春の講義宗教改革(4)―「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
宗教改革「みなもとの信&信のみなもと」―極東発 Wittenberg & Rome経由、福音への帰還―
モットー「みなもとの信と信のみなもと:イエス・キリスト或いは神の知恵と信」
目次
序文
1. 福音への帰還―イエスの言葉と働きによる道徳的次元の内破と再生―
1.1山上の説教における道徳、自然そして天の父
1.2 古い革袋を破る新しい生命の福音
2.山上の説教の神学的展開―信に基づく正義と憐みの成就―
2:1 イエスとパウロ―神による甦らし「へ」の道と「から」の宣教―
2:2 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性
2:3人類をその罪と苦難から救済に導く福音
3.21世紀の宗教改革の核心―「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学―
3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
3:2.新しい宗教改革に至る唯一の道―ロゴスとエルゴンの総合―
77箇条
3「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学:21世紀の宗教改革「みなもとの信」の核心
3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
使徒パウロはナザレのイエスの生涯が打ち立てた信に基づく義とその義に基づく業の律法の成就を「ローマ書」において、能う限りの明晰性をもって、言語と心魂そしてものごと(その理およびその働き)という三者の関わりとして哲学的に分析することを許容する仕方で神学的に論じた。神の前と人の前の理論上の分離に基づき、パウロは「わたしは汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)とし、神の前を括弧に入れたひとの相対的自律性を譲歩として認め、単に心情倫理と責任倫理の区別、さらには制度化の許容ということではなく、神の前と人の前の創造から救済にいたる総合的秩序づけを企てている。神の子にしてひとの子の啓示に基づき、先に見た肉の弱さの考慮のもとでの責任倫理をもカヴァーしながらも、「一つのこと[イエス・キリストの出来事]を思慮する」(Phil.2:1-2)集中のもとに人間と世界を包摂する。山上の説教は相対的自律性の許容により希釈されたのではなく、道徳次元を内側から突破するヴィジョンのもとに他の一切を秩序づけつつ語るイエスそのひとにより生き抜かれたのである。彼ご自身は肉の弱さをその都度克服されたのである。信の律法に基づく業の律法の秩序づけはパウロにより神の二つの意志の啓示として報告され、人の前の相対的自律性を「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の啓示の出来事に秩序づけている。
このたび、人類による二千年の探究の蓄積のもとに信の哲学の研究を通じて、パウロによるキリストの受肉と受難と復活および来るべき再臨による人類救済の議論が神の選びの教説とともに無矛盾であることが明らかとなった。今日までのパウロの神学をめぐる論争は、彼の神学理論の中心的な主張を形成する「ローマ書」3章21節から31節のとりわけ22節(ū gar estin diastolē)のヒエロニムスによるVulgata版(二世紀以降の古ラテン語訳の四世紀後半における彼自身の言葉では「編集」)の訳に起因するものであることが明らかとなった(第12、17条)。そこでパウロは神の前のことがらを報告しており、その報告の内容は神ご自身がご自身の義の啓示の媒介としてイエス・キリストに帰属した信を用いられたこと、そしてその信とご自身の義の知らしめにおいて分離がないこと、即ちその信義の分離のなさにおいてご自身にとって根源的な義が信に基づくものであることを明らかにしておられることである。パウロは明確に神ご自身の認識をそれ自身として報告するとともに、そのわれらの外の啓示と人の前すなわちわれらのうちの信との関係の総合的な理解を展開したのであった。従来神の前と人の前の分節と総合が不明瞭であったために多くの混乱が生じたと思われる。
カトリック教会とプロテスタント教会相互のまたそれぞれ内部における二千年にわたる論争に思いをはせるとき、真剣で誠実なひとびとがそのテクストをめぐって長く争わざるをえなかった事実は、そのもとのテクストの最初の基礎的な翻訳に何らか誤解を生じさせるものが含まれていたと理解するよう促す。原語diastolē(最大希英辞書LSJではdrawing asunder (「双方に引いて分ける」)やseparationがdistinctionより前に挙げられる)の当該箇所のVulgata訳は non enim est distinctio「なぜなら区別がないからである」である。しかし、それ以降調査の限りすべての翻訳において、これがその理由文であるところの前文「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている」における「信じる者すべて」のあいだに「区別」や「差異」はないと理解されてきた。神の義が啓示されたことの理由が信じる者たちの心的態勢に例えば聖フランシスとヒトラーの信仰に区別や差異がないということはいかにも不可思議である(第17条)。人類への愛の故に啓示されるというのであれば、より分かるが5章まで愛の議論は封印されており、信ひとすじで突破が図られている。実はひとの心的状態としての信仰に区別や差異がないということではなく、「神の義」とその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」のあいだに神の前のことがらとして「分離(separatio)はない」と訳されねばならなかったのである。神ご自身にとって信義はモーセの業の律法に基づく義より一層根源的であることを示している。業の律法に即して「すべての者が罪を犯した」と否定的に認識されているのであり、神の信義の啓示という肯定的なものごとは「イエス・キリストの信」を介してなされ、神の義とその信のあいだに分離がないからこそ、「業の律法を離れて」しかもより根底的な神の義として啓示されたのである。これが明示されていれば、今日までのこれほどの混乱はなかったことであろう。3章21節から31節の正しい翻訳は以下のもののようになると思われる。
「[21]しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、神の義は(f1)イエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。
[27]それでは、どこに誇りはあるのか、閉めだされた。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。かくして、われらは人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:21-31)。
この福音は「[業の]律法を離れて」(Rom.3:21)つまり神の義はモーセ律法とは分離されうるものであり、しかも「信の律法」(3:27)とは分離なきものとして啓示されたために、神ご自身にとって福音即ち信の律法のほうが業の律法よりご自身の義との関連においてより根源的である。神においてそうであるなら、ひとにとっても神ご自身が信義であることが啓示されたとき、信によって応答することのほうが、「汝~すべからず」、「汝~すべし」の命令のもとでの業の遂行よりも心魂の態勢、行為として根源的であることが含意される。
この誤訳が正されるとき、神の前と人の前の分節と媒介が明確となりまた神の二つの意志「業の律法」と「信の律法」の分節と媒介がさらには「信にもとづく義」と「その義の果実」の分節と媒介が明確になる。もちろんその媒介者はイエス・キリストである。その分節と媒介そして関係づけの故に、これまでの多くの論争に解決が与えられると思われる。そこでは無償の憐みと正義の両立が解明され、例えば福音と律法、信仰と愛、恩恵と自由、選びの教説と各自の責任ある自由の関係をめぐる論争について決着がつけられ提題で明らかにしていく。また贖罪論をめぐり父と御子の協働説か業の律法の枠のなかでの父と御子は審判者と被審判者の関係にある代罰説かの論争についても終止符を打つことができる。新しい葡萄酒を新しい革袋にいれる、そのような旧約から新約への展開を確認することができる。この解明はカトリック教会とプロテスタント教会双方がそれぞれ真理契機を担っているものとして、双方にそれぞれの特徴に応じて固有の場を提示し相互の和解をもたらし、ひとの心魂の再生と人類の平和の基盤になると信じる。
この修正を介して人類の混乱の歴史が改善されるべくここに一つの宗教改革運動「信のみなもと&みなもとの信」を起こす。そのモットーはfons fidei (pēgē pisteōs) et fides fontis (pistis pēgēs)-Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei(信のみなもととみなもとの信―イエス・キリストまたは神の知恵と信―)である。これは二千年にわたり神の前の出来事を純化、析出しきれなかった所謂「福音」それ自身が遂にかつて啓示されたその源(みなもと)の様式に帰還することであり、またわれら自身がその福音に帰還することである。福音それ自身が帰れや!と呼びかけており、それに呼応しこの運動に参加する者たちがこの情報化時代かつてより遥かに狭くなった世界中の隣人に、福音に帰れや!と呼びかける。この新たな宗教改革は聖書の中心的使信が正しく理解されたとき、その古くて新しい言葉がどれだけ歴史を変革する力能を持つものなのか、インクの染みの誤った形姿が人類の血の染みに変わってしまったが、それが (distinctioからseparatioへ)正されるとき、歴史はどう変革されうるのかをめぐる挑戦である。かくして、ここに、御子ご自身が栄光を棄て死に至るまで低くされて打ち立てられた福音に基づき、パウロによる福音の理論が無矛盾であることを世界に知悉せしめるべく基本的な提題を77箇条挙示する。
これらの提題はもちろんあらゆる神学的、聖書学的問いに応答するものではない。「ローマ書」の当該箇所が修正された場合に核心から波及される理解の限定された展開以上のものではない。しかし、パウロ神学の中心的な箇所の修正であるだけに、波及は重要かつ深遠であるに相違ない。それは信のみなもと即ちみなもとの信に帰るとき、ひとの心魂はどれほどの変革を蒙り心魂の刷新に導かれるかの挑戦であり、人類誰もが種として同じ心魂を持つ限り、心魂の新創造の根拠の解明は新しい宗教改革を起こすに値すると信じる。
3:2.21世紀の宗教改革に至る唯一の道―ロゴスとエルゴンの総合―
この改革運動は単に認知的な混乱の除去に留まるものではない。神ご自身の福音の啓示行為とその関係項(その信が神に嘉みされる「信じる者すべて」をも含む)を「神の前の自己完結性」(A)(B)として理論(ロゴス)上析出することができたとしても、ひとは「肉の弱さ」(Rom.6:19)の故に神の前にあることを自覚困難な者として譲歩され「相対的自律性」(C)のもとに今・ここの生を実践(エルゴン)上紡いでいる。ロゴスとエルゴンが相互に証しあうことが求められる。パウロは「ローマ書」における福音宣教を明確な方法的自覚のもとに遂行している。「わたしは、神に向かうことがらに関して、キリス ト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、神の霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:18)。パウロは、彼自身の一般的な道理ある議論とその理に基づく働きはキリスト御自身のロゴスとエルゴンである、という自覚のもとにある。パウロによるキリストが自らのうちで働いていたまうという自覚は、パウロ自らひとの肉の弱さへの譲歩の故に信じる者にも信じない者にも理解できる共約的な地平で議論することと矛盾しない。福音の啓示の故に、われらの生は秩序のもとにある。
ロゴスとエルゴンは伝統的に対で用いられ、福音書にも多く見られる。「この方[ナザレのイエス]はロゴスとエルゴンにおいて神の前でそしてすべての民の前で力ある預言者となられた」(Luk.24:19)。そのなかで相補性の最も明確な理解は、ロゴスは普遍的な命題ないしそれにより表現される非感覚的な一なる理(ことわり)のことであり、それがエルゴンに何らか内在する限り、今・ここの働きは秩序を持つということ、そしてその働きは何らかそれ自身可視的ではないロゴスを可視化するというものである。ロゴスとエルゴンの一般的な解明は哲学の中心的な課題であるので、その解明は哲学に託される。
ロゴスとエルゴン双方の相互の補いあいが必要なことは、人間の知的な営みに普遍的な事象であり、例えば算数の学習で時速4キロだとして二時間で何キロ歩くか(4x2=8)の問いに戸惑い、「だって疲れちゃうもん」という小学生の適切な応答に正しく見いだされる。普遍化、普遍的な説明言表・ロゴスの解明においては個体の個別事情が考慮されないという宿命を抱える。国民生活等の統計的理解は数字の背後にある生身の個々の生を往々にして見逃してしまう。そうであるからこそ適切な理論が展開されるなら、それは何であれそのロゴスとエルゴンは相互に支えあうことが求められる。大陸合理論と経験論は総合されねばならない。理想的には非感覚的な形相(ロゴス)が質料に内在し、それが秩序ある働きをうみだすそのような理論が展開されるように、ロゴスがそのつどエルゴンに内在し、秩序を与えることであり、エルゴンはロゴスを可視化し、ロゴスの正しさを確認させ、保証することである。
「哲学は澄明さとその堅固さによって驚くべき喜びを持つ」(アリストテレスNic.Eth.X5)。思考の明晰性と確かさは存在と思考をめぐる最も確実な原理である矛盾律により支えられ、そのもとに壊れないセンテンスが積み重ねられていく。理性の真理の源は、経験にその確かさを依拠しない矛盾律であると言うことができる。他方、ひとは理性の真理を十全に保持する賢者(sage)に至る認知的な態勢だけではなく、身体に発するパトス(感情、欲求等)を持ち今・ここで隣人を愛するそのような聖者(saint)に至る人格的態勢のもとにある。認知的卓越性とともに人格的卓越性が問われ、「パトスに対し良い態勢」(Nic.Eth.II5)にある者が人格的有徳者である。それらの統一理論は認知的な次元により成功した視点から「いかに生きるべきか」という人生の基本的な問いのもとに個々の行為の選択において最善のものを認識しまたいかに犠牲を支払おうとも、その最善な行為を喜んで欲求し遂行するそのような高邁な人間を捉えるであろう。「ロゴスの真理はエルゴンにより信用される」(Nic.Eth.X1)。
神は認知的、人格的に十全であり、「神の信」に基づき正義にして憐れみ深い(Rom.3:3)。神が正義にして憐れみ深いことが御子の受肉と信の従順の生を介して、歴史のなかでしかもわれらの心魂の外に、神の信義および愛として啓示された。それにより、人類に救いが到来した。このわれらの外に救いが固く立っている、それだけで、或るひとにはもう満足であり、おのれにかかずりあう肉の重さ、おのれの救いや有徳性へのこだわりましてや過去の罪からも解放され、ただ外にある救いを喜ぶことであろう。ダビデのような「不敬虔な者を義とする方」(Rom.4:5)はご自身の業の律法のもとでは「働きがなく」罪人と看做される者を福音のもとで信に基づき義とする、つまり古きひとの罪を赦すその出来事をわれらの外で十字架と復活のうえで実現したまうた。モーセの業の律法がイエス・キリストの信の律法により凌駕された。そのわれらの外にある(extra nos)救いの喜びはわれらのうちにおける(in nobis)パトスの発動である。聖霊受領のひとつの証はおのれを離れて隣人を愛しえることにあるとされる(第?条)。確かに肉の重さから解放され、右手で為す良き業を左手に知らせない仕方で遂行されるとき、ひとはそこに神の力能の働きに思いあたるであろう、心のふと軽くなるのを感じ喜びを見出すことであろう。
パウロが「キリスト・イエスにおいて顕された神の愛からわれらを引き離すものはなにもないとわたしは確信する」(Rom.8:36)と福音の勝利を宣言したその直後に、彼は同胞に対し「わたしに大きな憂いそしてわが心に絶えざる痛みがある」と自らの止み難いパトスに言及する。それは彼がかつて共に迫害者であった同胞ユダヤ人に対し、今なおキリストを受け入れない同胞たちに抱くパトスの発動であった。救いなき同胞への憐れみが自然に溢れ、彼は「自らキリストから離され、呪われてあることを祈った」(Rom.9:3)。「わたしに生きることはキリスト、死ぬことも益なり」(Phil.1:21)。自らの外に確立された福音の高貴さ、高価さ代えがたさに彼は自己の救いの追求さえも塵芥と看做す。それほどおのれから解放されていたのであった。彼の良心と信仰は彼のこれらのパトスの底においてわれらの外(extra nos)にある救いの確かさに平安を見出していた。
パウロにおいても「良心」とは神において明らかなことが自分たちにも明らかになるその心の座であった (2Cor.5:10-11、序文冒頭)。「コリント後書」のこの箇所は、良心は神による認識を何らかの仕方で理解することができることを含意する。それは「叡知(ヌース)」に課せられた認知機能である。共知としての良心は親や部族との肉に属する共知から始まって、「内なる人間」(Rom.7:22)に属する神との共知としての叡知の発動にまで至る、肉と内なる人間を媒介する機能を持っている。良心は身体を持つ自然的な存在者の生の原理である肉と内なる人間を媒介する力能のもとにあり、それはどこまでも山上の説教を語り生きたナザレのイエスに方向づけられる。彼こそ神と共にあり、神の意志を最もよく知っておられたからである。
良心がこのようなものであるとき、自らの知的誠実さ、学的良心と信仰のあいだの不一致、ギャップに苦しむ哲学者にパウロから一つの問いが投げかけられ、乗り越えを求められるであろう。「君は神よりも人格なき矛盾律をより一層信じ愛するのか。神こそ一切の創造者として知識の源であり、人格の座である身体の主である」。ひとは知性から成り立つように、身体を備えたものとしてパトスからも成り立っている。認知的な次元での信は「死者の甦りを信じる」という類の目的語を伴うが、信実な神の圧倒的な現臨の前においては目的語や信念内容の表白ではなく、ただ「信じます、信なきわれを憐れみ給へ」(Mac9:24)という端的なひれ伏しが遂行されるであろう(cf.Rom.15:18)。身体を介したパトスが秩序づけられないとき、ひとは理性そのものを身体から切断し崇拝することになる。迫害のさなかにあって、「汝ら主にあって喜べ」(Phil.3:1)と命じるパウロは内なる人間の叡知の発動に基づきパトスも秩序を得るに至ると主張する。神の御心を知るに至るわれらの叡知は、「われらはキリストの叡知を持っている」ことによって、媒介される(1Cor.2:16)。われらの心魂の認知的そして人格的態勢を整えるのは受苦と復活のキリストである。
なぜイエスご自身は文書(書かれたロゴス)を遺されなかったかと言えば、ご自身の今・ここの働き(エルゴン)において隣人との信に基づく義と愛の関係が生起し続けたからであり、言ってみればそこに永遠が宿っていたからである。イエスはご自身の一言一句(ロゴス)、一挙手一投足(エルゴン)に神の国を宿していたため、罪を赦す権威、権能ある方として振舞い、その恩恵に浴した同時代の幸いなひとびとが福音書に報告されている。彼の今・ここの言葉と働きのなかに堅固でいかなる吟味にも耐えうる、壊れないそして聖なるロゴス(理)が宿っていた。そして人類にはそのことが歴史において生起しただけで十分だとして、その憐れみと正義を讃美するそのような生を遂行するひとびとがいる。
パウロはイエスの一挙手一投足にそのロゴス(理)を見出し、「ローマ書」において理論化し「ロゴスによってそしてエルゴンによって」福音を伝達した(Rom.15:18)。パウロは自らの理論を生きたひとである。即ち、「神の形姿」(2Cor.4:4)であるキリストが自らの一挙手一投足に内在し、キリストに似た者とされることに生を捧げた。彼は自ら神により「ご自身の子の形姿に合致した形姿として予め定められた」(Rom.8:29)者であると信じ、福音を宣教しながら自ら失格者とならないために「わたしはわが身体を打ち、身体を拘束する」(1Cor.9:27)ことによって自らの責任ある生においてキリストの御跡に従った。これが彼のロゴスとエルゴンである。
イエスご自身と同時代人ではないわれらは当時の手紙や福音書によりまず言葉(ロゴス)としてその報告を受け取り理解する。「聞くことのなかったその方をいかに彼らは信じるであろうか。しかし、宣教する者なしにいかに彼らは聞くのであろうか。・・かくして、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの語りを介してである」(Rom.10:14-17)。パウロはギリシャ哲学者にとって宇宙の原理的なものごとについての知識を意味する「知恵(sophia)」に対する言及による「知恵の説得的議論」(ロゴス)と聖霊の働きに対する言及による「霊と[神の]力能の論証」(エルゴン)(1Cor.2:4)を判別していた。また彼は「われらは成熟した者たちのあいだでは知恵を語る、・・神の知恵を語る」(1Cor.2:6-7)と言う。「ローマ書」においても、パウロは読者の知性を信じる、「わたしは自ら汝らについて確信している、汝ら自ら善きもので満ち、あらゆる知識を十全に備えており、互いに忠告しあう力ある者たちであると」(Rom.15:14)。そのもとに「ギリシャ語圏の者にも異言語圏の者にも、知恵ある者たちにも愚かな者たちにもわたしは負うべき責めを持つ」(Rom.1:15)として、彼は哲学における知恵による析出を可能にする神学理論(ロゴス)とそれに相補的なものとして聖霊の媒介行為(エルゴン)への言及により福音の宣教を遂行した。
今の時代にあって宗教改革に従事するとはパウロや先人達にならい福音に生命を賭けるということ以外ではない。「われらの宣教は迷いや不純に基づくものでも、また欺きにおけるものでもなく、むしろわれらはまさに神ご自身により認可され福音を信任されている(pisteuthēnai)ほどに、われらは、人々に喜ばれる者としてではなく、われらの心を認可したまう(dokimazonti)神に喜ばれる者として、このように語っている」(1Thes.2:4)。弟子は師に優らず。この運動に従事する者は、もはやわれ生くるにあらず、キリストわがうちにありて生くるなり、生くるはキリスト、死ぬるは益なりのパウロに追随し、われらもひとの顔を恐れず、今・ここに永遠の宿ることを求めてパウロに可能な限り伴走しつつロゴスとエルゴンによって主イエスご自身の御跡に従う。「わたしは道であり、そして真理であり、そして生命である」(John.14:6)。
われらもイエスご自身との同時代人のように恩恵に浴することもあろう。「わたしが汝らに語る言葉(ta rhēmata)はわたしが自ら話すにあらず、父がわがうちに留まりご自身の働き(ta erga)を為したまう。汝らわれを信ぜよ、わたしは父のうちにあり、父はわがうちにあると。そう[言葉の故に]でなければ、働きそのものの故に(dia ta erga auta)信ぜよ。・・わたしは父に請うそして父は汝らにもうひとりの執り成し手を賜わるであろう、それは彼がこの時代に汝らとともにいたまうためである。それは真理の霊である。・・わたしは汝らを残して孤児(みなしご)とはせず、わたしは汝らのもとに来る」(John.14:10-18)。
イエスご自身とは同時代にないこの世代にあっては、聖霊が派遣されわれらのうちに働きたまう。われらこの運動に従事する者は神の前(A)(B)と人の前(C)をその都度媒介しつつ(D)「われらの弱さにおいて共に支えてくださる」ところの「聖霊」(Rom.8:26)、「キリストの霊」(Rom.8:9)の働き(エルゴン)を請い求める((D)は(A)福音と(C)生身の人間を(L)ロゴス上そして(Er)エルゴン上媒介する(Log(D)=(A)+(C), Er(D)=(A)via(C))、ただし媒介記号+はロゴスを、viaはエルゴンを示す)。その聖霊の助けによる宣教のエルゴンとはパウロによれば「わたしは汝らのうちにキリストが形づくられるに至るまで再び産みの苦しみをなす」(Gal.4:19)ことに他ならない。しばしば「霊に燃える」(Rom.12;11)ことがあることであろうが、主の言葉と働きが山上の説教において明示されており相互に支えあうものである限り、それは「柔和の霊」(Gal.6:1,5:22)として働きいかなる種類の熱狂主義とも異なるものとなろう。「わたしは霊によって賛美する、そして叡知によっても賛美する。・・集まりにおいて他の人々をも教えるために、わたしは異言における一万の言葉よりもわが叡知によって五つの言葉を語ることを欲する」(1Cor.14:15,19)。
この改革に従事する者、われらも隣人との今・ここの交わりにおいて神により宇宙の開闢以前に「ご自身の子の形姿に合致した形姿として予め定められた」(Rom.8:29)者として、キリストと共なる生が人間にとって本来的であることを理論的に伝え、そしてそれを今・ここで生きる。神に嘉みされる心魂の根源に生起する「信にもとづかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:22)そして「愛を媒介にして実働している信が力強い」(Gal.5:6)からには、新しい宗教改革者の実践にとっては信に基づき具体的に愛の道を歩むことだけが残されている。愛が「霊の果実」(Gal.5:22)、「義の果実」(phil.1:11)であるからには、「愛は決して失敗しない」(1Cor.13:8)。「愛には恐れがない。まったき愛は恐れを取り除く」(1John.4:18)。信に基づき愛への道を歩む限りにおいて「イエス・キリストにある生命の霊」(Rom.8:2)が共にいたまうことであろう。
その都度の隣人が敵であったとしてもキリストを介して我と汝の等しさが即ち友と友が希望のことがらとして生起するとき、共にあることの喜びがあるからである。敵とは「キリストがその者のために死んだそのかの者」のひとりである(Rom.14:15)。「新しい被造物」となった「われらは今やもはや誰をも肉に即して知るまい」(2Cor.5:16-17)。肉に即して自ら行為を選択するところ、そこに聖霊は支えたまわない。「霊は熱するが、肉は弱い」(Mat.26:41)と言われるように、たとえ肉の弱さの故に聖霊による心魂の刷新に程度があるにしても、その生が信に基づき神と隣人への愛に方向づけられている限り、そのトラック上にある限りこの運動は成功であると言える。柔和な者、憐み深い者そしてその霊によって貧しく、この世の何ものによっても満たされず神の正義を渇き求めそして平和を造らずにはいられない心の清らかな者たちが生み出されるならこの運動は成功である。たとえ自らのそして隣人の罪の故に傷つき倒れても、再び十字架を仰いでキリストのもとに立ち返る。みなもとの信即ち信のみなもとは揺るがない。この実践を支えるものとして基本的な提題を77箇条提示する。
(主題ごとに各条項の提題を記し、その基礎になる当該の主な聖書テクストを示す。「・・」はテクストからの引用である。旧約聖書の引用はパウロが非ユダヤ人への福音宣教に用いた七十人訳に基づく。煩瑣や誤解を避けるべく事実の主張は端的な表現とし尊敬語は最小限に留める。各条項の最後に引用箇所を引用順に提示する)。
春の講義宗教改革(3)―福音による一切の秩序付け―
宗教改革「みなもとの信&信のみなもと」―極東発 Wittenberg & Rome経由、福音への帰還―
A Religious Reformation ‘The Faithfulness of Source & the Source of Faithfulness’―Back to the Gospel, departing Far East via Wittenberg & Rome―.
モットー「みなもとの信と信のみなもと:イエス・キリスト或いは神の知恵と信」
Motto. ‘fides fontis et fons fidei : Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei’
77か条の提題
目次
序言
1. 福音への帰還―イエスの言葉と働きによる道徳的次元の内破と再生―
1.1山上の説教における道徳、自然そして天の父
1.2 古い革袋を破る新しい生命の福音
2.山上の説教の神学的展開―信に基づく正義と憐みの成就―
2:1 イエスとパウロ―神による甦らし「へ」の道と「から」の宣教―
2:2 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性
2:3 人類をその罪と苦難から救済に導く福音
3.21世紀の宗教改革の核心―「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学―
3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
3:2.新しい宗教改革に至る唯一の道―ロゴスとエルゴンの総合―
77か条の提題
2:3人類をその罪と苦難から救済に導く福音
パウロの神学はナザレのイエスによりその生命と今・ここの躍動感を得ている。イエスはひとの肉の弱さに衷心からの「憐み(splangchnon=はらわた)」を示し、柔和であり謙遜であった。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」(Mat.9:36,cf.Mac.1:41)。彼は彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙遜が伝わる。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂く以外に、ひとは不公正や侮辱そして迫害に耐え、呪う者を祝福し「平和を造る者」にはなりえない(Gal.6:1,Mat.5:9)。
イエスはパリサイ人が眼差しを神の国に向けない偽りを見出し言う。「ああ、なんということだ、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、内側は強奪と情欲で満ちているが、杯や皿の外側を清めている。盲目のパリサイ人たち、まず杯の内側を清めよ、それはその外側も清まるためである」(Mat.23.23-25)。所謂色金名誉をつまり「肉の欲」を心魂の根底に置くとき、もはや眼差しは曇り肉に閉ざされてしまう。これらのパリサイ人攻撃は裁きではない。イエスは言う、「裁くな、裁かれないためである。汝がそこにおいて裁くその裁きにより汝らは裁かれるだろうからである」(7:1-2)。パウロも言う、「すべて裁いている汝、ひとよ、汝には弁解の余地がない。なぜなら、汝は他人を裁くそのことがらにおいて、汝自身を罪に定めているからである。というのも、汝裁く者は同じことを行っているからである」。隣人にまた自己に対し自らの心魂の根底を問うことなく、これXをするかXしないかにより烙印をおすことは業の律法に即したものである。「同じこと」とは双方とも業の律法のもとに生きているということである。業の律法のもとにある肉は誰も義とされないのであり、自ら罪に定めている(第6?、27?条)。イエスは信の律法のもとに神の国を持ち運ぶ、即ち愛をその都度成就しているそのなかで、自ら気づいていないパリサイ人の「目にはいったおが屑」(Mat.7:5)を取ろうとしたのであり、業の律法のもとでの裁きではない。自らの偽りに気づいていないパリサイ人を救おうとするその愛の成就は十字架に極まる。パウロは言う、「キリストはわれらがまだ罪びとであるときわれらの代わりに死んだ、そのことにより神はご自身の愛をわれらに結び付けたのである。かくして、今や、われらは彼の血において義とされたのであるから、さらにいっそう彼を介して怒りから救われるであろう。なぜなら、もし、われらは、われらが敵であったときに、神と、ご自身の御子の死を介して、和解させられたのであるなら、さらにいっそう、われらは、和解させられた者として、彼の生命において救われるであろう」(Rom.5:8-10)。
人間社会が自律したものとして自らを司法や行政、経済等制度化、律法化のもとに位置付け、さらに科学技術を促進させることは人間の知性の証であることであろう。医療や技術の進展にこそ例えば疫病の克服の光明が見られ、また教育を受ける機会が得られる。しかし、これらが神に頼らずにすむシステムの構築として肉を厚くするとき、二心、三つ心の偽りに陥る危険にさらされている。これらの営みは、最も良きものによる秩序づけなしには、自らの正当化の動機付けのなかで自ら理解する公平さ、技術革新、効率性の名のもとにある隠れた欲望、有利性を拡大するシステムの作成に向かう傾向性にあり、その結果心魂を罪に引き渡し、神への眼差しをそして隣人への愛を忘れてしまう。
パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(6:19)と肉の弱さへの譲歩のもとに「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもある中立的な存在者として人間を位置づけることがある。ひとは相対的自律性を認められているが、いつのまにか、神からの働きかけ、愛を忘れてしまい、神に帰属する端的な自律性を主張するに至る。それが罪である。蛇は誘った、「汝らは神の如くなるであろう」(Gen.2:5)。ひとはナザレのイエスを知れば知るほど、自らが天の父への信頼に生き抜いた彼のようでありえないことを知り、それを「罪」と理解し、そこからの解放を求める。換言すれば、受肉したイエスに繋がらない限り、神は単なる超越者となり抽象者となり、ひとは糸の切れた凧のようになるであろう。
さらに、黙々とわれらに資源を与え続けるmother earthの自然の恵みについても人類は彼女と、今、正しい関係にあるかが問われている。母なる地球が言葉を話さないことをいいことに、ひとは紙に或いは電子的に数字を書き労働の対価として自らのあいだでは正義であると看做し、彼女から資源を受け取ることだけに固執している。人間の間で正義であればそれが許され、何万年も自らのサイズ相当の消費以上にでないカエルにはそれが許されないのは双方の知性の差異によるのか。何からもの許可など要せず、ただ欲望が欲しい侭に自然環境を汲み尽くしているのか。金銭はひとの生がそこにおいて遂行されるこの惑星にたいするあらゆる行動を正当化するかの問いが自然災害という形で投げ返されている。気候変動や風土病の拡大にその兆候が見られるのではないだろうか。環境税等により挽回を試みているが、神に対してはもとより、自然に対しても畏敬の念のもとに仰ぎ見ることは稀である。「もろもろの天は神の栄光を顕し、大空はその御手のわざを示す」(Ps.19:1)。創造主に栄光を帰すこの信によって創造の秩序のもとにある人間と他の生物と地球の正しい関係が築かれることであろう。
この21世紀のパンデミックCovid-19は、聖書的にはこの惑星に住む人類共通の問題というものが実際にあり、ひとりの不注意や身勝手が隣人を苦しみや死に追いやるそのような運命共同体にわれらがあること、人類全体で協力して対処すべき問題が人類史的な状況のなかで生起していることを教えている。パウロは「被造物全体が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにある・・われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ呻いている」と言う(Rom.8:22-23)。このグローバルな出来事は運命共同体としての人類が全体として救いを求めているという創造と救済の聖書的な人間認識を含意している。疫病、飢饉、貧困は世界を不安定なものとし自国第一主義の風潮のなかで国際関係の緊張や戦争にいたることであろう。イエスは「不法があまねくはびこるので、多くの者の愛が冷える」(Mat.24:12)その状況とともに預言する、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、様々な場所で大きな地震と飢饉と疫病が起こるであろう。恐るべきことと天からの大きな予兆が起こるであろう」(Luk.21:10-11)。「そのとき大きな苦難が起きるであろう、それは世界の始まりから今まで起きなかったそしてもう起きないであろうそのようなものだ」(Mat.24:21)。この終末預言の警告のなかでイエスは人類を贖い、救い出すべく十字架に至るまで信の従順を貫いた。
銀河のさらには宇宙全体のいつの日かの崩壊は人類の知性により或る程度予想されているものであるが、イエスのこれらの預言により単に人類の帰趨だけではなく、自然事象さえも、神による宇宙の創造から救済そして新天新地の創造にいたる神の歴史の中に位置付けるかが問われている。そのスケールを人類は考慮にいれることができるのか。肉の欲につけこみ誘い、ひととひととの関係を裂くものは擬人化される「罪」と呼ばれるが、その罪に同意する仕方で「自らの腹に仕え」、自らの腹を神とし「地上のものごとを思慮」する者には「罪が巣食う」(Rom. 7:7-25,16:18,Phil.3:19)。そしてものがよく見えないものとされ、ヴィジョンを失ってしまい目先のことに捉われてしまう。それ故にこそ、心魂の刷新により常に目覚めていることが求められる(cf.Mat.7:5,23:13-26,24:25-44,)。
イエスは宇宙を支配する数式による物理法則をもご存知であったでもあろうが、各人の心魂の内奥に位置する神との共知の宿る良心からわれと汝の人格的な関係の正しさと豊かさを知らしめ、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」により一切の秩序づけを人格的に遂行された。一旦偽りとして破られた道徳的次元の再生において、愛に収斂し純化されるモーセ律法は神の国の信と希望のもとに、秩序づけられる。制度化や科学技術が許容されるのは神の国に秩序づけられる限りにおいてのことである。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。神とひとの媒介者となったナザレのイエスそのひとのもとに常に立ち返ることにより、神の国はアクセス可能なものとなり秩序を見出すことができる。
パウロも「一つのこと」即ち福音の出来事との関連においてすべてのものごとが秩序づけられ、それにより同じ愛のもと「同じことを思慮する」に至るとして喜びを語る。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮する[に至る]ためである」(Phil.2:1)。喜びを満たせとは共に喜ぶことによって、喜びを溢れさせようという促しである。肯定的なもの創造的なものへの根源的な信なしにはひとは個人において、社会や世界において秩序を見出すことはできないであろう。デヴィッド・ヒュームが『人間知性の探求』において「賢者は彼の信念を証拠に対して比例させる」(p.87)と言うとき、矛盾律に基づくロゴスの力能への顧慮による経験的な働き(エルゴン)との関係づけを欠き、感覚を基本的な認識の源泉にする経験主義はその限界故に経験的エヴィデンスの蓄積以上の信を語りえず、不可視なものへの信に基づく突破力をもたないであろう。世界はもっと確かであり豊かなのである。
宇宙の創造者にして時空の外で一切を統帥する神、その御子はご自身の栄光を捨てひととなり肉の弱さをご自身担われた。ご自身は神の子であることの信のもとに天父の御意に沿うべく、歯を食いしばって「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていよ」と弟子に訴えながら、十字架の死に至るまで従順の信を貫いた(Mat.26:38)。この生身の苦悩が超越性と此岸性のあいだの観念の極性化、断絶を論駁する。信仰の観念化、思弁を乗り越えさせる。彼は自らの肉において神の国を担った。「神の国は汝らのただなかにあり」、「二人または三人、わが名において集まっているところに、わたしは彼らのまんなかにいる」(Luk.17:21,Mat.18:20)。イエスを介して人格的な神に出会う。イエスと共に担ぎ歩く良き軽い軛とは彼が人類のために切り開いた信である。彼はひとの子として信に基づき義とされる神の意志を完遂し、続く者に信の道を伝えた。この比量不能な恩恵即ち御子における信に基づく神の義の啓示において、ひとはこの世の煩いから解放され、良心の宥め、平安、柔和を得る。端的な比較を超える善が人類に与えられたからである。
相対的、比量的なモーセ律法を乗り越える、より根源的な信に基づく神の正義・義はそこでのみ憐れみと両立した御子の従順の生を介して知らされた。滅びに至る門は広く、「狭い門」から入るべく、大地を固める「地の塩」として人間社会を黙々と堅固に下支えし、また自らの全身を輝かせ、「世の光」として「善き働き(ta kala erga)」のもとに先導する。「山の上に立つ街は隠れることはできない」(5:13-16,7:13)。そのなかで「右手で為す善行を左手に知らせない」歩みは一切を正確に知り、正義かつ憐れみ深い神の前での正しい判断を仰ぐことになる(6:3)。ひとは十字架の義を着て神の前に立つことができるだけである。受肉と信の従順の生により実現した恩恵の無償性に基づく福音のみが「わたしが律法を廃棄するべく来たと汝ら看做すな・・成就するべく来た」(5:17)を実現させる。福音において人類の罪と苦難の歴史のなかで救済に与る唯一の道が示された。
3「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学:21世紀の宗教改革「みなもとの信」の核心
3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
使徒パウロはナザレのイエスの生涯が打ち立てた信に基づく義とその義に基づく業の律法の成就を「ローマ書」において、能う限りの明晰性をもって、言語と心魂そしてものごと(その理およびその働き)という三者の関わりとして哲学的に分析することを許容する仕方で神学的に論じた。神の前と人の前の理論上の分離に基づき、パウロは「わたしは汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)とし、神の前を括弧に入れたひとの相対的自律性を譲歩として認め、単に心情倫理と責任倫理の区別、さらには制度化の許容ということではなく、神の前と人の前の創造から救済にいたる総合的秩序づけを企てている。神の子にしてひとの子の啓示に基づき、先に見た肉の弱さの考慮のもとでの責任倫理をもカヴァーしながらも、「一つのこと[イエス・キリストの出来事]を思慮する」(Phil.2:1-2)集中のもとに人間と世界を包摂する。山上の説教は相対的自律性の許容により希釈されたのではなく、道徳次元を内側から突破するヴィジョンのもとに他の一切を秩序づけつつ語るイエスそのひとにより生き抜かれたのである。彼ご自身は肉の弱さをその都度克服されたのである。信の律法に基づく業の律法の秩序づけはパウロにより神の二つの意志の啓示として報告され、人の前の相対的自律性を「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の啓示の出来事に秩序づけている。
このたび、人類による二千年の探究の蓄積のもとに信の哲学の研究を通じて、パウロによるキリストの受肉と受難と復活および来るべき再臨による人類救済の議論が神の選びの教説とともに無矛盾であることが明らかとなった。今日までのパウロの神学をめぐる論争は、彼の神学理論の中心的な主張を形成する「ローマ書」3章21節から31節のとりわけ22節(ū gar estin diastolē)のヒエロニムスによるVulgata版(二世紀以降の古ラテン語訳の四世紀後半における彼自身の言葉では「編集」)の訳に起因するものであることが明らかとなった(第12、17条)。そこでパウロは神の前のことがらを報告しており、その報告の内容は神ご自身がご自身の義の啓示の媒介としてイエス・キリストに帰属した信を用いられたこと、そしてその信とご自身の義の知らしめにおいて分離がないこと、即ちその信義の分離のなさにおいてご自身にとって根源的な義が信に基づくものであることを明らかにしておられることである。パウロは明確に神ご自身の認識をそれ自身として報告するとともに、そのわれらの外の啓示と人の前すなわちわれらのうちの信との関係の総合的な理解を展開したのであった。従来神の前と人の前の分節と総合が不明瞭であったために多くの混乱が生じたと思われる。
カトリック教会とプロテスタント教会相互のまたそれぞれ内部における二千年にわたる論争に思いをはせるとき、真剣で誠実なひとびとがそのテクストをめぐって長く争わざるをえなかった事実は、そのもとのテクストの最初の基礎的な翻訳に何らか誤解を生じさせるものが含まれていたと理解するよう促す。原語diastolē(最大希英辞書LSJではdrawing asunder (「双方に引いて分ける」)やseparationがdistinctionより前に挙げられる)の当該箇所のVulgata訳は non enim est distinctio「なぜなら区別がないからである」である。しかし、それ以降調査の限りすべての翻訳において、これがその理由文であるところの前文「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている」における「信じる者すべて」のあいだに「区別」や「差異」はないと理解されてきた。神の義が啓示されたことの理由が信じる者たちの心的態勢に例えば聖フランシスとヒトラーの信仰に区別や差異がないということはいかにも不可思議である。人類への愛の故に啓示されるというのであれば、より分かるが5章まで愛の議論は封印されており、信ひとすじで突破が図られている。実はひとの心的状態としての信仰に区別や差異がないということではなく、「神の義」とその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」のあいだに神の前のことがらとして「分離(separatio)はない」と訳されねばならなかったのである。神ご自身にとって信義はモーセの業の律法に基づく義より一層根源的であることを示している。業の律法に即して「すべての者が罪を犯した」と否定的に認識されているのであり、神の信義の啓示という肯定的なものごとは「イエス・キリストの信」を介してなされ、神の義とその信のあいだに分離がないからこそ、「業の律法を離れて」しかもより根底的な神の義として啓示されたのである。これが明示されていれば、今日までのこれほどの混乱はなかったことであろう。3章21節から31節の正しい翻訳は以下のもののようになると思われる。
「[21]しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、神の義は(f1)イエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。
[27]それでは、どこに誇りはあるか、閉めだされた。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。かくして、われらは人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:21-31、第12、27条)。
この福音は「[業の]律法を離れて」(Rom.3:21)つまり神の義はモーセ律法とは分離されうるものであり、しかも「信の律法」(3:27)とは分離なきものとして啓示されたために、神ご自身にとって福音即ち信の律法のほうが業の律法よりご自身の義との関連においてより根源的である。神においてそうであるなら、ひとにとっても神ご自身が信義であることが啓示されたとき、信によって応答することのほうが、「汝~すべからず」、「汝~すべし」の命令のもとでの業の遂行よりも心魂の態勢、行為として根源的であることが含意される。
この誤訳が正されるとき、神の前と人の前の分節と媒介が明確となりまた神の二つの意志「業の律法」と「信の律法」の分節と媒介がさらには「信にもとづく義」と「その義の果実」の分節と媒介が明確になる。もちろんその媒介者はイエス・キリストである。その分節と媒介そして関係づけの故に、これまでの多くの論争に解決が与えられると思われる。そこでは無償の憐みと正義の両立が解明され、例えば福音と律法、信仰と愛、恩恵と自由、選びの教説と各自の責任ある自由の関係をめぐる論争について決着がつけられ提題で明らかにしていく。また贖罪論をめぐり父と御子の協働説か業の律法の枠のなかでの父と御子は審判者と被審判者の関係にある代罰説かの論争についても終止符を打つことができる。新しい葡萄酒を新しい革袋にいれる、そのような旧約から新約への展開を確認することができる。この解明はカトリック教会とプロテスタント教会双方がそれぞれ真理契機を担っているものとして、双方にそれぞれの特徴に応じて固有の場を提示し相互の和解をもたらし、ひとの心魂の再生と人類の平和の基盤になると信じる。(この節は次回に続く)。
枡形山春の聖書講義―宗教改革(2)山上の説教の神学的展開――
宗教改革「みなもとの信&信のみなもと」―極東発 Wittenberg & Rome経由、福音への帰還―
A Religious Reformation‘The Faithfulness of Source & the Source of Faithfulness’―Back to the Gospel, departing Far East via Wittenberg & Rome―.
モットー「みなもとの信と信のみなもと:イエス・キリスト或いは神の知恵と信」
Motto. ‘fides fontis et fons fidei : Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei’
千葉 惠
77か条の提題
77Theses (With English preface and table of contents)
目次
序言
1. 福音への帰還―イエスの言葉と働きによる道徳的次元の内破と再生―
1.1山上の説教における道徳、自然そして天の父
1.2 古い革袋を破る新しい生命の福音
2.山上の説教の神学的展開―信に基づく正義と憐みの成就―
2:1 イエスとパウロ―神による甦らし「へ」の道と「から」の宣教―
2:2 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性
2:3人類をその罪と苦難から救済に導く福音
3.21世紀の宗教改革の核心―「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学―
3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
3:2.新しい宗教改革に至る唯一の道―ロゴスとエルゴンの総合―
「宗教改革「信のみなもと&みなもとの信」―極東発Wittenberg & Rome経由、福音への帰還」第二回目です。77箇条の提題を示しますが、今は序言を何回かにわけて朗読しています。その第二節途中までです。
2 山上の説教の神学的展開―信に基づく正義と憐みの成就―
2021年2月21日
2:1 イエスとパウロ―神による甦らし「へ」の道と「から」の宣教―
ここではナザレのイエスの生涯がパウロによりいかに神学的に理解されているかを確認したい。福音書とパウロの書簡の対話を遂行する。最初に二人の置かれた状況の相違を確認する。イエスの信仰の招きが業のモーセ律法の遵守の要求のただなかで遂行されたのに対し、パウロは神の力能の働きである他に例を見ないイエスの十字架の処刑死とその三日後の甦りの出来事から彼の一切の神学的思考を展開している。彼はイエスの甦りが人類に何をもたらしたのかを受け止め、そこから信に基づく義とその義の果実としての愛が生まれるその神学理論を展開した。
パウロは、神によるアブラハムへの約束に対する信実が歴史上御子の受肉と受難と復活において証された、その「神の信」(Rom.3:3)を基礎に彼の神学を展開する。信は人間にとっては賢者に至る知識をめぐる認知的要素と聖者に至る有徳をめぐる人格的要素の成長への基盤となるが、神は認知的、人格的に十全である。パウロは、神によるご自身の約束への信実がナザレのイエスにおいて成就されたと主張する。その約束に対し神は信実であり、神が正しい方であったこと、即ち「神の義」は「イエス・キリストの信」を媒介にして人類に明らかなものとされた。パウロはこれをひとつの神の意志として受け止め「信の律法」と呼んだ。それはモーセを介して知らしめられたもう一つの神の意志をパウロは「業の律法」と呼んだが、彼はこれら二つの神の意志を信に基づく義と義の果実としての愛として秩序づけた。
常に心に留めるべきことは、山上の説教はナザレのイエスそのひとが今・ここにおいて純化された究極の律法を語りつつ、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」と信仰に招くことにより、その内面化された愛に収斂される律法成就の道を示したことである。イエスご自身は神の愛の先行性を自ら生き抜きご自身がその道となったがゆえに、パウロは神の愛の先行性に基づき愛の相互性を秩序づけることができた。まず、神との正しい関係が確立されることなしには、人間の一切の営みは秩序を得ることはないという明確なメッセージをナザレのイエスは発信した。しかも、彼はユダヤ人の伝統に留まりつつ、旧約の律法を内側から破ることによって、新しい生命に満ち溢れる信仰に招く福音を展開した。福音と律法を静的な関係において捉えてはならない。イエスはガリラヤの野辺を歩きながらリアルタイムに神の意志を実現しつつあったのである。もし彼が公生涯の終わりに十字架から下りてきたしまったなら、神のみ旨は実現されてはいないと看做され、福音の啓示の媒介者として用いられることはなかった、そのような緊張のなかで、肉の弱さを抱えたイエスご自身により一言一句、一挙手一投足が遂行されていたのである。われらはそこに同じ人間として山上の説教を成就しうる可能性と力能を見出す。そして人類の誰かにより山上の説教が語られた事実に、われらは人類に絶望することはない。ましてや彼はそれを信の従順により完遂した方である。
パウロそして福音書記者たちも十字架と復活と昇天ののちにナザレのイエスが何者であったかをめぐり信に基づく義と選びの神学さらにはその伝記を書き残したのであった。パウロは歴史の展開のなかで信の従順を死に至るまで貫き、父なる神の専決行為による甦らしが生起したことのゆえに、福音の成就した視点から「この方はわれらの背きの故に引き渡されたそしてわれらの義化故に甦らされた」(Rom.4:25)と語ることができた。御子の十字架と復活は神の前で即ち神ご自身の理解として、歴史のなかで身代わりの死によるわれらの罪から信仰による義化への移行の成就として知らしめられた。「イエス・キリストの信」を介した「神の義」の啓示は「信の律法」としてわれらに業のモーセ律法からの解放と、信に基づく義による業の律法の新たな秩序づけとして位置づけることができた。
十字架と復活は人類の歴史において「一度限り」(Rom.6:10,cf.1Cor.15:6)のことであり、他の誰かによって再現されるものではない。さもなければ、父なる神は御子の信の従順を贖いに不十分なるものと看做し、御子を裏切ることになる。再現性のないものについては科学的知識の対象とはなりえず、ひとは御子の復活については信仰により突破するしかない。「キリストが信じるすべての者にとって義に至る律法の目指すものである。というのも、モーセは律法に基づく義をこう記しているからである、「それらを為した者はそれらによって生きるであろう」、だが、信に基づく義はこう言うからである、「汝は汝の心のなかで、「誰が[義を求めて遥か]天に昇るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを引き降ろすことである、あるいは「誰が[義を求めて遥か]黄泉に降るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを死者たちのなかから引き上げることである。しかし、彼[モーセ]は何と言っているか、「言葉は汝の近くにある、汝の口のなかにそして汝の心のなかにある」、これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である。すなわち、もし汝が汝の口において主イエスを告白し、そして汝の心のうちに神が彼を死者たちから甦らせたと信じるなら、汝は救われるであろう。というのも、主イエスが心によって信じられるのは義のためであり、口で告白されるのは救いのためだからである」(Rom.10:5-10)。
心の中での信仰を固く保持するためには公にそれを告白し社会の認知の中での自覚を必要としている。それほど復活は信仰による乗り越えと公的な表明を必要とするそのような理解に困難を伴うものであり、しかもその告白は信じることできるというそのことの喜びを与えるものだからである。種蒔きの譬えはイエスの宣教を介して神のみ言葉、み心が聴衆の心に蒔かれそれを受け止めた信仰の実りについてのものである。「イエスは彼らを多くの譬えで教えた、そしてご自身の教えのなかでこう言われた。「聞け、そして見よ。種を蒔く者が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞け」と言われた」(Mac.4:2-10)。
この譬えにおいてみ言葉の蒔き手はイエスご自身であり、受け止める心、拒否する心等われらの様々な心の環境のもとにみ言葉が蒔かれる。これは人生にも適用される。誰も自らの親を選べない、そこに自らの生が奪われ、焼け枯れる運命の過酷さを見るひともいよう。同時にそこに「誰も~ない」という人生の或る意味での平等さと醍醐味がある。自らに生が与えられたことを厳しい与件に思えても、肉の親の背後にいたまう蒔き手を信じ、自らを「良い土地」であると受け止めることなしには三十倍、五十倍に実らすことはできず、蒔き手に対する信頼が不可欠となる。荒地に蒔かれ悲惨にしか思えない与件であるにしても、聞く耳を持ち神に与えられた良い土地であると信じるとき、開墾が始まり、自らの与件から推定されるものの百倍の実りをもたらすこともあろう。豊かな実りとは八福を語られるイエスご自身にとって「天の父の子となる」こと以外ではないであろう。
パウロはとりわけ「ローマ書」においてまた「ガラテア書」において正しい信仰とはいかなるものかの議論を展開する。永遠の生命の保証として主の復活はわれらの信仰を引き起こしそして信に基づく義を保証するものである。パウロは主の復活という神の歴史への介入から十字架とその生涯を捉えなおしたのである。神が愛である限り、この人生は良き土地となる、復活の主が共にいたまうからである。「主はわたしの運命を支える方。測り縄はわたしに向けて佳き地に落ちた、わたしは良き嗣業(ゆずり)を得た」(Ps.16:5-6)。
なお、当のイエスご自身も苦闘のただなかにあったことを忘れてはならない。山上の説教が生命を懸けて生き抜かれたことによって、われらはひととして想定しうる最も偽りのない在り方が福音に包摂される。新しい生命が福音という新しい革袋に入れられた。その喜びの福音はパウロにおいて聖霊によりもたらされる「信じること」が喜びとなり信に基づき救いだす「神の力能」(Rom.1:16)の働きであると特徴づけられる。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、汝らが信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。「ユダヤ人にもギリシャ人にも呼び出された者たち自身にとっては、キリストは神の力能でありまた知恵である」(1Cor.1:22)。信じうることの喜びと公的な信仰告白は自らが神に呼び出された者であることを証する光栄ある心の働きである。
主イエスの甦らしを遂行したまう神の力能によって古い業の律法も新しい信の律法の光のもとに照らし直され新しくなり、業のモーセ律法は何等か新しい酒に変換させられる。それは少なくとも人類にひとりは福音の光のもとに山上の律法を成就した方がいるからであり、それゆえに神はナザレのイエスをご自身の御心に適う者として嘉みし、ご自身の信に基づく義の啓示の媒介として用いられたからである。かくして、業に基づく義とは異なる信に基づく義が、業の律法の冠である愛を実現させるその力能が人類に付与されるに至った。モーセ律法は信の律法に秩序づけられた。信の力能こそ彼の十字架と復活において明らかにされたのである。「「できるものなら」と言うのか、信じる者にはあらゆることができる」(Mac.9:23)。あらゆることは当然愛の業に収斂される。それ故にこそ、われらは山上の説教をそれにより満たしうるのではないかとの希望を抱く。パウロはそれを理論化した。
2:2 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性
モーセ律法とは十戒に基づくものであり、パウロにより「業の律法」(Rom.3:20,27)ないし「モーセ律法」(1Cor.9:9)と呼ばれる。業の律法のもとでは偶像を拝むか・拝まないか、盗むか・盗まないか、貪るか・貪らないか等の二つの対立選択肢のうち一方により義か罪が定まる。パウロにおいては福音が啓示された今、業の律法の役割は「罪が明らかになるためである」(Rom.7:13)と位置付けることができた。信を業の律法のもとで遂行するとは自らを行為の選択の規準として立て、信じるかそれとも「信じないか」によって神に義とされるか否かが定まるという考えである。これは信じるかそれとも「裏切るか」とは同じことではない。「信じない」ことと「裏切る」ことは同じではない。それだけではなくそのように信を業の律法のもとに捉えることは自らの罪が明らかになるだけである。「裏切る」は信仰が一つの業の律法のもとで理解されるさいの対義語「信じない」の二者択一とは異なる(Mat.26:21)。新約における「信の律法」(Rom.3:27)と呼ばれるものは、神がイエス・キリストにおいて約束に信実であり、「神の信」(3:3)を明らかにしたとき、信じるか裏切るかの二者択一を提示している。ひとに対する神の信義がそこでは前提されている。
神の意志としての信の律法と業の律法が判別され、自らがいずれの律法のもとに生きるか明確に自覚しないとき、自らの救いを求め信じることは自己追求、エゴイズムではないか等の懐疑が生起する。信に対するこの種の懐疑や反論は「貪るな」という業の律法のもとに信を従属させることから生じる。信がそのような自己吟味、自己批判のもとにさらされるとき、ひとは知的、人格的誠実の装いのもとに神の前にでないでよいというアリバイを作り、神を避ける自己防衛に走る。「汝ら惑わされるな。神は侮られるような方ではない。ひとは[種を]蒔く場合に、その蒔くところのものを刈り取ることになろう」(Gal.6:7)。「生きています神の御手に落ちることは恐ろしいことである」(Heb.10:31)。信の律法においては神が御子において自らの愛を差し出している。神が提示する戒めに自らの業により応答するかそれとも応答しないか、それとも神が自らの約束に信実であったときその神の信に対し信により応答するかそれとも裏切るのかのいずれかが問われ、旧約と新約いずれの律法を根源として生きるかが問われている、もちろん旧約聖書においてもアブラハムやダビデにおける信義の先駆的事例は見られる。
新しい契約の歩みの中で、ひとはイエスにより業の執行においてパリサイ人に優ることが求められていた。「学者とパリサイ派の者たちはモーセの座についたのである。かくして、彼らが汝らに語るならそれらのことをすべて汝らは行いそして心に留めよ、しかし彼らの業に見習ってはならない」(Mat.23:2)。山上の律法はイエスの福音に秩序づけられるが、それは正義と愛・憐みが彼の一挙手一投足において実現されている限りにおいてである。信に基づく正義と信に基づく愛を実働している死に至るまでのその信の従順こそが福音の成就であった。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。ナザレのイエスの信に基づく言葉と働きが成し遂げた復活において証される正義と愛に基づき、神とひとの和解を理論的に解明することがパウロの課題であった。
「汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう」(Mat.5:18)。天地が過ぎ去るまで律法の一点一画とも過ぎ去らない、廃らないとは、イエスは「愛」が一切の律法のなかで「偉大な戒め」であると理解しており、そのもとに他の一切の戒めを秩序づけられる限り、理解可能となる(Mat.22:36,cf.「律法の冠」、「律法の充足」Rom.13:9,10)。愛が満たされる限り、業の律法としての正義は満たされており、あらゆる律法がめざす愛を実現する限りにおいて一点一画とも過ぎ去らないと言うことができる。人類のなかで少なくともイエスは信に基づき愛と正義を貫いた。この意味において山上の説教は希釈されることはない。イエスは誰にも担いえない心の規範を与え、道徳的苦悩を課す方ではない。そして彼は復活の主として共に重荷を担い歩みたまう。
ひとは誰もがキリストによって二千年前に憐みをかけられている。神へのアクセスはイエスの愛を介するものとなるとき、超越と内在、彼岸と此岸は媒介され、信仰の抽象性、観念性、思弁性が乗り越えられる。憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、「良心・共知」の発動が、「道徳的運」と呼ばれる、ひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛情を注がれ、愛されることを経験し自覚することなしには、また相手方の状況についての知識なしには、発動しないそのような受動の経験と自覚を伴うものである。或るひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証はどれだけ愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。
パウロも言う、「知識は高ぶり、愛は[徳を]建てる。誰かもし何かを知っていると思うなら、その者はまだ知るべきその仕方で知ってはいない。誰かもし神を愛するなら、その者はご自身により知られてしまっている」(1Cor.8:3)。高ぶりのなかで何かを知っていると主張するとき、愛されていることを知ることはできず、知るその仕方は少なくとも神の愛を前提にした愛の相互性に基づかない。「われらは知っている、神を愛する者たちには、彼らは計画に即して召された者たちであって、あらゆるものごとが善きことへと協働することを」(Rom.8:28)。ひとは神の計画のもとに神により知られ、愛されることによって愛するのであって、その愛を自覚せず、求めない者には善へと協働する愛は生起しない。まず神に今・ここで愛されていることの信が不可欠であることは神の愛の先行性が隣人愛の相互性を保証することを含意している(cf.1John.4:7-8)。
ひとはとりわけ自らの偏った認識により高ぶり、自らの与件を忘れ、恩義や憐みへの感謝をすぐ忘れてしまうからこそ、「七度の七十倍赦すこと」(Mat.18:22)がイエスにより求められる。彼はその理由をたとえ話で伝える。或る王が家来を憐れに思って、その負債を赦したが、その家来が自らに負債ある者を赦さず、牢に入れた。王はこの態度に怒って言う。「悪い僕だ、・・わたしが君を憐れんだように、君も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(18:32)。われらは皆キリストにあって既に七度の七十倍は赦されている。
それほどまでに、ひとは自らへの他者からの恩義を負担に感じ、一人で成し遂げたかの如くに思いこむ。「誰が汝をより優れた者としたのか、汝は受け取らなかったものを何か持っているのか。もし汝が受け取ったなら、何故受け取らなかったかのごとく誇るのか」(1Cor.4:7)。パウロはただ十字架を誇る。「われらの主キリスト・イエス、その彼を介して世界はわたしに磔られ、わたしもまた世界に磔られた、その十字架以外にわたしに誇ることが生じることは断じてあってはならない」(Gal.6:14)。このキリストの受苦(パテーマ)がわれらのパトス(受動)を造り変えていく。受動の強さが能動の高さを生み出していく。「愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず・・誇らず、高ぶらず、礼を失せず、自らの利益を求めず、いらだたず、恨まない」(1Cor.13:4-5)。愛のうちにあるものは否定的なパトスに引きずられることはない。愛は「誰に対しても悪に対して悪をかえさず」(Rom.12:17)、「互いに兄弟愛において慈しみ、相互に尊敬において導き手とする」(Rom.12:10)。愛は支配からも被支配からも操作や差別からも唯一自由な所で心に生起する神の子同士のわれと汝の等しさであった。右の頬を打たれたら左の頬を向けつつ、いつの日にか敵が友となる希望によりシーソーのアンバランスは現に平行を得ている。
枡形山春の聖書講義―21世紀の宗教改革(1)―
登戸学寮は春休みにはいりました。この間友人たちと準備してきました「21世紀の宗教改革「みなもとの信&信のみなもと」―極東発 Wittenberg & Rome経由、福音への帰還―A Religious Reformation in the 21st Century ‘The Faithfulness of Source
& the Source of Faithfulness’―Back to the Gospel, departing Far East via Wittenberg & Rome―.」の序文と77箇条の提題を聖書講義として録音と平行して提示します。パウロ神学の中心的箇所(Rom.3:22)をめぐる4世紀における2世紀からのvetus latinus(古ラテン訳)の「編集」(ヒエロニムス)であるVulgata訳以来の誤解を招く翻訳が正されるとき、誠実で真剣な人々がなぜかくもテクストの理解をめぐり争ってきたかを説明することができ、カトリックとプロテスタントは神学上和解できると主張しその調停案を提示しこの時代に挑戦します。この宗教改革運動は理論上拙著『信の哲学―使徒パウロはどこまで共約可能か―』(北大出版会2018)を基礎にしてその後の展開により遂行されます。聖書の理解になんらかお役に立てれば幸甚です。なお、春休みの日曜日だけでは最後まで到達しませんので、可能な限り平日も録音ならびに提題の提示を試みたいと思いますが確約できません。
2月18日追補:14日にアップした原稿には章節などがありませんでした。内容を若干手直ししてあらためて掲載します。録音とは少し異なるものになっています。なお録音では冒頭でこの運動の経緯を説明しています。
千葉惠
21世紀の宗教改革「みなもとの信&信のみなもと」―極東発 Wittenberg & Rome経由、福音への帰還―
A Religious Reformation in the 21st Century ‘The Faithfulness of Source & the Source of Faithfulness’―Back to the Gospel, departing Far East via Wittenberg & Rome―.
モットー「みなもとの信と信のみなもと:イエス・キリスト或いは神の知恵と信」
Motto. ‘fides fontis et fons fidei : Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei’
77か条の提題
77Theses
宗教改革「みなもとの信&信のみなもと」―極東発 Wittenberg & Rome経由、福音への帰還―
A Religious Reformation‘The Faithfulness of Source & the Source of Faithfulness’―Back to the Gospel, departing Far East via Wittenberg & Rome―.
モットー「みなもとの信と信のみなもと:イエス・キリスト或いは神の知恵と信」
Motto. ‘fides fontis et fons fidei : Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei’
千葉 惠
77か条の提題
77Theses (With English preface and table of contents)
目次
序言
1. 福音への帰還―イエスの言葉と働きによる道徳的次元の内破と再生―
1.1山上の説教における道徳、自然そして天の父
1.2 古い革袋を破る新しい生命の福音
2.山上の説教の神学的展開―信に基づく正義と憐みの成就―
2:1 イエスとパウロ―神による甦らし「へ」の道と「から」の宣教―
2:2 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性
2:3人類をその罪と苦難から救済に導く福音
3.21世紀の宗教改革の核心―「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学―
3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
3:2.新しい宗教改革に至る唯一の道―ロゴスとエルゴンの総合―
序言
1. 福音への帰還―イエスの言葉と働きによる道徳的次元の内破と再生―
1.1山上の説教における道徳、自然そして天の父
今日までの人類の歴史に鑑みてまた自らの良心に照らして、ひとの心魂(こころ)*の根底からの偽りなき生の在り方をめぐって、あらゆる懐疑の末に残される確かなものは聖書に記されているナザレのイエスの言葉(ロゴス)と働き(エルゴン)である。彼の言葉と働き、その一言一句および一挙手一投足に侵しがたい権威があり、その人格と認識に抗しがたい魅力、引力がある。その「権威」(7:29)は言葉に偽りがなく言葉と働きに乖離がないところからおのずと生じるものである。彼に信従する限り肯定的、創造的なるもの、聖なるものが歴史に生起する、そして人類の悪に終わりがくる、そのような希望が心魂の内奥に湧きあがる。イエスの言葉と働きには人間であることの真理のそして宇宙万物の真理の根源の理(ことわり・ロゴス)が内在していた。パウロはそれを「福音の真理」(Gal.2:5)と呼んだ。
イエスは山上の説教(Mat.ch.5-7)において彼が「天の父」と呼ぶ神に祝福される八つの心的態勢を天国における慰め、満ち足り、喜びとの関係において語った(Mat.5:1-12)。柔和な者、憐み深い者、そしてこの世の何ものによっても満たされないその霊によって貧しい者(ptōkoi tōi pneumati :行為主体agentの与格)、かくして神の正義を渇き求めそして義のために迫害されながらも平和を造らずにはいられないその心によって清らかな者たちが神のお好のみなのである、愛しい者や大切なものを失い悲しむ者とともに(神の公平性については第8条)。天の父はナザレのイエスを「わが愛する子、その彼をわたしは嘉みした」(17:5)と祝福したが、その八福を語る方は実はリアルタイムにその八つの祝福を生きる方であった。イエスは山上の説教のもとに生きそしてそれの故に死んだ。
山上の説教は人類の誰かが言わねばならなかった、ひととしての道徳上のまさにその究極の在り方を伝える。イエスはご自身の言行一致がもたらす権威のもとに山上で言葉の力だけに頼り空手で群衆の前に立つ。彼は善悪、正邪を誰もが判断して生きている道徳次元に踏みとどまり、その土俵のうえに立ち、言葉の力により各人の良心に訴えて道徳的次元をその内側から破り出て、「まず神の国とご自身の義を求めよ」(6:33)と信仰に招いている。信仰への招きは素朴であり、天の父への信頼のなかで、彼は「悔い改めよ」や「信ぜよ」という類の宗教的な命令を語らず、「信・信仰(pistis)」も「罪(hamartia)」も類似語を除いて直接に語られることもない。さらに、そこでは聖霊の賦与も、奇跡の執行や悪霊の跋扈も報告されてはいない。山上の説教において、彼は野の百合空の鳥に囲まれながらユダヤ人として伝統的な道徳を自ら引き受け、ひとはそれ自身として十全な道徳的存在者たりえず、信仰の次元なしには道徳的に十全足りえないことを、言葉のみの力により論証している。道徳次元の内破による新たな関係づけは自然的な父子との類比により遂行されており、イエスはガリラヤの自然のもとで道徳的伝統を思い出させながら聴衆を新たな教えに導き道徳の再生を試みいている。教えは驚嘆すべきものであるが、そこにいかなる熱狂主義的な要素が見られないのはひとが道徳的存在者であることを一歩も譲らないことに確認される。
ユダヤ人は自らが選ばれた民として律法を誇り、異邦人や罪人とは異なるという差別的な態度を取っていた。イエスは当時の彼らの伝統的な道徳観そして死後天国か地獄に行くという世界像を自らも引き受け、議論の前提を彼らと共有することに基づく対人論法(argumentum ad hominem)によりユダヤ人の不徹底さを、さらにはこの世もあの世もという二心(ふたごころ)に潜む偽りを指摘する。イエスはそこで彼らが依拠するモーセ律法を急進化、内面化そして純化する。その論法はまず定型句で「汝らは聞いている、昔の人々によりこう語られたのを」と切り出して、その言い伝えを引用する。伝統的な教えを提示したのち、「しかし、わたしは汝らに言う」と切り返し、それらの問題点を摘出する。それは殺人、姦淫、離婚、誓い、同害報復、敵への憎しみをめぐって展開され、道徳的次元が内側から突破される。つまり彼らの立場は首尾一貫せず保持できないことが内的に論駁される。
イエスは言う、「「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18,Ps.139:21-22)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:43-46)。イエスは家族や隣人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益そして被害や危害との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において差別や支配そして操作が遂行されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。敵は友となることもある偶然的な関係にすぎず、ひとがひとである限り本来的に友と友の等しさつまり愛が成立しうる者だからである。
とはいえ、いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの新しい教えは尋常ではない。これらの言葉はそれを正面から引き受けるひとには良心・共知(sun-eidēsis, con-science)の痛みの発動を引き起こすに十分である(5:22,5:28,5:39)。認知的な協和と不協和に即した良心の平安、宥めと疼きをめぐっては、部族や国民との共知から神との共知まで多様である。一方、「赤信号みんなで渡れば怖くない」と言われ、自己責任のもと歩行者の共知として疼きもなく、カルニヴァル(人肉食)の部族においては友人に自らの最良の部位を遺品として残すそのような人々がいる。他方、イエスとその山上の説教とを共知の相手方とする者たちには、心の少しの歪曲が痛みになる。右目や右手が罪を犯させるなら抉りとり切り取ってしまえ、全身が地獄に投げ込まれるよりましである、と警告される(5:27-30)。良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。
「良心」とは、最終的には、神において明らかなことが聖霊の証を伴い自分たちにも明らかになるその心の働きである。パウロは言う、「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11、Rom.9:1)。ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことが自らにも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。
その説教において乗り越えが企てられている敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人前での善行により人々からの称賛と有徳を誇り、律法の形式的遵守の故に正義を主張し、その結果天国を正当な権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」(6:5,6:17)。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。背後に過剰を欲する貪欲が支配している。
イエスは律法の遂行においてパリサイ人の義に優るのでなければ、天国に入れないとして言う、「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」(5:17-20)。
ここでパリサイ人との関連で語られる「汝らの義」はまず業のモーセ律法の遵守による正義のことを意味していよう。イエスはモーセ律法を純化し極性化して言う。「敵をも愛せよ」。人類はこのイエスの戒めに、一方で人類への絶望から解放される教えを受け取り、他方、山上の説教の前に身がすくみ、懐疑と反論を提示してきた。山上の説教は一方では人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、人類の誰かに語られたことただその事実によって人類に絶望せずにすむと思われよう。他方では、「律法は怒りをもたらす」(Rom.4:15)とあるように、これが告発者となり、これを語ったイエスは人間にはとうてい満たしえない心的規範また行動規範を与えており、誰にも負えない重荷を負わせ、道徳的苦悩をもたらすだけなのではないか、彼はそれによって彼の追随者たちをただ神の怒りのもとに怯えさせ苦しめる者なのではないか、それは神の審判に他ならないのではないかとの問いと懐疑が提示されてきた。
それらの懐疑への一つの応答は、聴衆は誰もその教えを守り切ることのできないことを知らしめその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすことを信じるよう促しているというルター主義的な理解である。この理解のもとではイエスは純化させたモーセ律法の枠のなかに留まっており、この説教は聴衆を福音に追いやる機能を担っていると主張される。この解決案は律法と福音を審判と救いという仕方で二元的に峻別しているように受け止められるが、生身のイエスご自身が律法の伝統のただなかで福音を確立しつつあるその動的な生きた関係をこそ把握しなければ、この説教は正しく理解されない。
イエスは山上の説教における天国と地獄という共通理解に基づく対人論法の背後に自らが神の子であるという自覚を明確に保持していた。神に対する「天の父」、「父」という呼称は旧約聖書にあまり多くみられないが(e.g.Deut.32:6,Ps.89:27)、聴衆にその理解を促すように十二回用いている。その説教においては、「神の子」や「天の父」が二人称や三人称複数で語りかけられる根拠、裏付けとして、「わたしが来たのは・・」、「わたしは言う・・」という一人称単数による「わたしの天の父」すなわち自らが神の子であることの自覚がある(5:9,5:17,5:22,7:21)。イエスは父なる神の意志、律法を実現するべく世に遣わされたという「神の子の信」の自覚のもとに、「御子の福音」を自らの言葉と働きにより実現したとパウロにより報告される(Gal.2:20,Rom.1:2)。
イエスは父なる神の意志、律法を一つの体系のなかで捉え、軽重を明確に判別している。「ああ、なんということだ、汝ら、律法学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばきそして憐みそして信を蔑(ないがし)ろにしている」(Mat.23:23)。彼はここで正義と憐みそして信を律法のなかで重要な戒めとして位置づけており、イエスは義と愛と信これら三つのなかで、不可視な神に向かうわれらの途上の生における根源的な心魂の態勢である信を基礎にして愛と義の両立に向かった。パウロは愛が「義の果実」(Phil.1:11)、つまり信に基づく正義が生み出す肯定的な産物であるとする。そこで正義はもはや「目には目を償い」(Exod.21:24)のモーセ律法の比量的な正義ではなく「信に基づく義」(Rom.10:6)、「神の義は・・信に基づき啓示されている」(Rom.1:17,cf.Gal.3:16)、「キリストの信を介した義」(Phil.3:9)と特徴づけられる神が信に基づき義であることからひとも同様にキリストの信に基づき義とされる神の前の正義を意味し、その正義と愛の両立が打ち立てられる。イエスは信の従順を貫いた、そしてそこにおいて公正なさばき・正義と憐み・愛が和解した。これが福音である。
「福音」とはパウロのまとめによれば「信じる[と神が嘉みする]すべての者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:16)。そしてそれは「信の律法」(3:27)と呼ばれ、「業の[モーセ]律法」とは別の正義をめぐる神の意志であり、「神の信」(3:3)に基づく神の義として告げ示されている。ユダヤ人が信奉するモーセ律法は道徳的次元のみにて比量的、応報的、配分的な業に基づく正義を提示している。それに対し十字架の受容に至るまでの従順の信を貫き、イエスは信に基づく正義を打ち立てることにより、「業の律法」を乗り越える。彼は比量、応報を超える新たな正義のもとに純化されたモーセ律法の正義をも信の従順により満たす。山上の聴衆が「天の父の子となるために」そして天国における報いとしての最終的な正義の実現への信仰によって、彼は地に固執する群衆を新たに「地の塩、世の光」となるよう導く(5:13-14,45)。
イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(7:11)。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(6:32-33)。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。誰かに何か良きものを求めることはそのひとに対する信頼を前提にしている。天の父なる神がその信仰を嘉みされたそのひとりのひと、ナザレのイエスが人類のなかから出現し、その方は良心を宥める究極的な律法を語り生きまたそれ故に死んだまさにその方である。
1.2 古い革袋を破る新しい生命の福音
山上のこの厳しい律法はイエスの言葉と働き故に新たな光のもとに理解され、何らかの仕方で実現可能なものとされているに相違ない。さもなければ、誰も天国に入ることができないのに彼は空しく天の父の子となるよう福音を宣教することになるからである。イエスご自身は旧約のなかで新約を打ち立てようとする途上の生を今・ここで遂行している。「この杯は汝らのために流されるわが血における新しい契約である」(Luk.22:20)。無償の恩恵である福音は新しい契約として旧約を適切に秩序付けるべく人類に与えられている。
洗礼者ヨハネは「荒野に呼ばわる声」として、預言者イザヤの言葉「主の道をととのえ、その道筋をまっすぐにせよ」(Mac.1:3)に即し生命をかけて主の到来の道をまっすぐにした。ヨハネは水による悔い改めの洗礼を授けつつ、主の到来を備える最後の預言者として位置付けられる。「すべての預言者たちと律法が預言したが、それは[洗礼者]ヨハネまでである」(Mat.11:12)。ヨハネは言う。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう」(Mat.3:10-12)。
預言のときは過ぎ、今や試練を表す火と平安をもたらす聖霊による洗礼が授けられる福音のときが到来したと宣言されている。イエスは言いたまう、「時は満ちた、神の国は近づいた。汝らは悔い改めよそして福音を信ぜよ」(Mac.1:15)。預言者たちと律法、それら「聖書全体」は新しく福音のもとに位置付けられる。イエスはご自身の復活のあと、エマオの途上において復活の主とは気づかなかった二人の弟子と共に歩きながら、真の預言者たちについて言う。「「ああ、預言者たちが語ったすべてのことを信じることに至らない、何という、愚かでその心鈍い者たち。キリスト[メシア]はこれらの苦しみを忍んでそして栄光に至るはずではなかったのか」。そして、イエスはモーセとすべての預言者から初めて聖書全体において(en pasais tais graphais)、ご自分について書かれていることを説明された」(Luk.24:25-27)。
預言者と律法、「聖書全体」はイエス・キリストを即ち彼の福音をめがけ、証言し指差していた。旧約から新約へのバトンをイエスに渡すことが洗礼者ヨハネの務めであった。モーセ律法を純化させた山上の説教は実はナザレのイエスにより満たされることにより、預言と律法は新たに福音に秩序づけられることとなった。生命の迸りは古い革袋を破ってしまう。預言者と律法の古い革袋は生命の輝きと生命の泉の迸りの福音の新しい革袋に受け継がれる。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けてそして酒はほとばしりでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。彼は、今・ここにおいて福音を持ち運んだが、その実現の極において、彼を十字架に磔た敵である罪人を贖うべく、罪なき者として罪ある者の身代わりの死を遂げた。神はそれにより愛を人類に示した。「神はご自身の独子を賜るほどにこの世界を愛したまうた」(John.3:16)。
レビ記の記者は「汝の隣人を、汝自身の如くに、愛せよ」と命じる時、「汝自身の如くに」により表現している汝が自らを愛する愛と同じだけの愛が隣人に向けられねばならないと律法を報告する。そのとき彼は愛が等しさの生起であることを知っていた(Lev.19:18,cf.Deut.6:5,10:12)。例えば父と子、夫と妻、教師と生徒等のあいだに、父は子によって父であり、子は父によって子であるその等しさがその都度生起するもの、すなわち、支配からも被支配からも唯一自由な場所で我と汝の等しさが生起すること、それが愛であった。「われは汝らの神となり、汝らはわが民となる」(Lev.26:12)。そしてその等しさの生起に向かう歩みも希望における「愛」である。その方向にある限り希望が湧いてくるからである。
迫害する者、支配する者を祝福して呪わないこと、右の頬を打つ者に左を向けることが生起するとき、「喜び祝え、天における報いが大きい」(Mat.5:12)。それによってのみ敵が天において、友と友、となる希望が生じるからである。その希望に伴う喜びは、愛に基づく等しさの正義のもとに、他者を操作することから解放されている自らを安堵させ、清めるものだからである。
争いのやまないわれらの歴史は心情倫理と責任倫理をわけて、後者の視点を多くの場合採用し社会の秩序を守る制度を充実させてきた。「裁くな」、「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済や文化活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は戦争はもとより正当防衛さえ不可能にするため、個々人の心魂の在り方としては賞賛されるが、行政機関、政治は結果責任のもとに到底山上の説教に与することはできないと主張された (Mat.7:1,5:33-37,5:31,5:39)。しかし、このような棲み分けは全体として一つのものであるひとの心とその身体を介した営みを理論上そして実際上分断するものであり、心なき制度化、形式化がはびこり、その前提のもとでの業に基づく比量的正義の追求は人間がそこにおいて最も人間であるその心を苦しめることになる。ひとの良心はそのような棲み分け、二心に満足できないのである。
敵であったわれらの罪を赦す愛を成就したその方との共知においてわれらの良心は宥められ、その心によって清き者となり平和を造る者となる。われらがイエスの言葉と働きによるご自身の使命と愛の知識を得るにいたるとき、そのとき厳しい律法が福音に包摂されたと言うことができる。そこでは山上の説教は単に言葉ではない。イエスにより満たされた言葉である。それは信そして愛についてのどこまでも人格的な今・ここの共同の知識・良心である。たとえ数式により宇宙の法則を解明したとしても、そこでは創造者なる神は超数学者、物理学者ではあっても、天の父と理解されることはない。
或る認知的発動が神との共知であるためには、聖書で報告されている神ご自身の認識、とりわけナザレのイエスの「父」や「天の国」の知見に習熟することが求められる。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわたしに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。何らかの共知を介して自らが自らを告発する良心の咎めに沈むわれらとは異なるところで、異なる想いと異なるはるかに高い道を歩みたまう神の知恵に合わせられるとき、良心の宥めが共知として生起する。その癒された心から業の律法や制度に至るまで秩序づけられるとき、平和への希望と力を得ることであろう。
イエスは自分の娘を癒していただきたく「主よ、わたしを憐みたまえ」と懇願するカナン地方の女性に「わたしはイスラエルの失われた羊にしか遣わされなかった」と応答したとき、イエスはユダヤ人として旧約の伝統のなかに自ら自己規制していたことを明らかにしている(Mat.15:21-28)。しかし新しい葡萄酒は新しい革袋にいれなければ、破れてしまう。旧約の古い革袋のなかで彼は活動したが、あまりの福音、あまりの生命の故に、旧約は内側から破られてしまったのである。イエスが「子供たちのパンを取り上げそして犬に投げ与えることは良くない」と言うと、その女性は「主よ、そのとおりです、というのも子犬たちは主人たちのテーブルから落ちるパン屑を食べるからです」と言った。そのとき、イエスは彼女にお応えになった、「「ああ女の方よ、汝の信仰は大いなるものである。汝が望むようにことが成るように」。そしてそのとき彼女の娘は癒されたのであった。旧約のただなかにそれを極性化、純化するそのただなかで、彼の憐みが迸りでるのである。信に基づく正義と正義の果実の一例がここで生まれた。彼の一言一句、一挙手一投足は旧約の制約のなかで信に基づく正義と信に基づく愛、信義の果実としての憐みの双方の実現に向けられていたのである。
*ここでは「心魂」を「こころ」と読ますが、一方「魂(phsuchē)」は生命原理を意味し、「心(kardia)」は意識の座、聖霊を受容する座を意味し、「魂」の基礎のもとに「心」が働く。固有名「ソクラテス」により身体をもった三次元の獅子鼻の存在者とその内奥の意識の座であり身体の働きを伴う行為を制御する彼の心そして彼の心の働きを支える生命原理である魂にまで同時に指示が届くものと理解する。例えば、「そのことの故にわたしは汝らに言う、汝らの魂[生命の源]のことで、汝ら[心]は何を食べようか、何を飲もうか、また汝らの身体のことで何を着ようか、汝ら[心]は思い煩うな。魂[生命の源]は食物より一層大切なものであり、身体は衣服より一層大切なものであるのではないか」(Mat.6:25,cf.10:28)。ここで「汝ら」により生きて触れうる人々とその心と魂をも理解することができる。汝らの魂は食物より一層大切なものである、つまり汝らの魂は食物がそれのためにあるところのその目的であり、汝らの心はその生命の源である魂をこそケアすると語り直しても何ら問題がない。指示が届いているからである。他の事例として、「ひと[心]が全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひと[心]は自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。「その心によって清らかな者は祝福されている」(Mat.5:8)。「神の愛はわれらに賜わった聖霊を媒介にしてわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)。
春の聖書講義3―福音による一切の秩序付け―
宗教改革「みなもとの信&信のみなもと」―極東発 Wittenberg & Rome経由、福音への帰還―
A Religious Reformation ‘The Faithfulness of Source & the Source of Faithfulness’―Back to the Gospel, departing Far East via Wittenberg & Rome―.
モットー「みなもとの信と信のみなもと:イエス・キリスト或いは神の知恵と信」
Motto. ‘fides fontis et fons fidei : Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei’
77か条の提題
目次
序言
1. 福音への帰還―イエスの言葉と働きによる道徳的次元の内破と再生―
1.1山上の説教における道徳、自然そして天の父
1.2 古い革袋を破る新しい生命の福音
2.山上の説教の神学的展開―信に基づく正義と憐みの成就―
2:1 イエスとパウロ―神による甦らし「へ」の道と「から」の宣教―
2:2 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性
2:3 人類をその罪と苦難から救済に導く福音
3.21世紀の宗教改革の核心―「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学―
3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
3:2.新しい宗教改革に至る唯一の道―ロゴスとエルゴンの総合―
77か条の提題
2:3人類をその罪と苦難から救済に導く福音
パウロの神学はナザレのイエスによりその生命と今・ここの躍動感を得ている。イエスはひとの肉の弱さに衷心からの「憐み(splangchnon=はらわた)」を示し、柔和であり謙遜であった。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」(Mat.9:36,cf.Mac.1:41)。彼は彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙遜が伝わる。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂く以外に、ひとは不公正や侮辱そして迫害に耐え、呪う者を祝福し「平和を造る者」にはなりえない(Gal.6:1,Mat.5:9)。
イエスはパリサイ人が眼差しを神の国に向けない偽りを見出し言う。「ああ、なんということだ、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、内側は強奪と情欲で満ちているが、杯や皿の外側を清めている。盲目のパリサイ人たち、まず杯の内側を清めよ、それはその外側も清まるためである」(Mat.23.23-25)。所謂色金名誉をつまり「肉の欲」を心魂の根底に置くとき、もはや眼差しは曇り肉に閉ざされてしまう。これらのパリサイ人攻撃は裁きではない。イエスは言う、「裁くな、裁かれないためである。汝がそこにおいて裁くその裁きにより汝らは裁かれるだろうからである」(7:1-2)。パウロも言う、「すべて裁いている汝、ひとよ、汝には弁解の余地がない。なぜなら、汝は他人を裁くそのことがらにおいて、汝自身を罪に定めているからである。というのも、汝裁く者は同じことを行っているからである」。隣人にまた自己に対し自らの心魂の根底を問うことなく、これXをするかXしないかにより烙印をおすことは業の律法に即したものである。「同じこと」とは双方とも業の律法のもとに生きているということである。業の律法のもとにある肉は誰も義とされないのであり、自ら罪に定めている(第6?、27?条)。イエスは信の律法のもとに神の国を持ち運ぶ、即ち愛をその都度成就しているそのなかで、自ら気づいていないパリサイ人の「目にはいったおが屑」(Mat.7:5)を取ろうとしたのであり、業の律法のもとでの裁きではない。自らの偽りに気づいていないパリサイ人を救おうとするその愛の成就は十字架に極まる。パウロは言う、「キリストはわれらがまだ罪びとであるときわれらの代わりに死んだ、そのことにより神はご自身の愛をわれらに結び付けたのである。かくして、今や、われらは彼の血において義とされたのであるから、さらにいっそう彼を介して怒りから救われるであろう。なぜなら、もし、われらは、われらが敵であったときに、神と、ご自身の御子の死を介して、和解させられたのであるなら、さらにいっそう、われらは、和解させられた者として、彼の生命において救われるであろう」(Rom.5:8-10)。
人間社会が自律したものとして自らを司法や行政、経済等制度化、律法化のもとに位置付け、さらに科学技術を促進させることは人間の知性の証であることであろう。医療や技術の進展にこそ例えば疫病の克服の光明が見られ、また教育を受ける機会が得られる。しかし、これらが神に頼らずにすむシステムの構築として肉を厚くするとき、二心、三つ心の偽りに陥る危険にさらされている。これらの営みは、最も良きものによる秩序づけなしには、自らの正当化の動機付けのなかで自ら理解する公平さ、技術革新、効率性の名のもとにある隠れた欲望、有利性を拡大するシステムの作成に向かう傾向性にあり、その結果心魂を罪に引き渡し、神への眼差しをそして隣人への愛を忘れてしまう。
パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(6:19)と肉の弱さへの譲歩のもとに「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもある中立的な存在者として人間を位置づけることがある。ひとは相対的自律性を認められているが、いつのまにか、神からの働きかけ、愛を忘れてしまい、神に帰属する端的な自律性を主張するに至る。それが罪である。蛇は誘った、「汝らは神の如くなるであろう」(Gen.2:5)。ひとはナザレのイエスを知れば知るほど、自らが天の父への信頼に生き抜いた彼のようでありえないことを知り、それを「罪」と理解し、そこからの解放を求める。換言すれば、受肉したイエスに繋がらない限り、神は単なる超越者となり抽象者となり、ひとは糸の切れた凧のようになるであろう。
さらに、黙々とわれらに資源を与え続けるmother earthの自然の恵みについても人類は彼女と、今、正しい関係にあるかが問われている。母なる地球が言葉を話さないことをいいことに、ひとは紙に或いは電子的に数字を書き労働の対価として自らのあいだでは正義であると看做し、彼女から資源を受け取ることだけに固執している。人間の間で正義であればそれが許され、何万年も自らのサイズ相当の消費以上にでないカエルにはそれが許されないのは双方の知性の差異によるのか。何からもの許可など要せず、ただ欲望が欲しい侭に自然環境を汲み尽くしているのか。金銭はひとの生がそこにおいて遂行されるこの惑星にたいするあらゆる行動を正当化するかの問いが自然災害という形で投げ返されている。気候変動や風土病の拡大にその兆候が見られるのではないだろうか。環境税等により挽回を試みているが、神に対してはもとより、自然に対しても畏敬の念のもとに仰ぎ見ることは稀である。「もろもろの天は神の栄光を顕し、大空はその御手のわざを示す」(Ps.19:1)。創造主に栄光を帰すこの信によって創造の秩序のもとにある人間と他の生物と地球の正しい関係が築かれることであろう。
この21世紀のパンデミックCovid-19は、聖書的にはこの惑星に住む人類共通の問題というものが実際にあり、ひとりの不注意や身勝手が隣人を苦しみや死に追いやるそのような運命共同体にわれらがあること、人類全体で協力して対処すべき問題が人類史的な状況のなかで生起していることを教えている。パウロは「被造物全体が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにある・・われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ呻いている」と言う(Rom.8:22-23)。このグローバルな出来事は運命共同体としての人類が全体として救いを求めているという創造と救済の聖書的な人間認識を含意している。疫病、飢饉、貧困は世界を不安定なものとし自国第一主義の風潮のなかで国際関係の緊張や戦争にいたることであろう。イエスは「不法があまねくはびこるので、多くの者の愛が冷える」(Mat.24:12)その状況とともに預言する、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、様々な場所で大きな地震と飢饉と疫病が起こるであろう。恐るべきことと天からの大きな予兆が起こるであろう」(Luk.21:10-11)。「そのとき大きな苦難が起きるであろう、それは世界の始まりから今まで起きなかったそしてもう起きないであろうそのようなものだ」(Mat.24:21)。この終末預言の警告のなかでイエスは人類を贖い、救い出すべく十字架に至るまで信の従順を貫いた。
銀河のさらには宇宙全体のいつの日かの崩壊は人類の知性により或る程度予想されているものであるが、イエスのこれらの預言により単に人類の帰趨だけではなく、自然事象さえも、神による宇宙の創造から救済そして新天新地の創造にいたる神の歴史の中に位置付けるかが問われている。そのスケールを人類は考慮にいれることができるのか。肉の欲につけこみ誘い、ひととひととの関係を裂くものは擬人化される「罪」と呼ばれるが、その罪に同意する仕方で「自らの腹に仕え」、自らの腹を神とし「地上のものごとを思慮」する者には「罪が巣食う」(Rom. 7:7-25,16:18,Phil.3:19)。そしてものがよく見えないものとされ、ヴィジョンを失ってしまい目先のことに捉われてしまう。それ故にこそ、心魂の刷新により常に目覚めていることが求められる(cf.Mat.7:5,23:13-26,24:25-44,)。
イエスは宇宙を支配する数式による物理法則をもご存知であったでもあろうが、各人の心魂の内奥に位置する神との共知の宿る良心からわれと汝の人格的な関係の正しさと豊かさを知らしめ、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」により一切の秩序づけを人格的に遂行された。一旦偽りとして破られた道徳的次元の再生において、愛に収斂し純化されるモーセ律法は神の国の信と希望のもとに、秩序づけられる。制度化や科学技術が許容されるのは神の国に秩序づけられる限りにおいてのことである。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。神とひとの媒介者となったナザレのイエスそのひとのもとに常に立ち返ることにより、神の国はアクセス可能なものとなり秩序を見出すことができる。
パウロも「一つのこと」即ち福音の出来事との関連においてすべてのものごとが秩序づけられ、それにより同じ愛のもと「同じことを思慮する」に至るとして喜びを語る。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮する[に至る]ためである」(Phil.2:1)。喜びを満たせとは共に喜ぶことによって、喜びを溢れさせようという促しである。肯定的なもの創造的なものへの根源的な信なしにはひとは個人において、社会や世界において秩序を見出すことはできないであろう。デヴィッド・ヒュームが『人間知性の探求』において「賢者は彼の信念を証拠に対して比例させる」(p.87)と言うとき、矛盾律に基づくロゴスの力能への顧慮による経験的な働き(エルゴン)との関係づけを欠き、感覚を基本的な認識の源泉にする経験主義はその限界故に経験的エヴィデンスの蓄積以上の信を語りえず、不可視なものへの信に基づく突破力をもたないであろう。世界はもっと確かであり豊かなのである。
宇宙の創造者にして時空の外で一切を統帥する神、その御子はご自身の栄光を捨てひととなり肉の弱さをご自身担われた。ご自身は神の子であることの信のもとに天父の御意に沿うべく、歯を食いしばって「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていよ」と弟子に訴えながら、十字架の死に至るまで従順の信を貫いた(Mat.26:38)。この生身の苦悩が超越性と此岸性のあいだの観念の極性化、断絶を論駁する。信仰の観念化、思弁を乗り越えさせる。彼は自らの肉において神の国を担った。「神の国は汝らのただなかにあり」、「二人または三人、わが名において集まっているところに、わたしは彼らのまんなかにいる」(Luk.17:21,Mat.18:20)。イエスを介して人格的な神に出会う。イエスと共に担ぎ歩く良き軽い軛とは彼が人類のために切り開いた信である。彼はひとの子として信に基づき義とされる神の意志を完遂し、続く者に信の道を伝えた。この比量不能な恩恵即ち御子における信に基づく神の義の啓示において、ひとはこの世の煩いから解放され、良心の宥め、平安、柔和を得る。端的な比較を超える善が人類に与えられたからである。
相対的、比量的なモーセ律法を乗り越える、より根源的な信に基づく神の正義・義はそこでのみ憐れみと両立した御子の従順の生を介して知らされた。滅びに至る門は広く、「狭い門」から入るべく、大地を固める「地の塩」として人間社会を黙々と堅固に下支えし、また自らの全身を輝かせ、「世の光」として「善き働き(ta kala erga)」のもとに先導する。「山の上に立つ街は隠れることはできない」(5:13-16,7:13)。そのなかで「右手で為す善行を左手に知らせない」歩みは一切を正確に知り、正義かつ憐れみ深い神の前での正しい判断を仰ぐことになる(6:3)。ひとは十字架の義を着て神の前に立つことができるだけである。受肉と信の従順の生により実現した恩恵の無償性に基づく福音のみが「わたしが律法を廃棄するべく来たと汝ら看做すな・・成就するべく来た」(5:17)を実現させる。福音において人類の罪と苦難の歴史のなかで救済に与る唯一の道が示された。
3「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学:21世紀の宗教改革「みなもとの信」の核心
3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
使徒パウロはナザレのイエスの生涯が打ち立てた信に基づく義とその義に基づく業の律法の成就を「ローマ書」において、能う限りの明晰性をもって、言語と心魂そしてものごと(その理およびその働き)という三者の関わりとして哲学的に分析することを許容する仕方で神学的に論じた。神の前と人の前の理論上の分離に基づき、パウロは「わたしは汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)とし、神の前を括弧に入れたひとの相対的自律性を譲歩として認め、単に心情倫理と責任倫理の区別、さらには制度化の許容ということではなく、神の前と人の前の創造から救済にいたる総合的秩序づけを企てている。神の子にしてひとの子の啓示に基づき、先に見た肉の弱さの考慮のもとでの責任倫理をもカヴァーしながらも、「一つのこと[イエス・キリストの出来事]を思慮する」(Phil.2:1-2)集中のもとに人間と世界を包摂する。山上の説教は相対的自律性の許容により希釈されたのではなく、道徳次元を内側から突破するヴィジョンのもとに他の一切を秩序づけつつ語るイエスそのひとにより生き抜かれたのである。彼ご自身は肉の弱さをその都度克服されたのである。信の律法に基づく業の律法の秩序づけはパウロにより神の二つの意志の啓示として報告され、人の前の相対的自律性を「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の啓示の出来事に秩序づけている。
このたび、人類による二千年の探究の蓄積のもとに信の哲学の研究を通じて、パウロによるキリストの受肉と受難と復活および来るべき再臨による人類救済の議論が神の選びの教説とともに無矛盾であることが明らかとなった。今日までのパウロの神学をめぐる論争は、彼の神学理論の中心的な主張を形成する「ローマ書」3章21節から31節のとりわけ22節(ū gar estin diastolē)のヒエロニムスによるVulgata版(二世紀以降の古ラテン語訳の四世紀後半における彼自身の言葉では「編集」)の訳に起因するものであることが明らかとなった(第12、17条)。そこでパウロは神の前のことがらを報告しており、その報告の内容は神ご自身がご自身の義の啓示の媒介としてイエス・キリストに帰属した信を用いられたこと、そしてその信とご自身の義の知らしめにおいて分離がないこと、即ちその信義の分離のなさにおいてご自身にとって根源的な義が信に基づくものであることを明らかにしておられることである。パウロは明確に神ご自身の認識をそれ自身として報告するとともに、そのわれらの外の啓示と人の前すなわちわれらのうちの信との関係の総合的な理解を展開したのであった。従来神の前と人の前の分節と総合が不明瞭であったために多くの混乱が生じたと思われる。
カトリック教会とプロテスタント教会相互のまたそれぞれ内部における二千年にわたる論争に思いをはせるとき、真剣で誠実なひとびとがそのテクストをめぐって長く争わざるをえなかった事実は、そのもとのテクストの最初の基礎的な翻訳に何らか誤解を生じさせるものが含まれていたと理解するよう促す。原語diastolē(最大希英辞書LSJではdrawing asunder (「双方に引いて分ける」)やseparationがdistinctionより前に挙げられる)の当該箇所のVulgata訳は non enim est distinctio「なぜなら区別がないからである」である。しかし、それ以降調査の限りすべての翻訳において、これがその理由文であるところの前文「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている」における「信じる者すべて」のあいだに「区別」や「差異」はないと理解されてきた。神の義が啓示されたことの理由が信じる者たちの心的態勢に例えば聖フランシスとヒトラーの信仰に区別や差異がないということはいかにも不可思議である。人類への愛の故に啓示されるというのであれば、より分かるが5章まで愛の議論は封印されており、信ひとすじで突破が図られている。実はひとの心的状態としての信仰に区別や差異がないということではなく、「神の義」とその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」のあいだに神の前のことがらとして「分離(separatio)はない」と訳されねばならなかったのである。神ご自身にとって信義はモーセの業の律法に基づく義より一層根源的であることを示している。業の律法に即して「すべての者が罪を犯した」と否定的に認識されているのであり、神の信義の啓示という肯定的なものごとは「イエス・キリストの信」を介してなされ、神の義とその信のあいだに分離がないからこそ、「業の律法を離れて」しかもより根底的な神の義として啓示されたのである。これが明示されていれば、今日までのこれほどの混乱はなかったことであろう。3章21節から31節の正しい翻訳は以下のもののようになると思われる。
「[21]しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、神の義は(f1)イエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。
[27]それでは、どこに誇りはあるか、閉めだされた。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。かくして、われらは人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:21-31、第12、27条)。
この福音は「[業の]律法を離れて」(Rom.3:21)つまり神の義はモーセ律法とは分離されうるものであり、しかも「信の律法」(3:27)とは分離なきものとして啓示されたために、神ご自身にとって福音即ち信の律法のほうが業の律法よりご自身の義との関連においてより根源的である。神においてそうであるなら、ひとにとっても神ご自身が信義であることが啓示されたとき、信によって応答することのほうが、「汝~すべからず」、「汝~すべし」の命令のもとでの業の遂行よりも心魂の態勢、行為として根源的であることが含意される。
この誤訳が正されるとき、神の前と人の前の分節と媒介が明確となりまた神の二つの意志「業の律法」と「信の律法」の分節と媒介がさらには「信にもとづく義」と「その義の果実」の分節と媒介が明確になる。もちろんその媒介者はイエス・キリストである。その分節と媒介そして関係づけの故に、これまでの多くの論争に解決が与えられると思われる。そこでは無償の憐みと正義の両立が解明され、例えば福音と律法、信仰と愛、恩恵と自由、選びの教説と各自の責任ある自由の関係をめぐる論争について決着がつけられ提題で明らかにしていく。また贖罪論をめぐり父と御子の協働説か業の律法の枠のなかでの父と御子は審判者と被審判者の関係にある代罰説かの論争についても終止符を打つことができる。新しい葡萄酒を新しい革袋にいれる、そのような旧約から新約への展開を確認することができる。この解明はカトリック教会とプロテスタント教会双方がそれぞれ真理契機を担っているものとして、双方にそれぞれの特徴に応じて固有の場を提示し相互の和解をもたらし、ひとの心魂の再生と人類の平和の基盤になると信じる。(この節は次回に続く)。
枡形山春の聖書講義―21世紀の宗教改革(2)―
「21世紀の宗教改革「信のみなもと&みなもとの信」―極東発Wittenberg & Rome経由、福音への帰還」第二回目です。77箇条の提題を示しますが、今は序言を何回かにわけて朗読しています。その第二節途中までです。
2信に基づく正義と憐みの成就―山上の説教の神学的展開―
2021年2月21日
2:1 イエスとパウロ―神による甦らし「へ」の道と「から」の宣教―
ここではナザレのイエスの生涯がパウロによりいかに神学的に理解されているかを確認したい。福音書とパウロの書簡の対話を遂行する。最初に二人の置かれた状況の相違を確認する。イエスの信仰の招きが業のモーセ律法の遵守の要求のただなかで遂行されたのに対し、パウロは神の力能の働きである他に例を見ないイエスの十字架の処刑死とその三日後の甦りの出来事から彼の一切の神学的思考を展開している。彼はイエスの甦りが人類に何をもたらしたのかを受け止め、そこから信に基づく義とその義の果実としての愛が生まれるその神学理論を展開した。
パウロは、神によるアブラハムへの約束に対する信実が歴史上御子の受肉と受難と復活において証された、その「神の信」(Rom.3:3)を基礎に彼の神学を展開する。信は人間にとっては賢者に至る知識をめぐる認知的要素と聖者に至る有徳をめぐる人格的要素の成長への基盤となるが、神は認知的、人格的に十全である。パウロは、神によるご自身の約束への信実がナザレのイエスにおいて成就されたと主張する。その約束に対し神は信実であり、神が正しい方であったこと、即ち「神の義」は「イエス・キリストの信」を媒介にして人類に明らかなものとされた。パウロはこれをひとつの神の意志として受け止め「信の律法」と呼んだ。それはモーセを介して知らしめられたもう一つの神の意志をパウロは「業の律法」と呼んだが、彼はこれら二つの神の意志を信に基づく義と義の果実としての愛として秩序づけた。
常に心に留めるべきことは、山上の説教はナザレのイエスそのひとが今・ここにおいて純化された究極の律法を語りつつ、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」と信仰に招くことにより、その内面化された愛に収斂される律法成就の道を示したことである。イエスご自身は神の愛の先行性を自ら生き抜きご自身がその道となったがゆえに、パウロは神の愛の先行性に基づき愛の相互性を秩序づけることができた。まず、神との正しい関係が確立されることなしには、人間の一切の営みは秩序を得ることはないという明確なメッセージをナザレのイエスは発信した。しかも、彼はユダヤ人の伝統に留まりつつ、旧約の律法を内側から破ることによって、新しい生命に満ち溢れる信仰に招く福音を展開した。福音と律法を静的な関係において捉えてはならない。イエスはガリラヤの野辺を歩きながらリアルタイムに神の意志を実現しつつあったのである。もし彼が公生涯の終わりに十字架から下りてきたしまったなら、神のみ旨は実現されてはいないと看做され、福音の啓示の媒介者として用いられることはなかった、そのような緊張のなかで、肉の弱さを抱えたイエスご自身により一言一句、一挙手一投足が遂行されていたのである。われらはそこに同じ人間として山上の説教を成就しうる可能性と力能を見出す。そして人類の誰かにより山上の説教が語られた事実に、われらは人類に絶望することはない。ましてや彼はそれを信の従順により完遂した方である。
パウロそして福音書記者たちも十字架と復活と昇天ののちにナザレのイエスが何者であったかをめぐり信に基づく義と選びの神学さらにはその伝記を書き残したのであった。パウロは歴史の展開のなかで信の従順を死に至るまで貫き、父なる神の専決行為による甦らしが生起したことのゆえに、福音の成就した視点から「この方はわれらの背きの故に引き渡されたそしてわれらの義化故に甦らされた」(Rom.4:25)と語ることができた。御子の十字架と復活は神の前で即ち神ご自身の理解として、歴史のなかで身代わりの死によるわれらの罪から信仰による義化への移行の成就として知らしめられた。「イエス・キリストの信」を介した「神の義」の啓示は「信の律法」としてわれらに業のモーセ律法からの解放と、信に基づく義による業の律法の新たな秩序づけとして位置づけることができた。
十字架と復活は人類の歴史において「一度限り」(Rom.6:10,cf.1Cor.15:6)のことであり、他の誰かによって再現されるものではない。さもなければ、父なる神は御子の信の従順を贖いに不十分なるものと看做し、御子を裏切ることになる。再現性のないものについては科学的知識の対象とはなりえず、ひとは御子の復活については信仰により突破するしかない。「キリストが信じるすべての者にとって義に至る律法の目指すものである。というのも、モーセは律法に基づく義をこう記しているからである、「それらを為した者はそれらによって生きるであろう」、だが、信に基づく義はこう言うからである、「汝は汝の心のなかで、「誰が[義を求めて遥か]天に昇るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを引き降ろすことである、あるいは「誰が[義を求めて遥か]黄泉に降るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを死者たちのなかから引き上げることである。しかし、彼[モーセ]は何と言っているか、「言葉は汝の近くにある、汝の口のなかにそして汝の心のなかにある」、これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である。すなわち、もし汝が汝の口において主イエスを告白し、そして汝の心のうちに神が彼を死者たちから甦らせたと信じるなら、汝は救われるであろう。というのも、主イエスが心によって信じられるのは義のためであり、口で告白されるのは救いのためだからである」(Rom.10:5-10)。
心の中での信仰を固く保持するためには公にそれを告白し社会の認知の中での自覚を必要としている。それほど復活は信仰による乗り越えと公的な表明を必要とするそのような理解に困難を伴うものであり、しかもその告白は信じることできるというそのことの喜びを与えるものだからである。種蒔きの譬えはイエスの宣教を介して神のみ言葉、み心が聴衆の心に蒔かれそれを受け止めた信仰の実りについてのものである。「イエスは彼らを多くの譬えで教えた、そしてご自身の教えのなかでこう言われた。「聞け、そして見よ。種を蒔く者が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞け」と言われた」(Mac.4:2-10)。
この譬えにおいてみ言葉の蒔き手はイエスご自身であり、受け止める心、拒否する心等われらの様々な心の環境のもとにみ言葉が蒔かれる。これは人生にも適用される。誰も自らの親を選べない、そこに自らの生が奪われ、焼け枯れる運命の過酷さを見るひともいよう。同時にそこに「誰も~ない」という人生の或る意味での平等さと醍醐味がある。自らに生が与えられたことを厳しい与件に思えても、肉の親の背後にいたまう蒔き手を信じ、自らを「良い土地」であると受け止めることなしには三十倍、五十倍に実らすことはできず、蒔き手に対する信頼が不可欠となる。荒地に蒔かれ悲惨にしか思えない与件であるにしても、聞く耳を持ち神に与えられた良い土地であると信じるとき、開墾が始まり、自らの与件から推定されるものの百倍の実りをもたらすこともあろう。豊かな実りとは八福を語られるイエスご自身にとって「天の父の子となる」こと以外ではないであろう。
パウロはとりわけ「ローマ書」においてまた「ガラテア書」において正しい信仰とはいかなるものかの議論を展開する。永遠の生命の保証として主の復活はわれらの信仰を引き起こしそして信に基づく義を保証するものである。パウロは主の復活という神の歴史への介入から十字架とその生涯を捉えなおしたのである。神が愛である限り、この人生は良き土地となる、復活の主が共にいたまうからである。「主はわたしの運命を支える方。測り縄はわたしに向けて佳き地に落ちた、わたしは良き嗣業(ゆずり)を得た」(Ps.16:5-6)。
なお、当のイエスご自身も苦闘のただなかにあったことを忘れてはならない。山上の説教が生命を懸けて生き抜かれたことによって、われらはひととして想定しうる最も偽りのない在り方が福音に包摂される。新しい生命が福音という新しい革袋に入れられた。その喜びの福音はパウロにおいて聖霊によりもたらされる「信じること」が喜びとなり信に基づき救いだす「神の力能」(Rom.1:16)の働きであると特徴づけられる。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、汝らが信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。「ユダヤ人にもギリシャ人にも呼び出された者たち自身にとっては、キリストは神の力能でありまた知恵である」(1Cor.1:22)。信じうることの喜びと公的な信仰告白は自らが神に呼び出された者であることを証する光栄ある心の働きである。
主イエスの甦らしを遂行したまう神の力能によって古い業の律法も新しい信の律法の光のもとに照らし直され新しくなり、業のモーセ律法は何等か新しい酒に変換させられる。それは少なくとも人類にひとりは福音の光のもとに山上の律法を成就した方がいるからであり、それゆえに神はナザレのイエスをご自身の御心に適う者として嘉みし、ご自身の信に基づく義の啓示の媒介として用いられたからである。かくして、業に基づく義とは異なる信に基づく義が、業の律法の冠である愛を実現させるその力能が人類に付与されるに至った。モーセ律法は信の律法に秩序づけられた。信の力能こそ彼の十字架と復活において明らかにされたのである。「「できるものなら」と言うのか、信じる者にはあらゆることができる」(Mac.9:23)。あらゆることは当然愛の業に収斂される。それ故にこそ、われらは山上の説教をそれにより満たしうるのではないかとの希望を抱く。パウロはそれを理論化した。
2:2 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性
モーセ律法とは十戒に基づくものであり、パウロにより「業の律法」(Rom.3:20,27)ないし「モーセ律法」(1Cor.9:9)と呼ばれる。業の律法のもとでは偶像を拝むか・拝まないか、盗むか・盗まないか、貪るか・貪らないか等の二つの対立選択肢のうち一方により義か罪が定まる。パウロにおいては福音が啓示された今、業の律法の役割は「罪が明らかになるためである」(Rom.7:13)と位置付けることができた。信を業の律法のもとで遂行するとは自らを行為の選択の規準として立て、信じるかそれとも「信じないか」によって神に義とされるか否かが定まるという考えである。これは信じるかそれとも「裏切るか」とは同じことではない。「信じない」ことと「裏切る」ことは同じではない。それだけではなくそのように信を業の律法のもとに捉えることは自らの罪が明らかになるだけである。「裏切る」は信仰が一つの業の律法のもとで理解されるさいの対義語「信じない」の二者択一とは異なる(Mat.26:21)。新約における「信の律法」(Rom.3:27)と呼ばれるものは、神がイエス・キリストにおいて約束に信実であり、「神の信」(3:3)を明らかにしたとき、信じるか裏切るかの二者択一を提示している。ひとに対する神の信義がそこでは前提されている。
神の意志としての信の律法と業の律法が判別され、自らがいずれの律法のもとに生きるか明確に自覚しないとき、自らの救いを求め信じることは自己追求、エゴイズムではないか等の懐疑が生起する。信に対するこの種の懐疑や反論は「貪るな」という業の律法のもとに信を従属させることから生じる。信がそのような自己吟味、自己批判のもとにさらされるとき、ひとは知的、人格的誠実の装いのもとに神の前にでないでよいというアリバイを作り、神を避ける自己防衛に走る。「汝ら惑わされるな。神は侮られるような方ではない。ひとは[種を]蒔く場合に、その蒔くところのものを刈り取ることになろう」(Gal.6:7)。「生きています神の御手に落ちることは恐ろしいことである」(Heb.10:31)。信の律法においては神が御子において自らの愛を差し出している。神が提示する戒めに自らの業により応答するかそれとも応答しないか、それとも神が自らの約束に信実であったときその神の信に対し信により応答するかそれとも裏切るのかのいずれかが問われ、旧約と新約いずれの律法を根源として生きるかが問われている、もちろん旧約聖書においてもアブラハムやダビデにおける信義の先駆的事例は見られる。
新しい契約の歩みの中で、ひとはイエスにより業の執行においてパリサイ人に優ることが求められていた。「学者とパリサイ派の者たちはモーセの座についたのである。かくして、彼らが汝らに語るならそれらのことをすべて汝らは行いそして心に留めよ、しかし彼らの業に見習ってはならない」(Mat.23:2)。山上の律法はイエスの福音に秩序づけられるが、それは正義と愛・憐みが彼の一挙手一投足において実現されている限りにおいてである。信に基づく正義と信に基づく愛を実働している死に至るまでのその信の従順こそが福音の成就であった。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。ナザレのイエスの信に基づく言葉と働きが成し遂げた復活において証される正義と愛に基づき、神とひとの和解を理論的に解明することがパウロの課題であった。
「汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう」(Mat.5:18)。天地が過ぎ去るまで律法の一点一画とも過ぎ去らない、廃らないとは、イエスは「愛」が一切の律法のなかで「偉大な戒め」であると理解しており、そのもとに他の一切の戒めを秩序づけられる限り、理解可能となる(Mat.22:36,cf.「律法の冠」、「律法の充足」Rom.13:9,10)。愛が満たされる限り、業の律法としての正義は満たされており、あらゆる律法がめざす愛を実現する限りにおいて一点一画とも過ぎ去らないと言うことができる。人類のなかで少なくともイエスは信に基づき愛と正義を貫いた。この意味において山上の説教は希釈されることはない。イエスは誰にも担いえない心の規範を与え、道徳的苦悩を課す方ではない。そして彼は復活の主として共に重荷を担い歩みたまう。
ひとは誰もがキリストによって二千年前に憐みをかけられている。神へのアクセスはイエスの愛を介するものとなるとき、超越と内在、彼岸と此岸は媒介され、信仰の抽象性、観念性、思弁性が乗り越えられる。憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、「良心・共知」の発動が、「道徳的運」と呼ばれる、ひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛情を注がれ、愛されることを経験し自覚することなしには、また相手方の状況についての知識なしには、発動しないそのような受動の経験と自覚を伴うものである。或るひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証はどれだけ愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。
パウロも言う、「知識は高ぶり、愛は[徳を]建てる。誰かもし何かを知っていると思うなら、その者はまだ知るべきその仕方で知ってはいない。誰かもし神を愛するなら、その者はご自身により知られてしまっている」(1Cor.8:3)。高ぶりのなかで何かを知っていると主張するとき、愛されていることを知ることはできず、知るその仕方は少なくとも神の愛を前提にした愛の相互性に基づかない。「われらは知っている、神を愛する者たちには、彼らは計画に即して召された者たちであって、あらゆるものごとが善きことへと協働することを」(Rom.8:28)。ひとは神の計画のもとに神により知られ、愛されることによって愛するのであって、その愛を自覚せず、求めない者には善へと協働する愛は生起しない。まず神に今・ここで愛されていることの信が不可欠であることは神の愛の先行性が隣人愛の相互性を保証することを含意している(cf.1John.4:7-8)。
ひとはとりわけ自らの偏った認識により高ぶり、自らの与件を忘れ、恩義や憐みへの感謝をすぐ忘れてしまうからこそ、「七度の七十倍赦すこと」(Mat.18:22)がイエスにより求められる。彼はその理由をたとえ話で伝える。或る王が家来を憐れに思って、その負債を赦したが、その家来が自らに負債ある者を赦さず、牢に入れた。王はこの態度に怒って言う。「悪い僕だ、・・わたしが君を憐れんだように、君も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(18:32)。われらは皆キリストにあって既に七度の七十倍は赦されている。
それほどまでに、ひとは自らへの他者からの恩義を負担に感じ、一人で成し遂げたかの如くに思いこむ。「誰が汝をより優れた者としたのか、汝は受け取らなかったものを何か持っているのか。もし汝が受け取ったなら、何故受け取らなかったかのごとく誇るのか」(1Cor.4:7)。パウロはただ十字架を誇る。「われらの主キリスト・イエス、その彼を介して世界はわたしに磔られ、わたしもまた世界に磔られた、その十字架以外にわたしに誇ることが生じることは断じてあってはならない」(Gal.6:14)。このキリストの受苦(パテーマ)がわれらのパトス(受動)を造り変えていく。受動の強さが能動の高さを生み出していく。「愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず・・誇らず、高ぶらず、礼を失せず、自らの利益を求めず、いらだたず、恨まない」(1Cor.13:4-5)。愛のうちにあるものは否定的なパトスに引きずられることはない。愛は「誰に対しても悪に対して悪をかえさず」(Rom.12:17)、「互いに兄弟愛において慈しみ、相互に尊敬において導き手とする」(Rom.12:10)。愛は支配からも被支配からも操作や差別からも唯一自由な所で心に生起する神の子同士のわれと汝の等しさであった。右の頬を打たれたら左の頬を向けつつ、いつの日にか敵が友となる希望によりシーソーのアンバランスは現に平行を得ている。
旧約の革袋から破りでる福音の生命 ―一年を振り返って―
旧約の革袋から破りでる福音の生命 ―一年を振り返って―
2021年2月7日
1一年を振り返って
今日が本年度最後の聖書講義です。第36回目です。職務として日曜の話をするのは初めてでした。札幌では23年間学生さんを中心にした集まりを主催していましたが、いろいろな意味で、今より一層不十分でした。私の拙い話を聞いてもらっているという感覚をもったこともありましたが、当時は暗中模索であったと思います。今から思えば、あの日々が理論的解明の基礎を与え、ようやく自らの懐疑、疑問に対し『信の哲学―使徒パウロはどこまで共約的か―』において自分なりの解決を見出しました。また札幌の日々がこの共同生活の備えをしたと思います。たとえ理論的には様々な問が解けたとしても、それを生きることなしには聖書の真に伝えたいことは理解したことにはならないのです。
「理解」について、認知的理解は人格的な愛を建てることにより確認されるというひとつの伝統があります。アウグスティヌスは言います。「誰であれ自分が神的な聖書をその或る部分でさえ理解したと想定する者は、その者が持つ理解によって、神と隣人への愛を建てることなしには、それらを理解してしまってはいない(nondum intellexit)」(Augustin, De Doctrina Christiana, Oeuvres de Saint Augustin, 11/2, tr. M.Moreau,Liber I,XXXVI,40,p.128 (Institut d’ Études Augustiniennes, Paris 1997)。この伝統の基礎は、死に至るまでの従順の信に基づき愛を実践した贖い主が既に信から愛への道を備えたことに求められます。これはロゴスの一種の証、可視化であると言えます。キリスト教の歴史においては神が受肉してその意志を歴史のなかに表したのは信と愛を心魂の根源とその完成としてでした。理解の複層的な判別のもとに、心魂の認知的かつ人格的態勢の統一理論の構築がめざされてきたのです。
この一年間日曜の聖書講義に関して何が一番たいへんであったかというと、心を刷新させないと聖書の話はできないということです。肉に留まっていては理解できない、そのような仕方で聖書は書かれています。ひとはそれを聖書記者たちが聖霊に促されて神の言葉を伝えているからだと言います。心の刷新は何等か聖霊に触れるという仕方でおきますが、わたしとしましては、夜泣きする幼児のように聖霊をいただくべく十字架の憐みに縋るしかないのです。わたしの先生の旧約学者関根正雄先生は「自分に死なずに日曜の話をしたことはない」と言われました。先生は50年以上聖書集会を主催されました。土曜の夜はその意味で徹夜しつつおのれに死ぬべくテクストと格闘してこられたのだと思います。私の場合はそれをとても不十分に毎週繰り返してきたことになります。
この一年多くの躓きの石を皆さんの前に置いたことであろうと思います。命じられたことをさえ為しえないわたしは、福音書にある給仕の話のなかで「われらは無益な僕です。為すべきことを為しただけです」と言うことはできず、「この無益な僕を憐み給え」と祈るしかないのです(Luk.17:10)。
昨日の卒寮式は皆さんの協力のもとに遂行され感謝でした。前途への希望のうちに5人の皆さんを送り出せて、よかったです。他方、当方のいたらなさのゆえに共同生活における義務そして優先順位をめぐって、さらには無理な注文をすることによって、複数のひとを躓かせてしまったと思います。自分の都合にあわせて、相手を操作していないかどうかをそのつど人間関係を修正、リセットしないとひずみがたまっていきます。胸に手をあてて、寮生各人の善を、幸いを心から願っているかを吟味します。そしてそのひとのために何ができるかを吟味します。躓かせてしまったひとびとには等しさが生起すべく、何ができるかをそのつどの文脈で関係回復をめざします。
自らが常におのれから自由で愛のモードにいないとき、すなわち支配からも支配されることからも唯一自由な場所で生起するわれと汝の等しさのうちにいないとき、失敗がおきてしまう。まさに「愛は失敗しない(=倒れない)」(1Cor.13:8)、「愛には恐れがない。十全な愛は恐れを外に締め出す」(1John.4:18)です。自分はそのひとのことを恐れてはいないかを自らに問い、何らかの恐れがあるときは愛のうちにないことが分かります。哲学者はそれを「パトスはヘクシスのセーメイオンだ」と即ち自ら選ぶことのできない身体的反応である恐れなど感情や欲求は、そのひとの心の態勢・在り方の徴であるということです。聖霊により清められるとき、わたしどもは垣根がなくなり、相互に相互の幸いを願うことができるものとされます。イエスは常にこの態勢にあり、自らを敵対視するパリサイ人とも素手で自らを生命の危険に晒すことになることを厭わず、避けず、彼らの克服すべき点を指摘し、目にあるおが屑を取るよう努めました。自らの胸に手をあてて、自分を避け嫌うひとの幸いを願うかを問うことから始め、何か肯定的な喜びと力に満ちたものを歴史に遺したいと思います。もう二度と罪の奴隷になりたくありません。罪はいつでも人間関係を破壊すべき工作してきます。目覚めていればそれを克服できます。「われらはあいつの企みに無知ではない」とパウロは言います(2Cor.2:11)。以上が生活の中での聖書講義をめぐる反省です。
2ナザレのイエスの言葉と働きが媒介する
やはり福音(喜びの音信)を語っていたいと思います。奇跡物語序論と題して四回ほど所謂奇跡をどのように理解できるかを考察してきました。力溢れるイエスの山上の説教の言葉とそれに相即する彼の働きはやはり神の憐みの力ある発揮であり、癒しや永遠の生命を保証する復活という本来的な秩序の回復をもたらします。「光あれ」と言葉一つでこの満天に輝く星々を創造された神は一切を知りそして統括しておられます。そのような神なら、言葉一つで罪に沈み、苦しみに沈む人類を救うことができたろうに、わざわざ御子の受肉と十字架の生涯を必要としていたとすれば、神は全知でも全能でもないのではないかと疑われてきました。御子の受肉と死に至るまでの信の従順以外に、わたしどもは信に基づく罪の赦し、信に基づく義を得ることはできなかったであろうことは明らかです。パウロは言います。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。神とひととの媒介者なしにわれらの全知全能の神への信仰は抽象的、観念的に留まり、どこまでも体得的な知識とはならず、懐疑に翻弄されたことでありましょう。イエスはわれらと同じ肉の弱さを担われたのです。だからわれらもこの肉に導かれる身体を脱ぎ捨てるのではなく、キリストの義をこの肉のうえに着るのです。一方でキリストは「罪を知らざる方」であり続け、罪びとの罪を自ら十字架で引き受けました(2Cor.5:21)。神は身代わりの罪を罪なきイエスに罪なきままに担わせました。そのことによって、キリストの死に古き罪人は共に飲み込まれ死んでしまいました。しかし、それはその死が生命に飲み込まれるためです。「われらはこのテント[身体]のなかにいるあいだ、われらは重荷を担いつつ呻いているが、彼にあってわれらは脱がされることを欲しているのではなく、[身体の]上に着ることを欲している、それは死すべきものが生命によって飲みこまれるためである」(2Cor.5:4)。キリストは罪なき者として復活を成し遂げ、永遠の生命の在り処(ありか)をわれらに示しました。心魂の二心なき信によって罪赦され、永遠の救いをいただくのです。「彼はわれらの背きの故に死に引き渡され、われらの義化故に甦らされた」(Rom.4:25)。われらは重荷に喘ぐ身体を脱ぐのではなく、キリストが担い給うたのはその身体の重荷であり、彼はその肉のうえに生命を担ってい給うたからこそ、身体に帰属する死は生に飲み込まれるのです。信に基づき復活の希望に生きるのです。万物の栄光がこの弱き肉を担ってくださった以上は、われらは神の栄光なのです。この身体をいただいたことを感謝しつつ「身体の贖われること」(Rom.8:23)を忍耐をもって待ち望むのです。キリストの復活はこの地球の歴史において一度限りであり、われらは再現性のないこの特異な事象を信仰によって乗り越えるのです。そこにわれらの思いにすぐる神の平安がわれらの心と認識を守ってくださることでしょう。信じることができるというだけで、喜びなのです。信は人の肯定的な生を築きあげる基礎だからです。生命と力に溢れた肯定的なものへの信なしには、ひとの心と身体は萎縮し、分裂し滅びに至るそのようにできているのだと思います。ひとは知らないものごとを、また為しえないものごとを信によってそのつど乗り越えていくのです。
山上の説教はその信仰への招きであったのです。イエスはご自身を旧約の伝統の中に置きました。彼に与えられていたのは旧約聖書だったからです。ご自身について書かれた新約聖書を当然彼は持ち合わせてはおらず、一言一句、一挙手一投足において実現しつつあったのです。彼が一歩でも間違えたら、この書物は永遠に書かれることがなかったのです。イエスは旧約の選びの民の伝統のなかで「わたしはイスラエルの失われた羊にしか遣わされていない」と自己規制しながらも、その生命は古い革袋を内側から破り迸り、生命の喜びが異邦人へと溢れていきました。しかし新しい葡萄酒は新しい革袋にいれなければ、破れてしまう。旧約の古い革袋のなかで彼は活動したが、あまりの福音、あまりの生命の故に、旧約は内側から破られてしまったのです。当時ユダヤ人はカナン人等異邦人と交流をもちませんでした。イエスが「子供たちのパンを取り上げそして犬に投げ与えることは良くない」と言うと、そのカナンの女性は「主よ、そのとおりです、というのも子犬たちは主人たちのテーブルから落ちるパン屑を食べるからです」と言った。そのとき、イエスは彼女お応えになった、「「ああ女の方よ、汝の信仰は大いなるものである。汝が望むようにことが成るように」。そしてそのとき彼女の娘は癒されたのでした。旧約のただなかにそれを極性化、純化するそのただなかで、彼の憐みが迸りでるのです。奇跡とは主の憐みからくる神の力能の溢れ出しなのです。それが病から健康へという秩序の回復であり限り、秩序の座である自然に反するものではないでありましょう、たとえいかなる上位の自然法則により遂行されたかをわれらが未だ知ることができないとしましても。カナンの女性において、信に基づく正義の一例がここで生まれたのです。彼の一言一句、一挙手一投足は信に基づく正義と信に基づく憐みの双方の実現に向けられていたのです。
ひとは知らないこと、そして為しえないことを信によって突破するのです。それを一つ一つ乗り越えていくというしかたで人生を築いていくのです。本年の最後ですので、「探求と発見」(11月1日、8日、15日)の箇所で自らの小さな経験を報告しましたが、自らの小さな生が憐みを受けつつ、変えられてきたことを証することをお許しください。読み残したままで終わるのも落ち着きがわるいので、それにより、本年の締めくくりにすることをお許しください。なお、これは一つの証にすぎません。各人はそれぞれ恩恵や体得的知識を持ちますが、それは決して普遍化してはならないものです。神様がそのひとに必要な恩恵を与えられたものであり、他の或るひとには別の仕方で与えられることでしょう。
3探し求めドアを叩き、見出し開かれた記録―留学記補遺―
二度にわたって過去に書いた留学記をお読みしましたが、残りの部分を読みます。今年度山上の説教の学びでえた、なんとも簡潔でけれんみのない戒め、ただ地の塩、世の光でありたいという思いだけがこの回顧を導きますように。初めてのひとのために、補いながら「オックスフォード便り」を後に編集した文章の続きを読みます。
1985年春から90年早春まで5年間イギリスに留学した。当時、私はギリシャ哲学を研究し、非常勤講師として哲学やギリシャ語を教えていたが、哲学研究に関し閉息感と無力感に悩まされていた。本場に行き、よいものに触れれば何か道が開けるのではないかという淡い期待をもって、アリストテレス研究の伝統あるオックスフォードに、そこには誰一人知る人もいず、ただJ.Barnes先生からの一枚のsemi officialな手紙を手に鞄一つで、武者修業に飛び立った。ドラマはヒースロー空港到着直後にはじまった。入国審査でお前なんかこの国にいれないという類のことを言われ、ロンドンの場末のユースホステルに潜伏した。正確には二か月のみの旅行者滞在許可であったため途方に暮れた。そのときもらった紙に移民局の住所があり、イースター開けを待ってクロイドンにある移民局にカラフルな人々と列をつくり、ようやく或る条件のもと更新の可能性を得た。そのようなゼロからの英国生活の始まりであった。David Charles先生との出会いがその後の五年間を作りかえた。以下、「オックスフォード便り」という日本の家族や友人に送っていた公開書簡等から探求に関わる所を当時の未熟なままの文章の引用により探求の歩みを振り返りたい(当時のものをそのまま引用し、便宜上繋ぎ合わせるが、今回の説明は[・・]により補足)。
4 The Last Wordを求めて
・・私は再びエルスフィールドにおります。今朝、1989年11月27日相当の歳月をかけて自分のエネルギーの大半を捧げてきた博士論文『アリストテレスの説明の理論ー論証科学と科学的探究ー』がようやく完成し、製本すべく外にでると空は初冬の身のひきしまる朝のすがすがしい大気の輝きに満ちていました。コスモスの咲くころには提出したいと春に話しておりましたが、先日まで庭の二隅で群生し秋の風に揺れていたこの花は、かろうじて2、3生き残り弱々しく朝露に濡れているだけでした。ふだんは荘重な尖塔の連なりを眺望できる丘の端に来ると、下界は一面の霧につつまれていましたが、次第に樹木が上の部分から次第に姿を現わしてきました。街に着くころには一切が朝のみずみずしい生命の輝きに息づいていました。この4年半を振り返ると、これだけのものを書くのにどうしてこんなに時間がかかったのかと愚かさに呆れると同時に、よくここまでこれたというのも実感です。最後の2、3日色々理由をつけてあれほど望んでいた完成を遅らせていたのは、何か愛する子と別れる母親の心境に似ていたのだと思います。
日記からこの仕事とこの一年半の格闘の一端を少しだけ振り返ってみましょう。
「88年4月30日(土) David、ヒューレカ、ヒューレカ(見つけた)!ようやくアリストテレス論証科学の原理について2千年のエニグマ(謎)を解いた」。
「5月29日(日) どうも『分析論後書』がコンシシステントに読めてきた。ワクワク、ゾクゾクする。これはきっと画期的な仕事になるぞ。『形而上学』解明の基礎を与えるであろう」。
「6月20日(日) 朝、晴れ、昨日は好天気だった。何年アメソス(無中項)に悩まされねばならないのか」。
「9月22日(木)ドゥブロブニックから帰ったら、すっかり秋になっていた。空はライトブルー、リンゴの木は実をたわわにならせている。空気は乾いてすんでいる。樹木は薄い色合いを醸し出している。ようやく論文に心が戻ってきた。一気に固有原理に関して明確な線がとれた。やはり休むことはよいことらしい」。
「10月5日(水) 論文調子良い。能力そして質の問題は乗り越えた。後は時間の問題だけになってきた」。
「10月17日(月) アメソス(無中項)を呪って自分は死ぬだろうと思ってきた。この語故にどれだけ無駄に時が流れていったことか。しかしようやく最も基本的なことに気付いた。・・僕は愚かだから人が短い時間で身につけることを長い時間かけてようやく修得している」。
「10月20日(木) アメソスに絶望している。こんなに苦しいことがあるか。10年解らずにいる。神の存在の次に解らず悩んでいるのがこのアメソスとは。とはいえ、人生が何のためにあるかも解っていないではないか」。
「10月21日(金) ようやく一つの仮説に到達した。エイス・アメサ[無中項へ]とディア・アメソン[無中項を通じて]が持つ前置詞の違いがふたつの不可論証性につながる。いけいけ」。
「12月22日(木) 昨晩ディヴィッドが[私のペーパーを読んで]興奮して電話をかけてきた。今日ディヴィッドとチュートリアル。彼は100%同意してくれた。これでアメソスにけりがついた」。
「89年1月21日(土) 朝、快晴。確実に僕は論理的思考、哲学的思索において成長している。今振り返ると去年は哲学的に飛躍の年だった。これで哲学を教えることができるであろう。僕の歴史は確かに神様に導かれている。神は僕の願いをかなえてくださるであろう。それよりも一番良い方向に導いてくださるであろう。独身可、失業可なりだ。今にして思えば自分の20代は何だったのだろう。惨憺たるものだった。哲学的には無に等しかった。しかし、信仰がわかったのだから良しとすべきか。30代は哲学の時代で、そして40代で信仰と哲学をつきあわせてみよう。関根正雄先生が留学当初「罪の許しと戒めの下に立つことだけで力一杯哲学をやってきてください」と励ましてくださったことを思い出す。論文が秋には終わる見通しがついて何かうきうきうれしい。昨日セクションEの骨格ができた。公理論はなかなかおもしろい」。
「2月1日(水) エルスフィールドでディヴィッドとチュートリアル。哲学することの中心に触れた感じだ。必然性と説明。世界が開けていく興奮を味わった」。
「2月18日(土) ディヴィッドとまた素晴しいチュートリアル。矮小な人間には哲学はできない。人間を相手にしていては哲学はできない。ディヴィッドの片寄りのなさ。ちょこざいさのなさ。理性を信頼したオーソドックスな思索は片寄った矮小な人間にはできないことだ。僕が少々問題だと感じるところを決して彼は見逃さない。彼には大きな問題として抗うべくもなく映っているのだろう。アグリーメントということはあるものなのだ。ロゴスで互いに世界を堀りあうということはあるものなのだ。彼は堀り損ねた場合何が間違っているのかを明確にしてくれる。僕のアイディアをよく理解してくれる。「セクションA エピステーメーにおける科学的そして認知的側面」或る意味で画期的な発見だった。昨日「ヤッタ」と原稿片手に彼の部屋に飛び込むと「Welldoneウエルダン」と向かえてくれた」。
「4月27日(木) 知性革命とでも言うべきことがこのイギリス滞在中に起こった。それはどんな問題が提出されてもそれを分析する力がついたということだ。情報量ではない、分析力そして議論の構成力だ。この知性の明晰性こそ僕が苦しみながら求めてきたことなのだった。人間が考えていることで全然解りえないものはないように思えてきた。後は慣れの問題だ、その領域で時間を費やしさえすれば何とかなるような気がしてきた。思考力がついたのだろう。楽しくてしようがない。知ることの喜び」。
「5月25日(木)・・アリストテレスと分析哲学と宗教哲学を自分のプロフェッションにしたい。日本と世界の平和に何らか役立ちうるかもしれない。1932-33年のウクライナにおけるスターリンによるマンメード・ファミン(人工飢餓)のドキュメント番組を見た後、「哲学は無力に感じる」とディヴィッドに言ったら、彼は少し不快な表情をしたことを思い出す。彼のようなプロの哲学者はそのような性急な答えをださないのだ。最後的に世界を支える理性の牙城たらんとしているのだ。理性と信仰を前進させることによって、少しでも世界の真実を明らかにしてゆきたい。こちらに来て初めて知性というもののすごさを知った。ロゴスで世界を掘っていく力、それを哲学は与えてくれる。・・今僕は知的好奇心の塊と化した。今まで見えなかったものが見えるようになった、自分自身そして人間というものについて」。
・・・今このように日記を読み返しますと道化のような日々でしたが、とにかく多くの人々の助けにより終えることができました。今学期チューターのJ.バーンズ先生は私が彼を引用するたびに意見を異にしていましたので、激しい攻防を覚悟しておりましたが、先生はシンパテティックで「とても良い」と評してくださりほっとしました。その後先生は手紙を下さいました。「親愛なる千葉君、手紙ありがとう。君の議論は今や一層明瞭になりまたより説得的になっていると真に思う。私は完全に折伏されたとは言わない。しかし、それは恐らく私自身の頑固さの反映にすぎないのであろう。(I won't say that I'm wholly convinced, but that is probably only a reflection on my own stubbornness.)」。
また、カリフォルニアに招かれていたディヴィッドからは各章に対する批評の後に次のようなコメントを頂きました。「君の論文は哲学的に興味深くまたかなりよく論じられている。私には 博士号基準を満たしていると思う。そのことは過去2、3年間における大きな進展を示している。君は君がなした進歩を喜ぶがよろしい。そしてお祝に値する。私は知っている、君が時に道は長くかつ険しいと感じていたことを。しかし、今や、終りが視野に入ったのだ!(I know that sometimes you have felt that the road is long and difficult. But the end is now in sight !)」・・
5 Farewell
私はこうして、1989年11月に博士論文を提出し、1990年2 月14日にスクールズでM.ウッヅ先生とC.カーワン先生により口頭試問(Viva)を受けた。翌日、チャールズ先生が電話で「ハロー、ドクター千葉」と呼びかけてきた。彼等の当局への報告書には、「極めて野心的」であり「明らかにとても徹底したテクストの一つの読みであるものを基礎にして、アリストテレスの科学の理論における多くの重要な論点の興味深い議論を含んでいる」と評されている。私はかの地の生活を何の資格身分もなく、言葉をかわした人もなく、ゼロから始めた。2ヵ月の滞在許可しかもらえず、ロンドンの場末のユースホステルで途方に暮れていたことを思い出す。その後の5年間において筆者はオックスフォードにおける知的訓練の伝統によって変えられた、そして教育の力ひいては人間の愛の力を信じるようになった。2月27日に聖書学のG.グラゾフが主催するダヴィンチ・ソサイエティーの例会とお別れ会をジョイントでポルステッドロードの私の下宿で持った。私は"Fides quaerens intellectum(知解を求める信仰)"という題で発表した。翌朝、「Farewell(さよなら)」という詩をオックスフォードとその地の人々に捧げ、イギリスを去った。
さよなら
さよなら、Oxford、大学街。
スカイライン、牧草地、丘そして人々からなる星雲状の集塊。
地下室のワイン、教会の鐘の音、車の臭い、手の掌に柔らかい中世写本の皮表紙、そして白金の壁がおりなす不可解な調和の街。
早春の晴れた一日あなたは生命にはずむ。
あなたの造りし物たちは、春一番の暖かい南風に呼応して、
深い動きのない眠りから目覚め、生命を吹き返す。
春の息吹がここかしこに感じられる。
あなたは夏の暑い朝あでやか(gorgeous)だ。
あなたのジョージア朝風のカレッジ壁やヴィクトリア朝風の庭園は、
あざやかな色とりどりの薔薇と紫色の藤にあやどられている。
夏の夜明けあなたは静穏(intimate)だ。
紫色に発光する生命のきざしが、サウス・パークのきわに明け初めるころ、ニューカレッジ・レーンのナルニア風ランプが周囲の闇を際立たせている。
あなたの恵み深いセント・メアリーズ、ボードリアン、キャメラそしてシェルドニアンは昼の強度の活動の後、沈黙のうちにたたずんでいる。
あなたは休んでいるのだ、あなたの胸元で眠る息子や娘の寝息を優しくつつみながら。
9月の午後早くあなたは美しい。
観光客の後、学生の前、あなたは一時の落ち着きを楽しんでいる。
空はより青く、より高くなる。
秋の太陽のひざしが、そよ風に揺れる緑の枝葉と戯れに踊る。
広々として穏やかなウッドストックロードで、光りと影のかくれんぼうを繰り広げる
サワサワ揺れる木々のトンネルを、一人自転車乗りがくぐりぬける、
秋の音と輝きに髪なびかせて。
秋深い夕暮れ時にエルスフィールドから見るあなたは厳粛だ。
大きく赤い丸い太陽があなたの描くスカイラインのむこうに沈む。
夕陽は、名残りおしそうな雲の色がだんだんかすんだ白から
あかね色へ、そして深い群青色へとかわり、やがて漆黒の闇にのまれる。
夜と昼が、西の地平線で競う時、あなたは自分のシルエットを
カンヴァスの微妙な色合いに符牒しつつ描きかえている。
あなたの尖塔とピナクルはそのゴシック調の気高さのうちにあなたを引き上げる。
あなたは、夕暮れ時の朧な光りに浮かびつつ、
ただ白靄の上にそびえるセント・メアリーのスパイアーとなる。
それはまるで天界への最後の証し人が残されているようだ。
冬の雪の朝あなたはロマンティックだ。
アディソンの小径は足跡に汚されていない、鹿と栗鼠のそれを除いて。
「学者の庭」にそって流れるあなたの小川は、白い結晶の粉を常ならざる静寂さの中にひきこんでいる。
小川のカモは凍えて動かない。
さよなら、私のアルマ・マター(母校)
あなたは東の国からの羽毛そろわぬ根なしの学生を
優しく柔和な腕で抱きとめ育んでくれた。
それはまるであなた自身がボアーズ・ヒルやカムナーそしてエルスフィールドの丘に守られ、アイシスやチャーウエル川に育まれてきたかのように。
あなたはそのはじまりからエクレシアの体だった。
「ドミヌス・イルミナティオ・メア(主は我が光)」があなたの魂(こころ)であった、そして今そうであり、またそうであり続けるであろう。
何世紀ものあいだにどれほど多くの祈りがあなたの主に捧げられてきたことか、
セント・メアリーの尖塔高く舞い昇り、中世の最後の魔法がチャペルの壁の背後で今だに囁かれている。
伝統は思想より強い。
あなたの気風が密やかに人々の魂の底にしみこんでいく。
だからあなたの子供たちは知的に正直に霊的に深く昇るのだ。
あなたの胸元で鍛えられ豊かにされたあなたの息子や娘は幸いだ。
あなたの開拓心、堅固な議論と気品は彼らのものだから。
あなたが永遠の平和へと眠りにつくその日まで、真理探究の証人として人間の延長された影であり続けんことを。
さよなら、Oxford、「主の葡萄畑」。
結論
これは一人の人間に必要であったものが神の憐みにより備えられたことの一つの証にすぎません。各人は各人なりの仕方で導かれていることを信じます。
一度限りの復活―奇跡物語序論(その四)
一度限りの復活―奇跡物語序論(その四)
2021年1月31日
1テクスト 「第一コリント書」15章
「35ひとは問う、「死者たちはどのように甦らされるのか、どのような身体(sōma)で彼らは来るのか」。愚か者よ、汝が蒔くものは、もしそれが死ななければ生命にもたらされることはないではないか。また汝が蒔くものは、やがて成るべく身体ではなく、麦であれ何か残りのものであっても、裸の種粒である。神は自ら意図したように(kathōs ēthelēsen)そのもの[麦]に身体を、そして[生物]種(しゅ)のそれぞれに固有の身体を与えていたまう。すべての肉(sarx)[身体を持つものの生命原理]は同じ肉ではなく、かたや人間たちの肉があり、他方獣たちの別の肉があり、鳥たちの別の肉があり、魚たちの別の肉がある。40そして天上的な身体もあれば、地上的な身体もある。かたや、天上的なものどもの栄光があり、他方、地上的なものどもの栄光が別にある。太陽の栄光と月の栄光は別であり、また星々の栄光も別である。
死者たちの復活もまた同様である。朽ちるものに蒔かれ、朽ちないものに甦らされる。価値なきものに蒔かれ、栄光に甦らされる。弱さのうちに蒔かれ、力能のうちに甦らされる。魂体(魂的身体)(sōma phsukikon)に蒔かれ、霊体(霊的身体)(sōma pneumatikon)に甦らされる。魂体があるなら、霊的なものもまたある。45こう書かれてもいる、「最初のひとアダムは生きる魂となった」、最後のアダム[キリスト]は生命を造る霊となった。しかし、霊的なものではなく魂的なものが最初であり、続いて霊的なものである。最初のひとは地に基づく土製であり、第二のひとは天に基づく。その土製の者[アダム]がそうあるように、土製の者たちもそのようにあり、そして天上の者[キリスト]がそうあるように、天上の者たちはそのようにある。ちょうどわれらもまた土製のものの形姿(eikona tū choikū)を担ったように、われらはその天上のものの形姿(eikona tū epūraniū)をも担うであろう。50兄弟たち、われ語る、肉と血(sarx kai haima)は神の国を相続することはできない、さらに朽ちるものは朽ちないものを相続しないと。
見よ、われ汝らに奥義を語る。われらすべてが眠りにつくということにはならず、かえってわれらすべてが、不可分の間に、瞬く間に、最後のラッパにおいて、変化させられるであろう。というのも、死者たちもまた、ラッパが鳴ると、不死なる者たちとして甦らせられそしてわれらもまた変化させられるであろうからである。というのも、この朽ちるものが朽ちないものを着させられ、そしてこの死ぬものが不死を着させられねばならないからである。しかし、この朽ちるものが朽ちないものを、死ぬものが不死を着させられるであろうとき、そのとき書き記された言葉が出来事になるであろう。「死は勝利に飲み込まれてしまった、死よ、汝の勝利はいずこにある、死よ、汝の棘はいずこにある」[Isaiah.25:8,Hose.13:14]。罪が死の棘であり、罪の力能が[罪の]律法である。われらの主イエス・キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する。かくして、わが愛する兄弟たち、あらゆるときに主の働きにおいて満ち溢れつつ、汝らの労苦が主にあって無駄なものではないことを知りつつ、動かされることなく、堅固たれ」(1Cor.15:35-58)。
2 宇宙のなかのわれら
奇跡物語序論第四回目です。難しくて恐縮です。今日この限られた時間では「第一コリント」のこの箇所を解説することはできません。地上のものから天上のものへの刷新がパウロにより緻密にでしかも大きなスケールのもとに議論されていることを感じ取っていただければ幸いです。今日も奇跡物語の序論として一般的に語ることを許してください。今理解できなくとも、何度も聞いているうちにそしてご自身で聖書にとりくんでいくうちに少しづつ理解がすすむことでしょう。この一年の挑戦は聖書を正しく引用している限り、何らか伝わるはずだという信念のもとに、聖句を引用しながら講義をすすめてきました。
神について語ることは宇宙の果てのその向こうについてお話しすることになります。土的な生成物についてまた天上のものごとについて、本来ならあらゆる学問を究めねば理解できない話でもあるでしょうが、その向こうにおられる一切の創造者がこの惑星にわれらと同じ肉をまとい、われらと同じ種類の身体を生きたということにより、アクセスを得ているのです。聖書はその方についての証言なのです。わたしどもは人間について生物について、そしてこの惑星について宇宙について少しずつ知見を蓄積していますが、全知で全能者の視点からすれば、微々たるものにすぎないのです。わたしどもはあたかも知者のごとく高ぶったときには「哀れな道化」(シェークスピア)と化すのです。喜ばしい探求者なのです、自己について世界について。
トマスが「主よ、汝がどこにいかれるのかわれらは知りません。いかにしてわれらはその道を知ることができますか」と訴えると、イエスは言います。「わたしが道であり、真理でありそして生命である。誰もわたしを介するのでなければ父のみもとに赴くことはない。もし汝らがわたしを知ってしまっているなら、わが父をも知ることになるであろう」(John.14:5-7)。
宇宙の創造者、万軍の主なる神へのアクセスはナザレのイエスを介して為されるのです。宇宙の法則は数式により少しずつ解明されてきていますが、水溶液にいれられた脳に譬えられる知性だけの数学者でも物理学者でもなく、パトス(感情等の身体的反応)を理解する人格的な神に出会うにはナザレのイエスを介してしか為されえないという主張は道理あるものです。もちろん神の痕跡は神の憐みとして至る所に見いだされるでもありましょうが、人類に対する神の意志は最も明白にナザレのイエスを介して知らされています。「わたしは父のうちにおり、父はわたしのうちにいます」(14:10)。
3権威ある言葉にふさわしい出来事
ナザレのイエスが神の子であり神の意志を体現しておられることを知る、その主要な手がかりはイエスの山上の説教が「権威」(Mat.7:29)をもって語られたということです。ここで権威とは言葉に偽りがなく、そしてそれをご自身実践し、自ら言行一致の率先垂範を示し、しかも聞く者にご自身の愛の力により自発的に彼に従いたいという熱望を生みだし、愛を実践せしめるその力能を伴った人格的特徴のことです。彼は神の意志を一言一句、一挙手一投足において持ち運んでいたのです。
始めから脱線ですが、この一年この集会に皆さんの参加を十全に得ることはできませんでした。福音の喜びを伝えるさいに、この共同生活のなかでは自らの生活を偽って見せることはできません。「人生これ演技なり」(シェークスピア)であるとすれば、へぼ役者であったのだと思います。昨年冒頭にお話ししましたように、この福音の喜びをby showing an example(ひとつの例をしめすことによって)伝えたいと思って努めてきましたが、あまり美しい事例ではなかったことを認めざるをえません。わたしの善きものを捧げてきたつもりではありますが、私の語り方に問題があったことを認めます。来年度はもっと福音書の現場を彷彿させるような語り方を試みたいと思います。実は哲学の訓練によりそのような詩人や文学者の心が育たなかったこと、むしろ減衰したことを告白しなければなりません。そのなかで何か真実であり権威がにじみ出て、おのずと話を聞きたいと思ってもらえるような生活を心がけたいと思います。こちらに赴任するとき、なにはなくとも喜んでいようと思いつつ、赴任しました。マザーテレサは福音の喜びに到達するべく、毎朝2時間自分だけの時間をすごすそうです。うなじ堅いわたしは喜びにいたるには相当の時間を費やしていることを告白しなければなりません。それでも「柔和の霊」を頂きつつ、この喜びを伝えていきたいと思っています。始めからの脱線で失礼しました。
さて、われわれが三十回かけて学んできた山上の説教は人類の誰かが言わねばならない究極的に人格的なことがらであり、そしてその道徳訓は人類のなかの少なくともひとりにより実際に満たされたこと、それがナザレのイエスが神の子であったことの大きな証です。或るひとは同じ人類にそのようなひとが一人いたというだけで、人類に対する絶望から救われる思いを持つこともありましょう。御子の清さそして御子の力能が従う者に伝達されなにがしか山上の説教を生きることができるものになることがこの二千年証言されてきました。その事実は或る人々を人類への絶望から解放してくれることでしょう。
イエス以外には到底満たされないひととしての根源的な道徳が十字架に至る信の従順により満たされたのです。イエスはその生涯を通じてそれにより「まず神の国とその義とを求めよ」(Mat.6:33)と信仰に招いたのです。まず神との正しい関係を築くことを通じて人生と世界に秩序が与えられるのです。これは創造者と被造物の正しい関係を伝えています。
ユダヤの文脈ではその道徳は「業の律法」と呼ばれたものであり、モーセを介して十戒として知らされた神の意志です。イエスはそのモーセ律法を純化、内面化し、「律法の一点一画」をも廃れないと言うことによってそれを愛に収斂させています。「律法の冠」(Rom.13:9)である愛が満たされるとき一切の律法が満たされます。自らが宇宙の創造者であり自ら救済者である神の御子であるという「神の子の信」(Gal.2:20)を貫き、人類への愛をこの肉において成就しました。神はそれを嘉みして、パウロによれば「業の律法を離れて」、「信の律法」として、つまり「神の信」と「神の義」のあいだに「分離がない」ものとして知らしめました(Rom.3:21-27)。信に基づく義のほうが業に基づく義よりも、より一層神ご自身にとって根源的であることをイエスの生涯が伝えています。彼はご自身が神の子であるという信のもとに、悲惨と罪に沈む自らの同胞に深い憐みをいだき、同胞が「天の父の子となる」(Mat.5:45)べく罪の赦しを実現し罪から解放したのです。これが福音という救いをもたらす神の力能なのです。
4罪の赦しをもたらすイエスの甦らし
所謂「奇跡」という稀なる不思議な現象は、聖書的には、御子ご自身がこの地上にて神の秩序の回復に向けて為し給う神の力能の働きなのです。そしてその力能の実践は常に宣教の言葉に相即しているものであることが特徴であり、所謂魔術との異なりを示すものです。魔術は自らの力を誇示するにすぎないものです。憐みの言葉に相応しいものが憐みの業です。双方とも人々を窮境から救い出します。所謂奇跡は主の憐みの顕われなのです。
このロゴスとエルゴン、言葉と働きの展開についてイエスとパウロのおかれた状況の違いにはとても興味深いものであることをお話してきました。イエスは十字架への途上の生を信によってリアルタイムに生きていたのです。福音書記者たちはそれを伝記として伝えています。もし彼が十字架から降りてきてしまったなら、父なる神に喜ばれず、ご自身が信に基づき義である方であることの啓示の媒介として用いられなかったそのような今・ここをナザレのイエスは生きていたのです。
パウロにおいては父なる神の専決行為である死者の甦らしはそれを信じる者を義とするためのものであると特徴づけることができました。「彼はわれらの背きの故に死に引き渡され、われらの義化故に甦らされた」(Rom.4:25)。福音とは信じると神が看做す者を救い出す「神の力能」でした(Rom.1:16)。イエスの復活がその信仰を引き起こし、信に基づく義を実現させると特徴づけられました。復活は神ご自身のイエスの生涯が自らの意図を十全に遂行したことそしてそれ故に彼の生涯が罪に対する勝利であることを知らしめるものであると、パウロは受け止めることができたのです。イエスはユダヤ人やローマ人により冤罪を帰せられつつも十字架に至るまで信の従順を貫きました。彼は人間の偽りにより死刑に処せられましたが、イエスはその処刑を自らを磔る罪人たちの代わりにそして彼らのために受忍したのです。神はイエスが何ら罪なき者でありながら人類の身代わりの死を遂行したことを嘉みしました。
イエスの十字架刑において神は信の従順を貫いたイエスに罪人として罰を与えるという類の不正を行っておらず、刑罰代受・代罰(vicarious punishment)ということではありません。パウロは言います。「神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為した、それはわれらが彼において神の義となるためである」(2Cor.5:21)。ここでイエスは罪びとの身代わりとして罪人の位置につくことを自ら為さったが、罪を犯したのではなく、人類の罪を担い、自らの義の上にわれら人類の罪を着たのです。
そこではもはや神は各人の背きを「彼ら自身において考慮することなしに」(2Cor.5:19)、キリストにおいて考慮することによって、「神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為した」のです。業の律法を適用するとダビデのような姦淫者は救われないのですが、パウロはダビデの詩を引用しつつこう言います「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものとみなされる。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される。ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:4-8)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みしたのです。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦します。
神は身代わりの罪を罪なきイエスに罪なきままに担わせました。そのことによって、キリストの死に古き罪人は共に飲み込まれ死んでしまいました。しかし、それはその死が生命に飲み込まれるためです。「われらはこのテント[身体]のなかにいるあいだ、われらは重荷を担いつつ呻いているが、彼にあってわれらは脱がされることを欲しているのではなく、[身体の]上に着ることを欲している、それは死すべきものが生命によって飲みこまれるためである」(2Cor.5:4)。われらは重荷に喘ぐ身体を脱ぐのではなく、キリストが担い給うたのはその身体の重荷であり、彼はその肉のうえに生命を担ってい給うたからこそ、身体に帰属する死は生に飲み込まれるのです。神において、イエスが「罪を知らざる方」であるという認識は揺るぎませんが、この身代わりを認可しました。罪なきままに人類の罪を担うことを「罪と為した」とパウロは報告しています。
復活はこの歴史的前提のもとでの永遠の生命の証、罪に対する勝利の証であり、信じる者の罪を赦し、義とするものなのです。復活はイエスを神の子と信じる者を義とすることへの信仰を引き起こすものです。
5「一度限り」の再現性のない復活は信仰の対象であること
復活は現代のわれらにはもはや見られるものではなく、信じられるものです。唯一の御子以外にこの人類の歴史において復活が生じた場合、もちろんそれは神の自由に属しますが、スキャンダルだと思います。キリストの復活はその死とともに「一度限り」のものでした。それは神ご自身による御子への信実を示すものでありました。彼の一度限りの死と復活では人類の救いに十全でないとすれば、他の誰かの十字架と復活を必要としており、それは御子による信の従順の死が弱弱しきものであったものとして御子への父なる神による不信さらには侮辱を含意します。十字架も復活も人類の歴史で一度限りのものでなければならないのです。
他の誰であれ復活はこの古い天地が巻き去られるまで、起こってはならないことだと思います。それ故にこそ復活は目撃者たちはさておくとして、次世代の者にとっては信仰の対象となるのです。再現性のないものは科学の対象とならないでありましょう。神学的な制約のもとに、あれは一度限りであったのです。人類の罪は「一度限り」御子において贖われたのです。パウロは言います。「もしわれらがキリストと共に死んだなら、キリストは死者たちのなかから甦り、もはや死ぬことはないであろうことを、われらは知っているので、彼と共に生きるであろうことをもわれらは信じる。というのも彼が死んだ死とは罪に対し一度限り死んだところのものであり、彼が生きる生命とは神に対して生きるところのものだからである」(Rom.6:8-10)。
ヤイロの娘やラザロの甦りは蘇生(resuscitation)であり、イエスの復活を指し示す象徴的な先駆ではありましたが、先駆的ではあってもイエスの復活とは異なるものであると思われます(Mac.ch.5,John.ch.11)。イエスの地上での復活体は魚を食べることができ消化器官を備えていたようです。また脇腹に槍の穴があり、指をつっこむことを疑うトマスに促しています。他方、ドアの通過性があり、単なる三次元の身体ではありません。これは人類において一度だけ生じたため、復活の主との聖霊を介しての共なる生は信仰箇条に留まります。
他方、二千年前のユダヤの地方において、復活を目撃することのできた幸いな人々がいます。当時、先週学んだように、エマオの途上の弟子たちが興奮のうちに復活の事件を語り合っていたように、数百人に目撃されています。パウロは証言しています。「キリストは書に即してわれらの罪のために死んだそして葬られたそして書に即して三日目に甦らされた。そして彼はケパに続いて十二人に顕れた。続いて五百人以上の兄弟たちに一度限り顕れた。・・もしキリストが甦らされなかったなら、われらの宣教も結局空しいものであり、汝らの信仰も空しい」(1Cor.15:4-6,14)。このようにパウロによれば、復活はイエスの身代わりの死に続き、ひとびとの罪を赦し、和解をもたらすものとして位置付けられます。「汝ら神と和解せよ」(2Cor.5:20)というパウロの促しは死者の復活を信じることそしてそれ故に「新しい被造物」となることの促しです。「誰であれキリストにあるなら、新しい被造物である」(2Cor.5:17)。これは旧約聖書以来の罪の贖いをもたらすものとしての神の人類への贈りものなのです。パウロはキリストの復活のゆえに、新創造を語ることができたのです。
6 われらの思いにすぐる神の平安
神の力能は各人が自らその存在と働きのあることを信じて、実験してみる以外に体得できないそのようなことがらです。「あらゆるヌース(叡知)を超えている神の平安が汝らの心をそしてキリスト・イエスにある汝らのノエーマタ(叡知内容)を護るであろう」(Phil.4:7)。このいかなる理解をも超える神の平安が現実のものでなければ、キリスト教史においてあれほどの殉教者が平安のうちに死んでいくそのような状況を想定することは難しい。そこでは正義のために迫害されても、喜んでいることができる、言ってみればこの世の生死を突き抜けている心の態勢にあるからです。「われには生きることはキリストである。死ぬことは益である」(Phil.1:21)。
われらの思いにすぐる神の平安がわれらを支配しているとき、神の静かな力能を実感します。山上の説教に即して生きてみようとしない限り、その実現はおろか、イエスご自身がその途上で体験した神の援けを経験することもできないでしょう。二千年間多くの人々がその信仰により励まされ喜びを経験してきたのです。そしてそのような神の力能の経験の基礎には神の信実に対応するひとの信仰が不可欠でした。信仰はひとが神に対して取りうる心魂(こころ)の根源的な態勢、構だからです。認知的、人格的に十全な神が御子において人類に対し信実であったとき、不十全な人間は神の信についての認識にいたらずもそれに信によって応答することだけが偽りのない唯一の態度なのです。心魂の奥底で偽りがあれば、すなわち二心や三心があれば、もうすでに神と正しい関係をむすぶことはできない。これは山上の説教において学んだことです。「信じます、信なきわれを憐み給え」(Mac.9:24)。神がイエス・キリストにあって人類に対し信実であったとき、それへの適切な応答は信実であろうとすることです。神の力能とその働きであるキリストにおいてあらわされた愛を信じ、そのもとに生を構築する以外に神の力能を知ることはないのです。これは懐疑のうちにあるものはその当該のものごとを知ることができないという一般的な知識と信念の関係に基礎づけられるものです。ヒュームは真理に対するこの根源的態勢としての信のもとにいません。彼は、信念の形成は感覚的に得られる証拠と「比例的」でなければならぬと主張していました。それ故に、人間を秩序あるつまりものごとに理・ロゴスが内在している自然の中で正しい位置に置くことができていません。
「信」を心魂の根源語として理解することは道理ある主張です。宇宙万物の創造者、時空の創造者その方が一切を支配しておられ、われらの認知的、人格的力能はとても貧弱であり、限られているとき、それを突破するのは宇宙の創造者がいまし、その御子が栄光を捨て、われらのために受肉しひととなったその愛を信じる以外に適切な態度はとりえないのです。パウロは言います。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。
そしてその信が生起する場所は心魂の根底にある「内なる人間」と呼ばれる部位です。そこは常に「刷新」が必要とされる部位であり、内なるひとは神の霊に反応する「霊(プネウマ)」とその認知的働きである「叡知(ヌース)」により構成されています(Rom.7:22-24,7:6)。ひとは土から造られている即ち自然的な存在者であり、その自然的な身体を持つものであるひとの自然的な原理は「肉」と呼ばれます(Rom.6:19)。肉の底に「内なる人間」が神の力能を運ぶ聖霊に触れるごとに生起し、身体とその生の原理である肉を刷新します。
ヒュームは「人間は必ず死ぬ」と主張していましたが、「人間」を構成する二つの部位「肉」と「内なる人間」のうち「人間」により「肉」を理解する限りヒュームに同意することができます。しかし、「内なる人間」は神の霊に反応する部位として生物的に死ぬことはない。
このように理解するとき、神の力能に反応しうる部位がすでにわれらのうちにあるからこそ、所謂奇跡と呼ばれる病気の快復や不思議なる力ある愛の業がわれらを通して遂行されます。右の頬を打たれて左の頬を向けることはもはや奇跡です。身体をもった存在者としてわれらの肉によっては為しえない出来事です。このエヴィデンスを積み重ねていく以外に、山上の説教の言葉の力とイエスご自身による癒しや所謂奇跡における神の力能の顕現を確かなものとして経験することはできないでありましょう。
7結論
あまりに尋常ならざる事件が歴史のなかで生起しました。単にモーセ律法の遵守による義の追求では到底まかないきれない神の知恵が「信に基づく義」の世界を切り開いたのです。心魂の根底に信があることにより、その信仰が嘉みされるのです。復活は一度限り人類の歴史に生じるものでなければならないという理解はこのように道理あるものです。再現性のないものは信仰するしかないのです。もちろんそれは理性の逸脱からくる狂信ではなく、恐れというパトスの過剰からくる迷信でもありません。正しい信は認知的にものをよく見知ることのできるようになり、人格的に「律法の充足」(Rom.13:10)である愛を満たすようになるのです。
御子の甦らしを介して認知的、人格的に十全な神はアブラハムに対しひいては人類に対する自らの約束に対して信実であったのです。そしてその信実のもとに人類への愛を御子の受肉と十字架そして復活により示されたのです。神の信に心魂の根源でまっすぐに「信じます」と応答すること、それが正しい信仰です。復活はモーセ律法の遵守によってではなく、心魂の根底に立ち返り信仰によって受け止められるものなのです。そこでは、例えば、自ら復活するなどと思い込み狂信により自死したり、幽霊のようにイエスは出没するという迷信から解放されるのです。見えないものである以上、正しく信じるしかないのです。そしてイサクの捧げに見られるアブラハムのような真っすぐな信が正しいものとして嘉みされるのです。パウロはこのようにナザレのイエスの信の従順の生涯から神のメッセージを読み取ったのです。
へブル書の記者は言います。「信仰によって、ノアはまだ見ていないものごとについて神の御告げを受けたとき、栄光を帰しつつ、自らの家族の救いに向けて箱舟を造り、その信仰を介して世界を罪に定め、またその信仰を介して信に即した義を受け継ぐ者となった」(Heb.11:7)。またパウロは言います。「われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ、自らのうちで呻いている。24なぜならわれらは希望により救われたからである。しかし、見られる希望は希望ではない。というのも、誰が見ているものを望むであろうか。25しかし、われらが見ないものを望むならば、忍耐をもって待ち望む」(Rom.8:23-25)。
パウロは各人に「汝が汝自身の側で[自らの責任ある自由において]持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と命じ、自らの責任ある自由のもとで神の信義がイエスにおいて啓示されており、自らはそのもとで信に基づき義であると神に看做されていることを信じるよう促されています。十字架だけで復活がなければ、われらは神が罪なきイエスが冤罪のもとに死に処せられることを放置したないし認可し、ご自身は不義ではないかという嫌疑に十全な応答ができないことになります。復活はイエスの生涯は神に嘉みされたものであり、無罪であることを歴史のなかで知らしめる行為として位置付けられます。復活という所謂奇跡も神による人類への愛という「神の力能」の働きだったのです。「聖性の霊に即して力能のうちに死者たちのなかからの甦りに基づき神の子と判別された」その方についてこそ、われらに信仰に基づく義を与える福音(良き音信(おとずれ))が語られるのです(Rom.1:4)。神の御子が人類の歴史に関わった以上、人類の歴史においいて一度だけ生起した、そして二度目を必要としない一度限りの復活を信じるかが問われています。所謂「奇跡」ではなく神の愛の力能を信じるかが問われています。
復活をめぐって―奇跡物語序論(その三)
復活をめぐって―奇跡論序論(その三)
日曜聖書講義2021年1月24日
[聖書朗読はルカ24章。なお、録音は4節まで。次回あらたに5節以下を変更のうえ掲載します]。
1テクスト
「行ってヨハネに伝えよ。盲目の者が見えるようになり、歩けない者が歩けるようになり、皮膚病の者が清められ、聞こえない者が聞けるようになり、死者は生き返り、貧しい者は福音を告げ知らされる。わたしに躓かない者は幸いである」(Mat.11:4-6)。
2ロゴスとエルゴンの相補性―経験論と合理論の統一―
奇跡論の第三回目です。奇跡は基本的に神の力能の顕われであり、それは自然に反したことでも、自然法則への侵害でもない。それは基本的に神の国の現実がこの地上で何等か実現されることとして、治癒行為のように失われた秩序、健康を回復するものです。ひとが人間にとって非本来的な悲惨のうちに沈んでいるその苦境にある人々への憐みがイエスをして秩序の回復を願わせます。従来の「奇跡」という人間的な基準で驚くべき稀なることという理解は自らの認知能力の限界のなかでの主張にすぎず、一面的であることをヒュームの議論を紹介しつつ展開してきました。
感覚的知見と信念の形成は比例的であるとヒュームは言いますが、これは経験主義者の特徴であり限界です。ヒュームは時間的に先行する或る事象から後行する或る事象への「継起の恒常性」を帰納に基づき主張します。一つの事象と他の一つの事象の間の恒常性は感覚的経験の拡張により語れるが、しかし、ヒュームは双方の事象のあいだにつまり一般に「原因」と呼ばれる事象と「結果」と呼ばれる事象のあいだの因果性そのものを観察することはできないとします。例えば、針が風船を割りますが、針が次第に近づいて風船と接触するのを観察できます。そして続いて風船の破裂を観察します。これは何度やっても同様の観察が得られます。そこで継起の恒常性を認めることはできますが、原因と結果は観察されないとして因果性を認めない立場が展開されます。このようにヒュームは個別的な感覚知をあらゆる認識の源泉とし、そこからあらゆる経験的事象の説明を企てます。
しかしながら、人間は個々の多様な感覚知とは別に、経験に依存しないつまりアプリオリな確かさを持っています。それは矛盾律に即した言葉の展開力であり、アリストテレスにより「ロギケー(形式言論構築術)」と呼ばれました。矛盾律とは「AはAであると同時にAでないことはない」というものであり、実際にAなるものを見ることなしにもその主張が真であることが分かります。矛盾律はあらゆる道理ある思考の源泉です。「神学」のギリシャ語は「神」と「ロギケー」の合成語(theo-logikē)であり、感覚的に捉えられない神の理解についてはロゴスの確実な展開が不可欠なものとなります。そしてそれはアンセルムスの神の存在論的証明に見られるように、感覚に訴えずにロゴス(言葉)の力だけで、理性のみによりその存在が論証されています。イギリス経験論と大陸合理論という認識の源泉に対する二つの立場がありますが、アリストテレスやカントはもちろんその統一理論の構築をめざしたのです。
イエスもパウロも「ロゴスとエルゴン」すなわち一般的な言葉の展開と今・ここの個々の経験は相互に支えあうものと受け止めていました。イエスはパリサイ人は言葉だけで実践の伴わない偽善者であると論難します。弟子と群衆に「学者とパリサイ派の者たちはモーセの座についたのである。かくして、彼らが汝らに語るならそれらのことをすべて汝らは行いそして心に留めよ、しかし彼らの業に見習ってはならない」(Mat.23:2)、「ああ、なんということだ、汝ら律法制定者たち、人々に背負いきれない重荷を担わせながら、自分たちは汝らの指一本その重荷に触れようとしない」(Luk.11:46) と警告します。イエスは双方の統一を人生のただなかで他の誰にもできない仕方で遂行し完成させたのです。
パウロはその理論化とともに、イエスに従う者としてその証を自らの人生において遂行しました。パウロは言います。「もしわれらが生きるなら、われらは主にあって生きる、もしわれらが死ぬなら主にあって死ぬ。かくして、生きるにしても死ぬるにしてもわれらは主のものである。なぜなら、キリストはこのことへと、死者たちと生者たちの主となるために死にそして生き給うたからである」(Rom.14:8-9)。
ナザレのイエスは山上の説教でユダヤ教の伝統のもとにあるモーセ律法を前提に道徳次元に留まりました。そこでは、彼は聖霊の賦与や悪霊の唆しに一切訴えることなしに、道徳的次元のみでは正しい者ではありえないことを、そこに見いだされる偽りを、ロゴスの力だけであぶり出し、「神の国とその義を求める」ように、「天の父の子となる」その信仰に導いたのです。これは権威ある教えであったために、人々は彼につき従ったことが報告されています。この透徹した言葉に対応する振る舞い、働きが神の力能の顕われとしての数々の秩序を回復させる力ある業でありました。それはのちに「奇跡」と呼ばれましたが、神の国の秩序ある喜ばしい現実をこの地上で実現する神の力能の顕われだったのです。
ロゴスとエルゴン、言葉と働き双方の証あいなしには、一方、単なる言葉は思弁や独断となり、他方、単なる体験は混乱した雑多なものに留まることでありましょう。証あいの成功した場合には、ひとの行為の一挙手一投足、自然の個々の事象に秩序をもたらす理・ロゴスが内在していることでもありましょう。パウロはイエスにその完璧な成功例を見たのです。少なくともロゴスとエルゴンを彼らは緊密な関係におきました。ひとつの主張が優れたものであるかどうかの規準は、何であれ双方の相補性の展開力にこそあります。
3トレンチの奇跡論
ここで前回のヒュームの奇跡論に対する応答としてトレンチの奇跡論を紹介します。続いて、最も驚くべき奇跡と言えるイエスの復活を彼のリアルタイムの人生の進行の視点とそれが完成された段階で理論化したパウロの視点の相違を確認しながら、考察します。神学的には御子の復活は人類の歴史においてこの古い天地が巻き去れるまでに一回だけ生起しまたそうでなければならないものであることを確認します。
ヒュームの自然法則の侵害としての奇跡論に対する反論はR.C. Trenchの『奇跡についてのノート』に見いだされます。(Notes on the miracles of our Lord, R.C.Trench 『奇跡についてのノート』(Kegan Paul 1911(1846)).トレンチは「奇跡と自然」の章において「自然」と「世界」という概念を特徴づけて、「秩序」であるとします。イエスの驚くべき働きは病人の治癒に見られるように失われた秩序のもとにある世界の秩序を回復させる営みであったと論じています。そして自然こそ秩序の担い手である以上、奇跡は自然法則に対する侵害ではなく、より高度のより純粋な自然法則による低度の自然法則に対する凌駕でありさしあたりその中立化であると主張します。
「奇跡はかくして自然ではないが、それは自然に反するもの(against)でもない。どれほど人口に膾炙した日常的なものであるにしても、これらの素晴らしい神の働きについて自然法則の「侵害(violations)」として語るその言い方はまったく認可できない。それはわれらが知っている自然を超えて(beyond)、自然を超えそして自然のはるかうえ(beyond and above)ではあるが、しかし自然に反対するものではない。この区別をして怠けた概念であると言わせてはならない。怠けているどころか、スピノザの奇跡に対する全的な攻撃は(それは彼の真実の反論ではないが、というのもそれらはより一層深いところにあるからであるが、ともあれ彼の攻撃は)、われらがのちに見るように、真理のこの誤った陳述[自然を超えるか反対するかの二者択一]についていかに取り扱うべきかを彼が知っているところの優越さ・有利さ(advantage)に向かう。そして、それが正しく述べられたとき、ただちに場違いのものとなる。奇跡はかくして不自然なもの(unnatural)ではない。さらにそのようなものではありえない。不自然なものは、秩序に反するものであり、それ自身神なきものである、そしてそれゆえいかなる仕方においても神的な働きについて、われらがそれとともに為さねばならないそのようなものとして、肯定されえない。世界というもののまさにその観念が証言するものは、それが担うひとつの名前より多いものとして、それがひとつの秩序についての観念(that of an order)であることである。それゆえ、世界が失ってしまっているこの観念を世界をして実現させるべく可能にするものとなるところのものはそれ自身まさか無秩序なもの(a disorder)であることはないであろう。それどころか、真の奇跡はひとつのより高いそしてより純粋な自然である、妨げられることのない調和の世界から下りてわれらのこの世界に、この世界においてはそれほど多くの不一致が軋みまた混乱させているものであるが、その世界にやってくる、そしてこれを再びそのより高いものとの調和に再びもどしつつ、なるほどそれはひとつの神秘的で預言的な瞬間とは別のものではあるが。病気のひとの癒しはいかなる仕方でも自然に対抗するものと折り合いをつけられることはありえない、癒されたところの病は人間の真の本性に対立したものであることに鑑みて、即ち異常であるのは病であり、健康でないことであることに鑑みて。癒しは原初的な秩序の回復である。われらは奇跡に法則の違反を見るべきではなく、低い法則の中立化、より高度の法則によるさしあたりのその停止を見るべきである。これについては豊富な類比的な事例がわれらの目の前にはこれまでにまして前に進んでいる。われらの周辺世界において、われらは継続的に、より高度の法則による低い法則が停止されているのを目にする、力学による機械学、生命にかかわる法則による化学的な法則、道徳的なものによる物理的なものがそうである。しかしながら、われらはこう言っているわけではない、法則の何らかの侵犯があった、或いは自然に反する何ものかが通過するべくやってきたとか。むしろわれらは、ひとつのより偉大な自然の法則がより低度の法則を飲み込んでいることを承認する。・・・どこからわれらはあえて結論づけるだろうか、われらが知っているいかなるものもそれら[e.g.湖上歩行]を生じさせないがゆえに、そうするであろういかなるものもそのように存在しないと。それらはわれらの(our)自然の諸法則を凌駕している、しかしそれ故にそれらはすべての(all)自然の法則を凌駕しているということは帰結しない」(p.15-17)。
トレンチが主張するここで人々が認識している「われらの」自然法則と端的な「すべての」自然法則を判別することは道理ある。われらの知らない自然法則がわれらの知っている自然法則を凌駕することのあることは想定可能である。神学上、人類に一度だけ生じたであろう復活は生物的死が不自然なものであり、非本来的である限りにおいて、秩序を回復させるものとして捉えられる。人類にとって、死者を甦らせる神の力能が何らかの上位の自然法則の発動によって引き起こされることは想定可能である。聖書的にはもしアダムが罪を犯さなければ、それに引き続きすべての者が罪を犯さなければ、生物的死という同一事象は単に復活までの「眠り」と特徴づけられたことであろう。復活も人間の本来性の回復と捉えることができる。
トレンチはその書物の結論とでも言うべき議論をこう展開する。「むしろ、キリストを勝利のうちに水の上に保持したのはキリストの意志である。・・・奇跡は、その真実な観念によれば、法則の一時的停止(suspension)でも、ましてやその侵犯ではないということ、そうではなく一つのより高い法則の流入であることが既に力説されてきている。それは自然法則のただなかにおける一つの霊的な法則の流入である。そしてその領域と到達が拡張する限りにおいて、それが持とうと意図された優位性のそのより一層高いその法則への主張は、しかし人間の堕落のために、常により低いものを超えて保持してきているものであろう。しかもこのことに伴い、それがある日回復するであろう優位性に留まることの一つの預言的な予期と共に。まさにかくして、ここには、その意志が、外的な自然を超えて、神の意志との絶対的な調和のうちにあるとき、人間の意志の主であること(lordship)の徴があった」(p.307)。
神の意志に人間の意志が調和するとき、霊的な法則が自然法則のただなかに流入すると主張されている。人間の堕落をどう捉えるかはここでは論じることはできないが、神の力能の道理ある理解のためには、自然の秩序の理解と矛盾するものであってはならず、神が自然法則を介して時空に関与する可能性を許容する限りにおいて、われらはいわゆる「奇跡」を道理あるものとして理解することができる。トレンチのこのヒュームらの奇跡理解に対する反論は少なくとも理解できるものである。そして人間の理解力を限定してしまわないという意味でより道理あるものである。奇跡を一様な自然法則に反したものであるという理解そのものの背後にある、自分たちはその自然法則を十全に知っているという高ぶりと宇宙の栄光を目の前にした知性の背後にある心魂の矮小さを示している。
4 イエスとパウロの置かれた状況の相違―信の従順による十字架の道vs.復活の主に出会い主の生涯の勝利の視点からの福音の宣教―
ここでは所謂奇跡のなかの奇跡と言われるイエスの復活をめぐって、イエスの生涯という視点とパウロの宣教という視点から考察します。そのさいまず二人が置かれた状況の異なりを確認します。イエスは生身の肉においてあり、荒野で誘惑を受けており、またおなかもすきました。そのわれらと同じ制約のなかで自らの言葉に忠実であるべく、天の父への信の従順を貫き、十字架に至るまで彼の言葉に合致した働き・振る舞いを遂行しました。彼の真実そして憐みさらには常人ならざる柔和に惹きつけられ、多くの人々が彼に従うものとなりました。もし彼が途中で十字架から降りてきてしまったなら、神の意図がナザレのイエスにおいては実現されなかったかもしれない、まさに肉にある途上の生を完全に生き抜いたのです。彼にとって復活は聖書に基づき預言されてはいたものの人類未経験のことであり、信仰箇条であったのです。
パウロはそのイエスの信の従順の生涯に基づき神学理論を構築しました。彼はダマスコ途上で復活の主にであっており、福音が御子において実現されたその視点からイエス・キリストにおいて啓示された神の意志を記述し宣教しました。「これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である。すなわち、もし汝が汝の口において主イエスを告白し、そして汝の心のうちに神が彼を死者たちから甦らせたと信じるなら、汝は救われるであろう」(Rom.10:8-9)。歴史の展開のなかで彼は復活の主の視点からイエスの生涯を顧みることができました。人類にとってこの唯一の出来事は預言されていたとはいえまさに驚嘆すべきことがらであり、人生観、自然観そして存在論が一気に変革されるそのような出来事であったに違いないのです。パウロはこの働きが持つ勝利の視点から主の十字架に至る途上の生をも理解することができました。
ナザレのイエスは信の従順を生き抜く途上を経験しており、福音書記者はそれを旧約聖書の枠のなかで基本的に叙述していますが古い革袋(業の律法)から新しい革袋(信の律法・福音)に至る過程が描かれます。そこではイエスにおける言行一致の生命の躍動が新しい葡萄酒として古い革袋、イスラエル主体の旧約を破ってしまうそのような力動感溢れる彼の言葉と働きが記録されています。パウロはイエスの生涯を神の義・正義がそこにおいて啓示されてしまっているものとして受け止め、新約が成就したことを知り、そのうえで旧約と新約、業のモーセ律法と信の律法・福音を正しく秩序づけました。
もちろんパウロ書簡と福音書における所謂伝記の記述には視点の相違はあるものの相互に補いあうものであり、矛盾は見いだされません。カナンの女性が娘の治癒を懇願したさい、「わたしはイスラエルの失われた羊にしか遣わされなかった」と応答したとき、イエスはユダヤ人として旧約の伝統のなかに自らを自己規制していたことを明らかにしています(Mat.15:21-28)。しかし新しい葡萄酒は新しい革袋にいれなければ、破れてしまう。旧約の古い革袋のなかで彼は活動しましたが、あまりの福音、あまりの生命の故に、旧約は内側から破られてしまったのです。イエスが「子供たちのパンを取り上げそして犬に投げ与えることは良くない」と言うと、その女性は「主よ、そのとおりです、というのも子犬たちは主人たちのテーブルから落ちるパン屑を食べるからです」と言いました。そのとき、イエスは彼女お応えになった、「「ああ女の方よ、汝の信仰は大いなるものである。汝が望むようにことが成るように」。そしてそのとき彼女の娘は癒されたのです。旧約のただなかにそれを極性化、純化するそのただなかで、彼の憐みが迸りでるのです。信に基づく正義の一例がここで生まれました。罪赦され、そのうえ願いがかなえられたのです。彼の一言一句、一挙手一投足は、そのロゴスとエルゴンは信に基づく正義と信に基づく憐みの双方の実現に向けられていたのです。
パウロはこの事態を受け止め異邦人への福音宣教者となったのです。信は誰にとっても心魂の根源的態勢であるからです。そして信に基づき神の義を受け取り、その「義の果実」(Phil.1:8)としての愛を満たすという信の律法と業のモーセ律法を関係づけることができたのです。モーセ律法がめざすものは愛であり、愛が成就されるとき、神の意志である律法の一点一画たりとも過ぎ去らず満たされたと理解されています。
5この被造世界において一度しか生起しない復活をいかに理解できるか
このロゴスとエルゴンの展開についてイエスとパウロのおかれた状況の違いにはとても興味深いものがあります。パウロにおいては父なる神の専決行為である死者ナザレのイエスの甦らしはそれを信じる者を義とするためのものであると特徴づけることができました。「彼はわれらの背きの故に死に引き渡され、われらの義化故に甦らされた」(Rom.4:25)。福音とは信じると神が看做す者を救い出す「神の力能」でした(Rom.1:16)。イエスの復活がその信仰を引き起こし、信に基づく義を実現させると特徴づけられました。復活は神ご自身のイエスの生涯が自らの意図を十全に遂行したことそしてそれ故に彼の生涯が罪に対する勝利であることを知らしめるものであると、パウロは受け止めることができたのです。イエスはユダヤ人やローマ人により冤罪を帰せられつつも十字架に至るまで信の従順を貫きました。彼は人間の偽りにより死刑に処せられましたが、イエスはその処刑を自らを磔る罪人たちの代わりにそして彼らのために受忍したのです。神はイエスが何ら罪なき者でありながら人類の身代わりの死の遂行を嘉みしました。
イエスの十字架刑において神は信の従順を貫いたイエスに罪人として罰を与えるという類の不正を行っておらず、刑罰代受・代罰ということではありません。パウロは言います。「神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為した、それはわれらが彼において神の義となるためである」(2Cor.5:21)。ここでイエスは罪びとの身代わりとして罪人の位置につくことを自ら為さったが、罪を犯したのではなく、人類の罪を担い、自らの義の上にわれら人類の罪を着たのです。そこではもはや神は各人の背きを「彼ら自身において考慮することなしに」(2Cor.5:19)、キリストにおいて考慮することによって、「神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為した」。即ち神は身代わりの罪を罪なきイエスに罪なきままに担わせた。そのことによって、キリストの死に古き罪人は共に飲み込まれ死んでしまった。しかし、それはその死が生命に飲み込まれるためである。「われらはこのテント[身体]のなかにいるあいだ、われらは重荷を担いつつ呻いているが、彼にあってわれらは脱がされることを欲しているのではなく、[身体の]上に着ることを欲している、それは死すべきものが生命によって飲みこまれるためである」(2Cor.5:4)。われらは重荷に喘ぐ身体を脱ぐのではなく、キリストが担い給うたのはその身体の重荷であり、彼はその肉のうえに生命を担ってい給うたからこそ、身体に帰属する死は生に飲み込まれる。神において、イエスが「罪を知らざる方」であるという認識は揺るぎませんが、この身代わりを認可しました。罪なきままに人類の罪を担うことを「罪と為した」とパウロは報告しています。
復活はその歴史的前提のもとでの永遠の生命の証、罪に対する勝利の証であり、「われらが彼において神の義となるためである」。復活は「(義である)イエスにおいて」信じるわれらが罪赦され、義となることを為さしめるものです。復活はイエスを神の子と信じる者を義とすることへの信仰を引き起こすものです。
復活は現代のわれらにはもはや見られるものではなく、信じられるものです。唯一の御子以外にこの人類の歴史において復活が生じた場合、もちろんそれは神の自由に属しますが、スキャンダルだと思います。この古い天地が巻き去られるまで、起こってはならないことだと思います。人類の罪は「一度限り」御子において贖われたのです。「もしわれらがキリストと共に死んだなら、キリストは死者たちのなかから甦り、もはや死ぬことはないであろうことを、われらは知っているので、彼と共に生きるであろうことをもわれらは信じる。というのも彼が死んだ死とは罪に対し一度限り死んだところのものであり、彼が生きる生命とは神に対して生きるところのものだからである」(Rom.6:8-10)。ヤイロの娘やラザロの甦りは蘇生(resuscitation)であり、イエスの復活とは異なる種類のものであると思われます(Mac.ch.5,John.ch.11)。イエスの地上での復活体は魚を食べることができ消化器官を備えていたようです。また脇腹に槍の穴があり、指をつっこむことを疑うトマスに促しています。他方、ドアの通過性があり、単なる三次元の身体ではありません。これは人類において一度だけ生じたため、復活の主との聖霊を介しての共なる生は信仰箇条に留まります。
他方、二千年前のユダヤの地方において、復活を目撃することのできた幸いな人々がいます。当時、エマオの途上の弟子たちが興奮のうちに復活の事件を語り合っていたように、数百人に目撃されています。パウロは証言しています。「キリストは書に即してわれらの罪のために死んだそして葬られたそして書に即して三日目に甦らされた。そして彼はケパに続いて十二人に顕れた。続いて五百人以上の兄弟たちに一度限り顕れた。・・もしキリストが甦らされなかったなら、われらの宣教も結局空しいものであり、汝らの信仰も空しい」(1Cor.15:4-6,14)。このようにパウロは、復活はイエスの身代わりの死によりひとびとの罪を赦し、和解をもたらすものとして位置付けられます。「汝ら神と和解せよ」(2Cor.5:20)というパウロの促しは死者の復活を信じることそしてそれ故に「新しい被造物」となることの促しです。「誰であれキリストにあるなら、新しい被造物である」(2Cor.5:17)。これは旧約聖書以来の罪の贖いをもたらすものとしての神の人類への贈りものなのです。パウロはキリストの復活のゆえに、新創造を語ることができたのです。
あまりに尋常ならざる事件が歴史のなかで生起しました。単にモーセ律法の遵守による義の追求では到底まかないきれない神の知恵が「信に基づく義」の世界を切り開いたのです。心魂の根底に信があることにより、その信仰が嘉みされるのです。もちろんそれは理性の逸脱からくる狂信ではなく、恐れというパトスの過剰からくる迷信でもありません。正しい信は認知的にものをよく見知ることのできるようになり、人格的に「律法の充足」(Rom.13:10)である愛を満たすようになるのです。復活はモーセ律法の遵守によってではなく、心魂の根底に立ち返り信仰によって受け止められるものなのです。ナザレのイエスの信の従順の貫徹のゆえに、信に基づく義が切り開かれたのですが、神ご自身にとってこの「信の律法(意志)」(Rom.3:27)が「業の律法(意志)」(3:27)より一層根源的なご自身の義を示すものなのです。認知的、人格的に十全な神はアブラハムに対しひいては人類に対する自らの約束に対して信実であったのです。そしてその信実のもとに人類への愛を御子の受肉と十字架そして復活により示されたのです。パウロはこのようにナザレのイエスの信の従順の生涯から神のメッセージを読み取ったのです。
そこに、神の人類に対する愛を見出すことができます。各人はパウロにより「汝が汝自身の側で[自らの責任ある自由において]持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と命じ、自らの責任ある自由のもとで神の信義が彼において啓示されており、自らはそのもとで信に基づき義であると神に看做されていることを信じるよう促されています。十字架だけで復活がなければ、われらは神が罪なきイエスが冤罪のもとに死に処せられることを放置したないし認可し、ご自身は不義ではないかという嫌疑に十全な応答ができないことになります。復活はイエスの生涯は神に嘉みされたものであり、無罪であることを歴史のなかで知らしめる行為として位置付けられます。復活という所謂奇跡も神による人類への愛という「神の力能」働きだったのです。「聖性の霊に即して力能のうちに死者たちのなかからの甦りに基づき神の子と判別された」その方についてこそ、われらに信仰に基づく義を与える福音(良き音信(おとずれ))が語られるのです(Rom.1:4)。神の御子が人類の歴史に関わった以上、人類の歴史においいて一度だけ生起した、そして二度目を必要としない一度限りの復活を信じるかが問われています。奇跡ではなく神の愛の力能を信じるかが問われています。
6われらの思いにすぐる神の平安
神の力能は自らその存在と働きのあることを信じて、実験してみる以外に体得できないそのようなことがらです。「あらゆるヌース(叡知)を超えている神の平安が汝らの心をそしてキリスト・イエスにある汝らのノエーマタ(叡知内容)を護るであろう」(Phil.4:7)。このいかなる理解をも超える神の平安が現実のものでなければ、キリスト教史においてあれほどの殉教者が平安のうちに死んでいくそのような状況を想定することは難しい。そこでは正義のために迫害されても、喜んでいることができる、言ってみればこの世の生死を突き抜けている心の態勢にあるからです。「われには生きることはキリストである。死ぬことは益である」(Phil.1:21)。
われらの思いにすぐる神の平安がわれらを支配しているとき、神の静かな力能を実感します。山上の説教に即して生きてみようとしない限り、その実現はおろか、イエスご自身がその途上で体験した神の援けを経験することもできないでしょう。二千年間多くの人々がその信仰により励まされ喜びを経験してきたのです。そしてそのような神の力能の経験の基礎には神の信実に対応するひとの信仰が不可欠でした。信仰はひとが神に対して取りうる心魂(こころ)の根源的な態勢、構だからです。認知的、人格的に十全な神が御子において人類に対し信実であったとき、不十全な人間は神の信についての認識にいたらずもそれに信によって応答することだけが偽りのない唯一の態度なのです。心魂の奥底で偽りがあれば、すなわち二心や三心があれば、もうすでに神と正しい関係をむすぶことはできない。これは山上の説教において学んだことです。神がイエス・キリストにあって人類に対し信実であったとき、それへの適切な応答は信実であろうとすることである。神の力能とその働きであるキリストにおいてあらわされた愛を信じ、そのもとに生を構築する以外に神の力能を知ることはない。これは懐疑のうちにあるものはその当該のものごとを知ることができないという一般的な知識と信念の関係に基礎づけられるものである。ヒュームは真理に対するこの根源的態勢としての信のもとにいない。彼は信は感覚的に得られる証拠と「比例的」でなければならぬと主張していた。それ故に、人間を秩序あるつまりものごとに理・ロゴスが内在している自然の中で正しい位置に置くことができていない。
「信」を心魂の根源語と理解することは道理ある主張である。宇宙万物の創造者、時空の創造者その方が一切を支配しておられ、われらの認知的、人格的力能はとても貧弱であり、限られているとき、それを突破するのは宇宙の創造者がいまし、その御子が栄光を捨て、われらのために受肉しひととなったその愛を信じる以外に適切な態度はとりえないのです。
そしてその信が生起する場所は心魂の根底にある「内なる人間」と呼ばれる部位です。そこは常に「刷新」が必要とされる部位であり、内なるひとは神の霊に反応する「霊(プネウマ)」とその認知的働きである「叡知(ヌース)」により構成されている(Rom.7:22-24,7:6)。ひとは土から造られている即ち自然的な存在者であり、その自然的な身体を持つものであるひとの自然的な原理は「肉」と呼ばれます(Rom.6:19)。肉の底に「内なる人間」が神の力能を運ぶ聖霊に触れるごとに生起し、身体とその生の原理である肉を刷新します。
ヒュームは「人間は必ず死ぬ」と主張していましたが、「人間」を構成する二つの部位「肉」と「内なる人間」のうち「人間」により「肉」を理解する限りヒュームに同意することができます。しかし、「内なる人間」は神の霊に反応する部位として生物的に死ぬことはない。
このように理解するとき、神の力能に反応しうる部位がすでにわれらのうちにあるからこそ、われらを介して所謂奇跡と呼ばれる病気の快復や不思議なる力ある愛の業がわれらを通して遂行されます。右の頬を打たれて左の頬を向けることはもはや奇跡です。身体をもった存在者としてわれらの肉によっては為しえない出来事です。このエヴィデンスを積み重ねていく以外に、山上の説教の言葉の力とイエスご自身による癒しや所謂奇跡における神の力能の顕現を確かなものとして経験することはできないでありましょう。
言葉の力能とその働き―奇跡物語序論(その二)
言葉の力能とその働き― 奇跡物語序論(その二)―
登戸学寮日曜聖書講義 2021.1.17
1テクスト
「イエスがカペルナウムに入ると、百人隊長が進み出て彼に嘆願して言う、「主よ、わたしの僕が全身麻痺となり、ひどく苦しんでおり、家で臥せっています」。イエスは彼に言う、「わたしが行って彼を癒してあげよう」。百人隊長は答えて言った。「主よ、わたしは、汝がわが屋根の下にお入りいただくのに相応しい者ではありません。ただお言葉をください、わが僕は癒されることでありましょう。といいますのも、わたしは権威のもとにある者です、わたしのもとにいる兵士たちを持っており、この者に「行け」と言えば、その者は行きます。別の者に「来い」と言えば、その者は来ます。また私の奴隷に「これを為せ」と言えば、彼はそれをします。イエスはこれを聞いて驚いたそしてついてきた者たちに言った、「まことにわたしは汝らに言う、このような信仰をイスラエルにおいて誰のもとでもわたしは見出したことがない。わたしは汝らに言う、大勢の者たちが東からそして西からやって来て、天の国においてアブラハムやイサクそしてヤコブと共に横になり寛ぐことであろう、しかしその国の子供たちは外の闇に追い出されることであろう。かしこでは泣く者と歯噛みをする者がでるであろう」。イエスは百人隊長に言った、「戻りなさい、君が信じた通りに、ことが君に成るように」。そしてその時僕は癒された」(Mat.8:5-13)。
2イエスの権威ある言葉―秩序をうみだすロゴス―
先週から奇跡物語を学び始めた。イエスの癒しや甦りという尋常ならざる働きについて、従来、これらは一般的にMiracleや「奇跡」と形容されてきた。しかし、従来の奇跡理解は自然法則に対する人間の認知能力の視点から記述される所謂不思議な事象、現象についての特徴づけであることを確認した。それに対し、イエスの働きは福音書においてはまず「神の力能・力」という視点から理解すべきであることを学んだ。実際イエスご自身は、神の意志、神が喜ばれることが何であるかのその都度の認識のもとに、その肉にある途上の生それ自身の一言一句、一挙手一投足をその実現に捧げている。
昨年三十回にわたり彼の山上の説教における力強い透徹した言葉を聞いた。その説教においてはイエスは道徳的次元に留まり良心に訴えて議論を展開しており、聖霊の賦与や悪鬼の暗躍が報告されることはなく、さらには「信仰」や「罪」という語句さえ、その派生語を除いて、語られることはなかった。天の父はひとびとの必要の一切をご存じであり、生活一切を「天の父の子となる」(5:45)その目標のなかで秩序づけることが慣習的なモーセ律法の理解を純化させ、内面化させる言葉の力のみにおいて遂行された。「まず神の国とその義とを求めよ」(6:33)というこの世界を突破させる力に溢れた言葉に相応しい行為、働きはいかなるものであるかを考察するときに、それはやはり天国の現実をこの世になんらか持ち来たらす神の力能を顕わすものになると思われる。イエスは端的に言う。「汝らは[旧約]聖書と神の力能を知らないから、彷徨っている」(Mat.22:29)。ここにイエスの言葉と働きに権威がにじみ出ている。万軍の主が常に彼と共にい給うたのである。偽りがないということの最も純粋な顕われをナザレのイエスにおいて見るからこそ、ひとびとは彼のうちがわからあふれ出る「権威」(Mat.7:29)に印象づけられ、信じるにいたったのである。
キリストの「言葉と働き」は常に相互に支えあうものとして新約聖書において報告されている。本日のテクストで、異邦人である百人隊長がイエスのもとにやってきて麻痺で苦しむ部下に対する言葉のみによる治癒を嘆願したことが報告されているが、この治癒物語は権威ある言葉の力を如実に伝えている。そのローマの出身であると思われる異邦人の軍人は権威のもとにあり、部下に生命をさえ賭けるよう命じることができる現実を経験しており、その彼は権威ある言葉を語られそして治癒行為に従事しておられたイエスを見て偽りのない方であることを信じ、憐みを請うたのである。
そもそも宇宙全体が「光あれ」という神の言葉により創造されたことが報告されている。この特異点について今語ることはできないが、言葉は秩序を生み出すほどの明晰性と力能を備えたものだと言うことができる。「ヨハネ福音書」冒頭では神の御言葉が受肉したこと、つまり言葉(ロゴス)が土から造られた自然的な身体とその生の原理である肉において働いたこと(エルゴン)が報告されている。言葉は人間にとって自らが理性的な存在者であることを象徴する脳の一つの働きである。人類の歴史においてしばしば言葉の力がひとびとを一つにし、ひとりひとり何か協働の作業に従事してきた。家ひとつ建てるにしても設計図というロゴスのもとに、大工たちは協力しあいながら、一つの完成に向かう。契約や約束には一つの現実を生み出す言葉の力能(potentiality,power-ability)が備わり、当事者は或る拘束のもとにおかれ実現に向けて相互に力(force)が課せられる。例えば、プロポーズ、結婚の約束がそうである。そこには説得と内側からの納得が信頼とともに或いは信頼のなかで生起してきたのである。暴力は言葉なき、或いは言葉を必要としない身体的な無秩序であるが、言葉は或る事態の生成に秩序をもたらすものである。当然そこにも心魂の根源的態勢である信が、即ち偽りなきまことかが問われている。
他方、言葉の暴力は心魂の内側が秩序をもっていないところから生起する。詩人は言う、「自らのなかで罪を犯させるべく不法が語りかける、「自分の目の前に神の畏れはない」と。というのも、それ[不法]は、自らの不法を見出しそしてそれを憎むに至るまで、自らに対し欺いたからである。彼の口から語られたことは不法と欺きである。彼は善を為すべくわきまえ知ることを欲しなかった」(Ps.36.1-4)。ここでは擬人化されている不法が自らを欺くよう心のなかで内的言葉で語りかける。偽りから解放されている存在者に対して祈るのでなければ、つまり真の神に祈るのでなければ、祈りそのものが自他の欺き、偽りとなるであろう。真の神は秩序ある力ある神であり、しかも聖書において信実に基づき正義であり正義の果実として憐み深い方であることが報告されているその神のもとに人生を構築するのでなければ、ひとは自覚しているかしていないに関わらず一切が偽りとなるそのようなものである。「おおよそ信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。過日、寮生さんから「罪って何ですか」と聞かれました。そのときは一般的に答えましたが、山上の説教を学び終えた今なら「イエス様のようでありえないことです」と応答したいと思います。
心魂に満ちてくるものが、口をつき、行動を引き起こす。内側が清くなければ、外側も或る刺激に対しては抗しえず、穢れたものとなる。イエスは言う、「口からでてくるものは、心からでてくるので、かのものどもこそ人を汚す。というのも言い争い、悪意、殺意、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒涜は心から出てくるからである」(Mat.15:18-19)。心魂の態勢、構と言葉の質とでも言うべきものは比例的、平行的なのである。清められているひとであればあるほど、イエスと同様のことが口から発せられることであろう。
何を語り、何を感じ取りそして何を行うかはひとの心魂の認知的そして人格的態勢に基づくものであり、それはイエスによる「倉」のたとえ話のところで学んだ。感情はパトス、passive(受動的)であり選択できずに、おのずと心に湧き上がってくるものだった。パトスとは身体にその座をもつことから、例えば怒ると顔が赤くなり、恐れると青ざめるそのような身体的特徴を伴う。アリストテレスは「パトスはヘクシス(心魂の態勢)の徴である」と言った。すなわち、どんな感情が湧き上がってくるかにより、そのひとがそれまで培った心魂の実力、構(かまえ)がどのようなものであるかがそこにおのずとを示されるという議論を展開した。彼は感情の背後には心魂の実力として認知的態勢と人格的態勢が控えていると考えた。認知的とは心魂の知性、知識に関するものであり、人格的とは身体に関わるものであり、知性の明晰なひとは「賢者(sage)」と呼ばれ、人格の完成されたひとは「聖者(saint)」と呼ばれる。真理と偽りすなわち事実に関わるものが知性であり、善と悪、良し悪し、すなわち価値に関わるものが人格である。人格的に有徳な者、卓越した者は「パトスに対して良い態勢にある」。正義な者は身体的受動である怒りに対して良い態勢にある、つまり正しいひとは怒らないのではなく、怒るべき時に怒るべき仕方で怒るべき程度の怒りが湧いてくるそのような調和のとれたひとである。有徳性のひとつの指標は「中庸」と呼ばれた。恐れに対する勇気ある者は臆病者でもわきまえなき蛮勇者でもなくその中間である。欲望や快楽に対する節制ある者も同様である。
また知性もパトスに対して影響を与える。例えば、ウイルスの振舞いを知れば、ウイルスに対して正しく恐れること、或いは、ウイルスを制御できるようになれば、恐れなくなること、そのようなことが起こる。イエスは「天国のことを学んだ律法学者は自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:52)と語る。古いものとは旧約のことであり、新しいものはその延長線上に打ち立てられた新約のことであるという理解がなされることもあるが、きちんと心魂という自分の蔵、倉庫を管理しており、知性においても人格においても一切を天国との関連において秩序正しく考慮し行うことのできるひとのことである。そこにまことの神への信仰の不可欠性が生起する。正しい信に基づき、つまり理性の逸脱である狂信ではなく、また恐怖という感情の逸脱である迷信でもなく、正しい信に基づき生の一切が秩序づけられているとき、心魂の明晰性と堅固さを獲得する。
3言葉(ロゴス)と働き(エルゴン)は相互に支えあう
パウロは自らが宣教において伝えるキリストの言葉と働きを「[神の]知恵の説得的議論」と「霊と[神の]力能の論証」と呼び、キリストを介した神の知恵と力能を伝達する(1Cor.2:4)。パウロは自らの伝道生涯を顧みて言う。「わたしは、神に向かうことがらに関して、キリスト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、神の霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:17-18)。パウロは自らの宣教活動が主イエスの自らへの内在によるものでありそしてそれ故にその言葉と働きに偽りがないことを誇っている。パウロの自覚としてはキリストご自身が彼を介して言葉と働きにおいて、理論と実践において福音を展開しておられる。また彼のこの自覚、即ち復活の主が自らのうちにおいて働いてい給うという自覚とは別に、彼は肉にあるものとしてその宣教の言葉と働きそれだけを「語る」として自らの信仰における責任においてキリストの言葉と働きを伝達していることをも明確にしている。彼の宣教活動はこの種の理論(ロゴス)とそれに伴う実践(エルゴン)により構成されていた。パウロは言う、「われらの福音は言葉において(en logō)だけではなく、[神の]力能においてまた聖霊においてもそして確証の十全性においても汝らに生起した(egenēthē)」(1Thes.1:5)。
福音書においてもイエスご自身の福音宣教が「エルゴンとロゴスにおいて」遂行されたことが報告されている。復活の主がエマオへの途上において自らに気づいていない弟子と共に歩きながら語ったことが報告されている。弟子たちは途上で復活の主について語り合っているとき、復活の主があらわれ何を話しているのかを尋ねると、「神とすべての民の前にエルゴンとロゴスにおいて力ある預言者となったナザレのイエスに関わるものごと」(Luk.24:19)についてであると答えた。福音書記者もロゴスとエルゴンが相互に支えあうものとして理解している。イエスにおける相互の支えあいとして、憐れみの発動という働き・エルゴンのなかでの、イエスの言葉・ロゴスによる宣教はこう報告されている。「彼が外にでると多くの群集を見た、彼らが「飼い主のいない羊のごとく」であった彼らを深く憐れんだ。そして彼らに多くのものごとを教え始めた」(Mat.9:35-38,Mac.6:34)。ここで主イエスは天国について「多くを教えた」のであった。これは言葉による宣教である。
なお、弟子たちには譬え話とは別に「諸天の国の奥義を知ること」(Mat.13:11)が授けられたと報告されている。パウロが「成熟した者たちには神の知恵を語る」と発言したことと或る平行性があるであろう。これは言葉による宣教である。「神の知恵」とは「キリスト」のことであり、その後神学の歴史等で伝えられた創造論や贖罪論や予定論などが何等か含まれていたことであろう。「ローマ書」の信に基づく義と選びはキリストにある神の知恵の一つの報告であった。
福音は一つのロゴスとして宣教され、そして各人の信仰によるその証は一つのエルゴンである。このように理解するとき、所謂奇跡とは決して稀なることではなく、神の力能のその都度の働きとして「[神の]力能においてまた聖霊においてもそして確証の十全性においても汝らに生起した(egenēthē)」(1Thes.1:5)と言われるように、人類のなかで幾世代にわたって多くの人々が聖霊の喜びと平安を経験しており確かさを証している日常的なことのように思われる。少なくとも、信じるとは神が今・ここで信義と愛において働いてい給うことを信じることである。所謂心魂の二番底が抜けて、聖霊が「内なる人間」の一つの構成要素である各自の霊に触れている。これは不思議なる、驚くべきことであり、それに触れるとき絶えず心魂が刷新され喜びと平安に満ちる。パウロはのちに見るように復活の主が五百人以上の人々の前に顕現したことを報告している。この経験がイエスの弟子たちをして見違えるように変えたのである。
4神の力能の発現―神の国の現実の地上における証―
神の国についての言葉による伝達に相応しい、偽りなき働きは神の国の秩序ある現実、喜びと平安をこの地上に何等か実現すること以外にない。それが福音書で報告されている所謂奇跡物語である。弟子たちの復活を境にした変貌ぶりが神の力能の業である限り、一般には「奇跡」と呼ばれるにしても、われらは「奇跡」というような言葉を使わず、神の指の働き、神の力能の働きをただひたすら感謝し、賛美する。なにができなくとも、これを感謝し喜んで生きることはできるであろう。先週学んだトレンチはこう語っていた。
「一切は不思議だ、一人の人間を生みだすことは少なくとも死者から人間を甦らすことと同じだけ偉大な不思議である。畑の中で増殖していくその種はキリストの手において増殖されるパンと同じほど不思議なことだ。奇跡はそれらの日常のそして常に繰り返される過程よりも何か一層偉大な神の力能の発現ではない。そうではなく一つの異なる発現である」(Notes on the Miracles, R.C.Trench p.12(Kegan Paul 1911)
わたしどもは二千年前の言葉と働きを聖書という書物を通じて知る。手がかりは言葉なのである。その言葉を通じて、それが単に言葉の理解に留まらない力、言葉の理解に含まれる神の力、神の力能に触れることが連綿と経験されたがゆえにこそ、この書物は今日まで伝えられているのであると考えられる。力ある言葉には力ある働きの伴うことが相応しい。そのような歴史的背景のもとに聖書に学びつつ、キリストの弟子であろうとするものは、地の塩、世の光として神の国の現実と神の力能を何等かこの地上で持ち運ぶことに専心する者であるに相違ない。
そのとき自らの思いにすぐる神の力能が自づと溢れでるかもしれない。パウロは言う、「もしわれらの福音が隠されているとするなら、滅びる者たちに隠されている。神はこの世界の信じない者たちの叡知内容を盲目になさったが、その者たちにおいては神の似姿であるキリストの栄光の福音の光を見るに至ることがない。われらは自分たちを宣教しているのではなく、主イエス・キリストを宣教しており、自分たちはイエスの故に汝らの奴隷である。というのも、神は「光は闇から輝きでるであろう」、こう語っておられる方であり、その方はキリストの御顔における神の栄光の[われらの]認識の照明に向けてわれらの心のうちにおいて輝き給うたからである。われらはこの宝を土の器に持っているが、それは傑出した神の力能がわれらに基づくものでもあることのないためである。至るところでわれらは圧迫されるが、困窮せず、行き詰まるが、全く行き詰まってしまっているのではなく、追い詰められるが、捨て置かれず、倒されるが、滅びない。われらは常にイエスの死にゆく屈辱を身体の中に持ち運んでいる、それはイエスの生命がわれらの身体に顕われるためである。というのも生きているわれらは常にイエスの故に死に引き渡されているが、それはイエスの生命もまたわれらの死すべき肉において顕れるためだからである」(2Cor.4:3-12)。
神の傑出した力能はわれらの死すべき身体において発揮される。しかし、それは土の器にすぎないわれらの力能に基づくものではなく、イエスの死への屈辱がもたらした復活の生命がわれらの死すべき肉のうちに顕われるからである。われらがイエスの故に死に引き渡されるのは、復活の主の生命が今・ここにおいて顕されるためである。キリストの御顔における神の栄光の認識に向けてわれらの内側で神は輝いて働き給う。これが神の卓越した力能の働きである。
5デヴィッド・ヒュームの奇跡論
所謂奇跡を福音書やパウロはイエス・キリストにおいて実現された神の力能という視点から報告しており、そのように理解するとき、「奇跡」という呼び方が不適切であることがわかる。以下、前回予告したように、18世紀の英国の哲学者David Humeとアイルランド出身の神学者Archbishop Trenchの見解を提示し、従来どのように論じられてきたかを確認しつつ、神の力能理解を一層明確にすすめたい。
ヒュームにとっては或る信念の正しさはその証拠・エヴィデンスと比例的であることにより判別される。自然科学的検証が確かであればあるほど、奇跡への信仰は場所をもたなくなる。ヒュームは自然法則の侵害が「奇跡」であるとし、その主張のためには自然法則は、彼が「継起の恒常性(regularity of succession)」と呼ぶ一様であり堅固であらねばならず、それが一時的に侵害される場合だけ奇跡と呼ばれるものごとが生じる。例えば、イエスはガリラヤ湖上を歩いたとき、万有引力の法則は侵害され一時的に停止されていると考えられた。今、宇宙物理学において知られている四つの力(引力、電磁力、強い力、弱い力)の統一理論が求められている。他の未知の力をも含めたものであれ、統一理論が解明されるとき、引力とは異なる力能の発現の可能性についても理論化されるかもしれない。また、引力は光の速度で伝わることが分かっている。もし、未だ解明されていないタキオンのような光よりも高速な素粒子が存在するなどして、引力を凌駕する自然法則がある場合、事情は異なるかもしれない。この種の事例による応答は躓きを与えるだけかもしれないが、未解明の自然法則はないとはこの有限存在が十全性をもって語ることはできないであろう。しかし、ヒュームの主張は自然法則は一様ないし必然的であり、奇跡は生起しえないことを含意している。自然法則に即して稀なることが生起することは彼においては想定されていない。
以下のヒュームの議論は「奇跡」という当時の一面的な言葉遣いに捉われたしかも、自然の一面的な理解さらには、人間は既に自然法則の十全な認知をもっているという理解のもとでの議論であることを明らかにする。ひとが今理解している自然に基づく一様な経験以外にひとは経験できないという考え、さらには自然法則は人間により十全に知られている或いは少なくとも十全に知られうるという前提のうえに立てられており、これらの自らの暗黙の前提に対する吟味が十全ではないことを明らかにしていく。
デヴィッド・ヒュームは『人間知性の探求』において言う。「(87)賢者は彼の信念を証拠に対して比例させる。・・(90)奇跡は自然法則の侵害(violation)である。即ち、堅固で変更不能な経験がこれらの法則を打ち立てたので、奇跡に対抗する証明は、まさに事実の本性からして、ありうるものとして想像されうる経験に基づくいかなる議論とも同じほど無傷(entire)である。すべての人間が死なねばならない(all men must die)ということは何故蓋然的なもの以上であるのか?その率先的手本は、それ自身、空中に漂っていることはできない。火は木を消費しそして水により消される。これらの出来事は自然法則に同調するということでなければ、これらの法則の侵害、或いは奇跡がそれらを妨げることが、要求される。もし自然の通常の経過においてそれがいやしくも生起するなら、何ものも奇跡であるとは思われない。健康にみえるひとが突然死ぬことは奇跡ではない。というのもそのような死は、他のいかなるものよりも一層非日常的ではあるが、しかしながらそう生じることがしばしば観察されてきているからである。
しかし、死者が甦るであろうということは奇跡である。というのもいかなる時代や国においても決して観察されてこなかったからである。それ故に、すべての奇跡的な事象に対抗して一つの一様な経験が存在しなければならない。さもなければその出来事はその名称[奇跡]に値しない。そして一様な経験は、事実の経験に基づき、いかなる奇跡の存在にも抗してここに一つの直接的そして十全な証明がある、という一つの証明に達する。またそのような証明は破壊されえない、或いは、より上位である一つの対立する証明によってではあるが、その奇跡は信用できるものとされる。(91)明白な帰結はこうである(そしてそれは注意に値する一般的な格言である)、「いかなる証言も奇跡を確立するのに十分ではない、もしその証言が次の種類に属するということでなければ、即ちその[証言の]偽りであることはその証言が打ちたてようとしている事実よりも一層奇跡的であるという類のものである、ということでなければ。そしてその場合においてさえ、諸議論についての相互の破壊があり、そして上位のものだけが、より劣ったものを演繹したのちに、留まるところの力のその程度に相応しい確かさをわれらに与える」」(D.Hume,Enquiries, Section X 88,p.110, 114 Of Miracles, Oxford 1927)。
ひとは自然において「一様な経験がある」からこそ、奇跡はその経験に寄生することにより命脈を保つ。そこでは奇跡は自然法則に対する侵害として理解される。しかし、この自然の一様な経験を破綻させることはできず、かくして奇跡は否定される。この奇跡論に対し、パウロは数百人に復活のキリストは顕現しているのだから、経験的に十分な確証を得られている、そしてそれは一つには預言されてもおり「奇跡」と呼ばれる要もないと言うであろう。パウロは言う、「キリストは書に即してわれらの罪のために死んだそして葬られたそして書に即して三日目に甦らされた。そして彼はケパに続いて十二人に顕れた。続いて五百人以上の兄弟たちに一度限り顕れた。・・もしキリストが甦らされなかったなら、われらの宣教も結局空しいものであり、汝らの信仰も空しい」(1Cor.15:4-6,14)。
確かにパウロの主張は神との関係における罪の処分という上位の法則に基づくものでありそしてその上位の法則は自然法則の侵害というより、凌駕であり、或いはより慎重にはわれらに知られていない自然法則を用いての遂行であり、多くの人々に経験的に確認された事件であることの故に、ヒューム的な意味での「奇跡」とはならない。パウロは身体をもった自然的存在者の生の原理である「肉」について、「肉と血は神の国を継ぐことはできない」(1Cor.15:50)と述べ、人類は生物学的に必ず死ぬということに同意するであろう。しかし、彼は生物学的な部位「肉」に還元されない心魂の部位「内なる人間」(Rom.7:24)に属する「霊」については、新たな連続的な自己同一性のもとでの霊体を伴う甦りの生命が付与されると語るであろう。
かくして、五百人以上の証言のあるキリストの復活について、ヒュームはその証言が真であるのは、人類の死滅のほうが復活よりも一層稀なこと即ち奇跡の名に値するということでなければ、復活は真ではないと主張する。彼は言う。「いかなる証言も奇跡を確立するのに十分ではない、もしその証言が次の種類に属するということでなければ、即ちその[証言の]偽りであることはその証言が打ちたてようとしている事実よりも一層奇跡的であるという類のものである、ということでなければ」。ヒュームの理解する奇跡命題「すべての人間は必ず死なない」が真である場合に偽となる命題「すべての人間は必ず死ぬ」が一層奇跡的でなければならないと主張する。しかし、主語「人間」については、肉と霊と異なる部位により形成されているため、必ずしも必ず死にかつ死なないという矛盾命題が形成されるわけではないと応答されよう。「人間」によりその一切が指示されているわけではない、霊による自己同一性は保ちつつも。生物である限りの人間は必ず死ぬが、神の子であることを担う心魂の部位は眠りはあっても死ぬわけではないと応答される。それ故に、ヒュームの格言「その[証言の]偽りであること[「すべての人間は必ず死ぬ」]はその証言が打ちたてようとしている事実[「すべての人間は復活し神の前で審判を受ける」]よりも一層奇跡的である」はパウロの議論には妥当しないと言える。
彼は、生物的死は人間の本来性によれば「眠り」(1Cor.15:6,51)以上のものではないとする。神は「業の律法」と「信の律法」と呼ばれる二つの意志をそれぞれモーセとイエス・キリストを介して知らしめている。また神は業の律法のもとに生きる者はすべての律法を満たさねばならないが、誰も義とされないという認識を示している。その結果、「すべての者が罪を犯した故に、死はすべての者を貫き通した」(Rom.5:12)と一度は誰もが罪を犯したその罰を受けると理解される。「死はアダムの背きと同じ様な仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配した」(5:14)のであり、誰もが一度は業の律法のもとに生きたため、生物的死は罪への罰として与えられている。
他方、神が「イエスの信に基づく者」(3:25)と看做す者を義とすることを知らしめている。「ご自身が予め定めた者たち、その者たちを彼は呼びだされもした。そして彼が呼びだした者たち、その者たちを彼は義ともされた。しかし、ご自身が義とした者たち、その者たちに彼は栄光をも賜わった」(8:30)。それ故に、誰もが信の律法のもとに義とされた場合には、たとえ生物的死があったとしても、それはその当人の霊と霊体の甦りまでの一時の眠りでしかない。キリストの復活は罪に対する勝利として永遠の生命をもたらしている。従って、生物的生の次元だけでは死者の甦りは解明されないとパウロは主張する。ヒュームの「奇跡」は自然法則の侵害としてのみ論じられるが、パウロに言わせれば自然よりも上位の法則への侵犯に対する罰としての死があったのである。「死よ汝の勝ちはいずこにかある」(1Cor.15:55)。「死」は「罪の給金」(6:23)即ち罪が自らの奴隷になった者への褒美であるある限り、罪が克服されるとき、死は打ち負かされる。
ヒュームはそれでも「霊」は経験できず、二千年前のこれだけの証拠では甦りの否定が甦りよりも「一層奇跡的」であると呼ぶことはできないと言うであろう。彼は基本的に経験の頻度を規準にして或る事象を「奇跡」と呼ぶかを決めている。ここに経験主義者の特徴と限界がある。どうしてわれらの経験はそれほどまでに祭り上げられうるのであろうか。彼が「賢者は彼の信念を証拠に対して比例させる」というとき、ここで「証拠」は感覚に基づく観察可能なそれ自身として個別的なデータである。そこでは信念は感覚的経験、エヴィデンスとしての知識の根底に置かれるのではなく、いわば対等であり比例関係においてある。感覚的経験が心魂の根源的態勢であると言う主張であると言うことができる。これは経験していないものを真であると信じることを禁止しブロックする議論である。経験していないものの信による突破はあってはならないという主張が含意されている。秩序ある働きのなかにはそれ自身としては観察されないロゴス・理のあることを認めない立場である。
しかし、われらは信が知に変換されることを多く経験しており、知識論、認識論としても経験のロゴス性を無視した主張である。イギリス経験論と対比される大陸合理論は、その基礎に矛盾律に基づいた言葉の確かさに認識の源泉を置く。アリストテレスにより「ロギケー」と呼ばれものは、経験に依拠することなしに矛盾律に基づく確かな言論の構築を遂行する技術である。そこから論理学やプロとコントラの議論を提供する弁証術の実践の理論さらには存在論が展開される。もちろん感覚にもとづく情報は多くの知見を提供するが、雑多な情報はカント的にはアプリオリ(経験以前的)な形式的枠組みにより処理されるか、アリストテレスのように感覚器官の発動のさいに外界から与えられる感覚対象の内部に一般的な理論を展開させうるロゴス、情報が力能において内在していると理解するか、により総合が企てられる。ともあれ、ヒュームは経験主義の特徴と限界のなかに留まっていることは確かである。
6結論
「言葉が肉となった」とは、この雑多な経験の世界に秩序が到来したということである。新約の新しい酒つまり生命の躍動が新しい革袋である福音のなかに入れられたが、それにより旧約の古い酒も正しく秩序のもとにおかれ取り扱われることになったのである。
神の力能の顕われ―奇跡物語序論―
神の力能の顕われ―奇跡物語序論―
新年2021聖書講義 マタイ福音書8章1~17節2021年1月10日
テクスト
イエスが山からくだられるとき、多くの群衆が彼についてきた。そして見よ、ひとりのレプロス(重い皮膚病者)が彼のもとに進み出てひれ伏して言う、「主よ、もし汝がお望みなら私を清めることができます」。イエスは手を伸ばして彼に触れて言う、「そう望む、清くなれ」。すると直ちに彼のレプラは清められた。イエスは彼に言う、「誰にも言わないように注意せよ、ただ戻って汝自身を祭司に見せそして彼らに対する証としてモーセが定めた捧げものを差し出しなさい」(「レビ記」13章参照)。
イエスがカペルナウムに入ると、百人隊長が進み出て彼に嘆願して言う、「主よ、わたしの僕が全身麻痺となり、ひどく苦しんでおり、家で臥せっています」。イエスは彼に言う、「わたしが行って彼を癒してあげよう」。百人隊長は答えて言った。「主よ、わたしは汝がわが屋根の下にお入りいただくのに相応しい者ではありません。ただお言葉をください、わが僕は癒されることでありましょう。といいますのも、わたしは権威のもとにある者です、わたしのもとにいる兵士たちを持っており、この者に「行け」と言えば、その者は行きます。別の者に「来い」と言えば、その者は来ます。また私の奴隷に「これを為せ」と言えば、彼はそれをします。イエスはこれを聞いて驚いたそしてついてきた者たちに言った、「まことにわたしは汝らに言う、このような信仰をイスラエルにおいて誰のもとでも見出したことはない。わたしは汝らに言う、大勢の者たちが東からそして西からやって来て、天の国においてアブラハムやイサクそしてヤコブと共に横になり寛ぐことであろう、しかしその国の子供たちは外の闇に追い出されることであろう。かしこでは泣く者と歯噛みをする者がでるであろう」。イエスは百人隊長に言った、「戻りなさい、君が信じた通りに、ことが君に成るように」。そしてその時僕は癒された。
またイエスがペテロの家に入ると、ペテロの姑が熱を出し臥せっているのを見た。彼が彼女の手に触れると熱は彼女を去った。彼女は起きてそして彼に仕えた。夕方になるとひとびとは彼のもとに多くの悪鬼につかれた者たちを連れてきた。イエスは言葉によって霊どもを追い出したそして悪い状態にあるすべての者たちを癒した。預言者イザヤが語っていることを通じて語られた「ご自身はわれらのもろもろの弱さを担ったそしてもろもろの病を負われた」が満たされるためである」(Mat.8:1-17)。
1「奇跡」という言葉をめぐる基本的理解
「一切は不思議だ、一人の人間を生みだすことは少なくとも死者から人間を甦らすことと同じだけ偉大な不思議である。畑の中で増殖していくその種はキリストの手において増殖されるパンと同じほど不思議なことだ。奇跡はそれらの日常のそして常に繰り返される過程よりも何か一層偉大な神の力能の発現ではない。そうではなく一つの異なる発現である」(Notes on the Miracles, R.C.Trench p.12(Kegan Paul 1911)
2021年を迎えました。尋常ならざる日々です。日本でもCovid-19の「感染爆発」が専門家委員会会長から語られ始めています。緊急事態宣言が7日に発令されました。パウロが言うように、「被造物全体が贖われることを求めて呻いている」そのような状況に世界中が包まれています。このようなグロ-バルな苦しみは先の世界大戦以来でありましょう。戦争は端的に人災であり、ウィルスは自然事象であり異なるが、この自然事象への対応において人間の叡知が求められています。長引けば長引くほど天災と人災のあいだの境界があいまいになってくることでしょう。医療従事者の方々は自らを省みず苦しんでいる人々を助けています。またリスクを冒しながら社会の最前線で働いている人々がいます。少しでも彼らの努力に報いることの心がけとしては自ら感染しないことそして感染させないことです。ともかく、自らが既に感染しているかもしれないという前提のもとに、隣人に伝播させないよう留意することは、各人の責任に属します。この最低限このことはできます。
今日も落ち着いて聖書を学びましょう。聖書を正しく理解するとき、わたしどもは不思議な平安と力を得ることでありましょう。今日から所謂、奇跡物語です。これについて何か心の底から偽りのないものを語ろうとするとき、何を語りうるのか一つの大きな挑戦です。
「奇跡」と訳される英語miracleはラテン語の動詞miror (being astonished at, marvel)とその不定形mirari(驚く)を語源としてmarvel, marvelous(素晴らしい)などの語にもつながる。福音書やパウロ書簡においては、「力能」、「力の顕現(manifestation of power)」、「力ある業」と訳されるdunamisが用いられる。驚くべきことを為す主体の側の力能、力に関心が注がれ、その力能が生み出す果実が驚くべきものだと言うことができる。
パウロにおいて「もろもろの徴と不思議の力能において(en dunamei semeion kai teraton)」(Rom.15:18)と言われることがある。「徴と不思議」が当該の「力能」の顕われであると理解することができる。「力能」は待機的なものを含めいつでも発現できるが、或る時点では発現してはいず、待機の状態にあるそのようなものであり、その顕われが「徴」や「不思議」と呼ばれる。「徴(semeion)」は天上のもの、神の今・ここの働きを地上にある別のものを通して指し示すそのようなサイン (徴、代替、象徴)であると言うことができよう。エジプトの魔術師がプァラオに「これは神の指です」(Exod.8:19)とモーセの驚くべき業を形容しているが、出エジプトに至るモーセの働きはひとつの神の力のサインであろう。「不思議(teras)」は尋常ならざる出来事、非凡なもの、不思議(prodigy)を意味表示し、この単語は怪物や奇怪・奇形(monstrosity)につながるものであり、やはり驚異に値するものごとを意味表示する。
「力・力能」は動詞「実現する、生じる(ginesthai)」を伴う。従来の「力ある業」という顕現をも含めたdunamisの訳語はこの動詞をこみにして、理解のしやすさのために「力のある働き」さらには「奇跡」とという訳語がdunamisの一語にこめられてきた。イエスは「多くの力」「多くの力ある働き・業」を行った町々が悔い改めなかったことを見て叱ることもあった。「イエスはご自身の最も多くの力能[ある業・奇跡](dunameis)がそこにおいて生じた町々が悔い改めなかったことを叱責し始めた。ああ、なんということだ、汝コラジン、ああなんということだ、汝ベッサイダ。汝らに生じた数々の力能[力ある業]がもしツロにおいてそしてシドンにおいて生じていたなら、これらの町々は粗い布をまといそして灰の中でとうの昔に悔い改めたことであろう。そのうえ、わたしは汝らに言う、審判の日には、汝らよりもツロにおいてそしてシドンにおいてより耐えうるものとなるであろう。そして汝カペルナウム、汝は天にまで上げられることにならないのではないのか。ハデス(地獄)に汝は落とされることになるであろう。というのも、汝において生じた数々の力能[力ある業]がソドムにおいて生じたなら、ソドムは今日まで存続していたことであろうからだ。そのうえ、わたしは汝らに言う、審判の日には汝においてよりもソドムの地において、より耐えうるものとなるであろう」(Mat.11:20-24)。
新約聖書では、このように「力」「力能」という訳語が最もふさわしい言葉dunamisを用いて、一般に「奇跡」と呼ばれるものを表現している。この力能は言葉においてそして働きにおいて発揮される。パウロや福音書記者が所謂「奇跡」について、この「力能」という言葉を選んだのはイエスの言葉に神の力能が宿っており、その不思議な現象よりもそのもとにある神の力能を強調するためであると思われる。百人隊長は権威をもっており、言葉ひとつで部下に命令すると部下はそれを実行に移す。山上の説教において、聴衆はイエスの「権威」(7:29)ある言葉に驚嘆したことが報告されているが、それは彼の言葉が明晰であり偽りがないことを心の底で受け止めることができたからである。そしてイエスは自らの言葉に信実であり、聴衆を裏切ることなく死に至るまで山上の説教を生き抜いたのであった。権威とは言行一致がもたらす偽りなく自ら湧き上がる力のことである。誰かが誰かに会うとき、相手が信実な人であるか、権威を兼ね備えた人であるか、それとも言葉だけの偽り者であるかを判断する。権威は各自の認知的、人格的力能のおのずからなる発現としての立ち居振る舞いから湧き上がるものである。今どきの言葉では所謂「オーラがある」ということに近似であろう。
そのイエスの権威は神の力能の顕現として自らに備わっていた。これは尋常ならざることである。ひとはそのように信じ彼についていったのである。パウロにおいて、イエス・キリストを介して啓示された「福音」とは「信じる[と神が看做す]すべての者に救いをもたらす神の力能」であった(Rom.1:16)。福音は「聖性の霊に即して力能のうちに死者たちのなかからの甦りに基づき神の子と判別された」その方についてのものである(1:4)。神の力能はひとを救いだす御子の甦りに至るまでの力溢れる働きにおいて確認される。パウロはひとを救い出すその福音に神の力能を見出し、これまでの一切の価値が逆転したと報告している(Phil.3:8)。キリストの信に基づき罪赦されたことから、この人生全体が、新たに、復活の主の生命に与るためのものという位置づけを得る。パウロは「ピリピ書」では信に基づく義がなったことを受けて、「義の果実」(1:11)としての知識を伴う愛の喜びを歌い上げている。
3自然事象に見られそして復活に窮まる「神の力能」
所謂「奇跡」はキリストの復活においてきわまる。そこにおいて神の力能が十全に発揮されたからである。これを信じることができるなら、五千人の給食も病人の癒しも、ラザロの蘇生も理解することができる。奇跡物語はこのイエスの復活の準備であるとも語ることができる。イエスの生前中の様々な力ある業は彼の甦りを信じることのできるものとなる準備であったのである。それ故にイエスのこれらの尋常ならざるふるまいはすべて神の力能との関係において理解されねば、彼は単なる魔術師のようなものになってしまう。これらの力ある業において神の愛の力能を見出すことができるか、すなわち人格的な関係に置かれるかが問われている。どこまでも神の力能は愛において発揮されるからである。
冒頭でトレンチの言葉を引用した。不思議を見る視点を逆転させるに十分である。われらは自然事象をあたかも当然のこととして、福音書で報告されるイエスの力ある業、所謂奇跡を驚くべきことと理解しがちである。しかし、神の視点から見るとき、われらが病気になること、それ自体が自然に反したことなのであり、その治癒は神の子にふさわしい権威ある業となる。トレンチは言っていた。「一切は不思議だ、一人の人間を生みだすことは少なくとも死者から人間を甦らすことと同じだけ偉大な不思議である。畑の中で増殖していくその種はキリストの手において増殖されるパンと同じほど不思議なことだ。奇跡はそれらの日常のそして常に繰り返される過程よりも何か一層偉大な神の力能の発現ではない。そうではなく一つの異なる発現である」(Trench p.12)。
昨年の春ステイホーム期間にトマトを松井君の指導のもとに栽培したが、次々に赤い実がなっていった。これは驚くに値する。小さな苗がこれほどの力能を備えていたのである。イエスは幾つかのパンを増殖させ五千人の空腹を満たしたが、それは今どき可能になった野菜の促成栽培同様に、自然法則に即しつつ短い時間のなかで酵母か何かを膨らませたのであると思われる。われらはかつてルイ14世も受けられなかった医療を受けることができる。ウィルスのマイクロナノメートルという微小な世界の振る舞いまでわかってきている。現代は多くの奇跡的なことが通常のこととなっている時代である。未来は人間の知的な力能がさらに発揮され、かつて奇跡と呼ばれていたことが日常のことになるであろう。いかにわれらの思考様式が固定観念にがんじがらめにされているかがわかる。野の百合、空の鳥がどれほど不思議で素晴らしいmarvelousな自然の業であることであろうか。この宇宙の法則を理解する人類は宇宙の栄光であると言うことができる。
2言葉(ロゴス)と働き(エルゴン)の相補的展開
奇跡物語を理解する重要な視点は洗礼者ヨハネが獄舎につながれ、弟子を遣わしてイエスがイスラエルにおいて待望されていたメシアであるかを確かめるそのやりとりであるように思われる。旧約から新約への橋渡しを洗礼者ヨハネから学んできたが、新しい革袋と新しい酒を示す力ある業がイエスご自身によって語られている。
イエスはヨハネの弟子にこう答えている。「行ってヨハネに伝えよ。盲人が見えるようになり、歩けない者が歩けるようになり、皮膚病の者が清められ、聞こえない者が聞けるようになり、死者は生き返り、貧しい者たちは福音を告げ知らされている。わたしに躓かない者は祝福されている」(Mat.11:4-6)。
これまで30回かけて学んできたように、イエスは3年と言われる彼の短い公生涯の始まりに山上の説教を遂行し、われらはその途上の歴史にある彼からこの説教を受けている、その福音が歴史のなかに実現するか否かの途上の状況に身を置くことが求められている。確かに、その時点で純化された律法を守りえない者であっても、この厳しい道徳的内容を語る方自身についてくるよう招かれている。彼の言葉に偽りはなく「権威ある者」として彼はわれらに迫ってくることであろう。彼が旧約以来預言されていたメシア(救い主)であるか聴衆は決断を迫られている。イエスは言葉と業・行いをもってひとびとを救いだそうとされた。「行ってヨハネに伝えよ。盲人が見えるようになり、歩けない者が歩けるようになり、皮膚病の者が清められ、聞こえない者が聞けるようになり、死者は生き返り、貧しい者たちは福音を告げ知らされている。わたしに躓かない者は祝福されている」(Mat.11:4-6)。イエスは彼の力ある業が人々の躓きとなるであろうことをご存じである。これは現代のわれわれに対するチャレンジでもある。毎日一緒に生きている自分自身さえよく分かっていない人間に、どれだけ解明されてきた自然法則の背後にいまだ解明されていない自然そして宇宙の法則があるか知ることができない。われらは幼児のように好奇心に溢れた探求者であることができるだけである。盲人の視力が回復し、全身まひが癒される所謂奇跡は神の側から見れば、自然の秩序の回復にすぎず、ご自身の力能の発現以上のものではない。われらが奇跡に躓くのは単によく自己をそして世界を理解していないからにすぎない。
「貧しい者たちは福音を告げ知らされている」。八福において、「その霊によって貧しい者たちは祝福されている」とあった(Mat.5:3)。この世のいかなるものによっても満たされず、天国を求めて飢え渇くその霊によって貧しい者たちが祝福されていた。相対的には経済的に満たされない者のほうがこの世に頼るものがなく、「神の国とその義」を求めやすいであろうから、より祝福されているとも言えるので、福音を告げ知らされて喜ぶ者がいれば、それはルカの平野の説教で端的に報告されている「貧しい者」(Luk.6:20)であると言うことができた。イエスは目に見えない神の国について言葉により教え、そのただなかで憐みから力ある業をおこなった。それ故に、奇跡物語を学ぶ場合に、福音の宣教という言葉・ロゴスの視点により常に補われねばならない。働きは明確な理(ことわり)をもっているであろうからであり、明晰な理は明確な働きを生み出すだろうからである。
イエスの福音の宣教と力ある業の双方はこう報告されている。「イエスはすべての町と村を巡回し、シナゴーグで教えそして御国の福音を宣教した、そしてすべての病とすべての病弱とを癒した」(Mat.9:35)。
4 福音書に奇跡物語がなかったなら―聖霊の力能の理解へ―
奇跡物語がなかったなら、つきつめればわれらは山上の説教のみを持つ。ひとは人類に、道徳上、この山上の説教以上の何を要求することがあるであろうか。モーセ律法が純化、内化されたこの説教は明確なロゴスをもち、ひとの良心に訴え、道徳的次元を内側から破り「神の国とその義」を求める信仰に導くこともあろう。福音書から奇跡物語を除くと、誕生物語、ヨハネからの洗礼、そして山上の説教、さらに一方で弟子たち、マリアやマルタそしてザアカイとの心満ちる会話があり、他方ユダヤペトロの裏切り、そしてパリサイ人やローマの官憲との生死を賭すやりとりがある。そして十字架の刑死で福音書は閉じられる。ラザロの蘇生もご自身の復活も記録されることはない。憐みからあふれ出る様々な癒しの記録も消え去る。
或る人は躓きが取り去られたとして信仰を持つにいたるであろう。そのとき神の力能への信仰はナザレのイエスの三日目の復活がないままでのイエスにより語られた永遠の生命への信仰となるであろう。その信仰には抽象性や観念性が強まる傾向になるであろう。他方、別のある人には言葉の宣教だけでは、神の力能への懐疑に陥ることもあろう。
そこではつまり所謂奇跡が遂行されないところでは、どれだけ神の力能の顕現に与るのであろうか。あの説教の力に相応しい振る舞いはやはり神の力能を十全に発揮し盲人が癒され、足のなえたひとが飛び跳ね、そして五千人の空腹を満たす、そのような力ある働きであると思われる。そのような働きこそナザレのイエスにふさわしい。道徳次元の内的突破により良心の咎めがさり、平安と喜びのうちに信じること、そのことが実際生起していたのである。そこに聖霊の執り成しが働いていたことであろう。山上の説教を語る方が福音の不思議なる力をもち運び、山上の説教を生き抜かれたのである。そこには豊かな聖霊の働きが伴っていたことであろう。聖霊とは自然法則の背後にある神とひとを繋げる「弁護者」、「助け主(ぬし)」である(John.14:25)。
「ヨハネ福音書」においてイエスの言葉として「もし汝らはもろもろの徴と不思議を見ないなら、信じないのではないか」が報告されている(John.4:48)。ひとはこのような不思議な業を見て信じることもあるであろうし、実際福音書においては彼の力ある業のゆえに、多くの人々が彼につき従う者たちとなった。イエスは「わたしが汝らに語っているものごとはわたしから語っているのではなく、父がわたしのうちに留まっており、ご自身の働きを為しておられる。汝らわたしを信じよ、というのもわたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにいるからである、さもなければ、働きそれら自身の故に汝らは信じよ」と語る(John.14:11)。イエスはそこで自らのうちに父が働いているからこそ自分の言葉を信じるように、この言葉を信じられないとした場合でも、自らを介した父の力ある業のゆえに信じることを勧めている。イエスは言う。「わたしは汝らといたとき、これらのこと[父がわたしにおり、わたしが父のうちにいること]を話した。しかし、弁護者すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が汝らにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い出させてくださる。わたしは平和を汝らのうちに遺しておく、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世界が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな」(John.14:25-27)。
ひとが聞くことのできる究極的なものごとが権威をもって語られている。イエスの山上の説教の究極的な語りとこれから学ぶ奇跡物語は双方を離さないで理解するよう促している。ことばと働きは常に支えあうものでなければならないはずだからである。山上の説教だけで十分であると思いつつも、それを語られる方はご自身の言葉にどこまでも忠実であり、それを死に至るまで生き抜いた方であった。その途上で、様々な力ある業、徴そして不思議が遂行されていた。この言葉と働きはやはり車の両輪のようなものであり、山上の説教だけでは、あまりに厳しすぎ「神の国とその義」を求める途上で挫折することであろうし、言葉なき不思議な業だけでは人格的な関係を結びえず、ただ力の崇拝、魔術的なものに陥ることもあろう。そこには二心、三心の隠された力への欲望が醜く現出するであろう。言葉と働きを離さないとき、全体として力ある方でありまた信実と憐みに満ち溢れた方であることが浮き上がってくる。やはり奇跡物語が一切なかったなら、つまりイエスがこの種の力ある業を為さらなかったなら、彼への信は肉の重荷のなかで喘いで身体の贖われることを求めている者たちには観念的なものに留まったことであろう。パウロは言う、「キリストはわれらの義化の故に甦らされた」(Rom.4:25)。われらが信に基づく義をいただくために、神は御子を甦らせたのである。神の愛が所謂奇跡を遂行し、われらが自ら知っていると思っている自然法則へのかたくななこだわりから解放し、信仰に招いたのである。
5「[神の]知恵の説得的議論」vs.「霊と[神の]力能の論証」
今日、論じることのできない18世紀のイギリスの哲学者David Humeの奇跡論さらにはトレンチの奇跡と自然の理解を来週以降紹介し、それへの応答を試みるが、今日はここではもう少し言葉(理論・ロゴス)と働き(実践・エルゴン)の相補性を確認しておこう。彼らの議論は少し難しいので、今日のうちに資料を渡しておく。ただ、もう少しテクストの選択や翻訳に改善の余地があることを断っておく。
パウロは自らが宣教において伝えるキリストの言葉と働きを「[神の]知恵の説得的議論」と「霊と[神の]力能の論証」と呼び、キリストを介した神の知恵と力能を伝達する(1Cor.2:4)。
パウロは神の前の人間現実と人の前の人間現実を相互に異なる言語網において展開している。前者は神の啓示行為に基づき、福音の宣教においてパウロが「知恵ある者たちにも愚かな者たちにもわたしは負うべき責めを持つ」の「知恵ある者」に対応すべく神の知恵の報告である(Rom.1:15)。「わたしは成熟した者たちのあいだでは神の知恵を語る」(1Cor.2:6)。ここで「神の知恵」とは「キリストが神の知恵となった」(1Cor.1:30)と言われるところのそのキリストのことである。所謂信に基づく義(信仰義認論)と選び(予定)の教説は「知恵」に訴えて展開される。「深いかな神の知恵と認識の富とは」(Rom.11:33)。信に基づく義の議論(「ローマ書」1:17-4:25)および選びの教説(9:6-11:36)において、この知恵の説得が聖霊に対する一切の言及なしに遂行されている。パウロはこれを「霊と力能の論証」との対照において「知恵の説得的議論」と呼ぶ。そこでは、ひとの心的状態は直接には問題にされずに、神にそう「認定される(看做される)」(Rom.4:9)場合には義人であり、或いは神の怒りの対象とし、悔い改めを迫られているとする議論が一般的に三人称で展開される。彼はこの神の知恵の報告を「わたしは汝らに或る部分において一層大胆に書いた」(Rom.15:15)と述べている。
この知恵の説得とは別に、神の前と人の前の双方を媒介するものが今・ここにおいて働くキリストないし聖霊であり、それは「霊と[神の]力能の論証」である。「神の愛はわれらに賜った聖霊を媒介にしてわれらの心に注がれてしまっている[現在完了形]」(Rom.5:5)。このパウロの発話はその発話の時点で聖霊が注がれていない場合には偽となる、そのような今・ここの働きのなかでの語りである。聖霊を媒介として神の愛の今・ここの働きはそこからロゴス言語として「もし神の愛が注がれるとするなら、それは心への聖霊の賦与を媒介にする」と一般的な言明を引き出すことのできるものである。
条件文「もしキリストが汝らのうちにあるなら」(Rom.8:10)においては、キリストや聖霊の執り成しがある場合もない場合もあることを含意している。神が怒りの啓示として各人の裁量に「引き渡して」(Rom.1:26)しまっているときには、聖霊の媒介行為は悔い改めに導く場合にだけ想定される。ただし、人智を超えた神の自由は確保されたままであり、聖霊の執り成しの証しは罪との葛藤さらには平安、愛の生起において確認される。福音書において報告されるイエスの力ある業は聖霊による働きであり「霊と力能の論証」に属する。
このように聖霊の力能の働きに訴えたエルゴンによる論証ないし議論と、聖霊への言及のない知恵、ロゴスによる説得の双方によって福音が展開されている。 パウロは「ローマ書」においてこれら二つの視点から分節することを許容する仕方で彼の神学議論を体系的に論じた。福音をロゴス次元において神の前のことがらとして分節することが許容されるとして、ひとはその証としてのエルゴンにより、その正しさを確認し、ロゴスの明晰性はそのエルゴンの純化に貢献するであろう。そこには聖霊の執り成しが働いてもいよう。「わたしは、神に向かうことがらに関して、キリスト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、神の霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:17-18)。パウロは自らの宣教活動が主イエスの自らへの内在によるものであることを誇っている。彼の自覚としてはキリストが彼を介して理論と実践において福音を展開している。また彼のこの自覚とは別に肉にあるものとしてその宣教の言葉と働きそれだけを「語る」として自らの責任において遂行していることをも明確にしている。
彼は「コリント後書」においても自らに「和解の言葉」が委ねられたと自覚し、使徒としての使命を語る。「神は、世界[人類]をご自身と和解させつつ、その仕方は[世界の]人々自身の背きを彼ら自身において考慮することなしに、また和解の言葉をわれらに委ね給うた・・。かくして、われらはキリストの代わりに神がわれらを介して招いておられることの使者となっている、そしてわれらは勧める、汝らは神と和解せよ」(2Cor.5:18-20)。
福音書においてもイエスご自身の福音宣教が「エルゴンとロゴスにおいて」遂行されたことが報告されている。復活の主がエマオへの道を歩く弟子たちに同行したさいのことである。彼らは復活の主に「神とすべての民の前にエルゴンとロゴスにおいて力ある預言者となったナザレのイエスに関わるものごと」(Luk.24:19)について語った。具体的には憐れみの発動というエルゴンにおける主のロゴスによる宣教はこう報告されている。「彼が外にでると多くの群集を見た、彼らが「飼い主のいない羊のごとく」であった彼らを深く憐れんだ。そして彼らに多くのものごとを教え始めた」(Mat.9:35-38,Mac.6:34)。ここで主イエスは天国について「多くを教えた」のであった。これは言葉による宣教である。なお、弟子たちには譬え話とは別に「諸天の国の奥義を知ること」(Mat.13:11)が授けられたと報告されている。パウロが「成熟した者たちには神の知恵を語る」と発言したことと或る平行性があるであろう。「ローマ書」の信に基づく義と選びは神の知恵の一つの報告であった。
6結論
彼らの宣教活動はこの種の理論(ロゴス)とそれに伴う実践(エルゴン)により構成されていた。「われらの福音は言葉において(en logō)だけではなく、力能においてまた聖霊においてもそして確証の十全性においても汝らに生起した(egenēthē)」(1Thes.1:5)。福音は一つのロゴスであり、そして各人の証は一つのエルゴンである。このように理解するとき、奇跡とは決して稀なることではなく、人類のなか多くの人々が聖霊の喜びと平安を経験している。所謂二番底が抜けて、聖霊が「内なる人間」の一つの構成要素である各自の霊に触れている。これは不思議なる、驚くべきことであり、それに触れるとき絶えず心魂が刷新され喜びと平安に満ちる。これが神の力能の業である限り、一般には「奇跡」と呼ばれるものである。われらは「奇跡」というような言葉を使わず、神の指の働き、神の力能の働きをただひたすら感謝し、賛美する。なにができなくとも、これを感謝し喜んで生きることはできるであろう。人生とはその挑戦に他ならない。今年一年が皆さんにとって力強い歩みとなりますよう祈ります。
クリスマスメッセージ(2020年4月~12月聖書講義題目付き)
学寮クリスマスメッセージ2020
(2020年4月~12月聖書講義題目付き)
千葉 惠
クリスマスおめでとうございます。御子のご生誕を感謝し賛美します。この一年は人類史的なあるいは黙示録的な一年でした。人類にとってこのいっそう濃くなっていく闇のなかで光が燦然と輝いています。闇が濃ければ濃いほど、天上の導きの星のように輝きを増し、ひとびとの歩むべき道を指し示しています。すでに預言者イザヤが今から約2700年前にこの救い主を預言しています。
「暗闇を歩める民は大いなる光を見、死の陰の地に座したる者に光が照らした、主は民を増し加え、歓喜を大ならしめた。・・ひとりの男子(おのこ)がわれらのために生まれ、一人の子がわれらに与えられた。支配はその肩におかれ、その名を読んで霊妙なる議士、大能の神、永遠の父、平和の君と称えられん。その政事(まつりごと)と平和は増し加わり、限りなし。かつダビデの位に座してその国を治め、今よりのちとこしへに公平と正義とをもてこれを立てこれを保ちたまわん。万軍の主の熱心これを為し給うべし」(Isaiah.9:1-6)。
牧場の羊飼いたち、東方からの三人の博士たちは大きな星に導かれベツレヘムの馬小屋において受肉し、自然的な存在者となった神の子に出会い喜び拝しました。天使は高らかに賛美しました。「いと高きところには栄光神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」。彼らは預言通りについに救い主が誕生したことを確認し喜んで帰っていきました。またそのころシメオンという信仰深いひとには「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」という示しがありました。シメオンはマリアに抱かれエルサレムに昇ってきたイエスを見つけました。「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いです。異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です」(Luk.25-35)。キリストの誕生は長い準備をかけてこのような展開のもとに実現しました。ハレルヤです。登戸学寮はこのようなおとぎ話とも思えるような歴史の展開のうえに築かれています。
2 この一年間登戸学寮に妻とお世話になり、皆さんとの共同生活は何かのご縁でありましたのでしょう。この間大きな事件や、怪我、病気などが学寮において発生しませんでしたことは感謝でした。ただウィルスが蔓延していることもあり、いつも何か緊急事態が発生するのではないかという緊張状態におかれている日々でした。
共同生活ゆえの小さなことは日々生じており、常に心魂の刷新が求められました。わたし的にはそれは聖書に立ち返るといつも心が新たにされますので、困惑することが生じても、喜びが戻り感謝でした。換言すれば、聖書を常に必要とする日々であったということです。
はじめて職務として日曜聖書講義を勤めまして、今年は山上の説教を三十回かけて取り組みましたが、毎回eye revealing目を開かせるものでした。若者的に言えば、人類は世界を救う真のヒーローが誕生するその現場に立ち会うことができました。若者たちはゲームにおいてヒーローになることでしょうが、やはりそれはあくまでも虚構の世界、ヴァーチャルな世界なのであろうと思います。人類は唯一の現実世界を「歴史」として歩んでおります。そしてひとは援け、援けられつつ、また罪を犯し、犯されつつ生きております。聖書はその現実世界における救いを展開しています。遠く離れた二千年前のヒーローを理解するには、ただテクストを正しく理解するしかなく、しかもその理解が進んだとき、より現実感が増します。
聖書はそしてナザレのイエスはユダヤ人や地中海世界の当時の人々が描いたフィクション・虚構に過ぎないという意見は当然ありますが、あらゆる可能世界(every possible world)はこの現実世界(the actual world)との関連においてその距離が確定されます。現実に困難があり、悲惨があるとき、人類は真剣にその克服に努めてきました。今日ではナノスペースから宇宙空間まで解明されつつあり、ルイ十四世が受けることのできなかった医療を受けることができます。現実のあまりの過酷さやつらさに、或いはこの現実への軽蔑や挫折、空虚におそわれるとき、現実感覚が乏しくなります。そのとき、ひとは虚構に向かいまた自らの居心地のよい繭のなかに身を沈め閉じこもります、さらにはこの世界に別れを告げるということまでおきます。
巷はフェイクニュースで満ちており、ひとびとを惑わしています。どんなに偽りであっても、その物語が矛盾律に反しない限り可能世界に分類されるでありましょう。なお、聖書には目の見えないひとが見えるようになり、歩けないひとが歩けるようになり、死者が甦るという「力ある業(dunamenoi)」が報告されています。例えばイエスが湖のうえを歩くというような所謂「奇跡」はD.ヒュームによれば自然法則例えば万有引力の「一時的停止」や「侵害」と記述されますが、人間が自然法則一切を知っているわけではないので十全な規定ではありません。人類のまだ知らないより上位の自然法則を介して神が時空に関与している可能性があり、これらも一概に否定されません。
ともあれ、われらは明確な偽りを真理であると信じることはできません。認知的な偽りそして山上の説教で学んだように二心や三つ心をもった偽りの心の在り方を信じることはできません。これが正しい信仰と偽りの信仰ないしカルト的な信仰を分ける分水嶺です。イエスは道徳的存在者としての人類にとって究極的な在り方を山上の説教で展開し、それを自らが神の子の信仰のもとに十字架の死に至るまで従順の信仰を貫き、自らの言葉を偽ることなく実現したのでした。彼においては一言一句と一挙手一投足が合致していたがゆえにこそ、真実な権威がそなわったのでした。それ故に、何らかの教えによって自らが洗脳させられるのでも、自らを洗脳するのでもなく、心魂のうちがわから納得するということが道理ある信仰には不可欠です。わたしは長く聖書の中心的教えに矛盾があると思い、苦しんできましたが、それは流布版ラテン語訳の誤訳のゆえにであり、その所謂信に基づく正義の理論が無矛盾であることを理解し、心から安堵し納得しています。
この一年正しくテクストを理解することに努めました。難しかったかもしれません。しかし、福音書の言葉を正しく引用している限り何等か伝わるはずだというテクストへの信頼は揺るぎませんでした。皆さんには初めて踏み入る世界であったとしても、イエスご自身におかれては彼の言葉とその言葉に合致した働きが遂行され、それが犯しがたい「権威」を自然に放ち力に溢れ、この二千年間ひとびとに平安と喜びを生み出してきました。その現場にできるだけ接近したかったのですが、私のいたらなさ言行不一致故に、多くのつまずきを与えたかもしれません。
洗礼者ヨハネはイエスの靴の紐をほどくにも相応しくないと自らの認識を伝えましたが、このヨハネの自己認識以上に謙虚さを表現することは難しいです。まず靴の前にかがみ頭を下げねばなりません。そしてヨハネは靴に触ることさえ憚(はばか)られると主張しています。この洗礼者ヨハネの自己認識の前にただ頭を下げます。或いは、病気の子供を抱え治癒を懇願するカナン地方の女性にイエスは「わたしはイスラエルの失われた羊のところにしか遣わされてはいない」と言われましたが、そうすると女性の「その通りです。しかし、犬は食卓から落ちるパンを食べることができます」との応答にイエスは深く感動し、その大いなる信仰を嘉みし、癒しました。
このような憐みにすがりつつ。この無益で愚かな僕を憐みくださいと赦しを請いつつ、聖書を取り次いできました。他方、誰もがこの憐みのゆえに信仰を持つことができるという点で誰もが同じ心魂の力能においてあると言うことができます。講義のゴールはナザレのイエスが救い主であるということ、真のヒーローであることを正しく伝えることとにより、そのヒーローとみなさんが出会う準備の何らかの手助けをするということでありました。
皆さんが学業やスポーツそしてゲームなどでヒーローになることを目指しているように、わたしも真のヒーローを正しく理解し、伝えたいという思いの中にあります。ただし、聖書の取次の場合には徹底的に僕にならなければ、真のヒーローを伝えることはできないという相違があります。イエス以外に自らを主張したり他を崇めた場合には偶像崇拝Idolatoryとなります。巷にアイドルは溢れていますが、それに抗して真の英雄を崇拝したいと思います。誰にもその心魂の根源にそれを崇拝する、信じる力能が与えられています。信は心魂の根源に生起する肯定的、創造的な生のみなもとです。
或る方が朝礼拝で、人間は存在しているだけで素晴らしいという話をされましたが、それは聖書的には「内なる人間(ひと)」という神の憐みを受ける部位、二番底が肉という自然的な部位の底に備えられているために、外側の身体は事故などで破れてしまい十分に自己を表現できなくても、内的にいつも新たに豊かでありうるということであると思われます。自ら身体を介して表現する力能を奪われたひとであっても、各人には聖霊の援けをいただく「内なる人間」と呼ばれる部位があり、そこでは第三者に語ることもまた第三者によって確かめることができなくとも、その方と神とのあいだで信と信の関係が結ばれていることでしょう。パウロは言います、「外なる人間は日々滅び衰えるが、内なる人間は日々新たである」(2Cor.4:16)。
この「内なる人間」が生物的な基礎のもとに、それと同時に創造者なる天の父に似せて造られた者として生物次元に還元しきれない部位が力能において与えられているがゆえに、この現実の大嵐のただなかに投げ出されたとしても、この現実世界のなかで希望をもって生きることができます。それ故に、「霊によって貧しい者」、すなわちこの世界ではなにものによっても満たされず、義に飢え渇き、愛しい者を喪失し悲しんでおり、迫害にあい争いに苦しみ平和を造る柔和な者、心の清い者たちが祝福されているのでありましょう。
宇宙万物の創造者の御子がこの地上に受肉されたこと、そしてナザレのイエスがこの唯一の現実世界の救い主であることを、自らの心魂の現実のなかで理解し納得できることは祝福されたことです。ハレルヤです。あらためて、クリスマスおめでとうございます。
二〇二〇年登戸学寮日曜聖書講義一覧(四月五日~十二月二〇日)
山上の説教連続講義 マタイ福音書五章~七章
四月五日 権威ある祝福
四月一二日 初めての聖書
四月一九日 第二福 悲しみの文法
四月二六日 柔和な者たち
五月三日 悲貧柔者の祝福と怨念(ニーチェ)
五月十日 義の渇きと憐み
五月一七日 心の清さ
五月二四日 平和を造る者 One Team, One Health, One Life
五月三一日 平和を造る者その二 ―執り成す者―
六月七日 正義と迫害
六月一四日 正義と迫害(その二) モーセ契約から新約へ
六月二一日 祝福されるひと ―八福の範例・イエスの生涯―
六月二八日 祝福されるひと(その二)
七月五日 祝福される人(その三)―その心によって清いナザレのイエス―
七月一二日 偽りとの決別―山上の説教における道徳的次元―
七月一九日 偽りとの決別(その二)―「報い」における正義と利益の位置づけ―
七月二六日 「天の父が完全であるように、汝らも完全なものとなれ」
八月二日 山上の説教における福音―リアルタイムのイエスそのひと―
八月一六日 桝形夏の聖書講義1 生き抜かれた山上の説教
八月二三日 枡形夏の聖書講義2 パンデミックと聖書 (その一)―イエスの山上の教え―
九月一三日 桝形夏の聖書講義3 パンデミックと聖書(その二)―「神の怒り」を手掛かりに―
九月二十日 道徳次元の内破―山上の説教概観―
九月二七日 主の祈り
十月四日「神の国と義」の求めのなかでの「断食」―野の百合空の鳥を見よ―
十月一一日「断食」から野の百合空の鳥へ(2)―神の愛による天と地一切の秩序づけ―
十月一八日「汝ら裁くな」
十月二五日「豚に真珠」
一一月一日 探求と発見(1)―「探せ、探せば見つかる」―
一一月八日 探求と発見(2)―「探せ、探せば見つかる」―
一一月一五日 探求と発見(3)―「キリストに似る」認知的、人格的働き―
一一月二二日 黄金律―神の愛の先行性とひとの愛の相互性―
一一月二九日 狭き門―「私は道、真理、生命である」―
一二月六日 良い木は良い実を結ぶ―心魂の態勢と恩恵―
一二月一三日 岩上の家―イエスの言葉と働きの上に建てる生―
一二月二十日 山上の説教を顧みる
山上の説教を顧みる
山上の説教を顧みる
2020.12.20
1テクスト
「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:1-12)。
2 山上の説教の八福を顧みる
ここまで30回にわたってマタイ福音書5章から7章の山上の説教を学んできた。この連続講義は黙示録に描かれる人類の存亡がかかっているという意味で人類史的な危機のただなかで遂行された。12月中旬現在、世界の感染者総数は約7300万人、死者は160万人を数えている。100人に一人は感染しており、感染者の約50人に一人は亡くなっていることになる、これはパンデミックと呼ばねばならない。人類には共通の課題があること、そしてそれを知恵により克服することが求められている。若者たちがその柔軟な発想のなかでゲームなどにおいて人類の存亡にかかわる訓練をしているように、聖書はその人類史的な視点で人類を受け止めてきた。そして今日はわたしどものクリスマスのお祝いのときをもっている。闇夜に光が輝いた。人類は大丈夫だ、救い主がこの地上に生まれた。
山上の説教を顧みるが今回は冒頭の八福を全体のなかで取り上げたい。その心によって清いひと、柔和なひと、平和を造るひとが祝福されているということを学んできた。平和の君がイザヤの預言通りに人類に与えられた。「主はもろもろの国のあいだの争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし槍を打ち直して鎌(かま)とする。国は国に向かって剣をあげず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光のなかを歩もう」(Isaiah.2:4-5)。
3 天の父との関連でその霊によって貧しい者の祝福が語られている
第一福「その霊によって貧しい者」とはいかなる者か。経済的な困窮者それも自発的に貧しい者なのか、それとも精神的に謙遜な者なのか、とりわけ神との関係において充足的なものではないがしかも神に縋りついているそのような意味での貧しき者を理解すべきなのか、或いは双方のいずれでもあるのか。ルカには端的に「貧しい者」とあるが、そこでは経済的な困窮者をただちに指示しているように見える。このマタイではそれを包摂しつつも天の父なる神との関係においてその貧しさを捉えるそのような限定が付与されている。ここではやはりイエスに即してまた打ちひしがれてしまっており、救いを求めてついてくる群衆の文脈でこの箇所を理解しよう。
「その霊によって貧しい」の対義語のひとつに「欲望によって貧しい」が考えられる。「箴言」に「欲望はひとに恥をもたらす。貧しい者は欺く者よりも幸い」(Prob.19:22)、「初めに嗣業(ゆずり・遺産)をむさぼっても、後には祝福されない」(Prob.20:21)、「貪欲な者は財産を得ようと焦る。やってくるのが欠乏だとは知らない」(Prob.28:22)とある。「第一テモテ」に「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥る。その欲望がひとを滅亡と破滅に陥れる。金銭の欲はすべての悪の根だ。金銭を追い求めるうちに信仰から迷いでて、様々のひどい苦しみに突き刺された者もいる」(1Tim.6:9-10)とある。従って、「欲望によって」貧しい者また欲望によって一時的に富んだ者、その者たちが祝福の対象であることは考えにくい。かくして「その霊によって」貧しい者、つまり神との関係において貧しい者、この世のいかなるものによっても満たされず、救いを求めざるをえない者が祝福されていることは少なくとも語りうることである。
「誰も二人の主人に兼ね仕えることはできない。というのも、一方を憎みそして他方を愛するか、或いは一方に忠実であり、他方を軽蔑するかだからである。汝らは神と富双方に仕えることはできない」(6:24)。金持ちが天国に入ることが難しいのは神にではなく金銭に頼るからである。金持ちであっても神に頼り、信仰のもとに愛の道を歩む者は貪欲な者たちの金の使用とは異なる使用に向かうであろう。この世の富は相対的なものに留まる。愛することは信、希望とともにその命令において心魂の最も基礎的な態勢そしてその方向として普遍化されようが、愛の具体的な形は個々の状況において異なることであろう。
イエスは経済的に自発的に貧しく、そしていつも父なる神の意向を尋ね求め、神の声に聴くという仕方で謙っておりそして或る状況においては「エリエリ」の叫び「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てられたのですか」(Mat.27:46)のなかで神が御顔を隠したことによって、神を見失いつつも神に訴えかけるという仕方で霊的に貧しい状況であった。そのように「貧しい」者は神と関わり続ける限りにおいて祝福され、天国にいれていただく。山上まで救いを求めてついてきた群衆に彼はその祝福を語っている。欲望によってではなく、その霊によって貧しい者は祝福されている。
第一の祝福は普遍化されるのであろうか。三人称による呼びかけであり、命令ではなく神の嘉みの対象であるから、一般的に妥当すると言える。とはいえ、これら八福すべてを満たさねば祝福されないというわけではなく、この点においてイエスに似た者になるにつれその祝福は大きいものとなるであろう。神との関係において貧しい者、悲しんでいる者、柔和な者、義に飢え渇いている者、憐れみ深い者、その心によって清らかな者、平和を造る者そして正義のために迫害される者となるにつれて、イエスに似た者となることであろう。
4 心の受動的態勢・パトス―悲しみ、憐み―
第二福は「悲しんでいる者」の祝福である。感情の文法によれば、この感情が生起する文脈は愛しいものを失うというものであった。感情実質は他の何ものによっても満たされない喪失感である。彼らは後の日に慰められる。わたしたちが愛しいものを喪失し悲しんでいるとき、神に慰められることになるから祝福されている。何か代替物により気晴らしするなら、そこに自らを慰めさせる装置、偶像を持ち込むこととなり、神に慰められることはない。ここでも天の父との関係において悲しみを捉えることが求められる。パウロは「神に即した苦しみは救いにいたる後悔なき悔い改めを働く。しかし、世の苦しみは死をもたらす」と言う(2Cor.7:10)。
感情はパトス、passive(受動的)であり選択できずに、おのずと心に湧き上がってくるものだった。パトスとは身体にその座をもつことから、例えば怒ると顔が赤くなり、恐れると青ざめるそのような身体的特徴を伴う。アリストテレスは「パトスはヘクシス(心魂の態勢)の徴である」と言った。すなわち、どんな感情が湧き上がってくるかにより、そのひとがそれまで培った心魂の実力、構(かまえ)がどのようなものであるかを示すという議論を展開した。感情の背後には心魂の実力として認知的態勢と人格的態勢が控えていると考えた。認知的とは心魂の知性、知識に関するものであり、人格的とは身体に関わるものであり、知性の明晰なひとは「賢者(sage)」と呼ばれ、人格の完成されたひとは「聖者(saint)」と呼ばれる。真理と偽りすなわち事実に関わるものが知性であり、善と悪すなわち価値に関わるものが人格である。
人格的に有徳な者、卓越した者は「パトスに対して良い態勢にある」。正義な者は怒りに対して良い態勢にある、つまり正しいひとは怒らないのではなく、怒るべき時に怒るべき仕方で怒るべき程度の怒りが湧いてくるそのような調和のとれたひとである。恐れは自らを破壊するものにであうという文脈において生起する。その感情実質は身のすくむ思いという類の身体の萎縮感を伴うものである。有徳性のひとつの指標は「中庸」と呼ばれた。恐れに対する勇気ある者、欲望や快楽に対する節制ある者も同様である。
また知性もパトスに対して影響を与える。例えば、ウイルスの振舞いを知れば、ウイルスに対して正しく恐れること、或いは、ウイルスを制御できるようになれば、恐れなくなること、そのようなことが起こる。イエスは「天国のことを学んだ律法学者は自分の蔵から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:52)と言っている。古いものとは旧約のことであり、新しいものはその延長線上に打ち立てられた新約のことであるという理解がなされることもあるが、きちんと心魂という自分の倉庫を管理しており、知性においても人格においても一切を天国との関連において秩序正しく考慮することができまた行為を形成することのできるひとのことである。
聖書はなにか人格に関わるものと捉えられがちであるが、認知的な卓越性は聖書においても重要な位置を占める。パウロは「わたしはわが主キリスト・イエスの認識の優越の故に、あらゆるものを損失と考える、彼の故にわたしは一切を失ったが、それらをわたしは塵芥と看做す」(Phil.3:8)と言う。人類は知性と人格を総合するものを求めてきた。
アリストテレスはそれを「実践知(phronēsis, practical wisdom)」と呼び、イエスやパウロは「信(pistis, faithfulness)」と呼んだ。心魂の根底に信があるとき、知性が磨かれ認知的に有徳な者となり、身体からわきでるパトス(喜怒哀楽)に対し安定的な構えができ、人格的に有徳な者となる。アリストテレスが実践知という人格と知性の融合の成功した視点からとらえたのに対し、聖書は信という肯定的な力ある生をつくる心魂の根源的態勢に集中した。イエスもパウロも信に基づき愛することができる者となるなら、それは人格的に完成されると主張した。パウロは信に基づく義・正義をいただいた者においてその「正義の実」(Phil.1:11)が愛であるとした。木は実によって知られる。信に基づき神との関係がただしくされたひと、即ちよき木は愛というよき実を結ぶ。
この第二福、悲しんでいる者が祝福されているというこれまた尋常ならざる主張である。愛しいものをもたないひとは悲しみを感じることもないであろう。裏切りなど心に傷をおったひとはパトスの発動が生じないように、一切から距離を置くことになる。パスカルは「愛から遠ざかれば、すべてから遠ざかる」と言う。「すべて」とは生きることそのものから遠ざかることに他ならない。イエスは終末、世の終わりが近づくと愛が冷え切ってしまうと言った。彼の終末における迫害の預言はこうであった。「そのとき彼らは汝らを困窮に追いやりそして殺すであろう。そして汝らはわが名の故にあらゆる民に憎まれるであろう。そしてそのとき多くのものたちが躓きそして相互に引き渡すであろう、また相互に憎しみあうであろう。そして多くの偽預言者たちが立てられ多くの者たちを惑わすことであろう。無法がはびこることの故に、多くの者たちの愛は冷えてしまうであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶその者は救われるであろう。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として、全世界に伝えられる。それから終わりが来るであろう」(Mat.24:9-14)
愛する世界がこのようになるなら、実に悲しいことだ。イエスは深く悲しんだことが報告されている。捕縛前ゲッセマネという所において、彼はこう言っている。「「わたしが向こうへ行って祈っているあいだ、ここに座っていなさい」。ペテロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」。少し進んで行って、うつ伏せになり祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心(みこころ)のままに」」(Mat.26:36-39)。イザヤ書53章の苦難の僕はイエスの預言であるとされているが、そこでも人類の罪のために悲しみ苦しむ僕が預言されている。
虚無主義(ニヒリズム)はこの世のあらゆることに何ら差異、違いがないと主張する。善は悪であり、知識は誤謬であり、愛は憎しみである。十人殺せば悪党であり、百万人殺せば英雄である。この世界には何ら確かなものはないという考えがニヒリズムである。そこでは悲しむことも喜ぶことにも何ら差異はなく、たとえばニーチェはすべての感情をも考慮せず、善悪の彼岸にいたろうとする。そのように愛が冷えていくなかで耐え忍んで、少しでも平和を造る者となりたいと思う、そのような思いのひとびとが登戸学寮をつくった。
第五福は憐み深い者である。これもひとつの身体的受動としてのパトスである。イエスは羊飼いのいない羊のようにうちひしがれて彼についてくる群衆を見て、「深く憐れんだ、そして多くのことを教え始めた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。第五福の「憐れむ」という動詞は「はらわた」という名詞の派生である。はらわたから憐みが溢れ出す。ひとは通常憐みの感情が湧くのは不当な仕方で或いは相応しくない仕方で不幸に見舞われたひとや状況に対してである。近年のネット上のバッシングは自業自得だという仕方で同じ不幸に見舞われても憐みがわくことがない状況を示している。イエスは群衆に「汝らが天の父の子となる」(5:44)と呼びかけるが、神に似せて創造された人類が相応しくない仕方で争い、妬み、憎しみ合うそのような状況にあることに深い憐みをもった。その憐みが彼をして福音の宣教に駆り立てている。彼は深い憐みをおぼえたあとに、天国について「多くのことを教え始めた」に報告されている。
5 その心によって清い柔和な者が平和を造る
第三福は柔和な者であった。柔和な者はそのまま第七福の平和を造る者となる。「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を汝らのうえに繋げなさい。そしてわたし[の足取り]から、わたしが柔和でありその心によって低いものであることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。というのもわたしの軛は良きものでありそしてわたしの荷は軽いからである」(Mat.11:28)。彼は彷徨うひとびとを招く、彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙遜が伝わる。彼から誇りが取り除かれ「柔和の霊」(Gal.6:1,)を頂く以外に、ひとは不公正や侮辱そして迫害に耐え、呪う者を祝福し「平和を造る者」にはなりえない(Mat.5:9)。
彼の軛を共に背負う歩みは日常をも彼の憐みに委ねる。何を着、何を食べるか日常のことがらについて、「汝らの天の父はこれらすべてのことを汝らが必要としていることをご存知である」(Mat.6:32)と言われる。この慰励の言葉の背後には天父への信が働いている、「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(7:11)。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。「まず神の国と神の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきことはその日で十分である」(6:32-33)。さもなければ、明日への不安の中で自らの肉を神とする「肉の欲」に飲み込まれ、神の意志に背くことになる(Gal.5:16)。神の意志に背くこと、それを「罪」と言う。
イエスは暴れ馬のような方ではなく、イエスは驢馬の子にのってやってくる平和の君であった。「平和を造る者」は第七福であった。その彼の軛に繋がれて歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与える者となる。平和の君だからである。ゼカリアは預言する。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。
第六福はこうであった。「祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである」(Mat.5:8)。「その心によって」即ち心魂の根底から全身にいきわたる仕方で混じりけがなく、純一であり、統一されているということが心の清さである。それは心の一つの根底的な態勢、構えであり、そこから良きパトスや行為が湧き出てくるないし遂行される。「ともし火をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置くものはいない。入ってくるひとに光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い」(Luk.11:33-34)。
心の清い者、清くされた者は神を見る。ヨブは言う。「どうかわたしの言葉が書き留められるように・・。私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27,Handel, Messiah, ‘I know that my Redeemer lives’).
「心(kardia)」とは聖霊が注がれる心魂の最も深い座をも含む思考や感情など心的働きの座である(Rom.5:5)。「魂 (phsuchē)」が基本的に生命にかかわる原理であるのに対し、「心」は意識などの働ききの主体である。イエスは言われる。「汝の宝のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.6:21)。「汝らのおのおのがその心から兄弟を赦さないなら、天の父も汝らに同様に赦さないであろう」(Mat.18:35)。またイエスは生命原理としての魂についてこう言われる。「身体を破壊しても魂を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:26-28)。
第七福平和を造る者への祝福は第六福心の清い者に続くが、それはこの祝福に相応しい。清くなくてどうし争いをやめさせ、平和を造ることができるであろうか。「自分を勘定にいれずに、よく見聞きし、分かりそして忘れず」(宮沢賢治「雨にも負けず」)と語られるが、心の目が澄んでいて正確にしかも公平にものごとを認識するひとにこそ、平和を造ることができるであろう。心の清い者は良心の咎めなしに心魂が平安な者のことであった。また心の清い者は自他の悲惨の知識に基づき悲惨な状況にある者への愛、憐みのもとにあり、相手の最善を造りだそうとする者である。
心の清い者は自らの利益を求めることはないので、争う者たちのあいだを執り成すことができる。柔和で謙ったイエスは神とひととのあいだを執り成すひとであった。彼は自ら争う者になることはなく、剣のもとに倒れ自ら死を選んだ。平和を造る者は護る者である。護るとは争う者双方をも護る。敵をも愛し、敵のために祈る者たちだからである。平安な者はその良心が聖霊により護られた者である。平和を造る者は執り成す者である。和解のための執り成そうとすることなしに、平和を造ることはできない。和解の執り成しは当事者をWin-Winの関係に導く。彼らは「神の子」と呼ばれることになる。キリストはその「長子」である。平和を造る者は当事者が二人しかいなくとも、即ち自らが争いの一方を担っている者となったとしても、イエスの軛を負う者として、媒介者の役割を担う。責める者と責められる者のあいだに自ら立つ。執成す者或いは執成される者となる。それ以外に平和は地上にこないであろう。
正義と迫害にかかわる第八福は正義に関わる人々への祝福であった。この箇所を理解するひとつの視点は良心の鋭敏さであった。正義に対する感受性の発動なしに、ひとびとの大勢に、世間に唯々諾々と従っているなら迫害されることはないであろう。「神が完全であるように、汝らも完全であれ」(5:48)と神に似せて造られた者としてひとの本来的な姿が提示されたとき、現実と本来性のあいだのギャップ、落差を知らされる。本来性は「内なる人間」(Rom.7:22)が開かれたとき、認識することのできるものである。その本来性との関連で良心が発動するようになる。良心とは共知であった。聖霊と共に知ることであった。心の清い者は心魂の底から神と和解しており、良心の発動から免れさせられており、平和を造る者となる。
平和が実現した一つの実、証とは「ひとつ」ということである。分断や分裂が癒されひとびとは同じ思いに満たされる。それが媒介者イエスのそして聖霊の働きである。パウロは言う。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、魂を共にかよわせることによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮するに至るためである」(ピリピ2:1-2)。パウロとともに「一つのこと」この福音については、それがわれらの外に生じた恩恵であるが故にこそ誰もが同意でき、人類は大丈夫だという思いに満たされ、この根幹から多くの案件についても「同じ思慮」つまり合意に至ることにもなろう。今・ここで慈しみ、援けが生起するなら、一同、同じ思いが分かちあわれたことの喜びに満たされる。One Lifeとは「キリスト・イエスにある生命の霊」(Rom.8:4)に共に与ることである。人間社会にもそのような生命の霊の広がりによる平和が想定されることになろう。
6 結論
イエスの軛に繋がれ歩んでいるとき、次第にイエスの歩調に合うものとなり、次第に造り変えられていくであろう。この世界に何ら確かなものがないと思い絶望する者でも、このような八つの心の働き、状況においてある者が祝福の対象であるなら、人類にその一番低い所にセーフティネットは明確に張り巡らされていることを知るにいたる。イエスのもとにならいくことができる。
イエスの弟子であろうとする者はイエスの担いやすい低い軛に一緒に繋がれ歩む。ひとは見捨てても彼は決して見捨てることはない。誰であれ、ご自身の栄光を棄てられ、ひととなり、貧しいもの、悲しむ者、争いを好まない者、正義から不当に見放され正義に飢え渇いている者、憐み深い者、平和を造る者そして正義のために迫害される者たちとどこまでも共にいたまう方のところなら行くことができる。この世界で見失われているひとびとであればあるほど、イエスの軛につながれつまり神の子の信のもとに生きることによって、この人生を歩むことができる。
クリスマス、これは希望の光が人類にさしたことである。ひとびとは争いをやめ、ひとつになる、One Teamになる希望のうちに生きることができるようになった。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、汝らが信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(15:13)。皆さんのうえにこの平安と喜びが臨み、希望をもって新たな一年を迎えられるよう心から祈ります。この一年拙い話につきあってくださってありがとう。
付録
二〇二〇年登戸学寮日曜聖書講義一覧(四月五日~十二月二〇日)
山上の説教連続講義 マタイ福音書五章~七章
四月五日 権威ある祝福
四月一二日 初めての聖書
四月一九日 第二福 悲しみの文法
四月二六日 柔和な者たち
五月三日 悲貧柔者の祝福と怨念(ニーチェ)
五月十日 義の渇きと憐み
五月一七日 心の清さ
五月二四日 平和を造る者 One Team, One Health, One Life
五月三一日 平和を造る者その二 ―執り成す者―
六月七日 正義と迫害
六月一四日 正義と迫害(その二) モーセ契約から新約へ
六月二一日 祝福されるひと ―八福の範例・イエスの生涯―
六月二八日 祝福されるひと(その二)
七月五日 祝福される人(その三)―その心によって清いナザレのイエス―
七月一二日 偽りとの決別―山上の説教における道徳的次元―
七月一九日 偽りとの決別(その二)―「報い」における正義と利益の位置づけ―
七月二六日 「天の父が完全であるように、汝らも完全なものとなれ」
八月二日 山上の説教における福音―リアルタイムのイエスそのひと―
八月一六日 桝形夏の聖書講義1 生き抜かれた山上の説教
八月二三日 枡形夏の聖書講義2 パンデミックと聖書 (その一)―イエスの山上の教え―
九月一三日 桝形夏の聖書講義3 パンデミックと聖書(その二)―「神の怒り」を手掛かりに―
九月二十日 道徳次元の内破―山上の説教概観―
九月二七日 主の祈り
十月四日「神の国と義」の求めのなかでの「断食」―野の百合空の鳥を見よ―
十月一一日「断食」から野の百合空の鳥へ(2)―神の愛による天と地一切の秩序づけ―
十月一八日「汝ら裁くな」
十月二五日「豚に真珠」
一一月一日 探求と発見(1)―「探せ、探せば見つかる」―
一一月八日 探求と発見(2)―「探せ、探せば見つかる」―
一一月一五日 探求と発見(3)―「キリストに似る」認知的、人格的働き―
一一月二二日 黄金律―神の愛の先行性とひとの愛の相互性―
一一月二九日 狭き門―「私は道、真理、生命である」―
一二月六日 良い木は良い実を結ぶ―心魂の態勢と恩恵―
一二月一三日 岩上の家―イエスの言葉と働きの上に建てる生―
一二月二〇日 山上の説教を顧みる
岩上の家―イエスの言葉と働きの上に建てる賢い生―
岩上の家―イエスの言葉と働きの上に建てる賢い生―
日曜聖書講義2020.12.13
1テクスト
かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけたが、しかもかの家は倒れることはなかった。というのもその基礎が岩の上に築かれていたからである。これらのわが言葉を聞きそして行わない限りの者は皆、自分の家を砂地のうえに建てた愚かな者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけた、そうするとかの家は倒れたそしてその傾きは大きかった。
イエスがこれらの言葉を終えられたとき、群衆は彼の教えにとても驚いてしまった。というのも、彼は権威ある者のように、彼らの律法学者たちのようにではなく、彼らに教えたからである」(Mat.7:24-29)。
2岩上の家とはイエスの言葉と働きの上に遂行される生である
ここまで一貫したものとして山上の説教(マタイ5-7章)を読むことができたことを感謝する。山上の説教についてはいくつかの理解が提示されてきた。律法主義的に理解し文字通り生きようとしてトルストイのように駅で野垂れ死にするか、教えを希釈し心情倫理と責任を分けるなどして希釈し個人倫理と社会倫理を分けて何等か現実との折り合いをつけようとしてきた。さらにはルター主義によれば説教は審判の言葉であり、福音に追いやるために語られた。このような理解のなか、イエスは今・ここの途上の生において言葉と働きを分離させることなく、「権威ある者」として人類の罪を贖うために文字通り死に至るまで信の従順を貫いたが、まことのひととしてこの山上の説教はひとりのひとにより満たされた。途上で語られたことと完遂されたあと使徒により語られたことのあいだに、例えば狭き門から天国に入る者は「わずか」であるかをめぐって若干の緊張は残るが、福音は人類すべてに向けられた神の意志であることが十字架と復活により明らかになったことを確かなこととして語ることができる。ここではいくつかの理解を提示しそれを乗り越える見解を次週に続けて提示していきたい。
今日30回かけて山上の説教の最後の教えに到達した。「かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけたが、しかもかの家は倒れることはなかった。というのもその基礎が岩の上に築かれていたからである」。
どのように建てるかは問題とされていない。どこに建てるか、どこに住むかが問われている。ひとがそのうえに自らの人生を築く唯一の土台が問われている。「これらの言葉」がその唯一の土台である。イエスは福音をリアルタイムに実現しつつある、そのなかで語られた言葉である。「福音」とは神がその信仰を嘉みするすべての者に救いをもたらす「神の力能」である(Rom.1:16)。われらはこれまで彼の新たなモーセ律法の理解を聞いてきた。戦慄するほどの厳しさであり、またひとが抱きうる根底の良心(共知 con-science)においてその言葉の偽りのなさに同意せざるをえない「権威ある者」としての語りであった。ここで「権威」とは、イエスの言葉とその働きは、福音書全体において証されるように、彼において二心や分裂がみじんも見られず、一なる全体として生命の輝きと迸りにおいて遂行されたところのその力強さ、この世のものならざる聖性から輝きだすところのものである。かくして、イエスの言葉と行いのうえに自らの生を建てる者は盤石の岩の上に自らの人生を遂行することである。
ナザレのイエスは彼の発話と行い、一言一句、一挙手一投足において福音を実現しつつあった。十字架の死に至るまでまったきひととして神の御心を実現していった。彼は二つのもののあいだの選択において中立的な立場で悩んだことは報告されていないが、御心と信じる者もあまりの苦痛と嘆きと疲労のため、そのまま苦しみなしに受け取ることができない局面もあった(e.g.Mat.26:36-46)。それほど彼の一挙手一投足に福音の実現、神の国の実現がかかっていた。山上の説教において彼はユダヤ教の伝統のもとに自ら身を置いた。群衆に彼の新しい教えを理解してもらうべく、伝統的な教えの延長線上に伝統的な教えを突き破るべく、モーセ律法の急進化、内面化を遂行した。道徳的次元に屹立しつつ、その内側から彼らの道徳的理解の不徹底や自己矛盾を突き、そこに留まることのできないものとした。ひとはそれを「信仰の招き」と呼ぶであろう。しかし、それは明確な仕方ではなされなかった。奇跡の遂行もなければ、聖霊の注ぎも報告されてはいない。「信仰」そして「罪」という語句をそのままでは見出すことができない。
イエスは山上の説教における対人論法の背後に自らが神の子であるという自覚を明確に保持していた。その説教においては「神の子」や「天の父」が二人称や三人称複数で語りかけられる根拠、裏付けとして、「わたしが来たのは・・」、「わたしは言う・・」という一人称単数による「わたしの天の父」すなわち自らが神の子であることの自覚がある(5:9,5:17,5:22,7:21)。山上の聴衆が「天の父の子となるために」そして天国における報いへの信仰によって、彼は地に固執する群衆を新たに「地の塩、世の光」となるよう導く(5:13-14,45)。イエスは父なる神の意志、律法を実現すべく世に遣わされたという「神の子の信」の自覚のもとに、「御子の福音」を自らの言葉と働きにより実現する(Gal.2:20,Rom.1:2)。
預言者ヨハネは「荒野に呼ばわる声」として「主の道をととのえ、その道筋をまっすぐにせよ」(Mac.1:3)と言う預言者イザヤの言葉に即し生命をかけて主の到来の道をまっすぐにした。彼は水による悔い改めの洗礼を授けたが、火の試練と聖霊による洗礼の時代が来る。ヨハネは最後の預言者として位置付けられる。「すべての預言者たちと律法が預言したが、それは[洗礼者]ヨハネまでである」(Mat.11:12)。預言のときは過ぎ、今や福音のときが到来したと宣言されている。「時は満ちた、神の国は近づいた。汝らは悔い改めよそして福音を信ぜよ」(Mac.1:15)。旧約から新約へのバトンをイエスに渡すことが洗礼者ヨハネの務めであった。イエスがヨハネから洗礼を受けたとき、こう報告されている。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。すると声が天から生起した。「汝はわが愛する子、わたしは汝を嘉みした」」(Mac.1:10-11)。預言者と律法は古い革袋であり、それは生命の輝きと生命の泉の迸りの福音の新しい革袋に受け継がれる。そこでは「われは知る律法は霊的なものであると」(Rom.7:14)と語られるようになる。
マタイは最後の預言者の働きをこう報告していた。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう」(Mat.3:10-11)。
預言者たちと律法、それら「聖書全体」は新しく福音のもとに位置付けられる。イエスはご自身の復活のあと、エマオの途上において復活の主とは気づかなかった二人の弟子と共に歩きながら真の預言者たちについて言う。「「ああ、預言者たちが語ったすべてのことを信じることに至らない、何という、愚かでその心鈍い者たち。キリスト[メシア]はこれらの苦しみを忍んでそして栄光に至るはずではなかったのか」。そして、イエスはモーセとすべての預言者から初めて聖書全体において(en pasais tais graphais)、ご自分について書かれていることを説明された」(Luk.24:25-27)。
預言者と律法、「聖書全体」はイエス・キリストを、福音をめがけ、証言し指差していた。モーセ律法を急進化、内面化そして純化させた山上の説教は実はナザレのイエスにより満たされることにより、預言と律法は新たに福音に秩序づけられることとなった。生命の迸りは古い革袋を破ってしまう。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けそして酒はほとばしりでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。
重要なことは、山上の説教はナザレのイエスそのひとが今・ここにおいて究極の律法を実現しつつあるただ中で語られたことである。もし彼が十字架から下りてきたしまったなら、神のみ旨は実現されてはいないと看做され、福音の啓示の媒介者として用いられることはなかった、そのような緊張のなかで、肉の弱さを抱えたイエスご自身により一挙手一投足が遂行されていたのである。パウロも福音書記者たちも十字架と復活と昇天ののちにナザレのイエスが何者であったかをめぐり信に基づく義と選びの神学さらにはその伝記を書き残したのであった。当のイエスご自身は苦闘のただなかにあったことを忘れてはならない。山上の説教が生命を懸けて生き抜かれたことによって、われらは人として想定しうる最も偽りのない在り方が福音に包摂されることとなったのである。少なくとも人類にひとりはそれを成就したからである。
3 言葉と行いの分裂のなさ―心魂の態勢とは―
前回、偽預言者と真の預言者を判別するものとして木とその果実の譬えが用いられていることを学んだ。「良き木は悪しき果実を生み出すことはできず(ū dunatai)、また腐った木は良き果実を生み出すことができない」と自然事象について不可能という強い言葉が語られている。偽預言者が良き結果を生むことができないということは理解できるように思われるが、天候不順で良き木が悪しき実りをもたらすことなどは考慮にいれられていない。木と果実の関係は必要十分関係として展開される。もし木が良ければその果実は良いものであり、もしその果実が良いものであればその木は良いものである。悪についても同様である。かくして、善と悪はその根から果実に至るまでつまり根底からその帰結にいたるまで、始めから終わりまで、双方交わることのないもの、混じる余地のないものとして峻別されており、そう主張されているように見える。
それに対する応答はちょうど樹医が良い木と腐った木を判別できるように、永遠の現在にいます神には一切が明らかであり、この「~できない」という様相表現は神の前の現実、神による認識をまず表していることであった。神の前においては一切が明らかであるということを含意しよう。或いは成功した地点から語られており、良き実を結ばない木は結果として悪しきものであることが分かるため、人生の終わりに人間的にもほぼ理解できるということであろう、ただし、良き果実とは「地の塩、世の光」としての生涯のことに他ならない。
われらは人生の途上にいる。今・ここでこの岩上に家を建てる賢い者となるかが問われている。それともこれまでと同様に愚かな者にとどまるのかが問われている。日本では百人に一人しかこの盤石な基盤のうえに生を建てようとはしていないと報告されている。盤石な基盤に建てる人とは「これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者皆」のことである。イエスは端的である、「汝らは[旧約]聖書と神の力能を知らないから、彷徨っている」(Mat.22:29)。これまで繰り返して語ってきたように、神の意志はイエス・キリストにおいて最も明白に知らされており、われら個々人には彼においてほどは明確には知らされてはいない。それゆえに、神に選ばれ愛されていると信じることはわれらには実質的であるということを確認してきた。パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)と語るように、ひとは人間中心的には即ちひとの前では「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる可能存在として理解することが神により許容されていた。ひとは神の前の現実を肉の弱さの故に明確に知ることができないからである。山上の説教が語られる文脈もこの人間的な責任が問われるところで、つまりモーセ律法の延長線上で展開されている。
前回から吟味している注解者たちに問題とされてきたことは、木と比較され、譬えられるひとの心魂の態勢についてどう理解すべきかということであった。良い木は良い実を結ぶ、逆も真である。木と果実の関係が必要十分な関係であるとして、果実即ち行為の側から述べたのが山上の説教だと言われることがある。心の側からも行為の側からもどちらから述べることもできる必要にして十分な関係であるとする。記号化が理解の助けになることを望むが、必要十分な条件を表す文が真である場合を記号化すると(P→Q)&(Q→P)と記される(Pは善き心・意志であるとし、Qを善き行為、良きき果実であるとする)。対偶を取れば(¬Q→¬P)&(¬P→¬Q)となり、QでなければPでなく、PでなければQでない、それぞれがそれぞれに必要条件でもあることを示している。良き木でなければ、良き実をもたず、良き実をもたなければ良き木ではない。
勢い、PとQを一体としてそこでは人間の全体が問われていると理解することになる。ルターは「全体的な人間」として聖霊の働きのもとで統一された人間を理解すべきだと言う。ルターは「信仰のみ」により信の根源性を捉えており、そこ即ち根や木のほうから果実としての愛の善き行為が生まれるとする。彼は「ガラテア書」の「愛を媒介にして実働している信仰が力強い」(Gal.5:6)を引用して、ここでは愛が単独で力強いとは語られてはおらず、愛を介して働いている信仰、即ち愛を生み出す信仰が力強いと語られているとする。そして彼にとっては、信仰は恩恵として神の業であり、信じることは信じせしめられることである。したがって、善き心は常に聖霊込みである。この「込み」を連言+で表現すれば、P+Hとなる。善行Qとの関係は必要十分な関係として捉えられる。((P+H)→Q)&(Q→(P+H))。
また、先週U.ルツの見解を提示した。彼によればキリストによる助けや恩恵の付与がひとの側から語られていた。「キリストは義を行う者に生命に至る道を開くのである。キリストはそのようなものを、そしてそのような者のみを、助けるのである。キリストは彼の恵を彼の言葉を行う者に与える。自分たちの果実によって測られる備えのないどんな心情倫理も、この山上の説教の結びの前ではぶち壊される」(U(ウルリヒ).ルツEKK新約聖書註解I/1p.594小川陽訳)。
この文章の一つの理解はひとの心の態勢としての心の善き在り方がそれ自身としてつまり自らの力能により良き果実の十分条件を与えるものではないという主張である。彼が「キリストは彼の恵を彼の言葉を行う者に与える」と結果の側から記述するとき、善き心情があったとしても、それは必ずしも善き果実を生み出すことはないと主張されているように見える。P(良き木)が真でQ(良き実)が偽である場合があると主張されている。たとえ自分では誠実な「心情倫理」のもとにあると思っても、「義を行う者」ではないことが指摘されている。木と果実のあいだに因果関係はもとより、安定した関係が存在しないという主張と取ることができる。さらに形式的に律法遵守の行為が遂行されるとき聖霊が助けると理解することもできるが、これらの理解は明らかにイエスの主張とは異なるため、ルツがこれを意図しているはずがない。
もう一つの理解は木と果実を結果、行為の側から考察するさいの、暗黙の前提として双方が分離できないものとして見ることである。そこではひとには習慣づけられた心魂の態勢、構としての実力があり、それは行為に対して待機的な関係、即ち心魂は外的な妨げがなければ、常にその当該の行為を遂行することができる待ち受け状態にあるという主張を含意している。太極拳を習得したひとは、構るとき、そのままその運動が遂行されるそのようないつでも動きに移すことのできる構、態勢にあり、それは「待機的」と呼ぶことができる。
ルツは帰結の側からだけこの事態を述べているが、彼が暗黙のうちに前提していることは、良き果実を生み出す者でなければ、善き心を持たないと看做されており、良き果実は良き木の必要条件となるが、同時に良き果実は常に良き木であったことを証していると読むことができる。木が善き実をもたらす待機的な力能のうちにあり、その実りに常に移行するという理解である。換言すれば、ルツは聖霊による援けが与えられるのは、QがPに対して十分な関係にある場合、良き実は良き木を含意しているとする。これは常にPとQが分離されない関係であると理解できる。それを+で表現すると、((Q+P)→H)と表記できる、ただしHは聖霊の援けを表している。全体が良き果実と良き木であるなら、聖霊を受けると読むことができる。対偶を取り、ルツは聖霊を受けなければ、良き木と果実ではないという主張を認めると思われるが、聖霊は心魂の態勢として立派であり立派な善き行為を行う者に注がれると主張されている。少なくとも山上の説教はそのようなものであると理解されている。
ルターのように常に聖霊による心Pに対する執り成しを要求する場合には、(P+H)ならばQは常に成立する、そして逆も真でありQならば(P+H)が成立していと看做されている。聖霊の媒介があるからである。ルツは人間の心の態勢としての心情をここで問うている。ここでの問いは「自分たちの実によって測られる備えのないどんな心情倫理」という陳述における「備え」は自らの責任ある自由のなかでの訓練により習慣化された心魂の態勢のことであると主張されている。ルターなら、その心の「備え」そのものが恩恵によりなされると主張するであろう。
ルツの主張をわれらのように理解できるなら、すなわち結果の側から原因を分離なきものとして見るなら、((Q+P)→H)&(H→(Q+P))と表記することができる。ルター((P+H)→Q)&(Q→(P+H))とルツは相互に同意できると思われる。双方の違いは聖霊の援けがどの段階で働いているかの差異とも理解できるが、山上の律法をなんとか真剣に遂行しようとしているそのところに聖霊の呻きによる執り成しがあることは十分に想定できる。ただし、ルツは人間中心的にしかも帰結の側から語っており、心の在り方を果実と込みにして、良き果実の場合は心の在り方が善き行為をうみだす待機的な状態にあり、そこに聖霊をいただき援けのもとにあったということが分かると主張していると思われる。
それではイエスご自身はひとの行為を導く心魂の態勢をどのようなものとして理解していたかそしてパウロはどうであったかを哲学的次元で、人間中心的な仕方で分析してみることにする。
4イエスが語る心魂の「倉」
ここではイエスご自身またパウロも、人間の責任ある自由の根拠としての心魂の独立性を前提にして議論していることを確認したい。イエスご自身が聴衆の分かりやすさのために天国のことを譬えにより語られるとき、彼は人間中心的に語っていると言うことができる。例えば、天国は農夫が借地の畑で宝をみつけたら、持ち物をすべて売って地主から畑を買うそのようなものに譬えられる(Mat.13:44)。人間的なことがらから神の国を類推することがなされる。そこでは当然、人間的な心の働きが前提にされており、たとえ聖霊の媒介があったとしても自然的な次元で理解される。
パウロも「ローマ書」において所謂信仰義認論と予定論を「神の知恵」として展開するときは、一切聖霊への言及なしに、神の前と人の前を理論上分節したうえで神の前のことがら即ち神ご自身による人間認識として報告している。「ローマ書」において、パウロは読者の知性を信じる、「わたしは自ら汝らについて確信している、汝ら自ら善きもので満ち、あらゆる知識を十全に備えており、互いに忠告しあう力ある者たちであると」(Rom.15:14)。そのもとに「ギリシャ語圏の者にも異言語圏の者にも、知恵ある者たちにも愚かな者たちにもわたしは負うべき責めを持つ」(Rom.1:15)として、彼は哲学における「知恵(sophia)」による析出を可能にする神学理論(ロゴス)とそれに相補的なものとして聖霊の媒介行為(エルゴン)への言及により福音の宣教を遂行した。信に基づく正義の議論は1:17-4:25においてそして予定論は9:6-11:32において聖霊への言及なしに神の知恵として展開される。他方5:1-8:36においては神の前とひとの前を媒介する聖霊への言及のなかで和解論や救済論を展開する。これはパウロの言葉によれば、「[神の]知恵の説得的議論」と「[神の]霊と力能の論証」と判別されているものである(1Cor.2:4)。「ローマ書」の所謂信仰義認論と和解論は通常聖書学者により「法廷的・代理的贖罪論」と「神秘的・参与的救済論」と判別的に語られている。
イエスもパウロも理論上神の前と人の前を判別して語ることを許容しており、働き(エルゴン)上神は聖霊を介して今・ここで働いてい給うと信じている。哲学者たちが展開する人間中心的な理解をパウロは肉の弱さへの譲歩として自ら展開している (6:19-20)。ひとは自らの責任ある自由のなかで生きている。
アリストテレスのようなギリシャ哲学者たちの倫理学はイエスやパウロの倫理と少なくとも相当程度両立的であると思われるが、聖書を知らず聖霊についての理論をそれとしてもたない哲学者が自ら聖霊の注ぎを受けながら自ら聖霊をそれとして自覚することなしに倫理学を展開しているということはありうることである。聖書以前のひとびとは聖書のロゴスを知らない以上、自ら体験したことをその光のもとで記述することはできないからである。これは数週前の講義「探求と発見」のなかで聖霊の発見においても、発見的探求論のもとに語ることができ、「存在」は常に自体的または付帯的属性を伴い発見されることを論じた。「聖霊」にふれたひとは「生命」や「平安」などの自体的ないし必然的な属性を伴いその存在が発見されている。そして聖霊を聖霊として理解できるのは、それまで聖書に親しんできたからである。超越的なものとの人格的な交わりは自然諸科学によっては決して理解できず、聖書の言葉に習熟することが求められる。
アリストテレスは怒りや欲望や嫉妬、憐み等の感情や情念などの自ら選ぶことなしに発動するパトスはその背後にそれを感受する潜在力、態勢が前提にされており、その力能が宿る心魂の実力としての習慣づけられた態勢があると主張する(Nic.Eth.III)。そして培われた待機的な態勢は外界からの妨げがなければ、その実力どおりの行為が遂行される。人格的には感受態(パトス)に対し良い状態、悪い状態と言いうるそのような態勢があり、それが何らかの感受力能を形成し、それに応じて生起する感受態にも差異が生じ、その基礎に感受力能を構成する習慣づけ、態勢(hexis, habitus)が貢献している。人格的に有徳な人間とはその態勢がパトスに対して「良い態勢」にある者のことだと言う。正義なひとは怒らないのではなく、怒るべきときに怒るべき仕方で怒りが湧いてきて、等しさを分配することのできる心魂の態勢にあるひとのことである。
イエスはアリストテレスの有徳性の分析、即ち態勢と感受態の分析に賛同するであろうことをここで簡単に確認する。イエスは彼の力ある業を見てついてくる群衆が、「飼い主のいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て深く憐れんだ」と報告されている(Mat.9.35f )。彼に憐れみという感受態が発動したのは、それを感受するその力能が涵養されており、憐み深さとしての力能が彼の心魂に宿っていたからである。それは彼の態勢が神と隣人への愛という状態にあったからこそ生じた。その愛のもとにはひとは神の子となるべきものであるにもかかわらず、闇の中を彷徨っているという認識が憐みの発動を助けている。そこに常に聖霊の注ぎがあったとしても、少なくとも人間的にそのように語ること、分析することは許容されよう。イエスは敵をも愛する態勢にあったからこそ、迫害する者を祝福して呪わず、 「喜びそして喜べ、天における汝らの報いが大きいからである」と言うことができたのであろう(Mat.5:12)。
アリストテレスにおいては有徳な者はいかなる犠牲を払おうとも心から有徳な行為を遂行することを喜ぶ者のことであった。恐れや周囲の空気の察知からなされる外面的な有徳的な行為はそのようなものとは看做されなかった。心の内側をこそ問う。イエスは神の言葉「われは憐れみを欲し(eleos thelō) 、犠牲を欲さぬ」(Mat.9:13, 12:7, Hosea6:6, 1Sam.15:22, Prv.16:7)に立脚し、ユダヤ教の改革者として律法をラディカルに解釈し、律法遵守を神への愛と隣人への愛という二つの戒めの遵守に収斂させる(Mat.22:36 )。そして、それは、外面的な行為、例えば施しをしたか否かとは異なり、愛したか愛さないかに関しては、直ちにはひとの目には明らかではないのである。それを動機づける心魂の実質こそ、つまり神と隣人への愛があるか、その態勢においてあるかということが問題にされている。外見上同様の有徳な行為に見えても、その動機が帰属する心魂の態勢が有徳でない限り、それは有徳な行為ではない。心魂に満ちてくるものが、口をつき、行動を引き起こす。内側が清くなければ、外側も或る刺激に対しては抗しえず、穢れたものとなる。「口からでてくるものは、心からでてくるので、かのものどもこそ人を汚す。というのも言い争い、悪意、殺意、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒涜は心から出てくるからである」(Mat.15:18-19)。
そしてイエスはその心には「倉」と呼ばれる習慣づけられた態勢のあることを指摘する。「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとせよ。木の良し悪しは結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、汝らは悪しき人間であるのに、どうして善いことが言えようか。ひとの口からは、心にあふれていることが出てくる善いひとは、善いものを入れた倉から善いものを取り出し、悪いひとは、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」(Mat.12:33-35)。
ここで「倉」とはここでは培われた心魂にしまわれている態勢以外のことではない。イエスのこの考えはアリストテレスの節度をわきまえ思慮深く行為することが求められている有徳な人物と平行的である。その行為の美しさ、立派さ、適切さそれ自体に基づき、正しく、勇気のある、そして節度をわきまえ思慮深く行為することが求められている(Nic.Eth .III11.1116a10 15, b30 )。
なお、イエスの譬えによる神の国の告知に続くまとめの発言はアリストテレスの「実践知、賢慮(phronesis)」に対して親和性を持つ。 「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものだ」 (Mat.13:52 )。人間に最も重要なことを学んだ者は生の全体のなかで個々のものをそれは古いものであれ新しいものであれ自由に適切に位置づける、即ち行為することができる一家の主人に似ていると、この発言を単にパトスに対して良い態勢にある人格的な有徳性に対してだけではなく、その認知的な卓越性に対する賞賛と読むことができる。アリストテレスの実践知者は生全体の目的構造との関連において、個々の文脈において或る有徳な行為を最善と認識し選択する心魂の力能ある態勢である。そこでは彼は個々の現場でそれ自身として喜びを伴い選択する者のことである。
山上の説教が聖霊に対する言及なしに、良心に訴える言葉の力のみによって展開されていたことを思い起こそう。彼は背後に神の子としての明確な自覚のもとにあったが、対人論法により各人の良心に訴えた。彼はその語りのなかに「権威ある者のように」、言葉だけではなく、心に偽ることなく行為を伴うそのような信頼感を醸成する者として語った。イエスは道徳的次元に留まり聖霊への言及なしにひとの心魂の態勢として良き木について、真の預言者について理解されると看做したに相違ない。
以上のように、イエスの言動はこの一般分析において説明されるであろう。彼は、哲学者のように人間類型の分析をするのではなく、恐れや自らの保身と利益にしか目のゆかない者に、「健康な者は医者を要せず。ただ病いある者これを要す。わたしは正しき者を招くためにではなく、罪人を招きて悔い改めさせるべく来た」(Luk.5:31 )と呼びかける。このイエスの言動において明らかなこととして、神の子であるはずの同胞のユダヤ人そして人間がこんなに悲惨であるはずがないという認識のもとに、彼は罪人の心魂を癒し、義人、思慮ある者、喜ぶ者を生みだすべく、罪人への憐れみの発動が恒常的であったことである。
5結論
このような聖霊に訴えることのない人間的なまた自然的な分析を、これまでの彼の言葉の引用の数々が保証するように、イエスご自身否定されることはないであろう。イエスは人々の日常の労苦、悲しみそして喜びをご存じである。山上の説教はそのただなかでユダヤ人の現実に身をおきつつ語りかけられ、ご自身が生命をかけて実現された。われらは少なくとも一つの事例を持っている。その彼が「一日の悪はその日で十分である」として、明日を煩わないように天を仰ぐように招かれたのである。わたしどもはここまで聞いて、再び立ち上がり、歩みだす。狭い門とそれに通じる狭い道というのは信仰の道であり門であったのである。イエスご自身が「生命であり道」であり給う。われらは山上の説教のうえに生命の迸りのなかで真理の道を歩みぬかれたその主と共に、その主の岩盤のうえに生を築くよう招かれている。
良い木は良い実を結ぶ―心魂の態勢と恩恵―
良い木は良い実を結ぶ―心魂の態勢(hexis,habitus)と恩恵―
日曜聖書講義2020.12.6
1テクスト
羊の衣のうちに汝らのもとにやってくる偽預言者たちを、それは誰であれ、警戒せよ、彼らの内側は強欲な狼である。汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアカンサスから葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての良き木が良き果実を生み出すように、腐った木は悪しき果実を生み出す。良き木は悪しき果実を生み出すことはできず、また腐った木は良き果実を生み出すことができない。良き果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から汝らは彼ら自身を知ることになるであろう。
「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入ることになるのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入ることになるであろう。かの日には多くの者たちがわたしに尋ねるであろう、「「主よ、主よ」われらは汝の御名によって預言を為し、また汝の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げたではありませんか」。そしてそのときわたしは彼らに応じるであろう、「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。
かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけたが、しかもかの家は倒れることはなかった。というのもその基礎が岩の上に築かれていたからである。これらのわが言葉を聞きそして行わない限りの者は皆、自分の家を砂地のうえに建てた愚かな者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけた、そうするとかの家は倒れたそしてその傾きは大きかった。
イエスがこれらの言葉を終えられたとき、群衆は彼の教えにとても驚いてしまった。というのも、彼は権威ある者のように、彼らの律法学者たちのようにではなく、彼らに教えたからである」(Mat.7:13-29)。
2 山上の説教が展開する人間理解
この箇所における良い木と良い実の話が山上の説教のなかで実質的には最後の教えである。それに続く「これらのわが言葉を聞きそして行う限りの者は皆」においては、これまでの教えのまとめがなされている。説教を聞いても行いを伴わない者たちは地獄の火に投げ込まれるという警告を聞いてきた。そして先週は生命に至る者の数は「少ない」という最も厳しい言葉をも聞いた。そこでは生命に至る狭い道と狭い門と滅びに至る広い道と広い門の識別が真の預言者と偽預言者との対比において展開されてた。「汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう」と語られ、真の預言者と偽の預言者はその人生がもたらすものにより峻別される。
この議論を支えるものとして木と実の譬えが用いられる。「良き木は悪しき果実を生み出すことはできず(ū dunatai)、また腐った木は良き果実を生み出すことができない」と自然事象について不可能という強い言葉が語られている。偽預言者が良き結果を生むことができないということは理解できるように思われるが、天候不順で良き木が悪しき実りをもたらすことなどは考慮にいれられていない。木と果実の関係は必要十分関係として展開される。もし木が良ければその果実は良いものであり、もしその果実が良いものであればその木は良いものである。悪についても同様である。かくして、善と悪はその根から果実に至るまでつまり根底からその帰結にいたるまで、始めから終わりまで、善と悪は交わることのないもの、混じる余地のないものとして峻別されており、そう主張されているように見える。
ここでの問いはこの比喩は人間の実際の生活にどこまで適用されるのであろうか。ひとの努力の余地は残されていないのであろうか。生まれから善きものは最後まで善く、そうでない者はそうでないとはいかにも不条理に見える。一つの可能な応答は経験ある優れた果樹医師は木を見てその果実の良し悪しを予見できるであろうように、ここでの善悪を神ご自身の認識を伝えているというものとなろう。ひとには見えないが時空をはじめ宇宙を一切統べ治めておられる神はそのように認識しておられることであろう。今は論じることができない予定論等にそのような力能ある方として神は論じられる。
福音は喜びであったはずである。いつも語るように、神の意志はイエス・キリストにおいて最も明確に知らされていた。闇の中に光が輝いたのである。闇は光にうちかたなかったのである。われらはこの闇と光の輝きのなかで責任ある自由のもとに自らの人生を構築している。
今ここではその福音の前に旧約の厳しい試練のときを必要としていたことを思いおこそう。やはりここでもナザレのイエスは旧約の伝統に則りつつそれを急進化、純化そして内面化しつつ、厳しさを際立たせたうえで、しかも、それを内側から破る闘いのなかでこれが語られたことに思いおこそう。広い道は「偽預言者」に重ねられており、イザヤやエレミヤら真の預言者たちが神からの言葉として預かり、証言していたメシア(救世主)こそ狭いまっすぐな道を歩みぬいたナザレのイエスであり給うた。今回と次回は山上の説教のまとめとして、誰もが善と悪を識別しつつ生きる道徳的次元と善悪の人間的な認識を超える神の働きめぐる宗教的次元即ち信仰の次元についてどのように理解すべきかを諸説を検討しながら考察したい。これまでこの聖書講義では信の根源性のもとに包括的全体的人間像を心情倫理と責任倫理の統一などをめぐって展開してきたが、山上の説教に限定したさいにどれだけのことが語れるかを見究めたい。
3預言から福音へ
狭き門と広き門は偽預言者と真の預言者を判別する文脈で提示されていた。エレミヤは偽預言者をこう記述している。「主はわたし[エレミヤ]に言われた。「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によって汝らに預言している。・・彼らは剣も飢饉もこの国に臨むことはないと言っているが、これらの預言者自身が剣と飢饉によって滅びる」」(Jer.14:14-16)。
偽預言者たちは、自己欺瞞の中で楽観的な預言をする。エレミヤは主の言葉として報告する。「預言者から祭司にいたるまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して平和がないのに、「平和」「平和」と言う」(Jer.6:13-14)。現代も欺きと偽りの先導者たちを巷に見出すことは容易である。自分自身が穢れと悪しき思いに満たされた偽り者であることは、道徳的次元に留まる限り認めざるを得ない。
イエスは偽りを語る者たち、偽預言者たちが、ひとびとをして広い滅びの道と門に導くと警告する。彼らは「汝[イエス]の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げた」こともあったであろう。しかし、イエスは終わりの日に彼らを偽りであると断罪される。「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。真の預言者は神の言葉を預けられる者たちである。エレミヤはこう告白していた。「されど、主の言葉わが心にありて、火のわが骨のうちに閉じこもりて燃ゆるが如くなれば、忍耐(しのぶ)に疲れて堪え難し」(Jer.20:9)。このように自らの意に反してでも主に用いられ主の言葉を預けられたひと、人々の耳に痛いことを言わざるを得ないひと、主イエスを指し示すひと、それが真の預言者である。
しかし、預言のときは過ぎ、福音のときが到来したと宣言されている。「すべての預言者たちと律法が預言したが、それは[洗礼者]ヨハネまでである」(Mat.11:12)。旧約から新約へのバトンをイエスに渡すことが洗礼者ヨハネの務めであった。洗礼者ヨハネは最後の預言者としてイエスに出会いイエスを預言の成就として旧約から新約への時代の橋渡しとなった。マタイはこう報告していた。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう」(Mat.3:10-11)。
イエスご自身、こう語った。「人々がアカンサスから葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての良き木が良き果実を生み出すように、腐った木は悪しき果実を生み出す。良き木は悪しき果実を生み出すことはできず、また腐った木は良き果実を生み出すことができない。良き果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼ら[偽預言者]の果実から汝らは彼ら自身を知ることになるであろう」。
最後の預言者ヨハネおよび福音を今・ここで持ち運んでいるナザレのイエス、彼らふたりとも良い木は良い実を結び、悪しき実を結ぶことがないと言う。自然界の法則に訴えて、自然物のひとつである人間に適用されている。一切を正確に知る方は本物と偽物、善と悪これらを明確に判別しておられる。これは道理ある主張のように思われる。
4心魂の実力としての態勢と恩恵―立派な業か信仰のみか―
ここでのただちのチャレンジは救いとは悪しき者が悪しき者でありながら、罪深い者が罪深い者であるままに、恩恵のみにて罪赦されキリストの義を着て神に義人と看做されることなのではないかというものである。もし、この道徳的次元を離れた宗教的主張が偽りであり、溺れる者藁をもつかむたぐいのものであるとするなら、もはや道徳的破産者には絶望に沈むことだけが残されている。古来、信仰義認論であれ悪人正機説であれ、慈悲や恩恵に藁をもつかむ思いですがってきたのではなかったのか。「義人というのはおのれの罪があまりに深く、どれほど深いか知りえないことを知っている人間である」(ルター)や「罪悪深重、煩悩熾盛、地獄ぞ一定住処ぞかし・・法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」(親鸞)が語られ、人々を導いてきた。
或る注解者は、恩恵は山上の説教において展開される「彼の言葉を行う者」に注がれるのであり、イエスは「必要な場合には業なくしても救う者なのではない」と明言する。U.ルツは言う。「イエスは自分の派遣使命において律法と預言者を成就し、教会に義の道を歩む可能性を贈る者である。「わたしの言葉」というのは、このキリスト論的基礎をはっきりと堅持している。しかし、キリストは決して退却の可能性ではなく、「火の中を潜り抜けて来た者のように」(1Cor.3:15)ではあれ、必要な場合には業なくしても救う者なのではない。そうではなくて、キリストは義を行う者に生命に至る道を開くのである。キリストはそのようなものを、そしてそのような者のみを、助けるのである。キリストは彼の恵を彼の言葉を行う者に与える。自分たちの実によって測られる備えのないどんな心情倫理も、この山上の説教の結びの前ではぶち壊される」(U(ウルリヒ).ルツEKK新約聖書註解I/1p.594小川陽訳)。
この強い主張に対しては、「義の道を歩む可能性を贈る者」としてのイエスの理解が問われよう。「可能性」とは神の前の可能性なのか。神の前では一切が明らかであるのではないのか。人間的な可能性と神の前の可能性の明確な判別が求められよう。聖霊が相互を媒介する働きではないのか、山上の説教においては確かに聖霊は直接語られないが、イエスご自身は聖霊の援けのもとに神の国を一挙手一投足において伝えていたのではないのか。神の前では良き木と悪しき木は知られており、さらには「義の道」を誰が歩むかは明確に知られていることであろう。ここでの「可能性」はわれらの可能性、善に至る力能のことでなければならない。イエスは山上の説教のみならず、あらゆる局面でひとの悔い改めの可能性、義に至る力能を認めている。これは疑いえない。そのことはひとのことがらとしては「自分たちの実によって測られる備えのないどんな心情倫理も、この山上の説教の結びの前ではぶち壊される」という強い主張はなされえず、イエスご自身心魂の根底における「心情倫理」の「備え」そのものが、「可能性」そのものが恩恵により備えられていることを否定することはないであろう。
立派な行為ではなく所謂「信仰のみ」にすがるルター主義者たちにとっては、このような主張はなされないであろう。シュニーヴィントは言う、「19節[切り倒され火に投げ捨てられる]の威嚇は文字通り3:10の洗礼者の説教からでている。木が良くて、実もよいか、あるいは反対か[悪―悪]である。比喩的にではなく―全体的人間とその業とは一つのものであり、一つの認識である。この認識は宗教改革において再びよみがえり、パウロにおいて(たとえばRom.6:21-22[どんな実を結んだか],Gal.5:22-23[霊の実])同じ比喩の適用において与えられている。心と行為の連関はわれらにとって山上の説教のあらゆる文言において、一番最後には6:21[汝の宝のあるところ、そこに汝の心がある]において、明瞭になっている。ただ新しい心が新しい行為を生むとこれまで言われていたのに対して、今は逆に行為から心が推論されている」(J. シュニーヴィントNTD 新約聖書註解別巻『マタイ福音書』p.211量義治訳)。
すなわちシュニーヴィントは「全体的人間」にまなざしを注ぎ、ひとをトータルに一なる者として考察しなければならないと主張する。心が清ければそこから生まれる身体の行為も清く、身体の行為が清い場合にはその心も清い。山上の説教は統一された全体としての人間という視点から語られており、それを離れた場合には心情倫理と責任倫理ないし、心と身体の振る舞いのあいだになんらかの籬(まがき)をもうけてしまうことになると主張する。この一なる全体性の故にこの説教においては善い行為の側から善い心が語られる。パウロの「霊の実」(Gal.5:22)がシュニーヴィントにより言及されているように、この全体的な人間は聖霊により統一されていることを要求している。信仰という根源的な態勢からの聖霊の援けの中での身体の分裂なき行為の産出がめざされる。
ここでの一つの問いは「良い人間が必然的に、自動的に良い実をもたらすということを、或いは悪い人間がそもそも良い人間になることができないということを意味していないのだろうか」というものである。「このテーゼに対しては繰り返し繰り返し、パウロの回心やダビデの姦淫が異議に持ち出された。そして最終的には、その解決は人間はbona voluntas(良い意志)を持っている限り、良い木なのである、というものであった。ルターは良い木を信仰であるとした」(ルツ p.587)。
ルター的な解決は心魂の根底に信仰があるか否か、その良い意志だけが問われており、その信仰はそれ自身として良い木として自動的に即ち聖霊の助けのもとに良い果実を生み出すと理解されよう。それゆえに「全体的人間」が語られうる。しかし、はたして人間を常に聖霊の援けのもとに理解し、人間の身体を聖霊が「自動的に」また機械的に注がれる管のように理解することは人間論として正しいのかと問われることになるであろう。
ルターにとっては信仰は神の恩恵であり、信じることは聖霊の媒介により信じせしめられていることである。そこでは愛の業が生み出されると主張された。これは道理ある主張である。われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことをも信じている。カルヴァンは「神の前とひとの前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」と言う。
それに対して、山上の説教をそれ自身として理解しようとするとき、イエスは道徳的次元にとどまっていることが指摘されよう。彼はそこでは「聖霊」への言及もなさず、また所謂奇跡をも遂行することはない。「まず神の国とその義を求めよ」や「信わずかな者たちよ」(6:30)という叱責に見られるように信仰への招きは当然なされてはいるが、「信仰」や「罪」という語句もイエスにより語られることはない。道徳的次元に踏みとどまり、屹立しているように思われる。このような聖霊の媒介を要求することはできないのでないかが問われよう。
E.シュワイツァーは山上の説教のルターの解釈をそのような道徳的次元に限定したうえで問う、「それではわれらには、ルター派の正統主義と共に、山上の説教は、―それを満たすことができないのであるから―審きであって、聴衆にその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすように仕向けている、と理解する道しかのこっていない、ということなのであろうか」(E.シュワイツァー、NTD 新約聖書註解『マタイ福音書』p.257佐竹明訳)。この理解のもとではイエスは山上の説教において急進化させ内面化させてはいるがモーセ律法の枠のなかに留まり、山上の説教は福音に追いやる機能を担っていると主張される。これらの主張にどのように応答できるであろうか。まず、カトリックとプロテスタントの立場の和解について簡単に振り返り、そのうえで春から約一年三十回の講義を介して学んできた山上の説教そのものから応答を試みたい。
5 カトリックとプロテスタントの和解
その後の歴史において、カトリックが、ひとは責任ある行為主体として相対的自律性を持つものとして、神の前とひとの前を少なくとも理論上判別することを許容し、有徳な人間、聖人を語る余地を残しているのに対し、プロテスタントは働きのうえで神の前とひとの前を分けずに常に聖霊の媒介を要求する。そのカトリック的理解はパウロが、神の前の出来事を自らの出来事とすることが困難な人間の「肉の弱さ」への譲歩として、人間中心的に語ることを許容している以上、道理ある立場であるように思われる。他方、先述したルターが主張するように、われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことも信じることに含意される以上、神の前とひとの前を働き上分けない彼らの主張も道理ある。
カトリックとプロテスタント双方ともそれぞれ道理があり、私はロゴスとエルゴン、理論と実践の相補的展開として常に今・ここの働き(エルゴン)において聖霊の働きを見るプロテスタントに対し、人間の心の態勢をそれ自身として語る有徳性の理論(ロゴス)を人間中心的に展開するカトリックの立場は補いあうものとして両立すると理解する。ひとの前と神の前を分けずに今・ここのエルゴンに留まるプロテスタントと肉の弱さへの譲歩から理論的に分節するロゴスを展開するカトリックは少なくとも矛盾することはない。
6 少なくとも一人山上の説教を生き抜いたひとがいた
われらはここで生身のイエスは十字架と復活への狭くまっすぐな道への歩みの途上であることに思いをいたさねばならない。彼はヨハネの預言のもとで自らメシアであるという自覚のなかで(旧約)聖書にもとづき神のみ旨をその一挙手一投足において実現しつつあるそののただなかで、この説教を遂行してい。福音書記者マタイは、イエスの死後、たとえその生涯を回顧する仕方で、またパウロの神学を前提にした仕方であるにしても、その途上の彼の説教を報告している。マタイはイエスがそのようなリアルタイムの状況において旧約の伝統を極性化しつつ、メシアとして内側から破っているその現場を報告している。
(聖書研究の一方法として「歴史的批判的研究」と呼ばれるものがある。これは「歴史学」の枠のなかで福音書相互の分析を介して歴史的実像に迫ろうとするものであるが、方法的前提からして当然聖霊の働きをその行論に要求することはできない。われらはイエスが道徳的次元を内側から破るその力能をそれ自身として捉えたい)。
山上の説教は厳しい教えの連続であった。これまでわれらは、山上の説教がユダヤ人の通常の道徳や宗教観を前提にして、その土俵のなかで語られたことを、即ちイエスの議論が対人論法であることを前提に分析を試みてきた。イエスは自らがユダヤ人であることそしてその伝統を正面から誠実に引き受けた。彼はモーセ律法を良心に訴えつつ急進化しまた内面化していった。ユダヤ人は、自分たちが神に律法を付与された選びの民であり、律法を遵守する限りにおいて義人であり、異邦人や罪人たちと異なるという理解をもっていた。さらにこの世界とは別に天国と地獄があるという二世界的理解を持っていた。敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。重要なことは彼らの偽りが、道徳的次元だけに訴えることにより、誰にも同意されうる仕方で暴き出されたことである。
イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り抜けていた。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなくこれらは神ご自身の認識としてあり、神に明らかなことがらとして「汝らの良心・共知(sun-eidēsis, con-science)にも明らかになっていることを望む」とパウロにより共知が目指されていることがらである(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。ユダヤ人であることに内在し、その内側からその限界を突き破り、広やかな福音を展開するその歩みの途上でこの説教が行われている。「生命であり道」であり給うイエスご自身が山上の説教を言葉の力だけで遂行されたのであった。そしてその生涯はその言葉を生き抜いた、そのことが福音書において報告されている。その限りにおいて言葉は生命を伴いそしてそれ故に堅固であり「権威あるもの」であったに相違ない。「権威ある」とは単に「彼らの律法学者のように」言葉だけ立派なことを語るという印象を与えず、行為を伴っているという印象を与えるものであったに相違ない。ただしイエスご自身はたとえ生命に溢れてこの言葉を発したとしても、道徳的次元のみにおいて道徳的良心に訴える言葉だけで理解されるそのような議論を展開している。
自ら胸に手を当てて顧みるとき、山上の説教は、それは単にユダヤ人だけに適用されるものではなく、人類の誰かにより語られねばならなかったその究極の語りであることにひとは納得するであろう。それは人類すべてに妥当する究極の道徳である。このことの故に、或る人々にはこの山上の説教がある限り、人類に絶望することはないと思われることであろう。ましてや語った方は自らの言葉を死に至るまで生き抜いた永遠の生命に満ち溢れた方であった。少なくとも人類には一つの実例が与えられている。偽り、フェイクで満ちており、何も確かなものがないそのような時代において、このように人間の究極が道徳的次元のみにおいて語られそして一つの事例があるということ、ただその歴史的事実に感謝し賛美する。
イエスは山上の説教を遂行し、われらはその途上の歴史にある彼からこの説教を受けている、その状況に身を置くことが求められている。確かに、その時点で純化された律法を守りえない者であっても、この厳しい道徳的内容を語る方自身についてくるよう招かれている。彼の言葉に偽りはなく「権威ある者」として彼はわれらに迫ってくることであろう。彼が旧約以来預言されていたメシア(救い主)であるか聴衆は決断を迫られている。イエスは言葉と行いをもってひとびとを救いだそうとされた。「行ってヨハネに伝えよ。盲目の者が見えるようになり、歩けない者が歩けるようになり、皮膚病の者が清められ、聞こえない者が聞けるようになり、死者は生き返り、貧しい者は福音を告げ知らされる。わたしに躓かない者は幸いである」(Mat.11:4-6)。そしてわれらも同じ状況にある。ひとは人類に、道徳上、この山上の説教以上の何を要求することがあるであろうか。そしてそれを語る方が不思議なる力をもち聖霊が注がれている救い主であられた場合に彼以外に誰を、また何を待ち望むであろうか。
7結論
以上のことは山上の説教の理解において強調しすぎることのない視点のように私には思われる。メシアがここでは言葉の力だけに訴えひととしての本来のあるべき姿を明確に示し、そしてそれを実現させるべく自ら十字架の道を歩んだのである。それ以上にひとは求めるものをこの世界にもたないであろう。
狭き門―「わたしは道であり、真理であり、生命である」―
狭き門―「わたしは道であり、真理であり、生命である」―
日曜聖書講義2020.11.29
1テクスト
「汝らは狭い門を通って入れ。実際、滅びに導く門は広くそしてその道は広々としている、そしてその門を通って入り込む者たちは多い。生命に導く門は何と狭くそしてその道は狭くなっていることか、そしてその門を見出す者たちはわずかである。
羊の衣のうちに汝らのもとにやってくる偽預言者たちを、それは誰であれ、警戒せよ、彼らの内側は強欲な狼である。汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアカンサスから葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての良き木が良き果実を生み出すように、腐った木は悪しき果実を生み出す。良き木は悪しき果実を生み出すことはできず、また腐った木は良き果実を生み出すことができない。良き果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から汝らは彼ら自身を知ることになるであろう。
「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入ることになるのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入ることになるであろう。かの日には多くの者たちがわたしに尋ねるであろう、「「主よ、主よ」われらは汝の御名によって預言を為し、また汝の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げたではありませんか」。そしてそのときわたしは彼らに応じるであろう、「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。(Mat.7:13-23)。
2滅びということ
ひとはここで初めて山上の説教のなかで「滅びに導く門」そしてそこを通る者たちの人数のことを聞く。「天国における最小の者」(5:19)や「燃えるゲヘナに投げ込まれる」(5:22)という表現はこれまでも見られたが、心魂が滅びにいたることそしてここでは「その門を通って入り込む者たちは多い」と語られている。前の表現はこれまで警告として捉えることができたが、この「多い」という量化表現は警告以上の事実が告げられているとしか読むことはできないように思われる。イエスは偽りを言う方ではないはずである。ひとは今日までこの言葉をどれだけ真剣に受け止めてきたのであろうか。「わずか」や「少ない」の数として、例えば、三十人出席するはずの会合で、十人や数人かの出席者をそう理解するのであろうか。なにかアブラハムによる神に対するソドムの執り成しを想起させる。彼は神からソドムに義人が五十人いれば滅ぼさないという言葉を引き出し、十人まで値切っていく。それほどの義人もおらず、ソドムは焼き尽くされてしまった(Gen.18)。それとは逆に救われる「わずか」により、五人を十人にという理解をお願いしたとき神が聞いてくださることはあるのであろうか。
福音書では他にも、終わりの日に「羊の門」を通る者と「山羊の門」を通る者とに分けられるとも報告されている(Mat.25:31-46)。「永遠の刑罰」(25:46)を受ける者たちは自ら光を避けるように山羊の門に向かうのでもあろう。山上の説教の狭き門においては人類のうち滅びる者たちが救われる「わずか」な者たちよりも多いという明確な主張がなされている。明確に救われる者と滅びる者が量化により対比されている。「わずか(oligoi)」な者だけが救われるという。これは人間の聞くことのできる最も厳しい現実認識の言葉の一つであると言える。
山上の説教は厳しい教えの連続であった。イエスはモーセ律法を良心に訴えつつ急進化しまた内面化していった。これまでわれわれは、山上の説教がユダヤ人の通常の道徳や宗教観を前提にして、その土俵のなかで語られたことを、即ちイエスの議論が対人論法であることを前提に分析を試みてきた。ユダヤ人は自分たちが神に律法を付与された選びの民であり、律法を遵守する限りにおいて義人であり、異邦人や罪人たちと異なるという理解をもっていた。さらにこの世界とは別に天国と地獄があるという二世界的理解を持っていた。敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り抜けていた。その説教において乗り越えが企てられている。
山上の聴衆のなかにはここまでは納得しつつ彼の教えにアーメンを語っていた人々がいたことであろう。しかし、この狭き門の箇所で躓き、これ以上ついていけないと思うひともいたであろう。そして今日もいるであろう。救いと滅びがあり、滅びの門を入る者たちが多いと語られている。この厳しい言葉を突き付けられ、もはや天国と地獄を支配する神などいないと開き直ってしまう者もいたことであろう。Narrow and straight roadを歩きぬく健脚にしか、救いは訪れないのではないか。道徳的に強い者たちだけが、或いはこの説教に含意され、指し示されている意志堅固な信仰の勇者だけがこの狭き門から天国に入れるのではないであろうか。弱者には到底難しい歩みなのではないだろう。
3広い滅びの道への幾つかの応答
福音は喜びであったはずである。しかし、その前に旧約の厳しい試練のときを必要としていたことを思いおこそう。やはりここでもナザレのイエスは旧約の伝統に則りつつも、しかし、それを内側から破る闘いのなかでこれが語られたことに思いおこそう。広い道は「偽預言者」に重ねられており、イザヤやエレミヤら真の預言者たちが神からの言葉として預かり、証言していたメシア(救世主)こそ狭いまっすぐな道を歩みぬいたナザレのイエスであり給うた。やはりここにこの救われる「わずかの者たち」を理解する鍵を見出すしかないと思われる。
アブラハムが神に義人の数を値切ったように、イエスご自身が山上の説教を語り、それに即して生きまた死なれた。それによって、旧約から新約にバトンが渡された。この「狭き門」は旧約的な前提のもとでその人数が語られたのであり、福音の啓示のもとに神はその理解を変えてくださるのであろうか。滅びる者が多いというこの表現に出会いつつも、神学においてはしばしば万人救済論が展開されてきた。その典拠は神が福音の啓示行為において知らしめていることがらは人類すべてにその救いの手を差し伸べているということである。「神はご自身のひとり子を賜うほどにこの世界を愛された」(John.3:16)。イエス・キリストにおいて知らしめられた神の福音は彼を磔る敵をも含め、すべてのひとに差し向けられていることは明らかである。パウロは「キリスト・イエスにおいて顕された神の愛からわれらを引き離すものはなにもないとわたしは確信する」(Rom.8:36)と福音の勝利を宣言する。
しかし、福音を差し向けることと福音を受け取ることは異なる。一方でパウロはこの神の啓示行為を報告しているが、他方、自らの救いに関してはイエス・キリストにおいてまた彼を介してほど知らしめられてはいなため、彼にとっては常にキリストにある救いを信じ、受け取ることは実質的なことである。彼は「わたしは他者にいかにも福音を宣教しながら自ら失格者となることがないように、わたしはわが身体を打ち、身体を拘束する」(1Cor.9:27)と、さらには「恐れと慄きをもって救いを全うせよ」(Phil.2:12)と、神の前の出来事を自らのものとすべく、その都度自ら信に立ち返りまた他に命じる。
個々人の義認と救いは福音においてほど誰にも明白には知らしめられてはいない。それゆえに、自らがイエス・キリストの福音を介して神に選ばれ、招かれていることを信じることは常に実質的である。万人救済論は正しいかもしれない。しかし、たとえこのように万人救済が神のご計画であったにしても、少なくとも明らかなこととして、永遠の現在にいます神による選びは二千年年前にナザレのイエスを介した福音ほどには明確に個々人には知らされてはいない。
日曜の話を取り次ぐ者は「狭き門からはいれ」という厳しい言葉に出会い、もはや立ち尽くすしかないと感じる。永遠の生命か滅びかについて語る資格のある者は誰かいるであろうか。もし偽りを語り躓かせた場合に、どのようにも責任を取ることができないと感じる。この春からずっと山上の説教を学んできたが、少なくともわたしは自らが道徳的次元のみにて生きるとするなら偽りであり、偽善者のままであることを告白せざるを得ない。もし、救いと滅びが道徳的次元において決着がつけられるとしたなら、絶望しか残されてはいない。これは自分には確かであると言える。
山上の説教においては、しかし、道徳次元が内側から破られていた。彼は「まず神の国とその義」を求めるように促し、常に万物の創造主であり鳥や花々をもケアする神の憐みのもとに生きることを教える。まずひとに求められていることは神との関係を正しいものにすることである。そしてナザレのイエスが山上の説教それ自身を自ら生き抜くことができたのは自らが神の子であることへの信の従順を貫くことによってであった。善行と悪行の反対対立の枠の中でのモーセ律法や道徳とは関わらない心魂の最も根源的なところで生起する信に基づく正義の世界が開かれている。
それ故に自分のできることは、できる限り聖書のメッセージを正確に理解するようお手伝いすることができるだけだということをご理解いただかねばならない。登戸学寮で聖書の話をするようになった理由は少なくとも二つある。わたしは長年言ってみれば半世紀、聖書の中心的メッセージに理解できないところ、矛盾があるのではないかと思い学んできたが、無矛盾であることを自分なりに納得でき、安堵した。そのゆえに、自分は少なくとも自分の学問的良心に偽ることなしに話ができるであろうということ、これが一つである。もうひとつは「探求と発見」のところでお話したように、自分なりに小さな回心の経験があり、そこに立ち返るたびに喜びをいただくので、喜んでいる限り、そう間違わないであろうと思い、一週間常にそこに立ち返ることをしてきたことである。
このような事情のもとに、日曜ごとに聖書のメッセージをお伝えしているが、みなさんそれぞれが自分の人生を通してそれぞれご判断いただくしかないと感じる。語る者が偽りであり、偽りを語る場合、イエスが言うように、その否定的な影響はより大きなものになっていくだろう。彼は警告する、「彼ら[パリサイ人]の業に即して行うな、彼らは言うだけで行うことがないからである。彼らは人々の肩に負いきれない重荷を結び付けそして担わせるが、彼らは自ら自分の指によってその重荷を動かそうとすることもない」(Mat.23:3-4)。
わたしどもはこのような緊張のときを週に一回経験している。皆さんの中には聖書の世界が日常生活とのあまりに乖離しており、折り合いのつけがたさを感じているひともいることであろう。しかし、翻って反省するとき、ひとの日常の営みも聖書のメッセージが何らかの示唆を与えるそのような枠のなかで遂行されていることがわかる。イエスは言う、木はその生み出す実によって知られる。そしてその実がいかなるものであったかは、最後の日に明確に知らされる。これはとても強い人間理解の主張である。しかし、われらは日々正義をめぐって争い、またその争いを克服すべく和解と執り成しを提案しながら、家庭において、地域社会で国家においてまた国際社会において暮らしている。この繰り返しが人間の営みであると言ってもよい。
社会とは個々人の営みを調整するシステムである。もちろん人間個々人は社会に完全に還元されることはなく、社会の制約のなかで個々人が自らの責任ある自由のなかで自らの人生を築いている。そこでは想像力や構想力がはばたき、個々人の才能が輝きさまざまに発揮されることもあるであろうし、良心が社会との共同の知識としてではなく、神との共知として働くこともあるであろう。明確なことは、ひとは正義と憐みの緊張と循環のなかで生きており、個々人の心魂と社会双方にとって基本的な等しさの実現から切断されることはないということである。ひとは怒るとき不当な仕打ちを受けたからである。ひとが憐れむとき理不尽で不当な状況に陥っているひとに向けられる。正義とは憐みとは何等か等しさを取り戻すことであった。
イエスは山上の説教において正義と憐みを天国との関連において位置付けられたのである。終わりの日に一切が明らかとなり、正義と憐みが実現されるこのスケールの大きい考察範囲の広い主張は、日々個人的に争い、そして何らか調停を試みているという自らの現実を認める者たちにとっては、唯一の希望として受入れられるかもしれない。一つの可能性であることには相違ない、しかもそれは救いか滅びかの二者択一のなかで提示されている。人々が日常生活で苦労しているのは、自らの欲求をもちながらも、それを野放図に開放するとき、社会からの制裁にあうことは経験しており、他方そのような者たちから被害を受けることも経験しており、課題はそのような循環を抜け出す救いを求めるかということに収斂されるからである。
イエスは人々の日常の労苦、悲しみそして喜びをご存じである。「空の鳥たちを見よ、鳥たちは撒きもせず、刈りもせず、倉に集めもしない、そして汝らの天の父は彼らを養ってい給う。汝らは彼らよりも遥かに優ったものであるのではないか。汝らのうち誰が煩うことによって自分の身の丈に一キュービット足し増すことができるのか。また衣服のことで汝らは何を思い煩うのか。野の百合がいかに成長するかよく観よ。百合たちは労することも、紡ぐこともしない」(Mat.6:26-28)。確かに永遠の生命に招かれている者はホモサピエンスの総数のなかで「わずか」かもしれない。ただ、その「わずか」「少数」の総数は具体的に知らされてはいない。そして自分がその選びのもとにいるかどうかも明確には知らされていない限りにおいて、それを信において乗り越えることができる。「疲れたる者われに来たれ」とイエスは招き給う(Mat.11:28)。「探せ探せば見つかる、求めよさらば与えられる。叩け、叩けば開けてもらえる」と励まされてもいる。
4「偽預言者」に抗して真の預言者が指し示すもの
以上述べてきた懐疑や絶望に対抗する一つの理解の鍵は「偽預言者」と真の預言者の判別である。狭き門と広き門は偽預言者と真の預言者を判別する文脈で提示されている。エレミヤは偽預言者をこう記述している。「主はわたし[エレミヤ]に言われた。「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によって汝らに預言している。・・彼らは剣も飢饉もこの国に臨むことはないと言っているが、これらの預言者自身が剣と飢饉によって滅びる」」(Jer.14:14-16)。
偽預言者たちは、自己欺瞞の中で楽観的な預言をする。エレミヤは主の言葉として報告する。「預言者から祭司にいたるまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して平和がないのに、「平和」「平和」と言う」(Jer.6:13-14)。現代も欺きと偽りに満ちている。為政者たちは都合のいいフェイクニュースを流布し、人々を扇動する。いつの時代も偽預言者は存在する。最近自分でもおかしくなるのは、コロナウィルスに対する楽観論に触れると、ふと心の緊張がゆるむことである。わたしどもは百年ぶりにパンデミックのさなかにいる。そうか、感染してもファクターXの故に日本では重症化率、致死率が低いのかと思うと楽になる。医学者たちは今真相を明らかにすべく日々探求している。そしてこの世界に住んでいることの喜びは、ひとの身体をも含めて、世界と宇宙には明確なロゴス(理)があることである。真実を解明し知ることができれば、恐れからも解放されるのである、たとえそれがバッドニュース、不都合な真実であったとしても。それは真実である以上受け入れざるをえないからである。福音は懐疑のつど、困惑のつど、真であると信じるかが問われている。
イエスは偽りを語る者たち、偽預言者たちが、ひとびとをして広い滅びの道に導くと警告する。彼らは「汝[イエス]の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げた」こともあったであろう。しかし、イエスは終わりの日に彼らを偽りであると断罪される。「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。真の預言者は神の言葉を預けられる者たちである。エレミヤはこう告白する。「主よ、汝はわたしを惑わされましたそしてわたしを圧倒し勝たれました。わたしは一日中ひとに嘲られ、笑い者とされています。わたしは語り呼ばはるごとに、「暴虐」、「残虐(しいたげ)」と宣べ伝えます。主の言葉は日々にわが身の辱めとなり嘲りとなりました。しかし、もしわたしがもはやかさねて主のことを述べずまたその名によって語ることをしないと言うものなら、主の言葉はわが心にありて、火のわが骨のうちに閉じこもりて燃えるが如くなれば、忍耐(しのぶ)に疲れて堪え難し」(Jer.20:7-9)。このように自らの意に反してでも主に用いられ主の言葉を預けられたひと、人々の耳に痛いことを言わざるを得ないひと、それが真の預言者である。
5預言から福音へ
しかし、預言のときは過ぎ、福音のときが到来したと宣言されている。「すべての預言者たちと律法が預言したが、それは[洗礼者]ヨハネまでである」(Mat.11:12)。旧約から新約へのバトンをイエスに渡すことが洗礼者ヨハネの務めであった。洗礼者ヨハネは最後の預言者としてイエスに出会いイエスを預言の成就として旧約から新約への時代の橋渡しとなった。マタイはこう報告している。
「ヨハネはパリサイ派やサドカイ派の多くの人々が彼の洗礼を受けにきたのを見て、こう言った。「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。「われらはアブラハムを父に持つ」などと思ってもみるな。言っておくが、神はこの石からでもアブラハムの子たちを造ることがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう。そして手に箕(み)をもって、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われることであろう」(Mat.3:7-12)。
最後の預言者が水による悔い改めの洗礼を授け、「荒野に呼ばわる声」として「主の道をととのえ、その道筋をまっすぐにせよ」(Mac.1:3)と言う先人の預言者イザヤの言葉を生命をかけて遂行する。それによって新たな時代がくる、火の試練と聖霊による洗礼の時代が来る。
イエスはご自身の復活のあと、エマオの途上において復活の主とは気づかなかった二人の弟子に真の預言者たちについて言う。「「ああ、預言者たちが語ったすべてのことを信じることに至らない、何という、愚かでその心鈍い者たち。キリスト[メシア]はこれらの苦しみを忍んでそして栄光に至るはずではなかったのか」。そして、彼[イエス]はモーセとすべての預言者から初めて聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」(Luk.24:25-27)。
真の預言者は苦難の預言を通じてそこからの救い主イエス・キリストを指し示していたのであった。偽預言者たちはイエスをキリストとして識別することのできない者たちであり、彼の弟子であろうとする者は分かりの悪い者たちによる迫害の道を歩まざるを得ないのである。狭き門とそれに通じる狭き道を預言者たちが証していたのであった。イエスご自身がモーセ律法を急進化した山上の説教を語りそしてそれをメシア(救世主)として生き抜いた。しかも、彼は信の従順のみにて十字架を忍び父のみ旨を成就した。それ故に新約としての信に基づく義の道を切り開かれた。狭き門に通じる狭き道とは実はイエスの御跡に従うことに他ならなかったのである。彼に信の従順のもとについていくその信仰こそ求められていたのである。「誰かわたしの後に従いたいと思うならば、自分を否定せよそして自分の十字架を担ぎ上げよそしてわたしについてこい」(Mat.16:24)。イエスご自身にとって自ら担うべき十字架とは全人類の罪であった。父なる神はその担うことを認可し、ご自身もそこに臨在された。
その暗示のなかで、「生命に導く門は何と狭くそしてその道は狭くなっていることか、そしてその門を見出す者たちはわずかである」と言われていた。イエスは言われた。「ひとの子がくるとき、地上に信仰を見出すであろうか」(Luk.18:8)。どんなに足弱であっても、弱りはて、頽(くずお)れるとき、「信じます。信なきわたしを助けてください」、「わたしを憐み給え」と縋ることはできるのではないであろうか(Mac.9:24,Luk.18:39)。そしてそこには主の次の約束の言葉を信じることも含まれている。「汝ら心を騒がすな、神を信じまたわたしを信ぜよ。・・わたしは道である、真理である、生命である。わたしを介さず誰も父の御許に至る者はいない。・・わたしは父に請う。父は他に助け主を与えて、永遠に汝らとともにおらしめ給うべし。これは真理の御霊なり。・・わたしは汝らを遺して孤児とはせず、汝らに来るなり」(John.14:1-18)。
6結論
わたしどもはここまで聞いて、再び立ち上がり、歩みだす。正義と憐みの両立をめざす狭い道を歩みだすには、ひとには基本的な心構えが必要となる。狭い門とそれに通じる狭い道というのは信仰の道であり門であったのである。イエスご自身が「生命であり道」であり給う。イエスの歩みに従うという信仰は幼子にも可能であった。そこでは「わたしは汝らを遺して孤児(みなしご)とはしない」と約束されており、聖霊の助けをいただき、転びまろびつしつつも、われらはその助のもとに狭くまっすぐな道を歩むことができるようになる。したがって、この箇所においても、山上の説教を生き抜かれた主に従うかと問われている。誰でも一つの明確な方向に歩みだすことはできる。たとえ足弱で人々から遅れをとっているように見えても、見えない助け主がわれらの二番底においてわれらを呻きつつ支え、慰め、励ましておられることであろう。
黄金律―神の愛の先行性とひとの愛の相互性―
黄金律―神の愛の先行性とひとの愛の相互性―
登戸学寮日曜聖書講義 2020年11月22日
1テクスト
「かくして、もし汝らは、人々が自分たちに為してくれるよう欲する場合には、何であれそのすべてのものごとを、汝らもまたそのように彼らに為さねばならない。というのも、これが律法そして預言者たちだからである(Mat.7:12)。
2 この命令の諸前提―自律と相互性―
この箇所は伝統的に「黄金律 (Golden Law)」と呼ばれてきた。旧約聖書全体がそこに集約されているとイエスご自身が看做していることを、ご自身の言葉で表した戒めである。聖書の教えにおいて愛にその律法の頂点のあることがここからもわかる。この訳は従来の翻訳と少し異なる。この命令は条件文で提示されているが、従来の例えば「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(新共同訳)という翻訳より、行為の要請の規準に限定が与えられている。一見「何であれすべて」はとても厳しい戒めである。自分のことなど何一つ構っていられないように思えるほどである。しかし、条件文を適切に読む限り、それには或る歯止めがかけられている。条件文「もし~あれば[場合には]」は前件の否定「もし汝らは、人々が自分たちに為してくれるよう欲しない場合には」、当然自らわざわざひとに為すべしは導出されることはないであろう。もしひとにしてもらいたいと思わないならば、為さねばならないという命令文は語られることがない。さらには他者にしてもらいたいと思わないことがらのなか、自らできることとできなことがあるであろうが、もし自分でできることで欲するならば、それは自分で遂行すべきであり、他に頼ることではないという限定である。従来の翻訳でもそれを読み取ることはできるが、条件文をそのまま訳することにより、より明瞭になる。
従って、まず自律が前提されており、他者に何かを欲することがなければ、欲されることを為す義務はない。少なくともこの前件のもとでの帰結としての命令文は導出されない、端的に愛せよとあれば、別であるが。ここでは「汝」と「人々」のあいだの相互性、同等性が「そのように」により表現されている。汝が欲するその仕方で、相手に為すべきであることが命じられている。二つ明らかなことがある。一つは欲する仕方と欲される仕方は平行的で相互的な関係にあること。そしてもう一つは双方とも可能なことがらについて欲し欲されるということ。できないことがらは問題とされていない。無理な要求をすることもされることもないことが前提にされている。
ひとは自律と相互性その双方のなかで生きている。まず自律ということ、これは所謂現政府が勧める、共助、公助の前に自助努力が為されるべきであるということに繋がるであろう。自らの精神的、経済的、生活上の自律や独立は、聖書が各人の生の責任を問う限りにおいて、自らの責任ある自由として当然認められている。ひとは恩恵を受けることも拒否することも可能な自由な存在者であるという視点が「肉の弱さの故に」(Rom.6:19)譲歩として認められている。つまりすべての人間は宇宙を創造し時間と空間のそとに永遠の現在にいます神に造られた存在者であり、ひとは自らのその弱い認知的、人格的存在者として神の前にいるということが判明ではないことから、自律的で責任ある生が営まれている。時間と空間の創造者である神ご自身にとって、一切のことは既に明らかである。ひとは個々人には神の認識が知らされてはいないために、神の意志が最も明白に知らされた福音即ちイエス・キリストに帰属した神の信義を信じることは常に実質的である。信が問題になるところ、そこではひとの責任ある自由が問われている。ひとは自らの責任において生を構築していく責任ある自律的存在者である。
自律と独立は黒崎先生や彼の師内村鑑三に共通である。内村はいかなる教会組織にも帰属せず、また宣教師や宣教団体からの寄付や世話にならずに、『聖書の研究』誌を毎月三千人に郵送するという筆一本で生活を賄い、経済的に独立した。黒崎先生も月刊誌『永遠の生命』を1926年(大正15年)に発刊したが、七百人の申し込みがあった。これがやがて二千人の購読者となり400号を超えるものとなった。彼らは独立伝道者であった。内村は或る詩人にならい「寂しさ(loneliness)」と「独孤(solitude)」を判別し、独り神の前に立って、独立を貫いた。彼が昭和5年に何ら恩給もなしに死去したが、その後静夫人は戦後亡くなられるまで経済的独立を維持されたと言う。このことは夫婦が一つの単位として、最後まで自律を貫いた一例である。とはいえ、彼らも社会のなかで生かされていたのである。社会のなかで共に生きることなしに、自律は絵にかいた餅である。ロビンソン・クルーソーでさえ、一人の生活でも時計を刻み社会的な生活を送ろうとした。
現在、われらは国家、地方自治体そして学寮のような共同体そして家族などに帰属し、支え支えられつつ生活している。当たり前のことであるが、われらは海から山から畑から工場から多くの方々の営みのもとで、今の生活があることに思いをいたしたい。名も知らない多くの方々の汗と涙と労苦のうえに、われらの生活があることをまず肝に銘じたい。例えば、今感染拡大の一途の中で、医療従事者の方々は文字通り生命をかけて、弱ったひとびとを助けている。われわれがまず自助努力としてできることは、感染しないこと感染させないことである。例えば会食など三回の機会があるなら、一度にしよう、そのようなことがらである。
今日のテクストはこのような日常的なところまで浸透している。というのはわれらは社会のなかで欲し、欲されて生きているからである。この春から毎朝礼拝で旧約聖書を読んでいるが、イエスはその全体をこの黄金律に収斂させている。この黄金律はひとの心に強く残り影響を与えるようであり、最近朝の礼拝で二人のひとがこの箇所に触れて、自分の生活の範にしていると言っていたことは印象的である。
3黄金律は愛の戒め
もう一度テクストに戻ろう。「もし汝らは、人々が自分たちに為してくれるよう欲する場合には、何であれそのすべてのものごとを、汝らもまたそのように彼らに為さねばならない。というのも、これが律法でありまた預言者たちだからである」(Mat.7:12)。正面から引き受けようとすると、他の山上の説教の言葉と同様に厳しい要求であることがわかる。
まず自助努力が前提である。自分が他人にしてもらいたいと思わなければ、ひとにしてやらなくともよいのである。これが条件文の含意である。ただわれらは社会のなかで生きている以上、完全な自給自足は非現実的である。
この自助努力の限定のもとで、自分で為しうることは為したうえで、われらはどのような事情によりひとに何かをしてもらいたいと思っているであろうか。そしてそういうものがあれば、何であれ、すべて、まずその人にわれらの方から為すべきであると言われる。為してもらいたいと「欲すること」と「為せ」という命令のあいだにはこのような秩序の前後関係が成立する。欲することを相手にさせる前に、われらは相手に自らが欲する仕方で為さねばならないのである。そうすると何か具体的なことというよりも、心魂の在り方、具体的な願望事項は何であれ欲する仕方が問われていることがわかる。この条件文のなかでの命令により、その行為主体の心魂の内側が問われている。われらは何を他者に欲しているのであろうか。胸に手を当てて考えよう。そしてその欲していることをいかなる仕方で実現してもらいたいと思っているのであろう。胸に手を当てて考えよう。
まず、「何であれすべて」のなかに自分にできないことは排除されていることをこの条件文の限定が示している。能力のことは問われてはいない。隣人にできないことを要求することも排除されていることは、「汝らもまたそのように彼らに為さねばならない」の当為に含意されている。この当為は為しうることを、そしてお互いに欲求し欲求されていることを前提にしている。
自らできることのなかで、何らかの事情でひとにしてもらいたいことがあれば、それをその人にするよう命じられている。そうすると何か無理難題な欲求が問題とされているわけではなく、地に足のついたことが問題になっていることが分かる、その都度の隣人に対する態度が問われていることが分かる。地の塩、世の光たれという山上の説教の中心の教えの具体化である。ここでは、隣人に自らのほうから先手を打ってそうしてやれと言われている。或る欲求がわいたら、自分から隣人も同じような欲求のもとにあるという前提のもとに自ら動き出せと言われている。この前提には他の多くの人々も自分と同じようなことを同じようにしてもらいたいと思っていることが含意されている。そうすると、自分ができ、他の人々も同じように願っていることといったら、愛することが残されていることが分かる。イエスは愛することはそれぞれの仕方で誰にもできることであり、そして誰もが愛を求めているという認識をもっておられることが分かる。
4隣人愛
この黄金律は「汝の隣人を、汝自身をの如くに、愛せよ」と同じ趣旨であることが分かる。イエスもパウロも業の律法には軽重があり、愛が成就されるとき、一切の律法が満たされるとモーセ律法を急進的に理解している。「「師よ、律法のうちいかなる戒めが偉大なものか」。イエスは答えて言う、「汝は汝の神、主を汝の心を尽し[良心から]そして汝の魂を尽し[生命の限りに]そして汝の思考を尽して愛するであろう」。これが偉大なそして第一の戒めである。第二はこれと同様のものである、「汝は汝の隣人を、汝自身をの如くに、愛するであろう」。これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちが依拠している」(Mat.22:36-40)。このことの故に愛が満たされるとき、一切の律法は充足されると語ることができる。「わたしは律法と預言者を破壊するためではなく、成就するべく来た。わたしはまことに汝らに告ぐ、天地が過ぎ去るまで、律法から一点一画も廃れない」 (Mat.5:17-18)。
一切の業の律法は愛に収斂する。「汝ら、互いに愛することのほか、誰にも何も負うてはならない。というのも、愛する者は他の律法を満たしているからである。なぜなら、「汝姦淫するな」、「汝殺すな」、「汝盗むな」、「汝貪るな」、そしてたとえ何か他の戒めがあるにしても、それはこの言葉「汝の隣人を汝自身をのごとくに愛せよ」により包摂されているからである。愛は隣人に悪を働かぬ。かくして、愛は律法の充足である」(Rom.13:8-10)。愛が業の律法の冠である。
愛を満たすことは「正義の果実」(Phil.1:11)であり、愛している者たちは信に基づく義・正義であると神に看做された者である。愛が罪の赦しに基づく正義を前提にしていることはルカ七章に罪赦されたことの「証」「徴」として愛が描かれていることに見られる(Luk.7:36-49)。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。愛しうることが罪赦されたことの証である。ひとは自らの罪が赦されたか否かの証をどれだけ隣人を愛することができるかにおいて見いだされるとされる。かくして「愛は決して失敗しない」(1Cor.13:8)。「愛には恐れがない。まったき愛は恐れを取り除く」(1John.4:18)。その都度の隣人がたとえ敵であったとしても、その敵とは「キリストがその者のために死んだそのかの者」である(Rom.14:15)。ここに福音の健全性がある。すなわち信に基づく正義が先行しその果実として愛が生まれる。これは信の心魂における根源性を示している。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)
4神の愛の先行性と隣人愛の相互性
黄金律が表現において「律法の一切」がそれに依拠する愛の戒めと異なることがあるとすれば、ひとの「欲求」をそのまま肯定しそして前提にしていることである。一方で確かに「愛せよ」という言い方は一般的であるのに対し、ここでは黄金律はその欲求が日常生活の具体的な状況に浸透するなかでの等しさの生起が求められていることである。
誰もが具体的な状況において愛を欲しており、愛されることを求めている。誰かこれを否定しうる者はいるだろうか。ヘルマンヘッセの『アウグストゥス』において愛することと愛されることのいずれかを選択することが許された主人公は愛されることを選択し、何をしてもひとから赦されてしまう。そうこうして自ら空虚となっていく。翻って愛することを選択するとそれまでの悪行に被害を被った人々の反撃にあうが、それを喜んで忍ぶそのような物語が展開されている。愛は放恣のまま赦されることによる他者の支配ではない。償いとしての愛は、今度は、屈辱を被るが本来的な支配でも支配されることでもない等しさに向かう運動となる。
『レビ記』の記者は先の第二の戒め、隣人愛の戒めを報告するとき愛が等しさであることを既に知っていた(Lev.19:18)。神とひととのあいだ、ひととひととのあいだ、そこに父と子、友と友の等しさのことである。この世界に等しさを見出すことは難しい。しかし、シーソーのバランスを取るべく、敵が友となる向かう過程も愛である。バランスの崩れに生じた真空はいつの日にか友と友となる希望のうちに満たされることを学んできた。
実はひとは多くの場合「愛」の名において等しさを求めず、隣人を支配や操作の対象としている。イエスはそれをパリサイ主義の「偽善」と呼んでいた。われらも自己を吟味することが求められている。他方、愛が等しさであることを知るとき、愛は自己を捨て捧げつくすことだという類の律法主義から解放される。「わたしはあなたにこんなに尽くしたのに、どうして何もしてくれないのか」という類の支配欲から解放される。支配することからも、支配されることからも唯一自由な場所で出来事になる我と汝の等しさが生起するとき、ひとは実は最も安堵し喜ぶ。そこでひとは永遠とかかわっているからである。人類は愛を「永遠」との関連においてしか語ってこなかった。放物線が接戦に触れるように、永遠と関わる。即ち、愛においては神の愛の先行性がひととひととの愛の相互性を支えているのである。永遠的なものなしにひとは等しさを生きることはできない。
神の愛が先行していることはイエス・キリストにおいてのみ知られる。数学者や物理学者としての宇宙の創造者である神は数式により解明されよう。しかし、神が愛であること、即ち人格的な存在者であることは受肉しひととなったナザレのイエスを介してのみ知ることができる。また我と汝の人格的な交わりが生起する。「キリスト・イエスにある生命の霊」がわれらに注がれるとき、われらは新たな被造物として神の愛を喜び感謝し、隣人に向かう。
憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、家庭において親の愛を受けて育つように、そこで愛されることを何等か学んでいく。もし運にめぐまれず、薄幸の家庭にそだつとき、モデルケースをもたないため愛することはより困難な課題とまる。それはちょうど「良心・共知」の発動が、「道徳的運(moral luck)」と呼ばれるところのひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛されることを経験し自覚することなしにはまた相手方の状況についての知識なしには、発動しないそのような自覚や知識を伴うものである。
ひとは高ぶるとき、憐みをかけられていることを認識していない。自分は一自律した知者であると自己認識を持つかもしれないが、それは知るべき仕方で自己と世界を知ってはいないことを示している。パウロも言う、「知識は高ぶり、愛は[徳を]建てる。誰かもし何かを知っていると思うなら、その者はまだ知るべきその仕方で知ってはいない。誰かもし神を愛するなら、その者はご自身により知られてしまっている」(1Cor.8:3)。高ぶりのなかで何かを知っていると主張するとき、愛されていることを知ることはできず、知るその仕方は少なくとも神の愛を前提にした愛の相互性に基づかない。「われらは知っている、神を愛する者たちには、彼らは計画に即して召された者たちであって、あらゆることが善きことへと協働することを」(Rom.8:28)。ひとは神の計画のもとに神により知られ、愛されることによって愛するのであって、その愛を自覚せず、求めない者には善へと協働する愛は生起しない。
ひとはとりわけ自らの偏った認識により高ぶり自らの与件を忘れ、恩義や憐みへの感謝をすぐ忘れてしまうからこそ、「七度の七十倍赦すこと」(Mat.18:22)がイエスにより求められる。彼はその理由をたとえ話で伝える。或る王が家来を憐れに思って、その負債を赦したが、その家来が自らに負債ある者を赦さず、牢に入れた。王はこの態度に怒って言う。「悪い僕だ、・・わたしが君を憐れんだように、君も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(18:32)。われらは皆キリストにあって既に七度の七十倍は赦されている。受動の強さが能動の高さと深さを生み出していく。「愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず・・誇らず、高ぶらず、礼を失せず、自らの利益を求めず、いらだたず、恨まない」(1Cor.13:4-5)。愛のうちにあるものは否定的なパトスに引きずられることはない。愛は「誰に対しても悪に対して悪をかえさず」(Rom.12:17)、「互いに兄弟愛において慈しみ、相互に尊敬において導き手とする」(Rom.12:10)。愛は支配からも被支配からも操作や差別からも唯一自由な場所が心に生起することへの希望によって支えられるわれと汝の等しさであった。右の頬を打たれたら左の頬を向けつつ、いつの日にか敵が友となる希望の錘(おもり)によりシーソーのアンバランスは現に平行を得ている。
経験としてその等しさが生起しているとき、時との和解がある。永遠が今に宿り、過去が現在を支配する後悔や怒りも、未来が現在を支配する焦りや不安もない。喜びという最も現在的な感情のうちに過ごす。復活の主がその二人のあいだに立ってい給うからである。ひとは支配すること、操作することから自由になり、シーソーの均衡だけを求めるとき、もうすでに希望において均衡がとれており、何の力みもいらず楽である。愛が最も楽であるのは、おのれのこだわりから解放されているからである。おのれの小さな正義を主張するとき、相手の納得を求めているのではなく、支配を試みている。もしこの均衡点が人類に一切存在しないとすれば、この世界はただ勝者と敗者、抑圧者と屈従者、強者と弱者、欺く者と騙される者だけにより構成され、そして争いだけが支配することになる。われらは心を持つ者である限り、良心が共同の知識である限り、誰かが山上の説教を語らざるをえなかったように、山上の説教を生きるものがでてくるそのような存在者であるに相違ない。
黙示録に新しい天と新しい地が出現することを預言していう。「見よ、神の住まいは人々と共にあり、そして彼らとともに住まい給う。そして彼らは神の民となるであろう、そして神ご自身が彼らとともにい給うことであろう。神は彼らの目から涙をことごとく拭いさり給うことであろう。そして死はもはやなく、嘆き悲しみも叫びもないであろう、また痛みももはやないであろう。というのも、先のものどもは過ぎ去ったからである」(Rev.21:3-4)。
5愛は自己犠牲、自己否定を必然的に伴うか?
愛が希望における等しさの生起であるとして、その途上は自己愛を捨て去る自己犠牲なしにそこにはたどり着かないのではないか。ひとつの反論は愛は自己犠牲であり、自己愛は放棄されるべきではないかというものである。キリストは自己を犠牲にして自らを十字架に磔る敵を愛したではないか。やはり等しさに向かう過程としての愛はとても苦しいものなのではないのか。愛は自己犠牲であるという問いをめぐって、神の愛の先行性と隣人愛の相互性の秩序を維持する限り、乗り越えることができると思われる。バランスの崩れにおける苦しみは必然ではないが、肉に死に霊に生きるという意味において古い自己との別れは不可欠であり、そこに痛みは何らか伴うであろうそのようなものである。
キルケゴ ―ルの隣人愛の理解はこの律法主義的な愛の理解に親近なものである。とはいえそこに何らかの清められた仕方での自己を愛することが生起する理論を展開している。彼は、「汝なすべし」という義務のなかに、自然的な衝動や情熱からなる異教にも存在する詩人の愛と異なる「全き永遠の革新」を見る。愛は義務となることによって永遠を自らのうちに受け入れる。愛すべきであるが故にひたすら愛する永遠の義務となる愛は、どんな変化にもなれてしまうひとをその習慣化から救いだし、愛の幸いな独立自存性において永遠に自由である。それに対し、直接的な愛はひとを自由にするが、しかも次の瞬間には依存的にする。彼はうつろう自然な愛に対し、愛が義務であることのなかに、愛が独立自存し永遠に守られ保証されるのを見いだし、第一の神への愛と第二の隣人への愛の戒めのなかに絶望と不安からひとを救う自由を発見する。
キルケゴールは第二の戒めに対し、神の前でのあらゆる人間の平等を基礎に弁証法的な解釈をほどこす。この戒めにはすべてのひとが自分自身を愛するものだという前提が含まれている。しかしキリスト教は自己愛の弁護者ではなく、まさにその反対に、私たち人聞から自己愛を剥奪すると彼は主張する。そこでは、まず自分を愛するようにという戒めのもとで、隣人は「自己の二重化」として存在していることが理解され、自己といわば等距離に置くことを余儀なくされる。「汝自身をのように」という自己の二重化を引き起こす永遠の緊張力をもった容易な表現が「人聞が自分自身を愛する最も内奥の隠れ家のなかへ、審きながら入り込む」。自己愛が自己に肉薄するほど近いものであるとするならば、隣人も能う限り身近に接近しており、誰もこの戒めから逃れることはできない。「ひとは君が君自身に対するのと全く同じほど君に近い人なのである」。それ故、自己を愛する者は、この言葉を相手に戦おうとすると、自己愛は自分より強い者と取り組んでいることに気づき、「自己愛は粉砕されるであろう」。即ち、自己を自然的に愛する限り、隣人を自己と同じ程度に愛することの困難さに導かれ、他ならぬ自分自身に自己の二重化が要求されていることに耐えられずに、自己愛が止揚される。この戒めに生きる者は、こうして自己愛をもぎ取る時に、止揚された自分自身を真に愛することを学ぶのである。彼のこの戒め理解を愛の力動的な弁証法的展開論と呼ぶことができる[拙論「エロースとアガペー:ヘレニズムとヘブライズムの絆」参照。https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/33658]。
「自己愛」により自然的な生まれながらの自己中心的な愛のことを理解する限り、弁証法的展開論における自己愛の止揚と真の愛の生起は動的な愛の把握として同意できるものである。何等かバランスが崩れている限り、忍耐や寛容は不可避となる。イエスは自らを死に引き渡した。ただそれは信の従順の帰結であり、モーセの業の律法における行為の選択ではない。「汝、自己を隣人のために捨てよ、そうすれば真の愛を得る」は業のモーセ律法のもとでの愛の遂行である。福音は言うであろう。主の十字架と復活を仰ぎ見よ、そこに汝の古き自己はキリストと共に磔られておりまたそこに「キリスト・イエスにある生命の霊」(Rom.8:2)が汝に注がれている。神は愛であるという信に基づく義の故にこの永遠の生命が生起している限り、汝は「義の果実」(Phil.1:11)として我と汝の等しさに至るまで忍耐と寛容の実りを得るであろう。
ひとは心の状態としては自己犠牲や放棄をめぐる苦悩を双方ともに経験するかもしれない。しかし、これは信仰の本性からして、肉を人生の根源的要素とせず、霊を根源的要素としようとする者には肉から霊への道行は避けえないプロセスである。「悔い改め」とは生の方向転換であり、自己の自然的な肉を生の中心にするのではなく、神の愛を中心に生きなおすことである。天動説から地動説への転換である。やはり自然的には苦しみが伴うであろう。しかし、人間の心魂が肉と霊から構成されている限り、自己犠牲も自己放棄もほとんど不可避な苦しみであると言える。重要なことはこの苦しみは希望や意味のない苦しみではないということである。
「それ故、かくして、兄弟たち、われらは肉に対し肉に即して生きる義務ある者にあらず、というのも、もし汝らが肉に即して生きるなら、汝らは死ぬばかりだからである。しかし、もし汝らが霊により身体の諸行為を死なすなら、汝らは生きるであろう。というのも、神の霊に導かれる者である限り、その者たちは神の子だからである。なぜなら、汝らは再び恐れに至る奴隷の霊を受けたのではなく、われらがそのなかで「アッバ父よ」と呼ぶ、子としての定めの霊を受けたからである。御霊自らわれらが神の子たちであることをわれらの霊と共に確証したまう。もし、われらが子であるなら、われらは相続人でもある。かたや神の相続人であり、他方キリストと共同の相続人である、いやしくもわれらが共に栄光に与るべく、共に苦難に与っているのなら。・・・・・なぜなら、われらはすべての被造物が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにあることを知っているからである。しかし、ただそれだけではない。われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ、自らのうちで呻いている。なぜならわれらは希望により救われたからである。しかし、見られる希望は希望ではない。というのも、誰が見ているものを望むであろうか。しかし、われらが見ないものを望むならば、忍耐をもって待ち望む。しかし、御霊もまた同じようにわれらの弱さにおいて共に支えてくださる。なぜなら、われらは為されるべき仕方で何を祈るべきか知らないが、しかし御霊自ら言葉にならない呻きをもって執り成したまうからである」(Rom.8:12-17,22-26)。
このように神の前に生きようとする者たちが被っているあらゆる種類の苦しみは神の栄光に与るべくそしてその苦しみを通じて神に栄光をあらわすべく不可避なものである。しかし、イザヤは神の言葉を取りつぎ励ます。「恐れるなかれわれ汝とともにあり、 驚くなかれわれ汝の神なり。 われ汝をを強くせんまことに汝を助けんまことにわが正しき右手汝を支えん」(Isaiah.41:10)。ひとは勝者か敗者しかいない、抑圧者と屈従者しかいない世界に住んでいるわけではないということ、そのことに思いを馳せるとき、ひとは自らの内奥からの励ましと何らかの促しを感じることでもあろう。良心が発動しだすであろう。これが前回まで学んできた回心の経験者たちの告白である。今後もことあるごとに、ひとびとの回心の告白を紹介していきたい。
6結論
神はどこまでもわれらの自己否定や弁証法的な展開の前に働いてい給う。神の愛の先行性こそ、信の対象であり、そこに固着する限り、自己否定も相互性の等しさを実現する過程において要求されることもあろう。神が愛であることを信じることに基づき罪赦され義とされていることの喜びがわれらをいかようにでも隣人愛に向けるであろう。この順序、秩序はどこまでも不可逆的である。これがわれらにおける信の根源性である。愛は信に基づく「義の果実」である。
探求と発見(3)―「キリストに似る」認知的、人格的働き―
探求と発見(3)―「キリストに似る」認知的、人格的働き―
日曜聖書講義 2020.11.15
1テクスト
請い求めよ、そうすればそれは汝らに与えられるであろう。探せ、そうすれば汝らはそれを見つけるであろう。叩け、そうすれば汝らに戸は開かれるであろう。というのも、請い求めているすべての者は受け取り、そして探しているすべての者は見出しそして叩いているすべての者には開かれるであろうからである。或いは、誰か汝らのうち、自分の子がパンを請い求めているのに、まさか石を与える者はいないのではないか、或いは、魚をも請い求めているのに、その子にまさか蛇を与える者はいないのではないか。かくして、汝らは悪い者であるが、汝らの子供たちには善きものを与えることを知っているなら、天にいます汝らの父はましてやいっそうご自身を請い求める者たちに善きものを与えるであろう (Mat.7:7-11)。
2聖霊の探求と道筋
探求と発見の第三回目である。「探せ探せば見つかる」「求めよさらば与えられん」の文脈において回心についてさらには聖霊の注ぎについて論じてきた。前回はパスカルの回心を考察したが、パウロやアウグスティヌス、ルター、ウエスレイまた内村鑑三や黒崎先生などにおいては、神は単に宇宙万物を秩序正しいものとして創造した超数学者や超物理学者ということではなく、旧約聖書以来の伝統のもとで生きた人格であるイエス・キリストの福音に触れることにより彼らの回心が生起し、人格的な神と出会うそのような方である。「回心」はこちらの側の用意としては神の前に「悔い改め」ることが求められるが、それは神の導きであり、それにより神と出会い、これまでの生の方向が転換されることである。前進と自分で思われていたことが、後退となる。パウロは言う、「わたしは何であれわたしに得であったものごとをキリストの故に損失と看做している。わたしは彼の故に一切を失ったが、わが主キリスト・イエスの知識の卓越故にわたしはあらゆることを塵芥と看做す」(Phil.3:7-8)。「前へ進め、前へ進め、だけど前ってどっちだろう」という子供の歌があるが、回心とは人生に前と後ろのあることがはっきり分かることである。
山上の説教のこの箇所では神は善人にも悪人にとって「天の父」であり、「天にいます汝らの父はましてやいっそうご自身を請い求める者たちに善きものを与えるであろう」と言われる。神は父親に比せられる人格的な存在者である。人格的な存在者との出会いは人格的にしか、即ち信に対しては信によってしか、出会うことはないであろう。これは道理ある。誰か神の存在を疑っているひとがいたとするなら、その心の基底の枠組みのなかでは、ちょうど人間関係においても信用していない人に対しては常に否定的な認識がもたれがちであるように、神に出会うことはないであろう。解のある問いを美しく提示しながら、一歩一歩探求対象への信のもとでの喜ばしい探求を続ける。そのなかでひとは探しているものを見出すであろう。そしてそれは「キリストに似た者になる」その道行を歩む喜ばしい探求途上の生となる。「探せ探せば見つかる」。
わたしに先人たちの回心の記録が道理あるものであると思える一つの理由は、「キリスト・イエスにある生命の霊」(Rom.8:2)に触れることによって、平安と喜びが心魂の奥底から溢れてくることに連綿と経験者たちが同意してきたことである。パスカルは「喜び、歓喜、喜び、歓喜の涙」と火の体験を生涯大切にしていた。もう一つの理由は、一般的に神と人間を媒介する理論、神の働きとひとの働きを媒介する働きとして新約聖書において記されまた展開されている媒介者、イエス・キリストと聖霊についての報告以上に道理あるものを(個人的には)見出すことはできないことである。超越者と死すべき有限な存在である人間、聖なる者と汚れた者、永遠と時間的な存在者、そしてなによりも人格的なものと人格的なもののあいだのの媒介と媒介者について最も道理ある理論が展開されていると思えることである。
媒介者のないところでは例えば「絶対矛盾的自己同一」(西田幾多郎)という類の矛盾律を侵害する主張がなされたり、或いは非人格的な触媒の比喩による媒介が語られたりする。問いかけを赦されるなら、誰であれ不思議な平安と新しい生命に溢れる経験をしたとして、それに無矛盾で明確な言葉を与えてくれるものを聖書以外に見出すことはできないのではないかという問いである。一例にすぎないが、或る日本の新進の宗教で自分たちの教理を造ろうとしており、キリスト教を学ぶべく信徒がヨーロッパに派遣されている。その方としばらくのあいだ意見を交わしたことがあるが、彼らは自分たちの体験を理論化するうえで神学の長い伝統を持つ宗教に学んでいる。
3 発見に伴う平安、喜び
ここでは第一の理由として挙げた探求から発見にいたる過程が一定であり、存在の発見には不思議な平安や喜びそして生命感の躍動が伴うことについてもう少し考察したい。パウロは言う。文語訳では「すべての人の思いにすぐる神の平安が汝らの心と思いをキリスト・イエスによりて守らん」(Phil.4:7)とあるが、この不思議な平安や喜びが聖霊の自体的な属性として聖霊すなわち「キリスト・イエスにある生命の霊」(Rom.8:2)がもたらす新たな生命に伴う。回心は「新しい被造物」(2Cor.5:17)となることであり、その平安はこの世のものではない生命に何等か触れることからくる。何かの存在の発見に伴う属性の程度に応じてその本質の探究に進展する道筋が定まる。
アリストテレスは探求のプロセスについてこう言う。「われらは事実[S is P]を把握して、理拠(何故か)[Why S is P]を探究する。時にはそれらは同時に明らかになることもあるが、少なくとも事実よりも先に理拠を知ることはできない。ちょうどそのように、存在[の把握][S exists]なしに、本質[What S is]を知ることはできないことは明らかである。というのも、存在するかどうかを知らずに、何であるかを知ることは不可能だからである。しかし、われらは存在するかどうかを、時には付帯的に把握し、時には事物そのものの何ものかを、例えば、「雷」について「雲間の或る種の音響」を、・・把握することにより、把握する。こうして、われらが存在を付帯的に知る限りのものどもに関しては、いかなる意味においてもその「何であるか」に向かう状態にないことは必定である。なぜなら、われらはそれが存在することを知っていないからである。存在を把握せずに、「何であるか」を探究することは、何も探究しないことに等しい。何ものかを把握しているものどもに関しては、[探究は]容易である。かくして、われらが存在を把握する程度に応じて、われらはそのように「何であるか(本質)」に向かう状態にある」(An.Post.II8.93a17-28)。
「聖霊」の本質理解にはまず「神の愛」が必須な構成要素である。聖霊は神と人の間を「神に即して」つまり神の憐みの意図に即してわれらの心の奥底で「呻き」を伴いつつ「執り成す」からである。「御霊もまた同じようにわれらの弱さにおいて共に支えてくださる。なぜなら、われらは為されるべき仕方で何を祈るべきか知らないが、しかし御霊自ら言葉にならない呻きをもって執り成したまうからである。だが、これらの心を吟味する方[神]は御霊の思慮内容が何であるかを知っていたまう、というのも御霊が聖徒たちのために神に即して執り成していたまうからである。他方、われらは知っている、神を愛する者たちには、彼らは計画に即して召された者たちであって、あらゆることが善きことへと協働することを」(Rom.8:26-28)。
聖霊の本質を明らかにする定義は例えば、「聖霊は神の愛をその嘉みする者の心に注ぎ新たな生命を与えることにより執り成す助け主である」という類のものとなろう。「神の愛はわれらに賜わった聖霊を媒介にしてわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)。そしてその「聖霊の果実」ならびに「聖霊の力能」の働きについても定義にいれるなら、聖霊を十全に定義することになろう。パウロは言う「霊の果実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、真実、柔和、節制である」(Gal.5:22)。彼はさらに言う。「希望の神が、汝らが聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、汝らを信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。
3心魂の構成 ―肉と内なる人間―
心魂の組成として、人類は聖霊を受領する力能を持っているものでなければならない。最初の人間(アダム)については、土という組成に神からその鼻に「生命の息」を吹き入れられることにより「ひとは生きる魂となった」(Gen.2:7)と報告されている。キリストは死と復活を介して「新しい被造物」(2Cor.5:17)を、すなわち「生命を造る霊となった」と報告されている(1Cor.15:45)。この新たな生命の躍動が喜びと平安を与える。ひとは聖霊に触れて生物から生物+「内なる人間」と呼ばれる常に刷新を必要とする「霊」と「叡知」から構成される新たな被造物となる。
ここで心身論と呼ばれる、心と身体ならびに霊などの組成について聖書がどう語っているかを簡単に確認する。ここでは「心魂」を「こころ」と読ますが、一方「魂(phsuchē)」は生命原理を意味し、「心(kardia)」は意識の座を意味し、生命原理である「魂」の基礎のもとに「心」が働く。心は身体をも含め意識活動を統一し、今見たように聖霊が注がれる座である。イエスは言う、「その心によって清らかな者は祝福されている」(Mat.5:8)。魂はその心の生命を担うものとして位置付けられる。イエスは言う。「そのことの故にわたしは汝らに言う、汝らの魂[生命の源]のことで、汝らは何を食べようか、何を飲もうか、また汝らの身体のことで何を着ようか、汝ら思い煩うな。魂[生命の源]は食物より一層大切なものであり、身体は衣服より一層大切なものであるのではないか」(Mat.6:25,cf.10:28)。魂は食物がそれのためにあるところのその目的であり、身体は衣服がそれのためにあるところのものである。目的或いはものごとの本質なしには、何ものであれその手段や道具やそれを栄養上維持するものなどの規定や位置づけをえることはない。魂なしにはこの世の一切のものは無規定のままなのである。またイエスは心と魂と世界についてこう言う。「ひと[心]が全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひと[心]は自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。
魂は生物的な生命の基礎であるが、生物的な生命と霊的な生命の連続性をめぐって、魂体(sōma phschukikon)に対比されるものとして「霊的身体(sōma pneumatikon)」があり、それは一人の人間にとって連続的であるとパウロは主張している。「コリント前書」15章においてパウロは言う、「もし魂的身体があるなら、霊的な身体もあるであろう。こう書かれてもいる、「最初の人間アダムは生きる魂となった」、最後のアダムは生命を造る霊となった。しかし、霊的なものではなく魂的なものが最初であり、続いて霊的なものである。最初の人間は土からのものであるが、第二の人間は天からのものである。土製の者[アダム]がそうあるように、土製の者たちもそのようにある。そして天上の者[キリスト]がそうあるように、天上の者たちもそのようにある。ちょうどわれらが土製のものの形姿を担ったように、天上のものの形姿をもまた担うであろう[未来形]」(15:49)。ここで二つの形姿はそれぞれ土製の身体と天上製の身体を持つことにより、或る断絶を経験しつつも、「魂的なもの」から「霊的なもの」への連続性においてある。それらは。未来形が用いられるのは土製のものが「神の形姿であるキリスト」(2Cor.4:4)と、将来「(ご自身の子の形姿と)同じ形姿の者」(8:29)となるでもあろうからである、もし神に予めそのような者として定められているなら。
パウロは各人の心魂の根底に発動する「霊」を心身、魂体を統一する最も基礎的な要素として提示している。そしてその霊は土的な人間においては肉に回収されるため、「霊の新しさ」(Rom.7:6)をつまり、常にその生命の泉に立ち返ることが求められる。詩人は言う、「涸れた谷に鹿が水をもとめるように神よ、わが魂は汝を求める。神に、生命の神に、わが魂は渇く。いつ、み前に出て神のみ顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わが糧は涙ばかり。ひとは絶え間なく言う、「汝の神はどこにいるのか」と」(Ps.43:2-4)。このような者がその霊によって貧しい者であり、神に祝福される者である。
そしてその者のこの渇き、請い求めは喜びと賛美に代わる。詩人は自らの回心をこう語る。文語訳ではこうである。「その咎を赦され、その罪覆われし者はさいわいなり。主がその罪を数えざる者はさいわいなり。その心に偽りなき者はさいわいなり。われいひあらはさざりしときは終日(ひねもす)かなしみ叫びたるが故にわが骨ふるびおとろへたり、汝のみ手は夜も昼もわがうへにありて重し、わが身の潤沢(うるおい)はかはりて夏の旱(ひでり)のととくなれり。かくてわれ汝のみ前にわが罪をあらはしわが不義を覆わざりき。われいへらくわが咎を主にいひあらわさんと。かかるときしも汝わがつみの邪曲(よこしま)をゆるしたまへり」(Ps.32.1-5)。個人的なことではあるが、自らの回心の経験のあと、この詩篇32篇に出会って以来これは私の詩(うた)となった。この詩篇32篇を読むたびに心魂が刷新される。詩人は賛美する。「主をほめたたへよ、もろもろの天より主をほめたたへよ、もろもろの高所(たかどころ)にて主をほめたたへよ、その天使(みつかい)よみな主をほめたたへよ、その万軍よみな主をほめたたへよ、日よ月よみな主をほめたたへよ・・」(Ps.148:1-3)。喜びと平安と賛美、これらが記録されている旧約聖書も新約聖書も同じ霊に導かれて書かれていることの一つの証となるであろう。
旧約と新約即ち聖書全体をめぐり一つの神学的主張がなされてきた。「聖書」は神の言葉であり、一字一句神の霊感により書かれているという逐語霊感説という主張である。これは、聖書の編集の段階でも霊感により、聖典と外典が判別されたことを含意するとても強い主張である。聖書記者は神の霊により書かれた聖書の一字一句をただインクに移すペンや管のようなものであったと言われることがある。そうであるかもしれない。はっきりしていることは、聖書一切が神の霊により書かれたという見解は神の意志としてはイエス・キリストの福音においてほどには明確には知らされていないということである。われらは聖書の中心をイエス・キリストにおいてそのもとで聖書全体を理解するが、そのなかで聖書記者に注がれた聖霊の濃度とでもいうべき遠近が定められていくのかもしれない。明確なことは逐語霊感説は福音ほど明確には知らされてはいないということである。
4ひとは神の意志を知ることができる―「ヌース(叡知)」とは―
不思議な平安が訪れることはひとみな経験することでもあろうが、それがいかなるものであるかは聖書の学びを必要とすることをわれらは学んできた。それほど聖書の証言はその後の歴史において多くの人々により確認されてきたと言うことができる。風のように自由に吹く聖霊も明確な理(ロゴス)を持っていたのである。「思いにすぐる神の平安」が長く持続するとき、聖霊の働きであると人々は理解してきた。
旧約聖書において「霊(rūah)」は人格的な心の態勢に伴う平安や喜びのパトスを表現するとともに、神の意志を知る認知的な働きも担っていた(eg.2King.6:12,7:1)。パウロは紀元前3世紀からプトレマイオス朝時代にアレクサンドリアでギリシャ語に翻訳された70人訳を参照し用いている。そこでは「霊(rūah)」にはpneumaがあてられるが、訳者たちは当時のギリシャ哲学の用語「ヌース(叡知)」をrūahの訳語として一か所「誰か主の叡知(nūn kuriū)を知っていたのか」(Isaiah.40:13)にあてている(1Cor.2:13-16)。神の認知的な態勢にかかわるものだからである。パウロはギリシャ哲学の「叡知」を積極的に取り入れ、「内なる人間」を構成するものとして心の二番底に「霊」と「叡知」を挙げて、人格的な部位と認知的な部位を分節して語っている(Rom.7:22-23)。さきの従来の「思いにすぐる神の平安」の箇所は「あらゆる叡知(panta nūn)を超えている神の平安が汝らの心をそしてキリスト・イエスにある汝らのノエーマタ(想念内容)を守るであろう」(Phil.4:7)と訳すことができる。神の不思議な平安はわれらの認知機能を超えて、すなわち認知的に自覚はできないがわれらを包み守ることがあるとされる。
ここで「叡知」とはパウロが旧約以来の「霊」の認知的働きにギリシャ哲学の伝統に即し霊の人格的働きと判別すべく授けた尊称(honorific title)である。ギリシャ哲学の伝統においては「ヌース」は時空を占める大きさを持たない神的な魂ないしその部位と看做されてきた(De Anima,I3)。例えばアナクサゴラスは「万物を秩序づけ、万物の根拠であるものはヌースである」と語り、ソクラテスを惹きつけたとプラトンにより報告されている(Phaedo.97c)。
アリストテレスもこの伝統のなかに属する。叡知が叡知対象(noēton)にヒットしている状況は「叡知していること(noein)」と動詞形で表現される(Met.IX10.1051b32)。アリストテレスは目に見えることのできない存在者に触れたときにこの言葉を使う。合成や分離することにより真理を求める思考(dianoia)における真偽は事物のうちに存在せず、思考のうちに存在する。叡知により得た不可分で未分節認知的態勢について思考が文として結合や分離を企てる段階においては誤りの可能性があるが、感覚同様にヒットしているということがらにおいて誤りや偽の可能性は排除されている。叡知対象に触れ発動する「ノエイン(叡知すること)」は単純なものごととの合致において「何か一つのことが生起すること」として規定される(Met.IV.1027b20-29)。ヌースが発動することはものごとの側における一つの出来事として、しかもヌースとノエートン(叡知対象)の間に分離はなく同時に捉えられる。
この認知機能は推論的な(discursive)理性の機能と異なり、叡知対象に「ヒットする(触れる)(tigein)]ときだけ発動する、そして「知らないことは触れていないこと」(Met.1052b23)と言われるそのような認知機能である。対象にヒットするかヒットしないか、即ち知か無知であって、偽(いつわり)の可能性がない認知機能はわれわれに馴染みなものである。彼はコンピューターの検索機能を既に予言していたのである。彼は言う、「かたや叡知の運動が叡知作用(ノエーシス)であり,他方それは円の回転である」(De An.I3.407a20)。叡知作用は円環的な或るシステム内部で瞬時に検索するため、そこにあればヒットする。パウロにおいても同様であり、内なる人間において発動するヌースは肉に回収されるため、常に神ご自身の前にある恩恵に触れ「叡知の刷新」(Rom.12:2)が求められるそのようなものである。
アリストテレスはこの接触知について感覚との類比を語る。一方、感覚の対象「アイステートン」は時空のなかで感覚器官を触発するあらゆるものであるが、他方「ノエートン」とはヌースを触発するものつまり端的に言って感覚の対象ではないが単純なもの、不可分のロゴス・比のことである。そして理(ロゴス)は感官を触発するあらゆるものを構成するものとして存在するがゆえに、ヌースは感官の触発を通じて発動する。感覚も一種のロゴス・比であり、ロゴスの成立していない度を越した感覚対象、例えば強すぎる音や光は感覚器官を傷つけてしまう(De An.III2.426a29, III4.429a31-b3)。パウロは光に照らされ一時視力を失ったが、そのような媒介によりキリストの声を聞いたことが報告されている(Act.9:8)。ヒットすることは「何か一つのことが生起すること」即ち出来事である。
ナザレのイエスは神について知識を持つことができると主張する。「汝らは[旧約]聖書と神の力能を知らないから、彷徨っている。というのも、復活においては、人々は娶りも嫁ぎもしない、そうではなく天においては天使のようにあるからである。しかし死者たちの復活をめぐって、神が語ることによって、汝らに語られているものを読まなかったのか、「われはアブラハムの神である、またイサクの神そしてヤコブの神である」と。神は死者たちのではなく、生きている者たちの神である」(Mat.22:29-32)。パウロはこう語るナザレのイエスこそ聖書において預言されたメシア(救世主)であると宣教する。この宣教を聞いたペレアにいるユダヤ人たちについて第二回伝道旅行同行者ルカはこう報告している。「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に[彼の]諸議論を受け止め、はたしてそのとおりかどうか毎日聖書を吟味した。そこで、そのうちの多くの人が信じた」(Act.17:11)。
パウロもわれらは神の意志を知ることができると主張する。神の意志の知らしめである「啓示」は「ローマ書」において三度だけその動詞形により用いられる。その一つは福音における「神の義」の知らしめ(1:17)であり、第二は神の義の一つの顕れである「神の怒り」(1:18)、そして第三は終末における「われらに啓示されるべく来たりつつある栄光」(8:18)である。神の御心を知るに至る力能であるわれらの「内なる人間」の認知機能である「叡知(ヌース)」は、「われらはキリストの叡知を持っている」ことによってキリストを媒介にして神の意志を知るに至る(1Cor.2:16)。
パウロは福音における神の義の啓示のゆえに、明晰かつ道理あることとして人生を神についての明確な知識のもとに神に捧げることを勧めることができる。「かくして、兄弟たち、神の憐れみによりわたしは汝らに勧める、汝らの身体を神に喜ばれる生ける聖なる献げものとして捧げよ、それは理性に適う礼拝である。汝らこの世界に同調するなら、むしろ神の意志が何であり、善とはそして喜ばれるものそしてまったきことが何であるかを汝らが識別すべく、叡知の刷新(tē(i) anakaionōsei tū noos)により変身させられよ」(Rom. 12:1-2)。「神の意志が何であるか」は「善」「喜ばれること」そして「まったきこと」と共に知ることができると主張される。ここで変身とはキリストに似た者になることに他ならない。「わたしは汝らのうちにキリストが形づくられるに至るまで再び産みの苦しみをなす」 (Gal.4:19)。キリストに似れば似るほど神の意志をより知るに至るであろう。
パウロは神をめぐる知識について一方でそれがいかに困難であるかということ、他方でそのアクセスの方法について語る。一方で、こう言われる。「ああ、神の知恵と認識の富の深さよ。ご自身の裁きはいかに窮めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。すなわち、「誰か主の叡知を知っていたのか」」(Rom.11:33-34)。確かに主の叡知即ち主の全知は窮めがたいが、他方で、「われらは誰か主の叡知を知っていたのか、誰かご自身を教えるのか、しかし、われらはキリストの叡知を持っている」(1Cor.2:16)、即ちキリストが知っていることがらについてそして彼の知識を介して神に明確なアクセスを得ていると言われる。「われらは成熟した者たちのあいだでは神の知恵を語る、だがそれはこの世界の知恵ではなく、またこの世界の空しきものとなる支配者たちの知恵でもなく、神が諸々の世界の前にわれらの栄光へと定め給うた奥義のうちに隠されてきている神の知恵を語る」(1Cor.2:6-7)。もちろんここで「神の知恵」とは「キリストが神の知恵となった」と言われるそのキリストのことである(1Cor.1:30)。先に見たように、キリストは「聖書と神の力能を知って」おられたからこそ、彷徨うことなく信の従順を貫くことができた。このように神をめぐるわれらの心魂の認知的そして人格的態勢を整えるのは受難と復活のキリストである。
これはこれまで神との出会いを経験した報告とも歩調のあうものである。彼らはキリストを媒介にして神と出会っている。わたしが先人たちの回心の記録が道理あるものであると思う先に挙げた二つ理由のうち、二番目のものは一般的に神と人間を媒介する理論、神の働きとひとの働きを媒介する働きとして新約聖書において記されまた展開されている媒介者、イエス・キリストと聖霊についての報告以上に道理あるものを見出すことはできないのではないかというものであった。ともあれ、ひとは超越者の何らかの促しを感じながら、探求の生を送っている。
自らの回心に触れたばっかりに、このところわたしの探求の歩みを振り返ることになってしまった。証は個々人の神との交わりであるがゆえに、決して普遍化されてはならない。かつてアメリカの青年がアフリカの子供たちとすごし、瀕死の子を数日抱え続け、回復した証を読んだ。これはその青年の背景的生い立ちのなかでの神様の栄光のあらわしであって、その青年同様個々人にはかけがえのない個人的な神との交わりがあるため、一般化や偶像化は戒められねばならない。1984年の回心後1985年春に紹介状一枚をもって鞄一つで知る人ひとりなくオックスフォード大学に向かった。国に拒絶され不法滞在者になりそうなところからはじめ、認定学生(recognized student)、仮修士課程(probational M.Litt)、本修士(Full MLitt)、そして博士課程(D.Phil)と四度も身分を変えながら、1990年2月に哲学博士号を取得するにいたったた。その記録「オックスフォード便り」(現地から家族などに送った手紙)から二回目を紹介することをお許しいただきたい。
5探し求めドアを叩き、見出し開かれた記録―留学記―
5:1 エルスフィールド[読了済み(2020.11.1)]
5:2チュートリアル―協働の探求[記載済み(2020.11.8)]―
探求と発見(2)―「探せ探せば見つかる」―
探求と発見(2)―「探せ、探せば見つかる」―
日曜聖書講義 2020.11.8
(録音ではIテクストと5:2チュートリアル―協働の探求―割愛されています。時間のマネジメントをゆっくり話すすことをも含め改善したいと思います。悪しからず)。
1テクスト
請い求めよ、そうすればそれは汝らに与えられるであろう。探せ、そうすれば汝らはそれを見つけるであろう。叩け、そうすれば汝らに戸は開かれるであろう。というのも、請い求めているすべての者は受け取り、そして探しているすべての者は見出しそして叩いているすべての者には開かれるであろうからである。或いは、誰か汝らのうち、自分の子がパンを請い求めているのに、まさか石を与える者はいないのではないか、或いは、魚をも請い求めているのに、その子にまさか蛇を与える者はいないのではないか。かくして、汝らは悪い者であるが、汝らの子供たちには善きものを与えることを知っているなら、天にいます汝らの父はましてやいっそうご自身を請い求める者たちに善きものを与えるであろう (Mat.7:7-11)。
2聖霊の探求と道筋
前回、探求と発見という文脈において回心について触れた。アリストテレスの探求論によれば何か存在を発見するとき、「~がある」例えば「聖霊がある」ということだけを発見するのではなく、「ものごとそのものの何ものか(ti autu tu pragmatos)」と呼ばれる自体的すなわち必然的な属性或いは付帯的すなわち偶然的属性を伴って見出される(An.Post.II8)。聖霊体験には喜びや平安を自体的に伴うということが連綿と報告されてきた。そしてどのような属性の発見を伴うかに応じて、存在の発見の確実性とそれに基づくそのものごとの本質の発見に向かう態勢が定まるとされる。
例えば、パスカルが「喜び、歓喜、喜び、歓喜の涙(joie,joie,joie la pleur de joie)」と記した「火の体験」と呼ばれる回心の時発見した神は単に神があるという哲学者の神ではなく、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」であった。これは神は単に宇宙の盲目の必然のメカニスムという類のものではなく、人格的な存在者であることを含意する。彼の死後、常に身にまとっていた上着裏に縫い付けられていた文書が発見された。31歳の回心のときから死ぬまで8年間縫い付けられたまま着ていたと思われる。そこにこう書いてあった。「1645年11月23日月曜日、・・夜10時半頃から12時頃まで。
火
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者や識者の神ならず。確実、確実、感情、歓喜、平和。イエス・キリストの神。<わが神すなわち汝らの神>。汝の神はわが神とならん。神以外の、この世およびいっさいのものの忘却。神は福音に示された道によりてのみ見いださる。人の魂の偉大さ。正しき父よ、まことに世は汝を知らず、されどわれは汝を知れり。歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。われ神より離れおりぬ。<生ける水の源なるわれを捨てり>。わが神、われを見捨てたもうや。願わくはわれ永久に神より離れざらんことを。永遠の生命は、唯一のまことの神にいます汝と、汝のつかわしたまえるイエス・キリストを知るにあり。イエス・キリスト。イエス・キリスト。われ彼より離れおりぬ、われ彼を避け、捨て、十字架につけぬ。願わくはわれ決して彼より離れざらんことを。彼は福音に示されたる道によりてのみ保持せらる。全くこころよき自己放棄。イエス・キリストおよびわが指導者への全き服従。地上の試練の一日に対して歓喜は永久に。<われは汝の御言葉を忘れることなからん>アーメン」(前田陽一、由木康訳)。
この珠玉の覚書で分かることは彼はこの経験により「確実さ」、確かさを喜びを伴いつつ発見したことである。御子を介して「唯一のまことの神」を「知る」に至ったことである。それは心地のよい自己放棄の感覚であると言う。パスカルは探求から発見への過程のなかで見出したのは「イエス・キリストの神」の発見である。聖書に示されたアブラハム以来の信仰により継承された神との出会いである。彼はそこに確かさを見出している。もし、聖書という言語空間における語彙や文の連関を学習していなければ、彼の回心はこのような言葉を発することはなく、喜びを伝える何ものかによる、心の変化として捉えられただけであろう
パスカルのあの確かさの感覚はやはり伝統と歴史に基礎づけられたものであることが分かる。われらの単なる心的変化とは異なる確かなものが歴史のなかに打ち立てられていたからこそ、発見にいたったのだと思われる。聖霊に触れたときに帰属する平安や喜びは単なる偶然的に付帯するそのような属性ではなく、ほとんど自体的なつまり聖霊のあるところ必然的に伴うそのような属性であると言える。そのことから聖霊は心の最も深いところに注がれるそのようなものであることが確認できる。人類の多くの人々が聖霊の経験を報告している。パウロは言う、「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)。聖霊はわれらの心に神から注ぎこまれるものであり、しかもそれは神の愛として注ぎこまれるものである。聖霊と神の愛は切り離せない自体的関係においてある。聖霊の本質は神に即してひとを支え、神に向かうよう執成すことと語られよう。
パウロは言う、「御霊もまた同じようにわれらの弱さにおいて共に支えてくださる。なぜなら、われらは為されるべき仕方で何を祈るべきか知らないが、しかし御霊自ら言葉にならない呻きをもって執り成したまうからである。だが、これらの心を吟味する方[神]は御霊の思慮内容が何であるかを知っていたまう、というのも御霊が聖徒たちのために神に即して執り成していたまうからである。他方、われらは知っている、神を愛する者たちには、彼らは計画に即して召された者たちであって、あらゆることが善きことへと協働することを」(Rom.8:26-28)。
パスカルにおいて「神は福音に示された道によりてのみ見いださる」という強い主張がなされている。ひとによっては広大な宇宙を明確に秩序づけているロゴス(理)の発見により、神にアクセスする人もいよう。これは伝統的に理神論(Deism)と呼ばれてきた。それは知的な感動であり、神との共知において成り立つというよりも、神の創造の業の賛美に留まりがちであろう。神ご自身の意志がそこにおいて啓示された媒介者イエス・キリストに到達することはないかもしれない。人格的な神は福音においてのみ知られる。
このパスカルの確かさの主張は聖書の伝統に即していると同時に、回心が人生には一回しか生起しないという一回性と関わると思われる。福音を介して神に何等か触れたひとは、常に福音に立ち返り、神に出会う。ひとは回心の体験において、肉(身体を持つ自然的な存在者の生の原理)の底が抜けて二番底すなわち神の何らかの呼びかけに反応する「内なる人間」(Rom.7:22)と呼ばれる部位が開かれる。「たとえ外なる人間は衰えていくとも、われらの内なる人間(ひと)は日々新たである」(2Cor.4:16)。霊的な交わりは肉の弱さのゆえにこの地上の生においては肉に回収されてしまうため、「叡知の刷新」(Rom.12:2)が必要とされる。ここで「肉の底」という表現から類推されるように、良心が肉と内なる人間を媒介する役割を持つ。良心は共知であり、家族や部族との肉的な共知から神との共知にいたるまで相対的であった。心の底が抜け、霊に触れることによって、比喩的に言うことが許されるとするなら、心に穴が開く。そしてその穴は肉の弱さの故にすぐ塞がれてしまう。肉の底がこの世の思いで塞がれても、一度開いた底は何らか再び抜けるという、そのような比喩で回心の一回性は語られよう。開いた痕跡は残るため、私の場合は鳩尾の当たりであるが、そこにその都度立ち返ると同じ平安をいただくことがある。
パスカルはこの回心の一回性を「神は福音に示された道によりてのみ見いださる」と言っているのだと思われる。「新たな被造物(kaine ktisis)」(2Cor.5:17)の出現はとても客観的な歴史的事件である。心の探求もとても客観的なものであり、誰もが生物的に同じ組成を持つ者である限り、二番底ないし「内なる人間」に対応する部位、入口が肉のどこかに備わっているに相違ない。デカルトはそれを大脳視床下部の「松果体」に求めた。これは生理学が進歩するにつれて、将来的には聖霊が「注賦される(ekkekutai)」とき、聖霊の本質を開示はできないが、生理的な反応として、「これこれの生理的な変化があるときには常に聖霊が注がれている」という類の聖霊の注ぎの十分条件を特徴づけることができるようになると思われる。即ち、回心が生起するさいの身体側の生理的働きとして回心の十分条件の特徴づけという仕方で一般的な理論を構築できると思われる。同じひとが何度も聖霊を体験することがあったとしても、種において同じ清らかな平安と喜びが伴う限り、生理的事象は常に同じ理論のもとに基礎づけられるという意味でとても客観的な心魂の出来事であると言うことができる。もちろん、そこでは神の自由が侵害されることはない。
その良心(神との共知)の発動としての回心は聖霊による肉の弱さを支えつつの罪の赦しの伝達である。それは聖書に明確に知らされているものであり、自然科学による神の秩序に対する数式の美しさの持つ感動とは異なり、どこまでも個人的な神との人格的な交わりの始まりとして二番底の開示の経験である。イエスは自ら去っていくが、そのあとに「助け主」としての聖霊の派遣を約束している。「わたしは汝らを残して孤児(みなしご)とはせず」、「わたしは父に願う。父は別の助け主を遣わして、汝らと共にいるようにしてくださる」、「わたしが行けば、助け主を汝らのもとに送るであろう」、そう言われる方である(Mat.11:28-30,John.14:18,15,16:7)。聖霊とは神の前とひとの前を媒介し、ひとを助けるものである。神の意志を知ることをめぐってパウロが「叡知」という認知機能についていかに論じているかは来週確認したい。
われらは少なくとも目に見えない聖霊の体験を記述するさいには、このような先行事例を必要とする。それは「聖霊」をめぐる周辺的な言語空間の学習を必要とする。その語句の意味の理解においては、「聖霊」が指示する働きにおいてある聖霊の存在の理解をさらにはその本質の理解を要求しない。これは意味論的に浅い「文字的意味」の理解に留まる。言語次元において思考を前進させる美しいアポリアの提示とは、例えば「「在る」は多くの仕方で語られる」というアリストテレスの常套句に見られるように、当該語句がどれだけの仕方で語られるかを枚挙することが肝要である。そのさいその問いの応答となりうるあらゆる可能な応答を網羅することしかも相互に排他的な仕方で枚挙することが肝要である。即ち、或る問いに対する可能な応答をすべて枚挙できるとするなら、そこにおいて答えを見出す枠が設定されたことになる。このように言語次元における語句の意味理解をめぐる分類や枚挙は存在と本質の探求の基礎作業となる。
聖霊について「今・ここ」で体験することは神と人双方の働きに属する。これを「エルゴン(今・ここの働き)」と呼ぶ。理論(ロゴス)は実践・働き(エルゴン)によって確認される。これについては「探せ、探せば見つかる」としか言うことができない。超越的な神の国へのアクセスはナザレのイエスの言行の探求を通じて遂行されるということは、パスカルが証言するように、また身近では黒崎先生が証言するように、多くの人々の経験してきたことである。黒崎先生はドイツ語で回心記を書き恩師カール・ハイムに贈った。資料室でご子息による邦語訳を読むことができる。
これをひとは単なる神話として拒絶するのであろうか。先週報告した回心における聖霊体験のあと、確かにわたしは「新しい被造物」(2Cor.5:17)になったと思う。しかし、聖書に報告されている様々な聖霊についての記述とその理解なしには私は単に神経系の一時的な陶酔、錯乱として処理してしまっていたかもしれない。長く聖書を読んできて、「聖霊」という語の使用に関しては習熟していたことが私の不可視なものとの遭遇の理解を助けたことは否定できない。探求と発見には明確なプロセスがある。アリストテレスは言う、「「定義は「何であるか[本質]」の説明言表であると語られるので、名前や名前のような他の説明言表が「何を意味表示するか」の(x)或る説明言表(tis logos)が定義となるであろう(estai[未来形は語句の意味理解が発見的探求の最初の段階を示す])こと明らかである[「或る」により非存在の定義可能性は否定される]。例えば、「三角形」が(x)「何を意味表示するか」は、それが三角形である限りにおいて、(X)「何であるか」である。まさにそのもの[「三角形」により意味表示されるもの]が(Ex)存在することを把握することによって、われらはそれが(X)何ゆえにそれであるかを探求する[「何であるか」と「何故か」の探求は中項の探求として同定(X)される]。その存在をわれらが知らないものごとに関して、それ[当該の名前が意味表示するもの]をこの仕方で[「何であるか」の説明言表として]容認することは困難である。困難さの理由は既に[92b19-25]語られたが、われらは在るか在らぬかを付帯的[偶然]にという仕方以外においてしか知らないからである」(93b29-35)(labein (容認する)については「幾何学者は「三角形」が何を意味表示するかを容認し、それが存在することを証明する」参照(92b15-17,cf.76a33,76b7,71a12))。
発見の前段階として文字的意味(sensus literalis)の意味理解が不可欠となる。これが神に出会いたいと思う者はイエス・キリストをめぐる福音の学習が必要な所以である。しかし、わたしはパウロの「ローマ書」の中心箇所がVulgata版で誤訳されて以来、正しく理解されていなかったため、福音の正しい理解が妨げられてきたと考える。ルターは「聖書を正しく理解するところ、そこに聖霊が宿る」と言う。この言葉を導きとして、聖書を正しく理解したいと思い今日にいたった。
正しい理解のもとでの福音書そしてパウロ書簡などにより神発見の準備はなされうる。福音書はパウロによるナザレのイエスが何者であったかという神学的理解なしに書かれることはなかったと思われる。この神学的事実がナザレのイエスの伝記と言える福音書が世にあらわれるには彼の死後少なくとも30年を必要としていたのである。パスカルによる「福音に示された道」のみによって神は知られるという強い主張にわたしの経験は同意しており、またパスカルも福音書の記者にまでさかのぼることのできる先人たちの経験に即したのだと思われる。
ともあれ、聖書に習熟することが少なくとも「イエス・キリストの神、<わが神すなわち汝らの神>」との出会いを備える。探せ、探せば見つかる。神は愛である。神の愛の先行性こそ、隣人愛の相互性を支える。神がイエス・キリストにあって信義であったとき、われらに残された応答は信じることである。信に対しては信による応答がふさわしい。ここでは信に対し応答しないことは裏切ることである。
「探せ、探せば見つかる」の励ましのもとでの福音の探求において、今起こる問いは、あれほど恩恵を受けたのに、私は或いはより一般的に語ることが許されるならひとはその愛をどうしてすぐに忘れてしまうのであろうか、である。パスカルにおいて、死後発見された「火の体験」の記録は上着に縫い付けられていたものであった。回心から死まで8年間彼は肌身離さずその言葉とともにあり、どれだけこの恩恵の確かさを確認したことであろうか。パスカルは天国に心を向けた直後に地獄を考えるそのようなrestless mindの持ち主だったと言われることがある。ひとは時の流れに流されて恩恵さえ忘れてしまう。彼はそれを胸に手を当て続け、保持したのだと思われる。わたしにも心が弱るとき、あれは一種の神経系の変調だったのではないかと思うことがある。ただ、懐疑に襲われることがあっても、そのなかでも胸に手をあてて冷静になるとき、最後のところ「裏切るわけにはいかない」という思いは偽りのないものだと思う。そして回心により懐疑が喜ばしき探求となり、その後その延長線上に多くの恩恵を与えられたことを思い返すとき、新たに立ち上がる。私には回心とは懐疑が喜ばしい探求に変換されることであった。
なぜすぐ恩恵から脱落するかは、端的に言えば、肉の弱さの故にこの世の煩いにより恩恵が曇らされてしまうからである。聖書は絶えず、モーセの出エジプトのさいに示された神の愛と導きを思い返すことを命じている。ユダヤ人とユダヤ教徒はこの三千年の間出エジプトの恩恵を忘れまいとして仮庵の祭りや過ぎ越しの祭りを祝っている。われらは一度受けた恩恵に日々立ち返ることが求められている。忘恩の心の傾き、高ぶりに負けず、詩人は主の戒めと恩恵を感謝する。「悪しき者の謀略(はかりごと)に歩まず、罪びとの道に立たず、嘲るものの座に座らぬ者はさいはひなり。かかる人は主の法(のり)をよろこびて昼も夜もこれをおもふ。かかる人はながれのほとりに植えし樹の期(とき)いたりて実を結び、葉もまた凋まざるごとくその作(な)すところ皆さかえん」(Ps.1:1-3)。
イエスご自身励まし給う。「明日のことを思い煩うな。というのも明日は自らを煩うであろうからである。一日の悪しきことは一日で十分である」(Mat.6:34)。思い煩うことなく今を喜び感謝することは、感情(パトス)の時間論的分析で見たように、天来の清らかな息吹がその愛が放物線の接線に触れるように注がれ、最も現在的な感情実質である愛の喜び、即ち時との和解に留まることによって実現されていた。時との和解があるところ、そこには焦りも後悔もない。不安や恐れという未来により現在が支配されることも、後悔や怒りという過去により現在が支配されることもない。明日や過去の煩いが今日にのしかかってくるなら、その都度仰ぎ見よう、ゴルゴタの丘の十字架を。昼も夜も十字架において顕された神の愛を喜ぼう。懐疑により揺らぐとき、或いは何であれ苦しいことがあり呻くとき、御霊が心の奥底で「言葉に表現できない呻きをもって執り成したまう」(Rom.8:26)。苦悩のどん底においてこそ主は聖霊として共にい給う。イエスは端的である、「汝らは[旧約]聖書と神の力能を知らないから、彷徨っている」(Mat.22:29)。
5探し求めドアを叩き、見出し開かれた記録―留学記―
ここで改めて個人的な経験を振り返り、恩恵を確認することをお許しいただきたい。ここでは先週報告した1984年の回心に続いた、5年間の留学生活について簡単に振り返ることをお許しいただきたい。山上の説教の学びでえた、なんとも簡潔でけれんみのない戒め、ただ地の塩、世の光でありたいという思いだけがこの回顧を導きますように。
1985年春から90年早春まで5年間イギリスに留学した。当時、私はギリシャ哲学を研究し、非常勤講師として哲学やギリシャ語を教えていたが、哲学研究に関し閉息感と無力感に悩まされていた。本場に行き、よいものに触れれば何か道が開けるのではないかという淡い期待をもって、アリストテレス研究の伝統あるオックスフォードに、そこには誰一人知る人もいず、ただJ.Barnes先生からの一枚のsemi officialな手紙を手に鞄一つで、武者修業に飛び立った。ドラマはヒースロー空港到着直後にはじまった。入国審査でお前なんかこの国にいれないという類のことを言われ、ロンドンの場末のユースホステルに潜伏した。正確には二か月のみの旅行者滞在許可であったため途方に暮れた。そのときもらった紙に移民局の住所があり、イースター開けを待ってクロイドンにある移民局にカラフルな人々と列をつくり、ようやく或る条件のもと更新の可能性を得た。そのようなゼロからの英国生活の始まりであった。以下、「オックスフォード便り」という日本の家族や友人に送っていた公開書簡等から探求に関わる所を当時の未熟なままの文章の引用により探求の歩みを振り返りたい(当時のものをそのまま引用し、便宜上繋ぎ合わせるが、今回の説明は[・・]により補足)。
5:1 エルスフィールドの丘
・・[1985年]8月20日の夜9時頃、本[ギリシャ語でルカ福音書]を読んでいると、下宿の呼び鈴がなり、誰かに取りつかれ二階にあがって来られる人がいて、私の名が告げられていました。間もなくノックの音がして「誰だろう」といぶかしがりながら戸を開けると、そこににこやかに立っておられたのは[前便]「夏の陣」でおなじみの長身のディヴィッド・チャールズ先生でした。お顔を見た瞬間に、てっきり先生は議論に来られたのだと思いました。と言いますのも、数日前に7月16日の最後の読書会のご親切なご指導に対する感謝とこの夏取りかかっている『分析論後書』の探究論について、或るインスピレーションを与えられ、この書が従来とは違って新たに矛盾なくそれも従来のアポリアを解決しながら読みうるということを書いて、手紙をさしあげたところだったからです。握手をし、狭い部屋にお通しし、向かいあって席についておもむろに切り出されたその晩のご用件は思いがけないことでした。8月の初めにも訪ねてくださったのだそうですが、不在だったらしく、その後は故郷のウエールズで過ごされ、今日お母様とご一緒に帰って来られたのだそうです。おっしゃるには、アメリカに一年出かけるのでエルスフィールドにある先生の家に住まないかというお誘いでした。この流浪(さすらい)の徒にはこのようなご親切をお断わりする理由はもちろん何ひとつありませんでした。
「今から来ないか」ということで夜の街頭に照らしだされるカレッジの石の変幻な色彩とドライブを楽しみながら、町の中心から東に数マイル離れた丘の上にある数十人の人口の村エルスフィールドに向かいました。車中でこちらで何もお伺しないのに、先生は「僕の父は神学者だった」とおっしゃいました。お父様はマンスフィールド・カレッジを卒業され炭鉱地の組合教会を牧し、またノッティンガムの神学校の校長をしておられましたが、先生が16才の時なくなられたのだそうです。かなり長い坂道をあがりきると、木々につつまれた丘の上にある村エルスフィールドに着きました。この周辺の土地は先生の家を含めすべてクライストチャーチ・カレッジの所有物ということでした。車を降りながら「こんな田舎に住むのは初めてです」と申し上げると「田舎の香もするよ」と返され、そういえばどこからともなく田舎の香水が漂い、兎が飛び出すそんなのどかな村でした。その晩は暗くて解りませんでしたが、数十センチの厚さの傾斜の急な茅葺きの屋根と土色のレンガ壁の二世帯用の長い古風な家でした。腰丈ほどの木柵の門を開けると、ぶどう色のレンガのアプローチが石の外壁をぐるりとめぐり玄関に続いていました。玄関の右手には少し高い場所に芝生と哲学者によって栽培されている野菜畑の庭があります。庭の奥にはイタリア風瓦の少し傾いた物置兼塀があります。
「ハロー、ハロー、マム、恵を連れてきたよ」と大きな朗らかな声で戸を開けられ、白髪の上品なお顔に眼鏡の奥に親しみ深い優しい目をされた老婦人に「恵はルーク(ルカ伝)を読んでいたよKei was reading Luke.」と紹介されたものですから、旧約学者ロビンソン教授に教えをうけ、父と夫を牧師に持つ高校の宗教教育の先生をしておられたお母様ともすぐに心通うものがありました[またスワンジーにあるHallと呼ばれる大学生寄宿舎の舎監、寮長を数年なさいました]。Mrs. チャールズは国の「婦人の会」のウエールズ地方の議長をされ、最近もソ連やドイツに招かれたり、招いたり若々しく活動しておられます。愉快な方で魂の底にすっと入ってこられます。それは常に生にとってもっとも大切なものだけに集中しておられるからでありましょう。
代々神学者、牧師の家系でご先祖はマダガスカル島に宣教に行かれ、『聖書』を現地語に翻訳された時の冒険談などに、何か教科書で学んだだけの歴史が生き生きと立ち現われてくる感を持ちます。「マム」と少し甘えられるディヴィッド先生と「ダーリン」と言って一人息子を誇りにし、息子の働きすぎを気遣う母一人子一人の家庭の暖かさのなかに包まれて、イギリスにまいりまして初めてホームの香を味わい心満たされる思いでした。
翌日もひょっこり6時頃先生があらわれて、アリストテレスの話しをひとしきりしたあとで、再び夕食に招いて下さりました。明るいうちに散歩をしました。近くの16世紀の古めかしい教会はステンドグラスだけが光輝いてひっそり静まりかえっていました。・・それから先生のランニングコースに行きました。先生は22才の時からクライストチャーチで教鞭を取られたとのことですが、学生時代はラグビーの選手で峻足ウイングでいらしたそうです。小麦畑の広がる丘の頂上までは家から1、2分でしたが、そこは360度のパノラマの眺望でした。西の平地には幾多の尖塔が天をさし、町全体をぐいと引き上げているような感じをさせるオックスフォードの緑濃い街並みが見えます。そしてはるかに緑の牧草地と森、畑につつまれた丘のレインジがこのエルスフィールドを中心にして円を描いたようにめぐらされていました。また隣村の散歩コースにも案内されました。先生の昨年夏の存在論と倫理学がひとつとなった著書はこの大地と広やかな光景から生まれたとのことでした。その晩もロゴスと母上の手料理の響宴にあずかりました。・・先生の書斎は石畳のテラスに通じています。[ギリシャ人の友人]パンタジースに「オックスフォードに学者は多いが、哲学者は少ない。ディヴィッドはその数少ない哲学者の一人だ」と言われる37才の若き哲学者ディヴィッド・チャールズの書斎で勉強すれば、ミネルヴァの女神の霊気が残っていて、鈍い頭脳も冴えるようになるのでしょうか。・・この地の人々は惜しみなく教え、与え心にとめられません。先生はこの風来坊に住まいさえ提供してくださいます。私は例えば東南アジアからの学生に何かこのような配慮をしたことがあるかを自省する時、忸怩たるものがあります。人の暖かさにふれて、はじめて自分もそのような人間でありたいという思いが湧くもののようです。・・
・・家庭を持たない私には友情以上に大切で励みになるものはありません。或る時の日記にこうあります。「11月23日(月)友情の一番の慰めは同士の感覚の共有だと思う。同じか似た志を持った者が、その志ゆえに多くの苦悩を味あわざるをえないが、その苦悩や困難に対する理解は、志を同じくするが故におのずと深まり、共に励まし慰めを見い出す時に、この志を持たずには味あうことのできないものであるだけに、その志を持ちえたことを友情の成立の故に感謝する。例えば、哲学、例えば、信仰。この二つが僕の志だ。このふたつの故に、人間的に言えば僕は多くを諦めている。しかし、それと同時にこのふたつの志の故に、同士との友情を楽しんでいる。このふたつの志なしには僕の生は空しいものと化すことを知っている。これらなしには、尊敬すべき人々との出会いもなかったであろう。なぜ友情が励ましかと言えば、同じように戦っている友の姿に力をえるからだ。彼や彼女も僕のこの苦しみを味わっているに違いない。そして戦い、打ち勝っているに違いない。その事実はあまりにも不確かなものに充ちているこの世界のなかで希望の光となる。僕は僕の生をフーフー言いながら引っぱってきた。そして友情において、その労苦が報われているのを感じる。僕はこの友情のために志を捨てまい。時にサタンの激しい攻撃に会う。そんな時に戒めが与えられていることをそのまま感謝する。さもなくば、落ち葉のように僕の生は生の証をもとめ狂奔していたであろう。戒めはそこに生命が充ち充ちているものだ。心の清い者は幸いだ。心の中心を己の欲望や乱れた思いで塞ぐことなく、ぽっかり穴を開けておくこと。その時のみ、イエスが生の中心に据えられる。真の交わりが始まる。友情は心の清い人、心にぽっかり穴の空いている人に与えられる恵みだ。シモーヌ・ヴェイユは言う「友情を求めてはならない。・・友情は、芸術や人生が与える喜びと同じように、たまものとして与えられる喜びでなければならない。・・友情は美と同じく一つの奇蹟である。そしてこの奇蹟は、ただ友情が存在するということにある」。・・
5:2チュートリアル―協働の探求―
・・ 1986年7月の末にディヴィッド・チャールズ先生がアメリカから帰国されました。彼は若々しくなって帰って来ました。懐かしい書斎に入った時、机の上に10数センチの厚さのアメリカで書きためられた『分析論後書』に関する彼の今度の著作の原稿が目に飛び込んできました。ふるえる手でめくると、アリストテレスの本質論、意味論、必然性などを現代哲学の成果を踏まえて論じ、アリストテレスの側から現代哲学者の問題点を指摘する野心的で実に細かな論述に心踊ました。直観的にこの書は今後数年私の研究の水先案内となるであろうことを確信しました。
・・・・ ディヴィッドとのチュートリアルも頻繁にもたれています。ある日の日記にこうあります。「(1987年)10月30日(金)昨日はまたディヴィッドと素晴しいチュートリアル。こんな幸いな日々はない。プロ意識というか、仕事というものがこんなに楽しいということほど素晴しいことはない。云々」。確かあの日は、秋の日没は早くすでに暗くなっていた5時頃から私の新しい説の吟味にとりかかりました。哲学的センスが磨かれるというのは、何か平凡に見える事柄やテクストのなかに、普遍的な問題を見つけうる能力を身につけることと言ってよく、ディヴィッドの忍耐強い指導のもとに彼の目のつけどころを吸収していくにつれ、自分でも次から次へと問いを見つけることができるようになりました。かつてはテクストの不整合その他で行き詰まると困りはてましたが、今はそれを単に文献学的な問いとしてではなく、有益な哲学の問題としてより普遍的に興味深く捕えることができるようになり、問題を見つけるとかえって喜ぶようになりました。世界は問いで充ち充ちています。
その日は7時になっても決着がつかずに、夕食をはさんでその続きをすることにしました。ガウンを引っ提げてディヴィッドはハイテーブルへ、私はローテーブルへと向かいました。私は黙々と次戦の作戦をねりながら食べたので味がほとんどわかりませんでした。ふと目をあげると、ハイテーブルのろうそくの背後にデイヴィッドの謹厳な顔が陰影のなかに浮かんでいました。目があい、お互いに無言のうちに頷きあいました。彼は恰も「恵、腹ごしらえができたら、今度こそ最前線を突破するからな」と目くばせしているようで、武者振いが走りました。その日は結局10時半までかかりました。その後議論に関わるボルトンの論文をコピーすべくコピー室に行きました。彼のところには誰が今何に取り組んでいて、ここがネックになっているだとか、多くの情報とともに、手稿の段階で多くの論文が送られてきます。すると、独身でカレッジにお住まいのブラウン牧師が賛美歌かなにかのコピーにあらわれ、「あれ、ハードワーカーが二人いる」と言いながら入ってきました。ディヴィッドが「先にするかい」と聞けば、彼は辞退されるので、今度は私が「私たちのは地にかかわることで、あなたのは天にかかわることですから」と誘うと、ディヴィッドが「そう、より大事なことだから」と受けられ、和やかな笑いが夜のカレッジにこだましました。
探求と発見(1)「探せ、探せば見つかる」
探求と発見(1)―「探せ、探せば見つかる」―
日曜聖書講義 2020.11.1
1テクスト
請い求めよ、そうすればそれは汝らに与えられるであろう。探せ、そうすれば汝らはそれを見つけるであろう。叩け、そうすれば汝らに戸は開かれるであろう。というのも、請い求めているすべての者は受け取り、そして探しているすべての者は見出しそして叩いているすべての者には開かれるであろうからである。或いは、誰か汝らのうち、自分の子がパンを請い求めているのに、まさか石を与える者はいないのではないか、或いは、魚をも請い求めているのに、その子にまさか蛇を与える者はいないのではないか。かくして、汝らは悪い者であるが、汝らの子供たちには善きものを与えることを知っているなら、天にいます汝らの父はましてやいっそうご自身を請い求める者たちに善きものを与えるであろう (Mat.7:7-20)。
2神の国を探し求める
イエスはここで請い求めること、探すことそして戸を叩くことを命じている。そしてこうするすべての者ののぞみが叶えられると主張している。ここでも尋常ならざる主張に出会う。そしてこれらの問い求めはその延長線上に最終的に天の父「ご自身を求める」ことに収斂する。アウグスティヌスは『告白』冒頭で神に向かって言う。「汝は駆り立てます、汝を讃えることが喜びであるように。それは汝がわれらを汝に向けて創りたまいし故のこと、われらの心は汝のうちに憩うまで安らぎを得ることはありません」。心の探求は神を見出し、そして憩うまで続けられる。何であれ、ひとは請い求め、探し求めるが、実はこれらの探求はすべて天の父ご自身に向かうその方向に秩序づけられている、たとえ個々人にはその自覚がなく山上の説教の教えと反対の道を追求していたとしても。われらは被造物にすぎないからである。誰もが自己の限りあることを認めるが、その有限性の認識は何らか限りなきものへの眼差しをもつことができるそのような心魂の所産である。ひとは自らの存在も宇宙の存在も限りあるものであることを知っている。ひとはやはりその意味で宇宙の栄光なのである。ドストエフスキーは少女の涙を償うことのできるものが、この世に何かあるのかを問う。ひとの悲しみは何ものによっても埋めがたい宇宙の底が抜けてしまうほどに、尊いものなのではないか。この世の何ものによって、それを満たし得るのか、は確実に問われうる問いである。
イエスは山上の説教を天の父にまなざしを注ぎつつ語っている。一切の秩序づけを支えるのは天の父の憐みである。この父の愛は自分の子がパンを求めているのに石を与える親はいないという類比に訴えて論じられる。イエスは対人論法により良心に訴えつつ道徳的次元を突き破ったことをこれまで見てきたが、道徳的次元を超えるものとして自らが神の子であるという信の世界に立っていた。これら三つの命令は「まず、汝らは神の国とその義とを探し求めよ」という命令に秩序づけられる。そこではこう言われていた。「だから、「われらは何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」と言って、汝ら思い煩うな。それはみな異邦人が切に探し求めているものだ。汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、汝らは神の国とその義とを探し求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう」(Mat.6:31-33)。
良きものを父が子に与えるように、与えられるのだから、水臭いことを言わずに父に訴え求めよ。この議論それ自身に何ら不明瞭なところはなく、またこれまでと矛盾するところはない。天の父は一切を正確にご存知であり、われらの必要をもケアしてくださる。その信のなかで、請い求めること、探すことそして叩くことが命じられている。神の国と神が義であることそして神に義と看做されることを探し求めること、そのことに一切の請い求め、探求そしてドアを叩く新たな挑戦が秩序づけられる。
ひとは直ちに反論するであろう、自らの祈りが聞かれなかった人々の事例は枚挙に暇がないと。餓死した人々、戦死した人々、病死した人々、自らの意に反して悲惨な事件が生起し続けているではないか。請い求めたものを与えられることも、探したものを見つけることがなかったことも、新たな挑戦でドアを叩いたが挫折してしまったことも、これらは巷で「夢は破れた」或いは「うまくいかなかった」こととして成功例よりもはるかに多く容易に見いだせることがらではないか。これらの反論は神の非存在ないし、神はいても助けてくださらないことへの懐疑から提示される。これは深刻なそして日々日常の懐疑であると言える。わたしどもはすぐに神の御顔を見失ってしまう。
この懐疑に対する応答としては、さしあたり、「神の国」を求め、そこから一切の必要なものを秩序づけているかが問い直されよう。これまで、超越的な神の国についてはイメージを持ちにくいということもあり、この地上の一挙手一投足において神の国を持ち運んだナザレのイエスをよりよく知ることにより、神の国の実質を知ることができることを学んできた。そして神の義と愛を学んできた。「神の国は汝らの只中にある」(Luk.17:21)とも「二人、三人わが名において集まるところ、そこでわたしも彼らのまんなかにいる」(Mat.18:20)とも言われていた。神の国へのアクセスはナザレのイエスを介して最も適切になされる。われらは彼と共に生きているかをまず自戒する必要がある。そのときわれらに必要なものが何であるか、それまでの自らの判断で必要と思っていたものから変化しているかもしれない。地の塩、世の光になりたいという思いが強まり、請い求めるものが変わってくることもあろう。かつて魅力的に見えたものが塵芥に見えることもあるであろう。山上の説教で祝福されている者たちにこそなりたいと思うことであろう。おのれを離れて隣人を愛し、神に栄光を帰すことを請い求めるよう心の在り方が変容し、認識の刷新が起こることもあろう。
3探求のパラドクス:(ここで「パラドクス・逆説」とは知らないものは知らず、知っているものは知っており双方を繋げる探求は成立しないという通常想定されない主張)
確かに、イエスによるご自身が神の子であるという信の世界に基づき、一切は神様の秩序のもとに服し、低くせられ、この世界に御子が贈られたことにすがり、そのことを喜んでいる、それだけで満たされることもあろう。救いはわれらの心にではなく明確に歴史のなかに打ち立てられた十字架を仰ぎ見るとき、懐疑が消えていくこともあろう。しかしながら、その手前のことがらとして、わたしたちは自分が何を求めているのか、探しているのか知っているのであろうかが問われる。一般的に「幸福」といってもその実質について正確に知ったうえで、それを探求しているのであろうか。よく言われるように「青い鳥」は自分たちの家にそして心の中にいるのかもしれない。何を請い求めているかも知らずに右往左往して人生が終わってしまうならまことに残念なことである。その問いが不明瞭なときに、たとえその答えにであったとしても自らが求めている問いの答であるということを知ることができないのではないかという問題である。ひとは知らないものについて、知らないのだから決してその知らないものについて知るにいたることはないという、古来「メノンのパラドクス」や「探求のパラドクス」と言われてきたものである。
ひとはまず語Xの意味の理解から初めて、Xの存在や本質の探求に向かう。そしてまず語Xの意味は言語共同体において親が子供に言葉を教えるように伝えられていく。それが探求の手がかりを提供する。だからパウロも言う、「それでは、信じることのなかったその方にいかにひとびとは呼びかけるであろうか。聞くことのなかったその方をいかに彼らは信じるであろうか。しかし、宣教する者なしにいかに彼らは聞くのであろうか。しかし、遣わされなかったなら、いかにひとびとは宣教するのであろうか。まさにこう書いてある、「いかに麗しいことか、よきことを告げる者たちの足は」(Rom.10:14-15)。
イエスご自身は山上の説教の展開においてイエスご自身が探求の最終ないし完成段階におり、神の国がいつくるかは父にしか分からないと言いつつも、神の国について知識を持っている立場にある方として群衆を導いておられる(Mat.24:36)。もちろんイエスご自身肉の弱さを抱えていたため、ゲッセマネの祈りや十字架上の叫びに見られるように、心身の極度の苦痛のなかで、糞尿にまみれ、明確な知識を今・ここで保持していくことが困難となり一時的に曇らされたかもしれない。また天の父を否定すべくデヴィルの最後の誘惑を経験されたでもあろう。「「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」。少し進んで行って、うつ伏せになり祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心(みこころ)のままに」」(Mat.26:36-39)。しかし、天の父は御子の甦らしを介して、イエスがその死に至るまで信の従順を貫き正義であったことを証しておられる。探求し発見した者は知者となる。他方、懐疑に沈む者はおのれの判断基準から逃れることができず、いつまでも循環を繰り返す。神はいるのかと問いながら、自ら真理の最高裁判所の席に座り神を尻にしいて周りを見回して、「神は見つからない」と言い続けている。決定的に重要なことは懐疑が喜ばしい探求に変わるかということである。自らの理性を裁判官とすることなくその席を降りて、厳と秩序をもって存在している世界と宇宙の前に膝まづくことである。「諸々の天は神の栄光を顕し、大空は御手の業を知らしめる」(Ps.19:1)。
4 探求項目と過程
ここでは探求論と呼ばれる、ものごとを尋ねそして知るに至る手続きについて個人的な探求を振り返りながら確認したい。この七章の箇所は子供のころの記憶につながる。父と野球をしていて、ボールをうしろにそらし藪にはいってしまうと、後方から野太い声で「探せ、探せば見つかる」という励ましを聞いていたことを思い出す。実はその後の私の人生はこの言葉に導かれたと言ってよい。探し求めること、そして見出すこと。わたしは何を探していたかもわからない時期を過ごした。ニヒリズム即ちこの世界に何も確かなものはないのではないのか、偽りで満ちているのではないかという懐疑に囚われていた。私は揺るがない確かなものがこの人生のただなかにあることを探し求めていた。それは一般的には「求道者」と呼ばれる段階であろう。私の懐疑の暗い日々のなかで、私の学問生活はアリストテレスの『分析論後書』における探求論の研究から始められた。
長い学生生活はギリシャ語テクストとの格闘に注がれた。私の修士論文も博士論文もアリストテレス『分析論後書』における科学的知識と探求の理論についてであった。未だに駆け出しのようなものであるが、アリストテレスのテクストに長く携わっていると、分かったときには(一体そういうことがあるとして)、彼はこれ以外の仕方ではこの事態を表現できなかったというそのギリギリの緻密さが分かるそのような感覚に捉われるようにはなってきた。逆に或る翻訳を見てアリストテレスはそんな緩いことを書くはずはないと思って見直すと誤訳であったりすることがしばしばおこる。この堅固なテクストの研究により懐疑が喜ばしい探求に変容したことは、僥倖であったと思う。もちろん今でもひとりの探求者でしかないが、ことあるごとにブレークがおき、世界に確かなものがあるというそのことだけで嬉しいそのような日々となった。
何かを問うとき、最も明らかなのは、自らが問うていることが何であるかを明確に認識することである。その第一歩は「美しくアポリア(行き詰まり)を提示する」ことである。思考を前進させる第一歩は自らの問いや自らが陥っている窮状を正確に知ることであり、そのうえで、人生が何のためにあるかという類のbig questionではなく、手前の一つ一つの結び目を明らかにし解(ほど)いていくことである。換言すれば解のある問いをその都度立てることが求められている。
アリストテレスは『形而上学』においてこう述べる。「困難を乗り越えようと欲する者にとっては美しくアポリア・行き詰まりを提示することが有益である。というのも、後の乗り越えは先に立てられたアポリアの解であり、足枷を知らない者にそれを解くことはできないからである。思考におけるアポリアはものにおける足枷を表わしている。つまり、ひとはアポリアに陥っている限り、その点で足枷を架けられている者と平行状態にある。どちらの場合にも先へ進むことはかなわない」(Met.III1.995a27-33)。
ひとは自ら問うていることがらを明晰に自覚しているのでなければ、たとえ答えに出会ったとしても、それが自ら問うているものの答えであるとは気づくことはないであろう。病気が治り健康になったひとが、健康がこんなに素晴らしいもの、軽やかなものであったのかを再認識するように、自分で自らの心魂に不必要な足枷を掛けてしまっていながら、それを足枷とも認識せず、そのような状況が正常であると思っていることがある。そういうものが人間であると勝手に思い込んでいるのかもしれない。解放されてみて、こんなに足というものは軽いのかという認識や何であれ自ら盲目にされ隷属させられていたことを知るそのようなことはあるであろう。探求とは解はあるという信のもとでの解放に向かうことであり、これまで数か月学んできたように神に明らかなことが各人の良心にも明らかになる共知の探究である。
パウロは自然的な生命原理である肉の底に、良心により何等か結合される「内なる人間」(Rom.7:22)と呼ばれる神と関わる心魂の部位について語るが、わたしどもはその内なる喜ばしい部位を知らずに過ごしているのかもしれない。自己の探求においても、宇宙の探求と同様に、美しく問うところにのみ、アポリア・行き詰まりを明晰に提示する限りにおいて、思考の確実な前進が期待できる。探求であり、美しく問いを提示する限り、それは答えのある問いであり、そして答えの発見は次の問いを備えるであろう。
ここでは私がアリストテレス研究に捧げることになった文章を紹介しよう。彼は探求の項目と過程を論じる箇所で、「ケンタウロスや神は存在するか」を事例として挙げる。そのとき背筋がゾクゾクとしたあの40年以上前の感覚を覚えている。彼が私と同じ問いを持っており、この探求論を理解すれば、神を知ることができるのではないかとそう思った箇所である。『分析論後書』II巻の第1章を私は「探求の四項目と発見的探求」と名付けたが、探求論は発見の視点から展開されることが重要な論点である。
[89b23]探究されるものごとは、われらが学的に知る限りのものと、数において等しい。われらは四つのものごとを探究する、即ち、「[Ia]~ということ(事実)」、「[Ib]それ故に~ということ(理拠)」、「[IIa]あるか(存在)」そして「[IIb]何であるか」である。例えば、「[Ia]果たして太陽は蝕を蒙るのか、蒙らないのか」という仕方で、「[Ia]果たしてこれであるのか、それともこれであるのか」と数え挙げて探究する時、事実を探究している。事実の探究があるということの証拠は、太陽が蝕を蒙るのを発見して、探究をやめるということにある。太陽が蝕を蒙るということを始めから知っているなら、われらは「[Ia]果たして~か」を探究することをしない。ところで、事実を知っている時、われらは理拠[理由根拠]を探究する。例えば、月が蝕を蒙るということを、或るいは地球が動いているということを知って、月が蝕を蒙る理拠を、また地球が動く理拠を探究する。かくして、われらは、これらについてはこのように探究するが、他方、或るものどもについては別の様式で探究する。例えば、「[IIa]果たしてケンタウロスや神はあるのか、それともあらぬか」という仕方で探究する。私は「[IIa]~はあるか否か」ということで、「端的に」それが存在するか否かを語っており、「それが白であるか否か」を語っているのではない。われらはそれが存在することを知って、何であるかを探究する。例えば、「[IIb]神は何であるか」、或るいは「[IIb]人間は何であるか」を探究する。
[二章は朗読を割愛しますが、以下のように展開されます]。
[a] [b]
[I] SはPであるか? → なぜSはPであるか?
[II] Sは存在するか? → Sは何であるか?
[I&II] 中項[M]は存在するか? → 中項[M]は何であるか?
[第2章 言語上導出される二つの探求行路と中項の探求の同定ならびに探求対象の存在論上の三分類
[89b36]かくして、われらが探究する事柄とわれらが発見し、知る事柄はこれらでありそしてこれだけの数である。しかし、事実そして端的な存在を探究する時、われらは「[I&IIa]果たしてその中項が存在するか否か」を探究している。事実或るいは存在を知って、つまり、[Q1]「部分的に」或るいは「端的に」知って、[90a1]新たに「[Ib]何故にか」或るいは「[IIb]何であるか」を探究する時、その時われらは「[I&IIb]中項は何であるか」を探究している。私が「事実」或るいは「存在」を(Q1)「部分的に」そして「端的に」ということであると言うが、一方、部分的にということで「[Ia]果たして月は蝕を蒙るのか、或るいは大きくなっているのか」を意味している。他方、端的にということで「[Ib]月や夜は存在するか否か」を意味している。[a5]従って、すべての探究において、「[I&IIa]中項は存在するか」或るいは「[I&IIb]中項は何であるか」を探究しているということが帰結する。というのも、中項は根拠であり、あらゆる探究において根拠が探究されているからである。「[Ia]果たして[月は] 蝕を蒙るのか」[即ち] 「[I&IIa]何か根拠は存在するか否か」。これらの問いの後に何か根拠が存在することを知って、それでは「[I&IIb]それは何であるか」をわれらは探究する。これやあれではなく、[a10][Q2]「端的に」実体が存在することの根拠、或るいは端的にではなく、自体的な内属性或るいは付帯的な内属性の「何ものか」が存在することの根拠は、中項である。[Q2]「端的に」と私が言うのは、例えば、月や地球、太陽或るいは三角形のような、基体のことである。自体的内属性の「何ものか」とは蝕、[三角形が] 等辺か不等辺かのいずれか、[天体が] 中間にあるかあらぬかのいずれかである。というのも、これらすべてにおいて[a15]「[IIb]何であるか」と「[IIa]何故にか」が同じであることは明らかだからである。「[IIb]蝕とは何であるか」。「[IIb]地球の遮蔽による月からの光の消失である」。「何故に蝕があるのか」、或るいはむしろ、「[Ia]何故に「月」は「蝕を蒙る」のか」。「[IIa]「地球」が遮蔽することによって、「光」が「消失すること」の故にである」。「[IIb]ハーモニー[調和音]とは何であるか」「[IIb]高音と低音における数の比である」。「[Ib]何故に「高音」は「低音」と調和するのか」。[a20]「[Ib]「高音」と「低音」が「数の比を持つこと」によってである」。「[IIa]果たして高音と低音は調和することがあるのか」。「[I&IIa]果たしてそれらの音のあいだに数における比は存在するのか」。われらはそれが存在することを把握して、「[I&IIb]それではその比が何であるか」を探究する。
探究が中項についてであるということは、中項が可感的なものである場合に明らかである。[a25]というのも、われらは感覚的認識を持たない場合に、例えば、蝕について、それが存在するか否かを探究するからである。もしわれらが月面にいたなら、蝕が生じるかどうか、さらには何故に生じるかも探究することはなく、それらは同時に明らかであったであろう。即ち、感覚するということから、普遍を知るということもわれらに生じたであろう。というのも、一方では、今、地球が遮蔽しているという感覚があり、そして今、月が蝕を蒙っているということが明らかであろうからである。[a30]他方では、このことから普遍が生じたであろうからである。
かくして、先に述べたように、「[IIb]何であるか」を知るということと[Ib]「何故にか」を知るということは同じことである。このことは「端的に」あるものでありそして内属するものどものうちの何ものかでないものである場合においても、或るいは内属性のうちの何ものかである場合、例えば二直角であること、或るいは、それよりも大きい角または小さい角であるということ、においても[ 同様 ] である。]
5探し求めドアを叩き、見出し開かれた記録―回心記―
ここで私自身の歩みの中で、請い求めそして探し求め、ドアを叩いて発見し、開けてもらったその個人的な体験として、今回と次回私の回心の経験と留学経験について語ることをお許しいただきたい。毎週日曜ごとに取り組んでいるテクストに関して偽りのないことを語ることは一つのとても困難な課題である。とりわけこの春からはじめて仕事として聖書講義をするようになって、その責任の重さがこれほどまでなのかを実感しつつ、伝道者や牧師の方々のご苦労にようやく思いをはせるようになった。私が師事した関根正雄先生が或る時、おのれに死なずに日曜の聖書講義をしたことは一度もないと言われたが、土曜の夜祈りのなかで夜が明けることが多かったようである。これまで体験を語ることを避けてきたが、実際に起こったことを報告することは福音の一つの証という位置づけとなるであろう。その体験の受け止め方は多様であっても、歴史のなかに生じたことがらの報告としては偽りのないものであり、個人的に受けた恩恵を思い出す機会とすることをお許しいただきたい。回心のとき、「これが、人々が連綿として語ってきたあの聖霊というものか」と私は独り言を言ったが、聖霊に初めて触れたのであったと思う。もし「聖霊」という言葉を知らなければ、私は少なくとも自らのこの平安と静かな喜びに名前をつけることも、人類と聖書の歴史のなかにこの体験を位置づけることもなかったことであろう。
探求においては、少なくとも語句の意味を知っておくことが必要であり、そして探し求めようとすることによって発見に至るかもしれないそのようなことがらである。わたしは新しく生まれ変わったと自らの経験を捉えるにいたった。今日はこの回心の記録を恥ずかしながら紹介することをお許しいただきたい。
1984年2月になったばかりの寒い夜に三田のアパートで回心を経験した。10年生活した学生寮春風学寮は改築のため、退去していた。追い詰められ、絶望的な状況のなかで、「信じます」と心の底からはじめて告白しひれ伏したとき、私の内奥が暗黒から光明へ、苦悩から「一切の叡知を超える神の平安」(Phil.4:7)と光がわたしの心に差し込み平安へと次第に別の世界に移される経験をした。それは「御霊の呻き」と題して「おとずれ 64 特集 関根正雄先生伝道50年」(2000.1)に掲載いただいた。回心後10数年たってから1998年に回顧したその文章をここに記す。
「御霊の呻きー覚書―」
この夏[1998]のある日の午後、ふと手にした哲学書の背表紙の内側に1984年6月10日と記された自筆の文章を見い出した。
こうゆう夜は愛する人とそこはかとなく語りあいたい。日曜の深夜、雨がシトシト降り、道ゆく車も数少なく、バッハのパルティータが軽やかに聞こえてくる、こんな夜。ギリシャ教父のお話しもとってもうまくでき、関根先生とも八時間もともにおり、エクレシアにつらなる喜び、一人ではないという喜び、公的に神の民に属しているという喜び、私の一挙手一投足がエクレシアの故に神の国の前進の戦いに参与しているという喜び。私の生が無意味ではないという喜び。
この鉛筆書きに触れ、記憶の小箱が開けられたかのように、そのころの思い出が甦ってきた。その冬のある夜を境にして、その後日記には毎日のように「平安」「平安」という字が通奏低音のように書きつけられ、「ああうれしわが身も主のものとなりけり」(賛美歌529番)が自づと口をつく日々となった。その夜は私の新生の時となった。その当時の静かな喜びの感覚がそのまま甦ってきた。1983年のある晴れわたった秋の日、関根正雄先生から一枚の葉書を頂いた。森有正から教わったというアウグスティヌスの言葉が引用されていた。「誤った広い道を大手を振ってのし歩くより、正しい小道を [当時の言葉で] びっこをひきずりながらトボトボ歩くほうがはるかにまさる」。関根先生の千代田無教会集会にコンスタントに出席するようになって8年、28歳の秋私は将来の何の見通しもなく、哲学の研究を大学院で続けながら、己の罪との苦闘を強いられていた。こびりつく悪さの感覚、人生をまっとうできないという不安、愚かさに対する失望、最後のところ何も確かなものはないというニヒリズム。私は当時このような自分なりの現実を背負って、人生に前と後ろがあることも知らずに、あてどなくトボトボと足をひきずりながら歩いていた。
年があらたまり1984年の2月になったばかりのある寒い深夜、私は平伏して、生まれて初めて心の底から、追い詰められ他に逃れ場のない苦しみのなかで、呻きつつもハッキリとした声で「信じます」と応答した。その時、胸の奥の心の底が抜け、聖霊としか言いようのない何か確かな平安がその穴のあいた心の底から全体にじょじょに広がっていくのを経験した。パウロの「すべての人の思いにすぐる神の平安」が出来事になった(「ピリピ」4:7)。その時から、『聖書』が自分の書になった。パウロの書簡や詩篇、イザヤ書が自分で書いたように理解できるように思え、いたく驚いた。霊の言葉は霊によってのみ理解される。『聖書』がそれによって書かれている同じ霊に触れたことがほどなく理解された。そこを掘ればいつも恵みが泉のようにわきあがる場所を見い出したと言える。これは恵まれた体験であり、それまでの混沌とした生から抜け出し、新しい生のはじまりであった。そしてその静かな喜びは「古典への招待―聖書の場合―」という連載作品を生み出した。今でもあの作品の一行たりとも喜びなしに書かなかったことを覚えている。先生は一年後、留学のご挨拶に伺うと、「あれは神学的回心だったと思う」と感想を述べてくださったのは、「古典への招待」をお読み頂いたことと無関係ではないと思う。しかし、何故にか「古典への招待」においてはその夜のことを書くことはできなかった。アウグスティヌスは回心の経験が探究の出発点となり、自ら体験したことのロゴスを自己の探究という仕方で紡ぐことになったが、私にとってもこの世界に確かなものがあるというだけで喜びであるそのような体験であったが、自分において出来事になったことが何であるかをロゴスとして捕らえるには相応の時を必要としていたのであろう。ルターやバルトも汲めども汲み尽くしえない恩恵の泉を生涯かけてロゴスに代え、その上に生を築いていったのであろう。ルターは「聖書のすべての箇所は無限の理解に対して開かれている」と言う(WA.4.318,40)。
今、あれから14年半が過ぎ、あの日の出来事をふりかえると、あれはエクレシアのなかにおいて起こった出来事であったことが理解される。集会に連なり日曜ごとに関根先生の聖書講義を拝聴した。先生のお話しは若い定まりなき心には、時に新鮮な感動をもって、時に激しい神の怒りの言葉として迫り、日常の生において最大の関心と規範とならざるをえない仕方で集会が私の心を占めていた。あの日々なしに私にあの恵みが与えられたかどうかは、疑わしく思っている。少なくとも、自己と他者をごまかし、神にも偽りであり、あわれみを知らず定かならざる生をしばらく続けていたであろうことは、ほぼ確実に言えることである。今となって、集会に通った十年がどれほどの恵みであったか、その後の生において大きな財産となっていたかが、はっきり認識される。
先生の著作集第一巻に『聖書の信仰』と題される、月刊誌『預言と福音』の1950年5月から1979年6月までの巻頭言を集めたものがある。これを私は繰り返し拝読するが、この夏一つの発見をしたように思える。一文一文がほとんど人間が語りうるギリギリのところから凝縮された形で述べられ、一言一句おろそかに詠むことのできない文章の集まりであるが、先生の言葉のほとんどすべてがある特別な場所から紡ぎだされているように思われた。それはキリストの十字架の低さと言ってもよいが、より的確には御霊の呻きにあわせられて言葉が生まれてくるように思われた。そこから生きることと苦しむことの重ねられることの多い先生の文章を拝読するとき、よく理解できるように思われた。それに思い当たった後に著しい言葉に出会った。「真剣さ」という巻頭言(1968.10)の最後に「御霊の呻きの執り成しこそわたくしにはすべてなのである」と述べられていた。常に明晰で曖昧さのない文章の集まりのなかではあるが、これほど断定的にご自分の「中心的な信仰の支え」(『著作集』20巻422頁)に関して述べておられる箇所を他に見い出すことはできない。先生におかれては「御霊の呻きの執り成し」が真実にすべてであったのだと思われる。それはつとに「矛盾」(1952.8)や「御霊の呻き」(1954.3)に明確に見られる。
ルターには「神の義」が彼の信仰把握の中心点であった。ルターは『ローマ書』1章17節について「わたしは昼も夜も思索していたが、ついにわたしはそこで神の義を、義人が神の賜物によって生きるところの、すなわち、信仰によって生きるところの義として理解し始めた。・・ここでわたしはまさに生まれ変わったように感じた。そして開かれた門を通ってまさに天国に入ったように感じた」と述べている(WA.54.186.3)。そのように、関根先生には「御霊の呻き」が中心点であるように思える。先生は三巻にわたる『ローマ人への手紙講解』のあとがきを「朝な夕うめきに答えみ霊なるみ神この身に満ち給うなり」という歌で結んでおられる(『著作集』第20巻430頁)。私の恵みの体験は、実は日曜ごとに先生が御霊の呻きにあわせられて聖書の講解をされているなかで、起こったことだったことが伺える。
確かに私はあの時、自分に絶望し破滅以外にない自分なりのどん底に落ち込んでいた。日曜ごとに、イエス・キリストが神に見捨てられ、激しい神の怒りを受けて十字架上で死んだことと、十字架上のイエスにおける神のなさ、低さにわれわれがあわせられる時に信仰が神のまったき恩恵として与えられることが語られていた。神の愛と神の義が集中している究極の場所が十字架である。「エリ、エリ」のイエスの叫びは御霊の呻きであり、その時御霊により父なる神に執り成しが行われていたのであった。私も、他にすがる場所のない一番低いこところに落ちた時、私の呻きは御霊の執り成しの言葉だったのだと思う。なによりも義なるイエスの十字架の低さにあわせることが御霊の呻きによる執り成しであると言えよう。なにであれ苦しいことがあり呻く時、そのただなかに御霊の呻きの執り成しを聞くことが、信じることであるとも言えよう。苦難や悲惨や罪のあるところ、そこにキリストは御霊として共に呻いてい給う。そして十字架のイエスは復活の主であり給う。被造物全体が呻き、そして御霊の実を持つわれわれも呻き、そしてそれらの呻きのただなかで「御霊みずから、言葉にあらわせない切なる呻きをもって、わたしたちのために執り成して」おられる(「ローマ書」8:26)。これは福音である。喜びの音信である。
最近、集会の量義治先生が1972年に御霊の呻きの執り成しにおいて回心された報告を拝見し、時を貫きエクレシア全体において御霊が分かち与えられていることに深い感謝を持つ(量義治『無信仰の信仰』59頁)。そのことを或るひとに話すと、「関根パラダイムのなかで回心が起こるのだね。祝福されたことだ」と応答したが、まさに祝福されたことだと思う。被造物全体が贖われることを求めて呻いている、この人類史上最も難しい時代に、その呻きのただなかで御霊がともに執り成していてくださるとは、なんと感謝すべきことであろう。1998年9月24日 千葉惠」
[註、森有正の典拠についてはアウグスティヌス『省察と箴言』ハルナック編、服部栄次郎訳、岩波文庫272頁参照。「古典への招待 I-IV」(1984-1985)は北大図書館電子レポジトリHUSCAPにより閲覧いただけます。URIは以下です。http://hdl.handle.net/2115/16875 ]