25年8月改訂:内村鑑三晩年の「哲学熱」と真理の楕円説―純福音の析出をめぐって―(その二)

三、無償の恩恵に至る途

3・1純福音は過去に完結された出来事か

[問1]、何故[主張1]は全聖書を解く「鍵」か?鍵宣言の背後にあった認識は何か?

 内村はこの帰一的な解釈の指針により神の前と人の前の関係が根源的に開示されると理解し、鍵はキリストの贖いの無償の恩恵の出来事を介して人の信仰による神への途、方法を提示していると解する。彼はルター同様神の義の啓示の媒介を人が持つ信仰(目的属格)と解するため信仰の正しさを証する聖霊の執成しを鍵に同時に読み込む。ルターは「信仰はわれらの内における神的働き(ein Göttlich werk)である」と言う(WA2「ローマ書序文」、『信』上533)。これら三者の関わりのもとで、贖罪の出来事が聖霊の執り成しと共に「全聖書を解く鍵」となると主張される。内村は言う、「宇宙と霊魂と聖霊とが呻きつつ、基督者の信仰を証明するといふのである、之よりも大なる問題のありやう筈もない」(1922.2.19)。

 「贖罪と復活」(1914.11、「鍵」と同172号)において、内村はキリストの十字架と復活により既に「神の側」即ち神の行為と認識においては人類すべての義認は確立されたと主張している。[主張3a]:「神の側に在りては人類の罪は既に全く除かれ、人類は既に栄光を被(き)せられたのである、今は唯人類が神の恩恵の配興に応ずるや否や、その問題が残っている」。同様の主張は翌年の「基督教とは何か」にも見られる。[主張3b]:「キリスト教はそう[未来の道徳的完成]ではなくて過去に完成されたものを貰うことである。・・それ[シュライエルマッヘルの主張]は最もよく私の言はんとする考え即ちキリスト教は既に済んだ事であるという事を表わしている」(1915.7)。

 神の前の事柄として福音は既に歴史のなかに打ち立てられ一切が解決されたという。「講義」では「「神の前に」である、「人の前に」ではない、人の前には如何やうに見えてもパウロの問題とする処ではない」(26:157)と自覚的に二つの視点が判別される。これを[主張3]:「神の前での福音の過去完結性」と呼ぶ。

 この過去完結性の伝統的な主張は鍵の内村の一解釈に確認できる。鍵の「自訳」(1915)はこうである。「今律法を離れて神の義は顕れて律法と預言者はその証明(あかし)をなせり、即ち凡て信ずる者に及ぶイエスキリストを信ずるに由る神の義是なり、之に区別あるなし、そは人は皆な罪を犯したれば神の榮に与るに足らず、唯イエスキリストの贖いに由りて、神の恩恵に因(よ)り、功績(いさほし)なくして義とせらるれば也、神は予めイエスを立てて其血によりて信ずる者の宥和の供物となし給へり」。この翻訳による21-4節とりわけ「唯・・贖いに由りて、・・功績(いさほし)なくして」が恩恵の賜物、無償性としての内村の純福音を含意するのであろう。

 「神の義」により内村はルター同様受動的義を基本的に理解する。「人の[律法による]義の立ちがたきを明示したる後の語である故、神より人に賜ふ義であると見るが正しい」(26:167)。[主張4a]:「純福音は純恩恵である、律法の痕跡だも混(まじへ)ざる神の恩恵の宣言である」(「純福音」176号1915.3)。そこでは「今律法を離れ」とあるように必然的に受け取る側にはいかなる「功績」も要求されないはずである。

 なお、「講義」では[主張4b]:「他の何者をも雑(まじ)へない処の全く純なる信頼―これが徹底した信仰である、功を要しない功を条件としないただの無邪気なる信頼である」(167)とあり、「純なる信頼」が[主張3]過去完結性に対応する人の側の信仰の特徴として挙げられる。信義の分離なさは捉えられておらず、律法の業との対比を強調する功績ではない表現として「純信頼」が求められる。このように[主張4(4a+4b)]:「純福音と純信頼」が導かれるが、これは神の前の過去完結と組みになる人間の「徹底した」「無邪気な」心的態勢のもとにある信仰を要求しており、神と人双方が結合された地平の二項一組を形成している。

 

3・2福音と強弱ある信仰の両立模索

 「贖罪と復活」では人の前の応答は「容易」であるとし[主張4]:「純福音と純信頼」は易行道と同定され五要素が枚挙される。◇1「何人であれ」、◇2「信仰を以て」、◇3「神の此配興に応じて」、◇4「今、即時に、神がイエスを以て人類に下し給いしすべての福祉を己が有となすことができる」、即ち◇5「人類は今は既に救はるべき状態に於いて在る」。

 「我が平和と歓喜」(21:111、鍵と同172号)においては、同じ文脈において人の心的態勢の記述は◇4◇5とは異なり◇6「我に人のすべて思ふところに過ぐる平和と歓喜とは有るなり」と現在形において救いの心的態勢が表明されている。かくして、一方で「われ」は◇6今・ここの喜びに有るが、他方でわれは福音を◇4「今、即時に」喜ぶことが「できる」として位置づけられており、[主張4]は複数記述される心的態勢の成功した状況を表現すべく意図している。

 「講義」では[主張3]「過去完結性」と[主張4]「純福音純信頼」の関係は「原理」と「事実」により判別される。[主張3c]:「併し何故に「人類全体」とは云はずして只「イエスを信ずる者」(3:26)と限ったのか、もちろん原理としては万人が十字架に於いて義とせられた、しかし原理は個々の場合に適用せられて初めて其値を生ずる、即ちキリストを信ずる個々の人が事実上義とせらるるのである」(26:191)。この「原理」と「事実」の判別による応答は人間的に見れば◇6「救はれている状態」と◇5「救はれるべき状態」に対応しよう。しかし神の前で救われているなら、人間は神の判断に逆らうことはできないであろうから、この原理上は事実上を含意するに相違なく、人の前は肉の弱さを抱えた認知的、人格的に不十全な人間への譲歩された視点にすぎない、少なくともそう反論されるであろう(cf.8:39、9:19)。彼は聖霊の媒介行為を「事実上」において理解したと思われるが、両者のより適切な表現が求められる。

 さらに一方で罪とされる律法の業としての働きと他方で義とされる純信頼の働きは双方とも同じ心魂の意図的行為という意味での「働き(エルゴン)」として捉えられる次元があると反論されよう。パウロにおいて「信仰」は変動ある人の前のつまり人間が判断する限りでの心的態勢として「成長」や「進歩」、「弱い」が帰属される場合があるが、内村も「講義」まではその地平のみで信仰を捉えている、或いはそれ以外の表現を持たなかった(Phil.1:25、2Cor.10:15、Rom.14:1,15:1)。神の端的な無償の贈りものとしての福音は過去の出来事に追いやられ、人の側の信仰はその都度の今において持つ心的態勢として理解されている。神と人の二項一組を形成するべく、この理解では過去完結とそれに対応する人の信仰の間のギャップが常に問題になり、セットで見る限り「純福音」とは呼べない。

 父と御子の信義の分離なき「信」および「義」と人の前の強弱ある「信仰」をめぐる神の前と人の前の適切な分節が求められる。神の前に立つ信徒は信義の分離なさの故に自らの義を知るが、それを知らない者は肉弱き譲歩された人の前でのみ生きている。

 

四、神と真理に制約される人間の自由

4・1「神の前の自己完結性」と「人の前の相対的自律性」の媒介

 [問2]このような過去完結性のもとで神の前と人の前の記述はいかなる分節と総合をもたらすか?過去完結ならぬ啓示の言語網の「神の前の自己完結性」と人間中心の言語網の「人の前の相対的自律性」の確保とその関連こそ追求されねばならない。ちょうどパウロが「信仰」を「神の前で持て」(14:22)と励ますように、神の前にいない者また神の前から逃れうる者は誰もいない。「万物はご自身からそしてご自身を介してそしてご自身に至る」(11:36)。誰かいるとしたら人間の責任ある自由を認めるために、パウロが「肉の弱さ」を顧慮して、「義」と「罪」に対し相対的に自律した中立的な可能存在者を譲歩として認めることによってのみである。

 パウロは鍵における報告が「神は一人である」(3:30)その同一の神の意志のもとに「律法と預言者たちにより証しされ」(3:21) 聖書を貫ぬいていることを証明するべく、「ローマ書」において「書(旧約)」を六十回すべて肯定的に引用する。「アブラハムの信に基づく者」の先駆的な義認が引証される(4:16)。罪と義と選びをめぐるパウロの論証の箇所は「神の知恵と認識」や「知恵の説得的議論」と呼ばれ、三人称が用いられ「われら」のことがらとしての「聖霊」による執り成しの言及がない(罪2:1-3:20、義4:1-25、選び9:6-11:35,11:33,1Cor.2:4)。神の自己完結的言語網においては神の知恵と認識が展開される。

 この神の前のものごとを「肉の弱さ」(6:19)においてある「われら」のものごととすることが個々人の今・ここの課題となる。五章から九章五節では聖霊の執り成しによる神の前と人の前の架橋がその都度の今・ここのことがらとして遂行されている。例えば、「われらはわれらの古き人が共に磔られたことを知っている」(6:6)との知識主張は、聖霊の働きとは十字架の過去の出来事が今・ここのわれらの出来事であると執成すことであることを示している(5:1-5,6,5:9,5:11,7:6,8:24)。これは「霊の力能」や「霊と力能の論証」と呼ばれる(15:19,1Cor.2:4)。

 「ローマ書」はこの明確な方法論的な自覚のもとに言葉と働き双方の分節と補完のもとに論証が遂行される。神の前の次元と人の前の次元の関係は適切には「神の前の自己完結性」と「人の前の相対的自律性」に判別され、聖霊が今・ここで双方を媒介する。

 

4・2 真理愛と神への愛の収束

 イエスご自身が宣教する者であり復活の主として宣教される者であるというこの福音の出来事が始めから終わりまで神の前と人の前を媒介する。彼は律法と預言者を通じて伝えられる神の意志は自らの受難と復活において実現されると語り、神の国の福音の内実は自ら自身のことであると教えた。「祝福されている、君たちの目と耳は、君たちの目は見ておりまた耳は聞いているのだから。・・多くの預言者や義人は・・聞きたかったが聞けなかった」(Mat.13:17)。この自己言及に見られる福音を福音として析出することがパウロの課題であった。それはイエスの山上の説教におけるご自身の福音理解とパウロの信義の不分離の福音理解が歩調を共にすることを明らかにすることである。

 パウロはその福音に与るべく一人称で言う、「私はユダヤ人にはユダヤ人のように・・私は弱い者たちには弱い者となった・・。福音の故にあらゆるものごとを為す、それは私が福音に共に与る者となるためである」(1Cor.9:19)。パウロはイエスが民の「心の頑なさ」を憐れんだように自らを「弱い者」に同化した(Mat.19:8)。その譲歩のもとに、パウロは神の前にいることを括弧にいれ、「罪の奴隷」と「義の奴隷」双方の中立的な可能存在と捉えることがある。この中立性は語「奴隷」が持つ同義性により保証される(6:19-20)。

 この自律は神の前の罪か義かの判断に属し、神の勢力圏から逃れうる端的な自由は想定されず、神の前の真理に制約されている。それは福音を前にしては信により与りうるのみであることに対応する。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(14:23)。律法のもとにある者は「誰も神の前に義とされないであろう、というのも律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(3:20)。

 無神論者はこの譲歩は不十全なものと看做し「君は自由だ選びたまえ」、「行動の規範が何もないことそれが行動の条件だ」と勧める時、義か罪の二種類の隷属を想定してはいない。しかし、これらの命題により彼らは人間本性をめぐる真理を主張しており、同意しない者は偽り者であるとの主張を含意している。ひとは何らか判断をする時、自ら何らかの真理への信を保持しているが故に、真理に制約されている。

 シイリーが「深き眼識に於いて」パウロに「匹敵する」と形容するアリストテレスは「矛盾律を否定する者に対して、その者が何も言わないなら「植物のようなものだから、放っておけばよい」とする(173号、Met.IV4.1006a11-18)。その者が口を開き「矛盾律は存在しない」と一旦主張するなら、あらゆる存在と思考の原理である矛盾律(¬(A&¬A))に則って矛盾律を否定しており、「自己論駁」となる。ひとは矛盾律や真理という存在と思考の枠のなかで生きている。

 「各人に思われる通りにそう在りもする」という真理の相対説はそれが「万人に妥当する」と絶対的に主張すれば、自己論駁となる。例えば水槽の棒は「曲がって見える」が、それには、この濃度と光の強度のもとでは、「棒はこれだけ曲がって見えるもので在る」と応えればよい。道理と現象の調和が求められており、人は真理と癒着できずまた独立できない。パウロは言う、「われらは真理に背いて何も力ないが、真理の為に力ある。というのもわれらは弱い時に喜ぶからである」(2Cor.13:8)。破壊的で否定的なものから人を自由にし、人生の確かさを堅固に保持するものが「真理」である。そこでは、永遠に堅固なものに対し自らの肉の弱さを認める限り、真理を幼子のように愛し喜ぶであろう。

 

 4・3内村による三つの信仰理解 

 二元論のもとでの内村の「神の前」の分節は三種類あり、対応する「人の前」が各組み合わせを構成する。その一つ[X:信仰条件説]は「講義」の立場である。神の前の構成要素が[主張3]過去完結性だけであるとき、[主張4]変動する心的態勢としての信仰は神の前の外にあり、信じることはその受領の「条件」となる。そこでは◇6◇7喜びのうちに生命が宿る信仰の質量が問われる。「受くべき唯一の資格なる信仰を抱かざる時に於いては、与へんとして待ち給う天父も遂に与うるに道がない」(26:96)。「信仰」は「汲器(くき)」の比喩で語られ、「神の義を受くる唯一の条件」とされる。「絶対の恩恵、何等人の功に依らず、来る者の汲(く)むに任する所の生命の泉なる「神の義」である、但し信仰てふ汲器を持ち来らざる者は此泉より生命の水を汲取るを得ない」(183)。神の信義と人の信仰の断絶が信仰を義認の「条件」に追いやる。「主よ、主よ」と自覚的に信じても、「私はいかなる時も君たちを知らなかった」と返答されるでもあろう(Mat.7:22)。

 もう一つの組み合わせの可能性[Y:信義不分離説]は、拙訳の提示で解説したパウロのそして内村の絶筆の立場である。「信じる者」を「神の前」に即ち神主導の神の判断と嘉みに、信義の不分離の故に組み入れるものである。神の前と人の前の総数は同じであるが、匿名性が確保されている三人称の神の前の信徒はロゴス上「われら」とは判別される。神は一方イエスの信の従順に人類すべての罪を赦す十全な力能を見ており、他方、父と御子の分離なき信義はその啓示の受け手であるその⑤「信じる者すべて」に及び、⑨「イエスの信に基づく者を義とする」(3:26)。尚、過去完結性は「万人救済」を含意する。それは「啓示される」(8:18)べき終末の審判における一つの可能性ではあるが、福音の啓示においては信義不分離の故に知らされてはいない。

 何故信徒が無償の恩恵の内側に組み込まれているかと言えば、神の前に生きていない者は誰もなく、また肉の弱さへの譲歩の必要のない啓示の受け手においては、誰もが父と御子の信義の分離なさの故に、父の呼びかけに「アバ父よ」と応答するその人格的信頼に基づく正しい関係が見いだされるからである。神の前では人間の認知的不十全性のもとでの信仰の冒険性ましてや条件性は問題にならない。イエスの面前では「信じます、信なき私を助けてください」が相応しく、人格的な信の交わりだけがあり、信の対象や内容は言及されない(15:13,Mac.9:24)

 第三の[Z:聖霊媒介説]はパウロと内村により共有されている。これは内村が実質的には成功した人の[主張4]神に嘉みされる信仰を「純恩恵」に対応する「純信頼」と語るときに意図している立場である。それは聖霊の呻きを伴う執り成しにより[主張3]「過去完結性」と成功した[主張4]:「心に喜び充ち生命湧」く心的態勢が今・ここで媒介されている「信仰上及び心理上の事実」である(26:175)。内村はこの働きを「罪が赦されて義とせられし事、是は第一には聖霊みづから直接に我等の霊に囁き教へ給ふことである」と語る(26:500)。

 このように神の前のキリストの出来事は聖霊の執り成しにより一二人称の人間中心的な言語網(5:1-9:5)の個々人に適用される故に、話者の今・ここの働きの現場が問題となる。パウロが「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている[現在完了]」(5:5)と語るとき、もし発話の時点で聖霊の働きを介した神の愛が注がれていなかったら、偽となるそのような語りである。

 他方、それは「神の愛が心に注がれている者は誰であれ聖霊を受けている」と普遍的言説として匿名で三人称に転換されうる。これは神の側から見れば嘉みされた純な信頼をも含め神の前の事柄であるとロゴス上語りうるものである。なお人の側から見れば強弱ある人の信仰の態勢のなかで実質的には成功した視点つまり今・ここで聖霊の執り成しのもとにある純な信頼がその都度エルゴン上表現されている。そのような記述の視点に即して[Z:媒介説]は神の前と人の前双方を構成するものである。

 鍵宣言から「講義」にいたる内村は[X:条件説]と[Z:媒介説]の間を揺れていたと結論できる。ただ思考の方向としては[主張5]:神の前と人の前を分けず今・ここの聖霊の媒介の働きを込みにして或いは期待しての理解を展開している。プロテスタントにおいては信仰は生命を受領する一つの行為であり、この受動的義の理解は神の前と人の前を媒介者の故に分節しないことが正しいという主張である(『信』上534)。内村はその媒介における聖霊の注ぎの現場性の証として晩年「信仰告白の必要」で「信仰は生命である」と言い、既に『求安録』においてルターに倣い「信仰も亦神の賜物なり、余は信じて救わるるのみならず、亦信ぜせしめられて救わるる者也」と言う(32:296、2:249)。

 しかし、パウロは神の前の組み合わせ[Y:信義不分離説]と[Z:聖霊媒介説]のロゴスとエルゴンの異なりから双方の共存できる組み合わせを捉えていた。神の啓示行為から神の知恵のロゴスを析出することができる(逆も真)。常に聖霊の媒介の働きを要求できるわけではなく、霊が注がれていない状況としては例えば神の怒りにおける悪行への「引き渡し」が想定される(1:18-32)。また鍵は神が御子を媒介者として用いての専決啓示行為として報告され、聖霊への言及はない。三人称を用い一般的に匿名で表現される神の前の構成員は、譲歩された人の前の語りとは分節され普遍的な説明を引き出しうる仕方で報告されている。言説は働きを要求し逆も真であり、双方の補完は真理を捉える普遍的な方法である。

 

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