25年8月改訂:内村鑑三晩年の「哲学熱」と真理の楕円説―純福音の析出をめぐってー(その一)

25年8月改訂版:内村鑑三晩年の「哲学熱」と真理の楕円説―純福音の析出をめぐってー

                                     千葉惠

 

序 「全聖書を解し得る」鍵

 内村鑑三は1914年に「聖書之鍵」と題して帰一的な聖書解釈の指針を表明している。[主張1]:「旧約は新約を似て解すべし、新約は羅馬書を似て解すべし、羅馬書は其の第三章二一節より三一節までを似て解すべし、神の黙示に由り羅馬書第三章二一節より三一節を解し得し者は全聖書を解し得るの貴き鍵を神より授けられし者なりと信ず」[i]。この発言が残り十数年の彼の生涯を方向づけ、内村は翌年「自訳」を「信仰の強弱―羅馬書三章二一節至二八節」(1915.2)にて、1921年年初からの60回の羅馬書連続講義(「講義」)にて「意訳」を提供し鍵箇所(「鍵」)解明に努めている。

 最初に内村の聖書研究と信仰の特徴を彼の自然、人間(歴史)理解のなかに位置づけ、その統一理論を哲学に求めたことを確認する。続いて何がこの鍵宣言をさせるにいたったかその背景と内実を探るべく鍵周辺の四つの文章また数年後の講義を取り上げ、鍵の贖罪をめぐる信仰理解の揺らぎを確認する。彼の信仰理解にはその間、神と人の二元論の哲学的枠組のもと鍵から引き出される神の前と人の前の分節と総合を企てるその終生の取り組みに応じて、三つの理解が見られる。人が持つ信仰は神の前の義認の「条件」であるという講義の理解から、「絶筆」で「信仰に手段方法は何もない」と克服されるに至るその過程を辿る(「三種の宗教」1930.2)。

 その動揺は四世紀ヒエロニムスのVulgata以来の鍵の一様の誤訳の故にであったと理解するが、内村はそれにも拘わらず、ことがらそのものに促されて、「絶筆」において信徒を神に嘉みされた神の前の構成員として組み込むことにより、義認の信仰条件説を克服し、律法から解放された純福音における恩恵の無償性を捉えるに至った。最晩年の「楕円形の話」において哲学的二元論の具体化の手法が提示されている。「宗教は神と人である」と楕円の二焦点が言及されるが、神の信義と神に嘉みされる信を二焦点に代入する補いにより、義認の楕円軌道が神の前のものとして描かれうる(1929.10)。本稿では筆者が正しいと考える鍵の翻訳を提示し、それと同じパウロ理解に内村が到達したことを明らかにしたい。

 

一、聖書研究と真理を証する三つの鼎―二元論哲学による包括へ―

 内村は、一方、J. Howesによれば聖書研究を「天職」と定めてから37年間で「ほとんど聖書全体」の注解(「ネヘミヤ、雅歌、哀歌と五小預言者を除く」)を公にし「現在でも日本語における聖書の一人による注解として最大である」[ii]。他方、彼は宮部金吾に「僕は天然と歴史と聖書とが人類に与えられた神の啓示の三脚であることを知って喜ぶ」と書き送ったように、青年時代から真理を証する「三つの鼎」の統一理論の形成に関心を懐いた[iii]。手紙では鼎の秩序づけはキリストによるとされ、キリストが天然と人間にロゴス(理)や聖霊の働きとして内在し「他の二つの秘密をも開く鍵」であるという。後にそれはキリスト論的宇宙観となり、「神は宇宙を以てキリストを生み給ふた」のであり、「宇宙」はこの「最も完全なる人」の故に「神聖」であり「万物は彼の故に貴くある」るとされる(17:92,95)。彼は「余は聖書なくして生存する事が出来ないやうに、天然なくして心霊の平衡を取って行く事ができない」(1922.3.20)と顧みるが、「福音の真理」(Gal.2:5)への健全な信仰に向けて、「神の奥義」、「天然の真実」そして「人類の実験」の三視点を鼎、基盤として宇宙、人生全体の包括的な探求を遂行する(11:201,1903.4)。

 内村はこの鼎の統一理論を哲学に求めたように思われる。彼はカントを愛した。「宇宙的感化を世に及ぼせし彼は・・言う、「我が上に星天の輝くあり、我が衷(うち)に道義の宿るあり」と、宇宙と道義・・彼の心は全宇宙を懐いた」(190号1916.5)。これは天上の星々の運行にそして人の心奥の良心の発動に秩序ある理(ロゴス)が働いていることへの信の表明に他ならず、その基本的態度は「信仰は之を個人の狭き経験の上に建てずして、宇宙人類の広い深い土台の上に築くべき」というものである(「信仰の土台」1927.4)。

 「所謂「見神の実験」を有たない」内村は自らの信仰が「凡人の」それであるとしつつその均衡性を指摘する、「カントの所謂「天の星と心の道義と」に由ってキリストを知るを得たのである。そして凡人的であるが故に安全である」[iv]。彼は留学時代ヒュームによる懐疑の洗礼とその哲学的克服とともに回心を経験している。彼は後年「自分の経験においてヒュームの哲学によって自分の信仰を一度破壊され」たが、「基督信者の実験を哲学的に攻究した」J・ミューラーの『罪に関する基督教の教義』が「自分の信仰の基礎を築いた」と述べる[v]。彼が「キリストを知るを得た」と述懐するカントとの出会いはこの著述を介してであると思われる。

 内村は懐疑に陥る思考様式の克服を心魂の二種類の在り方に求め、信念の度合いは証拠の多寡に比例するというヒュームの経験主義における認知的な次元で信仰を捉えることから、懐疑は心魂の根底において神を見失うことによる「心霊の苦悶」であると人格的、霊的な次元で捉えるに至る。「懐疑は霊性の惰弱(よわき)より来るものであって、智能の足らざるより来るものではない」(「懐疑」12: 196,1904)。最後の病床時「今度と云ふ今度「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」を徹底的に実験した」との告白に見られるように、彼の放浪時の『求安録』結語「光ほしさに泣く赤子」の見失った父を求める叫びは臨終に至るまで、時に、放たれたと思われる(1930.2.6、2:249)。他方、彼は福島県勿来で山桜の花吹雪を賞美しながら義家の古歌に事寄せて、牧飼的な労をとることもあった。「今日の余に此歌はない・・我が花は人である、然り彼の信仰である、而(しか)して懐疑(うたがひ)の風吹くなと我は常に心に祈る、然るに・・嗚呼、千人は右に斃れ、万人は左に仆(たおる)る。「吹く風を勿来(なこそ)の関と祈るかな・・」」(34:35)。

 天父と共にある平安と見失う懐疑の交錯のなかで、内村は神を見出すべく真理を証する鼎を探求する。彼は歴史的人物を描く「代表的日本人」、古代中近東の興亡盛衰研究の「興国史談」、地政学研究の「地理学考」等の歴史叙述をまた所謂「進化論三部作」等の自然研究を著した。弟子の生命科学者は内村の「思想の中央を貫通する断層の深さに目が眩む」とし、進化論は「宗教と科学との遭遇の状況を象徴」し、「五十年もの間絶えずその緊張」に身を置いたと言う[vi]。川喜多は内村が「福音の事実を科学の事実の上に置いた」ことに対し、「当たり前だ」という見解にも、「学問を捨てた」という見解にも首肯しない。その解決について彼は「[内村の]文字に基づいて明らかにすることができない」として「もっと適格の哲学・神学的思索にたけた」者に託している(49,36,63)。

 とはいえ有神論的な自然観のもと、内村は基本的には神と自然の究めがたさに「怯え」や「苦渋」(37,48)よりもむしろ畏怖と賛美を抱いていたと思われる。油壷の臨海試験所を訪れ半世紀前の自らの「ウニとヒトデと舟虫」の研究継続を確認し、彼は「人間は百年を費やしてウニ一つを知り尽くすことができないのである。神と天然には到底敵わない」(1927.7.4)と回想する。全人格的な調和を求めつつ幼子の信のもとに鼎が探求される。「病気の一年」の日記に「家に留まりて哲学的生涯を送る。悪くない・・小児の心になりて宇宙的真理を探る」とある(1929.7.17,11.25)。川喜多が見た断層は天然と聖書、科学と信仰のそれであるが、筆者は内村が救いの確かさそのものに断層を抱えていたと見る。

 『羅馬書の研究』(1924)以降「哲学熱」はとりわけ盛んであり「神を発見する」ことをめざす哲学が「人間の知識」でありつつ「是れまた神の賜物」であるという認識のもとに、内村は鍵の贖罪理解をめぐって神の前の無償の恩恵と人の前の自由で責任ある信仰がいかにかかわるかを「絶筆」(355号)にいたるまで追求した(1928. 6.9、1927-28年の日記に「哲学」への言及は36日ある)。

 彼の哲学は人間の知識を「神の賜物」即ち究極的には神の前の事柄としながらも、二元論を確保するものであった。[主張2]:「もし私の信ずる基督教に哲学的基礎があるとすればそれは二元論であって一元論ではない。聖書はその発端において言う、「元始に神天地を造り給へり」と。これは確かに二元的宇宙観である。神は霊であって天地は物である・・霊魂と肉体と、精神と物質と、本質を異にする両性の実在することを疑はない」(「私の基督教」1929.5)。これはシイリーにより教えられた仰瞻(ぎょうせん)の信仰を一旦括弧にいれ、人間理性は「真理の為に真理を愛する哲学」の名において相対的に独立したものであり、真理がそれ自身として探求される(「福音と哲学」1928.7)。二元論の具体化である楕円の二焦点の働きが何等かの理・法則のもと秩序ある楕円軌道をもたらすかが問われる。

 

二、 鍵新訳による義認論解決の視点―神の前の信義不分離説―

2・1「ローマ書」の方法論「ロゴスとエルゴン」の相補性がもたらす分析視点

 彼が鍵にこだわり哲学に向かう衝迫が奈辺にあったかを明らかにしたい。筆者は鍵のVulgata以来の例外のない誤訳が聖書理解に甚大な影響を与え西欧の宗派や学派の分裂の元凶であると理解するが、内村の信仰理解の揺らぎ、変遷もそこに起因しており、最晩年に彼の無償の恩恵理解は誤訳に負けず哲学的な企てにより正鵠をえたと解する[vii]

 11世紀にアンセルムスは「キリストを取り除き」、「理性のみ」にて、聖書を一切引用せずに「信仰」や「霊」を語ることなく、司法的次元では神の義と憐みが両立しないこと、神の尊厳と「矛盾しない」神の憐れみによる罪の贖いはまことの神にしてまことの人により遂行されることを論証した(Cur Deus Homo, praefatio)。そこで彼は父と子の憐みの協働説とでも呼ぶべき贖罪論を展開するが、人間中心的な語りは「神が・・譲歩する(concedit)」ことによるとする点に至るまで、期せずしてパウロ「ローマ書」の方法論「ロゴスとエルゴン(言葉・理と今・ここの働き)」(15:18)の相補性に基づく筆者の意味論的分析と完全に合致した(II18、『信』上序文、下219)。パウロは五層の各々整合的な言語網を張っていたが、アンセルムスは、三層(聖霊と罪の媒介の働きの言及を除く)を析出していた。それは彼が「聖書の権威」に頼らず誤訳から解放されていたことを示唆する。これは「理性のみ」により或る「前提」「同意」(I10)のもとにパウロの議論を理解できることを示しており、内村の楕円説が鍵の義認論の整合性を捉えうることを示したい。

 「ローマ書」433節をそのもとに展開するパウロの方法論は「キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって為し遂げたことだけ」(15:18(Rom.は章節のみ))を報告することにある(cf.11:32-3、 1Cor.2:16, 2:6-7、『信』上4)。パウロは真理(emeth堅固なもの)を愛した。そして真理を解明しまた証明する方法としてギリシア哲学の真理探究の伝統と共にロゴス(例、神の知恵)とエルゴン(聖霊の今・ここの執り成し)の相補性に即した。それは双方を車の両輪のように用いることにより、何であれ探求が前進する補完的な真理の吟味接近と証明の方法だからである。ものごとを掴め言葉が随伴する、言葉を掴めものごとが随伴す(Tene rem verba sequentur, tene verba res sequitur)。これは言葉と働きに偽りのなかったイエスの思考様式でもあり、「知恵はその働きによって正しいと証される」と言う(Mat.11:1,cf.Luk.24:19)。この方法によってのみ「私は真理である」と主張するキリストの福音は独一でありかつ、誰もが神の前と真理の前に生きている限り、普遍的に妥当することが論証される。「われらは完全な者たちには・・神の知恵を語る」(1Cor.2:6-7)。

 

2・2 鍵新訳による無償の贈りものの解明―神の前の構成員の自己完結性―

 ここで拙訳を提示しその視点から、内村の鍵宣言以降の論述を念頭に鍵の解釈を展開する。また鍵の誤訳により純福音から逸脱した内村の窮境と人生の最期に到達した解の経過を辿る(『信』下附録)。鍵は神の知恵と啓示行為が形成する神の前の言語網であるが、その構成員を数字で示す。

 21しかし、今や①神の義は、[②モーセの業の]律法を離れて、律法と③預言者たちにより証しされているものであるが、22神の義は④イエス・キリストの信を介して⑤信じる者[と神が看做す]すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信の間に]分離はないからである。23なぜ[分離がない]かと言えば、⑥あらゆる者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして⑦義を受け取る者たちなのであって、2526その④彼を①神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、⑨(⑧イエスの信に基づく者)を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして⑧彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。

 ここで神の前の構成員は九つの名称、表現により特徴づけられている。今日まで神の前と人の前の分節と総合が確定しなかったことの原因として、パウロの神学主張のこの中心3:21-26が二世紀の古ラテン語訳の「編集」であるヒエロニムスによるVulgata以来、誤訳されてきたことに求められる(『信』上165)。拙訳によれば「神の義はイエス・キリストの信を介して信じる者[と神が看做す]すべての者たちに明らかにされてしまっている」(3:22)は神の前の構成員の信と義と知の関係とりわけ神の義の御子の信を介した知らしめと信徒によるその知の報告である。その理由文は、神ご自身の理解として、「なぜなら[神の義とイエス・キリストの信に]分離がないからである」(3:22)と訳されるべきであったが、例外なしに人が持つ可変な心的態勢としての信仰をめぐって「なぜなら[信じる者すべての間に]区別がないからである(non enim est distinctio)」と一様に誤訳されてきた。信徒は神と御子の信義の不分離の故に神の義と自らの信義を神の前で知っている。

 パウロが第一章で報告する神の啓示行為の特徴は「啓示されている」(現在形)が二度用いられ、神の前のこととして受け手にその都度の今・ここで明らかな認識をもたらすことにある。「神の義」が「信」に対してそして「怒り」が「不敬虔と不義」に対し知らされている。「神の義は彼[イエス・キリスト]において信に基づき信に対して啓示されている。まさにこう書いてある「信に基づく義人は生きるであろう」。なぜなら、神の怒りが天から不義のうちに真理をはばむ人間たちのすべての不敬虔と不義のうえに啓示されているからである」(1:17-18、尚内村が挙げる従来訳の一例「神が人を信ずる事より人が神を信ずる事にまで」に拙訳は近い(26:94))。

 啓示がもたらす認識は「神の知られるべきものごとは彼らに明らかである。なぜなら、神が[モーセ律法付与時の]彼らのただなかで明らかにした(アオリスト過去)からである」(1:19)また「神の義は・・明らかにされてしまっている(現在完了)」(3:22)等受け手に「明らか」と記されている。鍵のアオリスト過去時制「差し出した」(3:25)も1:19と同様に完結した全体の一回的な出来事を表現する視点(perfective aspect)により報告されている。現在完了時制は信義の啓示行為が神人の出来事以降現在にまで継続している持続的な視点(imperfective aspect)により報告されている。パウロによれば、「怒り」と「義認」の啓示行為は、過去において生起したモーセ律法付与時の出エジプトの民の出来事とキリストのゴルゴタの出来事が規準となって、現在明らかなこととして遂行されている(1:18-32,3:21-26)。前者は一回的な或る具体的な時点における神の行為を、後者はその行為に基づき終末に至る中間時のその都度の今・ここの「好機」における義認の遂行の啓示行為を表現している。

 知らしめの啓示行為の対象は⑤⑨等の三人称表現でなされ、神の前で個人の匿名性故に共時的に一般化される構成員に「明らか」なこととして用いられている。神はご自身の義が御子の信と「分離がない」と看做し、その御子の信の力能が信徒を義とするに十全であることを知らしめている。信義の分離なさの故に神の義を知る者は「⑤信じる者すべて」であり、信徒は自らが「⑨イエスの信に基づく者」として義と看做されていることを知っている。これは神による知らしめの今・ここの働きではあるが、その受け手は三人称で表現される匿名性のもと普遍的に語られており、神の前の人々はこのように振る舞うという神の認識のパウロによる報告そして論証である。

 神はご自身の被造物の導きの歴史のなかでモーセ律法のもと「⑥あらゆる者は罪を犯した」が、「キリスト・イエスにおける贖いを介してご自身の恩恵により贈りものとして⑦義を受け取る者たち」であると認識している。神はその⑥人類の罪から義への「贖い(買戻し)」を提供した。神は「⑧イエスの信」の従順がその「血」に至るまで貫かれたこの「好機」に「④イエス・キリストをご自身の現臨の座として差し出した」。この意味において現在神の前にいない者は誰もいない。神の知恵は一回的な過去の出来事と現在の知らしめの啓示行為の明らかさの三人称による受け手の知識の分節と関係づけに示されている。

 この過去の一回的出来事に基づき、イエスの信の従順は「愛を介して働いている信は力ある」(Gal.5:6)とあるように⑥あらゆる者たちの罪を赦す力能を持つと神に看做されている。これにより人類は④イエス・キリストを無償の「恩恵による贈りもの」として今受け取るが、それは⑦義を受け取る者たちにとって自らの義認の内実である。この御子の贈りものにより、「今や律法を離れ」信義不分離な神の義が啓示されている限りにおいて、信義不分離の「信の律法」(3:27)はもはや怒りによる律法の義の個々の行為への適用、審判を不必要とし「業の律法」(3:20,27)から解放している。御子自身が信義不分離の「福音」の贈りものであり、「信じるすべての者に救いをもたらす」(1:16)。全人類の贖罪の過去の根拠とその都度の知らしめの啓示行為における受け手の明晰さのギャップを埋めるべくこの福音が全人類に宣教される。「神は、世界をご自身と和解させつつ、その仕方は[世界の]人々自身の背きを彼ら自身において考慮することなしに、また和解の言葉をわれらに委ね給うたことによってであるが、キリストのうちにいました」(2Cor.5:19)。

 神は⑧イエスの信の従順を嘉みし十字架に現臨したが、メシヤの尊称と共に自らの義の啓示の媒介に④「イエス・キリスト信」(帰属の属格)を立てている。職名を伴う固有名「イエス・キリスト(以下「イ・キ」)」は媒介者として、人の子にして同時に神の子でもあり(1:3-4)、パウロはこのような存在者に一つの行為を割り当てえず、「イエス」(3:26)や「キリスト」(8:34)と異なり決して行為主体として主語に立てられることはなく、常に媒介の前置詞(「介して」「において」)が先行する。

 パウロは媒介者の「信」を行為としてではなく出来事の範疇において理解しており、「信が到来する前には、律法により・・」(Gal.3:23)と描かれるように、神はイエスが信の従順を人として貫徹行為したことによりそれを嘉みしその信をイエスがキリストとなった即ち「判別された」(1:3)契機の出来事として彼に帰属させたと考えられる。そのとき「イ・キの」の「の」は従来の「イ・キを信じる」目的属格でも「イ・キが信じる」主格属格でもなく帰属の属格である。十字架に現臨した神はその信と自らの義の間に「分離はない」と看做している。かくして、無償の恩恵による贈りものとはイエス・キリストご自身であり、彼の贖いを介して誰もがその義を受け取る者たちであるとされている。鍵では内村等の目的属格の読みが要求する聖霊を介した今・ここの信仰付与は少なくとも知らされていない。

 「なぜなら」で始まる23-26節の長い一文が神と御子の信義の分離のなさの理由を報告している。神はイエスの信の従順を「ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機」であると認識し、「ご自身の義の知らしめに向けてその信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」ことが六節で十一度も用いられる「信」と「義」の分離のなさの理由を説明している。神はこれまで司法的次元における審判の執行を「忍耐」において「見逃していた」が今という「好機」に、神の義は業の律法とは「分離」されて、しかし、この「イエス・キリストに帰属した信」とは「分離がない」、そのようなより根源的な神の義が知らしめられている。信と不分離な義はいかなる立場にある者であれ誰もが等根源的に喜び受け入れ得る根源的な正義であり、これを具現し贈りものとして差し出された御子以上に人類は何を必要としているであろうか。

 パウロは神が御子を差し出したこの出来事に基づき、贖いや義認をめぐり「神の知恵と認識」(11:33)を抽出できる仕方で報告している。或いは、鍵は「神の知恵と認識」に基づく、そして「神からの知恵」である「キリスト・イエス」(1Cor.1:30)の信の従順を介した、神の働きの報告である。神の知恵はまさにイエスご自身が自らの言行において周囲に神の国を持ち運んだように、神の国がいかなるものであるか、神は義や罪をどのように理解しその成員はいかに振る舞うか等の永遠の知識である(Mat.18:20,11:28,Luk.17:20)。イエスの信の従順への神の嘉と高挙は「ピリピ書」に「この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられた」とある(Phil.2:8-9,cf.2:12-13,Mak.1:11)。

鍵の一特徴は永遠の現在におり一切を知る神が、聖霊とそれを受ける「われら」に言及することなく、啓示の⑤⑨差し向け相手を個々人の匿名性と全称による普遍性が確保される仕方で三人称を用いて表現することにある。誰であれ神に嘉みされた信徒は神の前の構成員として神の分離なき信義を知っている。

 他方、パウロは「私は君たちの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(6:19)と自らの身体の限界が自己の限界であると考えがちな「肉の弱さ」を顧慮して、相対的に自律した「義」と「罪」に対し中立的な可能存在者を譲歩として認めることがある。人の前の「肉の弱さ」においてある生身の今・ここに生きる「われら」は、ロゴス(説明言表)上⑤⑨三人称の神の前の信徒とは判別され、知らされていることと知らされていないことのあいだで信によって生きる(cf.1Cor.9.26-27)。その中間時の制約のなかでパウロは「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(14:22)と、エルゴン(今・ここの働き)上自らが神に嘉みされる三人称の信徒たちの一人に他ならないと自らの責任ある自由のもとに今・ここで信じるべく励ます。ここに理とその働きをめぐる神の一つの知恵を見る。神の義と憐みの両立は、ロゴス上神の信義の不分離が人類の罪の贖いのための愛の故であったこと、またエルゴン上信義の不分離が罪から贖いだす愛に結実したことにより確認される。律法の「冠」(13:9)である愛は信の律法に転換され、「愛を介して働いている信」(Gal.5:6)こそ人類に救いをもたらす。


[i] 『聖書の研究』(「聖研」~号)「聖書之鍵」172号1914.11,『内村鑑三全集』21巻p.113(21:113)(岩波書店 1980~1984)。全集は執筆順刊行の故に時に文献名と年月のみ(日記の場合年月日)記す。

[ii] J. Howes Japan’s Modern Prophet,p283 (Toronto 2005).

[iii] 手紙1886.10.6, 36:246,cf.1885.12,17:222、聖書見返しthree witnesses to the Truth1885.4.18.

[iv] 「私の基督教」32:106,1929.5、日記1928.12.6。

[v] 1928.7.24,cf. How I became a Christian? Ch.9,3:134、J.Müller, The Christian Doctrine of Sin, Vol.1,Clark’s Foreign Theological Library,(Edinburgh 1868).

[vi] 川喜多愛郎『生命・医学・信仰』p.65,36(新地書房 1989)。千葉惠『信の哲学―使徒パウロはどこまで共約可能か―』下巻附録(北大出版会2018)。尚、引用や文献の典拠を本書に求める時には例えば進化論については『信』上266と記す。

[vii] K.Chiba Uchimura Kanzo on Justification by faith in His Study of Romans: A Semantic Analysis of Romans 3:19-31, Living for Jesus and Japan, ed.H.Shibuya & S.Chiba (Eerdmans 2013)

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