夏の連続講義:21世紀の宗教改革の主張とその人文学的基礎(その2)

 1.2 言葉・理(ロゴス)と働き(エルゴン)承前(その1)

「ローマ書」テクストの確かさをめぐるアンセルムスによる励まし

 21世紀の改革運動は11世紀のカンタベリーの司教アンセルムスを先駆に持つ。アンセルムスは既に11世紀に「聖書の権威」に頼らずつまり誤訳された聖書を引用することなしに、「キリストを取り除き」そして「理性のみ」により福音を証明していたのであった(Cur Deus Hom)。アンセルムスは「信仰」や「霊」を語ることなく、神の子にして人の子のみが罪を贖いうることを神学的に理性により論証した。そこで彼は父と子の憐みの協働説とでも呼ぶべき贖罪論を展開するが、人間中心的な語りは「神が・・譲歩する(concedit)」ことによるとする点に至るまで、期せずして提題者の「ローマ書」の意味論的分析と完全に合致した(II18)。提題者は神が言語使用者であるという前提のもとに聖書をとりわけ「ローマ書」を一つの文書(書かれたもの)として取り上げ分析の対象とした試みも「信以前の理解(intellectus ante fidem)」の標語のもとに「理性のみ」の営みであった。それがアンセルムスの先駆を持っていたことはなによりもの人類の歴史に対する信頼を醸成した。トマスやルターとは異なりアンセルムスが正鵠を得ていたのは彼が「聖書の権威」に頼らず誤訳から解放されていたことによると思われる。

 アンセルムスは父子の言葉を取り次ぐ、「父なる神が「わが独り子を受け、汝の代わりに捧げよ」と言い、また子自身が「われをとり、汝を贖え」と言われた場合以上に、深い憐みを考えることができるか」(II20)。十字架と復活の主は父に自らの義の褒美として自らの代わりに罪人を赦すことを願い、聞き入れられたのである。その証明を聞き「理性の先行証明なしに何も信じることを欲しない」立場で師と対話を続けたボゾは解放されて言う。「何もこれ以上理に適うものはなく(nihil rationabilius)、何もこれ以上甘美なるものもなく、何もこれ以上、世が聞くことのできる望ましいものはありません。私はこのことから、わが心がどれほど喜びにあふれているかを語ることができないほどの信を抱きます。と言いますのは、神はこの御名のもとにご自身に向かういかなるひとをも受け入れたまわないことはないと私には思われるからです」(II19)。

 イエスの身代わりと、彼の信義の完遂における意図が罪人の赦しの愛の願であったが故に、「神はこの御名のもとにご自身に向かういかなるひと」をもイエスにおいて「受け入れたまうということである。パウロは言う、「愛を介して働いている信が力強い」(Gal.5:6)。イエスは罪にしずむ人間たちへの憐みのもと愛を介して信の従順を貫いたのであった。その力強い信は父にとって人類の罪を赦すに十全なものと看做された。パウロは言う、「キリストはわれらがまだ罪人であるとき、われらの代わりに死んだ、そのことにより神はご自身の愛をわれらに結びつけた」(Rom.5:8)。

 それ故にパウロはこう命じることができる、「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(14:22)。われらが自らの責任ある自由において持つ信仰を神の前で持つとは神がキリストの十字架と復活においてわれらを理解しているということを信じることである。換言すれば、われらの心魂の実力如何にかかわらず、「神は、世界[人類]をご自身と和解させつつ、その仕方は[世界の]人々自身の背きを彼ら自身において考慮することなしに」(2Cor.5:19)、幼子の従順の信のもと愛に生きたイエスの信がわれらの信であり、それ故に義とされることに他ならない。「神はイエスの信に基づく者を義とする」(3:25)。

 ひとは聖霊の執り成しに信の喜びを見出すであろうが、啓示の出来事に理を見出すことにも信の喜びが湧く。ボゾは「これ以上理に適うものはない」と御子の真っすぐの従順が罪を贖うに充分なものであることの証明に喜んだ。彼はキリストの従順の信がご自身に向かう者を「受け入れる」十全な力能あるものであるであることを賛美した。

 21世紀の改革運動は神が言語使用者であるという前提のもとに聖書を正しく理解するという点においては理性の明晰性にのみ訴えて、聖書をとりわけ「ローマ書」を一つの文書(書かれたもの)として取り上げ分析の対象としながら、アンセルムスとは異なる方法のもとに聖霊の働きをもそれをめぐる言語的振る舞いを言葉の上で引き受けつつ、しかもアンセルムスの連続線上で信じる者にも信じない者にも理解できるいかなる聖書解釈もその枠の中で遂行される共約的な言語次元における分析を提供することにある。

 「ローマ書」テクストの確かさにこそ、21世紀の宗教改革の基礎がある。この主張の背後に明確なロゴスにはわれらを変革する力能が備わっていることを信ずる。改革の原動力はただロゴス(理)の明晰性に求められる。明晰なロゴスが与えられるとき、「躓き」はただわれらが信じようとしないという心の頑なさ、罪に起因することにもなろう。「主の御手が短くして君たちを救いえないのではない。主の耳が重くて聞こえないのではない。ただ君たちの不義が君たちと君たちの神のあいだに籬(まがき)をもうけたのである」(Isa.59:1)。ひとは神の御前に出ないでよいというアリバイを「躓き」の名において自ら造る。明晰なロゴスの真理を信じようとしない者の懐疑はもはや知性の上での説得されないことに基づくのではなく、神を見失った者の心霊上の苦悶であり、神を探し求めていることに他ならない。

 とはいえロゴス(ことば)はロゴス(ことば)に過ぎず、ロゴスの整合性は整合性に過ぎず、このロゴスはこの歴史においていかなる働き(エルゴン)をも生み出さないかもしれない、この理論を生みだす者のその働きとそのロゴスの証を立てようとする者の働きを除いて。なにごとにもロゴスを具現化する始動因が求められる。提題者にできることはこのロゴスをできる限り明晰に世に伝えること(エルゴン)である。ただし、「ロゴスの真理はエルゴンにより信用される」(アリストテレス)ように、ロゴスの真理を信じる者がそれを実践することにより周囲の者に信じられる者となるであろう。また力強い一貫したエルゴンは信を伴い何らか道理を持つものであろうように、もし真実の理論を掴んでいるなら、ロゴスとエルゴンの関係は補完しあい、支えあうものであるであろう。

 

「ローマ書」の方法論

 パウロは「ローマ書」において真理を解明し伝達すべく、「ロゴスによってまたエルゴンによって」議論を展開する理論と実践の相補性を書簡全体に浸透する方法論であるとして言う。

 私は、かくして、神に関わるものごとに関して、キリスト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、私は、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストが私を介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって(logōi kai ergōi)、諸々の徴と不思議の力能(dunamei)において、神の霊の力能(dunamei)において、成し遂げた(kateirgasato(kata-ergazomai (ergonの動詞形)))ものごとではない何かをあえて語る(lalein)ことはないからである(15:18-19)。

 パウロ書簡「ローマ書」は、パウロの自覚としては、キリストが「異邦人の従順へと至る」べく自らを介して言葉と働きによって為し遂げたものごとを伝えること以外のなにものによっても構成されてはいない。キリストが「私を介して」為し遂げたこと、とあるのは、彼が神に関する事柄に関して自らが用いられたことに「誇り」を抱いていることの理由を提供している。この書簡において報告していることは、キリストがパウロを介して言葉と働きによって成し遂げたものごとである。

 「言葉によって」とはキリストが神について伝えている様々な認識例えば信義の不分離や「憐みの器」としての予めの選びの教説等が念頭におかれている(3:21-26,9:6-11:36)。キリストの言葉の理解を進める議論をパウロは「ローマ書」および「第一コリント書」において展開している。一方で、「ああ、神の知恵と認識の富の深さよ。ご自身の裁きはいかに窮めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。すなわち、「誰か主の叡知を知っていたのか」」と神の知恵と認識の追跡しがたさについて語られる(11:33-34)。

 確かに主の叡知、主の全知は窮めがたいが、他方で、われらは「誰か主の叡知を知っていたのか、誰かご自身に教えるのか、しかし、われらはキリストの叡知を持っている」、即ちキリストが神の意志と認識について叡知の発動により知っていることがらに基づきわれらは人生を遂行しており、その彼の知識の言葉を介して神に対し明確なアクセスを得ていると言われる(1Cor.2:16, 2:6-7,1:30、第2条、59条)。神の啓示行為はキリスト自身が生前に持った叡知の発動に基づき神がイエス・キリストを介して知らしめている限りにおいて知ることができる。

 「神の知恵と認識」の報告と言える信義不分離と選びの教説はパウロが「或る部分一層大胆に書いた」と告白している箇所である。彼は「私は自ら君たちについて確信している、君たちは自ら善きもので満ち、あらゆる認識を十全に備えており、互いに叡知を提示しあう者たちであると」とその一層大胆に書いた神ご自身による理解網の報告は読者にお互いに教えあうことによって理解可能であるとしている(15:14-15)。「互いに叡知を提示しあう(allelūs nūthetein)」と翻訳した語は「叡知(nousnūs))」を「提示する・置く(thetein)」という不可視の神の意志を知る認知力能の部位の発動を含意している(「叡知」については第59、60条,cf.Mac.12:34)。キリストの叡知の発動に基づき、「われらはキリストの叡知をもって」おり、「互いに叡知を提示しあう」ことにより神の知恵と認識を普遍的な言葉で教えあい理解できるとする。

 またパウロはキリストが彼を介して「働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、神の霊の力能において、成し遂げたものごと」を伝達している。これは例えば聖霊が、「霊」と「叡知」がその力能においてある「内なる人間」(7:22)に内在しわれらの霊に反応を引き起こすという働きを遂行する場合が想定される。聖霊の働きは肉の弱さのうちに苦しむ者たちに内在し、その者たちがキリストの出来事において神に理解されているという神の意志を「神に即して」(8:27)伝達する執り成しの行為である。聖霊の執り成しが神に即して遂行されるさい、その実質は神が予め知り神の子となるべく定めたその神の選びに即して即ち神の意に即して、「弱さ」のうちに「身体の贖われる」ことを求めて「言葉にならない呻き」のうちにいる「われら」を支えていることに他ならない(8:23)。

 「(~成し遂げたものごとではない何かを)私は・・あえて語ることはない(tolmēsō, aor.subj.)」により、「私」パウロはこの書簡が自らの理解の及ぶ限りのキリストの言行の報告であり、自らの責任ある自由がその大枠を形成しており、人間パウロの書簡であると理解されることを許容している。その大枠のなかで報告されている実質は、パウロの自覚としてはキリストが神の霊の力能のただなかで遂行したものごとであり、パウロを介して即ちキリストがパウロに託した限りにおけるキリストの言葉(ロゴス)と働き(エルゴン)により遂行したものごとである。かくしてパウロは或る意味で自らの心魂の力能の働きを報告し、他の意味では自らに託された限りのキリストの力能の働きを報告している。パウロはここでキリストが自らを介して働いてきたことへの言及を通じて、二つの行為主体における言葉と働きの複層性を主張している。

 (この複層性を理解の助けとして記号で表記するとこうなる。パウロは自らの責任において「ローマ書」を著述しており、それをLogCと表記し、パウロの自覚としてはキリストや聖霊の媒介のもとに神の言葉と働きをつたえており、それをLogDと表記する。双方の関係を(LogD&/orLogC)と表記する。&/orにおける&はキリストや聖霊の媒介のもとにある言葉であると共にパウロ自らの責任ある言葉であるということ(D&C)を、orは媒介の言葉かパウロの言葉かいずれかであるということ(DorC)を意味する。/は&とorを分ける記号である。

 神の義認や選びの肯定的言行(言葉と働き)をErA&LogAと表記し、人間の言行をErC&LogCと表記し、さらに神と人を執り成すキリストの言葉と働き(また或る文脈における聖霊の媒介の執り成しの言行)をLogD&ErDと表記することとする。この書簡の文字全体はLogD(&/or)LogC(a-in C)と表記されよう、ただし(a-in C)は人間に理解される限りの神の言葉Aを表現している。(&/or)はキリストの媒介の言葉でありかつ人間パウロのことばでもある、或いは肉の弱さへの譲歩の故にパウロは自らの責任ある自由のもとでのキリストの言行の報告であると理解されることを許容していることを示している)。

1.3 ロゴスを備えた被造物の必然的な探求様式―信によるロゴスとエルゴンの媒介―

 アリストテレスにおけるロゴスの真理への信を証するエルゴン

 パウロの神学的方法のこの基礎命題はロゴスとエルゴンの伝統的用法に即した分節であり、そのの相補性はギリシャ哲学者たちに自覚的に見られ、また信じる者にも信じない者にも共約的な真理探究の手法である。彼は「知恵ある者にも負うべき責めを持つ」とし、これにより哲学的次元で論じることを引き受けている(1:14)。アリストテレスにおいては「ロゴスそしてエルゴン」さらには「ロゴスのみならず、エルゴンにおいても」という仕方で双方が相補的なものとして位置づけられ、成功した場合には双方は「共鳴和合する」、「同意しあう」また「証を立てる」と語られる(Aristoteles, e.g. 270b4,729b22,1072a20,1086a9,1340b7,1344a9,1374b9)。

 アリストテレスは言う、「真なるロゴス(理・言表)は単に知ることだけではなく、人生に対してもこのうえなく有益である。というのもロゴスの真理はエルゴンによって信用されるからである。それ故にロゴスは理解する者たちに対して、ロゴス自らに即して生きることを促すからである」(Nic.Eth.X1.1172b3-8)。

 ここで「ロゴス」が「真理」であるかどうかは「エルゴン」により「信用される」とあり、そのロゴスを真理であると提示する者は自らがその真理性に対する信のもとにあること、そしてその信の枠のなかでその普遍的な言表を実証することにより、その者は周囲から信用される者となるということが読み取れる。パウロにおいては、彼がそれに即して生きるそのロゴスとは「神の知恵」なる「キリスト」であり、イエス・キリストへの信のもとにキリストに即して生きることの真理性を証明している(1Cor.1:30)。

 言葉と働き双方を車の両輪のように用いることはイエスの思考様式でもあった。イエスが「知恵はその働き(エルゴン)によって正しいと証される」(Mat.11:19)と語るとき、ロゴスとエルゴンの相補性を念頭においている。エマオ途上の弟子たちは復活の主に出会うも気づかずに、「その方[ナザレのイエス]は、神の前にまたあらゆる民の前に、働きと言葉において(en ergōi kai logōi)力ある預言者となった」(Luk.24:19)とロゴスとエルゴンの対応においてある御子の生涯を偲んだ。人は誰であれ人生の指針に関し或る信念のもとに一般的な主張を為す場合、それを生きることによってしかその真理性を証し、正しいとされ、信用されることはない。優れたバランスのとれた思索家であればあるほど、ロゴスとエルゴンは車の両輪のごとくに支えあう、そのような議論を展開する。とりわけパウロにおける場合、探求対象が直接観察のできないものについての主張が遂行されるものであり、エルゴンによる確認は不可欠である。パウロは言う、「われらの福音は言葉において(en logōi)だけではなく、力能においてまた聖霊においてもそして確証の十全性においても君たちに生起した(egenēthē)」(1Thes.1:5)。これらの言葉と出来事のあいだには福音の言葉への信があるからこそその確証を得るに至る。信がロゴスとエルゴンを媒介する。明晰なロゴスが不可欠であり、その信のもとにそのロゴスを証する。

 アリストテレスも不可視な神的なものの探求についてその補い合いをこう語る。「ロゴス(logos・理論)は現れの証を立て(marturein)、現れ(phainomena)はロゴスの証を立てると思われる。・・かくして、いやしくも或る神的なものがあるなら、実際にそれは存在するのであるが、物体の第一の実体について今語られたこと[永遠性]は適切に語られた。このことは感覚を通じても十分に帰結する、少なくとも人間的な信念に対して語るのであれば(pros anthrōpinēn eipein pistin)」(De Caelo.I3.270b4-13)。ここで人間的な語り・信念とは人間に理解できる限りの神の存在への信念のことであり、神の存在は宇宙のなかで成立するものごとのその信念のもとでの観察経験、感覚との関係において十全な説得力を持つとされる。

 ロゴスとエルゴンの補完はロゴスの真理への信念が不可欠であることがここにも読み取れる。普遍的言明と今・ここの観察のあいだにロゴスの真理への信念が基礎にある。アリストテレスはこの『天体論』において真理探究の名において一種の神の宇宙論的存在証明を遂行しているが、「唯一である」(Rom.3:30)神は宇宙をロゴスに即して働く(エルゴン)べく創造された限りにおいて、それは単に哲学的次元における真理探究の方法ということのみならず、「神の知恵と認識」(Rom.11:33)をそこに見出すことができると言える。

 パウロが採用するロゴスとエルゴンの相補性の方法論はロゴスを持つ被造物即ち人間一般の秩序ある確かな生を導くものであると言える。パウロは双方の媒介を自覚的に信に求め、アリストテレスにおいては成功した地点からものごとのロゴスの存在様式でありまたその働きの存在様式でもある「完成(entelecheia)」の概念がロゴスとエルゴンを媒介する(Kei Chiba, Reflections on Aristotle’s Modal Ontology, Aristotelian Metaphysics, ch.14, ed.D.Bronstein, T.Johansen,M.Paramatzis ed. Oxford 2024)。

 複層的な関係を形成するロゴスとエルゴンは、伝統的そして今日的な表現を含めるとき、多岐にわたり枚挙できる。例えば、理論 と実践、知識をもたらす推論と発見的探求、論証(証明)と帰納(実験検証)、形相と統合体、語られたもの(de dicto)と(働きにある)ものごと(de re)、抽象されたものごとと具体的な今・ここのものごと、ソフトとそれによるハードウエアの働き、遺伝情報とその読み取り、楽譜と演奏等として分節され、そしてそれらが相補的な関係にあるとされまたその調和がめざされてきた。世界に秩序を認める限りにおいて、その秩序の源であるロゴスが何らかの素材に内在し、働き(エルゴン)においてあると考えることは道理ある。双方の望ましい関係は一方は共時的な普遍的言表により捉えられ、他方は今・ここにおける個別的な働きの認識により捉えられ、その理が今・ここの働きに見いだされるそのような関係においてあることである。アリストテレスにおいてその望ましい関係の媒介が「完成」である。ロゴスと今・ここの具体的なエルゴンが何らかの関係におかれていないなら、世界はカオスとなるであろう

 ものごとの真理はひとがその理への信のもとに捉えるものであり、イエスはその真理を語りそしてその語りを生き抜いた。それ故にパウロはその真理を御子への信のもとに捉えられるべき「福音の真理」と呼び福音が真理であると主張した(Gal.2:5)。パウロは言う、「私はキリストにおいて真実を語る、偽らない、わが良心が聖霊において共に私に証ししている。・・この方(キリスト)こそあらゆるものごとのうえにある神であって、永遠に褒め称えられるべき方である」(Rom.9:1-5)。そのイエスは言う、「私は道であり真理であり生命である」(John.14:6)。イエスもパウロも「真理」を語る限り、ロゴスとエルゴンが補完しあう次元即ちロゴスを持つ被造物全体に妥当する次元で語りまた働いた。

 

Previous
Previous

夏の連続講義:21世紀の宗教改革の主張とその人文学的基礎(その3)

Next
Next

夏の連続講義:21世紀の宗教改革の主張とその人文学的基礎 —77箇条の提題要約(その1)