夏の連続講義:21世紀の宗教改革の主張とその人文学的基礎(その3)
承前
1.2 キリストの福音の独一性と普遍性 —媒介者の真理論―
神への愛と真理への愛の両立
21世紀の宗教改革はイエス・キリストの独一性に集中するものであると同時にその「福音の真理」(Gal.2:5)と言われるその「真理」が万人に妥当する普遍的なものであることにその動機付けを持つ。イエスの言葉「私は真理である」(John.14:6)はこの用語の何か特殊な用法のように思える。この改革運動はカトリックとプロテスタントの論争に見られたように、聖書解釈上の争いや分断の解決やその諸主張、提案は人類の歴史のアポリアを解決し万人に受け入れられる普遍的なものであることを明らかにすることによって、説得力を持つにいたることであろう。ここではキリストを特徴づけるために用いられる「真理」のみならず諸用語例えば「永遠」や「神の愛」、「神の子」そして論争多い「知識」と「信念」の関係さらに「史的イエス」と「宣教のキリスト」との関係についての諸論点を人文諸学、とりわけ万学の祖アリストテレスとの対話のなかで理解可能な一つの立場として提案し、神への愛は真理への愛と共存することを示したい。
そのためには福音の真理を神への愛と真理への愛双方により調和するものとなることが目指される。ここではナザレのイエスがその言葉と働きにおいて偽りがなかったが故に神と人の媒介者として生きて働いていたまうその人格的な確かさこそが「真理」と呼ばれることを明らかにし、そしてそれは一般的な真理論とりわけアリストテレスの実践知と人格的徳が「軛で繋がれている」そのような有徳者における真理論と符丁を共にしており、道理ある一つの立場であることを明らかにしたい。私はイエスの人格こそ真理であるとする立場を「媒介者の真理論」と呼ぶ。
イエスその山上の説教において祝福される預言者的な生がいかなるものであるかまたモーセ律法の純化はいかなるものかを一般的な仕方で教える。さらにイエスは衣食住について煩う者たちを「信わずかな者よ」と叱責しつつ、「まず君たちは御国と神の義を求めよ」と野の百合空の鳥を養いたまう天の父の愛への信仰を促し、そのもとに純化された預言者的な祝福された生そして尖鋭化されたモーセ律法の成就の道を教えている(Mat.6:33)。イエスは「かくして天の父が完全であるように君たちも完全な者となるであろう」(5:48)と人間としての究極の人生がいかなるものであるかを教えた。イエスはその自らの教え・ロゴスを信の従順により死にいたるまで貫きそれらの言葉を生き抜いた。天の父に似た完全な者になることが、信仰により実現されること、それが福音として宣教されている。ひとはそこで最も人間として究極の信仰と愛の在り方を教えられ、そのことに納得するならば、人間の本来性を教え示すものとなり、その宣教は万人に行き渡ることがめざされることになる。
そこでは御子を介した神の愛がわれらの神への愛と真理への愛を基礎づけている。パウロは言う、「われらは知っている、神を愛する者たちには、計画に即して召された者たちにはあらゆることが善きことへと協働することを」(Rom.8:28)。この「われら」の知識主張の内実は「神を愛する者」は「計画に即して召された者たち」であることさらにそこでは悪しきことは一切起こらず「あらゆることが善へと協働する」ことからなる。これが完全な勝利の人生であることは多くの人々に認められるであろうが、これが万人に妥当するべく道理ある根拠の提示がめざされる。
神を愛する者は神が自らの人生の主権者でありご自身の計画のもとに愛し導いていたまうことをパウロは確信しまた自らの人生経験を通じて知識主張を為す。この一般的な命題は「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(5:5)ところの神の愛の今・ここにおける聖霊の注ぎにより保証されているという自覚のなかで遂行されている。パウロのこの「われら」をめぐる知識主張は聖霊の保証のもとにあり、万人に妥当する普遍的な真理であることの自らの人生の経験による証を伴う主張であり、それ故にこそこの真理を伝達すべく宣教活動が動機づけられている。
イエスやパウロは福音が異邦人をも含め人類全体にとって受けいられれるべき神と人をめぐる「一度限りの」出来事に基づく、確かな真理であるという信念のもとに福音を伝達する。「キリストが死んだ死とは、罪に対して一度限り死んだところのものであり、他方、彼が生きる生命とは、神に対して生きるところのものである」(Rom.6:10)。このユニーク(独一的)な福音は神の人類への憐み、愛に他ならず、その良き報せの宣教を促す。神の愛のもとに神はご自身を信じる者に自ら真実であること、御子の信に基づいて罪赦され義であることを知らしめるとき、人間が理解する福音の真理は神の愛に支えられている。二人の主張はイエス・キリストの媒介性の故に普遍的に理解されうる道理ある主張をしていることを確認したい。
真理とは何か―ヘブライ的真理とギリシア的真理の共通性―
「真理とは何か」、これはユダヤのローマ総督ピラトがナザレのイエスに尋ねたことであると「ヨハネ福音書」に記録されている。それはイエスがこう言ったことへの反応であった。「「私が王である」とはあなたが言っていることです。私は真理を証しするために、そのことへと生まれまたそのことへとこの世にやってきたのです。真理に基づき生きて在るあらゆる者は私の声を聴きます」(John.18:37-8)。このやりとりのあとのピラトによる「真理とは何か」の問へのイエスの直接の応答は記録されてはいない。しかし、ピラトはその後群衆に彼に何ら十字架刑にあたるいかなる罪はないと告げる。「この男を見よ」、「私は彼のうちに何ら原因を見ない」(John.195-6)。彼がイエスの無実を証言したことが記録されているが、ピラトはこの尋常ならざる人間を「見る」よう促した。そしてそれは今日まで一つの人間であることの象徴的な在り方として彼を見るよう促されている。
イエスの発話の特徴は、真理は何か心魂の思考のうちに形成され、ものごとと合致するところの、心魂が提示する言表(命題)や思考(判断)のうちにあるというよりも、二種類の人間が判別される規準として「真理」が働いていることを証している。心魂の在り方がそれに与りそれに基づき生きているそのような心魂の生の原理が真理であり、その者たちはすべてその真理を証するイエスに聴き従う者たちであると語られている。即ち真理を証するイエスに従う者たちは真理に基づき生きている。
ここでイエスの語りの第一の特徴であった自己言及を思い返す。彼は罪の悔い改めを介しての救いの福音を宣教する者であったが、その宣教される内実と同一であった。このユニークな存在者は二種類の存在者例えば光のもとにある者と闇にある者を分ける規準でありまたそれが真理と分離されないそのような者である。イエスは言う、「私は道であり、真理であり、生命である」(14:6)。
このように真理はそれに聴き従いまた聴く者の生がそれに基礎づけられ営まれるべくまさにそのものに与ることが問題であるそのような生きて働いている人格的真理として展開されている。彼は天の父から派遣され真理を証するためにまことの人間となりこの世に来たが、福音の真理を宣教する彼は自らその福音の内実であるという自覚のもとに自己言及的なものであった。「真理」は「私を見た者は父を見たのである。・・私が父の内におり、父が私の内にいる」(14:9-10)という父と子の不分離性の確信のもとに語られる。福音を聴く者たちはパウロを始め「福音の真理」に共に「与る」そのような真理が福音であるとされる(1Cor.9:23)。「私は私を信じる者が、誰も暗闇の中に留まることのないように私は光として世に来た」(John.12:46)。光のもとにいない者は闇のうちにいる。
Kittel『神学辞典』によれば、「真理(alētheia)」(John.14:6)について「旧約における語’e met 」や「「真理」のギリシアとヘレニズム的使用」等四つの文脈において合計約10の理解が提示されている。
それは旧約聖書における用法についてこう報告している。「語’e metは126回現れる。それは端的にamēn(「堅固な」)、そしてそれ故に「堅実な」、「妥当な」或いは「結合している」と看做されうる一つの実在を指示すべく用いられる。それはかくして「「真で」あるもの」を意味表示する。諸人格について用いられる時、それは時に次のことを表現している、即ちそれ(’e met)は彼らの話、行為そして思考を支配的に特徴づけるところのものを表現している。Ish ’e metはその振る舞いが真理の規範のもとにはいるものでありそしてそれ故に完全無欠な人間のことである。関連語は’emunah(→pistis(信))である。双方とも完全なもののための諸用語に近いものである。shalōm (→eirēnē(平和))、tamim(→haplūs(端的))そして司法的用語hesed(→charis(恩恵))そしてzedek(→dikē(正義))がそれら諸用語であるが、それらはしばしば旧約聖書においてはこれら[’e metと’emunah]を解明するために用いられている」(TDNT, Vol.I p.222-3)。「真理・堅固な真実者」が旧約の完全者を表現する中心的な語彙であることが分かる。
なおalētheiaの新約における使用については「それは部分的にセム的な’e metの使用と部分的にはalētheiaのギリシア、ヘレニズム的使用により決定される」。双方が全く同じというわけではないことは「七十人訳のpistis(信)やdikaiosunē(義)を使わざるをえない事実」に示されている。「もしalētheia がしばしば選ばれるとするなら、これはその展開の道行における柔軟性の一つの高い程度を享受るすべく展開したギリシア的用法の光のもとに理解されるべきである」(238)。
ものごとのなかで堅固で壊れることがなく、確実なものは脆く消滅していくものとは判別されることになる。生命をもつ存在者がそのような堅固なものであるなら、それはやはり消え去りゆくものどもと判別される規準となるであろう。そのような存在者を「堅固な真実者・真理」と呼んだとしてなんら不思議なことではなく、道理ある。このような基本的理解のもとに、聖書が証言する福音がイエス・キリストの人格的な確かさに中心を持つ限り、「真理」はそれと偽りや裏切りを判別する生命に満ちている高潔な者としてまず理解される。
ナザレのイエスは彼の言葉と働きに偽りがなかったことが神の子であることを証している。その意味で彼は真実の言葉と真実な働きがいかなるものであるかを伝える媒介者である。それ故に彼はこの規準をわきまえた者についてこう語ることができる。「このことの故に、天の国の生徒となったすべての学者たちは、誰であれ自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:51-2)。「このことの故に」とはイエスが天国とはどのようなものかを譬えで語ったその内容の帰結文がこの語りであることを示している。それは畑に宝を「見つけた」農夫や高価な真珠一粒を「見つけた」商人の譬えや、終わりの日に網にかかった魚がえり分けられるように、「善人と悪人が選抜」されるそのような譬えによる教えであった。
この文において、天国について学んだ人間は次々に生起する事態に対処するべく、自らの「倉」と呼ばれる発見した真理を蓄える心魂の認知的態勢そして善悪を識別する人格的に訓練された心魂の態勢から、自由自在に、旧約的なものであれ新約的なものであれ知識や識見を取り出し正しく家を導く主人に譬えられる。このような一家の主人は神や媒介者の完全性、十全性に倣う者のことである。一人の人格は「倉」という培われた「態勢(hexis)」を持ち、その故にその態勢の人格的な「真実者」は言葉によりまた態度・働きにより適切に反映されている。
真理をめぐる信念と知識
この人格による媒介者の真理論はアリストテレスにおいても見いだされる。とりわけその都度の最善の行為を選択するさいの実践的知識(phronēsis)をめぐる彼の真理論において共有されうるものである。まず、広い文脈のもとに真理と心魂の認知的、人格的態勢の関係を押さえておく。
ギリシア哲学を始め一般的に真理は心魂の態勢である信・信念との関連において語られる。そしてこれはヘブライ的伝統にも共通に見られることである。人の心魂の働きにはまだ知らないからこそ語られていることが真理であると信じるその信の認知的次元がある。そこでは神への信仰は知らないものに自らの人生を賭ける一つの冒険となる。偽り、誤謬に生を賭け、燃やすとするなら、その人生は偽りとなり滅びることになるであろうという感覚が呼び覚まされつつ、ひとは真理を求める。
まだ十全には知られない不可視なものが働きにおいてあることこそ人類が解明すべき課題である。パウロは言う、「われらは表象によってではなく、信仰によって歩んでいる」(2Cor.5:7)。また彼は言う、「われらは希望により救われた。しかし、見られる希望は希望ではない。というのも、誰が見ているものを望むであろうか」(8:24-25)。「ヘブライ人への手紙」にこうある。「信仰は望んでいるものごとの基礎に立つもの(hupostasis)であり、見ていないものごとの[見ずに留まることへの]反駁(elegkos)である。というのも信仰によって古(いにし)への先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより諸時代が[先人たちのように]統一させられていることを、信仰により叡知において観取しており(pistei noūmen)、見ているものが現れないものども[神の言葉]に基づき生じたことを知るに至る」(Heb.11:1-3)。見えないものは言葉により伝えられる。その証し人となることが求められる。信・信仰はその見えないものごとの真理の探究へと駆り立てそして働く、たとえそれが始めは半信半疑の心的態勢においてあったとしても。
アリストテレスは「あらゆる判断(見解・ドクサ)には信が伴い、信には納得が伴い、納得には理(ロゴス)が伴う」と言う(De Anim.III3.428a22-3)。認知的徳・卓越性はものごとの真偽に関わり、その理を伴う判断が「真理を捉えている」時、それは知識と呼ばれる。「心魂が肯定したり否定したりすることにより、そこにおいて真理を捉えている態勢を数において五つあるとせよ。これらは技術知、科学的知識(epistēmē)、実践知、叡知(nūs)そして知恵(sophia)である。というのも、判断と見解において偽であることがありうるからである」(Nic.Eth.VI3.1139b18)。
真偽にかかわりそこで優れた判断力も持つひとは認知的に有徳な人と呼ばれ、「知る」ということが語られるこれらの五種類の知識があるとされる。個々の行為の選択において常に最善の行為選択肢を選び取る認知的徳は「実践知」と呼ばれるが、福音書における真理論とこの知識が重なる。
匂いや色のような感覚的対象に触れて感覚知が発動するが、これは生得的であり、嗅覚が匂いを感じ取ることには誤りがない。この感覚対象に触れる感覚と類比的ではあるが、非感覚的な対象に触れると言う仕方で働く認知機能は「叡知」と呼ばれる。「叡知(ヌース)」は叡知対象に「ヒットするかしないか」のいずれかであり、つまり真か無知かのいずれかであり、「決して偽に陥らない」とされるが、それに至るまでの認知的、倫理的態勢の陶冶は不可欠である(Met.IX10.1051b22-26,EN.VI6.1141a3)。これは人工物が自然物の模倣である限りにおいて、コンピューターの検索機能は叡知と類比的であり、電子的対象にヒットするか無知かいずれかである。
さらに、感覚や叡知の発動を基礎に、事象を観察し思考し普遍的な知識をその根拠のもとに基づき知る思考の認知機能が「科学的知識」と呼ばれる。さらに「知恵」と呼ばれる、「神」や永遠な存在者そして「霊(ダイモーン)」について「叡知」と「科学的知識」に基礎づけられ発動する知識である。その他、ものごとの制作にかかわる技術知においても人の認知機能の優劣が明確となる。確かなものと移ろうもの、消え去るものとの判別に真理を捉える認知的な卓越性が人間の求めるものであり、そのように卓越した人、有徳な人がいる。
この信と判断そして知識の関係はパウロにも妥当する。神は言語使用者であり、「神の語りの言葉はまずユダヤ人に信託された」(3:2)。エレミヤ等預言者や詩篇詩人たちそしてイエスやパウロ彼らユダヤ人が神の言葉を取り次いでいる。「かくして信仰は聞くことから、聞くことはキリストの語りを介してである。しかし、彼らは聞かなかったのではないかと、私は言っているのか。いや、むしろ「その者たちの声は全知に響き渡った。そして彼らの言葉は世界の果てにまで[及んだ]」」(10:17-8,Ps.19:5)。神の語りは人類にも理解される構文論そして意味論のもとに展開され、終わりの日までに福音が告げ知らされる(Mac.13:10,Mt.24:14)。
このような神の委託のもとに、「神に遣わされる」のでなければ「宣教すること」、少なくとも真実な宣教はおきず、宣教する者がなければ「聞くこと」はおきず、聞く者がなければ「信じること」は生起せず、信じる者がなければ「神に呼びかけること」は起きない。「いかに信じなかったその方に呼びかけることが生じようか?いかに聞くことのなかったその方を信じることが生じようか?しかし遣わされることがないならば、いかにその人々は宣教するであろうか?まさにこう書いてある。「善きことども告げている足はなんと良いものであろうか」」(Rom.10:14-15)。宣教の道理ある言葉を聞いて納得するとき、人々には或る種の判断にコミットする即ち信任する信が生起し、信仰はその信じたその方に呼びかける。
このように判断には信が伴い、信には納得が、そして納得には理が伴っている。信念と行為選択をめぐる実践的知識の関係さらに信念と知識一般の関係の理解はアリストテレスとパウロによって共有されている。理が伴う判断には信念が伴っていた。人がちょうど「泳ぐ」という概念を知っている場合に、「泳ぎ」の定義には「水」を構成要素としていると判断することは理を伴っており、知識であると言ってよい。何かを今・ここで知っていると判断する者は信念を伴い、「知識」の定義において「信念」を構成要素としていることが知られる。これは「判断」、「信」、「納得」そして「理」は一様の普遍的な仕方で関連づけられており、真理は信により知識として捉えられる。
他方、信にはそのような認知的次元が問題にならないところで、目の前にいるひとを信頼することができるかが問われるそのような文脈において「信用」や「信頼」また「誠実」、「忠実」という類の心魂の人格的な態勢(身体を介して受動的なパトス(感情、欲求)に対する態勢・実力として養われる生の構え)が問われる文脈において「信」が用いられる。
「信じます、信なき私をお助けください」(Mac.9:24)とその息子が困窮のもとにある父はイエスの面前で目的語なしに信仰告白を遂行する。パウロにおいても聖霊の促しのなかでの信仰は目的語をもたない。「希望の神が、聖霊の力能のなかで、君たちが聖霊に溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。認知的にイエスが復活の主であるとか、神の知恵であるとか目的語を伴う仕方で信仰が遂行されるが、そのときただちに懐疑に取り込まれるであろう。父と子、友と友のあいだで誠実であり、信頼しあい何か肯定的なもの創造的なものを築いていこうとするとき、信の認知的用法はその人格的用法に移行されている。