夏の連続講義:21世紀の宗教改革の主張とその人文学的基礎(その3)

 21世紀の宗教改革の主張とその人文学的基礎(その3)承前

2 宗教改革の根拠

2.1「ローマ書」3章21―26節の新訳とその射程―

 この改革運動はこの方法的基盤のもとに、「ローマ書」の意味論的分析を通じてパウロが捉えた神の知恵である福音を可能な限り明晰に提示することに集中する。今日まで「ローマ書」3章21―26節は人々が「最も難しい」また「最も不明瞭」(E.ケーゼマン)という言葉と共に困惑し続けてきた箇所だけに、これが正されるとき、パウロの論旨はとりわけ明白となり、人々の間に納得が生起するそのような期待を懐く。「ローマ書」433節全体の言語的振る舞いをめぐる意味論的分析を遂行し、その五つの整合的な言語網を析出するなかでその誤訳を見つけ出したことを皮切りに、新たなテクスト分析を介して従来の幾つかの論争、例えば福音と律法、信仰と愛、恩恵と自由、選びの教説と各自の責任ある自由の関係に統一的な解決を見出したことにより挑戦したい。

 提題者はこの神の信義の分離のなさは「神の知恵と認識」(11:33)に基づく神の意志(A)「信の律法」(3:27)の啓示行為として理解する。この宗教改革の主張において、最初に神の義の(A)(B)二種類の啓示行為(1:16-19)、(B)「業の律法」(3:27)の由来と帰結(1:18-3:20)、さらに(A)福音の啓示行為における神の理解(3:21-26)とそれに基づく(C)適切な人間の応答のパウロ自らの理解(3:27-31)についての諸テクストを連続的な仕方で提題者による翻訳により挙げる((A)、(B)そして(C)の言語網の異なりについては後述する)。

 「1:16(C)私は福音を恥じとしない、というのもそれはユダヤ人を始めギリシャ人にも信じるすべての者に救いをもたらす神の力能だからである。(A)神の義は彼ご自身[イエス・キリスト]において信に基づき信に対し啓示されている、まさにこう書いてある「義人は信に基づき生きるであろう」。(B)なぜ[神が義]かと言えば、神の怒りは天から真理を不義のうちに阻む者たちのすべての不敬虔と不義のうえに啓示されているからである。そのことの故に、神の知られるべきものごとは彼らに明らかである。なぜなら、神が彼らのただなかで明らかにしたからである。・・(B)3:19われら知る、律法が語りかけるのは、律法のもとにある者たちに告げることがらは何であれ、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服従するためであることを。それ故に、20業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら、律法を介した[神による]罪の認識があるからである。

 (A)21しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、22神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。23なぜ[分離がない]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24ご自身の恩恵によりキリスト・イエスにおける贖いを媒介にして贈りものとして今や義を受け取る者たちなのであって、2526その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。

 27(C)それでは、どこに誇りはあるか、締め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。28かくして、われらは、人間は業の律法を離れて信仰によって義とされると認定する。29それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、30いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。31それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(1:16-3:31)。

 

2.2神による啓き示し「啓示」と神により理解される義と罪の言語網

 動詞「啓示されている」をめぐる神の前の文法とその含意

 「ローマ書」においては「啓示される」という動詞表現は三度(1:17,1:18, 8:18)のみ現れるが、「神の義」の二つの啓示(A)義認と(B)怒りは被造物の歴史のなかで既に生起した出来事に基づきこの中間時のあらゆる現在に適用されるものとして現在形受動態において表現され、神の意志はそこで明白に知らされている。ここで受動態が用いられるのは例えば「彼の優しさは困窮者に手を貸すことに見られる」のように、当該箇所の主体神の属性(義、怒り)が主語になる場合にはその媒介(イエス・キリスト、天)を指摘することにより動詞は受動態になることが自然である。差し向け相手は「信じる者すべて」および「真理を不義のうちに阻む者たちのすべての不敬虔と不義」であり、三人称で表現され、具体的な相手は普遍性確保のため匿名に伏されている。匿名は普遍的な適用の可能性を担っている。

 

三人称表現の匿名性と普遍性

 この三人称表現は十字架と復活の出来事から終末までの中間時のすべての現在において或いは共時的、無時制的に妥当するものとして普遍的に義認が遂行されていることを含意している。啓示の言語網においては、行為主体はあくまで神でありその専決行為が排他的な行為者として知らされており、受け手が知るに至るのは媒介者を通じての神による知らしめを前提にしている。これが神の前の神による認識の普遍的なロゴスの分節を可能にしている。人は、一方、誰もが神の前で生きており、人類すべてに十字架における神の臨在の「差し出し」を提示されたが、他方、神の信義を知らされている者たちは神に信じると看做されている者たちである。そして彼らが具体的に誰であるかは匿名の三人称に留まっている。イエス・キリストの信を介して知らされていることがらは明確にされているが、受け手自身のことはキリストの出来事ほどには個々人につき明確には知らされてはいない。三人称表現は神の知恵として今・ここに生きる者たちにその普遍性を確保するとともに、読者には神の前に生きるとき知ることになるという励ましであると言える。

 

終わりの日の審判の啓示

「ローマ書」で報告される神の啓示行為はもうひとつあり(アオリスト不定形受動態)、それは終末における「われらに啓示されるべく来たりつつある栄光」(8:18)である。この終末時の啓示において神の審判が明らかにされる。これは未来のことであり希望の条項として一人称「われら」が用いられる。終末における義認か罪認(A/B)の審判の啓示の(A)肯定的であることは「われら」の指示範囲の拡張をも含め人の側の希望の条項に属する。従って、この中間時における義認は現在進行の途上であり、御子の派遣とその信の従順の生涯を媒介にした啓示の報告においては所謂万人救済は含意されていないことが分かる。

 啓示の行為主体である神は創造から終末まで一切を統べ治める方である限り、神ご自身によりその媒介や差し向け相手は十全に理解されている。この啓示行為のパウロによる報告において留意すべき特徴は神ご自身による理解の言語網が張られていることである。パウロはそれを神が義であることの第一論証(不義に対する怒りの啓示)そしてそれを前提にしての第二論証(イエス・キリストの信を介した信義不分離の啓示)として報告しているが、そこでは神ご自身による人間の義と罪に関する認識が神の前のことがらとして報告されている。それらはパウロが「或る部分一層大胆に書いた」と告白している「神の知恵と認識」を報告している箇所である (15:14-15)。

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