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キリストにある一つの体(1)―党派心を乗り越える―

キリストにある一つの体(1)―党派心を乗り越える―

                       日曜聖書講義 2021年7月25日

 聖書箇所

「弟子たちのあいだで、誰が自分たちの中でより偉いか、推し量りが生じた。イエスは彼らの心の推し量りを知って、一人の子供の手を取り自らのかたわらにその子を立たせた。そして彼らに言った、「誰かこの子供をわたしの名のうえで受け入れるなら、その者はわたしを受入れている。誰かわたしを受入れる者は、わたしを遣わされた方を受入れる。というのも、汝らすべての者たちのなかでより一層小さな者である者はその者こそ大きいからである」。ヨハネは答えて言った。「先生、われらは或る者があなたの名前において悪霊を追い出しているのを見たので、彼にやめさせました、彼はわれらと一緒に[あなたに]つき従おうとしないからです。イエスは彼に言った、汝ら妨げるな。というのも汝らに対抗しない者は、汝らの味方である」(Luk.9:46-50)。

 

1 はじめに

 このところ、学寮の先輩立花隆氏の逝去の報せなどを契機にして、「何を為しても赦されるか」、「イエスとパウロ」、「信仰にはマジックはあるのか」という主題で、道徳不用論と信仰の関係、信仰と正義と愛との関係について学んできた。あるひとは「頭をフル回転させて聞いた」と言っていたが、これらキリスト教神学の中心となる概念をめぐる神学的議論は難しかったかもしれない。これらの議論の以前には、今年度は「福音書」を中心にイエスの憐み深さについて、本来性と非本来性のコントラストの知識との関連で学んできた。信仰と憐みの関係は深いものがあり、今後もこの二つを中心に学んでいきたい。

 今日は先週のテクスト(Luk.9:46-8)の続きを学ぶ。先週は前講で、Y君から小学校時代の暴力少年S君との交わりにつき聞いた。母上は彼を何とか守ろうとしつつ、「敵をも愛せよ」という教えを伝え、共に祈った。彼は一学級しかない学校で六年間、劣悪な家庭環境で育った腕力強い少年に対しけなげに聖書の言葉に従って対応し、生きぬこうと苦闘した。彼のその葛藤が彼を心理学の勉強に導いた。

 転校したらとか、教師がさらには政治が悪いという感想まで飛び出した。確かにイエスもパウロも「汝らの肉の弱さの故に」人間中心的な対応を認めている。親が教師などに相談し善処することは当然でもあろう。ある人は彼が小学校生活を棒に振ったと考えることであろうし、理不尽に思えよう。小学生にこのような状況は酷であり、自らの信仰を押し付けるべきではないとも言われよう。ただし、何であれ人間的に解決するとき、イエスの言葉に従う際の葛藤はないであろうが、イエスが共にいたまう喜びと平安を経験することもない。信仰とは心魂の根底において神の恩恵を信じて幼子のようにイエスの言葉と働きに従うことだからである。母上様は怪我が絶えない愛する子供とともに、憐み深い神を信じて聖書の言葉を信じて実践したのである。

 父親に暴力を振られ続け連れ子に暴力を振るう劣悪な環境で育った暴力少年S君に対しイエスは深く憐れんだことであろう。その憐みをY君親子はキリストの弟子として示そうとしたのだと思う。

イエスの教えに従って生きようとすることは暴力にさらされ生命掛けとも言える。少なくともY君にとっては六年間暴力に耐えた。しかし、イエスに従おうとする者は自らがこの世界におけるイエスの救い主であることの証人であり、ひととして正しい人間理解のもとに生を紡いでいることを証する。歯を食いしばって、右の頬をうたれたら左の頬を向ける。キリストに従う道は狭くてまっすぐである。しかし、そこには人間の本来性を獲得したという喜びを伴う。偽りから解放されているからである。

 神が公平に審判してくださるという信があるからこそ、神の怒りに任せ、自らはイエスの御跡にしたがう。「17誰にも悪に対して悪を報いることなく、あらゆるひとびとの前で善き事柄に配慮しつつ。可能なら、汝らの側からはあらゆるひとびとと平和を保ちつつ。愛する者たち、自ら復讐することなく、むしろ怒りに場所を与えよ。・・21悪によって負かされるな、善によって悪に勝て」(Rom.12:17-21)。

 

 今日も、イエスの言行を学び、信仰とそこから生まれる憐みという心魂の態勢について学びたい。憐み深いイエスに従う歩みは共同体において、キリストを首(かしら)とする一つの有機体を形成する。各自はその統一的な生命ある有機体の各部位として自らの特徴を用いて活動し、その体につらなり貢献する。それによりイエスによるご自身が神の子であるという信とそれに基づく憐みは、ひとに特権意識ではなく、低くなることを教え、自らのグループの特権的な自己栄光化を阻み他のグループを見下す党派心を乗り越えさせることを明らかにしたい。

 

2 非本来性のうちに生きる者たちへの憐みー「より偉い者」とは―

 先週の復習をする。ナザレのイエスは人として非本来性に沈む人々への憐みによって、癒しなど所謂奇跡により群衆から注目を浴びた。イエスに従っていく者たちのなかでペテロやヨハネら十二人は自分たちが「弟子」として選ばれたことに誇りに思ったことであろう。

  イエスが十二弟子を伝道に派遣したさいに、彼は彼らに特別な力能を授けてこう語っている。「行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。病人を癒し、死者を生き返らせ、皮膚病を患っている者を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(Mat.10:7-8)。イエスは憐みの故に人々を癒していたが、その力を彼らは授けられたこともあり、自分たちの尋常ではない力の行使を誇っていた。そのようななかで弟子たちは彼らのなかで誰が偉いかと心の中で推量し、また口にだして議論していた(Mak.9:38-41)。たとえば、誰がイエスの傍らに座るかなどの具体的状況のなかで、イエスは彼らの心の動きに気づき、幼子を傍らに招いて、「大きい」と「小さい」という比較について、見るだけで明らかな背の高さを比べて、ひととしての「偉さ」「偉大さ」の規準を提示している。

 「より偉い」という言葉は文字通りには「より大きい」という物理的な量を示す単語である。傍らの子供は誰よりも小さい。イエスは「天の国はこのような者たちのもの」であるとして、幼子こそ天の国を継ぐ者であると語る(Mat.19:13-15)。偉大さの規準はその子を受入れ愛するか否かだとイエスは明確に語る。この世界で虐げられ、苦しめられるひと、弱いひとも小さい人たちであろう。イエスはことのほか、「地の民」と呼ばれる差別され、蔑まれた人々と共におり、励ましていた。「アーメン、わたしは汝らに言う、汝らがわがきょうだいであるこの最も小さい者たちの一人に為したものごとは、わたしにしてくれたのである」(Mat.25:40)。イエスは悲惨な状況におかれた学校に通うS君とY君たちに深い悲しみとともに憐みを感じられたことであろう。

 イエスはより小さな者を受入れ愛することは自分を受入れることだと言う。この地上でより小さい者は天国でより大きい偉い者であると主張する。そのことを明らかにすべく彼は自ら父とともにある偉大なる栄光を捨てて自らひととなった。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。ここで「似様性」という表現は自らの受肉故にまったきひとではあるが、その間神の前において神の子であることをやめなかったため、われら肉において創造された者とは「似た様」においてあると書かざるをえなかったのである。このような状況において、イエスは小さい被造物ひととなった。

 イエスは創造者神よりも小さい「苦難の僕」として生きる自分を神の子として受入れるか否かを問うている。小さな寄る辺ない幼子を受入れることは自分を受入れることであるとイエスは主張する。というのも、イエスはその幼子を自らのこととして受け入れ愛しているからである。自らが愛している者を受入れる者は自らをも受け入れているのであり、天の父は自らを「天の父の子供」として受け入れておられるのであるから、「誰かわたしを受入れる者は、わたしを遣わされた方を受入れる」とイエスは主張する。

 イエスがその者たちのために自らの生を捧げた罪人たちは、彼に敵対する者たちでもあったが、彼はそのような敵を受入れ愛したのである。イエスご自身は誰であれ敵を受入れ愛する者たちがご自身を受入れる者として受け止められたのである。われらと今共に過ごすY君が「敵をも愛せよ」の母の言葉に即して歯を食いしばってS君を赦し愛そうとしたのである。イエスの言葉への信頼、聖句への献身が憐みの感受性の基礎にある。敵に対して神の国における本来性から遠い者であるコントラストの認識にイエスには「憐み」が「はらわた」から湧き出てくる。われらはこのような感覚を持つであろうか。小さな者たちをさらには自らを責めさいなませる者に憐みを抱くであろうか。悪に対し悪で報いず、善により対応し、彼らの幸いを願う。迫害する者、支配する者を祝福して呪わないこと、右の頬を打つ者に左を向けることが生起するとき、「喜び祝え、天における報いが大きい」(Mat.5:12)。それによってのみ敵が天において友と友となる希望が生じる。その希望に伴う喜びは、愛に基づく等しさの正義のもとに、他者を操作することから解放されている自らを安堵させ、清める。イエスは人類をそのような仕方で受け入れ愛したのである。非本来性のうちに沈んでいる人類に深い憐みをいだいたのであった。

 イエスはかたわらの幼子のように自らも父なる神により神の幼子として受け入れられ愛されていることを信じている。われらにとっては、その宇宙の創造者であり一切の秩序の源である偉大なる神が御子をこの世界に派遣した。その御子は栄光を捨てひととなり僕となったのである。この人類を受入れ、憐みそして救いだすためである。この低さ、小ささが神の国における偉大さを示している。イエスがご自身の栄光を捨て人類の救済のために受肉したこと、それが神の意志であると受け入れ信じることが、神の国における偉大さの規準である。イエスの一切の言葉と働きは自らが神の子としてこの世界に遣わされたという信により貫かれている。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされた方を信じる。わたしを見る者はわたしを遣わされた方を見る。わたしを信じる者が誰も暗闇の中に留まることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」(John.12:44-47)。

 イエスの謙りをこそ、われらは内側から身に着けたい。その低さのままで天国においては偉大なのであるとされる。イエスは偉大であり続けたが、この世界では軽蔑され、殴られ、殺された。その低さ、小ささこそ偉大さ、偉さを示しているのである。キリストの弟子であることを喜ぶ者には感受性が変化し、もはや人に偉大に見えることに何ら魅力を感じなくなる事であろう。

 

3 イエスの軛に繋げられる者は「柔和と謙遜」を得る。

 このように小さな者になった方と共に生きるとき、見えてくるもの、感じることがらに変化がおき、イエスに似た者にされていくことであろう。イエスはひとの肉の弱さに衷心からの「憐み(splangchnon=はらわた)」を示し、柔和であり謙遜であった。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」(Mat.9:36,cf.Mak.1:41)。彼は彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から次第に柔和と謙遜が伝わる。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂き、ひとは不公正や侮辱そして迫害に耐え、呪う者を祝福し「平和を造る者」になっていく(Gal.6:1,Mat.5:9)。

 この喜びを経験するとき、二度と罪の奴隷の軛に繋がれたくないと思う。「汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であった。では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである」(Rom.6:20-21)。

 

4 キリストにある一つの体の形成

 イエスと共にある平安は次第に隣人に伝わっていく。そしてキリストにある一つの体を形成していく。キリストが共にいます限り、ひとは彼を介して一つの有機的な体を構成すると考えられている。その特徴はパウロによれば同じ思いを持つということ、即ち、キリストとの関連において一切を考察するようになるということである。「われらの主イエス・キリストによってわたしは汝らに勧める、それは汝らが皆同じことを語りそして汝らのあいだに分裂がなく、汝らが同じ叡知においてまた同じ認識において秩序づけられてあるためである」(1Cor.1:10)。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮する[に至る]ためである」(Phil.2:1)。

 キリストへの帰一的なかかわりを持つ限り、ひとはそれぞれの個性を持ちながら同じ思いを共有し、それぞれの特徴をその一つの体の働きのために発揮する。「わたしはまことの葡萄の木、わたしの父は農夫である。わたしに繋がっていながら、実を結ばない枝はみな、父は取り除かれるが、実を結ぶものはみないよいよ豊かに実を結ぶために清くしてくださる。わたしが語った言葉の故に、汝らは既に清くなっている。わたしに繋がっていなさい。わたしも汝らに繋がっている。葡萄の枝が、木に繋がっていなければ実を結べないように、汝らもわたしに繋がっていなければ、実を結ぶことができない。わたしは葡萄の木、汝らはその枝である。わたしに留まる者は、わたしもまたその者のうちにおりその者は多くの実を結ぶ、というのも、わたしを離れては汝らは何もなしえないからである」(John.15:1-5)。ここで「多くの実」とは何よりも農夫である父なる神が喜ばれるものである。それは天国における果実であり、必ずしもこの世の成功ではないであろう。

 パウロはこのキリストとの繋がり、交わりこそひとを造りかえ一つの清められた体を構成すると主張する。「われらが賛美する賛美の杯はキリストの血の与りではないのか?われらが裂くパンはキリストの体の与りではないのか?パンは一つであるがゆえに、われら大勢であるが一人である、というのもわれらは皆一つのパンに与るからである」(1Cor.10:16-17)。

 「まさに体は一つでありそして多くの器官を持ち、他方体のあらゆる器官は多でありながら一つの体であるように、キリストもまたこの様式においてある。というのも、われらは皆、それはユダヤ人であれギリシャ人であれ奴隷であれ自由人であれ、一つの霊において一つの体へと潜浸させられたからであり、そしてわれらは一つの霊を飲んだからである。というのも、体は一つの器官ではなく多くの器官だからである。もし足が、「わたしは手ではないから体からでていない」と言うにしても、この発言に即して足が体からでていない、というわけではない。また、もし耳が、「わたしは目ではないから、わたしは体からでていない」と言うにしても、この発言に即して耳が体からでていない、というわけではない。もし体全体が目であるなら、聴覚はどこにあるのか。もし全体が聴覚であるなら、嗅覚はどこにあるのか。

 しかし、今や、神はそれらの器官を据えたのであり、それら器官のそれぞれ一つのものは神が意図した仕方で体のうちにある。もしあらゆるものが一つの器官であったなら、体はどこにあるのか。しかし、今や、多くの器官があり、体は一つである。目は手に対して「わたしは君を必要としない」と言うことはできない、或いは今度は、頭が足に対して、「わたしは君たちを必要としない」と言うことはできない。それどころか、体のより弱いと思われる諸器官は一層必要なものごとが内属することがある。さらに、われらがかたや体のより尊ばれないと思うものどもに関してわれらはそれらに一層尊いものを授けた、またわれらの見栄えの良くないものどもはより一層見栄えのよいものを持つ。われらの見栄えのよいものども[例えば、顔]はその必要を持たない。むしろ神はより劣っているものに一層の尊さを与えることによって体を統合した、それは体に分裂がなく諸器官が互いに同じものごとに配慮しあうためである。もし一つの器官が苦しむなら、すべての器官が共に苦しむ。もし一つの器官が尊ばれるなら、すべての器官が共に喜ぶ。汝らはキリストの体でありそして諸部分に基づく器官である」(1Cor.12:12-27)。

 「ローマ書」12章ではこう展開される。「12:3わたしに賜った恩恵を介してわれ汝らのうちのおのおのすべてに告げる、思うべきことがらを超えて思いあがることなく、むしろ神が各自に分け与えた信仰の量りに応じて、思慮深くあるべく思うように。4というのも、それは、まさにわれらはひとつの身体に多くの器官を持つが、器官すべてが同じ働きを持つことはないように、5そのようにわれら多くの者もキリストにあって一つの体であり、一人に即して互いに器官だからである。6われらはわれらに賜った恩恵に即して異なる賜物を持っているので、もし預言を持つならその信仰の割合に即して、7あるいはもし奉仕を持つならその奉仕において、あるいは教える者はその教えにおいて、8あるいは勧めを為す者はその勧めにおいて、分け与える者は端的に、指導する者は熱心に、憐れむ者はほがらかに[賜物を用いよ]。9愛は偽りなきものである。悪を憎み、善に親しみつつ、10互いに兄弟愛において慈しみ、相互に尊敬において導き手とし、11熱心に怠けることなく、霊に燃え、主に従僕し、12希望において喜んでおり、艱難において忍耐し、祈りに固着し、一三聖徒の必要において分担し、旅人のもてなしに勤めている。14汝らを迫害する者たちを祝福せよ、祝福せよそして呪うな。15喜ぶ者たちと共に喜び、泣く者たちと共に泣くこと。16互いに思いを同じくし、高ぶった思いを抱かず、低き者たちと共にありつつ。汝ら自らの側で賢き者となるな」(Rom.12:3-15)。

 われらはキリストにつらなる体の各部位である。まずわれらに求められているのは信仰により神との正しい関係にはいることである。そのとき、ひとは一つの体の一部位であることを、自らの役割を知るに至る。種蒔きのたとえ話にあるように、自らが良き土地に蒔かれた種であることを知り、自らの自然的な与件の能力の30倍、50倍の実りをもたらすこともあろう。

 神との正しい関係におかれるとき、われらはひととの横の繋がりにおいても秩序づけられる。われらはキリストを介してそれぞれの人のタレント、特徴を知り適切にお互いに位置付けることができる。われらは「一人に即して互いに器官である」。身体の諸器官は中枢的な指令部位との関連においてそれぞれの機能を持つ。一つの霊を飲んだ者たちはキリストの体となり、有機的に一つのことを思いまた行う。

 この有機体の主張には、血液が体全体をめぐるように、聖霊が中枢部から注がれそれぞれの器官をめぐり一なる働きを遂行させる。聖霊は人々に喜びを与え秩序ある働きを生み出す。神の憐みのもと個々人に聖霊を与えられることもあろうが、「ペンテコステ(五旬祭)」のときのように、共同体に集団で与えられることもある。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえに留まった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話だした」(Act.2:1-4)。

 人類はこのような仕方で憐みを受けつつ、神とひととの交わりを形成してきた。有機的な一つの体として神に栄光を帰するそのような共同体、集団が出現したなら、どんなに幸いなことであろうか。しかし、歴史はそのような統一された共同体とともにその共同体の分裂を報告してきた。

[講義では時間切れとなり、来週の予告を兼ねて黒崎先生による分派主義の分析を紹介して終わりました(この部分録音あり)。来週1学期の最後の講義として「キリストにある一つの体(2)」として続きを講義します。]

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小さな者が「より偉い」

小さな者が「より偉い」

                       日曜聖書講義 2021年7月18日

[録音では或る事情により予定したものより短いルカ9:46-48の範囲で「より小さい者」が「より大きい(偉大である)」ことについて話した。録音にあわせ、原稿として用意したものの一部を掲載する。次回に、信の二相の判別によりひとは党派心に陥ることなく信仰を持つことができることをルカ9:49-59の範囲で論じたい]。

 

 聖書箇所

「弟子たちのあいだで、誰が自分たちの中でより偉いか、推し量りが生じた。イエスは彼らの心の推し量りを知って、一人の子供の手を取り自らのかたわらにその子を立たせた。そして彼らに言った、「誰かこの子供をわたしの名のうえで受け入れるなら、その者はわたしを受入れている。誰かわたしを受入れる者は、わたしを遣わされた方を受入れる。というのも、汝らすべての者たちのなかでより一層小さな者である者はその者こそ大きいからである」。ヨハネは答えて言った。「先生、われらは或る者があなたの名前において悪霊を追い出しているのを見たので、彼にやめさせました、というのも、われらと一緒に[あなたに]彼はついてこないからです。イエスは彼に言った、汝ら妨げるな。というのも汝らに対抗しない者は、汝らの味方である」(Luk.9:46-50)。

 

1 はじめに

 この何週か、朝礼拝の話や学寮の先輩立花隆氏の逝去の報せなどを契機にして、「何を為しても赦されるか」、「イエスとパウロ」、「信仰にはマジックはあるのか」という主題で、道徳不用論と信仰の関係、信仰と正義と愛との関係について学んだ。あるひとは「頭をフル回転させて聞いた」と言っていたが、これらキリスト教神学の中心となる概念をめぐる神学的議論は難しかったかもしれない。最近三度のこれらの議論の以前には、「福音書」を中心にイエスの憐み深さについて、本来性と非本来性のコントラストの知識との関連で学んできた。ふたたび、福音書を中心にして、イエスによるご自身が神の子であるという信とそれに基づく憐みは、ひとに特権意識ではなく、低くなることを教え、自らのグループの特権的な自己栄光化を阻み他のグループを見下す党派心を乗り越えさせることを明らかにしたい。イエスにならい、ひとの心の奥底に認知的そして人格的力能、可能性として宿っている憐みという心魂の態勢について学び、獲得したい。

 

2 非本来性のうちに生きる者たちへの憐みー「より偉い者」とは―

 ひとはしばしば自らを他人と比較する。容姿について、生まれ、仕事、所得、人格、知識、家族、友人、恋人等について、たとえ口に出して言わないとしても比べてしまう。背後に競争心があり、恐れがあり、誇りがあるからである。ナザレのイエスは人として非本来性に沈む人々への憐みによって、癒しなど所謂奇跡により群衆から注目を浴びた。イエスに従っていく者たちのなかでペテロやヨハネら十二人は自分たちが「弟子」として選ばれたことに誇りに思ったことであろう。

  イエスが十二弟子を伝道に派遣したさいに、彼は彼らに特別な力能を授けてこう語っている。「行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。病人を癒し、死者を生き返らせ、皮膚病を患っている者を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(Mat.10:7-8)。イエスは憐みの故に人々を癒していたが、その力を彼らは授けられたこともあり、自分たちの尋常ではない力の行使を誇っていた。そのようななかで弟子たちは彼らのなかで誰が偉いかと心の中で推量し、また口にだして議論していた(Mak.9:38-41)。「心の」なかでの思案ということは、やはりそれは主が喜ばれないという思いがあったから、公に議論することは憚られたのであろう。たとえば、誰がイエスの傍らに座るかなどの具体的状況のなかで、イエスは彼らの心の動きに気づき、幼子を傍らに招いて、「大きい」と「小さい」という比較について、見るだけで明らかな背の高さを比べて、ひととしての「偉さ」「偉大さ」の規準を改めて提示している。

 「より偉い」という言葉は文字通りには「より大きい」という物理的な量を示す単語である。傍らの子供は誰よりも小さい。イエスは「天の国はこのような者たちのもの」であるとして、幼子こそ天の国を継ぐ者であると語る(Mat.19:13-15)。偉大さの規準はその子を受入れ愛するか否かだとイエスは明確に語る。この世界で虐げられ、苦しめられるひと、弱いひとも小さい人たちであろう。イエスはことのほか、「地の民」と呼ばれる差別され、蔑まれた人々と共におり、励ましていた。「アーメン、私は汝らに言う、汝らがわがきょうだいであるこの最も小さい者たちの一人に為したこものごとは、わたしにしてくれたのである」(Mat.25:40)。

 イエスはより小さな者を受入れ愛することは自分を受入れることだと言う。この地上でより小さい者は天国でより大きい偉い者であるということの確認に基づき、彼は父なる神よりも小さいこの地上のイエスを神の子として受入れるか否かを問うている。小さな寄る辺ない幼子を受入れることはイエスを受入れることである。というのも、イエスはその幼子を自らのこととして受け入れ愛しているからである。自らが愛している者を受入れる者は自らをも受け入れているのであり、天の父は自らを「天の父の子供」として受け入れておられるのであるから、「誰かわたしを受入れる者は、わたしを遣わされた方を受入れる」とイエスは主張する。

 イエスがその者たちのために自らの生を捧げた罪人たちは、彼に敵対する者たちでもあったが、彼はそのような敵を受入れ愛したのである。イエスご自身は誰であれ敵を受入れ愛する者たちがご自身を受入れる者として受け止められたのである。この感受性が憐みの基礎にある。敵に対して神の国における本来性から遠い者であるコントラストの認識に彼には憐みがはらわたから湧き出てくる。われらはこのような感覚を持つであろうか。小さな者たちをさらには自らを責めさいなませる者に憐みを抱くであろうか。悪に対し悪で報いず、善により対応し、彼らの幸いを願う。迫害する者、支配する者を祝福して呪わないこと、右の頬を打つ者に左を向けることが生起するとき、「喜び祝え、天における報いが大きい」(Mat.5:12)。それによってのみ敵が天において友と友となる希望が生じるからである。その希望に伴う喜びは、愛に基づく等しさの正義のもとに、他者を操作することから解放されている自らを安堵させ、清めるものだからである。イエスは人類をそのような仕方で受け入れ愛したのである。非本来性のうちに沈んでいる人類に深い憐みをいだいたのであった。

 イエスはかたわらの幼子のように自らも父なる神により神の幼子として受け入れられ愛されていることを信じている。われらにとっては、その宇宙の創造者であり一切の秩序の源である偉大なる神が御子をこの世界に派遣した。その御子は栄光を捨てひととなり僕となったのである。この人類を受入れ、憐みそして救いだすためである。この低さ、小ささが神の国における偉大さを示している。イエスがご自身の栄光を捨て人類の救済のために受肉したこと、それが神の意志であると受け入れ信じることが、神の国における偉大さの規準である。イエスの一切の言葉と働きは自らが神の子としてこの世界に遣わされたという信により貫かれている。

 

3 山上の説教から導出される信の根源性

 イエスには偽りがなかった。彼は言葉と働きのうえに乖離がなかった。山上の説教を語り、それを実現すべく十字架の道を歩み抜かれた。彼はその心によって清い。彼はひとの内心をよく見抜いている。おのれの保身や自己栄光化、他者への恐れ、自己卑下そのようなものからまったく自由であった。端的に言って、山上の説教は聞く者自らの偽りを抉り出す。どこかでひとは自己と他者そして神をごまかしていることが、道徳的次元だけで明らかにされてしまう。イエスはここで信仰にも奇跡にも訴えることなく、ただ言葉で聴衆の良心に訴えている。「「目には目を、歯には歯を」(Ex.21:23)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、「悪人に手向かうな」誰であれ、汝の右の頬を打つなら、左の頬を向けよ。・・・「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:38-39, 43-46)。

 ひとは自分を愛してくれる者、たとえば家族を愛する。これは自然なことである。しかし、そこにイエスは二心、三つ心の偽りを見出す。自らの家族から他の家族とは差別化するとき、そこには家族を誇る自己栄光化の欲求が背後にうごめいている。自分たちだけがよい生活ができればよいという自己中心性、自己保存の本能が働いている。これは血を分けた者同士自然な欲求でもあろうが、イエスはそこに偽りを見出す。それほど天国の道徳はひとの思いを超えている。

 隣人を愛し、敵を憎むことは一種の二心(ふたごころ)である。敵も隣人であることもあろうからである。自分を特別視すること、それは生存と繁栄にプログラムされた生物にとっては抜きがたい傾向性であるが、そこに良心の鋭敏なひとは偽りを感じる。しかし、聖書はその特別視を一概に否定しているわけではなく、「汝の隣人を、汝自身を[愛する]如くに、愛せよ」と言い、「われ」と「汝」のあいだの「等しさ」を主張する。ひとりひとりとのあいだに、支配からも支配されることからも自由となり相互の等しさが出来事になるとき、もはや自分を特別視していることにはならない。ひとは愛が出来事になるとき、自らの良心が宥められていることにであう。喜びがあるからである。

 しかし、悪人に手向かうなという命令はどうであろうか。所謂イエスの「無抵抗主義」である。自分に関しては、ちょうど殉教者たちが不思議な平安に満たされたときのように、可能かもしれないが、自分の愛する者がそのような状況にあるとき、看過することはできないように思われる。「われらが[神に対し]敵であったとき」(Rom.5:10)、神はわれらにモーセ律法の同害報復のように比較比量的な対応とは異なる、比較を絶する善をイエス・キリストの信を介して人類に示した。比較考量の世界では決して良心に平安を得ないのである。業に基づく正義とは別に信に基づく正義の領域が開けてくる。このことが想定されるとき、右の頬を打たれて逃げたり、愛する者のために正当防衛を試みることが完全には神の御心に適うものではないのではないかと思われてくる。神の想いはわれらの想いと異なる(Isaiah.55)。  偽りは究極的には神の子として造られた自己に対し、あたかも自らの力で生きているかの如くに看做すことに他ならない。

 山上の説教においてイエスはひとが耐えうる限界状況そして為し得る限界状況を明白に提示した。それによって、ひとは何かどこまで落ちてもセーフティネットがあることを見出し、またどこまで登ってもひととしての最高の真実な在り方があることについて権威をもって語りかけられているのを知る。良心が宥められるほどに恩恵は圧倒的であり、その力によりひとはここまで高くなることができるのか、ひとは栄光を棄ててここまで低くなることができるのかをキリストの一挙手一投足において知らされる。 そのイエスは道徳的次元を内側から破り、信仰に招く。

 天の父は水臭くない方であり、この世界での生存をケアしている。ただし、人生に最も重要なことはまず神の国と神の義を求めることであるとされる。彼は山上の説教においてひとの罪や悔い改めを語らずに自然が神の被造物であることへの言及のなか、その「天の父の子」となるように招く。「それ故にわたしは汝らに言う、汝らが何を食べ、何を飲もうか汝らの魂によって思い煩うな、また汝らが何を着ようか汝らの身体によって思い煩うな。魂は食べ物より以上のものであり、身体は衣服より以上のものではないか。空の鳥をよく見よ。種も蒔かず、刈入れもせず、倉に納めもしない。だが、汝らの天の父は鳥を養ってくださる。汝らは鳥よりも一層優っているのではないか。汝らのうち誰が思い煩いにより、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つか注意して見よ。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく、栄華をきわめたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、汝らにはなおさらのことではないか、信少なき者たちよ。だから、「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」思い煩うな。それはみな異邦人が切に求めているものだ。汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう。だから、明日のことまで思い煩うな。明日のことは明日が自ら煩う。その日の悪しきものごとはその日だけで十分である」(Mat.6:25-34)。

 イエスは群衆にガリラヤの野辺で風にそよぐ花々をそして澄み渡った乾いた空を舞う鳥たちを指さしながら、生きることの祝福を語った。明日のことを煩うな、一日の労苦、悪しきことはその日で十分である。この「煩うな」という命令形を語りうるのは、天の父なる神が養ってくださるからである。まず神の国と神の義とを求めよ、その神の義とは信に基づいて神と正しい関係に結ばれることである。端的にイエスはここで信仰に招いている。聴衆の良心に訴えて道徳的次元を内側から破る対人論法を介して、信の根源性を間接的に説いたのであった。律法について、急進化、先鋭化させて良心の発動に向けて心の最も内奥に訴える議論は「業の律法」を離れることを、業の律法への煩いを棄てて、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である」その信に導いている。神ご自身にとって信に基づく義が業に基づく義よりも一層根源的であることを「イエス・キリストの信を介して」(Rom.3:22)知らしめている限りにおいて、イエスは自らが「神の子の信」(Gal.2:20)に生きることそしてそれをひとに信じるよう要求することは道理あることである。

 

4結論

 天国では偉さの規準が異なる、神の子が栄光を捨てて弱き肉となり、父なる神への信の従順を貫いた。それにより父なる神は小さな者を受入れる者であることを知らしめた。この世界でより小さな者が天国では偉い者である。イエスのこの憐みの感受性は天国にふさわしい神に似せて造られた人間がこの地上において羊飼いのいない羊のようにうちひしがれて生きていることに対する反応であった。山上の説教は道徳的次元における偽りを摘出することにより、道徳的次元では神に正しくあることはできないことを示している。業のモーセ律法を純化したうえで、良心に訴え、業のモーセ律法を内側から破り、イエスは信仰に招いたのであった。まず神の国と神との正しい関係を求めるように。ひとは信仰により神との正しい関係にはいる。その霊によって貧しく、この世の何ものによっても満たされないものは神の国を求める。小さな者はこの世に頼るものがないからこそ、祝福されたのである。信じることが残されているからである。だからこそ、より小さい者が天国においてはより偉いのである。

 

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信仰にマジックはあるのか?―「喜び」が恩恵の証である―

信仰にマジックはあるのか?―「喜び」が恩恵の証である―

                  7月11日 日曜聖書講義

聖書箇所

 「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。

 

1はじめに

 先週は道徳的次元とは異なる宗教的次元というもののあることをお話した。それに伴い心魂にも自然的な肉の次元の底に神の働きに反応できる「内なる人間」と呼ばれる部位のあることを示唆した。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)とは心魂におけるこの根源性を表現しており、その根源から生きるときひとは神と正しい関係にはいいるとされる。ルターは心魂の根源性を「信仰のみ」と表現した。心魂を肯定的、創造的に秩序づけ統一する信が道徳的次元をも秩序づける。信仰に生きるとき、律法即ち道徳を守り満たすことができる。神とひと双方を媒介するものが信仰であり、正しい信仰は道徳的次元以前の超越的な神との人格的な関係を正しいものにすると理解されてきた。神はアブラハムへの約束に信実である正しい方であり、イエス・キリストにおける福音の啓示においてご自身の義を最も明白に知らしめた。

 今日は人間的な理解として、道徳的破産者であった者が信仰によって道徳的要求を満たすことができるようになるとしたなら、信仰には何らか魔法的な効力があるのではないかという問いに応答したい。「信仰・信」には明確な説得的議論を展開できることの一端を示したい。

 天涯孤独、寄る辺なき、援けなき、他の何ものにも縋ることのできない状況において、藁にも縋る思いで神の援けを信じるということがおきる。信仰には人間の認知的、人格的実力いかんにかかわらず、特別な力が与えられるのではないかが期待されてきた。ひとはそれを「聖霊の援け」と呼んできた。イエスはそれを約束しておられる。「わたしは汝らを残して孤児(みなしご)とはせず」、「わたしは父に願う。父は別の助け主を遣わして、汝らと共にいるようにしてくださる」、「わたしが行けば、助け主を汝らのもとに送るであろう」(Mat.11:28-30,John.14:18,15,16:7)。

 パウロは見えない聖霊が「霊の果実」としての愛や喜び、平安を引き起こすとエヴィデンスによる論証を遂行した。「霊の果実は愛であり、喜び、平安、寛容、親切、善意、信、柔和、節制である」(Gal.5:22)。風のように自由に吹く聖霊は超自然的な魔法的な力であって、理性的な理解を拒絶するそのようなものであろうか。二千年続いてきたこの宗教において、ひとはそのつど不思議な力をいただいてきたことを言葉と行為において証してきたが、その心的事実は否定されないであろう。理性に反する端的な狂信、パトス(情動)に引きずられる端的な迷信であれば、それは歴史のなかで淘汰されていたことであろう。

 実際、パウロは福音において啓示された神の意志を一般的な仕方で知ることができると主張している。彼は「叡知(ヌース)」という不可視なものに対する接触知について明確な理論を提供している。「叡知」は感覚や良心のように瞬時に働く認知的な機能であり、これは「内なる人間」と呼ばれる心魂の部位に宿る。今日はこの叡知については語ることができないが、その叡知が発動するさいに伴う聖霊について少し説明する。この聖霊について聖書は明確に人間の心魂の態勢(たいせい、かまえ)そして働きとして受け止める「内なる人間(ひと)」と呼ばれる部位があると語り、それを様々なエヴィデンスのもとに説明している。「たとえ外なる人間(ひと)は衰えていくにしても、内なる人間(ひと)は日々刷新される」(2Cor.4:16)。この所謂「二番底」の働きの最良のエヴィデンスは喜びであることを明らかにしたい。

 

2道徳不用論

 ひとは救われたいという願望から信仰に魔法・マジックを帰属させてきたのではないか。この最初の躓きは、どんなに悪い人間でも信じるだけで救われるという主張から生まれてくる。ひとはそこにモラルハザード(道徳的危機)を見てきたのである。この信じるだけで罪赦され、義とされることは不当利得を要求する魔法の言葉なのであろうか。それなら潔しとせず、自ら神に頼ることなく、自らの責任で人生を切り開いていこうとするひとも多いことであろう。この事態は正しく理解されねばならない。

 確かに、信仰の持つダイナミズムを表現するために、道徳不用論が語られることがある。実際、パウロも後述のように「律法に死んだ」即ち業のモーセ律法のもとに道徳的世界において生きることをやめたと語っている。とはいえ、それはキリストとの新しい生命の関連において語られており、道徳は新たに秩序づけられている。

 パウロは明晰に理性において理解できるよう「知恵の説得的議論」と呼ばれる論証を「聖霊」に対する一切の言及なしにディアトリベー(談論風発)と呼ばれる様式において展開している(1Cor.2:4)。実際、「ローマ書」における信仰義認論と予定論(選びの教説)には一切「聖霊」という言葉が見られない(Rom.1:17-4:25,9:6-11:36)。他方、「ローマ書」5章から8章においては「霊と[神の]力能の論証」と呼ばれる、人間の肉の弱さを前提にして聖霊の援けのもとで霊的な秩序づけの議論を展開している(1Cor.2:4)。

 パウロは「ローマ書」で4章までにおいて信仰義認論を理性のみにて展開したあと、5章から8章まで聖霊の働きに訴えて信徒には道徳は無用である、旧約以来連綿として伝えられてきたモーセの業の律法のもとにいないと説得する。「罪は汝らの主人とはならないであろう。それは、汝らは律法のもとにではなく恩恵のもとにあるからである」(Rom.6:14)。

 内村鑑三は「律法のもとにない」とは律法が不用であるということだとしてこう主張する。「律法が全く廃滅してしまうかまたはわれらが律法に触れぬほど潔(きよ)まるか、いずれにしても律法なるものと事実上絶縁してしまうということが必要である。一言にして言えば道徳不用である、故にすこぶる革命的である、したがってこれを誤解するときは可成り危険である、しかしながら誤解を虞(おそれ)てこの大切なる真理を敬遠することは出来ない、人は実に道徳不用の境地に一度到達せずしては真の信仰の喜ばしさ、貴さを知ることは出来ない、もちろん「聖潔」は道徳不用の境[究極地点]である、されば道徳廃棄は人をして真の信仰と聖潔に至らしむべき必須なる要因である、道徳の下にあるとき人はおのれの罪を悟らされるのみで、決して信仰の歓びと聖潔のさいわいに至ることは出来ない、この道徳を一蹴したるところに生命も安心も歓喜も起こるのである、七章一節―六節はさらになおこの道徳不用の主張である」(『羅馬書の研究』全集26p.259)。

 「ローマ書」7章4節以下にはこうある。「わが兄弟たち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:4-6)。信じる者を救い出す福音が知らしめられたことの故に、ひとは業の律法から解放され、信じることにおける霊の新しさのもとに生きることができるようになった。石板であれ紙であれそのうえの文字としての律法、法律、道徳訓はひとに力を与えない。罪が寄生し誘惑するからである。罪の誘惑は7章で展開されるが、今語ることはできない。

 文字と対比されるのが霊である。ひとはここにマジックを見出すことであろう。霊の働きを信じられない限りにおいて、言葉や紙の上での人間のあるべき姿を表現するものでしかない道徳に対して、自らの態度を決定するしかない。ニーチェのように「神は死んだ」として、善悪をすべて嘗め尽くし、善悪の彼岸にいたる超人(スーパーマン)を目指すこともあろう。この道徳を道徳的次元それ自身において満たそうとするとき、常に罪に敗れてしまうとパウロは主張する。罪悪深重、極悪熾盛、地獄ぞ一定住処ぞかし、の人間は神や弥陀の憐み、慈悲に縋らざるを得ない。信仰にはマジックはないが、恩恵のあることを把握しなければならない。それにはまず信仰が喜びをもたらすのは、道徳的世界から解放されたところで、全知全能の正義にして憐み深い人格的神との恩恵の交わりにはいることによることを理解しなければならない。ナザレのイエスが自ら身代わりの死を遂げることによって無償の贈りものとして永遠の生命の希望の根拠を歴史のなかでうちたてたのである。

 黒崎幸吉先生は恩恵の無償性についてこう語っている。「自分の罪がキリストの十字架の贖いによりて、全部しかも永遠に赦されたことをそのままに確信することはなかなか容易ではない。その故はそれがあまりにも不当利得のごとくに見えるからである。しかしながら、この不当利得すなわち神の恩恵をそのままに受けてこれを信ずることが本当の信仰であり、すなおにこれを確信することによりて、始めて「信仰のみによりて義とせらるる事」の何たるかを知ることができる」(『閃光録』 p.83、1973)。

 この信じるだけで罪赦され、義とされることは不当利得なのであろうか。黒崎先生によれば「本当の信仰」はその不当利得ではないかという懐疑を乗り越えるものであるとされる。パウロが「律法に死んだ」即ち業のモーセ律法のもとに道徳的世界に即して生きることをやめたと語ることができるのは、それに代わる福音が啓示されたからである。そこでは善行を為すか為さないかという道徳的主体が問題ではなく、神が御子において人類に信実であったとき、信じるかそれとも裏切るかという心魂の根源における人格的関係が問題となっている。人間に求められているのは、憐み深く正しい神を裏切るわけにはいかない、神を信じついていこうというものだけである。この信仰が神との正しい関係を開く。これが信仰義認である。信仰義認論は神ご自身の信に基づく正義が啓示されたことを基礎にして展開されており、その信に基づく義は人間にも適用されることにより導かれる。

 

 

3信に基づく正義と憐みの成就―神による甦らし「へ」のイエスの道と「から」のパウロの宣教―

 ここではナザレのイエスの生涯がパウロによりいかに神学的に理解されているかを確認したい。福音書とパウロの書簡の対話を遂行する。最初に二人の置かれた状況の相違を確認する。イエスの信仰の招きが業のモーセ律法の遵守の要求のただなかで遂行されたのに対し、パウロは神の力能の働きである他に例を見ないイエスの十字架の処刑死とその三日後の甦りの出来事から彼の一切の神学的思考を展開している。彼はイエスの甦りが人類に何をもたらしたのかを受け止め、そこから信に基づく義とその義の果実としての愛が生まれるその神学理論を展開した。

 パウロは、神によるアブラハムへの約束に対する信実が歴史上御子の受肉と受難と復活において証された、その「神の信」(Rom.3:3)を基礎に彼の神学を展開する。信は人間にとっては賢者に至る知識をめぐる認知的要素と聖者に至る有徳をめぐる人格的要素の成長への基盤となるが、神は認知的、人格的に十全である。「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全であれ」(Mat.5:48,cf.Ps.139)。パウロは、神によるご自身の約束への信実がナザレのイエスにおいて成就されたと主張する。その約束に対し神は信実であり、神が正しい方であったこと、即ち「神の義」は「イエス・キリストの信」を媒介にして人類に明らかなものとされた。パウロはこれをひとつの神の意志として受け止め「信の律法」と呼んだ。これが人格的義である。それに対し、モーセを介して知らしめられたもう一つの神の意志をパウロは「業の律法」と呼んだが、彼はこれら二つの神の意志を信に基づく義と義の果実としての愛として秩序づけた。神の義の一方を「人格的正義」と呼び、他方を「司法的正義」と呼ぶことにする。

 常に心に留めるべきことは、山上の説教はナザレのイエスそのひとが今・ここにおいて純化された究極の律法を語りつつ、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」と信仰に招くことにより、その内面化された愛に収斂される律法成就の道を示したことである。イエスご自身は神の愛の先行性を自ら生き抜きご自身がその道となったがゆえに、パウロは神の愛の先行性に基づき愛の相互性を秩序づけることができた。まず、神との正しい関係が確立されることなしには、人間の一切の営みは秩序を得ることはないという明確なメッセージをナザレのイエスは発信した。しかも、彼はユダヤ人の伝統に留まりつつ、旧約の律法を内側から破ることによって、新しい生命に満ち溢れる信仰に招く福音を展開した。福音と律法を静的な関係において捉えてはならない。イエスはガリラヤの野辺を歩きながらリアルタイムに神の意志を実現しつつあったのである。もし彼が公生涯の終わりに十字架から下りてきたしまったなら、神のみ旨は実現されてはいないと看做され、福音の啓示の媒介者として用いられることはなかった、そのような緊張のなかで、肉の弱さを抱えたイエスご自身により一言一句、一挙手一投足が遂行されていたのである。われらはそこに同じ人間として山上の説教を成就しうる可能性と力能を見出す。そして人類の誰かにより山上の説教が語られた事実に、われらは人類に絶望することはない。ましてや彼はそれを信の従順により完遂した方である。

 パウロそして福音書記者たちも十字架と復活と昇天ののちにナザレのイエスが何者であったかをめぐり信に基づく義と選びの神学さらにはその伝記を書き残したのであった。パウロは歴史の展開のなかで信の従順を死に至るまで貫き、父なる神の専決行為による甦らしが生起したことのゆえに、福音の成就した視点から「この方はわれらの背きの故に引き渡されたそしてわれらの義化の故に甦らされた」(Rom.4:25)と語ることができた(ここで「義化」とは「義とすること」の名詞表現である)。御子の十字架と復活は神の前で即ち神ご自身の理解として、歴史のなかで身代わりの死によるわれらの罪から信仰による義化への移行の成就として知らしめられた。「イエス・キリストの信」を介した「神の義」の啓示は「信の律法」としてわれらに業のモーセ律法からの解放と、信に基づく義による業の律法の新たな秩序づけとして位置づけることができた。

 

4復活を信じうることに伴う喜び

 十字架と復活は人類の歴史において「一度限り」(Rom.6:10,cf.1Cor.15:6)のことであり、他の誰かによって再現されるものではない。さもなければ、父なる神は御子の信の従順を贖いに不十分なるものと看做し、御子を裏切ることになる。再現性のないものについては科学的知識の対象とはなりえず、ひとは御子の復活については信仰により突破するしかない。もちろん、科学は例えばあらゆる物質を通過する素粒子の研究などにより知見を重ね、一般的な仕方でドアを通過し、脇腹に槍穴のある質量をもつ三次元の存在者についてのその科学的仕組みの解明に向かい続けるであろう。そういう意味で現在われらに不思議に思えることがらの一般的な探求とその解明は蓄積されていくことであろう。とはいえ、復活は優れて信仰の対象であり続けるであろう。一般に信念は知識をもたずにも、或る命題を真理であるという信念をいだく知識以前の認知的働きだからである。そして預言されていることとして復活は終わりの日にしか個々人には救いとして体得的知識とならないそのようなものだからである(Phil.3:8-11)。キリストの来臨に伴う終わりのラッパと共に死者が呼び起こされる。その再臨信仰を基礎づけるものがキリストの復活である。

 パウロは天国も黄泉もキリストへの言及なしには理解できないことがらであるとして、信仰による突破をこう語る。「キリストが信じるすべての者にとって義に至る律法の目指すものである。というのも、モーセは律法に基づく義をこう記しているからである、「それらを為した者はそれらによって生きるであろう」、だが、信に基づく義はこう言うからである、「汝は汝の心のなかで、「誰が[義を求めて遥か]天に昇るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを引き降ろすことである、あるいは「誰が[義を求めて遥か]黄泉に降るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを死者たちのなかから引き上げることである。しかし、彼[モーセ]は何と言っているか、「言葉は汝の近くにある、汝の口のなかにそして汝の心のなかにある」、これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である。すなわち、もし汝が汝の口において主イエスを告白し、そして汝の心のうちに神が彼を死者たちから甦らせたと信じるなら、汝は救われるであろう。というのも、主イエスが心によって信じられるのは義のためであり、口で告白されるのは救いのためだからである」(Rom.10:5-10)。

 心の中での信仰を固く保持するためには公にそれを告白し社会の認知の中での自覚を必要としている。それほど復活は信仰による乗り越えと公的な表明を必要とするそのような理解に困難を伴うことがらだからである。パウロは知の都アテネのアレオパゴスで彼らが知らずに拝んでいる「知られざる神」を教えようと宣教にとりくみ、死者の復活について語り始めると、「われらはこのことについてはまたあなたから聞こう」と言って去っていった(Act.17:32)。アテネのことではない、エルサレムにおいてさえ使徒たちへの女性たちによる復活の第一報に対して「これらの言葉は彼らにはあたかも戯言(たわごと)に思えたそして彼女たちを信じなかった」と報告されている(Luk.24:11)。肉のイエスから予告されていたにもかかわらず、このような事情であった。だからこそ公的な告白は信じることできることそれだけで喜びであることを含意している。

 種蒔きの譬えはイエスの宣教を介して神のみ言葉、み心が聴衆の心に蒔かれそれを受け止めた信仰の実りについてのものである。「イエスは彼らを多くの譬えで教えた、そしてご自身の教えのなかでこう言われた。「聞け、そして見よ。種を蒔く者が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞け」と言われた」(Mak.4:2-10)。

 この譬えにおいてみ言葉の蒔き手はイエスご自身であり、受け止める心、拒否する心等われらの様々な心の環境のもとにみ言葉が蒔かれる。これは人生にも適用される。誰も自らの親を選べない、そこに自らの生が奪われ、焼け枯れる運命の過酷さを見るひともいよう。同時にそこに「誰も~ない」という人生の或る意味での平等さと醍醐味がある。自らにこの生が与えられたことを厳しい与件に思えても、肉の親の背後にいたまう蒔き手を信じ、自らを「良い土地」であると受け止めることなしには三十倍、五十倍に実らすことはできず、蒔き手に対する信頼が不可欠となる。荒地に蒔かれ悲惨にしか思えない与件であるにしても、聞く耳を持ち神に与えられた良い土地であると信じるとき、開墾が始まり、自らの与件から推定されるものの百倍の実りをもたらすこともあろう。豊かな実りとは山上の説教の「祝福されている」と八福を語られるイエスご自身にとって「天の父の子となる」こと以外ではないであろう。

 パウロはとりわけ「ローマ書」においてまた「ガラテア書」において正しい信仰とはいかなるものかの議論を展開する。永遠の生命の保証として主の復活はわれらの信仰を引き起こしそして信に基づく義を保証するものである。パウロは主の復活という神の歴史への介入から十字架とその生涯を捉えなおしたのである。神が愛である限り、この人生は良き土地となる、復活の主が共にいたまうからである。「主はわたしの運命を支える方。測り縄はわたしに向けて良き地に落ちた、わたしは良き嗣業(ゆずり)を得た」(Ps.16:5-6)。

 なお、当のイエスご自身も苦闘のただなかにあったことを忘れてはならない。山上の説教が生命を懸けて生き抜かれたことによって、われらはひととして想定しうる最も偽りのない在り方が福音に包摂される。新しい生命が福音という新しい革袋に入れられた。その喜びの福音はパウロにおいて聖霊によりもたらされる「信じること」が喜びとなり信に基づき救いだす「神の力能」(Rom.1:16)の働きであると特徴づけられる。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。「ユダヤ人にもギリシャ人にも呼び出された者たち自身にとっては、キリストは神の力能でありまた知恵である」(1Cor.1:22)。信じうることの喜びと公的な信仰告白は自らが神に呼び出された者であることを証する光栄ある心の働きである。

 主イエスの甦らしを遂行したまう神の力能によって古い業の律法も新しい信の律法の光のもとに照らし直され新しくなり、業のモーセ律法は何等か新しい酒に変換させられる。それは少なくとも人類にひとりは福音の光のもとに山上の律法を成就した方がいるからであり、それゆえに神はナザレのイエスをご自身の御心に適う者として嘉みし、ご自身の信に基づく義の啓示の媒介として用いられたからである。かくして、業に基づく義とは異なる信に基づく義が、業の律法の冠である愛を実現させるその力能が人類に付与されるに至った。

 モーセ律法は信の律法に秩序づけられた。信の力能こそ彼の十字架と復活において明らかにされたのである。子供の治癒を懇願する男性の願い方に反応し、イエスは応える。「「できるものなら」と言うのか、信じる者にはあらゆることができる」(Mak.9:23)。「できる」というその力能は宇宙万物の創造者にして救済者である神にいたるまで一切との秩序を回復させる心魂の根源的態勢としての信である。秩序のもとにある信にあらゆる肯定的な力能が含まれるとして、そのあらゆるものごとは神においてそうであったように当然愛の業に秩序づけられ収斂される。それ故にこそ、われらは山上の説教をそれにより満たしうるのではないかとの希望を抱く。パウロはそれを理論化した。

 

5結論

 ひとは信仰には魔法があると思っているかもしれないが、パウロはこれだけの人間一般の心魂の分析のもとに復活という歴史のなかで生起した一度限りの尋常ならざる事件を受け止めたのである。そこにマジックがあるのではなく、恩恵があると。

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何を為しても赦されるのか(その2)―神の憐みと正義―

何をしても赦されるのか?(その2)―神の憐みと正義―

                              2021年7月4日

[先週は「イエスとパウロ―故立花隆氏のイエス論手掛かりに―」として先輩の追悼をこめて学寮時代の彼の真摯な人生の取り組みにふれつつ、イエスの今・ここの実践をパウロは忠実に理論化したことを確認した。福音と律法の関係を正しく理解するとき、二人のあいだに齟齬のないことを確認した。先々週「何をしても赦されるか―神の憐みと正義―」は時間の都合で原稿を読まずに自由に話をした。その原稿をアップしたが、今週は(その2)としてその原稿を改善したものをアップしつつ、講義した。講義は短く自由に話したものが録音されている。これも福音と律法の正しい理解によって解決される]。

 

聖書朗読

「ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:6-8)。

 

1はじめに

 6月16日水曜日の朝礼拝はI君が担当で、詩篇51篇のダビデの悔い改めの祈りのところであった。I君は「サムエル記」をひきながら、イスラエルの王ダビデの軍隊の司令官ウリヤとその妻バテシェバとダビデ直属の預言者ナタンに言及しながら、聖書の中心的な問題である罪の赦しについて話した。ダビデはウリヤの妻を略奪した。戦闘の状況を報告にきたウリヤに妻のもとで休むようにすすめるが、部下が最前線で戦っているこのときに妻と過ごすことはできないとして、野営した。そこでダビデはひそかに伝令をだし、ウリヤを最前線に送り、死なせた。預言者ナタンがダビデのもとにやってきて貧しい羊飼いが大切にしていた一匹の羊を多くの羊を所有する富者が奪ってしまった話をした。ダビデは怒りそのような悪者に死を宣告すると、ナタンは「汝がそのひとなり」と難詰した(2Sam.12:7)。ダビデは悔い改め、その祈りが詩篇51篇として遺されている。I君は詩篇を註解しながら、条件文で「もし悔い改めるなら、何をしても赦されるのか」という問いかけという仕方ではあるが、その一つの可能な解釈を提供した。これは聖書の中心的な問いのひとつである。

 春以来毎週日曜聖書の学びを通じて競争や嫉妬や憎しみなどの争いでもない憐みの心を獲得すべく、福音書と格闘してきたが、ここでは罪の赦しという問題を神の憐みと正義いう視点から考察したい。ドストエフスキーは『カラマゾフの兄弟』のなかでやはりこの問いを引き受け、「一切は赦されている。しかし、一切が赦されていることを知っている者はそんなこと(赤子を槍で突き刺したり、少女を凌辱したり)をしない」という言葉で神の憐みとひとの罪とその克服についての解決案を提示している。しかし、この知識に訴えた理解において、何をしても一切が赦されていることが神ご自身の認識であると想定されているからこそ、その事態が知識の対象とされている。悔い改めさえすれば、福音を信じさえすれば誰もが何でも赦されるのであろうか。そこではどのように、どれほど悔い改め信じればというわれらの悔い改めや信仰の程度は問われないのか。ここに神の前のことがらとひとの心的態勢がそれぞれいかなるものであるか、そしていかなる仕方で関係しているのかが問われる。神による一切の赦しの意志は「知られうる」ものとして啓示され知らしめられているのであろうか。そのように知らされていなければ、誰も一切が赦されていると知ることはできないであろう。そこではドストエフスキーの言葉は反聖書的なものとなる。啓示されている福音と道徳的な有徳さ、聖書的には業の律法の成就のあいだにどのような関係があるかこそ明らかにされねばならない。

 

2. 美しく問う

 まず、そこでの問いは、何をしても赦してしまう神は子供を甘やかしてダメにしてしまう父親のようなものであり、そのような神は知恵もなくまた正しくないのではないのかというものとなろう。他方、父親があまりに厳しければ、子供は萎縮し自己不信に陥ってしまい自ら責任をもって判断する主体となりえないか、反抗するかに走りがちであり、親子のあいだに共依存や反発はあっても愛の関係を築けないであろう。かくして憐み深さと正しさが両立することを示しえてのみ、憐みについて正しく知ることができるのではないかという問いが起きよう。甘やかしすぎまたは厳しすぎのダメ親父は自ら愛や憐みということがらを正しく知っているとは誰も言わないであろう。

 神はそのようなダメ親父に比較させられるようなことがあってはならないはずである。道徳的な危機にもたらすそのような神は信じるに値しないのではないかが問われよう。このような問いがただちに続く。思考を前進させるには一歩一歩問いをたて答えを見いだし、そのうえでその答えが新たな問を生むそのような「美しく問うこと」(アリストテレス)が求められる。何をしても赦されるかというあいまいな問いが立てられた場合に、その問いそれ自身の理解をめぐり多くの問が問わねばならない。イエスの十字架上の罪の贖いの行為はいかなる仕方で遂行されたのか、いかなる効力を持つのかが神学的に問われよう。罪の赦しと恩赦とはどのような関係にあるのか。たとえ神の前で「雪よりも白くなる」(Ps.51:9)ことがあったとしても被害を被った人々は憎しみと有罪を取り消すことはないであろう。そしてひとは罪を犯した場合に、神による罰を恐れているよりも、それが人の前で暴かれこの世で一切を失う者となることを恐れているのではないかも問われる。その場合、神へのどこまでもの不忠実、偽りが明らかとなる。なんとも人間とはどこまでも自己中心的なものである。

 

3. 宗教に求められるものと道徳の関係

 ひとは宗教に藁にも縋る思いで救いを求めてきた。宗教はおのれの悪さに悩みまた苦しむ者を救うところにその真骨頂があるのではないのかも問われてきた。そこでは、宗教を信じるだけで、何をしても赦されるようになるのか、という自らの罪責の重さに慄き絶望から、或いは罪や煩悩に悩む衆生を救うという宗教の機能に対する願望からくる問いが生じるであろう。そこではどこまでも自分の神理解を投影し優しい神をしたてあげその自ら描く神に救いを求めてきたのではないか。いや宗教とはとりすましたものではなく、他のなにものにも救いを見出しえない者のためにこそあると応答されることであろう。

 その究極は万人救済説(universal salvation)であり、信じる信じないにかかわらず神の憐みのゆえに、弥陀の慈悲の故に、罪悪深重、極悪熾盛、地獄ぞ一定住処ぞかしの身にとっても救いは確かなものであると信じる。この信仰というものにはどれだけのマジックが働くのかが問われている。

 ルターの次の言葉も信仰がもたらす大逆転を知識との関係において捉えている。ルターは「義人とはおのれの罪があまりに深くて、どれほど深いか知りえないことを知っている人間だ」という主旨のことを「ローマ書註解」で語っているが、罪の深さから義人への大逆転こそ信に求められてきた。親鸞の悪人こそ救われるという悪人正機説も救いのなさのただなかで信に縋る以外に「別の子細なき」状況が語られている。「親鸞におきてはただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしとよきひと[法然]のおおせをかうぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」。「念仏」とは信仰のことであるが、親鸞の師法然はこう語っている。「念仏といふは、ただこころをひとつにして、もはら阿弥陀の名号(みょうごう)を称念する、これを念仏とは申す」(山崎正一『親鸞』p.58集英社)。親鸞は「いずれの行もおよびがたき身なればとても地獄は一定すみかぞかし」という理解のもとに念仏と行即ち道徳的行為を対置して、道徳的には悪いことしかできず地獄がふさわしい自分に残されているのは信仰だけであるとする(「歎異抄」第二章)信にはどれほどの大逆転のマジックがひめられているのか。彼ら宗教の達人たちは信、信仰について正しく理解した者は憐みも正しく理解できると主張しているように見える。

 ひとは直覚的に信じさえすれば何を為しても赦されるという類の信念は正しくないと感じることであろう。誰であれ、万人が救われるのであるなら、ひとは自らの行為に何ら責任を負うこともなくなる。そのような考えはモラルハザード(道徳的危機)を引き起こしてしまう。ただ、救いを必要としている者の主観的現実としては、おのれの悪さに絶望し、見失われており人生をまっとうできないという感覚を持つことであろう。そのような者には藁にも縋る思いで「汝の罪赦された」と過去形において語られるパッセージを血眼になって探すことであろう。宗教はそのような者を救う力あるものでなければならないはずである。

 内村鑑三は或る文脈においては「道徳無用論」を唱えることができなければ、宗教はその力と醍醐味を失うという主旨の発言を『ロマ書註解』のなかでしている。また黒崎幸吉先生は恩恵の無償性についてこう語っている。「自分の罪がキリストの十字架の贖いによりて、全部しかも永遠に赦されたことをそのままに確信することはなかなか容易ではない。その故はそれがあまりにも不当利得のごとくに見えるからである。しかしながら、この不当利得すなわち神の恩恵をそのままに受けてこれを信ずることが本当の信仰であり、すなおにこれを確信することによりて、始めて「信仰のみによりて義とせらるる事」の何たるかを知ることができる」(『閃光録』 p.83、1973)。

 この信じるだけで罪赦され、義とされることは不当利得なのであろうか。黒崎先生によれば「本当の信仰」はその不当利得ではないかという懐疑を乗り越えるものであるとされる。しかし、不当利得であると思われるようなことを人生の根幹にすえることはできない、潔よくないとして、自ら神に頼ることなく、自らの責任で人生を切り開いていこうとするひとも多いことであろう。この事態は正しく理解されねばならない。実際、パウロも「律法に死んだ」即ち業のモーセ律法のもとに道徳的世界に即して生きることをやめたと語っている。とはいえ、律法はキリストとの新しい生命の関連において語られて新たに秩序づけられており、正しく理解する必要がある。パウロは言う。「わが兄弟たち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:4-6)。

 

4信に基づき道徳的に有徳である場合にのみ、恩恵と責任は両立する。

 宗教と道徳の関係がこれほど緊張したものであるとき、一方で、恩恵の無償性、つまり端的な贈り物であることを明確に論証し、他方で各人の責任ある自由が確立されねばならない。ドストエフスキーの恩恵を「知っている人間」は悪行に身をそめることはないという「その知識」とはいかなるものであり、いかなる仕方で善行を生み出すかの明晰な説明が求められる。神の前のことがらと人の前のことがら、道徳と信仰の関係、そして正義と愛の関係が明確に秩序づけられ把握されねばならない。

 この大きな問を解くには多くの議論が必要とされることは明らかである。神学や聖書学そして文学は恩恵の無償性、贈りもの性についてどこまでも深くキリストの贖いを掘り下げることによって説得的で美しく語ることができるであろう。福音がもつこの恩恵の豊かさこそ、日曜のメッセージに含まれるべきものであるが、今ここではそれに従事することはできない。

 今後の信仰と正義と愛の関係をめぐる議論の基礎として、いくつか基本的な事項を確認しておこう。誰もが同意することとして、信・信仰はどれだけ人格的に悪くてもまたどれだけ認知的に愚かであっても持つことができる、即ち幼子のような仕方で心的態勢の実力いかんにかかわらず心魂の根源に生起する心の働きであるように見える。そこでは善悪をめぐる人格的有徳性も真偽をめぐる認知的有徳性も問われることがないため、正しい信仰ということも問題にならないように見える。藁にも縋る思いで神や仏に向かい始めるという意味では、そうでもあろう。ただやはり誰もが同意するであろうこととして、人類は立派な人間(聖者)になりまた知識を蓄え思慮深い人間(賢者)になることが、そのひとが正しい信仰の持ち主であることの証拠、エヴィデンスになることも否定されないであろう。無律法主義の無頼漢がたとえわたしは救いを信じていると言っても、誰もそのひとを信用することはないであろう、ただし神がそのひとを憐み救い出してくださるよう祈るであろう。

 かくして憐みに縋れば何をしても赦されるというとき、どのような仕方で憐みに縋るのか、信じるのかが一方で問われることになる。他方で、憐みや恩恵の無償性について、明確に理解できないとき、ひとは宗教のもつ力動的な救いをも経験できないであろう。

 

5. 信から愛へ

 ここではイエスとパウロがこの心魂の根底に生起する信と神の憐みそして正義の関係について明確に議論しているので、その理解の大枠を提示したい。神の憐み、恩恵と神の正義そしてひとの信仰の関係について正しく理解したい。

 パウロはモーセの「業の律法」を一概に否定しているわけではなく、新たに啓示された福音即ち「信の律法」のもとに秩序づけている(Rom.3:27)。パウロがその教えを理論化しようとしたそのもととなるイエスご自身山上の説教のなかで律法への尊敬と使命を語っていた。「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。アーメン、わたしは汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」(5:17-20)。

 ただし、イエスもパウロもモーセ律法を愛に収斂させており、愛が満たされたなら、一切の律法が満たされていると主張していた。イエスは「愛」が一切の律法のなかで「偉大な戒め」であると理解しており、そのもとに他の一切の戒めが秩序づけられる限り、この主張は理解可能となる。愛は業の律法の充足、冠として位置づけられるそのような関係においてある。「「師よ、律法のうちいかなる戒めが偉大なものか」。イエスは答えて言う、「汝は汝の神、主を汝の心を尽し[良心に即し]そして汝の魂を尽し[生命ある限り]そして汝の思考を尽して[理性に即し]愛するであろう」。これが偉大なそして第一の戒めである。第二はこれと同様のものである、「汝は汝の隣人を、汝自身の如くに、愛するであろう」。これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちが依拠している」(Mat.22:36,cf.「律法の冠」、「律法の充足」Rom.13:9,10)。愛が満たされる限り、業の律法としての正義は満たされており、あらゆる律法がめざす愛を実現する限りにおいて一点一画とも過ぎ去らないと言うことができる

 愛は業の律法の冠である。愛をそれ自身において実践できるかが問われている。パウロは「業の律法に基づくすべての肉は神の前で義とされないであろう。なぜなら、[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:20)として誰も愛を愛それ自身として満たすことはできないと主張する。パウロは「愛を媒介にして実働している信が力ある」(Gal.5:4)と語り、イエス同様に信に基づき愛に至ろうとする。パウロは業の律法のもとに生きる者はそのもとで審判を受けると言う。「汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しき裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」。かたや、忍耐に即して善き業の栄光とその名誉とその不朽とを求める者たちに永遠の生命を報い、他方、利己心から真理に服せず、不義に服する者たちには怒りと憤りがあるであろう」(2:5-8)。他方でパウロはこうも言う、「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものと認定される。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される」(4:4-5)。ここに矛盾はないのであろうか。

 この「不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される」という主張はわが国においては専修念仏を唱える親鸞の「悪人正機説」の系譜に属するものである。魂の根源的態勢としての念仏と業、信仰と愛の関係は或る人々の唯一の救いの希望ともなり、また克服不能な妨げともなってきた。一般的に言って、所謂point of no return(後戻りできない一点)、消せない過去を経験してきた人々にとっては、自らの自然的な生を何事もなかったかのように継続することはかなわない。それ故にこそ信や念仏の力に縋る以外に生きる道が残されず、そこに救いを見出してきた。ただ「南無阿弥陀仏」を唱え続けること、ただ「汝の罪は赦された」を唱え続けること、それが求められる信の行為であるとされた。そしてそれは道徳的行為と看做されず、それより根源的な心魂の根底における一心不乱な祈りの働きであると看做された。ひとが自らの業や他人の業を振り返り、自他を審判するとき、その者は業の律法のもとに生きている。その業が既に赦されたことを信じる者は信の律法のもとに生きていることがパウロにより報告されている。

 二つの律法の異なりは、一方で業の律法のもとでは各人の道徳的責任が問われており、盗むか・盗まないか、貪るか・貪らないか等の二者択一が他人にもある程度認識できる仕方で問われているが、信の律法のもとでは神がイエス・キリストにあって信実であったとき、信じるか・裏切るかが問われている。そこでは神と個人の関係が問われており、他人が軽々に判断や裁くことのできない縦の関係が成立しており、神の側からの視点が不可欠である。信じるか・信じないかという業の律法での二者択一ではなく、より根源的なものとして神の信への応答が問われている。ひとは裏切るなら、そこでは神とのあいだに信と信の人格的関係が結ばれてはおらず、信に基づく義も生起してはいない。「おおよそ信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。これが信の根源性を明らかにしている。

 信の律法は神にとってもそしてそれ故にひとにとっても業の律法よりも根源的なのである。以下業の律法は罪の自覚を生じさせ悔い改めを介して信の律法に導くことにその機能があることを確認する。信の律法のほうがより根源的であることは、立派な行いなしにもその信が神に嘉みされる場合には罪赦されるという恩恵が確保される。

 「いずれの行も及び難き身」には、ただ「見よ、われは汝の不法を雲の如くに、そして汝の罪を霧の如くに散らした(apēliphsa)。われに立ち返れ、そうすればわれは汝を贖うであろう」の言葉に身を委ね、「地獄ぞ一定すみかぞかし」という思いに捕らわれるとき、ただ「わが思いは汝らの思いと異なる」を思い返し続けるだけであろう(Isaiah 44:22,55:8)。律法主義から解放され、信の律法のもとに生きること、「信じます」という告白がそのつど求められている第一のことがらであり、生の更新の唯一の可能な契機となる(Rom.10:10)。甦りを信じうることそしてそれを告白できることに喜びが伴っているとき、そこには聖霊の働いていることの証になるとパウロは言う。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。

 

6. 信仰義認の教説に対する反論とパウロの応答

 信の心魂における根源性は承認されよう。しかし、通俗的な信仰義認論や悪人正機説の理解によれば、どんなに悪人であっても、ただ信じさえするなら神は罪を赦免し義とする、弥陀の慈悲を受けるというが、そのような神や仏は不義ではないのか、立派な人間だけが救われるに値するのではないかと古今東西を問わずひとびとは困惑してきた。また「われヤコブを愛し、エサウを憎んだ。・・われが憐れもうとする者をわれは憐れむであろう。・・欲する者を彼は憐れみ、欲する者を彼は頑なにする」そのような神は不義なのでないか、依怙贔屓ではないか、「誰が神に逆らえようか」と嫌疑がかけられてきた(9:13-19)。パウロは第一に神の主権によりしかも憐れみの啓示に基づき応答する、「それは望む者のでも、奔走する者のことがらではなく、憐れむ神のことがらである」(9:16)。神に不正の嫌疑がかけられるのは神の憐れみを知らないからである。

 一般的に言えることは、「神には偏り見ることがない」(2:11)とすれば、神が業の律法の適用において、また信の律法の適用において一つの明確な基準のもとに判断が遂行されているなら、憐みに依怙贔屓があることにはならないということである。業の律法のもとに生きる者には業の律法が適用され、信の律法のもとに生きる者には信の律法が適用されているならば、そこに依怙贔屓はないと言えよう。信の律法を充足する者とは「イエスの信に基づく者」また「アブラハムの信に基づく者」として、その信が神に嘉みされる者のことである(3:26,4:16)。

 神の自由な選びにこそ恩恵の無償性が成り立つ。「ご自身が予め定めた者たち、その者たちを彼は呼びだされもした。そして彼が呼びだした者たち、その者たちを彼は義ともされた。しかし、ご自身が義とした者たち、その者たちに彼は栄光をも賜わった」(8:30)。しかし、そこに神の恣意性の疑いがもたれてきた。神の永遠の選び、予定ということが定まっているなら、どこにわれらの自由があろうか。

 ここでは恩恵の無償性、贈りもの性について詳しく展開することはできない。神学や宣教そして文学においてこの神の恩恵はどこまでも豊かに語られることであろう。ここでは、神には偏り見ることがなく、不正がないことをパウロの議論から確認したい。どんな罪をも赦してしまう神は不正ではないのかという問いは道理あるものである。それに対してパウロは適切に応答していることを確認するだけに今回は留まる。

 「[業の]律法は怒りを成し遂げる」(Rom.4:17)とあるように、「神の怒り」の規準は「業の律法」、モーセの十戒を介して明確に啓示されたとパウロにより報告されている。「ローマ書」一章の議論の展開としてまず「神の義」は福音において啓示されていることが提示され、その神が義であることの第一の理由が神の怒りにあると報告されている。(B)「なぜなら神の怒りは天から不義のうちに真理をはばむ人間たちのすべての不敬虔と不義のうえに啓示されているからである[現在形]」(1:18)。神の怒りは今・ここで真理をはばむと神に看做されている人間たちの裁量のもとにある不敬虔と不義という心魂の態勢のうえに、即ち心魂の或る在り方のうえに「引き渡し」、勝手にしろという仕方で啓示されている(1:24)。怒りの啓示内容は人間化された心的状態ではなく、神の行為において顕されている。そして彼の議論のなかではその怒りは福音に立ち帰らしめるものとして位置づけられる。

 (B)「神の怒り」の啓示の報告の結論として「業の律法に基づくすべての肉はご自身の前で義とされることはないであろう[未来形]。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」と終わりの日に罪人として審判されるに至ることがこの啓示の含意として導出されている(2:20)。ただし、この未来形表現により、当人が悔い改めた場合には事情が異なることもあろうことが含意されている。悔い改めとは業の律法のもとから信の律法のもとに移行することである。ただし、自らが信の律法のもとで信仰を持ったか、業の律法のもとで貪りとして信仰をもったかは、終わりの日に知らされる。業の律法のもとに生きる者は義とされないことが一般的に知らされている。悔い改めは神の意志に背くことから神の意志に服し信に基づき義とされることにより遂行される。「恐れと慄きをもって汝の救いをまっとうせよ」(Phil.2:12)。

 神の義の第一論証であるこの怒りと業の律法のもとにある者の不義の結論に続き、第二論証が展開される。(A)神の信義の啓示が報告される。(A)「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている[現在完了形]。・・神は、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」(3:21-26)。(A)義人はいかなる者であるかに関して、「神はイエスの信に基づく者を義とする[現在分詞形]」により啓示内容として一般的に知らされている。さらに、信の律法のもとにあり(A)「イエスの信に基づく者」と看做される者についてはアブラハムによる先駆的事例がある。「アブラハムにその信仰が義と認定された」(4:3)。このようにイエス以前の「アブラハムの信に基づく者」(4:16)に関しても同様である。なおイエスご自身は正しい信仰を「幼子」の如き信仰と表現することがある。「まことに汝らに告げる、幼子のように神の国を受け入れない者はそこに入ることはないであろう」(Mak.10:15)。どれほど認知的に人格的に愚かで悪くても、そうであるからこそ「幼子」のように信じることはできる。最も困難な探求対象が最も容易な幼子の信のみを心魂の根底に要求しているということは認知的、人格的に十全な全知全能の神にふさわしい。われらは幼子のように信じるその「神はおのれの独り子を賜うほどに世界を愛した」(John.3:17)方である。

 かくして、今・ここで二種類の神の義が啓示されているが、一方は神の怒りであり他方は神ご自身の信義ならびにイエスの信に基づく者の義認である。神の怒りは直接には罪人の最終的審判ではなく、ここに(A)(B)啓示行為内容の非対称性が見られる。怒りから逃れるべく悔い改めの余地が残されるからである。他方、義認が今ここで生起している者については神の認識の変更(人間的に言えば)は想定されていない。

 

7. 悔い改めは業の律法から信の律法のもとに移行することである。

 この二種類(A)(B)の神の義の啓示を介して、信の律法のもとに生きる以外に義とされる道のないことが知らされている。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。業の律法に基づくと神に看做される者は終わりの日にその業に応じて報いを受けるが、そこでは誰も義と看做されることはないであろうからである(前節)。

 かくして、ひとは悔い改めにより怒りを逃れて信の律法のもとで罪の赦しの義認に向かうことができるだけである。「ひとよ、汝は神の裁きを逃れると思うのか。それとも汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか。汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しい裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」」Rom.2:3-6)。

 パウロは「ガラテア書」において自らの自覚としてこの業の律法から信の律法への移行を罪の値である死からキリストにおける生への移行として語る。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」(Gal.2:19-20)。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)。

 8. 神には二つの律法の適用において偏りがない。

 「神には偏り見ることはない」(Rom.2:11)。なぜなら、一方、神は業の律法のもとに生きる者には業の律法を適用し、そこでは「すべての律法を為す義務がある」(Gal.5:3)こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」からである(Rom.2:13,2:6)。他方、信の律法のもとに生きようとする者、「神の善性」(11:22)に留まろうとする者には「イエスの信に基づいている」(3:26)かにより審判を遂行するからである。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(9:13)とあるのは、前者が信の律法のもとに、後者が業の律法のもとに生きたことが想定されているからである、ただしエサウがその後悔い改める可能性は否定されていない。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」(11:22)。神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は「叡知の機能不全」(1:28)の故に神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできない。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した」(1:28)。「彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではなく、行う者たちを是認さえしている」(1:32)。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるであろう。まさに「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」(Ps.18:26)。

 9. 結論 解決案

 以上のような事情であるとして、ひとは信の律法のもとに生きていると自ら思っていても神はそのようには看做していないかもしれない。「わたしに「主よ」、「主よ」と言う者がみな天の国にはいることになるわけではない」(Mat.7:21)。他方、自分には地獄が決まって住処であり永遠の滅びに定められていると思っていても、神はそう看做していないかもしれない。「ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:6-8)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みした。神は自らに背く者たちについて「彼ら自身において考慮することなく」十字架上のイエスの信義に基づき考慮していたまう(2Cor.5:19)。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。

 この福音のメッセージは個々人の誰にもイエス・キリストにおいてほど明確には知らされてはいない。これが何でも赦されるかという問いをめぐる最も重要な応答となる。同様に万人救済論に神はコミットしているか否かもイエス・キリストの信においてほど知らされてはいない。神の意志はモーセ律法とイエス・キリストの信において最も明確に知らされている。だからこそ、そのつど自ら神の憐みのもとにおり、罪赦されていると信じることが実質的なものとなる。ひとは自らの責任ある自由において神の前の啓示の出来事を自らのものとするよう命じられている。「汝が汝自身のがわで持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。命令されるということは受容することも拒否することもできる、即ち「義の奴隷」とも「罪の奴隷」ともなりうる自由な存在者であることを示している(6:20)。パウロ個人にとっても同様であり、彼は「わたしは他者にいかにも福音を宣教しながら自ら失格者となることがないように、わたしはわが身体を打ち、身体を拘束する」と、さらには「恐れと慄きをもって救いを全うせよ」と、神の前の出来事を自らのものとすべく、その都度信に立ち返る(1Cor.9:27, Phil.2:12)。そこに彼は「汝らが聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れる」聖霊の執り成しが生起することを願っている(Rom.15:13)。「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えることがないためである」。

 ドストエフスキーによる罪の赦しを知っている者は不道徳なことをしないというこの知識は個別的に聖霊の援けのなかでの今・ここの知識であると理解する。聖霊の平安をいただいた経験を感謝してまた信に立ち帰ることであろう。罪を犯さないということは人生のそのつどの今・ここのことがらだからである。パウロは聖霊によるキリストの十字架の出来事の過去と彼自身の現在の媒介のもとに、ひとつの知識主張をする。「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えることがないためである」(Rom.6:6)。あの過去の十字架の出来事を自らの「古き人」の死と同化できるのは聖霊の今・ここの媒介の働きによってのみである。「ヘブライ人への手紙」では信仰による知識の証言がこう語られている。「信仰は望んでいるものごとの基礎(hupostasis)であり、見ていないものごとの[見ずに留まることへの]反駁(elegkos)である。というのも信仰によって古への先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより諸時代が[先人たちのように]統一させられていることを、信仰により叡知において観取しており(pistei noūmen)、見ているものが現れないものども[神の言葉]に基づき生じたことを知るに至る」(Heb.11:1-2)。

 或るひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証はどれだけ隣人を愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。罪赦されたことの証は多く愛しうるということに見られるなら、われらは歯を食いしばって敵をも愛することであろう。今・ここでキリストにあって自ら神の憐みを受けているという信が愛を実現する唯一の道である。

 

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イエスとパウロ―故立花隆(橘隆志)氏「方舟」創刊号のイエス論を手掛かりに

イエスとパウロ―故立花隆(橘隆志)氏「方舟」創刊号のイエス論を手掛かりに

                                           日曜聖書講義 2021.6.27

 

聖書箇所

「あなた方は久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなた方は堅い食物ではなく乳を必要としている。すべて乳を飲んでいる者は幼子なのだから義の言葉を味わうことができない。」(へブル書5:11-13立花氏引用訳文)。

 

1はじめに 立花隆氏のイエスとパウロ論

 学寮の草創期の先輩に「知の巨人」と呼ばれた政治から宇宙そして死に至るまで「僕は3万冊読んで100冊書いた」と語ったジェネラリスト立花隆氏がいる。彼が4月30日に逝去されていたことが6月14日月曜に報道された。立花隆(本名、橘隆志)氏は1959年6月「方舟」創刊号にイエスとパウロについての若き魂の躍動を感じさせる短文を寄稿している。とても興味深い文章なので、追悼の意味をこめてここで紹介して、イエスとパウロの関係について考えたい。そのため先週約束した「ひとは何を為しても赦されるか」の続きを一旦中断することをおゆるしいただきたい。とはいえこれら二つの論題は深いところでつながっているので、罪の赦しの議論の序論として今日の話をお聞きいただきたい。2021.7.5追記。6月27日の文章に誤りがあったので、訂正します。ジッドの『田園交響楽』の一節を氏自身のものとみなし論じていました。お詫びして訂正します。

     考えていること 橘隆志

 「『神は死に対する恐怖の苦痛です。苦痛と恐怖とを征服したものは自ら神となるのです。      その時こそ新生活が始まる。新人が生まれる。一切が新しくなる・・・・その時こそ、歴史を二つの部分に分けるようになる・・ゴリラから神の撲滅までと、神の撲滅から・・』そうだ僕等は神を撲滅し、キリーロフに従おう、神の撲滅により、僕らに全き自由が達成されるのだ。」こんなことを考えては何度か神様から離れようと思いました。でもいつも事実が、キリスト・イエスという事実が僕をひきとめました。神を否定してもイエスという事実が残るのです。そしてそのイエス様がとてもきれいな存在なのです。あんまりきれいなので聖書を読んでいて泣きたくなる時があるほどです。その清らかさがどんな恋人にもまして離れがたさを感じさせます。イエス様にくらべてパウロはいやです。きらいです、パウロの手紙もきらいです。「ジェルトリードの宗教教育は、私に新たな眼で福音書を読み返させることになった。それにつれて益々われわれのキリスト教の信仰を形づくっている数多の概念がキリスト自身の言葉というよりは寧ろ、聖パウロの釈義に負うところが多いようにおもわれてくるのだった。―中略―私は福音書のどこを探しても、誡命、威嚇、禁則の類は一つとして見出すことができない。すべてこれらはことごとく聖パウロに発している」[田園今交響楽]。僕等は生命のパンを直接にたべるべきだと思います。「あなた方は久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなた方は堅い食物ではなく乳を必要としている。すべて乳を飲んでいる者は幼子なのだから義の言葉を味わうことができない。」[へブル書5:11-13]僕たちもう形而上学的論争をやめよう。行動こそ、直接イエスの言葉を味わうことのできる道だ。

 若々しい生命の躍動感が伝わる清冽な言葉である。アンドレジッドの『田園交響楽』における牧師による盲目の少女ジェルトリードの教育について、氏は牧師の言葉を引用しているが、彼はそれに同意している。孤児のジェルトリードを引き取った牧師は罪について教えなかったが、手術により目が見えるようになり、物語は急展開を告げる。(配布の松澤有子氏によるブログ「ジェルトリュードの心情」(2014.8.31)からあらすじをご理解いただきたい)。そこで重要な働きを為すパウロの言葉は「ローマ書」七章九節と十三節である。その前後を含め引用する。「それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。8しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。9しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。10だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見いだされた。11なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺いたそしてその戒めを介して殺したからである。12かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である。13それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ、罪が善きものを介してわれに死を成し遂げていることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである」(Rom.7:7-13)。彼女は牧師に言う、「あなたが授けてくださる幸福は何から何までわたしの無知のうえに築かれているような気がしますの」。盲目の少女に規範を教えずに、あたかもアダムとイブが神の光のなかにいることを認識しないほどに光のなかにいた時期があったように、美しいものを教え、闇や醜悪なものを教えなかった。そこでは規範がないため、妻子ある男性を愛することに気づいていても自覚的には罪意識を持つことはないであろう。なんでもありの世界はタブーも存在しない。9節は律法の一つの役割についてアダムをモデルにして教えている。パウロによれば律法は福音の準備として位置づけられる。

 立花氏は入寮作文において「クリスチャンになりました」その経緯を読む者に興味深く書いている。ただし、本人が公にすることを望んでいないかもしれず公にはできない。立花氏はのちにキリスト教が他の宗教を邪教として排斥するその独善がいやで学生時代に離れたと回想している。「キリスト教は他の宗教をすべて邪教と考える独善性がいやで、大学時代に離れた。いまは哲学的&科学的世界観にもとづく無宗教派といったところです」(文春オンライン 2014.11.6「追悼 立花隆さんインタビュー#2」)。このように若い時に読んだドストエフスキーやジッドの作品は彼の思想形成に大きな影響を与えたことがこの短文からも理解できる。彼は「私に新たな眼で福音書を読み返させることになった」という牧師の言葉を引用しつつ、福音書に対する新たな理解とパウロに対する嫌悪感を表明する。彼はパウロの律法理解に同意できなかったのではないかと思われる。学寮時代はイエス・キリストの「事実」により支えられていたけれども、パウロ神学に躓いたのだと思われる。しかし、後年或る時、大江健三郎との対談で、タイムマシーンで訪ねたい時代があるかという話題になって、二人ともナザレのイエスに会いたいと語っていた。彼は最後までナザレのイエスの清さに惹かれ、憧れていたことであろう。

 わたしどもには神がひとの内面をどう見ておられるかについては2千年前の福音の啓示においてほどには、個々人の誰にもそれほど明確には知らされていないので、信による突破が不可欠となる。一方でイエスは「主よ、主よという者が皆天国にいれていただくわけではない」(Mat.7:21)と語っており、自分で信仰があると思っても神はそう看做していないかもしれない。他方で、イエスご自身「後の者が先になり、先の者が後になる」(Mat.20:16)と語っておられ、自らは後退したと思っても、神ご自身はそう看做しておられないかもしれない。

 パウロもイザヤを引いて、神の選びの自由について語っている。「14それでは、信じることのなかったその方にいかにひとびとは呼びかけるであろうか。聞くことのなかったその方をいかに彼らは信じるであろうか。しかし、宣教する者なしにいかに彼らは聞くのであろうか。15しかし、遣わされなかったなら、いかにひとびとは宣教するのであろうか。まさにこう書いてある、「いかに麗しいことか、よきことを告げる者たちの足は」。16しかし、あらゆる者が福音に聞き従ったのではない。というのも、イザヤは語っている、「主よ、誰がわれらの伝聞を信じたでしょうか」。17かくして、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの語りを介してである。18しかし、彼らは聞かなかったのではないかと、われは語っているのか。いや、むしろ、「その者たちの声は全地に響きわたった。そして彼らの言葉は世界の果てにまで[及んだ]」。19しかし、イスラエルは知らなかったのではないかと、われ語っているのか。誰よりもまずモーセが語っている、「われ [わが]民でない者のことで汝らに嫉みを起こさせるであろう、悟りなき民のことで汝らに怒りを抱かせるであろう」。20他方、イザヤは大胆でありそして語る、「われはわれを探し求めない者たちに見いだされた、われを尋ね求めない者たちに現れる者となった」」(Rom.10:14-20)。このように、神の恩恵は風が思うがままに吹くように、自由であり、その恩恵を受けながら自ら自覚していないということも起きよう(「神には偏り見ることがない」(Rom.2:11)神の公平性についてはここでは扱ええない)。

 神との関わりは最後まで福音の啓示ほどには知らされてはおらず、「恐れと慄きをもって救いをまっとうせよ」(Phil.2:12)と命じられることになる。この世界は「後の者が先になり、先の者が後にな」(Mat.20:16)そのような状況にある。わたしどもは立花氏が力一杯この人生を駆け抜け、著しい好奇心のもとに生と死を探求したことに心から敬意を表したい。彼はテロでも戦争でも何でも起これ自分が一番先に現場に行くという「こと起これ主義」を標榜し、イエスのように「行動」のひと、実践のひととして勇敢に人類の苦しみや、悪そして死を調査と科学的知見を頼りに正面から受け止めた。パウロの理論化に躓いたことがあったかもしれないが、それは聖書学者たちによるパウロの誤解像に基づくものであったかもしれず、天の父なる神様が今は彼に一切を明らかにし、彼の御霊を受け止めてくださるよう、祈る。

 10代のこの若々しい文章には清らかなイエスへの愛が美しく表明されている。その対比においてパウロに対する嫌悪も明瞭に記されている。新約聖書のラテン語訳は二世紀の古ラテン語訳(vetus latinus)に基づきヒエロニムスが四世紀に自らその「編集」であるとして世にだした流布版Vulgata聖書が権威として位置付けられてきたが、わたしはパウロの神学的主張の中心的部分「ローマ書」の3章22節等がそれ以降今日まで誤訳されてきたために、カトリックとプロテスタントが分かれてしまったことを指摘し、正しい理解の普及に努めている。パウロは既にカトリックとプロテスタントの和解案を分裂以前に提案していた。またパウロはイエスの山上の説教をはじめ彼の宣教を最も適切に理論化していると主張している。それ故に長いキリスト教史のなかで立花氏が引用するジェルトリードの議論にも何らかの誤解があると考えている。立花氏は聖書学者たちの誤訳の一人の(人間的には)犠牲者であったのではないかと思われる。わたしどもはなんとか正しくイエスとパウロの教えを世に伝えていきたい。

 イエスが言葉と働き(ロゴスとエルゴン)において成し遂げたことをパウロが理論化したが、ここでは「良心」、「愛」、「福音」、「信仰」それから「排他性或いは寛容」について双方の理解が合致していることを確認したい。「良心」については①J、①Pと表記し、良心は神との共知として働くことにおいて双方同意見であることを明らかにする。モーセ律法が「愛」に収斂されていることにも二人は同意見であり、双方の理解を②J②Pと表記する。イエスはリアルタイムに「福音」を生きまたそのために死にそしてその生死が神に嘉みされ甦った(③J)が、パウロはその福音を復活に基づき理論化した(③P)。「リアルタイム」というのは、例えばもしイエスが十字架から降りてきてしまったなら、神の計画は成就されず、新約は実現しなかった、そのような一挙手一投足が問題となることを言う。イエスは自然とその創造者、管理者である天の父が野の百合空の鳥を養っていることに聴衆に思いを向け、道徳的次元を内側から破り「信仰」に招き(④J)それにより律法を成就できることを自ら実践した。パウロは心魂の分析を介して「信仰・信」(④P)がその根源的態勢であることを理論化することにより、信仰が罪を克服させ一切を創造的、肯定的に秩序づけた。他の道を歩む者への排他性或いは寛容をめぐって、双方とも神の前においては信の一本道を歩んだが隣人に対しては肉の弱さへの譲歩故に寛容であったことを明らかにする。(⑤J)イエスは狭い真っすぐな道を歩みぬき、「わたしのもとに来なさい」と信仰に招くが、イエスは従う者に他の道を勧めることにより裏切ることは想定されない。他方、(⑤P)パウロはその福音の宣教とともに「汝らの肉の弱さのゆえにわたしは人間的なことを語る」と言う仕方で、「何であれ真実なるもの」に対する理解を示している。これは立花氏がキリスト教に躓いた論点である。おおよそ真実なるもの、信実と裏切りの概念からして神の前における排他性と肉の弱さへの寛容の両立を捉えたい。

 

 2「良心」と律法

 イエスは山上の説教において人類の語りうる最高の道徳を提示した。憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの新しい教えは尋常ではない。モーセ律法を極性化したこれらの言葉はそれを正面から引き受けるひとには良心・共知(sun-eidēsis, con-science)の痛みの発動を引き起こすに十分である(Mat.5:22,5:28,5:39)。イエスとその山上の説教とを「共知」の相手方とする者たちには、心の少しの歪曲が痛みになる。右目や右手が罪を犯させるなら抉りとり切り取ってしまえ、全身が地獄に投げ込まれるよりましである、と警告される(5:27-30)。①J良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。良心は神の歓心を買いつつひとへの憎しみを育てる二心の偽りにたいして発動する。

 パウロにおいてこのイエスの良心理解に完全に対応する議論①Pを見出すことができる。パウロも良心を神に明らかなことが自らに明らかになることであると規定する。「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:11)。異邦人ならびに「アダムからモーセに至るまで」のユダヤ人をも含め、ひとの「良心」は「律法を持たずにも自らに対し律法」である(Rom.5:14,2:14)。神の義の一つの顕れである神の怒りは律法に違反する者に対し「引き渡す」即ち勝手にせよという仕方で啓示されている、完全に引き渡されている限り良心は反応しないであろうが(Rom.1:27,32)。というのも、罪との共知のもとでは、神の意志について盲目にされており、何ら良心の痛みを感じることなしに、罪の手下として悪を繁殖させるだけであろう。

 律法が良心を目覚めさせる。律法という善が与えられたのは、「罪が善きものを介してわたしに死を成し遂げていることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである」(Rom. 7:13)。ひとが悪行に身を染めているその瞬間には、自らが「死を成し遂げている」その自覚をもたないであろう。律法は罪の奴隷となり悪行に身を任せ死に向かっていることを知らしめる。律法による罪の暴きたてに呼応して、「内なる人間」が「叡知の律法」に即すことによって霊を伴う良心が発動し、葛藤が引き起こされる、そのような役割を業の律法と叡知の律法は担う(Rom.7:22-25)。この葛藤を介して信の律法に移行するべく「福音」が宣教される。このようにパウロの良心論は業のモーセ律法から福音に導くものとして位置付けられる。イエスご自身は律法への尊敬のなかで、しかも業の律法を実現すべく、天の父の子であることへの信仰に招く。

 

3モーセの業の律法の「愛」への収斂と「信」を介した愛の実現

 イエスは山上の説教において旧約との対比において②J「愛」についてこう命じる。「「隣人を愛し、敵を憎め」と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(5:43-46)。

 イエスは家族や隣人や友人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益、世間体との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において二心や三つ心があり支配や操作そして独善や欲望が遂行、解放されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。ここに②J敵をも愛する究極の愛の姿が示されている。愛とは支配からも被支配からも唯一自由な場所で、我と汝の等しさが生起することである。敵がその敵意の差し向ける相手である自らがまずその敵の友となることによって友となることである。そこには恐れから解放された喜びがある。

 イエスは旧約に伝えられる600を超える律法の第一と第二の戒めが愛であるとして律法を秩序付ける。②J「「師よ、律法のうちいかなる戒めが偉大なものか」。イエスは答えて言う、「汝は汝の神、主を汝の心を尽し[良心に即し]そして汝の魂を尽し[生命ある限り]そして汝の思考を尽して[理性に即し]愛するであろう」。これが偉大なそして第一の戒めである。第二はこれと同様のものである、「汝は汝の隣人を、汝自身の如くに、愛するであろう」。これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちが依拠している」(Mat. 22:36-40)。イエスは「律法の一切」および「預言者」がこの掟により秩序づけられると主張する。イエスはこのように父なる神の意志、律法を一つの体系のなかで捉え、軽重を明確に判別している。「ああ、なんということだ、汝ら、律法学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばきそして憐みそして信を蔑(ないがし)ろにしている」(Mat.23:23)。彼はここで正義と憐みそして信を律法のなかで重要な戒めとして位置づけた。イエスは義と愛と信これら三つのなかで、この途上の生においては顔と顔とをあわせてまみえることのできない神との関係においては、神に向かう根源的な心魂の態勢である信を基礎にして愛と義の両立に向かった。

 かくしてイエスはこう宣言することができる。「わたしは律法と預言者を破壊するためではなく、成就するべく来た。わたしはまことに汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう」(Mat.5:17-18)。律法から一点一画たりとも「過ぎ去ることはない」のは、律法は神の生ける意志であり、その一切は愛の道具、徴、表現としてそして総じて愛を実現することに向けて収斂しているからである。

 イエスは急進化された律法を実現するべく、道徳的次元を内側から破り信仰に招く。イエスは自らが「天の父の子」(5:45)であるという信仰のもとに、父の御心としての律法は愛に収斂されるとして、愛に至る信の従順を貫いた。「汝らの天の父はご自身を求める者に善いものをくださるであろう」(7:11)。「神は独子を賜うほどにこの世を愛された」(John.3:18)。各人にとって求めるべき善きものとは神ご自身であり、その最も善きものに他の一切の善、良きものが秩序づけられる。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれら[生活必需品から神を知るに至るまで]すべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(6:32-33)。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。誰かに何か善きものを求めることはそのひとに対する信頼を前提にしている。天の父なる神がその信仰を嘉みされたそのひとりのひと、ナザレのイエスはアブラハム、ダビデの系図のなかで生まれ、良心を宥める究極的な律法を語り生きまたその成就に向けて死んだまさにその方である。

 新しい葡萄酒は新しい革袋にいれなければ、破れてしまう。イエスはご自身の言葉を身をもって成就した。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けてそして酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。ユダヤ人の伝統的な罪の犠牲の供犠は律法違反に対する自分たちの償いのために神を宥めるべく犠牲を捧げる。自らの罪と献げものの交換の提供である。旧約の視点から見ればイエスはその犠牲の子羊であると言えるであろう。しかし類比はそこまでである。そこに神が共にいました場合にはその子羊は神にではなく罪人たちに提供されたのである。方向が逆であると言える。そこでは人類の罪と犠牲の交換の提供ではなく、神からの和解の提供となった。

 これが③Jイエスにおいてご自身の一言一句、一挙手一投足において実現された③「福音」である。「わたしは憐れみを好み、犠牲を好まない」(Hose.6:6)。それを可能にしたのが御子の受肉による執り成し、仲保の働きであった。人格的な正義と憐みが両立する和解には間に入る人格的な存在者を必要とする。一方、死に至るまでの従順により信に基づく正義を成就し、他方、罪から贖いだすべく身代わりの死を差し出すことにより愛を成就した、そのような仲保者のみが両立を可能にする。

 

4イエスとパウロの歴史的文脈―復活に至る「福音」の実現と復活に基づく「福音」の理論へ―

 旧約においてはこの愛に収斂され急進化されたモーセ律法を守りえないことが罪であるとされた。イエスのこれらの言葉に偽りなく、山上の説教に即して、彼を攻撃するパリサイ人はじめ人類の重荷を担い、この山上の説教が満たされるべく生きそして右の頬を打たれたら左の頬を差し出しつつ父の御心に従順に従いつつ十字架上で死んだ。「誰かわたしの後に従いたいと思うならば、自分を否定せよそして自分の十字架を担ぎ上げよそしてわたしについてこい」(Mat.16:24)。イエスご自身にとって自ら担うべき十字架とは全人類の罪であった。

 イエスは苦難の僕に見られるように旧約聖書が自らについて証するものであるという信のうちにご自身の生を通じて福音を言葉と働きにおいてリアルタイムに実現していった。彼はエマオの道の途上にて復活の主として弟子たちに顕れた。そのさいに、復活のキリストは「[旧約]聖書全体(en pasais tais graphais)」がご自身について書かれたものであることを説明した。「わたしがまだ汝らとともにいるときに、汝らに語ったわが言葉はこうである。「モーセの律法においてそして預言者たちにおいてまた詩篇においてわたしについて書かれているものごとはすべて成就されねばならない」(Luk.24:44)。そのとき復活の主は書を理解させるべくエマオへの道を随伴する弟子たちの微睡んでいた目を開き知識を授けた。そして彼は彼らに言った、「こう書かれている、キリストは苦しみを受けそして三日目に死者たちから甦らされ、ご自身の御名のうえにすべての民族に罪の赦しへの悔い改めが宣教される。それらはエルサレムから始められるが、汝らはそのことどもの証人である。そしてわたしは汝らのうえにわが父の約束を送る。汝らは至高の場からの力に覆われるまで街に留まっていよ」(24:45-49)。弟子たちはエマオへの途上のこの出来事を「われらの心うちに燃えしならずや」(24:32)と回想している。

 これらの言葉はイエスの十字架に至る途上でのリアルタイムの発言の報告であり、また復活の主の発言としての報告である。パウロの宣教はこれらのイエスの言葉と働きを前提にしている。「福音」③Pについてパウロは論じる、主の復活の勝利が示すように人類の罪は十字架上で既に処分された。キリストの弟子たろうとする者は苦難の僕の先駆同様に、人類の罪を担うことこそ光栄ある僕の道であるが、それは既に罪と死に勝利した復活の主と共に担うものとなった。「自分を否定せよそして自分の十字架を担ぎ上げよそしてわたしについてこい」とはパウロによれば、もはや肉に即して生きるのではなく、この罪と死に対する勝利者への信仰のもとに、復活の主の軛に繋がれて生きることに他ならない。罪とその値である死に対して勝利が打ち立てられたからこそ、イエスの「自分を否定せよ」を肯定の言葉として聞くことができる、つまり主イエスと共に重荷を担って歩むことである。「われらの主イエス・キリストによりわれらに勝利を賜る神に感謝しよう」(1Cor.15:57)。イエスがその信仰に基づく義の道を切り開き、それは彼の復活において確証されたからこそ、パウロは「信に基づかないあらゆるものごとは罪である」(Rom.14:22)と神ご自身にとってもひとにとっても信の根源性に基づき信に基づく義そして信仰義認論を展開することができたのである。

 かくして、パウロは業のモーセ律法をこう位置付ける。「業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:20)。愛を成就するには信の道を通るしかないことが知らされている。「愛を媒介にして実働している信が力強い」(Gal.5:6)。

 このことの故に愛が満たされるとき、一切の律法は充足されると語ることが許容される。信と愛はパウロにおいても、一方、信は信の律法により啓示され、他方、「愛は業の律法の充足である」(Rom.13:10)として位置づけられるそのような関係においてある。パウロは愛が「義の果実」(Phil.1:11)、つまり信に基づく正義が生み出す肯定的な産物であるとする。そこで正義はもはや「目には目を償い」(Exod.21:24)のモーセ律法の比量的な正義ではなく「信に基づく義」(Rom.10:6)、「神の義は・・信に基づき啓示されている」(Rom.1:17,cf.Gal.3:16)、「キリストの信を介した義」(Phil.3:9)と特徴づけられる神が信に基づき義であることからひとも同様にキリストの信に基づき義とされる神の前の正義を意味し、その正義と愛の両立が打ち立てられる。イエスは信の従順を貫いた、そしてそこにおいて公正なさばき・正義と憐み・愛が新たな正義の理解のもとに和解した。これが福音である。

 「福音」とはパウロのまとめによれば「信じる[と神が嘉みする]すべての者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:16)。そしてそれは「信の律法」(3:27)と呼ばれ、「業の[モーセ]律法」から概念上、より一層根源的なものとして判別されている。信の律法は正義をめぐる神の意志であり、「神の信」(3:3)に基づく神の義として告げ示されている。「業の律法を離れて」神の義は「イエス・キリストの信」を介して啓示されている。信の律法における信義は「分離されない」が、モーセの業の律法とは分離されうるのである(Rom.3:21-22)。神ご自身にとって義との関連において信はより根源的である。

 神の信が先行し、それに対応する即ち神に嘉みされる信に基づく義・正義を「人格的義・正義」と呼び、司法的次元における正義と概念上区別することにする、ただし、司法的な正義は神の意志である限り人格的正義に基礎づけられるはずのものであるが。イエスはユダヤ人が信奉するモーセ律法は道徳的次元のみにて比量的、応報的、配分的な業に基づく正義として捉えられうるものであることを提示している。それに対し十字架の受容に至るまでの従順の信を貫き、イエスは信に基づく正義を打ち立てることにより、「業の律法」を乗り越える。彼は比量、応報を超える新たな正義のもとに純化されたモーセ律法の正義をも信の従順により満たす。山上の聴衆が「天の父の子となるために」そして天国における報いとしての最終的な正義の実現への信仰によって、彼は地に固執する群衆を新たに「地の塩、世の光」となるよう導く(5:13-14,45)。

 

5主の復活が信仰を基礎づけ山上の説教を満たさせる。

 イエスのリアルタイムにおける十字架に至る信の貫徹とその義の証である復活が福音をもたらした。パウロはこの福音の実現を受け止めて、福音の理論を構築した。パウロはとりわけ「ローマ書」においてまた「ガラテア書」において正しい信仰とはいかなるものかの議論を展開する。永遠の生命の保証として主の復活はわれらの信仰を引き起こしそして信に基づく義を保証するものである。パウロは主の復活という神の歴史への介入から十字架とその生涯を捉えなおしたのである。

 なお、当のイエスご自身が苦闘のただなかにあったことを忘れてはならない。山上の説教が生命を懸けて生き抜かれたことによって、われらはひととして想定しうる最も偽りのない在り方が福音に包摂される。新しい生命が福音という新しい革袋に入れられた。その喜びの福音はパウロにおいて聖霊によりもたらされる「信じること」が喜びとなり信に基づき救いだす「神の力能」(Rom.1:16)の働きであると特徴づけられる。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。「ユダヤ人にもギリシャ人にも呼び出された者たち自身にとっては、キリストは神の力能でありまた知恵である」(1Cor.1:22)。信じうることの喜びと公的な信仰告白は自らが神に呼び出された者であることを証する光栄ある心の働きである。

 主イエスの甦らしを遂行したまう神の力能によって古い業の律法も新しい信の律法の光のもとに照らし直され新しくなり、業のモーセ律法は何等か新しい酒に変換させられる。それは少なくとも人類にひとりは福音の光のもとに山上の律法を成就した方がいるからであり、それゆえに神はナザレのイエスをご自身の御心に適う者として嘉みし、ご自身の信に基づく義の啓示の媒介として用いられたからである。かくして、業に基づく義とは異なる信に基づく義が、業の律法の冠である愛を実現させるその力能が人類に付与されるに至った。モーセ律法は信の律法に秩序づけられた。信の力能こそ彼の十字架と復活において明らかにされたのである。子供の治癒を懇願する男性の願い方に反応し、イエスは応える。「「できるものなら」と言うのか、信じる者にはあらゆることができる」(Mak.9:23)。「できる」というその力能は宇宙万物の創造者にして救済者である神にいたるまで一切との秩序を回復させる心魂の根源的態勢としての信である。秩序のもとにある信にあらゆる肯定的な力能が含まれるとして、そのあらゆるものごとは神においてそうであったように当然愛の業に秩序づけられ収斂される。それ故にこそ、われらは山上の説教をそれにより満たしうるのではないかとの希望を抱く。パウロはそれを理論化した。

 

 6排他性と寛容

 最後に、立花隆が躓いたキリスト教の持つ排他性についてイエスとパウロはいかなる態度をとっていたかを確認する。

 イエスは神の前で狭い真っすぐな信の道を歩みぬいた。立花はこの潔さに心の清さを見て惹かれたのであろう。それは同時に他の道を必然的に排除することになる。その彼には他の道を顧みる必要を感じることもゆとりもなかったことであろう。明確な父の意志の認識のもとに言葉と業において権威ある者として憐みを実現していった。彼は「イスラエルの失われた羊」のみに遣わされているという旧約的な文脈で宣教したが、異邦人の信仰に触れしばしば感動を経験しており、旧約の制約にとらわれることなく分け隔てなく信仰への嘉に基づく憐みの業を遂行している。神の意志の成就に向けて彼は多くの敵にかこまれながらその一挙手一投足において愛と正義と喜びから構成されている神の国をこの地上に持ち運んでいた。

 イエスは山上の説教において八福を展開した。そのなかで例えば祝福される心の態勢として、柔和な心、義に飢え渇いている心、憐み深い心、清い心、そして平和を造る心、そのような心の持ち主が祝福されていると教える。これらすべては心の深いところでの平安を維持している者たちであることがわかる。外界からの様々な攻撃や刺激に対して、揺さぶられない平安を持っている人々である。その平安の根拠は神と神の国との関連において人生を捉えることができていることにある。確かにそのような者たちは祝福されている。イエスご自身がその八つの心的態勢にあり祝福されたひとであった。端的に神の子となること以上に祝福されたことはないであろう。

 憐みを受けているからこそ、ひとは憐みや柔和な心を得る。善きサマリア人は憐み深く窮境にあるひとを介抱するとき、自ら憐みをかけている今・この時において憐みを受け取り直していることを知っている。憐み深くありうること、柔和でありうること、心の清くありうること、平和を造りうること、それだけで平安があり、喜びである。自らの悲惨を知る者にとっては、この喜びが湧いていること自体が憐れまれていることの証拠であると知っている。このような平安な心の状態それ自身が祝福を受けていることであると認識し、感謝している。即ち既に憐れまれているからこそ、平安でありうる。憐みうる者は既に憐みを受けているのである。そしてさらに憐みを受けるであろう。すべてが、憐まれていることのもとに遂行される。

 そこでのひととの交わりの規準となるものは「この言葉はこの行いは平和を造るか、正義を実現するか、心の柔和さと清さと憐みの表れか」というものである。これらは人々とのあいだで競争的、勝者たろうとする者にはどうしても採用できない行為規準である。山上の説教への納得のもと、ナザレのイエスの弟子であろうと覚悟する者はこの道を行く。何よりもキリストと共に歩む。それを望まない者は心の平和と平和を造る者たることを諦めることになる。

 ひとは言うでもあろう、他の仕方で柔和、憐み、清さ、正義心を追求できると。他の仕方とはいかなる仕方か。神の国とご自身の義を求める信仰によるものではない仕方がまず考えられる。生得的に素直で争いの嫌いな柔和なひとはいることであろう。それは祝福されていることであろう。その場合、そのひとがコントラストのなかで自らの憐みや柔和を受け止めているかが問われることであろう。そうでない自然にあふれる柔和や憐みはキリストのそれとは異なることになる。この自然的な共感能力はイエスのそれに似ているであろう。ただし、イエスは明確な神の国の現実の認識のもとにそのコントラストのうちで困窮している人々に憐みを抱いている。そのひとには無意識に沈んでもいよう、かつて憐れまれたことを思い返すよう促されることであろう。

 さらに他の仕方のもう一つの在り方として、信心は持つがナザレのイエスの父への信仰ではなく、仏が伝える永遠の法や他の神々への信仰により同じ感情を得るというものである。イエスの弟子になろうとする者にはこの他の仕方を尊重することが求められる。しかし、イエスご自身は言う、「わたしが道である、また真理である、そして生命である。わたしを介するのでなければ、誰も父のもとに行くことはない。汝らはもしわたしを知ったなら、わたしの父をも知ることになるであろう。そして今から汝らはご自身を知っておりまた見てしまってもいる」(John.14:6-7)。

 イエスはご自身が神の子であるという自覚にあるとき、他の道を勧めることは考慮の外にある。それは無責任であり信仰の本質に反すると言うべきである。信仰は二心なき心魂の根底における幼子のごとき混じりけのない承認であり信頼であり委ねである。「あなたは仏教の世界で育ったのだから、その道を追求しなさい」とイエスご自身が言ったとしたら、山上の説教における彼の真剣さは何であったのかという疑念がわくのみならず、大いなる失望のもとに彼の御跡についていくのを止めてしまう者が続出することであろう。

 聖書の神は「わたしをおいて他に神があってはならない。・・わたしは妬む神である」(Exod.20:3-5)と言われる神である。「生命に通じるもんはなんと狭く、その道も細い」(Mat.7:14)。キリストにのみ救いがあるという信仰は排他的に見えても信仰の根源性からして少なくとも自らに関わる限りにおいては他の道の排除は要請されるものである。神は「妬む神」である。信仰においては他者との水平的な関係ではなく、他人はいざしらず、自己と神の信実な関係が問われている。神がイエス・キリストにおいて信実であったとき、信仰により応答するのかそれとも裏切るのかが問われている。

 しかし、それは非理性的な狂信とも偏った感情である迷信とも異なるものであるに相違ない、正しい信仰である限り。ひとは他の道にいくひとに言うであろう。「少なくともわたしはどこまでもイエスについていく、人生が終わってしまわなければわからない事柄に関して、人生の途中で様々な挫折により捨ててしまったなら実験は未遂に終わる」、また「未来形で語られる神の子となることや慰めを諦めることになるであろう」。少なくとも一緒の道を歩めないことを告げるとき、こう言うであろう。「あなたがあなたの道を行くことは尊重する。ただし双方とも迷信や狂信に決して陥らない仕方で信仰生活を遂行しよう」。他の道を諦め、捨ててnarrow and straight roadを歩むことは信仰生活の基本となり、そこに信じることにおける喜びがわきおこる。信仰とは人生をかけることである。あれもこれもという二心は単に欲深にすぎない。

 ひとはただイエスに従う人生においてその確かさのエヴィデンスを蓄積していく。この世が与える平安とは異なる平安をいただくことを経験する。それは彼が永遠の生命にあるからこそ与えることのできるものである。イエスは言う、「わたしは汝らに平安を遺していく、わたしの平安を汝らに与える、わたしが汝らに与えるその仕方はこの世界が与える仕方のものではない。汝らの心は騒がさせられるな、また恐れさせられるな。汝らは私が汝らに語ったことを聞いた、「私は去っていくそして汝らのもとに戻ってくる」と。もし汝らが私を愛していたなら、わたしが父のもとに赴くことを喜んだことであろう」」(John.14:27-28)。イエスは父とともにある平安の故に、心を騒がせることも恐れることもない。「天の父の子」となった者たちも同様である。そして迫害の歴史において、その証は多く与えられてきた。この不思議な平安とそれに伴う喜びこそ神の国の証、エヴィデンスであると言える。

 パウロは不可視なものについての接触的な知識である「叡知(ヌース)」という認知機能について言及しつつ、神から与えられる平安についてはヌースがヒットすることのない仕方で与えられることがあると主張する。ひとは自らの平安を認識できないことがあるにしても、不思議な平安に護られることがある。パウロは言う、「あらゆるヌース(叡知)を超えている神の平安が汝らの心をそしてキリスト・イエスにある汝らのノエーマタ(かつて得た叡知内容)を護るであろう」(Phil.4:7)。この平安が現実のものでなければ、キリスト教史においてあれほどの殉教者が平安のうちに死んでいくそのような状況を想定することは難しい。そこでは正義のために迫害されても、喜んでいることができる、言ってみればこの世の生死を突き抜けている心の態勢にあるからである。「われには生きることはキリストである。死ぬことは益である」(Phil.1:21)。

 この突き抜けのもとに、認知的、人格的態勢が成長していく。「われ祈る、汝らの愛が、知識においてまたあらゆる感覚においてますます満ち溢れ、汝らが[重要度の]諸差異を識別するに至ることを、それはキリストの日に、汝らが染みなく、咎めなき者となるためである」(Phil.1:9-10)。「平和の神ご自身が汝らをあますところなく聖なる者とし(hagiasai)、汝らの霊と魂と身体とがわれらの主イエス・キリストの来臨の時に備え非のうちどころのないよう完全なまでに護られるように」(1Thes.5:23)。このような認知的、人格的成長がある限り、その信仰は狂信からも迷信からも自由な正しい信仰であると語ることができる。

 イエスの軛に繋がれ歩んでいるとき、次第にイエスの歩調に合うものとなり、次第に造り変えられていくであろう。この世界に何ら確かなものがないと思い絶望する者でも、このような心の働き、状況においてある者が祝福の対象であるなら、人類にその一番低い所にセーフティネットは明確に張り巡らされていることを知るにいたる。イエスのもとにならいくことができる。

 このような人物に対し、君は他の道を認めていないと言って誰が責めることができようか。その批判の次元の届かないひたすらなる道であった。イエスに二心があったとすれば、責めることもできよう。しかし、信の従順を貫いた者に不寛容を責めることはできない。部下の癒しを求める百人隊長、涙で足を洗う罪の女性に、自らの病気の子を犬にたとえて憐みを請う異邦の女性たちにその信仰に感動して憐みを示しているイエスに何が足らないというのか。イエスは目の前の隣人の救いに今・ここで没頭していた。その言葉と働きにおいて偽りを見出しえない者に、リアルタイムにそのつど最善を尽くしており、その状況においてそれ以外の振る舞いの想定できない者に対し、不寛容や排他性を責めることができるであろうか。彼がもし十字架から降りてきてしまったなら、彼の人生について新約聖書が書かれることはなかったそのような人であった。責める者があったとすれば、ものごとをよく見ず、ひとは他宗教に寛容であるべきと単におのれの願望や欲望をイエスに投映しており、目の前の隣人を愛しているイエスならざる自らの理念に基づきそこにいないひとを責めている。譬えて言えば、或る丸い集合があるとせよ、その外は空集合であるとせよ。要素の何もない空集合にあたかも何か完全なメンバーがあるかのごとく、要求する者に似ている。人間でない者を人間であると主張している者に似ている。

 それでは立花が嫌いだと言ってはばからないパウロはどうであろうか。われらはここまでパウロは明確な自覚のもとにナザレのイエスがキリストであることを告白しつつ、イエスの生涯が全く神の意志を成就するものであったことを論証している。イエスは今・ここのエルゴン(実践)に生き、パウロはそのロゴス(理論)を明らかにしたと言うことができる。もちろんパウロもキリストを宣教するというエルゴンにおいてあるのであるが、イエスのエルゴンはその一言一句、一挙手一投足が神の国を持ち運んでいたのに対し、彼の書簡はその福音の宣教のエルゴンに従事している。福音書がイエスの言行を報告しているのに対し、パウロは自らの書簡において復活のキリストの出来事を報告しつつ、それが人類の救済の出来事であることをイエスの信と愛の生涯の理論化により論証したと言うことができる。

 ひとはパウロを非難するでもあろう。なぜ福音の排他性や不寛容の非難に対し手当てをしなかったのか、と。彼は同じ欠け多き人間として、理論化の過程で他の救いの教説に寛容を示すべきであったのではないか、と。パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的に語る」(Rom.6:19)と譲歩を示しつつ、人間中心的な議論をも展開している。そこでは人間は神から独立した者として「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる中立的な自律的存在者である。パウロはこの譲歩により人間を滅ぼすべく罠をかけたのであろうか。どうぞ他の宗教に行ってください、それにより罪となり滅びてくださいと。キリストの弟子としてそれは想定できない罠である。イエスご自身、ひとびとの心の頑なさ故にモーセが離婚を認めたケースを紹介するように、弱さに譲歩することがあるが、そのつど悔い改めて信仰に立ち帰るよう促している(Mat.19:8)。パウロは「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(14:22)とそれぞれの責任と自由において持つ信仰を神ご自身の出来事即ち、イエス・キリストの信においてわれらの信仰を理解しておられることを信ぜよとそのつど神の前への立ち帰りを促す。

 ひとが持つ心的態勢としての「ピスティス(信・信仰)」には「成長」や「増大」、「強い」「弱い」が帰せられるものであり、人々のあいだでまた一人の歴史において異なりや変動がある(Phil.1:25, 2Cor.10:15, Rom.14:1)。「信仰において弱い者を受容せよ、損得勘定を介した分断に至ることなく」(Rom,15:1)。「われらはわれらに賜った恩恵に即して異なる賜物を持っているので、もし預言を持つならその信仰の割合に即して[賜物を用いよ]」(Rom,14:1)。信に基づき、人格の成長と認知的成長がめざされる。

 パウロは宣教のさいに、キリストを告げ知らせるために何であれ肯定的、創造的、喜ばしいものに対して全方位的に心に留めた。「何であれ真実なるものごと、気高く、正しく、清く、愛すべき、良き聞こえのあるべきものごとを、またもし何か徳そして何か称賛に値するものがあるなら、汝らはこれらを心にとめよ」(Phil.4:8)。あらゆる人々への福音宣教の覚悟はこう語られている。「わたしははあらゆるものごとから自由であり、わたし自身をあらゆる人々に奴隷となした、それは多くの人々を獲得するためである。わたしはユダヤ人にはユダヤ人のようになった、ユダヤ人を獲得するためである。律法のもとにある者たちには律法のもとにある者のようになった、わたし自身は律法のもとにいないけれども、律法のもとにある者たちを獲得するためである。律法なき者たちには無律法の者のようになった、神の無律法者ではなくキリストの律法のうちにいるけれども、それは律法なき者たちを獲得するためである。わたしは弱い者たちには弱い者となった、弱い者たちを獲得するためである。あらゆる者たちにはあらゆる者となった、あらゆる仕方で幾人かを救い出すためである。福音の故にあらゆるものごとを為す、それはわたしが福音を共に分かちあう者となるためである」(1Cor.9:19-23)。

 

7結論

 パウロは仏教徒やイスラム教徒に対しては彼らのようになったことであろう。神の前の福音は揺るがないからである。彼は人々との交わりにおいては肉の弱さへの譲歩の故にどこまでも譲ることができたのである。生命をさえ捧げたのである、彼らを救いにもたらすために。それでも彼の偏狭を責めるのであろうか。われらはここまで良心について業の律法の愛への収斂について、そして信を介しての愛の成就について、総じてパウロは福音を成就したナザレのイエスに基づき福音を理論化したことを確認した。二人のあいだに歴史上の置かれた状況は異なるが、神の子自身によるご自身の理解とその神の子についての理論的な理解とのあいだに何ら齟齬のないことを確認してきた。従来福音が正しく理解されなかったため、カトリックとプロテスタントが争ったのであり、われらは今・ここに和解の言葉を提示できる。パウロはイエスの忠実な弟子であり、宣教者であったからである

 この新しい「義の言葉」(へブル書5:11)について立花隆氏の意見を聞いてみたい。実際、2018年に編集者が立花氏の意志を確認したうえで彼に拙著『信の哲学』(北大出版会 2018)をお送りした。そのままになってしまったが、いつか彼と議論できる日のくることを待ち望んでいる。彼の霊に平安がありますように。

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何をしても赦されるのか(1)―神の憐みと正義―

何をしても赦されるのか?(1)―神の憐みと正義―

               日曜聖書講義2021年6月20日

[先週の録音が原稿の途中で終わってしまったので、「憐みを引き起こすもの」の続き(その2)をお話する予定でしたが、今週から以下の理由で罪の赦しと正義の問題について複数回お話します。本日は或る事情で時間がとれず、原稿なしで何をしても赦されるのかという問いをめぐって入門的な話を30分弱しました。用意した原稿をアップしますが、来週はこれを読む予定にしています]。

 

聖書朗読

「ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:6-8)。

 

1はじめに

 先週の16日水曜日の朝礼拝はI君が担当で、詩篇51篇のダビデの悔い改めの祈りのところであった。I君は「サムエル記」をひきながら、イスラエルの王ダビデの軍隊の司令官ウリヤとその妻バテシェバとダビデ直属の預言者ナタンに言及しながら、聖書の中心的な問題である罪の赦しについて話した。ダビデはウリヤの妻を略奪した。戦闘の状況を報告にきたウリヤに妻のもとで休むようにすすめるが、部下が最前線で戦っているこのときに妻と過ごすことはできないとして、野営した。そこでダビデはひそかに伝令をだし、ウリヤを最前線に送り、死なせた。預言者ナタンがダビデのもとにやってきて貧しい羊飼いが大切にしていた一匹の羊を多くの羊を所有する富者が奪ってしまった話をした。ダビデは怒りそのような悪者に死を宣告すると、ナタンは「汝がそのひとなり」と難詰した(1Sam.12:7)。ダビデは悔い改め、その祈りが詩篇51篇として遺されている。I君は詩篇を註解しながら、条件文で「もし悔い改めるなら、何をしても赦されるのか」という問いかけという仕方ではあるが、その一つの可能な解釈を提供した。これは聖書の中心的な問いのひとつである。

 春以来毎週日曜聖書の学びを通じて競争や嫉妬や憎しみなどの争いでもない憐みの心を獲得すべく、福音書と格闘してきたが、ここでは罪の赦しという問題を神の憐みと正義いう視点から考察したい。ドストエフスキーは『カラマゾフの兄弟』のなかでやはりこの問いを引き受け、「一切は赦されている。しかし、一切が赦されていることを知っている者はそんなこと(赤子を槍で突き刺したり、少女を凌辱したり)をしない」という言葉で神の憐みとひとの罪とその克服についての解決案を提示している。しかし、この知識に訴えた理解において、何をしても一切が赦されていることが神ご自身の認識であると想定されているからこそ、その事態が知識の対象とされている。悔い改めさえすれば、福音を信じさえすれば誰もが何でも赦されるのであろうか。そこではどのように、どれほど悔い改め信じればというわれらの悔い改めや信仰の程度は問われないのか。ここに神の前のことがらとひとの心的態勢がそれぞれいかなるものであるか、そしていかなる仕方で関係しているのかが問われる。

 

2美しく問う

 そこでの問いは、そのような神は子供を甘やかしてダメにしてしまう父親のようなものであり、そのような神は知恵もなくまた正しくないのではないのかというものとなろう。他方、父親があまりに厳しければ、子供は萎縮し黙してしまうか反抗するかに走りがちであり、親子のあいだに愛の関係を築けないであろう。かくして憐み深さと正しさが両立することを示しえてのみ、憐みについて正しく知ることができるのではないかという問いが起きよう。甘やかしすぎまたは厳しすぎのダメ親父は自ら愛や憐みということがらを正しく知っているとは誰も言わないであろう。このような問いがただちに続く。思考を前進させるには一歩一歩問いをたて答えを見いだし、そのうえでその答えが新たな問を生むそのような「美しく問うこと」(アリストテレス)が求められる。何をしても赦されるかというあいまいな問いが立てられた場合に、その問いそれ自身の理解をめぐり多くの問が問わねばならない。

 

3宗教に求められるものと道徳の関係

 ひとは宗教に藁にも縋る思いで救いを求めてきた。宗教はおのれの悪さに悩みまた苦しむ者を救うところにその真骨頂があるのではないのかも問われてきた。そこではどこまでも自分の神理解を投影し優しい神をしたてあげその自ら描く神に救いを求めてきたのではないか。そこでは、宗教を信じるだけで、何をしても赦されるようになるのか、という願望からくる問いが生じるであろう。その究極は万人救済説(universal salvation)であり、信じる信じないにかかわらず神の憐みのゆえに、弥陀の慈悲の故に、罪悪深重、極悪熾盛、地獄ぞ一定住処ぞかしの身にとっても救いは確かなものであると信じる。この信仰というものにはどれだけのマジックが働くのかが問われている。

 ルターの次の言葉も信仰がもたらす大逆転を知識との関係において捉えている。ルターは「義人とはおのれの罪があまりに深くて、どれほど深いか知りえないことを知っている人間だ」という主旨のことを「ローマ書註解」で語っているが、罪の深さから義人への大逆転こそ信に求められてきた。親鸞の悪人こそ救われるという悪人正機説も救いのなさのただなかで信に縋る以外に「別の子細なき」状況が語られている。「親鸞におきてはただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしとよきひと[法然]のおおせをかうぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」。「念仏」とは信仰のことであるが、親鸞の師法然はこう語っている。「念仏といふは、ただこころをひとつにして、もはら阿弥陀の名号(みょうごう)を称念する、これを念仏とは申す」(山崎正一『親鸞』p.58集英社)。親鸞は「いずれの行もおよびがたき身なればとても地獄は一定すみかぞかし」という理解のもとに念仏と行即ち道徳的行為を対置して、道徳的には悪いことしかできず地獄がふさわしい自分に残されているのは信仰だけであるとする(「歎異抄」第二章)信にはどれほどの大逆転のマジックがひめられているのか。彼ら宗教の達人たちは信、信仰について正しく理解した者は憐みも正しく理解できると主張しているように見える。

 ひとは直覚的に信じさえすれば何を為しても赦されるという類の信念は正しくないと感じることであろう。誰であれ、万人が救われるのであるなら、ひとは自らの行為に何ら責任を負うこともなくなる。そのような考えはモラルハザード(道徳的危機)を引き起こしてしまう。ただ、救いを必要としている者の主観的現実としては、おのれの悪さに絶望し、見失われており人生をまっとうできないという感覚を持つことであろう。そのような者には藁にも縋る思いで「汝の罪赦された」と過去形において語られるパッセージを血眼になって探すことであろう。宗教はそのような者を救う力あるものでなければならないはずである。

 内村鑑三は或る文脈においては「道徳無用論」を唱えることができなければ、宗教はその力と醍醐味を失うという主旨の発言を『ロマ書註解』のなかでしている。また黒崎幸吉先生は恩恵の無償性についてこう語っている。「自分の罪がキリストの十字架の贖いによりて、全部しかも永遠に赦されたことをそのままに確信することはなかなか容易ではない。その故はそれがあまりにも不当利得のごとくに見えるからである。しかしながら、この不当利得すなわち神の恩恵をそのままに受けてこれを信ずることが本当の信仰であり、すなおにこれを確信することによりて、始めて「信仰のみによりて義とせらるる事」の何たるかを知ることができる」(『閃光録』 p.83、1973)。

 この信じるだけで罪赦され、義とされることは不当利得なのであろうか。それなら潔しとせず、自ら神に頼ることなく、自らの責任で人生を切り開いていこうとするひとも多いことであろう。この事態は正しく理解されねばならない。実際、パウロも「律法に死んだ」即ち業のモーセ律法のもとに道徳的世界において生きることをやめたと語っている。とはいえ、それはキリストとの新しい生命の関連において語られて新たに秩序づけられており、正しく理解する必要がある。パウロは言う。「わが兄弟たち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:4-6)。

 

4信に基づき道徳的に有徳である場合にのみ、恩恵と責任は両立する。

 宗教と道徳の関係がこれほど緊張したものであるとき、一方で、恩恵の無償性、つまり端的な贈り物であることを明確に論証し、他方で各人の責任ある自由が確立されねばならない。ドストエフスキーの恩恵を「知っている人間」は悪行に身をそめることはないという「その知識」とはいかなるものであり、いかなる仕方で善行を生み出すかの明晰な説明が求められる。神の前のことがらと人の前のことがら、道徳と信仰の関係、そして正義と愛の関係が明確に秩序づけられ把握されねばならない。

 この大きな問を解くには多くの議論が必要とされることは明らかである。神学や聖書学そして文学は恩恵の無償性、贈りもの性についてどこまでも深くキリストの贖いを掘り下げることによって語ることができるであろう。福音がもつこの恩恵の豊かさこそ、日曜のメッセージに含まれるべきものであるが、今ここではそれに従事することはできない。

 今後の信仰と正義と愛の関係をめぐる議論の基礎として、いくつか基本的な事項を確認しておこう。誰もが同意することとして、信・信仰はどれだけ人格的に悪くてもまたどれだけ認知的に愚かであっても持つことができる、即ち幼子のような仕方で心的態勢の実力いかんにかかわらず心魂の根源に生起する心の働きであるように見える。そこでは人格的有徳性も認知的有徳性も問われることがないため、正しい信仰ということも問題にならないように見える。藁にも縋る思いで神や仏に向かい始めるという意味では、そうでもあろう。ただやはり誰もが同意するであろうこととして、立派な人間になりまた知識を蓄え思慮深い人間になることが、正しい信仰であることの証拠、エヴィデンスになることも否定されないであろう。無律法主義の無頼漢がたとえわたしは救いを信じていると言っても、誰もそのひとを信用することはないであろう。

 かくして憐みに縋れば何をしても赦されるというとき、どのような仕方で憐みに縋るのか、信じるのかが一方で問われることになる。他方で、憐みや恩恵の無償性について、明確に理解できないとき、ひとは宗教のもつ力動的な救いをも経験できないであろう。

 

5信から愛へ

 ここでは聖書とりわけパウロがこの心魂の根底に生起する信と神の憐みそして正義の関係について明確に議論しているので、その理解の大枠を提示したい。神の憐み、恩恵と神の正義そしてひとの信仰の関係について正しく理解したい。

 パウロはモーセの「業の律法」を一概に否定しているわけではなく、新たに啓示された福音即ち「信の律法」のもとに秩序づけている(Rom.3:27)。パウロがその教えを理論化しようとしたそのもととなるイエスご自身山上の説教のなかで律法への尊敬と使命を語っていた。「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。アーメン、わたしは汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」(5:17-20)。

 ただし、イエスもパウロもモーセ律法を愛に収斂させており、愛が満たされたなら、一切の律法が満たされていると主張していた。イエスは「愛」が一切の律法のなかで「偉大な戒め」であると理解しており、そのもとに他の一切の戒めが秩序づけられる限り、この主張は理解可能となる。愛は業の律法の充足、冠として位置づけられるそのような関係においてある。「「師よ、律法のうちいかなる戒めが偉大なものか」。イエスは答えて言う、「汝は汝の神、主を汝の心を尽し[良心に即し]そして汝の魂を尽し[生命ある限り]そして汝の思考を尽して[理性に即し]愛するであろう」。これが偉大なそして第一の戒めである。第二はこれと同様のものである、「汝は汝の隣人を、汝自身の如くに、愛するであろう」。これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちが依拠している」(Mat.22:36,cf.「律法の冠」、「律法の充足」Rom.13:9,10)。愛が満たされる限り、業の律法としての正義は満たされており、あらゆる律法がめざす愛を実現する限りにおいて一点一画とも過ぎ去らないと言うことができる

 愛は業の律法の冠である。愛をそれ自身において実践できるかが問われている。パウロは「業の律法に基づくすべての肉は神の前で義とされないであろう。なぜなら、[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:20)として誰も愛を愛それ自身として満たすことはできないと主張する。パウロは「愛を媒介にして実働している信が力ある」(Gal.5:4)と語り、イエス同様に信に基づき愛に至ろうとする。パウロは業の律法のもとに生きる者はそのもとで審判を受けると言う。「汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の義しき裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」。かたや、忍耐に即して善き業の栄光とその名誉とその不朽とを求める者たちに永遠の生命を報い、他方、利己心から真理に服せず、不義に服する者たちには怒りと憤りがあるであろう」(2:5-8)。他方でパウロはこうも言う、「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものと認定される。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される」(4:4-5)。ここに矛盾はないのであろうか。

 この「不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される」という主張はわが国においては専修念仏を唱える親鸞の「悪人正機説」の系譜に属するものである。魂の根源的態勢としての念仏と業、信仰と愛の関係は或る人々の唯一の救いの希望ともなり、また克服不能な妨げともなってきた。一般的に言って、所謂point of no return(後戻りできない一点)、消せない過去を経験してきた人々にとっては、自らの自然的な生を何事もなかったかのように継続することはかなわない。それ故にこそ信や念仏の力に縋る以外に生きる道が残されず、そこに救いを見出してきた。ただ「南無阿弥陀仏」を唱え続けること、ただ「汝の罪は赦された」を唱え続けること、それが求められる信の行為であるとされた。そしてそれは道徳的行為と看做されず、それより根源的な心魂の根底におけることばの働きであると看做された。ひとが自らの業や他人の業を振り返り、自他を審判するとき、その者は業の律法のもとに生きている。その業が既に赦されたことを信じる者は信の律法のもとに生きていることがパウロにより報告されている。

 二つの律法の異なりは、一方で業の律法のもとでは各人の道徳的責任が問われており、盗むか・盗まないか、貪るか・貪らないか等の二者択一が問われているが、信の律法のもとでは神がイエス・キリストにあって信実であったとき、信じるか・裏切るかが問われている。信じるか・信じないかという業の律法での二者択一ではなく、より根源的なものとして神の信への応答が問われている。ひとは裏切るなら、そこでは神とのあいだに信と信の人格的関係が結ばれてはおらず、信に基づく義も生起してはいない。「おおよそ信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。これが信の根源性を明らかにしている。

 信の律法は神にとってもそしてそれ故にひとにとっても業の律法よりも根源的なのである。以下業の律法は罪の自覚を生じさせ悔い改めを介して信の律法に導くことにその機能があることを確認する。信の律法のほうがより根源的であることは、立派な行いなしにもその信が神に嘉みされる場合には罪赦されるという恩恵が確保される。

 「いずれの行も及び難き身」には、ただ「見よ、われは汝の不法を雲の如くに、そして汝の罪を霧の如くに散らした(apēliphsa)。われに立ち返れ、そうすればわれは汝を贖うであろう」の言葉に身を委ね、「地獄ぞ一定すみかぞかし」という思いに捕らわれるとき、ただ「わが思いは汝らの思いと異なる」を思い返し続けるだけであろう(Isaiah 44:22,55:8)。律法主義から解放され、信の律法のもとに生きること、「信じます」という告白がそのつど求められている第一のことがらであり、生の更新の唯一の可能な契機となる(Rom.10:10)。

 

6信仰義認の教説に対する反論とパウロの応答

 信の心魂における根源性は承認されよう。しかし、通俗的な信仰義認論や悪人正機説の理解によれば、どんなに悪人であっても、ただ信じさえするなら神は罪を赦免し義とする、弥陀の慈悲を受けるというが、そのような神や仏は不義ではないのか、立派な人間だけが救われるに値するのではないかと古今東西を問わずひとびとは困惑してきた。また「われヤコブを愛し、エサウを憎んだ。・・われが憐れもうとする者をわれは憐れむであろう。・・欲する者を彼は憐れみ、欲する者を彼は頑なにする」そのような神は不義なのでないか、依怙贔屓ではないか、「誰が神に逆らえようか」と嫌疑がかけられてきた(9:13-19)。パウロは第一に神の主権によりしかも憐れみの啓示に基づき応答する、「それは望む者のでも、奔走する者のことがらではなく、憐れむ神のことがらである」(9:16)。神に不正の嫌疑がかけられるのは神の憐れみを知らないからである。

 一般的に言えることは、「神には偏り見ることがない」(2:11)とすれば、神が業の律法の適用において、また信の律法の適用において一つの明確な基準のもとに判断が遂行されているなら、憐みに依怙贔屓があることにはならないということである。業の律法のもとに生きる者には業の律法が適用され、信の律法のもとに生きる者には信の律法が適用されているならば、そこに依怙贔屓はないと言えよう。信の律法を充足する者とは「イエスの信に基づく者」また「アブラハムの信に基づく者」として、その信が神に嘉みされる者のことである(3:26,4:16)。

 神の自由な選びにこそ恩恵の無償性が成り立つ。「ご自身が予め定めた者たち、その者たちを彼は呼びだされもした。そして彼が呼びだした者たち、その者たちを彼は義ともされた。しかし、ご自身が義とした者たち、その者たちに彼は栄光をも賜わった」(8:30)。しかし、そこに神の恣意性の疑いがもたれてきた。

 ここでは恩恵の無償性、贈りもの性について詳しく展開することはできない。神学や宣教そして文学においてこの神の恩恵はどこまでも豊かに語られることであろう。ここでは、神には偏り見ることがなく、不正がないことをパウロの議論から確認したい。どんな罪をも赦してしまう神は不正ではないのかという問いは道理あるものである。それに対してパウロは適切に応答していることを確認するだけに今回は留まる。

 「[業の]律法は怒りを成し遂げる」(Rom.4:17)とあるように、「神の怒り」の規準は「業の律法」、モーセの十戒を介して明確に啓示されたとパウロにより報告されている。「ローマ書」一章の議論の展開としてまず「神の義」は福音において啓示されていることが提示され、その神が義であることの第一の理由が神の怒りにあると報告されている。(B)「なぜなら神の怒りは天から不義のうちに真理をはばむ人間たちのすべての不敬虔と不義のうえに啓示されているからである[現在形]」(1:18)。神の怒りは今・ここで真理をはばむと神に看做されている人間たちの裁量のもとにある不敬虔と不義という心魂の態勢のうえに、即ち心魂の或る在り方のうえに「引き渡し」、勝手にしろという仕方で啓示されている(1:24)。怒りの啓示内容は人間化された心的状態ではなく、神の行為において顕されている。そして彼の議論のなかではその怒りは福音に立ち帰らしめるものとして位置づけられる。

 (B)「神の怒り」の啓示の報告の結論として「業の律法に基づくすべての肉はご自身の前で義とされることはないであろう[未来形]。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」と終わりの日に罪人として審判されるに至ることがこの啓示の含意として導出されている(2:20)。ただし、この未来形表現により、当人が悔い改めた場合には事情が異なることもあろうことが含意されている。悔い改めとは業の律法のもとから信の律法のもとに移行することである。ただし、自らが信の律法のもとで信仰を持ったか、業の律法のもとで貪りとして信仰をもったかは、終わりの日に知らされる。業の律法のもとに生きる者は義とされないことが一般的に知らされている。悔い改めは神の意志に背くことから神の意志に服し信に基づき義とされることにより遂行される。「恐れと慄きをもって汝の救いをまっとうせよ」(Phil.2:12)。

 神の義の第一論証であるこの怒りと業の律法のもとにある者の不義の結論に続き、第二論証が展開される。(A)神の信義の啓示が報告される。(A)「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている[現在完了形]。・・神は、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」(3:21-26)。(A)義人はいかなる者であるかに関して、「神はイエスの信に基づく者を義とする[現在分詞形]」により啓示内容として一般的に知らされている。さらに、信の律法のもとにあり(A)「イエスの信に基づく者」と看做される者についてはアブラハムによる先駆的事例がある。「アブラハムにその信仰が義と認定された」(4:3)。このようにイエス以前の「アブラハムの信に基づく者」(4:16)に関しても同様である。なおイエスご自身は正しい信仰を「幼子」の如き信仰と表現することがある。「まことに汝らに告げる、幼子のように神の国を受け入れない者はそこに入ることはないであろう」(Mak.10:15)。どれほど認知的に人格的に愚かで悪くても、そうであるからこそ「幼子」のように信じることはできる。最も困難な探求対象が最も容易な幼子の信のみを心魂の根底に要求しているということは認知的、人格的に十全な全知全能の神にふさわしい。われらは幼子のように信じるその「神はおのれの独り子を賜うほどに世界を愛した」(John.3:17)方である。

 かくして、今・ここで二種類の神の義が啓示されているが、一方は神の怒りであり他方は神ご自身の信義ならびにイエスの信に基づく者の義認である。神の怒りは直接には罪人の最終的審判ではなく、ここに(A)(B)啓示行為内容の非対称性が見られる。怒りから逃れるべく悔い改めの余地が残されているからである。他方、義認が今ここで生起している者については神の認識の変更(人間的に言えば)は想定されていない。

 

7 悔い改めは業の律法から信の律法のもとに移行することである。

 この二種類(A)(B)の神の義の啓示を介して、信の律法のもとに生きる以外に義とされる道のないことが知らされている。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。業の律法に基づくと神に看做される者は終わりの日にその業に応じて報いを受けるが、そこでは誰も義と看做されることはないであろうからである(前節)。

 かくして、ひとは悔い改めにより怒りを逃れて信の律法のもとで罪の赦しの義認に向かうことができるだけである。「ひとよ、汝は神の裁きを逃れると思うのか。それとも汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか。汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しい裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」」Rom.2:3-6)。

 パウロは「ガラテア書」において自らの自覚としてこの業の律法から信の律法への移行を罪の値である死からキリストにおける生への移行として語る。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」(Gal.2:19-20)。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)。

 

8 神には二つの律法の適用において偏りがない。

 「神には偏り見ることはない」(Rom.2:11)。なぜなら、一方、神は業の律法のもとに生きる者には業の律法を適用し、そこでは「すべての律法を為す義務がある」(Gal.5:3)こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」からである(Rom.2:13,2:6)。他方、信の律法のもとに生きようとする者、「神の善性」(11:22)に留まろうとする者には「イエスの信に基づいている」(3:26)かにより審判を遂行するからである。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(9:13)とあるのは、前者が信の律法のもとに、後者が業の律法のもとに生きたことが想定されているからである、ただしエサウがその後悔い改める可能性は否定されていない。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」(11:22)。神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は「叡知の機能不全」(1:28)の故に神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできない。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した」(1:28)。「彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではなく、行う者たちを是認さえしている」(1:32)。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるであろう。まさに「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」(Ps.18:26)。

 

9結論 解決案

 以上のような事情であるとして、ひとは信の律法のもとに生きていると自ら思っていても神はそのようには看做していないかもしれない。「わたしに「主よ」、「主よ」と言う者がみな天の国にはいることになるわけではない」(Mat.7:21)。他方、自分には地獄が決まって住処であり永遠の滅びに定められていると思っていても、神はそう看做していないかもしれない。「ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:6-8)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みした。神は自らに背く者たちについて「彼ら自身において考慮することなく」十字架上のイエスの信義に基づき考慮していたまう(2Cor.5:19)。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。

 この福音のメッセージは個々人の誰にもイエス・キリストにおいてほど明確には知らされてはいない。これが何でも赦されるかという問いをめぐる最も重要な応答となる。同様に万人救済論に神はコミットしているか否かもイエス・キリストの信においてほど知らされてはいない。神の意志はモーセ律法とイエス・キリストの信において最も明確に知らされている。だからこそ、そのつど自ら神の憐みのもとにおり、罪赦されていると信じることが実質的なものとなる。ひとは自らの責任ある自由において神の前の啓示の出来事を自らのものとするよう命じられている。「汝が汝自身のがわで持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。命令されるということは受容することも拒否することもできる、即ち「義の奴隷」とも「罪の奴隷」ともなりうる自由な存在者であることを示している(6:20)。パウロ個人にとっても同様であり、彼は「わたしは他者にいかにも福音を宣教しながら自ら失格者となることがないように、わたしはわが身体を打ち、身体を拘束する」と、さらには「恐れと慄きをもって救いを全うせよ」と、神の前の出来事を自らのものとすべく、その都度信に立ち返る(1Cor.9:27, Phil.2:12)。そこに彼は「汝らが聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れる」聖霊の執り成しが生起することを願っている(Rom.15:13)。

 或るひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証はどれだけ隣人を愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。罪赦されたことの証は多く愛しうるということに見られるなら、われらは歯を食いしばって敵をも愛することであろう。今・ここでキリストにあって自ら神の憐みを受けているという信が愛を実現する唯一の道である。

 

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憐みを引き起こすもの(その1)―コントラストの知識をもたらす信仰―

憐みを引き起こすもの(その1)―コントラストの知識をもたらす信仰―

日曜聖書講義 6月13日

(録音は4節「復活と永遠の生命」の途中までです。来週また、われらの心魂に憐みを引き起こすものの探求を続けます)。

 

聖書箇所(マタイ福音書25:31-44口語訳)

[25:31]人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。

 

1憐みをかけるひとは誰であれ主にかけている。

 春からわれらは挑戦している。憐みを獲得することができるかどうか。いかなる競争心や憎悪、嫉妬からも自由にされ、喜びのうちに友と友の関係を構築できるかを。憐みのうちに、善きサマリア人のように困窮したひとを援けることができるかを。そこに至る道は「われは道であり、真理であり、生命である」と言ったイエスの歩みに追随する以外にないであろう。イエスの軛を共に担ぎ上げ、彼と共に歩むこと以外に、イエスの柔和を獲得することはないであろう。この世のものではない神の平安がわれらを守るであろう。他の道が魅力あるものともはや見えない。富や栄華やそして名声など、この世の価値はこの憐みと柔和を持つ、ひととしての本来性から比べて、いかにもこの世への隷属を示している。

 「誰も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。汝らは、神と富とに仕えることはできない」(Mat.6:24)。「その心によって清い者」とはその心に二心(ふたごころ)がなく、心の目が光のように明るく澄んでおり、ものごとがよく見え最終的に「神を見る」者のことであった。「汝の宝のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.5:21)。「ともし火をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置く者はいない。ひとが入ってくるとき光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い。それだから、汝のうちにある光が暗くないか吟味せよ。かくして、もし汝の全身が明るく、何か暗い部分をもたないなら、ともし火が明るさによって汝を輝かすときのように、全体を輝かすものとなるであろう」(Luk.11:33-36)。山の上にある街は隠れることがなく、周囲を照らす。そのように「世の光」はこの世界を支え、導く(Mat.5:14,cf.Phil.2:12-15)。

 ひとは光を好むか闇を好む。全身の明るい秩序を求める者はイエスのもとに行く。彼と共に歩む。福音書のイエスの言葉に、小さな者への愛が福音のもとに生きているか否かの規準になることの証が見られる。イエスはどのようなひとが憐み深いひとかを、競争や怒りや憎しみなどの争いに明け暮れている者たちとのコントラストにおいてこう語る。「[イエス]「わが父に祝福された者たち、天地創造のときから汝らのために用意されている国を受け継げ。汝らはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したことは、わたしに為してくれたことである」。・・[イエス]「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。汝らはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらは汝が飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」」。(Mat.25:34-45)。

 これら二種類の生の規準は何であろうか。人間の本来性の理解のもとにひとをそして隣人をリスペクトし、ひととして困窮している状況に出会ったとき、それは天の父の子としてのわれらに相応しくないという明確な認識である。これは一種の理想主義に捉えられよう。山上の説教においては人間のありうる究極的な道徳が語られているため、理想主義的に捉えられようが、これはユートピア「生起する場所のない幻想的な場」ではない。イエスがあの山上の説教を生命をかけて生き抜いたからである。

 言葉と行いを合致させたこの方を忘れて、困窮者一般を問題にするとき、律法主義に陥ってしまい、イエスの生命を失ってしまうことがある。善きサマリア人の譬えが教えるように、この三人のうち「誰が隣人となったのか」がその都度問われているのであり、一般的に悩める人、苦しむ人、神の子に相応しくない人一般を相手にしようとするとき、いつの間にか生きた主を忘れ、自らの理念に捕らわれてしまうことに気を付けよう。常に原点に立ち帰ることによってだけ、隣人となることができる。

 イエスの「この小さな一人にしたことはわたしにしたことだ」という発言においてはっきり分かることは、イエスは困窮した人々に自らを重ね合わせていたことである、少なくとも共にいるということである。われらは一度でもこのような視点をもったことがあるであろうか。誰かがシリアの難民に何か食べ物を送ったときに、「ありがとう、わたしにくれてありがとう」と言ったり、受け止めたりしたことはあったであろうか。はっきり言って、わたしはそのような感覚をもったことは一度もない。これは或る意味でキリストの弟子として衝撃的なことである。しかし、そこに自らのパトスが今後変わっていくかもしれないという手がかりを得たと言うこともできよう。

 キリストについていくということは具体的にキリストが為したように生きることである。これは覚悟がいる。しかし、「その霊によって貧しい者は祝福されている」。この世の様々な富、つまり自らの人徳、名誉、金銭そして地位など、これらの所有によって自らに満足している者は飢え渇くことはない。肉によってこの世の豊かなもので満たされている者たちは一つ欠けているかもしれない、即ちその霊によって貧しく、この世の何ものによっても満たされないことを知っているその知識を欠いていよう。その霊によって貧しい者たちは「天の国は彼らのものだからである」と、この祝福が語られている者たちであった。この世のいかなる富や才覚によっても満たされず、天国の平和と正義と愛を求めて、入れていただくことにのみ希望を見出す者たちがいる。イエスはこのようなひとたちと共におり祝福していたことが分かる。イエスのこのような言葉にであうとき、われらにはまだ分かっていない人間の消息があるのではないか、われらがこの社会において求めている良きものとは異なる良きものがあるのではないかという思いにいたる。

 

2良きものどもの秩序づけ

 良きものどもが正しく秩序づけられないとき、二心、三つ心が生じるのであった。イエスは山上の説教においてパリサイ人のこの心魂の分裂、欲深さを責めていた。イエスは山上の説教においてモーセ律法(業の律法)を純粋化、先鋭化し、新しい教えを言葉の力のみによって伝えた。そこで乗り越えが企てられている敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」。このように山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろう。「裁くな」「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済や文化活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は戦争はもとより正当防衛をさえ不可能にするように見える。

 しかし、イエスは誰にも担いえない重荷を課す方ではなく、その重荷から解放する信仰に招いていたまう。業の律法のもとに生きるパリサイ人への彼らの自己矛盾を指摘する厳しい言葉の数々も、ご自身がそのもとにある信の律法への立ち返りを促すものであった。イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。

 ひとは天国への帰一的集中のもとに行為の選択から宇宙の構成の知識に至るまで一切を秩序づける。「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものだ」。人間に最も重要なことを学んだ者は生の全体のなかで個々のものをそれは古いものであれ新しいものであれ自由に適切に位置づけそしてそれに対応して行為を選択することができる一家の主人に似ている。この発言を単にパトスに対して良い態勢にある人格的な有徳性に対してだけではなく、その認知的な卓越性に対する賞賛と読むことができる。

 

3ひとの心魂の根底にのみ正しい信仰が宿る

 かくして、二心や三つ心のなさを求める者は心魂の根底から生きることが求められる。そしてひとの心魂の構造、構成からして、「信」「信仰」こそ人間の心魂の一番根底に生起するものとして人類は位置づけてきた。ひとびとはこれを「理解を求める信仰(fides quaerens intellectum)」「知るために信じる(Credo ut intelligam)」と呼び信仰が知識をもたらす心魂の基礎となることを確認してきた。哲学において「知識」とは「正当化された真なる信念」として定義されてきた。或る主張を真理であると信じることがおこり、そしてそれが検証されエヴィデンスを蓄えることにより知識となると理解された。また儒教においても「信なくば立たず」と語られ、実際生活において社会のなかで生きていくためには、信頼、信実、信義が生の基本を作るということは古今東西変わらぬ生の原理であるとされてきた。

 正しい信が根底にあるときのみ、ひとには肯定的創造的な生の展開を望むことができた。正しい信仰とは非理性的な心魂から生じる狂信でもなく、パトスの偏りから生じる迷信でもなく、知性と人格を成長させるそのような心魂の根底の在り方であった。心が散逸しているとき、誘惑に引きずられるとき、もはやわが心そこにあらずであり、目の前の問題、課題そして使命に誠実に取り組むことがなくなり、ひとは「人生は暇つぶしに他ならない」と嘯きつつ、焦点のぼやけた生を営むことになる。ひとの心はこのようなものに満足できないのである。聖霊に応答する二番底パウロの言う「内なる人間」(Rom.7:24)があるからである。それが人であると明確に認識した者たちは、信に立ち帰る。信仰という不思議な心の働きが生得的に一つの力能として心魂の根底に備えられている。

 ということは、この情報化時代、心が様々なことがらに散逸しやすい時代にあって、最も求められるのは、自ら戸を閉めて父なる神に祈り、対話し心を根底から秩序づけることを常に繰り返す以外にないであろう。ルターは95か条の提題第一条において「信仰は悔い改めに始まる」と言う。二心、三つ心、四つ心を悔い改めて、心を清め、イエスと共に生きることをその都度始めることが信仰生活ということになる。なぜひとはこれほどの狭い真っすぐな道を歩んできたのか。そこには喜びがあるからである。

 喜びは最も現在的な感情であった。放物線が接戦に触れるように、今の充溢があった。未来の煩いや恐れによって今を生きるのでもなく、過去の後悔や憎悪によって今を生きるのでもなく、永遠の愛に触れ心が刷新され、喜びがわいてくるのであった。イエスは人間の本来性であるひとびとが「天の父の子」となるべく、自ら「神の子」であるという信のもとに、信の従順の生を十字架に至るまで貫かれた。その信仰が嘉みされ神との正しい関係においてあったその信義の故に、彼は復活を与えられた。そしてそれは永遠の生命の証であり、召天後、キリストが共にいたまうとき、「聖霊」が注がれるにいたった。

 

4復活と永遠の生命

 十字架と復活は人類の歴史において「一度限り」のことであり、他の誰かによって再現されるものではない(Rom.6:8-10)。再現性のないものについては科学的知識の対象とはなりえず、ひとは御子の復活については信仰により突破するしかない。もちろん、科学は例えばあらゆる物質を通過する素粒子の研究などにより知見を重ね、一般的な仕方で、ドアを通過し、脇腹に槍穴のある質量をもつ三次元の存在者についてのその科学的仕組みの解明に向かい続けるであろう。そういう意味で現在われらに不思議に思えることがらの一般的な探求とその解明は蓄積されていくことであろう。

 とはいえ、復活は優れて信仰の対象であり続けるであろう。というのも、信念は、一般的には、知識をもたずにも、或る命題を真理であると信じる、そのような知ること以前のそして知ることに向かう認知的働きだからである。そして預言されていることとして復活は終わりの日にしか個々人には救いとして体得的知識とならないそのようなものだからである。キリストの来臨に伴う終わりのラッパと共に死者が目覚めさせられ呼び起こされる。その再臨信仰を基礎づけるものがキリストの復活である。御言葉が受肉し受難により生物的死を引き受け三日後に甦らされたことは永遠の生命を保証するものであり、終わりの日の新天新地を伴う栄光ある到来を備えるものである。

 パウロはキリストへの言及なしに天国も黄泉も理解できないとして信仰による突破をこう語る。「キリストが信じるすべての者にとって義に至る律法の目指すものである。というのも、モーセは律法に基づく義をこう記しているからである、「それらを為した者はそれらによって生きるであろう」、だが、信に基づく義はこう言うからである、「汝は汝の心のなかで、「誰が[義を求めて遥か]天に昇るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを引き降ろすことである、あるいは「誰が[義を求めて遥か]黄泉に降るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを死者たちのなかから引き上げることである。しかし、彼[モーセ]は何と言っているか、「言葉は汝の近くにある、汝の口のなかにそして汝の心のなかにある」、これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である。すなわち、もし汝が汝の口において主イエスを告白し、そして汝の心のうちに神が彼を死者たちから甦らせたと信じるなら、汝は救われるであろう。というのも、主イエスが心によって信じられるのは義のためであり、口で告白されるのは救いのためだからである」(Rom.10:5-10)。

 心の中での信仰を固く保持するためには公にそれを告白し社会の認知の中での自覚を必要としている。それほど復活は信仰による乗り越えと公的な表明を必要とするそのような理解に困難を伴うものだからである。パウロは知の都アテネのアレオパゴスで彼らが知らずに拝んでいる「知られざる神」を教えようと宣教をはじめ、死者の復活について語り始めると、聴衆は「われらはこのことについてはまた汝から聞こう」と言って去っていった(Act.17:32)。アテネのことではない、エルサレムにおいてさえ使徒たちへの女性たちによる復活の第一報に対して「これらの言葉は彼らにはあたかも戯言(たわごと)に思えたそして彼女たちを信じなかった」と報告されている(Luk.24:11).肉のイエスから予告されていたにもかかわらず、このような事情であった。だからこそ公的な告白は信じることができることそれだけで喜びであることを含意している。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13).

 そこに伴う生命の躍動は永遠の生命の何らかの兆候であろう。ヨハネもイエスの言葉を報告している。「[16:7]しかし、わたしは汝らに真実を語る、わたしが去って行くとき、汝らには益となる。わたしが去って行かなければ、汝らのところに助け主は来ないであろう。もし行けば、わたしは彼を汝らに送ろう。彼がやって来て、罪についてそして義についてそして公正な裁きについて、世界に露(あら)わにすることであろう。一方、罪についてとは、彼らがわたしを信じないということである。他方、義についてとは、わたしが父のみもとに行くということそして汝らはもはやわたしを見なくなるということである。公正な裁きについてとは、この世の支配者が裁かれてしまっているということである。

 [16:12]わたしには、汝らに言うべきことがまだ多くあるが、汝らは今担うことができない。しかし、かのもの、真理の御霊が来る時には、汝らをあらゆる真理に導いてくれるであろう。というのも、彼は自らから語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべきものごとを汝らに知らせるであろうからである。彼はわたしに栄光を帰するであろう、わたしから受け取り、それを汝らに知らせるからである。父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。そのことの故に、わたしは言った、彼がわたしから受け取り、それを汝らに知らせる、と。

 [16:16]まもなく、汝らはもうわたしを見なくなる。しかし、またまもなく、わたしに会えるであろう」。そこで、弟子たちのうちのある者は互に言い合った、「彼がわれらに語っていることは何であるのか、「まもなく、汝らはわたしを見なくなる。またまもなく、わたしを見るであろう」また「わたしの父のところに行く」とは」。そのとき彼らはまた言った、「「まもなく」とは何であるのか。われらには、彼が語っていることがわからない」。イエスは、彼らが尋ねたがっていることに気がついて、彼らに言われた、「まもなくわたしを見なくなる、またまもなくわたしを見るであろうと、わたしが言ったことで、互に尋ねあっているのか。 アーメン、アーメン、わたしは汝らに言う、汝らは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。汝らは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。女性はお産の時、その時がやってきたと不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、ひとりのひとがこの世に生まれたという喜びのゆえに、もはやその苦しみをおぼえてはいない。このように、汝らにも今は不安がある。しかし、わたしは再び汝らとまみえるであろう。そして、汝らの心は喜びに満たされるであろう、そしてその喜びを汝らから取り去る者は誰もいない。かの日には、汝らはわたしに何も問うことないであろう。アーメン、アーメン私は汝らに言う。汝らがわたしの名において父に求めるものはなんでも、下さるであろう。今までは、汝らはわたしの名において求めたことはなかった。求めよ、そうすれば、汝らは受け取るであろう、そこでは汝らの喜びが満ちあふれるであろう。

 [16:25]わたしはこれらのことを汝らに比喩(イメージ)で話したが、もはや比喩(イメージ)では話さないで、端的に父のことを汝らに話してきかせる時が来るであろう。かの日には、汝らは、わたしの名において求めるであろう、そしてわたしは汝らに、汝らについて父に願うとは言わない。父ご自身が汝らを愛しておいでになるからである、というのも、汝らがわたしを愛しており、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたからである。わたしは父のところから出てこのの世にやってきた、またこの世を去って、父のみもとに行く」。

 弟子たちは言った、「見てください、今は端的にお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。今、われらは、汝がすべてのことをご存じであり、誰も汝にお尋ねする必要をもたないことが、わかりました。このことによって、われらは汝が神からこられた方であると信じます」。イエスは彼らに答えられた、「汝らは今信じているのか。見よ、汝らは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。しかも、わたしはひとりではない、父がわたしと共におられる。これらのことを汝らに話したのは、わたしにあって汝らが平安を得るためである。汝らは、この世では悩みみがある。しかし、雄々しかれ。わたしはすでに世に勝っている」(Joh.16:7-33)。

 信仰がもたらす喜びこそ、この狭くまっすぐな道を歩ませる。助け主が聖霊としてこの世の苦難に打ち勝つべく支え励まし共にいたまうからである。永遠の生命の希望がそこに湧き上がるからである。

 

結論 生命の証

 種蒔きの譬えはイエスの宣教を介して神の御言葉そして御心が聴衆の心に蒔かれそれを受け止めた信仰の実りについてのものである。「イエスは彼らを多くの譬えで教えた、そしてご自身の教えのなかでこう言われた。「聞け、そして見よ。種を蒔く者が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞け」と言われた」(Mak.4:2-10).

 この主による種蒔きの譬えは人生にも適用される。誰も自らの親を選べない、そこに自らの生が奪われ、焼け枯れる運命の過酷さを見るひともいよう。同時にそこに「誰も~ない」という人生の或る意味での平等さと醍醐味がある。肉の親の背後にいたまう蒔き手を信じ、自らが蒔かれた所は「良い土地」であると受け止めることなしには三十倍、五十倍に実らすことはできず、蒔き手に対する信頼が不可欠となる。荒地に蒔かれ悲惨にしか思えない与件であるにしても、聞く耳を持ち神に与えられた良い土地であると信じるとき、開墾が始まり、自らの与件から推定されるものの百倍の実りをもたらすこともあろう。復活信仰は困難を伴う、しかし、実りと呼ばれる生命の横溢のなにがしかをこの生において経験するとき、永遠の生命への希望が湧きあがる。夢は抱くものであるが、希望は何らかの現実の肯定的な変革に伴い湧いてくるものである。告白するということは自らの心に二心がないからこそなしえることであるがゆえに、その二心のなさにおいてある自己を喜ぶ。豊かな実りとは八福を語られるイエスご自身にとって「天の父の子となる」こと以外ではないであろう。

 

 

 

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憐み深く柔和な心―かつてと今のコントラスト―

憐み深く柔和な心―かつてと今のコントラスト―    2021年6月6日

 

聖書箇所

「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を汝らのうえに繋げなさい。そしてわたし[の足取り]から、わたしが柔和でありその心によって低いものであることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。というのもわたしの軛は良きものでありそしてわたしの荷は軽いからである」(Mat.11:28-30)。

「祝福されている、柔和な者たち。彼らは[約束の]地を受け継ぐであろうからである。祝福されている、正義に飢えそして渇いている者たち、彼らは満ち足りるであろうからである。祝福されている、憐れむ者たち、彼らは憐みを受けるであろうからである。祝福されている、その心によって清い者たち、彼らは神を見るであろうからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれるであろうからである」(Mat.5:5-9)。

 

1憐み深い心を請い求める―「コントラスト(対比)」―

 われらは入寮式以来、憐みを求めてきた。支配からも競争からも憎悪からも自由なところで生起する憐み深いひとになることを求めてきた。憐みとは何かを探求してきたが、愛や競争心や嫉妬など種々の感情の文法の分析を通じてそれらの何であるかとの対比において憐み深くなることを追い求めてきた。憐みはわれと汝の等しさとしての愛に向かう心の基礎的な感情である。愛の感情実質は喜びであった。喜びは最も現在的な感情であり、愛は情熱恋愛でさえ永遠との何らかの関わりにおいてしか成立しないものであった。放物線が接戦に触れるように、永遠がこの過ぎ去りつつある今に触れるとき、ひとは時と和解する。そこでは未来により支配される焦りや欲望からも、過去により支配される後悔や憎悪からも解放されている。愛の感情実質がこの今の充足のうちに生じている。

 それに対し、憐みの感情実質はより複雑であり可哀そうという思いや愛おしい、慈しむという思いなどからなり、憐みの感情は、そのときにおいては少なくとも相手を支配する、操作するそのような欲望から解放されている。愛は支配することからも支配されることからも唯一自由な心の場で出来事になるわれと汝の等しさであった。憐みはこの友と友のような等しさが生起している愛に方向づけられる。憐みはわれと汝の等しさの喜びに向かう源泉となる力であると言うことができる。

 イエスによる神の国の宣教活動のなかで、彼は「はらわた(splagchnon)」からの深い憐みにとらわれたことが報告されていた。イエスは人々が人間の本来性に相応しくない仕方で彷徨い、苦しんでいることに対する状況に直面し、深い憐みを抱いた。イエスは「群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れみ」、「彼らに多くのことを教え始められた」と報告されている(Mak.6:34,Mat.9:36)。

 憐みがわきだしているところ、そこではかつてと今、悲惨と救い、非本来性と本来性これらコントラストの認識にこそこの感情の源泉がある。善きサマリア人は彼自身かつて強盗に襲われるなどして悲惨な状況を経験しており、誰かに憐みを受け救われたからこそ、今目の前に倒れている半死半生のユダヤ人に憐みを抱いたのだと思われる(Luk.15)。憐れまれたことの経験あるひとは「わが足すべりぬと言いしとき、主よ、汝の憐みわれを支えたまえり」(Ps.94:18)に同意するであろう。あのとき、あの援けがなかったら、自分は破滅していた、と。暗黒から光明を見出した者はこのコントラストのなかで、かつて己がそうであった状態に沈んでいる人がいた場合には、憐みをいだく。

 イエスはひとは本来「天の父の子」(Mat.5:45)たるべきものであるという認識のもとに、そのあまりのギャップのもとにある人々に自然に憐みをいだいた。そして彼は天国について「多くのことを教え始めた」。イエスはご自身の使命をシナゴーグにおいて聴衆に聖書のメッセージに託しそれを読みながらこう伝えている。「「主の御霊がわたしのうえにある。貧しい者たちに福音を宣べ伝えるべく、そのためにわたしに油を注いでくださった。主がわたしを遣わしたのは、囚人たちに赦しを、盲人たちに視力の回復を告げ知らせ、虐げられた者たちを解放において遣わし、主の受容の年を告げ知らせるためである」。彼は書を閉じたそしてそれを係りの者に返しそして座った。シナゴーグにいる皆の目が彼に注がれた。そして彼は彼らに語った、「今日この書それ自身が、汝らが聞くことのなかで、成就されてしまっている」」(Luk.4:18-21)。

 彼はこの使命感のもとに困窮している人々と自らが預言の成就であることを伝えつつ、共に生きた。憐みのなかでの神の国の宣教すなわち愛と正義と平和で満ちた神の国について教えた。彼は自らの宣教の言葉を死に至るまで生き抜いた。この憐みのもとでの教えがもたらす知識は弱ったひとびとを窮境から救いだす力である。

 

 2 山上の説教は憐まれているなかで憐れむその平安の在り処を教える―

 イエスは山上の説教において旧約のモーセ律法が伝える道徳を純化しつつ、旧来の道徳を内側から破り信仰に招いた。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(6:32-33)。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。ひとはみな愛と平和と正義の満ちる神の国に入れていただくこととの関係において、しかも神を愛することと隣人を愛することとを通じて、一切を捉え直すよう励まされている、それが山上の説教の主眼である。神の国についての明晰な理解がひとを新たにするという言葉の力を山上の説教は示している。彼は彼を求めてついてくるひとびとを見捨てることは考えられず、彼の権威ある祝福はこれらを聞いたひとびとの心に直に響いたことであろう。

 イエスは山上の説教において八福を展開した。そのなかで例えば祝福される心の態勢として、柔和な心、義に飢え渇いている心、憐み深い心、清い心、そして平和を造る心、そのような心の持ち主が祝福されていると教える。これらすべては心の深いところでの平安を維持している者たちであることがわかる。外界からの様々な攻撃や刺激に対して、揺さぶられない平安を持っている人々である。その平安の根拠は神と神の国との関連において人生を捉えることができていることにある。確かにそのような者たちは祝福されている。「祝福されている、柔和な者たち。彼らは[約束の]地を受け継ぐであろうからである。祝福されている、正義に飢えそして渇いている者たち、彼らは満ち足りるであろうからである。祝福されている、憐れむ者たち、彼らは憐みを受けるであろうからである。祝福されている、その心によって清い者たち、彼らは神を見るであろうからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれるであろうからである」。これらは今或る心的な態勢、状態のうちにある者たちの祝福であるが、それは未来文で表現される善きことどもに基礎づけられて祝福されている。端的に神の子となること以上に祝福されたことはないであろう。

 憐みを受けているからこそ、ひとは憐みや柔和な心を得る。善きサマリア人は憐み深く窮境にあるひとを介抱するとき、自ら憐みをかけている今・この時において憐みを受け取り直していることを知っている。憐み深くありうること、柔和でありうること、心の清くありうること、平和を造りうること、それだけで平安があり、喜びである。自らの悲惨を知る者にとっては、この喜びが湧いていること自体が憐れまれていることの証拠であると知っている。このような平安な心の状態それ自身が祝福を受けていることを認識し、感謝している。即ち既に憐れまれているからこそ、平安でありうる。憐みうる者は既に憐みを受けているのである。そしてさらに憐みを受けるであろう。すべてが、憐まれていることのもとに遂行される。

 これが、「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれら[生活に必要なもの]すべては汝らに加えて与えられるであろう」(Mat.6:33)というイエスの信仰の招きのメッセージである。これらすべてのものごとと生活の必需品をはじめ、各人が打ち込んでいるものごとに必要なものごとも含まれよう。「汝らの天の父はこれらすべてのことを汝らが必要としていることをご存知である」(Mat.6:32)と言われる。この慰励の言葉の背後には天父への信が働いている、「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(7:11)。イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。各人にとって求めるべき善きものとは神ご自身であり、その最も善きものに他の一切の善、良きものが秩序づけられる。

 全知全能であり「完全」(5:48)な天の父により一切が秩序づけられるとき、すべて肯定的な心的態勢は神の憐みのうちにあることであろう。地に住むことそれ自体が重力の法則の枠のなかにあるように、肉の弱さを抱え「何を食べ、何を着ようか煩う」(6:25)ことが常となるそのような者たちへの憐みの中で、人々は正義を求め飢え渇き、柔和で清く平和を造るべく憐み深くあろうとする。

 

3柔和で憐みの生の準則とそのエヴィデンス

 そこでのひととの交わりの規準となるものは「この言葉はこの行いは平和を造るか、正義を実現するか、心の柔和さと清さと憐みの表れか」というものである。これらは人々とのあいだで競争的、勝者たろうとする者にはどうしても採用できない行為規準である。山上の説教への納得のもと、ナザレのイエスの弟子であろうと覚悟する者はこの道を行く。何よりもキリストと共に歩む。それを望まない者は心の平和と平和を造る者たることを諦めることになる。

 ひとは言うでもあろう、他の仕方で柔和、憐み、清さ、正義心を追求できると。他の仕方とはいかなる仕方か。神の国とご自身の義を求める信仰によるものではない仕方がまず考えられる。生得的に素直で争いの嫌いな柔和なひとはいることであろう。それは祝福されていることであろう。その場合、そのひとがコントラストのなかで自らの憐みや柔和を受け止めているかが問われることであろう。そうでない自然にあふれる柔和や憐みはキリストのそれとは異なることになる。この自然的な共感能力はイエスのそれに似ているであろう。ただし、イエスは明確な神の国の現実の認識のもとにそのコントラストのうちで困窮している人々に憐みを抱いている。そのひとには無意識に沈んでもいよう、かつて憐れまれたことを思い返すよう促されることであろう。

 さらに他の仕方のもう一つの在り方として、信心は持つがナザレのイエスの父への信仰ではなく、仏が伝える永遠の法や他の神々への信仰により同じ感情を得るというものである。イエスの弟子になろうとする者にはこの他の仕方を尊重することが求められる。しかし、イエスご自身は言う、「わたしが道である、また真理である、そして生命である。わたしを介するのでなければ、誰も父のもとに行くことはない。汝らはもしわたしを知ったなら、わたしの父をも知ることになるであろう。そして今から汝らはご自身を知っておりまた見てしまってもいる」(John.14:6-7)。

 イエスはご自身が神の子であるという自覚にあるとき、他の道を勧めることは考慮の外にある。それは無責任であり信仰の本質に反すると言うべきである。信仰は二心なき心魂の根底における幼子のごとき混じりけのない承認であり信頼であり委ねである。「あなたは仏教の世界で育ったのだから、その道を追求しなさい」とイエスご自身が言ったとしたら、山上の説教における彼の真剣さは何であったのかという疑念がわくのみならず、大いなる失望のもとに彼の御跡についていくのを止めてしまう者が続出することであろう。

 聖書の神は「わたしをおいて他に神があってはならない。・・わたしは妬む神である」(Exod.20:3-5)と言われる神である。「生命に通じるもんはなんと狭く、その道も細い」(Mat.7:14)。キリストにのみ救いがあるという信仰は排他的に見えても信仰の根源性からして少なくとも自らに関わる限りにおいては他の道の排除は要請されるものである。神は「妬む神」である。信仰においては他者との水平的な関係ではなく、他人はいざしらず、自己と神の信実な関係が問われている。神がイエス・キリストにおいて信実であったとき、信仰により応答するのかそれとも裏切るのかが問われている。

 しかし、それは非理性的な狂信とも偏った感情である迷信とも異なるものであるに相違ない、正しい信仰である限り。ひとは他の道にいくひとに言うであろう。「少なくともわたしはどこまでもイエスについていく、人生が終わってしまわなければわからない事柄に関して、人生の途中で様々な挫折により捨ててしまったなら実験は未遂に終わる」、また「未来形で語られる神の子となることや慰めを諦めることになるであろう」。少なくとも一緒の道を歩めないことを告げるとき、こう言うであろう。「あなたがあなたの道を行くことは尊重する。ただし双方とも迷信や狂信に決して陥らない仕方で信仰生活を遂行しよう」。他の道を諦め、捨ててnarrow and straight roadを歩むことは信仰生活の基本となり、そこに信じることにおける喜びがわきおこる。信仰とは人生をかけることである。あれもこれもという二心は単に欲深にすぎない。

 ひとはただイエスに従う人生においてその確かさのエヴィデンスを蓄積していく。この世が与える平安とは異なる平安をいただくことを経験する。それは彼が永遠の生命にあるからこそ与えることのできるものである。イエスは言う、「わたしは汝らに平安を遺していく、わたしの平安を汝らに与える、わたしが汝らに与えるその仕方はこの世界が与える仕方のものではない。汝らの心は騒がさせられるな、また恐れさせられるな。汝らは私が汝らに語ったことを聞いた、「私は去っていくそして汝らのもとに戻ってくる」と。もし汝らが私を愛していたなら、わたしが父のもとに赴くことを喜んだことであろう」」(John.14:27-28)。イエスは父とともにある平安の故に、心を騒がせることも恐れることもない。「天の父の子」となった者たちも同様である。そして迫害の歴史において、その証は多く与えられてきた。この不思議な平安とそれに伴う喜びこそ神の国の証、エヴィデンスであると言える。

 パウロは不可視なものについての接触的な知識である「叡知(ヌース)」という認知機能について言及しつつ、神から与えられる平安についてはヌースがヒットすることのない仕方で与えられることがあると主張する。ひとは自らの平安を認識できないことがあるにしても、不思議な平安に護られることがある。パウロは言う、「あらゆるヌース(叡知)を超えている神の平安が汝らの心をそしてキリスト・イエスにある汝らのノエーマタ(かつて得た叡知内容)を護るであろう」(Phil.4:7)。この平安が現実のものでなければ、キリスト教史においてあれほどの殉教者が平安のうちに死んでいくそのような状況を想定することは難しい。そこでは正義のために迫害されても、喜んでいることができる、言ってみればこの世の生死を突き抜けている心の態勢にあるからである。「われには生きることはキリストである。死ぬことは益である」(Phil.1:21)。

 この突き抜けのもとに、認知的、人格的態勢が成長していく。「われ祈る、汝らの愛が、知識においてまたあらゆる感覚においてますます満ち溢れ、汝らが[重要度の]諸差異を識別するに至ることを、それはキリストの日に、汝らが染みなく、咎めなき者となるためである」(Phil.1:9-10)。「平和の神ご自身が汝らをあますところなく聖なる者とし(hagiasai)、汝らの霊と魂と身体とがわれらの主イエス・キリストの来臨の時に備え非のうちどころのないよう完全なまでに護られるように」(1Thes.5:23)。このような認知的、人格的成長がある限り、その信仰は狂信からも迷信からも自由な正しい信仰であると語ることができる。

 

4キリストの弟子のこの世における独自の在り方

 このような柔和、憐み、清さを求めるひとはこの世にあって競争的な人々によりそれぞれの従事する領域において抑圧され、冷遇を受けまた押し出されてしまうのではないかと問われよう。もちろん天に宝を積むことが目的であるから、この世の栄華、権力とは無縁であろう。しかし、それぞれの仕事や活動において独自な働きをなすことができよう。信仰による統一された心の働きであるため、様々な誘惑から護られまた気をそらされることもなく、集中して活動に従事することであろう。

 種蒔きの譬えはイエスの宣教を介して神の御言葉、御心が聴衆の心に蒔かれそれを受けとめた信仰の実りについてのものである。「イエスは彼らを多くの譬えで教えた、そしてご自身の教えのなかでこう言われた。「聞け、そして見よ。種を蒔く者が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞け」と言われた」(Mak.4:2-10)。

 この譬えにおいて御言葉の蒔き手はイエスご自身であり、受け止める心、拒否する心等われらの様々な心の環境のもとに御言葉が蒔かれる。これは人生にも適用される。誰も自らの親を選べない、そこに自らの生が奪われ、焼け枯れる運命の過酷さを見るひともいよう。同時にそこに「誰も~ない」という人生の或る意味での平等さと醍醐味がある。自らに生が与えられたことを厳しい与件に思えても、肉の親の背後にいたまう蒔き手を信じ、自らを「良い土地」であると受け止めることなしには三十倍、五十倍に実らすことはできず、蒔き手に対する信頼が不可欠となる。荒地に蒔かれ悲惨にしか思えない与件であるにしても、聞く耳を持ち神に与えられた良い土地であると信じるとき、開墾が始まり、自らの与件から推定されるものの百倍の実りをもたらすこともあろう。まったく黒歴史であると思っていた自らの生が憐みに触れ一気に白歴史に変換させられるひともいよう。

 豊かな実りとはイエスご自身の認識では「天の父の子となる」こと以外ではないであろう。誰であれ自らの人生の終盤にさしかかり、自らの人生のかつてと今との対比において、三十倍、五十倍の実りを経験している者には、始めと終盤のコントラストの著しさにただただ驚愕し、神に賛美を帰することであろう。こう語る私自身も、人から見れば取るに足らないものであろう小さき実りではあるが、始まりのころの無知蒙昧、悲惨な現実に思いをはせるときこの果実にただ驚愕し、感謝している。

 ひとは天の父の子として父に栄光を帰しつつ生きるとき、単に競争的であり、他人を蹴落とそうとする人々より、豊かな実りをもたらすこともあろう。われら個人の生にはじまり、社会そして地球や宇宙全体が唯一の神のもとに秩序づけられるとき、それは最も道理ある人間、世界理解であるという心の真っすぐさのゆえに、よき仕事を遺すことであろう。

 

5結論 イエスと共に歩むとき、柔和な者となる。

 八福の第三福は柔和な者であった。「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を汝らのうえに繋げなさい。そしてわたし[の足取り]から、わたしが柔和でありその心によって低いものであることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。というのもわたしの軛は良きものでありそしてわたしの荷は軽いからである」(Mat.11:28)。イエスは暴れ馬のような方ではなく、イエスは驢馬の子にのってやってくる平和の君であった。その彼の軛に繋がれて歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与える者となる。平和の君だからである。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。

 イエスの弟子であろうとする者はイエスの担いやすい低い軛に繋がれる。ひとは見捨てても彼は決して見捨てることはない。誰であれ、ご自身の栄光を棄てられ、ひととなり、貧しいもの、悲しむ者、争いを好まない者、正義から不当に見放され正義に飢え渇いている者、憐み深い者、平和を造る者そして正義のために迫害される者たちとどこまでも共にいたまう方のところなら行くことができる。この世界で見失われているひとびとであればあるほど、イエスの軛につながれつまり神の子の信のもとに生きることによって、この人生を歩むことができる。

 イエスの軛に繋がれ歩んでいるとき、次第にイエスの歩調に合うものとなり、次第に造り変えられていくであろう。この世界に何ら確かなものがないと思い絶望する者でも、このような心の働き、状況においてある者が祝福の対象であるなら、人類にその一番低い所にセーフティネットは明確に張り巡らされていることを知るにいたる。イエスのもとにならいくことができる。

 

 

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福音―ロゴス(言葉)とエルゴン(働き)―

  福音―ロゴス(言葉)とエルゴン(働き)―2021年5月30日

1聖書箇所 パウロにおけるロゴスとエルゴンによる宣教

〇「わたしは、神に向かうことがらに関して、キリス ト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、神の霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:18)。

〇「この方[ナザレのイエス]はエルゴン(働き)とロゴス(言葉・議論)において神の前でそしてすべての民の前で力ある預言者となられた」(Luk.24:19)。

〇「われらの福音は言葉において(en logōi)だけではなく、力能においてまた聖霊においてもそして確証の十全性(plērophoriai:full conviction<to bring full confirmation)においても汝らに生起した(egenēthē)」(1Thesa.1:5)。

〇「われらは[キリストと]共に働いているので、われらは汝らも神の恩恵を空しく受け止めることのないように勧める。というのも、ご自身が言いたまう。「受け取るべき好機に、わたしは汝に聴いたそして救いの日に汝を援けた」。見よ、今や歓迎すべき好機、見よ、今や救いの日。われらは誰にもいかなる躓きを与えることなしに(それはわれらの宣教の奉仕が咎められることのないためであるが)、あらゆる場合において神の奉仕者として自分たちを表現している(sunistantes, exhibiting)、大いなる忍耐において、艱難において、窮乏において、行き詰まりにおいて、鞭打ちにおいて、監禁において、暴動において、労苦において、徹夜において、断食において、貞潔において、知識において、寛容において、親切において、聖霊において、偽りなき愛において、真理のロゴスにおいて、神の力能において(en logōi alētheias, en dunamei theū)、右手と左手の義の武器を介して、栄光と恥を介して、悪評と好評を介して[われらは自己を表現している]。われらは迷わせる者また真実である者として、知られていない者そして知られている者として、死につつある者としてそして見よわれらは生きている、懲らしめを受けつつそして殺されていない者として、悲しむ者しかし常に喜んでいる者として、貧しい者としてしかし多くを富ましている、何も持たない者そして一切を持つ者として[自己を表現している]」(2Cor.6:1-10)。

 

1はじめに ロゴスとエルゴン

  福音は一つのロゴスであり、そして各人のその証、自己表現・プロデュースは一つのエルゴンである。彼らの宣教活動はこの種の理論(ロゴス)とそれに伴う実践(エルゴン)により構成されていた。信じる者は自らの信仰生活を介して神の言葉を実践において証していくこと、証拠を提示することが、目標となる。それにより神に栄光を帰する。先週M君が信じることは知識に至るものではないが、信じることはひとの幸いにとって有益なものであるという話をしてくれた。聖書は信仰がどれほど知識をもたらすものであるかを、ロゴスとエルゴンの相補性という視点から論じたい。

 イエスご自身はひとの根源的な道徳性を山上の説教で明晰に語り、その道徳性は天の父への信仰によってのみ実現されるものとして、今・ここの一挙手一投足において自らの言葉を生き抜いた。彼の言葉と働きの合致にこそ、おのずと「権威」(Mat.7:29)が湧き上がり、ひとびとは彼についていった。今日は最近公表した「御言葉の受肉―不可視なものの可視化―」(季刊「無教会」第65号、2021.5)によってロゴスとエルゴンの相補性について学びたい。

 

2 御言葉の受肉―不可視なものの可視化                       

 この二一世紀のパンデミックCovid-19は人類全体で協力して対処すべき人類史的な状況を出来させている。人々は感染者の棒グラフの上下に一喜一憂している。全人類のワクチンの接種以外に(あの豪華な?)日常生活への回復は望めない。今回の相手は肉眼で不可視なため、生存を脅かすものに湧く恐怖は全方位に及ぶものとなる。学生寮の生活において日常交わる人々が恐怖の対象となりえ、相互に疑心暗鬼にさらされる。孫氏の兵法に「敵を知りおのれを知れば百戦危うからず」とあり、正しく恐れるにはウィルスの特徴、振る舞いを熟知するに若くはない。赤外線は熱放射を介してまた物質を突き抜けるニュートリノは地下水槽を介して可視化されるように、将来対話者が陽性か否か可視化されるようになるであろう。人類はこうして課題を克服してきた。とは言え、ウィルスは生物的存在者以上ではなく、人類の壊滅は身体のそれでしかない。「身体を破壊しても魂[生命の源]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:26)。

 今回のパンデミックは、聖書的にはこの惑星に住む人類共通の問題というものが実際にあり、われらはひとりの不注意や身勝手が隣人を苦しみや死に追いやる運命共同体であることを伝える。われらは罪を犯し犯されつつ一つの宇宙船に乗り合わせている。「被造物全体が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにある・・われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ呻いている」(Rom.8:22)。今回この運命共同体は全体として救いを求めているという創造と救済の聖書的な人間認識を共有した。時代は(ようやく?)疫病、飢饉、貧困等聖書の伝える苦難に追い付いてきている。イエスは「不法があまねくはびこるので、多くの者の愛が冷える」その状況とともに預言する、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、様々な場所で大きな地震と飢饉と疫病が起こるであろう。恐るべきことと天からの大きな予兆が起こるであろう」(Mat.24:12,Luk.21:10)。この終末預言の警告のなかでイエスは人類を贖い、救い出すべく十字架に至るまで信の従順を貫いた。

 人類は不可視なものの秩序ある可視化をロゴス(理、言葉)とエルゴン(その働き)の相補性において捉えてきた(例、一オクターブの調和音(合成体)=1:2の弦の比(ロゴス・形相)+空気(質料)[ロゴス上比と空気の分離、今・ここで奏でるエルゴン上の不分離])。生命の設計図としての遺伝子も四つの螺旋的塩基配列を秩序づけ、その情報それ自身は物質ではなくタンパク質合成の理である。先哲によれば、ロゴスとしての形相は生成消滅過程を経ることなく、質料を一なる合成体として働かしめる。今・ここの秩序ある働きは不可視のロゴスの証である。聖書にもこの相補性の事例は豊かであり、エマオ途上の弟子たちは「神とすべての民の前にエルゴン(働き・実践)とロゴス(言葉・理論)において力ある預言者となったナザレのイエス」について語りあった(Luk.24:19、eg.Rom.15:17.2Cor.6:7,1Thes.1:5)。

 不可視なものの最たる方である神は「光あれ」の言葉により宇宙を創造された。そのロゴスが受肉した。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿を取りご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられた」(Phil.2:6)。

 イエスは山上でモーセ律法の純化により人々の二心の偽りを摘出し、道徳的次元を内側から破ることにより信仰に招いた。そこで彼は言葉の力のみにより道徳、社会、自然、天国と地獄一切を天の父の完全性に秩序づけ、彼はその教えに生きまた死んだ。彼の生涯はその言葉と働きの合致故に偽りなき権威を伴った。科学技術や衣食住であれ、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう」(Mat.6:33)。イエスはこう語り信仰に招く。人類の第一の課題は「天の父の子」となる信仰により不可視な神との正しい関係を作ることである。「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを去った、というのも見えない方を見ている者として忍耐したからである」(Heb.11:27)。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。神の意志として「信の律法」(神が信であるとき、信じるか裏切るか)はモーセの「業の律法」(貪ぼるか貪ぼらないか)より根源的である(Rom.3:19,27)。

 救いそのものがイエスにおいて可視化された。不可視なものの信仰が可視的なものにより確認される。「信仰は望んでいることがらの確証であり、見られていないものごとの[不可視に留まることへの]反駁である。というのも信仰によって古への[アブラハム等]先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りにより[先人たちの]諸時代が統一させられていることを、信仰により観て取っており(pistei noūmen)、見られるものが現れないものども[神の語り]に基づくことを知るに至る」(Heb.11:1-2)。

 人間のあらゆる肯定的、創造的営みの根源にこの信が位置づけられる。どれほど認知的に人格的に愚かで悪くても、そうであるからこそ「幼子」のように信じることはできる。最も困難な探求対象が最も容易な幼子の信のみを要求しているということは全知全能の神にふさわしい。われらは幼子のように信じる「神はおのれの独り子を賜うほどに世界を愛した」、と(John.3:17)。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。復活は「告白」(Rom.10:9)を伴う信によってのみ突破されうる掌握困難な神の力能の顕われであり、甦りを信じることができるということ、それが喜びである。甦りは再臨による宇宙の完成に向かう。そのエヴィデンスは信に伴い豊かなものとなっていく。

 

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かつて憐みを受けたサマリア人の憐み

かつて憐みを受けたサマリア人の憐み

                     日曜聖書講義2021年5月23日

 

聖書箇所 「ルカ」10章21―37節

「そのときイエスは聖霊によって喜びに溢れて[天に向かって]言った。「天地の主である父よ、褒めたたえます。汝はこれらのことを知恵者や学識ある者には隠して、幼子たちに顕されました。その通りです、父よ、というのも汝の御前に[汝の]嘉みしたまうものごとがこうして生起したからです。あらゆるものごとはわが父によりわたしに委ねられました。また父でなければ子が誰であるかを誰も知ることなく、そして子と子が顕そうとするその者においてでなければ父がいかなる方であるかを誰も知りません」。そして彼は弟子たちに対し向きをかえ、自らのこととして、言った。「汝らが見ているものごとを見ているその数々の目は祝福されている。というのも、わたしは汝らに言う、多くの預言者たちそして王たちは汝らが見ているものごとを見ることを欲したが見ることはなかった、そして汝らが聞いているものごとを聞くことを欲したが聞くことはなかったからである」。

するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、わたしは何をしたら永遠の生命が受け継ぐでしょうか」。彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか、汝はどう読むか」。彼は答えて言った、「「汝は汝の神、主を汝の心を尽し[良心から]そして汝の魂を尽し[生命の限りに]そして汝の思考を尽して愛するであろう」。また、「汝は汝の隣人を、汝自身をの如くに、愛するであろう」」。彼に言われた、「汝の答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、汝は生きるであろう」。すると彼は自らが正当化することを欲してë、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とは誰のことですか」。イエスは[その挑戦を]受け止めて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリア人(びと)が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て憐みを抱いた(esplagchnisthē)、そして近寄ってその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」。彼が言った、「その人に憐みをかけた者です」。そこでイエスは言われた、「汝も行って同じように行え」」(Luk.10:21-37)。

 

1愛の文法―永遠と喜び―

 このところ、愛すること、憐れむことを学んでいる。「愛」は何らか永遠、永続するものとの関わりで語られるものであった。この善きサマリア人の譬えもやはり永遠の生命を得ることとの関わりのなかで与えられる。とはいえ自ら知者であることを誇る律法学者はイエスの権威を失墜させようとして、試みているのであるが、イエスにより自己矛盾に陥らせられ逆にやりこめられている。自分は知者だと思っている人間の盲点がつかれ、少なくとも実践的に常に憐みをかける態勢にないことがはしなくも明らかにされた。人類は永遠或いは永続的なものとの関係においてしか「愛」を理解してこなかったことは特筆に値する。それだけ、愛というものごとは軽々しく扱われないものである。先週、「愛」のなかで情熱恋愛は一つの強い感情であり、イメージへの集中により形成されるが、聖書が伝えるまたイエスが伝える愛は命じられうるものであることを学んだ。双方とも永遠にかかわる。情熱を持続するには常に障害を必要とし、二人の情熱を妨げる最大の障害は死であり、情熱恋愛は心中によって永遠を獲得しようとするものであった。[或る新婦とおばさんの話、ある女優さんの話]。

 感情の文法を学んだ。感情はそれがそこにおいて生起する文脈、そしてその実質、さらに表出・振る舞いを伴う。この感情の文法は階層的であり、感情が生起するその直接の文脈の背後に心魂の態勢、実力としてのさらなる文脈が想定される。例えば、「嫉妬」が生起する文脈は「正当だと看做す処遇を受けない」であり、ひとは正当な処遇を受けていないと思うときに嫉妬にかられる。その感情実質は憤りや羨望そして失望など感情実質は複雑であるが、振る舞いとして自らが正当だと看做す処遇を受けるあらゆる行為が想定される。

 この「正当だと看做す」という認識の背後に、さらなる心魂の態勢が関わっており、自らが相手に対し信実であるからこそ、嫉妬を感じるのか(その場合失望の濃度が強まる)、それとも自らの征服欲のような欲望が心魂の態勢として強いため、嫉妬を感じるのか(その場合羨望や憤りの濃度が強くなる)、感情実質に差異がある。つまり、哲学者が「パトス(身体の受動的な反応としての感情や欲求)はヘクシス(それまで培った心魂の態勢(かまえ、実力))のセーメイオン(徴)である」と言う状況をあらわしている。これは感情も実は最終的には信によって秩序づけられるものとなるという主張を含意している。心魂の一番根底にあるあらゆる秩序ある肯定的、創造的営みの態勢は信だからである。

 聖書においては今読んだように、父への愛と隣人への愛の二つの戒めが六百以上見いだされる律法の「冠」として提示される。愛が満たされるとき、人類に対する一切の神の意志が満たされる。愛というものについて、もちろん聖書においても愛は感情の次元においても捉えられる。イエスが教育を受けることのなかった弟子たちを伝道に派遣し、大きな成果が挙げられたとき、こう報告されている。「イエスは聖霊によって喜びに溢れて[天に向かって]言った。「天地の主である父よ、褒めたたえます。汝はこれらのことを知恵者や学識ある者には隠して、幼子たちに顕されました」。イエスは愛する神がこの世界で軽く見られ、顧慮されないような者を憐れんで用いてくださったことに喜び、賛美と栄光を帰している。そこには無学な弟子たちに対する慈しみの感情も見られる。この競争世界で勝ち残った者ではなく、とるにたらないと思われていた者たちが聖霊の人類への賦与という大事業に関わることができる、そのことにイエスは喜び賛美している。知者、学者たちはイエスを軽蔑し、遠ざけまた嫉妬したのであり、無学な者たちがイエスを愛したのである。そこには師と弟子のあいだに、われと汝の等しさとしての愛が生起していた。神が弟子たちを用いてくださったことに神への愛を見出し、イエスは喜びにあふれて叫んだのであった。

 「愛」の感情実質は情熱恋愛においてもそうであるように、端的な喜びである。それではその感情が生起する文脈は何であろうか。端的に言って、「永遠と思われるものになんらか関わるとき」である。何であれ喜んでいるとき、ひとは時と和解している。つまり今を生きている。喜びは最も現在的な感情である。永遠を放物線とするなら、喜びがあるところ、放物線が接線に触れるように今t1において永遠が降りてきている。「しまったあんなことをしなければよかった」という後悔や「あいつはこんなことをした」という憎しみなど否定的な感情は過去に捕らわれており、過去が現在t1を支配している。他方、明日感染するのではないか、無一物になるのではないかという不安や恐れのような否定的な感情は未来が現在を支配する。われらは過去からと未来からしか生きていくことはできないのか。過去と未来によってのみ支配されているのか。今はどこにいったのか。今を生きることはあるのか。愛のあるところ、そこには永遠が宿り、時との和解が生起し、後悔や怒り、また焦りや恐れそして不安から自由にされている。ひとはそのような感情を「愛」と呼んできた。

 それ故に、親の子供への愛においてであれ、情熱恋愛においてであれ、子供がどんな悪さをしても喜びであり、赦すことができ、恋人が常軌を逸することをしたとしても、許容して喜んでいる。今度読書会をすることになった宇佐美りんの『推し、燃ゆ』においても主人公のあかりはアイドルが誰かを殴ったとしても、そこに何か深いわけがあるのだと思い、受入れている。人類は愛との関連にしてしか、「永遠」を語ることはなかったのである。愛の感情の表出・振る舞いは何らかの仕方で共にいることを可能にするあらゆる振る舞いが考えられる。愛する者とずっと共にいること、そこには喜びがある。神は愛である。

 

3誰が隣人となったのか

 翻って、サマリア人の譬えである。彼には喜びがあったのである。その行為には何ら報いも見いだされない。エルサレムからヨルダン川の谷にあるエリコまで約27キロ降っていく途中のことである。盗賊に襲われ半死半生に陥っているそのひとは見ず知らずの他人である。この暴行はユダヤの独立を祈願する熱心党に属する者たちの仕業であると言われるが、この可哀そうなひとが殺されなかったのは同じユダヤ人であったからであると指摘されている。エリコは祭司の町であり、通りかかった祭司はつとめのあとの帰り道であったと想定される。祭司もレビ人もユダヤ社会にとって聖職者として学派の規律によって縛られていたと思われる。それ故に援けなかったかもしれないが、イエスはなぜ聖職者たちが援けなかったかという理由を挙げてはいない。ただ、読者は異邦人であるサマリア人との対比に注意は向けられている。福音はすべてのひとに向けられている。サマリア人は通常自分たちを軽蔑するユダヤ人と思われる襲われたひとの生傷の手当てをして、宿屋までつれていき、宿賃も支払った。

 ここでの問題は「隣人とは誰か」という一般的な問ではなく、三人のうち「誰が隣人となったか」という実践的な問である。理論・ロゴスではなく実践・エルゴンが問われている。イエスによって、その都度愛が出来事になるよう挑戦を受けている。律法学者のみならず、理論化は一般論を好む、というのもそこで世界が明らかになる明晰性を好むからである。同時に自分を安全地帯においておくことができるからである。理論ばかりで指一本動かさないパリサイ人がイエスにより叱咤されている。ひとはどこまでも理論的な武装で自らを守ることに関心が向き、困窮した隣人に向かわない。かつて、或る哲学者が「学問よりも、人の方が大切ですから」と困窮していたひとを援けたことを思い出す。ロゴスとエルゴン相互の支えあいは必要であるが、エルゴン回避へのアリバイ造りとしてのロゴスへの逃避はイエスの憎むことであることを自らの肝に銘じたい。

 サマリア人はあの状況において困窮に陥っているひとを援けることができることを内心喜んでいた。自分が神の意志のこの地上における実現の一つのサンプルを提供できることを喜び、光栄に感じていた。永遠と交換されるものはこの地上には何一つないからである。「ひとが全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひとは自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。心が全世界を自分のものにすることより大切なのは自らがそこに属する自らの魂である、というのもその魂において心が神と関わるからである。そして心が神からそれるとき、自らの魂を失うであろう。サマリア人はこのことを腹の底から知っていたのである。だからこの実践・エルゴンは理論・ロゴスの裏付けのもとに遂行されていたのである、ただしそのサマリア人がその現場にあってただ憐みだけがあふれ出したのであったに相違ない。彼は「憐みを抱いた」と報告されている。彼自身もかつて盗賊に襲われ、誰かに援けてもらったのかもしれない。憐みとは、学んできたように、憐れまれる経験をしてのみ、抱くことのできる感情であった。競争心のあるところ、嫉妬心のあるところ、そこには決して憐みの感情は湧かないのであった。

 憐みを受けるとは、自ら困窮したものであることの認識が前提にされていた。善きサマリア人は何らか自らの困窮を経験したに相違ない。襲われた人を宿まで連れて行って介抱したが、彼自身そういう憐みを受けたひとであるに相違ない。人生はこんなものだと見切ってしまっているひと、或いは自分に救いがくるはずがないと絶望しているひとには憐みを受けることはできないであろう。何らか救いを求めているひとに憐みを憐みと受け止めることができる。その憐みをかけるひとは「お前の状況は「相応しくなく・不当に(anaxios)」そのような困窮に陥っているのだ、人間は神の子なのだと」と伝え認識の転換を迫っている。その人間の本来的な状況を伝えることがなければ、困窮と救いのコントラストを見出すことはない。

 自らの人生が置かれた与件、現状に疑いをもたず、どっぷり浸っているひと、そのようなものでしかないと冷笑に陥っているひと、また絶望しているひと、そのひとびとは憐みを受け取る余地が心に備えられてはいない。現状が何等か変革されていることに気づくことが最低限困窮の脱出に不可欠である。たとえば、生来の病気や疾患のため10メートルを一分かけて通過していたひとが、59秒になったとき、何らかの希望が湧いてくる。一秒でも変化があったことに気づくその力が必要であり、そこに希望が湧いてくる。夢は勝手に未来に自分の願望を投影することであるが、希望は現実に何らかの根拠が与えられ喜びを伴う現在的な感情なのである。

 イエスは彼の力ある業を見てついてくる群衆が、「飼い主のいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て深く憐れんだ」と報告されていた(Mat.9.35f )。彼に憐れみという感受態が発動したのは、それを感受するその力能が涵養されており、憐み深さとしての力能が彼の心魂に宿っていたからである。それは彼の態勢が神と隣人への愛という状態にあったからこそ生じた。その愛のもとにはひとは神の子となるべきものであるにもかかわらず、闇の中を彷徨っているという認識が憐みの発動を助けている。そこに常に聖霊の注ぎがあったとしても、少なくとも人間的にそのように語ること、分析することは許容されよう。イエスは敵をも愛する態勢にあったからこそ、迫害する者を祝福して呪わず、 「喜びそして喜べ、天における汝らの報いが大きいからである」と言うことができたのであろう(Mat.5:12)。右の頬をうたれ左の頬を向けるとき、そこでは敵がいつの日にか友と友となるわれと汝の等しさの希望が湧いてくる。

 

4結論

 迷える一匹の羊の譬えを思い返す。イエスは言われた。「汝らのうち百匹の羊を持っているひとがいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に遺して、見失った一匹を見つけだすまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう」(Luk.15:4-5)。イエスの身代わりの死は信の従順を貫いた帰結であり、それが神に嘉みされ「イエス・キリストの信を介して」神の義の啓示の媒介に用いられた。この信義の分離のなさが信仰義認を基礎づけ、恩恵を無償の贈りものとする。この福音はモーセの業の律法の比量的な計算と異なる比較を絶する善である。99匹の健全な羊をおいて、迷える一匹の羊をさがし求める神である。それは9999匹であっても、9億9999万匹であっても同様であり、宇宙の創造者にして救済者である方のこれまでとの比較しようもない善が歴史のなかで生起したのである。この比較を絶する善によってしか、ひとは良心の宥めを得ることはできない。人類は御子の受肉においてそして伝道と十字架と復活において憐みを受けたのである。それ故にどんなに困窮していても、再び立ち上がるのである。

 

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憐みと愛

憐みと愛         

日曜聖書集会5月16日 

 

聖書箇所

「「師よ、律法のうちいかなる戒めが偉大なものか」。イエスは答えて言う、「汝は汝の神、主を汝の心を尽し[良心から]そして汝の魂を尽し[生命の限りに]そして汝の思考を尽して愛するであろう」。これが偉大なそして第一の戒めである。第二はこれと同様のものである、「汝は汝の隣人を、汝自身をの如くに、愛するであろう」。これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちが依拠している」(Mat.22:36-40)。

 

1憐みと感情

 憐みという感情を先週学んだ。身体の受動的な反応である感情(パトス)に対して良い態勢にあることが伝統的に「徳」と呼ばれる。恐れに対する勇気、欲望に対する節制、怒りに対する正義などが人格的態勢としてパトスに対して良い態勢にある。正義な者、義人は怒らないのではなく怒るべき時に怒るべき仕方で怒るべき程度の怒りが自然に湧いてくる者であり、そのうえで当事者に等しさを分配する人格的卓越性のことである。柔和は矜持、優劣感や競争心に対し良い態勢にあり、侮辱や誹謗中傷をスルーし赦すことができる態勢である。

 嫉妬と競争心は裏表であった。勝者はますます競争的となり、敗者は卑屈となり強者への嫉妬や恨みに駆られる。この世界にはどこかに支配することからも支配されることからも自由な心魂の場所はないのか。勝者と敗者しかこの世にはないのか。地政学では「永遠の敵や永遠の味方は存在しない。ただ永遠の利益のみが存在する」と言われる。利益や不利益でしか世界は見ることができないのか。このような国家間および人間間の力関係以外の何ものかはこの地球上には存在しないのか。今回は前回学んだ憐みに基づき、憐みと愛の関係について学びたい。One Team或いはWin-Winの関係これこそ愛が生起しているところで造られるものである。

 

2 聖書の愛と情熱恋愛

 パウロは言う、「汝らのなかで嫉妬と競争心があるところでは、汝らは肉的でありまた人間に即して歩んでいるのではないか」(1Cor.3:3)。心魂の一番底である自然的な肉に即してではなく、霊に即して或いは「内なる人間」という聖霊の注ぎに反応する部位、二番底に即して生きるときのみ、神から聖霊を介して憐れみを受けたことの喜びに基づき、競争相手や敵とのあいだに敵が友となるOne Teamをめざす。先週学んだ憐みの文法は悲しみに似ており、憐みが生起する文脈はそのひとに「相応しくない仕方で(anaxios, unworthy)」或いは不当な仕方で不運や不幸、悲惨な目にあった場合にそのひとに対して抱く可哀そうだという感情であった。また相応しくない仕方で幸運を手にする者に対しては「妬み(phthnos,jealousy)」が生起する。競争や嫉妬のあるところ、そこには比較級の世界しか存在しない。憐みは心魂のそのような態勢においては生起しないことは確実である。他者よりも一層優った状態にあることを望んでいることが、競争心や嫉妬心に、はしなくも開示される。そこでは支配からも被支配からも唯一自由な心魂の部位において生起するわれと汝の等しさとしての愛が出来事になることはないからである。

 愛と憐みの関係は、愛は命じられうるものであるのに対し、憐みは本来的でない状況にあるひとに対する可哀そうだという身体的な反応を伴う感情である。レビ記の記者が「汝の隣人を、汝自身を[愛する]の如くに、愛せよ」と命じる時、愛は等しさ、例えば父と子、教師と生徒等のあいだに、父は子によって父であり、子は父によって子であるその等しさがその都度生起するものであることを知っていた(Lev.19:18,cf.Deut.6:5,10:12)。神はイスラエルの民に言う、「われは汝の神となり、汝はわが民となる」(Lev.26:12)。ここでは神は民によって神であり、民は神によって民である。夫は妻によって夫であり、妻は夫によって妻である。そしてこの種の人格的な等しさの実現は司法的な正義と異なり、決して強制によっては実現されない。

 聖書が伝える愛が命じられうるものであることは、所謂自らの濃密な感情を味わっていたいという情熱恋愛と異なる。情熱恋愛は、アウグスティヌスが「わたしは愛することを愛していた(amare amabam)」と言ったように、自らにわきあがる陶酔感、濃密な感情に没入する。或る女優さんが「恋をしているときの胸のときめきが好き」と言ったように、相手を等しいものとして愛しているのではなく、自らの相手に対するイメージや願望をさらには心拍数を愛しており、それらを相手に投影しているからこそ、恋愛曲線の急上昇と急降下、陶酔と幻滅を繰り返すことになる。情熱恋愛は一種の自己陶酔であることを知る必要がある。情熱恋愛も聖書で語られる命じられうる愛双方ともに感情実質として喜びを伴うが、一方は夢想的かつ陶酔的に湧き上がる喜びへの没入であるが、他方は歴史のなかでのわれと汝の人格同士の等しさの生起に伴う喜びである。

 人類は永遠との関連においてしか、「愛」を語ることはなかった。情熱曲線を高止まりに維持させるには障壁、障害を必要とする。ロミオとジュリエットのように家の反対などの障壁、障害が高ければ高いほど、情熱は持続する。ひとは嫉妬などの苦悩の薪をくべることにより情熱を維持している。しかし、それは「トリスタントとイゾルデ」などの他の文学作品にも見られるように、情熱恋愛の完成は障壁の最大のものとしての「死」を分かちあうことによって完成する。つまり心中によって永遠を共に分かち合おうとする。しかし、実際にはなかなかそこまで陶酔は維持できずに、何かの瞬間に愛情が覚めてしまい幻滅へと急降下する。そこにはわれと汝ではなく、わたしとわたしが描いたあなたがいただけであることが分かる。パスカルは言う、「何ものも欲望(cupidité)ほど愛に似たものはないが、また欲望ほど愛に反するものはない」(「パンセ」668)。(参考文献:ドニドルージュモン『愛について』(平凡社ライブラリー)で古今東西の文学作品などを介して明らかにされている。千葉惠「エロースとアガペー―ヘレニズムとヘブライズムの絆―」(北海道大学文学部紀要44号、1995 https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/33658 )。

 

3人格的実力と憐みを掛けられること

 心が清くなく、様々な怒りや憎しみなど負の感情に襲われていたり、欲望に捕らわれているとき、ひとは憐みを持つことはない。感情は身体的反応であり人格的に認知的に習慣づけられるものであった。心の実力である培われた「態勢」はラテン語でhabitus (英語のhabit(習慣づけ)に関連)と訳される。人格的にとは、たとえどんなコストがかかろうとも、正しいひとが正しい仕方で正しいものごとを選択するそのような仕方で、自分もそうする習慣づけることにより、怒りや相応しくない対応への怒りや憐みを身に着けていくことであろう。そこではどうしても正しいことや正しい仕方への認識も必要とされる。自分で自分をコントロールできずに、常に感情的になっているひとがいるとすれば、それは人間的な分析によればそのひとの心魂の実力がパトスに対して良い態勢にまで育っていないことを含意している。

 しかし、人類には助け主が送られており、実力以上の力を発揮することがある。ひとは憐みをかけられてのみ、憐れむ者となる。憐れまれたことの経験あるひとは「わが足すべりぬと言いしとき、主よ、汝の憐みわれを支えたまえり」(Ps.94:18)に同意するであろう。あのとき、あの援けがなかったら、自分は破滅していた、と。或いは軽く罰せられ、あれさえなければというオセロの黒石と思えたものが、憐みのゆえにあれがあったからと一気に白石に変えられる。この窮境にあって助けられたとか軽く罰せられたという感覚は自分に相応しいものが何であるかを何らかの仕方で自覚しているのでなければならない。自らの行状にはもっと激しい罰が与えられて当然であったのに、「相応しくない仕方」で憐みを受けたと思う。ここには聖霊による内的な促しが働いている。「神に即した苦しみは変えられることのない救いにいたる悔い改めを働き、世の苦しみは死を成し遂げる」(2Cor.7:10)。

 聖霊は認知的、人格的実力を超えたところで働く。おのれのことしか関心がなくひとを憐れむそのような感情のわくことのない者が何等か憐みを持つとしたなら、心魂の有徳性としての実力とは関係なく天来の援けが送られている。イエスはご自身の死に直面しこの世から去っていく覚悟のなかで、聖霊の派遣を約束して語る。「わたしは汝らを遺して孤児(みなしご)とはせず」(John.14:18)。イエスは「わたしは父に願う。父は別の助け主を遣わして、汝らと共にいるようにしてくださる」、「わたしが行けば、助け主を汝らのもとに送るであろう」、そう言われる方である(John.14:15,16:7)。聖霊とは神の前とひとの前を媒介し、ひとを助けるものである。

 

4キリストの憐みと柔和

 支配からも被支配からも唯一自由な場所で我と汝の等しさが生起すること、その今・ここでの出来事が愛であり、そこに向かう過程も「愛」と呼ばれる。迫害する者、支配する者を祝福して呪わないこと、右の頬を打つ者に左を向けることが生起するとき、「喜べ、天における報いが大きい」(Mat.5:12)。それによってのみ敵が天において友と友となる希望がWin-Winの関係が生じるからである。その希望に伴う喜びは愛に基づく等しさの正義のもとに、他者を操作することから解放されている自らを安堵させ、清めるものだからである。情熱恋愛も聖書の愛も永遠を語りその感情実質として喜びを語るが、ひとは永遠により「心中」を理解するのか、「天国」を理解するのか、二者択一を迫られている。

 権威ある者として山上の説教を語ったその方に偽りがなく、イエスは山上の説教そのものに即して生き抜き、また山上の説教の故に死んだその方であった。個人的には、山上の説教はイエスにより生命をかけて遂行されたということに立ち返るとき、厳しすぎてあたかも拒絶し告発するように見えるその人に、「わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」という言葉を信じてそのふところに入っていくしかないと感じる。「わたしの後についてこい」(Mat.4:19)というイエスをどれだけ信じるか、そして彼とどれだけ信頼関係にあふれる関係を築けるかが問われている。「わたしは汝らを遺して孤児とはせず」(John.14:18)。この方は嘘を付く方ではない、そしてわれらを欺く方でもわれらを見捨てる方でもない、という信がその信頼関係を醸成しまた築く。イエスの懐に入っていくには彼をよりよく知るしかなく、とりわけ彼が生ける神の子であることを内側から納得するそのような相互の親しい関係を築くしかないのである。日曜の聖書講義をするこの身が彼と共に生き喜んでいるのでなければ、この永遠の生命は伝わらないであろう。少なくとも講義する者の必要要件であろう。聖書に描かれるイエスをできる限りテクストに即して理解すること、それがこの聖書講義の務めであり喜びである。

 「神は愛である」(1John.4:16)。神は二千年前に既にキリストにあって人類の罪を赦しており、水に流していたまう。パウロは既にキリストにおいて神の意志は明確に知らされており罪は十字架上で贖われており、「汝ら和解せよ」(2Cor.6:20)と神からのキリストにある申し出を受け止めるように命じている。聖霊は神とキリストから今・ここで派遣される「援け主」であり、われらをその人格的、認知的実力のいかんにかかわらず支えていたます。「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)。

 憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。憐みをかけられていることを知るには、自分が「ふさわしくない仕方」で困難な状況にある者であることを知ることが求められる。キリストは群衆が羊飼いのいない羊のようにうちひしがれ、彷徨っている姿を見て「深く憐れんだ」のであった。イエスのそのはらわたからの憐みが生起したそのもとにある認識は同胞は神に似せて造られた神の子たちであるというものであった。神の子に相応しくなく、自らを知らず右往左往している群衆に憐みを感じた。自分はどうしようもない罪人であり、「罪悪深重、極悪熾盛、地獄ぞ一定住処ぞかし」(親鸞)という叫びと苦悩を挙げざるを得ない人間であるとき、「それは君に相応しい状態ではない」と語られているのである。

 ひとは何らか救い出されたときには、自らに相応しくない仕方で憐みを受けたと感じるが、実はその困窮こそがわれらの本来性にとってふさわしくないのである。しかし、そこでは何らかの聖霊の援けのなかで、低くされているのであろう。先に引用した「神に即した苦悩」なのであろう(2Cor.7:10)。当のキリストはその罪に沈むその状況こそ人間に相応しくないと認識しており、悔い改めに導く。憐みをかける側と憐みを受ける側双方の現状認識が異なることもあろうが、次第に憐みをかけられて、キリストとの交わりを重ねるうちに神の子であることこそ本来性なのだと認識するに至る。ただし、そのギャップが大きければ大きいほど憐みが大きいものと受け止められる。人間は本来エヴェレストのような高い山であるにもかかわらず、自ら谷底に沈んでいるとき、それが自分の住処であると思う。或いは人生がこんなに苦しいものであるはずがないという認識を持つ。絶望してしまっているなら、救いを求めることもない。救いを求めるとは、こんなに惨めであるはずがないという思いからくるが、しかし、自己の本来性を知っているわけではない。また知らされているわけではない。ひとは天国が相応しい神の子なのか、地獄が相応しい地獄の子なのか、知らない限り、何が憐みであったのかも知ることができない。しかし、自らで自らをコントロールできないそのような状況から救い出されたとき、ひとは憐みを受けたと感じる。憐れまれたことの経験あるひとはは「わが足すべりぬと言いしとき、主よ、汝の憐みわれを支えたまえり」(Ps.94:18)に同意するであろう。

 これは祝福されたことである。詩人は言う、「涸れた谷に鹿が水をもとめるように神よ、わが魂は汝を求める。神に、生命の神に、わが魂は渇く。いつ、み前に出て神のみ顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わが糧は涙ばかり。ひとは絶え間なく言う、「汝の神はどこにいるのか」と」(Ps.43:2-4)。このような者がその霊によって貧しい者であり、神から憐みを受け、祝福される者である。

 イエスご自身は憐み深い柔和な方であった。彼は山上の説教の第三福をこう語っていた。「祝福されている、柔和な者たち(hoi praeis)。彼らは地を受け継ぐことになるからである」。この第三福は人格的な徳に関わる。柔和の対義語には激情や直情径行、自己主張などが挙げられる。黒崎幸吉先生はこう対立を説明する。「現世のいわゆる成功者たらんとする者は柔和であってはならない。彼は他人を排除、抑圧、誹謗するの勇気と大胆さを持っていなければならない。・・されど真の幸福者は柔和な者である。人に排斥され、圧迫され、誹謗され、「侮られて人に捨てられ悲哀の人にして病を知れる」[Isaiah.53:3]人である」。(Web版新約聖書註解マタイ当該箇所)。聖書的には柔和な者は天国への希望の故にこの世の権力欲求や悪意からの攻撃、蔑みなどに耐えることのできる態勢であり、振舞いとしては寛容に接しまた赦し敵をも愛する態勢である。柔和な者は他者との比較や競争心から自由にされている者である。

 この春の入寮式から、人生には所謂勝ち組と負け組の二分しかないのではなく、双方にWin-Winの関係を造る道を模索してきた。言ってみれば、双方が勝ち組に属するそのような関係が生起するかを模索してきた。コロナ禍ではOne Healthがそれであり、スポーツではOne Teamがそれである。地球の裏側のコロナが収束しなければ、新たな変異株が生じる確率があがり、世界はまた新たな苦しみに苛まれる。国家間のそして家庭内の争いでも同様である。One Peace、One familyとしての和解を模索するのでなければ国も家庭もたちゆかない。競争相手と憎しみ相手と争い相手と和解し、One Teamとなることがあるとすれば、それは平和が実現されたことになる。

 柔和な者は争いから自由であり、困難な状況にあるひとに深い憐みを持つ。イエスは言う、「疲れている者たち、重荷を負っている者たちは皆、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛を汝らのうえにかつぎあげなさい。そしてわたし[の足どり]から、わたしがその心柔和であり(praus)また謙った者であることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に休息を見出すことであろう。というのも、わたしの軛は良いものでありそしてわたしの荷物は軽いものだからである」(Mat.11:28-30)。イエスの軛、荷とは何か?天の父が憐み深く、信じる者を救い出す方であることへの幼子の信仰である。有徳な者も悪人も魂の根底に生起する悔いた砕けた魂における「信じます」と幼子のように縋ること、それがイエスと共に軛を背負って歩くことである。何の立派さも要求されず、ただ自らに偽りのない信が生起する場所・二番底即ちパウロの言う聖霊に反応する部位である「内なる人間」(Rom.7:22)から主に身をゆだねることである。荷物を運ぶとはイエスの御跡に従って歩むこと、イエスの使命を自らのものとすることである。イエスに似た者になること以上に喜ばしいことはない。イエスを長子とした神の国の相続人となるからである。

  

5結論

 心の清い者は自らの利益を求めることはないので、争う者たちのあいだを執り成すことができる。柔和で謙ったイエスは神とひととのあいだを執り成すひとであった。彼は自ら争う者になることはなく、剣のもとに倒れ自ら死を選んだ。平和を造る者は執り成す者である。

 柔和な方であるイエスご自身の御跡に従う者、その者は祝福されている。既にその祝福は旧約聖書において先駆的に知らされている。「その咎を赦され、その罪覆われし者は祝福されている。主がその罪を数えざる者は祝福されている。その心に偽りなき者は祝福されている」(Ps.32.1-2,Rom.4:7-8)。十字架に至るまで従順の信を貫いたイエスは言いたまう。「わたしに躓かない者は祝福されている」(Mat.11:6)。柔和な者は幼子のように恵み深いイエスと共に軛に繋がれ歩む者である。

 

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終末預言と憐み

終末預言と憐み

                                                     2021年5月9日

聖書箇所

 「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:1-12)。

 「イエスは街や村を残らず回って、会堂で教え、天国の福音を宣べ伝えひとびとのあいだでありとあらゆる病気や疾患を癒した。また群衆が飼い主のいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ」(Mat.9:35-36)。

 「イエスは船からあがり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のようなものであることに深く憐れんだ。そして多くのことを教え始めた」(Mak.6:34)。

 

1はらわたからの深い憐み

 イエスは羊飼いのいない羊のようにうちひしがれて彼についてくる群衆を見て、「深く憐れんだ、そして多くのことを教え始めた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。第五福の「憐れむ(splagchnizomai)」という動詞は「はらわた、ひとの内奥(splagchnon)」という名詞の派生である。はらわたから憐みが溢れ出す。ひとは通常憐みの感情が湧くのは相応しくない仕方で或いは不当な仕方で不幸に見舞われたひとや状況に対してである。

 現代の情報のあふれる時代においては、誰もがどんなフェイクニュース、誹謗中傷をも公的に発信できる時代になった。近年のネット上のバッシングは自業自得だという仕方で同様の不幸に見舞われても憐みがわくことがない状況を示している。ひとは疑心暗鬼にさらされている。信頼できると思った人々に裏切られるあるいは裏切るということが公的なダメージの強い仕方で遂行される。愛が冷えた時代である。

 イエスが今の時代を生きていたら、何ら確かなものなしに右往左往している現代人に深い憐みをもたれたことであろう。イエスは神に似せて創造された人類が神の子に相応しくない仕方で争い、妬み、憎しみ合うそのような状況にあることに深い憐みをもった。その憐みが彼をして福音の宣教に駆り立てている。それはこの憐みをいだいたあとに、天国について「多くのことを教え始めた」に報告されている。羊飼いのいない羊のように彷徨っている者たちにイエスは、彼の憐みが溢れだし、最初に為したことはひとびとの認知的な混乱を解消することであった。世界は野の百合、空の鳥に代表される自然をも含め、天の父により養われているのであり、「天の父の子となるべく」(Mat.5:45)秩序づけられていることを教えた。ひとびとは不可視な者は存在しないと思い、この地上の生だけが一切であると考える傾向にある。これをパウロは「肉の弱さ」(Rom.6:19)と呼んだ。

イエスは端的である、「汝らは[旧約]聖書と神の力能を知らないから、彷徨っている」(Mat.22:29)。今の時代においても、最も真実で確かなもののうえに生が築かれることが求められている。自分で真偽を考え判断する力、さらには善悪を判断する力そして実践する力が求められている。

 

2感情の文法―悲しみと憐み―

 感情には文法がある。感情を構成しているものは三つある。それは文脈と実質そして表出である。これら三つの要素、視点からそれぞれの感情は分析される。悲しみについて言えば、感情の文法の分析によれば、この身体の受動的なパトスが生起する文脈は愛しいものを喪失したときに生じる感情、というものである。その感情実質には胸が張り裂ける感じや身体が崩れ落ち自己を保てない感じ、何ものによっても慰めを得ない感じが挙げられる。その表出には涙ながらの嘆きや叫び、或いはその感情実質を隠す可能な振舞いが挙げられる。

 喜びと悲しみは双方とも混り気がなく、端的なものである。嫉妬は羨望や怒りなどを含む複雑な感情であるが、そのような複雑な心持のときに生じる感情とは異なり、明確になぜ悲しいかが自覚されるそのようなものである。この世のものに富み、満足し喜んでいる者たちには実質的に天上のものを必要とせず、眼差しを天に向け神を仰ぎ見ることはない。地上の関心で埋め尽くされているからである。イエスは端的に言われる「汝の宝のあるところそこに心もある」(6:21)。悲しむとき、自ら失ったもの、自らに欠乏しているものを明確に自覚する。そしてそれは天国を求めることでしか慰められないそのようなものであることを自覚する。

 憐みの文法は愛や悲しみに似ている。憐みが生起する文脈はそのひとに何ら落ち度もないのに相応しくない仕方で或いは不当な仕方で不運や不幸、悲惨な目にあった場合にそのひとに対して抱く感情である。「憐れみ」とはアリストテレスによれば、ある人がそのひとに「相応しくない仕方で(anaxios, unworthy)」不幸や悲惨な目にあうことに対して生起する苦しみの感情である(Ar.Rhet.II8)。オイディプス王のように自分にあずかり知らないところで父である王を殺害し、母と結婚してしまうそのような悲劇にひとびとの感情は揺さぶられる。「相応しくない仕方」で不幸や悲惨に見舞われるひとびとに憐み(エレオス)が生起する。また相応しくない仕方で幸運を手にする者に対しては「妬み(phthnos,jealousy)」が生起する。パウロは「汝らのなかで嫉妬と競争心があるところでは、汝らは肉的でありまた人間に即して歩んでいるのではないか」と詰問する(1Cor.3:3)。嫉妬と競争心は表裏の関係にある。所謂勝者はますます競争的となりより多くを得ようとし、敗者は卑屈となり強者への嫉妬に駆られる。そこには比較級の世界しか存在しない。憐みは嫉妬や競争心のあるところには生起しないことは確実である。その心が清くなく、様々な怒りや憎しみなど負の感情に襲われていたり、欲望に捕らわれているとき、ひとは憐みを持つことはない。

憐みの感情実質は、何故あのひとにという運命の過酷さの驚きと恐れを伴う可哀そうという思い、不憫さである。本来そんなことがそのひとに起こってはならないと思われるとき、哀れにまた同情を伴う悲しみに襲われる。たまたま自分ではなかったが、自分にも起こりえたという恐れも伴うことであろう。人生というものの不可計測さのなかで自らを破壊するものに遭遇するときに生じる恐れを伴うことにより、憐みは深くなる。憐みの振る舞い、憐みの表出はそのひとのために嘆くことであり、慰めることのできるあらゆる振る舞いが考えられる。

 憐みの背後には人生というものは運命のなかにほうりだされ翻弄されてしまうものだという人間というものの儚さ、寄る辺ないという感情や認識がさらなる文脈として通奏低音のように響いていることであろう。時折そのような人間認識がはからずも感情の発露において明らかになるであろう。しかし、ペシミズムに終わるなら、ひとには憐みはわかない。ひとはひとに対して愛情をいだかないとき、不幸な目にあっても自業自得だという仕方で憐みは生起しない。ひとびとのあいだから愛が冷えるとき、憐みも薄れていく。人間の世界は所詮こんなものだ、ひとびとはおのが道を彷徨い、何も確かなものがなく、死と共に滅びる。

 イエスは違った。彼はひとは本来神の子であると認識していた。それ故にこそ、人間の真実を知る者が憐み深い者となる。だからこそイエスは羊飼いのいない羊のようにうちひしがれている人々を見て憐みを感じ、最初になしたことが人間について天国について「教える」ということであった。ものごとが、即ち人間の本来性がよく見えないときひとは憐みを抱くことはない。おのれと世界をよく知ることが肝要であること、憐みのわかないひとは自己中の世界にひたっており、隣人や世界がよく見えていない人々のことであることがわかる。イエスにとってはすべてが「神の国とご自身の義」により秩序づけられる。彼は天国の消息を伝えて人間の本来性を教えようとした。

 

3八福

 山上の説教の冒頭は所謂八福である。八つの祝福される心の態勢が描かれている。神に祝福されるひとびとは三人称で呼びかけられており、個々人を特定せず一般的な仕方で妥当すると言える。神との関係においてその霊によって貧しく、この世の何ものにも満たされない者、悲しんでいる者、柔和な者、義に飢え渇いている者、憐れみ深い者、その心によって清らかな者、平和を造る者そして正義のために迫害される者、このような人々は祝福されている。彼らはイエスに似た者となっていくからである。八福は相互に関連しあっているが、すべてを満たさねばしかもあらゆる時にそのような心の状況にならなければ祝福されないということではない。イエスご自身、七十二人の伝道の派遣の成果により喜びの声をあげ、神を賛美した。

 イエスは十二人の伝道派遣に引き続き七十二人の弟子たちを伝道に派遣し、彼らが福音を宣教しそして癒しなどに大きな成果をあげてもどってきたのを見て、大きな喜びにとらわれている。「わたしは悪魔が稲妻のように天から落ちるのを観想した。視よ、わたしは汝らに蛇や蠍をそして敵のあらゆる力を踏みしだく権威を授けた、しかもいかなるものも汝らに不正を働くことはない。ただし、霊どもが汝らに服従するからといって喜んではならない。むしろ汝らの名が天に書き記されていることを喜べ。・・そのときイエスは聖霊によって喜びに溢れて[天に向かって]言った。「天地の主である父よ、褒めたたえます。汝はこれらのことを知恵者や学識ある者には隠して、幼子たちに顕されました。その通りです、父よ、というのも汝の御前に[汝の]嘉みしたまうものごとがこうして生起したからです」」(Luk.10:18-22)。

 イエスはこの出来事がこの世界で軽んじられている幼子のような者たちを介して実現されていること、すなわちこの世の権力を介せずに実現されていることを賛美した。それ故に、これらの栄光が権力者たちに憎まれ妬まれ彼に苦難の道を強いている。権力者たちに媚び諂い、彼らに奇跡をなす権能を与えることはなかったからである。彼はユダヤの王ヘロデアンティパス等に憐みを抱いたことは報告されていない。イスラエルの失われた羊に遣わされたという自覚を持つ彼はユダヤの虐げられた人々に深い憐みをいだいた。その心によって清くない者は権力者であれ、誰であれ、ものごとがよく見えない者たちである。八つのうち一つでも祝福されているひとびとはすべて神の国に入れていただく人々のことである。

 先週は「その心によって清い」そのような人々のことを少し学んだ。この現実世界のただなかで困窮しているひとびとが救われないとしたなら、人類にセーフティネットがどこにもないとするなら、ひとはただこの世界で翻弄され、人生の終わりとともに絶望のなかで消えてゆくだけとなる。イエスは深く憐み、彼らにこそ天国の鍵を与えた。知者は高ぶるからである。ひとは誰もがキリストによって二千年前に憐みをかけられている。神へのアクセスはイエスの愛を介するものとなるとき、超越と内在、彼岸と此岸は媒介され、信仰の抽象性、観念性、思弁性が乗り越えられる。憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、「良心・共知」の発動が、「道徳的運」と呼ばれる、ひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛情を注がれ、愛されることを経験し自覚することなしには、また相手方の状況についての知識なしには、発動しないそのような受動の経験と自覚を伴うものである。誰であれひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証は、そのひとがどれだけ愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。

 パウロも言う、「知識は高ぶり、愛は[徳を]建てる。誰かもし何かを知っていると思うなら、その者はまだ知るべきその仕方で知ってはいない。誰かもし神を愛するなら、その者はご自身により知られてしまっている」(1Cor.8:3)。高ぶりのなかで何かを知っていると主張するとき、愛されていることを知ることはできず、知るその仕方は少なくとも神の愛を前提にした愛の相互性に基づかない。「われらは知っている、神を愛する者たちには、彼らは計画に即して召された者たちであって、あらゆるものごとが善きことへと協働することを」(Rom.8:28)。ひとは神の計画のもとに神により知られ、愛されることによって愛するのであって、その愛を自覚せず、求めない者には善へと協働する愛は生起しない。まず神に今・ここで愛されていることの信が不可欠であることは神の愛の先行性が隣人愛の相互性を保証することを含意している(cf.1John.4:7-8)。

 ひとはとりわけ自らの偏った認識により高ぶり、自らの与件を忘れ、恩義や憐みへの感謝をすぐ忘れてしまうからこそ、「七度の七十倍赦すこと」(Mat.18:22)がイエスにより求められる。彼はその理由を譬え話で伝える。或る王が家来を憐れに思って、その負債を赦したが、その家来が自らに負債ある者を赦さず、牢に入れた。王はこの態度に怒って言う。「悪い僕だ、・・わたしが君を憐れんだように、君も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(18:32)。われらは皆キリストにあって既に七度の七十倍は赦されている。

 それほどまでに、ひとは自らへの他者からの恩義を負担に感じ、一人で成し遂げたかの如くに思いこむ。「誰が汝をより優れた者としたのか、汝は受け取らなかったものを何か持っているのか。もし汝が受け取ったなら、何故受け取らなかったかのごとく誇るのか」(1Cor.4:7)。パウロはただ十字架を誇る。「われらの主キリスト・イエス、その彼を介して世界はわたしに磔られ、わたしもまた世界に磔られた、その十字架以外にわたしに誇ることが生じることは断じてあってはならない」(Gal.6:14)。このキリストの受苦(パテーマ)がわれらのパトス(受動)を造り変えていく。受動の強さが能動の高さを生み出していく。「愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず・・誇らず、高ぶらず、礼を失せず、自らの利益を求めず、いらだたず、恨まない」(1Cor.13:4-5)。愛のうちにあるものは否定的なパトスに引きずられることはない。愛は「誰に対しても悪に対して悪をかえさず」(Rom.12:17)、「互いに兄弟愛において慈しみ、相互に尊敬において導き手とする」(Rom.12:10)。愛は支配からも被支配からも操作や差別からも唯一自由な所で心に生起する神の子同士のわれと汝の等しさであった。右の頬を打たれたら左の頬を向けつつ、いつの日にか敵が友となる希望によりシーソーのアンバランスは現に平行を得ている。

 

4コロナ禍と終末

 今世界中がコロナで苦しんでいる。感染者が増えるたびに変異の確率はあがっていく。地球の裏側のことがひとごとではなく人類は運命共同体であることをコロナは教えている。われらはこの苦難から人間の本質を学ぶことができる。憐みをもつことができるかもしれない。この21世紀のパンデミックは、聖書的にはこの惑星に住む人類共通の問題というものが実際にあり、ひとりの不注意や身勝手が隣人を苦しみや死に追いやるそのような運命共同体にわれらがあること、人類全体で協力して対処すべき問題が人類史的な状況のなかで生起していることを教えている。パウロは「被造物全体が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにある・・われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ呻いている」と言う(Rom.8:22-23)。このグローバルな出来事は運命共同体としての人類が全体として救いを求めているという創造と救済の聖書的な人間認識を含意している。

 もちろん、人類は聖書に限らず、同じ人間として救いを模索してきた。古代ギリシャ以来人類はドラマになにを託すかというと、悲劇であれ喜劇であれ、ありそうでない或いはなさそうである、そのようなストーリーを構築し、生活に追われる人々そして何か現実逃避に陥る人々の日常とは異なる通常ではないしかし本来ひとの心魂(こころ)の真実そして深みを開示することをめざした。創作芸術は心の浄化(カタルシス)、心の刷新をめざしてきた。現代では漫画であれアニメであれ、ストーリー構築において、テクノロジーのもとに形成される現代のわれらの生活の中で、2000年前とは異なるセッティングではあっても、苦難や悲惨の克服や戦いそして愛を描くことによりやはりかわらない心魂の真実を探索している。現代の著しい特徴はリアルとヴァーチャル(仮想)の判別が難しくなったことである。とはいえ、ひとは死すべき存在であることにはかわらない。この死を克服することなしにひとは憐みを持つに至らないとさえ言えるであろう。イエスは十字架の信を貫き、罪とその値である死を克服した。イエスは透徹した心の目で人間の終末にいたる現実を見抜いていた、そこに深い憐みをいだき、信の従順を最後まで貫いた。そこにひとは救いを見出した。

 疫病、飢饉、貧困は世界を不安定なものとし自国第一主義の風潮のなかで国際関係の緊張や戦争にいたることであろう。イエスは「不法があまねくはびこるので、多くの者の愛が冷える」(Mat.24:12)その状況とともに預言する、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、様々な場所で大きな地震と飢饉と疫病が起こるであろう。恐るべきことと天からの大きな予兆が起こるであろう」(Luk.21:10-11)。「そのとき大きな苦難が起きるであろう、それは世界の始まりから今まで起きなかったそしてもう起きないであろうそのようなものだ」(Mat.24:21)。終末時の迫害の預言ののち、弟子たちを励ましている。「しかし、最後まで耐え忍ぶその者は救われるであろう。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として、全世界に伝えられる。それから終わりが来るであろう」(Mat.24:14)。

 この終末預言の警告のなかでイエスは人類を贖い、救い出すべく十字架に至るまで「神の子の信」(Gal.2:20)の従順を貫いた。彼には終末にまでいたる人類に生じるものごとがよく見えており、この神の子にふさわしくない罪に沈む人間に深い憐みをもたれた。いつの時代もひとびとはこの緊張に耐えられず、繭の居心地の良さに逃げ込む。われらは救いを必要としている。比較を超える比級の世界を神の愛がもたらした。「神は独子を賜うほどにこの世界を愛された」(John.3:18)。この比超級の基盤における毎日の心魂の刷新のもとに、比較の世界であらざるをえないこの世にあって勉学、芸術、スポーツそして経済活動に従事するとき、良き実りがもたらされることであろう。

 

5憐みを受けた者が憐れむ

 心の清い者、或いはより正確には清くされた者は神を見るのであった。ものがよく見えるひとは、人間の本来性についてもよく見えるようになるであろう。ひとは神の子なのであり、それは信に基づいて知ることができるようになるそのようなものであった。

 ひとは憐みをかけられてのみ、憐れむ者となる。憐れまれたことの経験あるひとはは「わが足すべりぬと言いしとき、主よ、汝の憐みわれを支えたまえり」(Ps.94:18)に同意するであろう。あのとき、不意にあのことがおきなかったら、自分は破滅していた、と。或いは軽く罰せられ、あれさえなければというオセロの黒石と思えたものが、あれがあったからと一気に白石に変えられたことに憐みを経験する。これは祝福されたことである。詩人は言う、「涸れた谷に鹿が水をもとめるように神よ、わが魂は汝を求める。神に、生命の神に、わが魂は渇く。いつ、み前に出て神のみ顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わが糧は涙ばかり。ひとは絶え間なく言う、「汝の神はどこにいるのか」と」(Ps.43:2-4)。このような者がその霊によって貧しい者であり、神から憐みを受け、祝福される者である。

 そしてその者のこの渇き、請い求めは喜びと賛美に代わる。詩人は自らの回心をこう語る。文語訳ではこうである。「その咎を赦され、その罪覆われし者はさいわいなり。主がその罪を数えざる者はさいわいなり。その心に偽りなき者はさいわいなり。われいひあらはさざりしときは終日(ひねもす)かなしみ叫びたるが故にわが骨ふるびおとろへたり、汝のみ手は夜も昼もわがうへにありて重し、わが身の潤沢(うるおい)はかはりて夏の旱(ひでり)のととくなれり。かくてわれ汝のみ前にわが罪をあらはしわが不義を覆わざりき。われいへらくわが咎を主にいひあらわさんと。かかるときしも汝わがつみの邪曲(よこしま)をゆるしたまへり」(Ps.32.1-5)。

個人的なことではあるが、自らの回心の経験のあと、この詩篇32篇に出会って以来これは私の詩(うた)となった。この詩篇32篇を読むたびに心魂が刷新される。詩人は賛美する。「主をほめたたへよ、もろもろの天より主をほめたたへよ、もろもろの高所(たかどころ)にて主をほめたたへよ、その天使(みつかい)よみな主をほめたたへよ、その万軍よみな主をほめたたへよ、日よ月よみな主をほめたたへよ・・」(Ps.148:1-3)。喜びと平安と賛美、これらが記録されている旧約聖書も新約聖書も同じ霊に導かれて書かれていることの一つの証となるであろう。

 

6結論 

ひとは憐みを受けてのみ憐みを持つことができる。そこでは憐みを受けた時の喜びがあるからである。刷新されるたびに、ひとは嫉妬や競争から自由にされ、ものがよく見えるようになり、非本来性に沈んでいる隣人に憐みをいだく。キリストの弟子であることを無上の光栄となし、喜びいさみ賛美のうえに神に栄光を帰する。

 

 

 

 

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その心によって清い者は穢れと偽りを克服する

日曜聖書講義 2021年5月2日

その心によって清い者は穢れと偽りを克服する

聖書

 「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:1-12)。

第六福 「祝福されている、その心によって清らかな者たち(hoi katharoi)。彼らは神を見ることになるからである」(Mat.5:8)。

 

1心とその清さ

 心の清い者が平和を造る。「その心によって」即ち心魂の根底から全身にいきわたる仕方で混じりけがなく、純一であり、統一されているということ。「清さ」は心の一つの根底的な態勢、構えであり、そこから良きパトスや行為が湧き出てくるないし遂行される。「ともし火をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置くものはいない。入ってくるひとに光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い」(Luk.11:33-34)。

 心の清い者、清くされた者は神を見る。ヨブ「どうかわたしの言葉が書き留められるように・・。私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27)。

 「心(kardia)」は聖霊が注がれる心魂の最も深い座をも含む思考や感情など心的働きの座である(Rom.5:5)。「魂 (phsuchē)」は基本的に生命を司る生命原理であるのに対し、「心」は意識などの心的働きの主体である。例「汝の宝のあるところ、そこに汝のもある」(Mat.6:21)。「汝らのおのおのがその心から兄弟を赦さないなら、天の父も汝らに同様に赦さないであろう」(Mat.18:35)vs.「身体を破壊しても[生命原理]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:26-28)。

 清さは身体全体に行きわたる「良心」と密接な関係にある態勢である。この一貫性こそ神に嘉みされる、神が喜ばれる心魂の態勢である。清い者は神を見るであろう。「良心」は「共知(con-science)」である。何と共に知るかが問題。最終的には神と共に知ることが良心の究極の働きとなる。「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11)。良心とは神に明らかなことがらが自らにも明らかになるその心の認知的座である。ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことがらが自らや隣人にも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。

 イエスは山上の説教において敬虔なパリサイ人の偽りを指摘している。彼らは道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人前での善行により人々からの称賛と有徳を誇り、律法の形式的遵守の故に正義を主張し、その結果天国を正当な権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」(6:5,6:17)。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。背後に過剰を欲する貪欲が支配している。

 

2穢れ

 眼がくらむとはまさに貪欲によりわれらの生が引きずり回されることに他ならない。清さの対義語は穢れである。イエスは「汚れた霊(akatharton pneuma)」の譬えを語る(Mat.12:43)。先週学んだ譬えの分類からすれば、これは宗教的な観念についての事例による説明であり、「例話(Beispielerzählung)」と呼ばれるであろう。霊はウィルス同様宿主を必要とする。「穢れた霊は、そのひとから出ていくと、砂漠をうろつき休む場所を探すが、見つからない。そのとき言う、「そこから出てきたわが家に戻ろう」。戻ってみるとそれは空き家になっておりまた掃除が為されており整頓されているのを見出す。そこで出かけてゆき、自分よりも悪い他の七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込み、住みつく。かのひとの最後は最初よりも一層悪くなる。この悪い時代によってもまたこのようになるであろう」(Mat.12:43-45)。

 「空き家」とは心の隙間、空虚のことである。空虚な油断した心に霊は自分よりも悪質な七つの悪霊を引き入れると、そのひとの内面は一層悪くなる。ひとは何か自分とは異なるものにより引き回され、自らをコントロールできないそのような感覚を持つことがある。この七つの悪霊の話はそのような状況を思い出せば理解できる。もしそのような経験はないと言うなら、自らの心の内奥の動きを観察することが求められる。パトスと呼ばれる、自分でコントロールできずに湧いてくる感情や欲求なども、単に生理的なものというわけではなく、その背後に自らの心魂を破壊しようとする否定的、破壊的な勢力を見出すこともあろう。この発見は聖霊の発見と同様に重要なことである。

 心の清さと空き家、即ち心の空虚さは別である。その心によって清いものは心魂の根底から純なる一なるものに思いを寄せており、二心や三つ心から自由である。心から信仰のもとにあるとき、心は満たされているため空虚になることはない。幼子の信仰がそこにはある。イエスが単純な子供を好きであるのは、あれこれ自分に有利なように策略をねったりしないからである。ああ、幸いだ、心の清い者たち。

 しかしながら、清さ、純粋な混じりけのなさを人生において追求することへの反論が提示されよう。「清濁併せ呑む」ことこそ大人の条件である。免疫系に見られるように異質なもの、複雑なものが自己を構成していたほうが強いのではないか。良心の発動などくそくらえだ。どこまでも良心は麻痺しうるものであり、強者は思うがままに振る舞う。良心を持ち出す人間は弱者であり、強者への怨念があるからこそ、平等を語り、社会的弱者の救済を語るのではないのか。「強者の利益こそ正義である」(プラトン『国家』第一巻)とは古来語られてきた陳腐なことであると言える。そのような弱肉強食の社会をひとは求めているのであろうか。単にそれ以外の人生の選択肢を知らないから、そのイワシの大群の流れに身を任せて泳いでいるのではないのか。

 しかし、身体においても痛みに気ずかず麻痺してしまったなら、どこまで身体が破壊されているかわからないように、良心が麻痺してしまったなら、どこまで心が悪くなってしまうかわからない。われらの心が清くないから、そういう者たちが祝福されていると思われるのである。「聖性の霊」(Rom.1:4)に即して神の光に照らされるとき、穢れに気付き、良心が疼く。清いイエスをより知ることにより清さへの憧れを持つに至る。

 イエスは群衆が押し寄せてきたため、ペテロに船をだすよう依頼し、船の上から説教した。そのあとペテロに漁にでるように勧めた。「二艘の舟を魚で一杯にしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモンペテロはイエスの足許にひれ伏して、「主よ私から離れてください。私は罪人です」」(Luk.5:8)。大漁であることと自らの罪、穢れの告白といかなる関係にあるのか。ここで実はペテロに漁に出るよう勧めたとき、ペテロは疑ったのであった。昼間だったからである。ガリラヤ湖では夜が漁に適しておりそして昨夜も不漁であった。この伏線のもとでの大漁であった。自ら疑ったペテロの告白は聖なる清らかな方を前にして咄嗟にでた言葉である。「主よ私から離れてください。私は罪人です」。聖なるものにふれたとき、われらは畏れに捕らわれる。同様に、子の癒しを懇願する父は言った。「おできになるなら、憐れんで助けてください」。そうするとイエスは言われた。「「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる」。その子の父はすぐに叫んだ。「信じます。信なきわれを憐み給え」(Mak.9:23-24)。

 イザヤは畏れ慄きつつ神を賛美する。「聖なる、聖なる、聖なるかな万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う」(Isaiah.6:3)。「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。汝が畏るべき方は主、御前に慄(おのの)くべき方は主」(Isaiah.8:13)。そのイザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは穢れた唇の者。穢れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は主なる万軍の主を仰ぎ見た」(6:5)と言う。

ときどき、このような穢れた者がこのように聖なる方について何か語ることが許されるのかと思わされる。ひとは疑い、多くの惑わしに捕らわれているとき、清い者ではない。ひとは信じることができない自らに罪を見出す。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)。イエスを介して神の意志を知り、イエスを介して或いは彼の後ろに隠れて神にまみえる。

 

3不正な番頭の譬え

 イエスはこの世の成功者は先述の良心の発動の鈍いタイプであることを認めている。そしてそのような者たちも何らか新たな良きものを認識すれば、そちらに自らの心魂をそして知性をも向けることができることが「不正な番頭」の譬えで語られている(Luk16:1-13)。番頭が店の金を横領していた。内部告発があり、主人が調査した。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告をだしなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」。そうすると不正な番頭は店に借金のある者たちをひそかに呼び出し、油百バトスの者には証文をわたし五十バトスと書かせた。そのようにして不正を隠蔽した。「主人はこの不正な番頭の抜け目のないやり方を褒めた。この世の子らは、自分の仲間にたいして光の子らよりも賢く振舞っている。そこで、私は言っておくが、不正の富で(ek tū mamōna tēs adikias)友達をつくりなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。だから、不正の富について忠実でなければ、誰があなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。・・どんな召使も二人の主人に兼ね仕えることはない」(Luk.16:1-13)。

 この譬えは、われらはこの世にある限り完全に正義であることはできないことを教えている。日常の豊かな生活は誰か例えば途上国のひとの労働の搾取のうえに成り立っていることであろう。この社会のシステムが完全に公平であることはなく、多くの者たちはその与件のなかでより条件のよい待遇を受けようと競争している。それを前提にしたうえで、主人は番頭が店の資金をごまかした額について悪知恵を働かせて何らかの経済原則に基づいて帳尻をあわせようとしたことを褒めたのである。一応帳簿上収支があえば、不正が発覚することはないからである。イエスは不正の富というこの世のことがら、即ち小さな事柄について忠実であったうえで、その富を使ってでも天国という大事を獲得せよと教えている。

 われらはこの世の成功者でありたいのか、それとも天国を求める心の清い者でありたいのか。可能存在であるわれらには双方が開かれている。そしてこの譬えはそれは二者択一ではなく、天国のもとにこの地上の営みは秩序づけられうると主張している。問題は天国をまず求めるかである。歌謡曲にあるように「アナタナーラドオスルー」。

イエスは山上の説教において正義と憐みを天国との関連において位置付けた。終わりの日に一切が明らかとなり、正義と憐みが実現されるこのスケールの大きい考察範囲の広い主張は、日々個人的に争い、そして何らか調停を試みている自らの現実を認める者たちにとっては、唯一の希望として受入れられることであろう。一つの可能性であることには相違ない、しかもそれは救いか滅びかの二者択一のなかで提示されている。人々が日常生活で苦労しているのは、自らの欲求をもちながらも、それを野放図に開放するとき、社会からの制裁にあうことは経験しており、他方そのような者たちから被害を受けることも経験しており、課題はそのような循環を抜け出す救いを求めるかということに収斂されるからである。山上の説教では、もし神の国を求めることなく、右目や右手が罪を犯させるなら抉りとり切り取ってしまえ、全身が地獄に投げ込まれるよりましである、と警告される(5:27-30)。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)。

 

4良心の発動と信による偽りの克服

 良心の発動は自らの偽りや穢れに関わる。ニーチェは良心の直覚性について鋭く指摘している。良心はわれらの意識を超えて発動する。ニーチェはこの良心の発動は「何故?」への問いのブロックとして機能すると言う。或いは「何故?」と問うているときには良心は発動しないと言う。「良心からあの「ねばならない」という感情が引き起こされたのだが・・・しかしこの感情は「何故私は為さねばならぬか?」とは問わない。従って、或ることが「~故に」とか「何故~」という問いをもってなされる場合にはすべて、人間は良心なしに行為することになる」。ひとは神の前にでないでよいというアリバイを作るために、「何故?」を問う。「何故悪人が栄えるのか?」、「何故何の悪いことをしていない者が悲惨を経験するのか?」など。少なくともこのような問いのもとにある者には良心は発動していない。良心は瞬時の共知である。

 イエスには天の父がいますことはなんら疑いの余地もないほど明らかなこととして山上の説教をそして主の祈りを教えている。山上の説教においては「天の父の子となること」がめざされている(Mat.5:45)。ただし、イエスはユダヤ教の伝統的な道徳観のもとに群衆と共に立ち、その視点から心魂の道徳的次元で発動する良心に訴え、パリサイ人に代表される各人に潜む偽りを摘出し乗り越えるよう群衆を励ましている。その良心の発動は宮に捧げものを供えるさいに途中で急に自分に反感を持つ人を「思い出したなら」(Mat.5:23)という仕方で、突然気づくそのようなことがらである。自分に「何か反感を持っているひとに気づいたなら」、引き返して仲直りせよ、そしてそれからあらためて捧げものとともに礼拝せよと言われていた。気になることがあるとき、心が純一に清められてはおらず、二心の偽りがあるからである。

 主の祈りで学んだが、「われらに負い目ある者を赦しましたように、われらの負い目をも赦してください」と祈るよう教えられていた(Mat.6:12)。赦してしまっていないとき、実は主の祈りを祈れないのであった。心に偽りがあるからである。心に潜む偽りの乗り越えは天の父に委ねられる。「われらを試みに遭わせず、われらを悪から救いだしてください」と(6:13)。その意味において主の祈りでは道徳的次元を内側から破り、その眼差しを向けるべき方向が教えられていると言ってよい。そこでは「まず神の国と神の義とを求めよ」と直截に命じられ、そこから道徳はじめ人生の一切を秩序づけるよう信仰に招かれる。もしこれが揺らいだら、すべてが偽りとなる。その意味でイエスは明確な信のもとに説教している。

 イエスは人生の一切を神の国と神の義への信仰により秩序づける。イエスは誰にも担いえない重荷を課す方ではなく、その重荷から解放する信仰に招いていたまう。業の律法のもとに生きるパリサイ人への彼らの自己矛盾を指摘する厳しい言葉の数々も、ご自身がそのもとにある信の律法への立ち返りを促すものであった。イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。

 神の比較を絶する圧倒的な善に触れ、罪赦された者は良心の咎めも取去られる。良き羊飼いは99匹を野において1匹の迷える羊を探し求めるが、それが1億匹であったとしても同様に探し求めるであろう。これが比較を絶する善であった。神は御子の身代わりの死を嘉みし復活させることにより、「世界」に対し神の前のことがらとして既に二千年前に「和解させた」(2Cor.5:14-21)。ご自身としてはキリストにあって個々人の罪をもはや咎めることも思い出すこともなく、水に流している。エレミヤは神が新しい契約を結ぶ日のことを預言する。「わたしは彼らの不正を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない(tōn hamartiōn autōn ū mē mnēsthō eti)」(Jer.34:31)。イザヤも預言する、「わたしは汝の背きを雲のように、罪を霧のように散らした(apēleiphsa>apaleiphō,( aor.))。わたしに立ち帰れ、わたしは汝を解き放つであろう(lutrosomai>lutroo, (fut.))」(Isaiah,44:22)。和解とはイエス・キリストにおける出来事であり、そこに立ち帰る限りにおいてわれらの罪は神の前で水に流されており、神の心にわれらの背きはもはや留まり、思いだされることはいない。

 パウロも言う。「ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:6)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、彼の信仰を嘉みした。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。

 

5結論

 この愛に触れてひとの心は正気を取り戻し、清められていく。ひとは「罪の奴隷」でも「義の奴隷」でもありうるまた悪霊も聖霊もいただけるそのような中立的な可能存在である。ひとは罪の誘惑にまけ、罪の奴隷となる。「そのとき、汝らはいかなる果実を得た(実を結んだ)のか。それは今や、汝らが恥としているものである。しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さにいたる果実を持している、その終局は永遠の生命である」(Rom.6:21)。ひとの心は清められ次第に聖なる者とされていく。天国は支配からも被支配からも自由な愛に満ちた聖なる場所である。「神の国は食することと飲むことではなく、聖霊における義と平和そして喜びである」(Rom.15:17)。天国の清らかさに触れてひとは清さにあこがれるようになる。穢れから解放され、罪赦されたことの「証」「徴」は隣人を愛しうることである(Luk.7:36-49)。清い者は心がまっすぐなひとであり、良心の咎めがない。拗け曲がり複雑ではない。勝手に発動する良心が平安を得ているのは憐みによる。

「平和の神ご自身が汝らをあますところなく聖なるものとし、汝らの霊と魂と身体とがわれらの主イエス・キリストの来臨の時に備え非の打ちどころのないよう完全なまでに護られるように」(1Thesa.5:23)。

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イエスの譬え

 日曜聖書講義「譬え」による天国の理解   

                               2021年4月25日

聖書朗読

 「弟子たちは歩み寄って「なぜあなたは彼らに譬えで語るのか」とイエスに言った。彼は答えて言った。「汝らは天国の奥義を知ることが与えられている。彼らには、しかし、それは与えられていない。誰であれ持っている者は彼に与えられることであろうそしてあり余るほどになるであろう。しかし、誰であれ持たない者は、持っているものも自分から取り去られることであろう。それゆえわたしは彼らに譬えで語る。というのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かずまた理解もしないからである。彼らに対しイザヤのこう語っている預言は成就されている。「汝らは耳によって聞くが理解せず、見てはいるが見ることはないであろう。というのもこの民の心は頑なになっており、彼らはその耳によって重く聞いた、彼らはその目を閉じたからである。彼らはいまだ目によって見ず、耳によって聞かず、心によって理解して悔い改めることをせず、わたしが彼らを癒すことがないであろう」。しかし、汝らの目は見ており、汝らの耳は聞いており、幸いだ。まことに、わたしは汝らに言う。多くの預言者、義人たちは汝らが見ているものを見ることを渇望したが、それを見なかった。また、汝らが聞いているものを聞くことを渇望したが、聞かなかった」」(Mat.13:10-17,cf.Mak.4:10-13,Luk.8:9-10,Jer.5:21,Isaiah.6:9-10)。

 

1聖書と譬え話

 今日は福音書のなかから譬えについて学ぶ。「福音書(良き報せ、Gospels)」と言うのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと呼ばれるイエスの伝記作者たちによる四つの伝記のことである。それはイエスの言葉と行いの記録をもとにそれぞれの視点から執筆編集されたイエスが神の子であることを証ししている。福音書記者たちは直弟子たちがイエスの言葉を書き留めておいたものを元の記録(イエスの語録集)として用いそれは「資料Q」(「源泉(Quelle)を意味するドイツ語の頭文字)」と呼ばれる。マタイとルカは一番古いと思われる「マルコ福音書」(CE70年頃)を参照にしながら、自分の特ダネを加えつつイエスがイスラエルにおいて長く待ち望まれていたメシヤ(油注がれた者、救世主)であることを論証している。マタイ、マルコそしてルカは、彼らの伝記は「共観福音書」と呼ばれるが、相互に参照することができる共通のストーリーを分かち合っている。そこでは例えばイエスの教え、彼の人々との対話、目に見えない天国をこの地上のことを用いて伝える譬え話、物語、そして奇跡などからなり、イエスの生涯がとりわけ伝道に従事した訳3年間の歩みが記録されている。ヨハネ福音書はとりわけそうであるが、記者が置かれた時代や社会、思想の状況のなかでそれぞれの独自の視点からイエスが神の子であることを証している。

 聖書の言語ヘブライ語やギリシャ語を学ぶことが聖書研究の基礎となる。そのもとに聖書研究の大きな役割はこれら四福音書を相互に参照しながら旧約聖書との関連さらには記者たちの独自性を研究する。聖書研究は百花繚乱というか多くの立場があり、聖書は神の言葉であり一字一句聖霊によって書かれているという逐語霊感説からそれぞれの聖書記者の作り話、妄想の産物にすぎないというフィクション説まで幅広い理解が提示されてきた。

 そのなかでイエスの史実に迫ろうとする19世紀以降の歴史的批判的聖書研究が唯一の正しい方法であるものではないことは十分に留意する必要がある。とりわけパウロの神学理論を展開する「ローマ書」の理解には、言語哲学的分析が有効であると思われる。「意味論的分析」と呼ぶものはいかなる歴史学的、神学的研究もその枠のなかで遂行されねばならない、聖書文書そのものの最も基礎となる言語的理解に関わるものである。

 イエスは譬え話により天国のことを教える。彼はなぜ譬えで語るかを冒頭のマタイ13章で説明している。イエスは人々の心を頑なにするためではなく、心が既に頑なであるために譬えで語る。ここで注目すべき言葉は、イエスは天国について一義的に理解する理論を展開することができると想定していることである。彼の叡知が発動し天の父の御国について知ることができると主張している。「汝らは[旧約]聖書と神の力能を知らないから彷徨っている」(Mat.22:29)。彼はわれらと同じ肉の弱さを抱えていたために、十字架上での断末魔の苦しみのなかではその叡知が一時的に発動せず、「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てられましたか」(Mat.27:46)と叫んだことが報告されている。その少し前には自らを十字架に磔る者たちについて「彼らは何をしているか知らないのですから赦してやってください」(Luk.24:34)と執り成しの祈りをしていた。この叡知の発動との関連で、譬え話は聞く者によって理解できたり理解できなかったりするという特徴がある。理論は掴んでしまえば、どんなに微妙な差異も明確な差異として理解される、そのような一義的なものである。それに対して天上のことを理解できないひとたちに、なんとか理解させようとしてこの地上の事例を用いて説明する。

 イエスご自身が聴衆の分かりやすさのために天国のことを譬えにより語られるとき、彼は人間中心的に語っていると言うことができる。人間的なことがらから神の国を類推することがなされる。そこでは当然、人間的な心の働きが前提にされており、たとえ聖霊の媒介があったとしても自然的な次元で理解される。人間の責任ある自由の根拠としての心魂の独立性を前提にして議論している。譬えには三種類即ち本来の譬え(Gleichnis)と狭義の譬え話(Parabel)と例話(Beispielerzahlung) があるとされる。(塚本虎二先生のまとめによるユーリッヘルの説『塚本虎二著作集』第三巻p.464-5)。「本来の譬え」は「日常生活の領域において一般的に承認される経験」と規定される。「狭義の譬え話」と「例話」は双方とも「自由に案出された物語」であるが、狭義の譬え話は「宗教的観念の用に利用された譬え」であり、例えば「放蕩息子」(Luk.15:11-32)の譬えがそうである。「例話」はそれ自身が既に宗教的、道徳的である物語であり、例えば「善きサマリヤ人」(Luk.10:30-35)の物語があげられる。すべて天国のこと、人間の本来性について教えるものであるから宗教的、道徳的な教えを含んでいるが、アクセスの仕方として人間の様々な事象、行いを手掛かりにしていることは共通している。

 

2 宝を見つけた農夫の譬え

 例えば、天国は農夫が借地の畑で宝をみつけたら、持ち物をすべて売って地主から畑を買うそのようなものに譬えられる。「天の国は畑に隠された宝物に似ている(homoia)。ひとはその宝を見つけると隠した、そして喜びながら戻って自分が持っている限りの持ち物すべてを売り、その畑を買う」(Mat.13:44)。これは天国の特徴に類似した日常生活の事例であるが、他方、ありそうもないことであるため願望も含まれている仕方で挙げられる。確かに、地上の一切を売り払ってでも手に入れたいものがあるとすれば、それはそのひとに最も善きものであることを含意している。他方、そのようなことは生じないのではないかという思いをもひとに湧き起こさせる。それほど、似ている事象はあるにしても稀なることとして天国は惹きつけもし、懐疑をも生じさせる。

 もし聴衆のなかに農夫がいれば、自分の鍬が何かにあたったときの感触を思い出すであろうし、それが宝物であればよいなと思ったことであろう。譬えにはイメージ喚起力がある。天国というものは宝物のようなものなのだというイメージは人々の思いを惹きつけ、天国のことをよりよく理解したいと思いに導かれることであろう。またそんなことはありえないとして躓きにもなるであろう。「聞く耳ある者は聞け」とはまさにこのことである。

 

3天国のことを学んだ者の心魂の倉―良き木と良き実―

 イエスは天国のことを理解した者とはどのような者であるかを類似性の指摘により教える。これも一般的、日常的なものであり本来的な譬えに分類されるであろう。「天国のことを学んだ律法学者は自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:52)。古いものとは旧約のことであり、新しいものはその延長線上に打ち立てられた新約のことであるという理解がなされることもあるが、きちんと心魂という自分の蔵・倉庫即ち心魂の脳の部位を管理しており、知性においても人格においても一切を天国との関連において秩序正しく考慮することができまた行為を形成することのできるひとのことである。

 人間に最も重要なことを学んだ者は生の全体のなかで個々のものをそれは古いものであれ新しいものであれ自由に適切に位置づけ、行為することができる一家の主人に似ている。この発言を単にパトスに対して良い態勢にある人格的な有徳性に対してだけではなく、その認知的な卓越性に対する賞賛と読むことができる。アリストテレスの実践知者は生全体の目的構造との関連において、個々の文脈において或る有徳な行為を最善と認識し選択する心魂の力能ある態勢にある者のことである。そのひとには個々の選択の現場でそれ自身としてどんなに犠牲を払うことがあったとしても善き行為を選択できるそのこと自体に喜びが伴う。

 聖書はなにか人格に関わるものと捉えられがちであるが、認知的な卓越性は聖書においても重要な位置を占める。パウロは「わたしはわが主キリスト・イエスの認識の優越の故に、あらゆるものを損失と考える、彼の故にわたしは一切を失ったが、それらをわたしは塵芥と看做す」(Phil.3:8)と言う。人類は人間としての認知的卓越性・徳を備えた者を「賢者(sage)」と呼び、人格的に有徳な者を「聖者(saint)」と呼んできたが、ひとは知性と人格を総合するものを求めてきた。天国を学ぶことによりひとの心魂は秩序づけられ、ものをよく見ることができるようになり、あやまることなくその都度の行為を選択することができる。

 その行為の選択を導くものが「律法」という神の意志である。律法はそこに正義が成立する神の意志であるが、モーセを介して啓示された「業の律法」とイエスを介して啓示された「信の律法」の二種類がある。イエスは神の言葉「われは憐れみを欲し(eleos thelō) 、犠牲を欲さぬ」(Mat.9:13, 12:7, Hosea6:6, 1Sam.15:22, Prv.16:7)に立脚し、ユダヤ教の改革者として業の律法をラディカルに解釈し、律法遵守を神への愛と隣人への愛という二つの戒めの遵守に収斂させる(Mat.22:36 )。そして、それは、外面的な行為、例えば施しをしたか否かとは異なり、愛したか愛さないかに関しては、直ちにはひとの目には明らかではないそのようなものである。それを動機づける心魂の実質こそ、つまり神と隣人への愛があるか、その態勢においてあるかということが問題にされている。

 外見上同様の有徳な行為に見えても、その動機が帰属する心魂の態勢が有徳でない限り、それは有徳な行為ではない。心魂に満ちてくるものが、口をつき、行動を引き起こす。内側が清くなければ、外側も或る刺激に対しては抗しえず、穢れたものとなる。「口からでてくるものは、心からでてくるので、かのものどもこそ人を汚す。というのも言い争い、悪意、殺意、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒涜は心から出てくるからである」(Mat.15:18-19)。

 そしてイエスはその心には「倉」と呼ばれる習慣づけられた態勢があると指摘する。「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとせよ。木の良し悪しは結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、汝らは悪しき人間であるのに、どうして善いことが言えようか。ひとの口からは、心にあふれていることが出てくる善いひとは、善いものを入れた倉から善いものを取り出し、悪いひとは、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」(Mat.12:33-35)。

 ここで「倉」とはここでは培われた心魂にしまわれている態勢以外のことではない。その行為の美しさ、立派さ、適切さそれ自体に基づき、正しく、勇気のある、そして節度をわきまえ思慮深く行為することが求められている(アリストテレスNic.Eth .III11.1116a10 15, b30 )。外見上有徳に見える行為もその内側の心魂が清くなければ、善き行為とは認識されない。イエスは人々がどのような状況にあるかを正確に識別する。彼は「鳩の如く素直に、しかも蛇の如く聡くになれ」(Mat.10:16)と促す。パウロも「自ら識別することがらにおいて自らを審判しない者は祝福されている」(Rom.14:23)と言う。例えば、このひとは次にこのような行動を取るだろう、どう対処すべきであろうかという思案のもとに、ひとは識別して生きていかざるをえない。しかし、その識別はひとを裁くことと同じではない。そのひとを愛するために識別するからである。地の塩、世の光たるべく、そのつど最善の行為が選択されることが求められている。

 

4塔と戦争の譬え―識別することをめぐって

 イエスはこの識別を譬え話で伝える。

「汝らのうち誰か塔を建てようとするとき、資金が完成にもたらすかどうか、まず腰をすえて支出を計算しない者がいるだろうか。それは土台を築いただけで完成するだけの力がなく、見ている皆が彼を嘲り始めて「この男は建築を始めたが完成できなかった」と言うことがないようにするためである。

 或いは、誰か王が他の王に戦争を始めるべく進軍しているとき、まず座って、彼に二万の兵とともに向かってくる王に、一万の兵で応戦できるかどうか熟慮しないであろうか。できないなら、まだ敵の王が遠くにいるとき、使者を送り休戦に向かうことがらを尋ねることであろう。このように、汝らのうち自らに属しているあらゆるものごとに別れを告げない[apotassetai(renounce)棄却する、断念する]者は誰でもわたしの弟子であることはできない」(Luk.14:28-33)。

 ここでイエスは彼についてくる者たちに識別の正しさを求めるなかで、ご自分の弟子となる覚悟ないし自己認識がいかなるものであるかをも識別するよう伝えている。ちょうど塔を建てる者が自ら持つ資産について計算するように、福音に従う道は全身全霊をイエスにかける者であることの識別が求められている。ここに福音の権威があり、福音の躓きがある。識別が審判に変わらないことを願うばかりである。個々人においては自らを顧み、内側からの納得が得られた場合に、イエスの弟子となることが求められる。

 機が熟していないとき、双方に言い分はあるであろうが、争いや裏切りとなり、それは宗教の歴史において分派や異端などとしてしばしば目撃されることである。一方は自分が最も大切にしているものが、踏みにじられ、侮辱されているという感覚を持つ。他方はその熱さに、押し付けを感じ、身を引くか、偽りを嗅ぎだし嫌悪する。そのようなことは起きてきた。趣味や気質の齟齬や反発であれば、やり過ごすこともできようが、心魂の根底に関わる、永遠に関わる宗教をめぐって争うとき、ひとは深く傷つく。共同生活をめぐってもこれは或る程度避けえないことであろう。そのなかでひとは一歩一歩前進していく。しかし、この神の国への信仰なしにはひとは前に進むことができないとされる。

 

5種蒔きの譬え―信仰による前進―

 種蒔きの譬えはイエスの宣教を介して神のみ言葉、み心が聴衆の心に蒔かれそれを受け止めた信仰の実りについてのものである。「イエスは彼らを多くの譬えで教えた、そしてご自身の教えのなかでこう言われた。「聞け、そして見よ。種を蒔く者が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞け」と言われた」(Mac.4:2-10)。

 この譬えにおいてみ言葉の蒔き手はイエスご自身であり、受け止める心、拒否する心等われらの様々な心の環境のもとにみ言葉が蒔かれる。これは人生にも適用される。誰も自らの親を選べない、そこに自らの生が奪われ、焼け枯れる運命の過酷さを見るひともいよう。同時にそこに「誰も~ない」という人生の或る意味での平等さと醍醐味がある。自らに生が与えられたことを厳しい与件に思えても、肉の親の背後にいたまう蒔き手を信じ、自らを「良い土地」であると受け止めることなしには三十倍、五十倍に実らすことはできず、蒔き手に対する信頼が不可欠となる。荒地に蒔かれ悲惨にしか思えない与件であるにしても、聞く耳を持ち神に与えられた良い土地であると信じるとき、開墾が始まり、自らの与件から推定されるものの百倍の実りをもたらすこともあろう。豊かな実りとはイエスご自身にとって「天の父の子となる」こと以外ではないであろう。

 

結論

 正しい信仰は幼子のような信頼である。一切を知り統べ治めておられる神に対する人間の態度はイエス・キリストの信の媒介故に、彼の信に基づく義とその義の果実としての愛に対する幼子の信仰が相応しい。パウロはとりわけ「ローマ書」においてまた「ガラテア書」において正しい信仰とはいかなるものかの議論を展開する。永遠の生命の保証として主の復活はわれらの信仰を引き起こしそして信に基づく義を保証するものである。パウロは主の復活という神の歴史への介入から十字架とその生涯を捉えなおしたのである。神が愛である限り、この人生は良き土地となる、復活の主が共にいたまうからである。「主はわたしの運命を支える方。測り縄はわたしに向けて良き地に落ちた、わたしは良き嗣業(ゆずり)を得た」(Ps.16:5-6)。

 なお、当のイエスご自身も苦闘のただなかにあったことを忘れてはならない。山上の説教が生命を懸けて生き抜かれたことによって、ひととして想定しうる最も偽りのない在り方が歴史のなかで打ち立てられた。新しい生命が福音という新しい革袋に入れられた。主イエスの甦らしを遂行したまう神の力能によって古い業の律法も新しい信の律法の光のもとに照らし直され新しくなり、業のモーセ律法は何等か新しい酒に変換させられる。それは少なくとも人類にひとりは福音の光のもとに山上の律法を成就した方がいるからであり、それゆえに神はナザレのイエスをご自身の御心に適う者として嘉みし、ご自身の信に基づく義の啓示の媒介として用いられたからである。かくして、業に基づく義とは異なる信に基づく義が、業の律法の冠である愛を実現させるその力能が人類に付与されるに至った。モーセ律法は信の律法に秩序づけられた。信の力能こそ彼の十字架と復活において明らかにされたのである。「「できるものなら」と言うのか、信じる者にはあらゆることができる」(Mac.9:23)。「できる」というその力能があらゆるものの力能であるとして、そのあらゆることは当然愛の業に収斂される。それ故にこそ、われらは山上の説教をそれにより満たしうるのではないかとの希望を抱く。

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聖書と宗教3―祈りによる神との交わり―

日曜聖書講義 2021年4月18日

[初めて聖書に触れるひとに入門的、一般的、歴史的な聖書理解の枠組みを与えつつ、主題ごとに神とひととの交わりについて学ぶ。アブラハムからモーセに至る経過を最近のルクソール近辺のアメンホテプ3世のころの都市が発掘された(前14世紀)。ヨセフや出エジプトの年代確定になんらか有益な情報を得られることが期待される。ここでは祈りについて学ぶ。録音では本稿の最後まで到達しなかった。]

 聖書と宗教3―祈りによる神との交わり―

 聖書朗読

「汝らは祈るとき、偽善者たちのようになってはならない。彼らは礼拝堂や広場の角で立ち続けて祈ることを好む、彼らが人々に見てもらうためである。わたしは汝らに言う、彼らは彼らの報いを現に受け取ってしまっている。しかし、汝が祈るとき、汝の部屋に入りなさい、そしてその戸を閉めて、隠れたところにいます汝の父に祈りなさい。隠れのうちに見ています汝の父は汝に報いるであろう。

 祈る者たちは異邦人たちのようにくどくどと喋るな、というのも彼らは自分たちの祈りは多くの言葉において聞き入れられると思っているからである。だから、彼らに倣うな。なぜなら汝らの父は、汝らがご自身に求める前に、汝らが必要としているものごとをご存知だからである。だから汝らはこのように祈りなさい。

 「天にましますわれらの父よ、汝の御名が聖なるものとされますように、汝の御国が来ますように、汝の御心が成りますように、天におけるように地の上でも。われらの日用の糧を今日もわれらにお与えください、そしてわれらの負債をわれらに赦してください、われらも自分の負債ある者たちに赦しを与えてしまっておりますように。われらを試みにあわせず、われらを悪から救いだしてください」。

 もし汝らがひとびとに彼らのあやまちを赦すなら、汝らの天の父は汝らにも赦すであろう。もし汝らがそのひとびとに赦さないなら、汝らの父も汝らのあやまちを赦さないであろう」(Mat.6:5-15)。

 

1祈りとは

 山上の説教のなかでイエスはひとびとにどのように祈るかを教えている。それは伝統的に「主の祈り」と呼ばれる。目に見えない神との交わりは「祈り(プロスエウケー)」と呼ばれる。ひとから神に向けての働きかけである。イエスは隠れた部屋での神との一対一の交わりを勧めている。ひとは神との親密な交わりの場を必要としていることを示している。黙々と働きながら神に思いを向ける黙想も親密な交わりが成り立つのであれば、祈りと呼ばれるであろう。長々と言葉にすることは勧められない、神はわれらに必要なものを祈り求める前からご存知だからである。神様は時空の創造者として永遠の現在のうちにおられ、運動のうちにある従って時間の流れのうちにある宇宙を統べ治めていたまう。

 一切をご存知な方には何を求めなくとも、何を言わなくともいいのではないかという考えに対しては、自分のことに関心をもちいつも心にかけており愛してくれるひとのことを思い出すよう促そう。その人と共にいること、共に過ごすことは喜びであり慰めであり励ましであることを思い起こそう。平安と喜びに満たされるであろう。われらはしかしそのような時間ばかりを過ごすわけにはいかず、社会のなかで学寮のなかで様々な人々と関わって生きている。だからこそ親密な神との祈りの時間は貴重なものとなる。

 そのような愛してくれるひとがおらずそのような温かい、心の休まる交わりを経験したことがないというのであれば、福音を伝える者、即ち良き報せを伝える者はますます神様が心にかけケアしてくださることを伝えることが大切なことになる。聖なる、全知全能の神があなたを支え励ましておられることを知ることが、ちょうど愛するひとと共にいたいと思うように、神との親密な交わりである祈りに向かわせる。

 聖なる神と交わるにはわれらに二心、三つ心があるときには、神にまみえる相応しい態度ではない。祈りは端的に言ってわれらの心を清めるために必要である。心が清められて神との親密な関係にあるときのみ、われらは愛するひとと共にいるときのように力を得て、あらたに歩み始める。カルカッタの路上にころがる人々を助け続けたマザーテレサは朝の二時間を一人で過ごしたという。聖書に記されている父なる神との対話のなかで、心を調整するべく一日の働きの心の準備をしていたのであった。

 今、毎朝読んでいる詩篇においては神に対する直截な呼びかけが多く集められている。神に感謝し、賛美しまた敵に苦しめられていることを嘆き、訴え援けを求めている。このような祈りを赤の他人になすことは考えられない。神との親密な関係にある者だけがこのような祈りをなすことができる。詩人は賛美する「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はその御手の業を示す」(Ps.19:1)。万軍の主がそばにいてくださることを感じ取ること、そのことが祈りを通じてなされる。マザーが二時間を聖書の黙読や瞑想についやしたとしても、最後は主の祈りに帰ったことであろう。くどくどと繰り返し冗長になるな、六つの祈りで十分であるとイエスは教える。

 

2主の祈り―天と地のことがらをめぐる二つの祈りの秩序づけ―

 イエスは「主の祈り」において明確な祈りの対象に対し明確な祈りがあることを群衆に教える。山上でイエスは群衆に天の父に何をどのように祈るべきかを教えている。

 イエスはその信の従順の生涯をリアルタイムのうちに貫いた。途中で神の御心を実現しなかったならば「キリスト(油注がれた者→救世主)」と呼ばれることなかったであろう。その一挙手一投足のなかでイエスは主の祈りを教える。最初の三つは眼差しを天に向け神ご自身に栄光と賛美を帰し、聖性を賛美し、御国の到来を願い、御心のこの地に成ることを祈る。「天にましますわれらの父よ、汝の御名が聖なるものとされますように、汝の御国が来ますように、汝の御心が成りますように、天におけるように地の上でも」。これらは簡潔であるがゆえにこそ、神ご自身の聖性と御国と御心の地における成就、神ご自身についてこれらは包括的な一般的な祈りであり、これら以外の何も神について祈ることはないであろう。

 祈りの相手はどこまでも「天にましますわれらの父」であり、「天の父が完全であるように」(5:48)と言われたその天の父に祈るということは、もともと祈りというものの対象としてふさわしい。偶像、アイドルに祈っても裏切られるだけであろう。イエスはパリサイ主義を嫌ったが、偽りが、二心、三つ心が忍び込むとき、ひとはパリサイ主義に陥る。偽りは本来、神の子として造られた自己に対し、あたかも自らの力で生きているかの如くに看做すこと、或いは偶像という自らの願望の投映に自らを見出すことに他ならない。詩人は罪を擬人化して、自らの心にしのび込む「不法」と呼ぶことにより、罪の欺きを暴き立てる。「自らのなかで罪を犯させるべく不法が語りかける、「自分の目の前に神の畏れはない」と。というのも、それは自分に対し欺いたからである、自分の不法を見出しそしてそれを憎むに至るまで。彼の口から語られたことは不法と欺きである。彼は善を為すべくわきまえ知ることを欲しなかった」(Ps.36.1-4)。偽りから解放されている存在者に対して祈るのでなければ、祈りそのものが自他の欺きとなるであろう。

 しかし、一切を知りそして公平にして憐れみ深い正義にして同時に愛でありたまう天にいます父なる神に祈ることは、誰もが「祈る」ということがらにおいて望むことであろう。恣意的な神々に祈ったとして、それはあたかも運命という名のもとに翻弄されるだけの人間存在と変わることがないであろう。祈るに値する信実な対象でなければ、われらの祈りは空を切るような手ごたえなきもの、或いは唆され欺かれるだけであろう。言葉の力として、ここまでは誰にも同意を得られることであろう。

 イエスには天の父がいますことはなんら疑いの余地もないほど明らかなこととして山上の説教をそして主の祈りを教えている。もしこれが揺らいだら、すべてが偽りとなる。その意味でイエスは明確な信のもとに説教している。ただし、山上の説教においてイエスはユダヤ教の伝統的な道徳観のもとに群衆と共に立ち、その視点から心魂の道徳的次元で発動する良心に訴え、パリサイ人に代表される各人に潜む偽りを摘出し乗り越えるよう群衆を励ましている。その良心の発動は宮に捧げものをもっていく途中で急に自分に反感を持つ人を「思い出したなら」(5:23)という仕方で、突然気づくそのようなことがらである。心に潜む偽りの乗り越えは天の父に委ねられる。「われらを試みに遭わせず、われらを悪から救いだしてください」と。その意味において主の祈りでは道徳的次元を内側から破り、その眼差しを向けるべき方向が教えられていると言ってよい。実際、そこでは聖霊の注ぎも奇跡さらには、「信(pistis)」や「罪(hamartia)」という語句を見出すことはできない。当時の道徳観の言語で心に潜む偽りを乗り越えるべく言葉のみによりチャレンジしている。主の祈りもそのチャレンジの一つである。

 天にましますわれらの神に栄光を帰し、そして地に住むわれらのケアをもとめる。続く三つの祈りは地上に住むわれらの願いである。「われらの日用の糧を今日もわれらにお与えください、そしてわれらの負債をわれらに赦しください、われらも自分の負債ある者たちに赦しを与えてしまっておりますように。われらを試みにあわせず、われらを悪から救いだしてください」。これは山上の説教の骨格、基本構想に合致する。彼はこの説教をひとつの基本構想のもとにこう秩序づけている。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、汝らにはなおさらのことではないか、信少なき者たちよ(oligopistoi)。だから、「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」思い煩うな。それはみな異邦人が切に求めているものだ。汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国とご自身の義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう。だから、明日のことまで思い煩うな。明日のことは明日が自ら煩う。その日の悪しきものごとはその日だけで十分である」(6:30-34)。

 「何よりもまず、神の国とご自身の義とを求めよ」。「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である」。この帰一的な構造が主の祈りの構成でもある。天から地であって、地から天ではない。もし主の祈りがなかったなら、われらはどのように祈ったらよいか、とりわけこの帰一的な構造のもとでの秩序付けをこれほど簡潔にして要を得た仕方で理解することはなかったであろう。まず眼差しを天に向け仰ぎ見ることが祈りのさいに為すべき最初のことがらである。それほどわれらの眼差しは地を這いつくばっている。この祈りは仰ぎ見ることを教える。「主よ、わが魂は汝を仰ぎ望む。わが神よ、汝により頼む」(Ps.25:1)。山上の説教がわれらの心魂とそこから生まれる行為の一切を秩序づけるように、主の祈りはそれを求める祈りであると言ってよい。この説教の内部で、主の祈りはこの説教全体を神とひととを結びつける祈りという仕方で秩序づけている。

 4罪の赦し

 天のことがらに続き、地上の生活のことがらとして、生存に必須な食物を求める祈りが勧められている。またわれらを試みに遭わせず、悪から救い出してくださいとは、自然災害や戦争や争いそして疫病や飢餓そして事故などに囲まれているわれらにとって、常に喫緊のことがらである。

 そして何よりもわれらの最も難しいことをクリアさせることによって天と地を秩序づけようとしている。それは赦すということである。「そしてわれらの負債をわれらに赦しください、われらも自分の負債ある者たちに赦しを与えてしまっておりますように」。ここで「赦しを与えてしまっておりますように」と現在完了形で語られている。その都度負い目ある者また「われらにあやまちを犯した者」を赦してしまっていなければ、この祈りを日常に祈ることができないというハードルが置かれている。これこそわれらを日々新たにする。われらの心魂は刷新を必要とする。「明日のことを煩うな」における「煩う(merimna)」は「部分、分割(meris)」を構成要素にしている。心が煩うとは様々なことに思いが分断されていることを言う。

 主の祈りが山上の説教に基づく生を導く主導原理である。まず神の国と神の義である。ここでも「罪の赦し」ということばは見られず、元来「借金」も意味する「負債」「負い目」さらには、「失敗」や「失態」を意味する「あやまち」が用いられる。イエスは群衆たちに道徳的次元に留まりつつ、それを内側から突破するよう言葉の力により教え導いている。主の祈りを教えたことに続いて直ちにこの祈りに帰る。「もし汝らが人々に彼らのあやまちを赦すなら、汝らの天の父は汝らにも赦すであろう。もし汝らがその人々に赦さないなら、汝らの父も汝らのあやまちを赦さないであろう」。それだけこの第五の祈りが主の祈りの隠れた中心であることが分かる。

 主の祈りはキビキビとしており、最も困難なことが日々の日常の祈りに織り込まれている。必要にして十分なことがらが簡潔に枚挙されている。それはただの六つである。隣人を愛するとか、自らが平安であるようにとか祈らずとも、「御心が成るように」の一言に包摂されている。思い悩むという仕方での自我中心から解放されることの祈りである。その自己への執着から解放させるものが赦しの祈りであり、それがなされない限り、実はこれを祈れないそのような厳しいものである。イエスは招く、「疲れたる者、重荷を負うものわれに来たれ、汝らを休ませてあげよう」(11:28)。そう言われる方である。われらを苦しめる方ではないはずである。

 祈りは神の国と義を求めるべく心を整えるものである。「天の父は求める者に聖霊をくださる」(Luk.11:13)と言われるように、神に聖霊を求め、清められるために祈りがある。主の祈りも心を神に向け、神からの憐れみとして聖霊をいただく、そのような父と子の交わりである。主の祈りを教えるイエスご自身はリアルタイムにこの福音を新しい契約を実現すべくこの地上の生を歩んでおられた。

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聖書と宗教2―不可視なものへの信による突破

日曜聖書講義 2021年4月11日 

 第一回の要旨 人類の歴史のなかで古典として最も読み続けられた聖書に親しむことにより人間であることを共に探求したい。宗教は人間がどこからきてどこに行くのかという不可視なものをめぐり生起した。不可視なものを真理であると判断するのは信仰である。そこで大事なことは理性に反した狂信に陥らないこと、また恐怖など感情(身体的な受動的反応・パトス)に引きずられて迷信に陥らないことである。理性の足らなさ、情緒のバランスのとれなさなど人の弱みに付け込んで洗脳と言う仕方での信仰の強要は最も唾棄すべきことがらとして拒否される。心魂の探求を通じて、心魂の内側からの納得が不可欠となる。

 

聖書と宗教2―不可視なものへの信による突破―

 

ヘブライ人への手紙11章

 「信仰は望んでいることがらの確証であり、見られていないものごとの[不可視に留まることへの]反駁である。というのも信仰によって古への先人たちは[見える]証し人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより諸時代が[以下の先人たちのように]統一させられていることを、信仰により観て取っており(pistei noūmen)、見られるものが現れないものども[神の語りかけ]に基づくことを知るに至る。信仰によってアベルはカインに比し一層多くの捧げものをしたが、神ご自身がその贈りものを認証することによって、その信仰を介して正しい者であることが証しされ、アベルはその信仰を介して死んだが、彼は今なお語っている。・・信仰によってノアはまだ見ていないものごとについて、神に警告されたとき、心に留めそして彼の家族を救うべく箱舟を建造したが、その信仰を介して彼は世界を審判した、そしてその信仰に即した義を介して受け継ぐ者となった。信仰によって、アブラハムは呼び出されると彼が受け継ぐことになる場所に出ていくべく従ったが、彼はどこに行くか知ることなしに出立した。信仰によって彼は、同じ契約の受け継ぎ手であるイサクとヤコブと共にあたかも他国に宿るようにテントで生活し、約束の地に滞在した。というのも彼は神がその設計者であり建設者でありたまう基礎を持つ都を待ち望んだからである。・・信仰によってヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの各人を祝福し、杖の頭越しに神に礼拝した。信仰によって、ヨセフは自らの人生の終わりに、イスラエルの子らの脱出について語り、自らの埋葬について指示を与えた。・・信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待されることを選び、キリストのために受ける嘲りをエジプトの財宝よりまさる富と考えた。[正当な]報いに目を向けていたからである。信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを去った、というのも見えない方を見ている者として忍耐したからである」(Heb.11:1-27)。

 

1初めての聖書

 神がどのような方であるかについて述べているのが聖書だと言うことができる。聖書は人間とは一体何者であるのかについて探求し、その理解を求める者にたいし、神という究極の存在者、全知にして全能であり宇宙を創造し導いている存在者に訴え応答している書物であると言うことができる。聖書は神に選ばれた一つの弱小民族イスラエルを導くその歴史を通じて神がどのような方であるかを伝えている。聖書はパレスチナ地方の人々の生活、歴史の記録であるが、神との関わりのなかでの記録である。

 先週は宗教上の暦ではイースターと言って、キリストの復活を祝う日であった。人類にとって二度あってはならない、神の御子の「一度限り」の十字架と三日後の甦りの事件はその後の人類の歴史を大きく変え、方向付けを与えた。これは科学のように再現性のない出来事であるので、信仰により突破するしかないことがらである。この最も掌握しがたい尋常ならざる出来事についてはおいおいお話しするとして、これから三十数回にわたり日曜日ごとにThe Bookと定冠詞付きで呼ばれる聖書を学んでいきたいと思う。この書物は人類の歴史において最も多く読まれてきた書物であり、現在3000以上の言語に翻訳されていると言われる。

 紀元前(BCE Before Common Era )9世紀ごろから紀元(CE)1世紀まで1000年かけてパレスチナを中心にする地中海東海岸地域(現在のイスラエル、ヨルダン、シリアやトルコ等)に住む多くの著者によりヘブライ語とギリシャ語で執筆された。旧約聖書は39書あり、モーセ五書、預言書、知恵の書と大きく分類されている。新約聖書は27書あり、福音書や手紙そして黙示録と呼ばれる終末についての預言からなっている。それぞれの構成文書は3x9=27と覚えるとわかりやすい。とはいえ正典(Canon)と呼ばれる、正統と異端を判別する規準となるものは、宗派により少しずつ異なっており、おおよその権威のよりどころとして理解していただきたい。旧約聖書39書はエステル記のようにギリシャ語で書かれたものもあるが、ヘブライ語で記されている。ただし、写本として残っている一番古いものはエジプトプトレマイオス朝時代に紀元前3世紀から1世紀までかけてアレクサンドリアでヘブライ語からギリシャ語に翻訳された70人訳(Septuaginta)と呼ばれるギリシャ語聖書である。ヘブライ語の写本でユダヤ教において「伝承」されてきた「マソラ」と呼ばれる一番古い文書は10世紀のレニングラード写本と言われる。しかしながら「死海文書」と呼ばれる1世紀のヘブライ語聖書が1947年にベドウィンの羊飼いに発見されており、10世紀の写本の信頼性が確認されていると言うことができる。旧約聖書は紀元70年ローマによるエルサレムの陥落後近郊のヤムニアでユダヤ教の正典として伝承する文書を確定するため開かれた会議(ヤムニア会議)以後連綿と伝承されてきた。それはユダヤ教、キリスト教そしてイスラム教に共有されている正典ないし啓示の書とされている。

 なぜ聖書は人類の書物となったのであろうか。BCE1600年頃アブラハムが今のバクダッド付近のカルデヤのウルに住んでいたが、夜空の星のごとく海辺の砂の如くに栄えるという神の約束を信じて出立した。アブラハムとその子孫であるイスラエル(神の民)(時代が下って「ユダヤ人」と呼ばれる。ギリシャ語では「へブライ人」と呼ばれる)は他の強大な諸国に囲まれながら、民族としての一性を保ってきた。エジプト、ヒッタイト、アッシリヤ、バビロニアそしてペルシャさらにギリシャ、ローマなど諸時代の大国に翻弄されながらもヤハウェ神を信じる一神教としてのこの宗教はユダヤ教、キリスト教そしてイスラム教と少なくとも三つに分かれながらも今日たえることなく続いている。一神教であることは、万物の秩序を理解しやすい。そのためギリシャ哲学とキリスト教を受容した西欧諸国は科学など学問の進展を担うことができたと考えられる。

 パウロはモーセにおいて神から十戒が与えられたときはアブラハムから430年経っていたと報告している。「神によって批准された契約を430年後に生じた律法が約束を反故にすべく無効にすることはない」(Gal.3:17)。旧約聖書の歴史の年代確定は困難な問いであるが、この期間を規準にして計測すると、最近の研究によればアブラハムは紀元前17世紀後半(1620年頃)そしても出エジプトのリーダーモーセは紀元前12世紀前半(1190年頃)が想定されている。聖書に登場するアブラハムからモーセにいたる人物の世代数(十世代)から言って、アブラハムがハムラビ法典が発布された1800年頃出立したという想定は理にあわないと言われている。ともあれ、イスラエルの歴史はこの二人を中心に展開されるが、アブラハムに対し神による民族への約束が与えられ、そしてモーセに対して神の意志としての律法が与えられている。パウロによれば、モーセ律法は責任ある行為主体が偶像崇拝の禁止や貪りの禁止などの戒めを遵守するか遵守しないかにより正義と看做されるか否かが審判されるのに対し、アブラハムへの約束は神が約束に対し信実であったとき、神の信実を信じるかそれとも裏切るかにより正義と看做されるか否かが審判されると展開しています。パウロは信仰による義のほうがモーセ律法を業や行為により満たす義よりも根源的であると議論を展開しています。アブラハムの信仰はモーセ律法の啓示により無効にされなかったからです。

 ともあれ、イスラエルは紀元前1000年頃のダビデとソロモンの栄華の時期を除いて列強に囲まれ苦難の連続であり、紀元前6世紀には支配階級はバビロンの王ネブカドネザルによりエルサレムからバビロンに移送され、ペルシャ王キュロスにより解放されるまで捕囚を経験している。

 

2ヘブライズムとヘレニズム

 続いてギリシャの支配を受けることになる。古典期アテネの隆盛はペルシャとの紀元前5世紀前半の戦い(ペルシャ戦争)それから5世紀後半のスパルタとの戦い(ペロポネソス戦争)を経験するなかで、民主主義が台頭した。ペリクレスはその象徴的な指導者です。民主政治においては弁論による説得が政策決定に不可欠となり、「弁論術」という説得の技術それから「弁証術」という議論の妥当性を吟味するべくプロ(賛成)とコントラ(反対)の見解を提示する言論の諸技術が躍進的に発展した。これらと数学や自然科学の発展のもと、アテネを中心に知的革命とでも言うべきひとを文字通り「知を愛する」「哲学(philosophia)」が一つの形をとるようになり、この地が地中海世界の文化の中心となった。前4世紀後半のアレクサンダーによる統一以後このギリシャ文化は「ヘレニズム時代」と呼ばれる。

 B.W.Robinsonは『パウロの生涯』においてキリスト教の揺籃としてのギリシャの知的文化をこう述べている。「アレクサンダーは成功裏に東西文明を混淆させることにおけるパイオニアであった。もし彼によるギリシャ人とセム人の織り交ぜこみがなかったならば、パレスチナからのいかなる企てといえども第一世紀におけるキリスト教徒による伝道の成就と特徴づけられるそのような迅速性を伴って西方に伝播することは不可能であったことであろう」。B. W. Robinson, The Life of Paul, p.6 (The Univ. of Chicago Press Chicago 1918).

 ミルトンは『楽園回復』のなかで知的な文化が一斉に開花したアテネを賛美している。「いま一度、西の方、いやそれよりも少し南西寄り、エーゲ海の岸辺に一つの都市がある所を御覧なさい。この町は、その建築は壮麗、空気は清らか、土は軽やか、他ならぬ、芸術と雄弁の母、ギリシャの目、アテネであり、その町中あるいは外れの心地好い所、勉学に絶好の散歩道と木陰に、その名も高い賢者たちを生み出し、あるいは迎え入れたのです。あそこには、プラトンが隠れ住んだアカデメイアのオリーブ園が見えますが、そこではアッティカの鳥が夏の間中こもった震え声で歌い、あそこでは、花咲き乱れるヒュメトゥスの丘が蜜蜂の忙しく働く羽音でしばしば人を思索に誘い、あそこでは、イリスゥスがさらさらと音を立てて流れている。次に壁の内には、古の賢者たちの学びの園が見えます。あそこには、大いなるアレクサンドロスを育て世界を征服させた師の学び舎、リュケイオンが」ジョン・ミルトン『楽園回復』(IV.235-255) 小貫山信夫訳 (キリスト新聞社 1980)。

 マルチン・ヘンゲルは歴史の波に翻弄されながらもユダヤ人が自己同一性を堅固に維持したという見解に疑問を投げかけこう言う。「新約聖書に関係する歴史研究のためには、「ユダヤ教」と「ヘレニズム」との伝承史的な区別が自明の大前提の一つとなっている。「ユダヤ黙示思想」と「ヘレニズム神秘主義」、「ユダヤ的―ラビ的伝承」と「ヘレニズム的―オリエント的グノーシス」、「パレスチナ・ユダヤ教」と「ヘレニズム・ユダヤ教」・・の間の区別がなされる。ことに特定概念の研究は、通例、しばしば旧約聖書もしくはギリシャ古典にまで遡源されるこれらの二つの「伝統の系譜」のいずれかへの区分に終わっている。この不可避的な区分は、明らかに、イエス時代のパレスチナがすでにおよそ360年間も「ヘレニズム的」宗主権のもとにおかれ、またそれに結果する文化的影響のもとにあったという事実を余りにも容易に看過している」。(M・ヘンゲル『ユダヤ教とヘレニズム』長窪専三訳 16頁(日本基督教団出版局 1983)。下村寅太郎『ブルクハルトの世界』 406頁(岩波書店 1983)参照。

 アレクサンドロス以降「360年」のあいだギリシャの政治的、文化的、知的影響化にあったという事実は忘れてはならない歴史的経緯である。エルサレムの神殿にはゼウス像が安置されていたと言う。そのなかでも旧約聖書に即して、ユダヤ人たちはメシア(油注がれた者=救い主)を求め続けていた、たとえ彼らはこの地上での隷属からの政治的解放者を待ち望んでいたとしても。

 重要な問題はユダヤ教とキリスト教の関係である。これは歴史上の連続と断絶の関係においてある。連続と断絶双方ともイエス・キリストという特異な存在者の出現により特徴づけられる。旧約と新約、古い神の約束と新しい神の約束、その関係こそ解明されねばならない。パウロによれば、旧約において神の意志即ち「律法」が明確に知らされたのはモーセの十戒を介してである。パウロはこれを「業の律法」と呼び、新約において「イエス・キリストの信を介して」知らされた「信の律法」と判別される。もちろん、旧約においてもアブラハムのようにその信仰が神に嘉みされたつまり喜ばれた信の律法を満たす先駆的事例はあった。これら二つの神の意志、即ち二つの律法の関係についておいおい話していく。イエス・キリストが鍵となることを覚えておいてほしい。

 

3モーセの十戒

 簡単にモーセの十戒について学ぶ。神はモーセに神の山(ホレブ)で十戒を示している40日のあいだに、麓で待つ民は待ちきれずに金の子牛を鋳た。モーセは下山するとこれを見て怒り、神の指で書かれた十戒を叩き壊し、神の怒りを知らせた。「ローマ書」における「神の怒り」やこれらの表現と同じ語彙をパウロが用いた七十人訳の出エジプトの一連の当該個所において見出すことができる。これらはすべてアロンのもとで金の子牛を鋳て偶像を拝んだ出エジプトの民の記事に符合し、神は偶像崇拝についての律法に即し怒りを示して、レビ人を介し一日に三千人を倒したことが報告されている。なお、業の律法の啓示以前においてまた異邦人においては良心(con-science共知)が業の律法のもとにあることを示す。

 偶像崇拝において明らかにされているのは罪とは自己神化であることに他ならない。モーセの十戒即ち業の律法の第一戒において神はモーセに命じている。

 「主はこれらのことばすべてを語り[モーセに]呼びかけた、わたしは汝をエジプトから奴隷の家から導き出した汝の神である。わたし以外に汝に他の神々があることはないであろう。汝は自らに偶像をまた天上にあるまた地上にあるそして水のうちにいる限りのいかなるものの似像をも造ることはないであろう、彼らに礼拝することも彼らに仕えることもないであろう。なぜならわたしは汝の神、嫉妬する神だからである、父祖たちの諸々の罪に対しわたしを憎む子孫たちに三、四代報いつつ、わたしを愛しわが戒めを守る者たちに対しその子孫たち千代に憐みを施しつつ」(Exod.20:1-7)。

 罪とは、ヤハウェ神以外の神々を拝むこと、偶像を造ることである。偶像・アイドルの制作は人間はそれを拝することによって依存しつつ、実は偶像を自らの欲望なり心の平安に奉仕させている。それはまことの神を神としないことであるがゆえに、偶像を造るその自己が創造者としての神となる。そのような自己神化こそ第一戒は禁じている。神はモーセに信実であるがゆえにこそ、自ら以外に関心がむけられるとき、それを許容することはなく、それを記述すべく「嫉妬」という人間的な特徴づけが許容される。ここに業の律法の背後に信の律法が働いており神ご自身においては二つの律法の関係は揺るぎないことが分かる。ただユダヤ人に対する啓示の順序として業の律法が人々の心と歴史の進展にとって不可欠なものとして知らしめられている。

 神に罪と看做される者はこの第一戒に見られるような自己神化を行う者のことであり、自己神化こそが罪である。「業の律法に基づくすべての肉は神の前で義とされないであろう[未来形]。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:19-20)。業の律法はそのもとにおいて例えば偶像を拝むか、拝まないか、盗むか、盗まないか、偽証を言うか、偽証しないか、姦淫するか、姦淫しないか、貪るか貪らないかが問われているが、その二者択一の行為において、一方の正しい戒めを遵守るならば正しい人間と神に看做され、他方護らなければ罪人と看做される。歴史が示すところによれば、誰も十全にモーセ律法を遵守することができず、神に嘉みされないことを明らかにしている。つまり、ひとは業の律法のもとに生きるときは偶像を拝むことになると神に認識されている。

 罪が神の前の概念であるということは、神との関係が開かれない限り、「肉」と呼ばれる自然的組成こそ自己の座であり自己を拝み自己に仕えることが自覚なしに遂行されることになる。神との関係が開かれない限り罪とは何であるかが各自において理解されないそのような概念である。このようなことを三十数回かけて学んでいきたい。

 

4不可視なものと信仰

 人類は今ここで見ることのできない将来のこと、さらには神のように不可視な存在者に対しては信仰によって突破してきた。不可視なものの最たる方である神は「光あれ」の言葉により宇宙を創造された。そのみ言葉・ロゴスが受肉した。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿を取りご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられた」(Phil.2:6)。

 イエスは山上でモーセ律法の純化により人々の二心の偽りを摘出し、道徳的次元を内側から破ることにより信仰に招いた。そこで彼は言葉の力のみにより道徳、社会、自然、天国と地獄一切を天の父の完全性に秩序づけ、彼はその教えに生きまた死んだ。彼の生涯はその言葉と働きの合致故に偽りなき権威を伴った。科学技術や衣食住であれ、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう」(Mat.6:33)。イエスはこう語り信仰に招く。人類の第一の課題は「天の父の子」となる信仰により不可視な神との正しい関係を作ることである。「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを去った、というのも見えない方を見ている者として忍耐したからである」(Heb.11:27)。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。神の意志として「信の律法」(神が信であるとき、信じるか裏切るか)はモーセの「業の律法」(貪ぼるか貪ぼらないか)より根源的である(Rom.3:19,27)。

 救いそのものがイエスにおいて可視化された。不可視なものの信仰が可視的なものにより確認される。「信仰は望んでいることがらの確証であり、見られていないものごとの[不可視に留まることへの]反駁である。というのも信仰によって古への先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより[アブラハムら先人たちの]諸時代が統一させられていることを、信仰により観て取っており(pistei noūmen)、見られるものが現れないものども[神の語り]に基づくことを知るに至る」(Heb.11:1-2)。

 人間のあらゆる肯定的、創造的営みの根源にこの信が位置づけられる。どれほど認知的に人格的に愚かで悪くても、そうであるからこそ「幼子」のように信じることはできる。最も困難な探求対象が最も容易な幼子の信のみを要求しているということは全知全能の神にふさわしい。われらは幼子のように信じる「神はおのれの独り子を賜うほどに世界を愛した」、と(John.3:17)。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。復活は「告白」(Rom.10:9)を伴う信によってのみ突破されうる掌握困難な神の力能の顕われであり、甦りを信じることができるということ、それが喜びである。甦りは再臨による宇宙の完成に向かう。そのエヴィデンスは信に伴い豊かなものとなっていく。

 

 

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聖書と宗教1―人間の探求―

2021年度第一回日曜聖書講義 4月4日

 

 実際の学寮での日曜聖書講義では2節の「宗教」まででタイムアップとなりました。今年度から対話をすすめつつ講義をすることにしたため、録音は原稿ほど進まないことになることをご了承ください。来週は3節「初めての聖書」からのリアルタイムの講義となります。

 

 聖書と宗教1―人間の探求―

詩篇139編

 主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計(はか)らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだ一言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない。どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府(よみ)に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる(Ps.139:1-10)。

①    ヘラクレイトス「魂(phsuchē)の限界を、たとえひとが魂の全行程を歩むとしても、見出すことはできない。それほど魂は奥深い理(ことわり)を持っている」(『断片』71(45))。

②    パウロ「人間たちの誰が人間の深さを知ったであろうか」(1Cor.2:11)。

③    パスカル「人間とは何という怪物、何という珍奇、妖怪、混沌、矛盾の主、何という驚異。・・真理の受託者にして、曖昧と誤謬のドブ、宇宙の栄光にして、宇宙の廃物。この縺れを誰が解くのか」(『パンセ』434)。

④    宮沢賢治「われやがて死なん、今日または明日。あたらしくまたわれとは何かを考える。われとは畢竟法則の外の何でもない。からだは骨や血や肉や、それらは結局さまざまの分子で幾十種かの原子の結合。原子は結局真空の一体。外界もまたしかり。われわが身と外界とをしかく感じ、これらの物質諸種に働くその法則をわれと云う。われ死して真空に帰するや、ふたたび、われと感じるや」(『疾中』)。

⑤    正岡子規「悟りとは死を恐れなくなることではなく、いかなる状況においても平気で生きうることだ」

⑥    禅仏教「悟りとは人生にはマジックがないことを知ること」。座ることにより悟りをえることを期待して山門をくぐる者に 禅師は「ごはんは食べたか」、「掃除はしたか」と聞く。マジックを期待せず当たり前の生活ができるようになることが悟り。「一大事と申すは只今この時なり」。「向かはんと擬すれば、即ち背く」。

 

1人間の探求

 魂は人間にとってずっと謎であったことは最初に確認されるべきことがらである。ヘラクレイトスは「魂(phsuchē)の限界を、たとえひとが魂の全行程を歩むとしても、見出すことはできない。それほど魂は奥深い理(ことわり)(bathun logon)を持っている」と言う(『断片』71(45))。パウロも「人間たちの誰が人間の深さ(bathē[2:10])を知ったであろうか」を問う(1Cor.2:11)。この「魂」、「心」と呼ばれるものが人類にとって最も重要なものであるなら、ひとは誰もがそれぞれの仕方で人類にとってこの最も重要なことがらに関わっている。「魂(phsuchē)」はギリシャ語では生命原理であり、「心(kardia)」は意識の座であり、新約聖書においては基本的に区別されてはいるが、日本語では判別せずに用いられることもあり、今後「心魂」と書き「こころ」と読ませ生命の支えのもとになされる行為主体・意識主体を指示するものとして理解する。

 パスカルは言う、「人間とは何という怪物、何という珍奇、妖怪、混沌、矛盾の主、何という驚異。・・真理の受託者にして、曖昧と誤謬のドブ、宇宙の栄光にして、宇宙の廃物。この縺れを誰が解くのか」(『パンセ』434)。ひとは何をしていても自己理解に関わり、またその制約のもと責任ある自由のなかで何かを為し、自らと世界の理解を行為に反映させている。そしてその行為は縺れのなかで解きつつまた縺れつつ進むことであろう。望むらくはその深い理が少しずつ明るみにおいて捉えられることである。

 ひとは何をしていても善悪を判断しつつ道徳的存在者として生きており、ひとは何をしていても地域社会のなかで政治、経済、法律等の制度のもとに生きており、ひとは何をしていても地球環境のなかで栄養摂取、吸収等の代謝、生殖そして死という生物的存在者として生きており、ひとは何をしていて重力や光、エネルギーの法則のもとに物理的存在者として生きている。そしてひとは何をしていてもどこから来て、どこへ行くのか生と死の前と後を、私とは一体何者なのかを問う宗教的、形而上学的(Meta-physics物理学を超えた(~の後))存在者として生きている。

 ひとはこれらの問いのもとに投げ出された存在者であり、それぞれの地平において学問即ち知識を求める探求が成立している。それぞれの次元・層から人間は成り立っており、それぞれの次元・層の自己理解のあいだで緊張や矛盾を感じることがあり、それを「認知的不協和」と呼ぶ。例えば、道徳的にこれはよくないと思いつつ、社会的存在者として会社の命令で法に反することをする。生物的には十分に子孫を遺すことができるのに、社会的に一人前ではなく所謂「モラトリアム」期間においてあり、結婚することができない。ひとは親を選ぶことができず、何故かこの国においてこの地域において生きてしまっている。ひとはどこで分裂が癒され自己が自己自身との一致において満ち満ちて生きるかが問われている存在者である。あらゆる営みにその理解が反映されるところの自己理解を哲学では「実存」と呼ぶ。聖書的には「信仰」と呼ばれる心魂の根源的態勢のことである。

 

2宗教

 宗教は「神」や「仏」そして「無」等と呼ばれるこの宇宙全体を司るものについて成り立つものであり、そのような包括的存在者、存在との関わりを主張するものである。これらの呼称のもとにあるものは不可視な存在者であるため、どこまでも人間の心魂は深く正しくまた浅く誤って関わることができる。宗教がおうおうにして狂信に陥るのは人間に与えられた理性に背くことによってである。また迷信に陥るのは人間に与えられた身体の受動的反応である「パトス(pathos, passive)」と呼ばれる感情や欲求の一形態である恐れなどに捉われることによってである。従って、宗教に関わるときは、自らの「心魂の耕作(cultus animi)」を通じて正しく理性と感受性を用いて関わることが肝要となる。

 宗教は、不可視なそれとして完全に把握できない存在者について成立するというその本性上、人間の心魂の実力が問われることなく、つまり認知的にどれほど愚かであっても、人格的にどれほど悪くとも持つことのできる信仰によってアクセスされうるものである。それ故に「信仰」について正しい理解を持つことが求められると同時に、自己について、また社会、生物そして宇宙の法則について探求し続けることが求められる。洗脳という仕方での堕落した宗教の在り方は唾棄すべきものであり、懐疑が喜ばしい探求に変わり心魂の内側からの納得こそ宗教に関わる者にとって最も重要なこととなる。

 他方、「信仰」という心魂の根源的態勢をめぐる理解として、十全に知ることができないからこそ信仰によって突破するということがおこる。確かに、或る意味では神についてはあらゆる学問を究めた者によってだけ正しく理解されうるものであると言うことができる。しかしそれと同時に、信仰によって幼子のようでありさえすれば関わることのできるものであるとも言わねばならない。前者は人間的な言い方であり、後者は聖書的な言い方である。全知全能の創造者にして救済者という究極の存在者に関わる様式はどんなに愚かでもどんなに悪くとも幼子のようでさえありさえすればよいという考えは彼我のあまりの距離をまともに受け取るとき相応しい態度であると言うことができる。それ故にこそ常に自己の現在地点についての偽りのない認識、理解とともに、宇宙の存在者、万軍の主、救いの神を仰ぎ見る心魂の刷新が求められる。

 預言者イザヤは言う。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわれに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。

 

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春の講義最終回宗教改革(7)―提題16条「出来事」―18条「無償の贈りもの」

提題目次 77 theses: Table of contents

第I部                 「ローマ書」3章21―31節の新提案が導く神の前と人の前の総合的開示―イエス・キリストの言葉と働きによる神の意志(福音と律法)と自然(肉)の媒介と秩序づけ Comprehensive manifestation of both ‘before God’ and ‘before Man’ led by the correct understanding of Romans 3:21-31 – Intercession and Ordering between God’s wills (Gospel and Law) and Nature (Flesh) by words and works of Jesus Christ—

 

1 神の栄光、創造と救済を介して Glory of God via creation and salvation.

2 福音 Gospel.

3 神の信 Faithfulness of God.

4 神の二種類の意志のもとに啓示されている神の義即ち「信の律法」と「業の律法」

God’s righteousness i.e. ‘the law of faithfulness’ and ‘the law of works’ being revealed under God’s two kinds of will.

5 「神の怒り」の啓示とそのモデル(出エジプト記)―罪とは何か― The revelation of ‘God’s wrath’ and its model (in Exodus):What sin is.

6 神の義の二つの啓示((A)神の信義と(B)神の怒り)の非対称性 Asymmetry between two revelations of God’s righteousness ((A)God’s faithful righteousness and (B) God’s wrath).

7 悔い改めによる「業の律法」から「信の律法」のもとへの移行 Transition by repentance from the law of works to the law of faithfulness.

8 神には二種類の律法の適用において偏りがない  There is no respect of person in applying God’s two kinds of law to human beings.

9 啓示の差し向け相手の三人称による提示 Employing the third person pronoun on behalf of the person whom God’s revelation is addressed to.

10 神の怒りの啓示と神の前の責任 The revelation of God’s wrath and man’s responsibility before God.

11 良心と最後の審判 Conscience and the last judgment.

12 イエス・キリストを介した福音の啓示 The revelation of Gospel through Jesus Christ.

13 律法と預言の成就としての福音 Gospel as the fulfilment of Law and Prophecy.

14 三つの名称「イエス・キリスト」、「イエス」、「キリスト」Three names ‘Jesus Christ’, ‘Jesus’ and ‘Christ’.

15 「イエス・キリストの信」における帰属の属格 Genitive of belonging in ‘the faithfulness of Jesus Christ’.

16 「イエス・キリストの信」は一つの出来事である ‘The faithfulness of Jesus Christ’ as an event.

17 神の義とイエス・キリストの信に「分離はない」 ‘There is no separation (diastolē)’ between God’s righteousness and the faithfulness of Jesus Christ.

18 無償の「贈りもの」としての罪から義への贖い Atonement of sin transferring to righteousness as a free ‘gift’.  

16 「イエス・キリストの信」は一つの出来事である

 イエス・キリストは彼において神の信とひとの信が対応した、即ち神がご自身の信の媒介として用いるべく嘉したその信が帰属した方である。換言すればひとりの神・人において神の義の啓示の媒介となる信が生起した。「イエス・キリストの信」における属格「の」は双方の信が対応したところの一つの出来事の範疇のもとに理解される。出来事は行為と異なり行為者の意図は問われず括弧に入れられ、背後に行為主体が想定されるにしても歴史のなかで生起したこととして記述される。例えば、行為文「シーザーはルビコン川を渡った」と歴史的な出来事の記述「ルビコン川の渡渉はシーザーにおいて生じた」、これら二つの文は真理値において等値である。行為文においてはその行為主体シーザーの意図が主題となる。他方、出来事文においてはシーザーによるローマ奪還の契機となった歴史的事実に焦点が当てられている。同様に、歴史的事件、出来事を表現すべくこの属格は理解される。「神は一人の信を嘉みし信に基づくご自身の義の啓示の媒介に用いた」と「神に嘉された一人の信において神の信に基づく義が生起した」も等値である。

 ナザレのイエスにおいて神に嘉みされる信が生起した。啓示行為は父なる神の専決行為であるが、その意図即ち福音ないし信の律法の知らしめはひとつの歴史的事件を介して遂行される。「神の怒り」は彼が創造された「天から」下されているように、「神の義」は「イエス・キリストの信を媒介して」信じると神が看做す者に知らされている。そこで「神の義」とこの「信」のあいだには「分離はない」と神ご自身により看做されている。「信」の出来事の用法は他にも「その信が到来する以前には、われらは将に来たりつつある信が啓示されるべく閉じ込められながらも、律法のもとに保護されていた」と語られている。(Rom.3:22,1:18,3:22,(cf.3:25-26),Gal.3:23).

 

17 神の義とイエス・キリストの信のあいだに「分離はない」

 ここで神の義はその啓示の媒介である(f1)「イエス・キリストの信」と「分離はない」ものとして啓示されている。この(f1)「ピスティス(信)」は個々人の心的態勢として持つ「成長」や「増大」、「弱い」「強い」という変動ある(f2)「ピスティス(信・信仰)」と異なり、神の義の啓示の媒介として十全なものである。神はこの義の啓示の差し向け相手が、信義の分離のなさ故に、業の律法に基づく者ではなく「信じる者すべて」であると認識しておられる。神による知らしめとしての啓示の差し向け相手は「信じる者すべて」でなければならない。「泳ぎ」という概念は「水」の理解なしには理解されないように、言明の真理を「信じること」なしに、その真理を「知ること」はない。信の認知的対義語である懐疑のうちにある者は言明の真理を知ることはないことは明らかである。このように言語的な制約からして、啓示の差し向け相手はその真理を信じる者でなければならない。福音は人類すべてに差し向けられているが、「イエス・キリストの信」を介して神の義は知らしめられておりそれを信じることなしには神の義を知ることはない。

 神の義は「業の律法を離れて」即ち分離されて、しかしイエス・キリストの信とは分離なきものとして啓示されている故に、神ご自身にとって、信の律法は業の律法より、より根源的である。これがみなもとの神の信である。業の律法とは離されて、信義の分離なき福音が啓示されている。それ故に、神はその否定的な前提の含意として業の律法のもとでは「すべての者が罪を犯した」そして自らの栄光を授けるに足らないと認識しておられる。

 従来ヒエロニムスのnon enim est distinctio(「というのも区別はないからである」)以来この箇所は信じる者のあいだに何ら区別や差異がないと翻訳されてきた。しかし、続く「なぜなら」という理由文が明らかにしているように、その長い一文(23-26節)は「神の義」とその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」のあいだに「分離はない」ことを説明している。「ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機」さらには「ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」とあるように、信義の分離のなさが報告されている。

 かくして、明らかにこれまでの翻訳は誤りだったと言わねばならない。ここではひとの信仰という心的状態に区別や差異がないかが問われてはいない。もし神が例えば聖フランシスとヒトラーの信仰に差異を見ないとしたらそのような神は不義であろう。実際、罪に程度と差異のあることが報告されている。「死は、アダムからモーセに至るまで、アダムの背きと同じ仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配した」。ここでは神ご自身の認識として神はナザレのイエスの信の生涯を嘉みし、イエス・キリストの信として神・人において生起した信を介してご自身の義を知らしめたが、その信義に分離がないと理解しておられることが報告されている。(Rom.3:22, Phil.1:25, 2Cor.10:15, Rom.14:1,15:1,3:22,3:21,3:23,3:25-26, 5:14).

 

18 無償の「贈りもの」としての罪から義への贖い

 神は誰であれすべての人間をその罪に対する「キリスト・イエスにおける贖いを媒介にして」、「ご自身の恩恵により贈りものとして」「義を受け取る者たち」であると認識しておられる。全人類が業の律法のもとでは罪を犯したと看做され、全人類が御子の贖いによる義認の対象であると看做されている。

 「その彼[イエス・キリスト]を神は、・・その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」。この差し出しが御子の贖いを介した「贈りもの」である。「[業の]律法は怒りを成し遂げる」ものであるが故に、神は信の律法のもとに御子を義認への「贈りもの」として差し出すことにより、ご自身に関して業の律法のもとに罪人を審判することから自らを解放できる、業の律法の行使を差し控えることができると認識しておられる。

 「贖い」はその語句の意味をめぐって、常に問われてきた。アンセルムスは「信無き者」による反論を紹介する。彼らには「私たちがこの解放(liberationem)を「贖い・買い戻し(redemptionem)」と呼ぶことを不思議に」思えている。彼らはキリストが「罪と神の怒りと地獄と悪魔の力からわれらを贖った(redemit(to buy back, redeem))」ことに反論し、神が苦しむことを望み、「最後にはその血で贖うほか」救いえなかったと信じることを「狂気の沙汰(quasi fatuam)」とする。神学的負荷のない或いはそれ以前の意味論的分析によれば、神による啓示の神の前の言語網が二種類分節されるため、その一つである業の律法からもう一つである信の律法のもとに移行させることが神による贖いの行為である。神が業の律法の行使を控えることにより業の律法のもとにある者をそこから解放し、キリスト・イエスにおいて新に打ち立てられた信の律法のもとに移行させることである。移行させられた者は同時に神に嘉みされる信を自らの責任において持ったことであろう。これは歴史のなかに啓示された贈りものであり、この語は業の律法を前提にするがそれとは分離され、信の律法の言語網のなかに位置づけられる。

 贖いの無償性、贈りもの性とは、エルゴン(働き)上「キリストはわれらを律法の呪いから贖いだした」ということに他ならない。ただしこの「ガラテア書」における「われら」は「ローマ書」では三人称「信じる者すべて」に一般化されている。それは聖霊の媒介の働き(エルゴン)を括弧にいれ「知恵の説得的議論」としてロゴス(理論)上一般的に論じるためである。個々人の誰が神にそう看做されているかは知らされていない。パウロによる「ローマ書」における神の義の第二論証としてのこの啓示の報告は聖霊の媒介を前提にせずにも理解できるように展開されている。ナザレのイエスは信に基づく義を成就したと神に看做されることにより、ひとを罪から義に贖いだす、ないし移行させるものとして、神はもはやひとに業に基づく義を求めることなく、信に基づく義だけを求めることができると看做しておられる。その信の律法においては神が御子において信であったときに、それに対して裏切るのかそれとも信により対応するのかが問われ、ただ信だけが求められている。

 「イエスの信に基づく者を義とする」義認は神の専決行為である。神は「イエスの信に基づく者」に贈りものとして義を付与するが、人類「すべての者」にその贈りものは既に差し出されている。歴史のなかで神は御子の信を介して彼の血におけるご自身の「現臨の座」として御子を差し出したからである。神は既に御子を差し出しておりそして御子の信に基づく者を義とすることを知らしめている。神の義の知らしめは「信じる者すべて」即ち神がその信仰を嘉みする者に対して遂行されている。これは信じなければ知ることはできないという認識論的な制約、さらには概念の理解として「水」の理解が「泳ぎ」の理解に先行するように、「信」は「知識」の概念理解に先行するそのような言語的制約からくるものである。

 人類すべてに贖罪を提示していることと、それを人類すべてが知り受け入れ和解するということは同じことではない。神はご自身がその信仰を嘉みする者に知らしめている。神の側から言えば、誰が義人であるかは予め定められており、知られており、その者たちに知らしめている。啓示の報告の含意として、信じる者すべてはイエス・キリストの信を媒介にして神が義であることを知っている。今・ここに肉の弱さにおいてある生身の人間はこの神の前の事実に習熟する必要がある。

 神は福音の啓示の否定的前提である過去時制(「罪を犯した」)と全称量化(「すべての者」) において、今や罪を犯した者たちはすべてが「義を受け取る者たち」へと過去から現在に変換すべく表現されていると認識しておられる。神は過去表現により罪人が福音との関連にある限り過ぎ去ってしまったと認識しておられる。この変換表現により、業の律法が福音との関連で新たに理解されると認識しておられる。業の律法にはひとをして罪を知らしめ、福音に追いやる働きが与えられる。

 パウロは信仰義認を業の律法とは異なる次元或いは神ご自身にとりより根源的な意志であるとして神の憐れみに帰属させる。「働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、その者の信仰が義と認定される」。福音の啓示の故に業の律法のもとに生きてきたすべての罪人に信に立ち返るように呼びかけることができる。ひとが神の権能ある選びに対してなしうる準備は福音の信に固着することだけである。自らがその選びにあることを信じることはどこまでも実質的である。なぜなら三人称で表現されている「信じる者すべて」に個々人の誰が含まれ、義とされているかをめぐって、自らが含まれているかどうかは神の意志がイエス・キリストにおいて明白には啓示されたほどには個々人の誰にも知らされていないからである。この移行が福音において啓示されており、個々人の誰がそのように移行されたかは個々人の信にゆだねられており、この仲介者の信を媒介することはひとの企てとして必須となる。

 贖罪をめぐるこの意味論的分析から導かれることがらのうえにその神学的理解は展開されねばならない。イエスは十字架に至るまで信の従順を貫き人間の偽りにより死刑に処せられたが、イエスはその処刑を自らを磔る罪人たちの代わりにそして彼らのために受忍した。神はイエスが何ら罪なき者でありながら人類の身代わりの死を遂行したことを嘉みした。身代わりにおいてパウロによればもはや神は各人の背きを「彼ら自身において考慮することなしに」、キリストにおいて考慮することによって、「神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為したまうた」。ここで神は無罪の御子に身代わりの罪を担わせたないし、御子が担うことを認可した。御子が人類の罪を身代わりの罪として被ったのである。神はそこでは当然御子は罪なきことを知っており、背負う罪は身代わりの罪であることを知っていたまう。パウロは命じる、「汝らは主イエス・キリストを着よ、そして欲望どもへの肉の計らいを為すな」。「着る」とは神の前に立つとき、われらがわれらをわれら自身において考慮することなしに、彼の義を着ている限り、つまりその信が嘉みされている限り、たとえ自らの内面が清められていなくとも、自らの業(わざ)の実力にかかわらず、神は罪と死に勝利したキリストの愛においてわれらを見給うということである。

 業の律法の適用のもとでは「律法を行う者たちが義とされるであろう」。それ故にダビデのような姦淫者は救われない。パウロはダビデの詩を引用しつつ信の律法のもとにある者をこう特徴づける。「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものとみなされる。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される。ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みした。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。

 キリストの身代わりによる贖罪を神学的に理解するべく用いられるパウロのテクストはこの「ローマ書」当該箇所のほかには「第二コリント書」5章、「ガラテア書」3章などがある。身代わりが「自らの背きを自らにおいて考慮しない」ことを可能にするその様式をめぐる詳しい神学的議論はこれまで「ローマ書」の意味論的分析において遂行された業の律法から信の律法への移行に基づきその枠のなかで第II部で展開する。 (Rom.3:23-24, 4:15,Anselmus, Cur Deus Homo, I6, I1, I6,Gal.3:13,1Cor.2:4, Rom.3:25-26,3:22,4,2,Cor.5:19,5:21,Rom.13:14,2:13, 4:4-8,2Cor.5:19,Anselmus, ibid. Praefatio).

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春の講義宗教改革(6)―提題第9条「三人称」~15条「帰属の属格」

提題目次 77 theses: Table of contents

第I部                 「ローマ書」3章21―31節の新提案が導く神の前と人の前の総合的開示―イエス・キリストの言葉と働きによる神の意志(福音と律法)と自然(肉)の媒介と秩序づけ Comprehensive manifestation of both ‘before God’ and ‘before Man’ led by the correct understanding of Romans 3:21-31 – Intercession and Ordering between God’s wills (Gospel and Law) and Nature (Flesh) by words and works of Jesus Christ— 

1 神の栄光、創造と救済を介して Glory of God via creation and salvation.

2 福音 Gospel.

3 神の信 Faithfulness of God.

4 神の二種類の意志のもとに啓示されている神の義即ち「信の律法」と「業の律法」God’s righteousness i.e. ‘the law of faithfulness’ and ‘the law of works’ being revealed under God’s two kinds of will.

5 「神の怒り」の啓示とそのモデル The revelation of ‘God’s wrath’ and its model (in Exodus).

6 神の義の二つの啓示((A)神の信義と(B)神の怒り)の非対称性 Asymmetry between two revelations of God’s righteousness ((A)God’s faithful righteousness and (B) God’s wrath).

7 悔い改めによる「業の律法」から「信の律法」のもとへの移行 Transition by repentance from the law of works to the law of faithfulness.

8 神には二種類の律法の適用において偏りがない  There is no respect of person in applying God’s two kinds of law to human beings.

9 啓示の差し向け相手の三人称による提示 Employing the third person pronoun on behalf of the person whom God’s revelation is addressed to.

10 神の怒りの啓示と神の前の責任 The revelation of God’s wrath and man’s responsibility before God.

11 良心と最後の審判 Conscience and the last judgment.

12 イエス・キリストを介した福音の啓示 The revelation of Gospel through Jesus Christ.

13 律法と預言の成就としての福音 Gospel as the fulfilment of Law and Prophecy.

14 三つの名称「イエス・キリスト」、「イエス」、「キリスト」Three names ‘Jesus Christ’, ‘Jesus’ and ‘Christ’.

15 「イエス・キリストの信」における帰属の属格 Genitive of belonging in ‘the faithfulness of Jesus Christ’. 

9 啓示の差し向け相手の三人称による提示

 永遠の相のもとにいます神の前では誰が義人であり罪人であるかは既に明白であるが、具体的に個々人の誰が義人か罪人(或いはより慎重には怒りを差し向ける人間の「不敬虔と不義」という魂の態勢に誰があるかということ)かに関しては、イエス・キリストとモーセの石板を介したほどには誰にも明確には知らされていないため括弧に入れられ、報告者パウロにより三人称により表現されている。そこでは「彼らは誰であれこのようなこと[17種類の悪行]を行う者たち」(前条)、「イエスの信に基づく者」(第6条)と三人称で指定される者たちである。この一般化により、われらにとっては不定なものとして提示される。これにより悪行への引き渡しとして啓示される神の怒りの相手は神の前の現実即ち神自身により罪人の人間認識のもとにある誰か、或いは悔い改めにより義と認められるに至る誰かを表現することができる。

 そのことはパウロが神の怒りの啓示の差し向け相手としている、三人称による「男」や「女」にも適用される。「それ故に、神は彼らを恥ずべき情欲へと引き渡した。すなわち、彼らの女たちは自然の用を不自然なものに取り換えた。同様に、男たちも女との自然の用を捨てて互いに自らの欲のままに情欲に身を焦がした。男は男と恥ずべきことを行いそして自ら自分たちの逸脱に値する報いを受け取っている」。ここで三人称表現「男」と「女」により神が具体的に誰それを理解しているかは知らされてはいない。自ら自分が男であるとさらには自らの結婚が同性婚であると思っていても、生物学を究めていたまう神はそう看做していないかもしれない。神の人間認識はイエス・キリストを介した啓示、知らしめほどには、個々人の誰にも明確には知らされてはいない。ただし、男であれ女であれパウロによりこう警告されている。「しかも、汝らは、この好機を、すなわち汝らが現に眠りから目覚める時であると知っている。それ、今やわれらの救いは、われらが信じた時よりもより近くにあるのだから。夜は更けた、日の出は近づいた。だから、われらは闇の業を脱ぎ捨て、光の武具を身に付けよう。われらは、日中にあるように慎み深く歩もう、酒盛りと酩酊によってでも、乱交と放蕩によってでも、争いと嫉みによってでもない。むしろ、汝らは主イエス・キリストを着よ、そして欲望どもへの肉の計らいを為すな」。ひとはただ神の前の福音の啓示を自らのものとするよう招かれている(Rom.1:18,1:32,3:26,1:26-27,13:11-14).

 

10 神の怒りの啓示と神の前の責任

 (B)「神の怒り」は「引き渡し」という仕方で啓示され知らしめられており、各人の責任が問われる。「神は、彼らにおいて彼ら自身の身体が辱められるべく、彼らの心の諸々の欲望における不潔へと引き渡した」。この啓示のもとでの神の前の人間においては、「神の知られるべきものごとは彼らに明らかである」として「弁解の余地がない」と報告されているが、今・ここに生きているという自覚のもとにある生身の人間は神については明確には知り得ないのだから弁解の余地があると考えることもあろう。しかし、神はそのようには考えていないということが報告されており、神が理解するその神の前で神の怒りにあてられている人間たちの振る舞いに生身の人間は習熟することが求められる。神は人間が考えるようには考えていないことが、ここで知らされている。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわれに戻らない」。もちろん、神の前の二種類の人間たちとは人の前で今・ここに生きているわれわれの誰か以外の誰でもない。

 神の前と人の前の構成員の総数は同じであり神の前と人の前の二段からなる円筒形で図解されよう。円筒形の上部は神の前を示し、中間時においては(A)義人と(B)神の怒りが向けられている行為の担い手にあらゆる人間が分節される。終わりの日には(A)義人と(B)罪人に最後の審判を介して二分される。円筒形の下部は中間時における人の前を示し、上部と同数の生身のあらゆる人間は「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる中立的な可能存在者である。(Rom.1:18,1:26,1:19-20, Isaiah,55:8-11,Rom.6:19,20).

 

11 良心と最後の審判

 かくして、ひとは神と共なる共知としての「良心(sun-eidēsis)」の発動に習熟する必要がある。良心とは神に明らかなことがひとにも明らかなものとなる神との共同の知識が成立する心の座である。「われらは皆キリストの審判の座の前で明らかにされねばならない。それは各人が身体を介して為したことがらに応じて、各人が善きものであれ、悪しきものであれ受け取るためである。かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」。異邦人ならびに「アダムからモーセに至るまで」のユダヤ人をも含め、ひとの「良心」は「律法を持たずにも自らに対し律法」である。神の義の一つの顕れである神の怒りは律法に違反する者に対し勝手にせよという仕方で啓示されている、完全に引き渡されている限り良心は反応しないであろうが。というのも、罪との共知のもとでは、神の意志について盲目にされており、何ら良心の痛みを感じることなしに、罪の手下として悪を繁殖させるだけであろう。

 律法が良心を目覚めさせる。律法という善が与えられたのは、「罪が善きものを介してわたしに死を成し遂げていることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである」。ひとが悪行に身をそめているその瞬間には、自らが「死を成し遂げている」その自覚をもたないであろう。律法は罪の奴隷となり悪行に身を任せ死に向かっていることを知らしめる。律法による罪の暴きたてに呼応して、「内なる人間」が「叡知の律法」に即すことによって霊を伴う良心が発動し、葛藤が引き起こされる、そのような役割を業の律法と叡知の律法は担う。この葛藤を介して信の律法に移行するべく「福音」が宣教される。

 葛藤の認知的側面は「良心の咎め([apo] suneidēseōs poneras=bad conscience)」と呼ばれ、キリストの身代わりの聖なる愛によって取去られる。「この方[キリスト]は罪人たちの代りに永続的に一つの献げものを捧げたまうたことによって、神の右の座に座したまうた。・・これらの赦しがあるところでは、もはや罪についての献げものはない。かくして、きょうだいたち、われらはイエスの血において聖所に入る認可を得ているので、その認可を彼はわれらに新しいそして生きた道として、ご自身の肉であるところの幕を介して、聖なるものとされた、そしてわれらは神の家の大祭司を得ているので、われらは良心の咎めから心を清められてしまっており、清浄な水によって身体を洗い清めつつ、信仰の確かさの十全性において、真実な心とともに近づきを得ていこう」。

 最後の審判はこの「へブル書」に記されたそのような「わが福音」への神ご自身による考慮のもとに良心の発動とともに良心に訴えて遂行される。「彼らは誰であれ自らの心のなかに律法の業が書かれてあることを証明するが、それは自らの良心が共同の証人となり、そしてその間相互に自らの考量が告発しまた弁明しあうことによってであるが、それは、或る日、神がキリスト・イエスを介したわが福音に即してひとびとの隠れたことがらを審判するときである」。(Rom.2:15,5:13,  2Cor.5:10-11, Rom.2:14,7:13,7:22-23,1:2,Heb.10:12,18-22,Rom.2:15-16).

 

12 イエス・キリストを介した福音の啓示

 福音における神の義はイエス・キリストを介して啓示されている。神の信義と義認の啓示の報告はこうである。(A)「しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、神の義は(f1)イエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである」。(Rom.3:21-26)

 

13 律法と預言の成就としての福音

 この箇所は神ご自身による人間認識に基づくご自身の行為についてのパウロによる報告である。神はイエス・キリストの信を介したご自身の義の啓示が「律法と預言者たちにより証言」されているものであると認識しておられる。神はイエスの信の生涯が、アブラハムやモーセに約束したことがらの成就、さらにイザヤの神われらとともに(インマヌーエール)預言や苦難の僕の預言の成就であると認識しておられる。「神の言葉が失墜したというごときものではない。・・彼らはアブラハムの子孫であるが故に、彼ら皆がその子供であるのではない。むしろ「イサク[から生まれる者]において汝[アブラハム]の子孫と呼ばれるであろう」。すなわち、肉の子供たちが神の子供たちではなく、約束の子供たちが子孫と看做される」。「彼[モーセ]は何と言っているか、「言葉は汝の近くにある、汝の口のなかにそして汝の心のなかにある」、これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である」。

 イザヤは預言する。「それ故、主ご自身が汝らに徴を与えられるであろう。見よ、処女が身ごもりそして息子を産むであろうそして汝は彼の名を「インマヌーエール」と呼ぶであろう」。

 イザヤは苦難の僕を預言する。「主よ、誰がわれらの伝聞を信じましたか。また主の御腕は誰に啓示されましたか。われらはご自身の御前にその方を子供のごとき者、乾きたる土における根のごとき者として報告しました。彼には[見るべき]姿なく、また栄光もない。そして彼は[見るべき]姿をまた美しさをもたず、彼の姿は尊ばれずまたすべての者たちに見捨てられたことをわれらは見て知っている。彼は打たれ、傷あるひとであり、病を担っていることを[ご自身]知っている。というのも、彼の顔は背けられそして敬われることがなく、認められることがなかったからである。この方はわれらの罪を担い(pherei)そしてわれらのことで苦しめられており、われらもまた彼が苦しみ、神によって病のうちにありそして圧迫のうちにあると看做した。しかし、彼はわれらの罪の故に傷つけられたのでありそしてわれらの不法の故に病いを負わされたのであった。われらの平安の訓育(paideia eirēnēs hēmōn, cf. musar(ヘブライ語), discipline)が彼のうえにあり、われらはその傷によって癒された。

 われらはみな羊の如くさ迷い、ひとはおのが道に迷い込んだ。そして主はわれらのそれらの罪に彼を引き渡された。そして彼は苦しめられていることの故に口を開くことはない。彼は屠り場に引かれた羊のごとくに、毛を切る者の前に黙す子羊のごとくに、彼は口を開かない。その辱めにおいて彼の咎めはもくろまれた。誰が彼の世代を述べ伝えることになろうか、彼の生命はこの地から取り去られ、わが民の不法の数々から死へとはこび去られたことを。「わたしは彼の埋葬の代わりに悪者たちを、そして彼の死の代わりに富者たちを与える。なぜなら彼は不法を為さなかったからである、彼の口に偽りは見いだされなかったからである」、そして主もまた彼を疫病から浄めることを望みたまう。もし汝らが罪に関して[自らを]捧げるなら、汝らの魂は長生きの子孫を見ることになるであろう。そして主はご自身の御手のなかで彼の魂のその苦しみを取り除くことを望みたまう、それは彼に光を示し、そして理解を形成し、多くの者に良く仕えた正しき方を義とするためである。そして彼が彼らの罪を担うであろう(anoisei)。このことの故に、彼は多くの者たちを獲得するであろう、そして強者たちの戦利品を分配するであろう。彼の魂は彼らに抗して死に引き渡されたそして不法の者のうちに数えられた、そして彼自身多くの者たちの罪を担った(anēnegke)そして彼は彼らの不法の故に引き渡されたのであった」 (Rom.3:21,9:6-9,10:8, Isaiah.7:14,53:1-12)。

 

14 三つの名称「イエス・キリスト」、「イエス」、「キリスト」

 パウロにおいては「イエス・キリスト」という執り成す媒介者への表現は「イエス」や「キリスト」と異なり媒介の前置詞「介して」、「における」、「基づいて」を伴い、行為主体として動詞を伴う主文の主語に立てられない。というのも、パウロは同時に神の子でもひとの子でもある存在者に一つの行為を帰属させることができないと判断したからである。「われらの主イエス・キリスト」は「肉に即して」ダビデの末裔であり全く人間であるが、他方、「聖性の霊に即して」死人の復活により「神の御子と判別された」神の子でもある(第2条)。

 ただし「イエス・キリストは主である」と同一性言明の主語となることがある。「主」はわれらがその所有物であるところの主人を意味する。「生きるにしても死ぬるにしても、われらは主のものである」。この職名ないし尊称を伴った固有名には無時間的な同一性言明「ある」および時間的な出来事の主体として「なる」が語られるが、行為「する」が決して語られることのない存在者神・人を指示する。神でもひとでもある存在者には一つの行為は帰属させられない。さらに神はイエス・キリストに帰属した知恵、義、聖そして贖いにおいてご自身が嘉みする者の知恵、義、聖そして贖いであると看做しておられる。「汝らは[神]ご自身に基づき、キリスト・イエスにおいてある、その方は神からのわれらにおける知恵、義、聖そして贖いとなられた」(なお、「キリスト・イエス」という語順の変更は母音の連続を避けるなど発声上の便宜による)。

 他方、「イエス」は行為主体として用いられる。「イエスの信」において、イエスは神の言葉に信実であったという、彼の根源的な心的行為ないし態勢を語っている。「イエスの信に基づく者」は「アブラハムの信に基づく者」と同じ語句の構成であるが、アブラハムへの信仰が想定されないように、ナザレのイエスはひととして「神の言葉が信任された」民族の一員として神の約束の言葉に自らの信により応答した。イエスは自ら神からの職務としてメシア(受膏者)・キリストであるという自覚のもとに十字架の死に至るまで従順を貫き罪なき者であったために、父なる神が専決行為として復活を与えたことを介して、神の子であることが判別された。

 「キリスト」においては、「キリストは神の右にある方であり、またわれらのために執り成したまう」と媒介行為の主体である。かくして「イエス・キリスト」はそのような神・人を指示している。神・人を表現するこの固有名において神とひとの肯定的媒介となったことが表現されている。(Rom.3:21,8:34,10:9, 1:2,1Cor.1:30,Rom.3:26,4:16,3:2,8:34).

 

15 「イエス・キリストの信」における帰属の属格

 「イエス・キリスト信」における「の」は神の子でもひとの子でもある媒介者に帰属した神の信とそれに対応するひとの信を表現する帰属の属格である。この信は神の信とひとりのひとナザレのイエスの信により構成されている。業の律法より根源的な神の義が歴史のなかで啓示されたさい、その啓示はイエス・キリストに生起した「信」を媒介にして遂行されている。これがあらゆる信にとってのみなもとの信である。(f1)「イエス・キリストの信」における「の」は出来事の範疇における帰属の属格として理解される。啓示行為は父なる神の専決行為であり、二人の啓示行為主体は想定されないため、また「イエス・キリスト」は行為主体として用いられないため(前条)、主格的属格(イ・キの=~持つ)の読みは否定される。またひと各人が自らの心的状態として持つ(f2)信仰は神の義の啓示の媒介となることはありえないため、目的的属格(イ・キの=~の)の読みは否定される。

 (ただし「ガラテア書」の一文「われらの父なる神とわれらの罪のためにご自身をお与えになられた主イエス・キリストから、汝らに恩恵と平安があるように」において、分詞構文「与えた」が「主イエス・キリスト」の行為として用いられるが、祈願文のなかの従属的な位置にあることさらに「父なる神」とセットの表現であることが考慮されねばならない。この議論の流れを考慮した節約的な短縮文のなかで、主文は祈願文であり、双方「から」の平安が祈られており、単独の主文の主語として「イエス・キリスト」が行為主体としては用いられているわけではない)。(Rom.3:22,Gal.1:3-4).

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春の講義宗教改革(5)―提題第1条「神の栄光」~第8条「神に偏りがない」

新しい宗教改革

第I部                 神の前と人の前の総合的開示―イエス・キリストの言葉と働きによる神の意志(福音と律法)と心魂(「肉」と「内なる人間」)の媒介と秩序づけ

 パウロの神学の中心的主張「ローマ書」3章21節から31節がこれまでの誤訳を乗り越え、正しく理解されるとき、二つの神の意志である福音と律法そしてそれを受け止める心魂の関係は神の前の無矛盾性とひとの前の相対的自律性が整合的な仕方で展開されていることが理解できる。そこでは、ナザレのイエスの十字架にいたる信の従順と復活に基づく聖霊の派遣により神の前とひとの前は総合的に媒介され秩序づけられる。

提題1 神の栄光、創造と救済を介して

 永遠の現在にいます神は、一方、この時空における運動を伴う「宇宙」、「万物」を「神の知恵」、「主の叡知」に即して創造された。神ご自身は神の前にいる者たちによりそれは知られていると看做していたまう。「永遠の力能そして神性は宇宙の創造から、被造物において叡知において知られ、見て取られている」。他方、ご自身の被造物への愛ならびに正しさはご自身の選びの民に対する約束への(f1)「神の信」に基づき、御子の受肉と受難および復活の歴史において最も明らかな仕方で人類に啓示された。「福音の真理」と呼ばれるこの御子の歴史への到来としての栄光ある神の啓示行為はどこまでもその理解が深まりうるそのようなものである。

 この神の信は、ご自身が万物の主である限り、当然異邦人に対しても貫かれる。「第一に福音はすべての国々に宣ベ伝えられねばならない」。神の信に基づく福音は「真理の言葉」だからである。パウロは預言者たちを引いて確認する。「いや、むしろ、「その者たちの声は全地に響きわたった。そして彼らの言葉は世界の果てにまで[及んだ]」。しかし、イスラエルは知らなかったのではないかと、わたしは語っているのか。誰よりもまずモーセが語っている、「わたしは[わが]民でない者のことで汝らに嫉みを起こさせるであろう、悟りなき民のことで汝らに怒りを抱かせるであろう」。他方、イザヤは大胆でありそして語る、「わたしはわたしを探し求めない者たちに見いだされた、わたしを尋ね求めない者たちに顕れる者となった」」。

 神ご自身の深遠なるご計画は人類の具体的な歴史のなかでひとの目には一見理解しがたい仕方でしかも揺ぎ無い仕方で遂行される。「ああ、神の知恵と認識の富の深さよ。ご自身の裁きはいかに究めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。すなわち、「誰か主の叡知を知っていたのか、それとも誰かご自身の顧問官になったのか、それとも誰かご自身に予め与えてそしてご自身から報いを受けるのであろうか」。なぜなら、あらゆるものはご自身からそしてご自身を介してそしてご自身に至るからである。栄光は永遠に[神]ご自身にあれ、アーメン」。

 人類は全知にして全能な神の叡知を十全に知ることはできない。人類は終わりの日には、もし神に嘉みされるならば、罪とその支配である死の毀損からも解放され、神ご自身の生命のなかにあって神に賛美と栄光を帰するであろう。この地上のあらゆる血縁に基づく民族、血統、性、皮膚の色などの個々人の責任においてない与件は神の国に引き継がれることはない。「肉と血は神の国を継ぐことができない」。身体的な情としての自然な愛国心さえ山上の説教に即して乗り越えなければならない局面がでてこよう。「すべてのものがご自身に従ったときには、御子自身もまた、すべてのものを彼に従わせた方に従うであろう。それは、神ご自身がすべてにおいてすべてとなりたまうためである」。(Rom.1:20,Gal.2:5,Col.1:5,Rom. 11:36,11:33,11:34, 1:19,3:3,Mak.13:10, Rom.10:18-20,Ps.19:4[LXX 18:5],Dt.32:21,Is.65:1,Rom.11:33-36,Is.40:13,1Cor.15:50,28).

 2 福音

 この啓示は「福音(良き報せ/good news)」と呼ばれる。この良き報せは「真理の言葉」であり「福音の真理」を指示する。福音とは神がその信・信仰を嘉みするすべての者に「救いをもたらす神の力能」である(第24条)。「その福音は聖なる書にご自身の預言者たちを介してはるか以前に約束されたものであり、肉に即してダビデの種子に基づき生まれた、聖性の霊に即して力能のうちに死者たちのなかからの甦りに基づき神の御子と判別された御子ご自身、われらの主イエス・キリストについてのものである」。

 イエス・キリストの福音において神が義でありご自身がその信・信仰を嘉みする者を義とすることが啓示されている。「神の義は彼[イエス・キリスト]において[神の]信に基づき信に対して啓示されている」。この神の義の啓示、隠されていたものの覆いを取る知らしめにおける神の信とひとの信の対応は、一般的にも、誰かを疑っている者はその疑われている当人が信実であることを知りえないことと類比的であり、信に対しては信による応答がふさわしい。(2Cor.6:7,Col.1:5,Gal.2:5,Rom.1:2, 1:16, 1:2-4,1:17).

 3 神の信

 福音において啓示された神ご自身の知性の認知的十全性ならびに憐みや正義という人格的な十全性は選びの民を介して人類への「神の信」に基づいており、この神の信に対応するひとの信が神の信義そして神の愛に対する認識に至らせる。神の信はひとの信・信仰のみなもとにあるみなもとの信であり、この信に基づき他の正しい信・信仰は位置づけられ特徴づけられる。神の信が「イエス・キリストの信」を構成しまたひとの正しい信・信仰を特徴づけそして支える。福音への帰還とはこの神の信に立ち返ることである。福音とは神の信義がイエス・キリストにおいて分離なき仕方で明確に啓示されたものごとのことである。たとえひとが不信により背き偽りであったとしても、神の信は揺るがず、神の言葉は真実である。「それではユダヤ人の優っているところは何かあるのか、あるいは割礼者の利益は何かあるのか。あらゆる点で大いにある。第一に、神の言葉が彼らに信任されたことである。ではどうか、もし誰かが不信仰であったなら、その者たちの不信仰が神の信を無効にするのではないだろうか。断じて然らず。神は真実であるとせよ、すべての人間は偽りであるとせよ。まさにこう書いてある、「汝が汝の言葉において義とされるように、そして汝が審判されることにおいて勝利するように」」。 (Rom.3:3,3:22,3:1-4).

 

4 神の二種類の意志のもとに啓示されている神の義即ち「信の律法」と「業の律法」

神ご自身による人間認識に基づく二種類の意志はユダヤ人の歴史の展開のなかで神の義として(B)「業の律法」(「モ-セ律法」)および(A)「信の律法」(「キリストの律法」)の名のもとにそれぞれモーセの「石板」を介しておよび「イエス・キリストの信」を介して啓示されている。そして業の律法は福音の啓示に方向づけられている。「キリストが信じるすべての者にとって義に至る律法の目指すもの[ゴール]である」。福音が啓示された限りにおいて神の意志として、業の律法はより少なく根源的であることが知られる。神の信義に分離なき恩恵の啓示のほうが「~するべからず」「~するべし」というひとの為すべき業の律法の啓示より、より根源的だからである。そこでのみ、各人の信仰は律法主義に絡め取られることはない。そこでは誇りが排除されているからである。「どこに誇りはあるか、閉めだされた。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である」。この信の律法に基づく正義を「人格的正義」と呼び、業の律法に基づく正義を「司法的正義」と呼ぶ。(Rom.3:27,3:20,1Cor.9:9,Gal.6:2,2Cor.3:7, Rom.10:4,3:27).

 

5 「神の怒り」の啓示とそのモデル

 「[業の]律法は怒りを成し遂げる」とあるように、「神の怒り」の規準は「業の律法」、モーセの十戒を介して明確に啓示されたとパウロにより報告されている。「ローマ書」1章の議論の展開としてまず「神の義」は福音において啓示されていることが提示され(第2条)、その神が義であることの第一の理由が神の怒りにあると報告されている。(B)「なぜなら神の怒りは天から不義のうちに真理をはばむ人間たちのすべての不敬虔と不義のうえに啓示されているからである[現在形]」。神の怒りは今・ここで真理をはばむと神に看做されている人間たちの裁量のもとにある不敬虔と不義という心魂の態勢のうえに、即ち心魂の或る在り方のうえに、「引き渡し」、勝手にしろという仕方で啓示されている。そして彼の議論のなかではその怒りは福音に立ち帰らしめるものとして位置づけられる。

 現在啓示されている神の怒りの理由をパウロは神ご自身が「なぜなら、神が彼らのただなかで明らかにしたからである」と過去時制により報告している。この時制は暗くされた悟りなき心が偶像崇拝に陥ったことそして三度現れる「引き渡した」の過去用法とともに一つの出来事を念頭においている。神の怒りの歴史のなかでの一つの啓示行為が現在の怒りの啓示の保証ないしモデルになっていると考えられる。パウロはこの過去形表現により、神がモーセに十戒を提示された時、出エジプトの民がそのモーセの不在のあいだに偶像崇拝等に陥った具体的な事実を表し、ひとが神の意志を知りまた知りうることの一つの証拠として提示している。実際、この引用箇所における過去時制表現、例えば「神は引き渡した」、「彼らは損得勘定において空しきものとなった」、「彼らは……愚かな者となった」は「神の怒り」とともに、聖書中、出エジプトの民の偶像崇拝事件の論述にそのまま見出される。パウロが用いた七十人訳には「(神の)怒り」というギリシャ語語句と共に出エジプトの一連の当該個所において見出すことができる。これらはすべてアロンのもとで金の子牛を鋳て偶像を拝んだ出エジプトの民の記事に符合し、神は偶像崇拝についての律法に即し怒りを示して、レビ人を介し一日に三千人を倒したことが報告されている。なお、業の律法の啓示以前においてまた異邦人においては良心が業の律法のもとにあることを示す(第11条)。(Rom. 4:15,1:18,1:26, 1:19, (「引き渡した」:Rom.1:24, 26,28=Ex. 1:13: 「怒り」:Rom.1:18=Ex. 32:10-13, 「空しき者となった」Rom. 1:21=Jer.2:5, 「愚かな者となった」Rom. 1:22=Jer.10:14).

 

6 神の義の二つの啓示((A)神の信義と(B)神の怒り)の非対称性

 (B)「神の怒り」の啓示の報告の結論として「業の律法に基づくすべての肉はご自身の前で義とされることはないであろう[未来形]」と終わりの日に罪人として審判されるに至ることがこの啓示の含意として導出されている。ただし、この未来形表現により、当人が悔い改めた場合には事情が異なることもあろうことが含意されている。悔い改めとは業の律法のもとから信の律法のもとに移行することである。そこでは義とされないことが知らされている神の意志に背くことからそこでは義とされる神の意志に服することである。

 神の義の第一論証であるこの怒りと業の律法のもとにある者の不義の結論に続き、第二論証が展開される。(A)神の信義の啓示が報告される。(A)「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている[現在完了形]。・・神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義である」。(A)義人はいかなる者であるかに関して、「神はイエスの信に基づく者を義とする[現在分詞形]」により啓示内容として一般的に知らされている。さらに、信の律法のもとにあり(A)「イエスの信に基づく者」と看做される者についてはアブラハムによる先駆的事例がある。「アブラハムにその信仰が義と認定された」。「アブラハムの信に基づく者」に関しても同様である。なおイエスご自身は正しい信仰を「幼子」の如き信仰と表現することがある。「まことに汝らに告げる、幼子のように神の国を受け入れない者はそこに入ることはないであろう」。

 かくして、今・ここで二種類の神の義が啓示されているが、一方は神の怒りであり他方は神ご自身の信義ならびにイエスの信に基づく者の義認である。神の怒りは直接には罪人の最終的審判ではなく、ここに啓示行為内容の非対称性が見られる。怒りから逃れるべく悔い改めの余地が残されているからである。他方、義認が今ここで生起している者については神の認識の変更(人間的に言えば)は想定されていない。(Rom. 3:20,3:22-26,3:27, 4:3,4:16,Mac.10:15).

 

7 悔い改めによる業の律法から信の律法のもとへの移行

 この二種類の神の義の啓示を介して、信の律法のもとに生きる以外に義とされる道のないことが知らされている。「信に基づかないものごとはすべて罪である」。業の律法に基づくと神に看做される者は終わりの日にその業に応じて報いを受けるが、そこでは誰も義と看做されることはないであろうからである(前条)。

 かくして、ひとは悔い改めにより怒りを逃れて信の律法のもとで罪の赦しの義認に向かうことができるだけである。「ひとよ、汝は神の裁きを逃れると思うのか。それとも汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか。汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しい裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」」。

 パウロは「ガラテア書」において自らの自覚としてこの業の律法から信の律法への移行を罪の値である死からキリストにおける生への移行として語る。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」。(Rom.15:23,2:3-6,Gal.2:19-20,Rom.8:2).

 

8 神には二つの律法の適用において偏りがない

 「神には偏り見ることはない」。なぜなら、一方、神は業の律法のもとに生きる者には業の律法を適用し、そこでは「すべての律法を為す義務がある」こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」からである。他方、信の律法のもとに生きようとする者、「神の善性」に留まろうとする者には「イエスの信に基づいている」かにより審判を遂行するからである。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」とあるのは、前者が信の律法のもとに、後者が業の律法のもとに生きたことが想定されているからである、ただしエサウがその後悔い改める可能性は否定されていない。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」。神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は「叡知の機能不全」の故に神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできない。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した」。「彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではなく、行う者たちを是認さえしている」。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるであろう。まさに「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」。(Rom.2:11,Gal.5:3,Rom.2:13,2:6, 11:22,3:26,9:13,11;22, 1:28,1:32,11:22,2:4, Ps.18:26).

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