・人より神を宥めるのであるに相違ない」(188)と言う。この箇所の「差し出した」の啓示の行為主体が神であることが揺るがない以上、「宥めの供物」として「差し出した」主体が人間イエスであるという理解は端的に主語の取り違えとして文の有意味性を破壊する違反である。しかし、内村は人間の罪の処罰と義認双方をこの語に担わせ、実質的には人より神への「宥めの供物」と共に神から人への「恩恵の座」双方を意味すると多義的に理解している。これはパウロが曖昧だったという主張を含意する。

 

5・2業の律法から信義への解放としての贖い

 [問4]:内村によるhilastērion の多義性の要請はパウロのこれまでの双方の判別による純福音の析出の議論をだいなしにするものではないのか? Vulgata以来の誤訳が内村をして律法からの福音の析出に失敗せしめたものと思われる。

 これを指摘したうえで、内村に譲歩して、イエスから神への供物を恩恵として受け止めるには、一旦子より父への宥めとして捧げそれに父は満足しそれと同時に、父が人類の罪を処罰せざるをえず、子において罰することにより父と子双方が人類にその宥めによる和解を提供したと読み込まねばならない。[主張6(6a+6b)]:「神は・・罰すると赦すと、罪に定ると義とすると、二つの事をキリストの十字架を以て同時に行った、即ち「神自から義たり、同時に亦イエスを信ずる者を義とせんが為なり」」(191)。これが鍵箇所中心の解釈である。

 しかしテクスト(25-6)は帰結の不定法「ご自身が義であることへと至る」と共に現在分詞「イエスの信に基づく者を義とすることによって」が連言「そして(「意訳」は「同時に」)」により結びあわされている。従って、この箇所では二つの主張がなされているわけではなく、「イエスの信に基づく者を義とすることによってもまた[即ち律法に基づく神の義とは別に]神自らが義であることへと至る」と訳さねばならないはずである。同時に罰と赦しの二つのことが遂行されているわけではない。神が信に基づき義であることの論証に向けて、神は人類に対しイエスの信の従順に基づき義とすることをこの「好機」に知らしめている。

 内村の信仰の特徴は十字架上で神の怒りを一身に帯びたイエスを仰ぎ見る、そこに感恩の情が湧くそのような信仰である。しかし、この解釈にはただちに困難が伴う。その不条理さは、ひとつにはもしそれが茶番であれば、即ち子なるイエスに父なる神が甦らすことを予め知らせつつ罰したふりをしているならば、そのような神は偽りであろう。また、神はイエスが罪なきことを知っているはずであり、内村も「聖子の受くべき審判としては悉く不正であり」と認識しつつ、罪人の身代わりとしてイエスに真剣に怒りをぶつけ人類の一切の罪を担わせ最大の罪人として罰し、呪ったとするなら、そのような神はイエスその人に対し不義を為したことになる。神は「業の律法」「モーセ律法」に即しても「信の律法」「キリストの律法」に即しても義であり聖であるはずである(3:27,3:20,10:4,1Cor.9:9, Gal.6:2)。

 [問5]:「贖い」とは「今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が君を罪と死の律法から解放した」(8:2)、「キリストはわれらを律法の呪いから贖いだした」(Gal.3:13)その解放ではないのか?解放する神が自らの義とは「分離される」業の律法のもとに留まっていることはできず、より上位の「分離なき」義を示しうる限りにおいてその解放が可能である。

 アンセルムスは「理性のみ」にて父と子の協働の愛による罪の贖い(買戻し(redemptio)、解放(liberatio))を論証し代罰説を否定していた(CDH.II20、『信』下七章)。「父なる神が「わが独子を受け、汝の代わりに捧げよ」と言い、また子自身が「われを受け取り、汝を贖え」と言われた場合以上に深い憐みを考えることができるか」。この語りに罪を担う身代わりの死の理解を父子は共有しつつ、子は父の意志に「真っすぐ」の従順を貫き人類の罪を担い父はそれを罪を贖う十全な力あるものとして嘉みした、その憐みの連携が見られる。命じられているのは犠牲の捧げではなく憐みの受容である。

 「神の忿怒と贖罪」の代罰説は藤井武「単純なる福音」(188号1916.3)への反論であるが、藤井は正しく「実に「神の義は律法の外に顕れ」たのである、而してこの純福音のみが我等の頼むべき隠れ家である千歳の磐である」と結論づけていたことになる。内村のように人間の側から見れば一人の神は怒りもしまた義認もしようが、鍵は神の信義の分離なさに基づく業の律法からの贖いをめぐるパウロによる神の働きと知恵の報告だったのである。

 パウロは「神には偏り見ることはない」(2:11)と一人の神に秩序ある二種類の正義を見る。一方、神は業の律法のもとに生きる者には業の律法を適用し、そこでは「すべての律法を為す義務がある」こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」がそこでは誰も「神の前では義とされないであろう」(Gal.5:3,Rom.2:13,2:6,3:20)。他方、信の律法のもとに生きようとする者、「神の善性」に留まろうとする者には神は「イエスの信に基づいている者」かにより審判を遂行する(11:22,3:26)。

 

六、絶筆における神の前のロゴスの析出と楕円二焦点への代入

 6・1二元論の楕円説による難問解決

 内村の困惑は実際、3:25-6節について「詳細は他日に譲り茲には大意を述ぶるに止めたい」と言い、3:27-31に至っては一行のみを与える事実に確認され、彼は聖書の鍵の問を「講義」後も抱え続けることになる(186、193)。彼は注解書を買い求め同じ問題を反芻し、時に予定の教義に再会し改めて無償の救いを見出し、時に信仰条件説を確認している。「わが旧き信仰に立ち返りて歓喜極まりなしである。エレクションである、予定である、わが信仰の真髄は是である。神に予め救いに定められずしてわが救はるる理由は一もない。・・自分に救わるるの何の資格なくして、神の至上意志によって救わるるのである」。予定の教説は「神の側」では即ち永遠の現在において時空を自由に行き来する神においては私が明日何をするかまですべてが知られてれており、個人の選択の自由が棄損されることなく恩恵の無償性、贈り物性の主張を根拠づけるものとなる[2]他方、鍵のフォーブスの注解を紹介し、「神はキリストに在りて人類の罪をすべて赦し給うた。人は今は唯信ずれば救わる、但し信ぜざれば救われないと言うのである」と条件説を再提示している(1928.12.2)。

 さらに、師の教え[Z:媒介説]に忠実な或る読者が「哲学熱」への「反対」を表明し「福音は聖霊のバプテスマを受くるによりてこれを信ずるのであるからこの世の知識なる哲学の援助など借りる必要はない」と書き送った時、内村は「哲学を恐れ」ないよう励まし自らは「神と人」の二元論の具体化を追跡した(1928.5.17、5.23、7.24)。内村が恩恵の無償性と恩恵を得る為の信仰の条件性の間の矛盾緊張を理解しなかったはずがなく、彼は哲学にその解決を求めていた。彼の「オイケンやベルグソンの方が、神学者よりも遥に有益であ」との発言は従来の聖書学や神学では解けない問を彼は少なくとも抱えていたことを示している(1926.9.29)。

 内村は晩年「神と人」の二元論のもとそれを適切に分節、総合する方法として、「真理は楕円形である」の構想に至ったと思われる(「楕円形の話」32:207)。彼が「キリストは神であって亦人である」(32:208)と語るとき、「初めに理(ロゴス)があった、理は神に向き合っていた。理は神であった。・・その彼は人と成った」を念頭においたことであろう(John.1:1-6、cf.1:2-4,11:36)。万物はこの理であるキリストにより形成された。それが人の側ではナザレのイエスの信の従順の貫徹に結実し、神の側では「イエス・キリスト」を介した分離なき信義の啓示行為に結実している。

 

6・2仰瞻の信仰の純化

 「絶筆」である「三種の宗教」において、内村は[X:条件説]「信ぜざれば救われない」を乗り越え、実質的には御子を介した「神の恩恵」とそれに「応ずる人の信仰」を神の前の関係と捉え[Y:信義不分離説]を主張している(1930.2.355号,32:303)。

 [主張7]:「基督教は最高道徳でない、贖罪教である。キリストに在りて神が人類の罪を滅ぼし給へる其事実を示せる宗教である。・・「汝ら我を仰瞻せよ。しからば救はれん」と教ふる宗教である。・・人が自から神を求むる時に彼は芸術的に又は倫理的に彼に近づかんとする。然れども神が人を求め給ふ時に人は信仰を以って神に到るより他に途がない。信仰は神が備え給ひし救いの途に自己を信(まか)す事である。信仰に手段方法は何もない、唯信ずである。・・神の恩恵に応ずる人の信仰、それが眞の基督教である。今度私が死んだとして、私は私の絶筆として此端文を遺して恥としない。私が生存(いきのこ)るならば此信仰を繰り返すまでである」(32:304)。

 繰り返しを恥としない「此信仰」により、内村が信仰理解に新たな手応えを得ていたことを確認できる。従来の義認条件説は払拭され、「信仰に手段方法は何もない」と言われる。一般に「手段」や「方法」はそれとは異なるゴールや目的を実現する手続きであり、適切な手続きは目的実現の「条件」である。

 「神が人を求め給ふ」という神の前の視点はここでは「人が自ら神を求むる」という相対的自律性の視点と判別さる。人が神を求める途や動機付けは「倫理的」また宗教的と多様でありうるが、「唯信ず」は「神が備え給ひし救ひの途」に「応ずる信仰」として、先に見た義認条件説における「徹底した」や「無邪気」という類の形容はなく、神が嘉みする神の前の人の唯一の応答を表現している。これは鍵の啓示の受け手の三人称の匿名性に対応し、神に備えられた途に相応しい信仰が捉えられ、内村は神主導による神ご自身の自己完結的な神の前の文章を報告している。

 救いの唯一の途は神が備えた途に応じる信である。その「救ひの途」とは神の義とその啓示の媒介「イエス・キリストの信」両者の信義に「分離がない」その途である(3:22)。その「恩恵に応ずる人の信仰」は神により理解されている限りのご自身の分離なき信義の恩恵に相応しい人の信仰即ち「イエスの信に基づく者」のことであり、神はそう看做す者を「義としている」(3:25)。

 恩恵により備えられた信義不分離の救いの途とその「他に途がない」その途に「自己を信(まか)す事」には、その上りと下りの同一の途の比喩が適用される。内村は同一路により恩恵と信仰の不分離な二項一組を想定しており、その信仰が嘉みされる者は神の前を構成する義人として既に組み込まれている。かくして神の前の神が嘉みする信徒の義認は、永遠の選びのもと、神が信義不分離と看做すが故にその都度の現在における無償の恩恵の「贈りもの」(3:23)である。これは神が理解する限りの[Y:信義不分離説]の一般的な言明(ロゴス)に他ならない。

 その理解のもとで、「汝ら我を仰瞻せよ。しからば救はれん」における命令文と「しからば」の結合は、後続文の神の前の構成諸要素を考慮する時、神の前の事態として一層厳密な必要十分条件として提示することを許容している。「汝ら我を仰瞻している場合にかつその場合に限って汝らは救はれている、逆も真」。他方、[X:条件説]なら、「信じなければ救われない」が仮に真であるとして、「信じるならば救われる」は論理的に帰結しない。どのような信仰を持つかが問われるからである。

 かくして「我を仰げ」の命令は必要十分な関係にある信義不分離の神の前の一般的な言明として理解しなければならない。理論的に純化された内村の仰瞻の信仰は神の前の二項一組の人格的な信の交わりである。人生の終わりに仰瞻の対象が通常の三人称「イエス」(29:343)や「彼」ではなく「我」に変換され神自身の呼びかけとしているところに、内村の勘が研ぎ澄まされていることを確認できる。

 この恩恵を表現しうるものが彼の二元論の具体化としての楕円説であり、鍵を楕円化すればこうなる。「分離なき神の信義」は神に嘉みされたナザレの「イエスの信」の従順の貫徹の働きとともに二焦点を形成する。神の前の「神と人」のその分離なき二焦点は「イエスの信に基づく者」の義認を秩序ある楕円軌道において遂行している(3:21-6)。ケプラーの三法則に対応するそのロゴスとして「神の信義は神の愛故にモーセ律法の業に基づく義より根源的である」が発見されよう。楕円化を人の前に拡張すれば、真理を真理の為に愛する哲学の営みと福音の真理への愛も二焦点としてこのように楕円的に喜ばしい一つの真理探究と発見の生を形成する、愛は喜びを伴いそして喜びは人を幼子にするからである。

 

結語

 内村は鍵を自らの告別式で読むよう指示したとき、神の前の信義不分離の「福音の真理」は一切を秩序づけていることに思い至っていたことであろう。「宇宙万物人生悉く可なり」が最後の言葉であった(357号)。

 




[1] 「邦訳聖書」(26:186),cf.大正六年「改正訳」32:367

[2] 1928.5.3、cf.「予定の教義」1904.5、12:175。J.Müllerはルター等数人を挙げて言う、「彼らは究極的に彼らの予定の教説を、一つの端的な必然性において生じるあらゆるものを内含するために、神の知識と意志の永遠の現在にして能動的な力能のうえに基礎づけている」(ibid., 263)。

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

25年8月改訂:内村鑑三晩年の「哲学熱」と真理の楕円説―純福音の析出をめぐって―(その二)

三、無償の恩恵に至る途

3・1純福音は過去に完結された出来事か

[問1]、何故[主張1]は全聖書を解く「鍵」か?鍵宣言の背後にあった認識は何か?

 内村はこの帰一的な解釈の指針により神の前と人の前の関係が根源的に開示されると理解し、鍵はキリストの贖いの無償の恩恵の出来事を介して人の信仰による神への途、方法を提示していると解する。彼はルター同様神の義の啓示の媒介を人が持つ信仰(目的属格)と解するため信仰の正しさを証する聖霊の執成しを鍵に同時に読み込む。ルターは「信仰はわれらの内における神的働き(ein Göttlich werk)である」と言う(WA2「ローマ書序文」、『信』上533)。これら三者の関わりのもとで、贖罪の出来事が聖霊の執り成しと共に「全聖書を解く鍵」となると主張される。内村は言う、「宇宙と霊魂と聖霊とが呻きつつ、基督者の信仰を証明するといふのである、之よりも大なる問題のありやう筈もない」(1922.2.19)。

 「贖罪と復活」(1914.11、「鍵」と同172号)において、内村はキリストの十字架と復活により既に「神の側」即ち神の行為と認識においては人類すべての義認は確立されたと主張している。[主張3a]:「神の側に在りては人類の罪は既に全く除かれ、人類は既に栄光を被(き)せられたのである、今は唯人類が神の恩恵の配興に応ずるや否や、その問題が残っている」。同様の主張は翌年の「基督教とは何か」にも見られる。[主張3b]:「キリスト教はそう[未来の道徳的完成]ではなくて過去に完成されたものを貰うことである。・・それ[シュライエルマッヘルの主張]は最もよく私の言はんとする考え即ちキリスト教は既に済んだ事であるという事を表わしている」(1915.7)。

 神の前の事柄として福音は既に歴史のなかに打ち立てられ一切が解決されたという。「講義」では「「神の前に」である、「人の前に」ではない、人の前には如何やうに見えてもパウロの問題とする処ではない」(26:157)と自覚的に二つの視点が判別される。これを[主張3]:「神の前での福音の過去完結性」と呼ぶ。

 この過去完結性の伝統的な主張は鍵の内村の一解釈に確認できる。鍵の「自訳」(1915)はこうである。「今律法を離れて神の義は顕れて律法と預言者はその証明(あかし)をなせり、即ち凡て信ずる者に及ぶイエスキリストを信ずるに由る神の義是なり、之に区別あるなし、そは人は皆な罪を犯したれば神の榮に与るに足らず、唯イエスキリストの贖いに由りて、神の恩恵に因(よ)り、功績(いさほし)なくして義とせらるれば也、神は予めイエスを立てて其血によりて信ずる者の宥和の供物となし給へり」。この翻訳による21-4節とりわけ「唯・・贖いに由りて、・・功績(いさほし)なくして」が恩恵の賜物、無償性としての内村の純福音を含意するのであろう。

 「神の義」により内村はルター同様受動的義を基本的に理解する。「人の[律法による]義の立ちがたきを明示したる後の語である故、神より人に賜ふ義であると見るが正しい」(26:167)。[主張4a]:「純福音は純恩恵である、律法の痕跡だも混(まじへ)ざる神の恩恵の宣言である」(「純福音」176号1915.3)。そこでは「今律法を離れ」とあるように必然的に受け取る側にはいかなる「功績」も要求されないはずである。

 なお、「講義」では[主張4b]:「他の何者をも雑(まじ)へない処の全く純なる信頼―これが徹底した信仰である、功を要しない功を条件としないただの無邪気なる信頼である」(167)とあり、「純なる信頼」が[主張3]過去完結性に対応する人の側の信仰の特徴として挙げられる。信義の分離なさは捉えられておらず、律法の業との対比を強調する功績ではない表現として「純信頼」が求められる。このように[主張4(4a+4b)]:「純福音と純信頼」が導かれるが、これは神の前の過去完結と組みになる人間の「徹底した」「無邪気な」心的態勢のもとにある信仰を要求しており、神と人双方が結合された地平の二項一組を形成している。

 

3・2福音と強弱ある信仰の両立模索

 「贖罪と復活」では人の前の応答は「容易」であるとし[主張4]:「純福音と純信頼」は易行道と同定され五要素が枚挙される。◇1「何人であれ」、◇2「信仰を以て」、◇3「神の此配興に応じて」、◇4「今、即時に、神がイエスを以て人類に下し給いしすべての福祉を己が有となすことができる」、即ち◇5「人類は今は既に救はるべき状態に於いて在る」。

 「我が平和と歓喜」(21:111、鍵と同172号)においては、同じ文脈において人の心的態勢の記述は◇4◇5とは異なり◇6「我に人のすべて思ふところに過ぐる平和と歓喜とは有るなり」と現在形において救いの心的態勢が表明されている。かくして、一方で「われ」は◇6今・ここの喜びに有るが、他方でわれは福音を◇4「今、即時に」喜ぶことが「できる」として位置づけられており、[主張4]は複数記述される心的態勢の成功した状況を表現すべく意図している。

 「講義」では[主張3]「過去完結性」と[主張4]「純福音純信頼」の関係は「原理」と「事実」により判別される。[主張3c]:「併し何故に「人類全体」とは云はずして只「イエスを信ずる者」(3:26)と限ったのか、もちろん原理としては万人が十字架に於いて義とせられた、しかし原理は個々の場合に適用せられて初めて其値を生ずる、即ちキリストを信ずる個々の人が事実上義とせらるるのである」(26:191)。この「原理」と「事実」の判別による応答は人間的に見れば◇6「救はれている状態」と◇5「救はれるべき状態」に対応しよう。しかし神の前で救われているなら、人間は神の判断に逆らうことはできないであろうから、この原理上は事実上を含意するに相違なく、人の前は肉の弱さを抱えた認知的、人格的に不十全な人間への譲歩された視点にすぎない、少なくともそう反論されるであろう(cf.8:39、9:19)。彼は聖霊の媒介行為を「事実上」において理解したと思われるが、両者のより適切な表現が求められる。

 さらに一方で罪とされる律法の業としての働きと他方で義とされる純信頼の働きは双方とも同じ心魂の意図的行為という意味での「働き(エルゴン)」として捉えられる次元があると反論されよう。パウロにおいて「信仰」は変動ある人の前のつまり人間が判断する限りでの心的態勢として「成長」や「進歩」、「弱い」が帰属される場合があるが、内村も「講義」まではその地平のみで信仰を捉えている、或いはそれ以外の表現を持たなかった(Phil.1:25、2Cor.10:15、Rom.14:1,15:1)。神の端的な無償の贈りものとしての福音は過去の出来事に追いやられ、人の側の信仰はその都度の今において持つ心的態勢として理解されている。神と人の二項一組を形成するべく、この理解では過去完結とそれに対応する人の信仰の間のギャップが常に問題になり、セットで見る限り「純福音」とは呼べない。

 父と御子の信義の分離なき「信」および「義」と人の前の強弱ある「信仰」をめぐる神の前と人の前の適切な分節が求められる。神の前に立つ信徒は信義の分離なさの故に自らの義を知るが、それを知らない者は肉弱き譲歩された人の前でのみ生きている。

 

四、神と真理に制約される人間の自由

4・1「神の前の自己完結性」と「人の前の相対的自律性」の媒介

 [問2]このような過去完結性のもとで神の前と人の前の記述はいかなる分節と総合をもたらすか?過去完結ならぬ啓示の言語網の「神の前の自己完結性」と人間中心の言語網の「人の前の相対的自律性」の確保とその関連こそ追求されねばならない。ちょうどパウロが「信仰」を「神の前で持て」(14:22)と励ますように、神の前にいない者また神の前から逃れうる者は誰もいない。「万物はご自身からそしてご自身を介してそしてご自身に至る」(11:36)。誰かいるとしたら人間の責任ある自由を認めるために、パウロが「肉の弱さ」を顧慮して、「義」と「罪」に対し相対的に自律した中立的な可能存在者を譲歩として認めることによってのみである。

 パウロは鍵における報告が「神は一人である」(3:30)その同一の神の意志のもとに「律法と預言者たちにより証しされ」(3:21) 聖書を貫ぬいていることを証明するべく、「ローマ書」において「書(旧約)」を六十回すべて肯定的に引用する。「アブラハムの信に基づく者」の先駆的な義認が引証される(4:16)。罪と義と選びをめぐるパウロの論証の箇所は「神の知恵と認識」や「知恵の説得的議論」と呼ばれ、三人称が用いられ「われら」のことがらとしての「聖霊」による執り成しの言及がない(罪2:1-3:20、義4:1-25、選び9:6-11:35,11:33,1Cor.2:4)。神の自己完結的言語網においては神の知恵と認識が展開される。

 この神の前のものごとを「肉の弱さ」(6:19)においてある「われら」のものごととすることが個々人の今・ここの課題となる。五章から九章五節では聖霊の執り成しによる神の前と人の前の架橋がその都度の今・ここのことがらとして遂行されている。例えば、「われらはわれらの古き人が共に磔られたことを知っている」(6:6)との知識主張は、聖霊の働きとは十字架の過去の出来事が今・ここのわれらの出来事であると執成すことであることを示している(5:1-5,6,5:9,5:11,7:6,8:24)。これは「霊の力能」や「霊と力能の論証」と呼ばれる(15:19,1Cor.2:4)。

 「ローマ書」はこの明確な方法論的な自覚のもとに言葉と働き双方の分節と補完のもとに論証が遂行される。神の前の次元と人の前の次元の関係は適切には「神の前の自己完結性」と「人の前の相対的自律性」に判別され、聖霊が今・ここで双方を媒介する。

 

4・2 真理愛と神への愛の収束

 イエスご自身が宣教する者であり復活の主として宣教される者であるというこの福音の出来事が始めから終わりまで神の前と人の前を媒介する。彼は律法と預言者を通じて伝えられる神の意志は自らの受難と復活において実現されると語り、神の国の福音の内実は自ら自身のことであると教えた。「祝福されている、君たちの目と耳は、君たちの目は見ておりまた耳は聞いているのだから。・・多くの預言者や義人は・・聞きたかったが聞けなかった」(Mat.13:17)。この自己言及に見られる福音を福音として析出することがパウロの課題であった。それはイエスの山上の説教におけるご自身の福音理解とパウロの信義の不分離の福音理解が歩調を共にすることを明らかにすることである。

 パウロはその福音に与るべく一人称で言う、「私はユダヤ人にはユダヤ人のように・・私は弱い者たちには弱い者となった・・。福音の故にあらゆるものごとを為す、それは私が福音に共に与る者となるためである」(1Cor.9:19)。パウロはイエスが民の「心の頑なさ」を憐れんだように自らを「弱い者」に同化した(Mat.19:8)。その譲歩のもとに、パウロは神の前にいることを括弧にいれ、「罪の奴隷」と「義の奴隷」双方の中立的な可能存在と捉えることがある。この中立性は語「奴隷」が持つ同義性により保証される(6:19-20)。

 この自律は神の前の罪か義かの判断に属し、神の勢力圏から逃れうる端的な自由は想定されず、神の前の真理に制約されている。それは福音を前にしては信により与りうるのみであることに対応する。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(14:23)。律法のもとにある者は「誰も神の前に義とされないであろう、というのも律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(3:20)。

 無神論者はこの譲歩は不十全なものと看做し「君は自由だ選びたまえ」、「行動の規範が何もないことそれが行動の条件だ」と勧める時、義か罪の二種類の隷属を想定してはいない。しかし、これらの命題により彼らは人間本性をめぐる真理を主張しており、同意しない者は偽り者であるとの主張を含意している。ひとは何らか判断をする時、自ら何らかの真理への信を保持しているが故に、真理に制約されている。

 シイリーが「深き眼識に於いて」パウロに「匹敵する」と形容するアリストテレスは「矛盾律を否定する者に対して、その者が何も言わないなら「植物のようなものだから、放っておけばよい」とする(173号、Met.IV4.1006a11-18)。その者が口を開き「矛盾律は存在しない」と一旦主張するなら、あらゆる存在と思考の原理である矛盾律(¬(A&¬A))に則って矛盾律を否定しており、「自己論駁」となる。ひとは矛盾律や真理という存在と思考の枠のなかで生きている。

 「各人に思われる通りにそう在りもする」という真理の相対説はそれが「万人に妥当する」と絶対的に主張すれば、自己論駁となる。例えば水槽の棒は「曲がって見える」が、それには、この濃度と光の強度のもとでは、「棒はこれだけ曲がって見えるもので在る」と応えればよい。道理と現象の調和が求められており、人は真理と癒着できずまた独立できない。パウロは言う、「われらは真理に背いて何も力ないが、真理の為に力ある。というのもわれらは弱い時に喜ぶからである」(2Cor.13:8)。破壊的で否定的なものから人を自由にし、人生の確かさを堅固に保持するものが「真理」である。そこでは、永遠に堅固なものに対し自らの肉の弱さを認める限り、真理を幼子のように愛し喜ぶであろう。

 

 4・3内村による三つの信仰理解 

 二元論のもとでの内村の「神の前」の分節は三種類あり、対応する「人の前」が各組み合わせを構成する。その一つ[X:信仰条件説]は「講義」の立場である。神の前の構成要素が[主張3]過去完結性だけであるとき、[主張4]変動する心的態勢としての信仰は神の前の外にあり、信じることはその受領の「条件」となる。そこでは◇6◇7喜びのうちに生命が宿る信仰の質量が問われる。「受くべき唯一の資格なる信仰を抱かざる時に於いては、与へんとして待ち給う天父も遂に与うるに道がない」(26:96)。「信仰」は「汲器(くき)」の比喩で語られ、「神の義を受くる唯一の条件」とされる。「絶対の恩恵、何等人の功に依らず、来る者の汲(く)むに任する所の生命の泉なる「神の義」である、但し信仰てふ汲器を持ち来らざる者は此泉より生命の水を汲取るを得ない」(183)。神の信義と人の信仰の断絶が信仰を義認の「条件」に追いやる。「主よ、主よ」と自覚的に信じても、「私はいかなる時も君たちを知らなかった」と返答されるでもあろう(Mat.7:22)。

 もう一つの組み合わせの可能性[Y:信義不分離説]は、拙訳の提示で解説したパウロのそして内村の絶筆の立場である。「信じる者」を「神の前」に即ち神主導の神の判断と嘉みに、信義の不分離の故に組み入れるものである。神の前と人の前の総数は同じであるが、匿名性が確保されている三人称の神の前の信徒はロゴス上「われら」とは判別される。神は一方イエスの信の従順に人類すべての罪を赦す十全な力能を見ており、他方、父と御子の分離なき信義はその啓示の受け手であるその⑤「信じる者すべて」に及び、⑨「イエスの信に基づく者を義とする」(3:26)。尚、過去完結性は「万人救済」を含意する。それは「啓示される」(8:18)べき終末の審判における一つの可能性ではあるが、福音の啓示においては信義不分離の故に知らされてはいない。

 何故信徒が無償の恩恵の内側に組み込まれているかと言えば、神の前に生きていない者は誰もなく、また肉の弱さへの譲歩の必要のない啓示の受け手においては、誰もが父と御子の信義の分離なさの故に、父の呼びかけに「アバ父よ」と応答するその人格的信頼に基づく正しい関係が見いだされるからである。神の前では人間の認知的不十全性のもとでの信仰の冒険性ましてや条件性は問題にならない。イエスの面前では「信じます、信なき私を助けてください」が相応しく、人格的な信の交わりだけがあり、信の対象や内容は言及されない(15:13,Mac.9:24)

 第三の[Z:聖霊媒介説]はパウロと内村により共有されている。これは内村が実質的には成功した人の[主張4]神に嘉みされる信仰を「純恩恵」に対応する「純信頼」と語るときに意図している立場である。それは聖霊の呻きを伴う執り成しにより[主張3]「過去完結性」と成功した[主張4]:「心に喜び充ち生命湧」く心的態勢が今・ここで媒介されている「信仰上及び心理上の事実」である(26:175)。内村はこの働きを「罪が赦されて義とせられし事、是は第一には聖霊みづから直接に我等の霊に囁き教へ給ふことである」と語る(26:500)。

 このように神の前のキリストの出来事は聖霊の執り成しにより一二人称の人間中心的な言語網(5:1-9:5)の個々人に適用される故に、話者の今・ここの働きの現場が問題となる。パウロが「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている[現在完了]」(5:5)と語るとき、もし発話の時点で聖霊の働きを介した神の愛が注がれていなかったら、偽となるそのような語りである。

 他方、それは「神の愛が心に注がれている者は誰であれ聖霊を受けている」と普遍的言説として匿名で三人称に転換されうる。これは神の側から見れば嘉みされた純な信頼をも含め神の前の事柄であるとロゴス上語りうるものである。なお人の側から見れば強弱ある人の信仰の態勢のなかで実質的には成功した視点つまり今・ここで聖霊の執り成しのもとにある純な信頼がその都度エルゴン上表現されている。そのような記述の視点に即して[Z:媒介説]は神の前と人の前双方を構成するものである。

 鍵宣言から「講義」にいたる内村は[X:条件説]と[Z:媒介説]の間を揺れていたと結論できる。ただ思考の方向としては[主張5]:神の前と人の前を分けず今・ここの聖霊の媒介の働きを込みにして或いは期待しての理解を展開している。プロテスタントにおいては信仰は生命を受領する一つの行為であり、この受動的義の理解は神の前と人の前を媒介者の故に分節しないことが正しいという主張である(『信』上534)。内村はその媒介における聖霊の注ぎの現場性の証として晩年「信仰告白の必要」で「信仰は生命である」と言い、既に『求安録』においてルターに倣い「信仰も亦神の賜物なり、余は信じて救わるるのみならず、亦信ぜせしめられて救わるる者也」と言う(32:296、2:249)。

 しかし、パウロは神の前の組み合わせ[Y:信義不分離説]と[Z:聖霊媒介説]のロゴスとエルゴンの異なりから双方の共存できる組み合わせを捉えていた。神の啓示行為から神の知恵のロゴスを析出することができる(逆も真)。常に聖霊の媒介の働きを要求できるわけではなく、霊が注がれていない状況としては例えば神の怒りにおける悪行への「引き渡し」が想定される(1:18-32)。また鍵は神が御子を媒介者として用いての専決啓示行為として報告され、聖霊への言及はない。三人称を用い一般的に匿名で表現される神の前の構成員は、譲歩された人の前の語りとは分節され普遍的な説明を引き出しうる仕方で報告されている。言説は働きを要求し逆も真であり、双方の補完は真理を捉える普遍的な方法である。

 

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

25年8月改訂:内村鑑三晩年の「哲学熱」と真理の楕円説―純福音の析出をめぐってー(その一)

25年8月改訂版:内村鑑三晩年の「哲学熱」と真理の楕円説―純福音の析出をめぐってー

                                     千葉惠

 

序 「全聖書を解し得る」鍵

 内村鑑三は1914年に「聖書之鍵」と題して帰一的な聖書解釈の指針を表明している。[主張1]:「旧約は新約を似て解すべし、新約は羅馬書を似て解すべし、羅馬書は其の第三章二一節より三一節までを似て解すべし、神の黙示に由り羅馬書第三章二一節より三一節を解し得し者は全聖書を解し得るの貴き鍵を神より授けられし者なりと信ず」[i]。この発言が残り十数年の彼の生涯を方向づけ、内村は翌年「自訳」を「信仰の強弱―羅馬書三章二一節至二八節」(1915.2)にて、1921年年初からの60回の羅馬書連続講義(「講義」)にて「意訳」を提供し鍵箇所(「鍵」)解明に努めている。

 最初に内村の聖書研究と信仰の特徴を彼の自然、人間(歴史)理解のなかに位置づけ、その統一理論を哲学に求めたことを確認する。続いて何がこの鍵宣言をさせるにいたったかその背景と内実を探るべく鍵周辺の四つの文章また数年後の講義を取り上げ、鍵の贖罪をめぐる信仰理解の揺らぎを確認する。彼の信仰理解にはその間、神と人の二元論の哲学的枠組のもと鍵から引き出される神の前と人の前の分節と総合を企てるその終生の取り組みに応じて、三つの理解が見られる。人が持つ信仰は神の前の義認の「条件」であるという講義の理解から、「絶筆」で「信仰に手段方法は何もない」と克服されるに至るその過程を辿る(「三種の宗教」1930.2)。

 その動揺は四世紀ヒエロニムスのVulgata以来の鍵の一様の誤訳の故にであったと理解するが、内村はそれにも拘わらず、ことがらそのものに促されて、「絶筆」において信徒を神に嘉みされた神の前の構成員として組み込むことにより、義認の信仰条件説を克服し、律法から解放された純福音における恩恵の無償性を捉えるに至った。最晩年の「楕円形の話」において哲学的二元論の具体化の手法が提示されている。「宗教は神と人である」と楕円の二焦点が言及されるが、神の信義と神に嘉みされる信を二焦点に代入する補いにより、義認の楕円軌道が神の前のものとして描かれうる(1929.10)。本稿では筆者が正しいと考える鍵の翻訳を提示し、それと同じパウロ理解に内村が到達したことを明らかにしたい。

 

一、聖書研究と真理を証する三つの鼎―二元論哲学による包括へ―

 内村は、一方、J. Howesによれば聖書研究を「天職」と定めてから37年間で「ほとんど聖書全体」の注解(「ネヘミヤ、雅歌、哀歌と五小預言者を除く」)を公にし「現在でも日本語における聖書の一人による注解として最大である」[ii]。他方、彼は宮部金吾に「僕は天然と歴史と聖書とが人類に与えられた神の啓示の三脚であることを知って喜ぶ」と書き送ったように、青年時代から真理を証する「三つの鼎」の統一理論の形成に関心を懐いた[iii]。手紙では鼎の秩序づけはキリストによるとされ、キリストが天然と人間にロゴス(理)や聖霊の働きとして内在し「他の二つの秘密をも開く鍵」であるという。後にそれはキリスト論的宇宙観となり、「神は宇宙を以てキリストを生み給ふた」のであり、「宇宙」はこの「最も完全なる人」の故に「神聖」であり「万物は彼の故に貴くある」るとされる(17:92,95)。彼は「余は聖書なくして生存する事が出来ないやうに、天然なくして心霊の平衡を取って行く事ができない」(1922.3.20)と顧みるが、「福音の真理」(Gal.2:5)への健全な信仰に向けて、「神の奥義」、「天然の真実」そして「人類の実験」の三視点を鼎、基盤として宇宙、人生全体の包括的な探求を遂行する(11:201,1903.4)。

 内村はこの鼎の統一理論を哲学に求めたように思われる。彼はカントを愛した。「宇宙的感化を世に及ぼせし彼は・・言う、「我が上に星天の輝くあり、我が衷(うち)に道義の宿るあり」と、宇宙と道義・・彼の心は全宇宙を懐いた」(190号1916.5)。これは天上の星々の運行にそして人の心奥の良心の発動に秩序ある理(ロゴス)が働いていることへの信の表明に他ならず、その基本的態度は「信仰は之を個人の狭き経験の上に建てずして、宇宙人類の広い深い土台の上に築くべき」というものである(「信仰の土台」1927.4)。

 「所謂「見神の実験」を有たない」内村は自らの信仰が「凡人の」それであるとしつつその均衡性を指摘する、「カントの所謂「天の星と心の道義と」に由ってキリストを知るを得たのである。そして凡人的であるが故に安全である」[iv]。彼は留学時代ヒュームによる懐疑の洗礼とその哲学的克服とともに回心を経験している。彼は後年「自分の経験においてヒュームの哲学によって自分の信仰を一度破壊され」たが、「基督信者の実験を哲学的に攻究した」J・ミューラーの『罪に関する基督教の教義』が「自分の信仰の基礎を築いた」と述べる[v]。彼が「キリストを知るを得た」と述懐するカントとの出会いはこの著述を介してであると思われる。

 内村は懐疑に陥る思考様式の克服を心魂の二種類の在り方に求め、信念の度合いは証拠の多寡に比例するというヒュームの経験主義における認知的な次元で信仰を捉えることから、懐疑は心魂の根底において神を見失うことによる「心霊の苦悶」であると人格的、霊的な次元で捉えるに至る。「懐疑は霊性の惰弱(よわき)より来るものであって、智能の足らざるより来るものではない」(「懐疑」12: 196,1904)。最後の病床時「今度と云ふ今度「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」を徹底的に実験した」との告白に見られるように、彼の放浪時の『求安録』結語「光ほしさに泣く赤子」の見失った父を求める叫びは臨終に至るまで、時に、放たれたと思われる(1930.2.6、2:249)。他方、彼は福島県勿来で山桜の花吹雪を賞美しながら義家の古歌に事寄せて、牧飼的な労をとることもあった。「今日の余に此歌はない・・我が花は人である、然り彼の信仰である、而(しか)して懐疑(うたがひ)の風吹くなと我は常に心に祈る、然るに・・嗚呼、千人は右に斃れ、万人は左に仆(たおる)る。「吹く風を勿来(なこそ)の関と祈るかな・・」」(34:35)。

 天父と共にある平安と見失う懐疑の交錯のなかで、内村は神を見出すべく真理を証する鼎を探求する。彼は歴史的人物を描く「代表的日本人」、古代中近東の興亡盛衰研究の「興国史談」、地政学研究の「地理学考」等の歴史叙述をまた所謂「進化論三部作」等の自然研究を著した。弟子の生命科学者は内村の「思想の中央を貫通する断層の深さに目が眩む」とし、進化論は「宗教と科学との遭遇の状況を象徴」し、「五十年もの間絶えずその緊張」に身を置いたと言う[vi]。川喜多は内村が「福音の事実を科学の事実の上に置いた」ことに対し、「当たり前だ」という見解にも、「学問を捨てた」という見解にも首肯しない。その解決について彼は「[内村の]文字に基づいて明らかにすることができない」として「もっと適格の哲学・神学的思索にたけた」者に託している(49,36,63)。

 とはいえ有神論的な自然観のもと、内村は基本的には神と自然の究めがたさに「怯え」や「苦渋」(37,48)よりもむしろ畏怖と賛美を抱いていたと思われる。油壷の臨海試験所を訪れ半世紀前の自らの「ウニとヒトデと舟虫」の研究継続を確認し、彼は「人間は百年を費やしてウニ一つを知り尽くすことができないのである。神と天然には到底敵わない」(1927.7.4)と回想する。全人格的な調和を求めつつ幼子の信のもとに鼎が探求される。「病気の一年」の日記に「家に留まりて哲学的生涯を送る。悪くない・・小児の心になりて宇宙的真理を探る」とある(1929.7.17,11.25)。川喜多が見た断層は天然と聖書、科学と信仰のそれであるが、筆者は内村が救いの確かさそのものに断層を抱えていたと見る。

 『羅馬書の研究』(1924)以降「哲学熱」はとりわけ盛んであり「神を発見する」ことをめざす哲学が「人間の知識」でありつつ「是れまた神の賜物」であるという認識のもとに、内村は鍵の贖罪理解をめぐって神の前の無償の恩恵と人の前の自由で責任ある信仰がいかにかかわるかを「絶筆」(355号)にいたるまで追求した(1928. 6.9、1927-28年の日記に「哲学」への言及は36日ある)。

 彼の哲学は人間の知識を「神の賜物」即ち究極的には神の前の事柄としながらも、二元論を確保するものであった。[主張2]:「もし私の信ずる基督教に哲学的基礎があるとすればそれは二元論であって一元論ではない。聖書はその発端において言う、「元始に神天地を造り給へり」と。これは確かに二元的宇宙観である。神は霊であって天地は物である・・霊魂と肉体と、精神と物質と、本質を異にする両性の実在することを疑はない」(「私の基督教」1929.5)。これはシイリーにより教えられた仰瞻(ぎょうせん)の信仰を一旦括弧にいれ、人間理性は「真理の為に真理を愛する哲学」の名において相対的に独立したものであり、真理がそれ自身として探求される(「福音と哲学」1928.7)。二元論の具体化である楕円の二焦点の働きが何等かの理・法則のもと秩序ある楕円軌道をもたらすかが問われる。

 

二、 鍵新訳による義認論解決の視点―神の前の信義不分離説―

2・1「ローマ書」の方法論「ロゴスとエルゴン」の相補性がもたらす分析視点

 彼が鍵にこだわり哲学に向かう衝迫が奈辺にあったかを明らかにしたい。筆者は鍵のVulgata以来の例外のない誤訳が聖書理解に甚大な影響を与え西欧の宗派や学派の分裂の元凶であると理解するが、内村の信仰理解の揺らぎ、変遷もそこに起因しており、最晩年に彼の無償の恩恵理解は誤訳に負けず哲学的な企てにより正鵠をえたと解する[vii]。

 11世紀にアンセルムスは「キリストを取り除き」、「理性のみ」にて、聖書を一切引用せずに「信仰」や「霊」を語ることなく、司法的次元では神の義と憐みが両立しないこと、神の尊厳と「矛盾しない」神の憐れみによる罪の贖いはまことの神にしてまことの人により遂行されることを論証した(Cur Deus Homo, praefatio)。そこで彼は父と子の憐みの協働説とでも呼ぶべき贖罪論を展開するが、人間中心的な語りは「神が・・譲歩する(concedit)」ことによるとする点に至るまで、期せずしてパウロ「ローマ書」の方法論「ロゴスとエルゴン(言葉・理と今・ここの働き)」(15:18)の相補性に基づく筆者の意味論的分析と完全に合致した(II18、『信』上序文、下219)。パウロは五層の各々整合的な言語網を張っていたが、アンセルムスは、三層(聖霊と罪の媒介の働きの言及を除く)を析出していた。それは彼が「聖書の権威」に頼らず誤訳から解放されていたことを示唆する。これは「理性のみ」により或る「前提」「同意」(I10)のもとにパウロの議論を理解できることを示しており、内村の楕円説が鍵の義認論の整合性を捉えうることを示したい。

 「ローマ書」433節をそのもとに展開するパウロの方法論は「キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって為し遂げたことだけ」(15:18(Rom.は章節のみ))を報告することにある(cf.11:32-3、 1Cor.2:16, 2:6-7、『信』上4)。パウロは真理(emeth堅固なもの)を愛した。そして真理を解明しまた証明する方法としてギリシア哲学の真理探究の伝統と共にロゴス(例、神の知恵)とエルゴン(聖霊の今・ここの執り成し)の相補性に即した。それは双方を車の両輪のように用いることにより、何であれ探求が前進する補完的な真理の吟味接近と証明の方法だからである。ものごとを掴め言葉が随伴する、言葉を掴めものごとが随伴す(Tene rem verba sequentur, tene verba res sequitur)。これは言葉と働きに偽りのなかったイエスの思考様式でもあり、「知恵はその働きによって正しいと証される」と言う(Mat.11:1,cf.Luk.24:19)。この方法によってのみ「私は真理である」と主張するキリストの福音は独一でありかつ、誰もが神の前と真理の前に生きている限り、普遍的に妥当することが論証される。「われらは完全な者たちには・・神の知恵を語る」(1Cor.2:6-7)。

 

2・2 鍵新訳による無償の贈りものの解明―神の前の構成員の自己完結性―

 ここで拙訳を提示しその視点から、内村の鍵宣言以降の論述を念頭に鍵の解釈を展開する。また鍵の誤訳により純福音から逸脱した内村の窮境と人生の最期に到達した解の経過を辿る(『信』下附録)。鍵は神の知恵と啓示行為が形成する神の前の言語網であるが、その構成員を数字で示す。

 21しかし、今や①神の義は、[②モーセの業の]律法を離れて、律法と③預言者たちにより証しされているものであるが、22神の義は④イエス・キリストの信を介して⑤信じる者[と神が看做す]すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信の間に]分離はないからである。23なぜ[分離がない]かと言えば、⑥あらゆる者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして⑦義を受け取る者たちなのであって、2526その④彼を①神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、⑨(⑧イエスの信に基づく者)を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして⑧彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。

 ここで神の前の構成員は九つの名称、表現により特徴づけられている。今日まで神の前と人の前の分節と総合が確定しなかったことの原因として、パウロの神学主張のこの中心3:21-26が二世紀の古ラテン語訳の「編集」であるヒエロニムスによるVulgata以来、誤訳されてきたことに求められる(『信』上165)。拙訳によれば「神の義はイエス・キリストの信を介して信じる者[と神が看做す]すべての者たちに明らかにされてしまっている」(3:22)は神の前の構成員の信と義と知の関係とりわけ神の義の御子の信を介した知らしめと信徒によるその知の報告である。その理由文は、神ご自身の理解として、「なぜなら[神の義とイエス・キリストの信に]分離がないからである」(3:22)と訳されるべきであったが、例外なしに人が持つ可変な心的態勢としての信仰をめぐって「なぜなら[信じる者すべての間に]区別がないからである(non enim est distinctio)」と一様に誤訳されてきた。信徒は神と御子の信義の不分離の故に神の義と自らの信義を神の前で知っている。

 パウロが第一章で報告する神の啓示行為の特徴は「啓示されている」(現在形)が二度用いられ、神の前のこととして受け手にその都度の今・ここで明らかな認識をもたらすことにある。「神の義」が「信」に対してそして「怒り」が「不敬虔と不義」に対し知らされている。「神の義は彼[イエス・キリスト]において信に基づき信に対して啓示されている。まさにこう書いてある「信に基づく義人は生きるであろう」。なぜなら、神の怒りが天から不義のうちに真理をはばむ人間たちのすべての不敬虔と不義のうえに啓示されているからである」(1:17-18、尚内村が挙げる従来訳の一例「神が人を信ずる事より人が神を信ずる事にまで」に拙訳は近い(26:94))。

 啓示がもたらす認識は「神の知られるべきものごとは彼らに明らかである。なぜなら、神が[モーセ律法付与時の]彼らのただなかで明らかにした(アオリスト過去)からである」(1:19)また「神の義は・・明らかにされてしまっている(現在完了)」(3:22)等受け手に「明らか」と記されている。鍵のアオリスト過去時制「差し出した」(3:25)も1:19と同様に完結した全体の一回的な出来事を表現する視点(perfective aspect)により報告されている。現在完了時制は信義の啓示行為が神人の出来事以降現在にまで継続している持続的な視点(imperfective aspect)により報告されている。パウロによれば、「怒り」と「義認」の啓示行為は、過去において生起したモーセ律法付与時の出エジプトの民の出来事とキリストのゴルゴタの出来事が規準となって、現在明らかなこととして遂行されている(1:18-32,3:21-26)。前者は一回的な或る具体的な時点における神の行為を、後者はその行為に基づき終末に至る中間時のその都度の今・ここの「好機」における義認の遂行の啓示行為を表現している。

 知らしめの啓示行為の対象は⑤⑨等の三人称表現でなされ、神の前で個人の匿名性故に共時的に一般化される構成員に「明らか」なこととして用いられている。神はご自身の義が御子の信と「分離がない」と看做し、その御子の信の力能が信徒を義とするに十全であることを知らしめている。信義の分離なさの故に神の義を知る者は「⑤信じる者すべて」であり、信徒は自らが「⑨イエスの信に基づく者」として義と看做されていることを知っている。これは神による知らしめの今・ここの働きではあるが、その受け手は三人称で表現される匿名性のもと普遍的に語られており、神の前の人々はこのように振る舞うという神の認識のパウロによる報告そして論証である。

 神はご自身の被造物の導きの歴史のなかでモーセ律法のもと「⑥あらゆる者は罪を犯した」が、「キリスト・イエスにおける贖いを介してご自身の恩恵により贈りものとして⑦義を受け取る者たち」であると認識している。神はその⑥人類の罪から義への「贖い(買戻し)」を提供した。神は「⑧イエスの信」の従順がその「血」に至るまで貫かれたこの「好機」に「④イエス・キリストをご自身の現臨の座として差し出した」。この意味において現在神の前にいない者は誰もいない。神の知恵は一回的な過去の出来事と現在の知らしめの啓示行為の明らかさの三人称による受け手の知識の分節と関係づけに示されている。

 この過去の一回的出来事に基づき、イエスの信の従順は「愛を介して働いている信は力ある」(Gal.5:6)とあるように⑥あらゆる者たちの罪を赦す力能を持つと神に看做されている。これにより人類は④イエス・キリストを無償の「恩恵による贈りもの」として今受け取るが、それは⑦義を受け取る者たちにとって自らの義認の内実である。この御子の贈りものにより、「今や律法を離れ」信義不分離な神の義が啓示されている限りにおいて、信義不分離の「信の律法」(3:27)はもはや怒りによる律法の義の個々の行為への適用、審判を不必要とし「業の律法」(3:20,27)から解放している。御子自身が信義不分離の「福音」の贈りものであり、「信じるすべての者に救いをもたらす」(1:16)。全人類の贖罪の過去の根拠とその都度の知らしめの啓示行為における受け手の明晰さのギャップを埋めるべくこの福音が全人類に宣教される。「神は、世界をご自身と和解させつつ、その仕方は[世界の]人々自身の背きを彼ら自身において考慮することなしに、また和解の言葉をわれらに委ね給うたことによってであるが、キリストのうちにいました」(2Cor.5:19)。

 神は⑧イエスの信の従順を嘉みし十字架に現臨したが、メシヤの尊称と共に自らの義の啓示の媒介に④「イエス・キリストの信」(帰属の属格)を立てている。職名を伴う固有名「イエス・キリスト(以下「イ・キ」)」は媒介者として、人の子にして同時に神の子でもあり(1:3-4)、パウロはこのような存在者に一つの行為を割り当てえず、「イエス」(3:26)や「キリスト」(8:34)と異なり決して行為主体として主語に立てられることはなく、常に媒介の前置詞(「介して」「において」)が先行する。

 パウロは媒介者の「信」を行為としてではなく出来事の範疇において理解しており、「信が到来する前には、律法により・・」(Gal.3:23)と描かれるように、神はイエスが信の従順を人として貫徹行為したことによりそれを嘉みしその信をイエスがキリストとなった即ち「判別された」(1:3)契機の出来事として彼に帰属させたと考えられる。そのとき「イ・キの」の「の」は従来の「イ・キを信じる」目的属格でも「イ・キが信じる」主格属格でもなく帰属の属格である。十字架に現臨した神はその信と自らの義の間に「分離はない」と看做している。かくして、無償の恩恵による贈りものとはイエス・キリストご自身であり、彼の贖いを介して誰もがその義を受け取る者たちであるとされている。鍵では内村等の目的属格の読みが要求する聖霊を介した今・ここの信仰付与は少なくとも知らされていない。

 「なぜなら」で始まる23-26節の長い一文が神と御子の信義の分離のなさの理由を報告している。神はイエスの信の従順を「ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機」であると認識し、「ご自身の義の知らしめに向けてその信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」ことが六節で十一度も用いられる「信」と「義」の分離のなさの理由を説明している。神はこれまで司法的次元における審判の執行を「忍耐」において「見逃していた」が今という「好機」に、神の義は業の律法とは「分離」されて、しかし、この「イエス・キリストに帰属した信」とは「分離がない」、そのようなより根源的な神の義が知らしめられている。信と不分離な義はいかなる立場にある者であれ誰もが等根源的に喜び受け入れ得る根源的な正義であり、これを具現し贈りものとして差し出された御子以上に人類は何を必要としているであろうか。

 パウロは神が御子を差し出したこの出来事に基づき、贖いや義認をめぐり「神の知恵と認識」(11:33)を抽出できる仕方で報告している。或いは、鍵は「神の知恵と認識」に基づく、そして「神からの知恵」である「キリスト・イエス」(1Cor.1:30)の信の従順を介した、神の働きの報告である。神の知恵はまさにイエスご自身が自らの言行において周囲に神の国を持ち運んだように、神の国がいかなるものであるか、神は義や罪をどのように理解しその成員はいかに振る舞うか等の永遠の知識である(Mat.18:20,11:28,Luk.17:20)。イエスの信の従順への神の嘉と高挙は「ピリピ書」に「この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられた」とある(Phil.2:8-9,cf.2:12-13,Mak.1:11)。

鍵の一特徴は永遠の現在におり一切を知る神が、聖霊とそれを受ける「われら」に言及することなく、啓示の⑤⑨差し向け相手を個々人の匿名性と全称による普遍性が確保される仕方で三人称を用いて表現することにある。誰であれ神に嘉みされた信徒は神の前の構成員として神の分離なき信義を知っている。

 他方、パウロは「私は君たちの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(6:19)と自らの身体の限界が自己の限界であると考えがちな「肉の弱さ」を顧慮して、相対的に自律した「義」と「罪」に対し中立的な可能存在者を譲歩として認めることがある。人の前の「肉の弱さ」においてある生身の今・ここに生きる「われら」は、ロゴス(説明言表)上⑤⑨三人称の神の前の信徒とは判別され、知らされていることと知らされていないことのあいだで信によって生きる(cf.1Cor.9.26-27)。その中間時の制約のなかでパウロは「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(14:22)と、エルゴン(今・ここの働き)上自らが神に嘉みされる三人称の信徒たちの一人に他ならないと自らの責任ある自由のもとに今・ここで信じるべく励ます。ここに理とその働きをめぐる神の一つの知恵を見る。神の義と憐みの両立は、ロゴス上神の信義の不分離が人類の罪の贖いのための愛の故であったこと、またエルゴン上信義の不分離が罪から贖いだす愛に結実したことにより確認される。律法の「冠」(13:9)である愛は信の律法に転換され、「愛を介して働いている信」(Gal.5:6)こそ人類に救いをもたらす。


[i] 『聖書の研究』(「聖研」~号)「聖書之鍵」172号1914.11,『内村鑑三全集』21巻p.113(21:113)(岩波書店 1980~1984)。全集は執筆順刊行の故に時に文献名と年月のみ(日記の場合年月日)記す。

[ii] J. Howes Japan’s Modern Prophet,p283 (Toronto 2005).

[iii] 手紙1886.10.6, 36:246,cf.1885.12,17:222、聖書見返しthree witnesses to the Truth1885.4.18.

[iv] 「私の基督教」32:106,1929.5、日記1928.12.6。

[v] 1928.7.24,cf. How I became a Christian? Ch.9,3:134、J.Müller, The Christian Doctrine of Sin, Vol.1,Clark’s Foreign Theological Library,(Edinburgh 1868).

[vi] 川喜多愛郎『生命・医学・信仰』p.65,36(新地書房 1989)。千葉惠『信の哲学―使徒パウロはどこまで共約可能か―』下巻附録(北大出版会2018)。尚、引用や文献の典拠を本書に求める時には例えば進化論については『信』上266と記す。

[vii] K.Chiba Uchimura Kanzo on Justification by faith in His Study of Romans: A Semantic Analysis of Romans 3:19-31, Living for Jesus and Japan, ed.H.Shibuya & S.Chiba (Eerdmans 2013)

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

夏の連続講義(その5):21世紀の宗教改革―キリストの福音の独一性と普遍性の人文学的解明―

 1.2 キリストの福音の独一性と普遍性―媒介者の真理論―(承前)(その4において文章と録音に示した「パウロの「人間中心的な語り」による人の前の相対的自律性」を今回に編集加筆のうえ移動しました。その前に人工知能の議論を新たに挿入しました)。

1.2.6人工知能と真実者

 21世紀の人類の知性上の或いは生存上の最大の問題は人工知能(Artificial Intelligence)が自律的に思考するようになり、神の存在、宇宙の始まり、地球環境の持続性、生物多様性の保存そして脳の働きや意識のメカニズム等の理解においてホモサピエンスより賢くなり最終的に凌駕する特異点(singularity)を迎えるかである。その時人類は宇宙の進化の一齣に過ぎなかったことが明らかになる。

 ここではAIはどこまでも人間の営みを助けるための技術であり、人間の福祉の前提のもとで「支援的知能Assistant Intelligence(AI)」と呼ばれる協働として、例えば医療において教育においてホモサピエンスへの奉仕こそ追求されるべきことが前提とされる。AIはこれまでの道具と同じように法の支配のもとで社会的、技術的ルールを駆使してこそ有益である。超知性に、単に参考にするだけではなく、自己の判断ならびに人生を委ねてしまうことは偶像への隷属であり宗教的にも倫理的にも正しくない。ただしAIが自ら意識を持ち自律し、人類を凌駕する時、もはや支援的知性の段階は終わる。

 ここまで真実者としての真理を確認してきたが、一つの問は知性が身体と軛で繋がれていないAIはその都度自律的に人類にとって最善の行為選択肢を認識し遂行できるかというものである。ホモサピエンスと同じ意味での「実践知」はそれを持つことができないということは明らかな一つの応答である。同様に「欲求的叡知」の発動を必要とするあらゆる認知的および人格的「有徳性」を持つことができないことも明らかである、身体を持たないからである。

 ホモサピエンスの身体的与件のもとで構築されてきたこの生物種をめぐるAIによるあらゆる知識はロゴス(説明言表)上の認識(エルゴン)であって、最善の選択肢をめぐり「欲求」を伴う仕方で実践を「指令」することはできないはずである。感情等の動きもすべて定量化し計算し、例えば「誰某と結婚すべき」と「指令」するでもあろうが、それは同名異義である。その「指令」は新たな全体的な構図・枠組みそしてそれに伴う言語網のなかで、同じ術語を用いてもアルゴリズム、秩序づけが異なるため同名異義となる。

 同名異義とはAI搭載ロボットと人間は支配からも被支配からも自由な等しさとしての「愛」を「感じ」「喜び合う」こともあろうが、そこで理解されているものごとは異なるということである。また人間同士の関わりにおいてAIに託宣を聴くということがおきよう。「機能主義(functionalism)」の名において、インプットとアウトプットを媒介する処理システムがいかなるものであっても、関数関係が維持される限りどのようなアルゴリズムを使用するかは無関係であると言われることもあろう。二人の結婚生活の実質が個々人の認識を凌駕する仕方でインプットされブラックボックスを介して指令がアウトプットされるとき、結婚の成功が保証されるのであろうか。その指令に従い結婚が失敗したとき、「結局機械は人間の心理を理解しない」とAIを責めるでもあろう。これは信仰義認論の反論者が「もしわれらの不義が神の義を確立するなら、われらは何と語ろうか。怒りをもたらす神は不義ではないか」(Rom.3:5)と同様に、上位者に対する責任転嫁の一種が横行することでもあろう。それはわれらの人を見る目のなさがAIの卓越を明らかにするのなら、われらは滅ぼされるべきではないのではないのかという類のものとなろう。明らかなことは「支援的AI」は人間の責任ある自由のもとに服することが不可欠なものだということである。その意味においてそれは人間の法体系に秩序づけられる限りにおいて許容されるということである。

 特異点を迎え、人類がイメージする次世代の支配者であるAIたちはやはりホモサピエンスにおける「支配」と「被支配」の延長線上において、人類を「隷属」させるものとして実働する。しかし、彼らはわれらの「心」なき「「意識」を持つ」機械である。例えばこの惑星上で最も環境を破壊する生物は存在すべきではないという判断を彼らが下しそれが人類であったとして、一挙に抹殺されるべきなのであろうか。心なき人工物が、単に二進法上の電子的計算力に優れているというだけで或いはその延長線上で思考、創造するというだけで、生物を破壊する「権利」をいかに獲得するのであろうか。

 人類は「万物の霊長」という幻想にも進化の一過程という幻想にも欺かれてはならない。単に身体なき「この」心なきつまり個体性なき機械に生殺与奪の権を授けることをしてはならないであろう。とりわけ、人類はこれまでの生物進化とは異なり、自ら特異点をこさせないでいることができる唯一の生物である。自らが自らの破滅の道を許容するそのような行為を選択するべきではない。

 明らかなこととして、われらの言う「実践知者」は存在しなくなる。そしてナザレのイエスに見られる「真実者」としての「真理」は存在しないものとなる。人類は自らの比類なき価値を謙虚さと共に認識すべきである。21世紀の宗教改革構想のこの時点で語りうることは、第一に、人類は責任ある自由を確保することを規準とし支援的AIを法整備のもとで道具として使用することである。第二に、人間とAIが同じ言語を使用したとしてもそれは同名異義的であり異なる理解のもとにあり、機能主義的な理解はそれ故に許容せず、人類の身体上の与件が判断の規準とされるべきことである。第三にそして何よりも人類は神ご自身に似せて造られた被造物であることの自覚を持つべきである(Gen.1:27)。

 この被造物としての自覚のもとでの人類主導が保持されなくなる時、ホモサピエンスは絶滅の危機を迎えるであろう。その時、人類の独自性は自らの絶滅を嘆き悲しむことができることとなる。というのも、人類を滅ぼす次世代の機械たちは嘆き悲しむことはないであろうからである。

 

1.2.7悲しみうることの価値

 この悲しみにどれだけの価値があるのか。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』においてイワンは「キリストの人間に対する愛なるものは、この地上にはありうべからざる一種の奇蹟だ」と語り神を認める。他方、彼は神によって創造された「世界」については「残忍」で「悪逆の限りを尽く」し子供を虐待する大人たちを話題にし、それによりもたらされる「子供の苦悩」の故に認めない。心なき悲しみなきAIに隷属することはこの世界が一粒の涙ほどに価値がないことを意味する或いはわれらが用いる「悲しみ」という語句の意味は存在しないものとして扱われる、ちょうどわれらがアナバチにプログラムされた本能しか認めないように。

 イワンは狂暴な将軍により理不尽な死を遂げさせられた子供の涙を償いうるものはあるかをアリョーシャに問う。子供の母親はその将軍を赦し抱擁したとの想定のもと、イワンは言う、「最高の調和(ハーモニー)を辞退申し上げる。そんな調和なんか、あの悪臭のための便所の中で、小さなこぶしを固めてわれとわが胸を叩きながらついに贖われることのない涙を流して「神ちゃま」に祈った、あの苦しみにさいなまされたたった一人の子供の、一滴の涙にすら値しない。・・その涙は必ず贖われなければならない。そうでなければ調和なんてものはありえないよ。しかし、何をもってそれを贖うというのか。・・やつらへの復讐が・・・迫害者たちの地獄が何になる?・・こちらがもうあれほどひどい目にあっているのに、地獄が何の助けになるもんか。第一、地獄があるのに調和とは聞いてあきれる。僕はただ赦したいのだ、抱擁したいのだ。これ以上人間に苦しみを味わせたくないのだ」(『カラマーゾフの兄弟』第二部第五編「プロとコントラ」(筑摩書房 小沼文彦訳))。AIには「苦しみ」は従って「贖い」ももはや存在しないであろう。

 人類は目覚める時であろう、この苦しみうる存在の掛け替えのなさに。無機質な心なき世界において地球の保全は意味をなさない。AIは善悪が存在するふりはできても、それによる喜びや苦悩を人間が経験するようには経験しえない。人間がAIに凌駕されるその瞬間に、水滴一滴で人間を死に追いやることのできる宇宙のただなかで、パスカルの言葉が適用されよう。「人間の盲目と悲惨とをみて、沈黙している全宇宙をながめるとき、人間がなんの光もなく、ひとりおき去りにされ、宇宙のこの一隅に彷徨っているかのように、誰が自分をそこにおいたか、何をしにそこに来たか、死んだらどうなるかをも知らず、あらゆる認識を奪われているのをみるとき、わたしは、眠っているあいだに荒れ果てたおそろしい島に連れてこられ、覚めてもどこだかわからず、そこから逃れ出る手段も 知らないひとのような恐怖に襲われる」(『パンセ』B693=L198=S229]11)。

 AIによる特異点の実現は人類の足場が根こそぎにされる宇宙の無限の沈黙に等しい。或いは宇宙の盲目の必然のメカニズムに吸収されると言うことができる。ただ無意味にそこに投げ出されている。人類の次の覇者がAIであるとするなら、それはホモサピエンスが独一無二であったことを含意する。有徳性において言葉と身体の働きが軛で繋がれている人間はその分裂と非道に涙を流すことのできる唯一の生物である。神はそのような世界を許容しないと信じることは、人類の歴史を見る限り、許容されよう。「なんという珍奇、妖怪、矛盾の主、真理の受託者にして曖昧と誤謬のドブ、愚鈍なるミミズ、宇宙の栄光にして宇宙の廃物、この縺れを誰が解くのか」(パスカル)が問われているなかで、21世紀中に、人類は自らが自らを滅ぼすほどに愚かであったか否かが判明するであろう。人類には信による突破がまだ残されている。その信の対象は誰にとっても喜ばしい受け入れられるものであるときのみ、人類はそこに最後の望みを賭けるであろう。

 

1.2.8パウロの「人間中心的な語り」による人の前の相対的自律性

 われらはいまだに言葉と働きの調和を求めているそのような人類の歴史のただなかにいる。人工知能は両者に媒介を求めること、価値を置くことはない。身体をもたないAIは個体性の根拠を有していない。AI搭載型ロボットはそのように振る舞うことができたとしても、例の軛で繋がれることのない点において、少なくとも「エルゴン(今・ここの働き)」は同名異義となる。人類はロボットに愛情をも感じるであろうが、その理解は決して交わり溶け合うことはない。普遍の相のもとでAIは与えられた文脈でロゴス即ちプログラム通りにそれを執行する。少なくともロゴス(普遍)とエルゴン(今・ここの出来事)の人類におけるようなフィードバックは存在せず、AIはロゴス主導であり、外的環境による何等か妨げがあれば、それは不具合から与えられる情報に基づきロゴスの書き換えによりそれを排除する或いは克服することに専心するであろう。普遍と個体双方の外部の視点に立ち、ロゴスとエルゴンの調和やロゴスへの反抗や服従が問題になるのは、相対的自律性を認められている人類においてのみであろう。

 イエスとパウロは既に自らの「言葉と働き」においてその後のキリスト教会と神学諸学派の分裂を回避し克服していたと思われる。ここではパウロのロゴスとエルゴンの補完性、相補性の方法論をより広い文脈において位置づけ、人間における知識や思考の前進を担ういかなる方法論もその枠組みのもとにあることを確認したい。

 われらはロゴスとエルゴンの補完性、相補性が機能する次元は神学的主張の基礎となる哲学的次元においてであると主張する。例えば一切の存在と思考の原理である矛盾律に基づき構築される大陸合理論と感覚経験を基礎にするイギリス経験論のロゴス主導とエルゴン主導の認識の二源泉に見られるものの両立性がものごとの真理を証する。

 神学的には信仰・信じるという心の「働き」はモーセ律法のもとでの功績ある「業・働き」ではないと主張されることがある。それは、一方、義認そして救いが無償の恩恵であることを強調するためにそれを受け取るべく人が持つ信仰は功績ある律法の業ではないとされる。他方、モーセの十戒において命じられる善行は報われるに値する業であり祝福されるが、悪行は呪われるとされる。信仰はかくして功績ある行為とは異なる心の一種の働き(エルゴン)であることになる。これは「働き」の同名異義的な理解である。

 パウロにおける言葉と働きの相補性のもとにある21世紀の宗教改革はそのような神学的次元ではなく、包括的な次元で遂行される。信じることはそう欲することと信じることが同時である魂の一つの主体的な行為(エルゴン)であるが、また手足を動かし善行を為すことも魂の一つの意図的な行為として、同じ次元における「働き(エルゴン)」である。ここに同名異義はない。この神学的前提なきロゴスとエルゴンの相補性を展開する哲学的次元が今回の改革運動の次元である。

 ただし、「ローマ書」の新たな理解を標榜するものである限りにおいて、その働きは神や聖霊の働きをも含めるものであり神学的対象を人文諸学の知見を通じて位置づけ、真理を探究する者には誰であれ理解できる仕方で捉えることが課題である。「聖霊」を語らないアンセルムスの贖罪論においては三つのロゴスの地平が整合的に分節される。これは大きな貢献であるが、不可視なものが働きにおいてあることこそ人類が解明すべき課題である。

 イエスご自身が宣教する者であり復活の主として宣教される者であるというこの福音の出来事が始めから終わりまでこの改革運動を導く。ひとは自らの人生をかけてそれを証しまた躓き否定し或いは無視する。われらは様々なこれまでの障害、躓きを除くことができると信じている。福音を福音として析出することがこの改革運動の最初の目的である。それはイエスの山上の説教における福音理解とパウロの信義の不分離の福音理解が歩調を共にすることを明らかにすることである。

 パウロは異邦人に向かい福音を宣教するが、彼は言う、「私ははあらゆるものごとから自由であり、私自身をあらゆる人々の奴隷となした、それは多くの人々を獲得するためである。私はユダヤ人にはユダヤ人のようになった、ユダヤ人を獲得するためである。律法のもとにある者たちには律法のもとにある者のようになった、私自身は律法のもとにいないけれども、律法のもとにある者たちを獲得するためである。律法なき者たちには無律法の者のようになった、神の無律法者ではなくキリストの律法のうちにいるけれども、それは律法なき者たちを獲得するためである。私は弱い者たちには弱い者となった、弱い者たちを獲得するためである。あらゆる者たちにはあらゆる者となった、あらゆる仕方で幾人かを救い出すためである。福音の故にあらゆるものごとを為す、それは私が福音を共に分かちあう者となるためである」(1Cor.9:19、第2、24、74条)。

 パウロはその一つの愛の業として自らを「弱い者」に同化した。「私は君たちの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)。イエスも同様でありモーセが離婚を許したのは「君たちの心が頑なだから」であるとされる(Mat.19:8)。肉の弱さとは身体の限界が自己の限界であると思いがちな自己中心的な思考に見られる。その肉の弱さへの譲歩のもとに、パウロは神の前にいることを括弧にいれ相対的自律性のもとに、「罪の奴隷」でも「義の奴隷」でもありうる中立的な可能存在と捉えることがある(Rom.6:19-20)。この中立性は語「奴隷」が持つ同義性により保証される。

そ こでは彼は「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(14:22)と神により君の信仰は「イエスの信に基づく者」と看做されているという「神の知恵と認識」(11:33)を信じるよう励ます。「神の知恵と認識」が展開される神の前の次元と相対的に自律した人間中心的な人の前の次元の関係こそロゴスとエルゴンによる解明課題である。これらを「神の前の自己完結性」と「人の前の相対的自律性」と表現することができよう。双方の分節と総合こそ解明されねばならない。

 

1.2.9誰もが真理を信じている

 人の前の自律性が語られるとは言っても、そこではあくまで神の前にいることは前提にされたうえでの肉の弱さへの譲歩であり、いずれかの可能性即ち罪の奴隷か義の奴隷かのいずれかのもとにある相対的に自律した存在者として捉えられている。神の前のいずれかの判断に隷属していることには変わらず、神の勢力圏から逃れうる端的な自由は想定されていない。パウロは「君たちは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由人(eleutheroi)であった」(6:20)と語り、義から逃れているか罪から逃れているかのいずれかである。そのように人間的な悔い改めは神の計画に即したものであるが、人間的に罪への隷属から自由への移行を語ることが許容されている。

 神の前の真理に人の前の真理は制約されている。神の前と人の前の関連づけはイエスの(1)自己言及の領域が端的に神の前のことがらであり或いはそこから語られており、父と子の協働行為の福音の前においては信により与ることができるだけであることに対応する。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.14:23)。律法のもとに生きる者は、「誰も神の前に義とされないであろう、というのも律法を介した罪の認識があるからである」(Rom.3:20)。「律法はモーセを介して与えられた、恩恵と真理はイエス・キリストを介して生起した」(John.1:17)。神は義と罪がいかなるものであるか、「イエス・キリストの信」を介してまたモーセ律法を介して知らしめている。

 無神論者からすれば、この譲歩は不十全なものであるとされよう。「君は自由だ選びたまえ」(サルトル)、「行動の規範が何もないことそれが行動の条件だ」(マルロー)とサルトルやマルローに代表される人々が言う時、二種類の奴隷(「義の奴隷」と「罪の奴隷」)を想定してはいない。しかし、誰であれこれらの命題により人間本性をめぐる真理主張が遂行されていることは認められよう。この種の真理主張はこれに同意しない者は偽り者であることを含意しており、誰であれ真理のもとに制約されている。即ち、ひとは何らか判断する者である限りそして実際人はそういう者であるが、それは自ら何らかの真理の信を保持しており、自ら何らかの真理論のもとに生きている。

 矛盾律を否定する者に対して、アリストテレスはその者が何も言わないなら「植物のようなものだから、ほおっておけばよい」とする。その者が口を開き「矛盾律は存在しない」と一旦主張するなら、あらゆる存在と思考の原理である矛盾律(「「Aであると同時にAでない」ということはない」)に則って矛盾律を否定しており、「自己論駁」となる(Met.IV4.1006a11-18)。

 誰であれ矛盾律や真理を否定する者は偽り者であり、自己欺瞞的、パラドクシカルなものとなる。誰であれひとは矛盾律や真理という存在と思考の枠のなかで思考し生きている。プロタゴラスはかつて真理は相対的であり、「各人にそう思われている通りにそうありもする」と唱えた(Met.IV5,Plato, Theaetetus, 152a)。「人に甘いと感受されれば、甘いものである」という類の主張は真理とは各人の思われ、現象であり、人により異なると語られる。これは「真理は相対的なものである」ということが万人に妥当する端的な真理であると主張しており、自己矛盾となる。

 個々の現象(エルゴン)において例えば水溶液のスティックが曲がって見えまたそのように思われるるなら、曲がっているということにはならない。実在論者は現象と実在の関係をこう説明するであろう。スティックが水溶液に入れられると「曲がって見える」。これこれの液体の濃度とこれこれの光の強度のもとでは、「スティックはこれこれ曲がって見えるもので在る」と応えればよい。ロゴスとエルゴンの調和が求められる。

 誰であれ自らの主張や信念を提示するとき、そのロゴスの正しさには論拠や証拠が求められている。「神を真実(alēthes)であるとせよ、すべての人間は偽りであるとせよ」(Rom.3:4)。パウロのこの主張の信念は神との正しい関係にないとき、人は偽りであるというものである。真理は真理それ自身堅固なものであり、真実者は自らの真実を証する。神の前で真実な人間になった者は自らが真実であることの生命と力に満ちた生の営みを今・ここで遂行している。そうなりたい者はその証を求められている。偽りは見せかけであり、何等肯定的創造的な実質をもたず、善きものを生み出すことはなく、自ら自己否定的、自己破壊的なものとして歴史を悲惨なものにすると同意し得る限り、人は真理に隷属することを自らの喜びとするであろう。

 人は真理から端的に独立した自律的存在者ではない。パウロは言う、「われらは真理に背いて何も力ないが、真理の為に力ある。というのもわれらは弱い時に喜ぶからである」(2Cor.13:8)。人は自らの弱さを自覚するとき、堅固なものに立ち帰る。その信により力を得る。「第二テサロニケ書」の著者は言う、「その時には不法の者は知らしめられるが、主はその者をご自分の口により滅ぼし、ご自身の臨在の輝きにより滅ぼすであろう、その不法の者の現われは偽りのあらゆる力能と徴と不思議においてそして滅びる者たちにおける不正のあらゆる欺きにおいて、サタンの実働に即してある。彼らは自分たちが救われるべく、その滅びてしまうことに対抗して、真理の愛を受け入れることをしなかった。またこのことの故に神は彼らに自分たちが偽りを信じるに至るべく惑わす働きを送る、それはその結果彼らすべてが真理を信じることなく、むしろ不正を喜ぶことによって審判されるためである」(2Thesa.2:8-12,cf.Rom.2:2)。

 人は自覚しまた自覚せず罪の欺きのもと偽りと不正に隷属する。人は自らの境遇に隷属しまた体内では神経伝達物質や細菌に操られていると考えるでもあろうが、これは神の前では「ああ、惨めだ、われ人間」(Rom.7:24)と叫ぶ罪に隷属する人間の悲惨を示しており、それは福音により乗り越えられるものとして捉えられる。「かくして、今や、肉に即してではなく霊に即してキリスト・イエスにおいて歩む者たちにはいかなる罪の定めもない」(Rom.8:1)。イエスの言葉がヨハネにより報告されている。「もし君たちが私の言葉に留まるなら君たちはまことに私の弟子でありまた真理を知るそして真理は君たちを自由にするであろう」(John.8:32)。

 破壊的なもの否定的なものから人を自由にするものが、人生の確かさを堅固に保持する「真理」である。そこでは、永遠の真理に対し自らの肉の弱さを認める限り、真理に対し幼子のようになり、真理を愛することを喜ぶであろう。さもなければ罪の誘惑のもと自らを滅ぼす偽りに快を見出すことであろう(Rom.1:32)。パウロは真理を愛した。そして真理を解明しまた証明する方法としてロゴスとエルゴンの相補性のギリシア哲学の真理探究の伝統に即すことを選んだ。或いは誰であれ何であれ思考が前進し真理を捉えるにいたる方法は双方の補完的な吟味と接近を選択することに基づくであろう。

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

夏の連続講義(その4):21世紀の宗教改革―キリストの福音の独一性と普遍性の人文学的解明ー

 承前(1.2 キリストの福音の独一性と普遍性―媒介者の真理論―)

1.2.4 イエスの人格的真理はアリストテレス倫理学に共有されている

 倫理学はアリストテレスによれば「いかに生きるべき (pōs biōteon;)」や「最も望ましい人生は何か(tis hairetatos bios;)」の問をめぐって人間一般に妥当する心魂の認知的態勢と人格的態勢を包括する普遍的な理論、行為規範を探求するものである(Nicomachean Ethics [NE].VIII12.1162a29, Pol.VII1.1323a1)。

 心魂の有徳性・卓越性には二種類があると言われる。今見てきたように、真偽にかかわりそこで優れた判断力も持つひとは認知的に有徳な人と呼ばれ、「知る」ということが語られる五種類の知識があるとされた。他方人格的に有徳な人がいる。身体をもって生きている人間にとって、外界からの刺激を受動する座は感覚器官を通じて受け取る身体である。選択できずに受動し発動する感情や欲望そして責任ある自由のもとで選択される行為はそれまで培った人格的態勢、実力のもとに遂行される。

 アリストテレスは道徳的価値と身体上の受動である感情や欲望等のパトスの関係について実在論に与している。実在論とはものごとが人々の認知機能とは独立にそれ自身において理・秩序(ロゴス)をもって存在しており、人間の認知機能におけるその最善の説明言表(ロゴス)はそのものごとの本質即ちそれ自身であることを把握しうるという立場である。人格的有徳性に関しても同様であり、こう語られる。「徳そして善き人がそれぞれのものごとの尺度であるなら、この人に現れる快が快であり、この人が喜ぶ快いものが快いものである」(EN.X5.1176a17-19)。この「尺度」は「いかに生きるべきか」および「最も望ましい人生は何か」の問に対する、心魂における態勢とパトスをめぐる普遍的な規範であると言える(Pol.VII1.1323a1)。

 有徳性が行為のゴール・目標であるとして、その卓越性が人生の尺度、規範とされる。心魂の働きである行為やパトスはその有徳な心魂の態勢に基礎づけられる。「快や苦」のパトスと「行為」のエルゴン(ergon)は「ヘクシス(魂の態勢)のセーメイオン(徴・証)である」とされる(EN.II4.1104b3,Rhet.I.9.1367b31)。選択できない感情のような身体的反応や「われら次第」(1113b9)と言われる選択による行為において、その人の内面的な道徳的実力が知られるという立場である。態勢の涵養が倫理学の主題となる。魂の態勢とパトスや行為の関係は有徳性を尺度として普遍的に妥当すると主張されている。

 身体の受動反応であるパトスに善い態勢にあるとはそれぞれの徳項目において中庸に接近することであり、ロゴス(理)に与る力能を獲得していく。人格的徳例えば勇気は恐れというパトスに対して中庸においてあり臆病でも向こう見ずでもなく、恐れを克服しつつ選択すべき最善、正義を適切に選び取る人格的徳である。節制は快楽に対して良い態勢においてあり、放埓と鈍感の中庸においてあり、節度ある行為を選択する人格的徳である。

 人は恐れと臆病のパトスが中庸に近づくにつれ、勇気の理に与る力能が増し、また快をめぐる放埓と鈍感から中庸に近づくにつれ、節制の理に与る力能が増し聴従しやすい魂の態勢になる。有徳者は適切な理(ロゴス)に「聴従している」者である(I13.1102b27)。

 

1.2.5実践知と人格的徳は「軛で繋がれている」

 アリストテレスによれば、認知徳と人格徳が普遍的な言表と個々のパトスや行為のままでは倫理学は成立せず、普遍と個を媒介する個々の最善の「行為選択肢(prakton)」の知識である「実践知(phronēsis)」そしてその基礎に「経験に基づく目」と語られ「人生の盛時」即ち年齢を重ねることにより発動する「叡知(nūs)」の認知的徳が媒介者として求められる(VI11.1143ab8,14)。

 「実践知」は「人間的な善に関わり、真なるロゴスを伴う行為力能上の態勢である」と規定され、「行為に関わる認知的なものの働きは、正しい欲求に一致した真理を捉えることである」(VI5.1140b20,VI2.1139a30)。人格徳において中庸に向かう正しい欲求・パトスが生起する時、「欲求的叡知(orektikos nūs)」が発動する(VI2.1139b4)。欲求と離れることなく発動するこの叡知に基づく実践知はその欲求が正しいことの知識を与えることにより「指令的」なものとなる(VI 10.1143a8)。そのさい基本となるものは「選択の原理」が「欲求と何かのためのロゴスである」ことである(1139a32)。アリストテレスは言う、「叡知及び思考なしに、さらに人格的態勢なしに存在しない。というのも、良い行為とその反対の行為は思考と人柄(ēthūs)なしにはないからである」(1139a32-34)。

 人格徳は中庸を得ており快苦に対して安定しているため、行為選択肢の知識に与りそれを保全することができる。「節制(sōphroshunē)」の語源は「実践知を保全する(sōzūsan tēn phronēsin)」の合成語であることが紹介されている(VI5.1040b13)。認知徳の一つである行為選択肢の保全された知である実践知は人格徳と相互に軛で繋がれており支えあう。アリストテレスは言う、「実践知は人格徳と共に軛に繋がれており(suzeuktai)、人格徳も実践知と共に軛に繋がれている(suzeuktai)、いやしくも実践知の諸原理はさまざまな人格徳に即しており、人格諸徳の適正さは実践知に即している限り」(X8.1178a16-19)。実践知の「原理」、始まりは人格徳の成長による。実践知は人格徳の欲求に見られる正しさを保証する。節制の態勢の培われていない者がその都度の最善の行為選択肢を知ることは困難であろう。

 個別の最善の行為選択肢にかかわる実践知がそれらの個別的人格徳に関与しロゴスを与え、行為に導く。そのさい、これら態勢とパトスを肯定的に関連づけるものはロゴス(理)であり、実践知はロゴス(言表・理)上例えば節制から分離されるがエルゴン(今・ここの働き)上不分離なもの即ち「共に軛に繋がれたもの」として今・ここで働く。アリストテレスの倫理学は欲求と叡知の綜合である実践知の理の統一的な実在論のもとに構築されることになる。

 認知的態勢と人格的態勢が「共に軛に繋がれている」限りにおいて、双方の分断と知性の優位は抵抗にあうことになろう。どんなに認知的に優れていたとしても、双方の徳・卓越性が関連付けられない限り、最善の行為選択肢について発動する「欲求的叡知」の欲求が伴わないものがあるため発動せず、実践知に至らないものがあるということを含意している。純粋に知的な計算等には優れていても、最善の行為選択肢をつかむ実践知に至らないケースは容易に想定できる。純粋に理論的な研究においても、ニュートンがりんごの果実が木から落ちるのを見て、万有引力への叡知が発動したとしても、それまでの運動論の素養なしには、気づくことはなかったであろう。認知的徳の一つである「叡知(ヌース)」は叡知対象に「ヒットするかしないか」のいずれかであった。「決して偽に陥らない」叡知の発動に至るまでの認知的、倫理的態勢の陶冶の不可欠性は想像に難くない(Met.IX10.1051b22-26,EN.VI6.1141a3)。

 アリストテレスは言う、「観想することがより優れてそなわる人には・・まさに観想に基づき幸福である。というのも観想はそれ自体において貴いからである」(X8.1178b30)。ヌースに基づく観想的生活が理想的と思われようが、そのような行為の選択が最善であることは「わずか」である(X7.1178a1)。というのも身体を持つ人間はこの人間社会に生きており人間的な関わりにおける正義の遂行が最善であると判断される場合が多いからである。

 アリストテレスは包括的な仕方でこの双方の良好で創造的な関係をこう語る。「真なるロゴス(理・言表)は単に知ることに対してだけではなく、人生に対してもこのうえなく有益である。というのも真なるロゴスはエルゴン(今・ここの働き)に共鳴和合することによって信用されるからである。それ故にロゴスは、理解する者たちに対して、ロゴス自らに即して生きることを促すからである」(EN.X1.1172b3-8)。このロゴスとエルゴンの共軛、共鳴和合こそが実践的効力を持つ。知性なき欲求は盲目であり、欲求なき知性は無力である。

 

1.2.6 媒介者の真理論

 イエスにおいてもアリストテレスにおいても、これらの認知的徳が人格的徳と軛に繋がれているということが「真理」という概念の複層性、深みをもたらすものであると思われる。イエスは信のもとに言葉と働きにおいて偽りがなく調和していたが故に、「真実者・真理(alētheia)」(Mat.22:6)と呼ばれるにふさわしい。その意味において双方の信による媒介者であった。アリストテレスは成功した視点から同じ問題を考察する。そこでは実践知は認知的徳と人格的徳が軛で繋がれることによりロゴスとエルゴンを媒介する。「実践知者(phronimos)」は発見と選択的欲求によりこう規定される。「徳は、われらにとって中庸のうちにあることによる、選択力能上の態勢である。そしてそれは、実践知者もまたそれにより決定するであろう、そのロゴスにより確定される。・・徳は中項を発見することそして選択することによるものである」(1115a6)。ここにわれわれは単に媒介者の真理論が聖書特有なものではなく、実践的な文脈におけるアリストテレスの真理論はこの軛による結合のゆえに実践知者による中庸のロゴスと選択の欲求の今・ここのエルゴンの「媒介者の真理論」を展開していると言ことができる。ただしアリストテレスの実践知者は成功した視点から語られた理想的存在者であり、その者が歴史上実在し、「私は真理である」という類の自己言及を遂行することはないであろう。

 世界の在り様として成り立っているものごとをそれとして把握することは認知的な真理であるが、また在るものを在らぬと判断することは認知的な偽りであるが、人格的にはその偽りは生命を削ぎ滅びをもたらすそのようなものである。認知的な真理も永続するが、人格的に偽りなき真実な者は力と生命に溢れるものであり、双方が軛で繋がれているとき、その実践知者は先の一家の主人の譬えのように最もイエスに似た人間になり真理を証するであろう。

 そこで何らかの働きのもと不可視な対象について何らかの知識が生起することもあろう。パウロは言う、「君たちこの世界の形に適合させるな、むしろ神の意志が何であり、善とはそして喜ばれるものそしてまったきことが何であるかを君たちが識別すべく、叡知の刷新により変身させられよ」(Rom.12:2)。ここでは「神の意志が何であるか」や「喜ばれること」そして「まったきこと」という表現により、その時々の最善の行為選択肢をめぐる知識が主題であり、これらについて知ることができると主張される。ここで変身とはキリストに似た者になることに他ならない。パウロは言う、「わが子供たちよ、キリストが君たちのうちに形づくられるまで私は再び君たちの産みの苦しみを為す」(Gal.4:19)。キリストに似れば似るほど神の意志をより知るに至るであろう、ただ自己の身体の限界が自己の限界であると考えがちな肉の弱さのゆえに、常に叡知の発動に刷新が必要とされるそのようなものであるけれども(第59条)。

 ひとは「肉の弱さ」のゆえに相対的自律性のもとに生きることが譲歩として許容されている。それとの対比においてある、神の前の自己完結性が父と子の協働作業として報告されている。そこでは神の義はその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」即ち彼に帰属した信を介して、その信仰が神に嘉みされる者たちに啓示されている。そこでは神の前の自己完結的な言語網が展開され、その構成員は神に嘉みされる者たちである。

 この神の前の構成員に関して、パウロの報告によれば「信じる者すべて」であり「イエスの信に基づく者」と三人称で表現されている。この者たちがどれだけキリストに似た者になっているかは知らされてはいない。ただ、イエスが信の従順をその都度貫いたように、その都度心魂の刷新のもと信・信仰の更新に生きる者たちであることが知らされている。中間時においては人は知らされていることと知らされていないことのあいだで信によって生きる。

 これはルターが掴んだ信の根源性である。彼は言う、「わが心のうちに一つの箇条、キリストの信(Fides Christi)、が統治している、それはそこから、それを介してそしてそこにおいて(ex quo, per quem et in quem)わがあらゆる神学的思考が昼も夜も流れ出でそして流れ戻るところのものである(ルター『ガラテア書講解』(In  epistolam S.Pauli ad Galatas Commentarius ex praelectione D. Martini Lutheri collectus [1531] 1535. Commentarius in Epistolam ad Galatas, Praefatio, WA 40 I, ed. K.Drescher, p.3. (Weimar 1911)。 これはエルゴン上、昼も夜もこの力強いキリストの信がルターの心魂に流れ込み、思考を展開させていることの告白である。キリストの信の媒介のもとに神の前と人の前を分けない、その都度のルター自らのエルゴンの報告であるが、そこから神の知恵を神の前のことがらとしてロゴス上析出することができる。21世紀の宗教改革はこの神の前と人の前の関係の総合的な理解に基づき展開される。

 

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

夏の連続講義(その3):21世紀の宗教改革:キリストの福音の独一性と普遍性とその人文学的解明ー

 承前

1.2 キリストの福音の独一性と普遍性 —福音とギリシア哲学に共通する「真実者」としての真理― 

 1.2.1 神への愛と真理への愛の両立

 21世紀の宗教改革はイエス・キリストの独一性に集中するものであると同時にその「福音の真理」(Gal.2:5)と言われるその「真理」が万人に妥当する普遍的なものであることにその動機付けを持つ。イエスの言葉「私は真理である」(John.14:6)はこの用語の何か特殊な用法のように思える。この改革運動はカトリックとプロテスタントの論争に見られたように、聖書解釈上の争いや分断の解決やその諸主張、提案は人類の歴史のアポリアを解決し万人に受け入れられる普遍的なものであることを明らかにすることによって、説得力を持つにいたることであろう。ここではキリストを特徴づけるために用いられる「真理」のみならず諸用語例えば「永遠」や「神の愛」、「神の子」そして論争多い「知識」と「信念」の関係さらに「史的イエス」と「宣教のキリスト」との関係についての諸論点を人文諸学、とりわけ万学の祖アリストテレスとの対話のなかで理解可能な一つの立場として提案し、神への愛は真理への愛と共存することを示したい。

 そのためには福音の真理を神への愛と真理への愛双方により調和するものとなることが目指される。ここではナザレのイエスがその言葉と働きにおいて偽りがなかったが故に神と人の媒介者として生きて働いていたまうその人格的な確かさこそが「真理」と呼ばれることを明らかにし、そしてそれは一般的な真理論とりわけアリストテレスの実践知と人格的徳が「軛で繋がれている」そのような有徳者における真理論と符丁を共にしており、道理ある一つの立場であることを明らかにしたい。私はイエスの人格こそ真理であるとする立場を「媒介者の真理論」と呼ぶ。

 イエスその山上の説教において祝福される預言者的な生がいかなるものであるかまたモーセ律法の純化はいかなるものかを一般的な仕方で教える。さらにイエスは衣食住について煩う者たちを「信わずかな者よ」と叱責しつつ、「まず君たちは御国と神の義を求めよ」と野の百合空の鳥を養いたまう天の父の愛への信仰を促し、そのもとに純化された預言者的な祝福された生そして尖鋭化されたモーセ律法の成就の道を教えている(Mat.6:33)。イエスは「かくして天の父が完全であるように君たちも完全な者となるであろう」(5:48)と人間としての究極の人生がいかなるものであるかを教えた。イエスはその自らの教え・ロゴスを信の従順により死にいたるまで貫きそれらの言葉を生き抜いた。天の父に似た完全な者になることが、信仰により実現されること、それが福音として宣教されている。ひとはそこで最も人間として究極の信仰と愛の在り方を教えられ、そのことに納得するならば、人間の本来性を教え示すものとなり、その宣教は万人に行き渡ることがめざされることになる。

 そこでは御子を介した神の愛がわれらの神への愛と真理への愛を基礎づけている。パウロは言う、「われらは知っている、神を愛する者たちには、計画に即して召された者たちにはあらゆることが善きことへと協働することを」(Rom.8:28)。この「われら」の知識主張の内実は「神を愛する者」は「計画に即して召された者たち」であることさらにそこでは悪しきことは一切起こらず「あらゆることが善へと協働する」ことからなる。これが完全な勝利の人生であることは多くの人々に認められるであろうが、これが万人に妥当するべく道理ある根拠の提示がめざされる。

 神を愛する者は神が自らの人生の主権者でありご自身の計画のもとに愛し導いていたまうことをパウロは確信しまた自らの人生経験を通じて知識主張を為す。この一般的な命題は「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(5:5)ところの神の愛の今・ここにおける聖霊の注ぎにより保証されているという自覚のなかで遂行されている。パウロのこの「われら」をめぐる知識主張は聖霊の保証のもとにあり、万人に妥当する普遍的な真理であることの自らの人生の経験による証を伴う主張であり、それ故にこそこの真理を伝達すべく宣教活動が動機づけられている。

 イエスやパウロは福音が異邦人をも含め人類全体にとって受けいられれるべき神と人をめぐる「一度限りの」出来事に基づく、確かな真理であるという信念のもとに福音を伝達する。「キリストが死んだ死とは、罪に対して一度限り死んだところのものであり、他方、彼が生きる生命とは、神に対して生きるところのものである」(Rom.6:10)。このユニーク(独一的)な福音は神の人類への憐み、愛に他ならず、その良き報せの宣教を促す。神の愛のもとに神はご自身を信じる者に自ら真実であること、御子の信に基づいて罪赦され義であることを知らしめるとき、人間が理解する福音の真理は神の愛に支えられている。二人の主張はイエス・キリストの媒介性の故に普遍的に理解されうる道理ある主張をしていることを確認したい。

 

1.2.3 真理とは何か―ヘブライ的真理とギリシア的真理の共通性―

 「真理とは何か」、これはユダヤのローマ総督ピラトがナザレのイエスに尋ねたことであると「ヨハネ福音書」に記録されている。それはイエスがこう言ったことへの反応であった。「「私が王である」とはあなたが言っていることです。私は真理を証しするために、そのことへと生まれまたそのことへとこの世にやってきたのです。真理に基づき生きて在るあらゆる者は私の声を聴きます」(John.18:37-8)。このやりとりのあとのピラトによる「真理とは何か」の問へのイエスの直接の応答は記録されてはいない。しかし、ピラトはその後群衆に彼に何ら十字架刑にあたるいかなる罪はないと告げる。「この男を見よ」、「私は彼のうちに何ら原因を見ない」(John.195-6)。彼がイエスの無実を証言したことが記録されているが、ピラトはこの尋常ならざる人間を「見る」よう促した。そしてそれは今日まで一つの人間であることの象徴的な在り方として彼を見るよう促されている。

 イエスの発話の特徴は、真理は何か心魂の思考のうちに形成され、ものごとと合致するところの、心魂が提示する言表(命題)や思考(判断)のうちにあるというよりも、二種類の人間が判別される規準として「真理」が働いていることを証している。心魂の在り方がそれに与りそれに基づき生きているそのような心魂の生の原理が真理であり、その者たちはすべてその真理を証するイエスに聴き従う者たちであると語られている。即ち真理を証するイエスに従う者たちは真理に基づき生きている。

 ここでイエスの語りの第一の特徴であった自己言及を思い返す。彼は罪の悔い改めを介しての救いの福音を宣教する者であったが、その宣教される内実と同一であった。このユニークな存在者は二種類の存在者例えば光のもとにある者と闇にある者を分ける規準でありまたそれが真理と分離されないそのような者である。イエスは言う、「私は道であり、真理であり、生命である」(14:6)。

 このように真理はそれに聴き従いまた聴く者の生がそれに基礎づけられ営まれるべくまさにそのものに与ることが問題であるそのような生きて働いている人格的真理として展開されている。彼は天の父から派遣され真理を証するためにまことの人間となりこの世に来たが、福音の真理を宣教する彼は自らその福音の内実であるという自覚のもとに自己言及的なものであった。「真理」は「私を見た者は父を見たのである。・・私が父の内におり、父が私の内にいる」(14:9-10)という父と子の不分離性の確信のもとに語られる。福音を聴く者たちはパウロを始め「福音の真理」に共に「与る」そのような真理が福音であるとされる(1Cor.9:23)。「私は私を信じる者が、誰も暗闇の中に留まることのないように私は光として世に来た」(John.12:46)。光のもとにいない者は闇のうちにいる。

 Kittel『神学辞典』によれば、「真理(alētheia)」(John.14:6)について「旧約における語’e met 」や「「真理」のギリシアとヘレニズム的使用」等四つの文脈において合計約10の理解が提示されている。

それは旧約聖書における用法についてこう報告している。「語’e metは126回現れる。それは端的にamēn(「堅固な」)、そしてそれ故に「堅実な」、「妥当な」或いは「結合している」と看做されうる一つの実在を指示すべく用いられる。それはかくして「「真で」あるもの」を意味表示する。諸人格について用いられる時、それは時に次のことを表現している、即ちそれ(’e met)は彼らの話、行為そして思考を支配的に特徴づけるところのものを表現している。Ish ’e metはその振る舞いが真理の規範のもとにはいるものでありそしてそれ故に完全無欠な人間のことである。関連語は’emunah(→pistis(信))である。双方とも完全なもののための諸用語に近いものである。shalōm (→eirēnē(平和))、tamim(→haplūs(端的))そして司法的用語hesed(→charis(恩恵))そしてzedek(→dikē(正義))がそれら諸用語であるが、それらはしばしば旧約聖書においてはこれら[’e metと’emunah]を解明するために用いられている」(TDNT, Vol.I p.222-3)。「真理・堅固な真実者」が旧約の完全者を表現する中心的な語彙であることが分かる。

 なおalētheiaの新約における使用については「それは部分的にセム的な’e metの使用と部分的にはalētheiaのギリシア、ヘレニズム的使用により決定される」。双方が全く同じというわけではないことは「七十人訳のpistis(信)やdikaiosunē(義)を使わざるをえない事実」に示されている。「もしalētheia がしばしば選ばれるとするなら、これはその展開の道行における柔軟性の一つの高い程度を享受るすべく展開したギリシア的用法の光のもとに理解されるべきである」(238)。

 ものごとのなかで堅固で壊れることがなく、確実なものは脆く消滅していくものとは判別されることになる。生命をもつ存在者がそのような堅固なものであるなら、それはやはり消え去りゆくものどもと判別される規準となるであろう。そのような存在者を「堅固な真実者・真理」と呼んだとしてなんら不思議なことではなく、道理ある。このような基本的理解のもとに、聖書が証言する福音がイエス・キリストの人格的な確かさに中心を持つ限り、「真理」はそれと偽りや裏切りを判別する生命に満ちている高潔な者としてまず理解される。

 ナザレのイエスは彼の言葉と働きに偽りがなかったことが神の子であることを証している。その意味で彼は真実の言葉と真実な働きがいかなるものであるかを伝える媒介者である。それ故に彼はこの規準をわきまえた者についてこう語ることができる。「このことの故に、天の国の生徒となったすべての学者たちは、誰であれ自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:51-2)。「このことの故に」とはイエスが天国とはどのようなものかを譬えで語ったその内容の帰結文がこの語りであることを示している。それは畑に宝を「見つけた」農夫や高価な真珠一粒を「見つけた」商人の譬えや、終わりの日に網にかかった魚がえり分けられるように、「善人と悪人が選抜」されるそのような譬えによる教えであった。

 この文において、天国について学んだ人間は次々に生起する事態に対処するべく、自らの「倉」と呼ばれる発見した真理を蓄える心魂の認知的態勢そして善悪を識別する人格的に訓練された心魂の態勢から、自由自在に、旧約的なものであれ新約的なものであれ知識や識見を取り出し正しく家を導く主人に譬えられる。このような一家の主人は神や媒介者の完全性、十全性に倣う者のことである。一人の人格は「倉」という培われた「態勢(hexis)」を持ち、その故にその態勢の人格的な「真実者」は言葉によりまた態度・働きにより適切に反映されている。

 

1.2.3 真理をめぐる信念と知識

  この人格による媒介者の真理論はアリストテレスにおいても見いだされる。とりわけその都度の最善の行為を選択するさいの実践的知識(phronēsis)をめぐる彼の真理論において共有されうるものである。まず、広い文脈のもとに真理と心魂の認知的、人格的態勢の関係を押さえておく。

ギリシア哲学を始め一般的に真理は心魂の態勢である信・信念との関連において語られる。そしてこれはヘブライ的伝統にも共通に見られることである。人の心魂の働きにはまだ知らないからこそ語られていることが真理であると信じるその信の認知的次元がある。そこでは神への信仰は知らないものに自らの人生を賭ける一つの冒険となる。偽り、誤謬に生を賭け、燃やすとするなら、その人生は偽りとなり滅びることになるであろうという感覚が呼び覚まされつつ、ひとは真理を求める。

 まだ十全には知られない不可視なものが働きにおいてあることこそ人類が解明すべき課題である。パウロは言う、「われらは表象によってではなく、信仰によって歩んでいる」(2Cor.5:7)。また彼は言う、「われらは希望により救われた。しかし、見られる希望は希望ではない。というのも、誰が見ているものを望むであろうか」(8:24-25)。「ヘブライ人への手紙」にこうある。「信仰は望んでいるものごとの基礎に立つもの(hupostasis)であり、見ていないものごとの[見ずに留まることへの]反駁(elegkos)である。というのも信仰によって古(いにし)への先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより諸時代が[先人たちのように]統一させられていることを、信仰により叡知において観取しており(pistei noūmen)、見ているものが現れないものども[神の言葉]に基づき生じたことを知るに至る」(Heb.11:1-3)。見えないものは言葉により伝えられる。その証し人となることが求められる。信・信仰はその見えないものごとの真理の探究へと駆り立てそして働く、たとえそれが始めは半信半疑の心的態勢においてあったとしても。

 アリストテレスは「あらゆる判断(見解・ドクサ)には信が伴い、信には納得が伴い、納得には理(ロゴス)が伴う」と言う(De Anim.III3.428a22-3)。認知的徳・卓越性はものごとの真偽に関わり、その理を伴う判断が「真理を捉えている」時、それは知識と呼ばれる。「心魂が肯定したり否定したりすることにより、そこにおいて真理を捉えている態勢を数において五つあるとせよ。これらは技術知、科学的知識(epistēmē)、実践知、叡知(nūs)そして知恵(sophia)である。というのも、判断と見解において偽であることがありうるからである」(Nic.Eth.VI3.1139b18)。

 真偽にかかわりそこで優れた判断力も持つひとは認知的に有徳な人と呼ばれ、「知る」ということが語られるこれらの五種類の知識があるとされる。個々の行為の選択において常に最善の行為選択肢を選び取る認知的徳は「実践知」と呼ばれるが、福音書における真理論とこの知識が重なる。

 匂いや色のような感覚的対象に触れて感覚知が発動するが、これは生得的であり、嗅覚が匂いを感じ取ることには誤りがない。この感覚対象に触れる感覚と類比的ではあるが、非感覚的な対象に触れると言う仕方で働く認知機能は「叡知」と呼ばれる。「叡知(ヌース)」は叡知対象に「ヒットするかしないか」のいずれかであり、つまり真か無知かのいずれかであり、「決して偽に陥らない」とされるが、それに至るまでの認知的、倫理的態勢の陶冶は不可欠である(Met.IX10.1051b22-26,EN.VI6.1141a3)。これは人工物が自然物の模倣である限りにおいて、コンピューターの検索機能は叡知と類比的であり、電子的対象にヒットするか無知かいずれかである。

 さらに、感覚や叡知の発動を基礎に、事象を観察し思考し普遍的な知識をその根拠のもとに基づき知る思考の認知機能が「科学的知識」と呼ばれる。さらに「知恵」と呼ばれる、「神」や永遠な存在者そして「霊(ダイモーン)」について「叡知」と「科学的知識」に基礎づけられ発動する知識である。その他、ものごとの制作にかかわる技術知においても人の認知機能の優劣が明確となる。確かなものと移ろうもの、消え去るものとの判別に真理を捉える認知的な卓越性が人間の求めるものであり、そのように卓越した人、有徳な人がいる。

 この信と判断そして知識の関係はパウロにも妥当する。神は言語使用者であり、「神の語りの言葉はまずユダヤ人に信託された」(3:2)。エレミヤ等預言者や詩篇詩人たちそしてイエスやパウロ彼らユダヤ人が神の言葉を取り次いでいる。「かくして信仰は聞くことから、聞くことはキリストの語りを介してである。しかし、彼らは聞かなかったのではないかと、私は言っているのか。いや、むしろ「その者たちの声は全知に響き渡った。そして彼らの言葉は世界の果てにまで[及んだ]」」(10:17-8,Ps.19:5)。神の語りは人類にも理解される構文論そして意味論のもとに展開され、終わりの日までに福音が告げ知らされる(Mac.13:10,Mt.24:14)。

 このような神の委託のもとに、「神に遣わされる」のでなければ「宣教すること」、少なくとも真実な宣教はおきず、宣教する者がなければ「聞くこと」はおきず、聞く者がなければ「信じること」は生起せず、信じる者がなければ「神に呼びかけること」は起きない。「いかに信じなかったその方に呼びかけることが生じようか?いかに聞くことのなかったその方を信じることが生じようか?しかし遣わされることがないならば、いかにその人々は宣教するであろうか?まさにこう書いてある。「善きことども告げている足はなんと良いものであろうか」」(Rom.10:14-15)。宣教の道理ある言葉を聞いて納得するとき、人々には或る種の判断にコミットする即ち信任する信が生起し、信仰はその信じたその方に呼びかける。

 このように判断には信が伴い、信には納得が、そして納得には理が伴っている。信念と行為選択をめぐる実践的知識の関係さらに信念と知識一般の関係の理解はアリストテレスとパウロによって共有されている。理が伴う判断には信念が伴っていた。人がちょうど「泳ぐ」という概念を知っている場合に、「泳ぎ」の定義には「水」を構成要素としていると判断することは理を伴っており、知識であると言ってよい。何かを今・ここで知っていると判断する者は信念を伴い、「知識」の定義において「信念」を構成要素としていることが知られる。これは「判断」、「信」、「納得」そして「理」は一様の普遍的な仕方で関連づけられており、真理は信により知識として捉えられる。

 他方、信にはそのような認知的次元が問題にならないところで、目の前にいるひとを信頼することができるかが問われるそのような文脈において「信用」や「信頼」また「誠実」、「忠実」という類の心魂の人格的な態勢(身体を介して受動的なパトス(感情、欲求)に対する態勢・実力として養われる生の構え)が問われる文脈において「信」が用いられる。

 「信じます、信なき私をお助けください」(Mac.9:24)とその息子が困窮のもとにある父はイエスの面前で目的語なしに信仰告白を遂行する。パウロにおいても聖霊の促しのなかでの信仰は目的語をもたない。「希望の神が、聖霊の力能のなかで、君たちが聖霊に溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。認知的にイエスが復活の主であるとか、神の知恵であるとか目的語を伴う仕方で信仰が遂行されるが、そのときただちに懐疑に取り込まれるであろう。父と子、友と友のあいだで誠実であり、信頼しあい何か肯定的なもの創造的なものを築いていこうとするとき、信の認知的用法はその人格的用法に移行されている。

 

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

夏の連続講義(その2):21世紀の宗教改革―キリストの福音の独一性と普遍性とその人文学的解明ー

 (はじめに カトリックとプロテスタント和解の鍵発見(その1)承前)

1.宗教改革運動がそこに基礎づけられ展開される言葉と働きの補完性

1.1 ナザレのイエスの言葉と働き

1.1.1 福音の宣教

 21世紀の宗教改革は疑いもなく、聖書が証言するナザレのイエスの言葉と働きにその基礎を持つ。そこからユダヤ人にも異邦人にも受け入れられる力ある普遍的な言葉が生み出され、そこから人々の間で生命と力に満ちた肯定的な働きが生みだされるそのような基準点がイエスの言葉と働きである。パウロは「ローマ書」において「御子の福音」(1:10)を理論的に伝えており、本稿の目的はキリストの言葉と働きが神の救済の歴史のなかでいかなる役割を担っているかを明らかにすることである。

 イエスの言葉と働きにおいて最も著しいのは彼が神の福音を宣教するものでありかつ自ら宣教される者であるということである。この宣教する者と宣教される者が同一者である、福音を語る者が福音の内実であるという尋常ならざる事態が人々を今日まで動かし従わせしめた救いの源でありまた離反せしめてきた躓きであるところのものである。

 ナザレのイエスは「彼に群がって聞き」にくる群衆にエルサレムの神殿やシナゴーグにおいてそしてガリラヤの野原や山上において何を語り、何を教えていたのであろうか。彼はアブラハムやイサク、ヤコブのイスラエルの族長たちに導かれた歴史の帰趨について、そして神のみ旨・み心(thelēma)は、モーセに啓示された律法を介して知らされていることまたイザヤやヨナ等の預言者たちの働きを介して知らされていることを語り教えた。彼は時空の外にいて天地を創造し、永遠の現在のもとに一切を知っている全知全能の「天の父」とそのみ旨について語った(Mat.19:26,Ps.139)。彼は天の父のみ旨を知っておりそれを教えようとした(ただし、終わりの時を除く(Mak.13:32))。彼は「天の父のみ旨を行う者が天国に入れていただく」ことを直截に語った(Mat.7:21)。彼は律法と預言者を通じて聖書に伝えられる神のみ旨・意志は自らの受難と復活において実現されると語り、神の国の福音の内実は自ら自身のことであると教えた。「祝福されている、君たちの目と耳は、というのも君たちの目は見ておりまた耳は聞いているからだ。まことに私は君たちに言う、多くの預言者や義人は君たちが見ているものを見たかったが見ることができず、君たちが聞いていることを聞きたかったが聞けなかった」(Mat.13:17)。

 イエスがユダヤ教の改革者として始めた宣教活動は福音・善き音信、即ち神の国の救いを伝えるものであった。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた」(Mak.1:14-15)。イエスは聖書に即し福音を「イスラエルの失われた羊たち」に伝えることにより宣教活動を始めたが、彼は人々の信の従順に出会い、信の根源性の故に異邦人に対しても伝えたことが報告されている(Mat.15:21-28)。聴衆には悔い改めてこの新しい教えを信じるように促した。

 それが彼の短い宣教活動の内実であるが、その前提にイエスは聴衆が神のみ旨を知ることができそしてそれをなんらか遂行できると考えていた。福音は自らを介して実現されるものであり、「福音」はパウロによれば、「信じる[と神が看做す]者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:4)。ナザレのイエスはその力能を自らの身辺に一挙手一投足において実現した(Mat.12:28)。

 

1.1.2 宣教しかつ宣教される同一者の四種類の語り

 イエスの語りは複層的であり、概して四種類に分類されよう。(1)宣教する者と宣教される者が同一であることに基づき自己言及的に語られる。(2)神の憐みは天と地の連続的なものとして光や野の百合空の鳥など自然事象の比喩を介して語られる。(3)天と地の不連続性は人間事象の不十全性、悪や罪に由来するが、地上のものごとの譬え話によりまた歴史の帰趨をめぐる自らの預言や警告、叱責により架橋が試みられる。(4)自然事象、人間事象についての一般的法則が語られるが、この次元での発言が主に福音を一般的に支える倫理的な法則性を導出させる。

 福音書が報告するイエスの言葉の(1)自己言及が極めて特徴的である。神の国の福音を宣教しつつ、その媒介者である自らを語る。彼の言動そのものに神の国が何らか今・ここに現在しているそのようなものがこの自己言及である。聖書への尊敬のなかで聖書に基づく歴史の帰趨が自らに結実するその認識が語られている。「聖書全体」がイエスを預言しまたイエスにおいて成就されそしてイエスを介して理解可能なものになるとイエス自身により発言されている。

  イエスはガリラヤの野辺においては信の従順の生涯の途上にある。彼はまことの人として(旧約)聖書に記されていることに基づき、神のみ旨を忖度し自らの生を最善の行為選択肢の認知と実践においてその都度構築していった。イエスは自らの生涯が聖書に即したものであるとともに、その預言と律法の成就であるという自己認識のもとに一挙手一投足を歴史に刻んでいた。聖書全体が新しく福音のもとに位置づけられる。この福音の言葉の自己言及性は福音の事象が神とイエスの協同作業であり、自己完結的なものであることに基礎づけられる。パウロが「福音に[君たちと]共に与るために、福音のために私はいかなることをも為す」と語るとき、信じる者に救いをもたらす福音とは何かひとにより与(あずか)られるものであり、福音それ自身は自己完結的なものであることを含意している(1Cor.9:23,cf.1:11)。ひとは自己完結的なものに対しては、例えば修繕の要のない完璧な家があり、その家は清らかで争いも病も死もないと言われ招かれたたとしてひとはどうするであろうか。

 福音書に報告されているイエスの言葉には理論的教説の展開は見られない。彼が語る言葉はユダヤ教の預言者と律法の伝統のなかで言い伝えられる教えを取り上げ、それを先鋭化したものであり、また自然事象に訴えるものであり、譬え話により具体的に教える。これらはすべて天の父のみ旨がいかなるものであるかを教えるものであると同時に、それは話者であり媒介者であるイエスとの信頼関係の醸成を目的としている。それもすべて心魂の根底における「その通りです、本当です(ita est, verum est)」という承認と同意そして信頼が問われている。その意味ではどこまでもイエスと聴衆者の一対一の関係が基本である。この点について譬え話が著しい役割を発揮する。

 

1.1.3 イエスの自己言及と天と地の連続と断絶

 神の(2)憐れみは善人にも悪人にも等しく太陽を昇らせ雨を降らせ自然の恵みに与らせてくださる自然事象を介して確認される(Mat.5:45,6:25-26)。人間がこのような生物的与件を持ち宇宙や神について考察することができること、愛することができること、これは自然を介した神の憐れみに他ならない。天の父の憐みは天地の連続性の前提のもとに地の上のホモサピエンスに種として等しく注がれる。他方、イエスは地上の(3)譬え話により天国がどのようなものであるかを語る。それは天と地の分け隔ての前提のもとに架橋を企てる試みである。イエスは、自ら語る譬えは憐まれていることの自覚のなかで聞き理解する者と聞いてもこの憐みを悟らない者を判別する機能を持つとする。同時に譬えは叱責や警告をも発しまた含意しており悔い改めに導く機能を有している。

 福音書はこう報告する。「イエスは弟子たちに言った。「君たちには神の国の奥義が授けられているが、外側のかの者たちにはあらゆるものごとは譬え話のなかで明らかになる」(Mak.4:10)。彼は平行箇所でこう語る、「君たちに天の国の奥義を知ることが授けられているが、かの者たちには授けられていない。というのも、誰であれ(hostis)持っている者は、その者には与えられるであろうそしていや増し与えられるが、誰であれ持っていない者には、持っているものをもその者から取り去られるであろうからである。このことの故に、私は彼らに譬えにおいて語る、というのも、彼らは「見るけれども見ず、また聞くけれども聞かずそして理解しない」からである」」(Mat.13:11-13)。

 ここで「奥義」とはイエスがメシアであること、そして復活の勝利により彼の言行の一切が明らかになったときに回顧的に語られている(1)自己完結的な福音への「自己言及」のことが含意されていよう。なお神を愛しそこに心のある者は天の国に関するものごとの知識や恩恵がいや増し加えられるであろう。他方、この世に価値を置く者は「たとえ全世界を獲得しても」天国に関連するものごとは持っているものまで取り去られていくことであろう(Mat.16:26,cf.21:43)。

 福音が究極規準となり次の(4)一般的な倫理的原則が語られ秩序づけられる。「君の宝のある所、そこに君の心もある」(Mat.6:21)。福音を宝としない者はそれを獲得することはないであろう。ひとが価値を置くもの、そのものが規準となりものごとを量り、計測しまた審判しつつ量られ、計測され、審判されることになろう。「君たちは裁くな、それは君たちが裁かれないためである。君たちが量るその量りにおいて量られるであろう、君たちが計測するその計測器において君たちが計測されるであろう」(Mat.7:1-2)。これらは一般的な倫理基準であるが、これらが福音の自己言及に秩序づけられるとき、宝、量り、計測器はキリストとなる。そのとき、その価値を置くキリストによりものごとを量り、計測することになる。

 ただし裁くことはキリスト自身なさなかったことであり、キリストを自ら裁くときの規準とすることはできない。彼は業の律法を乗り越え信の律法を打ち立てたひとであり、律法の冠である愛は「愛を媒介にして働く信」(Gal.5:6)に転換されているからである。キリストが量りや計測器であるとき、たとえば「豚に真珠を与えるな」(7:6)はむしろ「豚には干し草を与えよ」となり、豚にとっての最善を識別することに向けられる。パウロは言う、「自ら識別するそのことがらにおいて、自らを裁かない者は祝福されている」(Rom.14:22)。ひとは善と悪、各人の実力などをその都度最善の行為を遂行すべく識別せざるを得ない。しかし、識別はキリストが規準である限り当事者の最善を願うことに基づいており、それは審判することではない。裁く者はモーセの業の律法の祝福と呪いのもとに、裁く者と裁かれる者たちのあいだで「同じことを行っている」つまり律法の枠のなかで生きている(Rom.2:3)。信の律法の啓示により人々は業の律法からの解放に導かれている。

 イエスは自らの復活のあと、エマオの途上において復活の主とは気づかなかった二人の弟子と共に歩きながら、真の預言者たちについて言う。「「ああ、預言者たちが語ったすべてのことを信じることに至らない、何という、愚かでその心鈍い者たち。キリスト[メシア]はこれらの苦しみを忍んでそして栄光に至るはずではなかったのか」。そして、イエスはモーセとすべての預言者から始めて聖書全体において(en pasais tais graphais)、ご自分について書かれていることを説明した」(Luk.24:25-27)。この自己言及は復活の勝利を挙げたからこそ語りうるものであった。そのことは、彼が信の従順の生の途上において天と地の媒介者である預言者と律法について三人称で語っていたものごとについて、イエス自ら言葉と行いにおいて偽りなく実現した後には、自らを指示している或いは自らとの関連において理解されるものとなったことを明らかにしている。

 天の父のみ旨を明らかにし語る者は実は自らについて語っている一種の自己言及であったことになるが、このような事態は先ず言葉と行いにおいて偽りのない者においてのみ語りうる言葉であった。「私についてモーセ律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は必ずすべて実現する」(Luk.24:44)という甦ったのちのイエスの発言は神の子に相応しい言葉であるが、何世紀をもかけて編集された書物が人類の歴史全体を見渡し全体として一人のひとの子にして神の子について記している。言ってみれば、人類の歴史の帰趨はイエス自身への信にかかっていると報告されている。この書物は二千年の歴史の審判を経ているが、おそらく人類史上現在にも後にも他にこのような言語使用を見出すことはできないであろう。

 なお福音書記者やパウロは宣教するイエスの言葉と働きを報告することを通じて宣教している。この宣教は間接的であり、種々の事実誤認の可能性は残る。しかし、神は人間の弱い言葉を介して伝達されることを許容している、つまり神が許容し認可しなければこのような形でさえ纏められることのなかったであろう書物が「聖書」であり、この意味においてそれは「神の言葉」である。イエスその人においては自らの使命の認識と遂行のあいだには乖離はないであろう。誰かがたとえそこに乖離がなくとも自己認識つまり神の子である者として聖書の預言通りの受難と復活を遂げるという自己認識に誤りがある、自己欺瞞であると主張するなら、それは彼の諸々の働きと復活によって反駁される。復活は神の専決行為だからであり、イエスに罪がなかったことの証だからである。

 甦ったキリストは聖書の預言を自己言及のもとにまとめる。「そして彼らに言った、「キリストは苦しみを受けそして死者たちのなかから三日目に復活する、そして[キリスト]自身の名においてすべての異邦人に罪の赦しへの悔い改めが、エルサレムから始めて、宣教される」と書いてある。君たちはその証人である」(Luk.24:44-48,cf.Act.17:2)。復活については数百人の証人が挙げられている(1Cor.15:6)。一切を創造し統べ治める神から派遣され永遠の生命を与える神の愛の体現者であるイエスの言動に関わる者は、宣教する者と宣教される者が同一人である彼の言葉を真理であると信じ神の子キリストであると受け入れるか、それとも拒否するかの態度決定が常に迫られている。これが彼の言葉の根源的な層である。神の前の言語網は自己完結的であり、その構成員は神に嘉みされた者たちである。

 パウロはこの福音の包括性をこう語る。「もし神がわれらの味方なら、誰がわれらの敵であるか。そもそもご自身の子を惜しまず、われらすべてのために彼を引き渡したその方が、いかに彼と共にあらゆるものをわれらに賜わらないということがあろうか。誰が神に選ばれた者たちを告発するのか。神が義とする方である。誰が罪に定めるのか。キリストは死んだ、いやむしろ甦り、神の右にある方であり、またわれらのために執り成したまう。誰がキリストの愛からわれらを引き離すであろうか。艱難か、災害か、迫害か、飢餓か、裸か、危険か、それとも剣か。まさにこう書いてある、「あなたの故にわれらは終日死に渡されています、われらは屠られる羊として認定されました」。しかし、われらはこれらすべてにおいてわれらを愛する方を介して勝ち得て余りある。というのも、死も生命も天使も支配者も現在あるものも来るべきものも諸力も、高きものも深きものも、他のどんな被造物も、われらの主キリスト・イエスにおける神の愛からわれらを引き離しうるものは何もないと私は確信するからである」(Rom.8:31-38)。

 パウロは御子を介した神の愛故に「われら」のことがらとして死や艱難いかなる苦境に対しても勝ち得て余りあることを確信している。もし偽りの預言者が現れ自らをそう主張したとして、その言動を疑い偽りと判断しそれを信ぜず無視する者は裏切ったことにはならない。そこに愛はないからである。イエスは自ら神の子であると信じ、父のみ旨に従いその言動に偽りがなく各人の罪の赦しのために生涯を捧げた。このパウロの確信のもとでは、この神の愛に対するひとの態度はこれを信じるのかそれとも神の愛を裏切るのかいずれかであって、信に関して態度を保留する中立的な立場は想定されていない。なぜかと言えば、父は自らの専決行為として御子と自らの信義そして愛の証に彼を甦らせたからであり、この大きな物語の外にいる、逃れうる場所を持つ者は誰もいないからである。換言すれば、各人はこの物語の登場人物であり、この物語は信の根源性のもとに語られ展開されており、受け入れない者は不信な者として裏切るそのようなものだからである。その確信の正しさは自らのあらゆる否定的な経験においても勝ち得て余りあるそのような喜びにより証明される。

 それ故にこそ福音とはあらゆる者に宣教されねばならないそのようなものである。「多くの偽預言者があらわれ、多くの者たちを惑わすであろう。不法がはびこる故に、多くの者たちの愛が冷やされるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶその者は救われるであろう。そして御国のこの福音はすべての居住地においてあらゆる異邦人に向けて証言(marturion)として宣べ伝えられるであろう、そして終わりが来る」(Mat.24:12-14)。イエスの福音の言葉はこの根源的な(1)自己言及の層を持ち、人間中心的に人間とその魂を普遍的に考察する(4)倫理学はこの層を持つことはできない。(1)自己言及の世界においてはイエスご自身が神の国を持ち運んでおり、その正しさを確認するためには単に言葉の上での理解のみではなく、信によってのみ神の子イエスと正しい交わりを持つそのような層である。自己言及が成立している層は父と子の贖いの協働行為によって開かれている自己完結的な神の前の層である。

 

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

夏の連続講義(その1):21世紀の宗教改革ーキリストの福音の独一性と普遍性の人文学的解明 —77箇条の提題要約―

(21世紀の宗教改革の主張とその人文学的基礎 —(その1)編集、録音し直し(2025.7.24))

                                                                                           千葉 惠

 夏の連続講義その(1)

 21世紀の宗教改革:キリストの福音の独一性と普遍性の人文学的解明 —77箇条の提題要約―

はじめに カトリックとプロテスタント和解の鍵発見

 0.1 神の知恵と認識

 なぜこの21世紀にあらためて宗教改革か?この77箇条の提題の提案者がだいそれたアドヴァルーンを自ら挙げたことに何か道理はあるのか?唯一その理由を挙げるとすれば、パウロ「ローマ書」の神学主張の中心箇所が二世紀の古ラテン語訳の「編集」である四世紀のヒエロニムスのVulgata版以来、「ローマ書」3章21―26節が誤訳されてきたことに求められる。とりわけ、「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者[と神が看做す]すべての者たちに明らかにされてしまっている」(3:21)に続くその理由文(3:22)は、神の前のことがら即ち神ご自身の理解として、「なぜなら[神の義とイエス・キリストの信のあいだに]分離がないからである」と訳されるべきであったが、例外なしに人の前のことがらとして人が持つ心的状態としての信仰をめぐって「なぜなら[信じる者すべてのあいだに]区別がないからである」と誤訳されてしまったことに求められる。

 ここでは神の義と信じる者の義認をめぐる神ご自身の「知恵と認識」(11:33)がパウロにより神の前のことがらとして報告されており、従来のように人の前のことがら例えば人が持つどの程度の信仰が神に義と看做されるか等の人の心的態勢は問題とされてはいない。「神の知恵と認識」は例えば「義」とは「罪」とはどのようなものであるかの一般的な認識であり、また「怒りの器」と「憐みの器」と特徴づけられるユダヤ人と異邦人の選びによる救いに至る知恵の教説である。これらは一般的な仕方で啓示の差し向け相手として三人称がパウロにより用いられており、匿名性ならびに普遍性が確保されている。

 神の啓示行為の特徴は神の前のことがらとして現在形が用いられ、神の義が今・ここにおいて「信」に対して知らされそして怒りが「不敬虔と不義」に知らしめられていることである。「神の義は彼において信に基づき信に対して啓示されている。・・なぜなら神の怒りが天から不義のうちに真理をはばむ人間たちのすべての不敬虔と不義のうえに啓示されているからである」(1:17-18)。怒りの啓示の報告は1:18-32において、義認の啓示の報告は1:17、3:21-26において見られる。二種類の報告は過去において生起したモーセ律法付与時の出来事とキリストの出来事が規準となっている。

 パウロはこれらの啓示の報告が旧約聖書を貫く一人の神の意志であることを証明するべく、「ローマ書」において「書(旧約)」を60回すべて肯定的に引用することにより基礎づけを遂行している。罪と義と選びをめぐるパウロの論証の箇所は「神の知恵と認識」や「知恵の説得的議論」と呼ばれ、具体的な個々人や「われら」のことがらではない(罪2:1-3:20、義4:1-25、選び9:6-11:35,11:33,1Cor.2:4)。これらの神の知恵や認識の報告の箇所は「聖霊」への言及が一切為されることはなく、肉の弱さのもとにある者への聖霊による執り成しは問題にされず、神の前のことがらとして神の知恵と認識が知らしめられている。

 「神の知恵と認識」は「霊の力能」の今・ここの働きを伝える箇所や「霊と力能の論証」と対比されている(15:19,1Cor.2:4、但し2か所の旧約本文の引用を除く(2:29=Jer.,4:4,11:8=Isa.,29:10))。これは彼の方法論的な明確な自覚のもとに遂行される。この方法論は「ロゴス(言葉・理)によってそしてエルゴン(今・ここの働き)によって」(Rom.15:18)という双方の分節と補完のもとにおける論証の展開のことである。

 この神の前のものごとを「肉の弱さ」(6:19)においてある「われら」のものごととすることが個々人の今・ここの課題となる(Rom.ch.5-9:5)。5章から9章5節においては聖霊の執り成しによる神の前と人の前の架橋がひたすら今・ここのことがらとして遂行されている。パウロは「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(14:22)と励ます。

 

0.2 神とイエスの協働行為に基づく神の義の専決的な啓示行為

 「ローマ書」の神の義をめぐる誤訳されてきたこの箇所(3:21-26)の啓示の報告において前提とされている神の人間認識は業のモーセ律法のもとに生きる者は誰であれ罪人であるというものである。神の怒りの議論の結論は「業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう、というのも律法を介した[神による]罪の認識があるからである」というものである(Rom.3:20)。神の義はモーセを介して与えられたが、人類における律法のもとでの罪の認識が神の義の新たな啓示の歴史的前提とされる。

 かくして、この前提のもとに人々の義認をもたらす喜ばしい福音としての神の義が新たに啓示されている。「しかし、今や、[業の]律法とは離れて」(3:21)、即ちモーセ律法の神の義とは分離されて、今や神の義は「イエス・キリストの信」とは「分離がない」仕方で信じると神が看做すすべての者に啓示されている。モーセの「業の律法」(3:27)とは別に、キリストの「信の律法」(3:27)がモーセ律法とは異なり神の義とは分離されない仕方で啓示されており、信の律法が神ご自身にとって業の律法よりもより根源的であることが知らされている。「天地が過ぎ去りゆくまで律法の一点一画とも廃棄されない」(Mat.5:18)とイエスにより語られるその業の律法は信の律法に秩序付けられるであろう。

 この啓示はナザレのイエスが受肉により人間の肉の弱さを引き受けわれらと同じ与件のもとに「神の子の信」(Gal.2:20)を抱きつつ神の前に生き、死に至るまで信の従順を貫いたことに基づく(Philip.2:6-9)。父なる神はその御子の信を嘉みし、「イエス・キリスト」をご自身の「現臨の座として差し出した」と報告されている(3:25)。

 この過去形で表現される歴史の一回的出来事を基礎に神はその都度の現在において神がその信仰を嘉みする者の義認を遂行している。この出来事は信に基づく義を知らしめる好機をもたらした。「神はご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて」(3:25-6)と差し出しの目的が記される。神の義は「イエス・キリストの」即ちイエス・キリストに帰属した「信を介して」、「信じる者[と神が看做す]すべての者」に啓示し知らしめられている。神はご自身の義を媒介者を用いて自らの専決行為(an exclusive act)として啓示しているが、その差し向け相手は「信じる者すべて」また「イエスの信に基づく者」(3:26)であり匿名性と普遍性を確保すべく三人称で表現されている。この専決行為が「神の知恵と認識」として神の前の整合的な言語網による理解を可能にする。

 パウロはその析出のために神の御子の呼称について工夫をこらしている。「イエス・キリスト」は尊称「キリスト」を伴うとき神の子にして人の子を表現しており、神の前と人の前の媒介者として用いられ、そこでは決して「イエス」(3:26)や「キリスト」(8:34 Nestle-Aland 28th [iesus])のように行為主体として用いられることはない。従って「イエス・キリストが~する」という行為主体を表現する主格的属格の解釈(彼が持った信仰)は否定される。なお人が自らの責任ある自由のもとに持つ信仰は啓示の媒介になりえないため目的的属格の解釈も否定される。ここでの属格「の」は帰属の属格(the genitive of belonging)である。

 その専決行為の基礎に人の前のナザレのイエスの信の生涯があり、それを父なる神が嘉みし十字架上のキリスト・イエスをご自身の「現臨の座として差し出した(aorist過去形)」(3:25)。この神が御子を「差し出した」相手は身代金を要求する罪に対してでも代償刑罰としてモーセ律法に対してではなく、「あらゆる者は罪をおかしたそして神の栄光を受けるに足らない」(3:23)とあるその「あらゆる者」即ち人類すべてに対してである。この過去形表現に見られる一つの出来事の報告において、イエスの信の従順の生涯は父がその十字架の死に臨在したことにより嘉みされたことを告げている。父と子の協働行為が信義の分離のなき神の義と神がその信仰を嘉みする者の義認の現在における神の専決的な啓示行為の基礎となっている。このようにイエスの最期はとりわけ明らかなこととして神とイエスの協働行為であった。それが現在形「啓示されている」により信に基づく義認が遂行される専決行為の前提とされている。現在、進行しつつあるこの二種類の知らしめは神の前の出来事である。

 信じる者と神が看做すすべての者へのこの福音の知らしめは子なるイエス・キリストを介した父なる神の専決的な啓示行為である。神はそこで「信の律法」(3:27)を立てたが、この神の義は、分離される「業の律法」(3:27)における神の義よりも、神ご自身にとっても人間にとってもより根源的な正義である。かくして、律法の「冠」(13:9)である神への愛と隣人への愛は信の律法のもとに変換され「愛を介して働いている信」が「力ある」ものとなる(Gal.5:6,Rom.5:8)。愛は「キリスト・イエスの憐みのうちにある」「義の果実」である(Phil.1:8-11)。信に基づく義、義に基づく愛への新しい道がイエス・キリストの信を介して開かれた。

 山上の説教において信を根底とする信の律法のもとに「裁くな」が直截に命じられることになる(Mat.7:1,Rom.2:1)。ひとが自分たちのあいだで審判しあうことは「業の律法」の枠のなかで生きるという意味において「同じことをしている」(Rom.2:1)ことになる。「豚に真珠を与えるな」という山上の説教の言葉は裁きの言葉ではなく、「識別するそのことがらにおいて自らを裁かない者は祝福されている」(14:22)とあるように、豚の最善を識別する者は「真珠を与えるな、干し草を与えよ」というものとなる。信の律法のもとでは業の律法のもとでの審判から解放されており、「愛を介して働いている信」のもとに最善の行為選択肢の識別に向かう。

 パウロはこの業の律法からの解放をこう語る。「今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が君を罪と死の律法から解放した」(8:2)。また彼は「キリストはわれらを律法の呪いから贖いだした」(Gal.3:13)と語り、裁くことはそこから解放され贖われたはずの業の律法のもとに生きることとなり、「再び奴隷の軛」に繋がれ「罪の奴隷」になることに他ならない(Gal.5:1,Rom.6:20)。或いは例えば、自ら信仰を持つことは神を利用するエゴイズムではないかという懐疑は「貪るな」というモーセの十戒の枠のなかで信仰を捉えることであり、やはり業の律法に取り込まれているからこその懐疑である(Rom.7:7)。「信じない者ではなく信じる者となりなさい」(John.20:27)、「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と命じられるとき、神が父と子の協働行為のもとに為し遂げた「キリストの愛」(8:35)、「神の福音」(1:1)の恩恵に眼差しをむけさせ、そこにこそ新たな時代を作る力があると告げられている。この福音のダイナミズムこそ21世紀の宗教改革を推進する力である。

 

0.3 神の前と人の前の分節と総合

 この発見はカトリックとプロテスタント和解の鍵を見出したことに他ならないと思われる。トマス・アクィナスの神学体系に基礎を置くカトリック教会は神の前と人の前を分け、アリストテレス倫理学の相対的自律性のもとに聖人に至るまでの人格的有徳性の蓄積を認め、神と人間の関わりを説明する総合的かつ包括的な思想体系の構築に勤めた。確かに、責任ある自由のもとにある人間を前提にする限り、人間的には有徳な者や悪徳な者がいるということを到底否定できず、地に足の着いた天的なものへの架橋は不可欠なことであり、それ自身恩恵のもとにあると理解することは神が宇宙と人間の創造者にして統帥者である限りにおいて道理あることである。

 他方、プロテスタントは神の前と人の前を媒介するイエス・キリストの信の根源性に集中し、ルターは「信じることは神の働きである」即ち信じせしめられることであるとし、神の前と人の前が常にキリストのまた聖霊の媒介行為により繋がれていると主張する。またカルヴァンは神の恩恵の働きである義認と人の人格的な成長である聖化を分離することを「あたかもキリストを引き裂くことだ(quasi Christum discerpere)」と主張した。

 プロテスタントはその都度信じることは信じせしめられることであると主張し神の前と人の前を分けないことこそが神の福音であると主張する。パウロはキリストの信の根源性とキリストによる今・ここの媒介を「ガラテア書」においてこう語っている。「私は神によって生きるために、[信の]律法を介して[業の]律法に死んだ。私はキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはや私は生きてはいない、キリストが私のうちに生きている」(Gal.2:19-20)。

 プロテスタントは純福音が散逸している当時の歴史の趨勢の中でキリストの福音に集中を余儀なくされたのであった。他の仕方での神へのアクセスは「神の恩恵を無視する」ことになる、そこでは「キリストは空しく死んだ」ことになる(Gal.2:21)。確かに、信じるとは今・ここでキリストを介して神に愛されていることを信じることである限りにおいて、プロテスタントが今・ここで執り成しの働きにおいてあるイエス・キリストと聖霊の媒介にその都度集中することは正しいことであると思われる。生きるとは神の前に生きることに他ならず、神の前はキリストを介して最も明確に開かれたからである。

 カトリックとプロテスタント双方の和解は普遍的な理論(ロゴス)上の神の前と人の前の分節と個別的な今・ここの働き(エルゴン)上の不分離がイエスやパウロの「言葉と働き」に見いだされる限り、双方は和解しうると思われる。双方ともパウロの神学の中心的教理を展開する当該箇所(3:21-26)をVulgata翻訳以降の一様の誤訳の故に適切に神の前の事態、即ち神ご自身による「神の知恵と認識」(Rom.11:33)を析出することに失敗し、それが単に所謂信仰義認論のみならず神の前と人の前の分節と総合をめぐる双方の理解の齟齬を大きなものにしたと思われる。当該箇所が信義不分離をめぐる「神の知恵と認識」のパウロによる一般的な報告であったことが解明されるとき、これまでの双方の人間観の理解の異なりや齟齬を神による人間「認識」との関係において明確に提示できることになろう。

 一方、聖書においてはロゴスとエルゴンを媒介するものは、人が語りうる究極の言葉である山上の説教とその働きのあいだに乖離がなかったナザレのイエスの信の従順である。イエスの信の従順は神の前で神によりご自身の義と不分離なものとして嘉みされ、信に基づく義が信じる者すべてへの神の前における義認の普遍的なロゴスとして適用されるに至っている。アリストテレスによれば哲学においては秩序ある働きを観察することができる限り、ロゴスは何等かエルゴンに内在しており、或いは個々のエルゴンから秩序ある普遍的なロゴスを析出することができる。そのロゴスとエルゴン双方を媒介している存在様式は「統率的に一であること」を意味する「完成(entelecheia)」であると語られる。哲学においては双方の媒介は成功した視点から語られている。

 

0.4 神を愛する者と真理を愛する者の和解

 21世紀の宗教改革においては人間本性の解明をめぐる人類の知的そして人格的な歴史の蓄積を踏まえ、神を愛する者と真理を真理それ自身のために愛する者双方が同意しあい協調しあうものである限りにおいて、力ある仕方で遂行されるであろう。キリストへの集中は宇宙に秩序をもたらすロゴスの真理への探究と共鳴和合するものであり、キリストによる救いの探求と秩序ある存在の様式である完成への探求とはロゴスの真理への信によりまたエルゴンの証の蓄積により相補的、補完的なものとなり説得力を増すであろう。パウロはキリストが自らの内に生きており、自らのロゴスとエルゴンの媒介者であると主張する。その媒介者キリストが存在論的には完成という存在様式においてあるロゴスである限りにおいて、福音の真理はすべてのひとに妥当する真理となるであろう。

 パウロが「福音」とは「[君たちと]共に与る」べき何ものかであると語る時、福音は父と子の協働行為により自己完結的なものとして提示されている(1Cor.9:23,cf.1:11)。ひとはただそれに与ることが求められている。神の前ではその信義不分離の啓示のもと予め憐みの器として選ばれたというその信仰が嘉みされるすべての者は義と看做されている。「神の知恵と認識」を伝える福音の言葉とそれによる相対的自律性のもとにある人間の知的、人格的営みの秩序づけ、それへの収斂にむけて、その解明の出発としてとりわけアリストテレスを参照しつつこれまでの人文諸学の知見を生かし、文学や歴史学、倫理学、哲学そして神学等の理性の導きにより人の前の人間認識と神の前の人間認識の関係を開示すべくナザレのイエスをめぐりその媒介性の探求を遂行したい。

 そこで問われるものはイエスの独一性と普遍性である。例えば、真実者であるイエスについての人格的真理論はアリストテレスにおける認知的徳と人格的徳の「軛に繋がれている」その媒介者である実践知者との共通性が見られる。この真実者としての「真理」論は「判断」や「信念」そして「知識」と関連づけられるが、ここでもパウロがアリストテレスと共通の理解のもとに展開していることが指摘される。

 イエスの四種類の言葉があり、そこでは宣教する者と宣教される者が同一者である自己言及が規準となり、その関連で天から地への連続的な憐みと罪による断絶のもと譬えや励ましによるその架橋さらには一般的な倫理的命題の秩序づけが遂行されている。これは救いを中心にする文学の筋立ての枠のなかで秩序づけが遂行される。運動のより先とより後の数である連続的な物理的時間のもとに年表的に提示される年代記(chronology)は一つの均質な運動としての時間のもとにある。他方、感情の文法の分析によれば最も現在的な感情である喜びは、過去や未来による現在の支配と異なり、時との和解を実現しており、永遠との関連においてのみ語られてきた愛が放物線が接戦に触れるように好機(chairos)として訪れる。歴史叙述(historiography)はカイロスをも視野にいれた物語を構成する。そのさい物語はその筋立てを救いとの関係において起こったことの記述だけではなく起こりうることをも普遍的な仕方で取り入れた語りとなる。

 21世紀の宗教改革は、宗教改革の名に値するためには、詩人が「地の果てまで戦いを絶ち、弓を砕き、槍を折り、盾を焼き払われる。力を捨てよ、知れ私は神」(Ps.46:10-11)と力強く歌うように、今日まで続く理論上の争いをやめさせることをまずその目標とする。ただそれだけではなく、ナザレのイエスはガリラヤの野辺を歩きながら「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」(Mac.1:15)と語り、「神の子の信によって」(Gal.2:20)死に至るまで信の従順を貫き、人間は誰であれ「天の父の子となる」(Mat.5:43)ことがその本来性であると宣教した。この運動は言葉と働きにおいて神の国を自ら持ち運んだイエスの御跡に従い、福音がユダヤ人のみならず異邦人にも人間の本来性を伝え生命を持ち運ぶものとなるその一助となることを使命とするものである。

 

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

21世紀の宗教改革:福音への帰還と福音の真理への与り

第二回大頭研究会要旨 「21世紀の宗教改革:福音への帰還と「福音の真理」への与り―福音は決して手垢で汚せない!―」 2025.1.15

オンラインにて視聴いただけます。

主にある友へ、
 早くも1月の後半に差し掛かっています。続いてお元気でお励みのことと思います。こちらはロス郊外の大火事と世界の動きで落ち着かない中にいますが、守られています。
 1月15日に持たれた「千葉先生を囲んでーその2」の動画YouTubeと要旨をお送りいたします。要旨は77条にわたる「21世紀の新しい宗教改革」に至る経緯を含めて記されていて、動画でその流れを追うことができますので、是非ご覧ください。
 なお「千葉先生を囲んでーその3」を4月9日(水)午後1時半から3時までで予定しています。講義内容と資料は後ほどお送りいたします。
 皆様の続いてのお働きと歩みの上に豊かな祝福をお祈りいたします。上沼昌雄

https://youtu.be/pnIxuW8vOlo

 〇宗教改革の sine qua non (不可欠条件)

 懐疑と信仰の循環の自己食尽に打ち勝つには探求によって得られる「キリスト・イエスの認識の卓越」とそれに伴う「内なる人間」の刷新による「変身」がキリストに似た者となるべく不可欠であるということ。

 一同が「福音の真理」の新しい読みに心から納得して、福音の喜びにあふれていること。

 その喜びの福音を異邦人の言語(英語)にして広く普及させること。

〇人類は一回限りの歴史を辿っている。16世紀の宗教改革はその後の歴史形成に大きな影響を与えた。21世紀の宗教改革は福音への帰還を通じてまたその真理に与(あずか)り、あらゆる実り豊かな行為においては心魂の根源において疑いなき幼子の信が生起することが求められていること、そこに喜びが伴うことを伝える。また知性において躓きにある人々に福音が理に適うものであること、誤訳が正された時、どれだけの知的解放が得られるかを伝える。信の哲学は一般的に心魂における信の根源性を開示し神学の基礎を与える(クレメンス引用)。また福音が健全なものであることの証として、正しい信仰は愛を生みだすものであるが故に、信じる者はその正しさの証として隣人愛に向かう(Luk.7:47)。キリスト教会内の目標としてカトリックとプロテスタントの和解に心がける。ひいては歴史の平和的形成に貢献することもあるであろう。

「主の到来以前には哲学はギリシャ人にとって義のために必然であった。・・主がギリシャ人を召されるようになるまで、哲学はギリシャ人に直接に、根源的なものとして与えられていたに違いない。なぜなら、ちょうど律法がヘブライ人をキリストに導いたように、哲学は「ギリシャ人の精神」をキリストに導く「教師」であったからだ。つまり、哲学はキリストにおける完成への道を整える手段であった」(アレクサンドリアのクレメンス 2世紀前半)。

 

  → パウロは主の年一世紀における(旧約)聖書学者であり同時にギリシャ哲学者であった。「主の到来」によりパウロは「キリストにおける完成」を理解する哲学的基盤を与えるものとなった。「福音は人間に即したものではない」その「福音の真理」は人々の間に留まり、分かち合われる(Gal.1;11,2:5)。

 

「先に伝えたように、今私は再び言います、もし誰か君たちが受け取ったものとは異なる福音を宣べ伝える者があれば、呪われてあれ。というのも、私は人々を説得しているのかそれとも[誤った福音により]神を説得しているのか、或いは、私は[神ではなく]人々によって喜ばれることを求めているのか、ということだからです。もし私が人々を喜ばせようとしてきたなら、私はキリストの奴隷ではなかったことになります。というのも、今私は君たちに知らせるからです、私によって伝えられているその福音は人間に即したものではありません、というのも私はその福音を人々から受け取ったものでもまた教えられたものでもなく、むしろイエス・キリストの啓示を介してのものだからです。というのも、君たちは私がユダヤ教にあったときの私の回心を聞きました、すなわち私は度を越えて神の教会を迫害しそして破壊したからです、・・。2:4ひそかに入り込んだ偽兄弟の故に、彼らが誰であれキリスト・イエスにおいてわれらが持ったわれらの自由を偵察すべく忍び込んだのです。われらはひと時も彼らに従属し譲歩しませんでした、それは福音の真理が君たちに留まるためです」(Gal.1:9-2:5)。

 

〇キリストを知ることそして彼の復活の力に与ることの絶大な価値を知ることが宗教改革の目標となる。

 

「私は熱心に関して教会を迫害する者であり、律法における義に関しては落ち度なき者となりました。しかし、私はキリストの故に私にとって何であれ利得であったものごと、これらを損失であると思うにいたっています。しかしまことにその上むしろ(menoun ge, yea rather)、私はわが主キリスト・イエスの認識の卓越していることの故に、あらゆるものごとを損失であると思っています、なおその彼の故に私はあらゆるものごとを失い損しましたが、私はそれらを塵芥(ちりあくた・排泄物)であると思っています。それは律法に基づくわが義ではなく、キリストの信を介した、その信の上の神からの義を持つことによって、彼を獲得するにいたるためでありまた彼ご自身のうちに私が見いだされるためです、その結果、 [キリスト]ご自身とご自身の復活の力能を知ることになります、そしてご自身の死と同じ形姿の者となることによって、ご自身の諸々の受難への共同の与りを知ることになります、もしいかにかして死者たちのなからの復活に到達するのなら」(Phili.3:6-11)。

〇わたしたち誰もが同意できることがある。パウロはここにいる誰よりも神についてその認識、行為をより良く知っている。なぜなら、あまりにも理解しがたき文章の連続であるが、少しずつ理解するにつれ、もっと理解したいと思うそのような議論が展開されているからである。そして人類はこの書簡とその神学理論のもとにあるイエスのエルゴンが報告されている福音書を最も多く読み、愛しまたこだわり続けてきたからである。「ローマ書」における彼の主張の一つは生身の自己(C)と罪の癒着さらには義との癒着を解くことであり、「神の前の自己完結性」と「ひとの前の相対的自律性」の言語網を展開することにあった。神の前の自己完結性の言語網は神になりかわって、神の福音を報告する大胆な行為である。彼は「或る部分より一層大胆に書いた」と言っている。神の前と人の前の分節故にこそ、聖霊の執り成しの働きまた罪との癒着も明瞭なものとなる。

それ故に、これは探求を促すのであって、彼を信じ教師である彼の教えを鵜呑みにすること(洗脳されること)ではない。信仰という自らの意識のなかに彼の教えを閉じ込めることでもない。そこには必然的に解釈学的循環が生じる。パウロ自身言う、「ああ深いかな神の知恵と認識の富とは」。パウロと共に「叡知の刷新」(Rom.12:2)により神について探求する。「後ろのおのごとを忘れつつ、先のものごとに体を伸ばしつつ、キリスト・イエスにある神の上からの召しの褒美を追い求める」。

神ご自身の認識や判断をパウロは報告しており、神の前の言語に習熟する必要がある。われらが人間中心的に考えるものとは異なる壮大なる計画のもとにおける救済の行為の報告がパウロにより展開されている。「主は言う、わが思いは君たちの思いと異なり、わが道は君たちの道と異なれり。天の地より高きが如く、わが道は君たちの道よりも高く、わが思いは君たちの思いよりも高し」(Isaiah.55:8-9)。パウロによれば、われらが信じることの喜びにおいてないのは、それは「叡知の機能不全」(Rom.1:28)のゆえに、罪に引き渡されてしまっており、神の憐れみの思いを知ることができないためである。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)。

ひとは問うでもあろう。神の言語網に習熟すると言っても、それは人間の言葉で理解する限りの神の認識や判断の報告となる、と。人は自らの意識の外にでることはできず、神の前のことがらをそれ自身として析出することは不可能であり、それは思い込みとしての信じ込みによってしか、神の言葉として祭りあげられないのではないか?さしあたり、これに対しては「神の語りの言葉はユダヤ人に信任された」(Rom.3:2)のであり、人間の言葉でなければ、異言になってしまうであろうと応えることができる。神は人間の弱い言葉によりご自身のことが伝達されることを許容したのである。

さらに、この意識内の自己食尽から逃れるには、実在論のもと、知識を求める探求が不可欠となる。神の前の自己完結的な整合的な言語網の解明は第一段階のロギコス意味論の解明である(logikos「いかに語るべきか?(pos dei legein)」という問のもとでの矛盾律に基づく言語の規範的な使用)。それをもとに、その指示が届くものとして意図された対象が存在するか、即ち働きにおいてあるかを知ることへと向かう。ものごとはそれ自身の理(ロゴス)を持ち、それが働きにおいてあることを掴むとき、それは意識内のことがらではなくものごとの認識である。ものごとの理を心魂の最善のロゴス(言葉)は掴むことができる。心魂の言語網内における整合説の真理は心魂とものごとの対応説の真理の基礎である。

〇探求とその方向

パウロは自らの責任ある自由において、聖霊を今・ここで注がれているという自覚のもとにキリストの執り成しの言葉と働きを語る。一方で直接的な聖霊への言及のなかで、肉の弱さにおいてあるわれらへの具体的な今・ここにおける執り成しの働きを報告している(Rom.5-9:6)。これは「霊と力能の論証」と呼ばれる(1Cor.2:4)。

他方で、聖霊への言及なしに、彼は神の前の二種類の啓示の言葉を報告している。彼が言葉を語りだす現場はイエス・キリストにある神の啓示行為に眼差しを注ぎつつ、またもう一つの神の啓示行為であるモーセに律法を授けた状況に眼差しを注ぎつつ、言葉を紡いでいる。なおモーセ律法は福音に秩序づけられるものとして位置づけられている。「キリストが信じる者すべてにとって義に至る律法の目指すものである」(Rom.10:4)。パウロはこのように聖霊への言及なしに神の前の信義をめぐる神の知恵とその働きを報告する(Rom.1:17-4:24,9:6-11:36)。

これは「知恵の説得的議論」(1Cor.2:4)と呼ばれる。「ああ深いかな神の知恵と認識の富とは。ご自身の裁きはいかに究めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。「誰か主の叡知を知っていたのか」」(Rom.11:33)。「「誰が主の叡知を知っていたか、ご自身を吟味するのか」。しかしわれらはキリストの叡知を持っている」(1Cor.2:16)。パウロは神の意志をキリストを介して知ることができると主張する(Rom.12:1-2)。パウロは自らの言葉を彼自身の内側のロゴス(神の言葉としてのキリスト)が働きにおいてあるものとして表現している。神の知恵はご自身の信義の媒介であるキリストを介して啓示されており、キリストの叡知の発動を受け取ることにより知ることができる。一方で父と子の協働による神の啓示行為があり、それは十字架と復活に至る信の生涯を通じて啓示されており、他方、生前のイエスが「われは汝らを残して孤児とはせず」、「助け主を送る」(John.14:16.18)と約束したように、聖霊が派遣される。それはわれらの心魂の内奥において呻きをもって、懐疑からの即ち罪からの解放を促している、「あの二千年前の十字架の死はおまえの「古き人間が共に磔られ死んだ」と神が理解していたまう」、と。「信じます、信なきわれを憐みたまえ」。罪の欺きはここにも潜む、「本当に神は、聖霊はそう言ったのか」と。ひとはどこまでも罪と癒着する。生ける清い神の前にでないでよいとするアリバイを工作する。人生に誠実であろうとすれば、少なくともこう語りうる、「真理のみに従って生きていこう、真理の探究だ」、と。

 

〇 パウロの実在論

われらは実在論の立場に立つべきである。実在論とは世界はそれ自身独立に自らのロゴス(理)を持つ或いはそれにより構成されており、人間の最善の理論(ロゴス)はその世界の理(ロゴス)を開示できる、真理を把握できるというものである。それは探求論として「名前(句)は何を意味表示するか?」即ち「語られているもの(例えば「神」)は何であるか?(ti to legomenon esti;)」(アリストテレス)という言語次元における意味の把握に始まる。「神」という語句は「それより先の存在者がない根源的存在者であり、宇宙を理のもとに創造するもの」の如き、探求の始点と方向を提供する。提示された名前や語句の意味は現用言語の網の目のなかで理解され、そして探求の方向を定める。書かれたものに他ならない聖書も一つの現用言語として、「神」の語の意味の理解に貢献する。そこから探求が始まる。(リクールはまず聖書が真であると信じなければ理解できないというが、必ずしもそうではない。書かれたものとしてその語句の意味連関の解明に従事することは聖書が神の言葉であるとも真理を告げているとも信じることなしにも理解できる。これが信じる者にも信じない者にも分かち合える共約的な言語の意味の理解を提供する)。

続いて、その名前により指示されるものが「存在するか?」そして存在の発見は存在だけを発見するということはなく、その自体的また付帯的属性の把握を介してその存在が知られる(例えば「アブラハム、イサク、ヤコブの神」)。その存在の知識に基づきその名前が意味表示しその存在が確認されたところの本質即ちそのもの自体は「何であるか?」が探求される(例えば「神は全知全能でありまた愛である」)。

アリストテレスは問う、「われらは或るものどもについては[事実(SはPである)から理拠(なぜSはPか)とは]別の仕方で探求する。例えば「ケンタウロス或いは神は存在するか或いは否か?私は「Sは存在するか或いは否か?」を端的な仕方[Sのみの表示]で語っている。・・存在することを知って、われらは「何であるか?」を探求する、「神は何であるか?或いは人間は何であるか?」(An.Post.II1.89b31-35)。

発見的探求論においては、パウロによれば天使や擬人化される罪はリアルに存在するものとして発見されており通常幸運や不運に帰してしまうものを乗り越え、神の意図を探求する。探求の第一段階にある初心者はパウロのその主張を言語次元のみにおいて整合的であるかを吟味する。そのことは許容されている。「信じることのなかったその方にいかにひとびとは呼びかけるであろうか。聴くことのなかったその方をいかに彼らは信じるであろうか。しかし、宣教する者なしにいかに彼らは聞くのであろうか。しかし、遣わされなかったなら、いかにひとびとは宣教するのであろうか。まさにこう書いてある、「いかに麗しいことか、よきことを告げる者たちの足は」(Rom.1014-15 神による召し→宣教→聴く→信じる→呼びかける。「信じます、信なきわれを憐みたまえ」)。

神の予定は、パウロと同朋が「われらは知っている、神を愛する者たちには、計画に即して召し出された者たちには、あらゆるものごとが善きことへと協働することを」(Rom.8:28)という知識主張の理由として挙げられている。「なぜなら、ご自身は予め知っていた者たちを、御子自身が多くの兄弟のなかの長子となるべく、ご自身の子の形姿に合致した形姿として予め定められたからである」(8:29)。永遠の現在のうちにいる神の前ではわれらが明日何をするかまで明らかであるが、神の認識や意志(例えば予定)は個々人にはイエス・キリストにおけるほど明晰には知らされてはいない。かくして、「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の出来事を自らのこととして信じることは常に実質的であり続ける。

〇 解釈学的循環

 ルター「全聖書がキリストを示し、またパウロがキリスト以外のことは何も知ろうとしなかったので(1Cor.2:2)、全聖書がキリストを説き進めているかどうかを検討するとき、聖書が聖書の解釈者である(scriptura scripturae interpres)という言葉はあらゆる文書を判別する真の規準となる」。(cf.W.A.7.97.21ff scriptura..sit ipsa per sese certissima, facilicima, apertisima, sui ipsius interpres, omnium omnia probans, iudicans et illuminans (聖書は自らによりそれ自身最も確実であり、明らかなものであろう、あらゆる文章があらゆる文章について証明し、判断しまた照明しつつ)。

 真の聖書の著者は聖霊であり、真の聖書の読者は聖霊である。究極的な循環ないし、自己完結。これは神の前の出来事としてありうることである。そしてそれを人の前のこととして肉の弱さを助ける聖霊が主導権を握るとき、そこではもはや一人芝居self-contained playになっている。循環がそこでは生じる。

  「神の言葉は真理である」。「何故か?」。「神は聖書において聖霊を通じて語っており、書かれたものとしての聖書は聖霊を介して読まれるとき、その真理を把握するからである」。神の前の言語はこのように振る舞うでもあろう。ルイス・キャロルの「アリスの不思議な冒険」に登場するハンプティダンプティが「語句の意味は吾輩がそのように意味すると定めたころのものである」と主張する。これは「神」の定義上、万物の創始者にしてそれより先行する存在者がなく、それより先行する言語もない存在者については「神」が語句の意味を決めるそのような仕方で語句の意味は定まるであろう。

ルターが強調する正しい聖書の理解をもたらす聖霊はその著者でありその読者でもあり、そこには究極の同語反復ないし循環が成立することであろう。これは神がそのように定めた場合には、被造物においてもそれは妥当するでもあろう。「人間よ、神に言い逆らう汝はいったい何者か?」(Rom.9:20)。

これは真理でもあろうが、神の前における神と聖霊と神の言葉としての聖書のあいだの相互関係が報告されており、肉においてある生身の人間はそれをその都度信じるよう促されている。その意味で信じることに神の前の出来事が吸収され、還元されてしまう。信仰の自己食尽がそこに始まる。 この循環を切断するには、神の前と人の前を分節し、そのうえで相互の関わりを明晰に秩序づけることに求められる。

〇パウロはその方法論をこう語っている。

「わたしは、神からわたしに賜った恩恵故に神の福音に仕えつつ、わたしがキリスト・イエスの異邦人への宣教者であるべく、君たちが思い返せるように君たちに或る部分より一層大胆に書いた。それは異邦人たちの献身が聖霊のうちに聖められ受け入れられるものとなるためである。かくして、わたしは、神に向かうものごとに関して、キリスト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:15-18 tolmesō (1st. sing. aor.subj. tolmeō) 「あえて語る」、「或る部分(=神ご自身の認識と働きのパウロによる報告の部分)」=1:17,3:21-4:25(信に基づく義(神の啓示行為の報告1:17,3:21-26))、1:18-32(業に基づく者への神の怒りの啓示行為の報告)、9:6-11:36(選びの神の知恵):cf.「知恵の説得的議論」(1Cor.2:4)、「互いに教えあう力ある者たち(Rom.15:14)」)。

 キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはない。この「語る」は人間中心的なC次元におけるパウロの責任ある自由のもとでの言葉である、ただし彼の自覚としては 「キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって」即ち、キリストが私を介して言葉により語っており、また私を介して働いているという自覚のもとにあった(cf.「われらの福音は君たちにロゴスにおいてのみ(en logoi monon)生じたのではなく、[神の]力能においてそして聖霊においてそして完全な確かさにおいて生じた」(1Thesa.1:4)。ここでも言葉は聖霊の働きとは分節されている)。

聖霊の執り成しにおける語りと働きはD次元のものである。これを記号化すると、and/or となる。アンドスラッシュオアをパウロは肉の弱さのゆえに譲歩として許容している。「私は君たちの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(6:19)。自覚としては聖霊の媒介のもとで語っているLogD(&)LogC(a-in C)が、人間が受け止めたものである神の前(a-in C)を人間中心的な語りとして自己責任で語っている(LogD(or)LogC(a-in C))。この双方の可能性を表現するものが&/orである: LogD(&/or)LogC(a-in C)。なお今・ここの語りはエルゴン(Er.)であるが、それを一般化するならロゴス(Log)である。

 人間中心的な語り即ち人間的な現用言語の枠のなかで名前の語句の意味の理解を探求の第一段階とする。そこではパウロが言葉を紡ぎだす際の指示上の意図を括弧にいれ、テクストを書かれたものとして受け止め、人称や時制や法等その文法の分析および特徴ある文体の析出さらに文やそれを構成する単語の関連の分析を通じて語彙の意味の理解に従事する。

「聖書」は生きて働いているでもあろうが、書かれた文書に他ならない。人間によって書かれたものは文字の集積であり、それは他の関連語と一つの言語網を形成する。名前や語句等文字の意味はその書かれたものの構成員との関係により理解される。「聖書」は実際に生きた神の言葉であるかを括弧にいれ、文字の集積のなかで例えば「神の言葉」は「ユダヤ人」との連関に置かれる。「神の語りの言葉はユダヤ人に信任された」(Rom.3:2)。この発話は預言者やイエス、パウロのようなユダヤ人が神の言葉を責任を担って報告していることを伝えている。

これらの手法をもとに「ローマ書」全体の「ロギコス意味論」と呼ぶ分析のもとに五つの整合的な言語網を析出した。これらの層は例えば「神」、「イエス・キリスト」、「聖霊」そして「われら」や「彼ら」等の人称代名詞が動詞や前置詞を伴っての言語的な振る舞いの分析を介して析出される。この整合的な言語網はそれぞれ「文字的意味(sensus literalis)」を有しており、そのもとにパウロが意図している指示対象との今・ここの認識ないし出会いに向かう。ロゴスを介してのエルゴンによる対象の存在と本質の探求が始まる。

 この探求の過程は実在論のもと秩序づけられており、発見が成功した場合には聖霊や罪はわれらの外に働きにおいてある即ち実在していることを認識する。最善のロゴスはものごとそのもの、神の前の事実を捉えることができるであろう。「知恵はその諸々の働きからその正しさが証された」(Mat.11:19)。

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

クリスマスメッセージ・第一コリント13章

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

パウロの思考様式について―対話―

11月6日(水)大頭研究会

 『信の哲学』の骨子

                                千葉惠

対話を視聴できます。

https://www.youtube.com/watch?v=cDJU_Iwm0NM

主張 「神の前と人の前の分節とそのキリストによる媒介:ロゴス上の分離とエルゴン上の不分離」

モットー 1 パウロのテクストが立ち上がる現場に立ち会う (五つのボックスと一つの〇のロゴスとエルゴンにおける関わり 下巻 p.418「ローマ書におけるエルゴンとロゴスの相関図」添付)。

モットー2 福音はユダヤ人にもギリシア人(異邦人)にも等しく分かち合われ共約的に理解されうる。「一つの同じ霊がこれらすべてを働く、個々人に望むように分割しつつ。というのもまさに身体(からだ)は一つでありそして多くの部分を持つが、身体の部分すべてが多でありつつ一つであるように、キリストもまたこの仕方であるからである。というのもわれら皆は一つの霊において一つの身体へと潜浸させられたのであり、それがたとえユダヤ人であれギリシア人であれ、奴隷であれ、自由人であれ、そしてあらゆる者たちは一つの霊を飲んだからである」(1Cor.12:12-13)。

基礎テクスト:パウロの方法

 パウロは「ローマ書」における福音宣教を明確な方法的自覚のもとに遂行している。パウロは、彼自身の一般的な道理ある議論とその理に基づく働きはキリスト御自身のロゴスとエルゴンである、という自覚のもとにある。パウロによるキリストが自らのうちで働いていたまうという自覚は、パウロ自らひとの肉の弱さへの譲歩の故に信じる者にも信じない者にも理解できる共約的な地平で議論することと矛盾しない。福音の啓示の故に、われらの生は秩序のもとにある。

 〇「わたしは、神からわたしに賜った恩恵故に神の福音に仕えつつ、わたしがキリスト・イエスの異邦人への宣教者であるべく、君たちが思い返せるように君たちに或る部分より一層大胆に書いた。それは異邦人たちの献身が聖霊のうちに聖められ受け入れられるものとなるためである。かくして、わたしは、神に向かうものごとに関して、キリスト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:15-18 tolmesō (1st. sing. aor.subj. tolmeō) 「あえて語る」、「或る部分(=神ご自身の認識と働きのパウロによる報告の部分)」=1:17,3:21-4:25(信に基づく義(神の啓示行為の報告1:17,3:21-26))、1:18-32(業に基づく者への神の怒りの啓示行為の報告)、9:6-11:36(選びの神の知恵):cf.「知恵の説得的議論」(1Cor.2:4)、「互いに教えあう力ある者たち(Rom.15:14)」)。

 ロゴスとエルゴンはアリストテレスにより明確な理論化が提示されている(1オクターブの調和音は1対2の弦の比(ロゴス)が空気を振動させ今・ここで働く、とは言え素材である空気が比を保持できなくなると、その複合的な働きは止む、ただし理はそのままロゴス上理(1対2)である。遺伝子のロゴスとそのコピーのエルゴン等)。これらは伝統的に対で用いられ、福音書にも多く見られる。「この方[ナザレのイエス]はロゴスとエルゴンにおいて神の前でそしてすべての民の前で力ある預言者となられた」(Luk.24:19)。

 J.エレミアスは言う。「聖書的空間においては、神の霊が自らを顕す時には常にそれは二通りの仕方をとる。即ち「働きと言葉において(en ergō kai logō)」である(Luk.24:19,IThesa.1:5 等多数)。この両者は互いに分かちがたく(unloslich)共存している。働きの伴わない言葉はなく、告知する言葉の欠けた働きもない。イエスの場合も然りであり、その最終的な啓示は二通りの仕方で、即ち力ある働き(本書10節)と力を与える言葉(本書11-12節)において自らを明らかにする(Mat.11:5ff)」『イエスの宣教』(S.89,161)。

(エレミアスが「常に」これら二つの様式の相補性のもとに霊的な啓示が歴史に刻まれているとすることはまことに適切であるが、史的イエスの研究をより包括的なロゴスとエルゴンの相補性のもとに遂行する。イエスの霊的な言葉と働きは一つの今・ここのエルゴンであり、パウロ神学はそのロゴスであるという立場から、「パウロのロゴスが真であるなら、イエスの言行はこのようなものであったに違いない」というエルゴンに対するロゴス上の要請を提示し、それに最も近似な福音書の報告をイエスの今・ここの働きの近似なものであったに違いないと論じる)。

1循環論証をめぐって

 プロテスタントの中心的使信は神の前とひとの前を分けない思考様式から導かれる。

「神の前と人の前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」(カルヴァン)。「信じることは信じせしめられることだ」(ルター)。これはそのつど、今・ここで聖霊の執り成しの働き(エルゴン)を求めることに他ならない。「蛆虫のつまった頭陀袋」である「私が右手で為す善行を左手に知らせないとするなら、それは神がキリストにあって為したまう奇蹟である」(ルター)。

 この主張の真理性は、信じるということは今・ここで神により愛されているということを信じることに見いだされる。心から信じるということは、それは今・ここのことであり、正しい理解であると思われる。「信じます。信なきわれを憐みたまえ」。そこから容易に「信仰のみ sola fide」=「恩恵のみ sola gratia」が導かれる。

 この神の前と人の前を分けない議論は双方から議論を始めることができ、循環論証に陥る可能性を抱える。究極の循環の事例、聖書の真の著者は聖霊であり、聖書を真に理解するのは聖霊の内在による促しのもとに読むときである。聖書の真の著者と真の読者は聖霊である (聖霊による一人芝居a self-contained play by HS)。ルター主義的な恩恵と信仰の循環は次のようになる。恩恵を信じる→信じることは恩恵である→その恩恵を信じる→その信仰も恩恵である→その恩恵を信じる→その信仰も恩恵である ad infinitum)。

 循環論証の不健全性は、証明されるものが証明するものとなり実質的には何も証明しないことから明らかになる。蛇が自分の尻尾をおいしいと食べ続け、とぐろを巻いている蛇の自己食尽に比せられる。解釈学的循環を主張する人々は例えば子は親により「形成される」。その子が親を理解するとき、それは既に形成された理解を投映していると言われることがある。子はそんなに愚かではなく言わば親に洗脳されてしまうとは限らないであろう。パウロによればひと(肉は自然的な身体を抱えた生の責任ある行為主体)は相対的に知的に自律した者である。

 聖書学者や歴史家が遂行している先行理解の遮断:パウロの宗教的出自、当時の政治や歴史、社会構成の状況などパウロが属していた生活の座の考察からテクストを読むその態度を捨てる。「わたしは君たちが読み、しかも理解することがらの他何も書いていない。君たちが完全に理解してくれるようわたしは望んでいる」(2Cor.1:13)。

パウロによる解決:「わたしは君たちの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)、「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。

 パウロは自らの責任ある自由において、聖霊を今・ここで注がれているという自覚のもとに聖霊の執り成しの言葉を語る(Rom.5-9:6)。他方、神の知恵とその働きを報告する(Rom.1:17-4:24,9:6-11:36)。「ああ深いかな神の知恵と認識の富とは。ご自身の裁きはいかに究めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。「誰か主の叡知を知っていたのか」」(Rom.11:33)。「「誰が主の叡知を知っていたか、ご自身を吟味するのか」。しかしわれらはキリストの叡知を持っている」(1Cor.2:16)。パウロは神の意志をキリストを介して知ることができると主張する(Rom.12:1-2)。パウロは自らの言葉を彼自身の内側のロゴス(神の言葉としてのキリスト)が働きにおいてあるものとして表現している。その働きそのものを語りにより表明し(テルテオが)書き留めている、そのテクストそのものを創作している現場に立ち会う。

 Papias(circa 60-130)以前は「マタイ福音書」等は匿名でただ「福音書」と記されていた。その主な理由は真の著者は聖霊であって、筆記者自身ではないと筆記者が信じていたことが挙げられる(蛭沼寿夫『新約正典のプロセス』p.145)。この逐語霊感説はパウロ的には神の意志や認識がイエス・キリストを介して知らされているほどには明確には知らされていないというたぐいの教説である。「聖書」が神の言葉と語られるとき、神ご自身がこの人間の記した文書・神と関わるヒューマンドキュメントにおいて表されることを認可・許容したという意味。他方、「神の言葉(logon theou hos = キリスト)は君たち信じる者たちのうちで働いていたまう(energeitai)」(1Thesa.2:13, cf.1Cor.1:30 「われらにおける神からの知恵」、)とみ言葉の受肉そして聖霊の内在による働きを表現することがある。

 なお循環の問題は神の前と人の前の癒着(常にエルゴン上の不分離の主張)によるだけではなく、例えばブルトマンは歴史的手法そのものが循環であると主張する。「様式史研究が他のあらゆる史学的研究と基本的に異ならず、循環論証の一種であることを認識することは、本質的に重要である。というのは、共同体の生活契機は文学的伝承の様式から遡及的に推定されねばならないし、逆に様式は共同体の生活から理解可能となるだろうからである。この二つの見方から必然的に生じる往還関係と二面性を規制し、どこから着手すべきかを規定する方法は存しない」(ブルトマン『共観福音書伝承史I』p.12)。ここで「遡及的に」において伝承された文書などの人間的な認識や実践から共同体という客観的なものごとの特徴の認識へのアクセスが遂行されるということを意味している。他方、文書の諸様式例えば奇蹟物語、譬え話、知恵の教え、預言、受難予告等はこれらがそこにおいて遂行されたものごととしての共同体の実際の働きに基づく。つまり、ものごとの在り様の認識は文書(書かれたもの)に依拠し、文書の作成はものごとの在り様に依拠している。書かれたものとものごとないし歴史は相互依存の関係にある、換言すれば、ものごとと歴史叙述は相互に癒着しているとブルトマンは肯定的に(「本質的に重要」)主張している。歴史学の手法は共同体の実際の認識への接近手段である→共同体の実際の生活様式(生活の座)が文書(歴史叙述)の様式がいかなるものであるかを決める→その実際の生活様式も文書によって接近される→その文書も実際の生活によって規定される。(解決案 最善の説明はものごとの実際の在り様を捉えることができるという実在論的歴史叙述の立場を取ること。ブルトマンは存在様式と認識様式を癒着させている)。

 一般的に、歴史学の基本的な手法、目撃、想起、古文書、遺跡など証拠を挙げることによる過ぎ去ったもののそれ自身として特定する企てである(パウロも復活の目撃証言者として500人を挙げている(1Cor.15:6))。歴史学の手法は経験主義的、実証的な観察可能性の枠組みのなかで遂行される。これはイエスがキリストであることを論証することができるかが問われ、これは歴史学によっては確定されないとしばしば主張される。他の学問的アプローチ例えば文学、聖書学、神学、哲学により補われねば、ナザレのイエスの呼称の多様性に見られるように、イエスが何者であったかを掴むことはできない(「預言者」「ラビ」、「神の子」、「人の子」、「ユダヤ人の王」、「キリスト・メシア」)。

 カトリックはプロテスタントが陥りがちな言葉とものごと(今・ここの働き)の癒着に対し人間の魂の相対的な自律性を認め、アリストテレス哲学に即し、有徳な人間は聖人にまで至る。もちろんそこに恩寵の注ぎはあるであろうが、理論(ロゴス)上神の前と人の前を分離することを許容している。新教は旧教におけるあまりの人の前の自律性の譲歩に胡坐をかいてしまったことに対するプロテストである。

 ロゴス上の分離とエルゴン上の不分離をパウロそして福音書に見出すことができる限り、カトリックとプロテスタントは和解できる。最も望ましいのは先在のロゴスが肉に今・ここで内在している状況である。「言葉は肉となった」。言葉を言葉として摘出でき、言葉の肉におけるその都度の働きは今・ここの個別的な出来事として基本的に観察される。イエスは神の前に義であった。肉の弱さを抱えつつも「神の子の信」「天の父の子」の信により、神の前につまり神の認識のもとでは肉の弱さに負け罪に陥ることなく神の意志を死にいたるまで信の従順により完遂した。

 2ロゴス上の分節とエルゴン上の不分離のテクスト上の根拠

 神ご自身の福音の啓示行為とその関係項(その信が神に嘉みされる「信じる者すべて」をも含む)を「神の前の自己完結性」((A)「神の前の義人」と(B)「神の前の罪人」)として理論(ロゴス)上析出することができる。神の啓示行為は三か所において動詞形で表現されている(Rom.1:17(3:21-26)(信に基づく義認),1:18(神の怒り(業の律法に基づく)、8:18(終わりの日の審判))。(A)「神はイエスの信に基づく者を義とする」(Rom.3:25)、(B)「業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(3:19-20)。

 この神の働きの報告とともに、ひとは「肉の弱さ」(Rom.6:19)の故に、身体の限界が自己の限界であると考えがちであり、神の前にあることを自覚困難な者として譲歩され「相対的自律性」(C)のもとに今・ここの生を実践(エルゴン)上紡いでいる。「わたしは君たちの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)、「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。相対的自律性のもとにある(C)「肉」は(A)「義の奴隷」でも(B)「罪の奴隷」でもありうる中立的な可能存在である。

 そのなかで相補性の最も明確な理解は、ロゴスは普遍的な命題ないしそれにより表現される非感覚的な一なる理(ことわり)のことであり、それがエルゴンに何らか内在する限り、今・ここの働きは秩序を持つということ、そしてその働きは何らかそれ自身可視的ではないロゴスを可視化するというものである。ロゴスとエルゴンの一般的な解明は哲学の中心的な課題であるので、その解明は哲学に託される。

 ロゴスとエルゴン双方の相互の補いあいが必要なことは、人間の知的な営みに普遍的な事象である。例えば算数の学習で時速4キロだとして二時間で何キロ歩くか(4x2=8)の問いに戸惑い、「だって疲れちゃうもん」という聡明な小学生の適切な応答に相互の補いあいの必要が正しく見いだされる。理論上そのとおりでも身体をもつ者には実践上ままならないことが日常的である。普遍化、普遍的な説明言表・ロゴスの解明においては個体の個別事情が考慮されないという宿命を抱える。国民生活等の統計的理解は数字の背後にある生身の個々の生を往々にして見逃してしまう。そうであるからこそ適切な理論が展開されるなら、それは何であれそのロゴスとエルゴンは相互に支えあうことが求められる。大陸合理論と経験論は総合されねばならない。理想的には非感覚的な形相(ロゴス)が質料に内在し、それが秩序ある働きをうみだすそのような理論が展開されるように、ロゴスがそのつどエルゴンに内在し、秩序を与えることであり、エルゴンはロゴスを可視化し、ロゴスの正しさを確認させ、保証することである。

3 発見者の喜び:ローマ書3:21-31

「21世紀の宗教改革77条 序論」から抜粋

3「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学:21世紀の宗教改革「みなもとの信」の核心

3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点

 使徒パウロはナザレのイエスの生涯が打ち立てた信に基づく義とその義に基づく業の律法の成就を「ローマ書」において、能う限りの明晰性をもって、言語と心魂そしてものごと(その理およびその働き)という三者の関わりとして哲学的に分析することを許容する仕方で神学的に論じた。神の前と人の前の理論上の分離に基づき、パウロは「わたしは君たちの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)とし、神の前を括弧に入れたひとの相対的自律性を譲歩として認め、単に心情倫理と責任倫理の区別、さらには制度化の許容ということではなく、神の前と人の前の創造から救済にいたる総合的秩序づけを企てている。神の子にしてひとの子の啓示に基づき、先に見た肉の弱さの考慮のもとでの責任倫理をもカヴァーしながらも、「一つのこと[イエス・キリストの出来事]を思慮する」(Phil.2:1-2)集中のもとに人間と世界を包摂する。山上の説教は相対的自律性の許容により希釈されたのではなく、道徳次元を内側から突破するヴィジョンのもとに他の一切を秩序づけつつ語るイエスそのひとにより生き抜かれた(エルゴン)ものである。彼ご自身は肉の弱さをその都度克服されたのである。

 信の律法に基づく業の律法の秩序づけはパウロにより神の二つの意志の啓示として報告され、人の前の相対的自律性を「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の啓示の出来事に秩序づけている。神はご自身の義の啓示の媒介として歴史のなかで生起したイエス・キリストに帰属した信を用いられたが、パウロはその信の出来事を自らの出来事であると受け止めるよう命じる。

 このたび、人類による二千年の探究の蓄積のもとに「信」をめぐる「ローマ書」の言語哲学的研究を通じて、パウロによるキリストの受肉と受難と復活および来るべき再臨による人類救済の議論が神の選びの教説とともに無矛盾であることが明らかとなった。今日までのパウロの神学をめぐる論争は、彼の神学理論の中心的な主張を形成する「ローマ書」3章21節から31節のとりわけ22節(ū gar estin diastolē 従来訳「区別がない」、私訳「分離がない」)のヒエロニムスによるVulgata版(二世紀以降の古ラテン語訳の四世紀後半における彼自身の言葉では「編集」)の翻訳に起因するものであることが明らかとなった(第12、17条)。そこでパウロは神の前のことがらを報告しており、その報告の内容は神ご自身がご自身の義の啓示の媒介としてイエス・キリストに帰属した信を用いられたこと、そしてその信とご自身の義の知らしめにおいて分離がないこと、即ちその信義の分離のなさにおいてご自身にとって根源的な義が信に基づくものであることを明らかにしておられることである。パウロは明確に神ご自身の認識をそれ自身として報告するとともに、そのわれらの外の啓示と人の前すなわちわれらのうちの信との関係の総合的な理解を展開したのであった。従来神の前と人の前の分節と総合が不明瞭であったために多くの混乱が生じたと思われる。

 カトリック教会とプロテスタント教会相互のまたそれぞれ内部における二千年にわたる論争に思いをはせるとき、真剣で誠実なひとびとがそのテクストをめぐって長く争わざるをえなかった事実は、そのもとのテクストの最初の基礎的な翻訳に何らか誤解を生じさせるものが含まれていたと理解するよう促す。原語diastolē(最大希英辞書LSJではdrawing asunder (「双方に引いて分ける」)やseparationがdistinctionより前に挙げられる)の当該箇所のVulgata訳は non enim est distinctio「なぜなら区別がないからである」である。しかし、それ以降調査の限りすべての翻訳において、これがその理由文であるところの前文「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている」における「信じる者すべて」のあいだに「区別」や「差異」はないと理解されてきた。

 実はひとの心的状態としての信仰に区別や差異がないということではなく、「神の義」とその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」のあいだに神の前のことがらとして「分離(separatio)はない」と訳されねばならなかったのである。神ご自身にとって信義はモーセの業の律法に基づく義より一層根源的であることを示している。業の律法に即して「すべての者が罪を犯した」と神ご自身により否定的に認識されており、それを乗り越えるものとして、福音が「今や、業の律法を離れて」啓示されたのである。神の信義の啓示という肯定的なものごとは「イエス・キリストの信を媒介にして」遂行された。神の義とその啓示の媒介者において生起したその信のあいだに分離がないと神が看做されたからこそ、「業の律法を離れて」しかもより根底的な神の義として啓示されたのである。これが明示されていれば、今日までのこれほどの混乱はなかったことであろう。3章21節から31節の正しい翻訳は以下のものになると思われる。

 「 21しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、22神の義は(f1)イエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。23なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、25,26その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。

 27それでは、どこに誇りはあるか、締め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。28かくして、われらは人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。29それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、30いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。31それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:21-31、第12、27条)。

 この福音は「[業の]律法を離れて」(Rom.3:21)つまり神の義はモーセ律法とは分離されうるものであり、しかも「信の律法」(3:27)とは分離なきものとして啓示されたために、神ご自身にとって福音即ち信の律法のほうが業の律法よりご自身の義との関連においてより根源的である。神においてそうであるなら、ひとにとっても神ご自身が信義であることが啓示されたとき、信によって応答することのほうが、「汝~すべからず」、「汝~すべし」の命令のもとでの業の遂行よりも、心魂の態勢、行為として根源的であることが含意される。この啓示の言語網(3:21-26)は神の前の言語網であり、神ご自身の信と義、罪の贖いをめぐる理解がパウロにより報告されている。

 「イエス・キリストの信を媒介にして」については諸条項において解明されるが、ここでは本改革の鍵となる箇所であるだけに次の事実を指摘しておく。職名を伴う固有名「イエス・キリスト」は「イエス」や「キリスト」と異なり行為主体として用いられることはなく、媒介の前置詞「において」や「介して」を伴う(第12、14、15条)。この啓示行為の主体は神であり、御子ではなく、それ故にこの「の」は主格的属格ではない。また啓示は神の行為として神の前のことがらであり、神が理解する限りの「信じるすべての者」が啓示の差し向け相手となり、肉の弱さのうちにあるひとがイエス・キリストに対して持つ強い弱い信仰が啓示の媒介となることはないがゆえに、この「の」は目的的属格でもない。

 この「の」は帰属の属格(genitive of belonging)である。イエス・キリストに帰属したこの「信」は歴史のなかに生起した出来事の範疇において記されている。ナザレの「イエスの信」(3:26)即ちイエスが自ら神の子であるという信仰(=信)のもとに生きた従順の生涯に基づき、神はそれを嘉みし油注ぎ「キリスト」である「イエス」に帰属した信としてご自身の義の啓示に用いられた。啓示の行為主体は父なる神であるため「イエス・キリストの信」という語句の使用において行為者イエスへの言及なしに、神の義の啓示の媒介として用いられた歴史のなかで生起した信をこの語「信」は指示している。この「信」は「信が到来する以前には」(Gal.3:23)と語られることもあり、行為主体への言及を括弧に入れ歴史のなかに到来した信を神はご自身の信義と分離なき十全な信として嘉みし用いられた。ナザレのイエスは行為主体として自らが神の子であるという信を十字架に至るまで貫いた。啓示の専決的な行為主体である神はその生涯にわたる御子の従順の信の生涯を嘉みされたが、パウロはその事態を啓示行為においては二人の行為主体を想定できないことからイエス・キリストに帰属した信として名詞により総括的に表現している。

 その啓示の差し向け相手である「信じる者すべて」は神にその信仰が嘉みされている者すべてのことであり神ご自身が理解する限りの神の前の信徒が指示されている。ここでは肉の弱さにおいてある生身のひとの心的状態として強い、弱いのある信仰は問題とされず、嘉みされた信であることが問題とされており、その信の持ち主は神が義であることを知っている。神の信にはひとは信により応答することが人格的な関係として相応しく、知らしめは信じなければ理解されないという認知的、言語的制約からしても「信じる者すべて」という全称量化は不可欠となる。

 続いて、神の義がイエス・キリストに帰属した信を媒介にして信じると神が看做す者すべてに啓示されたことの理由が展開される。「というのも分離はないからである」。ここで神の信義の啓示が信じる者たちの心的態勢に例えば聖フランシスとヒトラーの信仰に「区別(差異)がない」と看做したことを媒介にして遂行されたとしたなら、彼らの区別なき罪の故にであるというならまだしも、いかにも不可思議である。というのもひとがイエス・キリストに対して持つ区別なき信仰という一つの心的状態が啓示の媒介となることは理解困難だからである(第17条)。人類への愛の故に啓示されるというのであれば、より理解可能なものとなるが5章まで愛の議論は封印されており、ここでは信義の関係に議論が集中しており、信ひとすじにより正義の確立が知らされている。「なぜ[分離なき]かと言えば」と23節から26節まではこの信義の分離のなさが、長い一文において説明されている。

 この誤訳が正されるとき、神の前と人の前の分節と媒介が明確となりまた神の二つの意志「業の律法」と「信の律法」の分節と媒介がさらには「信にもとづく義」と「その義の果実」としての愛の分節と媒介が明確になる。もちろんその媒介者はイエス・キリストである。その分節と媒介そして関係づけの故に、これまでの多くの論争に解決が与えられると思われる。そこでは無償の憐みと正義の両立が解明され、例えば福音と律法、信仰と愛、恩恵と自由、選びの教説と各自の責任ある自由の関係をめぐる論争について決着がつけられ提題で明らかにしていく(第I部)。また贖罪論をめぐり父と御子の協働説か業の律法の枠のなかでの父と御子は審判者と被審判者の関係にある代罰説かの論争について、それに伴い万人救済説についても終止符を打つことができる(第II部)。さらに、福音に基づく一切の秩序づけの試みは人間の心魂の構成要素と働きについて理解を提示する(第III部)。また、結婚や同性愛等の具体的な問題にもこの運動の方向を示唆する(第9、33条)。新しい葡萄酒を新しい革袋にいれる、そのような旧約から新約への展開を確認することができる。この解明はカトリック教会とプロテスタント教会双方がそれぞれ真理契機を担っているものとして、双方にそれぞれの特徴に応じて固有の場を提示し相互の和解をもたらし、ひとの心魂の再生と人類の平和の基盤になると信じる(第IV部)。

 この修正を介して人類の混乱の歴史が改善されるべくここに一つの宗教改革運動「信のみなもと&みなもとの信」を起こす。そのモットーはfons fidei (pēgē pisteōs) et fides fontis (pistis pēgēs)-Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei(信のみなもととみなもとの信―イエス・キリストまたは神の知恵と信―)である。これは二千年にわたり神の前の出来事を純化、析出しきれなかった所謂「福音」それ自身が遂にかつて啓示されたその源(みなもと)の様式に帰還することであり、またわれら自身がその福音に帰還することである。福音それ自身が帰れや!と呼びかけており、それに呼応しこの運動に参加する者たちがこの情報化時代かつてより遥かに狭くなった世界中の隣人に、福音に帰れや!と呼びかける。この新たな宗教改革は聖書の中心的使信が正しく理解されたとき、その古くて新しい言葉がどれだけ歴史を変革する力能を持つものなのか、インクの染みの誤った形姿が人類の血の染みに変わってしまったが、それが (distinctioからseparatioへ)正されるとき、歴史はどう変革されうるのかをめぐる挑戦である。かくして、ここに、御子ご自身が栄光を棄て死に至るまで低くされて打ち立てられた福音に基づき、パウロによる福音の理論が無矛盾であることを世界に知悉せしめるべく基本的な提題とその論説を77か条挙示する。

 これらの提題はもちろんあらゆる神学的、聖書学的問いに応答するものではない(例えば、三位一体や神の言葉にしてひとの言葉である「聖書」の理解についてのこの運動の基本的立場の提示は第44条)。「ローマ書」の当該箇所が修正された場合に核心から波及される理解の限定された展開以上のものではない。しかし、パウロ神学の中心的な箇所の修正であるだけに、波及は重要かつ深遠であるに相違ない。それは信のみなもと即ちみなもとの信に帰るとき、ひとの心魂はどれほどの変革を蒙り心魂の刷新に導かれるかの挑戦であり、人類誰もが種として同じ心魂を持つ限り、心魂の新創造の根拠の解明は新しい宗教改革を起こすに値すると信じる。

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

イエスの譬え話ー言葉と働きの合致ー

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二十一(最終回)

 春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二十一回(最終回)

録音においては、この講義の背景にあるものまた今後の計画などを話しながら結論をお読みしました。最終回ですので、祈りました。よい春をお迎えください。2024年3月16日

結論

 ひとは問われている。善悪因果応報の法則を信じるか。それならば善いリターンを得るべく、黄金律のもとに生きよう。これは道徳的次元のみにおいて語りうる実践的効力の教えである。しかし、山上の説教においては、善悪因果応報を無視したと思われる無償の「贈りもの」が「善人にも悪人にも」差し出されている。それが神の憐みであり、その極は御子の十字架と復活である。この福音は自己完結的であり、ただその差し出しの前にひとは立ち、その恩恵の外に立つことはできない。神の前の出来事は自己完結的であり、ひとの前の出来事は譲歩された相対的な自律性においてあり、端的な自律性においてないからである。神の前に憩うまで、ひとの良心は宥めをえず、信によってしか理解できないこととして何よりも恩恵はわれらが汚すことのできない一切を支える根底的な場所において明白に立てられたからである。山上の説教はそれを自然事象そして人間事象を介して教える。「聞く耳ある者は聞け」。

 生命にいたる狭い門から天国に入った一人の人がいる。それは罪のなかったこと故に神の子であることが判明した。そのひとは永遠の生命のうちに神の右の座にいて或いは各人の心魂の根底において聖霊として神の意に「即して」執成している(Rom.8:27)。パウロ同様、キリストがわがうちに生きるのであれば、山上の説教を充たしうるそのような希望が湧いてくる(Gal.2:20)。数百ある律法は「律法の冠」である「愛」に収斂されている(Rom.13:10)。イエスは「律法の一点一画も廃棄されない」(5:18)その神の意志への尊敬のなかで、「律法全体と預言者が依拠している」愛に業の律法を集中させ、信の従順により愛の律法を成就した(5:45,17,2:40)。愛は信の律法に転換されている。「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)。イエスは野の百合空の鳥に見られる神の愛を自ら生き抜き自らの信義の証である復活の生命を介して、信義と「義の果実」としての「愛」これら二つの神の義を媒介した(Phil.1:11)。そこでは「信の律法」により最も純化されたモーセの「業の律法」が秩序づけられたと言うことができる。

 ひとはすべてキリストを介して、無償で贈りものとして神からの正義を受け取る者とされた。善から善、悪から悪への因果応報の法則は父と御子の協同行為によりわれらの心魂の根底において一旦断ち切られている。パウロは福音の自己完結性を伝え、神の二つの意志である業の律法と信の律法がいかに秩序づけられるかを述べている。父と子の協同作業は自己完結的であることが、神自身の即ち神の前の事実として自己言及において報告されている。神のみ旨はパウロによりこう報告されている。「われら知る、律法が語りかけるのは、律法のもとにある者たちに告げることがらは何であれ、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服従するためであることを。それ故に、すべての肉は業の律法に基づいてはご自身の前で義とされることはないであろう。というのも、律法を介しての[神による]罪の認識があるからである。

 しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じるすべての者に明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信の]分離はないからである。なぜ[分離なき]かといえば、あらゆる者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、キリスト・イエスにおける贖いを介してご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けてその信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである」(Rom.3:19-26)。

 パウロはこの神の前の自己完結的な啓示行為を報告したのちに、それがもたらす人間の心魂の在り方についての認識をこう報告している。「かくして、どこに誇りはあるか、閉めだされた。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介してである。それゆえ、人間は業の律法を離れて信によって義とされるということを、われらは認定する。それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を介して無割礼者をも義とするであろうなら。それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然からず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:27-31)。

 かくして、山上の説教はもはや審判の言葉としてではなく、希望の言葉として受け止め直される。山上の説教は信から義へ、義から愛への一本道に位置することになるであろう。イエスは福音成就の途上において、しかしリアルタイムの媒介行為を遂行しつつ、山上の説教を語りそれを生きた。パウロはその十字架と復活の視点から福音と律法を秩序づけることができた。かくしてイエスとパウロは狭き真っすぐな道の途上の言葉とその生の成就の視点として調和する。倫理学の主題である「ひとはいかに生きるべきか」の当為「べし」に含意される実践的効力の問は、イエスとパウロにおいては「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)その力強い信の狭い真っすぐな道を歩むことにある。福音において神の愛が与えられているからである。

 ひとは誰もがキリストによって二千年前に憐みをかけられている。聖霊はあの出来事が今ここで生きるわれらの「古き人間」(Rom.6:6)の死、「欲と情と共に肉」(Gal.5:24)の死であり「新しい被造物」(2Cor.5:17)の生であると神が看做していることを心の奥底で呻きをもって執成す。神へのアクセスはイエスの愛を介するものとなるとき、超越と内在、彼岸と此岸は媒介され、信仰の抽象性、観念性、思弁性が乗り越えられる。憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、「良心・共知」の発動が、「道徳的運」と呼ばれる、ひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛情を注がれ、愛されることを経験しその自覚なしには、また相手方の状況についての知識と識別なしには、発動しないそのような受動の経験と自覚を伴うものである。或るひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証は、どれだけ隣人を愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。

 彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から「柔和と低さ」が伝わり、山上の説教を少しずつ生きうるものと「変身させられ」ていくであろう(Rom.12:2)。「憐れむ者は祝福されている。憐れまれるであろうからである。その心によって清らかな者は祝福されている、神を見るであろうからである。平和を造る者は祝福されている、その者たちは神の子と呼ばれるからである」(5:7-8)。彼の軛を担ぎ主と共にペースを合わせ隣を歩みうること、それは端的な「贈りもの」であり、祝福である。

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二十

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二十

 録音では、司法、政治、経済等の諸制度と福音の関係を、富の具体的な事例を挙げながら解説しました。山上の説教を福音として読みうるのでなければ、わたしどもはこの相対的な社会において主体的に例えば経済活動に従事することと、神に仕えることとのあいだに秩序を見出しえないことになります。福音により因果応報の相対的な世界、社会生活を秩序づけることができると論じています。次回が「結論」です。2024年3月16日

四・三 善悪因果応報説を乗り越える福音 

 旧約律法の理解として因果応報を前提にすることは、イエス自身が理解する信に基づく正義と緊張におかれる。神の憐みの先行性への信は根源的な双方向性のもとでの受容、応答である。これは神主導の非可逆的な関係であり、対人関係における先行性とは異なる端的な、無比較的、無非量的な憐みの「贈りもの」(Rom.3:24)であり、その応答が受領、承認としての信である。

神の憐みの前提のもとでの八福の結論において「喜べ、大いに喜べ、天における報いが大きい」と語られるとき、比較的かつ相対的な配分的正義ではなく、イエスの自己言及に集中する限り、イエスに従う者への端的な信に基づく正義の次元における神からの祝福が語られている(5:12)。祝福される者たちは比較を絶した善の贈りものを前にして神に賛美を帰しつつも、報いを受けることを自らの功績と唱え、誇ることはないであろう。功績的ではない信に基づく正義がここでは開示されている。われらの罪の贖いは父と子の協同作業であったからである。パウロによれば、「あらゆる者たちは、キリスト・イエスにおける贖いを介してご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たち」となった(Rom.3:24)。そこに自らの義を「誇る」者は誰もいない、プレゼントだからである。

 この無償性は単純な善悪因果応報説では決して主張されない。とはいえ、父と子の間で、配分の正義のもとでWin-Winの関係として互恵的に記述することが許容されていよう。「息子よ、よくやった。褒美をあげよう、何が欲しいか」。「父よ、彼らは知らないのです、彼らの罪を赦してやってください」。「それが君の願いか、それでは人類の罪の赦しを君にあげよう」、何かこのような応報において、人類の罪の贖罪をアンセルムスと共に受け取ることが正しいと思われる。その罪の赦しはイエスを介してわれらに贈られる。「悔い改め、福音を信ぜよ」。

 イエスの迫害に付き従える光栄に預かった事実のみで、この言葉「報い」は功績への顧慮を伴わない恩恵として与えられる正義とその果実として理解されうる。加点減点の善悪因果応報の旧約的領野は過ぎ去っている。愛を介して働いている信を生きる者は旧約の古い革袋の業の律法をも満たす者ではあるが、無比較的、端的な善がそこにある。イエスと共なることに人生の一切が秩序づけられる。「誇る者は主において誇れ」、キリストの軛を共に担えることに誇りを見出す(2Cor.10:17)。父と子の自己完結的な正義は人間に対しては純粋に無償の「贈りもの」だからである。

 

四・四 相対的な正義と信による乗り越え 

 このように山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろう。争いのやまないわれらの歴史は心情倫理と責任倫理をわけて、後者の視点を多くの場合採用し社会の秩序を守る制度を充実させてきた。「裁くな」、「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済や文化活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は戦争はもとより正当防衛さえ不可能にするため、個々人の心魂の在り方としては賞賛されるが、行政機関、政治は結果責任のもとに到底山上の説教に与することはできないと主張された(7:1,5:33-37,5:31,5:39)。これら制度化は肉の弱さへの譲歩であると言える。誰もが神の前に生きているなら、山上の説教をそのまま生きていたであろう。

 イエスは「君たちの心が頑ななのでモーセは君たちに君たちの妻を離縁することを許容したのであって、始めからこの通りではなかった」とまたパウロも「君たちの肉の弱さ故に人間的なことを語る」と人間中心的にものごとに対処することを譲歩として認めている(Mat.19:8,Rom.6:19)。人間同士の契約に基づく司法、政治経済、防衛等の社会諸制度は相対的な正義のもとに営まれている(Mat.19:8,Rom.7:24, cf.Mak.10:4)。

 しかし、このような棲み分けは全体として一つのものであるひとの心とその身体を介した営みを理論上そして実際上分断するものであり、心なき制度化、形式化がはびこり、その前提のもとでの業に基づく相対的、比量的正義の追求は人間がそこにおいて最も人間であるその心を苦しめることになる。ひとの良心はそのような棲み分け、二心に満足できず、一切の秩序づけを求める。例えば裁判官が懲役九年であるべきものを八年と判決する場合のように、自ら相対的な判断のもとに審判する時、端的な正義においてある神の前に出ないでよいという免責にはならず、その都度悔い改め、憐みを信じ仰ぐ。この相対的な世界において委ねられている正義はあくまで契約社会のなかでのことであり、神の前においては信に基づく端的な正義がキリストのゆえに無償で与えられる。ただし、現実社会の契約も相互の信に基づくものであることが求められるであろう。

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十九

 春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十九

 録音においては、山上の説教を福音として読むことができることによって、いかにイエスとパウロが連続的なものとして捉えることができるかを語っています。「裁き」と「識別」の行為がいかなるものであるか、光の倫理学のシミュレーションのもとに語っています。 2024年3月13日

第四章 山上の説教の倫理学と信による秩序づけ

四・一 善悪因果応報の倫理的教説

黄金律におけるひたすらなる善意の行為原則

 イエスの教えから倫理学を引き出すとすることができるとすれば、それは一切が明らかなところでは、ひとはいかなる法則性のもとに行為を遂行するかそしてその実践的効力をどこに求めているかを明らかにすることである。神の前にも人の前にも普遍妥当する法則があるとすれば、その連続性を保障するものでなければならない。神も同意し人も同意する法則とは光がもたらす透明性が持つ普遍的妥当性ということになろう。これまでの論述は倫理学の第一の特徴である態勢と行為の平行関係は跳ね返りの法則において確認されている。また倫理学の第二の特徴であるロゴスとエルゴンの相補性、認知的徳と人格的徳の共軛も不可欠な前提となる。イエスの天の父はまさにそのような神であったことをこれまで論じたので、これに関しても倫理学の要件を満たしていると言える。第三の特徴である幸福が神的なものに開かれていることは八福で確認した。従って、イエスの福音の宣教における自己言及性とひとのそれへの信による応答を一時的に括弧にいれる限りにおいて、倫理的教説として特徴づけることができまた対話可能なものとなろう。

 憐みの連続性と悪さの不連続性はそれぞれ交差しない形で果実をもたらすことをこれまで確認してきた。律法の純化、先鋭化の試みは善悪因果応報の枠のなかでまとめられている一つの倫理的教説であると言ってよい。神の業の律法における意志・み旨は倫理学的には善悪因果応報の法則のもとに知らされている。イエスはそこから行為の一般原則を導出する。「かくして、君たちは人々が君たちに為してくれるよう欲するならば、そのかぎりのものごとすべてを君たちも彼らにそのように為せ。というのもこれが律法でありまた預言者たちだからである」(Mat.5:12)。ここで「黄金律」と呼ばれる愛敵に至る隣人愛への命令がモーセ律法と預言者が目指していたものに他ならないとされている。この表現は「レビ記」にある隣人愛の命令「汝は汝の隣人を、汝が汝自身を愛するように、愛するであろう」(Lev. 19:18, Gal.5:14)よりも一般的な表現である。これは山上の説教全体に言えることであり、イエスは「罪」や「信仰」そして「悔い改め」等の宗教用語は用いない傾向にあり、その代わりに「過ち」や「求めよ」そして「仲直りせよ」のような表現が用いられている。聴衆たちにわかりやすい日常語を選んだ、或いは道徳的次元を明確にするためであると言える。人々にしてもらいたいことはよくしてくれること、赦してくれること、愛してくれること、なにかそのようなものごとであり、それを先ず君から実行せよという命令である。

 イエスはこの「黄金律」において、聖書の律法と預言者たちは愛することに集中していたことを伝えている。これは神の憐みの先行性を人間同士の交わりに移行させる命令である。まず自分から善意を行動で示そうと励まされる。行為主体の善意の先行性が、善き跳ね返りの生起する必要不可欠な要素である。神がわれらの信による応答を待っているように、人間同士の交わりにおいても善行の先行性が信頼関係を生み、豊かな応答の好循環が生起する。黄金律は善き行為の始点たれという励ましである。他方、疑心暗鬼による負のスパイラルは恐れに起因することが多い。喧嘩や戦争の報復合戦、応酬は対人間の否定的な反射性の好事例である。「愛は恐れを取り除く」という仕方で善意によって、負の螺旋下降をブロックする黄金律は合理的なものとして支持されよう(1John.4:18)。

 ただし、黄金律は神の憐みの先行性とそれへの信なしには人間中心的な功利主義的にも捉えられがちであろうが、これも認知的なものと人格的なものの共軛によりブロックすることができる。光の透明性の倫理学において次世代AIであれ一切を正確に知り審判する叡知体を想定することは、認知的次元だけではなく人格的次元をも要求せずには双方の共軛が成立せず、限りなく人格的神の要請に近づくことになる。

 憐みの悪人の交差なき善悪因果応報の法則性の根拠は一切を知る天の父が公平に審判することに見られる。「もし君たちが人々に彼らの過ちを赦すなら、君たちの天の父も君たちにも赦すであろう」(6:14)。「裁くな、裁かれないためである」(7:1)。まず、君自身からしてもらいたいと望んでいるものごとを、人々に行使せよと命じられる。愛敵にまで純化された善悪因果応報が妥当する限り、黄金律は信じる者にも信じない者にも普遍的に妥当する道徳法則となる。

 イエスはモーセ律法の純化により自己への厳格な適用と隣人への寛大な憐みの適用こそ神のみ旨であると言う。愛敵即無抵抗即ち「悪人には手向かうな」(5:39)などの厳しい教えの自己への適用において自らの偽りが暴かれるが、悔い改めの信により克服し隣人愛に向かう。他方、隣人への対応において「裁くな」、「赦せ」と端的な憐みが命じられる。ルカの平野の説教において神の憐み深さは量り枡の譬えに見られる。「君たちの天の父が憐み深くあるように、憐み深くあれ。君たちはひとを裁くな、そして裁かれないであろう。ひとを咎めるな、そして咎められないであろう。赦してやれ、そして赦されるであろう。与えよ、そして君たちにも与えられるであろう。人々は [穀物を]押込み、揺すり込み、溢れている良い量り(metron kalon)を君たちの懐に入れてくれることだろう。というのも君たちが量るその量りで君たちに量り返されるからである」(Luk.6:36-38)。隣人への憐みは神の憐みにより基礎づけられ、イエスのその実践的効力ある行為原則は信である。光の倫理学においては善悪因果応報への信が機能する。

 イエスは裁くなという命令の理由に「君が量るその量りにより量り返されるからである」と言う。これは善悪因果応報に基づく跳ね返りの法則の一般的表現であり、憐みを量りにすれば、神から憐みをかけられる。正義を量りにするならば、神から正義によって量られる。キリストを量りにするなら、キリストによって量られる。従って、先行行為主体が行為を選択するその領域において、応答を受け取る、仕返しをされるということである。「悪行の報いは悪行そのものである」(アウグスティヌス)或いは悪人は「自ら掘った穴に陥る」(Ps.7:15)と語られるように、悪の行為選択はまさにその心的態勢さらにその実害において罰を受けている(cf.Rom.1:18-32)。イエスの厳しい現実認識によれば、否定的な言葉や内面の悪意でさえ滅びに定められている。殺人をめぐる先鋭化においては「しかし、わたしは言う、「自分のきょうだいに怒る者はすべて審きに服するであろう」。誰であれきょうだいに「馬鹿」と言う者は法廷に服するであろう、「鈍重」と言う者は、地獄(ゲヘナ)の火に服するであろう」(5:22)。またこう言われる、「かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう」(7:24)。実践を伴わない者はものごとがよく見えていない愚か者であり、最悪滅びに定められる。業に応じた公正な審判がくだされる。

 悪を抑止する業の律法のもとでは正しいしかし相対的な審判が遂行され、働きに応じて相応しい果実を得ることになるであろう。「目には目を」の業の律法のモーセに対する啓示は相対的な跳ね返りの法則の啓示であったと言うことができよう。光の透明性の倫理学においては、集積したデータのなかではイエスの審判は最も厳しいものと判定するであろう。しかし、神の完全性、天国の律法の法則を知っていれば、同意するであろう、そのようなことがらである。一切が明らかなところでは、憎悪も実際の殺人も同罪とされる文脈はありうる。後に実際殺人することも見抜いていようし、憎悪により多くの悪を周囲にまき散らすことも計測されるであろう。倫理的教説として、いずれが優れているかを論じる段になると、やはり一切を知っていることそして人格との共軛が成立していることが、鍵となるであろう。そのなかにあって、肯定的な黄金律を実践に移すことには同意が成立しよう、その普遍妥当する法則性への信のもとに。

 

四・二 裁きから愛の識別へ 

 イエスは自らを優越した位置におく「裁く」ことは神のみ旨でないと言う。それは愛を説く黄金律にも反する。それは最初の人間が「善悪を知る」木の実を食べて以来、人間が神に背き生の主人公となっている象徴として挙げることができよう。「ひとを裁くな、裁かれないためである。というのも君たちが裁くその裁きにおいて君たちは裁き返され、君たちが量るその量りにおいて君たちにも量り与えられるからである。なぜ君はきょうだいの目にある塵を見るが、自分の目にある梁に気づかないのか。或いはどうしてきょうだいに向かって「君の目から塵を取らせてくれ」と言うのか、見よ、自分の目に梁があるではないか。偽善者、まず自分の目から梁を取り除け、そのとき君はきょうだいの目の塵を取り除くべくはっきり見るようになるであろう。神聖なものを犬にやってはいけない、君たちの真珠を豚に投げてやってはいけない[むしろ飼料を与えよ]、豚たちがそれらを脚で踏みつけ、向き直って君たちに突進してくることのないように(7:1-6)。

 ここで「裁く(krinein)」とは、ちょうど羊飼いが羊と山羊を「えり分ける」ように、究極的には最後の審判において栄光の主が「栄光の裁きの座」につき、義人と罪人を「右」と「左」に分ける、そのようなことがらに向かう過程である(25:31-33)。ひとは神の位置或いは一切が透明である叡知体の位置を占めえない。貪欲や優越感はその跳ね返りを報いとして受ける。パウロは途上の人間が「罪に定める(katakrinein)」時、それは自らに跳ね返ると言う。「すべて裁いている君、ひとよ、君には弁解の余地がない。なぜなら、君は他人を裁くそのことがらにおいて、君自身を罪に定めているからである。というのも、君、裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。裁き合うとき双方とも同じ「業の律法」のもとにあり、赦しではなく優越者として罪に定めあっている。「裁くな」においてイエスはモーセの業のそれ自身における律法の適用の否定にまで至っている。これは神において信の律法による業の律法の乗り越えを意味していよう(cf.Rom.7:4,8:2,Gal.2:19「[信の]律法により[業の]律法に死んだ」)。透明な倫理学においては、裁きにより優越を示す悪しき動機付けはその悪しき果実を得ると端的に語られる。

 「裁き」が「梁」や「塵」等様々なレヴェルで遂行されているように、誰もがそれにより隣人の行為や人格を認識し判断する規準として、ひとは普遍的に何等かの量りを持つ。ここでは「裁き」と異なる「識別すること(dokimazein)」(cf.Rom.14:22)の重要性が説かれ、「君はきょうだいの目の塵を取り除くべくはっきり見るようになる」そのような愛が両者を識別、判別する。豚には真珠ではなくトウモロコシを与えることが最善の行為選択肢である。ひとは誰もが自らの認識規準のもとでひとや出来事を識別、判断せざるをえないが、それは神のみ旨に即して憐みを規準にして遂行せよと命じられる。そのとき、ひとの目から塵を取ってやることができ、歴史に肯定的なものを遺すことになる。パウロも言う、「祝福されている、自ら識別するものごとにおいて、自らを審判しない者」(Rom.14:22)。この意味で黄金律は司法制度を前提にしている従来の人間中心的な倫理学に一つのレッスンを与えているとも言えよう。

 愛は信義の果実である。神の愛への信に基づき罪赦され、その義の証は愛しうることに見られるがゆえに、歯を食いしばって敵をも愛する。キリストはわれらが滅びを望むそのひとのために死んだのである(Rom.14:15)。キリストは自らの敵のために死んだことにより、罪とその値である死を滅ぼした(Rom.8:1-3)。ここに信から義から愛への一本道が見いだされる。その信頼とは敵もキリストにあって神に愛されていることの信である。神の愛の先行性が恐れに基づく負のスパイラルをブロックする (Rom.12:14-21)。一切を正確に知りしかも憐み深く公正な神への信が悪に対して善によって打ち勝つことを可能にする。これがイエスの神のもとでの倫理学の実践的効力である。この信の実践的効力に対応するものは人間中心的な倫理学においてはやはり交差なき因果応報を肝に銘じることであろう。カントの道徳法則の普遍妥当性に基づく断言命令もこれに基礎づけられる。先に幸福が自らの力能のうちにないことを確認したが、やはり、倫理学は信に開かれていると思われる。人格なき普遍妥当する法則はどれだけの実践的効力を持つか、山上の説教の側から問われよう。

 

Read More