福音と剣―Soft Powerによるhard powerの秩序付け―
福音と剣―Soft Powerによるhard powerの秩序付け―
「私は汝らに平安を送る、世が与えるのではない仕方で平安を与える。心を騒がせるな、怯えるな」(ヨハ14:27)。
この春、剝き出しの暴力を目の当たりにして、その対極にある平和の君イエスを仰ぎ見る。彼は強い者には仕えることを促し、柔和と謙りの究極のsoft powerを纏い驢馬の子に乗り入城する。「娘シオンよ、踊れ歓呼の声をあげよ。視よ、汝の王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた、高ぶることなく、驢馬の子に乗ってくる。エフライムから戦車と軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国民に平和が告げられる」(ゼカ9:9)。
福音と剣の関係はいかに?無差別な殺戮に極まる理不尽を為しうる人間とは何者か?この問いは人間の理性の明晰性、受動の深さに宿る感性、聖霊に反応する霊性その最先鋭地点における魂の総合的な力の結集を要求する。柔和力が力の政治を秩序づけうるのかが試されている。「愛を介して働いている信が力強い」(ガラ5:6)。
双方に言い分はあろうが、「プーチンよ、何を恐れる私と直接交渉せよ隣人だ」と呼びかけ最前線で同胞を鼓舞し続ける者の潔さと宮廷で国営航空美女に囲まれ空しい言葉を弄する者の放つ偽りの腐臭、両大統領の魂の著しい対比は人類の光と闇を象徴する。一時委託された「カエサルのもの」は畢竟万物の統帥者「神のもの」であるように、ひとの責任ある自由は相対的自律に留まる(マタ22:15)。為政者が自ら端的自律と錯誤する時、「神の怒り」は罪への「引き渡し」のなか欲望に任せることがある(ロマ1:18)。イエスは命令に従背可能な中立的で自律的な人間社会を引き受け、裁判制度や戦争の現実から目を背けず、しかも「先ず神の国とその義を求めよ」と信仰に招き、福音のもとに律法と社会を秩序づける信の根源性を生き抜いた(6:33,5:25, ルカ22:37)。
「汝らの肉の弱さ故に」身体の限界を自己の限界と捉える「人間中心的な語」りがあり、「汝らの心の頑なさ故に」モーセは離縁を許したと主は語り、肉への譲歩は弱さと頑なさ故になされる(ロマ6:19,マタ19:8)。ひとはどこまでその譲歩に甘えるのか。山上の説教を正面から引き受けた人々は肉の弱さを乗り越え、その霊によって貧しくその心清く「天の父の子」として神との正しい関係においてのみ満たされる心を持つ。
SNSの時代、戦場にsoft powerが際立つ。別れに母に抱かれ父の兜を叩き続ける幼児、侵入敵兵を胆力で追い返す老夫婦、柔い歌声で避難所を慰めで満たす少女。この独一無比の魂をもつ無辜の民を守るべく、不屈の精神でhard powerにより死を賭して抵抗する兵士、この状況でそれ以外に為す術はあるのか。
イエスは弟子の伝道派遣時においてそしてもはや支援なく自助以外に術がない時、異なる命令を与える。「さあ行け、財布も袋も持っていくな」、「今は、財布ある者は持っていけ、袋も。剣のない者は、上着を売って剣を買え」(ルカ10:3,22:36)。主の命令は愛を介する信の普遍妥当する命令のもとに一切が秩序づけられるが、イエスは状況、文脈に応じて柔軟に命じる(「状況依存テーゼ」)。愛する者を守るべく生命を賭す不可避の状況がある。捕縛のとき、イエスは弟子にその耳が切り落とされた官憲を憐み癒した。愛敵の憐みのなかで、剣購入を命じ弟子に主を守る機会を与えたが、彼らは皆逃亡した。イエスご自身は苦難の僕の預言に呼応して無抵抗を貫いた。「静まりて私の神たるを知れ」(詩46:10)。「汝ら立ち帰りて静かにせば救いをえ、平穏にして依り頼まば力をうべし」(イザ30:15)。苦悩のパトスに沈む時、理性や良心は麻痺される。冷静に事態を見究め、心魂の根源的態勢である信に立ち帰るとき、憐みと公正、愛と正義が力強く動き出す。
各人の与件や立場により判断や実践は異なるが、誰もがPutin的なもの、救い難きわが身を抱えている。今こそ文字の律法ではなく、今・ここで働いている柔和力の究極の主を仰ぎ、悔い改め、われらの外に明確に立つ福音に立ち帰ろう。イエスご自身は神の子の信の従順を貫き磔られ、神の前の救いを確立した。神はイエスの信の従順を嘉みし、死者たちから甦らせた。人類はこれにより永遠の生命の在り処を明確に知らしめられた。
常に「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(ロマ14:22)と自らの責任ある自由を神の前の事柄に結び付けるよう命じられている。その事柄は贖罪と永遠の生命であり、信の対象である。神の前と人の前の今・ここの人格的な働き(エルゴン)上の分節は「キリストを引き裂くことだ」と宗教改革者は拒否し聖霊の執成しを常に求めた。この永遠の生命がもたらす平安はこの世界が与えるものと異なる。肉の弱さへの譲歩に胡坐をかくことなく目覚めおり、その都度神の子の幼子の信の根源性に立ち帰り柔和と謙遜の主の軛に繋がれ真直な道を共に歩もう。「雄々しかれ、われ既に世に勝てり」(ヨハ16:33)千葉惠(3月15日記)。
福音と剣
福音と剣
日曜聖書講義(ロシアによるウクライナ侵攻のときに) 2022年3月6日
聖書朗読
「さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。 もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい」。そこで、彼らは出かけて行き、そして表通りの戸口に、ろばの子がつないであるのを見たので、それを解いた。すると、そこに立っていた人々が言った、「そのろばの子を解いて、どうするのか」。弟子たちは、イエスが言われたとおり彼らに話したので、ゆるしてくれた。そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。
すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、
「 ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。
今き たる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた」(Mac.11:1-11)。
ゼカリアは預言する。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。
1戦時に平和の君を静かに思う
馬ではなく驢馬は平和の象徴となる。イエスはゼカリヤの預言通りにろばの子に乗ってエルサレムに入場した。「ホサナ」即ち「どうか救ってください」というヘブライ語が歓呼の呼び声として用いられている。英国国歌の名称God save the Queen.もホサナからとられたのであろう。救い主のエルサレム入場を祝福し、「万歳」とでも訳すべき仕方で群衆は「ホサナ」と叫んで出迎えた。ゼカリヤの預言がここで成就した。
わたしどもは今狂気を目の当たりにしている。ゼレンスキー大統領は「プーチンよ、何を恐れている、私と直接交渉せよ。私は君の隣人だ」と和平を呼びかけている。双方に言い分はあるにせよ、人々はロシア兵士と国民の良心に望みを抱いている。争い、これは家庭でも学寮でも地域社会でも国同士でもどこにでも起こる、この残念な事象。為すすべもなく、ただこのなかに巻き込まれていくのか。人類にこれを克服する道は残されていないのか。わたしにはそんなとき、決まって平和の君イエスを思い出す。彼に一縷の望みを抱く。静かに彼の教えに耳を傾けたい。心を騒がせずに、救い主に眼差しを注ぎたい。
わたしどもが絶望や苦悩等のパトスにからめとられる時、良心は一時的に麻痺される。良心は共知であり、知識は感情や情念にひきずられているとき、働かないからである。良心は育った家族や世間との共同の知識から、「われらはキリストの叡知を持つ」(1Cor.2:16)という仕方でのキリストを介した神との共知に至るまでに変異があり、良心の呵責や平安として発動する。パウロは言う、「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11、Rom.9:1)。
神との良心が発動するためにも、心静かにしておくことが求められている。イザヤは伝言する、「汝ら立ち帰りて静かにせば救いをえ、平穏(おだやか)にして依頼(よりたの)まば力をうべし」(Isa.30:15)。詩人は賛美する。「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、神がその声を出されると地は溶ける。万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である」(Ps.46:1-11)。
私どもは停戦を祈りつつ心を落ち着け、人類の平和を希求していきたい。イエスは言われる。「わたしは汝らに平和を遺し、わたしの平和を与える。わたしがこれを与えるのは、世が与えるその仕方においてではない。汝らの心をして騒がせしめるな、怯えさせるな」(John.14:27)。まず世が与える平和とは異なるキリストの平和に預かりたい。
2 相対的自律性
わたしどもはいつも聖書の教える平和と現実世界を支配しているパワーポリティックスにおける抑止力による平和などのあいだに緊張を強いられている。もちろんこの大きな問題に本格的に取り組むことはできない。議論のたたき台として方向を示唆したい。現在ウクライナで起きている惨状を前にして、現実的な判断を迫られるとき、今学んだろばの子に乗ってやってきて、無抵抗のうちに信の従順をその死にいたるまで貫かれたイエスといかなる仕方で関連づけることができるかを学びたい。
イエスは弟子を伝道に派遣するとき、二つの異なる命令を与えている。
(1)「さあ行け。・・財布も袋も持っていくな。誰にもあいさつするな」(Lk.10:3-4)。
(2)「今は、財布のあるものは持っていけ。袋も同様に持っていけ。また、剣のない者は、自分の上着を売れ、そして剣を買え」(Lk.22:36)。
[「それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。(2)「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた」(Luk.22:35-38)。]
(1)(2)は命令が語られる文脈を考慮しなければならないことを告げている。主の命令はあらゆる文脈において妥当するわけではない。それはあらゆる歴史的状況、文脈で杓子定規に適用されねばならないわけではない。そのように取られたなら、ナザレのイエスご自身が迷惑に思われるであろう。金持ちの青年に対する次の命令も同様である。
(3)「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやれ。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、私に従え」(Lk.18:22)。
誰もがこの発話の文脈を無視し、普遍化するなら、一定の富の総量と閉じられた小さな社会において、貧者が富者になった瞬間、この命令(3)により貧者となる、そのような際限なき貧者と富者の循環する社会が成立するでもあろう。イエスは反対のことを命じることもあり、歴史状況、文脈を参照して、命令を解さなければならないことを告げている。これを「状況依存テーゼ」と呼ぶことにする。
(2)はいよいよイエスが受難の時を迎えての発話である。生命を賭すその文脈で、弟子たちは主の受難により逃亡離散するが、自衛のために戦うこともある文脈を想定している。そして捕縛のとき、弟子が官憲の耳を切り落とすと、イエスは手をおいて癒した。この行為は憐みの中で遂行された。敵をも愛する憐みのなかで、剣の購入が命じられた。それは生存を計る弟子たちの何らか配慮である。イエスご自身は神の子の信の従順を死に至るまで無抵抗により貫いた。神はこの信の従順を嘉みし、死者たちから甦らせた。この事実は平和を考察するとき、最後まで常に心に留めることが求められている。神の義の啓示の媒介としてこの信は用いられ、人類はこれにより永遠の生命の在り処を明確に知らしめられた。この永遠の生命がもたらす平和こそ、この世界が与えるものとは異なるものである。
この啓示の前提のもとに、われわれは相対的自律性のもとで、神に従うことも従わないこともできる中立的な存在者として位置付けられ、この中間時を生きている。パウロは「汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)と、神の前のことがらに鈍い肉の弱さに譲歩して人間中心的に語ることがある。イエスもモーセ律法の離婚のさいの離縁状について、「君たちの心が頑(かたく)ななので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」(Mat.19:8,cf.5:31)と語り、肉の弱さに対し譲歩している。イエスは相対的に自律したものとして人間社会を受け止め、裁判制度や戦争の現実をさらには弟子が剣を持つことを否定してはいない(Mat.5:25,Luk.22:37)。もちろん、ひとはどこまでその譲歩に甘えるのかが問われている。山上の説教を文字通りに受け止めるひとびとは肉の弱さへの譲歩を乗り越えた人々である。命令形に象徴的にみられるように、命令に従うことも背くことができる責任ある自由のもとに生きていることが前提にされている。
納税義務をめぐってイエスを罠にかけようとしたパリサイ人にイエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に納めよ」と応えている(Mat.22:21)。一時的に委託された「カエサルのもの」は畢竟万物の統帥者である「神のもの」であるように、ひとの責任ある自由は相対的自律性に留まり、常に「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の事柄を自らの事柄と受け止めるよう励まされている。
3神とこの世の権力の関係
パウロも、権力に対する服従を相対的な次元で捉えている。「すべての魂は優越する諸権威に服従せよ。なぜなら、神によるのでなければ権威は存在しないからであり、現存するものどもは神により任命されているからである。かくして、権威に反抗する者は神の定めに抵抗しているのであり、抵抗している者たちは自らに裁きを招くであろう。なぜなら、支配者たちは善行に対して恐れであるのではなく、悪行に対してだからである。汝は権威を恐れないことを欲している。善を為せ、そうすることにより汝は権威自身から称賛を受けるであろう。なぜなら、それは汝にとって善きことへの神の補佐だからである。しかし、もし汝が悪を為すなら、恐れよ。なぜなら、それはいたずらに剣を帯びているのではないからである。というのも、神の補佐は悪を為す者に怒りのうちに罰を与えるからである。それ故に、単に怒りの故にだけではなく、良心の故にも服従する必然性がある。六実際、その故に汝らは税をも納めているからである。なぜなら、彼らがまさにこのことに献身している限り、神の従僕だからである」(Rom.13:1-6)。
ここで為政者は端的に自律したものとしては捉えられていない。権力は歴史に善を生み出す限りにおいて「神の補佐」として位置付けられる。神の権威のもとで剣を帯びること、つまり強制力をもって秩序の維持を担うことが委託されている。そして権威を恐れないことを望むなら善を為せと命じられている。これには誰もが同意できるであろう。他方、権力を持つ為政者について「彼らがまさにこのこと[善を生み出すこと]に献身している限り、神の従僕だからである」と言われ、もし良き秩序に仕えない権力者がいるとするなら、もはや神の従僕とは看做されていない。この過ぎ去りつつある中間時にあっては、権力者に抵抗しなければならない時が来ることが分かる。為政者は自らを端的自律性のもとにあるとみなし国と国民の平和と幸福追求の名のもとに罪に魂を引き渡しがちである(偶像化の危機)。そのときは状況に応じて抵抗の仕方が一様ではないことは先に確認した。剣を携行したとして、「剣によって立つ者は剣によって滅びる」(Mat.26:52)という、少なくとも、警告のもとにある。捕縛の前彼は弟子に切られた官憲の耳を癒し、敵をも愛した。イエスご自身は信の従順を貫き無抵抗のまま死に至り神の前の救いを確立した。それ故に、われらの外に神の救いの意志は明確に確立された。
個々人の与件や立場は異なる。為政者は国と国民の平和を造り維持する義務を担う。個々人の立場の異なりにより状況判断と実践は異なるが、誰もがわれらの外に明確に立てられた福音については同意できる。その同意内容はこの世のものではなく、復活と永遠の生命の在り処をめぐるものであり、信の対象である。
信じる者は神の前のことがらとの関連で現実を受け止めるよう命じられている。われらの一挙手一投足はこの神の前の救いとの関連で選択される。「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。ひとは自らの責任ある自由のもとで信じるが、その内容は神がイエス・キリストの信においてわれらの信を理解していたまうということを信じる。イエスが持った「幼子」の信仰にイエスご自身により招かれている。
肉の弱さへの譲歩に胡坐をかくことなく目覚めつつ、「残りの者」として心魂を刷新しつつ恐れず、喜んで細い真っすぐな道を歩みたい。「雄々しかれ、われ既に世に勝てり」(John.16:33)。
4イエスの柔和こそ平和を造る
憐み深いイエスに従う歩みは共同体において、キリストを首(かしら)とする一つの有機体を形成する。各自はその統一的な生命ある有機体の各部位として自らの特徴を用いて活動し、その体につらなり貢献する。それによりイエスによるご自身が神の子であるという信とそれに基づく憐みは、ひとに特権意識ではなく、低くなることを教え、自らのグループの特権的な自己栄光化を阻み他のグループを見下す党派心を乗り越えさせる。
イエスは弟子たちによる伝道がこの世界で重く見られない幼子のような者たちを介して実現されていること、すなわちこの世の権力を介せずに実現されていることを賛美した。それ故に、これらの栄光が権力者たちに憎まれ妬まれ彼に苦難の道を強いている。権力者たちに媚び諂い、彼らに奇跡をなす権能を与えることはなかったからである。
福音とは、博識な者や立派な者たちのものではなく、モーセの業の律法を突破するものとして、他に縋ることのできない罪人を招く信の律法のことである。心魂の根源に信が生起するとき、救いの 確かさのなかで平安と喜びが出来事となるまさにそのものであった。心魂の根底が偽りから、裏切りから解放されるのは、「目には目を、歯には歯を」のように常に比較考量のもとにある業のモーセ律法の遂行によってではなく、比較を絶した善が、恩恵としての罪の赦しがこの世界に実現しそしてその確かさへの信に基づき、人生の一切を秩序づけるときである。この世のものに頼るものがあればあるほど、ひとはこの根源的な信に立ち返ることが難しい。「祝福されている、その霊によって貧しい者たち」(Mat.5:3)。この世にすがるべきいかなる者も持たない者、この世のいかなるものによっても満たされない者、そういう者たちが神を求める。
福音はこの神への眼差し求めがイエスにおいて成就されたと告げ知らせる。イエスは「天の父の子」にふさわしいはずの平安と喜びそして愛がこの地上にはなく、羊飼いのいない羊のように彷徨っている群衆に深い憐みを感じた。そして、天国について教え始めた。「群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れみ」、「彼らに多くのことを教え始められた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。その憐みのなかでの神の国の宣教すなわち神の国がどのようなものであるかについての「教え」とそれがもたらす知識は弱ったひとびとを救いだす力である。イエスの憐みは天の父の子がいかなるものであるかの知識と、それとの対比、コントラストにおいて、何も知らずに彷徨っている人々を見たことのギャップから自然に湧き出てくるものであった。
彼のこの憐みのパトスと平和と柔和な心持こそ、ひとびとのあいだの争い、諍いそして憎悪さらには国内での分派、分裂、さらには国家同士の戦争のうちに時を過ごす人々の悲惨な現状を克服したいという意志が彼の公生涯を特徴づけた。「河あり、その流れは神の都を喜ばしめ、至上者(いとたかきもの)の住みたまふ聖所をよろこばしむ。神そのなかにいませば都は動かじ、神は朝つとにこれを助けたまわん。もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国はうごきたり、神その声をいだしたまへば、地はやがてとけぬ。万軍の主はわれらとともなり、ヤコブの神はわれらのたかき櫓(やぐら)なり。きたりて主の御業をみよ、主はおほくのおそるべきことを地に為したまへり。主は地のはてまで戦いをやめしめ弓をおをり、矛(ほこ)をたち戦車(いくさぐるま)を火にてやきたまふ。汝ら静まりてわれの神たるを知れ」(Ps.46:4-10)。
神はこの約束を守るべく、御子を地上に派遣された。平和の君は驢馬(ロバ)の子に乗ってくる。イエスは驢馬の子にのってやってくる平和の君であった。「平和を造る者」は山上の説教の第七福であった。その彼の軛に繋がれて歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与える者となる。平和の君だからである。ゼカリアは預言する。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。この神の御子の故に人類は平和への希望を持つことができる。
イエスは彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(Luk.11:28)。
5 キリストにある一つの体の形成
イエスと共にある平安は次第に隣人に伝わっていく。そしてキリストにある一つの体を形成していく。キリストが共にいます限り、ひとは彼を介して一つの有機的な体を構成すると考えられている。その特徴はパウロによれば同じ思いを持つということ、即ち、キリストとの関連において一切を考察するようになるということである。「われらの主イエス・キリストによってわたしは汝らに勧める、それは汝らが皆同じことを語りそして汝らのあいだに分裂がなく、汝らが同じ叡知においてまた同じ認識において秩序づけられてあるためである」(1Cor.1:10)。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮する[に至る]ためである」(Phil.2:1)。
キリストへの帰一的なかかわりを持つ限り、ひとはそれぞれの個性を持ちながら同じ思いを共有し、それぞれの特徴をその一つの体の働きのために発揮する。イエスはご自身を葡萄の木にわれらをその枝になぞらえている (John.15:1-5)。イエスに繋がれている限り「多くの実」を結ぶとされるが、それは何よりも農夫である父なる神が喜ばれるものである。それは天国における果実であり、必ずしもこの世の成功ではないであろう。
われらはキリストにつらなる体の各部位である(1Cor.12:12-27)。まずわれらに求められているのは信仰により神との正しい関係にはいることである。そのとき、ひとは一つの体の一部位であることを、自らの役割を知るに至る。種蒔きのたとえ話にあるように、自らが良き土地に蒔かれた種であることを知り、自らの自然的な与件の能力の30倍、50倍の実りをもたらすこともあろう。
神との正しい関係におかれるとき、われらはひととの横の繋がりにおいても秩序づけられる。われらはキリストを介してそれぞれの人のタレント、特徴を知り適切にお互いに位置付けることができる。各人の能力や才能を神との関わりで見るがゆえに、直接的な関係において生じる嫉妬や羨望とは無縁であり、いかにそれぞれの能力が協力しあって、良き実を結ぶに至るかに集中する。「汝らはキリストの体であり、諸部分に基づく器官である」(1Cor.12:27)。身体の諸器官は中枢的な指令部位との関連においてそれぞれの機能を持つ。一つの霊を飲んだ者たちはキリストの体となり、有機的に一つのことを思いまた行う。
この有機体の主張には、血液が体全体をめぐるように、聖霊が中枢部から注がれそれぞれの器官をめぐり一なる働きを遂行させる。聖霊は人々に喜びを与え秩序ある働きを生み出す。神の憐みのもと個々人に聖霊を与えられることもあろうが、「ペンテコステ(五旬祭)」のときのように、共同体に集団で与えられることもある。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえに留まった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話だした」(Act.2:1-4)。
人類はこのような仕方で憐みを受けつつ、神とひととの交わりを形成してきた。有機的な一つの体として神に栄光を帰するそのような共同体、集団が出現したなら、どんなに幸いなことであろうか。しかし、歴史はそのような統一された共同体とともにその共同体の分裂を報告してきた。
6 党派心の根にある誘惑への身の引き渡し
弟子たちの間でなされた誰が偉いかという議論はただちに党派主義(sectarianism)に通じる。「弟子たちのあいだで、誰が自分たちの中でより偉いか、推し量りが生じた。イエスは彼らの心の推し量りを知って、一人の子供の手を取り自らのかたわらにその子を立たせた。そして彼らに言った、「誰かこの子供をわたしの名のうえで受け入れるなら、その者はわたしを受入れている。誰かわたしを受入れる者は、わたしを遣わされた方を受入れる。というのも、汝らすべての者たちのなかでより一層小さな者である者はその者こそ大きいからである」。ヨハネは答えて言った。「先生、われらは或る者があなたの名前において悪霊を追い出しているのを見たので、彼にやめさせました、というのも、われらと一緒に[あなたに]彼はついてこないからです。イエスは彼に言った、汝ら妨げるな。というのも汝らに対抗しない者は、汝らの味方である」(Luk.9:46-50)。
一番偉い者は子分を従え、二番目に偉い者はその子分よりの下の子分を従えることになり、権力、覇権を争うことになるであろう。権腐10年、権力は10年で腐敗すると言う。その一例が、ヨハネの応答にはしなくも顕れている。或る者がイエスの名前に言及することにより、悪霊を追い出していた。ここで悪霊とは、イエスの癒しの事例によれば、暴れまわる凶暴さを示すそのような手に負えない乱暴狼藉を働く一種の心の病である。それを或るひとがイエスの名によって癒したと報告されている。
イエスが非ユダヤ人の土地であるガダラ地方に着くと、悪霊に憑りつかれた者は不浄とされる墓場からでてきたと報告されている。ルカによれば、「ゲラサ」と呼ばれる土地の「墓地に住んでいた」裸の男が悪霊につかれていたが、イエスは悪霊を豚に乗り移らせたことにより正気に戻った男の話が報告されている(Luk.8:27)。ガダラにおいては、イエスは憑りついた悪霊を追い出し豚のなかに追いやると、豚の群れは下の湖になだれ込み死んだ。彼らが正気に戻ったかは報告されていないが、憑りつきから解放された以上、ゲラサの墓堀人と同様癒されたのであろう。
他方、豚飼いたちは豚を死なされたことからくる経済的損失を蒙ったために、イエスを村から追い出した。地上の宝に心を奪われている者はたとえ神の働きを目にしても自らの利益にとらわれ、人が癒されたことで神を賛美することはなかった。まさに「汝の宝のあるところ、汝の心もある」(Mat.6:21)である。われらも悪霊に憑依されることを何らか経験している。心の平衡を失い平安が去ってしまい心がささくれ立ち、悪しき思いに満たされることを経験する。もちろんそこに程度はあるが、何か自らのうちにないものに心魂を引き渡してしまっているそのような感覚を持つこともあろう。ふとしたことで平安を取り戻したときなど、正気を失っていたと気づくことがある。二度と罪の奴隷の軛に繋がれたくないと思う。
一旦、自らの心魂を引き渡してしまうとどこまでもそれはエスカレートしてしまう。「穢れた霊は、ひとから出ていくと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、「出てきたわが家に戻ろう」と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、でかけて行き、自分よりも悪い他の七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう」(Mat.12:43-45)。ひとは自らの心に生の方向を失うとき、空虚となり、誘惑にかられやすい。一度、何らかの憐みにより悪しき思いから解放されたとしても、聖なるものに守られないとき、もっと悪い思いがひとを虜にすることがある。これはわれらも何らか経験していることである。
イエスの聖性に気が付くとき、自らの穢れの深刻さ、尋常ではなかったことに気づかされ身震いする。眠らされていたのである。悪霊に憑りつかれるこれらの話は、過去のおとぎ話ではない。聖なるものとの対比においてのみ、われらの悪しき思いは聖性に対抗する穢れや悪の仕業であることを知るに至る。
パウロと共に心を新たにする。「15それでは、どうか。われらは罪を犯そうか、われらは律法のもとにではなく、恩恵のもとにあるのだから。断じて然らず。16汝ら知らぬか、汝らが自らを奴隷として従がうべく捧げるその者に、死に至る罪のであれ、義に至る従順のであれ、汝らは汝らが服従するその者にとって奴隷であることを。17しかし、神に感謝あれ、なぜなら汝らは罪の奴隷であったが、汝らが心から手渡された教えの型に服従し、18罪から自由にされ義への奴隷とされたからである。19われは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る。すなわち、汝らはまさに汝らの器官を無律法に至る不潔と、無律法に奴隷として捧げたごとくに、今や汝らの器官を聖さに至る義に奴隷として捧げよ。20というのも、汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であったからである。21では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである。22しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さに至る果実を持している、その終局は永遠の生命である。23なぜなら、罪の[奴隷への]給金は死であるが、神の賜物はわれらの主キリスト・イエスにある永遠の生命だからである」(Rom.6:15-23)。われらは罪の奴隷であったとき、それが自らに破滅をもたらすものに魂を売りわたしていることに気が付かない。そのコントラストを、即ち聖なるものを知ることによってのみ、それがいかに醜悪なものかを知るにいたるかるである。
醜悪なものとは、或る場合には、自分たちは特別であると他者や他のグループと差別化をはかる党派的な思考、党派主義である。これもコントラストを知ることなしには、いかに醜悪な思考であるかに気付くことはない。党派心は人間の自然であって、誰かに従属することにより保護を受けつつ、敵対する者に対しては蹴落とし、破滅させようとし居丈高になる。弟子ヨハネもその一人であった。権力や数を支配する者が偉い者である。イエスはその考えと戦う。
問題は、ひとは自覚せずにもいつのまにか信じることにおいて教祖とともに自己を絶対化しがちであるということである。人格が高潔であればあるほど、誘惑は大きくなるであろう。サタンは多くの者たちから賞賛を得ているその者を堕落させるなら、罪と死の支配を広げることができるため、さまざまな党派主義への誘惑をしかけてくることであろう。そしてそれがキリスト教の分派の歴史であった。人生は朽ちる栄冠を獲得する競争ではなく、朽ちぬ栄冠をいただくべき罪と悪との戦いなのである。
7 イエスの信とわれらの信・信仰―「信」の二相の判別による乗り越え―
「信仰・信」の二相を判別することにより、イエスご自身における信の在り方はわれらの信・信仰の在り方の目標であり続ける。「神はイエスの信仰・信に基づく者を義とする」(Rom.3:25-6)。またパウロは命じる、「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。常にイエス・キリストにおいて生起した神の信義を自らのこととするよう勧められている。他方、われらはその啓示の媒介となった「イエス・キリストの信」とは異なり相対的な世界で生きている。「6われらはわれらに賜った恩恵に即して異なる賜物を持っているので、もし預言を持つならその信仰の割合に即して、[賜物を用いよ]」(Rom.12:6)。
われらは肉の弱さのゆえに、信仰においても程度の世界に生きている。この自覚がないとき、イエスを崇めているつもりでいつの間にか自己をイエスに同化させ、他のグループから自らを特権化してしまう。イエスには偽りがなかった。彼は言葉と働きのうえに乖離がなかった。山上の説教を語り、それを実現すべく十字架の道を歩み抜かれた。彼はその心によって清い。彼はひとの内心をよく見抜いている。おのれの保身や自己栄光化、他者への恐れ、自己卑下そのようなものからまったく自由であった。イエスはご自身を神に至る唯一の道であること、彼自身が真理であり、生命であることを主張せざるをえない。自ら神の子であるという信のもとに生き抜いた者が他の者たちに他の道を勧めるということは信義の問題として、すなわち裏切りの問題としてあり得ないことである。イエスは山上の説教において究極の道徳を語った方であり、それを実現すべく信の従順を貫いた方である。
端的に言って、山上の説教は聞く者自らの偽りを抉り出す。どこかでひとは自己と他者そして神をごまかしていることが、道徳的次元だけで明らかにされてしまう。イエスはここで信仰にも奇跡にも訴えることなく、ただ言葉で聴衆の良心に訴えている。「「目には目を、歯には歯を」(Ex.21:23)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、「悪人に手向かうな」誰であれ、汝の右の頬を打つなら、左の頬を向けよ。・・・「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:38-39, 43-46)。
ひとは自分を愛してくれる者、たとえば家族を愛する。これは自然なことである。しかし、そこにイエスは二心、三つ心の偽りを見出す。自らの家族から他の家族とは差別化するとき、そこには家族を誇る自己栄光化の欲求が背後にうごめいている。自分たちだけがよい生活ができればよいという自己中心性、自己保存の本能が働いている。これは血を分けた者同士自然な欲求でもあろうが、イエスはそこに偽りを見出す。それほど天国の道徳はひとの思いを超えている。
隣人を愛し、敵を憎むことは一種の二心(ふたごころ)である。敵も隣人であることもあろうからである。自分を特別視すること、それは生存と繁栄にプログラムされた生物にとっては抜きがたい傾向性であるが、そこに良心の鋭敏なひとは偽りを感じる。イエスの聖性とわれらの穢れ、このコントラストこそ正面から引き受けねばならない。さもないとき、福音を知ることはできない。この聖なる方が共にいたまうと約束しおられる。
山上の説教においてイエスはひとが耐えうる限界状況そして為し得る限界状況を明白に提示した。それによって、ひとは何かどこまで落ちてもセーフティネットがあることを見出し、またどこまで登ってもひととしての最高の真実な在り方があることについて権威をもって語りかけられているのを知る。良心が宥められるほどに恩恵は圧倒的であり、その力によりひとはここまで高くなることができるのか、ひとは栄光を棄ててここまで低くなることができるのかをキリストの一挙手一投足において知らされる。 そのイエスは道徳的次元を内側から破り、信仰に招く。
天の父は水臭くない方であり、この世界での生存をケアしている。ただし、人生に最も重要なことはまず神の国と神の義を求めることであるとされる。彼は山上の説教においてひとの罪や悔い改めを語らずに自然が神の被造物であることへの言及のなか、その「天の父の子」となるように招く。イエスは群衆にガリラヤの野辺で風にそよぐ花々をそして澄み渡った乾いた空を舞う鳥たちを指さしながら、生きることの祝福を語った(Mat.6:25-34)。明日のことを煩うな、一日の労苦、悪しきことはその日で十分である。この「煩うな」という命令形を語りうるのは、天の父なる神が養ってくださるからである。まず神の国と神の義とを求めよ、その神の義とは信に基づいて神と正しい関係に結ばれることである。端的にイエスはここで信仰に招いている。聴衆の良心に訴えて道徳的次元を内側から破る対人論法を介して、信の根源性を間接的に説いたのであった。律法について、急進化、先鋭化させて良心の発動に向けて心の最も内奥に訴える議論は「業の律法」を離れることを、業の律法への煩いを棄てて、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である」その信に導いている。神ご自身にとって信に基づく義が業に基づく義よりも一層根源的であることを「イエス・キリストの信を介して」(Rom.3:22)知らしめている限りにおいて、イエスは自らが「神の子の信」(Gal.2:20)に生きることそしてそれをひとに信じるよう要求することは道理あることである。
他方、ひとは「肉の弱さ」において生きており、信仰の強い者もいれば弱い者もいる(Rom.6:19,14:1)。この相対的な世界において、神にとって信が根源的であるなら、ひとにとっても信は根源的であり、信に対して信により応答することがふさわしい。神との関係は信により心魂の根源からのものであることが求められている。神はご自身が「イエス・キリストの信」(Rom.3:22)を介して人類に信実であったとき、ひとは信じるのか、それとも裏切るのかが問われているからである。われらはその啓示の故に「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と命じられる。イエス・キリストにおける神の前の信をそのつど自らのものと信じるよう招かれている。ここに信の二相がある限り、われらは決してイエスを祭り上げることを通じて自己を祭り上げる党派根性はブロックされている。信は根源的なものである以上、神との関係においては他の道は拒絶されているが、ひととの関係においては個々人の心的態勢は強い弱いが帰属する相対的なものである限りにおいて、自らの信仰も啓示の媒介となったイエスの信のようなものではありえない以上、他者に対して寛容となる。われらはあくまでその都度自らの業を誇り、自己を栄光化する業の律法のもとに生きることから悔い改めを介して信の律法に立ち返るのである。そこに党派主義に陥る余地は構造上残されてはいない。
8 結論
ひとは人間のそして自らの不都合な真実に向き合うことを避け、また人生の苦しみに耐えられず、気晴らしや、願望をともなう思い込みに事実を歪めてしまう。イエスはひとがそのもとに創造された神との正しい関係性なしに、その生はどこまでも偽りであり空しいものであることを説き、神への立ち返りと自らが神の子であることを信じるよう促す。彼にはどこにも偽りを見出すことができない。父なる神への信にひたすら生きたからである。その心によって清い方そして憐み深い方だからである。彼についていこうと思う。「不法を赦され、罪を覆われし者は祝福されている。主にその咎を数えられざる者、その心に偽りなき者は祝福されている」(Ps.32:1-2)。「ひと[心]が全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひと[心]は自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。「身体を破壊しても魂[生命の源]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:28)。この信の根源性という究極のソフトパワーにより剣というハードパワーは秩序づけられることが求められる。さもなければ、軍拡競争に歯止めがかからないであろう。人類に絶望だけが残されるであろう。
福音と律法の緊張―心を清め愛する力を与える―
日曜聖書講義 2022年2月6日
福音と律法の緊張―心を清め愛する力を与える―
千葉惠
1 はじめに
本年度最後の日曜聖書講義です。35回目になります。今日は福音と律法の緊張について学びたいと思います。ひとは自らの偽り、醜悪さ、罪深さに慄き、なんとか清められてイエスのようになりたいと思うとき、キリストに従いついて行こうと決心するのです。そしてその果実、その御褒美は神と隣人を愛することができるようになることです。
信仰生活は単純であると言えます。この二年間学寮や学寮の支援者の方々の中にたびたび信仰の熱心に触れることがありました。その方々は一様にこのような動機付けで神への熱心のうちに日々を過ごしておられました。昨年HCDの学寮誕生物語のヒロイン小町勝美さんは「私が初代キリスト教の時代に生まれていたら、ただただ使徒パウロのあとについていって、伝道のお手伝いをしていたことでしょう」という印象的な言葉を遺しています。この情熱をもって学生のために、この登戸の土地を黒崎先生に寄贈したのでした。他にも純粋な思いでキリストに捧げて生きてきた人々を思い出すことは大きな励ましです。ここでは「愛を媒介にして働いている信仰が力強い」(Gal.5:6)というこの信仰と愛を聖書はどうとらえているかを学びたいと思います。愛に生きる信仰の力がどこから与えられるか探求したいと思います。
2 福音と律法
それは伝統的に福音と律法の関係として探求されてきました。「福音」は「信じるすべての者に救いをもたらす神の力能」であり、「愛」は「律法を充足するもの」「律法の冠」です(Rom.1:16,13:9-10)。ルターは「聖書を正しく理解するところそこに聖霊が宿る」と言いましたが、この福音と律法の関係を正しく理解するとき、即ち双方の緊張と秩序付けを正しく理解するとき、ひとは清められ喜びいさんでひとを愛することができるようになると思われます。聖書の研究は生きる力を与えます。イエスと交流のあった人々は「このひとの知恵と力能はどこから来たのか」(Mat.13:54)と不思議に思ったのです。イエスは神との正しい関係を信仰により持つことを通じて、山上の説教において純化されたモーセ律法を成就しました。「信の律法」即ち福音と「業の律法」即ちモーセ律法は二種類に神の義ですが、これら二つの神の正しい意志はイエスにより媒介総合され成就されたのです。福音と律法この二種類は常に緊張のなかにありますが、この地上に生きたひとりの人により実現された以上、われらにも希望が湧いてくるのです。
3 旧約から新約へ、律法の時代から福音の時代へ
イエスには先触れがいました。メシヤ(救い主)の到来を預言した洗礼者ヨハネはユダヤの宗教指導者たちに対し「蝮の子らよ、差し迫っている怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。「われらはアブラハムを父に持つ」とうぬぼれるな。わたしは汝らに言う、神はこれらの石からアブラハムの子孫を呼び起こすことができる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(Mat.3:7-10)。これが伝統的に預言者たちが宣べ伝えてきた神の怒りと審判の告知です。ヨハネは最後の預言者として偽りの生活への悔い改めとふさわしい実を結ぶよう律法を突き付けています。イエスはヨハネとの連続性において「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(Mac.1:15)と新しい福音の時代の到来を宣べ伝えました。
律法の時代から福音の時代へ、これが人類の歴史のダイナミズム、力の源泉なのです。イエスご自身がご自身の言葉と働きにおいて福音を持ち運んでいました。先週お話した神の国の現在性との関連で言うなら、一挙手一投足において神の国を実現しつつあったと言うことができます。「福音」はパウロによればひとが持つ信仰に応答する救い出す「神の力能」(Rom.1:16)です。律法の時代のあとに、時が満ちて福音の時代が到来したのです。神の救いの力が歴史のなかにイエスにおいて顕されたのです。「福音(euaggelion)」とは文字通りには「良きこと(eu)」を伝える「天使・伝令のメッセージ(aggelion)」即ち「喜びの訪れ」です。ひとは御子の受肉とあの信の従順の生涯を神からの良き音信として喜び感謝して受入れてきたのです。
ここでの一つの問がおきます。それではユダヤ人を鍛え、彼らの誇りであったモーセを介して与えられた律法はどこに行ってしまったのか。律法は神がご自身で選ばれた民族ユダヤ人にモーセを介して与えた、神に嘉みされる正しい人生の規範、規準です。これが永遠の現在にいます神の意志である限り、福音により廃棄されるということは考えられない。何らか新しい福音に秩序づけられるはずです。この関係を正しく理解するとき、ひとはエレミヤが糾弾した偽預言者たちが説いたような偽りの「平和」、「平安」に陥ることなく、またユダヤの宗教指導者たちが陥った生命なき律法主義、形式主義に陥ることなく、正しい信仰とその果実として自分自身から自由にされ、愛を結ぶようになると思われます。この力を正しく理解したいものです(Jer.6:14,28:15)。
4 山上の説教
イエスは山上の説教において律法の遂行においてパリサイ人の義に優るのでなければ、天国に入れないとして言います。「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。アーメン、汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」(Mat.5:17-20)。
イエスは神への愛と隣人への愛「これら二つに律法の全体と預言者たちが依拠している」と言い、パウロも「愛する者は他の律法を満たしてしまっている」として業の律法が愛に収斂されると伝統的なトーラー(律法)を急進化により理解しています(Mat.22:34-40,Rom.13:8)。ここでパリサイ人との関連で語られる「汝らの義」はまず業のモーセ律法の遵守による正義のことを意味しています。そしてモーセ律法は愛に収斂されます。イエスはモーセ律法を純化し極性化して言います、「敵をも愛せよ」。山上の説教における憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの新しい教えは尋常ではありません。これらの言葉はそれを正面から引き受けるひとには良心即ちイエスとの共知(sun-eidēsis, con-science)の痛みの発動を引き起こすに十分です(5:22,5:28,5:39)。人類はこのイエスの戒めに、一方で人類への絶望から解放される教えを受け取り、他方、山上の説教の前に身がすくみ、懐疑と反論を提示してきました。
山上の説教は一方では人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、人類の誰かによって語られたことただその事実によって人類に絶望せずにすむと思われます。他方では、「律法は怒りをもたらす」(Rom.4:15)とあるように、これが告発者となり、これを語ったイエスは人間にはとうてい満たしえない心的規範また行動規範を与えており、誰にも負えない重荷を負わせ、道徳的苦悩をもたらすだけなのではないか、彼はそれによって彼の追随者たちをただ神の怒りのもとに怯えさせ苦しめる者なのではないか、説教それ自身は神の審判に他ならないのではないかとの問いと懐疑が提示されてきました。
それらの懐疑への一つの応答は、聴衆は誰もその教えを守り切ることのできないことを知らしめその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすことを信じるよう促しているというルター主義的な理解です。この理解のもとではイエスは純化させたモーセ律法の枠のなかに留まっており、この説教は聴衆を福音に追いやる機能を担っていると主張されます。この解決案によれば律法と福音を審判と救いという仕方で二元的に峻別しているように受け止められます。しかし、生身のイエスご自身が律法の伝統のただなかで福音を確立しつつあるその動的な生きた関係をこそ把握しなければ、この説教は正しく理解されません。それはイエスを自らの心の内奥に迎え入れ、彼の良き軛を共に担い常に彼のことに思いを馳せ、共に歩む生活なしに、この純化された律法を全うすることは到底できないということです。
5 律法成就のエルゴン(働き)
これは今・ここのエルゴン次元における聖霊の媒介による信から愛に向かう力を獲得する手続きです。聖霊は二千年前のキリストの出来事を今・ここにいる者の出来事とする媒介の働きです。例えば聖霊はイエスの十字架上の処刑死を今・ここで信じる者において自らの過去の出来事として働いています。パウロは言います。「わたしは[信の]律法を介して、[業の]律法に死んだ、それはわたしが神によって生きるためである。わたしはキリストと共に磔られてしまった。もはやわたしが生きているのではない、キリストがわたしのうちにあって生きている。・・わたしは神の恩恵を空しいものにしない。というのも、義が律法を介するなら、そのときキリストは空しく死んだことになるからである」(Gal.2:20)。また彼は「わたしは汝らのうちにキリストが形づくられるに至るまで再び産みの苦しみをなす」(Gal.4:19)と言います。これは今・ここの一挙手一投足の生活の力として彼と共に古い自己に死に、新たに復活の主と共に信の律法のもとに生きることに他なりません。これは個々人の歴史のエルゴン(働き)次元における今・ここの生の指針であり、各人の責任に委ねられています。
6 福音と律法の緊張のロゴス(理論)
他方、理論的にロゴス次元において普遍的な仕方で福音と律法の緊張を正しく捉えることも求められます。福音と律法、恩恵と業績、信仰と業の関係はパウロをめぐる神学論争の中心的な主題であると言って過言ではありません。ここでは福音と律法、信仰と愛との緊張関係を正しく理解し、愛に至る力強い信仰の理論を明確に理解する必要があります。
近年の聖書学の傾向として、例えばE.Sandersによりパウロがその出身であるパレスチナユダヤ教と福音の乖離と緊張を最小限のものとする理解が提示されています(『信の哲学』上p.170-175)。パウロが反対した律法主義はユダヤ人を他民族から差異化し社会的境界を特徴づけ特権化するそのような食事規定や清めなどの儀式についてであって、福音と律法は恩恵のもとに理解され矛盾緊張関係にあるものではないという理解が提示されています。恩恵への応答としての律法遵守と功績的な業とは経験的にも神学的にも判別されえないものであるとされ、それは「非ルター的パウロ」とも呼ばれます。Sandersによればパウロは律法による義の必然性の主張に対抗しており、信と業の対立を形式的な次元において捉えていると論じ、義をめぐりパウロ自身がその伝統のもとにあったラビ的ユダヤ教との親近性を主張しています。
「もし律法を遵守することが神の約束を相続すべく必要にして十分な条件であるなら、キリストは無駄に死にそして信仰も無駄である。二つの議論―異邦人の包摂とキリストの死―はわれらがRom.3:21-26に見るように、共に立つ。しかし、他のいかなるものよりも、これらの理由により明らかに、パウロは律法を遵守する要求を拒絶している。これが意味するのは、メシアが到来したときには律法が妥当であることを止めるであろうという前もって抱かれた理論の故に(Schwizer)、また、律法を守る努力は人間をして真なる自己から導きそらすが故に(Bultmann)、彼は律法を遵守する必然性を拒絶したのではなかった。これらの解決双方とも救済(・・)は(・)ただ(・・)キリスト(・・・・)を(・)介して(・・・)得られるという彼の確信とは異なる要素により決定されうるパウロの律法についての見解を要求する」(『信の哲学』上p.172)。
はたしてSandersのこのパウロ理解は正しいのでしょうか。律法を矮小化しているように見えます。「救済はただキリストからくる」ことにはSchweizerもBultmannも理由付けはどうであれ、同意するでしょう。問題は律法が救済に貢献するというパウロの業の律法理解、主張を見過ごしているところにあります。パウロは言います。「われら知る、律法が律法のうちにある者たちに語る限りのものごとは、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服するものとなるためである。かくして、業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:19-20)。業の律法のもとに生きる者は神の前で義とされないとパウロは主張します。かくしてこの律法成就のためには信の律法のもとに生きるしかないというのが彼の主張であって、「パウロは律法を遵守する要求を拒絶している」のではないのです。律法の一点一画たりとも廃れないのです、愛において。
ここで、K.Barthのもう一つの律法の矮小化の理解を紹介します。Barthは神学的に「キリスト論的集中」の名のもとに福音一元論を説きます。律法はそこでは「同じ一つの啓示」であるキリストの出来事の否定的側面として福音に寄生するものと理解されます。
「キリストにある神の義の啓示(1:17,3:21)の真の意味を取り出すべく、パウロは「ローマ書」1:18-3:20において心に留めさせているのは同一の啓示(dieselbe eine Offenbarung)が神の怒りの啓示であること、即ち、われらに到来した恩恵について語られているように、われらはわれら自身の審判における棄却を認めそして信じなければならないということである。・・・かくして、ちょうどその啓示を前提にしている陳述がひとつのキリスト教的陳述であるように、パウロが罪の知識は律法により来る(Rom.3:20)とユダヤ人との関連において言うとき、それもまた神とひととのあいだにキリストにおいて生じた出来事の前提のもとに語られている」。(K.Barth, Die Kirchliche Dogmatik I/2,Die Lehre vom Wort Gottes, ∬17,S.334-5 (EBZ 1938).千葉惠「 『信の哲学』に至る半世紀の問いと解―福音と律法」『哲学』第54号 p.127)。
それに対し、ルターは福音と律法の緊張関係を維持します。「「律法の真の仕事(officium)と主要で固有な使用はひとに彼の罪、盲目性、惨めさ、邪悪さ、神についての無知、憎しみそして軽蔑、死、地獄、審判そして相応の神の怒りを啓示することである。・・律法は善であり有用であるが、その固有の使用とは第一には公民の逸脱を防止することであり、第二に霊的な逸脱を啓示することである。それ故に律法は光でありそしてそれが照明しそして示すのは神の恩恵や義そして生命をではなく、神の怒り、罪、死そして神の前におけるわれらの破滅そして地獄(iram Dei Peccatum, mortem,condemnationem nostril apud Deum et inferos)である」(p.124)。
ルターによれば律法はこのように罪を暴き立て、福音に追いやる機能を持っており、こういう仕方で救いに貢献している。「その機能を伴って律法は義認に貢献する、しかし、それが義化するということの故にではなく、ひとをして恩恵の約束に追いやりそしてそれを甘美にして望ましいものにすることの故にである。・・それはわれらをキリストに追いやる最も有益な僕(utilissima ministra urgens ad Christum)であろう」(p.125)。
イエスはこの緊張をたとえ話で伝えます。遊び暮らしている金持ちがいました。ラザロという乞食が金持ちの家から零れ落ちるものでしのごうとして門前に横たわっています。犬がきてラザロのできものを嘗めます。やがてラザロは死に天使によってアブラハムの側につれていかれ宴席にあずかります。金持ちも死んで葬られましたが、ハデス(黄泉)でさいなまされます。はるかにラザロを見て、父アブラハムに憐みを乞います。双方に渕があり、渡れないと告げられると、金持ちはラザロを遣わして家族に「こんな苦しい所に来ることがない様に言い聞かせる」よう伝言を頼みます。アブラハムはこたえます。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(Luk.16:19-31)。イエスはモーセ律法の遵守こそ、天国への一つの道であると言います。わたしどもは死後、一切を正確に知りまったく公平にして正しくそして憐み深い神の前に立つのです。
7 神の公平な審判
神には二つの律法即ち「業の律法」と「信の律法」の適用において偏りがありません(Rom.3:27)。「神には偏り見ることはない」(Rom.2:11)。なぜなら、一方、神は業の律法のもとに生きる者には業の律法を適用し、そこでは「すべての律法を為す義務がある」(Gal.5:3)こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」(Rom.2:13)、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」(Rom.2:6)からです。しかし、そこでは神の前に義とされることはないでありましょう、「律法を介した[神による]罪の認識がある」からです(Rom.3:20)。
神の偏りのなさのもう一つの理由は、神は信の律法のもとに生きようとする者、「神の善性」(11:22,)に留まろうとする者には「イエスの信に基づいている」(3:26)かにより審判を遂行するからです。神が信の律法のもとに生きていると看做すことは、それが福音において啓示された限りにおいて、イエスの信においてその者たちの信を理解していることを含意しています。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(9:13)とあるのは、前者が信の律法のもとに、後者が業の律法のもとに生きたことが想定されているからです、ただしエサウがその後悔い改める可能性は否定されていません(cf.Heb.12:17)。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」(Rom.11;22)。神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は「叡知の機能不全」(1:28)の故に神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできません。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した」(1:28)。「彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではなく、行う者たちを是認さえしている」(1:32)。パウロは「サタン」についても「われらは彼の叡知内容(noēmata)を知らないわけではない」と言います(2Cor.2:11)。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるでありましょう(Rom.11:22,2:4)。まさに「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」です(Ps.18:26)。
8 神の意志と判断は個々人には福音においてほど明確には知らされていない
個々人には誰にも福音においてほど明確には神の意志は知らされていませんので、「汝が汝自身の側で持つ信を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の出来事を自らのことがらとするよう命じられます。パウロはまた「怖れと慄きをもって汝の救いを全うせよ」と命じます(Phil.2:12)。個々人にはいずれの律法が適用されるかは、神の意志がキリストにおいて明白において知らされているほど知らされていないという、この緊張こそが、ひとを福音の信に常に追いやります。そうしてのみ、ひとは救いを全うすることができます。
福音と律法の緊張を解消するバルトにおいては、あまりに勝利が語られすぎるということが問題とされます。H.Thielickeは『神学的倫理学』「一定の組み合わせとしての律法と福音」においてヘーゲルやK.バルトのように精神の自己展開であれ、無時間的な永遠性のもとにおいてであれ律法を福音に吸収、解消してしまう一元的理解を批判している。ティーリケはルター主義者として福音と律法を「緊張」においてあるものとして捉えています。
「もし聖性と愛、審判と恩恵のあいだのこの緊張が神学的省察において適切に表現されなければ、まことに、もしそれが最も僅かの度合いにおいてさえ弱められてしまうなら、愛は神の自然本性であると立ち現れることになるであろう。しかし、これはただちに楽観的なキリスト者の世界観を生じせしめることになる、そこにおいては至上の価値は「善き主」、神的善性であるところのものである。ここからハインリッヒ・ハイネの皮肉な観察に至るにはただもう一歩となる、即ち赦すこと、われらに善くあること、そしてそこからわれらをしてわれらの罪の繁茂を相対的な無関心を伴い楽しむこと、それが神の機能、即ち「それが神の仕事である!」」(p.128)。
(H.Thielicke,Theological Ethics, Vol.1Foundation, pp.94-125(Adan&Charles Black London 1968).E.P.サンダース等による非ルター主義的な解釈即ち福音と律法の対立緊張を最小のものにしようとする動きがNPP(New Perspective on Paul)という名称のもとに展開されている。パウロが反対したのはユダヤ人を特権的なものにする食事既定等であるとする律法の矮小化理解とそれに対応して信仰義認の非中心化、非ルター化がパウロに帰せられる。「法廷的・代理的贖罪論(義認論)」と呼ばれる伝統的な信仰義認論が衰退し、それに代わる「神秘的・参与的救済論」が台頭している。これら二つの名称は信の哲学が「ローマ書」1:17-4:25の信に基づく義の神の前の(A)言語は神の知恵を報告しており聖霊に対する言及がなく、それに対し五―八章が神の前とひとの前を媒介する聖霊への言及(D)言語により展開されているという理解にほぼ対応している)。
このような福音のひいきの引き倒しとでもいうべき事態はただちに頽落形態を生み出します。孫悟空がどんなに飛び回ってもお釈迦様の掌から零れ落ちることはない。つまり慈悲のなかに包まれています。ひとは恩恵の循環の内に繭のなかの居心地の良さを感じるでもありましょう。信じることは神の恵みであり、信じせしめられることである。さらにまたそのことを信じるが、それも恩恵によると無限ループを繰り返します。この背後に究極の解釈学的循環が控えています。真の聖書の著者は聖霊であり、真の読者は聖霊である。聖霊の一人芝居に信仰も聖書研究も巻き込まれてしまいます。
9 解釈学的循環を回避する著者と読者の切断―言語的意味の理解―
著者と読者の間の癒着と循環を断つものは言語的な意味の理解は記号と記号とのあいだに成立するものであって、その記号が指示するでもあろう実在、ものごとの存在を要求しないそのような意味論の構築が求められます。文字や語られたことは言語共同体の約定によりものごと(実在)の「象徴・代理(シンボルsumbolon)」となる「記号(semeion)」です。言語はものごとを指示しコミュニケーションを成立させますが、その手前でものごとの存在や本質を括弧にいれ、記号と記号の関係として整合性を規範にして理解することができるのです。文字的意味(sensus literalis)の理解はものごとを知ることなしにも可能なことがらなのです。聖書の意味論的分析とは、解釈学の方法である著者の生活の座、先行理解を括弧にいれて、このように書かれたものをそれ自身として受け止め、語句の連関において整合的な意味理解につとめます。これは実在論的意味論(ものごとを最もよく知っている人が語句の意味を最もよく知り確定する)と両立的な意味論的に浅い立場であり、「いかに語るべきか」という規範的な仕方で語句の意味を理解する「ロギケー意味論」と呼んでいます。
解釈学的循環のなかで、或いは信仰の循環のなかで憩う者は蛇が自らの尻尾を食べて回り続けるの自己食尽に陥ることもありましょう。そこには何ら新しいものとの出会いもなく、生気を失っていくことでしょう。神様あなたの仕事は私どもの罪を赦すことです、と。そのような安逸を貪る信仰は容易に懐疑と自暴自棄或いは自己欺瞞の信仰となってしまうことでしょう。理論(ロゴス)上福音と律法の緊張がいかに維持されるかが説明されたこととしましょう。
10結論
なぜこれほどの混乱があったかと言えば、「ローマ書」3:19-31が正しく翻訳されなかったからです。今日までのパウロの神学をめぐる論争は、彼の神学理論の中心的な主張を形成する「ローマ書」3章21節から31節のとりわけ22節(ū gar estin diastolē 従来訳「区別がない」、私訳「分離がない」)のヒエロニムスによるVulgata版(二世紀以降の古ラテン語訳の四世紀後半における彼自身の言葉では「編集」)の翻訳に起因するものであることが明らかです。そこでパウロは神の前のことがらを報告しており、その報告の内容は神ご自身がご自身の義の啓示の媒介としてイエス・キリストに帰属した信を用いられたこと、そしてその信とご自身の義の知らしめにおいて分離がないこと、即ちその信義の分離のなさにおいてご自身にとって根源的な義が信に基づくものであることを明らかにしておられることです。パウロは明確に神ご自身の認識をそれ自身として報告するとともに、そのわれらの外の啓示と人の前すなわちわれらのうちの信との関係の総合的な理解を展開したのでした。従来神の前と人の前の分節と総合が不明瞭であったために多くの混乱が生じたと思われます。新しい翻訳を挙げます。
「 21しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、22神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。23なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、25,26その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。
27それでは、どこに誇りはあるか、締め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。28かくして、われらは人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。29それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、30いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。31それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:21-31)。
カトリック教会とプロテスタント教会相互のまたそれぞれ内部における二千年にわたる論争に思いをはせるとき、真剣で誠実なひとびとがそのテクストをめぐって長く争わざるをえなかった事実は、そのもとのテクストの最初の基礎的な翻訳に何らか誤解を生じさせるものが含まれていたと理解するよう促す。原語diastolē(最大希英辞書LSJではdrawing asunder (「双方に引いて分ける」)やseparationがdistinctionより前に挙げられる)の当該箇所のVulgata訳は non enim est distinctio「なぜなら区別がないからである」です。しかし、それ以降調査の限りすべての翻訳において、これがその理由文であるところの前文「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている」における「信じる者すべて」のあいだに「区別」や「差異」はないと理解されてきました。
実はひとの心的状態としての信仰に区別や差異がないということではなく、「神の義」とその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」のあいだに神の前のことがらとして「分離(separatio)はない」と訳されねばならなかったのである。神ご自身にとって信義はモーセの業の律法に基づく義より一層根源的であることを示しています。業の律法に即して「すべての者が罪を犯した」と神ご自身により否定的に認識されており、それを乗り越えるものとして、福音が「今や、業の律法を離れて」啓示されたのです。神の信義の啓示という肯定的なものごとは「イエス・キリストの信を媒介にして」遂行されました。神の義とその啓示の媒介者において生起したその信のあいだに分離がないと神が看做されたからこそ、「業の律法を離 れて」しかもより根底的な神の義として啓示されたのです。これが明示されていれば、今日までのこれほどの混乱はなかったことでしょう。
この福音は「[業の]律法を離れて」(Rom.3:21)つまり神の義はモーセ律法とは分離されうるものであり、しかも「信の律法」(3:27)とは分離なきものとして啓示されたために、神ご自身にとって福音即ち信の律法のほうが業の律法よりご自身の義との関連においてより根源的です。神においてそうであるなら、ひとにとっても神ご自身が信義であることが啓示されたとき、信によって応答することのほうが、「汝~すべからず」、「汝~すべし」の命令のもとでの業の遂行よりも心魂の態勢、行為として根源的であることが含意されます。この啓示の言語網(3:21-26)は神の前の言語網であり、神ご自身の信と義、罪の贖いをめぐる理解がパウロにより報告されています。信の律法のもとに業の律法が満たされるのです。少なくとも人類はナザレのイエスにおいてそれが成就されたのです。
山上の説教八福(第四回)「神の国の現在性」
山上の説教八福(第四回)「神の国の現在性」
2022年1月30日
テクスト
「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(5:1-12)。
1.神の国の現在性
天国はこの人生が終わってから入る時間的に後続するものという理解と天国を構成する人々は掛け替えのない個性を持ちつつ、八福に見られるイエスに似たひとにより構成されていることに基づき、この個々人の歴史のただなかで目標としまた実現することのできるもの、という二つの視点から語られることを確認してきた。実際イエスは、「二人または三人がわが名のもとに集まるところ、そこにわたしは彼らのまんなかにいる」(Mat.18:20)と言う。イエスを呼び求める者たちが集まるところ、そこに彼が共にいたまう。これは神の御子にふさわしい。また、「ルカ福音書」にはこうある、「パリサイ人にいつ神の国は到来するのかを尋ねられて、イエスは応えて言った、「神の国はまなざしを向け続けているとやって来るものではない、また「見よ、ここで或いはあそこで」と人々が語ることによって、到来するものでもない。というのも、見よ、神の国は汝らのただなかにあるからである」(Luk.17:20-21)。
これら二つの発言において、共通することがら、さらにはこの二箇所に基づき神の国について語りうることがらを考察したい。福音書において「それら諸々の天の国 (basileia tōn ouranōn)」という複数形による「諸天界」を意味する自然的な用語を用いて天国を表現することが24回見られる。他方、「神の国(basileia tou theou)」という神学的語彙を用いての表現は福音書では25回、パウロに3回見られる(他に「汝の国」(Mat.6:10)が主の祈りに見られる)。二つの表現により同一の国が指示されており、互換的に用いられているが、「神の国」のほうが神による支配や統治が遂行される国という意味においてより神学的であり、「天国」はより素朴であるという印象を与える。「マタイ」では種や麦等の自然物そして畑や真珠そして魚網などの人間の生活との類比において説明されるときは「天国」が用いられるが、マルコでは「神の国」が同じ自然物や営みに関して用いられており、いずれの使用が適切と判断するかは福音書記者の裁量に委ねられている(Mat.13:1-52,Mac.4:26-32)。山上の説教において「天国」のほうがより多く用いられるのは、ひとつには「汝らの天の父(ho patēr humōn ho ouranios)」という表現に見られるように聴衆にとってより理解されやすい語句が選択されたことが想定される(Mat.5:16,48,ch.5-7)。イエスは山上の説教において天の父を肉の自然的父との類比において議論を展開しており、この文脈において地上と大空を眺めつつ人生と神の国の関係がいかなるものであるかを教えている。
次に、イエスのこれら二つの発言から語りうることとして、「二、三人」や「汝ら」複数人の集まりとの関係に成立するものとして「神の国」が特徴づけられている。天涯孤独の一人のなかに神の国がある可能性は否定されないであろうが、基本的にイエスの「名前において」共に集まるところに、キリストが共にいたまい、神の国が現在すると語られている。その意味で、彼の名において集まるこのような集会はキリストの臨在をいただく好機なのである。そしてこれらの仲間のあいだで約束された聖霊を分かち合うとき、後の日に死後知ることのできる神の国がどのようなものであるかを、この時空のただなかで知ることができる。ひとりのところにも神は憐みを注ぎ給うであろうが、神の国は聖霊の媒介のもとでの、平和と喜びの世界である。「神の国は食することと飲むことではなく、聖霊における義と平和そして喜びである」(Rom.14:17)。
洗礼者ヨハネやイエスが「天国は近づいた」(Mat.3:2,4:17)、「神の国は近づいた」(Mac.1:15,Luk.10:9,11,21:31)と天国ないし神の国に招くとき、神の右の座にいたまうイエスご自身がわれらの歴史に突入したことにより、彼と共にいるところ、そこに神の国があると語りうるそのような状況が出来したことを伝えている。「辛子種」や「パン種」に似たものとして、「神の国」はこの世界で成長していくという譬えも用いられている(Mat.13:18-20)。
神の国とこの現実世界を理論においてまた実践において分断してしまうとき、人間は自らの本来性を失ってしまう。神の前と人の前をわけずに共に主の名において集まっているとき、今この過ぎ去りつつある歴史のなかで、われらの肉の弱さの制約のなかではあるが、永遠の相においてある神の国を何らか受け止めることはできるであろう。カルヴァンは「神の前と人の前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」と言う。理論上双方を分節して語ることができる、そのような理性の分析に適う仕方でイエスはこの地上で神の国を持ち運んだが、彼の働き・一挙投一投足において彼は神の国を持ち運んでいたのである。歴史的には神の国を実現しつつあったと進行形において語ることも許容されよう。復活の主とともにある限り、この悲惨な地上の世界に何らか「キリストの馨」がわれらを包むであろう。
パウロは言う、「われらをキリストにおいて常に勝利の行進を歩ませたまうそしてあらゆる場においてわれらを介してキリストご自身の認識の馨を明らかにしたまう神に感謝あれ。われらは救われる者たちにおけるまた滅びゆく者たちにおける香ばしい匂いであり、かたや滅びる者たちには[生物的]死から[神の前の滅びの]死に至る匂いであり、他方、救われる者たちには[生物的]生命から[永遠の]生命に至る匂いである」(2Cor.2:14-16)。キリストにある者はキリストを受け入れない者にとって滅びの匂いとなる者であり、受け入れる者には永遠の生命の匂いとなる者たちである。ひとの生が死に対する勝利の生と死への滅びの生に二分されている。自然的な人生が懲罰としての死を正面から引き受け、その罪を赦すキリストを受け入れるとき、生命の行路に入る。
2.柔和な者はイエスの低さに合わせられる
この天国、神の国との関係において、ひとは祝福の対象である。第三福は「柔和な者」であった。柔和な者はそのまま第七福の平和を造る者となる。「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を担ぎあげ、そしてわたし[の足取り]から、わたしが柔和でありその心によって低いものであることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。というのもわたしの軛は良きものでありそしてわたしの荷は軽いからである」(Mat.11:28)。彼は彷徨(さまよ)うひとびとを招く、彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙遜が伝わる。
イエスの軛に繋がれ歩調に合わせて歩むとき、栄光を捨てひととなった低さ、そしてそれに基づく弱小さへの憐みと柔和さが次第に伝わってくる。パウロは言う、「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。キリストと共に担う軛とは自らが神の子であるとの信仰であり、その荷とは彼から伝わる柔和と謙遜であるが、キリストの低さと共にあることによりこの世から解放された者に伝わる生の喜びと軽やかさが比較から自由にされた生に力を与える。
イエスにより誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂いた者は不公正や侮辱そして迫害に耐え、呪う者を祝福し「平和を造る者」となる(Gal.6:1,Mat.5:9)。「平和を造る者」は第七福であった。イエスは平和を造る君であった。その彼の軛に繋がれて歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与える者となる。
彼の軛を共に背負う歩みは日常をも彼の憐みに委ねる。何を着、何を食べるか日常のことがらについて、「汝らの天の父はこれらすべてのことを汝らが必要としていることをご存知である」(Mat.6:32)と言われる。この慰励の言葉の背後には天父への信が働いている、「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(7:11)。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。イエスは信仰に招く。「まず神の国と神の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきことはその日で十分である」(6:32-33)。さもなければ、明日への不安の中で自らの肉を神とする「肉の欲」に飲み込まれ、神の意志に背くことになる(Gal.5:16)。神の意志に背くこと、それを「罪」と言う。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)。
3.その心によって清い者はその純一さにおいて平和を造る
第六福はこうであった。「祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである」(Mat.5:8)。「その心によって」即ち心魂の根底から全身にいきわたる仕方で混じりけがなく、純一であり、統一されているということが心の清さである。それは心の一つの根底的な態勢、構えであり、そこから良きパトスや行為が湧き出てくるないし遂行される。「ともし火を灯(とも)して、それを穴倉のなかや、升の下に置くものはいない。入ってくるひとに光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い」(Luk.11:33-34)。
心の清い者、清くされた者は神を見る。ヨブは言う。「どうかわたしの言葉が書き留められるように・・。私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27)。
「心(kardia)」とは聖霊が注がれる心魂の最も深い座をも含む思考や感情など心的働きの座である(Rom.5:5)。「魂 (phsuchē)」が基本的に生命にかかわる原理であるのに対し、「心」は意識などの働きの主体である。イエスは言われる。「汝の宝のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.6:21)。「汝らのおのおのがその心から兄弟を赦さないなら、天の父も汝らに同様に赦さないであろう」(Mat.18:35)。またイエスは生命原理としての魂についてこう言われる。「身体を破壊しても魂を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:26-28)。
第七福の平和を造る者への祝福は第六福の心の清い者に続くが、それはこの祝福に相応しい。清くなくてどうして争いをやめさせ、平和を造ることができるであろうか。平和の君がイザヤの預言通りに人類に与えられた。「主はもろもろの国のあいだの争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし槍を打ち直して鎌(かま)とする。国は国に向かって剣をあげず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光のなかを歩もう」(Isaiah.2:4-5)。
イエスは暴れ馬のような方ではなく、イエスは驢馬(ろば)の子にのってやってくる平和の君であった。預言者ゼカリヤはその平和の君を讃えた。ゼカリヤは預言する。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。
心の目が澄んでいて正確にしかも公平にものごとを認識するひとにこそ、平和を造ることができるであろう。イエスがその心の清い方であった。心の清い者は良心の咎めなしに心魂が平安な者のことであった。また心の清い者は自他の悲惨の知識に基づき悲惨な状況にある者への愛、憐みのもとにあり、相手の最善を造りだそうとする者である。
心の清い者は自らの利益を求めることはないので、争う者たちのあいだを執り成すことができる。柔和で謙ったイエスは神とひととのあいだを執り成すひとであった。彼は自ら争う者になることはなく、剣のもとに倒れ自ら死を選んだ。平和を造る者は執り成す者である。和解のための執り成そうとすることなしに、平和を造ることはできない。和解の執り成しは当事者をWin-Winの関係に導く。平和を造る者は護る者である。護るとは争う者双方をも護る。敵をも愛し、敵のために祈る者たちだからである。平安な者はその良心が聖霊により護られた者である。
彼らは「神の子」と呼ばれることになる。キリストはその「長子」である。平和を造る者は当事者が二人しかいなくとも、即ち自らが争いの一方を担っている者となったとしても、イエスの軛を負う者として、媒介者の役割を担う。責める者と責められる者のあいだに自ら立つ。執成す者或いは執成される者となる。それ以外に平和は地上にこないであろう。
4. 結論、最も低いところにいますイエスのもとに憩う
正義と迫害にかかわる第五福、第八福は正義に関わる人々への祝福であった。この箇所を理解するひとつの視点は良心の鋭敏さであった。正義に対する感受性の発動なしに、ひとびとの大勢に、世間に唯々諾々と従っているなら迫害されることはないであろう。「神が完全であるように、汝らも完全であれ」(5:48)と神に似せて造られた者としてひとの本来的な姿が提示されたとき、現実と本来性のあいだのギャップ、落差を知らされる。本来性は「内なる人間」(Rom.7:22,2Cor.4:16)が開かれたとき、認識することのできるものである。その本来性との関連で良心が発動するようになる。良心とは共知であった。聖霊と共に知ることであった。心の清い者は心魂の底から神と和解しており、良心の咎め(神の不興)の発動から免れさせられており、平和を造る者となる。
イエスの軛に繋がれ歩んでいるとき、次第にイエスの歩調に合うものとなり、次第に造り変えられていくであろう。この世界に何ら確かなものがないと思い絶望する者でも、このような八つの心の働き、状況においてある者が祝福の対象であるなら、人類にその一番低い所にセーフティネットは明確に張り巡らされていることを知るにいたる。
イエスの弟子であろうとする者はイエスの担いやすい低い軛に一緒に繋がれ歩む。ひとは見捨てても彼は決して見捨てることはない。誰であれ、ご自身の栄光を棄てられ、ひととなり、貧しいもの、悲しむ者、争いを好まない者、正義から不当に見放され正義に飢え渇いている者、憐み深い者、平和を造る者そして正義のために迫害される者たちとどこまでも共にいたまう方のところなら行くことができる。この世界で見失われているひとびとであればあるほど、イエスの軛につながれつまり神の子の信のもとに生きることによって、この人生を歩むことができる。
イエスはひとの肉の弱さに衷心からの憐みを示し、柔和であり謙遜であった。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ」(Mat.9:36,cf.Mak.1:41)。彼は彷徨うひとびとを招く、「疲れている者たち、重荷を負う者たち、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう」(Mat.11:28)。
山上の説教八福「天国とは」(第三回)
日曜聖書講義
2022年1月23日
山上の説教―「天国とは」(第三回)―
千葉 惠
テクスト
「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(5:1-12)。
1人生全体は天国により秩序づけられる
イエスは山上まで彼についてくる群衆に八つの幸い即ち神から祝福されている心の在り方について語った。その祝福は神の国、諸々の天の統治との関連において語られる。天国というこの不可視なものごとの理解については、自然科学のように感覚を介した観察、観測は適用されない。かくして、この人生全体を天国への関連付けのなかで理解するには言葉(ロゴス)による理解がアクセスの鍵を握る。イエスの言葉による教えを十全に理解することが求められる。そしてその言葉を語られるイエスご自身を理解することが天国の理解の鍵を握る。
ご自身が祝福されるべき八福の心的態勢にあった。「その霊によって貧しい者」とはこの世のいかなるものごとによっても満たされないそのような態勢にある者のことである。他方、イエスは70人の派遣による伝道が成功したとき、「聖霊によって喜びに溢れた」(Luk.10:21)。これは、その霊によって富んでいる、そのような状態であり、当然これも祝福されている。霊によって貧しい者は天国を求めざるをえず、霊によって富んでいる者は天国の証を得ており、双方とも天国と関係づけられる限りにおいて、「天国は彼らのものだからである」と祝福される。ゲッセマネおよび十字架上のイエスの苦闘はあまりの心身の苦悩により天国を一時的に見失ったが、その霊によって貧しい状態のなかで「わが神、わが神」と呼び求めている限りにおいて祝福されていたに相違ない。
イエスは様々な場面で悲しむ方であり、柔和であり、義に飢えそして渇いており、憐み深く、その心によって清い方であり、平和を造る方であり、それ故に義の故に迫害された方である。このような態勢にある人々が祝福されるのは、ひとえに、天国に招かれるからである。かくして、天国の住人はそれぞれ掛け替えのない個性を持ちながらも、すべてイエスに似た人々であるに相違ない。イエスのような人々が住む天国になら、他の何をおいてでも行きたいと思う。「天国は、畑に隠されている宝に似ている、或るひとがその宝を見つけると、隠したそして喜んで自分の家に戻り、そして彼が持っているあらゆる持ち物を売りそしてかの畑を買う」(Mat.13:44)。
天国についての思弁、妄想は旧約聖書においてはほとんど見られない。これは著しいことである。ユダヤ教の一派であるサドカイ派の人々は復活を否定していた(Mat22:23)。この不可視な世界にアクセスが可能であるとすれば、神の身許から栄光を捨ててひととなったイエスにより理解するしか確かなことは言えないであろう。それ故に、天国のことがらは信仰の問題となる。即ち、心魂の根源において自らがイエスのような人間であるかを問い、彼我の乖離において天国の清さ、完全さを知るに至る、それ以外のアクセスはないと思われる。そしてそれが最も正しい、神の国、天国に対する態度となる。旧約人はキリスト・メシヤを預言においてしか与えられてはおらず、彼らは知らされていない事柄について思弁を弄することはなかった。これは潔い態度であり、それができたのも、生けるまことの神のその都度の畏れ敬うべき顕現に心が圧倒されていたからであろう。
人類は不可視的であるがゆえにそう語らざるを得ない「御言葉」の受肉により、ようやく神の国すなわち天国にアクセスを得るに至った。だからこそ、山上の説教においてはとりたてて宗教言語が用いられないのであると思われる。野の百合、空の鳥にみられる被造物全体に対する「天の父」によるケアが語られる。自然の親が自然の子に対して自然な愛情を感じるように、天の父は親のごとき愛情深い方であることが語られる。
「まず神の国とご自身の義を求めよ」。この恵み深い父に対する信頼のもとに、この地上の生活の一切を秩序づけることが求められている。神学的には神の前とひとの前を分けない生活が説かれている。
2モーセ律法の純粋化、内面化
山上の説教のもう一つの柱はモーセ律法の純粋化、内面化である。ユダヤ人は自らが選ばれた民として律法を誇り、異邦人や罪人とは異なるという差別的な態度を取っていた。イエスは当時の彼らの伝統的な道徳観そして死後天国か地獄に行くという世界像を自らも引き受け、議論の前提を彼らと共有することに基づく対人論法(argumentum ad hominem)により、ユダヤ人の道徳的不徹底さを、さらにはこの世もあの世もという二心(ふたごころ)に潜む偽りを指摘する。イエスはそこで彼らが依拠するモーセ律法を急進化、内面化そして純化する。その論法はまず定型句で「汝らは聞いている、昔の人々によりこう語られたのを」と切り出して、その言い伝えを引用する。伝統的な教えを提示したのち、「しかし、わたしは汝らに言う」と切り返し、それらの問題点を摘出する。それは殺人、姦淫、離婚、誓い、同害報復、敵への憎しみをめぐって展開され、道徳的次元が内側から突破される。つまり彼らの立場は首尾一貫せず保持できないことが内的に論駁される。
イエスは言う、「「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18,Ps.139:21-22)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:43-46)。イエスは家族や隣人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益そして被害や危害との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において差別や支配そして操作が遂行されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。敵は友となることもある偶然的な関係にすぎず、ひとがひとである限り本来的に友と友の等しさつまり愛が成立しうる者だからである。
とはいえ、いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの新しい教えは尋常ではない。これらの言葉はそれを正面から引き受けるひとには良心・共知(sun-eidēsis, con-science)の痛みの発動を引き起こすに十分である(5:22,5:28,5:39)。認知的な協和と不協和に即した良心の平安、宥めと疼きをめぐっては、部族や国民との共知から神との共知まで多様である。一方、「赤信号みんなで渡れば怖くない」と言われ、自己責任のもと歩行者の共知として疼きもなく、カルニヴァル(人肉食)の部族においては友人に自らの最良の部位を遺品として残すそのような人々がいた。他方、イエスとその山上の説教とを共知の相手方とする者たちには、心の少しの歪曲が痛みになる。右目や右手が罪を犯させるなら抉りとり切り取ってしまえ、全身が地獄に投げ込まれるよりましである、と警告される(5:27-30)。良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。
「良心」とは、最終的には、神において明らかなことが聖霊の証を伴い自分たちにも明らかになるその心の働きである。パウロは言う、「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11、Rom.9:1、第11条)。良心とは神に明らかなことがらが自らにも明らかになるその心の認知的座である。ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことがらが自らや隣人にも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。
3.八福とモーセ律法の純化の結びつき
かくして八福とモーセ律法の純化、内面化は結びつく。偽りのない生活はただ「天の父の子となる」その道によってしか実現されないことが明らかにされている。神との正しい関係を確立する信仰によって、愛に収斂するモーセ律法が満たされる。パウロによれば、神の意志は「信の律法」ないし「キリストの律法」と呼ばれるものと、「業の律法」ないし「モーセ律法」と呼ばれるものの二種類であるが、それらは「神の義」の二種類である(Rom.3:27,1:17,Gal.6:2,1Cor.9:9)。イエスは「律法の一点一画とも廃棄されない」(Mat.5:18)というモーセ律法への尊敬のなかで、その極性化された律法の成就に向かう道を山上の説教で示した。これは言葉による説教であるが、その「権威」(7:29)は彼自身の一挙手一投足においてその言葉に偽りのないことが示されているところからおのずと湧き上がったものである。ひとびとは「このひとの知恵と力能はどこから来たのか」(Mat.13:54)といぶかしがったのである。イエスは神との正しい関係を信仰により持つことを通じて、モーセ律法を成就した。神の義の二種類はイエスにより媒介総合された。福音と律法この二種類は常に緊張のなかにあるが、この地上に生きたひとりの人により実現された以上、われらにも希望が湧いてくる。
山上の説教八福「その霊によって貧しく、悲しむ者」
日曜聖書講義
2022年1月9日(録音は二節まで)
山上の説教~八福を生き抜いたナザレのイエス~
その霊によって貧しく、悲しむ者
千葉 惠
テクスト
「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(5:1-12)。
はじめに
マタイ福音書五章から七章の山上の説教のまとめとしてわたしどもはここで八福を再び学ぶ。その八福を生きた方はまさにイエスそのひとであることを確認したい。
一、経済的な貧富に拘わらず、この世界のいかなるものによっても満たされず神を求める者の幸い
第一福「その霊によって貧しい者」とはいかなる者か。経済的な困窮者それも自発的に貧しい者なのか、それとも精神的に謙遜な者なのか、とりわけ神との関係において充足的なものではないがしかも神に縋りついているそのような意味での貧しき者を理解すべきなのか、或いは双方のいずれでもあるのか。ルカには端的に「貧しい者」(Luk.6:20)とあるが、そこでは経済的な困窮者をただちに指示しているように見える。このマタイではそれを包摂しつつも天の父なる神との関係においてその貧困を捉えるそのような限定が付与されている。ここではやはりイエスに即してまた打ちひしがれてついてくる群衆の文脈でこの箇所を理解しよう。
「霊によって貧しい」の対義語のひとつに「欲望によって貧しい」が考えられる。「箴言」に「欲望はひとに恥をもたらす。貧しい者は欺く者よりも幸い」(Prob.19:22)、「初めに嗣業(ゆずり・遺産)をむさぼっても、後には祝福されない」(Prob.20:21)、「貪欲な者は財産を得ようと焦る。やってくるのが欠乏だとは知らない」(Prob.28:22)とある。「第一テモテ」に「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥る。その欲望がひとを滅亡と破滅に陥れる。金銭の欲はすべての悪の根だ。金銭を追い求めるうちに信仰から迷いでて、様々のひどい苦しみに突き刺された者もいる」(1Tim.6:9-10)とある。従って、「欲望によって」貧しい者また欲望によって一時的に富んだ者、金銭への執着によって富んだり貧しかったりする者たちが祝福の対象であることは考えにくい。
かくして「その霊によって」貧しい者、つまり神との関係において貧しい者、富みであれ名声であれこの世のいかなるものによっても満たされず、神との正しい関係を求め飢え渇き、救いを求めざるをえない者が祝福されている。このことは少なくとも語りうる確かなことである。
「誰も二人の主人に兼ね仕えることはできない。というのも、一方を憎みそして他方を愛するか、或いは一方に忠実であり、他方を軽蔑するかだからである。汝らは神と富双方に仕えることはできない」(6:24)。金持ちが天国に入ることが難しいのは神にではなく金銭に頼るからである。金持ちであっても神に頼り、信仰のもとに愛の道を歩む者は貪欲な者たちの金の使用とは異なる使用に向かうであろう。この世の富は相対的なものに留まる。愛することは信、希望とともに心魂の最も基礎的な態勢、在り方を定めるものであり、イエスに従う者はもとより誰にも妥当するものとして普遍化されるであろうが、愛の具体的な形は個々の状況において異なることであろう。施しが求められる場合もあり、何か学寮のような施設を造ることが適切な場合もあるであろう。
ナザレのイエスは父なる神の意向をその都度聴くという仕方で謙っており、天の父との豊かな、富んだ交わりのもとに福音を宣教した。その意味において彼は豊かであった。他方、彼は恒常的に経済的に自発的に貧しくあった。さらに、或る特別な状況において一時的に神が御顔を隠したことによって、彼は「エリ、エリ」の叫び「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てられたのですか」(Mat.27:46)という呻きのなかで、神を見失いつつも神に訴えかけるという仕方で霊的に貧しい状況に陥った。そのとき聖霊が呻きをもって、苦しむ彼に神の意向を執成し、励ましていたことであろう。そのように経済的に貧しい者も神と関わり続ける限りにおいて、即ち困窮のただなかでまたいかなる状況にあってもその霊によって「貧しい者」である限りにおいて祝福され、天国にいれていただく。山上まで救いを求めてついてきた群衆に彼はその祝福を語っている。欲望によってではなく、その霊によって貧しい者は祝福されている。
第一の祝福は普遍化されるのであろうか。「その霊によって貧しい者たち」という三人称による呼びかけであり、命令ではなく神の嘉みの対象であるから、一般的に妥当すると言える。とはいえ、これら八福すべてを満たさねば祝福されないというわけではなく、この点においてイエスに似た者になるにつれその祝福は大きいものとなるであろう。神との関係において貧しい者、悲しんでいる者、柔和な者、義に飢え渇いている者、憐れみ深い者、その心によって清らかな者、平和を造る者そして正義のために迫害される者となるにつれて、イエスに似た者となることであろう。
二、パトス(感情)は心魂の態勢の指標である~信の根源性に基づく生の秩序づけ~
第二福は「悲しんでいる者」の祝福である。感情の文法によれば、この感情が生起する文脈は愛しいものを失うというものであった。感情実質は他の何ものによっても満たされない喪失感である。彼らは後の日に慰められる。わたしたちが愛しいものを喪失し悲しんでいるとき、神に慰められることになるから祝福されている。何か代替物により気晴らしするなら、そこに自らを慰めさせる装置、偶像を持ち込むこととなり、神に慰められることはない。ここでも天の父との関係において悲しみを捉えることが求められる。パウロは「神に即した苦しみは救いにいたる後悔なき悔い改めを働く。しかし、世の苦しみは死をもたらす」と言う(2Cor.7:10)。
感情はパトス、passive(受動的)であり選択できずに、おのずと身体的な受動を介して心に湧き上がってくるものだった。パトスとは身体にその座をもつことから、例えば怒ると顔が赤くなり、恐れると青ざめるそのような身体的特徴を伴う。アリストテレスは「パトスはヘクシス(心魂の態勢)の徴(しるし)である」と言った。すなわち、どんな感情が湧き上がってくるかにより、そのひとがそれまで培った心魂の態勢、実力、構(かまえ)がどのようなものであるかを示すという議論を展開した。感情の背後には心魂の実力として認知的態勢と人格的態勢が控えていると考えた。
認知的とはものごとの真偽に関わる心魂の知性、知識に関するものである。人格的とは外界からの刺激に対する身体的な受動の善悪に関わるものである。人格的に有徳な者、卓越した者は「パトスに対して良い態勢にある」。正義な者は怒りに対して良い態勢にある、つまり正しいひとは怒らないのではなく、怒るべき時に怒るべき仕方で怒るべき程度の怒りが湧いてくるそのような調和のとれたひとである。
怒りが正義と関わるパトスであるのに対し、恐れは勇気と関わる。恐れは自らを破壊するものに出会うという文脈において生起する。その感情実質は身のすくむ思いという類の身体の萎縮感を伴うものである。正しいひとはその感情に打ち勝ち公平な選択をすることの出来る者である。有徳性のひとつの指標は「中庸」と呼ばれた。恐れに対する勇気ある者、欲望や快楽に対する節制ある者も同様である。正義と関わる怒りが過剰なものである場合には、それは悪い心魂の態勢における身体的反応、噴出であり、パトスが心魂の態勢の指標となる。知性の明晰なひとは「賢者(sage)」と呼ばれ、人格の成熟したひとは「聖者(saint)」と呼ばれる。真理と偽りすなわち事実に関わるものが知性であり、善と悪すなわち価値に関わるものが人格である。
また知性もパトスに対して影響を与える。例えば、ウイルスの振舞いを知れば、ウイルスに対して正しく恐れること、或いは、ウイルスを制御できるようになれば、恐れなくなること、そのようなことが起こる。イエスは「天国のことを学んだ律法学者は自分の蔵から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:52)と言っている。古いものとは旧約のことであり、新しいものはその延長線上に打ち立てられた新約のことであるという理解がなされることがある。しかし、より一般的に、きちんと心魂という自分の倉庫を管理しており、知性においても人格においても一切を天国との関連において秩序正しく考慮することができ、そのうえで行為を形成することのできるひとが一家の主人に比せられるべきひとである。そのようなひとの生は心魂の根底が信仰のもとにあり、他の一切がそこから秩序づけられて認知的、人格的に卓越した者となる。
聖書はなにか人格に関わるものと捉えられがちであるが、認知的な卓越性は聖書においても重要な位置を占める。パウロは「わたしはわが主キリスト・イエスの認識の卓越の故に、あらゆるものを損失と考える、彼の故にわたしは一切を失ったが、それらをわたしは塵芥と看做す」(Phil.3:8)と言う。人類は知性と人格を総合するものを求めてきた。
アリストテレスはそれを「実践知(phronēsis, practical wisdom)」と呼び、イエスやパウロは「信(pistis, faithfulness)」と呼んだ。心魂の根底に信があるとき、知性が磨かれ認知的に有徳な者となり、身体からわきでるパトスに対し安定的な構えができ、人格的に有徳な者となる。
アリストテレスは「いかに生きるべきか(pōs biōteon;)」という問いのもとに歴史の最前線において個々人に与えられた与件のなかで最善の行為を選択する認知的卓越性を「実践知」と名付けた。アリストテレスが人格と知性の融合の成功した視点からとらえたのに対し、聖書は信という肯定的な力ある生をつくる心魂の根源的態勢に集中した。イエスもパウロも信に基づき愛することができる者となるなら、それは人格的に完成されると主張した。パウロは信に基づき神との正しい関係(義・正義)に置かれた者はその「正義の果実」(Phil.1:11)、即ち正しい信の証が愛であるとした。木は実によって知られる(Mat.7:15)。信に基づき神との関係がただしくされたひと、即ちよき木は愛というよき実を結ぶ。
正しい信と対立する狂信は理性の逸脱であり、迷信はパトスの逸脱である。理性の吟味にかなわないような信仰、例えば3+5=10だから信じる即ち「不条理なるがゆえにわれ信ず」という類の信仰は狂気にひとしく、当然排除される。身体の反応であるパトスの逸脱である迷信は、例えば、恐怖の過剰が信仰を抱かせるべく追いやるそのような信仰は迷信であり、排除される。正しい信は心魂の一切を秩序づけるとともに、生の果実により送り返され、その信仰の正しさが吟味される。
常に心に留めるべきことは、山上の説教はナザレのイエスそのひとが今・ここにおいて純化された究極の律法を語りつつ、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」(Mat.6:33)と信仰に招くことにより、その内面化された愛に収斂される律法成就の道を示したことである。イエスご自身は神の愛の先行性を自ら「神の子の信」(Gal.2:20)のもとに生き抜きご自身がその道となったがゆえに、パウロは信に基づく義とその義の果実としての愛を秩序づけることができた。そして愛は「律法の充足」である(Rom.13:10)。
まず、神との正しい関係が確立されることなしには、人間の一切の営みは秩序を得ることはないという明確なメッセージをナザレのイエスは発信した。しかも、彼はユダヤ人の伝統に留まりつつ、旧約の伝統的理解のもとにある律法を内側から破ることによって、新しい生命に満ち溢れる信仰に招く福音を展開した。
福音と律法を静的な関係において捉えてはならない。イエスはガリラヤの野辺を歩きながらリアルタイムに即ち彼の一挙手一投足のエルゴン(働き)において神の意志を実現しつつあったのである。もし彼が公生涯の終わりに十字架から下りてきたしまったなら、神のみ旨は実現されてはいないと看做され、福音の啓示の媒介者として用いられることはなかったかもしれない、そのような緊張のなかで、肉の弱さを抱えたイエスご自身により一言一句、一挙手一投足が遂行されていたのである。そして八福の祝福は彼自身の生にこそ告げられるべき、そのような心魂の態勢におかれており、神に祝された方であった。われらはそこに同じ人間として山上の説教を成就しうる可能性と力能を見出す。そして人類の誰かにより山上の説教が語られた事実に、われらは人類に絶望することはない。ましてや彼はそれを信の従順により完遂した方である。
三、悲しみのパトスが憐みを生む
この第二福、悲しんでいる者が祝福されているとは、これまた尋常ならざる主張である。しかし、悲しんでいる者が祝福されると言われているからと言って、常に悲しむことが求められているわけではない。愛しい者や大切にしているものを失っているその状況にある人々に向けて語られている。愛しいものをもたないひとは悲しみを感じることもないであろう。裏切りなど心に傷をおったひとはパトスの発動が生じないように、一切から距離を置くことになる。パスカルは「愛から遠ざかれば、すべてから遠ざかる」と言う。「すべて」とは生きることそのものから遠ざかることに他ならない。
イエスは終末、世の終わりが近づくと愛が冷え切ってしまうと言った。彼の終末における迫害の預言はこうであった。「そのとき彼らは汝らを困窮に追いやりそして殺すであろう。そして汝らはわが名の故にあらゆる民に憎まれるであろう。そしてそのとき多くのものたちが躓きそして相互に引き渡すであろう、また相互に憎しみあうであろう。そして多くの偽預言者たちが立てられ多くの者たちを惑わすことであろう。無法がはびこることの故に、多くの者たちの愛は冷えてしまうであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶその者は救われるであろう。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として、全世界に伝えられる。それから終わりが来るであろう」(Mat.24:9-14)
愛する世界がこのようになるなら、実に悲しいことだ。イエスは深く悲しんだことが報告されている。捕縛前ゲッセマネという場所で、彼はこう言っている。「「わたしが向こうへ行って祈っているあいだ、ここに座っていなさい」。ペテロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」。少し進んで行って、うつ伏せになり祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心(みこころ)のままに」」(Mat.26:36-39)。イザヤ書五三章の苦難の僕はイエスの預言であるとされているが、そこでも人類の罪のために悲しみ苦しむ僕が預言されている。
虚無主義(ニヒリズム)はこの世のあらゆることに何ら差異、違いがないと主張する。善は悪であり、知識は誤謬であり、愛は憎しみである。十人殺せば悪党であり、百万人殺せば英雄である。この世界には何ら確かなものはないという考えがニヒリズムである。そこでは悲しむことも喜ぶことにも何ら差異はなく、たとえばニーチェはすべての感情をも考慮せず、善悪の彼岸にいたろうとする。そのように愛が冷えていくなかで耐え忍んで、少しでも平和を造る者となりたいと思う、そのような思いのひとびとが登戸学寮をつくった。
第五福は「憐み深い者」である。これもひとつの身体的受動としてのパトスである。イエスは羊飼いのいない羊のようにうちひしがれて彼についてくる群衆を見て、「深く憐れんだ、そして多くのことを教え始めた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。第五福の「憐れむ」という動詞は「はらわた」という名詞の派生である。はらわたから憐みが溢れ出す。ひとは通常憐みの感情が湧くのは不当な仕方で或いは相応しくない仕方で不幸に見舞われたひとや状況に対してである。近年のネット上のバッシングは自業自得だという仕方で同じ不幸に見舞われても憐みがわくことがない状況を示している。イエスは群衆に「汝らが天の父の子となる」(5:44)と呼びかけるが、神に似せて創造された人類が相応しくない仕方で争い、妬み、憎しみ合うそのような状況にあることに深い憐みをもった。その憐みが彼をして福音の宣教に駆り立てている。彼は深い憐みをおぼえたあとに、天国について「多くのことを教え始めた」に報告されている。
神の愛―クリスマス、闇夜に光が輝いた― 日曜聖書講義2021年12月19日
神の愛―クリスマス、闇夜に光が輝いた―
2021年12月19日 2021年最終講義
聖書 ルカ福音書 1章46-55節 「マグニフィカット」
マリアは言った。「わが魂は主を大いなるものとします(magnify)。わが霊はわが救い主なる神を崇め讃えました。主はご自身の奴隷の卑しさを顧みてくださいました。というのも、ご覧なさい、力ある方がわたしに大いなることを為されたがゆえに、今から、すべての世代の人々がわたしを祝福いたします。ご自身の御名は聖です、そしてご自身の憐みは世代から世代へとご自身を畏れる者たちに注がれます。力ある方がご自身の御腕において示されました、心の思いによって高ぶる者たちを散らされました。ご自身は権力者たちを彼らの玉座から引き降ろされました、そして卑しき者たちを高められました。飢えている者たちに良きもので満たされました、そして富める者たちを空しく追い出されました。ご自身の子イスラエルを受け止められました、憐みを思い出されつつ。われらの父祖たちに語られたように、ご自身はアブラハムと彼の子孫に対しとこしえに導かれます」。
1 御子の受肉は神の愛に他ならない
この一年もパンデミックが継続し人類史的なあるいは黙示録的な一年でした。人類にとってこのいっそう濃くなっていく闇のなかで光が燦然と輝いています。キリストの生誕を祝います。闇が濃ければ濃いほど、天上の導きの星のように輝きを増し、ひとびとの歩むべき道を指し示しています。2000年前、ベツレヘムにおいて大きな光が輝き羊飼いや東方の博士たちを馬小屋に導きました。彼らはそこで生まれたばかりの赤子を神の御子として拝しました。
この光は宇宙の始まりの光の源です。宇宙の創造者なる父は子とともに永遠の現在のもとにいました。われらが理解できる時空の外にいます。それ故に、宇宙の歴史、人類の歴史における過去と未来は現在のことがらとして理解されています。聖書が報告する神とひとの交わりは、神の永遠の計画のもとで、御子の受肉の故に父なる神が歴史的存在者として描かれることを引き受けられたことに基づき生起します。神はひととなったのです。それは神が愛だからです。神は宇宙の創造者として単に神が望む一切を為すことができ、また一切を知っているだけではなく、神は、われらが人格的存在者として善悪を判断する道徳的存在者であるように、われら個々人と父と子、即ち我と汝の等しさにおいて交わることを望まれたのです。人類は神の愛の対象として造られたのでした。
我と汝の等しさとは、わたしはあなたによってわたしであり、あなたはわたしによってあなたであるという、父と子、友と友、良人と妻、社長と社員、その都度、隣人とのあいだに成立する等しさのことです。その都度、支配することからも支配されることからも唯一自由なところで出来事になる隣人と隣人のあいだに成立する等しさです。そこには喜びが伴います。ひとは愛を求めているからです。愛が出来事になっていることの感情実質は喜びです。そこには過去により支配される後悔や怒り等の感情からも、未来により支配される焦りや不安そして恐れ等からも自由にされ、今を生きていることの充溢があります。そこではこの現在の充溢のなかで過去からも未来からも自由にされ、今・ここで時と和解しており、なんらか永遠と関わっています。ひとは情熱恋愛でさえ永遠との関わりなしに愛を語ってこなかったのです、それが単におのれの胸のトキメキを、心臓の心拍数を愛しているにすぎないにしても。
ひとは自ら意識しないとしても、自らと同じ値においてない誰かと出会うとき、目をそむけたくなるそのような思いに駆られます。あまりの悲惨、あまりの不正義、あまりの横暴このようなものを目撃するとき、ひとは喜びを失います。楽園を追放された者には、この儚く、残酷な過ぎ去りゆく世界に投げ出されており、労苦と争いが待ち受けています。それに打ち勝つものは人類にとっては永遠と結びつく愛しかないのです。
二千数百年前の「申命記」や「レビ記」の記者は神による隣人愛への戒めを報告するとき、すでに「汝が汝自身を愛するように、汝の隣人を愛せよ」と語り、「汝が汝自身を愛するように」という限定とともに命じ、愛の持つ等しさを捉えていました(Lev.19:18)。ひとは隣人と等しくあるときのみ、喜ぶがわくのです。この隣人愛の前提には神への愛がモーセにより命じられています。「聞け、イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。汝は心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、汝の神、主を愛せよ」(Deut.6:4)。神の愛に反応し、神を愛するとき、心魂は秩序づけられ統一の持つ力を得るにいたります。そしてその力は横にいる隣人への愛として注がれていきます。宇宙の創造者の愛の力がこの弱い身体から溢れだしていきます。「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)。パスカルは言います。「何かから遠ざかるということがあるとするなら、それは愛からでしかない」と。つまり、愛から遠ざかればすべてから、即ち生きることそのものから離れてしまいます。ですから、神の愛に留まる限り、ひとはこの世界を前向きに肯定的に受け止めることができます。
この世界はシーソーのバランスが崩れるように、勝ち組と負け組、支配層と被支配層により構成されています。このような差別や驕りさらには侮蔑の関係にあるとき、直ちに争いの闇に落ちてしまいます。このような争いと、諦めは闇の支配者である罪の奴隷になることからきます。神は「焼き尽くす火」です(Heb.10:27)。人間的に言えば、神の怒りが大きいのは神の愛が大きいからです。なんとか罪の奴隷となり闇に沈む人類を救い出そうとしておられるのです。人類はこんなはずではないのです。無気力に陥り、諦めてしまっている人々はおのれのポテンシャルを知らないのです。人間の本来性を知れば知るほど、現在の闇に沈む人類とのコントラストが大きくなります。水が高きから低きに流れるように、愛がコントラストに沈む人々に流れ注がれていきます。
2マグニフィカット
マリアの「マグニフィカット」と呼ばれる神への賛歌は、神が取るに足らない貧しい一人の若い女性を顧みてくださったことへの感謝と賛美です。「主はご自身の奴隷の卑しさを顧みてくださいました」。差別に苦しむ者たちが救いの光を照らされ、希望と賛美に満たされたのです。神は人類の最も低いところで苦しんでいる人々に救いの光を差し込んだのです。われらが高ぶって、輪切りの小さいほうに入ろうとし、競争しているとき、そこに救いの光は届きません。われらは光をもとめず、罪の奴隷となる闇を求めているからです。キリストの低さと柔和さはキリストと共に信の従順の軛を担う者に与えられます。
イエスはひとの肉の弱さに衷心からの「憐み(splangchnon=はらわた)」を示し、柔和であり謙遜でした。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」と報告されています(Mat.9:36,cf.Mak.1:41)。彼は彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙りが伝わります。栄光を捨ててのご自身の自己卑下が弱小者への祝福を裏付けます。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂く以外に、ひとは謙遜を学び自らより弱小者への憐みを頂き、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者にはなりえないのです(Gal.6:1,Mat.5:9)。
3預言の成就
すでに預言者イザヤが今から約2700年前にこの救い主を預言しています。
「暗闇を歩める民は大いなる光を見、死の陰の地に座したる者に光が照らした、主は民を増し加え、歓喜を大ならしめた。・・ひとりの男子(おのこ)がわれらのために生まれ、一人の子がわれらに与えられた。支配はその肩におかれ、その名を読んで霊妙なる議士、大能の神、永遠の父、平和の君と称えられん。その政事(まつりごと)と平和は増し加わり、限りなし。かつダビデの位に座してその国を治め、今よりのちとこしへに公平と正義とをもてこれを立てこれを保ちたまわん。万軍の主の熱心これを為し給うべし」(Isaiah.9:1-6)。
イザヤは預言します、万軍の主は熱心にわれらを救いだそうとしていると。この公平と正義そして平和はナザレのイエスにおいて実現されました。ここで「一人の子がわれらに与えられた」と過去形で表現されていますが、預言的過去(prophetic past)と呼ばれるものであり、時間を超える神の霊的な知らしめの何らかの痕跡であると言えます。イザヤは闇に打ち勝つ罪の贖いを先駆的にこう語っています。「恐るるなかれ、われ汝と共にあり、驚くなかれ、われ汝の神なり、われ汝を強くせん。・・汝はわが僕なり、われ汝を造れり。イスラエルよわれは汝を忘れじ。われ汝の咎(とが)を雲の如く消し、汝の罪を霧の如くに散らせり、汝われに帰れ、われ汝を贖いたればなり」(Is.41:10,44:21-23)。
旧約と新約を貫く神はもちろんおひとりであり、旧約人をアブラハムの信に基づく正義とモーセの業に基づく正義により鍛えつつ、御子の受肉と宣教、受難と復活に歴史は向かったのです。物理的時間(クロノス)は時の凝縮、カイロスを持つにいたったのです。イエスは励まします。「この世界にあって汝らは苦難にあう。しかし、雄々しかれ、わたしは既にこの世界に勝っている」(John.16:33)。
あの救いの光を感謝し賛美します。牧場の羊飼いたち、東方からの三人の博士たちは大きな星に導かれベツレヘムの馬小屋において受肉し、自然的な存在者となった神の子に出会い喜び拝しました。天使は高らかに賛美しました。「いと高きところには栄光神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」。彼らは預言通りについに救い主が誕生したことを確認し喜んで帰っていきました。またそのころシメオンという信仰深いひとには「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」という示しがありました。シメオンはマリアに抱かれエルサレムに昇ってきたイエスを見つけました。「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いです。異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です」(Luk.25-35)。
4罪の奴隷からの解放
この秋学んできたように、キリストの誕生は長い準備をかけてこのような展開のもとに実現しました。わたしどもは人類史的にも個人史的にも闇を抱えています。生物的死は各自の罪に対する罰なのです。罪から自由にされた者には生物的死は一時的な眠りとなります。死の陰に怯えています。死は多くの者には不可知なものとして闇です。死の支配は罪の支配なのです。罪の軛に繋がれている限り、死は恐れと不安の源となります。御子は人類をその闇と恐れそして不安から解放してくださったのです。パウロは言います。
「15それでは、どうか。われらは罪を犯そうか、われらは律法のもとにではなく、恩恵のもとにあるのだから。断じて然らず。16汝ら知らぬか、汝らが自らを奴隷として従がうべく捧げるその者に、死に至る罪のであれ、義に至る従順のであれ、汝らは汝らが服従するその者にとって奴隷であることを。17しかし、神に感謝あれ、なぜなら汝らは罪の奴隷であったが、汝らが心から手渡された教えの型に服従し、18罪から自由にされ義への奴隷とされたからである。19われは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る。すなわち、汝らはまさに汝らの肢体を無律法に至る不潔と、無律法に奴隷として捧げたごとくに、今や汝らの肢体を聖さに至る義に奴隷として捧げよ。20というのも、汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であったからである。21では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである。22しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さに至る果実を持している、その終局は永遠の生命である。23なぜなら、罪の[奴隷への]給金は死であるが、神の賜物はわれらの主キリスト・イエスにある永遠の生命だからである」(Rom.6:15-23)。
罪の奴隷であったとき、われらはどんな実を結んでいたのであろうか。悪臭はなつ醜悪なものであった。個人的には、二度と罪の奴隷の軛に繋がれたくないと思い毎日過ごしています。「そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか」。あの悲惨はもうごめんです。愛のないところ、そこには支配があり、争いがありそして死があります。端的に言って闇に包まれます。ひとは闇に耐えることができないのです。この罪の軛を断ち切ることが人類には不可欠であったのです。
ナザレのイエスはご自身が神の子であるという信によって生涯父の意志の実現にむけて従順の信を貫きました。それ故に罪とその給金である死に対し勝利しました。そこに人類の歴史において、明確に正義の概念が打ち立てられました。それは神との関係の正しさとしての正義であり、「信に基づく正義」(Rom.9:30)と呼ばれました。イエスはガリラヤの野辺で 野の百合、空の鳥を見ながらそして自然的な父と子の類比に訴えながら、「天の父の子」(Mat.5:45)となるよう信仰に招きます。「汝らまず神の国とご自身の義とを求めよ」(Mat.6:33)。神との正しい関係に入ることにより、ひとは神の愛を知ることができます。信仰は正義すなわち神による義認を生み、罪の支配からの解放である義認の喜びは愛を生みます。信→義→愛、この動的な関係が動き出すのです。誰もが心魂(こころ)の根底に信仰・信が宿る部位を力能・ポテンシャルとして持っています。神から聖霊を介して送られる神の愛に反応することのできる部位です。そこは二心がある限り、この世もあの世もという二心がある限り、決して開かない部位です。モーセの十戒において第一の戒めは「わたしをおいてほかに神があってはならない」(Exod.20:3)というものです。これは幼子が親に対してもつような混じりけのない信頼であり、幼子のようになるのでなければ、持ちえない心魂の透明さです。人類は大丈夫だということ、罪の縄目からキリストの十字架と復活において解き放たということ、それ故に喜びだということ。これがクリスマスのメッセージです。
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(12) (最終結論その3(3回のうち))聖書の死生観:一回限りの復活信仰が生物的死を乗り越えさせる
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(12) (最終結論その3(3回のうち))
聖書の死生観:旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ
2021年12月12日
テクスト「コリント前書」15:35-58
35ひとは問う、「死者たちはどのように甦らされるのか、どのような身体(sōma)で彼らは来るのか」。愚か者よ、汝が蒔くものは、もしそれが死ななければ生命にもたらされることはないではないか。また汝が蒔くものは、やがて成るべく身体ではなく、麦であれ何か残りのものであっても、裸の種粒である。神は自ら意図したように(kathōs ēthelēsen)そのもの[麦]に身体を、そして[生物]種のそれぞれに固有の身体を与えている。すべての肉(sarx)は同じ肉ではなく、かたや人間たちのものであり、他方獣たちの肉は別のもの、鳥たちの肉は別のもの、魚たちの肉は別のものである。40そして天上的な身体もあれば、地上的な身体もある。かたや、天上的なものどもの栄光があり、他方、地上的なものどもの栄光が別にある。太陽の栄光と月の栄光は別であり、また星々の栄光も別である。
死者たちの復活もまた同様である。朽ちるものに蒔かれ、朽ちないものに甦らされる。価値なきものに蒔かれ、栄光に甦らされる。弱さのうちに蒔かれ、力能のうちに甦らされる。魂体(魂的身体)(sōma phsukikon)に蒔かれ、霊体(霊的身体)(sōma pneumatikon)に甦らされる。魂体があるなら、霊的なものもまたある。45こう書かれてもいる、「最初のひとアダムは生きる魂となった」、最後のアダムは生命を造る霊となった。しかし、霊的なものではなく魂的なものが最初であり、続いて霊的なものである。最初のひとは地に基づく土製であり、第二のひとは天に基づく。その土製の者[アダム]がそうあるように、土製の者たちもそのようにあり、そして天上の者[キリスト]がそうあるように、天上の者たちはそのようにある。ちょうどわれらが土製の形姿(eikona tū choikū)を担ったように、われらはその天上の者の形姿(eikona tū epūraniū)をも担うであろう。50兄弟たち、われ語る、肉と血(sarx kai haima)は神の国を相続することはできない、さらに朽ちるものは朽ちないものを相続しないと。
見よ、われ汝らに奥義を語る。われらすべてが眠りにつくということにはならず、かえってわれらすべてが、不可分の間に、瞬く間に、最後のラッパにおいて、変化させられるであろう。というのも、死者たちもまた、ラッパが鳴ると、不死なる者たちとして甦らせられそしてわれらもまた変化させられるであろうからである。というのも、この朽ちるものが朽ちないものを着させられそしてこの死ぬものが不死を着させられねばならないからである。しかし、この朽ちるものが朽ちないものを死ぬものが不死を着させられるであろうとき、そのとき書き記された言葉が出来事になるであろう。「死は勝利に飲まれてしまった、死よ、汝の勝利はいずこにある、死よ、汝の棘はいずこにある」。罪が死の棘であり、罪の力能が[罪の]律法である。われらの主イエス・キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する。かくして、わが愛する兄弟たち、あらゆるときに主の働きにおいて満ち溢れつつ、汝らの労苦が主にあって無駄なものではないことを知りつつ、動かされることなく、堅固たれ(1Cor.15:35-58)。
「ヘブライ人への手紙」9:24-28
「キリストは、まことのものの写しにすぎない人間の手で造られた聖所にではなく、今や、神のみ前に、われらのために説明するべく、天そのものに入られた。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、たびたびご自身をお捧げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。しかし、今や、一度限り、諸時代の完成において、ご自身の捧げを介して罪の取り去に向けて、顕現されました。また、人間にはただ一度限り死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている限りにおいて、キリストも多くのひとの罪を負うためにただ一度身を捧げられた後、二度目には、罪を離れて、ご自分を待望している者たちに、救いをもたらすべく顕われてくださるのです」(Heb.9:24-28)。
5. 旧約のエルゴンの神と新約のロゴス及びエルゴンの神
新約において、媒介者が真の人間であり真の神の子である場合には、神の前、即ち神自らの人間認識と判断から、ひとの前、即ち肉の弱さのもとにある人間の自由な責任主体を理論(ロゴス)上判別し、しかも両立的なものとして論じることができる。ただし、神がイエス・キリストを介してのひとへの関わりは神の前とひとの前を分けない今・ここの具体的な神的かつ人間的働き(エルゴン)であることは常に留意されねばならない。新約の神を「御子故のロゴスとエルゴンの神」と呼ぶ。まさに「ロゴス(理・ことわり)は神であった」(John. 1: 1)。
旧約における啓示の媒介は預言者や自然事象であり、それらの今・ここの働きの蓄積であり、理論があるとしてもこれらの働きの経験の総合として帰納に留まる。旧約では未だに、一回限りの決定的な啓示に基づき、他の一切の顕現が理解される新約における総合的神学が構築されることはなく、それ故に神が自らいかに認識し判断したかの知らしめをそれ自身として析出することができない。此岸と彼岸の支配者である神が関わっているという限りにおいて旧約人が出口なき此岸に自らを閉じ込めたということではない。そこで報告されているのは、永遠の神が人間的となり旧約人と分断されない仕方で彼岸のメッセージを此岸にその都度伝えたことである。
二つの文書における一方の欠落と他方の充満の対比は興味深く、この著しい論述の相違、そしてそれにも関わらずその連続性をここまで確認した。それは同一の神が一つの計画のなかで、決定的な啓示、知らしめを介してそれ以前とそれ以後の人々の知識をめぐるコントラストを著しいものにしたという理解を道理あるものとする。ひとの心魂はいつの時代にあっても生死の根源的な理解においては同じ働き、反応をするという見解は道理あるものだからである。これは、例えば、人類が持つ同一の知性の展開のもとに科学が進み、人類が不老不死を獲得した場合、その後の死生観は今とまったく異なるであろうことと類比的である。認識が変われば、パトス(身体の受動的反応)もかわっていく。
旧約における神は自らの正義と憐みを人類に理解されるよう自然事象を介して自らの人間認識と判断を伝達する、自然化され、擬人化された神として描かれることを許容している。即ち、人間に近い神であり、人間の自然的生存を左右する神として人間の、とりわけ窮境における神理解を投影されることを許容している。旧約人と関わる限りの神は、宇宙の栄光としての超越的な神というより、その都度怒りや後悔などと表現される仕方で人間に関わる内在的な神と言うことができる、もちろん旧約における宇宙の栄光としての神讃美は豊かなものでありつつ。新約では神の超越性は御子の媒介によりロゴス上確認される。神のエルゴンは御子においてその都度確認される。「イエスはピリポに言う、「これだけの時間わたしが汝らと共におりながら、ピリポよ、君はわたしを認識しないのか。どうして君は言うのか、「われらに御父をお示しください」と。わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられることを信じないのか。わたしが汝らに言う言葉は、わたしから語っているのではない。わたしのうちに留まっておられる父が、ご自身の働き(ta erga)を為しておられる。わたしが父のうちにおり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。さもなければ、これら働き自体を介して信じなさい」(John.14:9-11)。
預言者たちは今・ここの具体的な状況において民の罪を告発し、神への立ち帰りを要求している。このやりとりの集積が旧約人の歴史であった。かくして、旧約人は自らの心魂の内面において神の臨在と不在を感じつつ、今・ここの神との交わりにこそ自分たちの信仰の生命線を見ていたと言うことができる。救いが自らの外にイエス・キリストのうちに明確に立てられた新約とは異なり、エルゴンの神の隠れと顕現のもとに自らの心のup and downのなかで自らの心の状態が常に問われていた。「詩篇」はその記録であり、敵への執り成しを祈る余裕はなかった。旧約人は神について「隠れています神」と呼ぶことがあるように、十全な神の顕現が与えられない(Isa. 45: 15, Deut. 29: 28)。「いつまで主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか」(Ps. 89: 47-49)。新約においては、この訴えはなされえない。なぜなら、旧約において待ち望んだ「贖い主」、「仲保者」が到来したからである(Job. 9: 33, 33: 23, Isa. 43: 13, 47: 4, 49: 7, 54: 5)。
しかしながら、顕現も報告されている。ヨブが神の正義を疑い問いかけ追及したはてに、神が旋風のなかから顕現して言った(神義論については『信の哲学』上巻456-462)。「これは何者か、知識もないのに、言葉を重ね、神の経綸を暗くするとは。男らしく腰に帯をせよ」と応答したその時に、その事実だけで、ヨブの一切の懐疑は払拭され、喜びに満たされている(Job. 38: 1-3)。イザヤは「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」の顕現に恐れ慄きつつ「滅び」を覚悟したが、火鉢による唇の清めにより「汝の咎は取り去られ、罪は赦された」という今・ここの罪の赦しの経験にいたっている(Isa. 6: 3-7)。旧約人はこの今・ここの働きを求め、何らかの顕現により満たされつつ待望を続けた民族であった。
6. 結論
エルゴンの神、即ちひととその都度の今・ここにおいて関わる神が前史として描かれなかったなら、父と御子の協働行為としての福音は正しく福音として位置づけられなかったことであろう。あの準備期間においてこそ、同一の神の御子の派遣の必然性と、さらには罪と死の克服としての受肉、宣教、受難、復活の主は正しく理解されるにいたる。かくして、他の民族の歴史からはナザレのイエスは誕生しなかったという理解は道理がある。同様に生と死も旧約のあの禁欲的な準備なしに、総合的な理解はかなわなかったであろう。
もしユダヤ人の歴史のなかでの受肉はもとより、何の歴史的交流なしにUFOのようにアブラハムの時代に神が全人類に突然現れ、神自身が人類の創造者であることを知らしめたとして、それは人類の歴史になんら関わらない神である。その神による救済は棚ぼた式であり、多くの人はたとえ宇宙船を操る認知的卓越性を認めたとしても、人格的な正義(公平)と愛(憐み)の両立を知ることはなかったであろう。これは御子のあの生涯なしに十全には実現されなかったことがらである。信に基づく正義を介して自らの罪が贖われたこと、罪と死に対して勝利が与えられ、懲罰としての死が永遠の生命に飲み込まれたその神の愛を信じるに至らなかったであろう。
「見よ、わたし[パウロ]は汝らに奥義を語る。われらすべてが眠りにつくということにはならず、かえってわれらすべてが、不可分の間に、瞬く間に、最後のラッパにおいて、変化させられるであろう。というのも、死者たちもまた、ラッパが鳴ると、不死なる者たちとして甦らせられそしてわれらもまた変化させられるであろうからである。というのも、この朽ちるものが朽ちないものを着させられそしてこの死ぬものが不死を着させられねばならないからである。しかし、この朽ちるものが朽ちないものを死ぬものが不死を着させられるであろうとき、そのとき書き記された言葉が出来事になるであろう。『死は勝利に飲まれてしまった、死よ、汝の勝利はいずこにある、死よ、汝の棘はいずこにある』[Isa.25:8,Hos.13:14]。罪が死の棘であり、罪の力能が[罪の]律法である[Rom.7:23]。われらの主イエス・キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する。かくして、わが愛する兄弟たち、あらゆるときに主の働きにおいて満ち溢れつつ、汝らの労苦が主にあって無駄なものではないことを知りつつ、動かされることなく、堅固たれ」(1Cor. 15: 51-58)。
ユダヤ民族の歴史の展開においてモーセ律法(「業の律法」(Rom. 3: 19-20, 3: 27))が先ず神の意志として啓示され、その正義の規準との関連で神への背きが告発され、この民は祝福とともに罪の懲罰を受けてきた。そのなかで時が満ちてもう一つの神の意志(「信の律法」(3: 27)が御子の受肉と信の従順の生涯により福音として啓示されている。罪とその値である死が克服された。
新約の視点から「へブライ人への手紙」の記者は旧約の人々をこう特徴づけている。「この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらにまさったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結されることがないためである」(Heb. 11: 39-40)。旧約人は新約人を待って初めて彼らの生が何であったかが明確にされ、完結されるものであった。
旧約人の宿命として、彼らは神と自らの交わりのエルゴンの積み重ねをアブラハムの信とモーセ律法のもとに続けた。そこには祝福と懲罰の経験があった。自らの心魂を離れて神の審判に耐えうる力はなかった。新約人は自らの外に、イエス・キリストのうちに自らの救いの力を見出した。旧約人は明確な知識をもたずにも神の義と愛という一本の道を忍耐のもとに歩み続けたそのただなかに、キリストを待望するエネルギーが蓄積されていったのであった。
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(11) (最終結論その2(3の2)) 聖書の死生観:何故永遠の生命への追求は旧約人にはわずかにしか見られないのか
(録音は事情により4節のみ、最終回は次の週になります)。
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(11) (最終結論その2(3回のうち))
聖書の死生観:旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ
2021年12月5日
4.何故永遠の生命への追求は旧約人にはわずかにしか見られないのか
旧約と新約の死生観の論述内容の相違は興味深い。御子の受肉、受難と復活を介して啓示された福音が相互の連続性と展開とともに、新約から見る限り旧約における欠落そしてそれ故に待望が明らかになる。ここで、新約の視点から明らかになる旧約における不在ないし僅少の例を挙げる。(1)永遠の生命の獲得の記録はもとよりその希求。(2)神と敵とのあいだの執り成しの働きとその祈り(とりわけ「詩篇」における)。(3)聖霊による肉の弱さにある個々人への内在を介した呻きを伴う神の肯定的な意志の執り成し。(4)指導者や預言者たちの有徳者であることの記録、そして立派な有徳な人間になることへの奨励、ただし神による義人の認証を除く。(5)聖霊による一つの身体としての集会、教会の形成。(6)異邦人の救い。これらの記述が皆無ないし僅かにしか見られない。旧約人は新約において知らされているキリストの一つの身体を形成するそのような共同体や教会の観念をもたなかった。C.H.マッキントッシュは言う、「個々の霊の救と教会を一の特別の存在として聖霊によりて組成する事とは全く別事である。……旧約聖書にはどこにも教会の神秘について直接の啓示がない」(C.H.M. 1927, 16,18)。「エペソ書」において使徒は言う。「キリストの奥義は、今彼の聖なる使徒たちと預言者たちに霊のうちに知らされたようには、[彼以前の]他の時代の人の子たちには知らされてはいなかった」(Eph. 3: 4)。
ここでは(1)について考察したい。詩人は神への讃美の機会を失わないためにこの世の生存を嘆願する。「あなたは、わたしの生命を死に渡すことなく、あなたの聖者が朽ちることを許さず、生への道を教えてくださる」(Ps. 16: 10)。「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐みを乞います。わたしが死んで墓にくだることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ、あなたの真実を告げ知らせるでしょうか」(Ps. 30: 10)。「あなたは死者に対して驚くべき御業をなさったり、死霊が起き上がってあなたを讃えるでしょうか。墓の中であなたの慈しみが、滅びの国で、あなたの真実が語られたりするでしょうか」(Ps. 88: 11)。生きている限りにおいて、一切を支配し導く神に讃美を捧げることができ、そのなかで祝福を頂くことができる。
端的に言って、旧約人は直接的な仕方での永遠の生命を待望するということが、ヨブや預言者等特異な状況にある個人を除いては記録されてはいない。その待望は、民族の集団心理として、楽園追放以後、主の名前を「みだりに唱えるな」、「貪るな」という戒めに包摂されるタブー・禁忌であり、避けられたのであろうか。生命の木の実の実質は始めの人間の背きの故に言及することさえ許されなかったのであろうか。アダムが裸であることを恥じ、また茂みに隠れたように、旧約人は神への怖れのなかで自らの心情を吐露したり、最も重要な願望をさえ安易に要求できなかったのであろうか。復活はあまりに信じがたきことであったのであろうか(Mat.22:23)。永遠の生命への希求の記録の欠落は、これらの複合的事情によるものであろう。
フォン・ラートは幾つかの箇所を論拠に挙げつつ、旧約人は来世を望むことがなく彼が「此岸性」と呼ぶ現実世界への集中を彼らの特徴としてあげる (Ps. 90: 4-11, 34: 14ff, 88: 6-11, Job. 9: 2-5, 29-31, Deut. 3: 15ff, Isa. 38: 11ff)。「旧約聖書には、死後の生に対する要求はない。それは、人間が簡単に要求できるものでもなく、まして、自分勝手にわがものにすることができるものではないことを知っており、それよりも、人間は完全に神の恵みに依存しているということの方が重要だったのです。……この待期期間、つまり、永生への希望の明白な欠如については、あたかも神が自分の共同体に、まず、初めに、完全な此岸を与えられたのではないかというふうに説明できるのではないでしょうか。実際、旧約の定めは、神の此岸に対する意志を含んでいます。……すべての不安が解消されるであろうと人々を誘惑する彼岸によって相対化されることはなく、むしろ、大地と人間は、神の側から、「出口なし」と示されて、それを真摯に受け止めたのです。……あらゆる彼岸信仰は、神の此岸に対する意志を無視する明らかな不服従と言うべきです」。(註 ラートはJ.ウェルハウゼンの問いを紹介する。「宗教的な動機をもった誠実な人たちが、それほど長く、死後の永生への希望なしにありえたのはなぜか」。ラートはこの問いが事実に即したものではないとし、「なぜなら、旧約聖書には、死後の生に対する要求はないから」と理由を提示する。しかし、これは人間本性からして、また生死の本性に鑑みて、旧約人に対する過度の要求、また過度の特殊民族性への要求が含まれている(フォン・ラート 2021, 67-68))。
しかしながら、フォン・ラートによる旧約人のこの理解は正しいのだろうか。これまでの論述に基づくとき、少なくとも、「此岸性」と「彼岸性」、ひとの世界と神の世界の分断を含意するこの表現は、生と死を総合的に捉えることを不可能にしており、貧弱な死生観しか持ちえず、旧約人を矮小化してはいないであろうか。神から「出口なし」を示された人間はどこに希望を見出すことができるであろうか。より適切な表現を求めるべきである。
旧約においては神が人間と関わる媒体は洪水や疫病そして死等自然事象を介してであり、そこではこの世界の事象を媒介にして具体的に関わる今・ここのエルゴン(働き)の神の報告で満ちているがゆえに、何か彼岸即ち神の前の事柄が考慮されずに、此岸即ちこの自然的世界だけが考慮される、そのような印象を与えたのだと思われる。しかし、エルゴンの神はひとの現実世界から分けられてはいないだけのことであり、その同じ神がどこまでも宇宙の栄光の神である。この神は当然死を支配している以上、死後を考慮しているが、そのことは新約において明確に知らしめられた。神は旧約人にはアブラハムの信仰義認とモーセの業の律法に基づく義認の枠のなかで、自らが人間的に理解されることを許容しつつ、恩恵を思い起させることにより罪とその値である死の乗り越えを迫っていた。罪と死の乗り越えが彼らの課題でなかったはずはない。あたかも旧約人が此岸に閉じ込められたかに見えるのは、神が自ら譲歩して彼らの理解に応じて今・ここにおいて具体的に人間的な様相において関わったからである。
5. 旧約のエルゴンの神と新約のロゴス及びエルゴンの神
新約において、媒介者が真の人間であり真の神の子である場合には、神の前、即ち神自らの人間認識と判断から、ひとの前、即ち肉の弱さのもとにある人間の自由な責任主体を理論(ロゴス)上判別し、しかも両立的なものとして論じることができる(千葉 2018, 第三章)。ただし、神がイエス・キリストを介してのひとへの関わりは神の前とひとの前を分けない今・ここの具体的な神的かつ人間的働き(エルゴン)であることは常に留意されねばならない。新約の神を「御子故のロゴスとエルゴンの神」と呼ぶ。まさに「ロゴス(理・ことわり)は神であった」(John. 1: 1)。
旧約における啓示の媒介は預言者や自然事象であり、それらの今・ここの働きの蓄積であり、理論があるとしてもこれらの働きの経験の総合として帰納に留まる。旧約では未だに、一回限りの決定的な啓示に基づき、他の一切の顕現が理解される新約における総合的神学が構築されることはなく、それ故に神が自らいかに認識し判断したかの知らしめをそれ自身として析出することができない。此岸と彼岸の支配者である神が関わっているという限りにおいて旧約人が出口なき此岸に自らを閉じ込めたということではない。そこで報告されているのは、永遠の神が人間的となり旧約人と分断されない仕方で彼岸のメッセージを此岸にその都度伝えたことである。
二つの文書における一方の欠落と他方の充満の対比は興味深く、この著しい論述の相違、そしてそれにも関わらずその連続性をここまで確認した。それは同一の神が一つの計画のなかで、決定的な啓示、知らしめを介してそれ以前とそれ以後の人々の知識をめぐるコントラストを著しいものにしたという理解を道理あるものとする。ひとの心魂はいつの時代にあっても生死の根源的な理解においては同じ働き、反応をするという見解は道理あるものだからである。これは、例えば、人類が持つ同一の知性の展開のもとに科学が進み、人類が不老不死を獲得した場合、その後の死生観は今とまったく異なるであろうことと類比的である。
旧約における神は自らの正義と憐みを人類に理解されるよう自然事象を介して自らの人間認識と判断を伝達する、自然化され、擬人化された神として描かれることを許容している。即ち、人間に近い神であり、人間の自然的生存を左右する神として人間の、とりわけ窮境における神理解を投影されることを許容している。旧約人と関わる限りの神は、宇宙の栄光としての超越的な神というより、その都度怒りや後悔などと表現される仕方で人間に関わる内在的な神と言うことができる、もちろん旧約における宇宙の栄光としての神讃美は豊かなものでありつつ。新約では神の超越性は御子の媒介によりロゴス上確認される。神のエルゴンは御子においてその都度確認される。
預言者たちは今・ここの具体的な状況において民の罪を告発し、神への立ち帰りを要求している。このやりとりの集積が旧約人の歴史であった。かくして、旧約人は自らの心魂の内面において神の臨在と不在を感じつつ、今・ここの神との交わりにこそ自分たちの信仰の生命線を見ていたと言うことができる。救いが自らの外にイエス・キリストのうちに明確に立てられた新約とは異なり、エルゴンの神の隠れと顕現のもとに自らの心のup and downのなかで自らの心の状態が常に問われていた。「詩篇」はその記録であり、敵への執り成しを祈る余裕はなかった。旧約人は神について「隠れています神」と呼ぶことがあるように、十全な神の顕現が与えられない(Isa. 45: 15, Deut. 29: 28)。「いつまで主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか」(Ps. 89: 47-49)。新約においては、この訴えはなされえない。なぜなら、旧約において待ち望んだ「贖い主」、「仲保者」が到来したからである(Job. 9: 33, 33: 23, Isa. 43: 13, 47: 4, 49: 7, 54: 5)。
しかしながら、顕現も報告されている。ヨブが神の正義を疑い問いかけ追及したはてに、神が旋風のなかから顕現して言った(神義論については『信の哲学』上巻456-462)。「これは何者か、知識もないのに、言葉を重ね、神の経綸を暗くするとは。男らしく腰に帯をせよ」と応答したその時に、その事実だけで、ヨブの一切の懐疑は払拭され、喜びに満たされている(Job. 38: 1-3)。イザヤは「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」の顕現に恐れ慄きつつ「滅び」を覚悟したが、火鉢による唇の清めにより「汝の咎は取り去られ、罪は赦された」という今・ここの罪の赦しの経験にいたっている(Isa. 6: 3-7)。旧約人はこの今・ここの働きを求め、何らかの顕現により満たされつつ待望を続けた民族であった。
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(10:最終結論1(2の1))聖書の死生観―旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ―
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(10:最終結論1(2の1))
聖書の死生観
―旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ―
千葉 惠
「わたしは裸で母の胎をでた。また裸で帰ろう。主与え、主取りたまう、主の御名は褒むべきかな」(Job.1:20)
「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、なかにはいっても、主イエスの遺体が見当たらなかった。途方にくれていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ生きておられる方を死者のなかに捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」(Luk.24:2-6)。
1 死生観と神観念
1.1生と死の動的な関わりの探求
2021年夏、疫病の蔓延で医療崩壊のみならず、生が死に飲み込まれる人生崩壊の兆しさえこの国に広がった。人類が生存する限り問われる死が新たに問われた。死後についてなにがしか語ることは宗教の大きな仕事であるが、神など超越者をめぐっては、三つの態度が考えられる。そのなかで対立する二つの立場を突き詰めると、一方で一切を正確に知り公平な審判を遂行する一人の存在者がいるという唯一神論としての有神論となり、他方、個々人の一切はこの生の活動期間ののちに無に帰するという無神論となる。双方とも明確な信念のもとに生を構築する。第三の立場として神についてひとは知りえないという不可知論がその間にあり、最も理性的な態度のように見える。しかし、不可知論は神が存在する、それ故に死後神の前に立ち何らかの審判を受けるという想定のもとで、日々迫られる個々の行為を選択するという生を構築できないため、有神論を懐疑においてであれ真剣に受け止めない限り、事実上、無神論に吸収される。
無神論に基づく死生観はここで展開する有神論の論述の否定として理解される。永遠の生命など存在せず、死後、肉体は自然とその生態系に還元されていくという見解である。不可知論は判断保留のまま生を遂行する。孔子は、弟子の子路が死について尋ねたとき、「わたしは生を知らない、どうして死について知っているだろうか」と応答した(『論語』11-11)。孔子の立場は生が何であるかを知れば、死を理解できるかもしれないというものであり、強い不可知論ではない。とはいえ、これらの立場は生を死によって知り、死を生によって知るという動的な関係において捉えてはいない。
双方を分断したうえで、生の側から死を推し量ることがある。ひとは自らの過酷な生のゆえに死を望むことがある。そこでの暗黙の前提には死は一切の悪しきことの消滅であり、死後は、神ありなしに拘わらず、生の持つ過酷さをもたないかのごとき希望的観測がある。そうかもしれない、そうでないかもしれない。これに対し、双方を包括的に捉えるとは、生と死は何らか連続的であり、死が一刻一刻迫っているという事実こそ生に意味を与え、その生の内実が死に飲み込まれない肯定的なものである限り、死はその生の延長線上に肯定的なものとして開かれると捉える。その意味で死の何らかの理解が生を構成しており、生の何らかの理解が死を取り込んでいる。
生と死を包括的な視点から捉えることにより、生死の分断的な思考を免れることができる。ひとはそのような総合的な、しかも前向きな理解を求める。実際、ひとは生きていることの充実感を得るには未来に時間が開かれているという感覚を必要としている。死はその前向き、肯定的な生の構成要素でありうる。生死を支配する神は人類の歴史においてそのような機能を担うものとして看做されてきたのであり、信じること、或いは懐疑においてであれ有神論を真剣に考慮することが生死を真剣に受け止めることを可能にさせる。突き詰めれば、宗教において生きて働く神を相手にするのでなければ、生死を動的な連関のもとで総合的に受け止めることはできない。「総合的」とは人類の歴史を考慮しつつそのなかに個人を位置づけ、各自が神への信仰、眼差しのなかで個々の古き自己の死と新しい自己の生命の再生の経験のフィードバック(送り返し)を介して全体としての自己理解を形成深化させることである。死を支配する者があるという信なしに、死は不可知の闇に留まる。
1.2 聖書の死生観―旧約から新約への飛躍―
本稿において聖書が伝える死生観を紹介、吟味する。コンコルダンス(字句索引)によれば、聖書には「生命」(「命」)と「死」とその類縁語はそれぞれ約数百回見出すことができる(『 コルコルダンス 新共同訳聖書、聖書語句辞典』(木田、和田監修 キリスト新聞社 1997、以下新約からの引用は私訳を用い、旧約からの引用は基本的に日本聖書協会『新共同訳』(1987)を用いる)。二千頁の一つの書物において均せば二頁に一度はいずれかとその類縁語が現れていることになる。それ故にこの書は生命と死をめぐる書であると言ってよい。一方で、悪行や暴飲暴食が死を招くということや、他方で「ひとの生涯は草のよう、野の花のように咲く。風がその上に吹けば消え失せ、生えていたことを知る者もなくなる」という類の人生の儚さへの言及はアダムの末の誰もが語るであろう一般的な理解である(Prov.11:19,Lev.10:9,Ps.103:15,Job.14:1)。
同様に、民族のリーダーたちは自らの使命の成就として長寿を全うしたが、そのこと自体に祝福された生を見ることも万国共通であろう。ユダヤ民族の始祖「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(Gen.25:8,15:15)。エジプトのファラオの娘の子として育てられたモーセやその後継者ヨシュアそして長老たちの死も生の成就でありその長寿は祝福されたものであった(Deut.34:1-8, Josh.24:29-31)。旧約において「ダビデは先祖と共に眠りについた」(1Ki.2:10)という表現に見られるように、他の固有名の挿入によるこれと同じ構文は40か所以上で見られ、慣用表現であったことがわかる(前掲コンコルダンスp.745)。
この「眠りについた」という表現はエデンの園における「生命の木」に暗示されるように、生物的死が一切の終わり「永眠」というものではなく、覚醒の可能性を示唆していると言うことができる。この表現は新約における義人、聖徒の死が一時的な眠りであるという特徴づけを基礎づけたと推測される。もし神に背かなければ、アダムであれ誰であれたとえ生物として土に返ったとしても、義人の死は新約聖書においては「眠り」であると捉えられることになる(Mat.27:52、1Cor.15:6,18,20,51)。
The Bookと呼ばれる人類の歴史で最も読まれているこの書物は一つの出来事を契機に二つの異なる文書が連続的な歴史の展開として編集されている。イエス・キリストの復活即ち死者たちのなかからの甦りを契機にして、旧約聖書と新約聖書の死生観は断絶と呼べるほどの飛躍を遂げている。新約において「永遠の生命」と呼ばれるものの在り処が歴史のなかで全人類に向けて神により知らしめられたと報告されている(John.3:18,Rom.5:21)。新約との著しい対比として、旧約において来世についての思弁や幻、永遠の生命の獲得とその希求の記録がほとんど見られない。その理由を探りつつ、人間の永生の可能性を基礎づける(神学的には)「ただ一度」(Rom.6:10)限り生起したと報告される死者の復活、甦りの事件が両文書の連続性と飛躍を道理あるものと理解させる、そのような異なる記述を許容する同一の神についての理解を深めたい。
新旧約を貫く神の特徴づけは明確であり、唯一の神ヤハウェは宇宙万物の創造者として時空の外にあり、永遠の現在において過去も未来も現在のこととして了解している全知にして全能なる宇宙の栄光である(Gen.1:1-2:4,Ps.90:4,91:1,139:1-24,Rom.1:19-20)。双方の相違としては、神は自らの愛の相手として人間を創造したが、楽園追放後の人間との関わりの仕方即ち媒介が御子の出来事を契機にして判別される。一方、旧約においては天、主の使い、預言者そして洪水や疫病等自然事象を介してその都度の今・ここにおいて具体的な状況にある人々に働きかけていることが記録されている(「天」は旧新約全体で約650回使用のうち「天から」は旧新約それぞれ約60回、「御使い」は旧約で約50回、「天使」は新約で約200回使用)。預言者たちは人格的な存在者として神の言葉を取次ぐ。定型表現「万軍の神(主)は言う」は預言者たちにより150回以上用いられ神の認識や判断が取り次がれている。神の審判の預言は至るところに見いだされる(eg. Hosea 7:13-8:14, Isa.30:12-14, Jer.5:14-17)。ユダの王ゼデキアはじめ高官たちは紀元前6世紀に70年間にわたりバビロンに拘束された(Jer.25:11)。それはユダの堕落に対する神の怒りであった。「わたし(神)はエルサレムを瓦礫の山、山犬の住処とし、ユダの町々を荒廃させる。そこに住む者はいなくなる」(Jer.9:6-10)。
他方、新約において、神は根源的な仕方で神の子であり同時に受肉により真の人の子である和解の執成し手イエス・キリストないし聖霊を介して関わっていると報告されている。ナザレのイエスが自ら天父の子であるという「神の子の信」、信の「従順」を貫きその都度の今・ここの働きにおいて完全に神の義と神の意志、計画を実現したことにより、神により御子として嘉みされ甦りを与えられたと報告されている(Gal.2:20,Phil.2:8,Rom.4:25)。そのことにより、イエス・キリストは父なる神の信義の啓示および神の人間認識、判断の普遍的な仕方での啓示の媒介者とされる。そしてこれは父と子の協働の知らしめであるが故に、これは最も明白な神の自己顕現である(John.Rom.3:21-26,2Cor.5:19)。
かくして、この自己顕現に基づき旧約における自然事象また族長、預言者を介した神の諸顕現を理解することは道理あるものとなる。根源的かつ普遍的に知られる父と子の協働作業のほうが具体的な状況、とりわけ窮状にある個々人に受け止められた限りにおいて記述される神よりも純化された仕方で神の特徴およびその働きが理解されうるからである。さらに、御子の派遣は然るべき時に決定的な仕方でなされたとする限り、その充足の時に至る準備期間として他の一切の顕現は理解されるからである。永遠の生命の知らしめの準備として旧約が位置付けられる。
両文書の報告において同一の神が自らの隠れと顕現において歴史を一直線に展開させていると理解される。パウロは450節からなる「ローマ書」において旧約に先駆的形態のある信に基づく義・正義がモーセを介した旧約の中心的啓示である業に基づく義・正義よりも神自身にとってより根源的であることを論証する。彼はそこでキリストにおいて成就された福音(信義論、予定論)を旧約から60節(箇所)以上すべて肯定的に引用することにより裏付けている。救世主の復活の知らしめこそがそれまでの旧約人の知らされざるなかでの苦闘と待望を特徴づける。彼らは一回限りの歴史の進行のなかで政治的メシヤの出現であれ他の何かであれ救いを暗中模索していたが、自ら知らずにも或いはわずかに自覚的に復活による永遠の生命を求めていたことが明らかになる。
2 アダム―その組成と堕罪―
2:1 人類の始祖アダムとひとの心身の構成要素
人類の始祖の誕生神話によれば、神が土に生命の息を吹き込むことによりひとが生きるものとなったとされている。「主なる神は土(アダマ)の塵でひと(アダム)を形づくり、その鼻に生命の息(pnoē zōēs)を吹きこんだ。そして人間は生きる魂となった」(Gen,2:7)。G. von Ratは言う「用いられる材料は土である、しかし人間は最初に神の口から神的な息のまったく無媒介的な吹きこみによって「生きもの(Lebewesen)」になった。この七節はかくして、ヤハヴィストには珍しいことであるが!、一つの厳密な定義を含んでいる」。G.v.Rhad,Theologie des Alten Testaments 7 Auflage Bd I,S.163 (Kaiser Verlag München 1978).
人間は地水火風という自然の構成要素と異ならないものにより形成されていることは最も基礎的なこととして共約的に確認できることである。そのことは三十数億年の生命の進化の過程を経ての人類の誕生という理解にも道を備えることになるが、進化の問題をここで論じることはできない(『信の哲学』第二章一節四参照)。ここで確認すべきことは、なによりも、人間の構成要素に関するこの最も基礎的な事態が含意することとして、現代科学が対象とする人間と聖書の伝統のなかで新約の使徒パウロがナザレのイエスの生涯に基づき解明しようとする人間は少なくとも同一の質料的な基礎を持つということである。パウロは旧約以来の伝統のなかで、「最初の人間アダムは生きる魂となった、最後のアダムは生命を造る霊となった」(1Cor.15:45)と語り、生物的な生命原理として「魂」を提示し、またその延長線上に最後のアダムとしてのキリストをさらなる新たな永遠の生命の原理となる「霊」として提示している。
人間の心身の構成原理について確認する。伝統的に「魂(phsuchē)」が生命原理として最も基礎的なものとして位置づけられる。そのうえに「心(kardia)」に内属する感情や思考、信念等の心的事象が生起しさらには「内なる人間」と呼ばれる心の底に内属する霊的事象が出現する(Rom.7:24,2Cor.4:16)。パウロにおいては「人間」は「最初の人間」とその生物的な死を介して「第二の人間」双方から成り立つと想定されている。第一の人間は「魂的身体」を持ち、第二の人間は「霊的身体」を持つ。第一の人間アダムは「土に基づき土製の」組成を持ち「生きる魂」となった。第二の人間は「天から」の者であり、「終局のアダム」と呼ばれるキリストが「生命を造る霊」となったことに基礎づけられる(1Cor.15:44-48)。
この事態は神話的には鼻に吹き込まれた「生命の息」と呼ばれる人間の魂体に関し、生物的な生命に関しては現代科学の知見は日進月歩であるが、現代科学がまだ解明できていないことがらを或いは異なる仕方で表現していることがらをパウロはすでに把握している可能性を否定しない。パウロは「霊(pneuma)」をその心身、魂体を統一する最も基礎的な要素として提示している。聖霊を受けたか否かについて、新約は帰結主義をとっており、愛の実践や平安、喜びの果実を得ているとき、即ち人格的成長が確認されるとき、その証があると主張される(Luk.7:44,Gal.5:22)。信が聖霊を受動する心魂の根源的部位において生起する限り、つまり正しい信である限り、真偽の知識に関わる理性の逸脱である狂信からも、心魂の人格的徳(善悪)に関わる身体的なパトス(受動的情念)の逸脱、過剰(例、恐怖)である迷信からも自由とされ、賢者となり聖者となるからである。
アダムの存在論的な身分はいかなるものか。土製の自然に還元できるのか。神が土製のものに息を吹き込んで「生きる魂」となった以上、人間は実質的には霊的なものにより形成されている。しかし、聖霊が改めて注がれることは多くの箇所で語られている以上、この創造の息吹は聖霊を意味してはいない。生命原理としての魂のことが語られていることは明らかであり、その息吹は続いて与えられるでもあろう聖霊の注ぎを受けとる部位、「内なる人間」として理解することができる。少なくとも、単に土だけによって造られているわけではないので、何らかの神的行為に対応しうるもの、反応しうる部位が内在していると理解すべきである。
実際、次のようにも言われている。「魂的人間は神の霊のことがらを受け取らない。というのも彼には愚かでありそして知ることができないからである、といのもそれは霊的に吟味されるからである。霊的な者はすべてを吟味するが、彼自身は誰によっても吟味されない」(1Cor.2:14)。霊的な人間は最も包括的に人間であることを把握した者であり、人間は肉の魂的な生命に還元されないことを知っている。注(生命と魂そして永遠の生命につらなる霊について即ち聖書が展開する心身論について、より詳しい議論は『信の哲学』第四章パウロの心身論))。
2:2堕罪とその影響―「善悪を知る木」と「生命の木」―
これらは誰もが持つ心魂の態勢、働きであると聖書は主張する。一方で、生命の誕生であれ長寿であれ、祝福は土から造られた自然的な心魂のうえに注がれる。創造は「はなはだ良かった」のである(Gen.1:31)。自然的なものは草木であれ動物であれ、自らの生命の力能の十全な発揮においてこそ自然であり本来的である。人類の始祖アダムとエヴァは祝福のもとにあり、人類の隆盛に向けて生殖も祝福されている。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(Gen.1:28)。もし罪がなければ、ひとの人生はすべて自然のままに祝福されたものであったであろう。
神はエデンの園の中央には「生命の木」と「善悪の知識の木」を生えいでさせた。最初のひとは園の木の実を自由に食することが許されていたが、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ」と警告されていた(Gen.2:17)。彼らは「神の如くになる」(3:4)という蛇の誘惑に負けて、この木の実を食した。すると目が開け裸であることを恥じた。ルターは「罪とはおのれの内側に曲がってしまった心である」と言う。彼らは神から自律した行為主体として善悪を判断して生きる道を選んだ。ひとは「啓蒙」と呼ぶでもあろうが、神の視点から言えば、従順の中での善悪の識別を介しての道徳的鍛錬は嘉みされたであろうが、神から離れての啓蒙は背きであり罪であった。神は「塵にすぎないお前は塵に帰る」という仕方で自然的な生物的死を生命維持の労役とともに罰として与えた(3:19)。
楽園追放の理由は彼らが「生命の木」からも取って食べ「永遠に生きる者」となる恐れがあったからである(3:23)。これは時満ちて御子の派遣を介して永遠の生命が与えられる、そのような歴史を踏まえることなしに、永遠の生命を一気に獲得することが問題視されている。なぜ人類には初めから永生が明らかな仕方で与えられなかったかが説明されねばならない。
ひとは道徳的となる力能および永遠の生命に与る主体となる力能をその創造において所有していた。少なくともそれらが然るべきときに神から与えられたさいには、それらの実を食し消化するする力能を備えていた。エデンの園から追い出せば、盗まれ食されることがなくなるという想定のもとに彼らは園を追放されたのであるから、それ以前も以後も彼らが食する力能を失ったわけではない。とはいえ、時が満ちたなら善悪の木のみならず、生命の木を食することが許されていたかもしれないが、最初の人間には許されなかった。
人類はその後もこの力能を所持していると看做すべきことは一つの民族の展開のなかで、預言の成就として永遠の生命を担った御子の復活が生起したことから確認される。堕罪後人類の歴史は自然的制約というこの与件のもとで、神への背きと死の乗り越えを課題として引き受けることになる。生物的死が単に自然事象であり神への背きの罰であるという認識の欠如こそ神への背きを示しており、悔い改め立ち帰りがその都度求められている。それが原罪の持つ波及範囲の最も確かな理解である。(註 カトリックとプロテスタントにおいて最初の人間の腐敗はどれほど著しいかの論争がある(『信の哲学』第八章、九章第二節一)。カトリック教会は4世紀ヒエロニムスによりラテン語に翻訳されて以来聖典とされたVulgata版を1970年のNova Vulgataにおいてアダムの原罪が血を介して遺伝的に伝わるという遺伝罪という考えの典拠とされることもあった箇所(「ローマ書」5:12)の翻訳を修正している。罪は神の前の概念であって自然的な概念ではなく、罪の遺伝子が子孫に伝達されるという類の議論はなされえない(『信の哲学』第三章)。遺伝罪という理解は既に克服されたとして、人類はすべて神の前に罪を犯したと理解されている。アダム以来、ひとびとはずっとアダムを「模倣」(ペラギウス)してきたと理解される。或いは、「模倣」という言い方が躓きを与えるとすれば、神の前に一度は嘉みされなかった者として振る舞ってきたことになる)。
3神が生死を支配する
―旧約における確かなものごとと知らされざるものごと―
生物的死はこのように聖書において罪の罰であるという基礎理解のもとに、旧約における来世、永遠の生命の希求の記録の欠如についていかなるものとして理解しうるか考察したい。旧約人はアブラハムの信とモーセ律法により鍛えられることとなる。彼らの歴史における神の意志の明確な知らしめは信仰に基づき義とされたアブラハムへの子孫の繁栄の約束と信仰に基づきエジプト脱出を導いたモーセへの十戒に見られる。この恩恵に絶えず立ち返ることは彼らのあらゆる神との関わりの規準、礎石となった。旧約の義人の系譜が信仰に基づくものであったことは「ヘブライ書」で旧約人14人の言及のもとに記録されている(11:1~40)。
モーセは神の命に従い、ヘブライ人をエジプトから導きだし、神の山ホレブにおいて神から律法(十戒)を啓示された。「汝はわたしをおいて他に神があってはならない。・・わたしは主、汝の神。わたしは嫉む神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。・・汝の神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかない」(Exod.20:4-7)。
生命と死は神の祝福と呪いの関連におかれる。「わたし[モーセ]は今日生命と幸い、死と災いを汝の前に置く。・・汝の神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法とを守るならば、汝は生命を得、かつ増える。・・もし汝が心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるなら、・・汝らは必ず滅びる」(Deut.30:15-18)。モーセは偶像崇拝に陥った民を一日で三千人処刑して、神の言葉を伝達した。「わたし[神]に罪を犯した者は誰でもわたしの書から消し去る。・・わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する」(32:28,33-34)。
神が唯一であり他のいかなる神をも拝するなという唯一神の顕現とその神の名をみだりに唱えるなという戒めはイスラエル民族の思考と行動を支配した。神になずむことへの禁止は神への畏れのなかで死後への勝手な思弁や要求をブロックする。さらに口寄せや霊媒を通じての死者との交流の禁止は神から知らされていない事柄に対する思弁や希求の禁欲を強いている(Deut.18:11,Lev.19:31、20:6、20:27、2Ki.21:6、23:24、2Chr.33:6、Isa.8:19、19:4)。
彼らの思考の枠はアブラハムの約束の成就への信とモーセ十戒の遵守による祝福と懲罰のもとに定められた。それはちょうど厳格な親の訓育のもと真面目で規範意識の高い子供が育つことと類比的である。パウロによれば、厳格な律法主義者には「誇り」が残り信に至らない可能性が指摘されている(Rom.3:27)。それでも、どのような養育環境にあっても人間が人間である限り共通する心魂の働きである感情や憧れ、思考そして信念を抱いている或いは何らかの心魂の法則性のもとに心的事象は生起すると想定することは道理ある。
ここで旧約における死生観をめぐって彼らの特徴的な理解を幾つか挙げる。(a)生と死一切が神の支配のもとにある。預言者エゼキエルはバビロン捕囚のただなかで神の言葉を取次ぐ、「すべての生命はわたし[神]のものである。父の生命も子の生命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その者は死ぬ」(Ezek.18:3)。エレミヤはバビロン王ネブカドレツァルの侵攻を預言し神の言葉を取次ぐ。「見よ、わたしは汝らの前に生命の道と死の道を置く。この都に留まる者は戦いと飢饉と疫病によって死ぬ」(Jer.21:8)。生死は神に属するものである。「何ごとにも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時がある」(Eccl.3:1-2)。
(b)神は生物的死や洪水、隕石の落下そして疫病など自然的事象を介して自らの意志とりわけ懲罰を知らしめる。(c)アブラハムは彼の子孫の繁栄に対する神の約束を信じ、それにより神と正しい関係にはいった。旧約においても信仰義認の系譜がその民族に対する神の祝福、肯定的な交わりの源泉である。(d)神を信じ畏れモーセ律法を遵守する者には祝福が与えられる。永遠の生命希求の代替として、指導者たちに見られる長寿とその祝福は定型句「眠りについた」により表現されている。(e)祝福と懲罰の前提として、ひとは誰もが自らの責任ある自由のもとに生きており、神に背くことも立ち帰ることもできる。ただし、楽園追放の与件のもとで立ち帰りが常に必須事項となる。
ここでは(b)自然事象が神の意志を媒介するその擬人化、自然化について考察する。例えば、人類の悪の蔓延りに対する神の怒りがノアの洪水を引き起こしたと報告されている。「神はひとを創造したことを後悔し、心を痛めた」(Gen.6:6)。神はノアの家族を生き延びるように箱舟の建造を命じるが、そのとき「すべて肉なる者を終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らの故に不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(6:13)。
またソドムとゴモラの町がその悪に対する神の怒りのもと硫黄の火により滅ぼされたと報告されている。この「硫黄の火」は近年の考古学的研究により紀元前1650年頃死海近辺のヨルダン川東岸における隕石の落下であることが判明しつつある。ソドムについて神は三人の使いを介してアブラハムに告げた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びがとても大きい」(Gen.18:20)。彼は神に願い、五十人の義人がいたとしても滅ぼすのかとソドムの都のために執成す。彼は義人の存在を十人まで値切り、神から「その十人のために滅ぼさない」との応答を得ることができた。しかし、ソドムにはそれだけの義人を見出しえなかった。
ダビデの時代にイスラエルにおいて北の端であるダンから南の端であるベエルシェバまで疫病がもたらされ七万人が死んだと報告されている(2Sam.24:15)。「御使いはその手をエルサレムに伸ばして滅ぼそうとしたが、主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言った、「もう十分だ、その手を下ろせ」」(24:16)。
この物語や義人の値切りにみられるように、旧約において神は擬人化されており、意見を変え得るものとして宇宙の栄光を捨てた人間的な神として描かれている。しかし、新約の視点から言えば、これらは真の媒介者キリストを知らない者たちへの神の憐みの表現として理解される。宇宙の栄光である神は自らが理解されるべく、自然事象を介して人間と関わる。このように旧約においては神についての普遍的な理論化は遂行されることはなく個々の神とひとの今・ここの人間的な交わりが記録されている。かくして、旧約の神は神とひととのあいだを分けない仕方でその都度の今・ここにおいて関わる「エルゴン(働き)の神」と特徴づけられよう。
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(9)―旧約における媒介者の不在―
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(9)―旧約における媒介者の不在―
2021年11月21日
聖書箇所 ルカ24:1-38 (新共同訳)
そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 この一切の出来事について話し合っていた。 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
7.1 はじめに―旧約から新約への飛躍(復習)―
旧約聖書から新約聖書への飛躍は著しい。これはあたかも洞窟の闇の世界にいて手探りで行く手を探していた者が外に出て光輝くガリラヤの丘で春のおだやかで清新な風を身に受けるそのような情景への転換である。旧約と新約のあいだにはイエス・キリストの出来事が生起した。このコントラストを八回にわたる連続講義で確認してきた。
この秋このキーパーソンを介して劇的な変化を遂げた人類の生と死の理解を学んできた。最初の人間の神に対する背き以来、人類は常に反抗し、背くその事実が伝えられている。この悲惨のなかで、神はモーセを介して律法を与え人類を正しい方向に導こうとしたことが報告されている。同一の人類の歴史はイスラエルを選んだ神の眼を通して理解するとき、生物的死は審判となり長寿や民族の繁栄は祝福となるが、それは神への立ち帰りのもとでの祝福こそイスラエルの民の目指すものとなった。道徳的規準により歴史を導く神の祝福と罰は勧善懲悪とも言える単純なものである。他方、イスラエルの祝福の系譜を支えるものは彼らの信仰であった(秋の連続講義(6)10月31日参照)。アブラハムは神の約束のもとに苦難の末に与えられたイサクを捧げる、そこに見られる生の一切を神への信のもとに遂行するその根源的態度が祝福された。モーセの「業の律法」とアブラハムの「信の律法」の関係づけこそ、この民の追い求めるものとなった。また課題であった。
彼らは律法と約束への信のもとに歩んだが著しい制約のなかに置かれた。旧約の神はとても人間的である。なぜなら御子の受肉による神とひとの媒介者が不在であったからである。人間にもわかるように、神が嘉みする人としての在り方、道徳を教えた。宇宙の創造者にして栄光である神は時間的な制約を受けているかの如くに寛容や忍耐そして後悔等人間的な心の動きを共にする者として描かれることを許容している。さもなければ、選びの民イスラエルは神の意志や嘉みを理解できなかったからである。旧約人は自らの生存と繁栄、民族の繁栄を神に求めた。彼らは自らの永遠の生命を恰も当然の所有物であるかの如くに振る舞うことは、決してできず、嘆願することさえほとんどなかった。ひとの本来的な願いは時代を超えて同じであり、新約から見れば神の計画も罪と死の乗り越えである以上、預言者や詩人は時折、永遠の生命の預言と希求を記録してはいた。旧約人はそのつどそのつど恩恵を受けて感謝と賛美を捧げたが、基本的に自らの外に救いが、永遠の生命の在り処が明確に知らされてはいなかったため、心魂の内面の探索、表白そして希求に時を費やさざるをえない運命にあった。
旧約人は死後を顧慮することは禁じられていた。あの世と交流をはかる霊媒や口寄せはその存在を認められず忌避された。換言すれば、彼らは死後についての神の意志について明白には知らず、自信がなかったのである。新約では生も死も天も深淵もイエス・キリストの出来事との関連で理解されるにいたる(Rom.10:5-13)。
さらに旧約人はペンテコステのように神からの聖霊による平安と喜びのなかで共同に一体感を持つことを経験させられることはなかった。彼らの外に御子を介して明白に啓示された共通の知識を共有することはできなかった。シナゴーグではモーセ五書や預言書、詩篇等が朗読された。過ぎ越しや仮庵の祭りなどにおけるトーラー(律法)を与えられたことの喜びや賛美はあったが、「キリストの叡知」(1Cor.2:16)に基づき神の意志を知り共有することも、集会全体における聖霊の注ぎによるキリストに連なる有機的な交わりにおける平安と聖化を経験することもなかった。詩人のごとくに基本的に一人で神に賛美と栄光を帰しつつ、憐みを求め、虐げる者からの解放を願い、自らの救いを求める、そのような暗中模索の日々であらざるをえなかった。そこには当然神の憐みに具体的に触れ、喜びと賛美を捧げることがあったことは決して否定されない。
これらは新約の視点から見た旧約人の特徴づけである。もし御子の派遣がなかったなら、人類はずっと擬人的な神と個々人の生のアップアンドダウンのなかで呼びかけを続けねばならなかったであろう。我等の外に明確にわれらと人類全体の救いが明らかに建てられたという主張は決して為されないままであったであろう。この状況は新たに知らされたものから、それまで知らされていなかったものどもを確認する営みである。そして、それまでの自らの無知に衝撃を覚えるとともに、どんな暗き世界を生きて来たかを確認することとなる。それはあたかも日本が明治期以来哲学を輸入して、或る大学では最初にはいったドイツ観念論やマルクス主義そして実存主義のみが哲学として講じられていた時代に類比的である。それしか知らされなければ哲学とはそのようなものだと思い込まざるをえなかったが、ヨーロッパには他にも豊かでより健全な思考の営みがあったのである。われらは新しいものとの出会いなしには、これが人生であるという思い込みのなかで生涯を過ごすことになるであろう。探求が求められるゆえんである。「探せ、探せば見つかる」。
旧約においては今・ここで生きて働いておられる神への具体的な呼びかけは見いだされるが、自分たちの永遠の生命への希求は憚られていた。来世と取り次ぐ口寄せや霊媒は禁じられた。民族神ヤハウェへの忠誠のなかで他の神々への崇拝は厳しく咎められた。この現実世界のただなかで、神と正しい関係を結ぶべく、憐みと祝福を求めまた虐げる者からの解放を求めた。いきおい、メシヤ(救世主)を求めその出現を待つこと、それが民族の歴史であり、制約であり限界となった。メシヤが旧約の預言者たちに預言された。そのメシヤは神に背く者たちの罪の苦難を担い死においやられ、三日のあいだ死者たちのなかにいたが、復活することが預言されていた。
7.3 イエスはご自身を旧約の預言の成就と看做した
イエスはこの預言を「神の言葉は失墜しない」という信のもとにご自身への預言と受け止め死を引き受けた(Rom.9:6, Mat.1:21-23,3:3,4:15,12:18,21:5,26:63)。これらの預言はナザレのイエスにおいて成就されたと言うことができよう。
パウロによれば、イエスは自然的な肉の底に「内なる人」と呼ばれる神の霊に反応する「霊」と神の意志について霊的な接触を伴う知識である「叡知」と呼ばれる認知機能を持ち、叡知がその都度働いていた。旧約聖書の引用は自らの叡知の発動(エルゴン)の確認(ロゴス)として用いたと思われる。旧約の引用の報告はそのような認知機能をもちがたい律法学者や民衆に対する説得の言葉であると捉えることができる。ただし、イエスご自身肉の弱さを抱えていたがゆえに、十字架上で極度の苦痛のなかで「キリストの叡知」が一時的に発動しなかったことがあったかもしれない(Mat.27:46,2Cor.2:16,cf.Rom.11:33-34)。
神の計画はこの民を恩恵の注ぎと懲らしめの訓練のもとで罪の克服に向かわせるものであった。そこでは永遠の生命を約束する時はまだ満ちていなかったのだと思われる。しかし、此岸性が彼岸性にとってかわられたわけではない。生と死を分断しない神とひととの動的な関わりが記録されていった。待望も今・ここで神に呼びかけることに他ならない。
この前歴史のもとでイエスは喜び喜べという天における報いを望みつつ、この世界を雄々しく耐え生き抜く力を提示している(Mat.ch.5山上の説教)。生と死は神に属するものつまり神の裁量のもとにあるという考えは旧約においても揺るがないが、新約聖書が記すように神はナザレのイエスにおいて顕現しているなら、人類はやはり他に何を必要とするであろうか。死も生も、天国も地獄もキリストを介して最も明確な仕方で知らされている。「神はご自身の独り子を賜うほどに世界を愛した。それはご自身を信じる者がすべて滅びず、永遠の生命を持つためである。というのは、神が世界に御子を派遣したのは世界を審判するためではなく、世界が御子ご自身を介して救われるためだからである」(John.3:16-18)。
このように、ナザレのイエスへの探求は人生にとって避けては通れないものとなるであろう。自然的な人間には理解できない、また同じ一人の人間による甦りが人類の歴史において生起したということは自らのうちに自分に知らされてはいない力能が宿っているかも知れないことを告げ知らせるからである。
イエスは苦難の僕に見られるように旧約聖書が自らについて証するものであるという信のうちに自らの生を通じて福音を言葉と働きにおいてリアルタイムに実現していった。彼はエマオの道の途上にて復活の主として弟子たちに「[旧約]聖書全体(en pasais tais graphais)」が自らについて書かれたものであることを説明した(Luk.24:27)。ルカは復活の主イエスによる弟子たちへの言葉をこう報告している。「わたしがまだ汝らとともにいるときに、汝らに語ったわが言葉はこうである。「モーセの律法においてそして預言者たちにおいてまた詩篇においてわたしについて書かれているものごとはすべて成就されねばならない」(24:44)。そのとき復活の主は書を理解させるべく随伴する弟子たちの叡知を開き示した。そして彼は彼らに言った、「こう書かれている、キリストは苦しみを受けそして三日目に死者たちから甦らされ、ご自身の御名のうえにすべての民族に罪の赦しへの悔い改めが宣教される。それらはエルサレムから始められるが、汝らはそのことどもの証人である。そしてわたしは汝らのうえにわが父の約束を送る。汝らは至高の場からの力に覆われるまでポリス(都市)に留まっていよ」(24:45-49)。弟子たちはエマオへの途上のこの出来事を「われらの心うちに燃えしならずや」と回想している(24:32)。
(録音されている実際の講義はここまで)。
7.4 イエスの復活が信仰を引き起こすとパウロは論じる。
イエスは自身の受難の後に生じる未来のことであるという理由により、復活は自らの復活をも含め信仰箇条であるが、それは神の力ある働きの証言である聖書において預言されており、その預言の知識に基づく信念であった。「汝らは[旧約]聖書と神の力能を知らないから、彷徨っている。というのも、復活においては、人々は娶りも嫁ぎもしない、そうではなく天においては天使のようにあるからである。しかし死者たちの復活をめぐって、神が語ることによって、汝らに語られているものを読まなかったのか、「わたしはアブラハムの神である、またイサクの神そしてヤコブの神である」と。神は死者たちのではなく、生きている者たちの神である」(Mat.22:29-32,Exod.3:6)。
パウロはこう語るナザレのイエスこそ聖書において預言された神の力能の顕われである復活の主メシア(救世主)であると宣教する。福音は「聖性の霊に即して力能のうちに死者たちのなかからの甦りに基づき神の子と判別された」その方についてのものである(Rom.1:4)。神の力能はひとを救いだす御子の甦りに至るまでの力溢れる働きにおいて確認される。
所謂「奇跡」における憐みのロゴスとエルゴン、言葉と働きの展開についてイエスとパウロのおかれた状況は異なる。イエスは十字架への途上の生を信によってリアルタイムに福音を生き抜いた。福音書記者たちはそれを伝記として伝えているが、もし彼が十字架から降りてきてしまったなら、父なる神に喜ばれず、ご自身が信に基づき義である方であることの啓示の媒介として用いられなかったそのような今・ここをナザレのイエスは生きていた。
パウロにおいては父なる神の専決行為である埋葬されたイエスの甦らしはそれを信じる者を義とするためのものであると特徴づけることができた。「彼はわれらの背きの故に死に引き渡され、われらの義とすることの故に甦らされた」(Rom.4:25)。イエスの復活が救いをもたらす神の力能の福音への信仰を引き起こし、信に基づく義を実現させると特徴づけられた。復活は神ご自身のイエスの生涯が自らの意図を十全に遂行したことそしてそれ故に彼の生涯が罪に対する勝利であることを知らしめるものであると、パウロは受け止めることができた。
神は身代わりの罪を罪なきイエスに罪なきままに担わせた。そのことによって、古き罪人はキリストの死に共に飲み込まれ死んでしまった。しかし、それはその死が生命に飲み込まれるためである。「われらはこのテント[身体]のなかにいるあいだ、われらは重荷を担いつつ呻いているが、彼にあってわれらは脱がされることを欲しているのではなく、[身体の]上に着ることを欲している、それは死すべきものが生命によって飲みこまれるためである」(2Cor.5:4)。われらは重荷に喘ぐ身体を脱ぐのではなく、キリストが担ったのはその身体の重荷であり、彼はその肉のうえに生命を担ったからこそ、身体は光栄あるものとなりその身体に帰属する死は生に飲み込まれる。彼は甦りにおいてご自身の身代わりの死が罪人たちのためであることをさらには永遠の生命を証した。われらの罪は御子の十字架において贖われ赦されてしまっている。御子が受肉した限りにおいて、この弱き肉に喘ぐわれらは甦りを介して神の栄光と化す。
キリストの復活はこの歴史的前提のもとでの永遠の生命の証、罪に対する勝利の証であり、信じる者の罪を赦し、義とするものである。かくして、復活はイエスを神の子と信じる者を義とし永遠の生命に導くことへのその信仰を引き起こすものである。
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(8)―旧約におけるキリストとその復活の預言
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(8)―旧約におけるキリストとその復活の預言
日曜聖書講義 2021年11月14日
聖書箇所 エゼキエル書37章1-10節
「主の手がわたしの上に臨(のぞ)んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」。わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。
そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」。
わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨が近づいた。わたしが見ていると、実よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」。わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」(Ezek.37:1-10)。
7.1 はじめに(復習をかねて)旧約の制約と新約への方向付け
ここまで、旧約聖書と新約聖書二つの文書の連続性と飛躍を見てきた。楽園を追放されたアダムの末たちが報告されている旧約聖書には、著しい特徴として「永遠の生命」に対する記述を見出すことができない。せいぜい、祝福のもとでの長寿と民族の隆盛を期待することができるだけであった。モーセが神の命に従い、ヘブライ人をエジプトから導きだし、ホレブ山において神とまみえたとき、神から律法(十戒)を啓示された。「汝はわたしをおいて他に神があってはならない。・・わたしは主、汝の神。わたしは嫉む神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(Exod.20:4-5)。この民族はモーセを介して与えられた神の律法を規準にして、選ばれた民として、神への畏れのなかで律法遵守の道を1千年以上にわたって歩み続けた。彼らは著しい制約のなかで、あからさまにまた喜びを伴い永遠の生命をいただく希望のうちに生きることができなかった。神から離れた自立的な者として善悪を判断しつつ生きる限りにおいて、彼らは常に罪にからみとられる歴史をすごしてきた。預言者たちがそのつど民に悔い改めと立ち帰りを訴えた。
この神の民イスラエルの歴史をつづった旧約聖書と新約聖書を分けるものは著者たちがイエス・キリストを知っていたか否かである。キリストを知らない著者たちは信に基づく正義と愛の両立としての十字架上の罪の贖いを、さらには復活、甦りを知らされてはいない。彼らは著しい制約のなかで民族の歩むべき道をモーセ律法にたよりながら、いわば手探りで神に直接その顕現を願いつつ嘆願のうちに歩んだ。新約の記者たちは旧約を引用する際に御子の出来事への預言或いは裏付けとして捉え直している。それにより旧約は新約をめざすものとして位置づけられる。新約から彼らの制約はこう語られていた。
「キリストの奥義は、今、彼[キリスト]の聖なる使徒たちと預言者たちに霊のうちに知らされたようには、[彼以前の]他の時代の人の子たちには知らされてはいなかった。それ[奥義]は異邦人たちも福音を介してキリスト・イエスにある約束の共同相続人にして共同の身体そして共同の所有者であるということである。わたしは神の恵みの贈りものに即してこの福音に仕える者となったのであり、それは[神]ご自身の力能の働きに即してわたしに与えられたものである」(Ephes.3:4-7)。恩恵は異邦人にも与えられるべきはずのものであったが、ユダヤ人はほとんどその思いにいたらなかった。
「ヘブライ人への手紙」の著者は福音の媒介以前と以後をこう述べる。「この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらにまさったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結されることがないためである」(Heb.11:39-40)。アブラハムに代表されるように、信仰義認、信に基づく正義は旧約においても働いていた。そしてそれが民族を統一するものであった。「信仰は望んでいるものごとの基礎に立つもの(hupostasis)であり、見ていないものごとの[見ずに留まることへの]反駁(elegkos)である。というのも信仰によって古への先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより諸時代が[先人たちのように]統一させられていることを、信仰により叡知において観取しており(pistei noūmen)、見ているものが現れないものども[神の言葉]に基づき生じたことを知るに至る」(Heb.11:1-3)。
キリストの甦りはひとが甦りについて信仰を持つにいたり義とされるために生起したが、彼らには知らされてはいなかった。「その彼はわれらの逸脱故に引き渡され、そしてわれらの義化故に甦らされた」(Rom.4:25)。この人類の歴史の然るべきときに一度限り生じた復活を旧約人は知るにいたらなかった。彼らには永遠の生命を希望することはブロックされていた、或いは彼らの意識として躊躇されていたのであった。一つの人類の歴史の展開のなかで旧約人は新たに福音の啓示に向かう忍耐と待望の鍛錬の時代として位置づけられる。
しかしながら、旧約においても救世主の預言そして復活の預言が時に与えられていた。ここではイエス・キリストを展開点とした二種類の文書における待望と成就の一直線の歴史において旧約から新約の連続性と飛躍の動的な歴史的展開の方向をメシヤ(救世主)預言において確認したい。新約の視点から見れば、旧約聖書において報告されているユダヤ民族の神の直接的、間接的交渉は、ユダヤ民族に救世主を待望させ、この民族のなかに御子の派遣への準備期間として位置付けられる。旧約の制約のなかで正しく生きてきたシメオンは赤子を見つけ、マリアから幼子イエスを抱き上げ言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いです、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です」(Luk.2:29-32)。
7.2メシヤ預言
ここまで旧約聖書の歴史の途上性を確認してきた。彼らは知らされていることと知らされていないことのあいだで、その都度民族として生きた神との正しい関わりという一本の道を模索してきた。そのなかでユダヤ民族は一人の神に出会い、福音と新天新地の創造に至る信仰の一本道において預言者たちが遣わされ、時折、救世主を預言しまた幻を見ていた(Heb.11:1-40,Isa.ch.65-66,Zec.ch.14)。それが死後の世界に対する幻を垣間見ることともなった。生ける神の愛がイエス・キリストにあって明確に啓示され、知らしめられた限りにおいて、ひとびとは神とともにある永遠の生を希望することが許されるにいたる。そこで初めて明確なロゴス(理(ことわり)、理論)を得ると言ってもいい。このことは旧約人が死後の生への禁欲のなかで歴史の展開を介しての救い主への待望の強さを伝えている。
ナザレのイエスの誕生と生涯を受けて記された新約聖書には、至るところに旧約の引用が見られるが、キリストの到来の預言として捉えられた。例えば、パウロはナザレのイエスが誰であり、人類にいかなるものをもたらしたかを体系的に明らかにした彼の神学的書簡「ローマ書」において旧約聖書を約60回引用しているが、すべて肯定的にイエス・キリストを証するものとして用いられている。マタイ福音書の著者マタイもイエスの生涯が旧約の預言の成就としてメシヤ(救い主)であることが描かれている(eg.Mat.2:15,17,23,5:18,8:17,12:17,15:7,21:4,22:42)。
ここでは最初にエゼキエルとヨナの復活のヴィジョンを、続いてイザヤのメシヤ預言を確認する。エゼキエルは紀元前6世紀に、500年続いたダビデ王朝がバビロニア帝国に滅ぼされゼデキア王はじめ高官が捕囚の民となったときに、預言者として召命された。民族の死骸は谷に打ち捨てられて枯れた骨がうずたかく積まれていた。エゼキエルは捕囚の民が打ち捨てられ絶望のうちに「われらの骨は枯れた。われらの望みは消え失せ、滅びる」という声のなかで、終わりの日の救済のヴィジョンを見た(Ezek.37:11)。乾いた骨同士がカタカタと言う音を立てて近づき、「筋と肉が生じ、皮膚がそのうえを覆った」。続いて預言者は命じられるがままに言う、「霊よ、これらの殺されたものの上に吹き付けよ」。霊が吹き付けられて、枯れた骨は「生き返って」自ら立ち、大きな集団となっていった(37:1-10)。預言者は死者の復活の比喩を介して敵国の墓場にいる民族の再生のヴィジョンを語った。
後にイエスに神の子であることの徴を求める者たちにこう言う、「悪しき背きの世代は徴を求める。預言者ヨナの徴を除いて徴はこの時代には与えられない」(Mat.12:38-42)。ヨナの物語はこうである。ヨナはニネべの町に罪の悔い改めを説くよう神に強いられるが、神の前を逃れて地の果てタルシシに向かうべく船に乗った。大きな嵐が起きた。船が難破しそうなのは神から逃走を計る自らのせいであるとして海に落とされたが、そうすると嵐はおさまった。彼は大魚に飲み込まれ三日三晩大魚の腹中の暗闇のなかで過ごした(Jona.2:1)。彼はこの話を用いて自ら死者のなかに三日三晩留まり復活することを預言した。イエスは言う、「ニネべの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネべの人々はヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここにヨナにまさる者がいる」(12:41)。イエスはヨナが好きでありヨナを自らの先駆と位置付ける。
イザヤはメシヤを預言している。イエスはイザヤのインマヌーエール預言や苦難の僕の預言の成就であると認識している。「見よ、処女が身ごもりそして息子を産むであろうそして彼の名を「インマヌーエール(神われらとともに)」と呼ぶであろう。・・闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。・・ひとりのみどりごがわれらのために生まれた。ひとりの男の子がわれらに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国は権威を増し平和は絶えることがない。王国は正義と恩恵の業によって今もそしてとこしえに、立てられ支えられる」(Isa.7:14,8:1-6Mat.1:23)。旧約聖書の言葉が一つ一つイエスにおいて満たされていく(「生まれた」と過去形で表現されるのは「預言的過去」と呼ばれる)。
イザヤは苦難の僕を介して死を乗り越え生命を与える救い主ナザレのイエスを預言する。「主よ、誰がわれらの伝聞を信じましたか。また主の御腕は誰に啓示されましたか。・・この人はわれらの罪を背負いそしてわれらのことで苦しめられており、われらもまた彼が苦しみ、神によって病のうちにありそして圧迫のうちにあると看做した。しかし、彼はわれらの罪の故に傷つけられたのでありそしてわれらの不法の故に病いを負わされたのであった。われらの平安の訓育(paideia eirēnēs hēmōn, cf. musar(ヘブライ語), discipline)が彼のうえにあり、われらはその傷によって癒された。
われらはみな羊の如くさ迷い、ひとはおのが道に迷い込んだ。そして主はわれらのそれらの罪に彼を引き渡された。そして彼は苦しめられているということの故に口を開くことはない。彼は屠り場に引かれた羊のごとくに、毛を切る者の前に黙す子羊のごとくに、彼は口を開かない。その辱めにおいて彼への咎めはもくろまれた。誰が彼の世代を述べ伝えることになろうか、彼の生命はこの地から取り去られ、わが民の不法の数々から死へと運び去られたことを。「わたしは彼の埋葬の代わりに悪者たちを、そして彼の死の代わりに富者たちを与える。なぜなら彼は不法を為さなかったからである、彼の口に偽りは見いだされなかったからである」、そして主もまた彼を疫病から浄めることを望みたまう。もし汝らが罪に関して[自らを]捧げるなら、汝らの魂は長生きの子孫を見ることになるであろう。そして主はご自身の御手のなかで彼の魂のその苦しみを取り除くことを望みたまう、それは彼に光を示し、そして理解を形成し、多くの者に良く仕えたその正しい人を義とするためである」(Isa.53:1-12七十人訳に基づく)。
この箇所はイエスによる罪の贖いの基礎テクストの一つである。苦難の僕は辱められ傷つけられ死へと運びさられた。ここで苦難の僕における同胞の罪の贖いの様式が問われる。僕についてイザヤは「われらの罪を背負い」また「主はわれらのそれらの罪に彼を引き渡された」さらには「われらの平安の訓育が彼のうえにあり」、「彼自身多くの者たちの罪を担いあげた、そして彼は彼らの不法の故に引き渡された」と報告している。これらのギリシャ語語彙はパウロを始め新約聖書に引き継がれている。
「罪を背負う」、「担う」、「罪に引き渡される」という罪の贖いがイエスにおいてどのような様式において遂行されたかをここで論じることはできない(「愛の身代わりの力能」『方舟』61号2020参照)。注目すべきことは、ナザレのイエスはまったき人として肉の弱さを抱えていたが、「神の子の信」(Gal.2:20)のもとに、旧約聖書において報告される神の言葉を自らのことがらとして受け止め、それを忠実に実践したということである。(旧約)聖書を介した神の言葉は一人のひとが自らの生をそのもとに捧げるそれだけの真実と力能を持つものであった。
7.3 イエスはご自身を旧約の預言の成就と看做した
イエスはこの預言を「神の言葉は失墜しない」という信のもとにご自身への預言と受け止め死を引き受けた(Rom.9:6, Mat.1:21-23,3:3,4:15,12:18,21:5,26:63)。これらの預言はナザレのイエスにおいて成就されたと言うことができよう。
イエスは、パウロによれば自然的な肉の底に「内なる人」と呼ばれる神の霊に反応する「霊」と神の意志について霊的な接触を伴う知識である「叡知」と呼ばれる認知機能を持ち、叡知がその都度働いていたと思われる。旧約聖書の引用は自らの叡知の発動(エルゴン)の確認(ロゴス)として用いたと思われる。旧約の引用の報告はそのような認知機能をもちがたい律法学者や民衆に対する説得の言葉であると捉えることができる。ただし、イエスご自身肉の弱さを抱えていたがゆえに、十字架上で極度の苦痛のなかで「キリストの叡知」が一時的に発動しなかったことがあったかもしれない(Mat.27:46,2Cor.2:16,cf.Rom.11:33-34)。
神の計画はこの民を恩恵の注ぎと懲らしめの訓練のもとで罪の克服に向かわせるものであった。そこでは永遠の生命を約束する時はまだ満ちていなかったのだと思われる。しかし、此岸性が彼岸性にとってかわられたわけではない。生と死を分断しない神とひととの動的な関わりが記録されていった。待望も今・ここで神に呼びかけることに他ならない。
この前歴史のもとでイエスは喜び喜べという天における報いを望みつつ、この世界を雄々しく耐え生き抜く力を提示している(Mat.ch.5山上の説教)。生と死は神に属するものつまり神の裁量のもとにあるという考えは旧約においても揺るがないが、新約聖書が記すように神はナザレのイエスにおいて顕現しているなら、人類はやはり他に何を必要とするであろうか。死も生も、天国も地獄もキリストを介して最も明確な仕方で知らされている。「神はご自身の独り子を賜うほどに世界を愛した。それはご自身を信じる者がすべて滅びず、永遠の生命を持つためである。というのは、神が世界に御子を派遣したのは世界を審判するためではなく、世界が御子ご自身を介して救われるためだからである」(John.3:16-18)。
このように、ナザレのイエスへの探求は人生にとって避けては通れないものとなるであろう。自然的な人間には理解できない、また同じ一人の人間による甦りが人類の歴史において生起したということは自らのうちに自分に知らされてはいない力能が宿っているかも知れないことを告げ知らせるからである。
イエスは苦難の僕に見られるように旧約聖書が自らについて証するものであるという信のうちに自らの生を通じて福音を言葉と働きにおいてリアルタイムに実現していった。彼はエマオの道の途上にて復活の主として弟子たちに「[旧約]聖書全体(en pasais tais graphais)」が自らについて書かれたものであることを説明した(Luk.24:27)。ルカは復活の主イエスによる弟子たちへの言葉をこう報告している。「わたしがまだ汝らとともにいるときに、汝らに語ったわが言葉はこうである。「モーセの律法においてそして預言者たちにおいてまた詩篇においてわたしについて書かれているものごとはすべて成就されねばならない」(24:44)。そのとき復活の主は書を理解させるべく随伴する弟子たちの叡知を開き示した。そして彼は彼らに言った、「こう書かれている、キリストは苦しみを受けそして三日目に死者たちから甦らされ、ご自身の御名のうえにすべての民族に罪の赦しへの悔い改めが宣教される。それらはエルサレムから始められるが、汝らはそのことどもの証人である。そしてわたしは汝らのうえにわが父の約束を送る。汝らは至高の場からの力に覆われるまでポリス(都市)に留まっていよ」(24:45-49)。弟子たちはエマオへの途上のこの出来事を「われらの心うちに燃えしならずや」と回想している(24:32)。
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(7)―旧約における個々人の屹立から共同体の形成へ―
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(7)―旧約における個々人の屹立から共同体の形成へ―
日曜聖書講義2021年11月7日
聖書箇所「エペソ書」2章11-18、3章4-7節
「それ故にあなたがたは記憶しておきなさい。かつてあなたがたは肉において異邦人であり、所謂手による割礼者のもとでは「無割礼者」と呼ばれていました。当時あなたがたはキリストと関わりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神なき者たちでした。しかし、あなたがたは、以前は「遠く」離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血において「近い」者となったのです。
というのも、キリストご自身が私たちの平和だからです、[イスラエルと異邦人]二つのものを一つにし、ご自身の肉において隔ての壁、敵意を解きほぐし、教えにおけるもろもろの戒めの律法を廃棄しました、それはキリストがご自身において敵意を滅ぼし、双方をご自身において一人の新しい人間に造り上げて平和を実現し、十字架を介して一つの身体において双方の者たちを神と和解させるためです。キリストはやって来られ、遠く離れたあなたがたに平和の福音を告げ知らせましたそして近い者たちにも平和を告げ知らせました。われら双方ともご自身を介して一つの霊において父に対して近づきを得ています」(エペソ書2:11-18)。
「キリストの奥義は、今、彼の聖なる使徒たちと預言者たちに霊のうちに知らされたようには、[彼以前の]他の時代の人の子たちには知らされてはいなかった。それは異邦人たちも福音を介してキリスト・イエスにある約束の共同相続人にして共同の身体そして共同の所有者であるということである。わたしは神の恵みの贈りものに即してこの福音に仕える者となったのであり、それは[神]ご自身の力能の働きに即してわたしに与えられたものである」(エペソ書3:4-7)
6:1 旧約人も制約のなかで永遠の生命を求めていた
旧約人は最初の人間アダムとその後の人類はアダムを模倣しつつの自らの背きのゆえに、著しい制約のもとに置かれている。彼らはモーセに啓示された神の意志、モーセ律法を規準に共同体の秩序ある形成に努めた。神の意志はその都度の指導者、王、預言者を介して伝えられ、モーセ五書や預言書のような文書は直接的に神と出会った者たち、啓示を受けた者たちの記録として整備されていった。多くの人々はそれを伝承として受け止めており、書物を読むということはなかった。
その神との交わりを記録された文書によれば、預言者たちや王たちそしてヨブのような神に選ばれた顕著な人たちが単独で立ち上がり、神と関わり、周囲やユダヤ民族にその行く手を示した。基本的に単独者が孤独な歩みまた戦いを強いられており、主にある交わりを形成することはできなかった。この制約が救世主の待望を募らせている。
最初の人間による神への背きのために、神にブロックされてしまって言挙げすることが憚られたこと、即ち彼らが心理的な抑圧を感じて表現しにくかったことがいくつかある。
なによりも、詩篇には執り成しの祈りは見られない。一般に神に対するひとの執成し手はアブラハムのようにわずかである。なお、十戒の第三戒は「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかない」(Exod.20:7)に楽園を追放された者たちの姿を見ることができる。アダムは楽園において神と会話していたが、禁じられた善悪を知る木の実を食べ神から隠れたように、その後の人間はこの制約のなかで神と関わる。それでも詩篇に見られるように、詩人たちは神の憐みを直接求め、多くの場合この世界における正義の実現、罪の赦しに神の祝福を見ていた。旧約人には永遠の生命への願望を端的に言い表すことが、楽園喪失以来、神に阻まれているかのごとくである。
とはいえ、人間が人間である限り、病や困難における絶望のうちにあるとき、光明を求めるように、究極的には救いを永遠の生命をもとめざるをえない。歴史の積み重ねから振り返れば、旧約人は永遠の生命を伝える新約をめざしていたに相違ない。旧約と新約の異なりと連続的展開の確認は神の経綸(計画、運営)を知るうえで重要である。ラートは旧約人における「永生への希望の明白な欠如」を指摘していた。しかしながら、旧約においても人々は自らの生の延長線上に何らかの希望を抱いていたことも指摘されるべきである。ヨブはいつの日か正しい神が塵の上に立ち贖ってくださることを神に訴える仕方で待ち望んだ。ヨブのように苦難を受けた多くの無名の義人たちも公平な審判の下される日を待ち望んだことであろう(cf.Gen.18:25,Ps.1:1-2,11:5,103:5,140:12-13,146:8,Isa.45:24,Jer.12:1)。(樋口進「旧約における正義」(『神戸教育短期大学研究紀要』第1号pp.24-35,2020)。
また「永遠(オーラーム)」という概念は旧約においても何度か語られている(Hos.2:21,Jer.32:40,Ezek.43:7,Isa.60:21)。ホセアは神の言葉を取り次ぐ、「その日には・・わたしは汝と永遠の契約を結ぶ。わたしは汝と契約を結び、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ」(Hos.2:21)。イザヤは古き天地が巻き去られ新天新地を待ち望む。「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に永く続くように、汝らの子孫と汝らの名も永く続く」(Isa.66:22)。
旧約の基本的な流れは神の御名をむやみに唱えず、神の沈黙に耐えることの覚悟であった。とはいえ、誰であれ苦しい時、助けをとりわけ神に求めることは自然なことである限り、聖書記者たちは神との今・ここのやり取りを記録することに傾注したと言うべきであろう。旧約人はヨブやイザヤのように神にまみえるという幸いな体験を与えられることを望んでいたに相違ない、ひそかにであれ待ち望んでいるものがあったに相違ない。しかし、それが神の隠れ或いは神から知らされていないことからくる抑圧であるとするなら、彼らに蓄積された待望のエネルギーはどれほどのものであったかが伺い知れる。
「主は汝の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、生命を墓から贖いだしてくださる」(Ps.103:3-4)。「死の綱がわたしにからみつき、陰府(よみ)の脅威にさらされ苦しみと嘆きを前にして主の御名をわたしは呼ぶ。どうか主よ、わたしの魂をお救いください」(Ps.116:3-4)。その意味において、御子の受肉と受難と復活は彼らが憐みを求め、罪の赦しの救いを求めてきた真剣な人生の時が満ちたことを伝えていると捉えることができる。
かくして、フォンラートの「此岸性」を別の言葉で言えば、或いはこの言葉で捉えきれない旧約聖書における神とひとの関わりを表現するものがあるとすれば、それは神の前とひとの前を分けない「今・ここの働き」、「具体性」或いはこれらを一括して「生身の人間と自らを憐みにより擬人化した神の今・ここの交わり」と表現し直すことができよう。ひとは各自の責任において神の意志である律法を遵守する。神はそれに対し祝福と懲罰を与える。神は憐みにより時に罰を思いとどまったり、軽くすることもある。この双方の働きのやり取りをこの語は表現している。生と死を分断しない神とひととの動的な関わりと言うこともできよう。待望も今・ここで神に呼びかけることに他ならない。
旧約聖書におけるこれらの特徴は此岸と彼岸を分けない神の擬人化された働きとひとの働きの交渉という捉え方のほうがより適切であると思われる。知らされていないものごとの制約のなかで、単にこの世の生を義しく保つだけではなく、罪の贖いを求めて神に呼びかけて生きていたことは明らかだからである。この書においては、ひとの待望のもとでの呼びかけとともに、創造者にして一切を統帥しつつも隠されたところのある神がひとの一挙手一投足に関与したことがらについて集中的に報告されている。その意味において旧約に登場する神はご自身の正しさと憐みの双方を伝えるべく、あたかもひとであるかのごとく擬人化して表現されることを許容したと言うことができる。神は人類に対するご自身の計画のなかで、御子の派遣による救済に向けて、旧約人と擬人的な仕方で具体的に関わっていったと言うことができよう。
6:2 旧約人における媒介者による共同体形成の欠如
旧約人は新約において知らされているキリストの一つの身体を形成するそのような共同体や教会の観念をもたなかった。C.H.マッキントッシュは言う、「個々の霊の救と教会を一の特別の存在として聖霊によりて組成する事とは全く別事である。・・旧約聖書にはどこにも教会の神秘について直接の啓示がない」(C.H.M著『創世記講義』p.16,18黒崎幸吉訳 一粒社版 1927)。「エペソ書」において使徒は言う。「キリストの奥義は、今彼の聖なる使徒たちと預言者たちに霊のうちに知らされたようには、[彼以前の]他の時代の人の子たちには知らされてはいなかった」(Ephes.3:4)。
旧約人は新約のようにキリストの体としての秩序ある共同体、教会を持ってはいなかった。パウロは異邦人に向けて神の計画のもと今や旧約の人々と繋がり、一つの歴史を展開するとして言う、「それ故にあなたがたは記憶しておきなさい。かつてあなたがたは肉において異邦人であり、所謂手による割礼者のもとでは「無割礼者」と呼ばれていました。当時あなたがたはキリストと関わりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は「遠く」離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血において「近い」者となったのです。
というのも、キリストご自身が私たちの平和だからです、[イスラエルと異邦人]二つのものを一つにし、ご自身の肉において隔ての壁、敵意を解きほぐし、教えにおけるもろもろの戒めの律法を廃棄しました、それはキリストがご自身において敵意を滅ぼし、双方をご自身において一人の新しい人間に造り上げて平和を実現し、十字架を介して一つの身体において双方の者たちを神と和解させるためである。キリストは来られ遠く離れたあなたがたに平和の福音を告げ知らせましたそして近い者たちにも平和を告げ知らせました。われら双方ともご自身を介して一つの霊において父に対して近づきを得ている」(エペソ書2:11-18)。
「キリストの奥義は、今彼の聖なる使徒たちと預言者たちに霊のうちに知らされたようには、[彼以前の]他の時代の人の子たちには知らされてはいなかった。それは異邦人たちも福音を介してキリスト・イエスにある約束の[イスラエル人と共に神の国の]共同相続人にして共同おの身体そして共同の所有者であるということである。わたしは神の恵みの贈りものに即してこの福音に仕える者となったのであり、それはご自身の力能の働きに即してわたしに与えられたものである」(エペソ書3:4-7)。
旧約と新約を媒介する方なしには、イスラエル人は異邦人と何ら障壁を取り除く術(すべ)を持たなかった。預言者たちやヨブのような傑出した個々人の働きが記録されそしてその促しのもとでの民族の歩むべき方向が指し示されてはいるが、共同体全体の形成にいたる力に乏しかった。個人の救済は記録されても、全人類の救済に向けられた福音が福音として明確に立つことはなかった。
イザヤは神からのメッセージをこう伝える。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわたしに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。異なる想いと異なるはるかに高い道を歩みたまう神の知恵に合わせられるとき、良心の宥めが共知として生起する。旧約人は民族の選民思想へのこだわりのなかで良心の宥めをひそかに求めていたに相違ない。
6:3 イエスの憐みによる旧約の制約の突破
イエスご自身、旧約の制約のなかで一歩一歩福音を実現していった。或るとき、カナン地方の女性が自分の娘を癒していただきたく「主よ、わたしを憐みたまえ」と懇願すると、イエスは「わたしはイスラエルの失われた羊にしか遣わされなかった」と応答した。そのときイエスはユダヤ人として旧約の伝統のなかに自ら自己規制していたことを明らかにしている(Mat.15:21-28)。しかし新しい葡萄酒は新しい革袋にいれなければ、破れてしまう。旧約の古い革袋のなかで彼は活動したが、あまりの福音、あまりの生命の故に、旧約は内側から破られてしまったのである。イエスが「子供たちのパンを取り上げそして犬に投げ与えることは良くない」と言うと、その女性は「主よ、そのとおりです、というのも子犬たちは主人たちのテーブルから落ちるパン屑を食べるからです」と言った。そのとき、イエスは彼女に応えた、「ああ女の方よ、汝の信仰は大いなるものである。汝が望むようにことが成るように」。そしてそのとき彼女の娘は癒されたのであった。旧約のただなかにモーセ律法を極性化、純化するそのただなかで、彼の憐みが迸りでる。信に基づく正義と正義の果実の一例がここで生まれた。彼の一言一句、一挙手一投足は旧約の制約のなかで信に基づく正義と信義の果実としての憐み、愛の双方の実現に向けられていたのである。
そしてそれが異邦人をも含む全人類の救済に向けられている。旧約の制約を知れば、知るほど、そのコントラストとしてのイエスの言葉と働きはあらゆる障壁を打ち破り、人類を一つの共同体として作りあげていく力を与える。
6:4 人々を一つにするキリストの甦り
人々が信仰によってしか突破できず、それによってしか力を得ることがないものがキリストの信の従順の生涯に与えられた正義の果実としての甦りであった。パウロは天国も黄泉(よみ)もキリストへの言及なしには理解できないことがらであるとして、信仰による突破をこう語る。「キリストが信じるすべての者にとって義に至る律法の目指すものである。というのも、モーセは律法に基づく義をこう記しているからである、「それらを為した者はそれらによって生きるであろう」、だが、信に基づく義はこう言うからである、「汝は汝の心のなかで、「誰が[義を求めて遥か]天に昇るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを引き降ろすことである、あるいは「誰が[義を求めて遥か]黄泉に降るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを死者たちのなかから引き上げることである。しかし、彼[モーセ]は何と言っているか、「言葉は汝の近くにある、汝の口のなかにそして汝の心のなかにある」、これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である。すなわち、もし汝が汝の口において主イエスを告白し、そして汝の心のうちに神が彼を死者たちから甦らせたと信じるなら、汝は救われるであろう。というのも、主イエスが心によって信じられるのは義のためであり、口で告白されるのは救いのためだからである」(Rom.10:5-10)。
心の中での信仰を固く保持するためには公にそれを告白し社会の認知の中での自覚を必要としている。それほど復活は信仰による乗り越えと公的な表明を必要とするそのような理解に困難を伴うものだからである。パウロは知の都アテネのアレオパゴスで彼らが知らずに拝んでいる「知られざる神」を教えようと宣教にとりくみ、死者の復活について語り始めると、「われらはこのことについてはまたあなたから聞こう」と言って去っていった(Act.17:32)。アテネのことではない、エルサレムにおいてさえ使徒たちへの女性たちによる復活の第一報に対して「これらの言葉は彼らにはあたかも戯言(たわごと)に思えたそして彼女たちを信じなかった」と報告されている(Luk.24:11)。肉のイエスから予告されていたにもかかわらず、このような事情であった。だからこそ公的な告白は信じることできることそれだけで喜びであることを含意している。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13,cf.Gal.5:22-23)。聖霊による促しのなかでは「信じること」の対象への言及は必要とされない。既にそこにあるからである。
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(6)―「生命の木」からの追放下のもとでの信仰と背きに対する祝福と懲罰の蓄積の具体的な記録―
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(6)―「生命の木」からの追放下のもとでの信仰と背きに対する祝福と懲罰の蓄積の具体的な記録―
(録音は自由に語られており、5.3.2までであるが、原稿としては5.3.3まで掲載する)
日曜聖書講義2021年10月31日
聖書朗読 「ヘブライ人への手紙」11章1~40節 (省略箇所あり 私訳)
「信仰は望んでいるものごとの基礎に立つもの(hupostasis)であり、見ていないものごとの[見ずに留まることへの]反駁(elegkos)である。というのも信仰によって古’(いにし)への先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより諸時代が[先人たちのように]統一させられていることを、信仰により叡知において観取しており(pistei noūmen)、見ているものが現れないものども[神の言葉]に基づき生じたことを知るに至る。
信仰によってアベルはカインに比し一層多くの捧げものをしたが、神ご自身がその贈りものを承認することによって、その信仰を介して正しい者であることが証された。アベルはその信仰を介して死んだが、彼は今なお語っている。「信仰によって、エノクは死を見ることなく[天に]移された、そして神が彼を移した故に彼は見つけられなかった。移される前に、彼が神に嘉みされていたことが証されていたからである。信仰によってノアはまだ見ていないものごとについて、神に警告されたとき、心に留めそして彼の家族を救うべく箱舟を建造したが、その信仰を介して彼は世界を審判した、そしてその信仰に即した義を介して受け継ぐ者となった。信仰によって、アブラハムは呼び出されると彼が受け継ぐことになる場所に出ていくべく従ったが、彼はどこに行くか知ることなしに出立した。信仰によって彼は、同じ契約の受け継ぎ手であるイサクとヤコブと共にあたかも他国に宿るように天幕(テント)で生活し、約束の地に滞在した。というのも彼は神がその設計者であり建設者でありたまう基礎を持つ都を待ち望んだからである。信仰によって不妊のサラも彼女自身、年齢上好機を過ぎていたが、懐妊に至る力能を獲得した、というのも彼女は約束した方が信実であると信じたからである。それ故にひとりの人しかも[老齢故に繁殖上]死んでしまった者から、天の星ほどのまた海辺の数えきれない砂ほどの多くの子孫が生まれた。この者たちはみな、自分たちは約束のものを受け取らなかったが、はるか遠くからそれらを眺めつつ(idontes)また歓迎しつつ、自分たちが地上にあって異邦人であり寄留人であることに同意しつつ、信仰に即して死んだ。(14~20省略・・)
信仰によってヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちのそれぞれを祝福し、杖の頭越(あたまご)しに神に礼拝した。信仰によって、ヨセフは自らの人生の終わりに、イスラエルの子らの脱出について語り、自らの埋葬について指示を与えた。信仰によってモーセは、彼が生まれたとき、彼の両親によって三か月間隠された、というのも彼らはその子が美しいことを見た[即ち、神に選ばれたことを知った]からであり、そして王の命令を恐れなかった。信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待されることを選び、キリストのために受ける嘲りをエジプトの財宝よりまさる富と考えた、[正当な]報いに目を向けていたからである。信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを去った、というのも見えない方を見ている者として 忍耐したからである。(28-38節省略・・・・)
この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらに優(まさ)ったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結される(teleiōthōsin)ことがないためである」(Heb.11:1-40)。
5.3 旧約人の伝承のなかでの神との交わりと救いの待望
5.3.1 はじめに
人類は一回限りの歴史を刻んでいる。近年は情報革命が1995年頃始まったと言われる。その年の確定はWindows95の発売に象徴される。環境革命が今求められている。「持続可能sustainable」という言葉が使われ始めたのは2010年であったと言われる。太陽電池や人工光合成の技術化によりCO2の削減や食料増産など、人類はそのつど課題の克服につとめている。科学技術の最先端にいるひとびとはこのような使命感のもとに日々をすごしている。テクスト読みは人類が最も読んできた書物を正しく理解するとき、人類の問題を解決しうるという希望のもとにテクストに埋もれている。「聖書を正しく理解するところ、そこに聖霊が宿る」というルターの言葉が導きとなる。聖書を正しく理解できるなら、神と出会うことができるかもしれないという希望のもとに今日まで歩みを進めてきたが、辞書引き引きの毎日で日暮れて道遠しである。
5.3.2 楽園追放の制約のなかでモーセ律法を規範に神の祝福を求める旧約人
アダムとエヴァは「神の如くになる」という蛇の誘惑にまけ、善悪を自ら判断する自律的行為主体となることにより神に背いた。彼らは楽園を追放されたが、それは「生命の木」の実をも食べて神のように永遠に生きる者となることを阻むためであった。塵から造られた者が塵に帰ることは自然なことであると思われようが、生物的な死は自然的なことであると同時に神への背きに対する懲罰であった。従って、罰としての生物的死は始めから乗り越えられるべきものという特徴をもっており、人類の歴史は神への背きとしての罪とその罪に基づく生物的死の乗り越えに向かう。
最初の人類において背くことがなければ、自然的な死は単に一時的な眠りと捉えられたことであろう。エデンの園の神話の含意として、誘惑を介して、悪は人類に偶然入り込んだのであり、それは克服できるというものとなる。追放下にあっても生命の木の実を食する力能はそなわったままであり、何らか楽園に戻り永遠の生命を得る力能はそのまま保持されている。追放下においても信仰によって神との正しい関係を回復した者たちは生存中に懲罰としての死を乗り越え、「眠り」により「先祖の列に加えられた」と記録されている(Gen.25:8,15:15)。「ダビデは先祖と共に眠りについた(ekoimēthē Dauid meta tōn paterōn autū)」(1Ki.2:10 koimaomai fall asleep)。この表現に見られるように、他の固有名の挿入によるこれと同じ構文は40か所以上で見られ、慣用表現であったことがわかる(前掲コンコルダンスp.745)。モーセやその後継者ヨシュアそして長老たちの死も義とされた者たちにとって、死は生の成就でありその長寿は祝福されたものであった(Deut.34:1-8, Josh.24:29-31)。旧約世界にあっては、生物的な死を罰として受けつつも、長寿によりそれは何らか乗り越えられているないしやわらげられていると受け止めることができる。
ただし、長寿の祝福に続くはずの永遠の生命への言及はブロックされたままであった。神の計画においては「生命の木」を食することは御子の受肉と受難そして復活によって始めて赦されるものであった。ナザレイエスによる信の従順の生なしに、永遠の生命への信を明確に持つことはできなかった。「彼ら[旧約人]は約束を受け取らなかった」(Heb.11:39)のである。
このまことに人の子にして神の子である執成し手なしには、ひとは自らの一挙手一投足に直接神の祝福と嘉みそして怒りと罰を受け止めるしかなかった。旧約聖書は彼らのリアルタイムの神との交わり、賛美、さらには沈黙する神への嘆願、嘆きと祈りの記録として約一千年かけて書き留められていった。「詩篇」には敵への執り成しの祈りは見られない。想像してほしい、先人たちの祝福と罰の伝承だけが自分たちの導きの教えであった者たちの現実を。ユダヤ人は先祖の教えを守って祝福と憐みを直接求める以外に生きる術をもたなかった民族であった。
その後モーセ律法が神の意志としてひとびとの行動の規範となり、それに基づく神の祝福と罰が記録されていく。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(Exod.20:6)。福音を知ることなくリアルタイムに生きている詩人たちは、モーセ律法に基づき自らの生を構築しつつ、直接神に嘆願し、憐みを乞い、敵からの解放を求めている。詩人たちの祈りには族長たちの引用以外では、執り成しの祈りを見出すことはできない。媒介者がいなかったのである。神に訴える以外に罪と死に打ち勝つ方法をもたなかったからである。
この伝統のなかでパウロによる業の律法の遵守についての認識はこう語られている。「われら知る、律法が律法のうちにある者たちに語る限りのものごとは、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服するものとなるためである。かくして、業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:19-20)。パウロによればひとは神に対する背き、罪に対する罰としての生物的死を免れる者はいなかった。「死は、アダムからモーセに至るまで、アダムの背きと同じ仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配した」(Rom.5:14)。
旧約人は福音において永遠の生命による乗り越え、勝利が示されるまで概して業の律法そしてそれ故に罪のもとに閉じ込められていたと言うことができる。パウロは罪と義、業の律法と信の律法(福音)の関係をこうまとめている、「もし生命を造りうるものである律法が与えられていたなら、義はまことに律法に基づいていたことであろう。しかしながら、聖書はすべての者を罪のもとに閉じ込めた、それは約束がイエス・キリストの信に基づき信じる者たちに与えられるためである。その信が到来する以前には、われらは将に来たりつつある信が啓示されるべく閉じ込められながらも、律法のもとに保護されていた。かくして、律法はキリストに至るわれらの教育係となった、それはわれらが信に基づき義とされるためである」(Gal.3:21-24)。
旧約人はモーセ律法に従って罪のもとに閉じ込められていたが、神の憐みも記録されているそのような祝福と罰の積み重ねのもとに暗中模索のなか福音の到来を待望していた。義人シメオンはは赤子のイエスを抱き上げ賛美した。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いです、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です」(Luk.2:29-32)。この民は神により死後のことを明確には知らしめられなかったからこそ、この此岸の生を正面から引き受けつつ福音の訪れを待望していたのである。
罪への閉じ込めから解放されたということは、神の前では歴史に即して語るならモーセの業の律法が信の律法により凌駕され、信の律法により秩序づけられるにいたったことを含意する。個々人にはいずれのもとに審判されるかは知らされてはいないが、その信の根源性に立ち戻る限り、信の律法のもとに審判されることを期待することができるようにされた。古い人間が死ななければ、信の律法のもとに福音に与り新たな生を営むことはできない。
そのことによって、キリストの死に古き罪人は共に飲み込まれ死んでしまった。しかし、それはその死が生命に飲み込まれるためである。「われらはこのテント[身体]のなかにいるあいだ、われらは重荷を担いつつ呻いているが、彼にあってわれらは脱がされることを欲しているのではなく、[身体の]上に着ることを欲している、それは死すべきものが生命によって飲みこまれるためである」(2Cor.5:4)。ここで死は生命によって凌駕されるものとして捉えられている。われらは重荷に喘ぐ身体を脱ぐのではなく、キリストが担いたまうたのはその身体の重荷であり、彼はその肉のうえに生命を担っていたからこそ、身体に帰属する死は生に飲み込まれる。受肉はどこまでもわれらへの憐みである。
5.3.3 旧約人における信仰による義に基づく生物的死の罰の克服
旧約においても信に基づく義人たちが報告されている。彼らは生物的死を克服したひとたちである。冒頭に引用した「へブライ人への手紙」の著者、所謂第二パウロは信仰によって「諸時代が統一される」神の計画について議論を展開している。信仰は見えない神の意志についての何らかの可視化の基礎であると主張されている。そこでエノクのことがこう語られている。「信仰によって、エノクは死を見ることなく[天に]移された、そして神が彼を移した故に彼は見つけられなかった。移される前に、彼が神に嘉みされていたことが証されていたからである」(Heb.11:5)。このように旧約の義人たちは信仰により罪とその帰結である生物的死を克服る義人たちはこの著者によりこう報告されている。
この信仰による時代の統一は当然今日まで継承されている。その者たちは目に見える「証人」とされている。不可視なものが不可視なものに留まることに対する最大の「論駁」は御言葉の受肉に他ならない。福音はイエスにおいて可視化された。受肉は明確に信仰を介した知識の対象である。「われらはキリストの叡知を持つ」(1Cor.2:16)。なお、アダムの背きから御子の受肉に至る中間時間そして準備期間として位置付けられる旧約人たちは彼ら自身において神との関係が「完結されることがない」ものとして記述されている。「この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらにまさったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結される(teleiōthōsin)ことがないためである」(Heb.11:39-40)。一つの人類の歴史の展開のなかで旧約人は新たに福音の啓示に向かう忍耐と待望の鍛錬の時代として位置づけられる。彼らの歴史は御子の受肉、受難と復活故にその信に生きる者たちを介して始めて完結する。このことは歴史がそこに向かうゴールとしての完結への言及なしに、旧約は正しく理解されないことを含意する。福音の啓示は再臨から見れば途上であるが、旧約は福音への途上である。
旧約の特徴は神とひとを媒介する者が不在であり、神との交わりは直接的なもの、直截なものとなる。神の啓示であるモーセ律法を基準にした種々の事象を介した祝福と罰が解釈される。祝福と罰は目に見えるもので確かめられる即物的なものとなる。かくして、個々人の外に明白な救いが立ってはおらず、神とひとの不安定な関係におかれる。詩人たちの嘆きと敵への憎悪が記録されることになる。イエスの復活は罪とその報酬である生物的死に対する勝利として記録されることになる。「この朽ちぬものが朽ちないものを死ぬものが不死を着せさせられるであろうとき、そのとき書き記された言葉が出来事になるであろう。「死は勝利に飲み込まれてしまった。死よ、汝の勝利はいずこにある、死よ、汝の棘はいずこにある」。罪が死の棘であり、罪の力能が[罪の(Rom.7:23)]律法である。われらの主イエス・キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する」(1Cor.15:54-57)。
かくして、アダムの背き以降御子の復活にいたるまで彼らに直接永遠の生への願望は心の底に蓄積されていった。神への嘆願や敵への呪いなど直接的な今・ここの交わりを追求した。先週学んだヨブのように神への訴えに対し、顕現を介した応答を得る者たちも記録されている。新約聖書においては、媒介者イエス・キリストにおいて神の働きが聖霊を介して伝達され、ひとの働きは聖霊を介して神に嘉みされるものとしてきよめられる。
憐みと祝福は個々人の生にその都度与えられたが、異邦人をも照らす光として万人に妥当する福音の準備以上のものではなかった。復活に基づく永遠の生命が明確に言葉において伝えられることはなかった。それがフォンラートが「此岸性」と呼び「永生への希望の明白な欠如」という表現に繋がっているのであろう。ユダヤ人も異邦人もそれぞれの律法に閉じ込められていた。それ故に罪に閉じ込められていた。生物的な死を介して、その神の罰をも経験していた。そのなかで彼らに永生への希望がなかったわけではない。ヨブは自らの贖い主が生きており、いつの日か自らがこの窮境から贖いだされることを信じている。「わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう」。詩人たちも永生を求めていることが記録されている。旧約人は楽園追放の制約のなかで祝福と罰を蓄積していったのである。そしてその歴史は御子の受肉への待望の日々であった。
日曜聖書講義 2021年10月24日秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(5): ヨブに見られる旧約人の眼差しの方向―此岸の苦悩から彼岸の正義へ―
(録音は「5.2 ヨブにみられる待望および此岸性と彼岸性を媒介する神の応答」まで。原稿はフォンラートの「此岸性」による特徴づけよりも適切と思われる「生身の人間と自らを憐みにより擬人化した神との今・ここの交わり」と呼ぶべき議論まで)。
日曜聖書講義 2021年10月24日
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(5)
ヨブに見られる旧約人の眼差しの方向―此岸の苦悩から彼岸の正義へ―
[問題の所在:復習をかねて]
旧約聖書においては、まず宇宙の創造者である神により、人類は祝福されている。知性と人格性において神に似せて創造されている。「産めよ、増えよ、地に満てよ」(Gen.2:28)。そのうえで、神による祝福と懲罰は自然的な基盤のもとにある人間の善行と悪行のうえに注がれる。そこでは永遠の生命は約束されない。祝福と懲罰を介して永遠の生命を獲得するでもあろう可能性として旧約人は位置づけられている。旧約人においては神の計画のなかで知らされていることと知らされていないことのあいだのなかで歴史は展開しており、記者たちはそれを正確に記録していった。
同一の人生が懲罰としての生物的死を誰もが等しく受け取ることと、その人生がとりわけ自らの力能を十全に発揮して与えられた長寿の生が祝福されることのあいだに矛盾はない。というのも、その生存のあいだに罰としての生物的生を乗り越えている可能性があるからである。アブラハムもダビデも信仰によって生物的死を克服している。新約聖書においても、モーセ律法が呼び起こされこう語られることがある。「子供たちよ、汝らの両親に従え。というのも、これは正しいことなのだから。「汝の父と母を敬え」、これは約束における第一の戒めである、「それは汝に良いことが起きるためであり、そして汝がその土地で長生きするためである」」(Ephes.6:1,cf. Dt.5:16, Exod.20:12)。生物的死が罰として与えられている中で、長寿が祝福されることがある。
フォンラートは彼岸信仰としての永遠の生命を神に要求することは神の計画に対する不服従であるとして、許されていなかったと主張している。彼はこれを旧約人の「此岸性」、この世性として記述していた。フォンラートは言う。「旧約聖書には、死後の生に対する要求はない。それは、人間が簡単に要求できるものでもなく、まして、自分勝手にわがものにすることができるものではないことを知っており、それよりも、人間は完全に神の恵みに依存しているということの方が重要だったのです。・・この待期期間、つまり、永生への希望の明白な欠如については、あたかも神が自分の共同体に、まず、初めに、完全な此岸を与えられたのではないか、・・あらゆる彼岸信仰は、神の此岸に対する意志を無視する明らかな不服従と言うべき」。
旧約人は知らされていることと知らされていないことのあいだで、緊張のうちに置かれていた。ヘブライ書の著者は福音の媒介以前と以後をこう述べる。「この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらにまさったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結されることがないためである」(Heb.11:39-40)。一つの人類の歴史の展開のなかで旧約人は新たに福音の啓示に向かう忍耐と待望の鍛錬の時代として位置づけられる。約束のものとは御子の福音である。この福音のゆえに信に基づく神との正しい関係が打ち立てられている。彼らの歴史は現代にいたるまで人類により引き継がれ、終末において始めて完結する。
旧約においては「生命の木」から人類は遠ざけられたが、永生の希望は誰であれ、あからさまにできなくとも、ひそかに抱かれていたものであったに違いない。ヨブはいつの日にか彼を贖う方が顕われることを信じている。彼岸への願望は水面下で大きく蓄積されていったに違いない。ここでヨブにより旧約人が此岸と彼岸という対比のなかで此岸に集中したという見解は必ずしも正確な理解ではないことを示したい。
5.2 ヨブにみられる待望および此岸性と彼岸性を媒介する神の応答
今日はこの此岸性への集中という考え方にチャレンジしたい。旧約における神とひとの関わりをもっと正確に表現できると思われる。ひとがひとである限り永遠の生命に対する願望をもっていたことを誰も否定しないであろう。生物的死が一切の終わりではないということは十分に想定可能である。イザヤの召命に見られるように、宇宙の創造者にして聖なる神に直接まみえたなら、穢れた人間に生きていることはできないであろう。イザヤは自らの眼で万軍の主にまみえたことに驚愕しつつ、自分はもはや到底生きることができないと受け止めている。「災いだ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇もの者。汚れた唇の中に住む者。しかも、わたしの眼は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(Isaiah.6:5)。自らの罪穢れと万軍の主の崇高さ、聖性のコントラストはおのれの滅びを確信させるに十分である。神を見ることは想定されていないなかでの、憐みの顕現であった。神の使いが炭火をイザヤの唇に着けて言う、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(6:7)。憐みに触れたのであった。神の隠れを覚悟しているなかでの、顕現であった。この顕現でさえ、神は手加減しておられることは容易に想像できる。
神は隠れのなかで或いは間接的に選びの民と関わっている。比ゆ的に言えば、ビッグバンのあの高熱とあの光のまばゆさに耐えられる者は誰もいない。神は人間的な姿で後悔したり、意見を変えたりしながら選びの民と関わっていると記述されることを許容している。ひとは神との直視に耐ええないものである。ひとは、神の御名をみだりに唱えることを禁じられたように、単に「永遠の生命」を自らのものであるかのごとくに口にすることは憚れたことであろう(Exod.20:7)。神の一つの計画のなかで知らされていることと知らされていないことの途上の歩みのなかではこのような謙りというか畏れのなかでの態度が旧約人に相応しい。ヨブはこの神に自らの正義を訴えた稀なるケースであった。このヨブを介して旧約聖書の方向を確認したい。
旧約における此岸性への集中の理解は一つの含意を持つ。彼岸信仰によって現実から逃避することをブロックする訓練を施している。神は徹底的にこの民に関わり忠誠を要求する。過酷な生であれ信仰により正面から引き受けるとき、肯定的な生、実りをもたらす生が開けてくる。苦難を回避したりシニシズム(冷笑)やニヒリズム(虚無)に陥るとき、待望は生起しない。厳しい現実との直面は待望のエネルギーをいやがおうにも蓄積させる。とはいえ、待望は彼岸への待望であり、此岸は彼岸との動的な関わりなしには萎縮し、生命を失っていくであろう。「彼岸」をどう定義しようが、此岸の持つ不十全性の認識は彼岸への眼差しを必然的なものとする。ここではラートが「此岸性」と呼び「永生への希望の明白な欠如」という旧約人の特徴づけには異論の余地があり、もっと適切な表現を与えるべきであると論じたい。
ヨブ記はそれを告げる。ヨブの苦難における神義論の展開において人生の真剣さそして待望を確認できる。彼は試練のなかで家族や雇人、財産そして健康等一切が奪われる苦難を蒙り、彼は死を願いつつ友人たちに訴える。「わたしの生まれた日は消え失せよ。・・暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい」(Job.3:3-5)。ヨブは自ら不正を語らず、欺きを言わず、隣人の妻に心奪われ、城門で待ち伏せしたこともなく、奴隷や雇人の言い分をよく聞き、孤児を助け、貧しい者の父となり盲目者の眼となったと、「一日たりとも心に恥じることはない」と自己弁明する(Job.27:4-6,29:12,16,31:9,13,17)。
ヨブは正義の神が最後に贖ってくださると訴える、「神はわたしの道をふさいで通らせず、行く手に暗黒を置かれた。・・息は妻に嫌われ、子供にも憎まれる。・・愛していた者たちにも背かれてしまった。骨は皮膚と肉にすがりつき皮膚と歯ばかりになってわたしは生き延びている。・・どうかわたしの言葉が書き留められるように碑文として刻まれ、鉛で黒々と記されいつまでも残るように。わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る」(Job 19:8-27)。
旧約人は神について「隠れています神」と呼ぶことがあるように、十全な神の顕現が与えられない(Isa.45:15,Deut.29:28)。「いつまで主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか。心に留めてください、わたしがどれだけ続くものであるかを、あなたが人の子らをすべていかに空しいものとして創造されたかを。生命ある人間で、死を見ない者があるでしょうか。陰府の手から魂を救いだせるものがひとりでもあるでしょうか」(Ps.89:47-49)。新約においては、この訴えはなされえない。なぜなら、旧約において待ち望んだ「贖い主」、「仲保者」が到来したからである(Job.9:33,33:23,Isa.43:13, 47:4,49:7,54:5)。神は最も明白な仕方で沈黙から喜びの訪れに移行したからである。
ヨブは神に訴える。「神よわたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答にならない。御前に立っているのにあなたはご覧にならない。あなたは冷酷であり御手の力をもってわたしに怒りを顕される。わたしを吹き上げ、風に乗せ、風のうなりのなかで翻弄なさる。わたしは知っている。あなたは私を死の国へすべて生命あるものがやがて集められる家へ連れ戻そうとなさっているのだ」(30:20-23)。
このような訴えの連続のなかで、圧倒的な力によってつむじ風の中から神はヨブに顕現し語りかける。神はこの壮大な宇宙の栄光をヨブに見せ、語りかける。「お前にすばるの鎖を引き締め、オリオンの綱を緩めることができるか、時がくれば銀河を繰り出し大熊と小熊と共に導きだすことができるか」を問う(38:31-32)。ヨブには何であれこの顕現だけで十分であった。無上の光栄であった。自らの小さな義を主張することなどどうでもよくなった。ヨブは応答する「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か、知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは」。そのとおりです。わたしは理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。・・しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退けて、悔い改めます」(Job 42:2-6)。力強い神の顕現、それ以外にひとは他に何もいらない。ただ、ひれ伏し神を賛美する。ヨブの心魂はこのように造りかえられている。ヨブが自死してしまっていたなら、この逆転を経験する可能性を自ら排除してしまう。御子の派遣において福音が啓示された限りにおいて、神の経綸は最も明白な仕方で知らされており、ひとはこの神の顕現の栄光に浴したヨブと同じ状況にいる。
5.3旧約と新約の異なりと連続的展開
旧約と新約の異なりと連続的展開の確認は神の経綸(計画)を知るうえで重要である。ラートは旧約人における「永生への希望の明白な欠如」を指摘していた。しかしながら、旧約においても人々は自らの生の延長線上に何らかの希望を抱いていたことも指摘されるべきである。ヨブはいつの日か正しい神が塵の上に立ち贖ってくださることを神に訴える仕方で待ち望んだ。ヨブのように苦難を受けた多くの無名の義人たちも公平な審判の下される日を待ち望んだことであろう(cf.Gen.18:25,Ps.1:1-2,11:5,103:5,140:12-13,146:8,Isa.45:24,Jer.12:1)。(樋口進「旧約における正義」(『神戸教育短期大学研究紀要』第1号pp.24-35,2020)。また「永遠(オーラーム)」という概念は旧約においても何度か語られている(Hos.2:21,Jer.32:40,Ezek.43:7,Isa.60:21)。ホセアは神の言葉を取り次ぐ、「その日には・・わたしは汝と永遠の契約を結ぶ。わたしはあなたと契約を結び、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ」(Hos.2:21)。イザヤは古き天地が巻き去られ新天新地を待ち望む。「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に永く続くように、汝らの子孫と汝らの名も永く続く」(Isa.66:22)。
旧約の基本的な流れは神の御名をむやみに唱えず、神の沈黙に耐えることの覚悟であった。とはいえ、誰であれ苦しい時、助けをとりわけ神に求めることは自然なことである限り、聖書記者たちは神との今・ここのやり取りを記録することに傾注したと言うべきであろう。旧約人はヨブやイザヤのように幸いな体験を与えられることを望んでいたに相違ない、ひそかにであれ待ち望んでいるものがあったに相違ない。
しかし、それが神の隠れ或いは神から知らされていないことからくる抑圧であるとするなら、彼らに蓄積された待望のエネルギーはどれほどのものであったかが伺い知れる。「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、生命を墓から贖いだしてくださる」(Ps.103:3-4)。「死の綱がわたしにからみつき、陰府(よみ)の脅威にさらされ苦しみと嘆きを前にして主の御名をわたしは呼ぶ。どうか主よ、わたしの魂をお救いください」(Ps.116:3-4)。その意味において、御子の受肉と受難と復活は彼らが憐みを求め、罪の赦しの救いを求めてきた真剣な人生の時が満ちたことを伝えていると捉えることができる。
かくして、「此岸性」を別の言葉で言えば、或いはこの言葉で捉えきれない旧約聖書における神とひとの関わりを表現するものがあるとすれば、それは神の前とひとの前を分けない「今・ここの働き」、「具体性」或いはこれらを一括して「生身の人間と自らを憐みにより擬人化した神との今・ここの交わり」と表現し直すことができよう。ひとは各自の責任において神の意志である律法を遵守する。神はそれに対し祝福と懲罰を与える。神は憐みにより時に罰を思いとどまったり、軽くすることもある。この双方の働きのやり取りをこの語は表現している。生と死を分断しない神とひととの動的な関わりと言うこともできよう。待望も今・ここで神に呼びかけることに他ならない。聖書記者たちはこの具体的な交わりを記録している。
旧約聖書におけるこれらの特徴は此岸と彼岸を分けない神の擬人化されたそれ故に人間的に理解されうる働きとひとの働きの交渉という捉え方のほうがより適切であると思われる。知らされていない制約のなかで、単にこの世の生を義しく保つだけではなく、罪の贖いを求めて神に呼びかけて生きていたことは明らかだからである。この書においては、ひとの待望のもとでの呼びかけとともに、創造者にして一切を統帥しつつも隠されたところのある神がひとの一挙手一投足に関与したことがらについて集中的に報告されている。その意味において旧約に登場する神は譲歩された擬人化された神であると言うこともできよう。
5.4 神の前とひとの前の理論上の分節を可能にするもの
神の前とひとの前を理論上分けて考察することは、神の子でありまた同時に人の子である「イエス・キリスト」という媒介者の故に可能になることであり、説得的な神の学はこの関係をめぐって構築されよう。神話的、物語的表現はおとぎ話という虚構ではなく、神についての十全な理論的な把握のできない人類の成長段階のうえのこととして捉えるべきである。この媒介者が生まれる前は神への背きから立ち返り、神に向かう一挙手一投足の働きが正しい関わりと言える。福音の啓示に基づく神の前とひとの前を分節して論じる手法、これを「ロゴス(理論)主導」と呼ぶが、それは旧約においては十全には展開されない。旧約人における今・ここの働きにおける神とひとの交わりを「エルゴン主導」と呼ぶことができる。
とはいえ、明確なロゴス(理)が受肉したことを受けて、ロゴスとエルゴンの相補性は新約聖書において十全に展開される。人類は不可視なものの秩序ある可視化をロゴス(理、言葉)とエルゴン(その働き)の相補性において捉えてきた。例えば、一オクターブの調和音は1:2の弦の比(ロゴス・形相)と空気(質料)の合成体である。これは一般的な定義としては比と空気はロゴス上分節されるが、今・ここで奏でられる一オクターブは働き上分離されてはおらず、空気が比によって秩序づけられている。生命の設計図としての遺伝子も四つの螺旋的塩基配列を秩序づけるが、その塩基配列を秩序づける可視的な遺伝子を構成する情報それ自身は物質ではなくタンパク質合成の理である。先哲によれば、ロゴスとしての形相は生成消滅過程を経ることなく、質料を一なる合成体として働かしめる。今・ここの秩序ある働きは不可視のロゴスの証である。
新約聖書にもこの相補性の事例は豊かであり、エマオ途上の弟子たちは「神とすべての民の前にエルゴン(働き・実践)とロゴス(言葉・理論)において力ある預言者となったナザレのイエス」について語りあった(Luk.24:19、eg.Rom.15:17.2Cor.6:7,1Thes.1:5)。イエスはご自身が「ロゴス」であると報告されるが、羊飼いのいない羊のように彷徨う群衆を「深く憐み」、神の国について言葉で「多くを教え始めた」(John.1;1,Mat.9:36,Mak.6:34)。彼は自らの山上の説教それ自身を信の従順により生ききることにより、自らの言葉に偽りがないことを証したため、彼の言葉には「権威」が宿った(Mat.7:29)。これは新約聖書に特徴的なことがらである。旧約の預言者たちはこれほどの権威をもって神の国を語ることはできず、先見者として具体的な歴史的状況について神の意志を取次いだ。旧約聖書においては神についてエルゴン(働き)の報告はあっても、ロゴス(理論)の展開は十全には見られえない。
ロゴス(理論・言葉)とエルゴン(実践・働き)は常に一方が他方の正しさを保証するそのような相補的な関係においてある。ロゴスとエルゴンの相補性は、例えば遺伝情報とその読み取り、楽譜と演奏、ルールとそのもとでのパフォーマンス等、何であれ被造物である限りあらゆるものに適用されよう。1時間に4キロ歩くと2時間で何キロになるかという算数の問いに、聡明な少女が答えられず「だって疲れちゃう」と言う応答は肉の弱さへの考慮によるロゴスとエルゴンの緊張を伝えている。エルゴンは本来的にロゴスを証するものとしての働きであるが、8キロ常に歩くとは限らない。パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)と言い、肉の弱さに譲歩し、肉としての自然的組成についての理論を展開し人間中心的に語る。旧約聖書においても登場人物は誰であれ神の意志を正しく遂行するかしないかを問われる責任ある行為主体である。さもなければ、祝福も懲罰も与えられることはないであろう。神とひとの今・ここのエルゴンの報告が旧約聖書を満たしていると言える。
新約聖書はナザレのイエスの生涯とイエス・キリストの福音の出来事に集中しており、そこから人間の営み一切が捉え直されている。旧約においては、交わりの蓄積そのものが福音に向かっており、そこに至る神と人との具体的なやり取りが報告されている。詩人は言う、「わたしは黙し続けて絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重くわたしの力は夏の日照りにあって衰え果てました。わたしは罪をあなたに示し咎を隠しませんでした。わたしは言いました「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。あなたの慈しみに生きる者は皆あなたを見出だしうる間にあなたに祈ります」(Ps.32:3-6)。旧約聖書に親しむということは、神の前と人の前を分けずに、その都度自らの歩みを神の祝福と懲罰のなかで生死を思考する習慣を身に着けることである。
神についての学問はそのエヴィデンスの蓄積の上でのものとなるが、とりわけ明確な媒介者を必要とする。此岸性や今・ここのエルゴン主導ののもとでのユダヤ教の歴史はその展開にとって媒介者を必要としている。業の律法のもとでの恩恵と懲罰の賦与という神理解から一歩進み、媒介者による神の恩恵の実現に向かう。その意味であのエルゴン主導の歴史はそこに至る必然的な過程であったと言えよう。
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(4)―旧約人の此岸性
[録音はテクストの朗読を基本としつつも自由に話しています。テクスト上は5.1「此岸性」途中までです。連続講義では繋がりをつけながら展開していきます]。。
日曜聖書講義 2021年10月17日
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(4)
旧約人の此岸性
[復習]
旧約聖書における生と死を学んできた。なにごとにも準備期間を必要とする。彼らは神の子ナザレのイエスの誕生に向かう準備期間にある人々と位置づけられる。旧約聖書は当然新約聖書より以前に書かれたものであったが、新約から旧約を見るとき、生死をめぐる当時の人々の考えがよく理解できるようになる。彼らはイエスの復活により示された永遠の生命を神に求めることができない者たちであった。救い主の預言は与えられていたが、旧約人は直接的に神に憐みと祝福を求めて神の意志として知らしめられたモーセの十戒の遵守に生命を懸けていた。神に背くとき、具体的に懲罰を与えられていたことが報告されている。直接的な神とひととのやり取りが描かれている。そこには喜び、感謝、賛美があり、苦しみ、嘆き、訴えがある。一回限りの歴史を歩む人類は神の隠れを経験することも多く、救い主の待望のエネルギーが蓄積されていった。
4.6旧約における死後の世界の思弁をブロックするもの
死は神の領域であり、聖書では一様に霊媒や口寄せ等死者と交流する者たちは汚れであり、理にかなわないものとして軽蔑される。「あなた方のあいだに、自分の子女に火の中を通らせる者、占い師、卜者(ぼくしゃ)、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない」(Deut.18:11、同様にLev.19:31、20:6、20:27、2Ki.21:6、23:24、2Chr.33:6、Isa.8:19、19:4参照)。死後の世界との交流を遮断したこの理性的な対処にこの民族の特徴を見出す。この民族が魔術や偶像をさらには恐怖などの過剰なパトスに由来する迷信を排し、生きた神との現実感の中で生きた交わりを結ぶことにこそ生の中心を置いていたことが確認される。
ダビデ王はバテシェバとの子供が病気で死ぬまでは断食し、塵灰を被り生還を祈り続けたが、死を知らされると気持ちを切り替えている。「子が生きている間は主がわたしを憐み、生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ断食して泣いたのだ。だが、死んでしまった、断食したところで何になろう。あの子を呼び戻せようか」(2Sam.12:23)。彼らは死後については神の事柄として禁欲しつつ、この人生の導きを祈り求めている。詩人は言う、「あなたは、わたしの生命を死に渡すことなく、あなたの聖者が朽ちることを許さず、生への道を教えてくださる」(Ps.16:10)。このリアリズム(現実主義)は信仰からくる。一挙手一投足が神との関わりのなかにあり、神の認可においてないときは、一回しかない現実の歴史においては可能世界に耽溺することなく祝福を求めて次に進むしかないのである。
詩人にとって生きることは神に賛美を帰す機会であると捉えられている。「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐みを乞います。わたしが死んで墓にくだることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ、あなたの真実を告げ知らせるでしょうか」(Ps.30:10)。「あなたは死者に対して驚くべき御業をなさったり、死霊が起き上がってあなたを讃えるでしょうか。墓の中であなたの慈しみが、滅びの国で、あなたの真実が語られたりするでしょうか」(Ps.88:11)。生きている限りにおいて、一切を支配し導く神に賛美を捧げることができる。そのなかで祝福を頂くことができる。
紀元前千年頃ダビデそしてソロモンとイスラエルは版図を広げ強さを誇る時代をも経験した。その後北王国(イスラエル)と南王国(ユダ)に分かれるがバビロニア帝国による捕囚(598,587,582年)にいたるまで、ユダ王国は500年近い歴史を刻んだ。その間アモスやホセアに始まり、イザヤやエレミヤ、エゼキエルという預言者たちが王のブレーンとしてまた対峙する抵抗者として唯一神ヤハウェの意志を国家存亡の運命を握る判断、政策の選択において関与した。預言者たちはこの世俗権力としての国家と超越的な唯一神ヤハウェとのあいだに立って、歴史の帰趨を見究める者たちであった。彼らは多くの場合厳しい審判の言葉を告げることを強いられた。
ユダの王ゼデキアはじめ高官たちは紀元前6世紀に70年間にわたりバビロンに拘束された(Jer.25:11)。それはユダの堕落に対する神の怒りであった。「わたしはエルサレムを瓦礫の山、山犬の住処とし、ユダの町々を荒廃させる。そこに住む者はいなくなる」(Jer.9:6-10)。審判の預言は至るところに見いだされる(eg. Hosea 7:13-8:14, Isa.30:12-14, Jer.5:14-17)。旧約人はこの人生のただなかで万軍の主でありすべてを統治する神に憐みを乞い、人生の祝福を祈った。もちろんそこでは信仰の純化が求められようが、現実的な憐みを直接求めた。
ペルシャ王キュロスによるバビロンによる捕囚からの解放の後もユダヤ人は苦難の歴史を刻んだ。彼らはアレクサンダー大王以後ヘレニズム化の波に襲われ、ローマによりエルサレムが焼かれ(CE70)、その後離散(ディアスポラ)の民として、20世紀のホロコーストの被害者として苦難の歴史を歩んでいる。
5旧約聖書における「此岸性」の主張は生身の人間と譲歩した神のやり取りの展開のなかに位置付けられる。
5:1フォンラートによる死後の世界を要求しない旧約人の「此岸性」という特徴づけ
この21世紀メシアの到来を信じないユダヤ人たちは未だに神の沈黙のなかで救済を待ち望んでいる。ナザレのイエスのあの生涯の後パウロやペテロなどはかの預言者たちに預言された救い主がナザレのイエスにおいて到来したと告げ、新たな宗教として旧約からの連続性のなかで生まれ、世界宗教となった。あの神の言葉の受肉と受難そして復活はまことに特異なこととして歴史のなかで生起した。それまでの旧約の民には知らされていることと知らされていないことがあり、その限界のなかで旧約人は自らの死生観を作り上げていった。各人の心魂の根底にある神に対する信仰とそのもとでの正しい人生の構築こそ彼らの精神性を特徴づける。見えない神と日々関わって生きることそれが彼らを独自の民族としている。彼らの独自性が救い主イエス・キリストを生み出すこととなる。他の民族も神の導きの歴史におかれていたが、ユダヤ民族から全人類の救い主が生まれたのである。旧約人はそこに至る準備期間、待望期間に置かれていたのである。
このような旧約人の態度をフォンラートは「此岸性」と呼ぶ。「旧約聖書には、死後の生に対する要求はない。それは、人間が簡単に要求できるものでもなく、まして、自分勝手にわがものにすることができるものではないことを知っており、それよりも、人間は完全に神の恵みに依存しているということの方が重要だったのです。・・この待期期間、つまり、永生への希望の明白な欠如については、あたかも神が自分の共同体に、まず、初めに、完全な此岸を与えられたのではないか、・・あらゆる彼岸信仰は、神の此岸に対する意志を無視する明らかな不服従と言うべき」であるとする(『ナチ時代に旧約聖書を読む フォンラート講演集』荒井章三編訳pp.67-8 (教文館 2021)
神の計画はこの民を恩恵の注ぎと懲らしめの訓練のもとで罪の克服に向かわせるものであった。そこでは永遠の生命を約束する時はまだ満ちていなかったのだと思われる。この旧約人の此岸性という特徴の理由はいくつか考えられる。第一に、神は人類の救済の計画において、旧約人に、今・ここの自らの圧倒的な介在、現在を知らしめ神への背きを懲らしめ神の意志としてのモーセ律法の遵守を迫っている。そこでは死は神の律法に対する忠誠違反に対する懲罰であると特徴づけられており、この生における罪との格闘に焦点を結んでいる。パウロによれば、後に考察するように、すべての口が塞がれ、世界が神に服すべくこの律法が与えられた(Rom.3:19-20)。
或いは、第二に、旧約聖書の編集者が来世への思弁を展開する文書をブロックしたことが想定される。紀元前3世紀から約200年かけてプトレマイオス朝アレクサンドリアにおいて、旧約聖書がヘブライ語からギリシャ語に翻訳された。実は「七十人訳」と呼ばれるこのギリシャ語訳が現存している最古の旧約聖書である。ヘブライ語を理解できなくなった異国のユダヤ人たちは当時の公用語であるギリシャ語により自らの民族のルーツについて読むことができるようになった。その編集段階において、エジプトのピラミッドや王たちのミイラに見られるように人類の普遍的願望である永遠の生命についての思弁の記録は除かれたのかもしれない。また、紀元70年におけるローマによるエルサレム陥落のあとユダヤ教学者はヤムニアに集まりユダヤ教の正典となる(旧約)聖書を確定していった。その編集段階において、神の直接的な関わりへの記録を集中的に蒐集したのかもしれない。つまり、来世への希望や幻そして思弁が描かれていないのは旧約聖書の編集の意図が反映しているという理解である。
第三に、誰であれ苦しい時、助けをとりわけ神に求めることは自然なことである限り、ひとが永生を何らか望むことを否定できないであろう。実際、ひとは生きていることの充実感を得るには未来に時間が開かれているという感覚を必要としている。死はその前向き、肯定的な生の構成要素でありうる。しかし、旧約人においては、モーセ律法を介した神とその代弁者である指導者、預言者たちとの関わりのなかで神の意志と摂理の知識を蓄積しつつ、死後の世界についていかなるものか神により明確に知らされていないその制約が働いていた。イザヤによれば預言者は「先を見る者」であり、歴史を予見し現実の政治社会の歴史の動向を予告する(Isa.30:10,44:24-26)。そしてその特徴と制約のなかで旧約聖書の素材が編集蓄積された。
旧約人には死を乗り越える永遠の生命への明確な信仰と知識はブロックされていたのだと思われる。神への服従の訓練が施されていた。死後の思弁への禁欲は彼らのこの生における神の祝福と呪いを求めさせ、神との関わりのなかで生きながらえることそれ自体が祝福であった。
この第三の考えは神の人類救済の計画の準備期間の正確な記述という第一の理解と聖書の編集段階における取捨選択という理解と矛盾するものではなく、旧約聖書は現在伝えられているように、主に神とユダヤ人の具体的な関わりの事実の記録として編集され報告されたと言えよう。
そして、もしアブラハムに対し、彼の子孫の繁栄というよりも彼自身の永遠の生命を神が直ちに約束したとしたなら、民族としての特殊性はなくなるであろう。異教の神々に囲まれている状況にあって、一民族に忠誠を求め道徳的鍛錬を通じて祝福と懲罰を与えるという歴史を経なかった場合、その永遠の生命の約束は罪に対する勝利という位置づけを決して得ることはなかったであろう。「すべて信仰に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)というその神の信実とそれへの応答としてのひとの信仰を見出すことはできなかったであろう。棚ぼた式の救いの提示は恩恵として理解されることもないであろう。
ひとつの民族の祝福を介して、祝福が全人類にゆきわたるそのような計画を神はいだいた。一弱小民族を選び鍛え、背きと立ち返りのなかで罪の給金が生物的死であることを知らしめ、時が満ちて御子を派遣し、罪とその値である死に勝利することは苦難なしに待ち望まれることもなかったことであろう。詩人は言う、「主よ、わたしを救ってくださる神よ、昼は援けを求めて叫び、夜も御前におります。わたしの祈りが御もとに届きますように。わたしの声に耳を傾けてください。わたしの魂は苦難を味わい尽くし、生命は陰府(よみ)にのぞんでいます。・・愛する者も友もあなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」(Ps.88:1-19)。
神の沈黙を思わせる待望の歴史のなかで、罪とその値である死に対する勝利として永遠の生命が与えられるとすれば、それはアダムの創造に見られるように全人類に向けられるものであろう。歴史は時の満ち足りを必要としていたのである。アブラハムと彼の子孫だけに永遠の生命が与えられるとするなら、御子の信の従順の生涯は差別と分断を生むだけであったろう。
もし受肉はもとより何の歴史的交流なしにUFOのようにアブラハムの時代に神が全人類に突然現れ、神自身が人類の創造者であることを知らしめたとして、それは人類の歴史になんら関わらない神である。その神による救済は棚ぼた式であり、多くの人はたとえ宇宙船を操る認知的卓越性を認めたとしても、人格的な正義(公平)と愛(憐み)の両立を知ることはなかったであろう。即ち、信に基づく正義を介して自らの罪が贖われたこと、罪と死に対して勝利が与えられ、懲罰としての死が永遠の生命に飲み込まれたその神の愛を信じるに至らなかったであろう。ユダヤ民族の歴史の展開においてモーセ律法(「業の律法」(パウロ))が先ず神の意志として啓示され、その正義の規準との関連で神への背きが告発され、この民は祝福とともに罪の懲罰を受けてきた。そのなかで時が満ちてもう一つの神の意志(「信の律法」)が御子の受肉と信の従順の生涯により福音として啓示されている。
新約の視点からへブル書記者は旧約の人々をこう特徴づけている。「この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらにまさったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結されることがないためである」(Heb.11:39-40)。旧約人は新約人を待って初めて彼らの生が何であったかが初めて明確にされ、完結されるものであった。忍耐のなかそれほどの待望のエネルギーが蓄積されていたのであった。
憐みを待望む民にとっては各自における一つの生のただなかで神との今・ここの取り組みへの集中は相応しいことのように思える。その制約のなかで義人シメオンはマリアから幼子イエスを抱き上げ言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いです、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です」(Luk.2:29-32)。この民は神により死後のことを明確には知らしめられなかったからこそ、この此岸の生を正面から引き受けつつ福音の訪れを待望していたのである。
5.2 ヨブにみられる待望および此岸性と彼岸性を媒介する神の応答
この此岸性は一つの含意を持つ。彼岸信仰によって現実から逃避することをブロックする訓練を施している。神は徹底的にこの民に関わり忠誠を要求する。過酷な生であれ信仰により正面から引き受けるとき、肯定的な生、実りをもたらす生が開けてくる。苦難を回避したりシニシズム(冷笑)やニヒリズム(虚無)に陥るとき、待望は生起しない。厳しい現実との直面は待望のエネルギーをいやがおうにも蓄積させる。とはいえ、待望は彼岸への待望であり、此岸は彼岸との動的な関わりなしには萎縮し、生命を失っていくであろう。ここではラートが「此岸性」と呼び「永生への希望の明白な欠如」という旧約人の特徴づけには異論の余地があり、もっと適切な表現を与えるべきであると論じたい。
ヨブ記はそれを告げる。ヨブの苦難における神義論の展開において人生の真剣さそして待望を確認できる。彼は試練のなかで家族や雇人、財産そして健康等一切が奪われる苦難を蒙り、彼は死を願いつつ友人たちに訴える。「わたしの生まれた日は消え失せよ。・・暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい」(Job.3:3-5)。ヨブは自ら不正を語らず、欺きを言わず、隣人の妻に心奪われ、城門で待ち伏せしたこともなく、奴隷や雇人の言い分をよく聞き、孤児を助け、貧しい者の父となり盲目者の眼となったと、「一日たりとも心に恥じることはない」と自己弁明する(Job.27:4-6,29:12,16,31:9,13,17)。ヨブは正義の神が最後に贖ってくださると訴える、「神はわたしの道をふさいで通らせず、行く手に暗黒を置かれた。・・息は妻に嫌われ、子供にも憎まれる。・・愛していた者たちにも背かれてしまった。骨は皮膚と肉にすがりつき皮膚と歯ばかりになってわたしは生き延びている。・・どうかわたしの言葉が書き留められるように碑文として刻まれ、鉛で黒々と記されいつまでも残るように。わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る」(Job 19:8-27)。
旧約人は神について「隠れています神」と呼ぶことがあるように、十全な神の顕現が与えられない(Isa.45:15,Deut.29:28)。「いつまで主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか。心に留めてください、わたしがどれだけ続くものであるかを、あなたが人の子らをすべていかに空しいものとして創造されたかを。生命ある人間で、死を見ない者があるでしょうか。陰府の手から魂を救いだせるものがひとりでもあるでしょうか」(Ps.89:47-49)。新約においては、この訴えはなされえない。旧約において待ち望んだ「贖い主」、「仲保者」が到来したからである(Job.9:33,33:23,Isa.43:13,47:4,49:7,54:5)。
ヨブは神に訴える。「神よわたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答にならない。御前に立っているのにあなたはご覧にならない。あなたは冷酷であり御手の力をもってわたしに怒りを顕される。わたしを吹き上げ、風に乗せ、風のうなりのなかで翻弄なさる。わたしは知っている。あなたは私を死の国へすべて生命あるものがやがて集められる家へ連れ戻そうとなさっているのだ」(30:20-23)。
このような訴えの連続のなかで、圧倒的な力によってつむじ風の中から神はヨブに顕現し語りかける。神はこの壮大な宇宙の栄光をヨブに見せ、語りかける。「お前にすばるの鎖を引き締め、オリオンの綱を緩めることができるか、時がくれば銀河を繰り出し大熊と小熊と共に導きだすことができるか」を問う(38:31-32)。ヨブには何であれこの顕現だけで十分であった。無上の光栄であった。自らの小さな義を主張することなどどうでもよくなった。ヨブは応答する「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か、知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは」。そのとおりです。わたしは理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。・・しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退けて、悔い改めます」(Job 42:2-6)。力強い神の顕現、それ以外にひとは他に何もいらない。ただ、ひれ伏し神を賛美する。ヨブの心魂はこのように造りかえられている。ヨブが自死してしまっていたなら、この逆転を経験する可能性を自ら排除してしまう。御子の派遣において福音が啓示された限りにおいて、神の経綸は最も明白な仕方で知らされており、ひとはこの神の顕現の栄光に浴したヨブと同じ状況にいる。
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(3)―アダムにおける永遠の生命の力能―
日曜聖書講義 2021年10月10日
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(3)
アダムにおける永遠の生命の力能
[復習]
死の二重性
聖書の死生観は神が歴史に関わるその経過の中で形成されており、人類そしてイスラエル民族の歴史とともにその死生観も変遷、成長しうるものである。紀元前1700年頃からのアブラハム以来の歴史の展開において民族の苦難や立ち帰りを通じて救済の福音への収斂を確認できる。旧約聖書において、神は個々人の責任における神への畏れと律法の遵守をめぐって祝福と呪い、祝福と懲罰において関わっていることが縷々報告されている。そこには一貫してモーセ律法に見られる神の意志の遂行が問題とされており、それは唯一の神による自らの民への関わり方が或る統一的な計画のもとに遂行され展開されていることを含意する。御子の福音の啓示にすべてが向かうものとして秩序づけられるとき、理不尽に思われる個々人の死も理解されうるものとなる。神と個々人の関わりとその理解は個々人の責任に帰せられるが、福音の啓示は全人類に向けられており、神の意志がそこにおいて最も明白なものとして知らされている。「神は独り子を賜うほどこの世界を愛した、それは彼を信じる者がすべて滅びることなく永遠の生命を獲得するためである」(John.3:16)。ひとはこの福音によって自らの生死を理解するよう促されている。
生物的な生と死は自然的なものであり、それは自然科学によって解明されうるものである。人類の歴史は死者の数そしてその死因を基本的に計測可能、判別可能なものとして展開している。この同一の歴史が神の関与の歴史なのである。聖書の報告によれば、生と死は、一方で、「産めよ、増えよ、地に満てよ」という励ましのなか長寿を全うするそのような自然的な生命の発露として祝福されたものである。
他方で、生は様々な困難にとらわれるものであり、その帰結である死は神への背きとしての罪に対する懲罰であると理解される。われらが土から生まれ土に帰り、それで終わりであることを自然的であると理解していても、福音において明らかにされたように永遠の生命こそ人間の本来性であるという理解を持つ神にとっては自然的な死即無ないし生態系への解消という理解は非本来的、残念なことであり死を乗り越えるべく奮起を期待しての懲らしめ、懲罰を意味することになる。福音の出来事から死を見る限り、それ以外の理解はできない。福音のもと生物的死への眼差しによって生を構成しつつ、罪と死を乗り越えるよう励まされている。
一方で、生命の誕生であれ長寿であれ、祝福は土から造られた自然的なもののうえに注がれる。創造は「はなはだ良かった」のである(Gen.1:31)。自然的なものは草木であれ動物であれ、自らの生命の力能の十全な発揮においてこそ自然であり本来的である。
神はエデンの園の中央には「生命の木」と「善悪の知識の木」を生えいでさせており、ひとは道徳的となる力能および永遠の生命に与る主体となる力能をその創造において所有していた。少なくともそれらの実を食し消化するする力能を備えていた。さもなければ、神に彼らが食する可能性を想定されることはなかったであろう。ただし、時が満ちたなら善悪の木のみならず、生命の木を食することが許されていたかもしれないが、人類の始まりの段階では許されたものではなかった。エデンの園から追い出せば、盗まれ食されることがなくなるという想定のもとに彼らは園を追放されたのであるから、彼らが食する力能を失ったわけではない。
カトリックとプロテスタントにおいて最初の人間の腐敗はどれほど著しいかの論争がある(『信の哲学』第八章、九章第二節一)。カトリック教会は4世紀ヒエロニムスによりラテン語に翻訳されて以来聖典とされたVulgata版を1970年のNova Vulgataにおいてアダムの原罪が血を介して遺伝的に伝わるという遺伝罪という考えの典拠とされることもあった箇所(「ローマ書」5:12)の翻訳を修正している(新しい翻訳5:12-14は直ぐ下で提示している)。罪は神の前の概念であって自然的な概念ではなく、罪の遺伝子が子孫に伝達されるという類の議論はなされえない(『信の哲学』第四章二節六)。祝福と懲罰は自然的な基盤のうえに築かれる人生のうえに神との関わりにおいて与えられる。それ故に、自らの職務等を通じて力能を十全に発揮し、長寿を全うすることがあるとするなら、それ自身創造者である神からの祝福を得たものとなり、自然的なものとしても祝福された死であると言うことができる。興味深いことに旧約聖書においては祝福された死は語られてもまた民族の発展は語られても、その者たちに永遠の生命は約束されてはいない。
他方、神は罪を犯す者たちに対して洪水や隕石等の自然的な事象を介して、さらには戦争等を介して死を懲罰として与える。旧約聖書においては、これは個々の具体的な事例を介してこの懲罰としての死が記録されているが、パウロにおいては罪から救済された者をも含め、それは普遍化され、理論的に把握されている。福音の視点から見れば、福音はすべての者の罪とそれ故の死から救済する神の力能である以上、どれほど軽微な罪であれ誰もが罰としての死を免れなかったとされる。救済を必要としないひとはいないからである。パウロは言う、「ひとりのひとを介して罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯した故に、死はすべての者を貫き通したのである。というのも、律法[が与えられる]までにも罪は世界にあったのであり、律法が存在しないため罪は告訴されていないが、しかし、死は、アダムからモーセに至るまで、アダムの背きと同じ仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配したからである」(Rom.5:12-14)。神の判断として一方で罪には軽重があり、他方すべての者は罪を犯したが故にすべての者に死が貫き通されたと神に認識されており、その後信仰により義とされた者たちも、過去に犯したどれほど軽微なものであるにしても罪の故に懲罰としての死を免れなかったと報告されている。
人類にこの一方祝福された自然的な死があると同様に誰もが懲罰としての死を免れることはなかったことを、「死の二重性(duality of death)」と呼ぶ。ただし、罪から自由にされた義人の生物的な死はしばしの「眠り」となり、「死」の意味は異なる。死の二重性において「死」は同様に息を止めることであり、ムクロとなることであるが、その自然的死を介して或る者は眠り他の或る者は滅びに定められ得るその可能性において捉えられる。かくして、死を懲罰として捉えることは、その罪が赦される限り、その死を乗り越えることができるものであり、自然的な死は人類にとって、最後的なものではないことを含意する。罪赦された者は「新しい被造物」として新しい生を生きる(2Cor.5:17)。そして罪赦されたことの証は隣人を愛しうることであるとされる(Luk.7:47)。
同一の死が二重に理解されるとするなら、同一の生も死に向かう生と死を希望において既に乗り越えた生として二重に理解される。パウロは言う、「われらをキリストにおいて常に勝利の行進を歩ませたまうそしてあらゆる場においてわれらを介してキリストご自身の認識の馨を明らかにしたまう神に感謝あれ。われらは救われる者たちにおけるまた滅びゆく者たちにおける香ばしい匂いであり、かたや滅びる者たちには[生物的]死から[神の前の滅びの]死に至る匂いであり、他方、救われる者たちには[生物的]生命から[永遠の]生命に至る匂いである」(2Cor.2:14-16)。キリストにある者はキリストを受け入れない者にとって滅びの匂いとなる者であり、受け入れる者には永遠の生命の匂いとなる者たちである。ひとの生が死に対する勝利の生と死への滅びの生に二分されている。自然的な人生が懲罰としての死を正面から引き受け、その罪を赦すキリストを受け入れるとき、生命の行路に入る。
4.3 楽園追放に続く労苦による生命維持と土への帰還
最初の人間アダムとエヴァは神への従順ではなく倫理的な行為主体となるべく「善悪を知る」木の実を食べて楽園を追放されている。その追放の理由は彼らがさらに「生命の木」からも取って食べ「永遠に生きる者」となる恐れがあったからであるとされる(Gen.3:23)。これは創造者である神のように永遠に生きる者となることを含意するが、歴史の展開のなかで御子の派遣による福音の啓示を介して永遠の生命が与えられる、そのような歴史を踏まえることなしに、永遠の生命を一気に獲得することが問題視されている。
彼らは神に背いたあと、まず懲罰として生存のための労働と死がアダムに与えられている。「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに土は呪われるものとなった。お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ。・・お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る」(Gen.3:17-19)。エヴァに対してはこう罰が与えられる。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する」(3:16)。
人類は生存のための額に汗する労働と出産に伴う苦しみさらに生物的死を懲罰として受け止めることになるが、それは塵が塵に返るという自然的な法則のもとに置かれたということであり、神との親密な交わりに人間の本来性を見出す霊的なものからの追放である。ひとはその後そのような制約を自然なもの、当然なものと受け止めるが、それこそ楽園を追放された者にとっての現実的認識である。本来は霊的な交わりを享受する者として造られた人間がその構成要素である土に帰ることが懲罰であると言える。
ただ、最初の人間は善悪を知る木と生命の木の果実を食することができ、消化することができるそのような力能を持っていたとされている。つまり、永遠の生命を受動する何らかの力能を予め持っていたことが含意されている。楽園追放後もその力能においては変化がなかったと看做すべきである。そのことは一つの民族の展開のなかで、預言の成就として永遠の生命を担った御子の受肉と受難と復活が生起したことから確認される。楽園において罪を犯さずにも彼らは塵に返ったでもあろうが、それは眠りであり、時がくれば永遠の生命を授けられることもあろう、そのようなものである。この後人類の歴史は自然的制約というこの与件のもとで、神への背きと死の乗り越えを課題として引き受けることになる。
もし神に背かなければ、アダムであれ誰であれたとえ生物として土に返ったとしても、義人の死は新約聖書においては「眠り」であると捉えられることになる(Mat.27:52、1Cor.15:6,18,20,51)。旧約聖書においても「ダビデは先祖と共に眠りについた」(1Ki.2:10)という表現に見られるように、他の固有名の挿入によるこれと同じ構文は40か所以上で見られ、慣用表現であったことがわかる(前掲コンコルダンスp.745)。この表現はエデンの園における「生命の木」に暗示されるように、生物的死が一切の終わり「永眠」というものではなく、覚醒の可能性を示唆していると言うことができる。「眠りについた」というこの表現は新約における義人、聖徒の死が一時的な眠りであるという特徴づけを基礎づけたと推測される。
ここでは生と死は神への忠誠と背きとの関連に置かれることになったことを確認するにとどめよう。神の民は個々の人生を介して祝福と呪い、恩恵と怒りのもとに置かれる。この人類の始祖の神話物語の流れの中でまたその基礎のもとにアブラハムが神の召命を受け、約束の民族を形成していく。
4.4アブラハムの召命に続く民族の展開
アブラハムに始まるこの民族は唯一神ヤハウェが彼にカナンの土地を与え、子孫は夜空の星のように浜辺の砂のように繫栄するという神の約束を信じ、神との交わりのなかで生と死、祝福と呪いのなかでその民族の歴史を刻んでいる(Gen.12:2、17:7、22:17)。アブラハムは神の約束の言葉を信じて、カルデヤのウルを出立した。見えない神を相手に生の一切を位置づけることは信仰による。「アブラハムは主を信じた。主はその信仰を義と看做した」(Gen.15:6)。信仰・信というものを心魂の根底におくとき、ひとはそれが正しい信仰である限りにおいて、心魂の卓越性(有徳性)がそこにおいて発揮される知識をめぐる認知的な力能、態勢と正義や愛等をめぐる人格的な力能、態勢を成長させる。最終的には賢者と聖者となる。理性の逸脱である狂信からそして恐怖等のパトスの異常である迷信からも自由にされる。彼らは一神教のただなかで、その心魂の態勢を信仰のもとに成長させた民族であったことを確認したい。もし正しい信仰を持つなら生の実りは各自に与えられる与件は「善き地」であるという信のもとにその力能を100倍、60倍にこの人生のただなかで実らすと約束されていた(Mat.13:18-23)。
神はイサクに続きヤコブを祝福して言う、「私は全能の神である。産めよ、増えよ。あなたから一つの国民、いや、多くの国民の群れが起こり、あなたの腰から王たちが出る。私は、アブラハムとイサクに与えた土地をあなたに与える。また、あなたに続く子孫にこの土地を与える」(Gen.35:11-12)。人間が「土」という根源物質から形成されていること、生殖を通じての生命とその理想的な死としての長寿という生命の謳歌は自然的なことがらとして、それをめぐる道徳や生活環境さらには生命の儚さとともにすべてのひとに共通する反応や理解をこの民族にも見出すことができる。この民族にとってはひととしての共通素材である「土」のもとに、生命原理としての「魂」や意識事象を司る「心」を備えるそのような組成のもとに生と死を経験することにおいて、他の民族となんらかわらない。エジプトやアッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャやローマ等列強支配の圧力のもと、また過酷な自然環境のなかで長く生きうることそれ自体が祝福であったという理解は今日にも妥当する死生観であろう。ただし、これは霊と呼ばれる「内なる人間」に対する言及がなされない場合に限られる。聖書においては、その神との霊的な交わりのなかで自然的な長寿の生命が祝福されているのである。
ヤコブ(十二部族の祖)は神の使いと一晩祝福を願い相撲を取ったことにちなみ「神と闘う」という意味の「イスラエル」と名付けられる(Gen.32)。この民族は歴史の変化とともに自らまた周辺国の呼び名で「ヘブライ人」、「ユダヤ人」と呼ばれることもある。ユダヤ民族の神との交わりの集中度は尋常ならざるものであった。現在まで宗教上特異な地位を占める民族として、また思想史、科学史、経済史上等特異な地位を占める民族である。この民族においては、唯一神ヤハウェに対する関わりのなかで、生と死は捉えられる。懲罰としてであれそうでないものとしてであれ、生あるものは土に返るという自然的な死生観と共通項をもちつつも、神とひとを媒介するものは「霊」と呼ばれる。神は生きて働いており、他の神々を拝することは忌避される。祝福と呪いのなかで生と死が置かれる。滅びることは懲罰として捉えられるとき、この生への真剣度はいやがおうにもまし、神に祝福と憐みを求めて生きることとなる。或いはそれをひとびとは狂信や迷信として拒絶する。
モーセは神の命に従い、ヘブライ人をエジプトから導きだし、神の山ホレブにおいて神から律法(十戒)を啓示された。「汝はわたしをおいて他に神があってはならない。・・わたしは主、汝の神。わたしは嫉む神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(Exod.20:4-5)。
生命と死は神の祝福と呪いの関連におかれる。「わたし(モーセ)は今日生命と幸い、死と災いを汝の前に置く。・・汝の神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法とを守るならば、汝は生命を得、かつ増える。・・もし汝が心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるなら、・・汝らは必ず滅びる」(Deut.30:15-18)。モーセの十戒に見られる偶像崇拝や偽りや姦淫、貪りは厳しく戒められた。(Exod.ch.20)。モーセが神の山に滞在している間、麓で金の子牛を鋳て偶像を拝した民は一日で三千人が処刑された。「主もモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者は誰でも私の書から消し去る。・・わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに懲罰する」(32:28,33-34)。
4.5 神義論
これらの記述において少なくとも誰にも同意できることは、これらの歴史物語の著者が自然災害の理解に関わっていることである。ひとり或いは複数の聖書記者が神から啓示を受け、歴史的事象、事件についてその神の理解を報告していることである。これは新約聖書のパウロや福音書記者たちにおいても変わらない。
ここに記者が神の理解と看做すことがらと実際神がそう看做すことがらのあいだに緊張が生じる。これらの歴史物語においては、神の認識と記者による神の認識の理解のあいだ双方に齟齬がないものとして報告されている。記者は忠実に神の認識と意志を報告していると自覚しているが、善良な被災者は自らの落ち度を見出し得ないと主張するかもしれない。しかし、聖書に親しむことにより神はそう看做してはいないということに習熟することが求められる。ただし、読者は神の言い分に道理のあることを求めるであろう。被災者のなかには軽微な罪を犯したと神に看做されている者たちも含まれようが、誰に対しても神は一切を正確に知っており、しかも憐み深く、終わりの日に正確な審判を下す、そのような神であることを求めることは道理ある。というのも、神により創造された人類は理性をもった存在者だからである。心魂の一部を構成する理性を納得させることのできない神は神ではないであろう。
宇宙の創造者であり万物を支配、統治している神は、その定義上、現代科学により解明されている自然法則を用いて人類の歴史に関与することができることは明らかである。当時の記者たちはプレートテクトニクスも天文学や宇宙物理も知らない。彼らの認知的制約のなかで歴史物語として神と人類の関わりを描かざるをえなかったことも理解されよう。そして当時の記録者を含め人々は一つの自然事象を神の懲罰として受け止めたことも明らかなこととして同意されよう。これらの受けとめを為してきた者たちの記録をも含め人類の歴史はその報告とともに、即ち後代の人々の認知的理解に影響を与えつつ展開していく。
その後の時代にも自然的災害は頻発し、また理不尽に思える幼児の死など到底承認できない死が頻発して今日に至る。現代のわれらは地球の歴史に終わりがくることを確かなものとして知っている。そのとき生存者がいたとして、生きている者はすべて自然災害により死に至ることも知っている(ただし、人為的災害により終わってしまうかもしれないが、それも何らかの自然的な力能の利用による一切の死である)。科学的説明ができる現代においても、神の関与の何らかの意味付けが探索されよう。そしてそれは個々人の良心に委ねられている。神は自然事象を介して何らかの意志を知らせることができるからである。
まず確認すべきことは疫病で苦しむひとは具体的な個々人である。明らかなことは自然災害が生じたとき、被害者である個々人と神の関係において彼らは自らの責任において、神の懲罰であるのか、或いはただの偶然であり不運によるものか、それともはたまた何であれ人類の歴史は理不尽なもので満たされているとするのか、いずれかのものとして解釈する。聖書記者たちは神の罰として伝えたが、そこに神の憐みをも見ていた。個々の出来事を介して聖書記者が受け止めた限りの神の具体的な介入を報告しており、神の理論化は試みられてはいない。明確な神学の形成を可能にするのは自己完結的な神が明らかにされた限りにおいてである。神話や歴史物語においては神は後悔したり、意見を変えたりする人間的な姿で描かれることを許容している。神の怒りや憐みはそのような具体的なやりとりのなかでしか表現できなかったからである。神は人格的な自己完結性においてご自身の人類に対する認識そして愛を御子の派遣において十全に知らしめている。神についての理論化はまことの人にしてまことの神の子の媒介者においてのみ展開されうる。
旧約聖書が伝える祝福と懲罰の積み重ねの歴史の展開によれば、これらの解釈の選択肢のうち神の意図にかなっていると看做されるのは、何らか福音との関係において肯定的に人生を捉え直す限りにおいてのことである。旧約聖書の登場人物たちは少なくとも自らの自然的、人的災難を懲罰として受けとめたのであり、自ら悔い改め立ち返り、さらには預言者として同胞にそう呼びかけている。彼らの自覚として神が懲罰から恩恵にいたるよう関与したことは確かなことである。これは後にヨブの分析を介して確認する。
神の意志としてもっとも明白に知らされたことがらは神自身の専決行為である御子の派遣を介した歴史的展開である。これはそれまでの個々人の神との関わりによって報告された自然的事象を媒介にした出来事よりも神の意志を明確なものとして伝える。ノアの洪水やソドムの隕石による滅びという一つの自然的な出来事が神の意志の顕れであるかどうかは、神自身による御子の派遣という神の専決行為ほどには明確ではない。或いはより適切には自然災害などの苦難を神の懲罰として受け止めるかの正しい理解は福音の啓示との関連におかれる限りにおいてのことである。神の憐みに触れる限りにおいて、懲罰は正しく理解される。
聖書の読者は問われている、個々人についての神の認識については十全には知らされてはいないそのような神と関わっていくかという仕方で。人類はその認知的不十全性を信仰により突破してきたのである。歴史は災いによる死者たちとそれを生き延びた者たちにより信仰において不信仰において構成されていく。全体として一方向に秩序ある仕方で歴史が進行している限り、そこに神の意志の実現の道理ある過程を見て取ることはできる。
最も明白に知らされた御子の派遣という神の専決行為は人類の罪を贖うために遂行されたものである以上、この知らしめに立つ限り、それまでの歴史にも神の訓育、祝福と懲罰による導きを理解することは道理あるものとなる。かくして、死の二重性をめぐる問いはすべてイエス・キリストの問いに収斂することが明確となる。ひとは問われている、福音の啓示はわれら個々人ひいては人類の罪を贖い、罪の給金としての死に打ち勝ち、復活の主と共に新たな生を生きるものであることを信じるかと。福音による救いの経験は前史における神の関与とその報告も道理あるものとして理解されるに至る。旧約聖書は新約聖書において報告される神の決定的な歴史への関与からして理解されるべきことを確かなこととして確認できる。
旧約聖書の登場人物はその意味において手探りに歴史の導きを試行錯誤のうちに模索していたことになる。知らされていない救いを求め待望のエネルギーは蓄積されていったに相違ない。彼らは現実の生を神の約束に頼りつつ、その代弁者である預言者たちに頼りつつ、展開していく。死後についてもほとんど告げ知らされてはいないなかで、彼らは今・ここにおける神の憐みを求めて生きていた。
4.6旧約における死後の世界の思弁をブロックするもの
死は神の領域であり、聖書では一様に霊媒や口寄せ等死者と交流する者たちは汚れであり、理にかなわないものとして軽蔑される。「あなた方のあいだに、自分の子女に火の中を通らせる者、占い師、卜者(ぼくしゃ)、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない」(Deut.18:11、同様にLev.19:31、20:6、20:27、2Ki.21:6、23:24、2Chr.33:6、Isa.8:19、19:4参照)。死後の世界との交流を遮断したこの理性的な対処にこの民族の特徴を見出す。この民族が魔術や偶像をさらには恐怖などの過剰なパトスに由来する迷信を排し、生きた神との現実感の中で生きた交わりを結ぶことにこそ生の中心を置いていたことが確認される。
ダビデ王はバテシェバとの子供が病気で死ぬまでは断食し、塵灰を被り生還を祈り続けたが、死を知らされると気持ちを切り替えている。「子が生きている間は主がわたしを憐み、生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ断食して泣いたのだ。だが、死んでしまった、断食したところで何になろう。あの子を呼び戻せようか」(2Sam.12:23)。彼らは死後については神の事柄として禁欲しつつ、この人生の導きを祈り求めている。詩人は言う、「あなたは、わたしの生命を死に渡すことなく、あなたの聖者が朽ちることを許さず、生への道を教えてくださる」(Ps.16:10)。このリアリズム(現実主義)は信仰からくる。一挙手一投足が神との関わりのなかにあり、神の認可においてないときは、一回しかない現実の歴史においては、ありえた世界の夢想に耽溺することなく祝福を求めて次に進むしかないのである。
詩人にとって生きることは神に賛美を帰す機会であると捉えられている。「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐みを乞います。わたしが死んで墓にくだることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ、あなたの真実を告げ知らせるでしょうか」(Ps.30:10)。「あなたは死者に対して驚くべき御業をなさったり、死霊が起き上がってあなたを讃えるでしょうか。墓の中であなたの慈しみが、滅びの国で、あなたの真実が語られたりするでしょうか」(Ps.88:11)。生きている限りにおいて、一切を支配し導く神に賛美を捧げることができる。そのなかで祝福を頂くことができる。
日曜聖書講義 2021年10月3日 秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(2)神義論―自然災害と懲罰としての生物的な死―
日曜聖書講義 2021年10月3日
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(2)
神義論―自然災害と懲罰としての生物的な死―
[先週の復習を兼ねた部分]
2.2 懲罰としての生物的死と永遠の生命
聖書の死生観の最大の特徴そして躓きは、死とは神への背きに対する懲罰という理解である。パウロは言う、「ひとりのひとを介して罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯した故に、死はすべての者を貫き通したのである。というのも、律法[が与えられる]までにも罪は世界にあったのであり、律法が存在しないため罪は告訴されていないが、しかし、死は、アダムからモーセに至るまで、アダムの背きと同じ仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配したからである」(Rom.5:12-14)。神の判断として一方で罪には軽重があり、他方すべての者は罪を犯したと神に認識されており、その後信仰により義とされた者たちも、過去に犯したどれほど軽微なものであるにしても罪の故に懲罰としての死を免れなかったと報告されている。
神に背く者の懲罰は擬人化される罪への、勝手にせよと、「引き渡し」という仕方で遂行される(Rom.1:18-32)。パウロは旧約聖書に基づき罪の懲罰としての死を罪への隷属に対する罪からの「給金(報酬)」という理解を提示し、神に仕えることの果実としての「永遠の生命」を対抗させる。「永遠」についてここでは語りえないが、北極星をめぐる星々や掛け時計等の規準運動に基づきより先とより後の今を個々人が数えることにより時間の経過を認識するが、もしそのような運動の前後を心が測らなければ、幅のある今を生きることになる(千葉惠「時間とは何か―クロノス(運動の数)とカイロス(永遠の徴)―」『時を編む人間』田山忠行編 pp.217-247北大出版会2015、『信の哲学』上巻p.412(北大出版会2018))。
パウロは神の前の出来事つまり神による人間認識の啓示を括弧にいれて、「わたしは汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)という自然的な肉の弱さへの譲歩のもとに人間中心的に語ることがある。「肉」とは「土」と呼ばれる根源物質から構成される身体を持つ自然的な存在者の自然的な生の原理のことを言う。そこではパウロは「義の奴隷」か「罪の奴隷」かいずれかに属しうる責任を担う自律的中立的な存在者として人間を捉え、その隷属の帰結は死か永遠の生命かであると提示することにより義の奴隷となるよう励ます。
「汝らはまさに汝らの肢体を無律法に至る不潔と、無律法に奴隷として捧げたごとくに、今や汝らの肢体を聖さに至る義に奴隷として捧げよ。というのも、汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であったからである。では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである。しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さに至る果実を持している、その終局は永遠の生命である。なぜなら、罪の[奴隷への]給金は死であるが、神の賜物はわれらの主キリスト・イエスにある永遠の生命だからである」(Rom.6:19-23)。
ここでの課題は、神への背きを介して罪の奴隷となることにより、生物的な死は懲罰として与えられるという主張を正しく理解することである。罪の側から言えば、生物的死は擬人化される罪が自らの奴隷に対する給金、報酬であり、「よくやった、神に逆らった褒美をやる」というものであるとされる。それは単に生物的に息を止めるということではなく、「給金」はこの生物的死を介してお前を愛したでもあろう神に対し永遠の滅びを宣告させること、神にダメージを与えることに対する報酬を含意するであろう。神への背きである罪の勢力を増させること、それは神による懲罰としての生物的死を契機にして、神に反抗することに他ならない。「彼らは誰であれこのようなこと[前節で列挙された17種の悪行]を行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではなく、行う者たちを是認さえしている」(Rom.1:32)。パウロは「サタン」についても「われらは彼の思考内容を知らないわけではない」と言う(2Cor.2:11)。
この死を神の側から言えば、御子の派遣により罪に勝利したのであり、パウロはその啓示の知識を前提に責任ある自由のもとにある人間にサタンの計略にはまるな、罪を乗り越え永遠の生命を獲得せよと命じることができる。聖書は死をこのような神への反抗の帰結として理解し、恩恵に基づきその克服を展開している。
はじめに旧約聖書における死生観を確認し、この死の二重性と生の動的な関わりを明らかにしたい。死の二重性は道理あるものであるのか。死生観にいかなる変遷ないし強調点の展開が見られるのか。聖書の旧および新約聖書が展開する人類の歴史は神の計画のもとに一貫したものとして理解できるか、これらを明らかにしたい。
[今週の議論]
3自然災害や理不尽な死は神の懲罰であるか
3.1 神義論序説―神は本当に正しいのか―
自然災害や疫病による死や理不尽な死さらに幼児の死も神の怒りや懲罰であるのかが問われてきた。隕石や洪水のような自然災害であれ病気であれ、その死は罪の奴隷になったことの懲罰なのであろうか(e.g.,Exod.5:3,2Sam.24:15,Ps,106;29)。親に捨てられ亡くなる幼児の死にさえひとはそれを主張するのであろうか。これは死の二重性理解の大きな躓きとなっている。
人類の悪の蔓延りに対する神の怒りがノアの洪水を引き起こしたと報告されている。また紀元前1650年頃死海近辺のヨルダン川東岸にあったと思われるソドムとゴモラの町がその悪に対する神の怒りのもと硫黄の火により滅ぼされたと報告されている。この「硫黄の火」は近年の考古学的研究により隕石の落下であることが明らかになってきている。神は人々の不法に怒り隕石を落とし、洪水を引き起こすことがある、と聖書記者により報告されている。
神はノアの家族を生き延びるように箱舟の建造を命じるが、そのとき「すべて肉なる者を終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らの故に不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(Gen.6:13)。またソドムについて神は三人の使いを介してアブラハムに告げた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びがとても大きい」(Gen.18:20)。彼は神に願い、五十人の義人がいたとしても滅ぼすのかとソドムの都のために執成す。彼は義人の存在を十人まで値切り、神から「その十人のために滅ぼさない」との応答を得ることができた。しかし、ソドムにはそれだけの義人を見出しえなかった。
ダビデの時代にイスラエルにおいて北の端であるダンから南の端であるベエルシェバまで疫病がもたらされ七万人が死んだと報告されている(2Sam.24:15)。「御使いはその手をエルサレムに伸ばして滅ぼそうとしたが、主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言った、「もう十分だ、その手を下ろせ」」(24:16)。この物語や義人の値切りにみられるように、旧約において神は擬人化されており、意見を変え得るものとしてあたかも人間であるかのごとくに描かれている。旧約においては、永遠の現在にいまし、一切を知り全能の神の理論的な議論は展開されることはない。当時の神は神の民ユダヤ人との交わりの歴史の展開において自らを譲歩により柔軟な神として描くことを許容している。人間化された神とまさに肉の弱さにおいてある人間のやり取りのなかで、歴史物語はこのように懲罰と憐みの神を報告する。ここに神は厳格というよりも恣意的なのではないのか、罹患させる者とエルサレムに住むそうでない者のあいだに依怙贔屓があるのではないかと問われよう。これらが神の義をめぐる神義論を要求する。生死の問題は神は本当に正しい方なのかという問いを引き起こしている。
3.2 福音の啓示に基づき懲罰としての死を理解する
自然災害や幼児の死がいかに位置付けられるかは、神はそもそも正しい神であるのかをめぐる神義論として論じられている。もし神が公平であり正義でありさらに憐み深くあるなら、当事者即ち此岸性の視点からは理不尽に思える災害や苦難そして死も何らか明確に理解されうるものとなるに相違ない。神義論は理不尽な歴史的事象のみならず、パウロの所謂信仰義認論をめぐっても論争が繰り返されている。パウロにとって神が義・正義であることを確立することは重要な論証課題となっている。ここでは最初に旧約における神の義と人類の死をめぐる理解を提示し、パウロの神義論の基本的な理解の方向を続いて紹介する。
聖書の報告によれば、旧約から新約の歴史はユダヤ民族にその都度必要とされるものが神により知らしめられており、神の意図の十全な展開は時が満ちて御子の受肉と受難そして復活において最も明白に知らしめられている。この民族の歴史は前史を持ち創造、人類の始祖の背きと懲罰としての楽園追放、その制約のもとでのアブラハムの召命に始まる。族長時代を経てモーセへの律法授与、背き、悔い改めの連続のなかで時が満ちて御子の受肉が生起しており、神の意志の民族におけるまた民族を介した世界への知らしめとして持続的かつ発展的にしかも一直線上に展開している。それは新約の出来事が常に旧約の律法や預言の成就として位置付けられることに確認される。理不尽な死も福音の啓示に向かう一つの捨て石或いは構成要素であったことが理解される。
ここでは旧約において報告されている擬人化された神と個々人との関わりは一つのことであり、他方神による世界に対する自らの認識や意志の知らしめは別のことであることを基本的なこととしておさえておこう。神は自然災害を用いて何らか関わるであろうが、その神による懲罰はあくまで個々人の責任ある生に対して向けられている。アブラハムによるソドムの義人の値切りの話は、恐らく一人の義人のみでも、神は町を滅ぼすことはなかったであろう。その値切りにおいて義人が罪人の罪を贖うことは直接には語られないが、少なくとも義人への神による嘉み、憐みを含意しており、それは罪人への罰を神に思い留まらせる一要素であることを伝えている。個々人が自然災害や理不尽な死に対して神にどうかかわるかが残されている。
こう語ることができるのは、神の意志は御子の受肉と受難そして復活において最も明白に知らされているからである。神が福音において知らせたことはどんな災害においても、どんな不運においてもそれを乗り越えることのできる普遍的な救済であった。個々人の災難と神の力能における普遍的な救済、この対比は常に念頭に置かれねばならない。パウロは言う、「福音は聖なる書にご自身の預言者たちを介してはるか以前に約束されたものであり、肉に即してダビデの子孫から生まれた、聖性の霊に即して力能のうちに死者たちのなかの甦りに基づき神の御子と定められた御子ご自身、われらの主イエス・キリストについてのものである」(Rom.1:2-4)。「わたしは福音を恥としない。なぜなら、[御子の]福音はまずユダヤ人にそしてギリシャ人にもすべて信じる者に救いをもたらす神の力能だからである」(1:16)。
人類にとってこの神の力能が顕現され、救いが出来事になった限りにおいて、ここの災いは乗り越えられるものとして位置づけられる。イエスは永遠の生命を約束する。「わたしは一人ではない、父が共にいるからである。これらを汝らに語ったのは、汝らがわたしのうちに平安を持つためである。汝らはこの世界にあって苦しみを持つ。雄々しかれ、わたしは既に世界に勝っている」(John16:32-33)。
このことは人類の死生観の理解においてもとりわけ重要なことがらである。一般的に幼児に高等数学を教えることがふさわしくないように、神による人類の歴史そしてユダヤ民族との関わりの歴史のなかで、適切な時に適切な介入がなされていると想定することなしに、不可視な神に対する道理ある理解は望めない。この神の歴史への道理ある介入を恩恵と懲罰による人類に対する鍛錬として確認していく。
この展開なしにユダヤ教に母体をもつキリスト教が世界宗教に発展していくことはなかったであろう。パウロにおいてはひとつの神学として神の人間認識が展開されるが、旧約聖書においては歴史物語として展開される
4 旧約聖書の死生観
4.1 生命の横溢
コンコルダンス(字句索引)によれば、聖書には「生命」(「命」)と「死」とその類縁語はそれぞれ約数百回見出すことができる(『 コルコルダンス 新共同訳聖書、聖書語句辞典』(木田、和田監修 キリスト新聞社 1997)。二千頁の一つの書物において均せば二頁に一度はいずれかとその類縁語が現れていることになる。それ故にこの書は生命と死をめぐる書であると言ってよい。一方で、悪行や暴飲暴食が死を招くということや、「ひとの生涯は草のよう、野の花のように咲く。風がその上に吹けば消え失せ、生えていたことを知る者もなくなる」という類の人生の儚さへの言及はアダムの末の誰もが語るであろう一般的な理解である(Prov.11:19,Lev.10:9,Ps.103:15,Job.14:1)。
同様に、民族のリーダーたちは自らの使命の成就として長寿を全うしたが、そのこと自体に祝福された生を見ることも万国共通であろう。ユダヤ民族の始祖「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(Gen.25:8,15:15)。エジプトのファラオの娘の子として育てられたモーセやその後継者ヨシュアそして長老たちの死も生の成就でありその長寿は祝福されたものであった(Deut.34:1-8, Josh.24:29-31)。
生殖を介した民族の繁栄への祝福とリーダーとして民の安寧と繁栄をもたらし、導くべく知力と気力と体力の限りを尽くした人生をまっとうするとき、その生は祝福されたものである。マキアベリは運により君主になった者たちと自らの力量で君主になった者たちの実例をあげつつ、モーセを「運ではなく、自らの力量によって君主になった人々」の一人に挙げている。バビロニアからユダヤ人を解放したペルシャ帝国の王キュロスやローマ建国の祖ロムルス等「卓越している者」、「立派な君主」であるとするが、モーセについては「神に命じられたことがらをただたんに実行しただけなので、彼を論議の対象にすべきではないかもしらない。しかし、彼はひとえに神の恵みにより、神と語るにふさわしい人に選ばれたのであるから、それだけでも賞賛に値するであろう」と特徴づける。マキアベリは彼らの台頭の歴史的状況、好機を挙げつつも「このように、それぞれのよい機会がこの人たちを成功させたわけであり、また一方、彼らの抜群の力量が機会をもたらしたのであった。こうして彼らの祖国は一段と立派になり、繁栄するようになった」(N.マキアベリ『君主論』p.63-4池田廉訳(『マキアベリ』世界の名著16中央公論社1966)。
このように自然的な生命の儚さとそのなかにあってのリーダーとしての成功と長寿の祝福はいずれの民族にあっても共有されるものであろう。人類の始祖アダムとエヴァは祝福のもとにあり、人類の隆盛に向けて生殖も祝福されている。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(Gen.1:28)。もし罪がなければ、ひとの人生はすべて自然のままに祝福されたものであったであろう。
4.2 人類の始祖アダムとひとの心身の構成要素
人類の始祖の誕生神話によれば、神が土に生命の息を吹き込むことによりひとが生きるものとなったとされている。「主なる神は土(アダマ)の塵でひと(アダム)を形づくり、その鼻に生命の息を吹きこんだ。そして人間は生きる魂となった」(Gen,2:7)。G. von Ratは言う「用いられる材料は土である、しかし人間は最初に神の口から神的な息のまったく無媒介的な吹きこみによって「生きもの(Lebewesen)」になった。この七節はかくして、ヤハヴィストには珍しいことであるが!、一つの厳密な定義を含んでいる」。G.v.Rhad,Theologie des Alten Testaments 7 Auflage Bd I,S.163 (Kaiser Verlag München 1978).
人間は地水火風という自然の構成要素と異ならないものにより形成されていることは最も基礎的なこととして共約的に確認できることである。そのことは三十数億年の生命の進化の過程を経ての人類の誕生という理解にも道を備えることになるが、進化の問題をここで論じることはできない(『信の哲学』第二章一節四参照)。ここで確認すべきことは、なによりも、人間の構成要素に関するこの最も基礎的な事態が含意することとして、現代科学が対象とする人間と聖書の伝統のなかでパウロがナザレのイエスの生涯に基づき解明しようとする人間は少なくとも同一の質料的な基礎を持つということである。パウロは旧約以来の伝統のなかで、「最初の人間アダムは生きる魂となった、最後のアダムは生命を造る霊となった」(1Cor.15:45)と語り、生物的な生命原理として「魂」を提示し、またその延長線上に最後のアダムとしてのキリストをさらなる新たな生命の原理となる「霊」として提示している。
人間の心身の構成原理について確認する。伝統的に「魂(phsuchē)」が生命原理として最も基礎的なものとして位置づけられる。そのうえに「心(kardia)」に内属する意識等の心的事象さらには「内なる人間」と呼ばれる心の底に内属する霊的事象が出現する。パウロにおいては「人間」は「最初の人間」とその生物的な死を介して「第二の人間」双方から成り立つと想定されている。第一の人間は「魂的身体」を持ち、第二の人間は「霊的身体」を持つ(1Cor.15:44)。第一の人間アダムは「土に基づき土製の」組成を持ち「生きる魂」となった(1Cor.15:45)。第二の人間は「天から」の者であり、「終局のアダム」と呼ばれるキリストが「生命を造る霊」となったことに基礎づけられる(1Cor.15:47-48)。
この事態は神話的には鼻に吹き込まれた「生命の息」と呼ばれる人間の魂体に関し、生物的な生命に関しては現代科学の知見は日進月歩であるが、現代科学がまだ解明できていないことがらを或いは異なる仕方で表現していることがらをパウロはすでに把握している可能性を否定しない。パウロは「霊」をその心身、魂体を統一する最も基礎的な要素として提示している。聖霊を受けたか否かについて、新約聖書は帰結主義をとっており、愛の実践や平安、喜びの果実を得ているとき、即ち人格的成長が確認されるとき、その証があると主張される(Luk.7:44,Gal.5:22)。
アダムの存在論的な身分はいかなるものか。土製の自然に還元できるのか。神が土製のものに息を吹き込んで「生きる魂」となった以上、人間は実質的には霊的なものにより形成されている。しかし、聖霊が改めて注がれることは多くの箇所で語られている以上、この創造の息吹は聖霊を意味してはいない。生命原理としての魂のことが語られていることは明らかであり、その息吹は続いて与えられるでもあろう聖霊の注ぎを受ける部位として理解することができる。少なくとも、単に土だけによって造られているわけではないので、何らかの神的行為に対応しうるものが内在していると理解すべきであろう。
実際、次のようにも言われている。「魂的人間は神の霊のことがらを受け取らない。というのも彼には愚かでありそして知ることができないからである、といのもそれは霊的に吟味されるからである。霊的な者はすべてを吟味するが、彼自身は誰によっても吟味されない」(1Cor.2:14)。霊的な人間は最も包括的に人間であることを把握した者であり、人間は肉の魂的な生命に還元されないことを知っている。生命と魂そして永遠の生命につらなる霊について即ち聖書が展開する心身論についてはここで十全に議論することはできない(『信の哲学』第四章パウロの心身論)。
秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(1)―聖書の死生観における死の二重性序論―
2021年度秋学期最初の講義原稿をアップします。録音は脱線しつつ自由に話しています。聖書の死生観についてクリスマス頃まで連続で講義予定です。なお、改定日10月3日には先週の録音の文章より改善しています。録音は変えられないため、文章により改善することにより、連続講義に対応させていきます(9/26改定日10/3)。
日曜聖書講義 2021年9月26日
秋の連続聖書講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(1)
―聖書の死生観における死の二重性序論―
千葉 惠
「わたしは裸で母の胎をでた。また裸で帰ろう。主与え、主取りたまう、主の御名は褒むべきかな」(Job.1:20)
「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、なかにはいっても、主イエスの遺体が見当たらなかった。途方にくれていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ生きておられる方を死者のなかに捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」(Luk.24:2-6)。
1序―死生観のありうる立場のなかでの聖書の特徴―
1.1 生と死の動的な関わりの探求
2021年夏、疫病の蔓延で適切な医療を受けられず、感染することさえ許されない状況がわが国においても出来し、死は何か身近なものとしてひとびとを不安と恐れに陥れている。日常生活に訃報の報せが日々飛びかい、ひとの意識活動は感染防止の生活、日々の糧の摂取即ち延命処置に費やされている。よく生きるために働いているはずなのに、身体及び精神活動の制約のなかで死の影に怯えつつ死に向かって生きている。医療崩壊のみならず、生が死に飲み込まれる人生崩壊の兆しさえこの国に広がっている。
それでも心はかつて疫病や過酷な歴史に苦しんできた歴史上の人々と変わらない。死の不安や恐怖は身体の衰えとともにこの生命が途中で燃え尽きてしまうことに対する未練とともに湧き上がろう、或いは死後まったく無に帰するのかそれとも厳粛な法則のもと人生に対する公平な審判が遂行されるのか、神に対する畏れがこれまでの生に対する後悔や感謝、さらには賛美と共に湧き上がろう。
孔子は、弟子の子路が死について尋ねたとき、「わたしは生を知らない、どうして死について知っているだろうか」と応えたと言う(『論語』11-11)。われらの生はその始まりと終わりにより囲まれているが、知らないもの即ち「出生前」と「死後」に囲まれている。この当たり前の事実が人生の醍醐味を伝える。われらが生まれる時、肉の父母を選択できない、さらにはその諸条件や環境を選択できない。この不平等さに面して、或る者は自らの誕生を呪うであろうし、或る者はその境遇を感謝することであろう。しかし、この事実は例外なしにすべてのひとに適用されることに直に気づく。この意味において、ひとは等しい者として造られている。個々人の差異はその唯一性を形作っている。
われらはわれらの人生の出発位置における差異がもたらすであろう或る意味における不平等な帰結を否定できないけれども、それぞれの個々人の唯一性はわれら個々人にとって貴重なものと捉えられうる。もしわれらが、そのもとに皆が正確にして公平に考慮されうる平等主義的規準を何らか打ち立てることができるなら、われらの人生はまったくわれら個々人の責任に帰せられることになる。人類の歴史において人々は秩序ある社会を維持すべく、象徴的には「朕は国家なり」という行政、律法、司法一切をわが物にする動きに対抗して、この平等主義的な観点を宗教においてまた社会契約説等の政治制度、社会活動においてそして心魂の在りようの哲学的また科学的考察を通じて打ち立てようとしてきた。
死後についてなにがしか語ることは宗教の大きな仕事であるが、神など超越者をめぐっては、三つの態度が考えられる。対立する二つの立場を突き詰めると、一切を正確に知り公平な審判を遂行する一人の存在者がいるという唯一神論としての有神論がある。他方、個々人の一切はこの生の活動期間ののちに無に帰するという無神論がある。双方とも明確な信念のもとに生を構築する。第三の立場として神についてはひとは知りえないという不可知論がその間にあり、最も理性的な態度のように見える。しかし、不可知論は神が存在する、それ故に死後神の前に立ち何らかの審判を受けるという想定のもとで、日々迫られる個々の行為を選択するという生を構築できないため、有神論を懐疑においてであれ真剣に受け止めない限り、事実上、無神論に吸収される。
無神論に基づく死生観はここで展開する有神論の論述の否定として理解される。不可知論は判断保留のまま生を遂行する。孔子の立場は生が何であるかを知れば、死を理解できるかもしれないというものであり、強い不可知論ではない。とはいえ、これらの立場は生を死によって知り、死を生によって知るという動的な関係において捉えてはいない。ひとは、一方で過酷な生のゆえに死を望むことがある。そこでの暗黙の前提には死は一切の消滅であり生が持つ過酷さをもたないかのごとき希望的観測がある。そうかもしれない、そうでないかもしれない。
他方、確かに生は常に死に向かっているが、その死が一刻一刻迫っているという事実が、生に意味を与え死に飲み込まれない肯定的な生の構築に向かわせる。その意味で死の何らかの理解が生を構成している。生と死を包括的な視点から捉えることにより、生死の分断を免れることができる。ひとはそのような総合的な、しかも前向きな理解を求める。実際、ひとは生きていることの充実感を得るには未来に時間が開かれているという感覚を必要としている。死はその前向き、肯定的な生の構成要素でありうる。神は人類の歴史においてそのような機能を担ってきたのであり、懐疑においてであれ有神論を真剣に考慮する或いは信じることのみが生死を真剣に受け止めることを可能にさせる。換言すれば、神を相手にするのでなければ、生死を動的な連関のもとで総合的に受け止めることはできない。「総合的」とは人類の歴史を考慮しつつそのなかに個人を位置づけ、各自が神への信仰、眼差しのなかで個々の古き自己の死と新しい自己の生命の再生の経験のフィードバック(送り返し)を介して全体としての自己理解を形成深化させることである。その経験とは例えば「「わが足滑りぬ」と叫んだとき、主よ、汝の憐みわれを支えり」という類のものである(Ps.94:18)。ひとはそれぞれ個人史を持つ。
1.2 一神教の歴史のなかでの確立
今理性のみによる神の存在証明を遂行できないが、ここでは有神論しかも唯一神との関わりにおいてひとの生死を位置づけている聖書の死生観を考察したい。一人の神のみを拝するということが聖書の民族の最大の特徴である。「わたしはヤハウェである。わたしの他に神はない、一人もない。・・わたしは光を造りまた闇を造る、平和をもたらし、災いを造る」(Isa.45:5-7)。旧約聖書には一人の神の働き即ち啓示行為の報告で満ちているが、一神教という教義が理論として展開されてはいるわけではない。「神は一人である」(Rom.3:30)。一人の神しかいないということは神の統一的な働きに対する個々人の歴史を介しての認識と承認のなかで確立されていったと思われる。アブラハム、イサク、ヤコブそしてヨセフという個々人においてもその集積である民族においても、人生の流れの中で一人の神を相手にしているという認識が与えられてきたのだと思われる。個人のまた民族の歴史が或る一つの流れをもっており、そこに常に同一の神が関与していることの報告が聖書において蓄積されている。
ここではそれを待望と成就という一直線の歴史の展開において確認する。それがいかなる準備のもとに神の子の啓示を待望したのか、そしてみ言葉の受肉と受難に続く復活がどのような生と死の理解を人類にもたらしたのかその解明の道筋をつかみたい。神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導きたまう。ユダヤ人の歴史は御子の派遣に向かっており、その後は新天新地の創造における御子の再臨に向かっている。浅野順一は言う、「聖書の宗教は歴史に根差す宗教であり、その啓示は歴史的である。歴史を離れて啓示の観念は成立しない」(浅野順一『イスラエル預言者の神学』p.3(創文社1955)。ここでは数回にわたり、世界宗教となる契機の事件となったキリストの復活、甦りに至る、聖書に報告されている人類およびユダヤ民族の歩みを考察する。
2 聖書の生死の基本的理解と躓き
2.1 神に導かれる歴史と個々人の責任―死の二重性―
聖書の死生観は神が歴史に関わるその経過の中で形成されており、人類そしてユダヤ民族の歴史とともにその死生観も変遷、成長しうるものである。紀元前1700年頃からのアブラハム以来の歴史の展開において民族の苦難や立ち帰りを通じて救済の福音への収斂を確認できる。旧約聖書において、神は個々人の責任における神への畏れと律法の遵守をめぐって祝福と懲罰において関わっていることが縷々報告されている。そこには一貫してモーセ律法に見られる神の意志の遂行が問題とされており、それは唯一の神による自らの民への関わり方が或る統一的な計画のもとに遂行され展開されていることを含意する。御子の福音の啓示にすべてが向かうものとして秩序づけられるとき、理不尽に思われる個々人の死も理解されうるものとなる。神と個々人の関わりとその理解は個々人の責任に帰せられるが、福音の啓示は全人類に向けられており、神の意志がそこにおいて最も明白なものとして知らされている。「神は独り子を賜うほどこの世界を愛した、それは彼を信じる者がすべて滅びることなく永遠の生命を獲得するためである」(John.3:16)。ひとはこの福音によって自らの生死を理解するよう促されている。
生物的な死は自然的なものである。それは自然科学によって解明されうるものであるが、聖書の報告によれば、生と死は「産めよ、増えよ、地に満てよ」という生の祝福のもと長寿を全うするそのような自然的な理解とともに、生の困難とその帰結である死は神への背きとしての罪に対する懲罰であると理解される。われらが土から生まれ土に帰り、それで終わりであることを自然的であると理解していても、福音において明らかにされたように永遠の生命こそ人間の本来性であるという理解を持つ神にとっては自然的な死即無という理解は残念なことであり奮起を期待しての懲らしめ、懲罰を意味することになる。これを「死の二重性(duality of death)」と呼ぶ。
他方、罪から自由にされた義人の生物的な死は眠りとなる。死を懲罰として捉えることは、その罪が赦される限り、その死を乗り越えることができるものであり、自然的な死は人類にとって、最後的なものではないことを含意する。罪赦された者は「新しい被造物」として新しい生を生きる(2Cor.5:17)。そして罪赦されたことの証は隣人を愛しうることであるとされる(Luk.7:47)。
この意味において死は生を変革する力を持ち、人生は罪の値としての死を乗り越え、永遠の生命を獲得することが目標となる。イエスは端的に言う、「ひと[心]が全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひと[心]は自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えることになるのか」(Mat.16:26)。彼はまた言う、「身体を破壊しても魂[生命の源]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:28)。
聖書は生と死を分断することなく、双方を全知であり全能である創造者にして救済者である神との関わりにおいて捉える。預言者エゼキエルはバビロン捕囚のただなかで神の言葉を取次ぐ、「すべての生命はわたし[神]のものである。父の生命も子の生命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その者は死ぬ」(Ezek.18:3)。エレミヤはバビロン王ネブカドレツァルの侵攻を預言し神の言葉を取次ぐ。「見よ、わたしは汝らの前に生命の道と死の道を置く。この都に留まる者は戦いと飢饉と疫病によって死ぬ」(Jer.21:8)。生死は神に属するものである。「何ごとにも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時がある」(Eccl.3:1-2)。
個々人の一切が神の経綸のもとにある。死への恐怖は怒る神への恐怖であったのである。「[業の]律法は怒りをもたらす」(Rom.4:15)。「信の律法」に基づく神との和解は死を乗り越えさせ平安を得るに至るものとなる(Rom.3:27)。聖書にはひとびとがその死を見ない平安な退去としての死が報告されている(Gen.5:24)。死が複層的に受け止められるとき、「一つの夜[死]が万人を待つ(omnes una manet nox)」(Horatius)という、そして、後がない一回限りの生を燃焼させ歴史に名を残す「千載青史に列するを得ん」(頼山陽)という単純なものではなくなる。個々人の生と死が一つの計画、一つの経綸のもとに置かれるとき、いかなる生の努力も風化し無に帰するという空しきものとはならなくなる。生きた証として、永遠の相のもとにあるこの美しい地球とその歴史にただ真実なもの、善きもの、美しいものだけを遺していきたいという思いに清められることであろう。
なお、もし一切が予め定められロボットのように神の計画に組み込まれるだけの人生であるなら、それはまた空しいのではないかという懐疑が提示されよう。それに対しては肉の弱さに譲歩して人間中心的に語る限り、ひとは選択において自由な行為主体であることを確保でき、また個々人の救いをめぐる神の認識は福音の啓示においてほどには誰にも明確に知らされてはいないということにより応答できる。そこでは「畏れと慄きをもって救いを全うせよ」と命じられうる(Phil.2:12)。ひとの人生は各自の責任においてある。
2.2 懲罰としての生物的死と永遠の生命
聖書の死生観の最大の特徴そして躓きは、死とは神への背きに対する懲罰という理解である。「ひとりのひとを介して罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯した故に、死はすべての者を貫き通したのである。というのも、律法[が与えられる]までにも罪は世界にあったのであり、律法が存在しないため罪は告訴されていないが、しかし、死は、アダムからモーセに至るまで、アダムの背きと同じ仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配したからである」(Rom.5:12-14)。神の判断として一方で罪には軽重があり、他方すべての者は罪を犯したと神に認識されており、その後信仰により義とされた者たちも、過去に犯したどれほど軽微なものであるにしても罪の故に懲罰としての死を免れなかったと報告されている。
神に背く者の懲罰は擬人化される罪への、勝手にせよと、「引き渡し」という仕方で遂行される(Rom.1:18-32)。パウロは旧約聖書に基づき罪の懲罰としての死を罪への隷属に対する罪からの「給金(報酬)」という理解を提示し、神に仕えることの果実としての「永遠の生命」を対抗させる。「永遠」についてここでは語りえないが、北極星をめぐる星々や掛け時計等の規準運動に基づきより先とより後の今を個々人が数えることにより時間の経過を認識するが、もしそのような運動の前後を心が測らなければ、幅のある今を生きることになる(千葉惠「時間とは何か―クロノス(運動の数)とカイロス(永遠の徴)―」『時を編む人間』田山忠行編 pp.217-247北大出版会2015、『信の哲学』上巻p.412(北大出版会2018))。
パウロは神の前の出来事つまり神による人間認識の啓示を括弧にいれて、「わたしは汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)という自然的な肉の弱さへの譲歩のもとに人間中心的に語ることがある。「肉」とは「土」と呼ばれる根源物質から構成される身体を持つ自然的な存在者の自然的な生の原理のことを言う。そこではパウロは「義の奴隷」か「罪の奴隷」かいずれかに属しうる責任を担う自律的中立的な存在者として人間を捉え、その隷属の帰結は死か永遠の生命かであると提示することにより義の奴隷となるよう励ます。
「汝らはまさに汝らの肢体を無律法に至る不潔と、無律法に奴隷として捧げたごとくに、今や汝らの肢体を聖さに至る義に奴隷として捧げよ。というのも、汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であったからである。では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである。しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さに至る果実を持している、その終局は永遠の生命である。なぜなら、罪の[奴隷への]給金は死であるが、神の賜物はわれらの主キリスト・イエスにある永遠の生命だからである」(Rom.6:19-23)。
ここでの課題は、神への背きを介して罪の奴隷となることにより、生物的な死は懲罰として与えられるという主張を正しく理解することである。罪の側から言えば、生物的死は擬人化される罪が自らの奴隷に対する給金、報酬であり、「よくやった、神に逆らった褒美をやる」というものであるとされる。それは単に生物的に息を止めるということではなく、「給金」はこの生物的死を介してお前を愛したでもあろう神に対し永遠の滅びを宣告させること、神にダメージを与えることに対する報酬を含意するであろう。神への背きである罪の勢力を増させること、それは神による懲罰としての生物的死を契機にして、神に反抗することに他ならない。「彼らは誰であれこのようなこと[前節で列挙された17種の悪行]を行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではなく、行う者たちを是認さえしている」(Rom.1:32)。パウロは「サタン」についても「われらは彼の思考内容を知らないわけではない」と言う(2Cor.2:11)。
この死を神の側から言えば、御子の派遣により罪に勝利したのであり、パウロはその啓示の知識を前提に責任ある自由のもとにある人間にサタンの計略にはまるな、罪を乗り越え永遠の生命を獲得せよと命じることができる。聖書は死をこのような神への反抗の帰結として理解し、恩恵に基づきその克服を展開している。
はじめに旧約聖書における死生観を確認し、この死の二重性と生の動的な関わりを明らかにしたい。死の二重性は道理あるものであるのか。死生観にいかなる変遷ないし強調点の展開が見られるのか。聖書の旧および新約聖書が展開する人類の歴史は神の計画のもとに一貫したものとして理解できるか、これらを明らかにしたい。
キリストにある一つの体(2)―党派心を乗り越える
キリストにある一つの体(2)―党派心を乗り越える―
日曜聖書講義 2021年8月1日
[録音は自由に話しており、朗読は1と5途中からである。先週アップしたものとは連続性を重視したが、文章としては全体を書き直している。一学期は17回目の本日で終わる。お役にたちうるなら、幸いです]。
聖書箇所
「弟子たちのあいだで、誰が自分たちの中でより偉いか、推し量りが生じた。イエスは彼らの心の推し量りを知って、一人の子供の手を取り自らのかたわらにその子を立たせた。そして彼らに言った、「誰かこの子供をわたしの名のうえで受け入れるなら、その者はわたしを受入れている。誰かわたしを受入れる者は、わたしを遣わされた方を受入れる。というのも、汝らすべての者たちのなかでより一層小さな者である者はその者こそ大きいからである」。ヨハネは答えて言った。「先生、われらは或る者があなたの名前において悪霊を追い出しているのを見たので、彼にやめさせました、彼はわれらと一緒に[あなたに]つき従おうとしないからです。イエスは彼に言った、汝ら妨げるな。というのも汝らに対抗しない者は、汝らの味方である」(Luk.9:46-50)。
1 はじめに
今東京オリンピックたけなわである。爆発的感染拡大のただなかで、日本選手たちは競技に参加しうることを喜び感謝し、その感謝を伝えようとする思いが選手たちの躍進の力になっていると思われる。サッカーの森保監督はそう語っていた。確かに、開催が危ぶまれた状況のなかで、アスリートたちはこの機会を得たのであり、若者たちはそこで輝いている。彼らのひたむきな姿に感動と勇気を与えられる。
登戸学寮の若者たちもそれぞれのオリンピック、甲子園、ワールドカップがあることであろう。或いは、一切の営みに虚しさがつきまとうひともいよう。確かにコーヘレトは言う、「空の空、空の空なるかな、すべては空なり、日の下にひとの労して為すところの諸々の働きはその身に何の益かあらん。世は去り世は来る」(Ecl.1:2)。これらの定まらない思いに対しては、誰もが心魂のポテンシャルとして二番底をもっており、足弱であっても、或いは足弱であるからこそ、「肉」と呼ばれる身体を持つ自然的存在者の生の原理の底に、「内なる人」と呼ばれる神から力をいただく二番底があることに眼差しを向ける。誰もがこの常に刷新を必要とする部位を持っており、心をいつも新しくすることにより、新たな力をいただき自らの目標に日々精進することができる。
ひとは言うでもあろう、アスリートたちは朽ちる冠のためにあれだけ情熱をかたむけているのに、信仰者は朽ちない栄光の義の冠のためにどれだけ集中しているのか、と。確かに朽ちるものと朽ちないものの栄光には差があるであろうが、しかしここでもひとは同じ心魂(こころ)を持っていることに注意を向けよう。パウロは言う、「汝ら知らぬか、競技場で走る者たちはみな走るが、一人が賞を獲得する。汝らそれを獲得すべくこう走りなさい。すべて競技をする者はなにごとにも自制する、かくして、彼らは、かたや、朽ちる冠を獲得すべく、われらは朽ちぬ冠を獲得すべく自制する。それ故、わたしは定めのない漫然とした仕方で走ることはない、わたしは空を撃つそのような仕方で拳闘をすることをしない。むしろ、他の人々になんらか宣教しながら、自ら失格者とならないように、わたしはわが体を拘束する」(1Cor.9:24-27)。朽ちる冠であれ、朽ちない冠であれ、目標を定めそれを獲得するひたむきさ、集中の様式は変らない。このことは朽ちない冠をめざすのであれ、自ら自制しつつひたむきに習練するアスリートは朽ちない冠を得るよい訓練をしているということを含意する。求める方向さえ変われば、それまでの自制と修錬は朽ちない冠にむけても有益であることであろう。信仰は自らの生の方向、まなざしを天に向け、まず神との正しい関係の確立を求める。そして心魂における信の根源性は常にそこに立ち帰る以外に心の刷新はないことを含意している。信仰はそこにおいて神の意志、愛が知らされている受肉した神の御子イエス・キリストを介して神に眼差しを向ける。
信仰の世界は幼子の世界であった。幼子が天国の上客であった。小さい者を受入れるとき、イエスを受入れると言われていた。イエスは小さな者を受入れ愛することは自分を受入れることだと言う。この地上で小さい者は天国で大きい偉い者であると彼は主張する。そのことを明らかにすべく彼は自ら父とともにある偉大なる栄光を捨てて自らひととなった。イエスは小さい被造物ひととなった。イエスは十二弟子を伝道に派遣し、その成果の報告を受けたとき、大きな喜びに捕らわれたことが報告されている。「そのとき、イエスは聖霊によって喜びに溢れて言われた。「天地の主である父よ、褒めたたえます。汝はこれらのことを知恵者や学識ある者には隠して、幼子たちに顕されました。その通りです、父よ、というのも汝の御前に[汝の]嘉みしたまうものごとがこうして生起したからです」 (Luk.10:21)。
われらは競争世界のなかで少しでも大きな者になろうと努力しているのではないだろうか。しかし、二番底、「内なる人」の力を信じる者は、自然な欲望によってではなく、清められて生きることこそ魅力に思えてくる。イエスのようになる者は小さな者たちを受入れる。ひとはここに躓くが、二番底に生起する信仰は他者との競争のことがらではなく、神との端的な関係である限り、ただ心魂の根源における信頼し委ね任せまつるそれだけでよいということが全知であり全能の神との関係においては相応しい。
今日も信仰と憐みについて学んでいきたい。先週の続きであり、共同体はイエス・キリストにあって一つの体を形成するとき、各器官、各部位は有機的な働きのゆえに、力を発揮するものとなることを学びたい。一つの体を構成するには相互のリスペクトが不可欠である。とりわけ、人間的には小さい取るに足らないと思われる者こそイエスは招き給うのであるから、われらの心が清められ、キリストの思いが自らにも働くことを求める。
2 イエスの柔和こそ平和を造る
憐み深いイエスに従う歩みは共同体において、キリストを首(かしら)とする一つの有機体を形成する。各自はその統一的な生命ある有機体の各部位として自らの特徴を用いて活動し、その体につらなり貢献する。それによりイエスによるご自身が神の子であるという信とそれに基づく憐みは、ひとに特権意識ではなく、低くなることを教え、自らのグループの特権的な自己栄光化を阻み他のグループを見下す党派心を乗り越えさせる。
イエスは弟子たちによる伝道がこの世界で重く見られない幼子のような者たちを介して実現されていること、すなわちこの世の権力を介せずに実現されていることを賛美した。それ故に、これらの栄光が権力者たちに憎まれ妬まれ彼に苦難の道を強いている。権力者たちに媚び諂い、彼らに奇跡をなす権能を与えることはなかったからである。
福音とは、博識な者や立派な者たちのものではなく、モーセの業の律法を突破するものとして、他に縋ることのできない罪人を招く信の律法のことである。心魂の根源に信が生起するとき、救いの確かさのなかで平安と喜びが出来事となるまさにそのものであった。心魂の根底が偽りから、裏切りから解放されるのは、「目には目を、歯には歯を」のように常に比較考量のもとにある業のモーセ律法の遂行によってではなく、比較を絶した善が、恩恵としての罪の赦しがこの世界に実現しそしてその確かさへの信に基づき、人生の一切を秩序づけるときである。この世のものに頼るものがあればあるほど、ひとはこの根源的な信に立ち返ることが難しい。「祝福されている、その霊によって貧しい者たち」(Mat.5:3)。この世にすがるべきいかなる者も持たない者、この世のいかなるものによっても満たされない者、そういう者たちが神を求める。
福音はこの神への眼差し求めがイエスにおいて成就されたと告げ知らせる。イエスは「天の父の子」にふさわしいはずの平安と喜びそして愛がこの地上にはなく、羊飼いのいない羊のように彷徨っている群衆に深い憐みを感じた。そして、天国について教え始めた。「群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れみ」、「彼らに多くのことを教え始められた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。その憐みのなかでの神の国の宣教すなわち神の国がどのようなものであるかについての「教え」とそれがもたらす知識は弱ったひとびとを救いだす力である。イエスの憐みは天の父の子がいかなるものであるかの知識と、それとの対比、コントラストにおいて、何も知らずに彷徨っている人々を見たことのギャップから自然に湧き出てくるものであった。
彼のこの憐みのパトスと平和と柔和な心持こそ、ひとびとのあいだの争い、諍いそして憎悪さらには国内での分派、分裂、さらには国家同士の戦争のうちに時を過ごす人々の悲惨な現状を克服したいという意志が彼の公生涯を特徴づけた。「河あり、その流れは神の都を喜ばしめ、至上者(いとたかきもの)の住みたまふ聖所をよろこばしむ。神そのなかにいませば都は動かじ、神は朝つとにこれを助けたまわん。もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国はうごきたり、神その声をいだしたまへば、地はやがてとけぬ。万軍の主はわれらとともなり、ヤコブの神はわれらのたかき櫓(やぐら)なり。きたりて主の御業をみよ、主はおほくのおそるべきことを地に為したまへり。主は地のはてまで戦いをやめしめ弓をおをり、矛(ほこ)をたち戦車(いくさぐるま)を火にてやきたまふ。汝ら静まりてわれの神たるを知れ」(Ps.46:4-10)。
神はこの約束を守るべく、御子を地上に派遣された。平和の君は驢馬(ロバ)の子に乗ってくる。イエスは驢馬の子にのってやってくる平和の君であった。「平和を造る者」は山上の説教の第七福であった。その彼の軛に繋がれて歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与える者となる。平和の君だからである。ゼカリアは預言する。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。この神の御子の故に人類は平和への希望を持つことができる。
イエスは彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(Luk.11:28)。
3 キリストにある一つの体の形成
イエスと共にある平安は次第に隣人に伝わっていく。そしてキリストにある一つの体を形成していく。キリストが共にいます限り、ひとは彼を介して一つの有機的な体を構成すると考えられている。その特徴はパウロによれば同じ思いを持つということ、即ち、キリストとの関連において一切を考察するようになるということである。「われらの主イエス・キリストによってわたしは汝らに勧める、それは汝らが皆同じことを語りそして汝らのあいだに分裂がなく、汝らが同じ叡知においてまた同じ認識において秩序づけられてあるためである」(1Cor.1:10)。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮する[に至る]ためである」(Phil.2:1)。
キリストへの帰一的なかかわりを持つ限り、ひとはそれぞれの個性を持ちながら同じ思いを共有し、それぞれの特徴をその一つの体の働きのために発揮する。イエスはご自身を葡萄の木にわれらをその枝になぞらえている (John.15:1-5)。イエスに繋がれている限り「多くの実」を結ぶとされるが、それは何よりも農夫である父なる神が喜ばれるものである。それは天国における果実であり、必ずしもこの世の成功ではないであろう。
われらはキリストにつらなる体の各部位である(1Cor.12:12-27)。まずわれらに求められているのは信仰により神との正しい関係にはいることである。そのとき、ひとは一つの体の一部位であることを、自らの役割を知るに至る。種蒔きのたとえ話にあるように、自らが良き土地に蒔かれた種であることを知り、自らの自然的な与件の能力の30倍、50倍の実りをもたらすこともあろう。
神との正しい関係におかれるとき、われらはひととの横の繋がりにおいても秩序づけられる。われらはキリストを介してそれぞれの人のタレント、特徴を知り適切にお互いに位置付けることができる。各人の能力や才能を神との関わりで見るがゆえに、直接的な関係において生じる嫉妬や羨望とは無縁であり、いかにそれぞれの能力が協力しあって、良き実を結ぶに至るかに集中する。「汝らはキリストの体であり、諸部分に基づく器官である」(1Cor.12:27)。身体の諸器官は中枢的な指令部位との関連においてそれぞれの機能を持つ。一つの霊を飲んだ者たちはキリストの体となり、有機的に一つのことを思いまた行う。
この有機体の主張には、血液が体全体をめぐるように、聖霊が中枢部から注がれそれぞれの器官をめぐり一なる働きを遂行させる。聖霊は人々に喜びを与え秩序ある働きを生み出す。神の憐みのもと個々人に聖霊を与えられることもあろうが、「ペンテコステ(五旬祭)」のときのように、共同体に集団で与えられることもある。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえに留まった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話だした」(Act.2:1-4)。
人類はこのような仕方で憐みを受けつつ、神とひととの交わりを形成してきた。有機的な一つの体として神に栄光を帰するそのような共同体、集団が出現したなら、どんなに幸いなことであろうか。しかし、歴史はそのような統一された共同体とともにその共同体の分裂を報告してきた。
4 党派心の根にある誘惑への身の引き渡し
今回のテクストの、この誰が偉いかという議論はただちに党派主義(sectarianism)に通じる。一番偉い者は子分を従え、二番目に偉い者はその子分よりの下の子分を従えることになり、権力、覇権を争うことになるであろう。その一例が、ヨハネの応答にはしなくも顕れている。或る者がイエスの名前に言及することにより、悪霊を追い出していた。ここで悪霊とは、イエスの癒しの事例によれば、暴れまわる凶暴さを示すそのような手に負えない乱暴狼藉を働く一種の心の病である。それを或るひとがイエスの名によって癒したと報告されている。
イエスが非ユダヤ人の土地であるガダラ地方に着くと、悪霊に憑りつかれた者は不浄とされる墓場からでてきたと報告されている。ルカによれば、「ゲラサ」と呼ばれる土地の「墓地に住んでいた」裸の男が悪霊につかれていたが、イエスは悪霊を豚に乗り移らせたことにより正気に戻った男の話が報告されている(Luk.8:27)。ガダラにおいては、イエスは憑りついた悪霊を追い出し豚のなかに追いやると、豚の群れは下の湖になだれ込み死んだ。彼らが正気に戻ったかは報告されていないが、憑りつきから解放された以上、ゲラサの墓堀人と同様癒されたのであろう。
他方、豚飼いたちは豚を死なされたことからくる経済的損失を蒙ったために、イエスを村から追い出した。地上の宝に心を奪われている者はたとえ神の働きを目にしても自らの利益にとらわれ、人が癒されたことで神を賛美することはなかった。まさに「汝の宝のあるところ、汝の心もある」(Mat.6:21)である。われらも悪霊に憑依されることを何らか経験している。心の平衡を失い平安が去ってしまい心がささくれ立ち、悪しき思いに満たされることを経験する。もちろんそこに程度はあるが、何か自らのうちにないものに心魂を引き渡してしまっているそのような感覚を持つこともあろう。ふとしたことで平安を取り戻したときなど、正気を失っていたと気づくことがある。二度と罪の奴隷の軛に繋がれたくないと思う。
一旦、自らの心魂を引き渡してしまうとどこまでもそれはエスカレートしてしまう。「穢れた霊は、ひとから出ていくと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、「出てきたわが家に戻ろう」と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、でかけて行き、自分よりも悪い他の七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう」(Mat.12:43-45)。ひとは自らの心に生の方向を失うとき、空虚となり、誘惑にかられやすい。一度、何らかの憐みにより悪しき思いから解放されたとしても、聖なるものに守られないとき、もっと悪い思いがひとを虜にすることがある。これはわれらも何らか経験していることである。
イエスの聖性に気が付くとき、自らの穢れの深刻さ、尋常ではなかったことに気づかされ身震いする。眠らされていたのである。悪霊に憑りつかれるこれらの話は、過去のおとぎ話ではない。聖なるものとの対比においてのみ、われらの悪しき思いは聖性に対抗する穢れや悪の仕業であることを知るに至る。
パウロと共に心を新たにする。「15それでは、どうか。われらは罪を犯そうか、われらは律法のもとにではなく、恩恵のもとにあるのだから。断じて然らず。16汝ら知らぬか、汝らが自らを奴隷として従がうべく捧げるその者に、死に至る罪のであれ、義に至る従順のであれ、汝らは汝らが服従するその者にとって奴隷であることを。17しかし、神に感謝あれ、なぜなら汝らは罪の奴隷であったが、汝らが心から手渡された教えの型に服従し、18罪から自由にされ義への奴隷とされたからである。19われは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る。すなわち、汝らはまさに汝らの器官を無律法に至る不潔と、無律法に奴隷として捧げたごとくに、今や汝らの器官を聖さに至る義に奴隷として捧げよ。20というのも、汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であったからである。21では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである。22しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さに至る果実を持している、その終局は永遠の生命である。23なぜなら、罪の[奴隷への]給金は死であるが、神の賜物はわれらの主キリスト・イエスにある永遠の生命だからである」(Rom.6:15-23)。われらは罪の奴隷であったとき、それが自らに破滅をもたらすものに魂を売りわたしていることに気が付かない。そのコントラストを、即ち聖なるものを知ることによってのみ、それがいかに醜悪なものかを知るにいたるかるである。
醜悪なものとは、或る場合には、自分たちは特別であると他者や他のグループと差別化をはかる党派的な思考、党派主義である。これもコントラストを知ることなしには、いかに醜悪な思考であるかに気付くことはない。党派心は人間の自然であって、誰かに従属することにより保護を受けつつ、敵対する者に対しては蹴落とし、破滅させようとし居丈高になる。弟子ヨハネもその一人であった。権力や数を支配する者が偉い者である。イエスはその考えと戦う。
5 宗教における党派心とその乗り越え―黒崎先生の場合―
「ルカ」9章のテクストに戻ろう。ヨハネは、イエスの名によって悪霊を追い出している者を咎めた。それは「われらと一緒に」イエスに「つき従う」ことをしなかったからであるとされる。これはいかにもイエスのことに配慮し、彼を崇める敬虔な態度のように見える。しかし、これは自分たちのグループを特権的なものだと思い込んでいることからくる、他人の働きを妨害するものだとイエスにより、諫められる。その男は悪霊の追い出しという良き癒しをおこなっているのであり、ことがらとして責められるものではない。われらも縄張り意識を持つことがある。誰かが同様のことを為しているとき、自らの業界、職域、専門に無断で入り込んでいるように思え、自らその領域の権威であると看做す自己に敬意が払われない、侵害されていると感じる。これは心の狭い、偏狭な自意識過剰である。イエスは言う、「汝らに対抗しない者は、汝らの味方である」(Mat.9:50)。
黒崎先生は党派心の分析とイエスにおける信仰の異なりを説明する。「この場合ヨハネは既に信仰を自分たちのグループの独占としようとしたのであった。そして自分たちの権威を以って真のイエスの弟子と然らざるものとを判断しようとして。この精神がローマカトリック教会において復活し、プロテスタントにおいて継承された。そして無教会のなかにも幾分これが残っている。しかるに、一方イエスはイエス自身を中心とし彼を主と仰ぐべきことを徹底的に主張し給うた。「われと偕(とも)ならぬ者はわれに背き、われと共に集めぬ者は散らすなり」(「わたしと共にいない者はわたしに敵対する者であり、わたしと共に集めない者は散逸させる者である」)(Mat.12:30,Luk.11:23)とあるように、いかなる場合でもイエスは中心でなければならず、イエスが神の国の首(かしら)でなければならないことを主張し給うた。「われは道なり、真理なり、生命なり、われに由らでは誰にても父の御許(みもと)にいたる者なし」(John.14:6)と言い給うたことも、イエスの絶対性を主張しておるのであり、いかなる者もイエスを主と仰がずに救われることがないということを明白にしておるのである。そしてペテロは「使徒行伝」4:12にこの天の信仰を告白しておる。
しかしこれをイエスの宗派根性と考えることはできない。何となればイエスは神の子であり神より遣わされた救い主であるからである。イエス中心が神の福音の本質であり、イエスを離れてキリスト教もなく福音もなく救いも無い。イエスが自己を唯一の救い主と主張し、イエスを離れて救いが無いことを主張することは当然である。そしてイエス以外には何人もこの主張を為すことができず、もしこの主張を為すキリスト者があるならばそれは呪わるべきである。
しかるに所謂分派精神は煎じ詰めると自分の宗派の主張が絶対無謬であり、他派は間違っており異端であると決定する態度である。「無教会にあらざれば救われない」と言う人もあるとのことであるが、彼は自分をキリストの地位に置く高慢な人間である」。(黒崎幸吉『一つの教会』p.40(聖泉会 1953)。
聖書が主張する信仰の集まりとはイエスが「首(かしら)」となり、それにそれぞれの特徴を有する個々人が自らの持ち分を発揮することにより身体の四肢として一つの生命を分かち合う有機的な身体を構成すると理解されている。この文章はその英訳がOne body in Christとあるように、キリストに連なる共同体の構築こそ、信仰者のつとめであるという主張である。これは黒崎先生の信仰告白である。イエスは唯一の救い主であり、他の何人をもイエスと同列に扱ってはならない、絶対化してはならないという主張である。キリストへの集中は大方の賛同を得るであろう。この点において異論を主張するひとがあれば、直ぐに自己神化の「高慢」を咎められるであろう。
問題は、ひとは自覚せずにもいつのまにか信じることにおいて教祖とともに自己を絶対化しがちであるということである。人格が高潔であればあるほど、誘惑は大きくなるであろう。サタンは多くの者たちから賞賛を得ているその者を堕落させるなら、罪と死の支配を広げることができるため、さまざまな党派主義への誘惑をしかけてくることであろう。そしてそれがキリスト教の分派の歴史であった。人生は朽ちる栄冠を獲得する競争ではなく、朽ちぬ栄冠をいただくべき罪と悪との戦いなのである。
6 イエスの信とわれらの信・信仰―「信」の二相の判別による乗り越え―
黒崎先生のこの信仰告白に対し単に敬虔な主張とわきにおいてしまうのではなく、イエスが一つの有機体の頭脳部・首(かしら)であるという主張がパウロにおいて「信・信仰」の二相の分析に基づき秩序づけられていることにより先生の議論を信じる者にも信じない者にもテクストの読みとして同意されうる次元で一般的な論拠を提示したい。「信仰・信」の二相を判別することにより、イエスご自身における信の在り方はわれらの信・信仰の在り方の目標であり続ける。「神はイエスの信に基づく者を義とする」(Rom.3:25-6)。またパウロは命じる、「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。常にイエス・キリストにおいて生起した神の信義を自らのこととするよう勧められている。他方、われらはその啓示の媒介となった「イエス・キリストの信」とは異なり相対的な世界で生きている。「6われらはわれらに賜った恩恵に即して異なる賜物を持っているので、もし預言を持つならその信仰の割合に即して、[賜物を用いよ]」(Rom.12:6)。
われらは肉の弱さのゆえに、信仰においても程度の世界に生きている。この自覚がないとき、イエスを崇めているつもりでいつの間にか自己をイエスに同化させ、他のグループから自らを特権化してしまう。イエスは確かに黒崎先生が仰るようにわれらとは異なる。彼には偽りがなかった。彼は言葉と働きのうえに乖離がなかった。山上の説教を語り、それを実現すべく十字架の道を歩み抜かれた。彼はその心によって清い。彼はひとの内心をよく見抜いている。おのれの保身や自己栄光化、他者への恐れ、自己卑下そのようなものからまったく自由であった。イエスはご自身を神に至る唯一の道であること、彼自身が真理であり、生命であることを主張せざるをえない。自ら神の子であるという信のもとに生き抜いた者が他の者たちに他の道を勧めるということは信義の問題として、すなわち裏切りの問題としてあり得ないことである。イエスは山上の説教において究極の道徳を語った方であり、それを実現すべく信の従順を貫いた方である。
端的に言って、山上の説教は聞く者自らの偽りを抉り出す。どこかでひとは自己と他者そして神をごまかしていることが、道徳的次元だけで明らかにされてしまう。イエスはここで信仰にも奇跡にも訴えることなく、ただ言葉で聴衆の良心に訴えている。「「目には目を、歯には歯を」(Ex.21:23)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、「悪人に手向かうな」誰であれ、汝の右の頬を打つなら、左の頬を向けよ。・・・「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:38-39, 43-46)。
ひとは自分を愛してくれる者、たとえば家族を愛する。これは自然なことである。しかし、そこにイエスは二心、三つ心の偽りを見出す。自らの家族から他の家族とは差別化するとき、そこには家族を誇る自己栄光化の欲求が背後にうごめいている。自分たちだけがよい生活ができればよいという自己中心性、自己保存の本能が働いている。これは血を分けた者同士自然な欲求でもあろうが、イエスはそこに偽りを見出す。それほど天国の道徳はひとの思いを超えている。
隣人を愛し、敵を憎むことは一種の二心(ふたごころ)である。敵も隣人であることもあろうからである。自分を特別視すること、それは生存と繁栄にプログラムされた生物にとっては抜きがたい傾向性であるが、そこに良心の鋭敏なひとは偽りを感じる。イエスの聖性とわれらの穢れ、このコントラストこそ正面から引き受けねばならない。さもないとき、福音を知ることはできない。この聖なる方が共にいたまうと約束しおられる。
山上の説教においてイエスはひとが耐えうる限界状況そして為し得る限界状況を明白に提示した。それによって、ひとは何かどこまで落ちてもセーフティネットがあることを見出し、またどこまで登ってもひととしての最高の真実な在り方があることについて権威をもって語りかけられているのを知る。良心が宥められるほどに恩恵は圧倒的であり、その力によりひとはここまで高くなることができるのか、ひとは栄光を棄ててここまで低くなることができるのかをキリストの一挙手一投足において知らされる。 そのイエスは道徳的次元を内側から破り、信仰に招く。
天の父は水臭くない方であり、この世界での生存をケアしている。ただし、人生に最も重要なことはまず神の国と神の義を求めることであるとされる。彼は山上の説教においてひとの罪や悔い改めを語らずに自然が神の被造物であることへの言及のなか、その「天の父の子」となるように招く。イエスは群衆にガリラヤの野辺で風にそよぐ花々をそして澄み渡った乾いた空を舞う鳥たちを指さしながら、生きることの祝福を語った(Mat.6:25-34)。明日のことを煩うな、一日の労苦、悪しきことはその日で十分である。この「煩うな」という命令形を語りうるのは、天の父なる神が養ってくださるからである。まず神の国と神の義とを求めよ、その神の義とは信に基づいて神と正しい関係に結ばれることである。端的にイエスはここで信仰に招いている。聴衆の良心に訴えて道徳的次元を内側から破る対人論法を介して、信の根源性を間接的に説いたのであった。律法について、急進化、先鋭化させて良心の発動に向けて心の最も内奥に訴える議論は「業の律法」を離れることを、業の律法への煩いを棄てて、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である」その信に導いている。神ご自身にとって信に基づく義が業に基づく義よりも一層根源的であることを「イエス・キリストの信を介して」(Rom.3:22)知らしめている限りにおいて、イエスは自らが「神の子の信」(Gal.2:20)に生きることそしてそれをひとに信じるよう要求することは道理あることである。
他方、ひとは「肉の弱さ」において生きており、信仰の強い者もいれば弱い者もいる(Rom.6:19,14:1)。この相対的な世界において、神にとって信が根源的であるなら、ひとにとっても信は根源的であり、信に対して信により応答することがふさわしい。神との関係は信により心魂の根源からのものであることが求められている。神はご自身が「イエス・キリストの信」(Rom.3:22)を介して人類に信実であったとき、ひとは信じるのか、それとも裏切るのかが問われているからである。われらはその啓示の故に「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と命じられる。イエス・キリストにおける神の前の信をそのつど自らのものと信じるよう招かれている。ここに信の二相がある限り、われらは決してイエスを祭り上げることを通じて自己を祭り上げる党派根性はブロックされている。信は根源的なものである以上、神との関係においては他の道は拒絶されているが、ひととの関係においては個々人の心的態勢は強い弱いが帰属する相対的なものである限りにおいて、自らの信仰も啓示の媒介となったイエスの信のようなものではありえない以上、他者に対して寛容となる。われらはあくまでその都度自らの業を誇り、自己を栄光化する業の律法のもとに生きることから悔い改めを介して信の律法に立ち返るのである。そこに党派主義に陥る余地は構造上残されてはいない。
7 結論
ひとは人間のそして自らの不都合な真実に向き合うことを避け、また人生の苦しみに耐えられず、気晴らしや、願望をともなう思い込みに事実を歪めてしまう。イエスはひとがそのもとに創造された神との正しい関係性なしに、その生はどこまでも偽りであり空しいものであることを説き、神への立ち返りと自らが神の子であることを信じるよう促す。彼にはどこにも偽りを見出すことができない。父なる神への信にひたすら生きたからである。その心によって清い方そして憐み深い方だからである。彼についていこうと思う。「不法を赦され、罪を覆われし者は祝福されている。主にその咎を数えられざる者、その心に偽りなき者は祝福されている」(Ps.32:1-2)。