25年8月改訂:内村鑑三晩年の「哲学熱」と真理の楕円説―純福音の析出をめぐって―(その三、最終)
五、「代刑代贖」論の窮境と論駁―律法と混濁した福音―
5・1十字架に罪への怒りを見る
[問3]:何故内村は3:25-26節を「キリスト教の中心点」、「最重要の句」として鍵の「鍵」と主張するのか(1928.12.2、26:186)?鍵が信義不分離の啓示の報告であるとき、「今や業の律法とは分離され」たはずの律法に基づく義例えば代罰は排除されたのではないか?
内村は「神の忿怒と贖罪」(1916.4、22:237)において25-6節が「代刑代贖(贖罪)」「代刑代罰」理論の基礎にあると解する。神の怒りに内村は侮るべからざる神の真実を見る。「神は愛である、而して愛なるが故に彼は罪に対して熱烈の忿怒を発し給ふ」(237)。神の怒りは罪の値である死を逃れる悔い改めを促す。その証拠にイエスのパリサイ人への呻きの言葉で始まる偽りへの七つの叱責を挙げる(Mat.22:13)。「余輩は人類の罪に対する神の忿怒を離れてキリストの十字架を考ふることは出来ない・・神は其独子の上に人類のすべての罪を置き給ふた・・キリストは茲に人類を代表して人類の受くべき罪の適当なる結果(刑罰)を己が身に受け給ふた。・・十字架は聖子の受くべき審判としては悉く不正であり、然れども神に反逆き来たりし人類の審判(刑罰)としては悉く正しくあった」(239-40)。
内村はイザヤ53章を引き言う、[主張6a]:「キリストの十字架を人類の罪の代刑代罰として見る」。彼は鍵25-6節「神はその血に由りてイエスを立て信ずる者の挽回(なだめ)の祭物(そなへもの)とし給へり」[1]を挙げ、十字架を罪と罪人とに対する「神の態度を更(かへ)るために必要であった」と罰から赦しへの態度変更の出来事と解する。「ここに代贖と赦免と救ひとが最も明らかである」(22:241)。内村はこの二節に「神は愛である又義である」という「楕円形」なる「基督教的真理」の「心霊的宇宙」が描かれているとする。義と愛のディレンマが「十字架上の死に由て解決され」たとする(cf.Ps.85:10)。[主張6b]:「義罰を経ざる赦免は信頼するに足らない、愛を施すに途がある、又之に与かるに途がある」とし「キリストが我らの罪の代りに十字架上に於いて罰せられたという事を」信ずると結論づける。
「講義」においては表現「代罰」は避けられるが、「意訳」により25-6節の解釈が補強されている。「自訳」では「神は予めイエスを立てて其血によりて信ずる者の宥和(なだめ)の供物となし給へり、是神の忍耐を以てする巳往(すぎこしかた)の罪の赦免に関し今の時に彼の義を彰さんため也、即ちイエスを信ずる者を義とし給う方で、ご自身も尚義たらんため也」とあるが、こう「意訳」される。「神はイエスを立てて宥めの供物となし給へり(是れ信仰に由りて受けられるべきもの、其血を以て提供せられしものなり)・・是れ一には神が忍耐の中に既往の罪を見逃し給ひし事につきて其義を彰はさんため、二には、今の時に其義を彰はさんためなり。是れ神自から義たり、而して同時に亦イエスを信ずる者を義とせんがためなり」(26:186)。意訳では罪を見逃してきた律法に基づく義を恢復するべく「見逃し給ひし事につきて其義を彰はさんため」と祝福と呪いのもとにあるモーセの業に基づく義をもはや見逃さないという仕方で読む。しかしテクストは「~つきて」ではなく「見逃し故に(dia)」と福音啓示の「好機」の理由づけの一文である。さらに25節の連言「そして(kai))」が自訳の「尚」が「同時に亦」とされ業の律法に基づく神の義と信に基づく義認の同時性が強調され、キリストの十字架の一つの出来事のうちに二種類の義を読む。審判の義と信仰義認の愛が十字架の代罰において共存しえたと意訳により提示されるに至る。
内村は「十字架の福音」が「福音」であるとし「キリストの十字架・・神の愛、その義、その怒り、その赦免、すべてが其[福音]の中に含まれている」と非分節的に言うとき、律法の混在を十字架に見ており純福音の析出に失敗していると言わねばならない。一方で「全く律法を離れて信仰だけの人となったのが真の基督者である」(26:167)とあれほど律法からの解放を伝えていたが、代罰の主張において当の神が律法の枠の中で或いはそれと共に福音を啓示していたことになる。
鍵概念は七十人訳で用いられるhilastērion である。この語は文字通りには神がモーセと会見すべく造作を命じた幕屋に置かれ、その上に犠牲の子羊の血がふりかけられる契約の箱の「蓋」を意味する。この語は「宥めの供物(Sühne Opfel)」や「贖罪の犠牲(sacrifice of atonement)」また「恩恵の座(Gnadensthul)」(Luther)や「現臨の座(a locus of divine presence)」(C.Talbert)、「会見の場(meeting place)」等と訳されてきた(『信』上612)。キリストの十字架の血を、罰を含む犠牲の一種として理解するか、そこにおいて神が人にまみえる福音の実現の蓋ないし座と看做すかで分かれる。
内村は「宥めの供物」を「宥め」という訳語に引きずられ、親子関係の比喩により、悪事を為した子に怒るとき、「親より子を宥めることはできない」とする。その比喩のもとで「到底神より人を宥めると云ふ事のありうる筈はない。・・人より神を宥めるのであるに相違ない」(188)と言う。この箇所の「差し出した」の啓示の行為主体が神であることが揺るがない以上、「宥めの供物」として「差し出した」主体が人間イエスであるという理解は端的に主語の取り違えとして文の有意味性を破壊する違反である。しかし、内村は人間の罪の処罰と義認双方をこの語に担わせ、実質的には人より神への「宥めの供物」と共に神から人への「恩恵の座」双方を意味すると多義的に理解している。これはパウロが曖昧だったという主張を含意する。
5・2業の律法から信義への解放としての贖い
[問4]:内村によるhilastērion の多義性の要請はパウロのこれまでの双方の判別による純福音の析出の議論をだいなしにするものではないのか? Vulgata以来の誤訳が内村をして律法からの福音の析出に失敗せしめたものと思われる。
これを指摘したうえで、内村に譲歩して、イエスから神への供物を恩恵として受け止めるには、一旦子より父への宥めとして捧げそれに父は満足しそれと同時に、父が人類の罪を処罰せざるをえず、子において罰することにより父と子双方が人類にその宥めによる和解を提供したと読み込まねばならない。[主張6(6a+6b)]:「神は・・罰すると赦すと、罪に定ると義とすると、二つの事をキリストの十字架を以て同時に行った、即ち「神自から義たり、同時に亦イエスを信ずる者を義とせんが為なり」」(191)。これが鍵箇所中心の解釈である。
しかしテクスト(25-6)は帰結の不定法「ご自身が義であることへと至る」と共に現在分詞「イエスの信に基づく者を義とすることによって」が連言「そして(「意訳」は「同時に」)」により結びあわされている。従って、この箇所では二つの主張がなされているわけではなく、「イエスの信に基づく者を義とすることによってもまた[即ち律法に基づく神の義とは別に]神自らが義であることへと至る」と訳さねばならないはずである。同時に罰と赦しの二つのことが遂行されているわけではない。神が信に基づき義であることの論証に向けて、神は人類に対しイエスの信の従順に基づき義とすることをこの「好機」に知らしめている。
内村の信仰の特徴は十字架上で神の怒りを一身に帯びたイエスを仰ぎ見る、そこに感恩の情が湧くそのような信仰である。しかし、この解釈にはただちに困難が伴う。その不条理さは、ひとつにはもしそれが茶番であれば、即ち子なるイエスに父なる神が甦らすことを予め知らせつつ罰したふりをしているならば、そのような神は偽りであろう。また、神はイエスが罪なきことを知っているはずであり、内村も「聖子の受くべき審判としては悉く不正であり」と認識しつつ、罪人の身代わりとしてイエスに真剣に怒りをぶつけ人類の一切の罪を担わせ最大の罪人として罰し、呪ったとするなら、そのような神はイエスその人に対し不義を為したことになる。神は「業の律法」「モーセ律法」に即しても「信の律法」「キリストの律法」に即しても義であり聖であるはずである(3:27,3:20,10:4,1Cor.9:9, Gal.6:2)。
[問5]:「贖い」とは「今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が君を罪と死の律法から解放した」(8:2)、「キリストはわれらを律法の呪いから贖いだした」(Gal.3:13)その解放ではないのか?解放する神が自らの義とは「分離される」業の律法のもとに留まっていることはできず、より上位の「分離なき」義を示しうる限りにおいてその解放が可能である。
アンセルムスは「理性のみ」にて父と子の協働の愛による罪の贖い(買戻し(redemptio)、解放(liberatio))を論証し代罰説を否定していた(CDH.II20、『信』下七章)。「父なる神が「わが独子を受け、汝の代わりに捧げよ」と言い、また子自身が「われを受け取り、汝を贖え」と言われた場合以上に深い憐みを考えることができるか」。この語りに罪を担う身代わりの死の理解を父子は共有しつつ、子は父の意志に「真っすぐ」の従順を貫き人類の罪を担い父はそれを罪を贖う十全な力あるものとして嘉みした、その憐みの連携が見られる。命じられているのは犠牲の捧げではなく憐みの受容である。
「神の忿怒と贖罪」の代罰説は藤井武「単純なる福音」(188号1916.3)への反論であるが、藤井は正しく「実に「神の義は律法の外に顕れ」たのである、而してこの純福音のみが我等の頼むべき隠れ家である千歳の磐である」と結論づけていたことになる。内村のように人間の側から見れば一人の神は怒りもしまた義認もしようが、鍵は神の信義の分離なさに基づく業の律法からの贖いをめぐるパウロによる神の働きと知恵の報告だったのである。
パウロは「神には偏り見ることはない」(2:11)と一人の神に秩序ある二種類の正義を見る。一方、神は業の律法のもとに生きる者には業の律法を適用し、そこでは「すべての律法を為す義務がある」こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」がそこでは誰も「神の前では義とされないであろう」(Gal.5:3,Rom.2:13,2:6,3:20)。他方、信の律法のもとに生きようとする者、「神の善性」に留まろうとする者には神は「イエスの信に基づいている者」かにより審判を遂行する(11:22,3:26)。
六、絶筆における神の前のロゴスの析出と楕円二焦点への代入
6・1二元論の楕円説による難問解決
内村の困惑は実際、3:25-6節について「詳細は他日に譲り茲には大意を述ぶるに止めたい」と言い、3:27-31に至っては一行のみを与える事実に確認され、彼は聖書の鍵の問を「講義」後も抱え続けることになる(186、193)。彼は注解書を買い求め同じ問題を反芻し、時に予定の教義に再会し改めて無償の救いを見出し、時に信仰条件説を確認している。「わが旧き信仰に立ち返りて歓喜極まりなしである。エレクションである、予定である、わが信仰の真髄は是である。神に予め救いに定められずしてわが救はるる理由は一もない。・・自分に救わるるの何の資格なくして、神の至上意志によって救わるるのである」。予定の教説は「神の側」では即ち永遠の現在において時空を自由に行き来する神においては私が明日何をするかまですべてが知られてれており、個人の選択の自由が棄損されることなく恩恵の無償性、贈り物性の主張を根拠づけるものとなる[2]他方、鍵のフォーブスの注解を紹介し、「神はキリストに在りて人類の罪をすべて赦し給うた。人は今は唯信ずれば救わる、但し信ぜざれば救われないと言うのである」と条件説を再提示している(1928.12.2)。
さらに、師の教え[Z:媒介説]に忠実な或る読者が「哲学熱」への「反対」を表明し「福音は聖霊のバプテスマを受くるによりてこれを信ずるのであるからこの世の知識なる哲学の援助など借りる必要はない」と書き送った時、内村は「哲学を恐れ」ないよう励まし自らは「神と人」の二元論の具体化を追跡した(1928.5.17、5.23、7.24)。内村が恩恵の無償性と恩恵を得る為の信仰の条件性の間の矛盾緊張を理解しなかったはずがなく、彼は哲学にその解決を求めていた。彼の「オイケンやベルグソンの方が、神学者よりも遥に有益であ」との発言は従来の聖書学や神学では解けない問を彼は少なくとも抱えていたことを示している(1926.9.29)。
内村は晩年「神と人」の二元論のもとそれを適切に分節、総合する方法として、「真理は楕円形である」の構想に至ったと思われる(「楕円形の話」32:207)。彼が「キリストは神であって亦人である」(32:208)と語るとき、「初めに理(ロゴス)があった、理は神に向き合っていた。理は神であった。・・その彼は人と成った」を念頭においたことであろう(John.1:1-6、cf.1:2-4,11:36)。万物はこの理であるキリストにより形成された。それが人の側ではナザレのイエスの信の従順の貫徹に結実し、神の側では「イエス・キリスト」を介した分離なき信義の啓示行為に結実している。
6・2仰瞻の信仰の純化
「絶筆」である「三種の宗教」において、内村は[X:条件説]「信ぜざれば救われない」を乗り越え、実質的には御子を介した「神の恩恵」とそれに「応ずる人の信仰」を神の前の関係と捉え[Y:信義不分離説]を主張している(1930.2.355号,32:303)。
[主張7]:「基督教は最高道徳でない、贖罪教である。キリストに在りて神が人類の罪を滅ぼし給へる其事実を示せる宗教である。・・「汝ら我を仰瞻せよ。しからば救はれん」と教ふる宗教である。・・人が自から神を求むる時に彼は芸術的に又は倫理的に彼に近づかんとする。然れども神が人を求め給ふ時に人は信仰を以って神に到るより他に途がない。信仰は神が備え給ひし救いの途に自己を信(まか)す事である。信仰に手段方法は何もない、唯信ずである。・・神の恩恵に応ずる人の信仰、それが眞の基督教である。今度私が死んだとして、私は私の絶筆として此端文を遺して恥としない。私が生存(いきのこ)るならば此信仰を繰り返すまでである」(32:304)。
繰り返しを恥としない「此信仰」により、内村が信仰理解に新たな手応えを得ていたことを確認できる。従来の義認条件説は払拭され、「信仰に手段方法は何もない」と言われる。一般に「手段」や「方法」はそれとは異なるゴールや目的を実現する手続きであり、適切な手続きは目的実現の「条件」である。
「神が人を求め給ふ」という神の前の視点はここでは「人が自ら神を求むる」という相対的自律性の視点と判別さる。人が神を求める途や動機付けは「倫理的」また宗教的と多様でありうるが、「唯信ず」は「神が備え給ひし救ひの途」に「応ずる信仰」として、先に見た義認条件説における「徹底した」や「無邪気」という類の形容はなく、神が嘉みする神の前の人の唯一の応答を表現している。これは鍵の啓示の受け手の三人称の匿名性に対応し、神に備えられた途に相応しい信仰が捉えられ、内村は神主導による神ご自身の自己完結的な神の前の文章を報告している。
救いの唯一の途は神が備えた途に応じる信である。その「救ひの途」とは神の義とその啓示の媒介「イエス・キリストの信」両者の信義に「分離がない」その途である(3:22)。その「恩恵に応ずる人の信仰」は神により理解されている限りのご自身の分離なき信義の恩恵に相応しい人の信仰即ち「イエスの信に基づく者」のことであり、神はそう看做す者を「義としている」(3:25)。
恩恵により備えられた信義不分離の救いの途とその「他に途がない」その途に「自己を信(まか)す事」には、その上りと下りの同一の途の比喩が適用される。内村は同一路により恩恵と信仰の不分離な二項一組を想定しており、その信仰が嘉みされる者は神の前を構成する義人として既に組み込まれている。かくして神の前の神が嘉みする信徒の義認は、永遠の選びのもと、神が信義不分離と看做すが故にその都度の現在における無償の恩恵の「贈りもの」(3:23)である。これは神が理解する限りの[Y:信義不分離説]の一般的な言明(ロゴス)に他ならない。
その理解のもとで、「汝ら我を仰瞻せよ。しからば救はれん」における命令文と「しからば」の結合は、後続文の神の前の構成諸要素を考慮する時、神の前の事態として一層厳密な必要十分条件として提示することを許容している。「汝ら我を仰瞻している場合にかつその場合に限って汝らは救はれている、逆も真」。他方、[X:条件説]なら、「信じなければ救われない」が仮に真であるとして、「信じるならば救われる」は論理的に帰結しない。どのような信仰を持つかが問われるからである。
かくして「我を仰げ」の命令は必要十分な関係にある信義不分離の神の前の一般的な言明として理解しなければならない。理論的に純化された内村の仰瞻の信仰は神の前の二項一組の人格的な信の交わりである。人生の終わりに仰瞻の対象が通常の三人称「イエス」(29:343)や「彼」ではなく「我」に変換され神自身の呼びかけとしているところに、内村の勘が研ぎ澄まされていることを確認できる。
この恩恵を表現しうるものが彼の二元論の具体化としての楕円説であり、鍵を楕円化すればこうなる。「分離なき神の信義」は神に嘉みされたナザレの「イエスの信」の従順の貫徹の働きとともに二焦点を形成する。神の前の「神と人」のその分離なき二焦点は「イエスの信に基づく者」の義認を秩序ある楕円軌道において遂行している(3:21-6)。ケプラーの三法則に対応するそのロゴスとして「神の信義は神の愛故にモーセ律法の業に基づく義より根源的である」が発見されよう。楕円化を人の前に拡張すれば、真理を真理の為に愛する哲学の営みと福音の真理への愛も二焦点としてこのように楕円的に喜ばしい一つの真理探究と発見の生を形成する、愛は喜びを伴いそして喜びは人を幼子にするからである。
結語
内村は鍵を自らの告別式で読むよう指示したとき、神の前の信義不分離の「福音の真理」は一切を秩序づけていることに思い至っていたことであろう。「宇宙万物人生悉く可なり」が最後の言葉であった(357号)。
[1] 「邦訳聖書」(26:186),cf.大正六年「改正訳」32:367
[2] 1928.5.3、cf.「予定の教義」1904.5、12:175。J.Müllerはルター等数人を挙げて言う、「彼らは究極的に彼らの予定の教説を、一つの端的な必然性において生じるあらゆるものを内含するために、神の知識と意志の永遠の現在にして能動的な力能のうえに基礎づけている」(ibid., 263)。