夏の連続講義:21世紀の宗教改革の主張とその人文学的基礎(その2)
(はじめに カトリックとプロテスタント和解の鍵発見(その1)承前)
1.宗教改革運動がそこに基礎づけられ展開される言葉と働きの補完性
1.1 ナザレのイエスの言葉と働き
福音の宣教
21世紀の宗教改革は疑いもなく、聖書が証言するナザレのイエスの言葉と働きにその基礎を持つ。そこからユダヤ人にも異邦人にも受け入れられる力ある普遍的な言葉が生み出され、そこから人々の間で生命と力に満ちた肯定的な働きが生みだされるそのような基準点がイエスの言葉と働きである。パウロは「ローマ書」において「御子の福音」(1:10)を理論的に伝えており、本稿の目的はキリストの言葉と働きが神の救済の歴史のなかでいかなる役割を担っているかを明らかにすることである。
イエスの言葉と働きにおいて最も著しいのは彼が神の福音を宣教するものでありかつ自ら宣教される者であるということである。この宣教する者と宣教される者が同一者である、福音を語る者が福音の内実であるという尋常ならざる事態が人々を今日まで動かし従わせしめた救いの源でありまた離反せしめてきた躓きであるところのものである。
ナザレのイエスは「彼に群がって聞き」にくる群衆にエルサレムの神殿やシナゴーグにおいてそしてガリラヤの野原や山上において何を語り、何を教えていたのであろうか。彼はアブラハムやイサク、ヤコブのイスラエルの族長たちに導かれた歴史の帰趨について、そして神のみ旨・み心(thelēma)は、モーセに啓示された律法を介して知らされていることまたイザヤやヨナ等の預言者たちの働きを介して知らされていることを語り教えた。彼は時空の外にいて天地を創造し、永遠の現在のもとに一切を知っている全知全能の「天の父」とそのみ旨について語った(Mat.19:26,Ps.139)。彼は天の父のみ旨を知っておりそれを教えようとした(ただし、終わりの時を除く(Mak.13:32))。彼は「天の父のみ旨を行う者が天国に入れていただく」ことを直截に語った(Mat.7:21)。彼は律法と預言者を通じて聖書に伝えられる神のみ旨・意志は自らの受難と復活において実現されると語り、神の国の福音の内実は自ら自身のことであると教えた。「祝福されている、君たちの目と耳は、というのも君たちの目は見ておりまた耳は聞いているからだ。まことに私は君たちに言う、多くの預言者や義人は君たちが見ているものを見たかったが見ることができず、君たちが聞いていることを聞きたかったが聞けなかった」(Mat.13:17)。
イエスがユダヤ教の改革者として始めた宣教活動は福音・善き音信、即ち神の国の救いを伝えるものであった。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた」(Mak.1:14-15)。イエスは聖書に即し福音を「イスラエルの失われた羊たち」に伝えることにより宣教活動を始めたが、彼は人々の信の従順に出会い、信の根源性の故に異邦人に対しても伝えたことが報告されている(Mat.15:21-28)。聴衆には悔い改めてこの新しい教えを信じるように促した。
それが彼の短い宣教活動の内実であるが、その前提にイエスは聴衆が神のみ旨を知ることができそしてそれをなんらか遂行できると考えていた。福音は自らを介して実現されるものであり、「福音」はパウロによれば、「信じる[と神が看做す]者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:4)。ナザレのイエスはその力能を自らの身辺に一挙手一投足において実現した(Mat.12:28)。
宣教しかつ宣教される同一者の四種類の語り
イエスの語りは複層的であり、概して四種類に分類されよう。(1)宣教する者と宣教される者が同一であることに基づき自己言及的に語られる。(2)神の憐みは天と地の連続的なものとして光や野の百合空の鳥など自然事象の比喩を介して語られる。(3)天と地の不連続性は人間事象の不十全性、悪や罪に由来するが、地上のものごとの譬え話によりまた歴史の帰趨をめぐる自らの預言や警告、叱責により架橋が試みられる。(4)自然事象、人間事象についての一般的法則が語られるが、この次元での発言が主に福音を一般的に支える倫理的な法則性を導出させる。
福音書が報告するイエスの言葉の(1)自己言及が極めて特徴的である。神の国の福音を宣教しつつ、その媒介者である自らを語る。彼の言動そのものに神の国が何らか今・ここに現在しているそのようなものがこの自己言及である。聖書への尊敬のなかで聖書に基づく歴史の帰趨が自らに結実するその認識が語られている。「聖書全体」がイエスを預言しまたイエスにおいて成就されそしてイエスを介して理解可能なものになるとイエス自身により発言されている。
イエスはガリラヤの野辺においては信の従順の生涯の途上にある。彼はまことの人として(旧約)聖書に記されていることに基づき、神のみ旨を忖度し自らの生を最善の行為選択肢の認知と実践においてその都度構築していった。イエスは自らの生涯が聖書に即したものであるとともに、その預言と律法の成就であるという自己認識のもとに一挙手一投足を歴史に刻んでいた。聖書全体が新しく福音のもとに位置づけられる。この福音の言葉の自己言及性は福音の事象が神とイエスの協同作業であり、自己完結的なものであることに基礎づけられる。パウロが「福音に[君たちと]共に与るために、福音のために私はいかなることをも為す」と語るとき、信じる者に救いをもたらす福音とは何かひとにより与(あずか)られるものであり、福音それ自身は自己完結的なものであることを含意している(1Cor.9:23,cf.1:11)。ひとは自己完結的なものに対しては、例えば修繕の要のない完璧な家があり、その家は清らかで争いも病も死もないと言われ招かれたたとしてひとはどうするであろうか。
福音書に報告されているイエスの言葉には理論的教説の展開は見られない。彼が語る言葉はユダヤ教の預言者と律法の伝統のなかで言い伝えられる教えを取り上げ、それを先鋭化したものであり、また自然事象に訴えるものであり、譬え話により具体的に教える。これらはすべて天の父のみ旨がいかなるものであるかを教えるものであると同時に、それは話者であり媒介者であるイエスとの信頼関係の醸成を目的としている。それもすべて心魂の根底における「その通りです、本当です(ita est, verum est)」という承認と同意そして信頼が問われている。その意味ではどこまでもイエスと聴衆者の一対一の関係が基本である。この点について譬え話が著しい役割を発揮する。
イエスの自己言及と天と地の連続と断絶
神の(2)憐れみは善人にも悪人にも等しく太陽を昇らせ雨を降らせ自然の恵みに与らせてくださる自然事象を介して確認される(Mat.5:45,6:25-26)。人間がこのような生物的与件を持ち宇宙や神について考察することができること、愛することができること、これは自然を介した神の憐れみに他ならない。天の父の憐みは天地の連続性の前提のもとに地の上のホモサピエンスに種として等しく注がれる。他方、イエスは地上の(3)譬え話により天国がどのようなものであるかを語る。それは天と地の分け隔ての前提のもとに架橋を企てる試みである。イエスは、自ら語る譬えは憐まれていることの自覚のなかで聞き理解する者と聞いてもこの憐みを悟らない者を判別する機能を持つとする。同時に譬えは叱責や警告をも発しまた含意しており悔い改めに導く機能を有している。
福音書はこう報告する。「イエスは弟子たちに言った。「君たちには神の国の奥義が授けられているが、外側のかの者たちにはあらゆるものごとは譬え話のなかで明らかになる」(Mak.4:10)。彼は平行箇所でこう語る、「君たちに天の国の奥義を知ることが授けられているが、かの者たちには授けられていない。というのも、誰であれ(hostis)持っている者は、その者には与えられるであろうそしていや増し与えられるが、誰であれ持っていない者には、持っているものをもその者から取り去られるであろうからである。このことの故に、私は彼らに譬えにおいて語る、というのも、彼らは「見るけれども見ず、また聞くけれども聞かずそして理解しない」からである」」(Mat.13:11-13)。
ここで「奥義」とはイエスがメシアであること、そして復活の勝利により彼の言行の一切が明らかになったときに回顧的に語られている(1)自己完結的な福音への「自己言及」のことが含意されていよう。なお神を愛しそこに心のある者は天の国に関するものごとの知識や恩恵がいや増し加えられるであろう。他方、この世に価値を置く者は「たとえ全世界を獲得しても」天国に関連するものごとは持っているものまで取り去られていくことであろう(Mat.16:26,cf.21:43)。
福音が究極規準となり次の(4)一般的な倫理的原則が語られ秩序づけられる。「君の宝のある所、そこに君の心もある」(Mat.6:21)。福音を宝としない者はそれを獲得することはないであろう。ひとが価値を置くもの、そのものが規準となりものごとを量り、計測しまた審判しつつ量られ、計測され、審判されることになろう。「君たちは裁くな、それは君たちが裁かれないためである。君たちが量るその量りにおいて量られるであろう、君たちが計測するその計測器において君たちが計測されるであろう」(Mat.7:1-2)。これらは一般的な倫理基準であるが、これらが福音の自己言及に秩序づけられるとき、宝、量り、計測器はキリストとなる。そのとき、その価値を置くキリストによりものごとを量り、計測することになる。
ただし裁くことはキリスト自身なさなかったことであり、キリストを自ら裁くときの規準とすることはできない。彼は業の律法を乗り越え信の律法を打ち立てたひとであり、律法の冠である愛は「愛を媒介にして働く信」(Gal.5:6)に転換されているからである。キリストが量りや計測器であるとき、たとえば「豚に真珠を与えるな」(7:6)はむしろ「豚には干し草を与えよ」となり、豚にとっての最善を識別することに向けられる。パウロは言う、「自ら識別するそのことがらにおいて、自らを裁かない者は祝福されている」(Rom.14:22)。ひとは善と悪、各人の実力などをその都度最善の行為を遂行すべく識別せざるを得ない。しかし、識別はキリストが規準である限り当事者の最善を願うことに基づいており、それは審判することではない。裁く者はモーセの業の律法の祝福と呪いのもとに、裁く者と裁かれる者たちのあいだで「同じことを行っている」つまり律法の枠のなかで生きている(Rom.2:3)。信の律法の啓示により人々は業の律法からの解放に導かれている。
イエスは自らの復活のあと、エマオの途上において復活の主とは気づかなかった二人の弟子と共に歩きながら、真の預言者たちについて言う。「「ああ、預言者たちが語ったすべてのことを信じることに至らない、何という、愚かでその心鈍い者たち。キリスト[メシア]はこれらの苦しみを忍んでそして栄光に至るはずではなかったのか」。そして、イエスはモーセとすべての預言者から始めて聖書全体において(en pasais tais graphais)、ご自分について書かれていることを説明した」(Luk.24:25-27)。この自己言及は復活の勝利を挙げたからこそ語りうるものであった。そのことは、彼が信の従順の生の途上において天と地の媒介者である預言者と律法について三人称で語っていたものごとについて、イエス自ら言葉と行いにおいて偽りなく実現した後には、自らを指示している或いは自らとの関連において理解されるものとなったことを明らかにしている。
天の父のみ旨を明らかにし語る者は実は自らについて語っている一種の自己言及であったことになるが、このような事態は先ず言葉と行いにおいて偽りのない者においてのみ語りうる言葉であった。「私についてモーセ律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は必ずすべて実現する」(Luk.24:44)という甦ったのちのイエスの発言は神の子に相応しい言葉であるが、何世紀をもかけて編集された書物が人類の歴史全体を見渡し全体として一人のひとの子にして神の子について記している。言ってみれば、人類の歴史の帰趨はイエス自身への信にかかっていると報告されている。この書物は二千年の歴史の審判を経ているが、おそらく人類史上現在にも後にも他にこのような言語使用を見出すことはできないであろう。
なお福音書記者やパウロは宣教するイエスの言葉と働きを報告することを通じて宣教している。この宣教は間接的であり、種々の事実誤認の可能性は残る。しかし、神は人間の弱い言葉を介して伝達されることを許容している、つまり神が許容し認可しなければこのような形でさえ纏められることのなかったであろう書物が「聖書」であり、この意味においてそれは「神の言葉」である。イエスその人においては自らの使命の認識と遂行のあいだには乖離はないであろう。誰かがたとえそこに乖離がなくとも自己認識つまり神の子である者として聖書の預言通りの受難と復活を遂げるという自己認識に誤りがある、自己欺瞞であると主張するなら、それは彼の諸々の働きと復活によって反駁される。復活は神の専決行為だからであり、イエスに罪がなかったことの証だからである。
甦ったキリストは聖書の預言を自己言及のもとにまとめる。「そして彼らに言った、「キリストは苦しみを受けそして死者たちのなかから三日目に復活する、そして[キリスト]自身の名においてすべての異邦人に罪の赦しへの悔い改めが、エルサレムから始めて、宣教される」と書いてある。君たちはその証人である」(Luk.24:44-48,cf.Act.17:2)。復活については数百人の証人が挙げられている(1Cor.15:6)。一切を創造し統べ治める神から派遣され永遠の生命を与える神の愛の体現者であるイエスの言動に関わる者は、宣教する者と宣教される者が同一人である彼の言葉を真理であると信じ神の子キリストであると受け入れるか、それとも拒否するかの態度決定が常に迫られている。これが彼の言葉の根源的な層である。神の前の言語網は自己完結的であり、その構成員は神に嘉みされた者たちである。
パウロはこの福音の包括性をこう語る。「もし神がわれらの味方なら、誰がわれらの敵であるか。そもそもご自身の子を惜しまず、われらすべてのために彼を引き渡したその方が、いかに彼と共にあらゆるものをわれらに賜わらないということがあろうか。誰が神に選ばれた者たちを告発するのか。神が義とする方である。誰が罪に定めるのか。キリストは死んだ、いやむしろ甦り、神の右にある方であり、またわれらのために執り成したまう。誰がキリストの愛からわれらを引き離すであろうか。艱難か、災害か、迫害か、飢餓か、裸か、危険か、それとも剣か。まさにこう書いてある、「あなたの故にわれらは終日死に渡されています、われらは屠られる羊として認定されました」。しかし、われらはこれらすべてにおいてわれらを愛する方を介して勝ち得て余りある。というのも、死も生命も天使も支配者も現在あるものも来るべきものも諸力も、高きものも深きものも、他のどんな被造物も、われらの主キリスト・イエスにおける神の愛からわれらを引き離しうるものは何もないと私は確信するからである」(Rom.8:31-38)。
パウロは御子を介した神の愛故に「われら」のことがらとして死や艱難いかなる苦境に対しても勝ち得て余りあることを確信している。もし偽りの預言者が現れ自らをそう主張したとして、その言動を疑い偽りと判断しそれを信ぜず無視する者は裏切ったことにはならない。そこに愛はないからである。イエスは自ら神の子であると信じ、父のみ旨に従いその言動に偽りがなく各人の罪の赦しのために生涯を捧げた。このパウロの確信のもとでは、この神の愛に対するひとの態度はこれを信じるのかそれとも神の愛を裏切るのかいずれかであって、信に関して態度を保留する中立的な立場は想定されていない。なぜかと言えば、父は自らの専決行為として御子と自らの信義そして愛の証に彼を甦らせたからであり、この大きな物語の外にいる、逃れうる場所を持つ者は誰もいないからである。換言すれば、各人はこの物語の登場人物であり、この物語は信の根源性のもとに語られ展開されており、受け入れない者は不信な者として裏切るそのようなものだからである。その確信の正しさは自らのあらゆる否定的な経験においても勝ち得て余りあるそのような喜びにより証明される。
それ故にこそ福音とはあらゆる者に宣教されねばならないそのようなものである。「多くの偽預言者があらわれ、多くの者たちを惑わすであろう。不法がはびこる故に、多くの者たちの愛が冷やされるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶその者は救われるであろう。そして御国のこの福音はすべての居住地においてあらゆる異邦人に向けて証言(marturion)として宣べ伝えられるであろう、そして終わりが来る」(Mat.24:12-14)。イエスの福音の言葉はこの根源的な(1)自己言及の層を持ち、人間中心的に人間とその魂を普遍的に考察する(4)倫理学はこの層を持つことはできない。(1)自己言及の世界においてはイエスご自身が神の国を持ち運んでおり、その正しさを確認するためには単に言葉の上での理解のみではなく、信によってのみ神の子イエスと正しい交わりを持つそのような層である。自己言及が成立している層は父と子の贖いの協働行為によって開かれている自己完結的な神の前の層である。