夏の連続講義:21世紀の宗教改革の主張とその人文学的基礎 —77箇条の提題要約(その1)

夏の連続講義:21世紀の宗教改革の主張とその人文学的基礎 —77箇条の提題要約―

                                                                                           千葉 惠

 

はじめに カトリックとプロテスタント和解の鍵発見

 なぜこの21世紀にあらためて宗教改革か?この77箇条の提題の提案者がだいそれたアドヴァルーンを自ら挙げたことに何か道理はあるのか?唯一その理由を挙げるとすれば、パウロ「ローマ書」の神学主張の中心箇所が二世紀の古ラテン語訳の「編集」である四世紀のヒエロニムスのVulgata版以来、「ローマ書」3章21―26節が誤訳されてきたことに求められる。とりわけ、「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者[と神が看做す]すべての者たちに明らかにされてしまっている」(3:21)に続くその理由文(3:22)は、神の前のことがら即ち神ご自身の理解として、「なぜなら[神の義とイエス・キリストの信のあいだに]分離がないからである」と訳されるべきであったが、例外なしに人の前のことがらとして人が持つ心的状態としての信仰をめぐって「なぜなら[信じる者すべてのあいだに]区別がないからである」と誤訳されてしまったことに求められる。

 この発見はカトリックとプロテスタント和解の鍵を見出したことに他ならないと思われる。トマス・アクィナスの神学体系に基礎を置くカトリック教会は神の前と人の前を分け、アリストテレス倫理学の相対的自律性のもとに聖人に至るまでの人格的有徳性の蓄積を認め、神と人間の関わりを説明する総合的かつ包括的な思想体系の構築に勤めた。確かに、責任ある自由のもとにある人間を前提にする限り、人間的には有徳な者や悪徳な者がいるということを到底否定できず、地に足の着いた天的なものへの架橋は不可欠なことであり、それ自身恩恵のもとにあると理解することは神が宇宙と人間の創造者にして統帥者である限りにおいて道理あることである。

 他方、プロテスタントは神の前と人の前を媒介するイエス・キリストの信の根源性に集中し、ルターは「信じることは神の働きである」即ち信じせしめられることであるとし、神の前と人の前が常にキリストのまた聖霊の媒介行為により連結されていると主張する。またカルヴァンは神の恩恵の働きである義認と人の人格的な成長である聖化を分離することを「あたかもキリストを引き裂くことだ(quasi Christum discerpere)」と主張した。

 プロテスタントはその都度信じることは信じせしめられることであると主張し神の前と人の前を分けないことこそ神の福音であると主張する。彼らは純福音が散逸している歴史の趨勢の中でキリストの福音に集中を余儀なくされたのであった。確かに、信じるとは今・ここで神に愛されていることを信じることである限りにおいて、プロテスタントは今・ここで執り成しの働きにおいてあるイエス・キリストと聖霊の媒介にその都度集中することは正しいことであると思われる。生きるとは神の前に生きることに他ならないからである。

 カトリックとプロテスタント双方の和解は普遍的な理論(ロゴス)上の分節と個別的な今・ここの働き(エルゴン)上の不分離がイエスやパウロの「言葉と働き」に見いだされる限り、双方は和解しうると思われる。双方ともパウロの神学の中心的教理を展開する当該箇所(3:21-26)をVulgata翻訳以降の一様の誤訳の故に適切に神の前の事態、即ち神ご自身による「神の知恵と認識」(Rom.11:33)を析出することに失敗し、それが単に所謂信仰義認論のみならず神の前と人の前の分節と総合をめぐる双方の理解の齟齬を大きなものにしたと思われる。当該箇所が信義不分離をめぐる「神の知恵と認識」のパウロによる一般的な報告であったことが解明されるとき、これまでの双方の人間観の理解の異なりや齟齬を神による人間「認識」との関係において明確に提示できることになろう。一方、そこで形成される言語網は「神の知恵と認識」を伝えるものとなるであろう。他方、人の前の人間認識と神の前の人間認識の関係を開示すべく文学や歴史学、倫理学そして哲学等の人類が矛盾律の確実性のもとに理性の導きによるまた福音の刺激を受けつつ蓄積してきた知見を参照しつつ、総合的な理解を提示しつつ明晰化に努めたい。

 21世紀の宗教改革は、宗教改革の名に値するためには、詩人が「地の果てまで戦いを絶ち、弓を砕き、槍を折り、盾を焼き払われる。力を捨てよ、知れ私は神」(Ps.46:10-11)と力強く歌うように、今日まで続く理論上の争いをやめさせることを目標にするだけではない。ナザレのイエスはガリラヤの野辺を歩きながら「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」(Mac.1:15)と語り「神の子の信によって」(Gal.2:20)死に至るまで信の従順を貫き、人間は誰であれ「天の父の子となる」(Mat.5:43)ことがその本来性であると宣教した。この運動は言葉と働きにおいて神の国を自ら持ち運んだイエスの御跡に従い、福音がユダヤ人のみならず異邦人にも人間の本来性を伝え生命を持ち運ぶものとなるその一助となることを使命とするものである。

 

1.宗教改革運動がそこに基礎づけられ展開される言葉と働きの補完性

1.1 ナザレのイエスの言葉と働き

福音の宣教

 21世紀の宗教改革は疑いもなく、聖書が証言するナザレのイエスの言葉と働きにその基礎を持つ。そこからユダヤ人にも異邦人にも受け入れられる力ある普遍的な言葉が生み出され、そこから人々の間で生命と力に満ちた肯定的な働きが生みだされるそのような基準点がイエスの言葉と働きである。パウロは「ローマ書」において「御子の福音」(1:10)を理論的に伝えており、本稿の目的はキリストの言葉と働きが神の救済の歴史のなかでいかなる役割を担っているかを明らかにすることである。

 イエスの言葉と働きにおいて最も著しいのは彼が神の福音を宣教するものでありかつ自ら宣教される者であるということである。この宣教する者と宣教される者が同一者であるという尋常ならざる事態が人々を今日まで動かし従わせしめた救いの源でありまた離反せしめてきた躓きであるところのものである。

 ナザレのイエスは「彼に群がって聞き」にくる群衆にエルサレムの神殿やシナゴーグにおいてそしてガリラヤの野原や山上において何を語り、何を教えていたのであろうか。彼はアブラハムやイサク、ヤコブのイスラエルの族長たちに導かれた歴史の帰趨について、そして神のみ旨・み心(thelēma)は、モーセに啓示された律法を介して知らされていることまたイザヤやヨナ等の預言者たちの働きを介して知らされていることを語り教えた。彼は時空の外にいて天地を創造し、永遠の現在のもとに一切を知っている全知全能の「天の父」とそのみ旨について語った(Ps.139)。彼は天の父のみ旨を知っておりそれを教えようとした(ただし、終わりの時を除く(Mak.13:32))。彼は「天の父のみ旨を行う者が天国に入れていただく」ことを直截に語った(Mat.7:21)。彼は律法と預言者を通じて聖書に伝えられる神のみ旨・意志は自らの受難と復活において実現されると語り、神の国の福音の内実は自ら自身のことであると教えた。「祝福されている、君たちの目と耳は、というのも君たちの目は見ておりまた耳は聞いているからだ。まことに私は君たちに言う、多くの預言者や義人は君たちが見ているものを見たかったが見ることができず、君たちが聞いていることを聞きたかったが聞けなかった」(Mat.13:17)。

 イエスがユダヤ教の改革者として始めた宣教活動は福音・善き音信、即ち神の国の救いを伝えるものであった。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた」(Mak.1:14-15)。イエスは聖書に即し福音を「イスラエルの失われた羊たち」に伝えることにより宣教活動を始めたが、彼は人々の信の従順に出会い、信の根源性の故に異邦人に対しても伝えたことが報告されている(Mat.15:21-28)。聴衆には悔い改めてこの新しい教えを信じるように促した。それが彼の短い宣教活動の内実であるが、その前提にイエスは聴衆が神のみ旨を知ることができそしてそれをなんらか遂行できると考えていた。福音は自らを介して実現されるものであり、「福音」はパウロによれば、「信じる[と神が看做す]者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:4)。ナザレのイエスはその力能を自らの身辺に一挙手一投足において実現した。

 

宣教しかつ宣教される同一者の四種類の語り

 イエスの語りは複層的であり、概して四種類に分類されよう。(1)宣教する者と宣教される者が同一であることに基づき自己言及的に語られる。(2)神の憐みは天と地の連続的なものとして光や野の百合空の鳥など自然事象の比喩を介して語られる。(3)天と地の不連続性は人間事象の不十全性、悪や罪に由来するが、地上のものごとの譬え話によりまた歴史の帰趨をめぐる自らの預言や警告、叱責により架橋が試みられる。(4)自然事象、人間事象についての一般的法則が語られるが、この次元での発言が主に福音を一般的に支える倫理的な法則性を導出させる。

 福音書が報告するイエスの言葉の(1)自己言及が極めて特徴的である。神の国の福音を宣教しつつ、その媒介者である自らを語る。彼の言動そのものに神の国が何らか今・ここに現在しているそのようなものがこの自己言及である。聖書への尊敬のなかで聖書に基づく歴史の帰趨が自らに結実するその認識が語られている。「聖書全体」がイエスを預言しまたイエスにおいて成就されそしてイエスを介して理解可能なものになるとイエス自身により発言されている。

 イエスはガリラヤの野辺においては信の従順の生涯の途上にある。彼はまことの人として(旧約)聖書に記されていることに基づき、神のみ旨を忖度し自らの生を最善の行為選択肢の認知と実践においてその都度構築していった。イエスは自らの生涯が聖書に即したものであるとともに、その預言と律法の成就であるという自己認識のもとに一挙手一投足を歴史に刻んでいた。聖書全体が新しく福音のもとに位置づけられる。この福音の言葉の自己言及性は福音の事象が神とイエスの協同作業であり、自己完結的なものであることに基礎づけられる。パウロが「福音に[君たちと]共に与るために、福音のために私はいかなることをも為す」と語るとき、信じる者に救いをもたらす福音とは何かひとにより与(あずか)られるものであり、福音それ自身は自己完結的なものであることを含意している(1Cor.9:23,cf.1:11)。ひとは自己完結的なものに対しては、例えば修繕の要のない完璧な家があり提供されるとして、受容するか拒否するかのいずれかによってしか関わることができない。その家は清らかで争いも病も死もないと言われ招かれたたとしてひとはどうするであろうか。

 福音書に報告されているイエスの言葉には理論的教説の展開は見られない。彼が語る言葉はユダヤ教の預言者と律法の伝統のなかで言い伝えられる教えを取り上げ、それを先鋭化したものであり、また自然事象に訴えるものであり、譬え話により具体的に教える。これらはすべて天の父のみ旨がいかなるものであるかを教えるものであると同時に、それは話者であり媒介者であるイエスとの信頼関係の醸成を目的としている。それもすべて心魂の根底における「その通りです、本当です(ita est, verum est)」という承認と同意そして信頼が問われている。その意味ではどこまでもイエスと聴衆者の一対一の関係が基本である。この点について譬え話が著しい役割を発揮する。

 

イエスの自己言及と天と地の連続と断絶

 イエスは地上の(3)譬え話により天国がどのようなものであるかを語る。イエスは、自ら語る譬えは憐まれていることの自覚のなかで聞き理解する者と聞いてもこの憐みを悟らない者を判別する機能を持つと理解している。同時に譬えは叱責や警告をも発しまた含意しており悔い改めに導く機能を有している。「イエスは弟子たちに言った。「君たちには神の国の奥義が授けられているが、外側のかの者たちにはあらゆるものごとは譬え話のなかで明らかになる」(Mak.4:10)。彼は平行箇所でこう語る、「君たちに天の国の奥義を知ることが授けられているが、かの者たちには授けられていない。というのも、誰であれ(hostis)持っている者は、その者には与えられるであろうそしていや増し与えられるが、誰であれ持っていない者には、持っているものをもその者から取り去られるであろうからである。このことの故に、私は彼らに譬えにおいて語る、というのも、彼らは「見るけれども見ず、また聞くけれども聞かずそして理解しない」からである」」(Mat.13:11-13)。

 ここで「奥義」とはイエスがメシヤであること、そして復活の勝利により彼の言行の一切が明らかになったときに回顧的に語られている(1)自己完結的な福音への「自己言及」のことが含意されていよう。なお神を愛しそこに心のある者は天の国に関するものごとの知識や恩恵がいや増し加えられるであろう。他方、この世に価値を置く者は「たとえ全世界を獲得しても」天国に関連するものことは持っているものまで取り去られていくことであろう(Mat.16:26,cf.21:43)。「君の宝のある所、そこに君の心もある」(Mat.6:21)。

 イエスは自らの復活のあと、エマオの途上において復活の主とは気づかなかった二人の弟子と共に歩きながら、真の預言者たちについて言う。「「ああ、預言者たちが語ったすべてのことを信じることに至らない、何という、愚かでその心鈍い者たち。キリスト[メシヤ]はこれらの苦しみを忍んでそして栄光に至るはずではなかったのか」。そして、イエスはモーセとすべての預言者から始めて聖書全体において(en pasais tais graphais)、ご自分について書かれていることを説明した」(Luk.24:25-27)。この自己言及は復活の勝利を挙げたからこそ語りうるものであった。そのことは、彼が信の従順の生の途上において天と地の媒介者である預言者と律法について三人称で語っていたものごとについて、イエス自ら言葉と行いにおいて偽りなく実現した後には、自らを指示している或いは自らとの関連において理解されるものとなったことを明らかにしている。

 天の父のみ旨を明らかにし語る者は実は自らについて語っている一種の自己言及であったことになるが、このような事態は先ず言葉と行いにおいて偽りのない者においてのみ語りうる言葉であったということである。「私についてモーセ律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は必ずすべて実現する」(Luk.24:44)という甦ったのちのイエスの発言は神の子に相応しい言葉であるが、何世紀をもかけて編集された書物が人類の歴史全体を見渡し全体として一人のひとの子にして神の子について記している。言ってみれば、人類の歴史の帰趨はイエス自身への信にかかっていると報告されている。この書物は二千年の歴史の審判を経ているが、おそらく人類史上現在にも後にも他にこのような言語使用を見出すことはできないであろう。

 なお福音書記者やパウロは宣教するイエスの言葉と働きを報告することを通じて宣教している。この宣教は間接的であり、種々の事実誤認の可能性は残る。しかし、神は人間の弱い言葉を介して伝達されることを許容している、つまり神が許容し認可しなければこのような形でさえ纏められることのなかったであろう書物が「聖書」であり、この意味においてそれは「神の言葉」である。イエスその人においては自らの使命の認識と遂行のあいだには乖離はないであろう。誰かがたとえそこに乖離がなくとも自己認識つまり神の子として聖書の預言通りの受難と復活を遂げるという自己認識に誤りがある、自己欺瞞であると主張するなら、それは彼の諸々の働きと復活によって反駁される。復活は神の専決行為だからであり、イエスに罪がなかったことの証だからである。

 甦ったキリストは聖書の預言を自己言及のもとにまとめる。「そして彼らに言った、「キリストは苦しみを受けそして死者たちのなかから三日目に復活する、そして[キリスト]自身の名においてすべての異邦人に罪の赦しへの悔い改めが、エルサレムから始めて、宣教される」と書いてある。君たちはその証人である」(Luk.24:44-48,cf.Act.17:2)。復活については数百人の証人が挙げられている(1Cor.15:6)。一切を創造し統べ治める神から派遣され永遠の生命を与える神の愛の体現者であるイエスの言動に関わる者は、宣教する者と宣教される者が同一人である彼の言葉を真理であると信じ神の子キリストであると受け入れるか否かの態度決定が常に迫られている。これが彼の言葉の根源的な層である。

 パウロはこの福音の包括性をこう語る。「もし神がわれらの味方なら、誰がわれらの敵であるか。そもそもご自身の子を惜しまず、われらすべてのために彼を引き渡したその方が、いかに彼と共にあらゆるものをわれらに賜わらないということがあろうか。誰が神に選ばれた者たちを告発するのか。神が義とする方である。誰が罪に定めるのか。キリストは死んだ、いやむしろ甦り、神の右にある方であり、またわれらのために執り成したまう。誰がキリストの愛からわれらを引き離すであろうか。艱難か、災害か、迫害か、飢餓か、裸か、危険か、それとも剣か。まさにこう書いてある、「あなたの故にわれらは終日死に渡されています、われらは屠られる羊として認定されました」。しかし、われらはこれらすべてにおいてわれらを愛する方を介して勝ち得て余りある。というのも、死も生命も天使も支配者も現在あるものも来るべきものも諸力も、高きものも深きものも、他のどんな被造物も、われらの主キリスト・イエスにおける神の愛からわれらを引き離しうるものは何もないと私は確信するからである」(Rom.8:31-38)。

 パウロは御子を介した神の愛故に「われら」のことがらとして死や艱難いかなる苦境に対しても勝ち得て余りあることを確信している。もし偽りの預言者が現れ自らをそう主張したとして、その言動を疑い偽りと判断しそれを信ぜず無視する者は裏切ったことにはならない。そこに愛はないからである。イエスは自ら神の子であると信じ、父のみ旨に従いその言動に偽りがなく各人の罪の赦しのために生涯を捧げた。このパウロの確信のもとでは、この神の愛に対するひとの態度はこれを信じるのかそれとも神の愛を裏切るのかいずれかであって、信じないという中立的な立場は想定されていない。なぜかと言えば、父は自らの専決行為として御子と自らの信義そして愛の証に彼を甦らせたからであり、この大きな物語の外にいる、逃れうる場所を持つ者は誰もいないからである。換言すれば、各人はこの物語の登場人物であり、この物語は信の根源性のもとに語られ展開されており、受け入れない者は不信な者として裏切るそのようなものだからである。その確信の正しさは自らのあらゆる否定的な経験においても勝ち得て余りあるそのような喜びにより証明される。それ故にこそ福音とはあらゆる者に宣教されねばならないそのようなものである。「多くの偽預言者があらわれ、多くの者たちを惑わすであろう。不法がはびこる故に、多くの者たちの愛が冷やされるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶその者は救われるであろう。そして御国のこの福音はすべての居住地においてあらゆる異邦人に向けて証言(marturion)として宣べ伝えられるであろう、そして終わりが来る」(Mat.24:12-14)。イエスの福音の言葉はこの根源的な(1)自己言及の層を持ち、人間中心的に人間とその魂を普遍的に考察する倫理学はこの層を持つことはできない。それは信のみによってアクセスできその正しさが証明される層である。

 

1.2 言葉・理(ロゴス)と働き(エルゴン)

 ロゴスとエルゴンの補完の哲学的次元

 21世紀の宗教改革はこれまでの基督教の歴史的展開そしてその背後にある神学的理解さらにはその基礎となる哲学的理解を射程にいれるものでなければならない。歴史学や文学等をも含め人類の知的な営みを包括的に視野にいれ、信じる者にも信じない者にも、ユダヤ人にも異邦人にもイエスおよびパウロの議論に基づき神の前の地平をそれ自身としてまた人の前の地平との関係を明らかにするものでなければならない。さもなければ、これまでの単に人類の知的な歩みまた歴史の蓄積を無視したものと解され、その提案は人類の歴史のアポリアを解決するものとして説得力を持つにいたらないであろう。21世紀の宗教改革における聖書解釈上の争いや分断の解決はこれまでの思想や歴史の知見を十全に渉猟したうえの包括的なものとなることをめざしている。

 実際、イエスやパウロは異邦人を相手に福音を伝達しており、普遍的に理解されうる道理ある主張をしていることを確認したい。また宗教改革の提題77箇条において、イエスとパウロは既に自らの「言葉と働き」においてその後のキリスト教会と神学諸学派の分裂を回避し克服していることを示す。ここではパウロのロゴスとエルゴンの補完性、相補性の方法論をより広い文脈において位置づけ、人間における知識や思考の前進を担ういかなる方法論もその枠組みのもとにあることを確認したい。

 この相補性は人間の秩序あるあらゆる営みに確認される。ものの売買からなる今・ここの商行為は算術等の応用であり、建築等のものづくりは幾何学等の応用であり、あらゆる今・ここの営みはその行為を支える一般的な理解を必要としまたその背後に学的な基礎づけを持つ。イエスの言葉や譬えもその例外ではない。「木は実によって知られる」や「君が量る量りにより量り返される」そして「君の宝のあるところ、そこに君の心がある」や「豚に真珠を与えるな(干し草を与えよ)」は人生がそこに基礎づけられ方向づけられる価値や善の理論を要求し、善悪因果応報の理論等倫理学説の基礎となりそのもとで理解されるであろう。

 われらはロゴスとエルゴンの補完性、相補性が機能する次元は神学的主張の基礎となる哲学的次元においてであると主張する。例えば大陸合理論とイギリス経験論のロゴス主導とエルゴン主導の認識の二源泉に見られるものの両立性がものごとの真理を証する。神学的には信仰・信じることはモーセ律法のもとでの功績ある業・働きではないと主張されることがある。それは一方では義認そして救いが無償の恩恵であることを強調するためにそれを受け取るべく人が持つ信仰は律法の業ではないとされる。他方、モーセの十戒において命じられる善行は報われるに値する業であり祝福されるが、悪行は呪われるとされる。信仰はかくして功績ある行為とは異なる心の一種の働き(エルゴン)であるとされる。

 パウロにおける言葉と働きの相補性のもとにある21世紀の宗教改革はそのような神学的次元ではなく、包括的な次元で遂行される。信じることはそう欲することと信じることが同時である魂の一つの主体的な行為(エルゴン)であるが、また手足を動かし善行を為すことも魂の一つの意図的な行為として、同じ次元における「働き(エルゴン)」である。この神学的前提なきロゴスとエルゴンの相補性を展開する哲学的次元が今回の改革運動の次元である。

 ただし、「ローマ書」の新たな理解を標榜するものである限りにおいて、その働きは神や聖霊の働きをも含めるものであり神学的対象を哲学的に捉えることが課題である。不可視なものが働きにおいてあることこそ人類が解明すべき課題である。パウロは言う、「われらは表象によってではなく、信仰によって歩んでいる」(2Cor.5:7)。また彼は言う、「われらは希望により救われた。しかし、見られる希望は希望ではない。というのも、誰が見ているものを望むであろうか」(8:24-25)。「ヘブライ人への手紙」にこうある。「信仰は望んでいるものごとの基礎に立つもの(hupostasis)であり、見ていないものごとの[見ずに留まることへの]反駁(elegkos)である。というのも信仰によって古(いにし)への先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより諸時代が[先人たちのように]統一させられていることを、信仰により叡知において観取しており(pistei noūmen)、見ているものが現れないものども[神の言葉]に基づき生じたことを知るに至る」(Heb.11:1-3)。見ないものは言葉により伝えられる。その証し人となることが求められる。

 イエスご自身が宣教する者であり復活の主として宣教される者であるというこの福音の出来事が始めから終わりまでこの改革運動を導く。ひとは自らの人生をかけてそれを証しまた躓き否定し或いは無視する。われらは様々なこれまでの障害、躓きを除くことができると信じている。福音を福音として析出することがこの改革運動の最初の目的である。それはイエスの山上の説教における福音理解とパウロの信義の不分離の福音理解が歩調を共にすることを明らかにすることである。そしてそれをできるだけ広い文脈において提示することにより、パウロと共に福音広く理解されるようになることである。

 パウロは異邦人に向かい福音を宣教するが、彼は言う、「私ははあらゆるものごとから自由であり、私自身をあらゆる人々に奴隷となした、それは多くの人々を獲得するためである。私はユダヤ人にはユダヤ人のようになった、ユダヤ人を獲得するためである。律法のもとにある者たちには律法のもとにある者のようになった、私自身は律法のもとにいないけれども、律法のもとにある者たちを獲得するためである。律法なき者たちには無律法の者のようになった、神の無律法者ではなくキリストの律法のうちにいるけれども、それは律法なき者たちを獲得するためである。私は弱い者たちには弱い者となった、弱い者たちを獲得するためである。あらゆる者たちにはあらゆる者となった、あらゆる仕方で幾人かを救い出すためである。福音の故にあらゆるものごとを為す、それは私が福音を共に分かちあう者となるためである」(1Cor.9:19、第2、24、74条)。

 パウロはその一つの愛の業として自らを「弱い者」に同化した。「私は君たちの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)と身体の限界が自己の限界であると思いがちな肉の弱さへの譲歩のもとに、彼は神の前にいることを括弧にいれ相対的自律性のもとに、「罪の奴隷」でも「義の奴隷」でもありうる中立的な可能存在と捉えることがある(6:19-20)。そこでは彼は「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(14:22)と神により君の信仰は「イエスの信に基づく者」と看做されているという「神の知恵と認識」(11:33)を信じるよう励ます。「神の知恵と認識」(11:33)が展開される神の前の次元と相対的に自律した人間中心的な人の前の次元の関係こそロゴスとエルゴンによる解明課題である。

 人の前の自律性が語られるとは言っても、そこではあくまで神の前にいることは前提にされたうえでの肉の弱さへの譲歩であり、いずれかの可能性即ち罪の奴隷か義の奴隷かのいずれかのもとにある相対的に自律した存在者として捉えられている。神の前のいずれかの判断に隷属していることには変わらない。神の勢力圏から逃れうる端的な自由は想定されていない。パウロは「君たちは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由人(eleutheroi)であった」(6:20)と語り、義から逃れているか罪から逃れているかのいずれかである。

 無神論者からすれば、この譲歩は不十全なものであるとされようが、誰であれ真理に従わない者は偽り者であるということに同意する限り、真理のもとに制約されている。真理は真理それ自身を証する。偽りは見せかけであり、何等肯定的創造的な実質をもたず、善きものを生み出すことはなく、否定的、破壊的なものとして歴史を悲惨なものにすると同意し得る限り、人は真理に隷属することを自らの喜びとするであろう。「神を真実であるとせよ、すべての人間は偽りであるとせよ」(3:4)。

 人は真理から端的に独立した自律的存在者ではない。パウロは言う、「われらは真理に背いて何も力ないが、真理の為に力ある。というのもわれらは弱い時に喜ぶからである」(2Cor.13:8)。永遠の真理に対し自らの肉の弱さを認める限り、真理に対し幼子のようになり、真理を愛することを喜ぶであろう。パウロは真理を愛した。そして真理を解明する方法をこれまでの真理探究の伝統に即すことを選んだ。

 

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