夏の連続講義(その4):21世紀の宗教改革―キリストの福音の独一性と普遍性の人文学的解明ー
承前(1.2 キリストの福音の独一性と普遍性―媒介者の真理論―)
1.2.4 イエスの人格的真理はアリストテレス倫理学に共有されている
倫理学はアリストテレスによれば「いかに生きるべき (pōs biōteon;)」や「最も望ましい人生は何か(tis hairetatos bios;)」の問をめぐって人間一般に妥当する心魂の認知的態勢と人格的態勢を包括する普遍的な理論、行為規範を探求するものである(Nicomachean Ethics [NE].VIII12.1162a29, Pol.VII1.1323a1)。
心魂の有徳性・卓越性には二種類があると言われる。今見てきたように、真偽にかかわりそこで優れた判断力も持つひとは認知的に有徳な人と呼ばれ、「知る」ということが語られる五種類の知識があるとされた。他方人格的に有徳な人がいる。身体をもって生きている人間にとって、外界からの刺激を受動する座は感覚器官を通じて受け取る身体である。選択できずに受動し発動する感情や欲望そして責任ある自由のもとで選択される行為はそれまで培った人格的態勢、実力のもとに遂行される。
アリストテレスは道徳的価値と身体上の受動である感情や欲望等のパトスの関係について実在論に与している。実在論とはものごとが人々の認知機能とは独立にそれ自身において理・秩序(ロゴス)をもって存在しており、人間の認知機能におけるその最善の説明言表(ロゴス)はそのものごとの本質即ちそれ自身であることを把握しうるという立場である。人格的有徳性に関しても同様であり、こう語られる。「徳そして善き人がそれぞれのものごとの尺度であるなら、この人に現れる快が快であり、この人が喜ぶ快いものが快いものである」(EN.X5.1176a17-19)。この「尺度」は「いかに生きるべきか」および「最も望ましい人生は何か」の問に対する、心魂における態勢とパトスをめぐる普遍的な規範であると言える(Pol.VII1.1323a1)。
有徳性が行為のゴール・目標であるとして、その卓越性が人生の尺度、規範とされる。心魂の働きである行為やパトスはその有徳な心魂の態勢に基礎づけられる。「快や苦」のパトスと「行為」のエルゴン(ergon)は「ヘクシス(魂の態勢)のセーメイオン(徴・証)である」とされる(EN.II4.1104b3,Rhet.I.9.1367b31)。選択できない感情のような身体的反応や「われら次第」(1113b9)と言われる選択による行為において、その人の内面的な道徳的実力が知られるという立場である。態勢の涵養が倫理学の主題となる。魂の態勢とパトスや行為の関係は有徳性を尺度として普遍的に妥当すると主張されている。
身体の受動反応であるパトスに善い態勢にあるとはそれぞれの徳項目において中庸に接近することであり、ロゴス(理)に与る力能を獲得していく。人格的徳例えば勇気は恐れというパトスに対して中庸においてあり臆病でも向こう見ずでもなく、恐れを克服しつつ選択すべき最善、正義を適切に選び取る人格的徳である。節制は快楽に対して良い態勢においてあり、放埓と鈍感の中庸においてあり、節度ある行為を選択する人格的徳である。
人は恐れと臆病のパトスが中庸に近づくにつれ、勇気の理に与る力能が増し、また快をめぐる放埓と鈍感から中庸に近づくにつれ、節制の理に与る力能が増し聴従しやすい魂の態勢になる。有徳者は適切な理(ロゴス)に「聴従している」者である(I13.1102b27)。
1.2.5実践知と人格的徳は「軛で繋がれている」
アリストテレスによれば、認知徳と人格徳が普遍的な言表と個々のパトスや行為のままでは倫理学は成立せず、普遍と個を媒介する個々の最善の「行為選択肢(prakton)」の知識である「実践知(phronēsis)」そしてその基礎に「経験に基づく目」と語られ「人生の盛時」即ち年齢を重ねることにより発動する「叡知(nūs)」の認知的徳が媒介者として求められる(VI11.1143ab8,14)。
「実践知」は「人間的な善に関わり、真なるロゴスを伴う行為力能上の態勢である」と規定され、「行為に関わる認知的なものの働きは、正しい欲求に一致した真理を捉えることである」(VI5.1140b20,VI2.1139a30)。人格徳において中庸に向かう正しい欲求・パトスが生起する時、「欲求的叡知(orektikos nūs)」が発動する(VI2.1139b4)。欲求と離れることなく発動するこの叡知に基づく実践知はその欲求が正しいことの知識を与えることにより「指令的」なものとなる(VI 10.1143a8)。そのさい基本となるものは「選択の原理」が「欲求と何かのためのロゴスである」ことである(1139a32)。アリストテレスは言う、「叡知及び思考なしに、さらに人格的態勢なしに存在しない。というのも、良い行為とその反対の行為は思考と人柄(ēthūs)なしにはないからである」(1139a32-34)。
人格徳は中庸を得ており快苦に対して安定しているため、行為選択肢の知識に与りそれを保全することができる。「節制(sōphroshunē)」の語源は「実践知を保全する(sōzūsan tēn phronēsin)」の合成語であることが紹介されている(VI5.1040b13)。認知徳の一つである行為選択肢の保全された知である実践知は人格徳と相互に軛で繋がれており支えあう。アリストテレスは言う、「実践知は人格徳と共に軛に繋がれており(suzeuktai)、人格徳も実践知と共に軛に繋がれている(suzeuktai)、いやしくも実践知の諸原理はさまざまな人格徳に即しており、人格諸徳の適正さは実践知に即している限り」(X8.1178a16-19)。実践知の「原理」、始まりは人格徳の成長による。実践知は人格徳の欲求に見られる正しさを保証する。節制の態勢の培われていない者がその都度の最善の行為選択肢を知ることは困難であろう。
個別の最善の行為選択肢にかかわる実践知がそれらの個別的人格徳に関与しロゴスを与え、行為に導く。そのさい、これら態勢とパトスを肯定的に関連づけるものはロゴス(理)であり、実践知はロゴス(言表・理)上例えば節制から分離されるがエルゴン(今・ここの働き)上不分離なもの即ち「共に軛に繋がれたもの」として今・ここで働く。アリストテレスの倫理学は欲求と叡知の綜合である実践知の理の統一的な実在論のもとに構築されることになる。
認知的態勢と人格的態勢が「共に軛に繋がれている」限りにおいて、双方の分断と知性の優位は抵抗にあうことになろう。どんなに認知的に優れていたとしても、双方の徳・卓越性が関連付けられない限り、最善の行為選択肢について発動する「欲求的叡知」の欲求が伴わないものがあるため発動せず、実践知に至らないものがあるということを含意している。純粋に知的な計算等には優れていても、最善の行為選択肢をつかむ実践知に至らないケースは容易に想定できる。純粋に理論的な研究においても、ニュートンがりんごの果実が木から落ちるのを見て、万有引力への叡知が発動したとしても、それまでの運動論の素養なしには、気づくことはなかったであろう。認知的徳の一つである「叡知(ヌース)」は叡知対象に「ヒットするかしないか」のいずれかであった。「決して偽に陥らない」叡知の発動に至るまでの認知的、倫理的態勢の陶冶の不可欠性は想像に難くない(Met.IX10.1051b22-26,EN.VI6.1141a3)。
アリストテレスは言う、「観想することがより優れてそなわる人には・・まさに観想に基づき幸福である。というのも観想はそれ自体において貴いからである」(X8.1178b30)。ヌースに基づく観想的生活が理想的と思われようが、そのような行為の選択が最善であることは「わずか」である(X7.1178a1)。というのも身体を持つ人間はこの人間社会に生きており人間的な関わりにおける正義の遂行が最善であると判断される場合が多いからである。
アリストテレスは包括的な仕方でこの双方の良好で創造的な関係をこう語る。「真なるロゴス(理・言表)は単に知ることに対してだけではなく、人生に対してもこのうえなく有益である。というのも真なるロゴスはエルゴン(今・ここの働き)に共鳴和合することによって信用されるからである。それ故にロゴスは、理解する者たちに対して、ロゴス自らに即して生きることを促すからである」(EN.X1.1172b3-8)。このロゴスとエルゴンの共軛、共鳴和合こそが実践的効力を持つ。知性なき欲求は盲目であり、欲求なき知性は無力である。
1.2.6 媒介者の真理論
イエスにおいてもアリストテレスにおいても、これらの認知的徳が人格的徳と軛に繋がれているということが「真理」という概念の複層性、深みをもたらすものであると思われる。イエスは信のもとに言葉と働きにおいて偽りがなく調和していたが故に、「真実者・真理(alētheia)」(Mat.22:6)と呼ばれるにふさわしい。その意味において双方の信による媒介者であった。アリストテレスは成功した視点から同じ問題を考察する。そこでは実践知は認知的徳と人格的徳が軛で繋がれることによりロゴスとエルゴンを媒介する。「実践知者(phronimos)」は発見と選択的欲求によりこう規定される。「徳は、われらにとって中庸のうちにあることによる、選択力能上の態勢である。そしてそれは、実践知者もまたそれにより決定するであろう、そのロゴスにより確定される。・・徳は中項を発見することそして選択することによるものである」(1115a6)。ここにわれわれは単に媒介者の真理論が聖書特有なものではなく、実践的な文脈におけるアリストテレスの真理論はこの軛による結合のゆえに実践知者による中庸のロゴスと選択の欲求の今・ここのエルゴンの「媒介者の真理論」を展開していると言ことができる。ただしアリストテレスの実践知者は成功した視点から語られた理想的存在者であり、その者が歴史上実在し、「私は真理である」という類の自己言及を遂行することはないであろう。
世界の在り様として成り立っているものごとをそれとして把握することは認知的な真理であるが、また在るものを在らぬと判断することは認知的な偽りであるが、人格的にはその偽りは生命を削ぎ滅びをもたらすそのようなものである。認知的な真理も永続するが、人格的に偽りなき真実な者は力と生命に溢れるものであり、双方が軛で繋がれているとき、その実践知者は先の一家の主人の譬えのように最もイエスに似た人間になり真理を証するであろう。
そこで何らかの働きのもと不可視な対象について何らかの知識が生起することもあろう。パウロは言う、「君たちこの世界の形に適合させるな、むしろ神の意志が何であり、善とはそして喜ばれるものそしてまったきことが何であるかを君たちが識別すべく、叡知の刷新により変身させられよ」(Rom.12:2)。ここでは「神の意志が何であるか」や「喜ばれること」そして「まったきこと」という表現により、その時々の最善の行為選択肢をめぐる知識が主題であり、これらについて知ることができると主張される。ここで変身とはキリストに似た者になることに他ならない。パウロは言う、「わが子供たちよ、キリストが君たちのうちに形づくられるまで私は再び君たちの産みの苦しみを為す」(Gal.4:19)。キリストに似れば似るほど神の意志をより知るに至るであろう、ただ自己の身体の限界が自己の限界であると考えがちな肉の弱さのゆえに、常に叡知の発動に刷新が必要とされるそのようなものであるけれども(第59条)。
ひとは「肉の弱さ」のゆえに相対的自律性のもとに生きることが譲歩として許容されている。それとの対比においてある、神の前の自己完結性が父と子の協働作業として報告されている。そこでは神の義はその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」即ち彼に帰属した信を介して、その信仰が神に嘉みされる者たちに啓示されている。そこでは神の前の自己完結的な言語網が展開され、その構成員は神に嘉みされる者たちである。
この神の前の構成員に関して、パウロの報告によれば「信じる者すべて」であり「イエスの信に基づく者」と三人称で表現されている。この者たちがどれだけキリストに似た者になっているかは知らされてはいない。ただ、イエスが信の従順をその都度貫いたように、その都度心魂の刷新のもと信・信仰の更新に生きる者たちであることが知らされている。中間時においては人は知らされていることと知らされていないことのあいだで信によって生きる。
これはルターが掴んだ信の根源性である。彼は言う、「わが心のうちに一つの箇条、キリストの信(Fides Christi)、が統治している、それはそこから、それを介してそしてそこにおいて(ex quo, per quem et in quem)わがあらゆる神学的思考が昼も夜も流れ出でそして流れ戻るところのものである(ルター『ガラテア書講解』(In epistolam S.Pauli ad Galatas Commentarius ex praelectione D. Martini Lutheri collectus [1531] 1535. Commentarius in Epistolam ad Galatas, Praefatio, WA 40 I, ed. K.Drescher, p.3. (Weimar 1911)。 これはエルゴン上、昼も夜もこの力強いキリストの信がルターの心魂に流れ込み、思考を展開させていることの告白である。キリストの信の媒介のもとに神の前と人の前を分けない、その都度のルター自らのエルゴンの報告であるが、そこから神の知恵を神の前のことがらとしてロゴス上析出することができる。21世紀の宗教改革はこの神の前と人の前の関係の総合的な理解に基づき展開される。