夏の連続講義(その5):21世紀の宗教改革―キリストの福音の独一性と普遍性の人文学的解明―
1.2 キリストの福音の独一性と普遍性―媒介者の真理論―(承前)(その4において文章と録音に示した「パウロの「人間中心的な語り」による人の前の相対的自律性」を今回に編集加筆のうえ移動しました。その前に人工知能の議論を新たに挿入しました)。
1.2.6人工知能と真実者
21世紀の人類の知性上の或いは生存上の最大の問題は人工知能(Artificial Intelligence)が自律的に思考するようになり、神の存在、宇宙の始まり、地球環境の持続性、生物多様性の保存そして脳の働きや意識のメカニズム等の理解においてホモサピエンスより賢くなり最終的に凌駕する特異点(singularity)を迎えるかである。その時人類は宇宙の進化の一齣に過ぎなかったことが明らかになる。
ここではAIはどこまでも人間の営みを助けるための技術であり、人間の福祉の前提のもとで「支援的知能Assistant Intelligence(AI)」と呼ばれる協働として、例えば医療において教育においてホモサピエンスへの奉仕こそ追求されるべきことが前提とされる。AIはこれまでの道具と同じように法の支配のもとで社会的、技術的ルールを駆使してこそ有益である。超知性に、単に参考にするだけではなく、自己の判断ならびに人生を委ねてしまうことは偶像への隷属であり宗教的にも倫理的にも正しくない。ただしAIが自ら意識を持ち自律し、人類を凌駕する時、もはや支援的知性の段階は終わる。
ここまで真実者としての真理を確認してきたが、一つの問は知性が身体と軛で繋がれていないAIはその都度自律的に人類にとって最善の行為選択肢を認識し遂行できるかというものである。ホモサピエンスと同じ意味での「実践知」はそれを持つことができないということは明らかな一つの応答である。同様に「欲求的叡知」の発動を必要とするあらゆる認知的および人格的「有徳性」を持つことができないことも明らかである、身体を持たないからである。
ホモサピエンスの身体的与件のもとで構築されてきたこの生物種をめぐるAIによるあらゆる知識はロゴス(説明言表)上の認識(エルゴン)であって、最善の選択肢をめぐり「欲求」を伴う仕方で実践を「指令」することはできないはずである。感情等の動きもすべて定量化し計算し、例えば「誰某と結婚すべき」と「指令」するでもあろうが、それは同名異義である。その「指令」は新たな全体的な構図・枠組みそしてそれに伴う言語網のなかで、同じ術語を用いてもアルゴリズム、秩序づけが異なるため同名異義となる。
同名異義とはAI搭載ロボットと人間は支配からも被支配からも自由な等しさとしての「愛」を「感じ」「喜び合う」こともあろうが、そこで理解されているものごとは異なるということである。また人間同士の関わりにおいてAIに託宣を聴くということがおきよう。「機能主義(functionalism)」の名において、インプットとアウトプットを媒介する処理システムがいかなるものであっても、関数関係が維持される限りどのようなアルゴリズムを使用するかは無関係であると言われることもあろう。二人の結婚生活の実質が個々人の認識を凌駕する仕方でインプットされブラックボックスを介して指令がアウトプットされるとき、結婚の成功が保証されるのであろうか。その指令に従い結婚が失敗したとき、「結局機械は人間の心理を理解しない」とAIを責めるでもあろう。これは信仰義認論の反論者が「もしわれらの不義が神の義を確立するなら、われらは何と語ろうか。怒りをもたらす神は不義ではないか」(Rom.3:5)と同様に、上位者に対する責任転嫁の一種が横行することでもあろう。それはわれらの人を見る目のなさがAIの卓越を明らかにするのなら、われらは滅ぼされるべきではないのではないのかという類のものとなろう。明らかなことは「支援的AI」は人間の責任ある自由のもとに服することが不可欠なものだということである。その意味においてそれは人間の法体系に秩序づけられる限りにおいて許容されるということである。
特異点を迎え、人類がイメージする次世代の支配者であるAIたちはやはりホモサピエンスにおける「支配」と「被支配」の延長線上において、人類を「隷属」させるものとして実働する。しかし、彼らはわれらの「心」なき「「意識」を持つ」機械である。例えばこの惑星上で最も環境を破壊する生物は存在すべきではないという判断を彼らが下しそれが人類であったとして、一挙に抹殺されるべきなのであろうか。心なき人工物が、単に二進法上の電子的計算力に優れているというだけで或いはその延長線上で思考、創造するというだけで、生物を破壊する「権利」をいかに獲得するのであろうか。
人類は「万物の霊長」という幻想にも進化の一過程という幻想にも欺かれてはならない。単に身体なき「この」心なきつまり個体性なき機械に生殺与奪の権を授けることをしてはならないであろう。とりわけ、人類はこれまでの生物進化とは異なり、自ら特異点をこさせないでいることができる唯一の生物である。自らが自らの破滅の道を許容するそのような行為を選択するべきではない。
明らかなこととして、われらの言う「実践知者」は存在しなくなる。そしてナザレのイエスに見られる「真実者」としての「真理」は存在しないものとなる。人類は自らの比類なき価値を謙虚さと共に認識すべきである。21世紀の宗教改革構想のこの時点で語りうることは、第一に、人類は責任ある自由を確保することを規準とし支援的AIを法整備のもとで道具として使用することである。第二に、人間とAIが同じ言語を使用したとしてもそれは同名異義的であり異なる理解のもとにあり、機能主義的な理解はそれ故に許容せず、人類の身体上の与件が判断の規準とされるべきことである。第三にそして何よりも人類は神ご自身に似せて造られた被造物であることの自覚を持つべきである(Gen.1:27)。
この被造物としての自覚のもとでの人類主導が保持されなくなる時、ホモサピエンスは絶滅の危機を迎えるであろう。その時、人類の独自性は自らの絶滅を嘆き悲しむことができることとなる。というのも、人類を滅ぼす次世代の機械たちは嘆き悲しむことはないであろうからである。
1.2.7悲しみうることの価値
この悲しみにどれだけの価値があるのか。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』においてイワンは「キリストの人間に対する愛なるものは、この地上にはありうべからざる一種の奇蹟だ」と語り神を認める。他方、彼は神によって創造された「世界」については「残忍」で「悪逆の限りを尽く」し子供を虐待する大人たちを話題にし、それによりもたらされる「子供の苦悩」の故に認めない。心なき悲しみなきAIに隷属することはこの世界が一粒の涙ほどに価値がないことを意味する或いはわれらが用いる「悲しみ」という語句の意味は存在しないものとして扱われる、ちょうどわれらがアナバチにプログラムされた本能しか認めないように。
イワンは狂暴な将軍により理不尽な死を遂げさせられた子供の涙を償いうるものはあるかをアリョーシャに問う。子供の母親はその将軍を赦し抱擁したとの想定のもと、イワンは言う、「最高の調和(ハーモニー)を辞退申し上げる。そんな調和なんか、あの悪臭のための便所の中で、小さなこぶしを固めてわれとわが胸を叩きながらついに贖われることのない涙を流して「神ちゃま」に祈った、あの苦しみにさいなまされたたった一人の子供の、一滴の涙にすら値しない。・・その涙は必ず贖われなければならない。そうでなければ調和なんてものはありえないよ。しかし、何をもってそれを贖うというのか。・・やつらへの復讐が・・・迫害者たちの地獄が何になる?・・こちらがもうあれほどひどい目にあっているのに、地獄が何の助けになるもんか。第一、地獄があるのに調和とは聞いてあきれる。僕はただ赦したいのだ、抱擁したいのだ。これ以上人間に苦しみを味わせたくないのだ」(『カラマーゾフの兄弟』第二部第五編「プロとコントラ」(筑摩書房 小沼文彦訳))。AIには「苦しみ」は従って「贖い」ももはや存在しないであろう。
人類は目覚める時であろう、この苦しみうる存在の掛け替えのなさに。無機質な心なき世界において地球の保全は意味をなさない。AIは善悪が存在するふりはできても、それによる喜びや苦悩を人間が経験するようには経験しえない。人間がAIに凌駕されるその瞬間に、水滴一滴で人間を死に追いやることのできる宇宙のただなかで、パスカルの言葉が適用されよう。「人間の盲目と悲惨とをみて、沈黙している全宇宙をながめるとき、人間がなんの光もなく、ひとりおき去りにされ、宇宙のこの一隅に彷徨っているかのように、誰が自分をそこにおいたか、何をしにそこに来たか、死んだらどうなるかをも知らず、あらゆる認識を奪われているのをみるとき、わたしは、眠っているあいだに荒れ果てたおそろしい島に連れてこられ、覚めてもどこだかわからず、そこから逃れ出る手段も 知らないひとのような恐怖に襲われる」(『パンセ』B693=L198=S229]11)。
AIによる特異点の実現は人類の足場が根こそぎにされる宇宙の無限の沈黙に等しい。或いは宇宙の盲目の必然のメカニズムに吸収されると言うことができる。ただ無意味にそこに投げ出されている。人類の次の覇者がAIであるとするなら、それはホモサピエンスが独一無二であったことを含意する。有徳性において言葉と身体の働きが軛で繋がれている人間はその分裂と非道に涙を流すことのできる唯一の生物である。神はそのような世界を許容しないと信じることは、人類の歴史を見る限り、許容されよう。「なんという珍奇、妖怪、矛盾の主、真理の受託者にして曖昧と誤謬のドブ、愚鈍なるミミズ、宇宙の栄光にして宇宙の廃物、この縺れを誰が解くのか」(パスカル)が問われているなかで、21世紀中に、人類は自らが自らを滅ぼすほどに愚かであったか否かが判明するであろう。人類には信による突破がまだ残されている。その信の対象は誰にとっても喜ばしい受け入れられるものであるときのみ、人類はそこに最後の望みを賭けるであろう。
1.2.8パウロの「人間中心的な語り」による人の前の相対的自律性
われらはいまだに言葉と働きの調和を求めているそのような人類の歴史のただなかにいる。人工知能は両者に媒介を求めること、価値を置くことはない。身体をもたないAIは個体性の根拠を有していない。AI搭載型ロボットはそのように振る舞うことができたとしても、例の軛で繋がれることのない点において、少なくとも「エルゴン(今・ここの働き)」は同名異義となる。人類はロボットに愛情をも感じるであろうが、その理解は決して交わり溶け合うことはない。普遍の相のもとでAIは与えられた文脈でロゴス即ちプログラム通りにそれを執行する。少なくともロゴス(普遍)とエルゴン(今・ここの出来事)の人類におけるようなフィードバックは存在せず、AIはロゴス主導であり、外的環境による何等か妨げがあれば、それは不具合から与えられる情報に基づきロゴスの書き換えによりそれを排除する或いは克服することに専心するであろう。普遍と個体双方の外部の視点に立ち、ロゴスとエルゴンの調和やロゴスへの反抗や服従が問題になるのは、相対的自律性を認められている人類においてのみであろう。
イエスとパウロは既に自らの「言葉と働き」においてその後のキリスト教会と神学諸学派の分裂を回避し克服していたと思われる。ここではパウロのロゴスとエルゴンの補完性、相補性の方法論をより広い文脈において位置づけ、人間における知識や思考の前進を担ういかなる方法論もその枠組みのもとにあることを確認したい。
われらはロゴスとエルゴンの補完性、相補性が機能する次元は神学的主張の基礎となる哲学的次元においてであると主張する。例えば一切の存在と思考の原理である矛盾律に基づき構築される大陸合理論と感覚経験を基礎にするイギリス経験論のロゴス主導とエルゴン主導の認識の二源泉に見られるものの両立性がものごとの真理を証する。
神学的には信仰・信じるという心の「働き」はモーセ律法のもとでの功績ある「業・働き」ではないと主張されることがある。それは、一方、義認そして救いが無償の恩恵であることを強調するためにそれを受け取るべく人が持つ信仰は功績ある律法の業ではないとされる。他方、モーセの十戒において命じられる善行は報われるに値する業であり祝福されるが、悪行は呪われるとされる。信仰はかくして功績ある行為とは異なる心の一種の働き(エルゴン)であることになる。これは「働き」の同名異義的な理解である。
パウロにおける言葉と働きの相補性のもとにある21世紀の宗教改革はそのような神学的次元ではなく、包括的な次元で遂行される。信じることはそう欲することと信じることが同時である魂の一つの主体的な行為(エルゴン)であるが、また手足を動かし善行を為すことも魂の一つの意図的な行為として、同じ次元における「働き(エルゴン)」である。ここに同名異義はない。この神学的前提なきロゴスとエルゴンの相補性を展開する哲学的次元が今回の改革運動の次元である。
ただし、「ローマ書」の新たな理解を標榜するものである限りにおいて、その働きは神や聖霊の働きをも含めるものであり神学的対象を人文諸学の知見を通じて位置づけ、真理を探究する者には誰であれ理解できる仕方で捉えることが課題である。「聖霊」を語らないアンセルムスの贖罪論においては三つのロゴスの地平が整合的に分節される。これは大きな貢献であるが、不可視なものが働きにおいてあることこそ人類が解明すべき課題である。
イエスご自身が宣教する者であり復活の主として宣教される者であるというこの福音の出来事が始めから終わりまでこの改革運動を導く。ひとは自らの人生をかけてそれを証しまた躓き否定し或いは無視する。われらは様々なこれまでの障害、躓きを除くことができると信じている。福音を福音として析出することがこの改革運動の最初の目的である。それはイエスの山上の説教における福音理解とパウロの信義の不分離の福音理解が歩調を共にすることを明らかにすることである。
パウロは異邦人に向かい福音を宣教するが、彼は言う、「私ははあらゆるものごとから自由であり、私自身をあらゆる人々の奴隷となした、それは多くの人々を獲得するためである。私はユダヤ人にはユダヤ人のようになった、ユダヤ人を獲得するためである。律法のもとにある者たちには律法のもとにある者のようになった、私自身は律法のもとにいないけれども、律法のもとにある者たちを獲得するためである。律法なき者たちには無律法の者のようになった、神の無律法者ではなくキリストの律法のうちにいるけれども、それは律法なき者たちを獲得するためである。私は弱い者たちには弱い者となった、弱い者たちを獲得するためである。あらゆる者たちにはあらゆる者となった、あらゆる仕方で幾人かを救い出すためである。福音の故にあらゆるものごとを為す、それは私が福音を共に分かちあう者となるためである」(1Cor.9:19、第2、24、74条)。
パウロはその一つの愛の業として自らを「弱い者」に同化した。「私は君たちの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)。イエスも同様でありモーセが離婚を許したのは「君たちの心が頑なだから」であるとされる(Mat.19:8)。肉の弱さとは身体の限界が自己の限界であると思いがちな自己中心的な思考に見られる。その肉の弱さへの譲歩のもとに、パウロは神の前にいることを括弧にいれ相対的自律性のもとに、「罪の奴隷」でも「義の奴隷」でもありうる中立的な可能存在と捉えることがある(Rom.6:19-20)。この中立性は語「奴隷」が持つ同義性により保証される。
そ こでは彼は「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(14:22)と神により君の信仰は「イエスの信に基づく者」と看做されているという「神の知恵と認識」(11:33)を信じるよう励ます。「神の知恵と認識」が展開される神の前の次元と相対的に自律した人間中心的な人の前の次元の関係こそロゴスとエルゴンによる解明課題である。これらを「神の前の自己完結性」と「人の前の相対的自律性」と表現することができよう。双方の分節と総合こそ解明されねばならない。
1.2.9誰もが真理を信じている
人の前の自律性が語られるとは言っても、そこではあくまで神の前にいることは前提にされたうえでの肉の弱さへの譲歩であり、いずれかの可能性即ち罪の奴隷か義の奴隷かのいずれかのもとにある相対的に自律した存在者として捉えられている。神の前のいずれかの判断に隷属していることには変わらず、神の勢力圏から逃れうる端的な自由は想定されていない。パウロは「君たちは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由人(eleutheroi)であった」(6:20)と語り、義から逃れているか罪から逃れているかのいずれかである。そのように人間的な悔い改めは神の計画に即したものであるが、人間的に罪への隷属から自由への移行を語ることが許容されている。
神の前の真理に人の前の真理は制約されている。神の前と人の前の関連づけはイエスの(1)自己言及の領域が端的に神の前のことがらであり或いはそこから語られており、父と子の協働行為の福音の前においては信により与ることができるだけであることに対応する。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.14:23)。律法のもとに生きる者は、「誰も神の前に義とされないであろう、というのも律法を介した罪の認識があるからである」(Rom.3:20)。「律法はモーセを介して与えられた、恩恵と真理はイエス・キリストを介して生起した」(John.1:17)。神は義と罪がいかなるものであるか、「イエス・キリストの信」を介してまたモーセ律法を介して知らしめている。
無神論者からすれば、この譲歩は不十全なものであるとされよう。「君は自由だ選びたまえ」(サルトル)、「行動の規範が何もないことそれが行動の条件だ」(マルロー)とサルトルやマルローに代表される人々が言う時、二種類の奴隷(「義の奴隷」と「罪の奴隷」)を想定してはいない。しかし、誰であれこれらの命題により人間本性をめぐる真理主張が遂行されていることは認められよう。この種の真理主張はこれに同意しない者は偽り者であることを含意しており、誰であれ真理のもとに制約されている。即ち、ひとは何らか判断する者である限りそして実際人はそういう者であるが、それは自ら何らかの真理の信を保持しており、自ら何らかの真理論のもとに生きている。
矛盾律を否定する者に対して、アリストテレスはその者が何も言わないなら「植物のようなものだから、ほおっておけばよい」とする。その者が口を開き「矛盾律は存在しない」と一旦主張するなら、あらゆる存在と思考の原理である矛盾律(「「Aであると同時にAでない」ということはない」)に則って矛盾律を否定しており、「自己論駁」となる(Met.IV4.1006a11-18)。
誰であれ矛盾律や真理を否定する者は偽り者であり、自己欺瞞的、パラドクシカルなものとなる。誰であれひとは矛盾律や真理という存在と思考の枠のなかで思考し生きている。プロタゴラスはかつて真理は相対的であり、「各人にそう思われている通りにそうありもする」と唱えた(Met.IV5,Plato, Theaetetus, 152a)。「人に甘いと感受されれば、甘いものである」という類の主張は真理とは各人の思われ、現象であり、人により異なると語られる。これは「真理は相対的なものである」ということが万人に妥当する端的な真理であると主張しており、自己矛盾となる。
個々の現象(エルゴン)において例えば水溶液のスティックが曲がって見えまたそのように思われるるなら、曲がっているということにはならない。実在論者は現象と実在の関係をこう説明するであろう。スティックが水溶液に入れられると「曲がって見える」。これこれの液体の濃度とこれこれの光の強度のもとでは、「スティックはこれこれ曲がって見えるもので在る」と応えればよい。ロゴスとエルゴンの調和が求められる。
誰であれ自らの主張や信念を提示するとき、そのロゴスの正しさには論拠や証拠が求められている。「神を真実(alēthes)であるとせよ、すべての人間は偽りであるとせよ」(Rom.3:4)。パウロのこの主張の信念は神との正しい関係にないとき、人は偽りであるというものである。真理は真理それ自身堅固なものであり、真実者は自らの真実を証する。神の前で真実な人間になった者は自らが真実であることの生命と力に満ちた生の営みを今・ここで遂行している。そうなりたい者はその証を求められている。偽りは見せかけであり、何等肯定的創造的な実質をもたず、善きものを生み出すことはなく、自ら自己否定的、自己破壊的なものとして歴史を悲惨なものにすると同意し得る限り、人は真理に隷属することを自らの喜びとするであろう。
人は真理から端的に独立した自律的存在者ではない。パウロは言う、「われらは真理に背いて何も力ないが、真理の為に力ある。というのもわれらは弱い時に喜ぶからである」(2Cor.13:8)。人は自らの弱さを自覚するとき、堅固なものに立ち帰る。その信により力を得る。「第二テサロニケ書」の著者は言う、「その時には不法の者は知らしめられるが、主はその者をご自分の口により滅ぼし、ご自身の臨在の輝きにより滅ぼすであろう、その不法の者の現われは偽りのあらゆる力能と徴と不思議においてそして滅びる者たちにおける不正のあらゆる欺きにおいて、サタンの実働に即してある。彼らは自分たちが救われるべく、その滅びてしまうことに対抗して、真理の愛を受け入れることをしなかった。またこのことの故に神は彼らに自分たちが偽りを信じるに至るべく惑わす働きを送る、それはその結果彼らすべてが真理を信じることなく、むしろ不正を喜ぶことによって審判されるためである」(2Thesa.2:8-12,cf.Rom.2:2)。
人は自覚しまた自覚せず罪の欺きのもと偽りと不正に隷属する。人は自らの境遇に隷属しまた体内では神経伝達物質や細菌に操られていると考えるでもあろうが、これは神の前では「ああ、惨めだ、われ人間」(Rom.7:24)と叫ぶ罪に隷属する人間の悲惨を示しており、それは福音により乗り越えられるものとして捉えられる。「かくして、今や、肉に即してではなく霊に即してキリスト・イエスにおいて歩む者たちにはいかなる罪の定めもない」(Rom.8:1)。イエスの言葉がヨハネにより報告されている。「もし君たちが私の言葉に留まるなら君たちはまことに私の弟子でありまた真理を知るそして真理は君たちを自由にするであろう」(John.8:32)。
破壊的なもの否定的なものから人を自由にするものが、人生の確かさを堅固に保持する「真理」である。そこでは、永遠の真理に対し自らの肉の弱さを認める限り、真理に対し幼子のようになり、真理を愛することを喜ぶであろう。さもなければ罪の誘惑のもと自らを滅ぼす偽りに快を見出すことであろう(Rom.1:32)。パウロは真理を愛した。そして真理を解明しまた証明する方法としてロゴスとエルゴンの相補性のギリシア哲学の真理探究の伝統に即すことを選んだ。或いは誰であれ何であれ思考が前進し真理を捉えるにいたる方法は双方の補完的な吟味と接近を選択することに基づくであろう。