山上の説教―八福―
山上の説教―八福― 日曜聖書講義2022年10月2日
八福
聖書
「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:1-12)。
1はじめに
この山上の説教の冒頭部を飾る八福を現代人は或いは今ここで聞く個々人はどのように受け止めるのであろうか。ひとは弱っているとき、何か中東の髭をはやした、正義のために迫害に耐え信仰を貫いている屈強な男たちの姿を思い出すのであろうか。この八福のなかには悲しんでいる者たちも挙げられている、柔和な者たち、憐み深い者たちも挙げられている。愛する者を失い、或いは自らの弱さに悲しみ、自信なく悲嘆にくれている者は同じような境遇にある者たちに憐みを抱くことであろう。今では同じような苦しみや困難をかかえた人たちがネット上で集まりやすくなり、慰め励ましあうことができるようになった。この年齢になると、やはり身近にいた心優しくしかし意志が弱く、持続的な働きのできない人たちの何人かが亡くなってしまっていることに気づく。逞しく生き延びる生命力というものがあるのであろうか。若くして死んでしまった文学者たちのなかに何か軟体動物のように思える人々がいる。その人柄をどこまで剥(む)いても核と呼べる堅固な部分に到達しないそのような印象を与える人々がいる。そのような文学者たちも、短詩形文学などにより、一瞬の心のはずみや嘆きを捉え、歌や詩などの作品に変換していく。
2022年はひとの心を挫くに十分な事件が次々に生起した。2年を超えるコロナ禍であり、ロシアによる道理なきウクライナ侵攻が続いており、そしてカルトの悲惨を反映した衝撃的な事件があり、物価高を伴う経済的変調そして気候変動による世界的な異常気象が報告されている。この年が後に人類の転換点となると語るひとがいるが、大げさに思えない。何か不安に襲われてしまう。
イエスはこのような現代の状況をも深く理解しておられた。終末預言においては、こう語られている。
3オリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。4 そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。5 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。6 また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。9 そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。10 そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。11 また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。12 また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
14 そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
イエスの憐み深さはこの人間の悲惨にたいする認識から来ている。栄光と悲惨、光と闇、成功と失敗、善と悪、コントラストによりひとは憐みを知るに至る。「最後まで耐え忍ぶ者」は救われると語られるが、その力が残っていない場合に、もはや救いはないのであろうか。悲惨と闇に押しつぶされていくだけなのであろうか。イエスは憐み深い万軍の主である。この耐え忍ぶ力さえも信じる者に与えてくださることであろう。
2この世に寄る辺なき身であること
イエスは語る、「その霊によって貧しい者は祝福されている、天の国は彼らのものだからである」。魂の根底にこの世のいかなるものによっても満たされない貧しき心だけを見出すとき、幸いだと呼びかけられる。生命力なく、この世に頼るものがないときに、イエスは祝福されていると言われる。天の国に入れて頂けるからだという。そして寄るべきなき身、それでよいのだと言われる。なぜなら、われらはどんない弱くとも神の子だからである。
ルターは「汝が心を寄りかからせているもの、それが汝の神だ」と言った。われらは英雄や偉大な記録を更新するスポーツ選手やアイドルに縋りつく。彼らに自己を投影し、彼らの成功を自らのものとする。自らの生の喜びを彼らによって満たしてもらおうとする。アリストテレスは自己に向き合わずに、次々に人々と交わることに時間を費やし、自己から逃避ばかりしている人間を「劣悪」と呼んだ(Nic.Et.X)。確かにどんなに弱くとも、われらはわれら自身と共に生きていく。そのわれらが自らの霊によって即ち根底において満たされないものを抱えるとき、まなざしは天に向かう。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。どうか、主があなたを助けて足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」(Ps.121:1-8)。ひとはこうして再び立ち上がる。
パウロも励ます。「一方、われらはわれら自身をではなく主イエス・キリストを宣教する、他方、われらはイエスの故に自分たちを汝らの奴隷であるとする。というのも神は、「光が闇から輝きいでるであろう」と語られた方であり、その方はキリストのみ顔のうちにある神の栄光の認識の輝きに向けてわれらの心に照らしたまうたからである。われらはこの宝を土の器に持っている、それはその力能の卓越性がわれらからのものではなく神のものとしてあるためである。あらゆることがらにおいて圧迫されても困窮せず、途方に暮れても絶望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びず、いつもイエスの死を身体において(en tōi sōmati)持ち運ぶ、それはイエスの生命がわれらの身体において顕れるためである。というのも、常に、われら生きている者たちはイエスの故に死へと引き渡されているが、それはイエスの生命がわれらの死すべき肉において(en thnētēi sarki)顕れるためだからである」(2Cor.4:4-11)。
途方にくれても、われらは絶望しない。キリストが共にいたまうからである。
3心とその清さ
その心の清い者が平和を造る、と。「その心によって」即ち心魂の根底から全身にいきわたる仕方で混じりけがなく、純一であり、統一されているということ。「清さ」は心の一つの根底的な態勢、構えであり、そこから良きパトスや行為が湧き出てくるないし遂行される。現代は関心を散逸させるものにことかかない。情報が次々に飛び込んでくる。このような時代に心を一つにすることは難しい。必要な情報とそうでない情報を判別する情報リテラシーが求められる。新渡戸稲造はthe nearest dutyをつまり最も身近な義務にとりかかるとき、ひとつひとつ次の課題が見え生が秩序づけられると言う。大切な教訓と言えよう。われらは十字架を仰ぎ見、そこから生命をいただき、証をたてていく。心を清める力を求めていこう。「ともし火をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置くものはいない。入ってくるひとに光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い」(Luk.11:33-34)。
心の清い者、清くされた者は神を見る。ヨブ「どうかわたしの言葉が書き留められるように・・。私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27)。
「心(kardia)」は聖霊が注がれる心魂の最も深い座をも含む思考や感情など心的働きの座である(Rom.5:5)。「魂 (phsuchē)」は基本的に生命を司る生命原理であるのに対し、「心」は意識などの心的働きの主体である。例「汝の宝のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.6:21)。「汝らのおのおのがその心から兄弟を赦さないなら、天の父も汝らに同様に赦さないであろう」(Mat.18:35)vs.「身体を破壊しても魂[生命原理]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:26-28)。
清さは身体全体に行きわたる「良心」と密接な関係にある態勢である。この一貫性こそ神に嘉みされる、神が喜ばれる心魂の態勢である。清い者は神を見るであろう。「良心」は「共知(con-science)」である。何と共に知るかが問題。最終的には神と共に知ることが良心の究極の働きとなる。「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11)。良心とは神に明らかなことがらが自らにも明らかになるその心の認知的座である。ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことがらが自らや隣人にも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。
イエスは山上の説教において敬虔なパリサイ人の偽りを指摘している。彼らは道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人前での善行により人々からの称賛と有徳を誇り、律法の形式的遵守の故に正義を主張し、その結果天国を正当な権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」(6:5,6:17)。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。背後に過剰を欲する貪欲が支配している。
4穢れ
眼がくらむとはまさに貪欲によりわれらの生が引きずり回されることに他ならない。清さの対義語は穢れである。イエスは「汚れた霊(akatharton pneuma)」の譬えを語る(Mat.12:43)。譬えの分類からすれば、これは宗教的な観念についての事例による説明であり、「例話(Beispielerzählung)」と呼ばれるであろう。霊はウィルス同様宿主を必要とする。「穢れた霊は、そのひとから出ていくと、砂漠をうろつき休む場所を探すが、見つからない。そのとき言う、「そこから出てきたわが家に戻ろう」。戻ってみるとそれは空き家になっておりまた掃除が為されており整頓されているのを見出す。そこで出かけてゆき、自分よりも悪い他の七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込み、住みつく。かのひとの最後は最初よりも一層悪くなる。この悪い時代によってもまたこのようになるであろう」(Mat.12:43-45)。
「空き家」とは心の隙間、空虚のことである。空虚な油断した心に霊は自分よりも悪質な七つの悪霊を引き入れると、そのひとの内面は一層悪くなる。ひとは何か自分とは異なるものにより引き回され、自らをコントロールできないそのような感覚を持つことがある。この七つの悪霊の話はそのような状況を思い出せば理解できる。もしそのような経験はないと言うなら、自らの心の内奥の動きを観察することが求められる。パトスと呼ばれる、自分でコントロールできずに湧いてくる感情や欲求なども、単に生理的なものというわけではなく、その背後に自らの心魂を破壊しようとする否定的、破壊的な勢力を見出すこともあろう。この発見は聖霊の発見と同様に重要なことである。
心の清さと空き家、即ち心の空虚さは別である。その心によって清いものは心魂の根底から純なる一なるものに思いを寄せており、二心や三つ心から自由である。心から信仰のもとにあるとき、心は満たされているため空虚になることはない。幼子の信仰がそこにはある。イエスが単純な子供を好きであるのは、あれこれ自分に有利なように策略をねったりしないからである。ああ、幸いだ、心の清い者たち。
しかし、清さ、混じりけのなさを人生において追求することへの反論が提示されよう。「清濁併せ呑む」ことこそ大人の条件である。免疫系に見られるように異質なもの、複雑なものが自己を構成していたほうが強いのではないか。良心の発動などくそくらえだ。どこまでも良心は麻痺しうるものであり、強者は思うがままに振る舞う。良心を持ち出す人間は弱者であり、強者への怨念があるからこそ、平等を語り、社会的弱者の救済を語るのではないのか。「強者の利益こそ正義である」(プラトン『国家』第一巻)とは古来語られてきた陳腐なことであると言える。そのような弱肉強食の社会をひとは求めているのであろうか。単にそれ以外の人生の選択肢を知らないから、そのイワシの大群の流れに身を任せて泳いでいるのではないのか。
しかし、身体においても痛みに気ずかず麻痺してしまったなら、どこまで身体が破壊されているかわからないように、良心が麻痺してしまったなら、どこまで心が悪くなってしまうかわからない。われらの心が清くないから、そういう者たちが祝福されていると思われるのである。「聖性の霊」(Rom.1:4)に即して神の光に照らされるとき、穢れに気付き、良心が疼く。清いイエスをより知ることにより清さへの憧れを持つに至る。
イエスは群衆が押し寄せてきたため、ペテロに船をだすよう依頼し、船の上から説教した。そのあとペテロに漁にでるように勧めた。「二艘の舟を魚で一杯にしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモンペテロはイエスの足許にひれ伏して、「主よ私から離れてください。私は罪人です」」(Luk.5:8)。大漁であることと自らの罪、穢れの告白といかなる関係にあるのか。ここで実はペテロに漁に出るよう勧めたとき、ペテロは疑ったのであった。昼間だったからである。ガリラヤ湖では夜が漁に適しておりそして昨夜も不漁であった。この伏線のもとでの大漁であった。自ら疑ったペテロの告白は聖なる清らかな方を前にして咄嗟にでた言葉である。「主よ私から離れてください。私は罪人です」。聖なるものにふれたとき、われらは畏れに捕らわれる。同様に、子の癒しを懇願する父は言った。「おできになるなら、憐れんで助けてください」。そうするとイエスは言われた。「「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる」。その子の父はすぐに叫んだ。「信じます。信なきわれを憐み給え」(Mak.9:23-24)。
イザヤは畏れ慄きつつ神を賛美する。「聖なる、聖なる、聖なるかな万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う」(Isaiah.6:3)。「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。汝が畏るべき方は主、御前に慄(おのの)くべき方は主」(Isaiah.8:13)。そのイザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは穢れた唇の者。穢れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は主なる万軍の主を仰ぎ見た」(6:5)と言う。
ときどき、このような穢れた者がこのように聖なる方について何か語ることが許されるのかと思わされる。ひとは疑い、多くの惑わしに捕らわれているとき、清い者ではない。ひとは信じることができない自らに罪を見出す。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)。イエスを介して神の意志を知り、イエスを介して或いは彼の後ろに隠れて神にまみえる。
5結論
この愛に触れてひとの心は正気を取り戻し、清められていく。ひとは「罪の奴隷」でも「義の奴隷」でもありうるまた悪霊も聖霊もいただけるそのような中立的な可能存在である。ひとは罪の誘惑にまけ、罪の奴隷となる。「そのとき、汝らはいかなる果実を得た(実を結んだ)のか。それは今や、汝らが恥としているものである。しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さにいたる果実を持している、その終局は永遠の生命である」(Rom.6:21)。ひとの心は清められ次第に聖なる者とされていく。天国は支配からも被支配からも自由な愛に満ちた聖なる場所である。「神の国は食することと飲むことではなく、聖霊における義と平和そして喜びである」(Rom.15:17)。天国の清らかさに触れてひとは清さにあこがれるようになる。穢れから解放され、罪赦されたことの「証」「徴」は隣人を愛しうることである(Luk.7:36-49)。清い者は心がまっすぐなひとであり、良心の咎めがない。拗け曲がり複雑ではない。勝手に発動する良心が平安を得ているのは憐みによる。
「平和の神ご自身が汝らをあますところなく聖なるものとし、汝らの霊と魂と身体とがわれらの主イエス・キリストの来臨の時に備え非の打ちどころのないよう完全なまでに護られるように」(1Thesa.5:23)。
迷信でも狂信でもない正しい信
日曜聖書講義 2022年9月25日
聖書 詩篇139篇1-18
1主よ、あなたはわたしを究めわたしを知っておられる。
2座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
3歩くのも伏すのも見分けわたしの道にことごとく通じておられる。
4わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに主よ、あなたはすべてを知っておられる。
5前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる。
6その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない。
7どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。
どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
8天に登ろうとも、あなたはそこにいまし陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。
9曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
10あなたはそこにもいまし御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
11わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
12闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない。
13あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
14わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。
15秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
16胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから。
17あなたの御計らいはわたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。
18 数えようとしても、砂の粒より多くその果てを極めたと思っても、わたしはない、あなたの中にいる。
迷信でも狂信でもない、正しい信
1 迷信と狂信とは
カルトの非道を背景にした衝撃的事件が起き、今、宗教における信の正しさが問われている。カントは信における理性の逸脱を「狂信」、感情の逸脱を「迷信」と呼んだ。正しい信は理性と共存でき、感情や欲求等に対し善き態勢(例、恐怖に勝つ勇気)を涵養する。「不条理(3+5=10)故に信じる」(一教父)等の偽りや、恐怖に陥れ誘う卑劣さは許容できない。信の正しさが保証されるのは、信仰対象の教えに即す時、聖書的には啓示された神の意志に即す時である。神による人間認識、意志は歴史上御子の受肉と信の従順において最も明白に知らされ記録されている。
しかし、そこに循環が疑われよう。神の啓示に基づく信の秩序づけは人の願望の反映であって、願望に基づく信仰により信仰の正しさを主張する無限ループの自閉が待っている、と。信仰はどこまでも意識のなかに留まる、と。しかし、信仰の自家中毒の主張はブロックできる。聖書の報告が人間本性を開示する限りまた無矛盾である限り、信仰心即願望の投映から逃れうる。
2道徳の基礎となる魂における信の根源性
イエスは人類が本性上道徳的存在であることを人間の真実として一歩も譲らなかった。愛は喜びだからである。山上の説教はモーセ律法を純化し道徳の極限を示したが、イエスは「まず神の国とその義を求めよ」と信仰に招き、自ら「神の子の信」(Gal.2:20)により山上の教えを生き死により律法を成就した。この教えある故に人類に絶望しないその確かさが示され、人々は連綿と信の喜びのもと道徳者を自らの本性と認め、信から愛の道を歩んだ。信の正しさは徴を求めず証を立てる。外に立つ福音故に蛇の自己食尽の無限回転を止めうる。
3知性の基礎となる魂における信の根源性
知性の確かさも循環を止める。パウロの「ローマ書」は明確な方法論「ロゴス(理論)とエルゴン(聖霊等の働き)により」展開されており、「聖霊は体験あるのみ」にならず、その明確な理がある(15:18)。「ローマ書」は言語層が五つに分節されうる無矛盾の議論が展開されており、神の前(神の義を示す「信の律法」と「業の律法」の啓示)と人の前(人間中心の議論)そして双方を媒介する聖霊の働きをめぐり整合的な言語網が形成されている。「信の律法」下にある「不敬虔な者を義とする方を信じる者には、その信仰が義と認められる」が「業の律法」下にある者に神は「その業に応じて報い」「律法を介しての[神による]罪の認識がある」故に「義とされない」(3:27,4:4,2:6,3:20)。二種の神の義に矛盾はない。
彼は「知恵者にも責任がある」とし信仰義認(1:17,3:21-4:25)と予定(9:6-11:32)を聖霊への一切の言及なしに「神の知恵」として説得する(1:14,11:32)。転じて、彼は5―8章で「われらの弱さ」(8:26)に宿り呻きつつ神の意志を執成す聖霊の働きを自らの今・こことして報告する。「真理とは何か?」(ピラト)への一応答は真理の対応説であり、彼の5-8章の議論が実際今・ここで働いている聖霊を捉えた場合に真となる。その言明と世界の対応を一旦括弧に入れた真理論「整合説」によれば、言語網それ自身が無矛盾に構築されている限り真である。
4心底でキリストの出来事は自らのことであるという神の理解を伝達する聖霊
「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている(現在完了)」(5:5)は発話の時点で聖霊の注ぎなしには偽となるが、「神の愛は心に宿る聖霊を介して注がれる」によりその働きを一般的に理解できる。過去形表現「キリストにある者たちは諸々の情と欲とともに肉を磔た」(Gal.5:24)により、「風」の如く時空を自由に往来する聖霊がゴルゴタ上でわれらの過去の罪が処分されたという神の認識を心奥で伝達執成している。聖霊はあの出来事に眼差しを向けさせ、人は十字架を仰ぎ見、その都度情と欲と共に古き自己を磔ける
5言葉と働きに分裂なき信の根源性に生きたイエス
イエスは譬える、「天国のことを学んだ者は新旧のものをその蔵から取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:51)。人生の最重要事の学習者は生全体を見渡し大事小事、新旧を判別し秩序づけ導く。イエスは天父と子の絆の信の満ち溢れにより言葉と働きの分裂なき幼子をその全人格において生き抜いた。魂の根底の信の喜びが良き働きを生み栄光を証しつつ賢者と聖者への道を歩むとき、誰も狂信や迷信の誹りを浴びせることはできない。
心の清い者は祝福されている―業の律法と信の律法―
心の清い者は祝福されている―業の律法と信の律法
日曜聖書講義 2022年7月31日
[録音は3. 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性」は割愛割愛]
聖書
「 21しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、22神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。23なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、25,26その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。
27それでは、どこに誇りはあるか、締め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。28かくして、われらは人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。29それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、30いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。31それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:21-31)。
序
今学期は、業の律法からの解放について主に学んできた。ひとは誰もが自らに善きものを求めて生きている。これは誰もがなにがしか善悪を判断しつつ生きている道徳的存在者であることを告げている。人間はどんな極悪人でも本性上道徳的存在なのである。今学期も戦争や犯罪等多くの悪に直面し多くの地球人は苦悩に沈んだ。聖書によれば、それは福音によってではなく業のモーセ律法のもとに生きているからだとされる。この消息をめぐって学んできたが、今学期最後の日曜聖書講義にあたって、復習をかねて業の律法と対比される信の律法の福音に学びたい。
1.イエスの言葉と働きによる道徳的次元の内破と再生
今日までの人類の歴史に鑑みてまた自らの良心に照らして、ひとの心魂(こころ)の根底からの偽りなき生の在り方をめぐって、あらゆる懐疑の末に残される確かなものは聖書に記されているナザレのイエスの言葉(ロゴス)と働き(エルゴン)である。彼の言葉と働き、その一言一句および一挙手一投足に侵しがたい権威があり、その人格と認識、教えに抗しがたい魅力、引力がある。その「権威」(Mat.7:29)は言葉に偽りがなく言葉と働きに乖離がないところからおのずと生じるものである。彼の言葉と働きは常に彼の「神の子の信」(Gal.2:20)、「天の父の子」(Mat.5:45)の信の根源性のもと父と子の分かちがたき人格全体から溢れ出ている。彼に信従する限り肯定的、創造的なるもの、聖なるものが歴史に生起する、そして人類の悪に終わりがくる、そのような希望が心魂の内奥に湧きあがる。イエスの言葉と働きには人間であることの真理のそして宇宙万物の真理の根源の理(ことわり・ロゴス)が内在していた。パウロはそれを「福音の真理」(Gal.2:5)と呼んだ。
イエスは山上の説教(Mat.ch.5-7)において彼が「天の父」と呼ぶ神に祝福される八つの心的態勢を天国における慰め、満ち足り、喜びとの関係において語った(Mat.5:1-12)。柔和な者、憐み深い者、そしてこの世の何ものによっても満たされないその霊によって貧しい者(ptōkoi tōi pneumati :行為主体agentの与格)、かくして神の正義を渇き求めそして義のために迫害されながらも平和を造らずにはいられないその心によって清らかな者たちが神のお好のみなのである、愛しい者や大切なものを失い悲しむ者とともに。ナザレのイエスは少数の弟子と高い山に登ったとき、輝きに満たされ変貌を経験したが、そのとき父なる神は「わが愛する子、その彼をわたしは嘉みした」(17:5)と祝福した。その八福を語る方は実はリアルタイムにその八つの祝福を生きる方であった。イエスは山上の説教のもとに生きそしてそれの故に死んだ。
山上の説教は人類の誰かが言わねばならなかった、ひととしての道徳上のまさにその究極の在り方を伝える。イエスはご自身の言行一致がもたらす権威のもとに山上で言葉の力だけに頼り空手で群衆の前に立つ。彼は善悪、正邪を誰もが判断して生きている道徳次元に踏みとどまり、その土俵のうえに立ち、言葉の力により各人の良心に訴えて道徳的次元をその内側から破り出て、「まず神の国とご自身の義を求めよ」(6:33)と信仰に招いている。信仰への招きは素朴であり、天の父への信頼のなかで、彼は「悔い改めよ」や「信ぜよ」という類の宗教的な命令を語らず、「信・信仰(pistis)」も「罪(hamartia)」も類似語を除いて直接に語られることもない。さらに、そこでは聖霊の賦与も、奇跡の執行や悪霊の跋扈も報告されてはいない。
山上の説教において、彼は野の百合空の鳥に囲まれながらユダヤ人として伝統的な道徳を自ら引き受け、ひとはそれ自身として十全な道徳的存在者たりえず、信仰の次元なしには道徳的に十全足りえないことを、言葉のみの力により論証している。道徳次元の内破による新たな関係づけは自然的な父子との類比により遂行されており、イエスはガリラヤの自然のもとで道徳的伝統を思い出させながら聴衆を新たな教えに導き道徳の再生を試みいている。教えは驚嘆すべきものであるが、そこにいかなる熱狂主義的な要素が見られないのはひとが道徳的存在者であることを彼が一歩も譲らないことに確認される。
ユダヤ人は自らが選ばれた民として律法を誇り、異邦人や罪人とは異なるという差別的な態度を取っていた。イエスは当時の彼らの伝統的な道徳観そして死後天国か地獄に行くという世界像を自らも引き受け、議論の前提を彼らと共有することに基づく対人論法(argumentum ad hominem)により、ユダヤ人の道徳的不徹底さを、さらにはこの世もあの世もという二心(ふたごころ)に潜む偽りを指摘する。イエスはそこで彼らが依拠するモーセ律法を急進化、内面化そして純化する。その論法はまず定型句で「汝らは聞いている、昔の人々によりこう語られたのを」と切り出して、その言い伝えを引用する。伝統的な教えを提示したのち、「しかし、わたしは汝らに言う」と切り返し、それらの問題点を摘出する。それは殺人、姦淫、離婚、誓い、同害報復、敵への憎しみをめぐって展開され、道徳的次元が内側から突破される。つまり彼らの立場は首尾一貫せず保持できないことが内的に論駁される。
イエスは言う、「「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18,Ps.139:21-22)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:43-46)。イエスは家族や隣人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益そして被害や危害との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において差別や支配そして操作が遂行されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。敵は友となることもある偶然的な関係にすぎず、ひとがひとである限り本来的に友と友の等しさつまり愛が成立しうる者だからである。
とはいえ、いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの新しい教えは尋常ではない。これらの言葉はそれを正面から引き受けるひとには良心・共知(sun-eidēsis, con-science)の痛みの発動を引き起こすに十分である(5:22,5:28,5:39)。イエスとその山上の説教とを共知の相手方とする者たちには、心の少しの歪曲が痛みになる。右目や右手が罪を犯させるなら抉りとり切り取ってしまえ、全身が地獄に投げ込まれるよりましである、と警告される(5:27-30)。良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。良心とは神に明らかなことがらが自らにも明らかになるその心の認知的座である。ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことがらが自らや隣人にも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。
その説教において乗り越えが企てられている敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人前での善行により人々からの称賛と有徳を誇り、律法の形式的遵守の故に正義を主張し、その結果天国を正当な権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」(6:5,6:17)。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。背後に過剰を欲する貪欲が支配している。
イエスは律法の遂行においてパリサイ人の義に優るのでなければ、天国に入れないとして言う、「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。アーメン、汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」(5:17-20)。
ここでパリサイ人との関連で語られる「汝らの義」はまず業のモーセ律法の遵守による正義のことを意味していよう。イエスはモーセ律法を純化し極性化して言う、「敵をも愛せよ」。人類はこのイエスの戒めに、一方で人類への絶望から解放される教えを受け取り、他方、山上の説教の前に身がすくみ、懐疑と反論を提示してきた。山上の説教は一方では人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、人類の誰かによって語られたことただその事実によって人類に絶望せずにすむと思われよう。他方では、「律法は怒りをもたらす」(Rom.4:15)とあるように、これが告発者となり、これを語ったイエスは人間にはとうてい満たしえない心的規範また行動規範を与えており、誰にも負えない重荷を負わせ、道徳的苦悩をもたらすだけなのではないか、彼はそれによって彼の追随者たちをただ神の怒りのもとに怯えさせ苦しめる者なのではないか、説教それ自身は神の審判に他ならないのではないかとの問いと懐疑が提示されてきた。
それらの懐疑への一つの応答は、聴衆は誰もその教えを守り切ることのできないことを知らしめその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすことを信じるよう促しているというルター主義的な理解である。この理解のもとではイエスは純化させたモーセ律法の枠のなかに留まっており、この説教は聴衆を福音に追いやる機能を担っていると主張される。この解決案は律法と福音を審判と救いという仕方で二元的に峻別しているように受け止められるが、生身のイエスご自身が律法の伝統のただなかで福音を確立しつつあるその動的な生きた関係をこそ把握しなければ、この説教は正しく理解されない。
イエスは山上の説教における天国と地獄という共通理解に基づく対人論法の背後に自らが神の子であるという自覚を明確に保持していた。神に対する「天の父」、「父」という呼称は旧約聖書にあまり多くみられないが、聴衆にその理解を促すように十三回用いている(e.g.Deut.32:6,Ps.89:27)。その説教においては、「神の子」や「天の父」が二人称や三人称複数で語りかけられる根拠、裏付けとして、「わたしが来たのは・・」、「わたしは言う・・」という一人称単数による「わたしの天の父」すなわち自らが神の子であることの自覚がある(5:9,5:17,5:22,7:21)。パウロによれば、イエスご自身は父なる神の意志、律法を実現するべく世に遣わされたという「神の子の信」の自覚のもとにあり、「御子の福音」をご自身の言葉と働きにより実現した、と報告されている(Gal.2:20,Rom.1:2)。
イエスは父なる神の意志、律法を一つの体系のなかで捉え、軽重を明確に判別している。「ああ、なんということだ、汝ら、律法学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばきそして憐みそして信を蔑(ないがし)ろにしている」(Mat.23:23)。彼はここで正義と憐みそして信を律法のなかで重要な戒めとして位置づけた。イエスは義と愛と信これら三つのなかで、この途上の生においてはまみえることのできない神に向かう根源的な心魂の態勢である信を基礎にして愛と義の両立に向かった。パウロは愛が「義の果実」(Phil.1:11)、つまり信に基づく正義が生み出す肯定的な産物であるとする。そこで正義はもはや「目には目を償い」(Exod.21:24)のモーセ律法の比量的な正義ではなく「信に基づく義」(Rom.10:6)が展開されている。「神の義は・・信に基づき啓示されている」(Rom.1:17,cf.Gal.3:16)。「キリストの信を介した義」(Phil.3:9)と特徴づけられる神が信に基づき義であることからひとも同様にキリストの信に基づき義とされる神の前の正義を意味し、その正義と愛の両立が打ち立てられる。イエスは信の従順を貫いた、そしてそこにおいて公正なさばき・正義と憐み・愛が和解した。これが福音である。
「福音」とはパウロのまとめによれば「信じる[と神が嘉みする]すべての者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:16)。そしてそれは「信の律法」(3:27)と呼ばれ、「業の[モーセ]律法」から概念上より根源的なものとして判別されうる正義をめぐる神の意志であり、「神の信」(3:3)に基づく神の義として告げ示されている。神の信が先行し、それに対応する即ち神に嘉みされる信に基づく義・正義を「人格的義・正義」と呼び、司法的次元における正義と概念上区別することにする、ただし、「司法的正義」も一人である神の意志である限り人格的正義に基礎づけられるはずのものである。ユダヤ人が信奉しその遵守を誇るモーセ律法は比量的、応報的、配分的な業に基づく正義として功績をもたらすものである限り、道徳的行為主体の責任に帰せられるものである。それに対し十字架の受容に至るまでの従順の信を貫き、イエスは信に基づく正義を打ち立てることにより、「業の律法」への尊敬を減じることなしに乗り越え、彼は比量、応報を超える新たな正義のもとに純化されたモーセ律法の正義をも信の従順により満たす。山上の聴衆が「天の父の子となるために」そして天国における報いとしての最終的な正義の実現への信仰によって、彼は地に固執する群衆を新たに「地の塩、世の光」となるよう導く(5:13-14,45)。
イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。「汝らの天の父はご自身を求める者に善いものをくださるであろう」(7:11)。各人にとって求めるべき善きものとは神ご自身であり、その最も善きものに他の一切の善、良きものが秩序づけられる。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(6:32-33)。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。誰かに何か善きものを求めることはそのひとに対する信頼を前提にしている。天の父なる神がその信仰を嘉みされたそのひとりのひと、ナザレのイエスが人類のなかから出現し、その方は良心を宥める究極的な律法を語り生きまたそれ故に死んだまさにその方である。
2. 古い革袋を破る新しい生命の福音
山上のこの厳しい律法はイエスの言葉と働き故に新たな光のもとに理解され、何らかの仕方で実現可能なものとされているに相違ない。さもなければ、誰も天国に入ることができないのに彼は空しく天の父の子となるよう福音を宣教することになるからである。イエスご自身は旧約のなかで新約を打ち立てようとする途上の生を今・ここで遂行している。「この杯は汝らのために流されるわが血における新しい契約である」(Luk.22:20)。無償の恩恵である福音は新しい契約として旧約を適切に秩序づけるべく人類に与えられている。
洗礼者ヨハネは「荒野に呼ばわる声」として、預言者イザヤの言葉「主の道をととのえ、その道筋をまっすぐにせよ」(Mak.1:3)に即し生命をかけて主の到来の道をまっすぐにした。ヨハネは水による悔い改めの洗礼を授けつつ、主の到来を備える最後の預言者として位置づけられる。「すべての預言者たちと律法が預言したが、それは[洗礼者]ヨハネまでである」(Mat.11:12)。ヨハネは言う。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう」(Mat.3:10-12)。
預言のときは過ぎ、今や試練を表す火と平安をもたらす聖霊による洗礼が授けられる福音のときが到来したと宣言されている。イエスは言いたまう、「時は満ちた、神の国は近づいた。汝らは悔い改めよそして福音を信ぜよ」(Mak.1:15)。預言者たちと律法、それら「聖書全体」は新しく福音のもとに位置づけられる。イエスはご自身の復活のあと、エマオの途上において復活の主とは気づかなかった二人の弟子と共に歩きながら、真の預言者たちについて言う。「「ああ、預言者たちが語ったすべてのことを信じることに至らない、何という、愚かでその心鈍い者たち。キリスト[メシア]はこれらの苦しみを忍んでそして栄光に至るはずではなかったのか」。そして、イエスはモーセとすべての預言者から初めて聖書全体において(en pasais tais graphais)、ご自分について書かれていることを説明された」(Luk.24:25-27)。
預言者と律法、「聖書全体」はイエス・キリストを即ち彼の福音をめがけ、証言し指差していた。旧約から新約へのバトンをイエスに渡すことが洗礼者ヨハネの務めであった。モーセ律法を純化させた山上の説教は実はナザレのイエスにより満たされることにより、預言と律法は新たに福音に秩序づけられることとなった。生命の迸りは古い革袋を破ってしまう。預言者と律法の古い革袋は生命の輝きと生命の泉の迸りの福音の新しい革袋に受け継がれる。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けてそして酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。彼は、今・ここにおいて福音を持ち運んだが、その実現の極において、彼を十字架に磔た敵である罪人の罪を贖うべく、罪なき者として罪ある者の身代わりの死を遂げた。神はそれにより愛を人類に示した。「神はご自身の独子を賜るほどにこの世界を愛したまうた」(John.3:16)。
レビ記の記者によれば、モーセは「汝の隣人を、汝自身の如くに、愛せよ」と主の律法を取り次ぎ命じる時、「汝自身の如くに」により表現している汝が自らを愛する愛と同じだけの愛が隣人に向けられねばならないとされている。そのときモーセそしてレビ記記者は愛が等しさの生起であることを知っていた(Lev.19:18,cf.Deut.6:5,10:12)。例えば父と子、夫と妻、教師と生徒等のあいだに、父は子によって父であり、子は父によって子であるその等しさがその都度生起するもの、すなわち、支配からも被支配からも唯一自由な場所で我と汝の等しさが生起すること、それが愛であった。「われは汝らの神となり、汝らはわが民となる」(Lev.26:12)。そしてその等しさの生起に向かう歩みも希望における「愛」である。その方向にある限り希望が湧いてくるからである。
迫害する者、支配する者を祝福して呪わないこと、右の頬を打つ者に左を向けることが生起するとき、「喜び祝え、天における報いが大きい」(Mat.5:12)。それによってのみ敵が天において、友と友、となる希望が生じるからである。その希望に伴う喜びは、愛に基づく等しさの正義のもとに、他者を操作することから解放されている自らを安堵させ、清めるものだからである。
争いのやまないわれらの歴史は心情倫理と責任倫理をわけて、後者の視点を多くの場合採用し社会の秩序を守る制度を充実させてきた。「裁くな」、「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済や文化活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は戦争はもとより正当防衛さえ不可能にするため、個々人の心魂の在り方としては賞賛されるが、行政機関、政治は結果責任のもとに到底山上の説教に与することはできないと主張された (Mat.7:1,5:33-37,5:31,5:39)。しかし、このような棲み分けは全体として一つのものであるひとの心とその身体を介した営みを理論上そして実際上分断するものであり、心なき制度化、形式化がはびこり、その前提のもとでの業に基づく比量的正義の追求は人間がそこにおいて最も人間であるその心を苦しめることになる。ひとの良心はそのような棲み分け、二心に満足できず、一切の秩序づけを求める。
その秩序づけをイエスは山上の説教において呼びかけそしてその説教を生き抜いた。かつて敵であったわれらの罪を赦す愛を成就したその方との共知においてわれらの良心は宥められ、その心によって清き者となり平和を造る者となる。われらがイエスの言葉と働きによるご自身の使命と愛の知識を得るにいたるとき、そのとき厳しい律法が福音に包摂されたと言うことができる。そこでは山上の説教は単に言葉ではない。イエスにより満たされた言葉である。それは信そして愛についてのどこまでも人格的な今・ここの共同の知識・良心である。たとえ数式により宇宙の法則を解明したとしても、そこでは創造者なる神は超数学者、物理学者ではあっても、天の父と理解されることはない。
或る認知的発動が神との共知であるためには、聖書で報告されている神ご自身の認識、とりわけナザレのイエスの「父」や「天の国」の知見に習熟することが求められる。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわたしに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。何らかの共知を介して自らが自らを告発する良心の咎めに沈むわれらとは異なるところで、異なる想いと異なるはるかに高い道を歩みたまう神の知恵に合わせられるとき、良心の宥めが共知として生起する。その癒された心から業の律法や制度に至るまで秩序づけられるとき、平和への希望と力を得ることであろう。
或るとき、カナン地方の女性が自分の娘を癒していただきたく「主よ、わたしを憐みたまえ」と懇願すると、イエスは「わたしはイスラエルの失われた羊にしか遣わされなかった」と応答した。そのときイエスはユダヤ人として旧約の伝統のなかに自ら自己規制していたことを明らかにしている(Mat.15:21-28)。しかし新しい葡萄酒は新しい革袋にいれなければ、破れてしまう。旧約の古い革袋のなかで彼は活動したが、あまりの福音、あまりの生命の故に、旧約は内側から破られてしまったのである。イエスが「子供たちのパンを取り上げそして犬に投げ与えることは良くない」と言うと、その女性は「主よ、そのとおりです、というのも子犬たちは主人たちのテーブルから落ちるパン屑を食べるからです」と言った。そのとき、イエスは彼女に応えた、「ああ女の方よ、汝の信仰は大いなるものである。汝が望むようにことが成るように」。そしてそのとき彼女の娘は癒されたのであった。旧約のただなかにそれを極性化、純化するそのただなかで、彼の憐みが迸りでる。信に基づく正義と正義の果実の一例がここで生まれた。彼の一言一句、一挙手一投足は旧約の制約のなかで信に基づく正義と信義の果実としての憐み、愛の双方の実現に向けられていたのである。
3. 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性
モーセ律法とは十戒に基づくものであり、パウロにより「業(わざ)の律法」(Rom.3:20,27)ないし「モーセ律法」(1Cor.9:9)と呼ばれる。業の律法のもとでは偶像を拝むか・拝まないか、盗むか・盗まないか、貪るか・貪らないか等の二つの対立選択肢のうち一方により義か罪が定められる。福音が啓示された今、業の律法の役割は「罪が明らかになるためである」(Rom.7:13)とパウロは位置づけることができた。信を業の律法のもとで遂行するとは自らを行為の選択の規準として立て、信じるかそれとも「信じないか」によって神に義とされるか否かが定まるという考えである。
これは信じるかそれとも「裏切るか」とは同じことではない。「信じない」ことと「裏切る」ことは同じではない。それだけではなくそのように信を業の律法のもとに捉えることは自らの罪が明らかになるだけである。パウロによればモーセ律法は誰もがそのもとでは神により罪と認識され、自ら神に対して申し開きのできない者であり、世界をして神に服従させるべく啓示されている。「われら知る、律法が律法のうちにある者たちに語る限りのものごとは、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服するものとなるためである。かくして、業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:19-20)。救いを求める信仰は貪りではないか等の懐疑は「信ぜよ」のもとにではなく、立派な業を為せという命令のもとで信仰を理解しているから起きる問である。「裏切る」は信仰が一つの業の律法のもとで理解されるさいの対義語「信じない」の二者択一とは異なる(Mat.26:21)。新約における「信の律法」(Rom.3:27)と呼ばれるものは、神がイエス・キリストにおいて約束に信実であり、「神の信」(3:3)を明らかにしたとき、信じるか裏切るかの二者択一を提示している。ひとに対する神の信義がそこでは既に提示され前提にされている。
神の意志としての信の律法と業の律法が判別され、自らがいずれの律法のもとに生きるか明確に自覚しないとき、自らの救いを求め信じることは自己追求、エゴイズムではないか等の懐疑が生起する。信に対するこの種の懐疑や反論は「貪るな」という業の律法のもとに信を従属させることから生じる。信がそのような自己吟味、自己批判のもとにさらされるとき、ひとは知的、人格的誠実の装いのもとに神の前にでないでよいというアリバイを作り、神を避ける自己防衛に走る。「汝ら惑わされるな。神は侮られるような方ではない。ひとは[種を]蒔く場合に、その蒔くところのものを刈り取ることになろう」(Gal.6:7)。「生きています神の御手に落ちることは恐ろしいことである」(Heb.10:31)。信の律法においては神が御子において自らの愛を差し出している。神が提示する戒めに自らの業により応答するかそれとも応答しないか、それとも神が自らの約束に信実であったときその神の信に対し信により応答するかそれとも裏切るのかのいずれかが問われ、旧約と新約いずれの律法を根源として生きるかが問われている。
もちろん旧約聖書においてもアブラハムやダビデにおける信義の先駆的事例は見られる。さらにそれと共に、アブラハムの子孫たちは神によるアブラハムへの約束の信のもとに業の律法の啓示を受け止めることはできたであろう(Gen.17:1-8)。だがモーセの民はその信の根源性のもとに業の律法を捉えることなしに、形式主義に陥り制度化に向かった。アブラハムは信義の証として割礼を施したが、ナザレのイエスだけが、信義の証として愛に向かうことができたのであろう(Rom.4:11)。
新しい契約の歩みの中で、ひとはイエスにより業の執行においてパリサイ人に優ることが求められていた。「学者とパリサイ派の者たちはモーセの座についたのである。かくして、彼らが汝らに語るならそれらのことをすべて汝らは行いそして心に留めよ、しかし彼らの業に見習ってはならない」(Mat.23:2)。山上の律法はイエスの福音に秩序づけられるが、それは正義と愛・憐みが彼の一挙手一投足において実現されている限りにおいてのことである。信に基づく正義と信に基づく愛を実働している死に至るまでのその信の従順こそが福音の成就であった。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。ナザレのイエスの信に基づく言葉と働きが成し遂げた復活において証される正義と愛に基づき、神とひとの和解を理論的に解明することがパウロの課題であった。
「汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう」(Mat.5:18)。天地が過ぎ去るまで律法の一点一画とも過ぎ去らない、廃らないとは、イエスは「愛」が一切の律法のなかで「偉大な戒め」であると理解しており、そのもとに他の一切の戒めが秩序づけられる限り、理解可能となる(Mat.22:36,cf.「律法の冠」、「律法の充足」Rom.13:9,10)。愛が満たされる限り、業の律法としての正義は満たされており、あらゆる律法がめざす愛を実現する限りにおいて一点一画とも過ぎ去らないと言うことができる。人類のなかで少なくともイエスは信に基づき愛と正義を貫いた。この意味において山上の説教は希釈されることはない。イエスは誰にも担いえない心の規範を与え、道徳的苦悩を課す方ではない。そして彼は復活の主として共に重荷を担い歩みたまう。
4.結論
ひとは誰もがキリストによって二千年前に憐みをかけられている。聖霊はあの出来事が「古き人間」(Rom.6:6)の死、「欲と情と共に肉」(Gal.5:24)の死であり「新しい被造物」(2Cor.5:17)の生であると神が看做していることを心の奥底で呻きをもって執成す。神へのアクセスはイエスの愛を介するものとなるとき、超越と内在、彼岸と此岸は媒介され、信仰の抽象性、観念性、思弁性が乗り越えられる。憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、「良心・共知」の発動が、「道徳的運」と呼ばれる、ひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛情を注がれ、愛されることを経験し自覚することなしには、また相手方の状況についての知識なしには、発動しないそのような受動の経験と自覚を伴うものである。或るひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証はどれだけ愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。
狂信でも迷信でもない、正しい信―「人々自身の背きを彼ら自身において考慮することなしに」
日曜聖書講義 2022年7月24日
狂信でも迷信でもない、正しい信―「人々自身の背きを彼ら自身において考慮することなしに」
聖書
5:14キリストの愛われらを抱(いだ)き給う、というのもこうわれらは判断しているからである、ひとりのひとがすべての者の代わりに死んだ、かくしてすべての者たちが死んだのだと。15彼はすべての者たちの代りに死んだ、それは生きている者たちがもはや自らにおいて生きることなく、むしろ自分たちの代りに死にそして甦った方において生きるためである。16かくして、われらは今やもはや誰をも肉に即して知るまい。たとえわれらが肉に即してキリストを知っていたとしても、今やもはやそう知ることはないであろう。17かくして、もし誰かがキリストのうちにあるなら、それは新しい被造物である。古いものごとは過ぎ去った、見よ、あらゆるものごとは新しくなった(kaina ta panta)。
18あらゆるものごとはキリストを介してわれらをご自身と和解させ給うたところの、そしてわれらに和解の勤めを与え給うたところの神に基づく、19というのも神は世界[人類]をご自身と和解させつつ、その仕方は[世界の]人々自身の背きを彼ら自身において考慮することなしに、また和解の言葉をわれらに委ね給うたことによってであるが、キリストのうちにいましたからである。20かくして、われらはキリストの代わりに神がわれらを介して招いておられることの使者となっている、そしてわれらは勧める、汝らは神と和解せよ。21神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為し給うた(huper hēmōn hamartian epoiēsen)、それはわれらが彼において神の義となるためである」(2Cor.5:14-21)。
1問題の所在
新興宗教の非道を背景にした国家的事件が起き、今、あらためて宗教における信・信仰の正しさが問われている。カントは理性を逸脱した信仰を「狂信」と呼び、感情の逸脱した信を「迷信」と呼んだ。一般的には、正しい信仰は理性と共存できるものであり、パトス(身体的受動即ち感情や欲求)に対し良き態勢を生み出すものであることが求められる。例えば、恐れると顔が青ざめ、怒ると赤くなるように、身体的なパトスである恐怖に対しては勇気が、快楽に対しては節制が心魂に実力である態勢として蓄積されているとき、パトスに対する良き態勢そして有徳な行為が秩序のうちに生み出される。人格の安定と未来の趨勢をも含め世界と人間がいかなるものであるかそしていかに行為を選択すべきかに熟知しているひとは決して狂信や迷信に陥ることはないであろう。認知的な態勢そして人格的な態勢が整う方向に向かわずに、「不条理なるがゆえに我信ず」(テルトリアヌス)即ち「3+5=10故に信じる」等の偽りや、恐怖に陥れ信に誘う理不尽な卑劣さは到底許容できない。しかし、信・信仰は心魂の根源的態勢として幼子のようであることこそ求められているのではないのか。疑わず純一で二心なき心にこそ信の力、本来性が宿るのではないのか。信の根源性は人間性の未熟と成熟といかに関連するのか。包括的な人間理解のもとで正しい信を位置づけることが求められる。正しい信はどこに保証されるのか。
2循環ではない信を基礎づける真理論
聖書には萬物の創造者にして全知、全能の神による人間との関わりが記録されている。神の人間認識、意志や判断が歴史のなかで知らしめられており、とりわけ御子の受肉と死と復活にいたる信の従順の生涯において最も明白に知らされている。そこで報告されている神の意志に即すことが正しい信仰の指標となる。ひとはそこに循環を嗅ぎつけるでもあろう。その宇宙の統帥者、神の啓示に基づき信が秩序づけられるという主張は、そもそも神の自己啓示を前提にしており、人間の願望の反映であって、願望に基づく信仰により信仰の正しさを主張する無限ループの自閉ないし絶望が待っている、と。しかし、自らの尻尾を食べ回転し続ける蛇の自己食尽、信仰の自家中毒は神の認識と行為の議論が明白に無矛盾である限りブロックできる。
一般に躓きとなる発話「聖霊は働いている」は真理の対応説によれば実際今・ここで働いている聖霊の実在性を捉えた場合に真となるが、その言明と世界の対応を一旦括弧に入れ、それより弱い真理論である「整合説」によれば、言語網それ自身が無矛盾に構築されている限りその言明は真である。例えば、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学はそれぞれ異なるシステムでありそれぞれの真理性を整合性故に主張できる。聖書で展開される有神論はシステムとして無矛盾である限り、それは真理であると主張することができる。そこでは聖霊は風のように時空をおもうがままに通過するが、他の様々な事象例えば科学により解明される因果的な事象と棲み分けされそれぞれにおいて整合的であることが求められる。もちろん、無神論も聖書がカヴァーする領域に対応する仕方でその否定において広範に無矛盾なシステムを構築する限り、それは真であると主張されよう。有神論も無神論も理論としていずれが優れているかはより広範な領域をカヴァーできるか、さらには何よりもわれらがそこに住む現実世界により検証されうるかにより吟味されよう。双方の整合的なシステムのいずれが現実世界に対応しているかは常に吟味の対象となる。その意味で対応説は整合説において一時的に括弧にいれられたものであることが分かる。
また実用説と呼ばれるさらに緩い真理論がある。これは或る信念のもとに生きるとき、人生がうまくいっている限りにおいてその信念は真であるという主張である。「神は存在する」という信念のもとに生きるとき、或いは「人生はできるだけ多くの快楽を味わうことだ」という信念のもとで生きるとき、社会や家庭における生活に支障なく、さらに充実したものである限りにおいて、その信念は正しいという実際的(pragmatic)な主張である。これらの真理論は相互に矛盾するものではなく、統一理論が求められる。
3「ローマ書」の無矛盾性
パウロの体系的な神学論文「ローマ書」は明確な方法論的自覚「ロゴス(理論)と(聖霊等の今・ここの)エルゴン(働き)により」展開されており、聖霊は復活のキリストにある生命として経験するしかないということではなく、その明確な理論が展開されている(15:18)。なお、福音書においてもロゴスとエルゴンの相補性は明確に確認できる。復活の主がエマオへの道を歩く弟子たちに同行したさいのことである。彼らは傍らを歩く復活の主に「神とすべての民の前にエルゴンとロゴスにおいて力ある預言者となったナザレのイエスに関わるものごと」について語った(Luk. 24:19)。理論と実践、ロゴスとエルゴンの相補性は何かを理性的に説得しようとする限り、従わなければならない基本的な道である。「理論は実践により信用される」(アリストテレス)。
「ローマ書」においては言語層が五つに分節されうるよう無矛盾の議論が展開されており、神の前と人の前そして双方を媒介する聖霊の働き等それぞれ整合的な言語網が張られている。彼は「知恵ある者にも責任がある」(1:14)とし知識人を説得すべく所謂信仰義認論(1:17,3:21-4:25)と予定論(9:6-11:32)をいかなる聖霊への言及もなしに、神の人間認識、行為として展開する。彼は神の知恵に対する畏れの中で「私は一層大胆に書いた」と報告している(15:15)。永遠の現在にいます神が御子の受肉により時間的な存在者となることを引き受けることにより、神の「予め」の計画の位置づけは一つの「神の知恵」の報告である。「ああ、神の富そして知恵と知識の深さよ。ご自身の裁きはいかに究めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。34すなわち、「誰か主の叡知を知っていたのか、それとも誰かご自身の顧問官になったのか、35それとも誰かご自身に予め与えてそしてご自身から報いを受けるのであろうか」。36なぜなら、あらゆるものはご自身からそしてご自身を介してそしてご自身に至るからである。栄光は永遠に[神]ご自身にあれ、アーメン」(11:33-36)。
転じて、「ローマ書」第5-8章において彼は「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる可能存在としての人間の「肉の弱さ」への譲歩により「人間的なことを語る」が、その「われらの弱さ」の内に宿る聖霊が今・ここにおいて神の意志を「呻きをもって執り成している」と神の前と人の前の媒介を報告している(6:19,22,8:26)。聖霊について彼が「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(5:5)と現在完了形で語る時、聖霊の注ぎが今・ここで起きていなければ偽となる文を提示している。パウロは聖霊の今・ここの働きの現場における議論をも展開しており、それを彼は「霊と[神の]力能の論証」と呼んでいる(1Cor.2:4)。他方、このエルゴン言語とは別に、この文章は「もし神の愛がわれらの心に注がれるとすれば、それは心に宿る聖霊を介してである」と条件文により、その役割を一般的に理解することができる。
あの啓示の出来事と終末までの中間時においては、聖霊は風のように自由に時空をゆききし、御心に適う者に神の意志を取次ぐ。神の意志はあの過去のゴルゴタの丘において最も明晰に知らされていることが聖霊の働きの基礎となる。パウロは言う、「われらの古きひとキリストと共に磔られた」(6:6)と、またその平行箇所において「キリストにある者たちは諸々の情と欲とともに肉を磔た」(Gal.5:24)。これらの過去形の言明において、ゴルゴタの出来事をわれらの現在のことがらであるという神の認識と意志の聖霊による執成しが表現されている。神は、2千年前のキリストの死において、現在生きているわれらのこれまでの歩みを古き自己として死んでしまったと理解してい給うことを、聖霊は心のなかで知らしめ執成している。
神はキリストの死をわれらの罪の身代わりの死と理解してい給う。パウロはその啓示に基づき、「コリント後書」においてはこう「判断」している。
「キリストの愛われらを抱(いだ)き給う、というのもこうわれらは判断しているからである、ひとりのひとがすべての者の代わりに死んだ、かくしてすべての者たちが死んだのだと。15彼はすべての者たちの代りに死んだ、それは生きている者たちがもはや自らにおいて生きることなく、むしろ自分たちの代りに死にそして甦った方において生きるためである」。神の意志としてキリストの身代わりの死がすべての者たちの古き自己の死を包摂している。他方、それは今・ここで生きているその都度の現代人たちが、復活の主の生命を生きるためであると。神はあの出来事において十字架の「キリストのうちにいました」が、啓示の出来事は一つの歴史の方向性を定める(1Cor.5:18,Rom.3:25)。復活の主と共に今を生きることである。
神が十字架において知らしめている一つのことは、御子の信の従順の生涯ゆえに御子とご自身の信義の分離のなさである。彼はその理由を展開する。「あらゆる者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24キリスト・イエスにおける贖いを介してご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たち」(Rom.3:23-24)であると神が理解していことがまずその分離なき啓示の基礎にある理解である。すべての者は業のモーセ律法のもとに一度は生きており、罪を犯したという認識を前提に、すべての者が無償で恩恵により義とされる者であるという認識を提示している。その認識と中間時におけるわれらの現実には緊張があるであろう。中間時においてはパウロによれば「神がわれらを介して招いておられる」(Gal.2:20)。それ故に、「神はイエスの信に基づく者を義としている」(Rom.3:26)と三人称で報告されている人間たちの外延・集まりと人類「すべての者」がイエスの信に基づく者と看做されるに至るかは終わりの日に啓示される。「なぜなら、今という好機の苦難は、われらに啓示されるべく来たりつつある栄光に比して、取るに足らないとわれは看做すからである。なぜなら、被造物の切なる憧憬は神の子たちの啓示を待ち望んでいるからである」(Rom.8;18-19)。この中間時においては十字架で提供された無償の恩恵を信仰により受け取るか否かが問われている。終わりの日に万人が救済されたか否かがわかる。明らかなことは神の意志が十字架において提示されていることである。
パウロは言う、「16かくして、われらは今やもはや誰をも肉に即して知るまい。たとえわれらが肉に即してキリストを知っていたとしても、今やもはやそう知ることはないであろう。17かくして、もし誰かがキリストのうちにあるなら、それは新しい被造物である。古いものごとは過ぎ去った、見よ、あらゆるものごとは新しくなった(kaina ta panta)。
18あらゆるものごとはキリストを介してわれらをご自身と和解させ給うたところの、そしてわれらに和解の勤めを与え給うたところの神に基づく、19というのも神は世界[人類]をご自身と和解させつつ、その仕方は[世界の]人々自身の背きを彼ら自身において考慮することなしに、また和解の言葉をわれらに委ね給うたことによってであるが、キリストのうちにいましたからである。20かくして、われらはキリストの代わりに神がわれらを介して招いておられることの使者となっている、そしてわれらは勧める、汝らは神と和解せよ。21神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為し給うた、それはわれらが彼において神の義となるためである」(2Cor.5:16-21)。
われらの自覚としては、その都度情と欲とともに古き自己を十字架に磔る。そこではもはや神は各人の背きを「彼ら自身において考慮することなしに」、キリストにおいてわれらを考慮することによって、「神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為した」(2Cor.5:18-21)。神は身代わりの罪を罪なきイエスに罪なきままに担わせた。彼の身代わりの出来事をわれらのこととして受け止めさせること、それが聖霊の働きである。
結論
過去と現在、時空を自由に行き来する聖霊の働きは十字架の死をわれらの古き人の死と同化させている。神の意志を正しく知ること、それが正しい信仰に導く。聖霊の働き一般を理論的に納得したうえで、その都度聖霊の媒介がそこにあり魂が刷新されることを求める。ただし、正しい信は自らのためにイエスがキリストであることの徴・証明を求めるユダヤ人にその範型がある自らの義を主張する者たちと異なり、あの啓示の出来事に基づき、キリストと共に歩むことにより神の栄光を顕すべく証していく。そのさい正しい信は人間に与えられた認知的、人格的力能を十全に発揮させる。神と世界をよく知り、愛することにより証される。
われらは中間時に生きており知らされていることと知らされていないことの間にある。神の意志は全人類の救済であることが十字架において明確に知らされた。他方、われらが復活の主と共に生きるかはわれらの課題である。自らを自らにおいて考慮せずに、十字架の主において考慮するよう信じることが促されている。パウロは心の根底に二心なき幼子の信仰が宿るとき、罪に定める業の律法から解放されると主張する。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Gal.2:19-20,Rom.8:2)。
魂の根源に二心なき純一な幼子の信が位置づけられるとき、信義が生まれ「義の果実」(Phil.1:11)として愛が生まれる。これら魂の肯定的で創造的な諸活動を生み出すことを証し賢者と聖者への道を歩むとき、誰も狂信や迷信の誹りを投げかけることはできない。
イエスは言いたまう、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものだ」(Mat.13:52)。人間に最も重要なことを学んだ者は生の全体のなかで個々のものをそれは古いものであれ新しいものであれ自由に適切に位置づけそしてそれに対応して行為を選択することができる一家の主人に似ている。この発言を単にパトスに対して良い態勢にある人格的な有徳性に対してだけではなく、その認知的な卓越性に対する賞賛である。
中間時における生―聖霊のロゴスとエルゴン―
中間時における生―聖霊のロゴスとエルゴン― 日曜聖書講義7月17日
聖書 ガラテア書5章
「キリストはわれらを自由へと解放した。それゆえ、汝らはかたく立てそして二度と奴隷の軛に繋がれるな。見よ、わたしパウロが汝らに言う、もし汝らが割礼を受けるなら、キリストは汝らになんら益をもたらさない。だが、わたしはすべての割礼者に、お返しに、一切の律法を為す義務があると証言する。誰であれ、汝ら、律法のうちに義とされようとする者たちはキリストから切り離されている、恩恵から落ちこぼれている。というのも、われらは信に基づく義の希望を霊によって受け取っているからである。というのも、キリスト・イエスにおいては割礼も無割礼も何ら力なく、かえって愛を介して[今・ここで]働いている信が力あるからである。
汝らは立派に走り続けてきた。誰が汝らを真理により説得されることのないよう妨げたのか。この説得は汝らを呼び出している方に基づいていない。わずかのパン種がパン生地全体を膨らませる。わたしは主にあって汝らについて確信している、汝らは別の何ものにも思考を向けないと。汝らを混乱させている者は、その者が誰であれ、審判を受けるであろう。だが、きょうだいち、もしわたしがなお割礼を宣べ伝えているのなら、なぜなおもわたしは迫害されているのか。その場合には、十字架の躓きは取り去られてしまっている。この徴によってもまた汝らを誘惑している者たちは切り捨てられるであろう。
きょうだいたち、なぜなら、汝らは自由へと召されたからである。ただ、汝らは自由を肉に対する機会に隷属させるな、むしろ愛を介して互いに隷属せよ。なぜなら、すべての律法は一つの言葉において、「汝の隣人を汝自身のごとくに愛せよ」において満たされてしまっているからである。もし汝ら互いに噛みあい貪りあうなら、汝ら互いに消耗しあう、そうならないよう気を付けよ。だがわたしは言う、霊によって歩めそして肉の欲を満たすな。というのも、肉は霊に抗して欲求し、霊は肉に抗して欲求するからである、というのもこれらは互いに対置させられているからである、その結果もし汝らが望むならそうするであろうところのものどもを汝らが為すことがないであろう。肉の働きは明らかである、それらは姦淫、不潔、放埓、偶像崇拝、魔術、敵意、戦い、不和、激情、抗争、意見の相違、扇動、異端、嫉妬、泥酔、酒盛り、そしてこれらに類似のことどもであり、それらをわたしは汝らに前もって言っておく、それはまさにわたしがかつて、このような類のものどもを為す者たちは神の国を嗣ぐことはないであろうと語ったことである。他方、霊の果実は愛、喜び、平和、寛容、優しさ、親切、信、柔和、自制である。これらに反する律法はない。だが、キリストにある者たちは諸々の情と欲望と共に十字架に磔てしまった。もしわれらが霊によって生きようとするなら、霊に適合し続けもしよう。互いに挑みあい、互いに嫉みあって、われらは空しきものに栄光を帰すことのないものとなろう」(Gal.5:1-26)。
1ロゴス(理論)とエルゴン(働き)の相補性―過去形がもたらす福音―
前回パウロの「ローマ書」5-8章の「霊と[神の]力能の論証」(1Cor.2:4)において、キリストの出来事が「われら」の出来事であると神が看做していることを執成すのが聖霊の働きであることを学んだ。パウロはこれらの章においてわれらの「肉の弱さ」への考慮と譲歩故に、人間中心的に「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる中立的な存在者を前提にして、聖霊がその弱さにおいて憐み「われらの心」において神の愛、神の意志を今・ここで「執成している」ことを学んだ。聖霊については経験するしかないというわけではなく、この聖霊の働きを今・ここで経験できることは幸いなことではあるが、明確に理論的に理解できるようパウロは論じている。理論(ロゴス)と実践・働き(エルゴン)は相互に補い合うものであることが望ましい。
パウロは例えば「ローマ書」3:21-4:25で明確に信に基づく義を、愛の果実とは別に、理論的に普遍的に妥当するものとして展開している。他方、5章から8章では聖霊による執り成しの行為は今・ここの働きのなかにあるという自覚のもとでの「われら」の証言としてパウロは展開している。信義と愛の関係はエルゴン上つまり聖霊の今・ここの力ある働きとして証されるそのような、今・ここの働きのことがらである。「愛を介して働いている信が力ある」(Gal.5:6)。愛を介して働いている信が力強い。これは一般的、理論的な主張でもあり、また実際にひとが今・ここで経験しているそのような個々の心的事象に適合する主張でもある。
聖霊の執り成しのもとでの発話は、その発話の時点で執り成しがないときには、偽りとなるそのような言明である。パウロが「神の愛はわれらに賜わった聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」と現在完了形「注がれてしまっている」と語るとき、もしこの発話の時点で、神の愛が注がれていなかったなら、この主張は偽りとなる(Rom.5:5)。パウロは信義と愛を理論上根拠と結果という因果性のもとにあることを拒否し、風のように吹く聖霊の自由を受け止めたうえで、その聖霊の自由に基づく今・ここの証として愛を生み出す力ある信仰について証言している。ただし、そのさいにおいても個々の働きを一般化即ちエルゴン言語を普遍化することはでき、「もし神の愛がわれらの心に注がれるとするなら、それはわれらに賜る聖霊を介してである」という仕方で条件文で表現される。条件文は実際の働きにより検証される。これを「信義と愛の因果性の理論(ロゴス)上の拒否と働き(エルゴン)上の証による相補性」と名付ける。
聖霊が媒介する過去の一事件と現代人の死と新生に生きるわれらの古き人の死は過去形で表現される。「キリストに属する者たちは肉を諸々の情と欲とともに十字架に磔てしまった」(Gal.5:24)。「われら知るわれらの古きひとはキリストと共に磔られてしまった」(Rom.6:6)。聖霊の働きはキリスト・イエスを介して啓示された神の前即ち神の認識、行為をとひとの前即ち今・ここで二千年後に生きているわれら個々人の「古き人間」の死であることを伝え、同化させる力ある働きである。古くなることのない過去の一事件と今・生きている現代人を結び付けている。パウロは言う、「キリストに属する者たちは肉を諸々の情と欲とともに十字架に磔てしまった」(Gal.5:24)。また彼は言う、「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えることがないためである」。キリストの身代わりの死の目的は「罪の身体が滅び」、「甦った方において生きるため」である。ここでは「われら」に関わる明確な聖霊論的な議論(第5-8章)のなかであるため聖霊の証のもとでの今・ここにおける知識主張が遂行されている。「ガラテア書」の古き肉の磔においても、心魂の刷新は欲望と情に捉われている古き人間「肉」の死を介して遂行される。古き肉は死んでしまったが、生物として生存している限りにおいて、新しい肉は中立的なものとして生きている。そこでは「キリスト・イエスにおける生命の霊」が新たな生を導く。
パウロは言う、「かくして、今や、キリスト・イエスにある者たちにはいかなる罪の定めもない。二なぜなら、キリスト・イエスにある生命の霊の律法がわれらを罪と死の律法から解放したからである。三というのも、ひとが肉を介してそこにおいて弱くなっていたところの律法の[遵守し]能わぬことを、神はご自身の子を罪の肉の似様性において遣わすことによって、そして罪に関して、その肉において罪を審判したからである、四それは律法の義の要求が肉に即して歩まず、霊に即して歩んでいるわれらにおいて満たされるためである。五なぜなら、肉に即してある者たちは肉のことがらを思い、他方、霊に即してある者たちは霊のことがらを思うからである。六というのも、肉の思慮内容は死であり、霊の思慮内容は生命と平安だからである。七それ故に、肉の思慮内容は神に敵する、なぜなら神の律法に従わないからである、というのも従いえないからである。八しかし、肉にある者たちは神を喜ばすことができない。九しかし、汝らは肉においてあるのではなく、霊においてある、いやしくも神の霊が汝らに宿るなら。しかし、もし誰かキリストの霊を持たぬなら、その者は彼のものではない。一〇しかし、キリストが汝らのうちにあるなら、かたや身体は罪の故に死であるが、他方霊は義の故に生である。一一しかし、イエスを死者たちから甦らせた方の霊が汝らのうちに宿るなら、キリストを死者たちから甦らせた方は汝らの死すべき身体にも汝らのうちに宿るご自身の霊を介して生を賜わるであろう」(Rom.8:1-10)。
かくして、われらの人生はその都度古き自己を情と欲とともに十字架に磔て死んでしまい、復活の主の霊を受けて新たに生きなおす、その繰り返しであると言うことができる。現代人はそのつど聖霊の媒介を信じて、二千年前の十字架に今・ここでおのれを支配しようとする諸々の情と欲とともに古き自己を磔る。とはいえ、聖霊は経験するしかないということにはならず、ひとの側としては、聖霊の働きはあの十字架と復活の出来事は自らのものであったそしてあの死と生は自らの情と欲を含んだ古き人間の死でありそして復活の主の生に与ることだと自らに言い聞かすこと、それが聖霊を受け取る準備となる。想念を二千年前の出来事に集中させる。その繰り返しのなかで次第にその聖霊は身体をも清め、愛に収斂される業の律法をその生命のなかで満たしていくことであろう。
2業の律法から信の律法に導く悔い改め
業の律法の働きはわれらに罪それ自身の醜悪さを知らしめ、罪に勝利したキリストに導くことであった。一般的に、もしわれらが「惨めだ、われ、人間」(Rom.7:25)と叫ぶことがあるとするなら、それは業の律法が内なる人間を介して何等か働いており、悔い改めを促していることを示している。苦悩するとき、われらは喜ぼう。「汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか」 (Rom.2:4)。悔い改めは旧約においては業の律法の内側のことであった。洗礼者ヨハネは言う。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう」(Mat.3:10-12)。試練を表現する「火」と復活の主の現臨を表現する「聖霊」により洗礼を授けられるとき、ひとは信の律法のもとにイエスをキリストであると信じるに至る。
キリストにおいて業の律法からそれ故に罪から解放された。既に罪とその値である死に対する勝利はわれらの外に、キリストのうちに立てられたのである。律法は悔い改めに導き新約においては律法から解放し、キリスト・イエスの生命に与らせる。われらは罪の奴隷であるとき、死を成し遂げつつある。罪の刺激のもとにあるときは、悪行は義務にさえ見え、悪行のただなかでは一種の興奮のなかで死に向かっていることを認識できない。しかし、悪の単調さを知るべきである。そこには何ら新しいもの、生命を輝かすものを見出すことはないのである。単におのれの古い欲望にこだわり、そこにつけいる罪によって死に誘われているだけである。
ひとはただ業の律法を投げ捨てることはできない。たとえ律法を捨てても、良心が律法として働く。異邦人ならびに「アダムからモーセに至るまで」のユダヤ人をも含め、ひとの「良心」は「律法を持たずにも自らに対し律法」である(Rom.5:14,2:14)。「一四律法を持たない異邦人たちが自然に律法のことがらを行う時、その者たちは律法を持たずにも自らに対し律法なのである。一五 一六彼らは誰であれ自らの心のなかに律法の業が書かれてあることを証明するが、それは自らの良心が[律法と]共同の証人となり、そして算段に基づき自らのあいだで互いに告発し或いはまた弁明することによってであるが、それは、或る日、神がキリスト・イエスを介したわが福音に即してひとびとの隠れたことがらを審判するときである」(Rom.2:14-16)。かくして、「良心(sun-eidesis)・共同の知識(con-science)」が社会通念、共同体との共知であれ、放埓者同士のあいだでの共知であれ、ひとは業の律法から自らを解放することはできない。空き家になった心に常に何かがはいりこみ、自らを隷属させ支配する、それがデヴィルであれ、自らの救いの条件であれ。
パウロは心の根底に二心なき幼子の信仰が宿るとき、業の律法から解放されると主張する。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Gal.2:19-20,Rom.8:2)。ここでも過去形が救いの確かさを表現している。われらの外の出来事がわれらの出来事なのである、聖霊が執り成している限りにおいて。
この生命に触れることは聖霊の今・ここの働き・エルゴンである。これは経験するしかないというわけではなく、一般的に神とひとの媒介としてあの十字架と復活の過去の出来事を自らの出来事とさせるそのようなものであると理論化することができる。神のもう一つの根源的な意志である信の律法により業の律法から解放される。そこでの業の律法から信の律法への移行は悔い改めによるが、生命の霊の律法により導かれる。「神に即した苦悩は後悔なき救いに至る悔い改めを働く」(2.Cor.7:10)。ここに福音のダイナミズムがある。
3中間時
われらはキリストの出来事から終わりの日にいたるこの中間時において、肉の途上の生を生きている。そのわれらにとって、主の十字架と復活を介した福音の勝利が罪に罰を与えており、そしてそれ故に罪から逃れる道を示されている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)。さらに中間時における罪の審判はやがて来る終末における最終的な「イエス・キリストを介した勝利」により「最後の敵である死」を克服し「神の国」に与る希望が生じることに確認できるであろう。罪が滅ぼされるとき、罪からの「給金」である「死」も滅ぼされる(Rom.6:23)。そしてそれは最終的に終わりの日に「瞬時に」生起する。「「死は勝利に飲み込まれてしまった、死よ、汝の勝利はいずこにかある、死よ、汝の棘はいずこにかある」。しかし、死の棘は罪であり、罪の力能は[罪の]律法である。われらの主イエス・キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する」(1Cor.15:52,15:54-57)。
イエスは自らの信・信仰により罪に勝利したために、「イエスの信」は神の信に対応するひとの信として神の義の啓示の媒介に用いられた。神はイエスの信の従順の生涯を嘉し、彼において罪を罰した。「神はご自身の子を肉の罪の似様性において遣わすことによって、そして罪に関して、その[イエスの]肉において罪を審判した」(8:4)。罪に対する罰は罪が寄生する文字としての業の律法とは別に信の律法が啓示された故にわれらの外に生起した。
この中間時にあっては、罪に対する審判の表象は擬人化された罪、サタンを足もとに踏みしだくそのようなものとして描かれる。ひとは今・ここの具体的な状況において「道そして真理そして生命」(John.14:6)でありたまうイエスの御跡に従う限り、つまり信に基づき愛への道行きに従う限り、イエスは共にいたまいサタンを足で踏みつけていたまい、最後の日に神が踏み砕かれる。「平和の神がすみやかに汝らの足下にサタンを砕くであろう」(Rom.16:20)。
もし業の律法のもとに生きるなら、キリストはサタンから足をはずされ、ただちに罪の誘惑にさらされるであろう。この肉の生においては信のもとに復活の主とともにある限りにおいてだけ、罪から解放されている。終わりの日にいずれの律法のもとに審判を受けるかは個々人には明確には知らされてはいない。幼子の信は肯定的、創造的生を生み出す心魂の根源的態勢であり、善き業としての愛はその「義の果実」(Phil.1:11)であり、心魂の根底にある態勢とその帰結、結果としての働きは類比的ないし平行関係においてあり、いずれかから審判されることであろう。いずれの場合においても「愛を媒介にして[今・ここで]働いている信が力ある」(Gal.5:6)、その信の根源性こそ考慮の基点であることには相違ない。
「ローマ書」においてパウロは隣人を裁くことに、業の律法のもとに生きていることの一つの証が見られると主張する。「すべて裁いている汝、ひとよ、汝には弁解の余地がない。なぜなら、汝は他人を裁くそのことがらにおいて、汝自身を裁いているからである。というのも、汝裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。隣人の欠陥をあれこれ裁くとき、当人も隣人同様「同じことを行っている」つまり業の律法のもとに比較と競争のなかに生きている。パウロはこの認識の表明に続いて、「汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか」(2:4)と悔い改めに導く。われらはそのつど古い人間を、情と欲と共に古い肉をキリストの十字架に磔る。それが信の律法のもとに遂行される。そこでは業の律法から解放された「日々新たな」「内なる人間」が「霊に即して」この「肉において」生きる(2Cor.4:16,Gal.2:20)。
4結論
われらは中間時に生きている。終末までひとは自らの罪の罰として生物的罰を与件として引き受けている。しかし、永遠の生命の希望において、罪とその値である死に対して勝利している。「なぜなら、今という好機の苦難は、われらに啓示されるべく来たりつつある栄光に比して、取るに足らないとわれは看做すからである。なぜなら、被造物の切なる憧憬は神の子たちの啓示を待ち望んでいるからである。というのも、被造物は空しきに服したが、それは自発によらず、服従させた方の故にであるが、被造物それ自身が滅びへの隷属から神の子たちの栄光の自由へと解放されるであろうという望みのうえでのことだからである。なぜなら、われらはすべての被造物が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにあることを知っているからである。しかし、ただそれだけではない。われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ、自らのうちで呻いている。なぜならわれらは希望により救われたからである。しかし、見られる希望は希望ではない。というのも、誰が見ているものを望むであろうか。しかし、われらが見ないものを望むならば、忍耐をもって待ち望む」(Rom.8:18-25)。主の到来を待ち望んでいる。そこには新し天と新しい地が打ち立てられることであろう。黙示録の記者ヨハネは言う、「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聴いた。「見よ、神の幕屋がひとのあいだにあって、神がひとと共に住み、ひとは神の民となる。神は自らひとと共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」」(Rev.21:3-5)。われらは中間時に生きている、そこでは二千年前の福音の出来事に常に立ち返り、古き自己を磔、新たにされて、いつの日にか罪と悪に支配されることのない世界を希望のうちに待ち望みつつ歩む。
正しい信仰と聖霊の果実 日曜聖書講義
正しい信仰と聖霊の果実 日曜聖書講義 7月10日
聖書 ローマ書第六章
「それでは、われらは何と語ろうか。われらは、恩恵が増すべく、罪に留まろうか。二断じて然らず。誰であれ罪に死んだ者であるわれらは、いかになお罪に生きるであろうか。三それとも汝らは知らぬか、キリスト・イエスのなかへと潜浸された者であるわれらは彼の死のなかへと潜浸されたことを。四かくして、われらは死のなかへの潜浸を介して彼と共に埋葬された、それはまさにキリストが父の栄光を介して死者たちから甦らされたように、そのようにわれらもまた生命の新しさのなかに歩むようになるためである。五なぜなら、もしわれらが彼の死の似様性に一致したものとなったのなら、復活のそれにもなるであろうからである。六われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えることがないためである。七それはすでに死せる者は、罪から[離れ]義とされてしまったからである。八もしわれらがキリストと共に死んだなら、また彼と共に生きるであろうことをわれらは信じる。九キリストは死者のなかから甦らされてもはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことをわれらは知っているからである。一〇なぜなら、彼が死んだ死とは、罪に対して一度限り死んだところのものであり、他方、彼が生きる生命とは、神に対して生きるところのものだからである。一一汝らもまた同様に自らが罪に対しては死んでおり、キリスト・イエスにおいて神に対して生きている者であると認定せよ」(Rom.6:1-10)。
1宗教と理性
ひとは宗教に躓く。とりわけ、理性とは別の生命原理と言える「霊」と呼ばれる「内なる人間」(Rom.7:24)という心魂の部位に躓く。確かに、理性のみにより、ひとは宇宙の起源を知り、月にロケットを飛ばし、人々の病を癒し、生命の設計図を解明してきた。理性の確かさは疑いえないものとして現代社会に屹立している。宗教は理性の逸脱である狂信や感情の逸脱である迷信に陥ることがある。そこから宗教一般が否定される。聖書が理性の吟味に耐えうるものであるかの探求が不可欠であるゆえんである。たとえどんな小さな果実に見えようとも、この伝統のなかでわたしも福音書とパウロが伝えるイエスがキリストであることの主張に矛盾を見出すことがないことが判明し安堵した。ローマ帝国を素手で滅ぼした「ローマ書」が無矛盾であることを証明できたと思う。もしこれが確立できなければ、何が迷信であり、何が狂信であるかの明確な基準をもたなかったであろう。
理性を究極的に支えているものが矛盾律という存在と思考の原理である。誰であれ、世界を観察することなしに、つまり感覚的知覚や経験に訴えることなしに、理性のみにより矛盾律「一つの視点からAはAであると同時にAでないことはない」の正しさは揺るがない。矛盾律を否定し矛盾律は成立しないというひとは、「矛盾律は正しいと同時に正しくないということはない」という矛盾律に則って「矛盾律は正しくない」と主張しており、自己論駁的である。つまり、自らが暗黙の裡に前提している矛盾律のもとに矛盾律を否定していることに気づいていない。理性はこのように矛盾律に基づき、どこまで聖書が語っていることが無矛盾であるかを吟味する。
パウロの聖霊の議論は理論的に無矛盾であることは一般的に保証できる。そのうえで、その聖霊を経験するかどうかは各人の人生の今・ここの経験に依存している。今、迷信でも狂信でもない正しい信仰について語ることができる。その一つの徴、証はこうである。ユダヤ人は信仰熱心であったが、イエスがキリストであることの証明をことあるごとに要求したことが福音書に記録されている。イエスは「よこしまな時代は徴を求める」と言う(Luk.11:29)。正しい信仰のもとにある者はイエスがキリストであることの徴を自らの信仰の増強のために求めるのではなく、神の栄光をあらわすべくイエスがキリストであることを自ら証し、証人となる。方向が逆となる。心の清いひとは正しい信仰のもとにある。聖霊の働きを迷信や狂信から異なるものとさせるのがその果実、結果である。パウロは聖霊を受けていることの証として以下の心的態勢を挙げる。「聖霊の果実は愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、信、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」(Gal.5:22)。これらは有徳者の心魂の態勢であり、それが信の根源性のもとにうみだされる限りにおいて、誰もその信仰を狂信や迷信であると非難することはできない。信仰を持つ者はこのような立派な人間になることを自らのためにではなく、自らの古き自己を葬り新たな生命にいかしめてくださる神を賛美するために求める。生きることは復活の主と共に生きることであり、イエスがキリストであることの証となる。
2「古きひとは共に磔られた」
「ローマ書」6章の古き自己の死と新しい自己の生を理解するには、なぜ二千年前の過去の出来事が今・われらの「ふるき人」の死でもあるのかということを理解することが肝要である。「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えることがないためである」。これを理解するのに40年を費やした。「われら」はパウロにとっては二十年前、現代人には二千年前に十字架に共に磔られ死んでしまったとパウロは語る。「われらの古きひと」の死の知識主張において、古い罪の自己はキリストの死とともに死んでしまった、そして新しい生命は彼の復活とともに始まったと神は理解していることを聖霊の証のなかで「われら」の知識のことがらとして主張する。キリストの身代わりの死の目的は「罪の身体が滅び」、甦った方において生きるためである。この過去の出来事を現在の出来事とすること或いは現在の出来事をあの決定的な過去の出来事と結びつけること、それが聖霊の力である。聖霊について正しく理解することが求められる。
3過去を現在の出来事とする聖霊の働き
ここまで業の律法からの解放について「罪の誘惑」と題し八回ローマ書7章の吟味を通じて語って来た。もはやわれらは業のモーセ律法のもとに生きてはいない。「~すべし、そうすれば、正義と看做され救われる」という類の命令形が先行する世界には生きていない。パウロはイエスの十字架上の死と復活の出来事を中心にして一切を受け止め直す。なぜなら、それは神の信義と愛の最も明白な知らしめ、啓示であったからであり、そこにおいてこそ最も明白に神の人間認識そして意志、行為を知ることができるからである。この啓示内容は「神の知恵」と呼ばれ、何らか理解されうるものである。「私は成熟した者たちの間では[神の]知恵を語る」(1Cor.2:6)。パウロは神の知恵の啓示であるキリストの出来事をこのようにまとめる「四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:4-6)。
この福音のダイナミズムをわれらが理解するとき、知性のうえでも人格の上でもわれらの心魂はその根源から信義に基づき秩序づけられることになるであろう。そこで乗り越えるべき大きな障害が古き自己の死である。自分で業の律法を捨て去っても、別の律法や誘惑にまけるだけである。「わたしは信の律法により業の律法に死んだ。もはやわたしが生きているのではない。キリストがわがうちにあって生きている」(Gal.2:20)。キリスト・イエスにおける生命の霊によってのみ、律法のもとにあった古き自己の死と復活の主とともなる新しい自己の生が生起する。端的に言って、聖霊の今・ここの執り成しなしに古き自己の死と新しき自己の生の出来事は理解できない。
ローマ書は方法論上、「知恵の説得的議論」と「霊と力能の論証」の相違を明確に判別している(1Cor.2:4)。彼は「一四ギリシャ語圏の者にも異言語圏の者にも、知恵ある者たちにもまた愚かな者たちにもわれ負うべき責めを持つ」(Rom.1:14-15)と語り、哲学者、知者に対しては、聖霊の今・ここの働きに決して訴えることなしに、啓示の言語として「神の知恵」を展開している。ローマ書1:17-4:25における神の義の二つの啓示行為即ち罪への神の怒りとイエス・キリストの信を介した神の義と信じる者の義認の報告においては「聖霊」への言及が見られない。さらに、9章から11章において、予定の教説を展開するが、そこでも「聖霊」への言及は見られない。
それに対し、「ローマ書」5-8章は神の前と「肉の弱さ」においてあるひとの前の聖霊による媒介の議論が展開されている。これらの章の特徴は1-4章の啓示の言語においては啓示の差し向け相手は三人称「彼ら」「誰であれ~なひとは」と表現されていたが、それと異なり、一人称複数「われら」ないしパウロが手紙を介して呼びかける「汝ら」という二人称が用いられている。呼びかける対象はパウロの発話の状況のもとにある具体的な者たちことである。
これら四つの章においてはパウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)とし、「われら」、「汝ら」の視点から福音を自らのこととして今・ここで受け止め直す。そのさい、パウロの自覚として聖霊の今・ここの執り成しを受けているという自覚のもとに議論を展開している。パウロは、例えば「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている[現在完了形]」(Rom.5:5)と語りかけるが、その発話のただなかで今・ここにおいて愛が注がれているという自覚のもとにある。もし聖霊の執り成しがないとき、この発話がなされた場合にはこの文章は偽となるそのようなパウロにおける聖霊の働きの証として議論は展開されている。これを「今・ここのエルゴン(働き)言語」と呼ぶ。「六われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている」という知識主張は聖霊の執り成しのなかで、あの十字架の出来事はまさにわれらの古きひとの死であったということが執成されており、聖霊の証故に知識として主張している。それ以外にこの箇所を正しく理解することはできない。
4 理性と聖霊の働きの相補的な論証―ロゴスとエルゴン―
パウロは神の知恵を語るとき、聖霊に対する言及なしに語る。聖霊はその神の前のことがら、即ち神の認識や判断、行為等「神の知恵」を何らか人の前のひとの現実とさせる力である。神の前の人間現実と人の前の人間現実はパウロにより相互に異なる言語網において展開されている。前者は神の啓示行為に基づき、福音の宣教においてパウロが「知恵ある者たちにも愚かな者たちにもわたしは負うべき責めを持つ」、その「知恵ある者」に対応するべき神の知恵の報告である(Rom.1:16)。「わたしは成熟した者たちのあいだでは神の知恵を語る」(1Cor.2:6)。ここで「神の知恵」とは「キリストが神の知恵となった」(1Cor.1:30)と言われるところのそのキリストのことである。所謂信に基づく義(信仰義認論)と選び(予定)の教説は「知恵」に訴えて展開される。「深いかな神の知恵と認識の富とは」(Rom.11:33)。信に基づく義の議論(「ローマ書」1:17-4:25)および選びの教説(9:6-11:36)において、この知恵の説得が聖霊に対する一切の言及なしに遂行されている。パウロはこれを「知恵の説得的議論」と呼ぶ。
知恵の説得的議論においては、ひとの心的状態は直接には問題にされずに、神にそう「認定される(看做される)」場合には義人であり、或いは神の怒りの対象とし、悔い改めを迫られているとする議論が一般的に三人称で展開される。彼はこの神の知恵の報告を「わたしは汝らに或る部分において一層大胆に書いた」と述べている(Rom.15:15)。
この知恵の説得とは別に、神の前と人の前の双方を媒介するものが今・ここにおいて働く(D)復活の主キリストないし聖霊であり、その議論は「霊と[神の]力能の論証」と呼ばれる。(エルゴンD)「神の愛はわれらに賜った聖霊を媒介にしてわれらの心に注がれてしまっている[現在完了形]」。このパウロの発話はその発話の時点で聖霊が注がれていない場合には偽となる、そのような今・ここの働きのなかでの語りである。聖霊を媒介として神の愛の今・ここの働きはそこからロゴス言語として(ロゴスD)「もし神の愛が注がれるとするなら、それは心への聖霊の賦与を媒介にする」と一般的な言明を引き出すことのできるものである。
条件文「もしキリストが汝らのうちにあるなら」(Rom.8:10)においては、キリストや聖霊の執り成しがある場合もない場合もあることを含意している。神が怒りの啓示として各人の裁量に「引き渡して」(Rom.1:24)しまっているときには、聖霊の媒介行為は悔い改めに導く場合にだけ想定される。ただし、人智を超えた神の自由は確保されたままであり、聖霊の執り成しの証は罪との葛藤さらには平安、愛の生起において確認される。
このように一方では聖霊への言及のない知恵、ロゴスによる説得があり、他方、それと平行した仕方で聖霊の力能の働きに訴えたエルゴンによる論証がある。双方が相補的な仕方で展開されている。パウロは「ローマ書」においてこれら二つの視点から分節することを許容する仕方で彼の神学議論を体系的に論じた。福音をロゴス次元において神の前のことがらとして分節することが許容されるとき、ひとはその証としてのエルゴンにより、その正しさを確認し、ロゴスの明晰性はそのエルゴンの純化に貢献するであろう。そこには聖霊の執り成しが働いてもいよう。「わたしは、神に向かうことがらに関して、キリスト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、神の霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:18-19)。パウロは自らの宣教活動が主イエスの自らへの内在によるものであることを誇っている。彼の自覚としてはキリストが彼を介して理論と実践を展開している。また彼のこの自覚とは別に肉にあるものとしてその宣教の言葉と働きそれだけを「語る」として自らの責任において遂行していることをも明確にしている。
福音書においてもイエスご自身の福音宣教が「エルゴンとロゴスにおいて」遂行されたことが報告されている。復活の主がエマオへの道を歩く弟子たちに同行したさいのことである。彼らは傍らを歩く復活の主に「神とすべての民の前にエルゴンとロゴスにおいて力ある預言者となったナザレのイエスに関わるものごと」について語った(Luk. 24:19)。何であれ、論証や証が説得的となるためにはロゴス・理論とエルゴン・実践双方が導きあい、補い合うそのような議論が不可欠となる。複層的な関係を形成するロゴスとエルゴンは、伝統的そして今日的な表現を含めるとき、多岐にわたり枚挙できる。例えば、理論と実践、知識をもたらす推論と発見的探求、論証(証明)と帰納(実験検証)、語彙の意味の説明言表とそれにより指示される(働きにある)ものごと、抽象されたものごとと具体的な今・ここのものごと、ソフトとハードウエア、遺伝情報とその読み取り、楽譜と演奏等として分節され、そしてそれらは相互にそれぞれを必要としている。
聖書においても、具体的には、憐れみの発動というエルゴンにおける主のロゴスによる宣教はこう報告されている。「彼が外にでると多くの群集を見た、彼らが「飼い主のいない羊のごとく」彷徨っていた。イエスは彼らを深く憐れんだが、この今・ここの憐みのエルゴンが「彼らに多くのものごとを教え始めた」とあるよう言葉を生み出している(Mak.6:34)。ここで主イエスは天国について「多くを教えた」のであり、言葉による宣教である。「ローマ書」の信に基づく義と選びは神の知恵の一つの報告であった。
彼らの宣教活動はこの種の理論(ロゴス)とそれに伴う実践(エルゴン)により構成されていた。パウロは言う、「われらの福音は言葉において(en logōi)だけではなく、力能においてまた聖霊においてもそして確証の十全性においても汝らに生起した(egenēthē)」(1Thes.1:5)。パウロはさらに言う、「「受け取るべき好機に、わたし[神]は汝に聴いたそして救いの日に汝を援けた」。見よ、今や歓迎すべき好機、見よ、今や救いの日。われらは誰にもいかなる躓きを与えることなしに(それはわれらの宣教の奉仕が咎められることのないためであるが)、あらゆる場合において神の奉仕者として自分たちを表現している、大いなる忍耐において、艱難において、窮乏において、行き詰まりにおいて、鞭打ちにおいて、監禁において、暴動において、労苦において、徹夜において、断食において、貞潔において、知識において、寛容において、親切において、聖霊において、偽りなき愛において、真理のロゴスにおいて、神の力能において(en logōi alētheias, en dunamei theū)、右手と左手の義の武器を介して、栄光と恥を介して、悪評と好評を介して[われらは自分たち自身を表現している]。われらは迷わせる者また真実である者として、知られていない者そして知られている者として、死につつある者としてそして見よわれらは生きている、懲らしめを受けつつそして殺されていない者として、悲しむ者しかし常に喜んでいる者として、貧しい者としてしかし多くを富ましている、何も持たない者としてそして一切を持っている[そういう者として自分たち自身を表現している]」(2Cor.6:1-10)。福音は一つのロゴスであり、そして各人のその証、自己表現・プロデュースは一つのエルゴンである。
結論
イエスご自身山上の説教をロゴスとして一般化されうる教えとして語り、そしてそれを信の従順により力の限り生き抜いたそのエルゴンにより、彼はご自身の言葉・ロゴスの正しさを今・ここのエルゴンにおいて証していたまう。彼の人格からにじみでる権威は彼の力ある聖なる言葉とそれに対応する力ある聖なる働き、即ちロゴスとエルゴンの合致に基づくものであった。彼の言葉は生きられることにより、偽りはなかった。そのような染みや傷、汚れなき聖なる方には甦りによる永遠の生命こそふさわしい。死は「罪の給金」(Rom.6:23)だからである。この人格は神ご自身により「わが愛する子、わたしは汝を嘉みした」と神の子として祝福されたが、御子の復活は永遠の生命の交わりのうちにいたまう父と子にふさわしいものである(Mak.1:11)。
付録アンセルムス「神はなぜ人になったか」。ボゾはこれらの長い対話の終り近くで、信じうることそれ自身が喜びであることを表白するが、それは信が明確なロゴスをもっていたことの認識からくる喜びである。「何もこれ以上理に適うものはなく(nihil rationabilius)、何もこれ以上甘美なるものもなく、何もこれ以上、世が聞くことのできる望ましいものはありません。私はこのことから、わが心がどれほど喜びにあふれているかを語ることができないほどの信を抱きます。といいますのは、神はこの御名のもとにご自身に向かういかなる人をも受け入れたまわないことはないと私には思われるからです」 (II19)。
福音のダイナミズム―律法からの解放―
福音のダイナミズム―律法からの解放― 日曜聖書講義 7月3日
聖書 ローマ書第八章
「かくして、今や、キリスト・イエスにある者たちにはいかなる罪の定めもない。二なぜなら、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放したからである。三というのも、ひとが肉を介してそこにおいて弱くなっていたところの律法の[遵守(じゅんしゅ)し]能(あた)わざることを、神はご自身の子を罪の肉の似様性において遣わすことによって、そして罪に関して、その肉において罪を審判したからである、四それは律法の義の要求が肉に即して歩まず、霊に即して歩んでいるわれらにおいて満たされるためである。五なぜなら、肉に即してある者たちは肉のことがらを思い、他方、霊に即してある者たちは霊のことがらを思うからである。六というのも、肉の思慮内容は死であり、霊の思慮内容は生命と平安だからである。七それ故に、肉の思慮内容は神に敵する、なぜなら神の律法に従わないからである、というのも従いえないからである。八しかし、肉にある者たちは神を喜ばすことができない。九とはいえ、汝らは肉においてあるのではなく、霊においてある、いやしくも神の霊が汝らに宿るなら。だが、もし誰かキリストの霊を持たぬなら、その者は彼のものではない。一〇他方、キリストが汝らのうちにあるなら、かたや身体は罪の故に死であるが、他方霊は義の故に生である。一一しかるに、イエスを死者たちから甦らせた方の霊が汝らのうちに宿るなら、キリストを死者たちから甦らせた方は汝らの死すべき身体にも汝らのうちに宿るご自身の霊を介して生を賜わるであろう。
一二それ故、かくして、兄弟たち、われらは肉に対し肉に即して生きる義務ある者にあらず、一三というのも、もし汝らが肉に即して生きるなら、汝らは死ぬばかりだからである。しかし、もし汝らが霊により身体の諸行為を死なすなら、汝らは生きるであろう。一四というのも、神の霊に導かれる者である限り、その者たちは神の子だからである。一五なぜなら、汝らは再び恐れに至る奴隷の霊を受けたのではなく、われらがそのなかで「アッバ父よ」と呼ぶ、子としての定めの霊を受けたからである。一六御霊自らわれらが神の子たちであることをわれらの霊と共に確証したまう。一七もし、われらが子であるなら、われらは相続人でもある。かたや神の相続人であり、他方キリストと共同の相続人である、いやしくもわれらが共に栄光に与(あずか)るべく、共に苦難に与(あずか)っているのなら」(Rom.8:1-17)。
「ヨハネの第一の手紙」「われらはわれらが死から生に移行したことを知っている、というのもわれらはきょうだいたちを愛しているからである」(1John.3:14)
1生の全体を秩序づけるものは理性か信か
人類の歴史が伝える確かなものの一つに、信の根源性を掴んだ人々は、自らの信仰生活を最後まで持続しえたことがある。喜びがあるからである。ルターはこの信の根源性を「信仰のみ」即ち「信仰」プラス「愛」ではないと語った。彼はパウロの「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)に言及し、信が愛を生み出す力であるとした。親鸞も「罪悪深重、極悪熾盛」、「いずれの業も及びがたき身」として専修念仏の力のもと易行道を歩みぬいた。あらゆる行為の指針となりあらゆる行為に浸透する心の在り方をめぐる基本的理解は簡潔でしかも常にその確かさを確認できるものであるに違いない。それは身体にその座をもつ「感情」(ファウスト)でも、心の普遍的な一機能「理性」(アリストテレス)でもなく、その根底に宿る二心なき幼子の「信」である。そのさいそれが正しい信であれば、適切な理性や感情がそれに伴い、信の正しさは理性の逸脱である例えば自らを神とする狂信や感情の逸脱例えば恐れの過剰である迷信に陥ることなく、認知的、人格的態勢の成長を促す限りにおいて証されている。イエスは言う、「天国のことを学んだ者は皆自らの倉[心に蓄積された態勢]から古いものと新しいものを自由に取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:51)。
信仰の熱心に生きている人々は奇異の目で見られることがある。イエスご自身も天の父なる神と自らのあいだに、神の前とひとの前のことがらに籬(まがき)をもうけることなく、自らを神の子ないし神と共にある者と看做し、そのような言葉と行いを貫いた。彼の権威ある大胆さは人々を一方で信仰に導き、他方で躓きを与えた。信仰熱心なユダヤ人はイエスがキリストであることの「徴・証」を自らのために求めたが、正しい信仰者は自らの心魂の実験を介しつつ証することにその生涯を用い神に賛美を捧げる。一切を統べ治めています神の事柄は個々人の魂の事柄であり、なぜなら魂は神の意志を知りうるとされているからであるが、その魂が実験と検証の場所である限り、常住坐臥のこととなる(Rom.12:1-2)。
イエスは「神の子の信」により信の従順の生涯を貫いた(Gal.2:20)。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。人類のなかに、まことにひとであり同時にまことに神の子である方がおられる、これを信じるかが問われている。聖書をとりわけ福音書を読むことによりひとは次第にナザレのイエスがわれらと同じひとであり、しかもわれらと同じ単なるひとではないことに気づいていく。そのことに内側からの納得が得られるとき、信じることの喜びが生起する。信の根源性は心魂の根源を形成するものであるがゆえに、一切の行為がそこから生まれてくるそのような心魂の全体にかかわるものとなる。
感情や理性を心魂の根源に据えるときにも、それらはあらゆる営みを導くものとなるであろう。アリストテレスにおいては、身体的な情動(パトス)である怒りや恐れや快に対して良い態勢にある正義や勇気そして節制という人格的な態勢は心魂の「徳・卓越性」と呼ばれる。心魂の善悪に関わる人格的態勢と真偽に関わる認知的態勢はその人格的成長と認知的成長を常に補いあいつつ、導きあう。個々の状況において何を為すのが最善の行為かを知るに至る「実践知・思慮深さ(phronēsis)」が正義や勇気等の人格的態勢を秩序づける。彼は実践知について「人間的な善に関わる行為力能上のロゴス(理)を伴う真なる態勢である」と特徴づけ、その心魂が何を為すべきかをめぐり真なる態勢にあるということは「正しい欲求に同意している状態」である(Nic.Eth.6.2,1139a30)。可能な行為の選択肢のなかで最善のものを認識することは、「全般にわたってよく生きること(to eu zēn holōs)に対してどのようなものがよいか熟慮しうること」(1140a28)に基づく。
かくして、実践知は自らの人生全体においてよく生きようと欲求する人格的態勢の成長のもとに、最善の行為を捉える理性の働きである。それ故、今・ここの状況における最善の行為に関わる実践知は指令的なものとなる。「選択を正しいものにするのは徳であるが、選択のために本来なされる限りの[手段的な]ものごとは徳ではなく、それとは異なる力能に属する。・・「才知・頭のよさ」と呼ばれる力能がある。これは設定された目標・目当て(skopos)に向かって進んでいくものごとを実行することができ、当の目標に到達する力能のことである。かくして、当の目標が美しい場合は、この力能は賞賛されるが、その目標が卑劣なものである場合は、それは「狡知・ずる賢さ」にすぎない。それ故、実践知者(phronimos)も才知があるとわれらは言い、狡知にたけた者もまた才知があると言う」(Nic.Eth.6.12,1144a20-28)。
有徳な者は正しい行為を正しい行為それ自身の故に選択するように、正しい選択とその正しい実践は有徳の証であり、実践知はその有徳性に伴う認知的卓越性である。「あらゆる[勇気、正義等の人格的]徳は同時にひとつの実践知に内属するであろう。・・かくして、この正しい選択は実践知なしにはまた[人格的]徳なしには成り立たないであろう。なぜなら、一方徳はゴールを実践せしめる(poiei prattein)が、他方、実践知はゴールに向かうものごとを実践せしめるからである」(6.13,1145a1-6)。立派な人間は正しい人生の目標を持ち、正しい動機付けによりそしてそのゴールに向かう正しい方策、手段により成し遂げることのできる者である。この意味で、理性は指令的、律法主義的なものである。
他方、もし感情や気分を生の根底におくなら、そのつどの身体的な反応に基づき行為が選択されることとなり、その生はカオスとなり、秩序は生まれないであろう。よく生きようとする者にとっては生全体が問われるそのような根源的な生の原理が求められている。ひとの心魂とその在り方により形成される生とは秩序なきものものであり続けることのできない、そのようなものであると言うことができる。ひとは分裂があるとき、その分裂の癒しを求めざるをえないということに他ならない。アリストテレスの理性は心魂の人格的かつ認知的態勢の成長に伴う実践知により秩序づけられうるとし、聖書は信により神との正しい関係を持つことなしには分裂は癒されないと主張する(信と理性の両立性について、ここでは議論できない)。
2業のモーセ律法からの解放における罪の贖い
イエスやパウロは信の根源性を当時のパリサイ派律法主義者等の業のモーセ律法の根源性の主張との対比において捉えている。イエスは山上の説教でモーセ律法を乗り越え、心魂の根源を問う形で極性化する。彼は山上で「裁くな」、「色情を抱くだけで姦淫」、「左頬をも向けよ」とモーセ律法を純化し究極の業の律法を語りつつ、「まず神の国とご自身の義を求めよ」と信仰に招く(Mat.6:33)。彼はこの「天の父の子」、「神の子の信」により信の従順を貫き、「福音」即ち「信じる者に救いをもたらす神の力能」を歴史に確立した(1:16)。
イエスは「律法の一点一画も廃棄されない」その神の意志への尊敬のなかで、「律法全体と預言者が依拠している」愛に業の律法を集中させ、信の従順により愛の律法を成就した(5:45,17,22:40, Gal.2:20)。イエスは野の百合空の鳥に見られる神の愛を自ら生き抜き自らの信義の証の復活を通じて、信義と「義の果実」としての「愛」これら二つの神の義を媒介した(Phil.1:11)。信は神との義を形成し、その義の果実として愛が形成される限りにおいて、正義と愛はナザレのイエスにおいて両立するものとして生きられた。神はこのイエスの信の生涯を嘉みし、「すべての者は罪を犯した」が「キリスト・イエスにおける贖いを介してご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たち」であることを知らしめている(3:23-24)。贖いとは人々の罪をキリストの血によって買い取り義を贈りものとして与えることである。
神の愛を素直に受ける信の根源性に至るためには罪の定めに至る業のモーセ律法からの解放が求められる。「業に基づくすべての肉は神の前で義とされないであろう。というのも、律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(3:20)。その解放とは罪に定める業の律法からの解放である。それは業の律法の指針のもとに生き、目の塵と梁の間で自他の裁きと貪りがもたらす自他の破壊に疲れ、モーセ律法をただ投げ捨てることではない。生の規範を投げ捨てた心は空になり、本願誇りにより何をしても赦される無律法主義や「善を来たらすため悪を為そう」偽悪主義が蔓延り、空の「わが家」に悪霊が入り込む(2:12,3:8, Mat.12:43-45)。福音の故に律法は乗り越えられる。律法を捨てると同時に罪が贖われ義とされたことを受け取る。
業の律法からの解放は罪に死んだことを含意すると共に義の生命を受け取ることである。「わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(7:4-6)。律法に死んでしまった以上、立派な行為やそれへの誇りからも解放されてしまっている。
律法への隷属はどれだけ規範、恐れや裁き、軽蔑、羨望等より縛られているかにより認識される。律法のもとでは偶像を「拝む―拝まない」、「貪る―貪らない」等各人の責任ある行為の二者択一が問われ、その遵守により自らを義とする誇りが残る。律法に死んだ者はこの二者択一のなかで立派な行為を常に気にかけ、それ故に自他を審判することはもはやない。「神ご自身の恩恵による贈り物」である罪の赦しのあるところ、「義を受け取る者たち」に誇りはない(3:24)。「誇りはどこにあるか、閉め出された、それは業の律法を介してか。然らず、信の律法を介してである」(3:27)。信の律法のもとでは「信じる―裏切る」の二者択一となる。神の愛がキリストにおいて既に与えられているからである。信じることは未熟な幼子でもできることである、或いは素直なそして保護者なしには生き得ないことを直覚的に知っている幼子にこそできることである。
3キリスト・イエスにおける生命の霊
裁きと罪の欲情から解放された心は信がもたらす義の新しい生命によって満たされる。「しかし、今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(8:2)。「わたしは神によって生きるために、[信の]律法を介して[業の]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」(Gal.2:19-20)。疑いなき幼子の信は神からの愛の促しのもとに生起する。「希望の神が、汝ら、聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で汝らを満たしたまうように」(Rom.15:13)。信じうること、ただそのことが嬉しい。
信→義→愛、ここに福音のダイナミズム、力動性がある。律法から解放された心魂にこの生命が流れ入る。放物線が接戦に触れるように、天来の愛がもたらす生命が現在、今・ここに注がれ、過去と未来による支配からも解放され、時との和解が生起する。キリストの軛を担い彼と共に信義の道を歩むとき、共軛の牛の体温のように彼の柔和と謙遜が伝わる。キリストと共にある平安と喜び、福音の力に触れている者はそこから一切の思考と行為がうみだされていく。ルターは言う。「わが心のうちに一つの箇条即ち、キリストの信(Fides Christi)が統治している。それはそこから、それを介してそしてそこへとわがあらゆる神学的思考が、昼も夜も、流れいでそして流れ戻るところのものである」。
4 結論
福音と律法の相違は直接法「汝の罪赦された」が先行し、命令法「それ故に汝相応しい実をむすべ」が後行するか、「汝これこれ為すべし、これこれ為すべからず」の命令法が先行し、直接法「汝罪赦された」が後行するかのいずれかにより判別される。クラーク先生は明治初期札幌農学校に赴任するさい、ただBe gentlemanとだけ言った。これが命令法であるとするなら、われらはWe shall be gentlemen and ladies.と勧奨にかえよう。業の律法は生命をもたらさない。理性は律法主義であり、それ自身としてはわれらに救いをもたらさない。信なしに人類は神との正しい関係ひいては人間との正しい関係を生み出すことはできない。信を根源とするか理性を根源とするかそれが問われている。人類の歴史を振り返ろう、自らの歴史を振り返ろう。そのとき、われらに救いをもたらすものが何であるかを知ることになるであろう。
罪の誘惑(8)律法と罪と内なる人間の三つ巴
日曜聖書講義6月26日
罪の誘惑(8)―律法と罪と内なる人間の三つ巴―
(録音は2節まで))
「ローマ書」七章
1 律法からの解放と律法が罪でないことの第一議論
ここまでわれらは「われ・わたし」とは律法により二人称単数で「汝~為すべからず」という呼びかけのもとでの命令に対し、一人称単数「われ」により応答する人間一般を指示していることを学んできた。この議論は「今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された」(Rom.7:6)者たちにとって、パウロが神の意志である限り廃れることのない律法の新たな機能を確認している箇所である。もし、解放されたはずの律法のもとに、あらためて生きるなら、律法を差し出された人間は誰であれ、「惨めだ、われ、人間」と叫ぶそのような葛藤することが求められている。ひとに罪の罪性の著しさを知らしめ、神がイエス・キリストにおいて知らしめた信の律法のもと福音に逃れるよう導く機能が業の律法に与えられている。それはパウロであっても二千年後のわれわれにもあてはまり、その意味で「われ」は誰にも適用される虚構の「われ」である。
第一議論は、律法は罪ではなく、罪を知らせるものであることを明らかにしている。神の意志によれば、キリストの出来事は人類をモーセの業の律法から信の律法に移行させるものである。人類は業の律法から解放されてしまった。第一議論は、人類がそこから解放されたその律法は、文字として捉えられる限り、擬人化される罪が利用するものであることを明らかにしている。パウロは人類の始祖アダムの堕罪を念頭に、蛇に比せられる罪が文字としての律法を利用し機会を捉え人間を欺き、「われ」が生物的死を引き受ける者となったことを過去形により表現している。「われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である」(Rom.7:7-12)。
神の意志である限り、モーセ律法そしてそのもとにある戒めは罪ではなく聖なるものであるが、人類の始祖に見られるように、誰もが罪の虜となり生物的死を罰として引き受けることになった。人類は罰としての生物的死を生きるさいのハンディとして引き受けるが、それを乗り越える永遠の生命に与ることが福音の力である。第一議論において主語は「われ」であるが誰であれアダムであれ、パウロであれアインシュタインであれ、生物的死を罰として引き受けることになったことは人類が罪の誘惑に負けたことの故にであることを明らかにしている。神の前では「あらゆる者は罪を犯した」(Rom.3:23,5:12)のであり、その罰としての生物的死がある。それを乗り越えらた者たちにとっては、生物的死は「眠り」となる。
「キリストはわれらがまだ罪びとであるときわれらのために死んだ、そのことにより神はわれらにご自身の愛を示したのである。九かくして、今や、われらは彼の血において義とされたのであるから、さらにいっそう彼を介して怒りから救われるであろう。一〇なぜなら、もし、われらは、われらが敵であったときに、神と、ご自身の御子の死を介して、和解させられたのであるなら、さらにいっそう、われらは、和解させられた者として、彼の生命において救われるであろう。一一しかし、ただそれだけではない、われらはその方を介して今や和解を得たそのわれらの主イエス・キリストを介して神において大いに喜んでいる者でもある。
一二その[「和解させられた者として、彼の生命において救われる」]ことの故に、ひとりのひとを介して罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯した故に、死はすべての者を貫き通したのである。一三というのも、律法[が与えられる]までにも罪は世界にあったのであり、律法が存在しないため罪は告訴されていないが、一四しかし、死は、アダムからモーセに至るまで、アダムの背きと同じ仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配したからである。彼は来るべき方のひとつの型[モデル]である」(Rom.5:8-14)。
アダムは人間の一つの代表「型」であるが、それはキリストにおける救いに向けての「型」である。アダムとキリストは罪に負けた者における生物的死を与件にする者とキリストにおいて罪に勝利した者の永遠の生命に与る者とのコントラストとなっている。キリストの信の生涯においてもたらされた、永遠の生命がいかにわれら個々人のものとなるかは「ローマ書」8章で展開される。罪は死を介して神の前の永遠の滅びを画策するが、キリストにある限り、「キリスト・イエスにおける生命の霊」(8:2)に与る者とされる。
2.第二議論における律法の新たな機能―罪と律法と内なる人間の葛藤―
第七章の第二の議論は律法は罪ではないとして、善である律法が死に貢献するのかが問われる。それへの応答として、パウロは聖なる霊なる律法と文字としての律法の異なりを明らかにし、罪は文字としての律法に寄生できることを指摘する。ひとの肉即ち生物的生の原理であるそれ自身中立的な心魂の部位は罪が寄生することのできるものであるが、人間の心魂には罪が寄生できない部位がある。パウロはそれを「内なる人間」と呼び、そこにおいて神の霊、聖霊に反応する人間の「霊」が力能として宿っており、それを介して「叡知(ヌース)」が発動して、神の意志を知ることができるとされる。パウロはその部位は常に刷新の必要とされる部位であるとする。彼は12章で言う、「かくして、兄弟たち、神の憐れみによりわれ汝らに勧める、汝らの身体を神に喜ばれる生ける聖なる献げものとして捧げよ、それは理性に適う汝らの礼拝である。二汝らこの世界に同調するな、むしろ神の意志が何であり、善とはそして喜ばれるものそしてまったきことが何であるかを汝らが識別すべく、叡知の刷新により変身させられよ」(Rom.12:1-2)。ここで変身とはキリストと共にあり、キリストに似た者になることに他ならない。
ここに、罪と律法と内なる人間の三者の葛藤が描かれる。
一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法違反を介した死]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという[罪の]律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。
この箇所第二議論は第一議論と異なり、現在形で描かれ今・ここでの葛藤を表現している。新共同訳の21節の翻訳は「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます」とあるが、「いつも」という言葉は見られない。今・ここのことがらとして「われ」は悪が自らのうちに働いている、その悪をもたらす罪の律法を見出している。「しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという[罪の]律法をわれ見いだす」。罪の律法に捉われることがあるが、「いつも」そうであるわけではない。虚構の「われ」は今・ここでの葛藤の主体である。そのわれは「肉」と「内なる」人間により構成されている。パウロは一方「わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知る」(7:18)と語り、この葛藤を引き起こす状況においては自然的な生命原理である「肉」に善が見いだされないことを記録している。もし、この生命原理が悪しきものであるとすれば、人間の産物は一切悪しきものとなろう。ひとはこのような人間観に同意できないであろう。イエスもパウロは肉の中立性を語っており、自然性そのものが悪であると言う議論は見いだされない。
パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(6:19)と肉の弱さへの譲歩のもとに「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもある中立的な存在者として人間を位置づけることがある(6:19-20)。ひとは相対的自律性を認められているが、いつのまにか、神からの働きかけ、愛を忘れてしまい、神に帰属するはずの端的な自律性を自ら主張するに至る。それが罪である。蛇は誘った、「汝らは神の如くなるであろう」(Gen.2:5)。ひとはナザレのイエスを知れば知るほど、自らが天の父への信頼に生き抜いた彼のようでありえないことを知り、それを「罪」と理解し、そこからの解放を求める。換言すれば、受肉したイエスに繋がらない限り、神は単なる超越者となり抽象者となり、ひとは糸の切れた凧のようになるであろう。
「肉」は身体を持つ自然的存在者の心魂にその座を持つ生物的な生命活動の基本原理であり、そのつど発動する「叡知」と「霊」という「内なる人間」と呼ばれる根源的部位と何らか関係する心魂の一つの構成部位である。肉は生きている身体においては身体とは分離されないものとして働く。これは通常の身体と心魂の関係と類比的である。見るという心魂のその都度の働きは目を通して今・ここで見ているという身体の働きと分離されない。そして身体におけるキリストの生命への同化過程は、以下引用文斜体の「というのも」(2Cor.4:11)という理由文において肉におけるキリストの生命への同化過程により説明される。心魂の一部位である肉の変身が身体の変身をもたらす。
「一方、われらはわれら自身をではなく主イエス・キリストを宣教する、他方、われらはイエスの故に自分たちを汝らの奴隷であるとする。というのも神は、「光が闇から輝きいでるであろう」と語られた方であり、その方はキリストのみ顔のうちにある神の栄光の認識の輝きに向けてわれらの心に照らしたまうたからである。われらはこの宝を土の器に持っている、それはその力能の卓越性がわれらからのものではなく神のものとしてあるためである。あらゆることがらにおいて圧迫されても困窮せず、途方に暮れても絶望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びず、いつもイエスの死を身体において(en tōi sōmati)持ち運ぶ、それはイエスの生命がわれらの身体において顕れるためである。[4:11]というのも、常に、われら生きている者たちはイエスの故に死へと引き渡されているが、それはイエスの生命がわれらの死すべき肉において(en thnētēi sarki)顕れるためだからである」(2Cor.4:5-11)。
ここで肉は「死すべき」と形容されるが、この死すべき肉こそそこにおいてイエスの生命が顕れる場である。「肉」は弱さを抱えつつも、復活のキリストが内なる人間(叡知と霊)を介してそこにおいて顕現される心魂の一つの座である。そのさい「イエスの生命」は身体的な働き(エルゴン)を伴っている。ここで理由文「というのも~」に見られるように、「肉」は概念上「身体」から分離され、「肉」が「身体」におけるイエスの生の顕現の理由を与えており、ロゴス上「肉」は「身体」に先行する。しかし、働き(エルゴン)上、肉は何らかの身体的働きを伴う。愛の行為は「霊の果実」、「義の果実」であるが身体を介して遂行されることであろう(Gal.5:22,Phil.1:11)。
人間社会が自律したものとして自らを司法や行政、経済等制度化、律法化のもとに位置づけ、さらに科学技術を促進させることは人間の知性の証であることであろう。医療や技術の進展にこそ例えば疫病の克服の光明が見られ、また教育を受ける機会が得られる。しかし、これらが神に頼らずにすむシステムの構築として肉を厚くするとき、二心、三つ心の偽りに陥る危険にさらされている。これらの営みは、最も善きものによる秩序づけなしには、自らの正当化の動機付けのなかで自ら理解する公平さ、技術革新、効率性の名のもとにある隠れた欲望、有利性を拡大するシステムの作成に向かう。この傾きのなかでひとは自らの心魂を罪に引き渡し、神への眼差しをそして隣人への愛を忘れてしまう。
「ローマ書」七章においては肉が罪の律法に仕え、善が宿っていないことを見出している。しかし、完全に罪に欺かれているわけではなく、内なる人間の叡知が霊を介して発動している。「善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという[罪の]律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている」。この葛藤をもたらすことこそ、律法の新たな機能である。
3.業の律法から信の律法に導く悔い改め
一般的に、もしわれらが「惨めだ、われ、人間」と叫ぶことがあるとするなら、それは業の律法が内なる人間を介して何等か働いており、悔い改めを促していることを示している。苦悩するとき、われらは喜ぼう。「汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか」 (Rom.2:4)。悔い改めは旧約においては業の律法のなかでのことであった。洗礼者ヨハネは言う。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう」(Mat.3:10-12)。試練を表現する「火」と復活の主の原罪を表現する「聖霊」により洗礼を授けられるとき、ひとは信の律法のもとにイエスをキリストであると信じるに至る。
キリストにおいて業の律法からそれ故に罪から解放された。既に罪とその値である死に対する勝利はわれらの外に、キリストのうちに立てられたのである。律法は悔い改めに導き律法から解放し、キリスト・イエスの生命に与らせる。われらは罪の奴隷であるとき、死を成し遂げつつある。罪の刺激のもとにあるときは、悪行は義務にさえ見え、悪行のただなかでは一種の興奮のなかで死に向かっていることを認識できない。しかし、悪の単調さを知るべきである。そこには何ら新しいもの、生命を輝かすものを見出すことはないのである。単におのれの古い欲望にこだわり、そこにつけいる罪によって死に誘われているだけである。
罪が滅ぼされるとき、罪からの「給金」である「死」も滅ぼされる(Rom.6:23)。そしてそれは最終的に終わりの日に「瞬時に」生起する。「「死は勝利に飲み込まれてしまった、死よ、汝の勝利はいずこにかある、死よ、汝の棘はいずこにかある」。しかし、死の棘は罪であり、罪の力能は[罪の]律法である。われらの主イエス・キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する」(1Cor.15:52,15:54-57)。ここに福音のダイナミズムがある。
4.中間時
われらはキリストの出来事から終わりの日にいたるこの中間時において、肉の途上の生を生きている。そのわれらにとって、主の十字架と復活を介した福音の勝利が罪に罰を与えており、そしてそれ故に罪から逃れる道を示されている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)。さらに中間時における罪の審判はやがて来る終末における最終的な「イエス・キリストを介した勝利」により「最後の敵である死」を克服し「神の国」に与る希望が生じることに確認できるであろう。「神はご自身の子を肉の罪の似様性において遣わすことによって、そして罪に関して、その[イエスの]肉において罪を審判した」(8:4)。イエスは自らの信・信仰により罪に勝利したために、「イエスの信」は神の信に対応するひとの信として神の義の啓示の媒介に用いられたからである。罪に対する罰は罪が寄生する文字としての業の律法とは別に信の律法が啓示されたことにこそある。
この中間時にあっては、罪に対する審判の表象は擬人化された罪、サタンを足もとに踏みしだくそのようなものとして描かれる。ひとは今・ここの具体的な状況において「道そして真理そして生命」(John.14:6)でありたまうイエスの御跡に従う限り、つまり信に基づき愛への道行きに従う限り、イエスは共にいたまいサタンを足で踏みつけていたまい、最後の日に神が踏み砕かれる。「平和の神がすみやかに汝らの足下にサタンを砕くであろう」(Rom.16:20)。
もし業の律法のもとに生きるなら、キリストはサタンから足をはずされ、ただちに罪の誘惑にさらされるであろう。この肉の生においては信のもとに復活の主とともにある限りにおいてだけ、罪から解放されている。終わりの日にいずれの律法のもとに審判を受けるかは個々人には明確には知らされてはいない。幼子の信は肯定的、創造的生を生み出す心魂の根源的態勢であり、善き業としての愛はその「義の果実」(Phil.1:11)であり、心魂の根底にある態勢とその帰結、結果としての働きは類比的ないし平行関係においてあり、いずれかから審判されることであろう。いずれの場合においても「愛を媒介にして実働している信が力強い」(Gal.5:6)、その信の根源性こそ考慮の基点であることには相違ない。
「ローマ書」においてパウロは隣人を裁くことに、業の律法のもとに生きていることの一つの証が見られると主張する。「すべて裁いている汝、ひとよ、汝には弁解の余地がない。なぜなら、汝は他人を裁くそのことがらにおいて、汝自身を裁いているからである。というのも、汝裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。隣人の欠陥をあれこれ裁くとき、当人も隣人同様「同じことを行っている」つまり業の律法のもとに比較と競争のなかに生きている。パウロはこの認識の表明に続いて、「汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか」(2:4)と悔い改めに導く。
他方、福音書のイエスの言葉には、小さな者への愛が福音のもとに生きているか否かの規準になることの証が見られる。「[イエス]「わが父に祝福された者たち、天地創造のときから汝らのために用意されている国を受け継げ。汝らはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したことは、わたしに為してくれたことである」。・・[イエス]「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。汝らはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらは汝が飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」」(Mat.25:34-45)。
5.結論 感情、理性そして信―生の指針―
中間時に生きている限り、われらは罪と律法と内なる人間の葛藤はやまないであろう。ただわれらにできることは、そのつどキリストの福音に立ち帰ることである。ゲーテのファウストは「感情こそすべてである、言葉は単なる音のつらなり、煙である」と言う。感情が生の指針たりえないことは先週学んだアリストテレスにより既に明らかにされている。「われらは選択することなしに怒りまた恐れるが、徳は一種の選択であるか、選択なしにはないものである。これらに加え、われらは感受態により「動かされる」と言うが、しかし、徳や悪徳により「動かされる」とは言わず、「何らかの態勢にある」と言う」(1106a2-6)と語る。彼は魂に生起する自然的なものと責任のもとにあるもの二つの状態を判別し、人間の学としての倫理学の主題である徳を魂のなかにまず或る種の態勢として位置づける。
アリストテレスは「徳」を「或る種の無感受態つまり平静である」と定義する者を「彼らは単純に語っており、そうなるべき仕方と、そうなるべきでない仕方について、またそれがいつかということ、さらに他の諸規定が加えられていない」との理由で退け、「従って、徳は快と苦に関し、最善のものどもの行為に導きうるそのような[上記の具体的な限定を伴う]態勢であり、悪徳はその反対であることが基礎におかれる」と基本的な理解を一般的な仕方で提示する(II3.1104b24-28)。適切なときに、適切な仕方で、適切な程度において感受態が発動するそのような態勢にある者が有徳な者である。有徳な者はその感情や情動が適切なロゴス(理)に聴従している者だからである。「しかし、魂の何か他の自然はロゴス(道理)無し(alogos)であるが、しかしロゴスに何らか与っていると思われる。というのも、抑制ある者と抑制なき者について、彼らが所有するロゴスを賞賛し、彼らの魂のなかでこのロゴスを所有する部位を賞賛するからである。というのも、ロゴスは最も適切なことについて正しく勧めるからである。抑制なき者の衝動は[意志とは]反対の方向に向かう。尤も、われらは身体においては逸れゆくものを見るが、魂においては見ないのではあるが。しかし、おそらく、魂においてもロゴスに対立し、抵抗する、別の何ものかがあると少なくとも看做すべきである。それがどのように異なるかは問題ではない。しかし、これは、語ったように、ロゴスに与るように見える。かくして抑制ある者のそれはロゴスに従う。さらにおそらく節度ある者そして勇気ある者のそれはよりいっそう聴従(euēkoōteron)している(1102b13-28)。
感情が理性に聴従しているとき、ひとは分裂なきものとされる。しかし、生の指針をこの理性、ロゴスに委ねることができるであろうか。人間の心魂の葛藤、分裂は信なしに癒されるのであろうか。ルターは言う、「キリストにより愚かにされた者にとってだけ、アリストテレスは無害である」。確かにそうである。解放されよう。信の律法は業の律法からの解放を告げており、解放された魂の場所には「キリスト・イエスにおける生命の霊」が宿る。永遠の生命の喜びがそこにある。心を理性主導の律法により占めるとき、この生命に与ることはできない。このことは確かなことである。
罪の誘惑(7)―業の律法からの解放をもたらす福音
日曜聖書講義6月19日
罪の誘惑(7)―業の律法からの解放をもたらす福音
「ローマ書」七章
律法の新たな位置づけ (1-6節)
それとも、兄弟たち、われは律法を知る者たちに語りかけているのであるが、汝らは知らぬか、律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時であると。二なぜなら、既婚の婦人は生存している夫に律法により縛られているのだから。しかし、もし夫が死ねば、彼女は夫の律法から解放されている。三だからそれ故、夫が生きているあいだに、他の男のものになるなら「姦通者」と呼ばれるであろう。しかし、夫が死ねば彼女は律法から自由であり、彼女が他の男のものになっても姦通者ではない。四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている。
第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」
七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。
第二議論「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」
一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法違反を介した死]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。
1.生きる指針の転換
人は生きる指針を求めている。それは毎日の生活に関わるものである限り単純なものであり、そこに立ち帰るとき、力を得るそのような基本的なものであり、困難なものであるはずはない。ひとは日々それを遂行せずには生活が困難となる生業(なりわい)として生活の基本を抱える。これは生活を続けるために、不可欠の与件である。年を取り、年金生活者となるとき、この生活の基本が失われると、ひとは生の安定を失い、様々な不安や懐疑に襲われてしまう。とはいえ、生活の指針は何か生業にうちこんでいても、老齢となり、そのようなものを持たず国家により支えられている者にも妥当する単純で力強いものであるに相違ない。もちろん年金生活者も現役時代に積み立てをしてきたのであり、当然の報酬を受け取っているという面もあるが、長く生きる時代、高齢者たちはその積立を超える支えを頂くことになり、若者や国家に肩身の狭い思いをすることにもなる。今後は、この国の人口比からしても老体を鞭打って仕事を続けることがこの国の成員に求められることであろう。長寿の時代、弱くなってしまってもその人生を支える生の指針を得ることはとても重要なこととなる。「若いときに汝の造り主を覚えよ」(Ecl.12:1)という伝道の書の言葉がやはり力をもってわれらに語り掛けてくる。ともあれ、当学寮の生活指針は「聖書を正しく理解するところ、そこに聖霊が宿る」でいく。聖書を正しく理解することに集中したい。
2 業の律法の乗り越え―旧約を貫く信の律法―
パウロは旧約人においては業のモーセ律法がそのような指針であったと言う。「律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時である」(Rom.7:3)。旧約人を支配した一つの生活指針、業の律法はもともと良き生活を導く力として問題を抱えており、人を導く指針としては機能しないことが判明している。パウロはそれを明らかにしたのがナザレのイエスによる信の生涯とその力であったと主張する。
これは人生の基本的な理解にかかわることであり、魂の根幹を揺さぶる。パウロは、この律法は罪であるとか、誤っていたという類のものなのではなく、また死を生み出しているわけではない。しかし、罪の誘惑に対して文字としての律法は無力であり、魂に巣食う罪により文字の律法が利用され、われらを生物的死ひいては魂の死にもたらすと警告する。業のモーセ律法はひとに本来的な生を生かしめる力のないものであることを論証する。自らの責任ある自由を前提にして、貪るー貪らない等の二者択一の一方を遂行することにより、神の前に義とされるとされるが、誰もそこでは義とされない現実が明らかにされる。これは福音つまり「信じる者に救いをもたらす神の力能」(Rom.1:4)が知らされて、その対比において認識することができるものである。
3人間の魂の理性的な分析に基づく倫理学は律法主義である。
ルターは「理性は律法主義である」と語り、アリストテレスの倫理学はひとを救いに導かないと主張する。律法主義においては基本的に命令形でで提示され、その成就により直接法「汝救われた」がが語られる。先週、苦しみの数種類を分析した。ひとは様々な苦しみを経験する。必要以上の苦しみの背後に、魂の態勢として貪欲が潜んでいることが摘出された。アリストテレスは常に目先の快楽を追求しそのことに「後悔」をもたない人間を「放埓」と呼ぶ。放埓な人間を示す指標は欲望の大きさというよりも、欠乏充足モデルのなかで欲望を充足できないときに生じる苦痛の大きさが、その者の心魂の態勢、実力として欲望が理(ことわり・ロゴス・理性)に服していない放埓さを明らかにするとされる。
欲望はそれ自身パトス(身体の受動的な反応、情動)なので、非難の対象にはならない。欲望を野放しにしているとき、たとえ強い欲望がわかずにも、好色であり快を追求するばあいがある。それは精神が肉になっている状態であり、放埓さを一層示すと言われる。アリストテレスは言う、「なんら欲望を感じていないか、あるいはかすかにしか感じていない場合でさえ快楽を過剰に追及し、まあまあの苦痛を避ける人は、強烈な欲望を感じるがゆえに快楽に走る人よりも、いっそう放埓な人であるとわれらは言うことができる」(7.4.1148a17ff)。この人は人生が与える他の多くの喜びを諦め、肉となってしまった精神が欲望を感ぜずにも快楽を追及せざるをえない隷属状態であると言える。そしてそれは苦悩、苦痛をもたらすはずである。パウロのローマ書七章によれば、その隷属はそのとき今・ここで肉に巣食っている罪への隷属であり、律法は葛藤を引き起こす新しい役割を与えられる。われらは文字としての律法を利用する罪に誘われ、自ら望んでいないことがらを為すとき、例えば節制すべきときに快楽を追求するなど、死を作りだしていると捉えられる。人類は本来的には神の子として永遠に生きるべき者であるが、楽園追放の罰として生物的死を引き受けている。この生物的死を介して罪は神の前の滅びを画策している。律法の新たな機能はこの罪との格闘を引き起こすことにある。この葛藤については改めて論じる。
ここではアリストテレスの理性的な魂の放埓さの分析がわれらを救いに導くかを問う。アリストテレスは言う、「以上から快楽にかんする超過が放埓さであり、それが非難に値するものであることは明らかである。しかし、苦痛に関しては、病気の場合のようにはいかず、苦痛に耐えることで節制の人と呼ばれたり、耐えないことで放埓な人と呼ばれたりするわけではない。放埓な人はむしろ、快いものが手に入らないことに必要以上に苦しむがゆえに放埓だと言われ(そして、放埓な人のこの苦痛を生みだしているのも当人の快楽なのである)、節制の人は、快いものがなかったり控えたりしても苦しまないがゆえに、節制があると言われるのである。こうして、放埓な人はあらゆる快楽、あるいはもっとも快いものを欲しており、またその欲望ゆえに、ほかの様々な快いものをなげうってその快楽を選ばずにはいられないのである。それゆえ、こうした人は、欲しい快楽が手に入らないばあいでも、快楽を欲している場合でも苦しむ。なぜなら、欲望には苦痛が伴うからである」(『ニコマコス倫理学』第3巻11章1118b26ff)。
ここで明らかにされる苦悩や苦痛は自らが貪欲で強欲な人間であることからくる苦悩である。節制ある人間になろうとしない限り、欲望に伴う苦悩から解放されない。おのれの欲深さを知ることが求められている。アリストテレスの倫理学は魂の卓越性としての有徳をめぐり、人間の魂の類型、分類が有徳性という成功した視点から網羅的に展開される。確かに、そこでは感情と魂の実力としての態勢ならびに行為を包括的に理解することができる。正しい人になるには、正しい人が為すように、正しいことを正しいことそれ自身のゆえに為すことが求められる。これは、これこれを為せば神に正義と看做されると主張するモーセ律法に通じる。自らの責任ある自由のもとに、立派な人間になることがめざされている。
ルターは「理性は律法主義である」と語るが、アリストテレスが分析する快楽により、ひとは快楽から逃れることができるであろうか。それから救われうるであろうか。ルターはその力はないと言う。律法主義は命令を立てるが、パウロ的にはそこに罪が巣食い、その文字としての律法を介して誘惑し、生物的死をもたらし、さらに魂の死に誘うと分析される。「その心によって清い者は祝福されている」(Mat.5:8)のは、欲望が満たされないこと、また欲求さえ起きないのに快楽に向かわざるを得ないこのような魂の苦痛から癒されていることがその一つの理由である。なによりも、その人は神にまみえるであろう。人生の他の喜びを享受することができる。また「その霊によって貧しい者は祝福されている」(5;3)。神との正しい関係を求めることによってしか自ら満たす者をもたないひとは、眼差しを神に向けざるを得ない。イエスはなによりも「まず神の国と神の義とを求めよ」(5:33)と信仰に招く。その信があいの律法を満たす力を持つ。
4信の根源性
ありがたいことに、旧約人においても、その信の律法はきちんと機能しており、ひとびとを救いに導いていたことが確認されている。業の律法の適用のもとでは「律法を行う者たちが義とされるであろう」(Rom.2:6)。それ故にダビデのような姦淫者は救われない。パウロはダビデの詩を引用しつつ信の律法のもとにある者をこう特徴づける。「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものと看做される。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される。ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(4:4-8)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みした。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。
「ヘブライ人への手紙」の著者は信仰によって「諸時代が統一される」神の計画について叡知が発動し、知ることができると主張している。信仰は見えない神の意志についての何らかの可視化の基礎であると主張されている。この手紙の著者は信の律法が旧約人を導いていたことを多くの事例を挙げて説明している。旧約の義人たちは生の指針がぶれていなかったことが確認される。「信仰は望んでいるものごとの基礎に立つものであり、見られていないものごとの[見られないままに留まることへの]反駁である。というのも信仰によって古への先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより諸時代が統一させられていることを、信仰により叡知において観取しており、見られるものが現れないものども[神の言葉]に基づくことを知るに至る。
信仰によってアベルはカインに比し一層多くの捧げものをしたが、神ご自身がその贈りものを承認することによって、その信仰を介して正しい者であることが証された。アベルはその信仰を介して死んだが、彼は今なお語っている。(省略・・)
信仰によってノアはまだ見ていないものごとについて、神に警告されたとき、心に留めそして彼の家族を救うべく箱舟を建造したが、その信仰を介して彼は世界を審判した、そしてその信仰に即した義を介して受け継ぐ者となった。信仰によって、アブラハムは呼び出されると彼が受け継ぐことになる場所に出ていくべく従ったが、彼はどこに行くか知ることなしに出立した。信仰によって彼は、同じ契約の受け継ぎ手であるイサクとヤコブと共にあたかも他国に宿るように天幕(テント)で生活し、約束の地に滞在した。・・・この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束[イエス・キリスト]を受けとならかった。神はわれらのために、さらに優ったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結される(teleiōthōsin)ことがないためである」(Heb.11:1-40)。
旧約から新約を貫く一つの道とは信仰であった。神へのこの信の正しさがイスラエルに一本道を歩ませ、「統一される」歴史を刻むことを可能にした。千年近く書き溜められた文書の集まりである所謂「聖書」はこの一貫した歴史を基礎にして、選びの民を介した神とひととの交わりを報告し、そして神とひととの分け隔てを取り去り救いをもたらすイエス・キリストを救世主として告げ知らしめている。
5律法からの解放
神は認知的、人格的に十全、「完全」であり、「神の信」に基づき正義にして憐れみ深い(Mat.5:48,Rom.3:3)。神が正義にして憐れみ深いことが御子の受肉と信の従順の生を介して、歴史のなかでしかもわれらの心魂の外に、神の信義および愛として啓示された。それにより、人類に救いが到来した。このわれらの外に救いが固く立っている、それだけで、或るひとにはもう満足であり、おのれにかかずりあう肉の重さ、おのれの救いや有徳性へのこだわりましてや律法が明らかにする過去の罪とそのトラウマからも解放され、ただ外にある救いを喜ぶことであろう。ダビデのような「不敬虔な者を義とする方」はご自身の業の律法のもとでは「働きがなく」罪人と看做される者を福音のもとで「彼らの背きを彼ら自身において考慮することなく」信に基づき義とする(Rom.4:5, 2Cor.5:19)。
「ヘブライ人への手紙」の著者はエレミヤを引きつつこう語る。「この方[キリスト]は罪人たちの代りに永続的に一つの献げものを捧げたまうたことによって、神の右の座に座したまうた。・・主は言われる「かの日々の後に、わたしが彼らに対し結ぶ契約はこれである、わが律法を彼らの心に与えそして彼らの思考のうえにそれらを銘記するであろう。そして彼らの罪と彼らの不法とについてもはやわたしは記憶に留めることはないであろう」。これらの赦しがあるところ、そこにはもはや罪についての献げものはない」Heb.10:12-18,Jer.31:31)。ここで「新しい契約」における「わが律法」とは信の律法に相違ない。さらに罪は記憶に留められず水に流される。そのとき「罪」は少なくとも罰せられる罪ではない
神はこの福音即ち古きひとの罪を赦すその出来事をわれらの外で十字架と復活のうえで実現された。モーセの業の律法がイエス・キリストの信の律法により凌駕された。そのわれらの外にある(extra nos)救いの喜びはわれらのうちにおける(in nobis)パトスの発動である。聖霊受領のひとつの証はおのれを離れて隣人を愛しうることにあるとされる。確かに肉の重さから解放され、右手で為す良き業を左手に知らせない仕方で遂行されるとき、ひとはそこに神の力能の働きに思いあたるであろう、心のふと軽くなるのを感じ喜びを見出すことであろう。
6信仰義認
パウロは福音の啓示の報告に基づき、「われら」のことがらとしてその啓示からの帰結、所謂「信仰義認論」を理論的一般化において展開する。そこでは「われらは、人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する」(Rom.3:27)という仕方で自らの判断を展開する。
「神はひとり」である以上、福音は普遍的であり割礼のユダヤ人も無割礼者も信によって義と看做される。信仰による義は業の律法に基づく義を排除するが、業の律法が神の意志である限り、廃棄されることはなく、義認の否定という間接的な仕方で義認を実現させる福音を指し示す役割を持つ。「キリストは信じるすべての者にとって義に至る[業の]律法の目指すものである」(10:4)。パウロは信仰義認論を展開し業の律法の役割を「確認する」(3:31)。
「それでは、どこに誇りはあるか、締め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。かくして、われらは、人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして無割礼者をも義とするであろうなら。それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」。
ここで異邦人である業の律法を満たさない無割礼者は「その[イエス・キリストの]信を媒介にして」義と看做される。異邦人は神の義の啓示が「イエス・キリストの信」を媒介にして遂行されたことを信じその信仰が神に嘉みされることによって義と看做される。割礼者であるユダヤ人も、アブラハムやダビデの先駆的信仰に基づく義認に見られるように、各人の「信に基づき」義と看做される。すべての者が信に基づき義とされるのは「神はひとりであり」、神は「ユダヤ人だけの神」ではなく「異邦人たちの神でもある」からである。
パウロは命じる、「汝らは主イエス・キリストを着よ、そして欲望どもへの肉の計らいを為すな」(13:14)。「着る」とは神の前に立つとき、われらがわれらをわれら自身において考慮することなしに、彼の義を着ている限り、つまりその信が嘉みされている限り、たとえ自らの内面が清められていなくとも、自らの業(わざ)の実力にかかわらず、神は罪と死に勝利したキリストの信義に基づく愛においてわれらを見たまうということである。
信仰義認をめぐる「ガラテア書」の並行箇所では「わたし」が霊感づけられた魂において直裁に語る、キリストの信が到来した故にキリストは自らの中で彼我を分離することのない仕方で実働している、と。それゆえに、並行箇所ではパウロの主張は「神の子の信」をパウロ自らの信仰との同化のなかで生きていると告白している今・ここの働き(エルゴン)言語として解釈しなければならない。
パウロは言う。「われらは自然本性においてユダヤ人であり、[業の律法を何らかの仕方で遵守しており]異邦人に基づく罪人ではない。しかし、ひとはイエス・キリストの信を媒介にしてでなければ、業の律法に基づいては義とされないことをわれらは知っているので、われらもまたキリスト・イエスを信じた、それはわれらがキリストの信に基づきそして業の律法に基づかず義とされるためである。というのも、すべての肉は業の律法に基づいては義と看做されないであろうからである。しかし、もしわれらがキリストにおいて義とされることを求めつつ、われら自身もまた[業の律法に基づく者と同様に]罪人であると見出されたなら、それではキリストは罪に仕える者なのか。断じて然らず。というのも、もしわたしが廃棄したものども、それらをわたしが再び建てるなら、わたしは自らが違反者であることを証明するからである。というのも、わたしは神によって生きるために、[信の]律法を介して[業の]律法に死んだからである。わたしはキリストと共に十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている。しかし、わたしは、今わたしが肉において生きているところのものを、わたしを愛しわがためにご自身を引き渡した神の子の信によって、信において生きている。わたしは神の恩恵を無駄にしない。というのも、もし義が[業の]律法を介するものであるなら、キリストは空しく死んだことになるからである」(Gal.2:15-21)。
パウロの「ガラテア書」におけるこの今・ここのエルゴン言語の使用は、「ローマ書」における神学の体系的展開における信仰による義認の提示とは、文脈が異なる。「ガラテア書」では、パウロは、彼自身が建てた教会に対して教えていたことの確認を遂行している。それ故に、彼はその言葉と行為においてより一層直截である。他方、「ローマ書」においてキリストの信の媒介が強調され、「わたしにおいてキリストが生きている」という同化は見られない。しかし、聖霊がそこにおいて執り成していると理解することを妨げるものは何もなく、「キリストがわたしを介してロゴス(言葉)によってそしてエルゴン(働き)によって成し遂げたこと」(Rom.15:18)を報告するというパウロの方法論のもとにおいて、彼は自覚として聖霊の執り成しのなかで信仰義認論を展開している。とはいえ肉の弱さに譲歩するなら、「ローマ書」3:27-31はパウロによるあらゆる人間の「神はひとりである」という普遍的な認識のもとに、誰もが信に基づき罪赦され「義を受け取る者たちである」という主張の展開であると捉えることができる。
「ガラテア書」における「わたし」におけるパウロ個人の今・ここの語りも義認は業の律法を介するものではなく、キリストを介するものであると普遍化されている。そこでは「ローマ書」における知恵の説得的議論と実質的には同じ一つの結論が導出されている、ただし、「わたしは神の恩恵を無駄にしない。というのも、もし義が[業の]律法を介するものであるなら、キリストは空しく死んだことになるからである」とキリストの死を無駄にしないというパウロの個人的な自覚のなかで業の律法からの解放を確認している。「五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:5-6)。
結論
信の律法は業の律法からの解放を告げており、解放された魂の場所には「キリストイエスにおける生命の霊」が宿る。永遠の生命の喜びがそこにある。心を理性主導の律法により占めるとき、この生命に与ることはできない。解放されよう。
罪の誘惑(6)苦悩から葛藤へ(1)
日曜聖書講義6月12日
罪の誘惑(6)苦悩から葛藤へ(1)
「ローマ書」七章
[この春は罪の誘惑について7章7章を取り上げ取り上げ、繰り返ししかし、視点を変えながらとりくとりくんでいるいる。翻訳はいずれの週もどういつせ同一である]。]
律法の新たな位置づけ (1-6節)
それとも、兄弟たち、われは律法を知る者たちに語りかけているのであるが、汝らは知らぬか、律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時であると。二なぜなら、既婚の婦人は生存している夫に律法により縛られているのだから。しかし、もし夫が死ねば、彼女は夫の律法から解放されている。三だからそれ故、夫が生きているあいだに、他の男のものになるなら「姦通者」と呼ばれるであろう。しかし、夫が死ねば彼女は律法から自由であり、彼女が他の男のものになっても姦通者ではない。四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている。
第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」
七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。
第二議論「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」
一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法背反]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。
1.葛藤と苦悩の種類
ひとは苦しむとき、それは望ましいものとしては一般に受け取られることはない。「ローマ書」七章は、「惨めだ、われ、人間」という叫びをあげる苦しみの正体を分析し、今・ここで「わたし」の肉のうちに巣食っている罪をあぶりだしている。苦悩はひとつの心理状態であり、自ら明確に何により苦しめられているか明らかでないことがある。実際にはそれは何かと何か対立するもののあいだに生じる意識であり、対立項が二項であれ三項であれ明確なものである限り「葛藤」と呼ぶことができる。葛藤はやはり苦悩と同様の意識状態であるが、対立項がはっきりしているとき、語られる。
一般に数種類の苦悩そして葛藤を挙げることができる。(1)生存上の苦悩。今、ウクライナで行われている非道なロシアの侵攻は国民に生存するか死ぬかの苦悩を与えている。これは動物たちが捕食者に襲われているときの必死の逃亡と苦悶の表情に確認できる。人間も自らの生存を脅かす者にであうと、パニックに陥いる。生物にとって、「生きることは死ぬことよりより善いことである」(アリストテレス)が大前提となる。生命の維持成長をめざすことが生物にはプログラムとして組み込まれている。例えば、外的損傷にともない生じる痛みは身体が生存のため、外傷と戦っていることに伴う苦痛である。病気やけがなど、生存をかけた心身の苦悩は生物上のそれとして一つの種類を形成している。
アリストテレスは幸福な人間には死が苦痛となると言う。「勇気ある人がこの徳(苦痛に耐える力)をいっそう十全にそなえ、いっそう幸福であればあるほど、その人は死を心苦しく感じるであろう。なぜなら、そのような人にとって生きることはもっとも価値あることであり、しかもその人には、さまざまなもっとも善いものが奪われるとわかりながらそうした善いものが自分から奪われるがゆえに、自分の死は、苦しいことだからである。しかし、このことでその人がわずかでも勇気をくじかれるということはなく、おそらく、かえっていっそう勇気ある人となるのである。なぜならあのようなもろもろの善いものを代償代償として、戦争における美しさを選ぶからである」(『ニコマコス倫理学』第3巻9章1117b10ff)。生存上の苦悩はこれらからの回復或いは死により、この種の苦悩は消失する。
(2)経済上の苦悩。生活に支障をきたし、生存を脅かす貧困は苦悩をもたらす。これは(1)の生存上の苦悩に繋がるものであり、この窮境からの脱出は労働により試みられる。経済的な余裕ができた時点で、この苦悩は消失する。さもなければ生存ギリギリの生物的な苦悩へと移行する。
(3)さらに、道徳上の苦悩が挙げられる。これは広いくくりであり、幾つかに分けられる。遠藤周作の『海と毒薬』のなかに、医師戸田は自らの良心の苦悩の発動のなさに、実存(心魂の根底)に何も確かなものがないのではないかという不安を覚える。自らの行為がいかに醜悪であるかは認識できるが、隠蔽し世間に明るみにでない限り、いつの間にか安堵を覚える。これは世間との共知(con-science)として良心(conscience, sun-eidesis)が捉えられている。これは世間から暴露され糾弾され、信用を喪失することへの恐れで葛藤である。ここでは対立項が明確であり、本来そうあるように演じたい自己やそう思われたい自己と世間にさらされる実力なき自己のあいだの葛藤として表現されよう。実際の糾弾や喪失に伴う苦悩が生じるとき、そこには葛藤はもはやなく、白日のもとにさらされる自己に対する羞恥とそれに伴う苦痛が生じる。
(4)アリストテレスは常に目先の快楽を追求する人間を「放埓」と呼ぶ。放埓な人間を示す指標は欲望の大きさというよりも、欠乏充足モデルのなかで欲望を充足できないときに生じる苦痛の大きさが、その者の心魂の態勢、実力として欲望が理(ことわり・ロゴス)に服していない放埓さを明らかにするとされる。彼は言う、「以上から快楽にかんする超過が放埓さであり、それが非難に値するものであることは明らかである。しかし、苦痛に関しては、病気の場合のようにはいかず、苦痛に耐えることで節制の人と呼ばれたり、耐えないことで放埓な人と呼ばれたりするわけではない。放埓な人はむしろ、快いものが手に入らないことに必要以上に苦しむがゆえに放埓だと言われ(そして、放埓な人のこの苦痛を生みだしているのも当人の快楽なのである)、節制の人は、快いものがなかったり控えたりしても苦しまないがゆえに、節制があると言われるのである。こうして、放埓な人はあらゆる快楽、あるいはもっとも快いものを欲しており、またその欲望ゆえに、ほかの様々な快いものをなげうってその快楽を選ばずにはいられないのである。それゆえ、こうした人は、欲しい快楽が手に入らないばあいでも、快楽を欲している場合でも苦しむ。なぜなら、欲望には苦痛が伴うからである」(『ニコマコス倫理学』第3巻11章1118b26ff)。
ここで明らかにされる苦悩は自らが貪欲で強欲な人間であることからくる苦悩である。節制ある人間になろうとしない限り、欲望に伴う苦悩から解放されない。おのれの欲深さを知ることが求められている。
(5)アリストテレスは意志の弱さがもたらす苦悩を分析している。ひとは現在為すべき最善の判断をもちながら、快楽への欲望に負けて、他の行為を選択することがある。そこに葛藤が生じる。そしてそれを後悔するなら、その者は「意志の弱い者」と呼ばれる。放埓者との異なりは放埓者は快楽への追求こそ至上善であると確信しているため、そこに葛藤は生ぜず後悔が生じない。ただ、何故かを知らず、欲望を充足できないこと、欲望が生じることに苦痛を感じてはいる。何であれ欠乏は苦しいものだからである。
意志の弱い人間は欲望の強さにまた欲望が満たされない欠乏とのあいだに葛藤があり、後悔もある。それは何らかの仕方で為すべき最善の判断を知っていると思うからである。ソクラテスは主知主義を標榜し、「ひとは自ら進んで悪を為すことはない」と語るとき、悪とは誰もが避けたいものだという理解がある。最善のものは追及すべきものであり、善である。それ故に、或る行為を善と知りつつそれを行わないということは想定できず、意志の弱さは存在しない。ただことがら、状況への無知のみがあるとされる。かくして意志の弱さの克服の一つの道は節制ある人がそう振る舞うように振る舞い、節制ある人間になるか、ものごとをよく知り、無知から解放されるかの道が残される。いずれも必要とされるであろう。
(6)パウロが「ローマ書」7章で展開する葛藤は道徳上の苦悩のひとつと言える。この葛藤を解明するが、これまでの葛藤や苦悩とは異なり、パウロは、葛藤を肯定的なものと受け止めていることである。われと律法と罪の三つ巴の葛藤が福音に追いやる機能を担っていると主張している。
2.パウロにおける葛藤の普遍性
福音により業の律法から解放されたことを受けて、パウロは「ローマ書」7章で律法の新たな機能・役割を提示している。それは誰であれ(「汝貪るな」と律法により語り掛けられる)「われ」と「罪」と「律法」の三つ巴の葛藤を引き起こすものとしての新たな役割であった。「わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す」(Rom.7;18-20)。律法は善であるが、それを為そうとしても為すことができない自己を見出す。罪が私をかどわかして悪を為さしめるという。もはや自分の力の及ばない超自然的な罪の力によるものであり、自らにもはや責任はないと言っているように見える。ちょうどある種の遺伝子が自らを支配しており、あたかも自分が犯罪に身を染めるのは自分ではなく、自分を支配している遺伝子だと言うかのごとくである。
パウロは罪の責任、帰責は当然各自にあると主張している。信の根源性を否定するユダヤ主義者たちはパウロの信仰義認論を非難して善を来たらすために不義を為そうと罪を礼賛する。「七しかし、もし神の真実がわが偽りにおいてご自身の栄光へと彌や優ったのなら、何故われなお罪人として裁かれるのか。八そしてわれらはこう中傷されているのではないのか、すなわち「善きことどもが来るために、われらは悪しきことどもをなそう」とわれらが語っていると或る者たちが主張しているように。審判がそのものたちにあることは正当なことである」(Rom.3:7-8)。帰責は審判というかたちで正確に一切を知る神によりとらされる。罪の誘惑に同意している限り、帰責は免れない。
他方、律法の新しい機能は葛藤させることであった。罪の手下になることはわれらの責任である一方、葛藤の表現としては、望んでいない死を成就している自分は自分の力以外のものに支配され屈従していることになり、この事実を確認しなければならない。「もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる」(Rom.7:16-17)。この罪の支配への隷属の認識なしには救いを求める葛藤はおきない。一時的にそのような自らの力の及ばないものを引き寄せることはあっても、その罪から解放されうる者である限りにおいて、この葛藤が信仰をもっても常に続くということを含意しない。律法を差し向けられた場合に、罪は文字としての律法に寄生するため、このような葛藤が引き起こされるのである。
あくまでも人類の歴史に悪は偶然的に入ったものであり、偶然的である以上、悪から解放されうるものである。それが福音の勝利である。そしてパウロはキリストにあってつまりあの十字架と復活の出来事は神の人間認識を伝えるものであったのであり、キリストにある限り罪は処分されており、罪から解放されてしまっている。他方、肉において途上の生を生きているものである限りにおいて、業の律法のもとに生きることは起きるのであり、そのとき罪の誘惑にあう。信の律法のもとにあり、「キリスト・イエスにある生命の霊」(Rom.8:2)とともにあるとき、罪は決して寄生できない。キリストは罪とその値である死に勝利したからである。「わが兄弟たち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:4-6)。
「汝貪るな」と律法をつきつけられ、「われ」は応答する。パウロは律法の新しい機能として罪は文字としての律法には寄生することができ、その文字としての律法を介して誘惑し生物的な死そして最終的に神の前での死を画策するとが、そこに罪と文字としての律法とわれのあいだに葛藤を引き起こさせることが挙げられる。神の意志である霊としての律法が葛藤を引き起こす。この律法の新しい機能を証明すべく登場するのが「われ」であり、それはパウロであれ、誰であれ律法のもとに生きる者が指示されている。
この「われ」の虚構説はキュンメルによっても主張されている。Werner Georg Kummelは自らの先駆としてAmbrosiasterやPelagiusを引用してこう主張する。「この章句全体の意図は、パウロの単なるひとつの純粋な個人的な体験としてより以上のものである場合に、なるほど律法の弁明に関わる、そしてただそのとき記述されているものを証明にもたらすことができる。この見解の主唱者たちはそれ故に常にはっきりと強調して表明したのは、パウロは彼の固有の体験のこの記述を型として(als typishe)採用しているということ、そして一つの体験を、すなわち律法のもとにあるすべてのユダヤ人にとって或いはすべての人間一般に等しい仕方で適用していることである」(Das Subjekt des 7.Kapitels des Romerbriefs, Inaugural-Dissertation zur Erlangung der Doktorwurde der Theiologischen Fakultat der Universitat Heidelberg S.84, 1929)。この「われ」はパウロであっても、誰であっても、律法のもとに生きる者は罪の誘惑とこのように葛藤すべしということが教えられている。
3.アリストテレスの放埓者と罪の葛藤者そして神への反抗者
アリストテレスは放埓な人間の葛藤には律法の善性が参与することはないように見える。他方、放埓者は放埓をそれ自身として求め、欲求することはなく、快を求めていることが分析される。「放埓な者は快いものが手にはいらないことに必要以上に苦しむがゆえに「放埓」と言われる。そして放埓な者のこの苦痛を生みだしているのも当人の快楽なのである。節制の人は、快いものがなかったり控えたりしても苦しまないがゆえに、「節制がある」と言われるのである」(Nic.Eth.3:11,1118b30)。アリストテレスは魂の有徳と悪徳は各人の力の及ぶものであり、責任ある自由のもとにあると主張する。過剰に快を求めるとき、その欠乏における苦も過剰となる。そこでの葛藤は欠乏充足モデルのなかでいかに欲望を満たすかをめぐる。そこでは悪徳のただなかでの、葛藤となる。善と悪のつまり律法の善と罪の誘惑とそのあいだにはさまれるわれの三つ巴ではない。
パウロによればこのアリストテレスにおける放埓者は確かに自らの責任が問われるものであるが、今・ここで暗躍している罪の誘惑への顧慮がなされていなことになる。アリストテレスは人間類型として放埓者や意志の弱い者を分類したが、パウロはフィクションのなかで、今・ここの三つ巴の葛藤を描き出している。罪は今・ここで「わがうちに巣食っている」。従って、罪が寄生しないことも想定されている。福音が明確にキリストのうちにわれらの救いを確立した以上、罪の誘惑にさらされているときは、ひとは誰であれこのように葛藤すべしと、律法の新たな機能を提示していると語ることができる。
そのとき、神との共知としての良心がめざめることもあろう。律法が突き付けられることにより、われらの「内なる人間」が発動し、こういう仕方で「ああ、惨めだ、われ、人間。誰がこの死の体から救い出すのか」と叫ぶにいたる。この章がパウロの個人的経験に帰すとき、様々な矛盾が生じる。そのためこの章はフィクションであるが、すべてのひとに今・ここに起こりうる現実として、しかも業の律法のもとにある者にはそこから解放されるべく、こう苦悩すべき肯定的な現実として描かれている。
なお、パウロはアリストテレスの放埓者に対応する、後悔もしなければ、7章の意味での葛藤もない人間をも描いている。「二八彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した。二九彼らはあらゆる不義で邪悪な悪しき欲望に満たされ、妬み、殺人、喧嘩、裏切り、卑しさに満ちた者である。三〇悪口する者、神を憎む者、高ぶる者、自惚れる者、見せかけの偽り者、悪をたくらむ者、親に不従順な者、三一悟りなき者、不忠実な者、愛情なき者、無慈悲な者である。三二彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけでなく、行う者たちを是認さえしている」(Rom.1:28-32)。ここでは放埓な者は「彼らはあらゆる不義で邪悪な悪しき欲望に満たされている」と描かれている。その者たちにおける欲望がもたらす苦悩については記されてはいない。或る意味ではもっと罪と同化し心魂が破壊された者たちを描いている。放埓な者の欲望を満たしえないことへの苦悩は自らの基本的な心魂の在り方への反省につながるかもしれない。その意味で「ローマ書」7章との親近性はある。他方、ここで描かれている自覚的に神に反抗する者たちは神の義の要求を知りつつそれに挑みつつ人々を誑かし神への反抗を助長しようとしている。
とはいえ、当然神への反抗者たちも良心をポテンシャルとして備えており、終わりの日の審判に立たされ、何らか自己弁明を企てるとされる。「彼らは誰であれ自らの心のなかに律法の業が書かれてあることを証明するが、それは自らの良心が[律法と]共同の証人となり、そして算段に基づき自らのあいだで互いに告発しまた弁明することによってであるが、それは、或る日、神がキリスト・イエスを介したわが福音に即してひとびとの隠れたことがらを審判するときである」(2:15-16)。
アリストテレスの放埓者もパウロの神への反抗者もいつの日にか苦悩を経験する。そしてそれが救いへの糸口なのである。
罪の誘惑(5)「われ」とは誰か?(2)
日曜聖書講義6月5日
罪の誘惑(5)「われ」とは誰か?(2)
「ローマ書」七章
律法の新たな位置づけ (1-6節)
それとも、兄弟たち、われは律法を知る者たちに語りかけているのであるが、汝らは知らぬか、律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時であると。二なぜなら、既婚の婦人は生存している夫に律法により縛られているのだから。しかし、もし夫が死ねば、彼女は夫の律法から解放されている。三だからそれ故、夫が生きているあいだに、他の男のものになるなら「姦通者」と呼ばれるであろう。しかし、夫が死ねば彼女は律法から自由であり、彼女が他の男のものになっても姦通者ではない。四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている。
第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」
七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。
第二議論「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」
一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法背反]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。
(先週、5月29日には「われとは誰か」の議論が途中に終わったため、本日も続きを読む。ただし、葛藤についても新たに議論を展開する)。
0.自らの力の及ぶものと「わがうちに巣食う罪」
パウロは、福音により業の律法から解放されたことを受けて、7章で律法の新たな機能・役割を提示している。それは誰であれ(「汝貪るな」と律法により語り掛けられる)「われ」と「罪」と「律法」の三つ巴の葛藤を引き起こすものとしての新たな役割であった。「わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す」(Rom.7;18-20)。律法は善であるが、それを為そうとしても為すことができない自己を見出す。
罪が私をかどわかして悪を為さしめるという。もはや自分の力の及ばない超自然的な罪の力によるものであり、自らにもはや責任はないと言っているように見える。ちょうどある種の遺伝子が自らを支配しており、あたかも自分が犯罪に身を染めるのは自分ではなく、自分を支配している遺伝子だと言うかのごとくである。パウロは罪の責任、帰責は当然各自にあると主張している。信の根源性を否定するユダヤ主義者たちはパウロの信仰義認論を非難して善を来たらすために不義を為そうと罪を礼賛する。「七しかし、もし神の真実がわが偽りにおいてご自身の栄光へと彌や優ったのなら、何故われなお罪人として裁かれるのか。八そしてわれらはこう中傷されているのではないのか、すなわち「善きことどもが来るために、われらは悪しきことどもをなそう」とわれらが語っていると或る者たちが主張しているように。審判がそのものたちにあることは正当なことである」(Rom.3:7-8)。帰責は審判というかたちで正確に一切を知る神によりとらされる。罪の誘惑に同意している限り、帰責は免れない。
他方、律法の新しい機能は葛藤させることであった。罪の手下になることはわれらの責任である一方、葛藤の表現としては、望んでいない死を成就している自分は自分の力以外のものに支配され屈従していることになり、この事実を確認しなければならない。「もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる」(Rom.7:16-17)。この罪の支配への隷属の認識なしには救いを求める葛藤はおきない。一時的にそのような自らの力の及ばないものを引き寄せることはあっても、その罪から解放されうる者である限りにおいて、この葛藤が信仰をもっても常に続くということを含意しない。律法を差し向けられた場合に、罪は文字としての律法に寄生するため、このような葛藤が引き起こされるのである。
あくまでも人類の歴史に悪は偶然的に入ったものであり、偶然的である以上、悪から解放されうるものである。それが福音の勝利である。そしてパウロはキリストにあってつまりあの十字架と復活の出来事は神の人間認識を伝えるものであったのであり、キリストにある限り罪は処分されており、罪から解放されてしまっている。他方、肉において途上の生を生きているものである限りにおいて、業の律法のもとに生きることは起きるのであり、そのとき罪の誘惑にあう。信の律法のもとにあり、「キリスト・イエスにある生命の霊」(Rom.8:2)とともにあるとき、罪は決して寄生できない。キリストは罪とその値である死に勝利したからである。「わが兄弟たち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:4-6)。
この「われ」の虚構説はキュンメルによっても主張されている。この「われ」はパウロであっても、誰であっても、律法のもとに生きる者は罪の誘惑とこのように葛藤すべしということが教えられている。
アリストテレスは放埓な人間は目先の快を追求する者であり、欲望の超過している者である。彼らは欲望が満たされないことに著しい苦痛を感じる者であることが分析されている。ここにも葛藤は見いだされる。この葛藤には律法の善性が参与することはないように見える。他方、放埓をそれ自身として欲求することはなく、快を求めていることが分析される。「放埓な者は快いものが手にはいらないことに必要以上に苦しむがゆえに「放埓」と言われる。そして放埓な者のこの苦痛を生みだしているのも当人の快楽なのである。節制の人は、快いものがなかったり控えたりしても苦しまないがゆえに、「節制がある」と言われるのである」(Nic.Eth.3:11,1118b30)。アリストテレスは魂の有徳と悪徳は各人の力の及ぶものであり、責任ある自由のもとにあると主張する。過剰に快を求めるとき、その欠乏における苦も過剰となる。そこでの葛藤は欠乏充足モデルのなかでいかに欲望を満たすかをめぐる。そこでは悪徳のただなかでの、葛藤となる。善と悪のつまり律法の善と罪の誘惑とそのあいだにはさまれるわれの三つ巴ではない。
しかし、誰にも良心がある限り、そこから放埓な者は自らの苦しみの源にある自己の醜悪さに気づくこともあろう。「良心」については来週以降論じる予定である。
(5月29日に予定していた講義内容)。
1 七章の問題の所在
パウロの信仰義認論つまり信の根源性に立ち帰るだけで罪赦され、信仰+行い(+アルファ)ではないというパウロの主張はユダヤ主義者、律法主義者、律法遵守者と当時論争を引き起こしこた。彼らはパウロの信仰義認論からの帰結として、どんなに不義であっても信じるだけで罪赦されるなら、われらの不義は神の義に貢献している、善をもたらすために悪を為そうと反論していた。「もしわれらの不義が神の義を確立するなら、われらは何と語ろうか。怒りをもたらす神は不義ではないのか。人間的にわれ言うのだが。六断じて然からず。なぜなら、その場合には、神はいかに世界を審判するのか。七しかし、もし神の真実がわが偽りにおいてご自身の栄光へと彌や優ったのなら、何故われなお罪人として裁かれるのか。八そしてわれらはこう中傷されているのではないのか、すなわち「善きことどもが来るために、われらは悪しきことどもをなそう」とわれらが語っていると或る者たちが主張しているように。審判がそのものたちにあることは正当なことである」(Rom.3:5-8)。
このような律法違反への勧めに対し、パウロは律法の新たな役割を明らかにしなければならなかった。そのために「ローマ書」七章で律法は善なるものであること、そして善である律法が死をもたらしたわけではなく、罪が文字としての律法に寄生しひとを欺き生物的な死をもたらしたこと、さらに神に反抗させ魂の滅びを画策していることを明らかにしている。律法は罪の醜悪さを暴き出す役割を持つに至る。
七章における罪の誘惑とその葛藤についてさらに詳細に取り組む。ひとは自らの生の第一段階としてつまり最初のひとアダムと同様に肉において魂体として生きる。「最初の人アダムは生きる魂となった」。魂という生命原理の基礎のうえに生存欲求の主体である肉と永遠なものを欲求する霊が身体を用いる。パウロは「われらは肉に対し肉に即して生きる義務ある者にあらず」(8:12)と肉の自己救済の不可能性を警告している。自然的には、免疫反応に見られるように、自己と非自己を識別しつつ、非自己である外界をたくみに自己に取り組みながら、また排除しながら、生物は生きている。人間は、自己の身体の限界が自己の限界であると時間と空間の制約を当然のこととして受け入れがちであるその事実、そしてそのもとに「生きる義務ある者」(8:12)と見做しがちであるその事実、それが「肉の弱さ」(6:19)である。肉は被造物であり生きる限りその場に駐在せざるをえない制約のもとにあるところのものである。
七章は罪の誘惑のもとにある肉と叡知の葛藤の分析を介して、パウロの心身論を理解する好個の場所である。パウロはこの章で戒めや業の律法が差し向けられる者の反応はいかなるものであるべきかを明らかにしている。まず七章における「われ」との関連で「肉」を考察する。
七章はユダヤ主義者との二つのディアトリベー(談論風発)を持つ。第一議論において、パウロは彼の信仰義認論への批判のひとつとして「律法は罪か」というユダヤ主義者の問いに、「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」(7-12)と呼ぶべき議論を展開する。続いて、彼は第二議論において「善なるものが死となったのか」という問いには、彼は罪の罪性を著しいものにする霊的な神の律法の提示を介して「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」 (13-25)と呼ぶべき議論を展開する。第一議論では過去時制が、第二議論では現在時制が用いられており、異なる議論として扱わねばならない。第一議論においては霊に対する言及がなく創世記のアダムの記事に基づき、知恵の説得が行われる。そこでは蛇を想起させることにより罪の擬人化の正当化を遂行し、罪の働きとして、罪は戒めに機会を捕らえひとを欺き生物的な死に追いやる。「われ」はそこでは葛藤が描かれず罪に同意し「罪の賃金」(6:23)としての死を受け取る。第二議論では、「われ」は罪に同化しきることなく、霊的な律法に対する今・ここの知識を持ちつつ、神の律法と罪の律法のあいだで葛藤する。前者では罪の誘惑に負けてしまった「われ」が描かれるが、後者では罪のもとに売られ葛藤のうちにある「われ」が描かれる。
パウロは福音の提示に続き、業の律法の新たな役割をこの章において明らかにする。パウロは言う、「キリストは信じるすべての者にとって義に至る律法のゴール(telos=目指すもの)である」(10:4,cf.「汝ら神に仕えており・・そのゴール(telos)は永遠の生命である」(6:22))。福音の提示により、律法はそこにおいて義が成立するキリストを目指すものとして、業の義から信の義にひとを追いやる新たな機能を明確な仕方で与えられたと言える。業の律法は神の意志である限りにおいて善であり、文字から霊に何らかの仕方で転化される限りにおいて、それは罪の苦悩をもたらし、福音に導く。「われ」とは意味論的分析によれば「汝貪るな」と命令形により語りかけられる者のことであり、背くこともできる責任ある自由のもとに生きる人間中心的な次元にいる自律的な一人の人間のことである。
2「われ」とは誰か
パウロは短く、凝縮された「ローマ書」七章において、罪を暴きだしている。この章で登場する「われ」とは誰かが争われてきた。印象深く述べられる「われ」とは何者であろう。原人アダムのようにも、モーセ律法のもとにあるユダヤ人のようにも、また福音に与ったパウロのようにも見える。なお、福音の恩恵に与った人間がこのような苦悩の叫びを挙げることができるのか、回心以前のパウロの自己認識の述懐なのではないか等が問われてきた。研究史上、現在形において苦悩するこの「われ」が実際パウロを指示しているのかが問われてきた。
Cranfieldは「われ」が指示する七つの可能性を提示して、パウロの(一)「自伝的なもの」であるないし(七)「キリスト者の経験一般」という立場に対する伝統的な困惑をこう説明する、「この困難さは、初期の時代からとても多くの人々に感じられてきたものであるが、キリスト者の人生についてのまったく暗い見解を含んでいる、とりわけ信徒の罪からの解放(6:6,14,17f,22,8:2)について言われていることと不整合であると思われてきた」。Cranfield, Romans I,p.345.しかし、Cranfieldはアウグスティヌスやトマス・アクィナスそして一六世紀の宗教改革者その他近年の註解者四人の名を挙げて、こう言う。「これらの解釈者たちがパウロの心を正しく理解してきたことをわれらは疑わない。というのも、(一)「自伝的」或いは(七)「キリスト者の経験一般」のいずれかの線にそってのみ、われらはテクストに対して正しく対処しうるからである。・・善を意志しそして悪を憎む「われego」において、nūs(叡知)(7:23,25)において、「内なる人間」(7:22)において、われらは、未だ回心していない人間の自己でも或いはその自己の或る部分をでもなく、神の霊によって新たにされうる人間的自己を確かに認めなければならない。実際、ここで記述されているほどの真剣な葛藤はただ神の霊が現在しかつ実働している場所においてのみ生じうるものである。・・一層キリスト者が神の律法について律法主義的な思考から解放されればされるほど、そして彼がそこへと召されている完全性の十全な輝きをより一層明晰に見れば見るほど、彼はより一層自らの継続的な罪深さ、彼の頑固な滲み通る自我意識・・について自覚的になるということは本当なことではないのか」。Cranfield, op.cit.,p.346f.
心的状態としてCranfieldが敬虔に苦悩の深まりを語るそのようなことは真実でもあろうが、心理主義的な所謂寝技に持ち込む前に為し得る分析は存在する。福音の啓示に基づき律法の機能を新たに考察したパウロは第二議論で律法はもはや文字としてではなくキリストを目指すものとして霊的なものとなり罪を暴きたて、罪の罪性を著しいものとして知らしめるものだという理解に到達している。第二議論ではパウロの自覚としては「われ」が誰であれ現在形により臨場感を保ちつつ、どんな「われ」にも妥当する仕方で今・ここの働き(エルゴン)として叡知(ヌース)の発動のなかで葛藤している、その現場の提示により「霊と力能の論証」(1Cor.2:4)を遂行していることを示したい。
この一連の二つの議論のなかで最低限確かなこととして語りうるのは律法が罪ではなく、死をもたらすものではないことを明らかにするために「われ」が登場することである。その目的が達し得るのであれば、パウロであっても、パウロでなくとも構わないと言うことができる。パウロはここで、誰を「われ」が指示するのであれ、最も基礎的に了解できることとして、「われ」とは彼の論敵たちが彼の信仰義認論の含意として律法が罪であり、善きものが死をもたらしたという反論を反駁する証明のなかで登場する人物のことである。戒めが「汝」と呼びかけたさいに、「われ」として応答する者のことである。ここではパウロの二つの論証の過程を誰にも理解しうるものとして共約的な次元で追跡する。そのため罪や霊が行為主体として言及される場合においても、相対的な自律した視点から譲歩された人間の視点で語りなおすことを厭わない。
3「われ」がもたらす臨場感―罪の奴隷から福音へ―
「われ」は「汝」と呼びかけられた「われ」が一つの虚構空間を形成しており、パウロでも誰でもないあるいは誰であってもよい「われ」がここに展開されている。「われ」は複層的な視点を持ちその都度の現在において推論を展開している者として描かれていることは確実である。今・ここの思考の展開により罪の欺きと律法の善性に基づく葛藤としての働き(エルゴン)が戒めの差し向けられたすべての「われ」に適用されるべく現在形で劇的に描かれている。「われ」は善なる律法と罪の三つ巴の一つの極として提示されている。この戦いは一人の個人の今・ここの具体的な認識そして行為であり、そのエルゴン言語を展開しているが、フィクションとしてのわれであって、歴史のなかにある特定の個人の経過を時系列において記述しているわけではないと理解する。第二議論の現在時制は誰であれ戒めが差し向けられ応答している「われ」であり、善きものが死となったわけではないことを論証していると理解すべきである。
他方、これらの複合的な出来事の個々の描写はそれぞれ各個人のそれぞれの現在において実際に程度の差こそあれ妥当する時点が存在するとパウロは主張していると言うべきである。彼は今・ここの働き(エルゴン)言語を普遍化しうるものとして常に展開している。さもなければ、議論は迫真性をもたないであろう。罪が欺いてわれが死を成し遂げているということを自覚しないことはある。ひとが死を生物的な与件と受け止めることは共約的であるが、これは罪からの支払・報酬であることを知らないだけでもあろう。そして誰も死を欲していない以上、それをする者はもはやわれではなくわが肉に巣食っている罪が為していることに同意することもできよう。
「内なる人間」と「肉的」これら双方から構成される者を「われ」は指示している。われは霊を受けているか、それとも良心の葛藤のうちにあるかであり、それ故に「肉に在る限り(inquantum carnalis)」(ルター)常に罪に欺かれているということは帰結しない。すべての者は罪を犯したので罪からの支払い、労賃として外なる人間は死を成し遂げている。それを生物の与件として受け止めているときは欺かれていようが、パウロのように「外なる人間」と「内なる人間」の双方の自覚のもとに受け止めている場合もあり、常に欺かれているわけではない。虚構のなかでの今・ここの働き(エルゴン)言語を、文脈を無視して一般化するとき聖霊の注ぎの神の自由を束縛することになる。「われ」は内なる人間に即して喜んで生きるという働きも十分に想定される。
罪が肉を常に支配しているか否かはこの論証の中心点ではない。従って、回心後の葛藤であるかも中心点ではない。この論証の成否を握っているのはどれだけ読者が罪の巧妙さに気付き、肉にはどうしても手に負えない威力を持っていることに同意できるかが問われていることである。これが共約されそしてそれにもかかわらず福音が罪に勝利したことを確認できるとき、論証は説得的なものになる。
「われ」は次の二つの記述(7:5,6と8:1,2)にはさまれている。パウロは「われらが肉にあった時(hote ēmen en tē sarki)、律法を通じての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。しかし、今や、われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えるべく、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された」(7:5,6)と述べ、福音の啓示により根源的な変革が起こり、肉、律法、罪、死そして霊を新たな枠のなかで理解すべきことを告げている。人間の側から語るとすれば、「今や、われらは・・」と語るパウロを含む「われら」は神の前とひとの前双方を生き抜いたキリストの媒介の働きの故に、神の前に霊の新しさにおいて義人として生きることができると主張している。これを一般的に言えば神とひとの肯定的な媒介であるが、聖霊の媒介のもとにある者はもはや単なる人間中心的次元にある者ではないため、「肉にあった」と過去形で語ることができる。ただし、これは(パウロの自覚として)聖霊の働きのもとにある今・ここのエルゴン言語であり、これを一般化することは聖霊の注ぎを私物化することである。
この文に続き「それでは律法は罪か」の問いとともに、「われ」が主語として立てられ章の終わりまで続き、八章冒頭の「かくして、今や、肉に即してではなく霊に即してキリスト・イエスにおいて歩む者たちにはいかなる罪の定めもない。なぜなら、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放したからである」(8:1-2)という記述によって神の律法による罪の律法に対する勝利が語られ、「われ」は終息、消滅している。
霊に即しキリスト・イエスにおいて歩む者は聖霊の働きにおいてある。それを説明するものが生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放したことに求められている。これは神の働きである。八章冒頭で「汝を」とあるのはもはや「われ」の苦悩は終息し、キリストの福音の出来事が業の律法からの解放をもたらした以上、「われ」に対し客観的な視点から「汝」と呼びかけ、神が解放したことを報告できるからである。「われ」の役割は終わった。だが、律法のもとに生きようとする者がいる限りこの「われ」の葛藤は有効である。かくして、律法から解放された二つの叙述のあいだに「われ」は登場し、二つの反論、ディアトリベーを乗り越え、やはり確立された福音に連れ戻す役割を担っていると言うことができる。
パウロがこの二つの論駁を通じて福音は罪に勝利したことを確認しているこの事実は、この箇所では福音以外にはこの罪の力能に打ち勝つものはないということを示すべく、いかに罪が巧妙でありひとを死にもたらすものであるかを説得的に示すことが一つの目標となる。パウロは自らの深刻な経験であったとしても何ら問題はないが、ここで罪の巧妙な力能がすべての人間に適用されるものであることを示している。「われ」はそのための登場人物であり、現在時制により具体的なエルゴンを表現することを通じて、回心前の者にも後の者にも信に関わらない者にも普遍的に妥当することが求められている
罪の誘惑(4)「われ」とは誰か?
日曜聖書講義5月29日
罪の誘惑(4)「われ」とは誰か?
「ローマ書」七章
律法の新たな位置づけ (1-6節)
それとも、兄弟たち、われは律法を知る者たちに語りかけているのであるが、汝らは知らぬか、律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時であると。二なぜなら、既婚の婦人は生存している夫に律法により縛られているのだから。しかし、もし夫が死ねば、彼女は夫の律法から解放されている。三だからそれ故、夫が生きているあいだに、他の男のものになるなら「姦通者」と呼ばれるであろう。しかし、夫が死ねば彼女は律法から自由であり、彼女が他の男のものになっても姦通者ではない。四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている。
第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」
七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。
第二議論「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」
一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法背反]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。
1 七章の問題の所在
パウロの信仰義認論つまり信の根源性に立ち帰るだけで罪赦され、信仰+行い(+アルファ)ではないというパウロの主張はユダヤ主義者、律法主義者、律法遵守者と当時論争を引き起こしこた。彼らはパウロの信仰義認論からの帰結として、どんなに不義であっても信じるだけで罪赦されるなら、われらの不義は神の義に貢献している、善をもたらすために悪を為そうと反論していた。「もしわれらの不義が神の義を確立するなら、われらは何と語ろうか。怒りをもたらす神は不義ではないのか。人間的にわれ言うのだが。六断じて然からず。なぜなら、その場合には、神はいかに世界を審判するのか。七しかし、もし神の真実がわが偽りにおいてご自身の栄光へと彌や優ったのなら、何故われなお罪人として裁かれるのか。八そしてわれらはこう中傷されているのではないのか、すなわち「善きことどもが来るために、われらは悪しきことどもをなそう」とわれらが語っていると或る者たちが主張しているように。審判がそのものたちにあることは正当なことである」(Rom.3:5-8)。
このような律法違反への勧めに対し、パウロは律法の新たな役割を明らかにしなければならなかった。そのために「ローマ書」七章で律法は善なるものであること、そして善である律法が死をもたらしたわけではなく、罪が文字としての律法に寄生しひとを欺き生物的な死をもたらしたこと、さらに神に反抗させ魂の滅びを画策していることを明らかにしている。律法は罪の醜悪さを暴き出す役割を持つに至る。
七章における罪の誘惑とその葛藤についてさらに詳細に取り組む。ひとは自らの生の第一段階としてつまり最初のひとアダムと同様に肉において魂体として生きる。「最初の人アダムは生きる魂となった」。魂という生命原理の基礎のうえに生存欲求の主体である肉と永遠なものを欲求する霊が身体を用いる。パウロは「われらは肉に対し肉に即して生きる義務ある者にあらず」(8:12)と肉の自己救済の不可能性を警告している。自然的には、免疫反応に見られるように、自己と非自己を識別しつつ、非自己である外界をたくみに自己に取り組みながら、また排除しながら、生物は生きている。人間は、自己の身体の限界が自己の限界であると時間と空間の制約を当然のこととして受け入れがちであるその事実、そしてそのもとに「生きる義務ある者」(8:12)と見做しがちであるその事実、それが「肉の弱さ」(6:19)である。肉は被造物であり生きる限りその場に駐在せざるをえない制約のもとにあるところのものである。
七章は罪の誘惑のもとにある肉と叡知の葛藤の分析を介して、パウロの心身論を理解する好個の場所である。パウロはこの章で戒めや業の律法が差し向けられる者の反応はいかなるものであるべきかを明らかにしている。まず七章における「われ」との関連で「肉」を考察する。
七章はユダヤ主義者との二つのディアトリベー(談論風発)を持つ。第一議論において、パウロは彼の信仰義認論への批判のひとつとして「律法は罪か」というユダヤ主義者の問いに、「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」(7-12)と呼ぶべき議論を展開する。続いて、彼は第二議論において「善なるものが死となったのか」という問いには、彼は罪の罪性を著しいものにする霊的な神の律法の提示を介して「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」 (13-25)と呼ぶべき議論を展開する。第一議論では過去時制が、第二議論では現在時制が用いられており、異なる議論として扱わねばならない。第一議論においては霊に対する言及がなく創世記のアダムの記事に基づき、知恵の説得が行われる。そこでは蛇を想起させることにより罪の擬人化の正当化を遂行し、罪の働きとして、罪は戒めに機会を捕らえひとを欺き生物的な死に追いやる。「われ」はそこでは葛藤が描かれず罪に同意し「罪の賃金」(6:23)としての死を受け取る。第二議論では、「われ」は罪に同化しきることなく、霊的な律法に対する今・ここの知識を持ちつつ、神の律法と罪の律法のあいだで葛藤する。前者では罪の誘惑に負けてしまった「われ」が描かれるが、後者では罪のもとに売られ葛藤のうちにある「われ」が描かれる。
パウロは福音の提示に続き、業の律法の新たな役割をこの章において明らかにする。パウロは言う、「キリストは信じるすべての者にとって義に至る律法のゴール(telos=目指すもの)である」(10:4,cf.「汝ら神に仕えており・・そのゴール(telos)は永遠の生命である」(6:22))。福音の提示により、律法はそこにおいて義が成立するキリストを目指すものとして、業の義から信の義にひとを追いやる新たな機能を明確な仕方で与えられたと言える。業の律法は神の意志である限りにおいて善であり、文字から霊に何らかの仕方で転化される限りにおいて、それは罪の苦悩をもたらし、福音に導く。「われ」とは意味論的分析によれば「汝貪るな」と命令形により語りかけられる者のことであり、背くこともできる責任ある自由のもとに生きる人間中心的な次元にいる自律的な一人の人間のことである。
2「われ」とは誰か
パウロは短く、凝縮された「ローマ書」七章において、罪を暴きだしている。この章で登場する「われ」とは誰かが争われてきた。印象深く述べられる「われ」とは何者であろう。原人アダムのようにも、モーセ律法のもとにあるユダヤ人のようにも、また福音に与ったパウロのようにも見える。なお、福音の恩恵に与った人間がこのような苦悩の叫びを挙げることができるのか、回心以前のパウロの自己認識の述懐なのではないか等が問われてきた。研究史上、現在形において苦悩するこの「われ」が実際パウロを指示しているのかが問われてきた。
Cranfieldは「われ」が指示する七つの可能性を提示して、パウロの(一)「自伝的なもの」であるないし(七)「キリスト者の経験一般」という立場に対する伝統的な困惑をこう説明する、「この困難さは、初期の時代からとても多くの人々に感じられてきたものであるが、キリスト者の人生についてのまったく暗い見解を含んでいる、とりわけ信徒の罪からの解放(6:6,14,17f,22,8:2)について言われていることと不整合であると思われてきた」[i]。しかし、Cranfieldはアウグスティヌスやトマス・アクィナスそして一六世紀の宗教改革者その他近年の註解者四人の名を挙げて、こう言う。「これらの解釈者たちがパウロの心を正しく理解してきたことをわれらは疑わない。というのも、(一)「自伝的」或いは(七)「キリスト者の経験一般」のいずれかの線にそってのみ、われらはテクストに対して正しく対処しうるからである。・・善を意志しそして悪を憎む「われego」において、nūs(叡知)(7:23,25)において、「内なる人間」(7:22)において、われらは、未だ回心していない人間の自己でも或いはその自己の或る部分をでもなく、神の霊によって新たにされうる人間的自己を確かに認めなければならない。実際、ここで記述されているほどの真剣な葛藤はただ神の霊が現在しかつ実働している場所においてのみ生じうるものである。・・一層キリスト者が神の律法について律法主義的な思考から解放されればされるほど、そして彼がそこへと召されている完全性の十全な輝きをより一層明晰に見れば見るほど、彼はより一層自らの継続的な罪深さ、彼の頑固な滲み通る自我意識・・について自覚的になるということは本当なことではないのか」[ii]。
心的状態としてCranfieldが敬虔に苦悩の深まりを語るそのようなことは真実でもあろうが、心理主義的な所謂寝技に持ち込む前に為し得る分析は存在する。福音の啓示に基づき律法の機能を新たに考察したパウロは第二議論で律法はもはや文字としてではなくキリストを目指すものとして霊的なものとなり罪を暴きたて、罪の罪性を著しいものとして知らしめるものだという理解に到達している。第二議論ではパウロの自覚としては「われ」が誰であれ現在形により臨場感を保ちつつ、どんな「われ」にも妥当する仕方で今・ここの働き(エルゴン)として叡知(ヌース)の発動のなかで葛藤している、その現場の提示により「霊と力能の論証」(1Cor.2:4)を遂行していることを示したい。
この一連の二つの議論のなかで最低限確かなこととして語りうるのは律法が罪ではなく、死をもたらすものではないことを明らかにするために「われ」が登場することである。その目的が達し得るのであれば、パウロであっても、パウロでなくとも構わないと言うことができる。パウロはここで、誰を「われ」が指示するのであれ、最も基礎的に了解できることとして、「われ」とは彼の論敵たちが彼の信仰義認論の含意として律法が罪であり、善きものが死をもたらしたという反論を反駁する証明のなかで登場する人物のことである。戒めが「汝」と呼びかけたさいに、「われ」として応答する者のことである。ここではパウロの二つの論証の過程を誰にも理解しうるものとして共約的な次元で追跡する。そのため罪や霊が行為主体として言及される場合においても、相対的な自律した視点から譲歩された人間の視点で語りなおすことを厭わない。
3「われ」がもたらす臨場感―罪の奴隷から福音へ―
「われ」は「汝」と呼びかけられた「われ」が一つの虚構空間を形成しており、パウロでも誰でもないあるいは誰であってもよい「われ」がここに展開されている。「われ」は複層的な視点を持ちその都度の現在において推論を展開している者として描かれていることは確実である。今・ここの思考の展開により罪の欺きと律法の善性に基づく葛藤としての働き(エルゴン)が戒めの差し向けられたすべての「われ」に適用されるべく現在形で劇的に描かれている。「われ」は善なる律法と罪の三つ巴の一つの極として提示されている。この戦いは一人の個人の今・ここの具体的な認識そして行為であり、そのエルゴン言語を展開しているが、フィクションとしてのわれであって、歴史のなかにある特定の個人の経過を時系列において記述しているわけではないと理解する。第二議論の現在時制は誰であれ戒めが差し向けられ応答している「われ」であり、善きものが死となったわけではないことを論証していると理解すべきである。
他方、これらの複合的な出来事の個々の描写はそれぞれ各個人のそれぞれの現在において実際に程度の差こそあれ妥当する時点が存在するとパウロは主張していると言うべきである。彼は今・ここの働き(エルゴン)言語を普遍化しうるものとして常に展開している。さもなければ、議論は迫真性をもたないであろう。罪が欺いてわれが死を成し遂げているということを自覚しないことはある。ひとが死を生物的な与件と受け止めることは共約的であるが、これは罪からの支払・報酬であることを知らないだけでもあろう。そして誰も死を欲していない以上、それをする者はもはやわれではなくわが肉に巣食っている罪が為していることに同意することもできよう。
「内なる人間」と「肉的」これら双方から構成される者を「われ」は指示している。われは霊を受けているか、それとも良心の葛藤のうちにあるかであり、それ故に「肉に在る限り(inquantum carnalis)」(ルター)常に罪に欺かれているということは帰結しない。すべての者は罪を犯したので罪からの支払い、労賃として外なる人間は死を成し遂げている。それを生物の与件として受け止めているときは欺かれていようが、パウロのように「外なる人間」と「内なる人間」の双方の自覚のもとに受け止めている場合もあり、常に欺かれているわけではない。虚構のなかでの今・ここの働き(エルゴン)言語を、文脈を無視して一般化するとき聖霊の注ぎの神の自由を束縛することになる。「われ」は内なる人間に即して喜んで生きるという働きも十分に想定される。
罪が肉を常に支配しているか否かはこの論証の中心点ではない。従って、回心後の葛藤であるかも中心点ではない。この論証の成否を握っているのはどれだけ読者が罪の巧妙さに気付き、肉にはどうしても手に負えない威力を持っていることに同意できるかが問われていることである。これが共約されそしてそれにもかかわらず福音が罪に勝利したことを確認できるとき、論証は説得的なものになる。
「われ」は次の二つの記述(7:5,6と8:1,2)にはさまれている。パウロは「われらが肉にあった時(hote ēmen en tē sarki)、律法を通じての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。しかし、今や、われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えるべく、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された」(7:5,6)と述べ、福音の啓示により根源的な変革が起こり、肉、律法、罪、死そして霊を新たな枠のなかで理解すべきことを告げている。人間の側から語るとすれば、「今や、われらは・・」と語るパウロを含む「われら」は神の前とひとの前双方を生き抜いたキリストの媒介の働きの故に、神の前に霊の新しさにおいて義人として生きることができると主張している。これを一般的に言えば神とひとの肯定的な媒介であるが、聖霊の媒介のもとにある者はもはや単なる人間中心的次元にある者ではないため、「肉にあった」と過去形で語ることができる。ただし、これは(パウロの自覚として)聖霊の働きのもとにある今・ここのエルゴン言語であり、これを一般化することは聖霊の注ぎを私物化することである。
この文に続き「それでは律法は罪か」の問いとともに、「われ」が主語として立てられ章の終わりまで続き、八章冒頭の「かくして、今や、肉に即してではなく霊に即してキリスト・イエスにおいて歩む者たちにはいかなる罪の定めもない。なぜなら、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放したからである」(8:1-2)という記述によって神の律法による罪の律法に対する勝利が語られ、「われ」は終息、消滅している。
霊に即しキリスト・イエスにおいて歩む者は聖霊の働きにおいてある。それを説明するものが生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放したことに求められている。これは神の働きである。八章冒頭で「汝を」とあるのはもはや「われ」の苦悩は終息し、キリストの福音の出来事が業の律法からの解放をもたらした以上、「われ」に対し客観的な視点から「汝」と呼びかけ、神が解放したことを報告できるからである。「われ」の役割は終わった。だが、律法のもとに生きようとする者がいる限りこの「われ」の葛藤は有効である。かくして、律法から解放された二つの叙述のあいだに「われ」は登場し、二つの反論、ディアトリベーを乗り越え、やはり確立された福音に連れ戻す役割を担っていると言うことができる。
パウロがこの二つの論駁を通じて福音は罪に勝利したことを確認しているこの事実は、この箇所では福音以外にはこの罪の力能に打ち勝つものはないということを示すべく、いかに罪が巧妙でありひとを死にもたらすものであるかを説得的に示すことが一つの目標となる。パウロは自らの深刻な経験であったとしても何ら問題はないが、ここで罪の巧妙な力能がすべての人間に適用されるものであることを示している。「われ」はそのための登場人物であり、現在時制により具体的なエルゴンを表現することを通じて、回心前の者にも後の者にも信に関わらない者にも普遍的に妥当することが求められている
[i] Cranfield, Romans I,p.345.
[ii] Cranfield, op.cit.,p.346f.
罪の誘惑(3)アダムの原罪物語とローマ書七章
第8回日曜聖書講義 2022年5月22日
罪の誘惑(3)アダムの原罪物語とローマ書七章
聖書箇所 創世記3章1-24節
ローマ書7章7-12節
第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」
七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。
1はじめに 悪の起源
ひとは悪がどこから来たのかそして今どこから来るのかを有史以来問うてきた。ひとには死や争い、犯罪や病気、憎しみなど否定的に思えることがらを「悪」と呼んできた。一般的には「ひとが避けるもの」それが「悪」であり、その対義語として、「ひとが求めるもの」それを「善」と呼んできた。そのひとなりの悪を避け、そのひとなりの善を求める心の在り方、それが人生の基本的な動力、導く力であるように思われる。善という価値が生を導くことを「目的論的」な人生観と呼ぶことができる。個々人により求めるものが異なる以上、善や悪について人類一般に妥当する理解は成立しないように思われる。ただ往々にそんなはずではなかったと後悔するという感情をひとは持つ。自らなりの善悪の経験の蓄積に応じて人類が蓄積した善悪の理論のいずれかに同意するということが起こる。聖書はそれについて明確な理解を「創世記」3章のアダムの原罪の神話そしてパウロによる「ローマ書」7章におけるアダム神話をもとにしての悪の起源の理解において展開している。
2悪は偶然歴史の中に入った
ひとは肯定的なものと否定的なもの、善と悪から宇宙に光と闇があるように、この二元的な対立からは逃れられないという考え方は道理あるように思える。しかしこの人間の生存以前からの宇宙の原理としての二元論は聖書の伝える理解ではない。神は宇宙を「光あれ」という言葉により創造し、この豊かな生態系を創造し「はなはだ良かった」と喜んだことが報告されている(Gen.1:1-30)。最初の人間アダムと妻エヴァは蛇の誘惑により神に背いた。神は祝福と戒めを与えた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」 (Gen.2:15)。蛇はこの神の言葉を契機にエヴァを誘惑する。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(Gen.3:5)。この決して死ぬことはないという蛇の応答は短期的には当たっているが、罰としての生物的死を与えられている以上、「食べると必ず死ぬ」という神の言葉は真実である。他方、目が開かれることを、ひとは「啓蒙」と呼ぶであろうが、道徳的な知識を持つ前の幼子のように親に信頼して生きるそのような生が失われることになる。神に立ち帰ることは信のもとに善悪の知識を秩序づけることであり、善悪を識別しないということではない。物語は進む。「女が見ると、その気はいかにもおいしそうで、目を惹きつけ、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(Gen.3:6-7)。そのことにより悪が人類に入った、それが悪の起源であるとされる。そこで生じたことは裸であることを恥じたことである。自分の身体に眼差しが向いたこと、すなわち自らに関心が向かったこと、それが神から背いた最初の反応である。神への眼差しを忘れ或いは恐れ、神から逃れ隠れるにいたった。
2 悪の非本来性
悪の起源が神に背くことにあるという理解は悪というものが神によって創造された人間にとって非本来的なもの、人間の本性に即さない逸脱した状態であるという理解につながる。エヴァは蛇の巧みな言葉に惑わされないこともできた。もしアダムが神に背かなければという問いに対しては、誰もが蛇あるいは「ローマ書」的には罪の誘惑を受けており、誰もが最初の罪人になる可能性のもとにあると応答できる。そのなかで、悪の責任は、確かに蛇や罪の誘惑がなければ神に背かなかったかもしれないが、あくまでも創造主に対して忠実であることができたアダムや個々人の側にあるということが導かれる。悪はどこまでもわれわれ個々人の責任である。生物的な死や労苦はこの神への背きに対する神からの罰であるとされる。人類はエデンの園という楽園を追放され、その後は死や病や争いなどの悪の制約のなかで、神に立ち帰ることが求められることとなった。
「神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め彼はお前を支配する」。神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(Gen.3:16-19)。
この罰の制約のなかでひとは生きることとなった。このことは必ずしもアダムの背きのゆえにその後のすべての人間がアダムの罪が生殖を介して遺伝し、神の前に罪人であるということを含意しない。アダムの失敗に対し人類の連帯責任ということになり、個々人の責任が問われなくなる可能性があるからである。アダムの罪の遺伝子を引き継いだというよりも、パウロは「あらゆる者が罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らない」(Rom.3:23)とまた「ひとりのひとを介して罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯した故に、死はすべての者を貫き通したのである」(Rom.5:12)とこの事件とその後の人間の責任を明らかなものとしている。誰も罪を犯さなかったとしても、生物的死はあったであろう。しかし、それは次の目覚めへの「眠り」にすぎない。このように誰もが蛇と罪の誘惑を受けて、神に背いたということが神の認識として報告されている。そして、それをアダムの罪の遺伝子の遺伝としてではなくアダムを模倣したと言うべきであろう。その後人類は楽園追放による生存の労苦と産みの苦しみなど神の罰のもとにあるが、それは生物的には当然のことと認識されもしよう。それは堕落して楽園を追放されてしまった人間にとってそう認識されるだけのことであり、楽園を回復したなら、闇を知らず光のもとにいることが認識できないほど光の子として幼子のように神とともなる生活を続けていたことでもあろう。
5月1日の講義でシモーヌヴェイユによる悪の単調さについて紹介したら、君たちのなかに反応があった。悪の単調さ、悪には新しいものの何もないというその事態は、ひとが自ら経験的に理解できるものであり、また聖書的にはアダムに与えられた神の罰の与件(予め与えられた条件)のもとでのこととなる。楽園にいて神の戒めに忠実である限り、ひとはこの悪の空虚さに陥ることはなかったからである。ヴェイユは言う。「悪の単調さ、そこには新鮮さが何もない。そこではすべてが同じものだ。そこでは実在するものがない、すべてが空想の産物なのだ。質ではなく量が大きな役割をはたすのはこの単調さのせいである。多くの女をものにするドンファンのように、多くの男をものにするセリメーヌのように、われわれは偽りの永遠を求めるよう強いられている。それが地獄だ」。自ら、世界に対し正面から向き合い、自分を勘定にいれずに、「よく見聞きし分かりそして忘れず」と世界に開かれるとき、新しいものにであう。それ以外は自らの欲望のもとに捉われ、支配され、空想により世界を一色で塗りたくり、何ら新しいものには出会わない。その証拠にそこでは質ではなく量がものを言う。悪というのは単調なものである、そこには何ら新しいものがないからであると言われていた。罪の誘惑に負けてあく悪に支配されるとき、そこには何ら肯定的、創造的なものにはであわない。自らを破壊する仕掛けのみが見いだされる。
この考えは自らの胸に手を当て、反省するとき、頷(うなず)くのは私ひとりであろうか。人類の始祖アダムやエヴァも生物としての自然的な欲求を持っており、神は「園のすべての木から取って食べなさい」。と肯定している。ただし「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という制約のもとにおいて自然的な欲求は肯定されている(Gen.2:15)。最初の人間は「産めよ、増えよ、地に満ちて従わせよ」(Gen.2:28)と祝福されているように、ひとは自然の欲求である生存や生殖への欲求は神の戒めの制約のなかで肯定されていた。
3 ローマ書における罪の誘惑と克服― 律法は罪ではないことの証明―
ここまで、「創世記」のアダムの神話から聞き取ることができる。パウロはこの出来事と記事をもとに、罪の誘惑について「律法」と結び付けている。前回、福音即ち信の律法の確立のゆえに、業の律法から解放されてしまったことを学んだ。信により神と正しい関係を築くことにより、ひとは業の律法に寄生する罪の誘惑を退けることができる。
第一議論においては「律法は罪であるのか」(7:7)というユダヤ主義者である論敵からの予弁論的反論に「断じて然らず」と本書簡の一特徴であるディアトリベー(談論風発)様式により応答している。ここではパウロの信仰義認論が含意するでもあろう律法軽視さらには罪悪視への反論として、福音の啓示に基づき律法の聖性と善性の論証を提示する。この論証で特徴的なことは、律法と罪が擬人化されることである。律法は戒めを語りかけるが、「罪はその戒めを介して機会を捉えわれを欺いた」(7:11)。この擬人化は対応個所である「創世記」三章の蛇の擬人化により理解を容易にさせている。パウロは蛇について「ちょうど蛇がエヴァをその狡猾さによって欺いたように」(2Cor.11:3)と蛇を行為主体として擬人的に描いている。パウロはここでも慎重であり、旧約聖書の裏付けにより論敵ユダヤ主義者の土俵上で彼らの同意を取り付けようとする。クランフィールドは「パウロはここで「創世記」三章の物語を念頭においている。ひとの保護のために神の善き恵み深い贈りものであるところの神的戒めは蛇がひとを破壊すべく利用しうる好機でもあると見られている」と述べている[i]。
「欺く」をその類義語で理解するとすれば、それは偽りを語り騙し、実践することであり、魂の秩序を乱し、混乱させ破壊に至らしめることである。その欺きの方法は言葉を通じてである。人間社会においては、ひとがひとを欺くのは、言葉だけではなく、非言語的な行為においてもなされるが、見えない罪は魂の中で語りかけるという仕方で欺く、ちょうどヘビがエヴァに語りかけたように。律法が「汝貪るな」(7:7)と言えば、「汝貪れ、それは人間として生を燃焼させることであり、それは当然為されるべきことなのだ」と反対命題をささやき肉に即した生を唆し、心魂のうちに「罪の律法」(7:23)を立てる。
ここで確認しうることは、意味論的分析によれば、命令は従うことも従わないこともできる存在者を前提に遂行される。従って、ここで「われ」は責任ある自由のもとにいる自律的な存在者であると言うことができる。律法が「赦せ」と言えば、罪は「そんなひどいやつは罰を受けるべきだ、それが正義だ」とささやく。さらに罪は「使徒がキリストの過去の死はお前の古い過去の自我の死でもあったと、また自らの罪は自ら担いえないものであり既に荷われたと言ったのか、そんなことはないお前はあのこと、このこと自らの過去を償わねばならない」と律法を立てに、新しい前向きの生はおめでたき健忘症だとし、古き自我に固執させ責め立てる。
比喩的に言えば、罪は律法を殊の外好み、律法のあるところ寄生し住みつき罪の果実を増殖させる。なぜなら律法は肉の人間には裁きの言葉だからであり、自らを省みることなしに、自らを他から優越させるために振り回す尺度、規準となり、その定規こそ罪の最も好物とするところのものだからである。律法のあるところ、「すべての者は罪を犯した」(3:23)と語られている限りにおいて、そこに事実上一度は罪が寄生し、ひとをして罪に加担させまた同化させている。罪は律法を隠れ蓑にして姿を見せず、モーセの律法そして戒めそれ自身が自己と他者を破壊するように思われる。パウロはその状況を「生命に至らす戒め自らが死にいたらすものとわがうちに見出された」(7:10) と記す。実は、罪がひとを律法により欺き、殺したのである。ここで「殺した」とは生物的生命に死をもたらしたということである。
律法が罪ではないことの第一議論が過去形により展開されているのは具体的にアダムの事例が念頭におかれ、彼を罪が世に侵入したその過程のモデルにしたためであると考えられる。少なくとも一人神の戒めに背いた人間がいた。善悪を知る木の実を「食べるな」という戒めが与えられたところに罪は初めて登場する。罪は行為主体として戒めを利用して最初の人間を欺き自らに同意させ死に追いやっている。重要なことは罪の行為主体としての働きは文字としての律法を前提にしてのみ語りうることである。
また、一人称単数「われ」はモーセ律法の擬人化のもとでの「汝貪るな」という二人称単数の命令を戒めとして語りかけられたさいに、それに対する応答して出現する。神が罪に利用されることは想定不能であるため、文字化された律法が「汝」と語りかけるものとされている。二人称の呼びかけに対する一人称による応答、これが最も基礎的な誰にも同意される「われ」の文法的理解である。G.Theisenは言う、「私見であるが、ローマ七章七節以下の内容からも純粋に虚構の「われ」という仮定は支持できないと思う。最初の明示的ego(八節)は「貪るな!」という神の掟に挑発される。律法は二人称単数で人間に呼びかける。そこで一人称単数で答えたくなるのは当然である。しかし、パウロが人間に対する神の要求を云々する場合、自分自身を除外した虚構「われ」を使うなど思いもつかないことだ。これでは神の要求の厳しさはどこかに飛んでしまう」[ii]。この文法的解釈には同意するが、虚構解釈は真剣さを失わせるという見解には同意できない。この「われ」に戒めと罪によるその利用を介した誘惑に対する今・ここのエルゴンによる臨場感と誰であれ「われ」と語る者に妥当する普遍性を託したのである。一章では神の前で神の怒りにあてられた者がいかに振舞うかを明らかにした。神が理解する言語網のなかで罪人たちは登場し、神の理解としての彼らの振る舞いが提示されていた(1:18-32)。そこでは「律法は怒りを成し遂げる」(4:15)として、欲望への引渡しが描かれていた。しかし、ここでは、律法の新たな機能の解明に向かう。第一議論においてパウロは罪と律法の擬人化と生物的死をアダムの記事により裏付ける。罪は文字としての律法を利用し「われ」を欺き死に追いやったことを説得している。この第一義論を介した第二議論においては、「われ」は誰であれ、掟をつきつけられた者は律法が霊的なものであることの認識を持ち葛藤を為すべき者であることが描かれる。文字と霊の律法が二つの議論を異なるものとさせ、「われ」は死から再生に向かう。
「最初の人間アダム」(1Cor.15:45)はモーセ律法以前に位置するが、蛇の誘惑は「善悪を知る」(Gen.2:17)木の実を食べ、目が開かれ「神の如くになる」(Gen.3:5)という貪りへの誘惑であった。この論証の主語が「われ」ではなく複数形(例えば「われら」「彼ら」)であるとするなら、その指示範囲は限定されるが、「われ」は誰であれ戒めが「汝」と語りかけられ、応答する限りのひとに妥当することを示すことができ、アダムの事態がすべてのひとに普遍化可能となる。実際、「ローマ書」五章の対応個所で罪が入ったことが、死が入ったことの原因であるとされている。「それ故、ひとりのひとを介して罪が世に入りそして罪を介して死が入ったように(hōsper)、そのように(hūtōs)すべての者が罪を犯したが故に、死はすべての者を貫いたのである」 (5:12)。「われ」は誰であれ戒めを差し向けられた者として応答する死すべきアダム的な人間のことである。少なくとも、「終局的アダム」(1Cor.15:45)ないし「第二の人間」(1Cor.15:47)とされるキリスト的な「われ」との対照においてある者のことである。
この文章に見られる同等比較「~ように、そのように~」は注意を要する。これは死の原因が各人の罪の故にであることを同等比較により明確に述べており、アダムの罪の遺伝による伝播を含意してはいない。「すべての者が罪を犯した」とはまず業の律法による神の前の一般的な人間現実としての罪人が理解されねばならない。ただしその罰はエルゴン上生物的な死に留まる。しかし、これも五章で語られているように、パウロによる全人類の罪人の確認も福音の啓示の故になされたことである(5:12)。福音が啓示されていなければ、ひとは業の律法のもとの義を目指していたでもあろう、アブラハムの系統の者たちを除いて。その福音のもとにある救いの可能性のなかにおいて、或いは叡知の機能不全のなかで、神による罪の認識を人間の叡知がヒットすることもあろう。詩人は報告している、「主は天からひとの子らを見下ろして、賢いもの、神をたずね求める者があるかないかを見られた。彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない」(Ps.14:2,cf.3:10-18)。アダムが背きの最初の者であるが、ひとは事実上或いはより正確には業の律法のもとにある者は皆アダム的な者であったと神は認識している、その神の認識が報告されている(1:18-32,3:20)。換言すれば、第一議論において、神の意志である業の律法は人間により文字として受け止められる限り、それは罪に利用され欺かれることをパウロは報告し知らしめている。この議論なしには、ひとは業の律法に対しどのように受け止めたらよいか知ることはできなかったであろう。空しく同じ欺きに陥り、罪と律法と死のループから逃れる道を見出すことがなかったでもあろう。
[i] Cranfield, Romans I,p341.
[ii] G.Theissen, Psychologische Aspekte paulinischer Theologie (Göttingen 1983)『パウロ神学の心理学的側面』渡辺康麿訳、二八六頁。
罪の誘惑(2)―業の律法からの解放
2022年5月15日、日聖書講義
罪の誘惑(2)―業の律法からの解放
「ローマ書」七章
律法の新たな位置づけ (1-6節)
それとも、兄弟たち、われは律法を知る者たちに語りかけているのであるが、汝らは知らぬか、律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時であると。二なぜなら、既婚の婦人は生存している夫に律法により縛られているのだから。しかし、もし夫が死ねば、彼女は夫の律法から解放されている。三だからそれ故、夫が生きているあいだに、他の男のものになるなら「姦通者」と呼ばれるであろう。しかし、夫が死ねば彼女は律法から自由であり、彼女が他の男のものになっても姦通者ではない。四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている。
第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」
七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。
第二議論「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」
一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法背反]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。
はじめに
イエス・キリストにおいて福音が打ち立てられた。これは新しい神の契約・約束であり、「信の律法」と呼ばれる。旧約聖書において神はアブラハム、モーセらと契約を結んだ。アブラハムは神の信の律法のもとに、彼は子孫の繁栄の約束を信じた。「神は彼の信仰を義と看做した」(Gen.15:6)。その後、出エジプトを導いたモーセに「十戒」を与えた。これが「業の律法」と呼ばれる。これはイスラエルの民の神聖政治のもとでの法律と言えるものであり、基本的には「十戒」のもとに600を超える戒めとして積み重ねられていく。信の律法は神がイエス・キリストにおいておいて人類に信実であり、それ故に正義であったとき、人類は神の信に対して信によって応答するかが問われている。そこでは心魂の根源的態勢として幼子の信、すなわち疑わずに人生を委ねるときに、神に義と認められる、即ち正しい関係が築かれるというものである。それに対して、業の律法は偶像を崇拝しない、嘘をつかない、貪らないなどの実践によって神に義と認められるものである。パウロはこの業の律法の遵守の道によっては誰も義とされないと主張する。
彼は「ローマ書」三章で言う。「一九われら知る、律法が語りかけるのは、律法のもとにある者たちに告げることがらは何であれ、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服従するためであることを。二〇それ故に、すべての肉は業の律法に基づいてはご自身の前で義とされることはないであろう。というのも、律法を介しての[神による]罪の認識があるからである」。かくして、イエス・キリストの福音の啓示の故に、モーセの業の律法とは別に神と正しい関係にはいる道が示された。それ故に業の律法は新しい役割を担うことになる。即ち、律法違反(神への背き)を知らしめ、葛藤を引き起こし、悔い改め信の律法のもとに信じる者となることである。
福音の啓示を介して、われらは業の律法から解放されたということ、これを正しく理解することが求められる。信仰、そして信仰による神との正しい関係の成立、さらに信に基づく「義の果実」(Phil.1:8)としての愛。愛は「律法を全うする」律法の「冠で」ある(Rom.13:10)。キリストを介した神の憐みへの信に端を発し、信→義→愛の展開こそ、ひとの本来性である。「愛を媒介にして実働する信が力強い」(Gal.5:6)。今後、文字としての律法に寄生する罪の誘惑の解明を通じて、この力動的な関係を解明していきたい。
1 業の律法からの解放
パウロは婚姻の法律に関して、夫が死んで再婚しても律法違反、違法ではないことを確認する。彼はその比喩により、福音の到来の故に古い夫である業の律法からの解放され新たな神との肯定的な関係の構築の機会を得たとしている。「わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである」。ここに福音のダイナミズムがある。古い革袋を破って、新しい生命がもたらされた。「キリストの身体を介して」とは御子の受肉と死に至る信の従順の生涯を介してまたその故にということであり、それにより律法に死んでしまったと言われる。彼は神の義の啓示の媒介者となった。神が正しい方であり、キリストの信の従順による身体の捧げを「介し」て律法に捉われた古い自己に死に、神と新しい正しい関係に入ることができるとされる。
彼は福音以前には罪に誘惑され死への果実を結んでいたと言う。「われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた」。「肉にあった」と過去形で言われる。「肉」とは身体をもった自然的な存在者の一つの生の原理のことであり、身体の限界が自己の限界であると看做しがちな弱さを抱えたものである。「肉に即した」生と「霊に即した」生が対比される。「今や、肉に即してではなく霊に即してキリスト・イエスにおいて歩む者たちにはいかなる罪の定めもない。なぜなら、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放したからである。というのも、ひとが肉を介してそこにおいて弱くなっていたところの律法の[遵守し]能わぬことを、神はご自身の子を肉の罪の似様性において遣わすことによって、そして罪に関して、その[イエスの]肉において罪を審判したからである、それは律法の義の要求が肉に即して歩まず、霊に即して歩んでいるわれらにおいて満たされるためである」(Rom.8:1-4)。
霊に即して生きても、生きている限り「肉においてある」ことは続くが、この「肉にあった」という過去表現は神の意志としての業の律法を自らの力で満たそうとするそのような人生原理に即して生きていたという意味である。モーセ律法は各自の責任ある自由が問われる肉において受け止めることのできる神の意志である。他方、イエス・キリストを介して啓示された信の律法は、神が御子を介して人類に信実であったとき、ひとはその信に対して信により応答するのかそれとも裏切るのかが問われている。責任ある自由のもとでの業がではなく、心魂の根源にある信が問われている。ひとが信によってではなく、自らの力で生きようとするとる限り、律法は文字として受け止められる。そこでは神の霊にはとうてい勝てないが文字には寄生できる罪の誘惑を受けることになる。信のもとに生きるとき、神の霊に触れることができるとされる。「六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」。
2 律法と裁き
律法からの解放は日々の課題である。学寮にも寮則があり、これが文字の律法としてわれらを隷属化する。罪がそこに寄生する。罪は律法を殊の外好む。それは人と人との間に審判、裁きを引き起こすからである。
偽りなきイエスはパリサイ人を非難して言う、「彼らの業に即して行うな、彼らは言うだけで行うことがないからである。彼らは人々の肩に負いきれない重荷を結び付けそして担わせる(epititheasin)が、彼らは自ら自分の指によってその重荷を動かそうとすることもない」(Mat.23:3-4)。イエスは自らを死においやるパリサイ人に課せられた重荷を担ったのである。彼は人々に律法の重荷を担わせ、そのたすけに指一本動かそうとしないパリサイ人の罪を担った。
律法はひとを苦しめるものである。寮則も苦しい。これさえなければ、どんなに楽であろうかと思う。アパートやマンションの管理人であれば楽であろうなと思うことがある。しかし、彼らは別名住人たちからの「苦情受付係」と言われることがある。規則なしにはただカオスとなるということなのであろう。札幌農学校創設時に来日したクラーク先生はBe gentleman!とだけ言った。登戸学寮の寮則もBe gentleman and lady!だけでよいのではないかと思う。寮則のあるところ違反があり、そして違反のあるところ怒りがある。「律法は怒りを成し遂げる。しかし、律法のないところには違反も存在しない」(Rom.7:14-15)。なんでもありであったら、学寮はカオスになるであろうか。日曜聖書講義には誰も出席しないようになるのであろうか。それは当方の話に問題があるからではないか。それなら参加者ゼロのもと空気に向かって話すほうがよいであろう。
どうして人々は裁きあうのであろうか。争いあうのであろうか。それは律法があるからであり、罪が寄生するからである。ここを何とか乗り越えたい。神に対して良き実を結びたい。
罪の誘惑(1)―肉と内なる人間の葛藤を引き起こす業の律法の新たな機能
2022年5月8日聖書講義
罪の誘惑(1)―肉と内なる人間の葛藤を引き起こす業の律法の新たな機能
「ローマ書」七章
律法の新たな位置づけ (1-6節)
それとも、兄弟たち、われは律法を知る者たちに語りかけているのであるが、汝らは知らぬか、律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時であると。二なぜなら、既婚の婦人は生存している夫に律法により縛られているのだから。しかし、もし夫が死ねば、彼女は夫の律法から解放されている。三だからそれ故、夫が生きているあいだに、他の男のものになるなら「姦通者」と呼ばれるであろう。しかし、夫が死ねば彼女は律法から自由であり、彼女が他の男のものになっても姦通者ではない。四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている(7:1-6)。
第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」
七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。
第二議論「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」
一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法背反]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。
はじめに
イエス・キリストにおいて福音が打ち立てられた。これは新しい神の契約・約束であり、「信の律法」と呼ばれる。旧約聖書において神はアブラハム、モーセらと契約を結んだ。アブラハムは神の信の律法のもとに、彼は子孫の繁栄の約束を信じた。「神は彼の信仰を義と看做した」(Gen.15:6)。その後、出エジプトを導いたモーセに「十戒」を与えた。これが「業の律法」と呼ばれる。これはイスラエルの民の神聖政治のもとでの法律と言えるものであり、基本的には「十戒」のもとに600を超える戒めとして積み重ねられていく。信の律法は神がイエス・キリストにおいておいて人類に信実であり、それ故に正義であったとき、人類は神の信に対して信によって応答するかが問われている。そこでは心魂の根源的態勢として幼子の信、すなわち疑わずに人生を委ねるときに、神に義と認められる、即ち正しい関係が築かれるというものである。それに対して、業の律法は偶像を崇拝しない、嘘をつかない、貪らないなどの実践によって神に義と認められるものである。パウロはこの業の律法の遵守の道によっては誰も義とされないと主張する。
彼は「ローマ書」三章で言う。「一九われら知る、律法が語りかけるのは、律法のもとにある者たちに告げることがらは何であれ、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服従するためであることを。二〇それ故に、すべての肉は業の律法に基づいてはご自身の前で義とされることはないであろう。というのも、律法を介しての[神による]罪の認識があるからである」。かくして、イエス・キリストの福音の啓示の故に、モーセの業の律法とは別に神と正しい関係にはいる道が示された。それ故に業の律法は新しい役割を担うことになる。即ち、律法違反(神への背き)を知らしめ、葛藤を引き起こし、悔い改め信の律法のもとに信じる者となることである。
福音の啓示を介して、われらは業の律法から解放されたということ、これを正しく理解することが求められる。信仰、そして信仰による神との正しい関係の成立、さらに信に基づく「義の果実」(Phil.1:8)としての愛。愛は「律法を全うする」律法の「冠で」ある(Rom.13:10)。キリストを介した神の憐みへの信に端を発し、信→義→愛の展開こそ、ひとの本来性である。「愛を媒介にして実働する信が力強い」(Gal.5:6)。今後、文字としての律法に寄生する罪の誘惑の解明を通じて、この力動的な関係を解明していきたい。
荒野の誘惑
2022年5月1日 日曜聖書講義
荒野の誘惑 マタイ福音書4章1-11節
さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。
イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。
1歴史の展開への眼差し
先週は旧約最後の預言者ヨハネについて学んだ。水で悔い改めの洗礼を授けるヨハネはイエスを聖霊と火で洗礼を授ける方、旧約で伝えられている救世主であると告げ知らしめた。彼はイエスの先触れ、所謂露払いの役目を引き受けた。このヨハネなしにはイエスは旧約の長い歴史のなかでの預言の成就として正しく位置付けられることはなかったかもしれない。少なくとも、イエスは突然自ら神の子であることを叫ぶ者として浮いた存在、孤独な存在となったことであろう。歴史とは、連続的な展開であり、一つの事象には先行する事象があり、そのつど時の徴を見きわめることが求められる。
イエスの出現を預言した預言者ヨハネは歴史の展開、帰趨をよく見ることができたひとであった。もう自分の時代は去り行くことを認識しつつ、前触れとして良き音信(おとずれ)を告げることができることにヨハネは喜んだに違いない。旧約から新約への引継ぎの象徴的な出来事として、悔い改めを必要としないイエスがヨハネから水の洗礼を受けた。水による洗礼の授けというこの二人の接触は聖霊による洗礼の授けの新しい時代の幕開けを告げるものであり、バトンの引き渡しとして歴史に深く刻まれる大事件であった。そのとき、神からの祝福が鳩のようにくだった。「わが愛する子、わたしの心に適った」という天から声が響いた。イエスの公生涯、伝道の出発として相応しい事件であった。あの出来事に匹敵する出来事は人類の歴史においては主イエスの再臨である。そのとき、この古い地と古い天は巻き去られ、新しい天と新しい地である神の国が成就することであろう。これら二つの大事件のあいだすなわち中間時においてわれわれの歴史は進んでいる。
人類は滅びに向かっていることをひとは感じているであろう。良き歴史は細い真っすぐな光の道の歴史であり、われらがその歴史につらなるかが問われている。今回のロシアによる侵略についても、現代生きる者はそこに顕わにされているまた隠されている歴史のメッセージを連続性のなかで捉えることが求められる。個々人は自らと人類の神に対する罪を悔い改めることが求められている。しかもこの悔い改めはヨハネ的な悔い改めとして旧約のなかでの良き実を結ぶ良き木となることではない。新しい悔い改めはヨハネが唱えたモーセの業の律法からイエスが信の従順を貫いてうちたてた信の律法に心の根底で移行することである。神が歴史のなかに御子を送られたそれほどまでにこの世界を愛したことを信じるかが問われている。この神の愛への信のもとにその応答として神への愛と隣人への愛の道を歩む。「神は、その独(ひと)り子をお与えになったほどに、世界を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである。神が御子を世界に遣わされたのは、世界を裁くためではなく、御子によって世界が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)。イエスはまことのひととして歴史のただなかで、信の従順を貫いた。その信のもとでの宣教と受難の歴史を福音書は伝えている。
2悪魔の誘惑
今日はこの新しい時代の幕開けの儀式に続いておこった悪魔による誘惑、試練の箇所である。三つの誘惑が記されている。パン問題、すなわち生活上の誘惑、それから神を試す不信仰の問題、すなわち神の援けを疑い、目に見える形で援けを求める誘惑、第三は悪魔と手を結び、手下となり、この世界を支配する問題、すなわち神を裏切るよう誘惑がささやかれている。悪魔はその光の道からイエスをそらせようとした。イエスはそれに対しすべて旧約聖書の引用により誘惑に打ち勝っている。
翻ると毎日のように誘惑を受けている。あらゆる誘惑はひとと神の関係を破壊し、ひととひとの関係を破壊するそのようなサタンの企みである。福音に立ち帰りそのつど隣人となることにより乗り越えたい。
イエスはわれらと同じひとであったから40日40夜断食をして空腹を覚えられた。ルカの並行箇所では、こう言われている。「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を霊によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(ルカ4:1-2)。生理的には10日間飲み食いしないと目が見えなくなると言われる。知り合いの僧でアウシュビッツで10日ほど断食し祈っていると、ドイツ人の女性が泣きながら暖かいミルクを差し出したという、それを飲むことにより失明を免れたと言う。ギリギリの状況であったようだ。イエスは一か月以上荒野を彷徨ったこと、そして食べるものもなく40日間過ごしたことが報告されている。彼には通過すべき試練が神の認可のもとに悪魔の誘惑として与えられた。
3 生活の誘惑
最初の誘惑は、この石をパンに変えてみよというものであった。このパンの誘惑は生活一般の誘惑である。衣食住、すべてに欲望を満たすよう誘惑されている。身体をもたなければ、どんなにいいだろうと思うこともあるが、人間はこの制約のなかで、或いはこの祝福のなかで生きている。自然の産物は味覚、嗅覚、聴覚、視覚そして触覚に訴える。神はこのような感覚を備えた人間を創造した以上、その喜びを享受することは許されているはずである。このような感覚をもつことによる人生は祝福されている。
イエスも洗礼者ヨハネのようにことさら禁欲的ではなかったことが報告されている。旧約の律法主義から自由であったのであろう。イエスはヨハネとの対比において自ら受けた中傷をこう語っている。「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、「あれは悪霊に取りつかれている」と言い、人の子[イエスのこと]が来て、飲み食いすると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言う。しかし、知恵の正しさはその働きによって証明される」(Mat.11:18-19)。神の知恵の正しさは自分の一挙手一投足において証されるという信のもとに彼は父なる神を信頼して虐げられたひとびとと共に生きた。
山上の説教で、奢侈や貪欲は当然戒められるが、神との正しい関係を打ち立てることが最も喫緊のことであるとされる。野の百合空の鳥を見るようにと自然物が神に養われていることに眼差しを注ぎつつ、自分たちが「天の父の子」であると信じるよう信仰に招く。その信仰により神と正しい関係が成り立つとき、「神はこれらのもの[衣食住]がみなあなたがたに必要なことをご存じ」(Mat.6:32)であるから、野の百合空の鳥のように必要なものは備えられるとしている。イエスはパン問題、生活問題に対して聖書を引用して応える。「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」(申命記8:3)。そのつど、聖書に神の言葉を聞きながら、聖書を生活の基礎に据えることの大切さが説かれる。イエスでさえ、書かれた文字としての聖書の言葉の力により誘惑を退けていたのであるなら、肉の弱さをかかえるわれらはなおさら、聖書に神の言葉を聞くことによって乗り越えることができるであろう。
身体的な衰弱や変調が一つの誘惑のきっかけになることは誰もが経験することである。欲求は欠乏の徴であり、それを満たすものを求める。これを欠乏充足モデルと言う。自らの欠乏を世界に投影し、世界からその欠乏を満たすものを取り入れようとする。欲望の強い人間は欠乏も大きく、権力をもてばもつほど欲望を満たす力も備わることになる。独裁者たちは大きな誘惑にさらされることになる。しかし、ひとは欠乏充足モデルにはまりこんでしまうと、たとえ欲求や欲望を身体にわずかにしか感じることがなくとも、或いは全く感じることがなくとも、習慣化、常態化された行為が遂行されてしまう。わたしなども、手許に食べるものがあるとつい手をだしてしまう。飽食の時代、空腹感がなくとも食べ物に手がでてしまう。これを「魂が肉になる」と言う。欠乏充足モデルのループのなかに自らが捉われていることを示している。そこから逃れるには、他のものにより満たされることが起こることを経験することである。実際、他のことに夢中になっているとき、空腹を忘れることがある。
ひとは何らかの固定観念のもとに支配されてしまうことがある。ドンファンはおのれの欲望を満たすには世界は一つではたらない、二つなければならないと言ったと伝えられる。生きることは欲望を満たすことであるという基本的な人生観のもとに、欲望をフルに開放する。そこでは生の質ではなく、土地の広さであれ、従属させる人間の数であれ、量がものを言う。大きいことはいいことだ、大量生産、大量消費されること、これが豊かな社会の徴でありよいことだという考えにとらわれてしまうことがある。がさつとなった魂がこの世界の繊細さや美しさを堪能することができずに、自らの欠乏を世界に投影し、一色にする。シモーヌヴェーユ(第二次世界大戦下の哲学者)は言う、「悪の単調さ、そこには新鮮さが何もない。そこではすべてが同じものだ。そこでは実在するものがない、すべてが空想の産物なのだ。質ではなく量が大きな役割をはたすのはこの単調さのせいである。多くの女をものにするドンファンのように、多くの男をものにするセリメーヌのように、われわれは偽りの永遠を求めるよう強いられている。それが地獄だ」。自ら、世界に対し正面から向き合い、自分を勘定にいれずに、「よく見聞きし分かりそして忘れず」と世界に開かれるとき、新しいものにであう。それ以外は自らの欲望のもとに捉われ、支配され、空想により世界を一色で塗りたくり、何ら新しいものには出会わない。その証拠にそこでは質ではなく量がものを言う。
4 身体の欲求と神の言葉
ひとは当たり前のことであるが、身体を抱えてこの人生を遂行しなければならない。人格的な有徳性は身体に自然にわいてくるパトス・受動、受苦、感受態、に対して良い態勢にあることだとされる。ひとがどのような対応を取るかによりそのひとの魂の実力が分かると言われる。恐れると青ざめるが、勇気はその恐れに対して良い態勢にある心の状態のことである。正義は怒りに対して、節制は快楽に対して、良い態勢にあると言われる。愛は喜びに対して良い態勢にあることだとされる。有徳な人々はパトスに翻弄されることはない。
ひとは身体を正しくコントロールすることが求められている。憐み深いひとは、人間の本来性とのコントラストにある人々に対して可哀そうだ、というパトスが湧いてくる。ひととしての立派さの指標はどのようなパトスを得るかに見いだされる。競争心に心が支配されているひとは、ひとの悲惨な状況に憐みをいだくことはなく、そのひとが競争から脱落したと看做すであろう。有徳なひとは適切な量のパトスのもと、正しい行為を選択できる人々である。イエスは節制あるひとであり、サタンが空腹につけこんで誘惑してきたことに対して神の言葉により打ち勝った。神の言葉はわれらの心を刷新する力を持つ。欠乏―充足モデルのループに捉われると、そこから抜け出すことはむずかしい。習慣としておなかがすくと、食べ物に手がでてしまう。ダイエットしているひとは、誘惑を感じたら、「ひとはパンのみにて生きるにあらず、神の言葉により生きる」と言いつつ、聖書を開いてみよう。ひとは生存のために食べることは不可欠であり、毎日生物の循環構造の与件のなかで生きている。生活の基本を受入れつつ、喜ばしい新しいものとの出会いが必要である。ひとは生きるために食べるのであり、食べるために生きるからではないからである。
5 神を試す誘惑:疑いから信仰へ
第二の誘惑は神を試すことの誘惑である。ひとは徴を求める。神を疑っているからこそ、ひとはこの歴史のなかに様々な神の働きの痕跡を求める。聖書時代には多くの奇蹟がおこなわれたのに、現在五千人のパンのような奇跡、病人の癒しの奇蹟は見られないではないか。神がいるならその証拠を示せとひとは迫ってくる。しかし、人類は現在80億人の人々が生活できるよう、食料生産や医療の進歩を経験している。これは一種の奇蹟ではないのか。神から授かった知性により、人類の諸問題を一つ一つ解決してきたのではないかということは一つの応答になるであろう。
ともあれ、悪魔は第一の誘惑が神の言葉により退けられたことから、神の言葉として詩篇を引用しつつ、寺院の高いところから身を投げても、天使がきて支え助けてくれるとイエスを誘惑する(詩篇91:11-12)。イエスは「あなたの神である主を試してはならない」という申命記の引用により退けている(申命記6:16)。彼はどれだけ旧約聖書を自らの糧としていたか、ここから分かる。とっさにあの分厚い聖書のここかしこが浮かんでくる。幼少期からシナゴーグに行き、ラビの話を聞き自分で読んでいたのであろう。こう報告されている。
「イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。イエスはこれらの譬を語り終えてから、そこを立ち去られた。そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった」(マタイ13:52-58)。
イエスの力の秘訣は神の言葉である聖書に自らの行為を選択したことである。この信の従順こそ彼の力の秘訣であった。われらが何か証拠を求めるとき、相手を信用していない。信の根源性にそのつど立ち帰ることにより、誘惑を退けることができる。
6 世界支配への誘惑
第三の誘惑はこうである。悪魔はイエスを高い山に連れていき、一望のもとに世界のすべての国々の繁栄ぶりを見せた。「もしひれ伏して、わたしを拝むなら、これをみな与えよう」。この誘惑は大きいものである。世界の支配者になることができるという誘惑である。権力者、為政者たちはこの誘惑にかられている。力を持てば持つほど、この誘惑にかられる。プーチンも為政者になったとき、神に選ばれたと強く感じたことを告白している。人間のこのような勝手な思いをどのようにして克服できるのであろうか。イエスだけが、神の意志を十全に遂行した神の子であることをその都度信じ、その都度悔い改めて信仰に立ち帰ることによってである。
イエスの応答は単純明快である。「「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある」(申命記6:13)。この申命記による応答とともに、「下がれサタン」と退けている。ひとは通常多くの上司や指導者をもっている。上下関係が人間社会にはつきものであるが、イエスはただ父なる神にのみ仕えた。それにより人生は単純明快となる。
結論
聖書はイエスが神の子であることを証する書である。この出来事に立ち帰りつつ神の意志を聴く。たとえ自らが何らかの指導者になったとしても、イエスの忠実な弟子であることにこそ正しい選択の可能性が開かれる。そこでは愛の戒めが説かれているからである。正しい指導者はキリストの憐みに立ち帰り、そのつど隣人となろうとすること、それが心の根底に置く人々である。他方、指導者は単に隣人を相手にするのみではなく、国家の進路等一般的な判断をしなければならない。とはいえ、指導者も一人の人間であり神への信仰が問われており、個々人の根底に正しい信仰があることがまず求められている。この世界の為政者や上司、教師たちは、個人としてその都度主なる神のもとに立ち帰りつつ、悪魔の誘惑を退けつつ、相対的な自律性を持つ者として歴史を導く。指導者も一人の人間であり、神の言葉により誘惑を退けつつ、光の歴史の細い道を歩む。われらはイエスを派遣された天の父なる神を仰ぎ、神に仕える。
最後の旧約の預言者ヨハネ―旧約と新約を繋げる者―
2022年4月24日聖書講義
最後の旧約の預言者ヨハネ―旧約と新約を繋げる者―
聖書箇所 マタイ3:1-17
1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え 2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て 6罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8悔い改めにふさわしい実を結べ。9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる 11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
1 神の約束・契約の歴史
聖書は神による人類への関わりの記録の書物である。今から3700年以上前、紀元前18世紀後半、神はメソポタミア(「二つの川(ポタモス:ユーフラテス川とチグリス川)の中間(メソス)という意味)地、カルデアのウル(シュメール人の古代都市といいう説がある)に生まれ住んでいたアブラハムを呼び出した。彼は七十五歳のときに神の言葉だけをたよりに妻サラと共に流浪の旅にた。「主はアブラム(アブラハムこと)に言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように」(Gen.12:1-2)。アブラハムは地中海とヨルダン川のあいだの土地カナン地方に住んだ(Gen.13:12)。アブラハムはもはや生殖機能を失っていたが子孫が栄えるという神の言葉を信じ、その信仰が義と認められた(Gen.15:6)。彼のこの信頼は神との正しい関係は信仰によって得られることの一つの根拠となり、イエス・キリストの「信の律法」(神の意志として最も根源的な正義)の先駆となった。信が心魂の根源的態勢であることを明らかにた。「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」(Gen.17:19)。
アブラハム、その子イサクそしてその子ヤコブへと祝福は受け継がれる。ヤコブは「イスラエル (神の勝利)」と呼ばれ、この民族はその後「イスラエル」と呼ばれるが、「ヘブライ人(イビリーム)」や「ユダヤ人」と呼ばれることもある。「ヘブライ(イビリーム)」の語源は分かっていないが、フェニキヤ人等の集団を指すという説がある。またエルサレムがある地方がユダヤと呼ばれたことから、他の民族との関係においてこれらの呼称で呼ばれたり、自らをこれらの呼称で呼んだりしていた。
アブラハムは175歳で死んだ(Gen.25)。恐らく紀元前17世紀後半であった。ヤコブの時代に飢饉がおこり、多くのイスラエル人がエジプトにわたった。ヤコブの末子ヨセフはエジプトでファラオ(王)に信頼され宰相となった。その後ヨセフを知らない王があらわれ、イスラエル人を差別し苦役に従事させ、ファラオの娘に育てられたモーセが出エジプトの指導者として選ばれる。出エジプトを遂行した民族指導者モーセは神の山(シナイ山)で「十戒」と呼ばれる神の意志が伝えられたため、それをモーセは書き記しエジプトから一緒に逃れてきた民に伝えた。「モーセは契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは[雄牛の]血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」」(出エジプト記 24:4-8)。アブラハムとの約束・契約に始まり、モーセを介して約束・契約が新たに結ばれた。
モーセはエジプト王(ファラオ)ラムセス二世(BCEcirca1303-1213)の頃或いは次世代のファラオのとき、苦役に苦しむ同胞へブル人を連れて60万人の成人男子とその家族を連れていた(Ex.12:37)。「イスラエルの人々がエジプトに住んでいた期間は430年であった」(Ex.12:40)。パウロはこれにならいアブラハムへの神の約束(契約)からモーセの出エジプト敢行後、シナイ山で交わした契約まで「430年」と記している(Gal.3:17)。
2 預言者たちと「新しい契約」の預言
紀元前10世紀にダビデとその子ソロモンによりイスラエルに王国が建てられ、栄えたが、紀元前9世紀以降四大預言者(イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル)による預言書が残されている。また十二小預言者(ホセア、ヨエル、アモス等)がたてられ、神の言葉が取り継がれている。預言者エレミヤはこれらの歴史の展開のなか、紀元前6世紀バビロン捕囚のころ「新しい契約」(エレミヤ31章)を神の言葉として取り継ぐ。新しい契約の実現であるイエス・キリストの福音(良き報せ)を預言している。「わたしはとこしえの愛をもってあなたを愛し変わることなく慈しみを注ぐ」(Jer.31:3)。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(Jer.31:31-34)。
パウロはこれらの契約の結び直しの連続のなかで、旧約聖書において預言され待ち望まれた救世主(メシヤ)がナザレのイエスであることを宣教している。これがエレミヤの新しい契約の成就であると理解されている。「神はかつて預言者たちによって多くのかたちで、また多くの仕方で先祖に語られたが、この日々の最後に(ep’eschtou tōn hemerōn touōn)御子によってわたしたちに語られた」(ヘブライ人の手紙1:1-2)。
旧約から新約に至るまで、イスラエルに象徴される神と人間の交わりの歴史は展開しており、歴史の終わりにはこの古き天と古き地は巻き去られ、新しい天と新しい地があらわれると「イザヤ書」や「ヨハネの黙示録」に預言されている。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起す者はない。それは誰の心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する」(イザヤ65:17-18)。「そして、天使はわたし(ヨハネ黙示録著者)にこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、ご自分の僕たちに示されたのである。見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである」(黙示録22:6-7)。
3 最後の旧約の預言者ヨハネ
聖書はこのように神がその都度人々を選び自らの意志・契約を伝え、イスラエル民族をさらには異邦人をも救いに導いている。パウロはこれらの契約をイエス・キリストにおける契約の成就という視点からまとめ直している。「神によってあらかじめ有効なものと定められた(アブラハムとの)契約を、それから430年後にできた律法が無効にして、その約束を反故(ほご)にすることはないということです。相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし、神は約束によってアブラハムにその恵をお与えになったのです。では、律法とは、いったい何か。律法は約束を与えられたあの子孫(イエス)が来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、注解者の手を経て制定されたものです」(ガラテア書3:17-19)。
モーセ律法はイエス・キリストにおける信の律法により乗り越えられまた包摂される。イエスは言う、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく、すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:17-18)。イエスはモーセ律法を先鋭化、急進化しながら、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」と神との正しい関係を築いてこそ、律法の「冠」である愛が満たされると主張した。そして彼はその言葉と行いのあいだに乖離や分離のない唯一の人として信の律法のもとに自らの信の従順の生を死に至るまで貫いた。
このように聖書は人類の歴史の展開を報告しまた預言している。最後の旧約の預言者洗礼者ヨハネは契約を介したこのような一直線の神とひとの交わりの連続性のなかで、旧約(モーセ律法)から新約(イエス・キリストにおける信の律法)への橋渡しの役割を担っている。洗礼者ヨハネは旧約時代の最後の預言者であり、ダビンチが描くところの十字架を指さす人である。
最後の預言者はナザレのイエスをメシヤ(油注がれた者=救世主)であると認識し、正しく彼にバトンを渡している。二人とも旧約の伝統のもとに生きた。ヨハネは禁欲的な生活を送りつつ、神から啓示を受け預言者の伝統としてイザヤを引き、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と主の到来の準備をする。その過程において、彼は自らの民を「蝮の子」と罵りつつ審判の預言を民に告げ、ヨルダン川で悔い改めの洗礼(潜浸)をほどこしていた。旧約における悔い改めは悪しき行いを悔い改め、神に立ち帰り生活を一新することであった。洗礼は古い自己の死と新しい自己の再生の儀式である。
ヨハネが出現しなければ、イエスは神の歴史の連続性のなかで正しくイスラエルの民に告げ知らしめられ、位置づけられることはなかったことであろう。少なくとも、イエスが突然現れ、神の子、メシヤであることを単独で主張せざるをえなかった場合に、歴史の展開のなかでの彼の位置づけが不明瞭になることであろう。彼は長い歴史のなかで預言され待望されていた以上、同時代人によって告げ知らされることは不可欠であった。歴史においては重要な事件においては先触れ、ヘラルド・伝令が顕われる。なぜなら、人類の歴史はそのつど偶然にランダムに事象が生起するわけではなく、預言され待望され、歴史が展開していくからである。旧約の時代の終わりを告げ、そして新しい救いの時代を告げるヨハネの出現は歴史の必然であった。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる 。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(マタイ3:8-12)。
ヨハネは水による悔い改めの洗礼を授けたが、聖霊と火で洗礼を授ける方として神の子を預言する。「イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた」(3:13-17)。
イエスは悔い改めの洗礼を受ける必要はなかった。しかし、旧約から新約への象徴的なバトンの引き渡しとして二人の共同の行為は神の歴史の正しいプロセスとして理解していた。共に一つの出来事を共有すること、それは歴史の新たな展開に象徴的である。国王の戴冠式は荘厳におこなわれるであろうが、野の蜜を食べ、枕するところなき貧しい二人には、豊かな自然の恵みであるヨルダン川の水を分かち合った。教会堂のコアーの響きはなくとも、野の百合空の鳥が祝福していた。その「正しいことをすべて行う」ことにより、聖霊が鳩のようにくだった。そのとき天の声が響いた。神はナザレのイエスの信仰を嘉みし、喜び、神の子として公に伝えられた。歴史は、このように一つ一つの行為に意味があり、それを正しく踏まえる限りにおいて神に神の意志の正しい行使者として用いられる。他方、神に背く闇の歴史も連綿と続いている。その者たちへの「神の怒り」は欲望への「引き渡し」として勝手にせよと放置することに確認される(ローマ書1:24)。「木はその実によって知られる」(マタイ7:17)。良き木は良い実を結び、悪しき木は悪しき実を結ぶ。「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」(7:19-20)。これは歴史の厳粛なる事実である。
4 結論
人類の歴史は神に導かれている。そう信じる。ロシヤによるウクライナへの侵略の残酷さと長期化に神の怒りを感じる。終わりの日に、正確に一切を知りしかも憐み深い方の正しい審判がなければならないと心から思う。われわれの根元にはすでに審判の斧が置かれている。人類は自らを破滅させる核兵器を既に有している。もう終わりのとき、最後の審判の時が近いのであろうか。われわれにできることは何であろうか。少なくとも周囲に悪の歴史を負の歴史を刻まないことだ。負のスパイラルに陥らないよう、悪の手下にならないことだ。歯を食いしばって迫害に耐え、敵をも愛することだ。それ以外にこの悪循環を断つことはできないであろう。人類の歴史は厳粛である。闇の子ではなく、光の子でありたい。各人が悔い改めて、すこしづつイエスに倣う者となり、神に喜ばれる者でありたい。
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また灯(ともしび)をともして枡の下に置くものはいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:13-16)。
その心によって清い者は秩序と平和を造る
日曜聖書講義 2022年4月17日
その心によって清い者は秩序と平和を造る
聖書
「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:1-12)。
第六福 「祝福されている、その心によって清らかな者たち(hoi katharoi)。彼らは神を見ることになるからである」(Mat.5:8)。
1 イースター
今日はイースター(復活祭)です。春分の日の次の満月の次の日曜日が主イエスの復活を祝う日と定められています。毎年満月になる日は変りますので、イースター復活祭の日もかわります。何か今日は月がピンクになるピンクフルムーンだそうですので、今晩晴れていれば枡形山に見に行きたいものです。この二回神と聖書について入門的なお話をしてきました。今後も神と聖書はこの日曜聖書講義の中心ですので、毎回でてきます。理解を深めていきましょう。神と聖書への尊敬がこの日曜の基礎にあります。今日は毎朝朝礼拝で読んでいるマタイ福音書の5章から7章の山上の説教(山上の垂訓)と呼ばれる箇所から心の清さについて学びたいと思います。心の清さは心に二心、三つ心がないことであり、心が一つに秩序づけられます。イエスの復活は心の清さの結果です。永遠の生命を得たのは彼が天の父の子の信仰に生き抜いたその清さによるものです。復活は人類の歴史においては彼にのみ生起したため、再現性はなく信仰によってしか突破できないことがらであることを最初にお伝えします。
2 その心によって清い
イエスは言う。「誰も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。汝らは、神と富とに仕えることはできない」(Mat.6:24)。「その心によって清い者」とはその心に二心(ふたごころ)がなく、心の目が光のように明るく澄んでおり、ものごとがよく見え最終的に「神を見る」者とされます。「汝(君)の宝のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.5:21)。「ともし火をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置く者はいない。ひとが入ってくるとき光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い。それだから、汝のうちにある光が暗くないか吟味せよ。かくして、もし汝の全身が明るく、何か暗い部分をもたないなら、ともし火が明るさによって汝を輝かすときのように、全体を輝かすものとなるであろう」(Luk.11:33-36)。山の上にある街は隠れることがなく、周囲を照らす。そのように「世の光」はこの世界を支え、導く(Mat.5:14,cf.Phil.2:12-15)。
ひとは光を好むか闇を好む。全身の明るい秩序を求める者はイエスのもとに行く。彼と共に歩む。福音書のイエスの言葉に、小さな者への愛が福音のもとに生きているか否かの規準になることの証が見られる。イエスはどのようなひとが憐み深いひとかを、競争や怒りや憎しみなどの争いに明け暮れている者たちとのコントラストにおいてこう語る。「[イエス]「わが父に祝福された者たち、天地創造のときから汝らのために用意されている国を受け継げ。君たちはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したことは、わたしに為してくれたことである」。・・[イエス]「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。君たちはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらはあなたが飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」」。(Mat.25:34-45)。
これら二種類の生の規準は何であろうか。人間の本来性の理解のもとにひとをそして隣人をリスペクトし、ひととして困窮している状況に出会ったとき、それは天の父の子としてのわれらに相応しくないという明確な認識である。イエスが何故彼についてくる群衆が羊飼いのいない羊のようにうちひしがれているのを見て、「深い憐みをいだいた」(Mat.9:36,cf.Mak.1:41,Mat.14:14)かと言えば、人間は、本来、天の父の子であり、こんなに争いや飢餓に苦しむそのようなものではないという認識とのコントラスト・対比の知識から身体に湧き上がってきているからである。憐みはパトス・身体の受動的反応でありひとは選択できずに湧き上がってくるものである。イエスがあの山上の説教を生命をかけて生き抜いたのは「天の父の子」である同胞になんとか神の国の消息を伝えたかったからである。
イエスの「この小さな一人にしたことはわたしにしたことだ」という発言においてはっきり分かることは、イエスは困窮した人々に自らを重ね合わせていたことである、少なくとも共にいるということである。われらは一度でもこのような視点をもったことがあるであろうか。誰か知らない人々がウクライナにおいて悲惨な状況にある人々に何か食べ物を送ったときに、「ありがとう、わたしに食べ物をくれてありがとう」と言ったり、受け止めたりしたことはあったであろうか。はっきり言って、わたしはそのような感覚をもったことは一度もない。これは或る意味でキリストの弟子として衝撃的なことである。しかし、そこに自らのパトス(身体的受動、感受性)が今後変わっていくかもしれないという手がかりを得たと言うこともできよう。
キリストについていくということは具体的にキリストが為したように生きることである。これは覚悟がいる。しかし、「その霊によって貧しい者は祝福されている」。この世の様々な富、つまり自らの人徳、名誉、金銭そして地位など、これらの所有によって自らに満足している者は飢え渇くことはない。肉によってこの世の豊かなもので満たされている者たちは一つのことを欠いている。即ちその霊によって貧しく、この世の何ものによっても満たされない心を欠いている。それ故に天国の知識をも欠いていよう。その霊によって貧しい者たちは「天の国は彼らのものだからである」と、この祝福が語られている者たちであある。この世のいかなる富や才覚によっても満たされず、天国の平和と正義と愛を求めて、入れていただくことにのみ希望を見出す者たちがいる。今回の理不尽な侵略は衝撃的だが、天国は理不尽な死を遂げるひとたちのために存在しなければならない、存在しているに相違ないと思わされる。イエスのこのような言葉にであうとき、われらにはまだ分かっていない人間の消息があるのではないか、われらがこの社会において求めている良きものとは異なる良きものがあるのではないかという思いにいたる。
3良きものどもの秩序づけ
良きものどもが正しく秩序づけられないとき、二心、三つ心が生じる。イエスは山上の説教においてパリサイ人のこの心魂の分裂、欲深さを責めていた。イエスは山上の説教において旧約聖書出エジプト記において報告されている神の意志であるモーセ律法(業の律法)を純粋化、先鋭化し、新しい教えを言葉の力のみによって伝えた。ユダヤ人は自らが選ばれた民として律法を誇り、異邦人や罪人とは異なるという差別的な態度を取っていた。イエスは当時の彼らの伝統的な道徳観そして死後天国か地獄に行くという世界像を自らも引き受け、議論の前提を彼らと共有することに基づく対人論法(argumentum ad hominem)により、ユダヤ人の道徳的不徹底さを、さらにはこの世もあの世もという二心(ふたごころ)に潜む偽りを指摘する。イエスはそこで彼らが依拠するモーセ律法を急進化、内面化そして純化する。その論法はまず定型句で「汝らは聞いている、昔の人々によりこう語られたのを」と切り出して、その言い伝えを引用する。伝統的な教えを提示したのち、「しかし、わたしは汝らに言う」と切り返し、それらの問題点を摘出する。それは殺人、姦淫、離婚、誓い、同害報復、敵への憎しみをめぐって展開され、道徳的次元が内側から突破される。つまり彼らの立場は首尾一貫せず保持できないことが内的に論駁される。
イエスは言う、「「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18,Ps.139:21-22)と語られたのを汝ら(君たち)は聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:43-46)。イエスは家族や隣人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益そして被害や危害との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において差別や支配そして操作が遂行されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。敵は友となることもある偶然的な関係にすぎず、ひとがひとである限り本来的に友と友の等しさつまり愛が成立しうる者だからである。愛とは支配からも支配されるところからも唯一自由な心の場所において生起する我と汝(私とあなた)の等しさである。
二千数百年前「レビ記」の記者により、モーセは「汝の隣人を、汝自身の如くに、愛せよ」と主の律法を取り次ぎ命じたことが報告されている。「汝自身の如くに」により表現している「汝」は自らを愛する愛と同じだけの愛が隣人に向けられねばならないとされている。そのときモーセそしてレビ記記者は愛が等しさの生起であることを知っていた(Lev.19:18,cf.Deut.6:5,10:12)。例えば父と子、夫と妻、教師と生徒等のあいだに、父は子によって父であり、子は父によって子であるその等しさがその都度生起するもの、すなわち、支配からも被支配からも唯一自由な心の場所で我と汝の等しさが生起すること、それが愛であった。「われは汝らの神となり、汝らはわが民となる」(Lev.26:12)。そしてその等しさの生起に向かう歩みも希望における「愛」である。その方向にある限り希望が湧いてくるからである。
山上の説教において乗り越えが企てられている敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。背後に過剰を欲する貪欲が支配している。欲深き者は自らが悪しき者であることを知らない、清さとの対比することができないからである。ひとはコントラストにおいて自らの位置を知る。イエスとのコントラストにおいて自らの穢れを知る。
このように山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろう。争いのやまないわれらの歴史は心情倫理と責任倫理をわけて、後者の視点を多くの場合採用し社会の秩序を守る制度を充実させてきた。「裁くな」、「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済や文化活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は戦争はもとより正当防衛さえ不可能にするため、個々人の心魂の在り方としては賞賛されるが、行政機関、政治は結果責任のもとに到底山上の説教に与することはできないと主張された (Mat.7:1,5:33-37,5:31,5:39)。しかし、このような棲み分けは全体として一つのものであるひとの心とその身体を介した営みを理論上そして実際上分断するものであり、心なき制度化、形式化がはびこり、その前提のもとでの業に基づく比量的正義の追求は人間がそこにおいて最も人間であるその心を苦しめることになる。ひとの良心はそのような棲み分け、二心に満足できず、一切の秩序づけを求める。
その秩序づけをイエスは山上の説教において呼びかけそしてその説教を生き抜いた。かつて敵であったわれらの罪を赦す愛を成就したその方との共知においてわれらの良心は宥められ、その心によって清き者となり平和を造る者となる。われらがイエスの言葉と働きによるご自身の使命と愛の知識を得るにいたるとき、そのとき厳しい律法が福音に包摂されたと言うことができる。そこでは山上の説教は単に言葉ではない。イエスにより満たされた言葉である。それは信そして愛についてのどこまでも人格的な今・ここの共同の知識・良心である。たとえ数式により宇宙の法則を解明したとしても、そこでは創造者なる神は超数学者、物理学者ではあっても、天の父と理解されることはない。
イエスは誰にも担いえない重荷を課す方ではなく、その重荷から解放する信仰に招いていたまう。業の律法のもとに生きるパリサイ人への彼らの自己矛盾を指摘する厳しい言葉の数々も、ご自身がそのもとにある信の律法への立ち返りを促すものであった。イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(Mat.7:11)。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(6:33-34)。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。
4心の成長
ひとは天国への帰一的集中のもとに行為の選択から宇宙の構成の知識に至るまで一切を秩序づける。「それだから、天国のことを学んだ知恵者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものだ」(13:51)。人間に最も重要なことを学んだ者は生の全体のなかで個々のものごとをそれは古いものであれ新しいものであれ自由に適切に位置づけそしてそれに対応して行為を選択することができる一家の主人に似ている。この発言を単にパトスに対して良い態勢にある人格的な有徳性に対してだけではなく、その認知的な卓越性に対する賞賛と読むことができる。
人格的な有徳性・卓越性とは、人間が身体をもった存在者として自ら選択できずに自然にわいてくる喜怒哀楽や憐みそして苦悩などのパトスに対して良い態勢にあることである。哲学者は言う、「パトスはヘクシスのセーメイオンである」つまりひとの心にどんなパトスが生じているかによって、そのひとが培ってきた心の実力、態勢(ヘクシス)がどのようなものであるか分かる、パトスはその実力の徴(サイン・セーメイオン)であると言われる。このパトスに対して良い態勢にある者が人格的に有徳であり、悪い態勢にある者が人格的に悪徳者であるとされる。例えば、正しい人はその怒りのパトスに良い態勢にあるひとである。その人は怒らないのではなく、怒るべき時に怒るべき仕方で適切な量の怒りが湧いてきて、等しさを選択分配する。勇気あるひとは恐れに対して、愛あるひとは喜びに対して良い態勢にある。このようにパトスは身体的反応を伴うことに見られるように、身体を持つことが善悪と関わるものとして人間を特徴づける。
他方、人間は認知的徳・卓越性は真理と偽りの認識に関わる心の態勢を持つ。学問は心のこの部位を訓練する。真理を探究する者は偽りから自由にされ、心に秩序を得る。人生はこの真理と偽り、善と悪の闘いであると言うことができる。
5 結論
心の清い者が平和を造る。
心の清い者、清くされた者は神を見る。ヨブは言う、「どうかわたしの言葉が書き留められるように・・。私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27)。
「心(kardia)」は聖霊が注がれる心魂の最も深い座をも含む思考や感情など心的働きの座・主体である(Rom.5:5)。「汝の宝のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.6:21)。「汝らのおのおのがその心から兄弟を赦さないなら、天の父も汝らに同様に赦さないであろう」(Mat.18:35)。清さは身体全体に行きわたる「良心」と密接な関係にある態勢である。キリストが共にいることにより心が清くなる。そしてそこではものごとが良く見え、最後のところ天の父に守られ導かれていることをも知ることができ、感謝し栄光を神に帰する。この一貫性こそ神に嘉みされる、神が喜ばれる心魂の態勢である。清い者は神を見るであろう。
聖書とは
第二回日曜聖書講義 聖書とは
2022年4月10日
聖書箇所 ヘブライ人への手紙第4章12-16節
神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣より鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。さらに、神の御前では隠された被造物は一つもなく、すべてのものが神の眼には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐みを受け、恵にあずかって、時宜にかなった援けをいただくために、大胆に恵の座に近づこうではありませんか。
1 聖書という書物
聖書は旧約聖書と新約聖書からなる。エルサレムがローマの将軍ティトス(その父皇帝ウェスパシアヌス)の軍により紀元70年に陥落したあと、エルサレムから逃れたユダヤ人学者によりヤムニア会議が開かれ39書がユダヤ教の正典とされた。紀元前10世紀頃から収集された伝承に基づき、紀元前5世紀ごろから旧約聖書が編纂された。
新約聖書はユダヤ人ナザレのイエスが自ら旧約聖書において記録されている神を「天の父」であると説き、自らは神から派遣された「神の子」であると主張し、ユダヤ教改革運動を引き起こした。そしてローマ総督ピラトとユダヤ王ヘロデ・アンティパスのもと処刑されたが甦り、このイエスこそ旧約聖書で預言されたメシヤ(油注がれた者=神から選ばれ意志を具現する者→救世主(ヘブライ語))(キリスト(ギリシャ語))であると直弟子やパウロにより宣教されて、キリスト教が生まれた。そのイエス・キリストをめぐる伝記や手紙そして終末預言からなる27書が新約聖書として2世紀までに成立し、旧約聖書とともにキリスト教の正典とされた。
2 歴史の連続性とそれを支える一神教
二つの書物は歴史の連続性と展開として位置付けられている。その連続性は新旧聖書の神は唯一であり、歴史を導いているという神観のもとに基礎づけられている。イエスは自らが神の子であるという自覚をもったが、自らそれを旧約聖書に基づき立証した。聖書が伝える神は唯一神である。これは中近東、エジプト、ギリシャにおいてもほとんど見られず(一時エジプトでアメンホテプ4世(紀元前14世紀)が一神教を奉じたとされる)、ユダヤ教、キリスト教の神観の連続性と独一性を物語っている。
例えば、パウロはナザレのイエスがキリストであることを論証する433節からなる「ローマ書」において60節以上旧約聖書から引用するが、それはすべてキリストの預言として肯定的に用いられている。イエスの伝記を記した福音書においても同様であり、イエスは旧約聖書の伝統のもとで、福音(信徒を救いだす神の力)を宣教し、そのために処刑されたが、父なる神は彼を甦らしめ、自ら派遣した神の子であることを知らしめている。
3 一神教であることが理にかなっていること
現代の宇宙物理学によれば、138億年の歴史を持つ宇宙は、ビッグバンにより始まったことそしてそれは自然法則のもとに生起していることが解明されている。宇宙に始まりがある以上、終わりがあるということが道理をもって推測されている。これは、いくつかの含意を持つ。まず、われらの頭脳の産物である理性は宇宙の法則を解明できるということである。宇宙の理(ことわり)と同じ法則のもとにわれらの理性が形成されているということである。この広大深淵なる宇宙を理解することができる人類は宇宙の栄光であるということである。またたとえ宇宙人がいたとしても、彼らは光より早く飛べないし、彼らが宇宙法則を理解していたとしたなら、われわれと何らか交信可能であり、恐れるにたらないということである。
神は時空の外におり、時空に支配されない永遠の現在にいまし、宇宙を創造したと聖書で報告されている。これまでの物理学が解明したことがらは、一神教が道理ある主張であることを裏付けている。もちろん、有神論と無神論の問題はこれにより解決されたということではないが、一神論と多神論のあいだの問題は或る道理をもって解決されると思われる。この法則的で秩序ある宇宙が複数の神々により創造されたとした場合、そこに秩序が見いだされる以上他の神々を統一する主神の存在は不可欠となる。争いや分裂は法則性を備えた宇宙に相応しくないからである。一切を統帥する存在者がいるとするなら、人類はそれを「神」と呼んできたのである。人類の歴史は、かくして、初めがあり終わりがあることもそこから推論される。
問題はその神が宇宙の盲目の必然のメカニスムではなく、われらと同じに心を持つ人格者、神格者であるかという問いが残る。創造者が被造物よりも優れたものであるという主張は道理あるものである。われらは宇宙全体を造りえない。われらが人格的である限り、神は或る経綸、計画のもとに宇宙を造り、われらを創造していると想定することも道理ある。歴史にかかわっていると想定することは道理ある。
聖書はナザレのイエスがその神とひとを媒介するまことの人の子そしてまことの神の子であると報告している。
4 聖書の権威 聖書は神の言葉か
一神教が道理ある主張であるとして、人間の言葉で書かれている聖書は神の働きを正しく伝えているのか、単なる人間の捏造ではないのか。聖書の神との関係については二つの理解とその間に多くの立場が想定される。ひとつは「逐語霊感説(verbal inspiration)」というものである。聖書記者はすべからく神から霊感を受けて、それがインクの染みとして伝達されているという理解である。聖書記者はそこでは神とインクの染みのあいだのペンのような立場にあるとされる。それに基づき聖書は神の言葉であり、無謬つまり聖書の言葉はすべて正しく誤りがないと主張される。ただ記者たちは肉の弱さを担っており、眠くなったりなどして伝達のあいだに誤りを認める立場も想定される。この逐語霊感説の対極にあるのが捏造説(fiction theory)である。イエスには精神疾患があり、狂信のもと自らを神の子であると僭称し、人々を誑かしたというものである。聖書記者たちは騙され、何らか自らの欲望のもと、彼についての文書を遺し、人類を誤り導いたという考えである。これらの両極にはさまざまな立場が想定される。
われわれの立場は、唯一の神が宇宙のかなたにいまし、人類をご自身の愛の交わりの相手として創造されたことを信のもとに前提している。神の交わりの相手として責任ある自由をも与えた人間が背いてしまい、生物的死と生存の労苦を罰として与えられた。そのハンディのなかで人類は神との交わりの歴史を紡いできたが、自ら罪と悪とを克服できずに、御子の受肉による派遣を介して救いの道が示されたと信じている。これらの神との交わりが聖書に記されているが、神は人間の限界ある言葉でこのようなご自身の人間への愛と罰が記されることを許容しておられる。文字として神の認識や判断、行為が神の言葉として遺されることを許容し、認可している。そして神の言葉と働きを最も権威ある仕方で伝達するものとして歴史のなかで審判され、逆に審判する書物が聖書である。聖書は神の言葉であるかという問いに対しては、神が人間の有限で誤りうる力能のなかで今あるように伝達されることを許容し、認可したという意味において「神の言葉」である。そして聖書研究を通じて、それは検証され、誤訳がただされ、より神の意志にそうように改善することができると理解している。
5 結論
まとめるとするなら、聖書は人類の歴史のなかで最も権威ある書物として唯一神ヤハウェと神の子イエス・キリストを伝達している。そして生きて働いていたまう神により改善の余地はあるものの今ある仕方でも伝達されうるものとして認可していると言うことができる。
聖書入門:神の探求
2022年度日曜聖書講義第1回 4月3日
聖書入門:神の探求
聖書箇所
「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまたひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからも私を囲み、御手をわたしの上に置いてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え、あまりに高くて到達できない。
どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府(よみ)に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙(あけぼの)の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし御手をもってわたしを導き、右の手をもってわたしをとらえてくださる。
わたしは言う、「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す」。闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない。
あなたはわたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造りあげられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。
(15-17節省略)
あなたの御計(おんはか)らいはわたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを究めたと思っても、わたしはなお、あなたのなかにいる」(詩篇139篇1-18)。
聖書講義(約35回)の探求対象:神そしてひとの心魂(こころ)
〇唯一神: 神の探求は神が宇宙の唯一の創造者、統帥者であることをめぐってなされる。その唯一の神は時間と空間の創造者として宇宙の外に永遠の現在にいます宇宙の栄光であることが聖書(旧約聖書と新約聖書双方)において報告されている。
〇神は知性、人格(道徳)、感性(五感)、そして霊性をその心魂に備えている存在者であるわれら人類に御子を派遣しとりわけ関わり、神は人類をご自身の愛の対象として創造され歴史を導いていることが報告されている。
方法 2000年読み継がれた聖書をテクストとして取り上げる。(そのさい、古典として遺されている哲学書等における人間や存在の探求を参照にする)。
〇「聖書」はThe Bookと呼ばれる古典として人類の吟味、検証を経て歴史に遺されている。古典は歴史の審判を経ておりしかも歴史を審判するものとして人類の歴史を導いている。古典テクスト研究の確かさの実験、検証は各人の日々の人生そのものにより確かめられる。聖書は科学や心理学、社会学の実験や調査による定量化、数量化による仮説の検証と矛盾せず、相補的である。
〇「聖書」は「神の言葉」であるということの理解について。
聖書は「ヤハウェ(ヘブライ語、固有名)」と呼ばれる「神(エル)」とその神により選ばれたイスラエルの民との関わりの記述とその歴史的展開が旧約聖書として39書残されている。その展開のなかで神はご自身の御子(イエス・キリスト)を受肉(ひととなること)により人類に派遣した。ナザレのイエスの伝道および受難と復活の記録が新約聖書として27書残されている。 (「イエス (ヨシュア)」は固有名、「キリスト」は旧約聖書において神に選ばれた人物が預言者や王として立てられるその職務授与のさいに、儀式として頭に「油注がれる」ことに由来。(「油注ぐ」メッシャー →メシヤ (ヘブライ語)、キュリオー →キリスト(ギリシャ語)」))。
聖書はヘブライ語やギリシャ語という人間の文字で書かれている。その聖書は「神の言葉」と言われることがある。その理解として、様々な立場が想定されている。最も強い解釈は逐語霊感説(verbal inspiration)と呼ばれる。神によるイスラエルとの交わり御子の派遣とその生涯の記録は神の使いである聖霊により聖書記者たちに息吹を吹き込むようにあらゆる言葉を伝え、聖書記者たちはペンのようになり神の言葉がインクとして流れ出たという理解である。最も否定的な解釈としては神は聖書記者たちにより捏造された偶像であり偽りであるという虚構説(fiction)が考えられる。
この講義の立場は人類の歴史に最も影響を与え続けた古典として遺されてきた書物であることに対する尊敬に貫かれる。当方に理解できないことがあるとして、それは当方の知性や心魂の未熟さ故のことであり、宇宙の栄光として宇宙の外にいますそして人類を愛のもとに創造した存在者への探求に貫かれる。ルターは言う、「聖書を正しく理解するところ、そこに聖霊が宿る」。神と人類を媒介する聖霊の援けを得ることができるかも知らない。
「聖書」が「神の言葉」であるということの理解として、最も道理があると思われるものはこうである。一方、神ご自身について語り理解することができる知性的存在者である人類が宇宙全体とともに創造された限りにおいて、同じ知性的存在者として神がその宇宙の法則や宇宙の目的とともに人類に理解されることを許容しておられると想定することは道理ある。他方、人類がその歴史のなかで陥った神への背きに基づく悲惨と窮状を救出すべく神が御子を派遣した限りにおいて、人類は神の愛の対象であると理解することは道理ある。この知性的であり愛の対象である人類により神ご自身が人間の言葉で理解されることを認可したと想定することは道理ある。これに基づき、神と選びの民さらには人類全体との交わりが人間の言葉で記録されることを許容したという意味において、「聖書」は「神の言葉」であると理解することができる。当然人間の知性や道徳性の弱さそして言語の限界により、様々な神認識や状況認識とその報告において誤りや不備が見られるであろうが、それは聖書記者ならびに人類の限界として理解される。
当方としては、70年近い人生において聖書の理解に取り組んできたが、聖書に裏切られた経験は一度もない。人間そして自己の探求、理解において聖書に基づきまた他の古典文書に基づき探求してこれたことを喜び感謝している。それは当方の理解があまりに低いためということもあるであろうが、人生の経験全体を通じて聖書が伝える神を求め、共に生きてきたことを感謝し賛美している。詩篇詩人は言う、「測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業(しぎょう、ゆずり)を受けました」(Ps.166)。