夏の連続講義(その1):21世紀の宗教改革ーキリストの福音の独一性と普遍性の人文学的解明 —77箇条の提題要約―

(21世紀の宗教改革の主張とその人文学的基礎 —(その1)編集、録音し直し(2025.7.24))

                                                                                           千葉 惠

 夏の連続講義その(1)

 21世紀の宗教改革:キリストの福音の独一性と普遍性の人文学的解明 —77箇条の提題要約―

はじめに カトリックとプロテスタント和解の鍵発見

 0.1 神の知恵と認識

 なぜこの21世紀にあらためて宗教改革か?この77箇条の提題の提案者がだいそれたアドヴァルーンを自ら挙げたことに何か道理はあるのか?唯一その理由を挙げるとすれば、パウロ「ローマ書」の神学主張の中心箇所が二世紀の古ラテン語訳の「編集」である四世紀のヒエロニムスのVulgata版以来、「ローマ書」3章21―26節が誤訳されてきたことに求められる。とりわけ、「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者[と神が看做す]すべての者たちに明らかにされてしまっている」(3:21)に続くその理由文(3:22)は、神の前のことがら即ち神ご自身の理解として、「なぜなら[神の義とイエス・キリストの信のあいだに]分離がないからである」と訳されるべきであったが、例外なしに人の前のことがらとして人が持つ心的状態としての信仰をめぐって「なぜなら[信じる者すべてのあいだに]区別がないからである」と誤訳されてしまったことに求められる。

 ここでは神の義と信じる者の義認をめぐる神ご自身の「知恵と認識」(11:33)がパウロにより神の前のことがらとして報告されており、従来のように人の前のことがら例えば人が持つどの程度の信仰が神に義と看做されるか等の人の心的態勢は問題とされてはいない。「神の知恵と認識」は例えば「義」とは「罪」とはどのようなものであるかの一般的な認識であり、また「怒りの器」と「憐みの器」と特徴づけられるユダヤ人と異邦人の選びによる救いに至る知恵の教説である。これらは一般的な仕方で啓示の差し向け相手として三人称がパウロにより用いられており、匿名性ならびに普遍性が確保されている。

 神の啓示行為の特徴は神の前のことがらとして現在形が用いられ、神の義が今・ここにおいて「信」に対して知らされそして怒りが「不敬虔と不義」に知らしめられていることである。「神の義は彼において信に基づき信に対して啓示されている。・・なぜなら神の怒りが天から不義のうちに真理をはばむ人間たちのすべての不敬虔と不義のうえに啓示されているからである」(1:17-18)。怒りの啓示の報告は1:18-32において、義認の啓示の報告は1:17、3:21-26において見られる。二種類の報告は過去において生起したモーセ律法付与時の出来事とキリストの出来事が規準となっている。

 パウロはこれらの啓示の報告が旧約聖書を貫く一人の神の意志であることを証明するべく、「ローマ書」において「書(旧約)」を60回すべて肯定的に引用することにより基礎づけを遂行している。罪と義と選びをめぐるパウロの論証の箇所は「神の知恵と認識」や「知恵の説得的議論」と呼ばれ、具体的な個々人や「われら」のことがらではない(罪2:1-3:20、義4:1-25、選び9:6-11:35,11:33,1Cor.2:4)。これらの神の知恵や認識の報告の箇所は「聖霊」への言及が一切為されることはなく、肉の弱さのもとにある者への聖霊による執り成しは問題にされず、神の前のことがらとして神の知恵と認識が知らしめられている。

 「神の知恵と認識」は「霊の力能」の今・ここの働きを伝える箇所や「霊と力能の論証」と対比されている(15:19,1Cor.2:4、但し2か所の旧約本文の引用を除く(2:29=Jer.,4:4,11:8=Isa.,29:10))。これは彼の方法論的な明確な自覚のもとに遂行される。この方法論は「ロゴス(言葉・理)によってそしてエルゴン(今・ここの働き)によって」(Rom.15:18)という双方の分節と補完のもとにおける論証の展開のことである。

 この神の前のものごとを「肉の弱さ」(6:19)においてある「われら」のものごととすることが個々人の今・ここの課題となる(Rom.ch.5-9:5)。5章から9章5節においては聖霊の執り成しによる神の前と人の前の架橋がひたすら今・ここのことがらとして遂行されている。パウロは「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(14:22)と励ます。

 

0.2 神とイエスの協働行為に基づく神の義の専決的な啓示行為

 「ローマ書」の神の義をめぐる誤訳されてきたこの箇所(3:21-26)の啓示の報告において前提とされている神の人間認識は業のモーセ律法のもとに生きる者は誰であれ罪人であるというものである。神の怒りの議論の結論は「業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう、というのも律法を介した[神による]罪の認識があるからである」というものである(Rom.3:20)。神の義はモーセを介して与えられたが、人類における律法のもとでの罪の認識が神の義の新たな啓示の歴史的前提とされる。

 かくして、この前提のもとに人々の義認をもたらす喜ばしい福音としての神の義が新たに啓示されている。「しかし、今や、[業の]律法とは離れて」(3:21)、即ちモーセ律法の神の義とは分離されて、今や神の義は「イエス・キリストの信」とは「分離がない」仕方で信じると神が看做すすべての者に啓示されている。モーセの「業の律法」(3:27)とは別に、キリストの「信の律法」(3:27)がモーセ律法とは異なり神の義とは分離されない仕方で啓示されており、信の律法が神ご自身にとって業の律法よりもより根源的であることが知らされている。「天地が過ぎ去りゆくまで律法の一点一画とも廃棄されない」(Mat.5:18)とイエスにより語られるその業の律法は信の律法に秩序付けられるであろう。

 この啓示はナザレのイエスが受肉により人間の肉の弱さを引き受けわれらと同じ与件のもとに「神の子の信」(Gal.2:20)を抱きつつ神の前に生き、死に至るまで信の従順を貫いたことに基づく(Philip.2:6-9)。父なる神はその御子の信を嘉みし、「イエス・キリスト」をご自身の「現臨の座として差し出した」と報告されている(3:25)。

 この過去形で表現される歴史の一回的出来事を基礎に神はその都度の現在において神がその信仰を嘉みする者の義認を遂行している。この出来事は信に基づく義を知らしめる好機をもたらした。「神はご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて」(3:25-6)と差し出しの目的が記される。神の義は「イエス・キリスト」即ちイエス・キリストに帰属した「信を介して」、「信じる者[と神が看做す]すべての者」に啓示し知らしめられている。神はご自身の義を媒介者を用いて自らの専決行為(an exclusive act)として啓示しているが、その差し向け相手は「信じる者すべて」また「イエスの信に基づく者」(3:26)であり匿名性と普遍性を確保すべく三人称で表現されている。この専決行為が「神の知恵と認識」として神の前の整合的な言語網による理解を可能にする。

 パウロはその析出のために神の御子の呼称について工夫をこらしている。「イエス・キリスト」は尊称「キリスト」を伴うとき神の子にして人の子を表現しており、神の前と人の前の媒介者として用いられ、そこでは決して「イエス」(3:26)や「キリスト」(8:34 Nestle-Aland 28th [iesus])のように行為主体として用いられることはない。従って「イエス・キリストが~する」という行為主体を表現する主格的属格の解釈(彼が持った信仰)は否定される。なお人が自らの責任ある自由のもとに持つ信仰は啓示の媒介になりえないため目的的属格の解釈も否定される。ここでの属格「の」は帰属の属格(the genitive of belonging)である。

 その専決行為の基礎に人の前のナザレのイエスの信の生涯があり、それを父なる神が嘉みし十字架上のキリスト・イエスをご自身の「現臨の座として差し出した(aorist過去形)」(3:25)。この神が御子を「差し出した」相手は身代金を要求する罪に対してでも代償刑罰としてモーセ律法に対してではなく、「あらゆる者は罪をおかしたそして神の栄光を受けるに足らない」(3:23)とあるその「あらゆる者」即ち人類すべてに対してである。この過去形表現に見られる一つの出来事の報告において、イエスの信の従順の生涯は父がその十字架の死に臨在したことにより嘉みされたことを告げている。父と子の協働行為が信義の分離のなき神の義と神がその信仰を嘉みする者の義認の現在における神の専決的な啓示行為の基礎となっている。このようにイエスの最期はとりわけ明らかなこととして神とイエスの協働行為であった。それが現在形「啓示されている」により信に基づく義認が遂行される専決行為の前提とされている。現在、進行しつつあるこの二種類の知らしめは神の前の出来事である。

 信じる者と神が看做すすべての者へのこの福音の知らしめは子なるイエス・キリストを介した父なる神の専決的な啓示行為である。神はそこで「信の律法」(3:27)を立てたが、この神の義は、分離される「業の律法」(3:27)における神の義よりも、神ご自身にとっても人間にとってもより根源的な正義である。かくして、律法の「冠」(13:9)である神への愛と隣人への愛は信の律法のもとに変換され「愛を介して働いている信」が「力ある」ものとなる(Gal.5:6,Rom.5:8)。愛は「キリスト・イエスの憐みのうちにある」「義の果実」である(Phil.1:8-11)。信に基づく義、義に基づく愛への新しい道がイエス・キリストの信を介して開かれた。

 山上の説教において信を根底とする信の律法のもとに「裁くな」が直截に命じられることになる(Mat.7:1,Rom.2:1)。ひとが自分たちのあいだで審判しあうことは「業の律法」の枠のなかで生きるという意味において「同じことをしている」(Rom.2:1)ことになる。「豚に真珠を与えるな」という山上の説教の言葉は裁きの言葉ではなく、「識別するそのことがらにおいて自らを裁かない者は祝福されている」(14:22)とあるように、豚の最善を識別する者は「真珠を与えるな、干し草を与えよ」というものとなる。信の律法のもとでは業の律法のもとでの審判から解放されており、「愛を介して働いている信」のもとに最善の行為選択肢の識別に向かう。

 パウロはこの業の律法からの解放をこう語る。「今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が君を罪と死の律法から解放した」(8:2)。また彼は「キリストはわれらを律法の呪いから贖いだした」(Gal.3:13)と語り、裁くことはそこから解放され贖われたはずの業の律法のもとに生きることとなり、「再び奴隷の軛」に繋がれ「罪の奴隷」になることに他ならない(Gal.5:1,Rom.6:20)。或いは例えば、自ら信仰を持つことは神を利用するエゴイズムではないかという懐疑は「貪るな」というモーセの十戒の枠のなかで信仰を捉えることであり、やはり業の律法に取り込まれているからこその懐疑である(Rom.7:7)。「信じない者ではなく信じる者となりなさい」(John.20:27)、「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と命じられるとき、神が父と子の協働行為のもとに為し遂げた「キリストの愛」(8:35)、「神の福音」(1:1)の恩恵に眼差しをむけさせ、そこにこそ新たな時代を作る力があると告げられている。この福音のダイナミズムこそ21世紀の宗教改革を推進する力である。

 

0.3 神の前と人の前の分節と総合

 この発見はカトリックとプロテスタント和解の鍵を見出したことに他ならないと思われる。トマス・アクィナスの神学体系に基礎を置くカトリック教会は神の前と人の前を分け、アリストテレス倫理学の相対的自律性のもとに聖人に至るまでの人格的有徳性の蓄積を認め、神と人間の関わりを説明する総合的かつ包括的な思想体系の構築に勤めた。確かに、責任ある自由のもとにある人間を前提にする限り、人間的には有徳な者や悪徳な者がいるということを到底否定できず、地に足の着いた天的なものへの架橋は不可欠なことであり、それ自身恩恵のもとにあると理解することは神が宇宙と人間の創造者にして統帥者である限りにおいて道理あることである。

 他方、プロテスタントは神の前と人の前を媒介するイエス・キリストの信の根源性に集中し、ルターは「信じることは神の働きである」即ち信じせしめられることであるとし、神の前と人の前が常にキリストのまた聖霊の媒介行為により繋がれていると主張する。またカルヴァンは神の恩恵の働きである義認と人の人格的な成長である聖化を分離することを「あたかもキリストを引き裂くことだ(quasi Christum discerpere)」と主張した。

 プロテスタントはその都度信じることは信じせしめられることであると主張し神の前と人の前を分けないことこそが神の福音であると主張する。パウロはキリストの信の根源性とキリストによる今・ここの媒介を「ガラテア書」においてこう語っている。「私は神によって生きるために、[信の]律法を介して[業の]律法に死んだ。私はキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはや私は生きてはいない、キリストが私のうちに生きている」(Gal.2:19-20)。

 プロテスタントは純福音が散逸している当時の歴史の趨勢の中でキリストの福音に集中を余儀なくされたのであった。他の仕方での神へのアクセスは「神の恩恵を無視する」ことになる、そこでは「キリストは空しく死んだ」ことになる(Gal.2:21)。確かに、信じるとは今・ここでキリストを介して神に愛されていることを信じることである限りにおいて、プロテスタントが今・ここで執り成しの働きにおいてあるイエス・キリストと聖霊の媒介にその都度集中することは正しいことであると思われる。生きるとは神の前に生きることに他ならず、神の前はキリストを介して最も明確に開かれたからである。

 カトリックとプロテスタント双方の和解は普遍的な理論(ロゴス)上の神の前と人の前の分節と個別的な今・ここの働き(エルゴン)上の不分離がイエスやパウロの「言葉と働き」に見いだされる限り、双方は和解しうると思われる。双方ともパウロの神学の中心的教理を展開する当該箇所(3:21-26)をVulgata翻訳以降の一様の誤訳の故に適切に神の前の事態、即ち神ご自身による「神の知恵と認識」(Rom.11:33)を析出することに失敗し、それが単に所謂信仰義認論のみならず神の前と人の前の分節と総合をめぐる双方の理解の齟齬を大きなものにしたと思われる。当該箇所が信義不分離をめぐる「神の知恵と認識」のパウロによる一般的な報告であったことが解明されるとき、これまでの双方の人間観の理解の異なりや齟齬を神による人間「認識」との関係において明確に提示できることになろう。

 一方、聖書においてはロゴスとエルゴンを媒介するものは、人が語りうる究極の言葉である山上の説教とその働きのあいだに乖離がなかったナザレのイエスの信の従順である。イエスの信の従順は神の前で神によりご自身の義と不分離なものとして嘉みされ、信に基づく義が信じる者すべてへの神の前における義認の普遍的なロゴスとして適用されるに至っている。アリストテレスによれば哲学においては秩序ある働きを観察することができる限り、ロゴスは何等かエルゴンに内在しており、或いは個々のエルゴンから秩序ある普遍的なロゴスを析出することができる。そのロゴスとエルゴン双方を媒介している存在様式は「統率的に一であること」を意味する「完成(entelecheia)」であると語られる。哲学においては双方の媒介は成功した視点から語られている。

 

0.4 神を愛する者と真理を愛する者の和解

 21世紀の宗教改革においては人間本性の解明をめぐる人類の知的そして人格的な歴史の蓄積を踏まえ、神を愛する者と真理を真理それ自身のために愛する者双方が同意しあい協調しあうものである限りにおいて、力ある仕方で遂行されるであろう。キリストへの集中は宇宙に秩序をもたらすロゴスの真理への探究と共鳴和合するものであり、キリストによる救いの探求と秩序ある存在の様式である完成への探求とはロゴスの真理への信によりまたエルゴンの証の蓄積により相補的、補完的なものとなり説得力を増すであろう。パウロはキリストが自らの内に生きており、自らのロゴスとエルゴンの媒介者であると主張する。その媒介者キリストが存在論的には完成という存在様式においてあるロゴスである限りにおいて、福音の真理はすべてのひとに妥当する真理となるであろう。

 パウロが「福音」とは「[君たちと]共に与る」べき何ものかであると語る時、福音は父と子の協働行為により自己完結的なものとして提示されている(1Cor.9:23,cf.1:11)。ひとはただそれに与ることが求められている。神の前ではその信義不分離の啓示のもと予め憐みの器として選ばれたというその信仰が嘉みされるすべての者は義と看做されている。「神の知恵と認識」を伝える福音の言葉とそれによる相対的自律性のもとにある人間の知的、人格的営みの秩序づけ、それへの収斂にむけて、その解明の出発としてとりわけアリストテレスを参照しつつこれまでの人文諸学の知見を生かし、文学や歴史学、倫理学、哲学そして神学等の理性の導きにより人の前の人間認識と神の前の人間認識の関係を開示すべくナザレのイエスをめぐりその媒介性の探求を遂行したい。

 そこで問われるものはイエスの独一性と普遍性である。例えば、真実者であるイエスについての人格的真理論はアリストテレスにおける認知的徳と人格的徳の「軛に繋がれている」その媒介者である実践知者との共通性が見られる。この真実者としての「真理」論は「判断」や「信念」そして「知識」と関連づけられるが、ここでもパウロがアリストテレスと共通の理解のもとに展開していることが指摘される。

 イエスの四種類の言葉があり、そこでは宣教する者と宣教される者が同一者である自己言及が規準となり、その関連で天から地への連続的な憐みと罪による断絶のもと譬えや励ましによるその架橋さらには一般的な倫理的命題の秩序づけが遂行されている。これは救いを中心にする文学の筋立ての枠のなかで秩序づけが遂行される。運動のより先とより後の数である連続的な物理的時間のもとに年表的に提示される年代記(chronology)は一つの均質な運動としての時間のもとにある。他方、感情の文法の分析によれば最も現在的な感情である喜びは、過去や未来による現在の支配と異なり、時との和解を実現しており、永遠との関連においてのみ語られてきた愛が放物線が接戦に触れるように好機(chairos)として訪れる。歴史叙述(historiography)はカイロスをも視野にいれた物語を構成する。そのさい物語はその筋立てを救いとの関係において起こったことの記述だけではなく起こりうることをも普遍的な仕方で取り入れた語りとなる。

 21世紀の宗教改革は、宗教改革の名に値するためには、詩人が「地の果てまで戦いを絶ち、弓を砕き、槍を折り、盾を焼き払われる。力を捨てよ、知れ私は神」(Ps.46:10-11)と力強く歌うように、今日まで続く理論上の争いをやめさせることをまずその目標とする。ただそれだけではなく、ナザレのイエスはガリラヤの野辺を歩きながら「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」(Mac.1:15)と語り、「神の子の信によって」(Gal.2:20)死に至るまで信の従順を貫き、人間は誰であれ「天の父の子となる」(Mat.5:43)ことがその本来性であると宣教した。この運動は言葉と働きにおいて神の国を自ら持ち運んだイエスの御跡に従い、福音がユダヤ人のみならず異邦人にも人間の本来性を伝え生命を持ち運ぶものとなるその一助となることを使命とするものである。

 

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