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「豚に真珠」

「豚に真珠」

                                                                                                       日曜の聖書講義2020年10月25日

1テクスト

 「汝ら裁くな、裁かれないためである。というのも、そこにおいて汝らが裁くその裁きにおいて汝らは裁かれるであろう、そしてそこにおいて汝らが測るその測りにおいて汝らに測り与えられるであろうからである。何故、汝は汝のきょうだいの目にある塵を見るのか、しかし汝の目にある丸太に気づかないのか。或いはどうして汝は汝のきょうだいに言うのか、君の目から塵を取らせてくれ、と、見よ、汝の目の中に丸太がある。偽善者よ、まず汝の目から丸太を取り出せ、そうすれば汝のきょうだいの目から塵を取りだすべくはっきりと見えるであろう。

 聖なるものを犬たちに与えるな、汝らの真珠を豚たちの前に投げるな、彼らがそれらを自分の足で踏みしだくことがないようにまた向き変って汝らを打ち倒すことがないように」(Mat.7:1-6)。

2「裁くこと(krinein)」と「識別すること(dokimazein)」

 今日は犬と豚の話である。この春からずっと恐れていたパッセージについに到達してしまった。「聖なるものを犬たちに与えるな、汝らの真珠を豚たちの前に投げるな」。この言葉は私の脳裏にたびたび思い起こされてきた一節である。この一節が直ちに連想させるパッセージは「ヘブル書」の「生ける神の御手に陥ることは恐ろしいことである」(Heb.10:31)というものである。この言葉はまず聖書を教える立場にある者、説教者に向けられる。わたしがここで描かれる犬であり豚であるのではないか。聖なるものを穢してしまっているのではないか。神は「聖なる、聖なる、聖なるかな万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う」(Isaiah.6:3)と、そして「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。汝が畏るべき方は主、御前に慄(おのの)くべき方は主」(Isaiah.8:13)と、イザヤにより賛美されたその方である。そのイザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは穢れた唇の者。穢れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は主なる万軍の主を仰ぎ見た」(6:5)と言う。ときどき、このような穢れた者がこのように聖なる方について何か語ることが許されるのかと思わされる。そのとき、十字架を仰ぐ、われらはこの聖なる宇宙の栄光なる神に、受肉した御子を通じてアクセスすることが許されていると、そして栄光を棄てひととなり信の従順によりご自身の一挙手一投足を通じて神の国を持ち運んだ方であると。

 この箇所は、一般的には、福音の権威を理解せず、反抗する者たちにたいしては、警戒せよそして福音を安売りするな、彼らは聖書を学ぶ機が熟していない、福音とその宣教を蔑ろにしまた攻撃するそのような者を相手にするな、と理解されることがある。福音を受け取る機が熟するとはどのような状態にあるものなのであろうか。人間にそれが判別できるのであろうか。

 登戸学寮は寮の基本方針として福音のもとに運営される。単なる営利目的のアパートのようなものではないと言われる。日曜の聖書講義を義務として負う管理者そしてここに住む学生諸君もこの基本方針のもとに共同生活を過ごす。管理者側に福音を語る機が熟していないということがあるであろう。寮生側に福音を聞く機が熟していないということがあるであろう。語る側の条件とは何であろうか。聴く側の条件とは何であろうか。われらは皆ここで描かれる犬や豚であった場合、この学寮は成り立ちゆかないということであろう。それでも続ければ「偽善者よ」と叱責を受けることになるであろう。そのような緊張のもとにあることは事実である。

 わたしはこの春赴任の際に、何はなくとも福音を喜んでいよう、毎日罪の赦しを喜んでいようと心に定めて来た。また、この日曜の聖書講義は様々な意味においてまことに不十分なものであることも認識しているが、聖書を正しく引用している限り、それは何らかの仕方で伝わるであろうという信念のもとに話をしている。また聞く君たちについては、たとえ今まで聖書を読んだことがないにしても、20年生きてきているならば、正しく聖書の話をしている限り何らか伝わるであろう、み言葉を心に蓄えること、それが若者には重要だという信念のもとにある。

 今日のテクストにおいてまず確認できることは、「裁くな」という文脈のなかで、聖なるものを犬にやるな、真珠を豚にやるなと語られていることである。或る種の人々が犬や豚になぞらえられており、「裁くな」と言われたその舌の根の乾かぬうちに、見下したような言葉にであい、躓きとなることであろう。しかし、犬にはドッグフードが豚には牧草が与えられるべきことには誰もが同意しよう。野の百合空の鳥を見よと言われるイエスは当然犬や豚にたいする神のケアをも説くことであろう。

 しかし、問題は実際の犬や豚ではなく、ここでは犬や豚になぞらえられる人間について議論されていることである。彼は山上の説教においてパリサイ人に容赦しないように、聖なるものや真珠の価値を理解しないこれらの動物になぞらえられる人々にも容赦はしない。イエスは彼らがどのような状況にあるかを正確に識別する。彼は「鳩の如く素直に、しかも蛇の如く聡くになれ」(Mat.10:16)と促す。パウロも「自ら識別することがらにおいて自らを審判しない者は祝福されている」(Rom.14:23)と言う。例えば、このひとは次にこのような行動を取るだろう、どう対処すべきであろうかという思案のもとに、ひとは識別して生きていかざるをえない。地の塩、世の光たるべく、そのつど最善の行為が選択されることが求められている。イエスはこの識別をたとえ話で伝える。

「汝らのうち誰か塔を建てようとするとき、資金が完成にもたらすかどうか、まず腰をすえて支出を計算しない者がいるだろうか。それは土台を築いただけで完成するだけの力がなく、見ている皆が彼を嘲り始めて「この男は建築を始めたが完成できなかった」と言うことがないようにするためである。或いは、誰か王が他の王に戦争を始めるべく進軍しているとき、まず座って、彼に二万の兵とともに向かってくる王に、一万の兵で応戦できるかどうか熟慮しないであろうか。できないなら、まだ敵の王が遠くにいるとき、使者を送り休戦に向かうことがらを尋ねることであろう。このように、汝らのうち自らに属しているあらゆるものごとに別れを告げない[apotassetai(renounce)棄却する、断念する]者は誰でもわたしの弟子であることはできない」(Luk.14:28-33)。

 ここでイエスは彼についてくる者たちに識別の正しさを求めるなかで、ご自分の弟子となる覚悟ないし自己認識がいかなるものであるかをも識別するよう伝えている。ちょうど塔を建てる者が自ら持つ資産について計算するように、福音に従う道は全身全霊をイエスにかける者であることの識別が求められている。「ここに福音の権威があり、福音の躓きがある。機が熟していないとき、双方に言い分はあるであろうが、争いや裏切りとなり、それは宗教の歴史において分派や異端などとしてしばしば目撃されることである。一方は自分が最も大切にしているものが、踏みにじられ、侮辱されているという感覚を持つ。他方はその熱さに、押し付けを感じ、身を引くか、偽りを嗅ぎだし嫌悪する。そのようなことは起きてきた。趣味や気質の齟齬や反発であれば、やり過ごすこともできようが、心魂の根底に関わる、永遠に関わる宗教をめぐって争うとき、ひとは深く傷つく。共同生活をめぐってもこれは或る程度避けえないことであろう。

3古い書類袋からでてきた一通の手紙

学寮においても日常生活を共にするなかでの聖書講義をめぐって争いから無視にいたるまでの多くのパターンが考えられる。過日、古い書類の束から一通の手紙がでてきたので、ご紹介したい。もう時効であろうから許容されるであろうと判断する。寮長(X先生)と思想上の軋轢で寮をでた学生(Y氏)が寮の後輩に送った手紙である。

 「どうもX先生の考えをあまり高く評価することができず、あちらこちらをさまよっておりました。一時は主観的なイデオロギーをひねくりますことをきらって、実定法や制度研究に没頭した結果、司法試験や上級公務員採用試験も通りましたが、やはり人間が人間として生きていくためには、信仰が必要だと言い切ることはできませんが、何らかの価値体系、換言すれば信条に立脚することが必要であり、かかるエトス[涵養された精神性]なり、価値体系を深く吟味することは青年期だけではなく一生を通じて非常に重要であります。信仰というものは、超現世的なものであり、その妥当性を正当化するためには神という超越的な権威の人格化したものが要請されるものであります。そして信仰は自己が絶対不変の永遠の真理であることを主張するため、他の価値体系と激しく衝突し、壊滅させることを要求します。

 このような戦闘的性格は原始クリスト教において特に顕著であり、そこへの復帰を唱える無教会主義においても強烈であり、X先生もその人となりとあいまって非常に戦闘的であったような気がします。しかし現代文明は、人間を最高の価値とし、超越的なものを認めないということがその特徴であります。ある特定の超越的イデアを信奉することは、その人についてみれば人生の支えとなり、生き甲斐ともなることがあり、非常に有益なこともありますが、しかしその人のおかれている状況の独自性を忘れ、一般的に妥当すべきものと考えることは非常に危険であります。しかし信仰は本来絶対の真理たらんと欲するものであるため、ちょっとしたことによってその危険におちいることがあります。そのため、或る人のいう真理の内容を聞くことのみに専念して、その「A」なら「A」という信条を、くりこみ理論によって棚上げし、その信条がなぜ要請されるか、あるいはいかにして成立したかということを吟味しなければなりません。私が登戸学寮にいたころ、政治学のゼミ(Z先生)のテーマが自己偏満というもので当時考えが至らず、理解できませんでしたが、いろいろ見分を広めてみますと、結局次のようなことであるようです。「A」という命題を証明できないにもかかわらず(つまり「嘘」である)あたかも証明できたのかのように断定してしまう場合(人に演説することは断定した形で述べなければ効果がないから)、それが度重なると、自分でもいつのまにか証明したかのような気になってしまって「嘘」であることが自覚されなくなるという過程をいうものである。このような価値判断についての考察はマックスウェーバーによって問題提起され、現代は政治学が問題としてとりあげています。ゾレン(当為)とザイン(実在)の区別です。・・・本年3月についにやめられたということのいきさつについて知りたいと思いますから、詳細にお知らせください。またX先生がやめられたのは、おそらくその考え方が多くの人とあわなかったからであろうと推測しているのですが、今度のZ先生というのはどういう考えの持ち主でしょうか。一度出た人がなかなか戻ってこないというのは、出た人のだいぶぶんが、あまり感銘を受けることがなく、本当に有意義だったと思うことがすくなかったからであると思います。・・・・」。

 厳しいご批判である。つきつめれば、寮長X先生の性格が戦闘的であることもあいまって、寮長の聖書講義ならびに指導は偽りであると主張しておられる。双方に言い分はあるであろう。寮長からすれば、手紙の書き手Y氏は自らの罪に砕かれておらず観念的、批判的であり、まだ福音を聴く心の準備ができておらず、機は熟してはいないと言うであろう。Y氏は寮長が個人的な見解を「一般的に妥当すべき」とし普遍化させ自らと超越的な真理を癒着させており、自らの「信仰」が「絶対不変の真理」であると自己陶酔に陥った偽り者であると言うであろう。それは「非常に危険なこと」だとしている。ただし、寮長がこの春学寮を去ったことを聴き及ぶにつけ、他の寮生の見解を確かめて自らの認識の正しさを証明したいという思いに、確信のなさや不安も垣間見える。

 似た者同士が往々にして衝突するのは、自らに重要と思えるそしていつも気にかかるそのことがらに思いを馳せている、そのような規準が測りとなり、その点でそれぞれ自らより劣っていると思われる相手に適用されることになるからである。両極とその間はひとつの物差しで測られる。ここで元寮生Y氏が手にしているもの差しは単純に言えば神の「超越」性、「超現世性」、彼岸性と人間の現実性、現世性、此岸性(しがんせい)のあいだに置かれている。彼Y氏は自らの立場を「現代文明は、人間を最高の価値とし、超越的なものを認めない」という立場に立っていると思われる。その物差しからすれば、存在しないはずの超越性に寮長は自己を癒着させ、自己尊大化のもとに「他の価値体系と激しく衝突し、壊滅させることを要求」しているように受け止めたと思われる。

 激しい思想上の戦いがここに見られる。実際、激論が交わされたことであろう。戦闘的なひとには戦闘的なひとがぶつかることは、よく見られる現象である。先に学んだように裁く者同士は「同じことをしている」。パウロは言う、「すべて裁いている汝、ひとよ、汝には弁解の余地がない。なぜなら、汝は他人を裁くそのことがらにおいて、汝自身を罪に定めているからである。というのも、汝裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。相手に対しこれ、例えば自己理解の普遍化、をするから善くない、その反対は良いという主張は業の律法に即したものである。同様にY氏の報告が含意するところによれば、X先生はキリスト教の教えは絶対的真理であり、信じることは良いことであり、その反対は悪しきことであると主張する。「同じこと」とは双方ともこの場合業の律法のもとに生きているということである。業の律法のもとにある肉は誰も義とされないのであり、自ら罪に定めている(Rom.3:20)。イエスは信の律法のもとに愛を成就しつつあるそのなかで、パリサイ人が自ら気づいていない彼らの「目のなかの塵」を取ろうとしたのであり、厳しい警告は業の律法のもとでの裁きではない。自らの偽りに気づいていない者たちを救おうとするその愛の成就は十字架に極まる。

 Y氏は、他方、そのなかで「価値体系」を持つこと、「信条に立脚すること」も「エトス」・精神性の涵養に重要であると、人間にとって超越的な傾向が不可避なことも認めている。超越性と此岸性は両極のように見えて、その基礎に共通性を見て取ることができる。ひとつにはそれぞれを極性化することにより、対立の構造に置くとき、双方のバランスを取る努力ないし試みがなされていないことである。つまり観念的だということである。自らの理念を極のそれぞれの一方に投映している可能性がある。一方の極から他方の極を審判することはたやすいことである。そしてその意味においてこの図式のもとでは信仰による超越論者も信念による現世論者もパウロによれば「同じこと」をしている。

 イエスは超越的なものをこの現実のただなかで担っておられた。「神の国は汝らの只中にある」(Luk.17:21)。彼はそのような同じ物差しを相互に振り回すことについて言う。「何故汝は汝のきょうだいの目にある塵を見るのか、しかし汝の目にある丸太に気づかないのか。或いはどうして汝は汝のきょうだいに言うのか、君の目から塵を取らせてくれ、と、見よ、汝の目の中に丸太がある。偽善者よ、まず汝の目から丸太を取り出せ、そうすれば汝のきょうだいの目から塵を取りだすべくはっきりと見えるであろう(diablephseis)」。Y氏が「ザイン」と「ゾレン」、事実と価値、存在と当為を判別するが、善悪は各人の「思い」「選好」の投映に過ぎず、事実に基づかないという主張は双方の数ある理解の単にひとつの立場でしかない。「Aは善である」の「である」はザインであり、価値が事実や存在に基礎づけられるという主張は「価値の実在論」と呼ばれる。ものごとが「はっきり見える(diablephō: I see thoroughly)」ひとには当然ものごとの在り方の良し悪しも見えていることであろう。

4「裁くな」を正当化する実がなるまでの時間

 二週前に、「神の国とその義」により一切のひとの営みが秩序づけられるべきことを山上の説教の骨子として学んだ。そして「神の国」を理解する重要なアクセスはナザレのイエスを理解することであると論じた。神の国の超越性はナザレのイエスの此岸性によって補われるとき、われらは取りつく島を見出す。神の国が現実に根差し具体化される。そこではイエスを介して受けとめられる神の国により、宇宙のことがらから日常のことがらまで一切が適切な位置に秩序づけられることの故に、一つの規準で一切が測られることはなく、きめ細やかな差異と特徴の認識をもたらす。その探求は心魂の根底から身体そして宇宙全体の探求となる。つまり、ナザレのイエスの信の従順のもとに展開される多様性はひとがそこにおいて生きる喜びをもたらすこそすれ、ひとを審判することから解放する。彼にとって信とは神との根源的な関係であり、その喜びと使命のなかでひとを生命がけで愛した。彼に留まる限り、自らのいたらなさが反省されることがあっても、隣人に牙を向けること、隣人を罪に定めることから解放される。

 山上の説教において、われらはイエスにより偽りを指摘された。良心、神との共知により鋭敏にさせられた場合、道徳的次元に留まることはできないのであった。われらは偽りであることを認めよう。しかし、福音がわれらを救い出す神の力であった。ここでの一つの問いはパウロは「福音の真理」(Gal.2:5)を偽りの福音からいかに判別しているかである。これは大きな問であり、ここではイエスの一つの言葉「果樹はその実によって知られる」を手掛かりにアクセスを心みたい。「福音」は「信じる者[と神が看做す者]に救いをもたらす神の力能」であった。この力に触れ救いを経験したひとはそれを真理であると認識するであろう。その喜びからそれを隣人に伝えたいと思うであろう。

 その伝え方は各自の個性や人格に依拠するところが多く、或るひとの場合は「戦闘的」となることもあろう。福音の真理を高らかに掲げるであろう。「聖なるもの」の光と輝きそして透明な清らかさ、これがわれらを照らしわれらの醜悪さと穢れを暴き出すでもあろう。しかし、手紙主Y氏が主張するように、超越的なものを相手にする場合、その経験を真実と確認することは、或る意味で即ち自然科学の対象のように仮説と実験による検証を経て誰にも妥当する理論となるような仕方で見出すには容易ではないという問題がある。「自己偏満」に陥り、自ら偽りであることを自覚できないほどに陶酔してしまうこともあろう。心の内側からの納得と洗脳は常に識別することが求められる。

 イエスは「裁くな」に続いて、こう語り、自己偏満や自己陶酔からの解放に導く。「汝ら狭い門から入れ。というのも破壊に導く門は広くそしてその道は容易である。そしてそれにより入る人々は多い。というのも生命に導く門は狭くそしてその道は困難である、そしてそれを見出す人々は少ないからである。偽りの預言者たちに注意せよ。彼らは羊の衣を着て汝らに近づくが、内側は簒奪する狼である。汝ら彼らの実から彼らを認識せよ。茨からブドウを或いはアザミから無花果を収穫することはない。このように、すべて良い果樹は良い実を結び、悪い果樹は悪い実を結ぶ。良い果樹は悪しき実を結ぶことができず、悪い果樹は良き実を結ぶことができない。良い実を結ばないあらゆる果樹は伐られてそして火に投げ込まれる。従って、少なくとも彼らの実から汝らは彼らを認識せよ」(Mat.7:13-20)。

 ここでの主張は明確である。果樹の良し悪しはその実により知られる。歴史が各人の人生が真実で良きものであったか、それとも偽りの言葉だけであり、実際は悪しきものであったか証明するであろう。果樹が果実を実らすまでに時間を要する。それが「裁くな」という戒めを正当化する。後の日にはっきりわかる。ヨーロッパの諺に「神のひきうすはゆっくり回る、しかし細微にすりつぶす」というものがある。たとえひとの人生は、果樹のようにはこの世界で結果がわからなくとも、神の前では一切が明らかである。審判は神の仕事である。ひとに残されたことはただ愛することである。

 「愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず・・誇らず、高ぶらず、礼を失せず、自らの利益を求めず、いらだたず、恨まない」(1Cor.13:4-5)。愛のうちにあるものは否定的なパトスに引きずられることはない。愛は「誰に対しても悪に対して悪をかえさず」(Rom.12:17)、「互いに兄弟愛において慈しみ、相互に尊敬において導き手とする」(Rom.12:10)。愛は希望におけるわれと汝の等しさであった。支配からも被支配からも唯一自由な場所において出来事になるわれと汝の等しさが出来事になることを求めて右の頬を打たれたら左の頬を向けつつ、敵が友と友となることを求める。シーソーのバランスが取れている状態、それが愛の一つの描きである。

 審判の背後にあるのは否定的なパトスである。そこに自己吟味がなされないため、偽りとなる。偽りはこれまで学んできたように、二心、三つ心により支配されており、心の清さにおいてないことであった。愛は双方の理解と和解に導くことであろう。争いのあるところ、そこが知恵のだしどころである。「裁くな」は人と人とを引き裂くことを仕事とするデヴィルの心臓に突き刺さる言葉である。裁かず愛するとき、ひとはこの争いを乗り越えることができるであろう。そして、それは後の日に果実により知られるであろう。

5結論

 誰かと何かを角突き合わせているときには、頭を冷やそう。一般的に言っても、宇宙は広くその探求対象は広大無辺である。自らの観念ではなく夜空に輝く満天の星を見あげよう。宇宙はわれらの観念の外に明確に輝いている。カントは「われを超えて輝く天空とわが内なる道徳律」(『実践理性批判』)双方に眼差しを注ぎつつ、確かなもののもとに探求の生涯を送った。極論になりがちな観念ではなく、野の百合空の鳥に超越的なものの愛情を感じ取り、共知としての良心が深められるとき、宇宙が確かなものにより支えられていることを認識するにもいたるであろう。ナザレのイエスの生活を通じて超越的なものの確かさを、神の愛の確かさを知るとき、ひとは観念から解放される。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわれに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。

 

 

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「汝ら裁くな」

[本日の聖書講義は録音の操作の誤りにより、音声を掲載できません。申し訳ありません。原稿は以下の通りです]。

「汝ら裁くな」

                                             日曜聖書講義2020年10月18日

1テクスト

「汝ら裁くな、裁かれないためである。というのも、そこにおいて汝らが裁くその裁きにおいて汝らは裁かれるであろう、そしてそこにおいて汝らが測るその測りにおいて汝らに測り与えられるであろうからである。何故汝は汝のきょうだいの目にある塵を見るのか、しかし汝の目にある丸太に気づかないのか。或いはどうして汝は汝のきょうだいに言うのか、汝の目から塵を取らせてください、と、見よ、汝の目の中に丸太がある。偽善者よ、まず汝の目から丸太を取り出せ、そうすれば汝のきょうだいの目から塵を取りだすべくはっきりと見えるであろう」(Mat.7:1-6)。

2 知性と人格の混乱 ―否定的なパトスが示すもの―

山上の説教もついに七章に到達した。七章はわたしにとってとりわけ忘れられない思い出の章である。これまでの箇所と何度も行きつ戻りつしながら、学んでいきたい。「裁くな」である。ひとを裁くとき、イエスはものごとを明晰に見る知性と心の平静、平安を失い自分は正しいという思い込みの中にあり高ぶっていると言う。

 突然否定的なパトスに襲われることがある。怒りや憎しみや欲情など、心をかき乱すものに襲われることがある。アリストテレスなら、身体の受動的反応であるパトスについて、「パトス(感受態)はへクシス(態勢)のセーメイオン(徴)である」として、どのようなパトスが沸き起こるかによりその各人のそれまで培った心の実力、習慣としての態勢(ヘクシス)がどのようなものであるかが分かると言うであろう。パトスはその実力を示す徴・サインであると言う(Ar.Nic.Eth.II3)。

 ひとは他人が気になり、否定的なパトスを持つことがある。そこに伴うのが裁くという相手の人格についての否定的な判断である。自分の目の中に丸太がはいっており、よく世界が見えていない状況が設定されている。ものごとを正しく見えていない状況での相手の人格に否定的なことを発言することは、自らはそうではなく正しいという暗黙の前提のもとにあり、高ぶりや、偏り、偽りという人格的な混乱を含んでいる。そのような対話はよく見られることであるが、テクストにはこうある。「どうして汝は汝のきょうだいに言うのか、汝の目から塵を取らせてください、と」。このように自己反省もなしに高ぶりの故に他者が気になりつつ、むかつきつつ相手に失礼を働き、相手を変えようとする言葉が発せられるとき、少なくとも相手を愛していないことは確かである。

2「愛」と「喜び」の時間軸における分析

 ひとは隣人を愛そうとするとき、裁きのもとにいない。その意味で「裁き」の対義語は「愛」である。「愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず・・誇らず、高ぶらず、礼を失せず、自らの利益を求めず、いらだたず、恨まない」(1Cor.13:4-5)。裁きの背後には自己中心的な思いが隠されている。愛のうちにある者は否定的なパトスに引きずられることはない。愛は「誰に対しても悪に対して悪をかえさず」(Rom.12:17)、「互いに兄弟愛において慈しみ、相互に尊敬において導き手とする」(Rom.12:10)。

 愛は希望におけるわれと汝の等しさであった。支配からも被支配からも唯一自由な場所において出来事になるわれと汝の等しさが出現することであった。そして愛の感情実質は喜びであった。この喜びのゆえに、即ち喜びは常に時との和解を包摂していることの故に、ひとは愛を永遠との関連においてしか語られてこなかった。

 これは感情を時間軸に即した分析により明らかにされる。愛のひとはいつも朗らかである。そのひとはいつも新しいものに出会っているからである。パスカルは「新しいものとの出会いは謙遜と勤勉をうみだし、古い自我への固執は傲慢と怠惰を生む」と言う(『パンセ』)。いつも新しいものに出会っているひとは、古い自分にしがみつくことなく、心を新鮮に保つことができる。しかし、そのひとは新しいものに出会うために、お金持ちで旅行ばかりしているわけではなく、いつも新しい視点、角度から日常のさまざまなことどもを眺め、受け止め直すことができるので、決して古くならず、新たな発見が今・ここで生起している。

 過去を左に未来を右に描き、時間が左から右に流れるものとして真ん中に現在を置いてみる。怒りや憎しみ後悔そして恐れや不安などの否定的な感情は過去や未来に囚われて現在を生きることのなかに生起する。朗らかな愛のひとは怒りや憎しみ等の過去に囚われてはいない。また不安や恐れそして欲望等の未来にも囚われていない。この今を心をまっさらにして生きているから、新たなものに出会っている。この真ん中にある現在に上から放物線を描いてみよう。確かに憎しみも不安も今感じる感情であるが、最も現在的な感情は「喜び」である。喜んでいるとき、ひとは過去によっても未来によっても捕らえられておらず、今を生きている、つまり時と和解している。過去による後悔もなければ、未来による不安もない。ずっと今が続けばよいと思っている。放物線が接線に触れるように喜んでいるひとは現在のうちで永遠に出会っていると言うことができる。苦難のただなかにあっても愛のうちにあるひとは希望を失わない。希望は現在に宿る肯定的なものの生起だからである。実は人類は永遠との関連においてしか愛を理解してこなかった。愛がなぜ喜びかと言えば、永遠が神の国がそこにあるからである。

 愛のひとは永遠が今・ここに降りてくることを求めて右の頬を打たれたら左の頬を向けつつ、敵が友と友となることを求める。支配からも支配されることからも自由な等しさ、シーソーのバランスが取れている状態、それが愛の一つの描写である。たとえ今バランスが崩れていても、愛のうちにある限りいつかはバランスが取れるという希望が湧きあがっている。夢は抱くものであるが、現実に根差す希望は湧き上がるものである。

3 認知的、人格的偏りから世界の全体のなかでの位置付けへ

 それに比し、裁きは多くの場合、あいつはこんなことをした、言ったと過去に現在を支配させることから生起する。裁きにはこのような否定的な感情が伴った相手の人格に対する否定的な判断である。審判の背後にあるのは否定的なパトスである。そこに自己吟味がなされないため、偽りとなる。偽りはこれまで学んできたように、二心、三つ心により支配されており、心の清さにおいてないことであった。

 一つのことに集中できないとき、ひとは他者との比較、裁きの誘惑に陥る。授業中の教室内で席が左右に座るS君とA君をめぐる一つのジョークがある。「先生S君が余所見(よそみ)をしています」。「ほおA君はどうしてS君が余所見をしているのを知ったのかい、君も余所見していたのではないかね」。ひとの欠点が気になるのは、少なくとも一つの価値基準や感情により形成される一面的な地平における左右の振幅のなかで何らかの規準を自ら選択しているからこそ、長所としてではなく欠点として認識される。まったく別の物差しを使用すれば、全く異なる判断もなされたことであろう。S君は「余所見」というより窓にへばりつくヤモリを夢中で「観察していた」のかもしれない。

 審判における認識は自らの限られた理解の投映以上のものではない。怒りとともに相手のこだわりや無能さらには偏りを責めるとき、何らかの規準のもとに相手を蔑んでいる。裁きにおいては自己吟味を忘れ、自分を棚にあげていること、そして相手を理解しようとする態度も括弧に入れていることが前提とされている。ひとは多くの場合ひとには言えない過去や偏りを背負っており、またひとに知られない身体的制約を抱えていたりしており、その制約のなかで生きている。裁くとき、多くの場合、それらへの顧慮がなされていない。それは単に知らないだけなのかもしれない。一切を正確に知る全知な存在者のみが正確に審判できる所以である。

 或いは、例えば、いつも同じ思いが沸き起こり、相手と同じようなことを言い争う、そのような循環を繰り返すとき、そこでの規準は相手に対す理解において何ら深められていない。その理由は同じパトスがその規準を伴っているからである。これは「トラウマ」と呼ばれる、心の傷が何かの拍子に目覚めさせられることによる繰り返しである。心をこじらせない方法として知恵あるひとたちは何か諍いが起きたときには、憎しみに発展しないようその初期の段階で否定的な芽を摘む努力をしている。だからこそイエスも宮に捧げものを供えに行く途中で、自分に「何か反感を持っているひとに気づいたなら」、引き返して仲直りせよと言っておられた。これは五章で学んだ。

 ストア派のエピクテトスは感情の平静であることを賛美するが、感情の操作、対応術を述べるなかでこう言う。「誰かが君を怒らせるなら、それはただ君自身の観念が君を刺激しているだけなのだ。だから何よりも君の観念によって、事の最初の瞬間に心を奪われないように努力するがよい」。カール・ヒルティはこの教えに同意して言う。「侮辱の瞬間に憎悪を心に入りこませてはならない。時をおけば憎悪を克服することは容易になるものである。ところが憎悪が一度巣食ってしまうと、それを根絶するのに骨が折れる。だいたいいわゆる「敵」は、われらが興奮の刹那にともすれば思い込むほどさほど有害なものではない。・・また彼らの憎悪が君になんら反応を呼び起こさなければ、その意図のほんのわずかの部分しか実現しえないものである」(『幸福論』Ip.59(白水社 1964)。今の人たちなら「スルーする」心のゆとりの大切さを説くであろう。

 心というものはとても傷付きやすいものであり、そのつどケアが求められる。「裁くな」というイエスの言葉は実はひととひととを引き裂き、歴史のなかに否定的なもの破壊的なものを生み出す悪魔的なものの介入をブロックする最前線の防波堤だと言える。デヴィルはいつもひととひとを引き裂き、神に対抗しようとしている。その意味において、ひとが生きることは憎悪や諍いそして争いを介して世界を破滅させようとするデヴィルとの戦いなのである。隣人は誰であれ愛すべき存在なのである。われらの敵は罪であり、「罪の値」である「死」である(Rom.6:23)。敵を見誤るとは愚かなことである。

 翻って、自己吟味を始めたなら、関心は相手に向かわず自分に向かい、またそこでも何らかの規準のもとに自惚れたり、卑下したりする。しかし、規準そのものがどこから来るかを吟味するとき、吟味されざる自らの心の態勢、実力が露わになる。規準そのものが無反省にパトスに引きずられてパトスに癒着しつつ使い古された退屈な規準が再び頭をもたげる。「汝らが測るその測りにおいて汝らに測り与えられる」。自らがこだわる計測規準こそ自らの現在地を明らかにするものである。このように、他人を審判するとき、返す刀で自ら自身を審判している。ブーメランのようにその言葉は自らに戻ってくる。何らかの規準が自らのこだわりをはしなくも明らかにするからである。ひとは優劣や正邪そして善悪を判断して生きていく。それを可能にするのは一つの測りであり、そのもとにあることを自己と相手の「共約性(measure →commensurability)」と言う。例えば、自らにコンプレックスがあるもの、気になるものを相手に投映することが起こる、例えば自らの対極にあるものとして褒めそやしたりして。そこでは、一つの規準のもとに世界が切り取られてしまっており、世界の豊かさ、多様性が無視されている。

 世界の一切がそして人間の内面が明晰によく見えている場合には、何か一つの規準にこだわることはなく、全体の秩序のなかに相対的な位置づけがなされるため、自らがそれに引きずられてしまうそのようなパトスに襲われることはないであろう。冷静に相手の行動や思考を全体のなかに位置付けることができるであろう。そのひとの唯一の規準が自らを救い出してくださった神の栄光を表すことであり、地の塩、世の光になることだけに集中しているとするなら、何か否定的なことが起きても、どうすればその窮境から相手が脱却できるかに集中するであろう。地の塩とは食事に味わいをそえる調味料のことでありまた健康を守るように、そして大地を固めるように、ひとに気づかれずとも隠れたとこころで世界を支えるそのような働きである。他方、世の光は地の塩とペアで理解されるべき態度であるが、常に目覚めており、明晰で全身が明るく光り輝いており、ひとびとを導くリーダーの働きである。すべては神の国の到来に照準があわせられる。ひとは「柔和の霊」(1Cor.4:21)を頂いているとき、侮辱に対しても、暴力に対しても平静に対応できるであろう。いつも「叡知の刷新」により「変身させられよ」即ちキリストに似た者になれとパウロに励まされる所以である(Rom.12:2)。

4 アイロニー(皮肉)とユーモア(朗らかな機知)

 わたしはここで裁くこと・審判することをアイロニー(皮肉)とユーモア(朗らかな機知)の視点から分析したい。裁かないひとは常に肯定的な心のモードにおり、朗らかな笑いのもとにいる。朗らかな笑いは何も変哲もない状況において、また当たり前だと思っている状況において、突然その場にそぐわない日常的ではないことがら、また予想を裏切ることがらが、しかもウイット(機知)によりその場を何か明るいものに変える力、新しい視点が現出するときに起きる。ユーモアあるひとはいつも新しいものに出会っている。いつも新しいものに出会っているひとは、古い自分にしがみつくことなく、心を新鮮に保つことができる。「太陽のもとに新しいものは何もない」(Eccl.1:9)と伝道の書の著者は悲観的であるが、永遠なもの、愛がそこに放物線が接線に触れるようにおりてくれば、すべてが刷新される。

 アイロニー(皮肉)は一つの視点の変化をもたらす。アイロニーは知識を持っている者があたかも知らないかのごとく振る舞い、相手の無知に気づかせ相手を無知の状態から知識の状態に変革する手法である。ときに、無知を暴き出すので、相手を傷つけてしまうことがある。しかし、そこに相手の知性に対する信頼があり、受け手を何らかの仕方で信頼していなければアイロニーは成立しない。相手、受け手を否定的に決め付けることはなく、相手の知性による気づきを促すという点で、単なる破壊的行為とは異なる。アイロニーはしばしば相手が一つのことを真実であると思い込んでいるとき、それを正面からではなく、或る知識を伴い否定し、相手の変革を促す手法である。ひとは何かを思い込み、他のことに考慮がおよばなくなっているとき、第三者の客観的な視点から自らを眺め、捉えることができなくなっている。アイロニーはその主観的な絶対化を知識によって破壊する。

 しかし、アイロニーはユーモア(朗らかな機知)には及ばない。何に関して及ばないかと言えば、現状を変革する力においてである。ユーモアはアイロニーをさらに振幅させてのみ生じる。キルケゴールは「アイロニーの最大の振幅がユーモアである」(日記1837.8.4)と書いている。否定をさらに揺さぶり否定するとき、肯定にいたる。そして、その振幅をどこまでも続けるとき、そこにはもはやアイロニーではなく、ユーモアが成立している。なぜかと言えば、ひとは通常他者とそこまでとことん付き合うということはないからである。アイロニーのひとは手を汚さず、お高いところから、無知なる者をあざ笑うが、ユーモアのひとは相手を理解し、つまり、相手の下に立ち(under-stand)、相手を肯定し、アイロニーの視点を持ちつつ、相手と共に、その思い込みから逃れ、さらに、次の段階に共にゆく。ここには愛がある。

 ユーモアがアイロニーの延長線上にあると言っても、それを振幅させる力を得るのは愛、理解そして共苦である。知識による否定を通じての変革に終始せずに、場の雰囲気にゆるみが起きるとき、朗らかな笑いとともに変革が生じている。例えば、ハエが窓の外にでようとして、窓がそのそばで十センチほど開いているのに、窓に突き当たる光景をよく目にする。ひとはそこに滑稽なものとペーソス(悲哀)を感じることもあるだろう。なぜそのように感じるのだろうか。ハエは主観的にはとても一生懸命なのに、周囲の状況を冷静に把握していないその無知な思い込みにその感情は起因する。アイロニーのひととユーモアのひとは異なる対応を取る。アイロニーのひとはこう言うでもあろう。「ハエ君、精がでるね。君の羽の強度と窓の強度を計算すると、君は見事に十年でこの窓からでられるよ。時に君の寿命は何日だっけ」。アイロニーをもう少し揺らすも、アイロニーに留まるひとはこう言うだろう。「ハエ君、精がでるね。僕も運動しよう」、そう言って窓を開ける。最大限にまで揺するユーモアはそのときどう言い、どうするのであろうか。「ハエ君、今日は暑いね」と言いながら、がらっと、窓を開けてやるだけでよい。タヤスイコトダ、アイスレバヨイ。

 そこでは否定的なパトスを伴う審判は生起しないであろう。自己への顧慮がないため、相手の窮状をそれ自身として受け止め、信のもとにその窮状の脱却に共に歩むであろう。一つの知識に留まらず愛のもとに知識の肯定と否定を積み重ね相手への理解を深めていくように、愛のもとに得られる相手や事柄そのものの知識のもとに、事態の肯定的な変革に向かうことであろう。アイロニーを最大に振幅させるとき、ユーモアに愛のもとにある緩みに到達する。

5共知への探究

 イエスが「そこにおいて汝らが裁くその裁きにおいて汝らは裁かれるであろう、そしてそこにおいて汝らが測るその計測において汝らに測り与えられるであろう」と言う時、その規準となる審判や計測は決して一つではない。アイロニーの振幅に応じて、規準そのものが変革されていき、最後は神の愛に到達するであろう。ひとは常に探究のもとにある。イエスとその山上の説教とを良心・共知の相手方とする者たちには、心の少しの歪曲が痛みになる。良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識であったが、それは相手方との共知(con-science)であった。神にとって明らかなことが本人にとっても明らかになること、これが神との共知である。

 パウロにおいても「良心」とは神において明らかなことが自分たちにも明らかになるその心の座である。彼は言う、「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11)。探究は神との共知にいたるまで続く。そしてそれはアイロニーのもとにではなく神の愛のもとにキリストが共にい給うユーモアのうちに遂行される。

 審判は何らかの一つの規準にこだわることにより陥った心の偽りである。その規準こそ、パウロによれば「業の律法」だったのである。これまで学んできたようにナザレのイエスには偽りはなかった。福音書において報告されるイエスご自身は旧約の伝統のなかで新約を打ち立てようとする途上の生を遂行していた。「この杯は汝らのために流されるわが血における新しい契約である」(Luk.22:20)。「業の律法」のもとに生きるパリサイ人への彼らの自己矛盾を指摘する厳しい言葉の数々も、ご自身がそのもとにある「信の律法」への立ち返りを促すアイロニーであった(Rom.3:27)。パリサイ人はあまりにおのれの正しさに固執していたため、イエスはまずそれを破壊しなければならなかった。彼らが立っていた道徳観の限界と偽りを暴き出さずにはいられなかった。そしてそれはモーセの業の律法の自己満足的な理解であった。

 パウロは言う、「すべて裁いている汝、ひとよ、汝には弁解の余地がない。なぜなら、汝は他人を裁くそのことがらにおいて、汝自身を罪に定めているからである。というのも、汝裁く者は同じことを行っているからである」。自他に対しこれをするから、これをしないから善くないという主張は盗むと盗まない、貪ると貪らないという二者択一において正義が判別される業の律法に即したものである。「同じこと」とは双方とも業の律法のもとに生きているということである。業の律法のもとにある肉は誰も義とされないのであり、自ら罪に定めている(Rom.3:20)。イエスは信の律法のもとに愛を成就しつつあるそのなかで、自ら気づいていない彼らの「目のなかの塵」を取ろうとしたのであり、業の律法のもとでの裁きではない。自らの偽りに気づいていないパリサイ人を救おうとするその愛の成就は十字架に極まる。

 パウロは言う、「汝が識別することがらにおいて、自らを裁かない者は祝福されている」(Rom.14:22)。「識別すること(dokimazein)」は「審判すること・裁くこと(krinein)」とは異なる。「蛇の如く聡く」(Mat.10:26)と命じられるように、状況を正確に識別することが求められる。イエスは全身が光のように明るい方であり、一切を正確に見抜いておられた。彼はパリサイ人の状況を正確に「蛇の如く聡く」識別していたのであった。

 パウロも或る識別のもとに、不和や分裂をもたらすある種の人々とは接触しないように勧める(1Cor.5:2)。自らの心が愛により清められ、ものがよく見えるようになったとき、相手の状況を神の国との関連において識別することができ、冷静にその現在地を測り、その乗り越えを提示できるであろう。イエスは言う、「偽善者よ、まず汝の目から丸太を取り出せ、そうすれば汝のきょうだいの目から塵を取りだすべくはっきりと見えるであろう」。ひとは「目には目を」の比量的な業のモーセ律法のもとに生きる限り、アイロニーからも、なによりも他者への裁きからも自由になることはないであろう。人類は神に愛されている、御子の生涯のゆえに救いは確かであるという信の律法のもとにあるときだけ、裁き、審判から解放されるであろう。ものがよく見えるようになり、敵が友となり、神の栄光のために最善をその都度選択することができるようになるであろう。

ひとつのことははっきりしている。誰であれひとを裁くことを避けたいと思うひとがいれば、そのひとは業のモーセ律法から離れ信の律法のもとに生きることによってだけ可能になると確かに語ることができる。たとえその信の対象が神の固有名「ヤハウェ」の名前をえないとしても、何か一切を正確に知りまた憐れみ深い存在者がおり正確な審判者のもとでいつの日か正しく審判されるという一般的なものであれ、その信仰のもとにあるとき、ひとはそこにわれらが住むその全体像が次第に明らかになっていき、一つ一つの営みがそのようなスケールのなかに位置付けられることになるであろう。そしてそこでは矮小な審判から自由にされていくであろう。

6結論

 山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろうが、これを語ったイエスご自身は人間にはとうてい満たしえない心的規範また行動規範を与え、誰にも負えない重荷を負わせ、道徳的苦悩をもたらす方ではない。誰にも担いえない重荷を課す方ではない。「疲れたる者、重荷を負う者、われにきたれ。汝らを休ませてあげよう」、そう言われる方である。「わたしは汝らを残して孤児(みなしご)とはせず」、「わたしは父に願う。父は別の助け主を遣わして、汝らと共にいるようにしてくださる」、「わたしが行けば、助け主を汝らのもとに送るであろう」、そう言われる方である(Mat.11:28-30,John.14:18,15,16:7,)。

 ナザレのイエスは自らの生命をかけて父なる神に自ら神の子であることの信の従順を貫き、そして神の子であることを証することは彼を十字架に磔た敵である罪人を贖うべく、罪なき者として罪ある者の罪を担い、身代わりの死を遂げることであった。この身代わりの死には罪を赦し「新たな被造物」(2Cor.5:17)を造るほどの愛の力がそなわっていたのである。その言葉に偽りがなく、彼は山上の説教を生き抜き、また山上の説教の故に死んだその方である。彼に眼差しを向けている限り、福音が語られ、誰にであれ喜びが届くことであろう。「愛する者たち、互いに愛そう。愛は神からのものであり、そしてすべて愛する者は神から生じそして神を知っている。愛さない者は神を知らない。というのも神は愛だからである」(1John.4:7-8)。

[参考文献 千葉惠「笑いの構造―アイロニーの最大の振幅としてのユーモア―」『笑い力―人文学でワッハッハー』 千葉惠編 (北大出版会 2011)]

 

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「断食」から野の百合空の鳥へ(2)―神の愛による天と地一切の秩序づけ―

(録音では第3節から朗読されている、ただしここに記されていない何回かの脱線ないし補足がある)

「断食」から野の百合空の鳥へ(2)―神の愛による天と地一切の秩序づけ―

                           2020年10月11日

序 道徳的内破から神の愛へ

 山上の説教はイエスの志の高さと偽りの追求の鋭さとそしてこの地上で生きることの喜びを伝える。ここには聖性と高邁さが満ちておりそして詩人のインスピレーションのもとに力強い推論と構想力が宇宙大に縦横に展開される。神の国と神の義に集中するその教えは生の一切をそこから秩序づけ天と地を繋ぐものであり、宇宙論的な構想が描かれている。これまでモーセ律法の急進化、純粋化において舌鋒鋭いイエスを主に学んできた。言葉の力のみで、われらを神の完全性に倣うよう高みに導こうとする気迫におそれを抱いてしまうそのような姿を描いてきた。山上の説教において彼の純一さと鋭さが前面にでているけれども、他方、イエスは子供達、弱い者たちを愛した優しさ、柔和さを兼ね備えており、そして実はそこから山上の説教も語られている。少しづつ彼のこの側面についても学んでいきたい。

「神の国とその義」を求めるさいにも、あまり現実感がないかもしれない。神は愛であることをイエスの生涯は実践するが、その愛の知らしめの方法が最も先鋭化するのは十字架上の身代わりという様式であった。神の愛を知るには御子の受肉と十字架そして甦りがいかなるものであるかを知ることが求められる。そこにおいて神の愛は最も明白に啓示されているからである。そのことを神の国と世界・地のことがらの秩序づけを媒介するものとして少しづつ学んでいきたい。

2断食を介して見える生活の煩いとその乗り越え

今日のテクストは前回の続きで6章16節から34節である。まず断食の箇所を先週の復習を兼ねて学ぶ。「汝らが断食するとき、陰鬱な偽善者たちのようになるな、というのも彼らは自分たちの顔を醜くするがそれは人々に断食しているように見えるためである。わたしは汝らに言う、彼らは現に報いを受けとっている。しかし汝が断食するさいには香油を汝の頭に塗りそして汝の顔を洗いなさい、それは汝が人々に断食しているように見えずに、隠れの内にいます汝の父に見えるためである。そして汝の父は見ておられ、隠れの内に汝に報いたまうであろう」 (Mat.6:16-18)。

 食事という生存の最も基本的なことがらをめぐって、この説教はその正しい位置づけを教えている。前回の復習をかねながら、生活と最も良きものごとである「神の国」との関連で食べること、飲むこと、着ることなど生活一般を位置づけたい。

「断食する(nēsteuō)」は「食べる(esthiō)」の否定語であるが、生存欲求の最も基本的な食べることを否定する営みはとても禁欲的、宗教的な儀式ないし実践であるという印象を与える。現在、一方では空腹に苦しみ断食どころではない人々が多数おり、他方、断食が語られるとすれば多くは健康上の理由による人々がいる。われらはどれだけのメッセージをこの断食の教えから聴き取ることができるであろうか。

 食は生存の基本的な欲求であり、断食と聞くだけで、嫌悪を感じるそれほどまでに生とその喜びの構成要素である。グルメ番組は賑わい、どこまでも美味を求めての料理の追求は飽くなきものであり、「何を食べるか煩うな」と言われると、もう既にキリストの弟子であろうとすることから脱落してしまう人もいよう。

 ただ、イナゴを常食した洗礼者ヨハネとの対比において、イエスご自身「大食いにして大酒のみ(phagos kai oinopotes)」(Mat.11:19,cf.Luk.22:17,30)という悪評を播かれることもあったようである。これは彼が罪人と呼ばれる人々と親しく交わったという状況のなかで、噂されたことであろう。確かに、彼は断食をしていなかったと報告されている。洗礼者ヨハネの弟子がイエスのもとにきて、「われらとパリサイ人は断食するのに、何故汝の弟子たちは断食しないのか」。それに対するイエスの応答は「新郎の子供たちは新郎が彼らと共にいる限りはまさか悲しむことはできまい。しかし、新郎が彼らから去るとき、そうすればそのとき彼らが断食する日々が来ることであろう。誰も新しい布切れを古い衣につぐことはしない、補った布切れはその衣を破って、綻びは一層甚だしくなるからである。新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は避けそして酒はほとばしりでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:14-17)。これは旧約と新約の関係にあてはまる。新しい酒と革袋は福音と福音をいれる神の意志としての信の律法である。旧約である業の律法のもとに福音を入れることはできない。業の律法を破ってしまうであろう。福音は信の律法に入れられる。

 この新郎とのういういしい日々の記述からまず明らかなことは、イエスとその弟子たちは断食をすることはなかったことである。それからイエスは断食を喜びとではなく悲しみと結び合わせていることである。別れが来た時には悲しみの表現として断食するであろうことが預言されている。聖書では断食はおおよそ五つの文脈で報告されている。1)病気の快復や死の嘆き、哀悼の祈り(2Sam.3:35,12:6,Ps.35:13)。2)罪の告白と悔い改めや不信仰の嘆きの祈り(Dan.ch.9,Ezra,1:6,Neh.ch.1,Jon.3:5-7,Joel.2:12-13)。3)危機の到来における祈り(2Chr.20:3,Ezra.8:21,Est.4:16)。4)主の導きを求める祈り(Dan.ch.9-10)。5)宣教活動を始めるさいの祈り。初代教会において、パウロとバルナバが宣教師として任命され、遣わされる前後、教会は断食し、彼らは教会の働きのために断食した(Act.13:2-3,14:23)。(秋田県横手市の斎藤和彦牧師のサイト参照 (https://www.yasuragi-church.org/archives/337))。

 このような通常ではない文脈においては、生理的にも食物が喉を通らないという状況であり、断食という行為は単に宗教的儀式というよりも、寝食を忘れて何かに打ち込むそのような状況において心を刷新するために有用な文脈であると言える。断食が祈りと繋げられることもここから理解できる。事柄そのものへの精神の集中なしには実際の苦境を乗り越えることはできないであろう斎藤先生の研究の最後でジョン・ウェスレーはこう断食の目的を語ったことが引用されている。「第一に、われらの眼差しをただ主にのみ定めて、主に向かって断食をなさしめよ。われらの断食の意図をこのことのみ、すなわち天にましますわれらの父の栄光をあらわすことのみであらせよ」。このように断食はより重要なものにこのような仕方で関連づけられていることが分かる。そうであるとすれば、食べることも主の栄光を顕すこともあろう。花婿と一緒にいる喜ばしいときに断食はふさわしくない。

 他方、イエスは戒めている、「汝ら自ら心せよ、汝らの心は酒宴と酩酊によりそして生活の煩いにより鈍くなり、かの日[終末]は突然汝らのうえに来るであろう」(Luk.21:34)。「かの日」とは古い天地が巻き去られ、新しい天地が出現するその終末のときのことを言う。そのために、いつも心魂が目覚めていることが求められている。断食をしてもしなくとも、常に心を清め、神の御心を尋ねるよう眼差しを天に向けさせる。そこに向かわず、断食が神の国とその義を求めることを妨げ、誇りや偽りにつながるようであれば、断食をしないほうがよい。食べるか食べないかよりも魂のほうがより一層大切である。「わたしは汝らに言う、汝らの魂[生命の源]のことで、汝らは何を食べようか、何を飲もうか、また汝らの身体のことで何を着ようか、汝ら思い煩うな。魂[生命の源]は食物より一層大切なものであり、身体は衣服より一層大切なものであるのではないか」(Mat.6:25) 。

 食物よりも、生命がそれの故に維持される生命原理としての魂のほうが一層大切である。もちろん食物が魂の働きを支えているが、魂という生命原理に基礎づけられる心が例えば美食に向かうか質素な健康食に留まるか、善に向かうか悪に向かうかを定める。この生命原理に支えられて心が自らの生の方向を定める。「その心によって清らかな者は祝福されている」(Mat.5:8)。第一に神を求めるその純一さにおいてある心は祝福される。

 註[なお「マタイ福音書」17章の断食の報告についてテクスト上の問題がある。弟子たちは自分たちが悪霊を追い出せなかった理由をイエスに尋ねると、こう言われている「それは汝らの信仰の小ささの故である。わたしはまことに汝らに言う、もし汝らが芥子種ほどの信仰を持つなら、この山に「そこからかしこに動け」と言うなら、そうすればその山は動くであろう。そして汝らには何も不可能なことはないであろう」。そのあとの21節が最新のNestle-Aland27版では削除されている。そこでは「この類のもの[悪霊]は祈りそして断食するのでなければ、出て行かない」とイエスにより語られたと記録されることがあった(Mat.17:20-21)。この問題について議論することはできないが、確かに、信仰の力があれば十分という伝統的な考え方からすれば、断食の力に訴えるそのような仕方で悪例を追い出すことができるとイエスが語られたか疑問の残るところではある。]

3天と地、二人の主人に兼ね仕えることはできない

 衣食住の生活は誰もが求める心身のケアであるが、イエスはそれを人間にとって最も重要なことがらにより秩序づけることを教える。魂そしてその魂に宿る心はこの世の一切のものよりも重要である。その秩序づけは6章において二人の主人に仕えることができないこと、それから生活の煩いを一旦わきに置き、「神の国とその義」とを求めることにより、遂行される。錆や蛆がわく地上に宝を積むのではなく、天に宝を積むように勧められる。また、二人の主人に兼ね仕えることはできず、富ではなく神に仕えるよう勧められる。そのためには精神の眼差しが澄んでよく自己と世界を見ることができるのでなければならない。地上のことに心が奪われているとき、ひとは眼差しを天上に向けること、仰瞻(ぎょうせん、あおぎみる)することができない。仰ぎ瞻(み)るとき、ひとは光をえる。

 「汝らは地上に汝らにとっての宝を積むな、そこでは虫と錆が浸食してしまいそしてそこでは盗人が押し入り盗んでしまう。天に汝らにとっての宝を積め、そこでは虫と錆は浸食せず、そしてそこでは盗人は押し入りもせず盗みもしない。というのも、汝の宝があるところ、そこには汝の心もあるであろうからである。

 身体の灯火は目である。だからもし汝の目が健全であれば、汝の身体全体が輝くであろう。しかし、汝の目が悪しきものであるなら、汝の身体全体が闇となるであろう。かくして汝のうちにある光が暗いものであるなら、暗さはどれほどであろう。

 誰も二人の主人に兼ね仕えることはできない。というのも、一方を憎みそして他方を愛するか、或いは一方に忠実であり、他方を軽蔑するかだからである。汝らは神と富双方に仕えることはできない」(Mat.6:19-24)。

4心魂(しんこん・こころ)の二つの構成要素―肉と内なる人間―

 しかし、ひとは問う。「神の国とその義」と言われても、何ら実在感覚がなくどこを仰ぎ瞻(み)ればよいのか、なんら手掛かりもなく、見当がつかないと。天の国を受け継ぎ入れていただき、また天において慰められ、報いが大きいと言われても、その天国なるものをどのように理解したらよいのか皆目見当がつかない。確かに聖書ではわずかにしか天国がいかなるものであるかの記述は見られない。ただしヨハネ黙示録においては、黙示と呼ばれる預言、ヴィジョンは神話的にダイナミックに展開されている。

 天については取り付く島もないという主張へのさしあたりの応答は八福を思い出すことである。柔和な者、憐み深い者そしてその霊によって貧しく、この世の何ものによっても満たされず神の正義を渇き求めそして平和を造らずにはいられない心の清い者たちが神のお好のみなのである、愛しい者を失い悲しむ者とともに。この者たちはこの地上の豊かさに満ち溢れているひとびとと異なり、天に眼差しを向けざるをえないひとびとであり、天父の祝福に与ると言われている。山上の説教は言葉の力による偽りの炙り出し、析出をこととしていた。自己満足にひたっている限り、八福の心的状況になることはない。このことは苦難の内にあるひとびとこそ福音を求めるということであり、良心が鈍く自らの偽りに気付かない限り、神の国とその義を求めることはないであろう。

 しかし、われわれはイエスご自身が八福をそのまま生きた方であったことを学んだ。御子の受肉と生涯を理解することが、「神の国とその義」を実質的に理解させるものである。天と地を媒介するイエス・キリストを介してだけ、ひとは具体的に神の国とその義にアクセスすることができる。キリストを知れば知るほど神の国について理解を深めることができる。

 「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまでご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-9)。この受肉と十字架の死そして高挙の主、この方を介して神の国にアクセスすることができる。このアクセスを可能にする基礎的な生物的事実は、ナザレのイエスの心魂(しんこん・こころ)そして身体はわれわれの心魂そして身体と「型」すなわち生物種において同じものであるに相違ないという前提である。さもなければ、イエスがアクセスできたようにはわれらには神の国とその義にアクセスできないであろうからである(「人間たちの似様性」とあるのは、ご自身は罪を犯さなかったためにこのように表現されている)。

 人間は土から造られており、その土的な生命原理は「肉」と呼ばれる。肉は土的、自然的な組成に基礎づけられている魂に宿る心のことである。イエスが受肉したさい、われらと同じ肉において自然的な生を生きた。他方、その肉的な心の底に「内なる人間」と呼ばれる、神と関わる部位がある(Rom.7:22)。それは「霊」と「叡知」と呼ばれるが、その二番底については今は詳しく述べることはできない。

 肉と内なる人間その二つの生の原理に即して、四種類の人々が聖書に即して分析されうる。(1)その肉によって貧しいひと、(2)その肉によって富んでいるひと、(3)その霊によって貧しいひと、(4)その霊によって富んでいるひとである。神に祝福されるひとは山上の説教によれば誰よりも(3)に属するひとであった。(1)はまず経済的貧困にある人々や病気がちである人々のことであり、(2)は経済的に豊であり、才能に溢れている人々のことである。(3)は神が祝福する心の態勢にある人々であり、この世の何ものによっても満たされず神を求めざるをえないその霊によって貧しい人々である。(4)その霊によって富んでいるひとは神の祝福のなか感謝と賛美に満ちている態勢にある人々である。例えば、イエスは或る時(4)の状況にあったことが記録されている。イエスは70人の伝道派遣が成功裡に終わって報告を聞いたときの状況が(4)に該当する。「主よ、汝の御名により、悪鬼もわれらに従います」と喜び勇んで報告されると彼は「悪魔が稲妻のように天から落ちるのが見えていた。・・そのときイエスは聖霊により喜んだ」と報告されている (Luk.10:17-21)。聖霊は内なる人間という根底から喜びを与える。

 (2)肉によって富んでいる者たちは、霊によって神を求めるそのような(3)霊によって貧しい生を遂行しようとはしないであろう。そのような祝福よりも、この世の美味なるもの、豊かであることに満足を求め、欲望をてらいなく解放したり肯定し、自己が最高と思われるものを追求し続けるであろう。隠れたところで社会を支える「地の塩」そして正義のためにリーダーとなる「世の光」であろうとすることはないであろう。問いは生活がそこにおいて営まれる身体とその生の原理である肉以外に、人生を導く原理が心魂の部位としてあるのかというものである。イエスは心魂の二番底から根底からその霊によって生きることを教えようとして、山上の説教を語りまたそれによって生きそして死んだ。

 道徳的次元をつきつめると、われらは自らの偽りを告白せざるをえない。もし道徳的次元を突き破ったところで二番底に出現する「内なる人間」というるものがなければ、われらは偽りのまま己惚れと自己卑下の繰り返しと他者と自己への審判、裁きの繰り返しのうちに人生を終えてしまうである。二番底から創造主と救済主に栄光と賛美を帰す者とならないものは、どんな苦行も自己栄光化につながる。偽りである。神と自己双方に兼ね仕えることはできないのである。断食が人を躓かせるなら、やめたほうがよいであろう。最後に遺された偽りなき生は一切を正確に知り、正義であり同時に憐み深い創造主にして救済主である存在者に生を任せることである。

 5信による一切の生の営みの秩序づけ

 イエスにおいては断食の実践は「何を食べるか、何を飲むか思い煩うな」という警告のなかで、「まず神の国とその義とを求めよ」に導かれまたそれにより基礎づけられている。そしてその背後には野の百合、空の鳥のように、人間的な煩いとは異なり、誰にも見られずにも咲き誇る花々また飛び回る鳥たちを神が創造されたことに思いを馳せるよう促す。神は本能という機構によってであれ、植物や動物を養ってくださっている(プログラムに従う穴蜂の例)。

「・・汝ら思い煩うな。魂[生命の源]は食物より一層大切なものであり、身体は衣服より一層大切なものであるのではないか。空の鳥たちを見よ、鳥たちは撒きもせず、刈りもせず、倉に集めもしない、そして汝らの天の父は彼らを養ってい給う。汝らは彼らよりも遥かに優ったものであるのではないか。汝らのうち誰が煩うことによって自分の身の丈に一キュービット[50センチ]足し増すことができるのか。また衣服のことで汝らは何を思い煩うのか。野の百合がいかに成長するかよく観よ。百合たちは労することも、紡ぐこともしない。だがわたしは汝らに言う、ソロモンでさえ彼の一切の栄華のなかで百合たちのひとつほどに着飾ってはいなかった。しかし、もし神が今日生えており明日炉にくべられる野の草をこのように着飾ってくださるなら、はるかに一層汝らを着飾ってくださるのではないか、信小さき者たちよ。かくして、汝らは「われらは何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」と言って思い煩うな。というのも、これらすべては異邦人が熱心に求めるものである。汝らは、しかし、まず神の国とその義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。だから、汝らは明日のことを思い煩うな、明日は自らを煩うであろう。その日の悪しきことはその日で十分である」(Mat.6:25-34)。

 イエスは対人論法によりユダヤ人の異邦人に対するまた他人に対する差別意識や誇りに潜む偽りを摘出したあと、ここでこの世の生命を祝福している。神は野の百合や空の鳥より「遥かに優ったもの」である人間に心をかけてくださる。神は正しい秩序のもとにある者たちに、イエスは食物や衣服など「これらすべては汝らに加えて与えられるであろう」と約束する。この権威ある言葉は信仰により受けとめられる。われらはここでこのナザレのイエスとその言葉を信じるかが問われている。神の国とその義に秩序づけられるとき、ひとは野の百合空の鳥のように神に養ってもらえることを信じるかが問われている。そしてそれは各人のリアルな人生を介して証明される。「木はその実によって知られる」(Mat.7:16)。

 食物よりも、生命がそれの故に維持される生命原理としての魂のほうが一層大切である。もちろん食物が魂の働きを支えているが、魂という生命原理に基礎づけられる心が例えば美食に向かうか質素な健康食に留まるか、善に向かうか悪に向かうかを定める。この生命原理に支えられて心が自らの生の方向を定める。「その心によって清らかな者は祝福されている」(Mat.5:8)。第一に神を求めるその純一さにおいてある心は祝福される。その心が宿るところのものが生命原理である魂である。「ひと[心]が全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひと[心]は自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。心が全世界を自分のものにすることより大切なのは自らがそこに属する自らの魂である、というのもその魂において心が神と関わるからである。そして心が神からそれるとき、自らの魂を失うであろう。そのような意味において魂のほうが食物より「一層大切」である。

 この信が生起する心の部位は道徳的次元の自己破綻に続いて見えてくる、内なる人間の二番底である。二番底に生起する信によりこの世の煩いと道徳的次元が乗り越えられる。

6 キリスト・イエスにおける神の愛が「神の国とその義」へのアクセスを可能にする

 神の思いは道徳的次元で善悪をめぐって同害報復のような正義(Lex talionis)のもとに生きる人の思いと異なる。一人の「迷える羊」を求めて、健全な一万人を野においても救いに来られる方である。健全な99匹の羊を置いて或いは9999匹をおいて一匹の迷える羊を探すことは経済原則即ち肉の法則にあわないであろう。さらには司法的な等しさの分配にも適合しないであろう。宇宙の栄光である神の独り子が受肉しひととなり、旧約聖書に基づきつつも、業の律法よりも一層根源的な信の従順を貫くことにより業の律法の冠である愛を成就したその御子は他の何ものにも代えることのできない比較不能な善である。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわれに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。

 この愛、憐みは本来的にわれと汝の等しさの相互性のうちに成立するが、この相互性故に、肉に埋没し肉において生きている限りその底にある心魂の部位は育たない。二番底が抜けることなしには、肉は自己の生存と繁栄に第一に関わる自然法則であるために、欲望のカモフラージュの愛はともかく、相互性の愛を経験することはできない。愛されて、憐みをかけられて初めてひとは愛するようになる。

 レビ記の記者は「汝の隣人を、汝自身の如くに、愛せよ」と命じる時、「汝自身の如くに」により表現している汝が自らを愛する愛と同じだけの愛が隣人に向けられねばならないという業の律法を伝えている。そのとき彼は愛が等しさの生起であることを知っていた(Lev.19:18,cf.Deut.6:5,10:12)。例えば父と子、夫と妻、教師と生徒等のあいだに、父は子によって父であり、子は父によって子であるその等しさがその都度生起するもの、すなわち、支配からも被支配からも唯一自由な場所で我と汝の等しさが生起すること、それが愛であった。そしてその等しさの生起に向かう歩みも希望における「愛」である。その方向にある限り希望が湧いてくるからである。人類は愛を永遠との関連においてしか語ってはこなかったのである。

 迫害する者、支配する者を祝福して呪わないこと、右の頬を打つ者に左を向けることが生起するとき、「喜び祝え、天における報いが大きい」(Mat.5:12)。それによってのみ敵が天において友と友となる希望が生じるからである。その希望に伴う喜びは、愛に基づく等しさの正義のもとに、他者を操作することから解放されている自らを安堵させ、清めるものだからである。

 憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、「良心・共知」の発動が、「道徳的運(moral luck)」と呼ばれるひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛されることを経験し自覚することなしにはまた相手方の状況についての知識なしには、発動しないそのような自覚や知識を伴うものである。「愛は神からのものであり・・神は愛だからである」(1John.4:7-8)。主イエスに罪赦されたことの証はどれだけ隣人を愛することができるかにおいて見いだされるからである。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。

 パウロも言う、「知識は高ぶり、愛は[徳を]建てる。誰かもし何かを知っていると思うなら、その者はまだ知るべきその仕方で知ってはいない。誰かもし神を愛するなら、その者は[神]ご自身により知られてしまっている」(1Cor.8:3)。高ぶりのなかで何かを知っていると主張するとき、愛されていることを知ることはできず、知るその仕方は少なくとも愛の相互性に基づかない。愛を求めない者には愛は生起しない。「わたしは清い者には清い者となり、僻む者には僻む者として振舞う」(Ps.18:26)。かくして、ひとは喜んで敵をも愛することであろう。「「もし汝の敵が飢えるなら、手ずから食べさせよ、渇くなら、その者に飲ませよ・・」。悪によって負かされるな、善によって悪に勝て」(Rom.12:20-21)。

 イエスにおいて神は人類への愛を示した。罪なきイエスの身代わりの死は、右の頬を打つ悪行に対し左の頬をも差し出し、すべての者への愛を成就することによる応答であった。「キリストの愛われらに迫れり」(2Cor.5:14)。彼は父の御心として信じた愛の業を信のもとに遂行した。それ故に十字架の現場に「神はキリストのうちにいましたのであって世界をご自身と和解させており」(2Cor.5:19)と報告されている。御子の身代わりは神の愛をわれらに結び付けるものでもあった。「キリストはわれらがまだ罪人であるとき、われらの代わりに(huper hēmōn)死んだ、そのことにより神はご自身の愛をわれらに結び付けたのである」(Rom.5:8)。父なる神はその現場におり罪人との間の籬(まがき)、障壁を取り去るのに十分なものであるとして御子と共にあった。十字架は神ご自身の「現臨の場」(Rom.3:26)であった。

7結論

 かくして神の国とその義とは「キリスト・イエスにおいて顕された神の愛からわれらを引き離すものは何もない」(Rom.8:36)ことの知識を介して身近なものとなっていくだろう。そのことにより天と地は正しく秩序づけられるであろう。従って、煩いのなさの根拠は宇宙のかなたにある神の国であるというよりも、「神の国は汝らの只中にある」(Luk.17:21)と言われたナザレのイエスと共に生きることのうちに見出される。そしてそれは最も負いやすい軛である。「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(Mat.11:28)

 

 

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「断食」から野の百合空の鳥へ(1)

                         日曜聖書講義 2020年10月4日

序にかえて

(「生き抜かれた山上の説教」 (登戸学寮ニュース9号 「聖書の言葉」から)

「座右の銘」とは常にその言葉に立ち返り自らを顧みる生の根源的視点である。小学生の頃から筆者の心の内奥から飛び出してくる言葉(群)はイエスの山上の説教(Mat.5-7)であったと今にして思う。野球でボールをそらすと、父が後ろから「探せ、探せば見つかる」(7:7)と声をかけた。材木屋の我家には建築資材に事欠くことはなかったが、母は日曜学校で「岩の上に家を建てた賢者」(7:24)の紙芝居を見せて、「土台をしっかり立てましょう」との明るい声を、人生は「天国への入学試験」とともに思い出す。今頃亡き母はどこかで微笑んで「信じた通りよ、「明日を煩わず」「狭き門から入りなさい」(6:34,7:13)」、それとも一層ニコニコして「ごめん、間違いだった」と言っているのであろうか!?

 この四か月学寮では山上の説教を学んだ。天父が祝福する人々は、戦後高度成長期の競争的な時代精神と何とも相いれなかった。子供心に二つの世界の認知的不協和を痛みとともに感じていた。柔和な者、憐み深い者そしてその霊によって貧しく、この世の何ものによっても満たされず神の正義を渇き求めそして平和を造らずにはいられない心の清い者たちが神のお好のみなのである、愛しい者を失い悲しむ者とともに。イエスご自身が「わが愛する子、わたしは嘉みした」(17:5)と天父に祝された。その八福を語る方は実はリアルタイムに祝福を生きる方であった。彼の言葉はひとの心に一度届くとそこから逃れられない「権威をもって」(7:29)語られた。いかにも憎悪即殺人、色情即姦淫、愛敵即無抵抗などは良心・共知(con-science)の痛みの発動と共に常に身近であった。この春初めて聖書に触れた寮生諸氏にも、その言葉は不思議な力により心に格納され、突然良心が疼くこともあろう。

 山上の説教は人類の誰かが言わねばならなかった、ひととしての道徳上のまさにその究極の在り方を伝える。そこには信仰の直接の勧めも、奇跡の執行もない。彼は当時のユダヤ人の伝統的な道徳観の立場に身を置き、対人論法によりその不徹底さを指摘し、モーセ律法を急進化した新しい「教え」を言葉のみで伝える。パリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三つ心が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。彼らはこの世で「既に報いを受け取っている」(6:5)。「報い」は、地における善行への報酬で「既に」等しさが成立しており(さらに天は過剰)、功利主義的理解(最大利益即福)よりもまず比量的、応報的な等しさという正義を意味する。

 比量的なモーセ律法を乗り越える、より根源的な信に基づく神の義はそこでのみ憐れみと両立した御子の従順の生を介して知らされた。右手で為す善行を左手に知らせない隠徳は一切を正確に知り、正義かつ憐れみ深い神の前での正しい判断を仰ぐことになる。恩恵の無償性に基づく福音のみが「わたしが律法を廃棄すべく来たと汝ら看做すな・・成就するべく来た」(5:17)を実現させる。イエスは誰にも担いえない心の規範を与え、道徳的苦悩を課す方ではない。その言葉に偽りがなく、彼は山上の説教を生き抜き、またそれ故に死んだ。「疲れたる者、重荷を負う者、われにきたれ。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげわたし[の歩調]から学べ、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。イエスと共に担ぎ歩く良き軽い軛とは信である。この比量不能な恩恵(御子における信に基づく神の義の啓示)においてひとは良心の宥め、平安、柔和を得る。

1イエスの鋭さ、深さそして高邁さ

 山上の説教はイエスの志の高さと偽りの追求の鋭さとそしてこの地上で生きることの喜びを伝える。ここには聖性と高邁さが満ちておりそして詩人のインスピレーションのもとに力強い推論と構想力が縦横に展開される。神の国と神の義に集中するその教えは生の一切をそこから秩序づけ天と地を繋ぐものであり、宇宙論的な構想が描かれている。これまでモーセ律法の急進化、純粋化において舌鋒鋭いイエスを主に学んできた。言葉の力のみで、われらを神の完全性に倣うよう高みに導こうとする気迫におそれを抱いてしまうそのような姿を主に描いてきた。山上の説教において彼の純一さと鋭さが前面にでているけれども、他方、イエスは子供達、弱い者たちを愛した優しさ、柔和さを兼ね備えており、そして実はそこから山上の説教も語られており、少しづつ彼のこの側面についても学んでいきたい。イエスにはひととしての高度のバランスが見出され、心魂の根底から全方位的にそして情熱を伴い聴衆を引き付けている。さもなければ、二千年も読み継がれ、彼についていく者を生み出すことはなかったであろう。

2テクスト

 今日のテクストは6章16節から34節である。「汝らが断食するとき、陰鬱な偽善者たちのように成るな、というのも彼らは自分たちの顔を醜くするがそれは人々に断食しているように見えるためである。わたしは汝らに言う、彼らは現に報いを受けとっている。しかし汝が断食するさいには香油を汝の頭に塗りそして汝の顔を洗いなさい、それは汝が人々に断食しているように見えずに、隠れの内にいます汝の父に見えるためである。そして汝の父は見ておられ、隠れの内に汝に報いたまうであろう。

 汝らは地上に汝らにとっての宝を積むな、そこでは虫と錆が浸食してしまいそしてそこでは盗人が押し入り盗んでしまう。天に汝らにとっての宝を積め、そこでは虫と錆は浸食せず、そしてそこでは盗人は押し入りもせず盗みもしない。というのも、汝の宝があるところ、かしこには汝の心もあるであろうからである。

 身体の灯火は目である。だからもし汝の目が健全であれば、汝の身体全体が輝くであろう。しかし、汝の目が悪しきものであるなら、汝の身体全体が闇となるであろう。かくして汝のうちにある光が暗いものであるなら、暗さはどれほどであろう。

 誰も二人の主人に兼ね仕えることはできない。というのも、一方を憎みそして他方を愛するか、或いは一方に忠実であり、他方を軽蔑するかだからである。汝らは神と富双方に仕えることはできない。

 そのことの故にわたしは汝らに言う、汝らの魂[生命の源]のことで、汝らは何を食べようか、何を飲もうか、また汝らの身体のことで何を着ようか、汝ら思い煩うな。魂[生命の源]は食物より一層大切なものであり、身体は衣服より一層大切なものであるのではないか。空の鳥たちを見よ、鳥たちは撒きもせず、刈りもせず、倉に集めもしない、そして汝らの天の父は彼らを養っていたまう。汝らは彼らよりも遥かに優ったものであるのではないか。汝らのうち誰が煩うことによって自分の身の丈に一キュービット[50センチ]足し増すことができるのか。また衣服のことで汝らは何を思い煩うのか。野の百合がいかに成長するかよく観よ。百合たちは労することも、紡ぐこともしない。だがわたしは汝らに言う、ソロモンでさえ彼の一切の栄華のなかで百合たちのひとつほどに着飾ってはいなかった。しかし、もし神が今日生えており明日炉にくべられる野の草をこのように着飾ってくださるなら、はるかに一層汝らを着飾ってくださるのではないか、信小さき者たちよ。かくして、汝らは「われらは何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」と言って思い煩うな。というのも、これらすべては異邦人が熱心に求めるものである。汝らは、しかし、まず神の国とその義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。だから、汝らは明日のことを思い煩うな、明日は自らを煩うであろう。その日の悪しきことはその日で十分である」(Mat.6:16-34)。

3断食を介して見える生活の煩いとその乗り越え

 「断食する(nēsteuō)」は「食べる(esthiō)」の否定語であるが、生存欲求の最も基本的な食べることを否定する営みはとても禁欲的、宗教的な儀式ないし実践であるという印象を与える。現在、一方では空腹に苦しみ断食どころではない人々が多数おり、他方、断食が語られるとすれば多くは健康上の理由による人々がいる。空腹時は毒素の排出がおこなわれており、健康に寄与するという報告がある。日本という金銭さえあればありつくことのできる食事についてわれらはどれだけのメッセージをこの断食の教えから聴き取ることができるであろうか。イエスは荒野の誘惑を受けるさいに40日40夜、即ち十分な日時を断食したと報告されている。知り合いの僧侶がアウシュビッツで完全断食したおり、10日目に或る女性が涙ながらに暖かい牛乳をさしだしという。それを誘惑と退けることなしに、彼は飲んだ。もし飲んでいなければその日のうちに視力を失っていたかもしれないと彼は後に言っていた。断食はせいぜい十日間が限度であり、それほどに栄養摂取は言うまでもなく身体に甚大な影響を与える。

断食と聞くだけで、嫌悪を感じる人もいよう。それほどまでに食は生存の基本的な欲求であり、生がそしてその喜びが脅かされるのを感じる。グルメ番組は賑わい、どこまでも美味を求めての料理の追求は飽くなきものであり、「何を食べるか煩うな」と言われると、もう既にキリストの弟子であろうとすることから脱落してしまう人もいよう。

 ただ、イナゴを常食した洗礼者ヨハネとの対比において、イエスご自身「大食いにして大酒のみ(phagos kai oinopotes)」(Mat.11:19,cf.Luk.22:17,30)という悪評を播かれることもあったようである。これは彼が罪人と呼ばれる人々と親しく交わったという状況のなかで、噂されたことであろう。確かに、彼は断食をしていなかったと報告されている。洗礼者ヨハネの弟子がイエスのもとにきて、「われらとパリサイ人は断食するのに、何故汝の弟子たちは断食しないのか」。それに対するイエスの応答は「新郎の子供たちは新郎が彼らと共にいる限りはまさか悲しむことはできまい。しかし、新郎が彼らから去るとき、そうすればそのとき彼らが断食する日々が来ることであろう。誰も新しい布切れを古い衣につぐことはしない、補った布切れはその衣を破って、綻びは一層甚だしくなるからである。新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けそして酒はほとばしりでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:14-17)。これは旧約と新約の関係にあてはまる。業の律法のもとに福音は入れられない。業の律法を破ってしまうであろう。福音は信の律法に入れられる。

 彼がこの地上で弟子たちと共に生活する日々は限られていた。彼は弟子たちと苦楽を共にしていた。例えば彼は弟子たちを伝道に派遣し、その成果が「主よ、汝の御名により、悪鬼もわれらに従います」と喜び勇んで報告されると彼は「悪魔が稲妻のように天から落ちるのが見えていた。視よ、わたしは汝らに蛇、蠍を踏みしだき、仇のすべての力を抑える権威を授けたので、汝らを害するものはなくなるであろう。しかし霊の汝らに服するを喜ぶな、汝らの名の天に記されたるを喜べ。そのときイエスは聖霊により喜んで言う、「汝、天地の主なる父よ、賛美します、汝はこれらを知者や賢者から隠し、幼子に顕わされました」(Luk.10:17-21)。

 この新郎とのういういしい日々の記述からまず明らかなことは、イエスとその弟子たちは少なくとも頻繁に断食をすることはなかったことである。それからイエスは断食を喜びとではなく悲しみと結び合わせていることである。別れが来た時には悲しみの表現として断食するであろうことが預言されている。

 他方、イエスは戒めている、「汝ら自ら心せよ、汝らの心は酒宴と酩酊によりそして生活の煩いにより鈍くなり、かの日[終末]は突然汝らのうえに来るであろう」(Luk.21:34)。いつも目覚めていることが求められている。衣食住の生活は誰もが求める心身のケアであるが、イエスはそれを人間にとって最も重要なことがらにより秩序づけることを教える。その秩序づけは6章において二人の主人に仕えることができないこと、それから生活の煩いを一旦わきに置き、「神の国とその義」とを求めることにより、遂行される。そこに向かわず、断食が神の国とその義への心魂の在り方を妨げ、例えば誇りにつながるようであれば、断食しないほうがはるかによい。(続く)。

 

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主の祈り 日曜聖書講義

主の祈り

                               日曜聖書講義 2020年9月27日

1序 

 「祈る」ということをひとはどのように受け止めているのであろうか。誰かに願うことはあっても、祈りの対象をもたないひともいよう。そのようなひとでもなにか窮境、苦しい状況に立たされたとき、ひとは神や仏に縋りつくこともあるであろう。そのとき、その祈りを捧げる対象は不可視な存在者であることについては同意されよう。「祈り」という言葉はそのような存在者に向けられている。ひとは自らの限りある生を持つ者であること、その有限性を自覚するとき、ひとは自然であれ宇宙であれ内面の道徳律であれ神や仏であれ、何か人間を超えた存在者に祈りや念仏を捧げてきた。この事実は誰も否定できない。祈りが生起する文脈は尋常ならざることが起きたときに助を求めるそのような状況である。そのような限界状況をも含めて、そのようなひっ迫した状況でなくともひとは自らの内面に「祈り」と呼ばれる何らかの促しを感じることも人類には自然なことであったに相違ない。祈りたくなるということ、それは神とひととを繋げるひとつの自然的なサインだと言うことができる。

 そのなかで、ひとは「祈りが聴かれた」と、時に、感謝と賛美を伴い言うことがあるであろう。或いは、その祈りの効力にむなしさを感じつつ、「祈りはついに聴かれなかった」と落胆と共に言うこともあるであろう。祈りが届かなかったという記録は、聴き届けられたという記録とともに歴史に残されてきた。われらはこのような問いをどのように受け止めることができるであろうか。本当の祈りではなかったからなのであろうか。本当の祈りとはあるのであろうか。祈りと偽りはどのような関係にあるのであろうか。

 聖書はこれらの一般的な問いに対してもやはり福音において応答している。山上の説教に記されている「主の祈り」を実現させるためにイエスは十字架につき、そこで父なる神はわれらの罪を赦した。主の祈りをわれらが心から祈ることができるように、すなわちこの言葉において偽りから解放されるべく、神の子は受肉し信の従順の生涯を貫き十字架と復活を介して福音を歴史の中にうちたてたことを伝えている。このことを学びたい。 

2主の祈り―天と地のことがらをめぐる二つの祈りの秩序づけ―

 イエスは明確な祈りの対象に対し明確な祈りがあることを群衆に教える。それは山上の説教のなかほどで為され、「主の祈り」と呼ばれてきた。そこではイエスは群衆に天の父に何をどのように祈るべきかを教えている。そこではこう言われている。

 「汝らは祈るとき、偽善者たちのようになってはならない。彼らは礼拝堂や広場の角で立ち続けて祈ることを好む、彼らが人々に見てもらうためである。わたしは汝らに言う、彼らは彼らの報いを現に受け取ってしまっている。しかし、汝が祈るとき、汝の部屋に入りなさいそしてその戸を閉めて、隠れたところにいます汝の父に祈りなさい。隠れのうちに見ています汝の父は汝に報いるであろう。

 祈る者たちは異邦人たちのようにくどくどと述べ立てるな、というのも彼らは自分たちの祈りは多くの言葉において聞き入れられると思っているからである。だから、彼らに倣うな。なぜなら汝らの父は汝らがご自身に求める前に汝らが必要としているものごとについてご存知だからである。だから汝らはこのように祈りなさい。

 天にましますわれらの父よ、汝の御名が聖なるものと崇められますように、汝の御国が到来しますように、汝の御心が成就されますように、天の如くに地の上でも。われらの日用の糧を今日もわれらにお与えください、そしてわれらにわれらの負い目をお赦しください、われらもまたわれらの負い目ある者たちに赦してしまっておりますように。われらを試みに遭わせず、われらを悪から救いだしてください。もし汝らが人々に彼らのあやまちを赦すなら、汝らの天の父は汝らにも赦すであろう。もし汝らがその人々に赦さないなら、汝らの父も汝らのあやまちを赦さないであろう」(Mat.6:5-15)。

 祈りはドアを閉め、他人の入る余地のないところでの基本的に父とわれら個々人の一対一のことがらである。他者がからむことによる、本心に偽りが生じてしまうことがなく、心からの内奥の思いを吐露することができるからである。父なる神との対話のなかで、心を調整するそのようなものだからである。カルカッタの路上にころがる人々を助け続けたマザーテレサは朝の二時間をそのように一人で過ごしたという。一日の働きの心の準備をしていたのであった。二時間を瞑想についやしたとしても、最後は主の祈りに帰ったことであろう。くどくどと繰り返し冗長になるな、六つの祈りで十分であるとイエスは教える。

 一切を知りそして公平にして憐れみ深い正義にして同時に愛でありたまう天にいます父なる神に祈ることは、誰もが「祈る」ということがらにおいて望むことであろう。恣意的な神々に祈ったとして、それはあたかも運命という名のもとに翻弄されるだけの人間存在と変わることがないであろう。祈るに値する信実な対象でなければ、われらの祈りは空を切るような手ごたえなきもの、或いは唆され欺かれるだけであろう。言葉の力として、ここまでは誰にも同意を得られることであろう。

 しかし、全知である神に何を祈り求めるのであろうか。祈りは神が嘉みするものである、ただし偽善者のようにひとに見られるための祈りや、くどくどと長い祈りを好まない。神は「求めない先から必要なものをご存知である」。であるとすれば、祈りは神との二人の個人的な関係であり、各自の心魂の基本的な態勢に戻り、心の調整を図るそのようなものであることが分かる。すなわち、心魂のこの世のものごとに散逸してしまった眼差しを一切を知り、憐み深くまた正義でありたまう神にその都度立ち返ること、それが祈りのゴールであり機能である。イエスはその祈りを教える。最初の三つは眼差しを天に向け神ご自身に栄光と賛美を帰し、聖性を賛美し、御国の到来を願い、御心のこの地に成ることを祈る。これらは簡潔であるがゆえにこそ、神ご自身の聖性と御国と御心の地における成就、神ご自身についてこれらは包括的な一般的な祈りであり、これら以外の何も神について祈ることはないであろう。続く三つは地のことである。日常の生活のこと、あやまちの赦しのこと、そして試みと悪から救いだされることである。

 祈りの相手はどこまでも「天にましますわれらの父」であり、「天の父が完全であるように」(5:48)と言われたその天の父に祈るということは、もともと祈りというものの対象としてふさわしい。偶像、アイドルに祈っても裏切られるだけであろう。これまでの講義でパリサイ主義の分析を通じて偽りがどのように忍び込むか、二心、三つ心に忍び込むことを確認してきた。偽りは本来、神の子として造られた自己に対し、あたかも自らの力で生きているかの如くに看做すこと、或いは偶像という自らの願望の投映に自らを見出すことに他ならない。詩人は言う、「自らのなかで罪を犯させるべく不法が語りかける、「自分の目の前に神の畏れはない」と。というのも、それは自分に対し欺いたからである、自分の不法を見出しそしてそれを憎むに至るまでは。彼の口から語られたことは不法と欺きである。彼は善を為すべくわきまえ知ることを欲しなかった」(Ps.36.1-4)。偽りから解放されている存在者に対して祈るのでなければ、祈りそのものが自他の欺きとなるであろう。

 イエスには天の父がいますことはなんら疑いの余地もないほど明らかなこととして山上の説教をそして主の祈りを教えている。もしこれが揺らいだら、すべてが偽りとなる。その意味でイエスは明確な信のもとに説教している。ただし、山上の説教においてイエスはユダヤ教の伝統的な道徳観のもとに群衆と共に立ち、その視点から心魂の道徳的次元で発動する良心に訴え、パリサイ人に代表される各人に潜む偽りを摘出し乗り越えるよう群衆を励ましている。その良心の発動は宮に捧げものをもっていく途中で急に自分に反感を持つ人を「思い出したなら」(5:23)という仕方で、突然気づくそのようなことがらである。心に潜む偽りの乗り越えは天の父に委ねられる。「われらを試みに遭わせず、われらを悪から救いだしてください」と。その意味において主の祈りでは道徳的次元を内側から破り、その眼差しを向けるべき方向が教えられていると言ってよい。実際、そこでは聖霊の注ぎも奇跡さらには、「信(pistis)」や「罪(hamartia)」という語句を見出すことはできない。当時の道徳観の言語で心に潜む偽りを乗り越えるべく言葉のみによりチャレンジしている。主の祈りもそのチャレンジの一つである。

 天にましますわれらの神に栄光を帰し、そして地に住むわれらのケアをもとめる、これは山上の説教の骨格、基本構想に合致する。彼はこの説教をひとつの基本構想のもとにこう秩序づけている。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、汝らにはなおさらのことではないか、信少なき者たちよ(oligopistoi)。だから、「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」思い煩うな。それはみな異邦人が切に求めているものだ。汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう。だから、明日のことまで思い煩うな。明日のことは明日が自ら煩う。その日の労苦はその日だけで十分である」(6:30-34)。

「何よりもまず、神の国と義とを求めよ」。「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である」。この帰一的な構造が主の祈りの構成でもある。天から地であって、地から天ではない。もし主の祈りがなかったなら、われらはどのように祈ったらよいか、とりわけこの帰一的な構造のもとでの秩序付けをこれほど簡潔にして要を得た仕方で理解することはなかったであろう。それほどわれらの眼差しは地を這いつくばっている。この祈りは仰ぎ見ることを教える。「主よ、わが魂は汝を仰ぎ望む。わが神よ、汝により頼む」(Ps.25:1)。

3 祈りにおける偽りの克服

 山上の説教がわれらの心魂とそこから生まれる行為の一切を秩序づけるように、主の祈りはそれを求める祈りであると言ってよい。この説教の内部で、主の祈りはこの説教全体を神とひととを結びつける祈りという仕方で秩序づけている。主の祈りはイエスご自身の祈りであったことであろう。ちょうどイエスご自身が山上の説教を語り、山上の説教を掛け値なしに生き抜いたように、彼が彼についてきた群衆に教えた祈りは彼自身の祈りであったことであろう、彼に偽りがない限り。この祈りは山上の説教におけるモーセ律法の急進化、純粋化と軌を一にしている。イエスはモーセ律法を愛に収斂させていた。そしてわれらに愛を実現させるべく神の子であることの信の従順を貫いた。そのように、この祈りを実現させるべく、つまり天のことと地のことを媒介すべく、帰一的に秩序づけるべく信の従順を貫いた。われらはイエスの十字架と復活なしに山上の説教を生きることができないように、二千年前のあの罪の赦しの出来事なしに、主の祈りを心から祈れないのである。

 われらの視点から語るなら、この宣教する方は宣教される方であった。リアルタイムに信の律法のもとに神の国を持ち運び福音を生きておられた。彼こそ主の祈りにおいて天と地を繋げるべくご臨在を求められるべきひとである。しかし、彼は肉の生のただなかで、リアルタイムにこの祈りを教えている。彼についてくる寄る辺なき群衆、ユダヤ人の立場に身を置く彼は、その肉の生のただなかでは、天の父にこう祈るよう教える。その背後には彼の信が揺るぎないものとして控えている。

 イエスはまず眼差しを天に向けるよう教える。御国とは天のことである。御心とはその天において実現されていることがらである。それらが地においても成るように祈る。これはとても素直で自然なことである。これ以上簡潔で直截な祈りは想定できない。ただひたすら天が崇められ、天の如くに地もなるようにという祈り以上に祈るべきことを人類はもたない。とりわけこの地上は多くの苦難と困難に見舞われており、そのような苦境の中で、それを乗り越え開放する力能ある方に訴えている。そしてそう祈るよう天の父の御子から教えられる。「求めよ。さらば与えられん。探せ、探せば見つかる。門をたたけ、開けてもらえる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。汝らの誰がパンを欲しがるおのが子に石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように汝らは悪しき者でありながらも、自らの子には良いものを与えることを知っている。まして汝らの天の父は求める者に良いものをお与えになるであろう。かくして、人々が汝らにしてくれるよう汝らが望む場合に、その限りのすべてのものごとを汝らもまた彼らに為せ。これこそ律法と預言者である」(7:7-12)。これ以上に人類は何を必要としているであろうか。この地は天に支えられている。そして「われらの父よ」と呼び掛けるよう教えられる。

4罪の赦し

 天のことがらに続き、地上の生活のことがらとして、生存に必須な食物を求める祈りが勧められている。またわれらを試みに遭わせず、悪から救い出してくださいとは、自然災害や戦争や争いそして疫病や飢餓そして事故などに囲まれているわれらにとって、常に喫緊のことがらである。

 そして何よりもわれらの最も難しいことをクリアさせることによって天と地を秩序づけようとしている。それは赦すということである。「われらの負い目ある者たちに赦してしまっておりますように」と現在完了形で語られている。その都度負い目ある者また「われらにあやまちを犯した者」を赦してしまっていなければ、この祈りを日常に祈ることができないというハードルが置かれている。これこそわれらを日々新たにする。われらの心魂は刷新を必要とする。「明日のことを煩うな」における「煩う(merimna)」は「部分、分割(meris)」を構成要素にしている。心が煩うとは様々なことに思いが分断されていることを言う。

 主の祈りが山上の説教に基づく生を導く主導原理である。まず神の国と神の義である。神の意志としての律法はパウロによれば最も明確にはモーセとイエスを介して「業の律法」と「信の律法」として知らされているが、それらは二種類の神の正義を構成している(Rom.3:27)。神の国と神の義の成就が、神の聖性を崇めることとともに挙げられる。続いて、生活のこと、そして信にとって最も困難な試金石、ハードルと言える赦すことが挙げられる。ここでも「罪の赦し」ということばは見られず、元来「借金」も意味する「負い目」さらには、「失敗」や「失態」を意味する「あやまち」が用いられる。イエスは群衆たちに道徳的次元に留まりつつ、それを内側から突破するよう言葉の力により教え導いている。主の祈りを教えたことに続いて直ちにこの祈りに帰る。「もし汝らが人々に彼らのあやまちを赦すなら、汝らの天の父は汝らにも赦すであろう。もし汝らがその人々に赦さないなら、汝らの父も汝らのあやまちを赦さないであろう」。それだけこの第五の祈りが主の祈りの隠れた中心であることが分かる。

 主の祈りはキビキビとしており、最も困難なことが日々の日常の祈りに織り込まれている。必要にして十分なことがらが簡潔に枚挙されている。それはただの六つである。隣人を愛するとか、自らが平安であるようにとか祈らずとも、「御心が成就するように」の一言に包摂されている。思い悩むという仕方での自我中心から解放されることの祈りである。その自己への執着から解放させるものが赦しの祈りであり、それがなされない限り、実はこれを祈れないそのような厳しいものである。イエスは招く、「疲れたる者、重荷を負うものわれに来たれ、汝らを休ませて挙げよう」(11:28)。そう言われる方である。われらを苦しめる方ではないはずである。

 祈りは神の国と義を求めるべく心を整えるものである。「天の父は求める者に聖霊をくださる」(Luk.11:13)と言われるように、神に聖霊を求め、清められるために祈りがある。主の祈りも心を神に向け、神からの憐れみとして聖霊をいただく、そのような父と子の交わりである。主の祈りを教えるイエスご自身はリアルタイムにこの福音を新しい契約を実現すべくこの地上の生を歩んでおられた。

 イエスは栄光を捨てご自身ひととなり自らを低くされたが、天の父は聖なる方であり栄光に光輝き、天高くいますがゆえにこそ、御子を栄光に引き上げ、一切を統べ治めたまう方である。「キリストは神の形姿のうちに属しているが、神と等しくあることを固執すべきものとは看做さず、奴隷の形姿をとり、人間たちの似様性になり、自らを空しくした。この方は型において人間として見出されており、は死に至るまで、十字架の死に至るまでご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-9)。神は十字架上のイエスをご自身の「現臨の座として差し出した」(Rom.3:25)。つまり、神は御子が苦しむ十字架をご自身がご自身の民とまみえる会見の場と定められた。これがエレミヤの言う新しい契約の成就であった。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導きだしたときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(Jer.31:31-34)。イエスご自身も言われる「この杯は汝らのために流されるわが血における新しい契約である」(Luk.22:20)。

 罪の赦しがいかにして成立するかの理論は「贖罪論(atonement)」と呼ばれる。ここでその議論を十全に展開することはできない。「代償刑罰説(vicarious punishment)」、「身代金説(ransom)」そしてわたしが正しいと考えている「父と子の協働説(cooperative)」などがある。どの理論にも共通にある基礎は罪なき方が彼を十字架に磔たわれらの罪をわれらの代りに身代わりとなり贖ってくださったということである。身代わりということがいかなることか正しく理解されねばならない。神の前で神によりナザレのイエスは信の従順を貫き罪なき者であるという神の認識は揺るがない。罪なき方が罪あるわれらの身代わりとなりわれらの罪を担ったのである。父なる神はその信の従順を嘉みし、ご自身の信に基づく義の啓示の媒介として用いられた。もし父なる神が罪なき御子をわれらの罪の代りに十字架上で怒りを示し罰したということであるなら、そのような神は不義をご自身の子に犯してしまうことになるであろう。この代罰説は審判者が被審判者を罰するという「目には目を」の業のモーセ律法のなかで福音を啓示したことになる。福音は「律法を離れて、しかも律法と預言者により証されて」啓示されたのである(Rom.3:21)。他の説に、神は贖い代としての身代金を支払ったというものがある。ここでの問いは罪人を贖いだすべく神がイエスを十字架につけて「誰に」身代金を支払ったのかというものである。オリゲネスはそれはサタンに対して支払われたのであるが、サタンはイエスがあまりに清いために、キリストへの対応をもてあまし、神に返したという興味深い解釈を展開している。他方、協働説というものがあり、わたしはこれがパウロのものであると考える。

 パウロは言う、「時の充溢が到来したとき、神はご自身の子を女から生まれることにより、律法のもとに生まれることにより、派遣した。それは律法のもとにある者たちを贖うためであり、われらが子としての身分を受け取るためである」(Gal.4:4)。十字架の贖いの出来事は旧約を乗り越え新約を成就することであり、業の律法から信の律法に人類を導きだすことであった。個々人の誰が贖いだされたかはイエス・キリストの信を介したほどには誰にもしらされてはいない。ここで遂行されたのは無償の恩恵の注ぎである。父なる神はイエスの信の従順に基づく罪なき義を嘉みしたのであり、生贄を好んだわけではない。「わたしは憐れみを好み、犠牲を好まず」(Hosea 6:6)。十字架は父と子双方による人類への憐れみからくる救済行為であった。

 パウロの贖罪論を「父と子の協働説」と名付けよう。その一ヴァージョンをアンセルムスが展開している。アンセルムスは言う、「父なる神が「わが独子を受け、汝の代わりに捧げよ」と言い、また子自身が「われをとり、汝を贖え」と言われた場合以上に深い憐みを考えることができるか」(Cur Deus HomoII18)。ここには代償刑罰はみられない。イエスは十字架上で信の従順を神に貫いた帰結として罪人たちの身代わりとなり罪を担うべく司法的次元で罪人の位置に自らつき、神はそれにより罪人を「彼ら自身において考慮することなしに」(2Cor.5:19)、その罪を十字架上についた御子が担ったと考慮することにより、和解を成立させた。「神は罪を知らざる方を罪と為した、それはわれらが[罪なき復活の主である]彼において神の義となるためである」(2Cor.5:21)。ここで「彼において」の理解として、不義なる彼において義となることは想定されないため、「(復活によりその義を証した)彼において」が正しいと思われる。ここでは自発的に罪を担った罪なきキリストが甦らされたがゆえに、われらの罪は赦され義とされると語られている。

 イエスご自身はゲッセマネの祈りに見られるように、父の御心の奈辺にあるかを尋ね求めつつ、信の従順を貫いた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていよ。・・・父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、汝が望むようになりますように」(Mat.26:38-9)。神は御子が人類の罪を担うべく罪なきままに罪と成ることを認可した。神はご自身の視点から罪なき者を罪ありと同定したのではない。罪なき者そのままで十字架を背負うという仕方で罪人の位置につき罪人の罪を担うことを認可したということである。

 ここではこれ以上追及できないが、主の祈りはこの罪の赦しなしには心から祈れないのである。われらは祈りにおいても偽善者であり、偽りなのである。悔い改めよう、心から迫害する者のために、敵のために祈ることができるように。そのとき、われらは古きおのれから解放された新しい自己を見出すであろう。「キリストの愛われらに迫れり、というのもこうわれらは判断しているからである、ひとりのひとがすべての者の代りに死んだ、かくしてすべての者たちが死んだのだと。彼はすべてのひとびとの代りに死んだ、それは生きている者たちがもはや自らにおいて生きることなく、むしろ自分たちの代りに死にそして甦った方において生きるためである。かくして、われらは今やもはや誰をも肉に即して知るまい。たとえわれらが肉に即してキリストを知っていたとしても、今やもはやそう知ることはないであろう。かくしてもし誰かがキリストのうちにあるなら、それは新しい被造物である。古いものごとは過ぎ去った、見よ、新しくなった」(2Cor.5:14-17)。

 終わりに

 このような事情であるとき、われらの祈りは聴かれるのかという問いは、小さなものに見えてくる。人類は大丈夫なのである。「神はご自身の独り子を賜うほどに世界を愛された」(John.3:16)。

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道徳次元の内破―山上の説教概観―

日曜聖書講義 「道徳次元の内破―山上の説教概観―」

                                        2020.9.20

[録音はこの原稿をもとに自由に加えています]。

1序

 新しい学期が始まりました。いつのまにか季節も秋めいて涼しくなってきました。日の出も日の入りもゆっくりとなってきました。コロナ禍において生活が制約されていますが、健康と生命にかかわることだけに、やはり慎重な対応が求められます。この国の医療と社会と学寮を崩壊させないということを念頭において、ウィルスに感染しているかもしれないという前提のもとに、留意して感染させないように密を避け、マスク、手洗いをするなどして生活していきましょう。

 60周年改修工事はご協力のもと、もう少しで完了です。装いを一新し見違えるように美しくなりました。またエアコンやキッチン、風呂場など生活も快適になります。なによりも耐震壁により守ってもらえることでしょう。聖書の言葉に「主が家を建てるのでなければ、建てる者の勤労は徒労(むな)しく、主が城を護るのでなければ、衛士(えじ)の覚めおるは徒労しい」(詩篇127:1)とあります。皆さんも見て感じられたように、真夏の日々多くの方々のエネルギーがこの建築、改修に注がれました。わたしも彼らの働きに大きな感銘を受けました。きつい労働が敬遠される中、彼らは黙々としかも楽しそうにわたしどもの生活のためにうちこんでくださいました。そのことについて来月刊行の学寮ニュース9号に書きましたので一部紹介します。

「60周年改修工事:8月3日、二つの高気圧に覆われた力強い夏空のもと、築62年の男子棟改修工事が始まりました。仮設足場の気の遠くなるような上下左右運動の運搬、組立に始まり、この過酷な労働条件に耐え抜いた屈強な男たちが―スナフキン帽の黒装束の細身青年を交え―チームで学寮の改修に取り組んでいます。屋上には防水シートが美しくはりめぐらされ、外壁の汚れは高圧洗浄により洗い流され、養生に覆われた壁はシールと三重の塗装により見違える外観となっていきます。耐震工事では鉄筋枠に最後にグラウトが流し込まれ盤石の壁面が出現しました。

 学寮の心(ソフト)に賛同くださる多くの方々の、次世代を担う若者への期待のあらわれとしてのご厚志がこのように具体的に形を成していきます。見えない所でのご労苦の果実により、建築現場の若者たちのエネルギーの迸りを介して、学寮は美しく甦っていきます。見ず知らずの作業員たちが汗吹き飛ばしながら学寮のハードを立ち上げていく。学寮の若者たちよ、立ち上がろう!多くの愛に支えられて学寮のソフトをそれぞれの仕方で実らせていこう。この時代にあってこの世界を美しい秩序ある構成に変革していこう」。

2 道徳的次元とその乗り越え

 さてわれわれは山上の説教を4か月学んできました。そこではイエスは素手で、すなわち聖霊の力に訴えることも、奇跡をおこなうことも、さらには信仰の直接の勧めをすることもなしに、当時の伝統的な道徳観のもとで、言葉の力だけでその乗り越えを企てています。話はいかなる特別な前提もない、誰もがそこにおいて善悪の判断をしながら生きている道徳的次元だけに限定し、そこでの偽りをえぐりだし、道徳的次元の突破を図っています。とても勇敢な企てです。

 ここではもういちど山上の説教5章にもどりイエスによる道徳的次元におけるモーセ律法の純化、急進化を確認します。その論法はまず定型句で「汝らは聞いている、昔の人々によりこう語られたのを」と切り出して、その言い伝えを引用します。5章で6回繰り返されます。古からの教えを提示したのち、「しかし、わたしは汝らに言う」と切り返し、それらの問題点を摘出します。

 例えば、こう言われています。(参考http://bible.salterrae.net/sinkaiyaku/html/Matt.html)。

①    5:21昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければならない。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡される。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれる。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まず汝の兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげよ。

②    5:27『姦淫してはならない』と言われたのを、汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯してしまっている。もし、右の目が、汝をつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまえ。というのも、からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからだ。もし、右の手が汝をつまずかせるなら、切って、捨ててしまえ。というのも、からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからだ。 

③    5:31また『だれであれ、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われている。しかし、わたしは汝らに言う。だれであれ、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させる。また、だれであれ、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯す。

④    5:33さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。汝の誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う。決して誓ってはならない。すなわち、天をさして誓ってはならない。そこは神の御座だからである。地をさして誓ってもならない。そこは神の足台だからである。エルサレムをさして誓ってもならない。そこは偉大な王の都だからである。汝の頭をさして誓ってもならない。汝は、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからである。だから、汝らは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言え。それ以上のことは悪からくる。

⑤    5:38『目には目を、歯には歯を』と言われたのを、汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う。悪い者に手向かうな。汝の右の頬を打つ者には、左の頬も向けよ。汝を告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやれ。汝に一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行け。汝に求める者には与え、借りようとする者には背を向けるな。

⑥    5:43『汝の隣人を愛し、汝の敵を憎め。』と言われたのを、汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈れ。それでこそ、天におられる汝らの父の子どもになることができる。天の父は、悪人にも善人にも太陽を上らせ、正しい者にも不義の者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いを持つであろうか。取税人でも、同じことをしているではないか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのか。異邦人でも同じことをするではないか。だから、汝らは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

3 ナザレのイエスにおける信の従順による律法の成就

 今日までの人類の歴史に鑑みてまた自らの良心に照らして、ひとの心魂(こころ)の根底からの偽りなき生の在り方をめぐって、あらゆる懐疑の末に残される確かなものは聖書に記されているナザレのイエスの言葉(ロゴス)と働き(エルゴン)である。彼の言葉と働き、その一挙手一投足に侵しがたい権威があり、その人格と認識に抗しがたい魅力、引力がある。彼に信従する限り肯定的、創造的なるもの、聖なるものが歴史に生起する、そして人類の悪に終わりがくる、そのような希望が心魂の内奥に湧きあがる。ナザレのイエスの一挙手一投足には人間であることの真理のそして宇宙万物の真理の根源の理(ことわり・ロゴス)が内在していた。

 イエスは山上の説教(Mat.ch.5-7)において神に祝福される八つの心的態勢を天国における慰め、満ち足り、喜びとの関係において語った(Mat.5:1-12)。柔和な者、憐み深い者そしてこの世の何ものによっても満たされない、その霊によって貧しい者(ptōkoi tōi pneumati :行為主体agentの与格)、かくして神の正義を渇き求めそして義のために迫害されながらも平和を造らずにはいられないその心によって清い者たちが神のお好のみなのである、愛しい者を失い悲しむ者とともに。天の父はナザレのイエスを「わが愛する子、わたしは嘉みした」(17:5)と祝福したが、その八福を語る方は実はリアルタイムにその祝福を生きる方であった。彼の言葉はひとの心に一度届くともはやそこから逃れられない「権威をもって」(7:29)語られた。

 いかにも憎悪即殺人、色情即姦淫、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなく良心・共知(sun-eidēsis, con-science)の痛みの発動と共に常に身近である人々がいる(5:22,5:28,5:39)。認知的な協和と不協和に即した良心の平安と疼きをめぐっては、部族や国民との共知から神との共知まで多様である。一方、「赤信号みんなで渡れば怖くない」と言われ、自己責任の名のもとに歩行者の共知として疼きもなく、カルニヴァルの部族においては友人に自らの最良の部位を遺品として残すそのような人々がいる。他方、イエスとその山上の説教とを共知の相手方とする者たちには、心の少しの歪曲が痛みになる。パウロにおいても「良心」とは神において明らかなことが自分たちにも明らかになるその心の座である。彼は言う、「われらは皆キリストの審判の座の前で明らかにされねばならない。それは各人が身体を介して為したことがらに応じて、各人が善きものであれ、悪しきものであれ受け取るためである。かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11)。

 山上の説教は人類の誰かが言わねばならなかった、ひととしての道徳上のまさにその究極の在り方を伝える。そこには信仰の直接の勧めも、聖霊の賦与も、奇跡の執行もない(「信」の派生語が一か所のみoligopistoi「信小さき者たちよ」(6:30))。イエスは当時のユダヤ人の伝統的な道徳観の立場に身を置き、対人論法によりその不徹底さを、さらにはこの世もあの世もという二心(ふたごころ)に潜む偽りを指摘し、モーセ律法(業の律法)を純化、急進化した新しい教えを言葉の力のみによって伝える。

 その説教において乗り越えが企てられている敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」(6:5,6:17)。「報い(mistos)」は、その理解において最大の利益が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により「現に」善行と報酬のあいだには等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。イエスは信に基づく正義を打ち立てるが、ここでは道徳的次元のみにて比量的、応報的正義をつきつめ、それ自身の議論領域のなかでその種の正義を乗り越え突破する。

 イエスは言う、「「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:43-46)。イエスは家族や隣人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において支配や操作が遂行されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。敵は友となることもある偶然的な関係にすぎず、ひとがひとである限り本来的に友と友の等しさつまり愛が成立しうる者だからである。

 レビ記の記者が「汝の隣人を、汝自身を[愛する]の如くに、愛せよ」と命じる時、愛は等しさ、例えば父と子、夫と妻、教師と生徒等のあいだに、父は子によって父であり、子は父によって子であるその等しさがその都度生起するものであることを知っていた(Lev.19:18,cf.Deut.6:5,10:12)。すなわち、支配からも被支配からも唯一自由な場所で我と汝の等しさが生起すること、それが愛であった。迫害する者、支配する者を祝福して呪わないこと、右の頬を打つ者に左を向けることが生起するとき、「喜べ、天における報いが大きい」(Mat.5:12)。それによってのみ敵が天において友と友となる希望が生じるからである。その希望に伴う喜びは愛に基づく等しさの正義のもとに、他者を操作することから解放されている自らを安堵させ、清めるものだからである(読者におかれては各位の敵を無理にでも思い浮かべて頂きたい)。憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。

 人類は山上の説教の前に身がすくみ、懐疑と反論を提示してきた。「律法は怒りをもたらす」(Rom.4:15)とあるように、山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろうが、これを語ったイエスは人間にはとうてい満たしえない心的規範また行動規範を与えており、誰にも負えない重荷を負わせ、道徳的苦悩をもたらすだけなのではないか、彼はそれによって彼の追随者たちをただ神の怒りのもとに怯えさせ苦しめる者なのではないかとの問いと懐疑が提示されてきた。歴史は心情倫理と責任倫理をわけて、後者の視点を多くの場合採用し社会の秩序を守る制度を充実させてきた。「裁くな」「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は防衛を不可能にするため、個々人の心魂の在り方としては賞賛されるが、行政機関、政治は結果責任のもとに到底山上の説教に与することはできないと主張された (Mat.7:1,5:33-37,5:31,5:39)。

 しかし、イエスは言う、「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。 わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」(5:17-20)。

 イエスご自身は旧約のなかで新約を打ち立てようとする途上の生を福音書に報告されている彼の生の歩みの中の今・ここにおいて遂行している。「この杯は汝らのために流されるわが血における新しい契約である」(Luk.22:20)。モーセ律法とは十戒に基づくものであり、パウロにより「業の律法」(Rom.3:20,26)と呼ばれるが、そこでは各自が偶像を拝むか拝まないか、偽るか偽らない、貪るか貪らないか等という二者択一の一方を自ら遵守することにより正義であると神に看做される。他方、新約における「信の律法」(Rom.3:26)と呼ばれるものは、神がイエス・キリストにおいて約束に信実であったとき、信じるか裏切るかの二者択一を提示している。神が提示する戒めに自らの業による応答かそれとも神が自らの約束に信実であったときその神の信に対し信による応答か、旧約と新約いずれの律法を根源として生きるかが問われている。

 業の執行においてパリサイ人に優ることが求められている。「学者とパリサイ派の者たちはモーセの座についたのである。かくして、彼らが汝らに語るならそれらのことをすべて汝らは行いそして心に留めよ、しかし彼らの業に見習ってはならない」(Mat.23:2)。イエスは神の律法を一つの体系のなかで捉え、軽重を明確に判別している。「ああ、なんということだ、汝ら、律法学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばきそして憐みそして信を蔑(ないがし)ろにしている」(Mat.23:23)。彼はここで正義と憐みそして信を律法のなかで重要な戒めとして位置づけており、イエスは義と愛と信これら三つのなかで、不可視な神に向かう途上の生における根源的な心魂の態勢である信を基礎にして愛と義の両立に向かった。イエスは信の従順を貫いた、そしてそこにおいて公正なさばき・正義と憐み・愛が和解した。ナザレのイエスの信に基づく正義と愛の働きによる神とひとの和解の理論的解明がパウロの課題であった。

 天地が過ぎ去るまで律法の一点一画とも廃らないとは、イエスは「愛」が一切の律法のなかで「偉大な戒め」であると理解しており、そのもとに他の一切の戒めを秩序づけられる限り、理解可能となる(22:36,cf.「律法の冠」Rom13:9)。愛が満たされる限り、業の律法としての正義は満たされており、あらゆる律法がめざす愛を実現する限りにおいて一点一画とも廃れてはいないと言うことができる。人類のなかで少なくともイエスは信に基づき愛と正義を貫いた。この意味において山上の説教は希釈されることはない。イエスは誰にも担いえない心の規範を与え、道徳的苦悩を課す方ではない。その言葉に偽りがなく、彼は山上の説教を生き抜き、また山上の説教の故に死んだ。

 ナザレのイエスは自らの生命をかけて父なる神に自ら神の子であることの信の従順を貫き、そして神の子であることを証することは敵である罪人を贖うべく、罪人が彼を十字架に磔たが、罪なき者として罪ある者の身代わりの死を遂げることであった。神はそれにより愛を人類に示した。「神はご自身の独子を賜るほどにこの世界を愛した」(John.3:16)

 その和解者はひとの弱さに衷心からの「憐み(splangchnon=はらわた)」を示し、柔和であり謙遜であった。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」(Mat.9:36)。彼は彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、われにきたれ。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学べ、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙遜が伝わる。彼から誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂く以外に、ひとは不公正や侮辱そして迫害に耐え、呪う者を祝福し「平和を造る者」にはなりえない(Gal.6:1,Mat.5:9)。

 彼の軛を共に背負う歩みは日常をも彼の憐みに委ねる。何を着、何を食べるか日常のことがらについて、「汝らの天の父はこれらすべてのことを汝らが必要としていることをご存知である」(Mat.6:32)と言われる。この慰励の言葉の背後には天父への信が働いている、「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(7:11)。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。「まず神の国と神の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の煩いはその日で十分である」(6:32-33)。さもなければ、明日への不安の中で自らの肉を神とする「肉の欲」に飲み込まれ、神の意志に背くことになる(Gal.5:16)。神の意志に背くこと、それを「罪」と言う。

 イエスはパリサイ人が眼差しを神の国に向けない偽りを見出し言う。「ああ、なんということだ、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、内側は強奪と情欲で満ちているが[現在分詞]、杯や皿の外側を清めている。盲目のパリサイ人たち、まず杯の内側を清めよ、それはその外側も清まるためである。ああ、なんということだ、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、汝らは石灰で塗った墓に似ている。何であれ外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる穢れで満ちている。このように汝らもまた外側は人々に義人に見えるが、内側は偽善と不法で一杯である」(Mat.23.23-28)。所謂色金名誉をつまり「肉の欲」を心魂の根底に置くとき、もはや眼差しは曇り肉に閉ざされてしまう。

 人間社会が自律したものとして自らを制度化、律法化しさらに科学技術を促進することは一見人間の知性の証であるように見えるが、これらは神に頼らずにすむシステムの構築として肉を厚くする一種のパリサイ主義に陥る危険に常にさらされている。これらの営みは、最も良きものによる秩序づけなしには、自らの理解する公平さ、快適性、効率性の名のもとにある隠れた欲望、有利性を正当化するシステムの作成に向かう傾向性にあり、その結果心魂を罪に引き渡し、神への眼差しを忘れてしまう。肉の欲につけこみ誘うものは擬人化される「罪」と呼ばれるが、その罪に同意する仕方で「自らの腹」を神とし「地上のものごとを思慮」する者には「罪が巣食う」(Rom.ch.7,Phil.3:19)。

 ひとびとは日常の労苦に絡み取られるとき、また自らの欲望に囚われるとき、神の国を仰ぎ見ることをいつの間にか忘れてしまう。それゆえに生の一切がそのもとに秩序づけられるヴィジョンのもとに日常の一切が常にふさわしく位置付けられることが不可欠となる。心の在り方所謂心情を定まりなきものとして無視し、責任倫理の名のもとに、自らを吟味せず、いきあたりばったりの敵と戦うそのような国益や私益に隷属することは定見なき無思慮な企てであり、一定の舵取りができず、周章狼狽することになる。心情倫理のもとに責任倫理をも包摂する人間と世界の理解が求められる。聖書的に言いなおせば、神の国の信と希望のもとに、愛に収斂する純化、急進化させられる業のモーセ律法が秩序づけられる。制度化や科学技術が許容されるのは神の国に秩序づけられる限りにおいてのことである。

 「目には目を」(5:38)の比量的なモーセ律法を乗り越える、より根源的な信に基づく神の義はそこでのみ憐れみと両立した御子の従順の生を介して知らされた。滅びに至る門は広く、「狭い門」から入るべく、大地を固める「地の塩」として人間社会を黙々と堅固に下支えし、また自らの全身を輝かせ、「世の光」として「善き働き(ta kala erga)」のもと先導する。「山の上に立つ街は隠れることはできない」(5:13-16,7:13)。そのなかで「右手で為す善行を左手に知らせない」陰徳は一切を正確に知り、正義かつ憐れみ深い神の前での正しい判断を仰ぐことになる(6:3)。受肉と信の従順の生により実現した恩恵の無償性に基づく福音のみが「わたしが律法を廃棄するべく来たと汝ら看做すな・・成就するべく来た」(5:17)を実現させる。神は御子の従順の信を介して信に基づく義を知らしめている。この比量不能な恩恵即ち御子における信に基づく神の義の啓示においてひとはこの世の煩いから解放され、良心の宥め、平安、柔和を得る。

 

 

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枡形夏の聖書講義3 パンデミックと聖書(その二)―「神の怒り」を手掛かりに―

桝形夏の聖書講義3

パンデミックと聖書(その二)―「神の怒り」を手掛かりに―

 本日の講義は8月23日日曜日の「パンデミックと聖書(その一)-イエスの山上の教えー」の続きです。今回の疫病に対して聖書はいかなるメッセージを発信できるかに挑戦しています。

 今Covid-19は現在進行形であり、世界中とどまるところを知らず感染者が3000万人にもおよぼうとしている。日本も油断をするとすぐ増加することは経験的に明らかになってきている。今回のパンデミック、そして地球温暖化その他多くのグローバルな問題は科学の問題であって、宗教がそこで神をもちだし何らかの口出しするとき失笑を買うことが常のこととなっている。かつて雷はゼウスの怒りとして受け止められた。人類の科学的知見が広がり精密化するにつれて、神を持ち出して説明する領域は狭まり、やがて神は不要となると主張されることがある。これは解明されるべき地平は一つであり科学と宗教は領域を異にしており勢力を争っているという領域論的思考と呼ばれる。科学が万能であり、宗教的知見はやがて消滅するというこの思考とは別に科学と宗教のあいだには対応論的・両立的思考や科学が解明しえない不可視なものまた終末をも包括しうる総合的思考が提示されている。

 個人的にはこの春まで哲学的な理論の世界に留まっており、宗教家として実践的な指針を与えるという務めを職務として負うことはなかった。しかし、今キリスト教の学生寮の運営と共同生活を通じて学生の心身の健康を預かる身となって、何らかの実践的指針を提供しなければならない立場となった。科学と宗教、政治と宗教、社会と宗教これら双方の対話のなかで、小なりと言えども職務として宗教的指導者の立場となった今、聖書の一字一句の解釈に留まっていることができる状況にはなくなっており、何らかの発信が求められている。しかし、8月に「パンデミックと聖書(その一)」を発信してみたものの、やはりとても難しいと感じる。福音だけを説き、喜びだけを語っていたいと思う。そのなかで具体的な実践は各自の判断に任せるということも可能ではあろうし、自己禁欲として必要なことでもあろう。他方、イエスの弟子であろうとする限り、彼がヘロデやピラトさらにはパリサイ人との戦いに巻き込まれたように、何らかの政治的立場、社会的立場に巻き込まれていくことも避けえないように思われる。この夏、パンデミックと聖書というテーマを選んでしまった以上、今回はそれを避けては通れない。

 明らかなことは、各自の実践はそれぞれの時代に置かれての固有の文脈上のことであり、聖書を解釈して適用するにしても、当方の責任に属するものであり、聖書が伝える神を盾に責任を逃れることのできないということである。テクストの上で正しい読みはいかなるものかという問いに長く関わってきたが、今や実践へのその適用が自らの責任において求められている。しかし、聖書講義である限り、やはり福音を伝えることが第一の使命であり、聴衆に実践上の指針を与えることは派生的なものに留まる。そういう意味ではこれまでとかわらない。ただし、個々人の具体的な状況にかかわるより複雑な状況での発言ということになる。今回の疫病は神の怒りであるという直接的な宗教的発言をなすことはできないが、歴史における悪というものに対する神の聖書的応答がいかなるものであるかを一般的に伝えたい。

2.科学のメッセージと聖書のメッセージ

 宗教家が何か言うことはもちろん言論の自由に属することであるが、聖書は明らかに終末について預言している。どのような形で人類にそして人類がそこに住む天地が巻き去られていくかについてヴィジョンを示している。それは日本語では「黙示」と呼ばれる啓示の報告或いは霊感づけられた聖書記者たちの記録である。科学は例えば過去50年で野生生物の個体数がどれだけ減ったか、地球の平均気温がどれだけ上がったか、疫病の感染者数はどれだけであるかを伝えることができる。また何年後かの隕石との衝突を知らせることもできるであろう。これらの知見は尊重されねばならない。他方、科学的知見に基づいて科学者が何か政治的、社会的発言をするときには、今回われわれがメディアを通じて経験しているように、今後の生活形態についての科学者諸個人の総合的判断を提示している。その点では聖書解釈者が聖書の知見に基づいて総合的判断を形成するのと、いずれがより信用されるかは別にして、構造は変わらない。人類は常に未来のことがらに関しては、信念や判断の表明以上のものを伝えることはできないからである。

 地球に終わりがくること従って人類に終わりが来ることは今や科学的に自明なことであり、科学が聖書に追付いてきたとも言える。聖書は神が宇宙を創造してそしてこの惑星においてご自身に似せて長い年月をかけて人類を創造し新たな天地における救済の手を差し伸べていることを報告している。これは科学の救済手段の提供とは異なる。それは神がひとと異なる限り、創造者と被造物が異なる限り、被造物である科学者の見解とは異なるものである。たとえ神の存在が被造物の願望の投映にすぎないという懐疑が提示されるにしても、無矛盾な明確な主張が歴史の審判を経て伝えられているとするなら、それは謙虚に学ぶに値することであろう。そして聖書は神の国との関連でこの地上の営みが神の導きにより秩序づけられると主張する。

 かくして聖書と科学は、科学が人間の営みであるという自ら抱える制約からして、神の意志の数式的な解明はできても、神の人格的な意志については語りえないものである。領域論的な相違というものではなく、聖書が神の意志を報告するものであるという立場から、神自身の知らしめという啓示行為の視点のもとにそれを報告している聖書に基づき応答を試みることは有意味なことである。少なくとも一つの科学に還元されないしかも有意味な視点を提供していると言える。もし明確な科学的知見があるとすれば、それと矛盾しないことは当然この神の視点からの知見、発言に求められている。全知全能な神が存在し宇宙を創造し、何らかの仕方で宇宙と人類の歴史を導いているという信念は人類がその創生以来持ち続けてきたものであり、むしろ人間本性に根差した自然な発想の一つであると言うことができる。この点はこれ以上追求しないが、その前提のもとで今回のパンデミックについて聖書は、今回はとりわけパウロはどのように捉えているかについて探索したい。

 3.ヴィジョンとそのもとでの日常

 前回は山上の説教に基づき、感染の連鎖を止めるべく、自ら感染させるよりも、受動する方がよい、被害を与えるより、害を被るほうがよいという判断が道徳的にも感染の連鎖を止めるためにも不可欠であることを確認した。三密を避けるマスクを着用するなど小事に忠なることは、生の一切がそれにより秩序づけられ統一されるヴィジョンを必要としており、山上の教えにおいてはそれはまず「神の国と神の義」とを求めることであった。その信のもとにこの地上の必要な物事をご存知である神を信じつつ、一切を秩序づけることが聖書的な生である。そこでは具体的な今回の文脈においては、小事の積み重ねにより、他者に危害を加えることのないよう留意して生活することが責務となる。これが医療と社会を崩壊させない最低限の自覚である。

 ものごとについて知りえないまたは知らない状況において、ひとは行為の選択をせざるをえない状況が今回のパンデミックの特徴である。そしてそれは聖書と同様に信を要求する。聖書の信は一切を正確に知っており、しかも正義にして同時に憐れみ深い神が今・ここで聖霊を介して働いてい給うことに向けられる。知らずに感染させられ、感染させることのありうる今回のパンデミックにおいても、感染の連鎖を止めるヴィジョンへの信が要求される。それは誰もが自ら感染しているかもしれないという信念を前提にする。感染の連鎖を止めるのは各自の自覚であり、自らが感染者となってもそれを他者に伝達しないことにより、止むという信念が求められている。

 ちょうどパウロが報告する神の知らしめによれば、業の律法のもとにある者については神が罪を犯していると看做していることが知らされており、そこでは悔い改めることは業の律法に死に、新たに示された信の律法のもとに生きること、「イエスの信に基づく者」としてイエスの軛を共に担い、共に歩むことがヴィジョンとして明確に知らされていた。このヴィジョンのもとでは、罹患し独り隔離され、ウィルスと共に生命を終わることを承認することまでも含まれることになろう。イエスは言う、「わがために罵られ、迫害され」「義のために迫害される者たちは祝福されている。天の国はその者たちのものだからである」(Mat.5:12-13)。現在では延命治療を行わない決断が認められるように、他の生命を救うべく自らで連鎖を止めるそのような選択肢はありうるものであろう。これはこの生物的生命以上の生命を信じる者にはより容易な信念となる。

 ダビデはサタンの誘惑のもとにイスラエルの人口調査を企て、主の怒りを買った(「歴代誌上」21)。三つの罰の選択肢のうち「三日間この国に主の剣、疫病が起こり、主の御使いによってイスラエル全土に破滅がもたらされる」ことを選び、七万人が倒れた。ダビデは自ら責任を取りたいと主に訴える。「ダビデは神に言った。「民を数えることを命じたのはわたしではありませんか。罪を犯し、悪を行ったのはこのわたしです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。わたしの神、主よ、どうか御手がわたしとわたしの父の家にくだりますように。あなたの民を災難に遭わせないでください」(1Chr.21:17)。いつの時代でも自らの責任が問われている。

4.悪と神義論

 パンデミックにおいては、今われわれが経験しているように、それ以前とそれ以後は明確に判別される。ひとの行動様式が著しく制約されることとなったからである。パンデミック以前の世界を懐かしむことであろう。しかし、人類は今やコロナと共に生きていかざるをえない状況となった。この状況は病人を増やし、経済の縮小をもたらし、ストレスによる不健康をもたらすなど、多くの悪を伴っている。悪と言っても天災と人災は異なる。人間の力の及ばない天災に関しては諦めるしかないことがらであろう。ただ「天災ですかそれとも人災ですか?」といずれかを問うことが有意味な文脈があるように、天災と人災は相互に密接に関係している場合がある。産業革命以来の人間の活動が気候変動に影響を与えたと言われる。人類が森林の奥地まで開発しなければ、このウィルスは動物たちだけのものあるいは風土病として限定されていたかもしれない。また備えや予防があれば、天災の発生に際し、被害を最小限に抑えるそのようなことも想定されよう。

 自らの非力ではいかんともしがたい自然災害、人類の悲惨、怠惰、悪、無力な出来事が次々に報道される。このような思考は神義論に導かれるであろう。神は沈黙し人類を放置しているように見える。神は正義であるなら、なぜ神は悪の跋扈をまた落度なき者たちの不幸を放置しているのであろうか。それに対する聖書の応答は明快である。汝らは地の塩、世の光である。堅固な足場を造り世界を腐敗から守るように、全身が翳りなく、光のように輝くことによって世界を導くように。汝らの「良き業」を見てひとびとが神に栄光を帰すように。呟くよりも、神の思いと道は人間の思いと道とは異なり、神の十全性を信じることから道は開かれていく(Mat.5:13-16)。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわれに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。

 すなわち、ひとの煩いは認知的、人格的に制約されたなかでのことでしかなく、「明日のことを思い煩うな」、「神が完全であるように完全であれ」と諭される(Mat.6:34,5:48)。御子の受肉と信の従順の信の生涯により、人類は大丈夫であるというその福音が宣教されている。宇宙の栄光である神の独り子が受肉しひととなり、旧約聖書に基づきつつも、業のモーセ律法よりも一層根源的な信の従順を貫くことにより業の律法の冠である愛を成就したその御子は他の何ものにも代えることのできない比較不能な善である。それゆえに、単なる楽観論とも単なる悲観論とも異なる、悲惨のただなかで御子の受肉と十字架および復活のゆえに救いの希望のもとに「喜んで」生きる。

 聖書は人間の悪を神との関係において罪として捉える。「肉の欲」(Gal.5:16)とは所謂自然的な色、金、名誉に代表される自己追求であるが、それは罪の誘惑の座、きっかけとなる。罪は神に背かせ、あわよくば自ら虜にした者たちが神に捨てられ永遠の滅びに至ることを画策する。それに対抗するものとして、聖霊が各人の心魂の奥底で呻きをもって執り成してい給うことであろう。

5.福音のもとに秩序づけられる自然現象

 マザーアースが黙々と人類に食料、灯りや空調さらには乗り物のエネルギー源を与えているあいだに自然環境の破壊はいつのまにか人類や他の生物の生存を脅かす状況になってきている。人類は紙に数字を書き、流通させ労働の対価として賃金を払うことにより人間間の正義を保証させつつ、地球から自然の恵みを頂いている、或いは搾取している。語ることのない地球全体とのあいだでそこに正義が成立しているかは常に問われよう。

 ひとは天災を介してひとに立ち返りを求めていることもあろうし、試練を与えることもあろう。神は今回の災いにより人類に立ち返りを求めているのかもしれない。しかし、このようなことは神が御子イエス・キリストを介して人類に知らしめたご自身の信義そして信義に基づく愛ほどには明確に知らされていない。従って、この神の信義と愛の根源的な知らしめにいつも立ち返り、この世界の歴史を考察し位置づけることが課題となる。この根源的な啓示への信、これがひとが持ちうる根源的なヴィジョンとなる。一切がこの啓示との関連において思考されまた行為が選択される。個々人の責任ある自由はこのヴィジョンから相対的に自律したものとして許容されているが、それは「われ汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)という神の前の現実を自らの現実と受け止めがたい、肉の弱さへの譲歩としてのみ許容されている。従って、御子の受肉と生涯ほどに明確に知らされていない出来事については、自らの責任ある自由のなかで相対的に自律した見解として提示されねばならない。これが神の意志であるという端的な主張は許容されていない。自然災害についても、人間の業である戦争についてもそして個々人の死についても同様である。ただし心魂の根源に立ち返ることにより、これらが自らのなかで新たに位置づけられ秩序づけられる。

 神はご自身の意志を明白には二つの仕方で人類に一般的に知らしめているとパウロにより報告されている。一つは3000年以上前にモーセを介して「十戒」ないし「業(わざ)の律法」すなわち偶像を拝む・拝まない、盗む・盗まない、姦淫する・姦淫しない、貪る・貪らない等という行為の二者択一の要求であり、業・行為の一方を為すとき神に正義であると看做されるその基準である。各人の責任ある自由のもとにひとは行為を選択するが、それは勧善懲悪を特徴とする「応報思想」と呼ばれる、行為の善悪により祝福か懲罰が与えられる。

 イスラエルの民は神に選ばれ律法を与えられたことを誇りとしたが、それによっては義と看做されないことが、その後の歴史を介して、とりわけ神の御子の受肉と信の生涯とその教えにより明確にされた。神は業の律法のもとでは「それ[福音]以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し」(Rom.3:25)と報告されているように、恩赦とでも言うべき忍耐と寛容のうちに十全な仕方で正義を貫徹することがなかったが、神は媒介者「イエス・キリストの信」(イエス・キリストに帰属した信(帰属の属格))を介して「神の信」とそれに基づく「神の義」を最も明確な仕方で信じると神が看做す者たちに新たに知らしめた(Rom.3:21-27)。それは神の信に基づく神の義・正義の啓示である。これは「信の律法」(Rom.3:27)ないし「福音」(Rom.1:17)と呼ばれる。

 信の律法と業の律法との異なりは、神がイエス・キリストにおいて人類に対し信義であったときさらにはその信義に基づき愛であったとき、ひとはそれを信じるか・裏切るかの二者択一を迫られているということである。一方、福音においては神の行為に対する信による応答が求められている、他方、業のモーセ律法においては神による義の要求に対するひとの正しい行為が求められている。このことは信に基づく義のほうが業に基づく義よりも神ご自身にとってもより根源的であることを示している。福音は「[業の]律法を離れて、しかし律法と預言者により証されて」啓示されている(Rom.3:21)。従来業の律法の枠のなかで福音が理解されたため、イエスの身代わりの死を刑罰代受・代罰という誤った理解がいきわたってしまった。罪のないイエスを人類の代わりに罰する神は不義でもあろう。

イエスの身代わりの死は信の従順を貫いた帰結であり、それが神に嘉みされ「イエス・キリストの信を介して」神の義がこの地上に打ち立てられた福音であり、業の律法の比量的な計算と異なる比較を絶する善が知らしめられた。99匹の健全な羊をおいて、迷える一匹の羊をさがし求める神である。それは9999匹であっても、9億9999万匹であっても同様であり、宇宙の創造者にして救済者である方のこれまでとの比較しようもない善が歴史のなかで生起したのである。この比較を絶する善によってしか、ひとは良心の宥めを得ることはできない。業のモーセ律法のもとに生きる限り、ひとは良心の咎めとその気晴らしの枠のなかで生涯を「罪の奴隷」として(Rom.6:21)生きることになる。それ故にひとは「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる中間存在であるが、そのつど福音に立ち返ることを求められている。「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」と(Rom.14:22)。自然現象に対するその都度の対応も福音との関連で信において対処するよう求められる。

6.神の公平性

 「神には偏り見ることはない」(Rom.2:11)。なぜなら、一方、神は業のモーセ律法のもとに生きる者には業の律法を適用し、そこでは「すべての律法を為す義務がある」(Gal.5:3)こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」(Rom.2:13)、そして「神はおのおのその業に応じて報いるであろう」(Rom.2:6)からである。他方、信の律法のもとに生きようとする者、「神の善性」(Rom.11:22)に留まろうとする者には「イエスの信に基づいている」(Rom.3:26)かにより審判を遂行するからである。

「われヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(Rom.9:13,Malaki,1:2-3)とあるのは、前者が信の律法のもとに、後者が業の律法のもとに生きたことが想定されているからである、ただしエサウがその後悔い改める可能性は否定されていない(cf.Gen.ch.33)。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」(Rom.11:22)。神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は「叡知の機能不全」(Rom.1:28)の故に神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできない。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した」(Rom.1:28)。「彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではく、行う者たちを是認さえしている」(Rom.1:32)。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるであろう (Rom. 11:22,2:4)。まさに神は振る舞い給う、「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」(Ps.18:26)。

 業の律法も福音も人類に対する神の正義を知らしめる二つの意志である。二つの正義の意志のあいだにイスラエルの歴史の展開が見られた。なお、永遠の現在にいます神に「忍耐」や「寛容」などの時間的経過を帰属させることが許容されるのは、神がとりわけ御子の受肉を介して時間的な存在者となることを引き受けたため、時間的に限定された人間的な記述、例えば「忍耐」、「寛容」さらには人間的な理解を容易にすべく「後悔」をご自身に帰属させることを許容したことによる。

 これらが神の意志の人類に対する明白な二つの知らしめである。パウロはこれらを報告しているが、自らの救いに関してはイエス・キリストを介してほど知らしめられてはいないため、彼にとっては常に信じることは実質的なことである。彼は「わたしは他者にいかにも福音を宣教しながら自ら失格者となることがないように、わたしはわが身体を打ち、身体を拘束する」(1Cor.9:27)と、さらには「恐れと慄きをもって救いを全うせよ」(Phil.2:12)と、神の前の出来事を自らのものとすべく、その都度信に立ち返る。個々人の義認と救いは福音においてほど誰にも明白には知らしめられてはいない。それゆえに、自らがイエス・キリストの福音を介して神に選ばれ、招かれていることを信じることは常に実質的である。

7.二種類の正義:福音(信に基づく義)と「神の怒り」

 神の正義の知らしめの一つは福音でありもう一つは「神の怒り」である。「[業の]律法は怒りを成し遂げる」(Rom. 4:15)とあるように、「神の怒り」の規準は「業の律法」、モーセの十戒を介して明確に啓示されたとパウロにより報告されている。「ローマ書」1章の議論の展開としてまず「神の義」は福音において啓示されていることが提示され(1:16-17)、その神が義であることの第一の理由が神の怒りにあると報告されている。「なぜなら神の怒りは天から不義のうちに真理をはばむ人間たちのすべての不敬虔と不義のうえに啓示されているからである[現在形]」(1:18)。神の怒りは今・ここで真理をはばむと神に看做されている人間たちの裁量のもとにある不敬虔と不義という心魂の態勢のうえに、即ち心魂の或る在り方のうえに、「引き渡し」(1:26)、勝手にしろという仕方で啓示されている。そして彼の議論のなかではその怒りは福音に立ち帰らしめるものとして位置づけられる。

 現在啓示されている神の怒りの理由をパウロは神ご自身が「なぜなら、神が彼らのただなかで明らかにしたからである」(1:19)と過去時制により報告している。この時制は暗くされた悟りなき心が偶像崇拝に陥ったことそして三度現れる「引き渡した」の過去用法とともに一つの出来事を念頭においている。神の怒りの歴史のなかでの一つの啓示行為が現在の怒りの啓示の保証ないしモデルになっていると考えられる。パウロはこの過去形表現により、神がモーセに十戒を提示された時、出エジプトの民がそのモーセの不在のあいだに偶像崇拝等に陥った具体的な事実を表し、ひとが神の意志を知りまた知りうることの一つの証拠として提示している。実際、この引用箇所における過去時制表現、例えば「神は引き渡した」、「彼らは損得勘定において空しきものとなった」、「彼らは……愚かな者となった」は「神の怒り」とともに、聖書中、出エジプトの民の偶像崇拝事件の論述にそのまま見出される。パウロが用いた七十人訳には「(神の)怒り」というギリシャ語語句と共に出エジプトの一連の当該個所において見出すことができる。これらはすべてアロンのもとで金の子牛を鋳て偶像を拝んだ出エジプトの民の記事に符合し、神は偶像崇拝についての律法に即し怒りを示して、レビ人を介し一日に三千人を倒したことが報告されている。なお、「律法を持たない異邦人たちが自然に律法のことがらを行う時、その者たちは律法を持たずにも自らに対し律法なのである」(Rom.2:14)と言われるように、業の律法の啓示以前においてまた異邦人においては良心が業の律法の役割を果たしている、それは共知(con-science)のことであり、何と共に知るかに応じて相対的に留まるが。比較を超えた福音において良心の宥めが生じる (「引き渡した」:Rom.1:24, 26,28=Ex. 1:13: 「怒り」: Rom.1:18=Ex. 32:10-13, 「空しき者となった」Rom. 1:21=Jer.2:5, 「愚かな者となった」Rom. 1:22=Jer.10:14).

 「神の怒り」の啓示の報告の結論として「業の律法に基づくすべての肉はご自身の前で義とされることはないであろう[未来形]」(3:20)と終わりの日に罪人として審判されるに至ることがこの啓示の含意として導出されている。ただし、この未来形表現により、当人が悔い改めた場合には事情が異なることもあろうことが含意されている。悔い改めとは業の律法のもとから信の律法のもとに移行することである。「信じます、信なきわれを憐れみ給え」(Mac.9:24)。

 この「引き渡し」は神の怒りの非神話的、非物語的記述であると言ってよい。これは各人の責任ある自由に引き渡されていることを意味するが、さらには擬人化された罪に引き渡されることをも含意する。ひとは肉の弱さをその被造物であることからくる制約として抱えているが、罪の誘惑にさらされる。その誘惑に同意するとき、罪の奴隷となる。悔い改めない限りは、その引き渡しのなか罪の奴隷の軛につながれたままの生涯となる。信仰を持つにいたる人々は、「その時汝らはいかなる果実を結んだのか」(6:21)という問いのもとに、「汝らが今では恥としているものではないか」(6:22)ということを心魂の奥底から経験した人々である。もはや二度と奴隷の軛につながれたいとは思わない人々である。信仰に熱心な人々を見て奇異に思われることもあろうが、彼らは自らの人生のあるときに、その大きなメタノイア(悔い改め・方向転換)をそれぞれの具体的な窮状において経験した人々である。キリストの軛につながれ、彼の「軽い荷」すなわち信仰を運ぶことのほうがはるかに喜びなのである。そこには柔和で謙ったキリストがいつも共にい給うからである。救いとはいろいろな文脈において語られるが、それまでの闇が濃ければ濃いほど、光のもとにその闇から救い出された喜びは大きいのである。闇における果実は「淫行、穢れ、好色、偶像崇拝・・恨み、争い、徒党、憤怒、宴楽」やその類のものである(Gal.5:19-21)。パウロが「わたしはわが主キリスト・イエスの知識の卓越のゆえに、あらゆるものを損失であると看做している」と語るように、かつて魅力的であったものが今では塵芥(じんかい・ちりあくた)と看做すものである(Phil.3:8)。

8.肉に対する罪の誘惑

 引き渡しは自然的な肉欲や神に対する不当な認識、思い込みに基づく認知的な偏りとして自然的なものである。しかし、罪はその肉の弱さにつけこみ、まず生物的な死に向かわせ、さらには神の前での永遠の滅びを画策する。叡知と霊が宿る「内なる人間」と肉そして罪の三つ巴の葛藤は「ローマ書」七章で描かれている。そこでは福音が啓示されたあと、それを受けて業の律法の新しい機能は罪の罪性の著しさを伝えひとびとに葛藤を引き起こし悔い改めに導くことであるとされる。それは創世記の堕罪物語を基礎にその展開として提示されている。罪に欺かれている人間「われ」は自らが成し遂げていることを認識していない。すなわち死を成し遂げているのであるが、主観的には人生の充足の興奮であったり、独りよがりな思い込みであったり、「死を成し遂げている」というそのような否定的な含意に気づくことはないとされる。パウロは言う。

 13それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ、罪が善きものを介してわれに死を成し遂げていることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。14なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり、罪のもとに売り渡されているからである。15というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[霊的な律法に従うこと]をわれ為さず、憎むところのもの[死]をわれ作りだすからである。16しかし、もしわれ欲せざるところのものを作りだすなら、律法にそれ[律法]が善きものであると同意している。17しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。18なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。19なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。20しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。21かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという律法をわれ見いだす。22なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法に喜んで同意しているからである。23しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあることによって罪の律法にわれを捕らえている。24惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。25しかし、われらの主イエス・キリストを介して神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(Rom.7:13-25)。

 ローマ書七章は福音の啓示を前提にして、業の律法の新たな機能の解明にあてられる。罪の罪性の著しさを暴き出し福音に追いやることが律法の仕事となる。罪のターゲットは自然的で中立的な肉である。それが罪に引きずり込まれるとき、人類は多くの悪、不幸を経験することになる。そして神はそのとき「勝手にせよ」と罪に肉を引き渡してしまっている。

 引き渡しとしての神の怒りは、この主張に同意するか否かは別にして、一つの見解として容易に理解できるものである。神の働きかけを認めない者は自らの結果としての惨状に自業自得と考えることもあろう。自らの過失による感染が生じた場合、自ら気づかずに感染し、気づかずに感染させているという事実に、罪に同意することが必ずしも自覚をともなうものではないことを含意する。誘惑に負けるというのは「まどろみの霊」(Rom.11:8)のもとに眠らされているということである。だからこそいつも「目覚めて」(Rom.13:11)いることが求められている。引き渡されの中で罪に同意するとき、ひとは死を成し遂げている。そして感染症という病は死を加速していることは確かに語りうることである。新型コロナに感染すると20年年齢を重ねるのと同じ身体的衰えを経験するとさえ言われる。

 感染により今までの生活に問題があることにきづき、悔い改めに導かれることもあろう。聖書が語りうることは、「立ち返れ」というメッセージをことあるごとに伝えることである。地道に地の塩として世界を支え、全身が輝き、光として世界を導く、そのような者になることが求められている。肉の欲に目がくらむとき、すぐに罪の誘いのもとに走る。わたしどもは各人の人生において常に思いを刷新させ喜んで生きるその根源を持つことができるなら、感染への抵抗力は機会においてそして身体的な免疫力においてますことであろう。福音が明確に打ち立てられており、そこにそのつど立ち返るであろう。その意味で、今回のCovid-19が人類にとって特別だということにはならないであろう、それは世界を揺るがす大事件であり、自らを顧みるよい契機であるにしても。

 

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枡形夏の聖書講義2 パンデミックと聖書(その一)-イエスの山上の教えー

枡形夏の聖書講義2

パンデミックと聖書 (その一)―イエスの山上の教え―

                                           2020年8月22日

 序

2020年のオリンピックイヤーはパンデミック一色となり危機の年となった。新型コロナウィルスは衰えを知らず、世界を飲み込んでいく。医学の進んだ現代、人類はこの新たな脅威に迅速に対応することであろう。ここでは門外漢のわたしに医学的知見を述べることはできない。この感染症の世界的蔓延に対してひとはどのような心の在り方をできるかについて、歴史の審判を経たものとして人類が最も読んできた聖書に即して語りたい。ひとがひとに病という悪を介して悪影響を与えそしてそれを感染伝播させ再生産を繰り返すその根本にあるものとそれをいかにブロックするか、について聖書の知見を二回にわけてお話ししたい。

 この四か月、登戸学寮の日曜聖書集会においてマタイ福音書5、6章において展開される山上の説教を学んできた。その視点を手掛かりに今回のパンデミックについて聖書的なメッセージ(使信(Botshaft))をお伝えしたい。二心なき心の清い者はただ神に嘉みされることだけを求めて行動を選択する。コロナ禍における選択もさしていつもとかわらない。山上の説教をそのまま生きることである。「神の国と神の義」を「第一に」求め、神はひとびとに必要なものを「一切ご存知であること」を信じて、何を着ようか、食べようかと「明日のことを心配しない」で今日為すべき労苦に取り組むことである(Mat.6:32-34)。そこでは感染するかもしれないし、感染しないかもしれない。感染した人をもまた感染した人々を攻撃する人々に対しても「裁くな、裁かれないためである」という戒めのもとに、その現実を受け止めることである(Mat.7:1)。ただ、善人にも悪人にも穀物の成長のために雨を降らす神は、善人にも悪人にも立ち帰る試練を与え給うことであろう(Mat.5:43-48)。それらはすべて神の国を求めることを願っている神のご計画に属することであろう。

 山上の説教に見られるこの終末的な生の日常的な在り方、これはなにかとても単純な応答である。「天の国の報いは大きい」(Mat.5:12)。これは利益の最大を目指す功利主義的な思考というよりも、地上での名誉や評判を得た場合には、「報いを受けとってしまっている」(Mat.6:2)と言われるように、そこでは地上の報いに加え天国の報いを得ることは過剰となり正義における等しさが崩れることからそう語られている。この等しさの正義において「報い」はまず理解されねばならない。それに続いて、この全世界を得ても、自らの生命を失うなら何の得にならないという功利主義的な理解も許容されている。

 この彼岸を規準とした行動規範は単純すぎてそしてあまりに浮世離れしていて、これは現実に健康不安や経済不安に苦しむ世界中のひとびとに指針となる応答を与えているのであろうか。信じる者個々人の対応としてはこれで十分であるにしても、世界、社会の立場はこのような個人の立場とは異なっており、肉の弱さに譲歩した現実的な対応が求められているのではないだろうか。ひとびとはこの二千年間、山上の説教を聞いて、審判や誓いの拒否さらには無抵抗の勧め等の教えに、常に裁判制度はどうするのか、防衛はどうするのか等の問いを差し向けてきた。ひとびとは心の内的な動機付けのみが問われているという心情倫理と、その動機付けを一旦棚上げし考慮せず、動機はいかなるものであれそこで為されたことがらの結果、影響が問われているという責任倫理を分けて、政治などの責任ある立場の者は山上の教えをそのまま取ることはできず結果責任から政策などを選択せざるをえないとしてきた。この教えは個々人の心魂の在り方としては人類の理想的な動機を示す規範であり、もちろん、その動機付けから行為の結果に至るまで秩序づけられ正義が実現されるなら申し分ないが、現実世界は多様、複雑そして混沌であり、ひとびとは言ってみれば人類最高の道徳の教えを希釈して現実と妥協しつつ受け止めてきた。

 信じる者個々人の対応としては山上の説教一つで十分だとして、しかし、小さいながら一つの共同体の管理・運営の責任を持つ身としては、このような個人の立場とは異なる、肉の弱さに譲歩した現実的な対応が求められているのではないだろうか。学生の生身の心身の健康を守ることを責務とする身として、神の国と地の国のバランスが求められているのではないだろうか。この点を二回にわたる「パンデミックと聖書」において考察したい。

 1運命共同体と個々の責任

  ここで、ひとびとが共約的につまり誰であれ同じ物差しのもとで計測できる、誰もが同意できるであろう一般的な規範について確認したい。今回の病気の特徴は、罹患者と医療者だけの問題ではなく、それが他者と感染を介して影響を与え合うことである。このたび、ひとりの人の行動が他の人に不可避的に善悪をめぐって影響を与える医療的であると同時にとりわけ道徳的な状況が出来した。あたかもすべてのひとが覆面をかぶっているかのごとくに、疑心暗鬼のなかでひとと接している。他者への関わり方、とりわけ物理的、心理的距離感がその都度問われている。普段、ひとに迷惑をかけない限り、自由に振舞ってかまわない、当事者間で同意があればその行為の選択がいかなるものであれ問題はないという認識の人々も、自分は知らずに感染させる、或いは知らずに感染させられるその可能性のなかで他者と交わる。自らに感染させた者への怒りと呪い、自らにより感染させられた者に対する良心の咎め、そのような道徳的状況が感染症においては露わとなる。

 誰もが感染を通じて他者を死に至らせる可能性のもとにある。ひとに感染させ、それが重篤化させた場合、どのように責任を取ることができようか。自分も感染させられたのだから、生物上同じ生理的構成にある者たちの集まりという意味での運命共同体として仕方のないものであったと割り切り、双方水に流すのであろうか。そこでは善悪も、責任も問われないのであろうか。ここでの「運命共同体」という語句によって、生物的共同体が理解されているが、ひとは生物的に制約されつつも道徳的存在者であり、その共同体に帰属する者たちはそれぞれに責任を伴うものとして理解されよう。さもなければ、誰も責任を担わない烏合の衆であり「共同体」の名に値せず、ただ地球という同じ船に乗り合わせたという偶然以上のものを意味しないであろう。

 この状況のなかで、わたしどもは、ひとの在り方として感染させるより、感染させられる方がよいと受け止めているか、が問われている。誰かを隔離するより、隔離されるほうを選ぶかが問われている。これは古くからの議論であり、ソクラテスは不正を犯すよりも不正を受けるほうがよいと判断していた。心魂の在り方として不正を犯す心魂は劣悪な劣ったものだからである。何をするにしても、心魂を優れたものにするものが善であり、どんなに利益を得ようと心魂を劣悪にするものが悪である。これは山上の説教においても同意される。「悪人には手向かうな、右の頬を打つ者には左の頬をも向けよ」(Mat.5:39)。

 共同体には対話と同意による内的な秩序が不可欠である。これが神から相対的に独立した存在者として、また神の前の義と罪に対して「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる可能存在にある存在者としてある人々の集合体の責任であろう(Rom.6:19-20)。共同体という一つの制度は神の前に義とされる可能性を持つものであり、よりよい制度は神の国から相対的に独立しつつも、人間的に理解する限りのことであるが、神の前の生命を生み出しやすいそのような、正義による秩序づけられた支配、さらには永遠の生命に方向づけられるような人間の責任の範囲内の制度のことであろう。もちろん神の自由は侵害されず、全体主義的な独裁国家においてさえ、神はそのなかで永遠の生命を付与することでもあろう。そのこと、すなわち神の思いは人類の相対的状況に影響されないことは、人類は歴史の教訓に学びつつ、公平で各人の人権および自由を保障するより良い社会を求めてきたことを無意味な試みとして否定しさられることはないであろう。各人の責任において自らの行為を選択することができない社会や共同体は山上の説教の理解する人間の本性、即ちひとは道徳的存在者としてどこまでも各人の良心が問われること、にも適合しないであろう。善と悪が判別不能であるような社会においては、良心を麻痺させやすいそのような共通認識、共知(con-science良心)を醸成することになろう。もちろんかえってそれだからこそ、神との共知としての良心の宥めに至ることもあるであろう。これはあくまでも相対的な話である。しかし、小事に忠実であることをイエスは求めてい給う。

 2小事に忠実なる者が大事に忠実である

 ひとは自らの不公正や、不正義そして無慈悲に良心の咎めを感じてきた。イエスは良心の咎めが宥められる、心魂の根源的自由のもとでの内側からの納得に至る信に基づく義を自らの人生をかけて提供した。福音の納得を得ることを妨げない、或いはより容易にさせる人間的与件というものはあるのであろうか。これは神と個々人の関係であり神の選びの自由に属する限り、人の側から明確なことを語ることはできない。ただし、信教の自由や教育の機会を得ない人々は山上の説教にアクセスする機会さえ与えられないことでもあろう。イエスは「不正な管理人」の譬えにおいて、この社会が金銭をめぐり完全に正義ではありえないとする。人間同士の約束のもとに紙に数字を印刷した金銭に関して、誰もが完全に正義であるということはない。それは、例えば労働の対価としての金銭を支払うという人間的な正義のもとに、黙々と自然資源を提供するマザーアース(母なる地球)からの搾取を正当化したり、富者の富は貧者からの搾取であったりさらには所有が窃盗でありうるそのような状況を想定すれば同意されよう。この前提のもとに、イエスは言う、「最も小さなものに忠実な者は大きなものにも忠実である。最も小さなものに不忠実な者は大きなものにも不忠実である。だから不正な富について忠実とならなかったならば、だれが汝に本当に価値あるものを任せるであろうか」(Luk.16:11)。「善かつ忠実な僕よ、汝は小事に忠実であった、わたしは汝に一層多くのものどもについて任せよう」(Mat.25:23)。それゆえに、相対的自律性をもった人間社会は天の国との関連において小事であったにしても、それに忠実でなければ、天の国についても忠実であることはできないとされる。そのことは、イエスを信じる者にとっては山上の説教が伝える「まず神の国と神の義」を求めよということ、そしてそれに伴う心魂の完全性を求めることにこの現実世界の大小様々な営みすべては方向づけられていることを含意している。

 小事と大事はタラントの譬えに見られるように相対的であるが、現在は三密を避けること(密閉を避け換気すること、密集を避け距離をとること、不要不急の密接を避け独りの時間を多くとること)など小さなことの積み重ねが感染防止になることであろう。わたしどもが直面している現実的な喫緊の課題は医療を崩壊させないことそして同時に社会を崩壊させないことである。これは誰にも同意されよう。身近には例えば一つの共同体である登戸学寮を崩壊させないこと、それが個々の構成員の責務となる。これらのことに忠実であることが求められている。医療と社会を同時に保持することは緊張の伴うものであるが、責任ある者の態度としては自らがその枠のなかに置かれている双方を念頭に置きつつ個々の行為が選択されることになる。生活者である限りゼロリスクはありえず、そのなかで、例えば、自分なりの道徳規範のもとに、他者に危害を与えないよう留意したかはやはり自らの責任内のことがらであろう。ひとは与件(given)のなかで、例えば社会のなかで生きていかざるをえない。望ましくない与件であったにせよ、その現実の状況から歩みだす以外にない。イエスは「主よ、主よ」と言いながら天国のことだけに関心を持つ者が天国に入るとは限らず、彼は、これら小事にも忠実であることを求めている。彼は信仰熱心な者たちに、「汝らのことは全然知らない、不法を働く者ども、わたしから離れされ」と言い、また「わたしの天の父の御心を行うものだけが天国に入る」と言う(Mat.7;21-23)。山上の説教はこうまとめられている。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聴くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(Mat.7:24-27)。

 3 不知ないし無知なるものを前にした信の根源性とそれがもたらすヴィジョン

 現在、自分は感染しているかもしれないという前提のもとに行為を選択することは、ひとびとに明確な行動規範を与える。それはちょうど結婚した当事者が既婚であるという制約のなかですべてが営まれるように。同様に、ナザレのイエスの信の従順の生涯を介して啓示された神の罪の赦しの福音のもとでは、自分は神の前に或る視点(「業のモーセ律法」)のもとでは罪を犯したと看做されているという認識が悔い改めてもはや業の律法に死に、「信の律法」すなわち福音のもとに新たな自己を受け止めることに導く。イエスの生涯はひとを業のモーセ律法の枠組みから解放し信の律法のもとに、一切の営みを遂行することを可能にしたことであった。そして同時にそれによって業の律法が収斂する愛を実現する道を指し示したことである。

 ひとはすぐ高ぶり、自らの不都合な真実に気づかないまたは気づかない振りをする。双方とも自らの現状の無知が行為選択の不確定性を与えるなかで、この制約の枠組みのなかでは、つまり自ら感染しているないし罪を犯しているという自覚においては、ひとつの信念のもとに行為すること、総じて生きることが形成される。後で詳しく述べるように、神は誰であれ業のモーセ律法のもとに生きる者は怒りの対象であり、悔い改めを必要としていることを歴史のなかで明らかにしている(Rom.1:18-32)。神の意志として一般的に義人とは「イエスの信に基づく者」のことであり、罪人とは「業の律法に基づくすべての肉」のことであることが啓示されている(Rom.3:20,26)。ただ個々人にはイエスの信の従順の生涯を介したほどには、またモーセ律法の啓示を介したほどには義人であるか罪人であるか明確に知らされてはいないため、神が愛であることを信じることは常に実質的である。

 自らの過去も未来も一切を正確に知っていたなら、この来たりつつありまた過ぎ去りつつある現実世界においては、わたしどもの人生は存在しない。この現実世界では常に不確実性、無知を伴って行為が遂行される。何らかの信念を誰もが持っており、その信念について無自覚、無反省なときには具体的な行為は一貫性を欠くことになる。単に被感染を前提にするだけではなく、また神の前で失われた者であることを単に前提にするだけではなく、そのうえで感染をたとえ自分が犠牲になったとしても、各自の自覚により、伝播させず自分だけで留めること、抑えることができるという信念、また宗教的には自分の罪は赦された、人類の罪は神により十字架上で赦されたという信念が、ひとの行動を肯定的、創造的なものにしていく。自らの与件を引き受けたうえで、それを乗り越える信念が全体性のなかに現状を位置付けつつ肯定的行為を形成していく。これが与件の運命共同体のなかでの肯定的かつ創造的な振舞い方である。 

 運命共同体の行く末についてのヴィジョンなしに、構成員は同じ方向を向くことはないであろう。構成員各自において皆でこのコロナ禍を乗り越えるという気概なしには、抑制不能のまま漂うだけとなろう。宗教指導者の務めは神のご計画のヴィジョンをそのつど明確に伝えていくことである。このパンデミックのただなかで、手をこまねいて専門家に任せるだけではなく、自らパンデミックを神の国との関係において捉えなおし、ヴィジョンを示し導くこと、それが宗教に携わる者の務めである。

 聖書は一切を正確に知り、正しく審判ししかも憐れみ深い神が今・ここで働いてい給うと主張する。この考えはわたしどもの人生に明確な規範を与える。従来、「お天道様に恥じない生活を」という仕方でたとえ明確な名前をもたずにも見えない存在者を念頭に、自分たちの生を全体的な枠組みのなかで築いてきた人々がいる。そのように、今回のウィルスのように小さすぎて不可視な存在者や、全体を知ることができず信念に留まる自己の本来の在り方のような不知を伴う対象にとりくむときの究極的な基準は、知識に基づく正義と憐れみある存在者をモデルにし、正義と憐れみ、双方の実現に向かうこと、それが最も本来的な生を築くことであろう。

 これすなわち一切を正確に知り正義にして同時に憐れみ深い存在者への信念は一般的な仕方で妥当する。ひとはそのような信念を持つことはその特定の神を信じるよりは或るひとびとには容易な行動規範を与えるであろう。誰もが自己について世界について十全な知識を持っていないこと、しかし、その不定性のなかで何らかの信念のもとに行為を選択せざるを得ないことを認める。そうであるなら、つきつめるところ、その信念の対象が全知であり全能しかも正義にして同時に憐れみ深い神でなければならないであろう。

 4山上の説教を生き抜いたイエス

 今はグローバルな危機の中にあり、そのなかで宗教が貢献できるとするなら、それはひとびとに自分たちは無知や不知のなかに生きており、そのなかで行動を選択せざるを得ない状況において、明確な行動規範を与えるものを提供することである。そのなかで自らがその病に感染しているという前提、キリスト教的には神の前に業の律法のもとでは罪を犯しているという前提のもとに、真理の探究に向かいつつ、その真理に従うという従順で謙虚な態度が不可欠な基礎的構成要素となるであろう。さもなければ、自分も誰かに感染させられたのだから、感染させてもやむをえない、運命だったのだという無限連鎖を断ち切ることはできないであろう。ひとは心に決めなければならない、この疫病の蔓延の中で感染させるより、感染を被るほうを良しとすると。そしてその場合、自己の利益よりも他者の利益を優先させることをも含意する。そこではたとえ感染が不明であるにしても、あたかも感染しているかもしれないという前提のもとに行動が選択されることになる。それ以外にアメリカのCDCの担当者がout of controlと言っていたように、この国もいつまでも連鎖を断ち切ることはできないであろう。ただし、ウィルスが弱毒化し共存できるという状況になれば、ひとびとのcontrolをめぐる認識は変わることであろう。それは専門家に委ねられていることである。ともあれ、感染させるよりまた不正をなすより、感染を被ること不正を被ることをどう心の中で納得するか、受け止めるかが問われている。

 無償の恩恵を説く福音は明確に身代わりを提案している。少なくとも福音書やパウロ書簡が報告する限りにおいて、ナザレのイエスがそれの霊によって神の国を渇き求め、ひとの本来性と現実の落差に大きな悲しみと憐れみをいだき、柔和に自らについてくるようにそして安息を得るように導いている。この世界の悲惨にたいし深い憐れみをいだき、天の父の御心のみを遂行することに集中する心の清さをもち、迫害のうちに無抵抗で平和を造りだす方であった。彼は山上の説教を実現したその方であった。

 そして彼は死んでも死なない生命の主として今ここに共にいて励ましていたまう。パウロは言う、「イエスの死をいつも身体において担っているが、それはイエスの生命がわれらの身体に現れるためである。というのも、われらは生きていることによって常にイエス故に死へと引き渡されているのは、イエスの生命がわれらの死すべき肉において現れるためだからである」(2Cor4:10-11)。パウロはわれわれの肉がただしく霊に即して生きる限りイエスの生命の座でありうると主張している。「死すべき身体」と不可分離の生の原理である「死すべき肉」において十字架の死に至るまで信の従順を貫いたイエスに似た者になっていくとき、そこにはイエスの生命がそこに宿っていると言われる。

 「イエスの死をこの身に負う」。ここで人間にとってぎりぎりの選択が迫られていることは間違いない。彼と共に迫害の死を引き受けることである。感染であれ、何であれ、取返しのつかない過去を持ってしまった者、取返しのつかない過去をもたされてしまった者には罪の赦しの権威をもちたまうこの方と共に生きる以外に良心のなだめ、平安、平和を得ることはないであろう。そこまで人間であることのぎりぎりの限界が語られている。山上の説教の言葉を希釈してはならない、少なくとも人類のなかで一人の人がこれを語ったという事実そしてこれを生きまた死んだという事実、このことはイエスを知りついていく以外に内側からの納得を生じさせることはないそのようなものである。パンデミックに対処する根源的な方法は一切を正確に知りそして正義でありかつ愛である神がイエス・キリストにおいて人類の救済を明確に知らしめたこと、そのことを信じることである。「神の国とその義」を信じることである。そこから少しづつこの地上において何が必要かをご存知の主が供え給うことであろう。

 

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枡形夏の聖書講義1 生き抜かれた山上の説教

桝形夏の聖書講義1                                   2020年8月16日

生き抜かれた山上の説教

序言

 オリンピックイヤーであったはずの2020年8月、世界はパンデミックのただなかに苦悩しています。35度をも超える猛暑の日々、登戸学寮は60周年改修工事のまっさいちゅうです。多くの方々の若者への期待の証としてご寄付により学寮が整備されていきます。感謝です。多摩川から盛り上がる桝形山(標高85メートル)に囲まれた登戸学寮は5分も歩くと山頂につきまたその谷には蛍が舞う閑静な環境に位置しています。木々に囲まれ蝉時雨(せみしぐれ)が夏を絢どっています。

 学寮は毎朝の礼拝や食事の提供もない夏休みとなりました。留まっている学生は自炊生活となります。日曜の聖書講義も夏休みとなり、私はこの夏不定期に録音により聖書講義をお届けします。聖書に帰るたびに、平安と喜びをいただきます。この苦難の時代にあってこの喜びの福音をお分かち致したく存じます。この四か月マタイ福音書5-6章の山上の説教を学んできました。幾つかの自分なりの発見をいたしましたので、お伝えいたしたく存じます。継続的に聞いてくださっておられる方々には復習を兼ねて、いつも新たなメッセージを届ける聖書がもつその力、その生命に新たに触れることができますように。(録音では聖書引用箇所を厳密に語ることをしませんが、HP上の原稿により確認ください)。

1究極を語りそして生きるイエス

 山上の説教は人類の誰かが言わねばならなかった、ひととしての道徳上のまさにその究極の在り方である。山上の説教においては、信仰が勧められることも、不思議なる業(わざ)所謂奇跡が遂行されることもない。イエスは当時のユダヤ人の伝統的な道徳観の立場に立ちその誤りないしその不徹底さを指摘し、新しい急進化されたモーセ律法ないし究極的な道徳、新しい「教え」をただ言葉の力によって「律法学者のようではなく、権威を持っている者として」(Mat.7:29)展開している。その権威はどこから湧き上がってくるかと言えば、イエスご自身がご自分の語られることを内側から納得しており、そして単に言葉で語るだけで終わるのではなく、ひとびとにそれをそのまま生きる方であるというその気迫が伝わるそのような偽りなき人格を身に着けておられたからである。リアルタイムにその説教を聴く者たちには、彼の信実が伝わったことであろう。地の塩として大地を支える確かな堅固さと世の光としての翳りなき、清らかさと輝きが彼をつつんでいたことであろう。

 この説教は誰もが理解できる道徳の次元でその道徳上の究極が語られている。「道徳上」とはひとの善悪をめぐる判断の座である心魂の在り方のことである。道徳を主宰するのは各人における良心である。ソクラテスが「ダイモニオンの声」と呼んだもの、即ち心魂にごまかしや分裂があるときに勝手に痛みを伴い発動してしまう良心がそこでは道徳の座ないし主宰者であり、いかに主宰するかと言えば心魂の動きのそしてその帰結としての行為の監視役でありまた告発者となることによってである。

  もちろん監視役や告発者は慣習や悪に買収され発動を鈍らせることもあるが、良心の発動それ自身はひとの選択の外にあり自らのコントロールの外にある。ニーチェはこの良心の発動は「何故?」への問いのブロックとして機能すると言う。「良心からあの「ねばならない」という感情が引き起こされたのだが・・・しかしこの感情は「何故私は為さねばならぬか?」とは問わない。従って、あることが「~故に」とか「何故~」という問いをもってなされる場合にはすべて、人間は良心なしに行為することになる」。「何故に?」を自他に問いかけているあいだ、そして「何故なら」と説明を与えたり、個人的な自己弁護しているあいだ、ひとはその根源から生きていず、懐疑や探究さらには保身のうちにある。「何故に?」の問いが伴うことなしに生起する、ある心魂の痛みを伴う発動、それは良心というものが各人の心魂の各人なりの根源的座であることを示している。

 ここに一つの問いが起きよう。一方、「律法は怒りをもたらす」(Rom.4:15)とあるように、山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろうが、これを語ったイエスは人間にはとうてい満たしえない心的規範また行動規範を与えており、誰にも負えない重荷を負わせ、道徳的苦悩をもたらすだけなのではないか、彼はそれによって彼についていく者たちをただ神の怒りのもとに怯えさせ苦しめる者なのではないかという問いと懐疑である。イエスは言う、「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄すべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画(イオタとケライア)たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。 わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」(Mat.5:17-20)。

 わたし個人としてはこれを語ったその人のゆえに、彼が怒りをもたらす告発者で終わるはずがないという思いがある。権威ある者として語ったそのひとがひとを欺くべく道理のない、ひとを苦しめるだけのことを語っているはずはないというこの思い、本当にひとはこの厳しい山上の説教という新しい教えを「成就する」ことができるのではないかというこの信念は個人的なものに留まるのであろうか。それともすべてのひとに妥当するものとなるのであろうか。もしこれがわたしだけの思い込みであるならば、山上の説教は福音ではないであろうし、イエスは福音を生きる方でないことはもとより、福音を言葉の上で告げる方でもないことになろう。

 権威ある者として語ったその方に偽りがなく、彼は山上の説教そのものに即して生き抜き、また山上の説教の故に死んだその方であることが明らかにされねばならない。個人的には、山上の説教はイエスにより生命をかけて遂行されたということに立ち返るとき、厳しすぎてあたかも拒絶し告発するように見えるその人に、「わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」という言葉を信じてそのふところに入っていくしかないと感じる。そこにしか良心の咎めがさり、道徳的苦悩は止むことはないと感じる。この感覚には道理があるのであろうか。この感覚の背後にそのひとへの信が発動している。

 先の懐疑への応答は「わたしの後についてこい」(Mat.4:19)というイエスをどれだけ信じるか、そして彼とどれだけ信頼関係にあふれる関係を築けるかにかかっている。「わたしは汝らを遺して孤児とはせず」(John.14:18)。この方は嘘を付く方ではない、そしてわれらを欺く方でもわれらを見捨てる方でもない、という信がその信頼関係を醸成しまた築く。この信念は道理のあるものであるのか。ひとは山上の説教を生きるとき、生命を賭すことになるが、この信念は道理のある正しいものなのか。これは福音書やパウロ書簡によりその一挙手一投足の働きが報告されておりそして彼がキリストであることが理論的に展開されているナザレのイエスそのひとをよりよく知ることによってしか、この懐疑は克服されないであろう。だからこそ福音の宣教はいつの時代でも不可欠なのである。イエスの懐に入っていくには彼をよりよく知るしかなく、とりわけ彼が生ける神の子であることを内側から納得するそのような相互の親しい関係を築くしかないのである。日曜の聖書講義をするこの身が彼と共に生き喜んでいるのでなければ、この永遠の生命は伝わらないであろう。少なくとも講義する者の必要要件であろう。聖書に描かれるイエスをできる限りテクストに即して理解すること、それがこの聖書講義の務めであり喜びである。

2業のモーセ律法と信のキリストの律法

 先の引用文における「律法の一点一画」とはモーセ律法が神の意志である限り、たとえ上位の意志に従属することがあるにしても、細部にわたりそれは天地が過ぎ去るまでは効力を持ち続ける。ただし、六百を超える律法そして戒めには重要性において差異がある。「ウーアイ(ああなんということだ(ouai, woe))、偽善なる律法学者、パリサイ人、というのも汝らははっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中で一層重要なものども、公正な審判と憐れみそして信とを等閑にしている」(Mat.23:23)。ここで「公正な審判と憐み」すなわち正義と愛とならんで「信」が挙げられる。

 愛や憐みは公正な審判とともに伝統的に「業の律法」(Rom.3:20,3:27 「モーセ律法」1Cor.9:9)に属するが、イエスとパウロは業のモーセ律法をラディカルに理解し愛に収斂させた限りにおいて、「信の律法」(Rom.3:27, 「キリストの律法」Gal.6:2)と「業の律法」が関連する唯一の道は信から愛であることがナザレのイエスの従順の生において明らかにされた。キリストは「業の律法」の充足即ち愛することをただ信に基づき遂行したのであるからには、「愛せよ」という戒めを「信の律法」と関連づけることが不可欠となる(Rom.3:26-31,13:8-10)。業の律法はイエスにより第一の戒めである神への愛と第二の戒めである自らに等しい者としての隣人への愛に収斂されている(Mat.22:36-40)。愛があるとき、すべての律法は満たされる。パウロも「愛する者は他の律法を満たしている、・・愛は[業の]律法の充足である」(Rom.13:8-10)とし、業の律法を「愛」に収斂させる。ナザレのイエスは死に至るまで従順の信を貫き、愛を全うした。「愛を媒介にして実働している信が力強い」(Gal.5:6)。信の根源性のもとに、自らの力能を誇示する奇跡のような業ではなく、愛することが遂行される限り、キリストの足跡に従うものとなる。かくして、愛への道はただ一つ信に基づくこと、即ちキリストを「受け入れること」(Mat.10:40)が残されている。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。

 これはイエスの生涯のパウロによる理論化である。イエスはご自身の生涯においてリアルタイムにおいて「信の律法」を満たしつつある。或いは人間的な言い方が許容されるなら、確立しつつある。最後の十字架上でもし彼が十字架から降りてきてしまったなら、父なる神にその信が嘉されなかったかもしれない、そのような一挙手一投足が福音書において報告されている。

3山上の説教の文脈―道徳的次元における対人論法、偽りの摘出―

 そのイエスは山上の説教(マタイ5~7章)においては信への立ち返りを直接には求めず、道徳的次元に踏みとどまる。山上の説教を心魂の偽りという視点から考察するとき、道徳的な領域と司法的な領域さらには神の領域、これら三つの領域ないし次元のあいだのユダヤ人における癒着を摘出することができる。彼に「羊飼いのいない羊のように」打ちひしがれてついてくる群衆たちに対し、「偽善者」や「偽預言者」を見分けるように教えている。イエスは、モーセ律法の枠のなかで先祖代々伝えられた教えを聞いて育ってきたユダヤ人に向けて、モーセ律法を急進化、先鋭化する。そのさい彼は弁証術(dialectic)と呼ばれる議論を吟味する技術を用いて、彼の論敵を論駁する「対人論法(argumentum ad hominem argument to the person)」の議論を展開し、彼らの道徳的、司法的次元ならびに神の前の次元の癒着を明らかにしている。対人論法とは、対話者双方に共有される見解を確認しつつ、自ら固有の立場を一旦棚上げし、対話相手ないし対話相手が馴染んでいる考えの土俵ないし立場に立ち、その土俵が持つ暗黙の前提を明るみにだし、彼らの気づかない思い込み、偏りや誤りを指摘する論法である。

 山上の説教の土俵とは、ユダヤ人が伝統的にそのもとで育てられたモーセの十戒のことである。それは多くのユダヤ人にとって彼らは神の意志としてモーセの十戒しか知らされていなかったため、イエスも彼らへの対人論法としてその次元に留まっているからである。そこではイエスは自らが立つ立場である「信」を一旦棚上げにして直ちには持ち出さず、さらには信じる者への憐みのもとに遂行される癒しなどの不思議な業(所謂奇跡)を行うこともせず、ただ言葉で同胞の伝統にチャレンジしている。ユダヤ人であるイエスと群衆のあいだで同意できることとして、神の国と地上の国そして天国と地獄さらにはユダヤ人と異邦人の二分による思考方法は馴染み深いものであり双方に共有されているという前提のもとに語りかけられる。ユダヤ人は自分たちが神に選ばれ、神の意志としての律法を授けられた民であるという認識を持ちまたそれを誇りにしている。イエスはそのモーセ律法を良心に訴えて先鋭化して、出エジプト以来の一千年のあいだに蓄積された偏りや隠されていたものを明らかにしていく。

 モーセの律法即ち十戒は神の山(シナイ(ホレブ)山)において神からモーセに示された神の意志であるが、その始めに神による恩恵の注ぎが確認されている。「われは汝らをエジプトの地から、奴隷の家から導きだした汝の神、主である。汝らはわが前に他の神々を持ってはならない」(Exod.20:2-3)。恩恵の確認のもとに、各人の責任における戒めの遂行が求められる。他の神を拝むな、偶像を作るな、安息日を守れ、などこれらを遵守する者たちと遵守しない者に対する神の正反対の対応が語られる。「われを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代まで問うが、われを愛しわが戒めを守る者には、千代にも及ぶ慈しみを与える」(20:5-6)。たとえば、殺すか殺さないか、盗むか盗まないかという各人の行為、業に応じて神の恩恵と罰が与えられる。そこには「目には目を」などの法的な正義としての同害報復が見られ、それに対応するものとして恩恵は良き行為に対し付与されている。これは「応報思想」と呼ばれる。

 イエスはここに比量的な次元に留まりつつ自他を比較するひとの肉の弱さからくる司法的な次元と道徳的な次元の癒着の可能性を見ている。さらに神権政治(theocracy)ないし宗教的支配と司法的次元ならびに道徳次元これら三つの領域の癒着の可能性を見ている。その癒着を彼は「偽善」と名付ける。「見てもらおうとして、ひとの前で汝らの正義を行わないよう注意せよ。さもなければ、汝らは天の父のもとで報いを獲得することはない。かくして、汝が施しをするとき、ちょうど偽善者たちが礼拝堂や街角で、人から褒められようとするように、自らの前でラッパを吹き鳴らしてはならない。われ汝らに言う、彼らは自分たちの報いを受け取っている。だが、汝らが施しをするとき、汝の右手が何をするかを汝の左手に知らしめてはならない、それは汝の施しが隠されているためである。隠れていることを見ている汝の父は汝に報いを与えるであろう」(Mat.6:1-4)。

 父からの報いをいただくべく右手でなす善行を左手に知らせない、そのような急進化がなされる。ここで報いを第一に功利主義的に自らの利益として受け止めてはならない。比量的な次元で思考が展開される「目には目を」のモーセ律法における報いは正義として理解されねばならない。「彼らは自分たちの報いを受け取っている」と地上で報われた場合には、天上においても得るとするなら過剰となり、もはや等しさが成立しないため、さらに与えられることはないとされる。天の報いのほうがはかない地上の報いよりも利益になると功利主義的に考えることと両立するが、第一には等しさの分配として理解されねばならない。彼はモーセ律法の道徳的次元に留まっている。

 イエスの論敵とは厳格に業の律法を守る、しかし形式主義的な律法主義者になりがちな聖書学者とパリサイ派であった。律法主義とは簡潔に言えばまず命令形で「汝~すべし」において神の意志が与えられ、それを満たすとき直接法で「汝救われた」と救いが与えられるという思考様式である。福音とは反対方向であり、「汝救われた」と直接法により与えられ、「それにふさわしい実を結べ」と命令形が後続する思考様式である。形式的な律法主義は救いに至らない偽善であるとイエスは言う、「パリサイ人(びと)たちのパン種に注意せよ。それは偽善である。覆われているもので知られずに済むものはない。だから、汝らが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」(Luk.12:1-3)。

 イエスは彼らに「偽善」を見出し、こう非難する。「ああ、なんということだ(ouai,woe,ウーアイ)、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、内側は強奪と情欲で満ちているが[現在分詞]、杯や皿の外側を清めている。盲目のパリサイ人たち、まず杯の内側を清めよ、それはその外側も清まるためである。ああ、なんということだ、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、汝らは石灰で塗った墓に似ている。何であれ外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる穢れで満ちている。このように汝らもまた外側は人々に義人に見えるが、内側は偽善と不法で一杯である」(Mat.23.23-28)。この「ああ、なんということだ」という間投詞(これ「ウーアイ」はそれ自身としては意味がなく、ただ音調により理解するしかない言葉)で始まる難詰はえんえんと七回も語られる(cf.ルカの平野の説教Luk.6:17-26)。誰がこの難詰に耐えられるであろうか。イエスは弟子と群衆に「学者とパリサイ派の者たちはモーセの座についたのである。かくして、彼らが汝らに語るならそれらのことをすべて汝らは行いそして心に留めよ、しかし彼らの業に見習ってはならない」(Mat.23:2)、「ああ、なんということだ、汝ら律法制定者たち、人々に背負いきれない重荷を担わせながら、自分たちは汝らの指一本その重荷に触れようとしない」(Luk.11:46)と警告する。

4道徳の座としての良心

 彼はこのように指導者たちの偽りを指摘するが、そのさいの彼の唯一の武器は誰の心魂にも宿る「良心」である。イエスは良心の発動の一つの状況をこう記している。「汝が祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が汝に何か反意を(ti kata sū)もっていることを思い出したなら(mnēsthēs<mimnēskō)、その供え物を祭壇の前において、まず兄弟と仲直りし、それからそれを供えよ」(Mat.5:23-24)。ひとを傷つける言動や小さな不和の芽に気づいたら、まずそれを取り去って良心の咎めを解消してから、供え物によってであれ神と心おきない懇ろな交わりに入るよう命じている。力点は「まだ訴訟人が汝を裁判官に引き渡しそして裁判官が下役に引き渡し牢屋に投獄しないあいだに」という「投獄」の恥辱を受けたくないという功利主義的なことがらにあるのではなく、そのような計算以前に、誰かの反感に気づく、目覚めていること、ないし良心の発動におかれるべきである。イエスはここで「思い出す」という仕方で良心の発動を前提にしている。小さな否定的な事件や不和の芽が摘み取られることは大惨事が未然に防がれたことを含意しているかもしれない。今日的にも「ヒヤリハット」は大事故の背後にはそれに至る多くの小さな危険が潜み、蠢いていることを表現している。「汝らはあらゆる好機に祈りつつ目覚めていよ」(Luk.21:36)求められる。

 さて、「良心」とは「共同の知識(suneidesis, con-science)」ということを意味していた。問題は何と共に知るかということである。人食い人種は部族と共にカルニヴァルに何ら痛みを感じない。今際の時に、友人に自分の一番おいしい部位を与えるのだと言う。イエスもパウロも福音は人々に喜びをもたらすとするが、それは良心の咎めと両立しない。業の律法のもとに生きる限り、ひとは良心の咎めのうちに生きることになるであろう。神と共に、聖霊と共に知ることに、良心のなだめを見出している。正義との観点で良心の平安を考察してみよう。

 イエスは正義のために迫害されるものの祝福を第八福としてこう挙げる。「祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:10-12)。

 第八福は正義に関わる人々への祝福である。この箇所を理解するひとつの視点は良心の鋭敏さである。正義に対する感受性の発動なしに、ひとびとの大勢に、世間に唯々諾々と従っているなら迫害されることはないであろう。イエスは言う、「「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、われは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:43-46)。イエスは隣人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。敵や友は偶然的な関係にすぎないからである。

 彼はこの文章に続いて所謂「無抵抗主義」を基礎づけるが、それは例えば今・ここで襲われている愛するひとのために正当防衛として相手に立ち向かい自分の生命を捧げるそのような行為をさえ拒否する理由となる。「自分を愛してくれる者を愛したところで、汝らにどんな報いがあるであろうか。[ローマ帝国雇用の]取税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになるだろうか。異邦人でさえ同じことをしているではないか。だから汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全な者となれ」(Mat.5:46-48)。愛する者が暴力を振るわれているときに、生命をかけて守ったとして、それは巷間では勇敢な行為と看做されることもあろうが、聖書的には肉の弱さへの譲歩に過ぎない。友を愛し敵を憎むとき、そこに自らの二心を見出し、その偽りに良心が発動することもあろう。家族への愛、好む同士の友愛、ひとはどこまでこの人間的な思いに居座り続けるのだろうか。

「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全な者であれ」と神に似せて造られた者としてひとの本来的な姿が提示されたとき、現実と本来性のあいだのギャップ、落差を知らされる。本来性は「内なる人間」(Rom.7:22)が開かれたとき、認識することのできるものである。パウロは神の意志を知ることができるとし、その認知機能に「叡知(ヌース)」を割り当てる。「かくして、兄弟たち、神の憐れみによりわれ汝らに勧める、汝らの身体を神に喜ばれる生ける聖なる献げものとして捧げよ、それは理性に適う汝らの礼拝である。汝らこの世界に同調するな、むしろ神の意志が何であり、善とはそして喜ばれるものそしてまったきことが何であるかを汝らが識別すべく、叡知の刷新により変身させられよ」(Rom.12:1-2)。二番底と言うべき、自然性の生の原理である「肉」の底に神の働きかけに対応する部位が「内なる人間」であり、霊と叡知からなる。「外なる人間は日々滅び衰えるが、内なる人間は日々新たである」(2Cor.4:16)。この叡知の刷新による変身を通じて、次第にキリストに似た者となる。

 その本来性との関連で良心が発動するようになる。良心とは共知であった。最終的には聖霊と共に知ることである。心の清い者は心魂の底から神と和解しており、良心の発動は聖霊により保証されており、痛みなしに平安のうちに神についての明晰な認識として働く祝福された者である。良心という自然性に属するものとしてではなく、むしろ叡知として平安のうちに神の意志を知り、平安のうちに神との共知が成立している。その叡知の発動においては良心は肉の部位の一番奥底において平安のうちに宥められている。ただ、その聖霊の証の体験も肉の弱さのために例えば記憶として肉に回収されるために、常に叡知の刷新が求められている。

5パウロにおける憐れみ―聖霊による良心の証―

 パウロが「キリスト・イエスにおいて顕された神の愛からわれらを引き離すものはなにもないとわたしは確信する」(Rom.8:36)と福音の勝利を宣言したその直後に、彼は同胞に対し「わたしに大きな憂いそしてわが心に絶えざる痛みがある」と自らの止み難いパトスに言及する。それは彼がかつて共に迫害者であった同胞ユダヤ人に対し今なおキリストを受け入れない者たちに抱くパトスの発動であった。

 パトスは常に変化する身体に伴うものであるがゆえに、彼と言えどもその人生のエルゴン(働き)として絶えず喜んでだけいるわけではない。外的環境の過酷さに身体が悲鳴を上げたり、また何かのきっかけに過去を思い出したりするときの身体の働き・エルゴンは一様ではない。それだから、変動する身体の働きとは別にロゴスの知識の安定性が求められる。「わたしはわが主キリスト・イエスの知識の優越の故に、あらゆるものを損失と考える、彼の故にわれ一切を失ったが、それらをわれ塵芥と看做す」(Phil.3:8)。この看做すはパトスとは離れた認知的な働きである。迫害のただなかで身体的苦痛を受けている状況においても、ロゴス上の明確な理解はそのひとの心魂を支え励ますこともあるであろう。

 パウロは「ローマ書」8章終わりの勝利の賛歌に続き、救いなき同胞への憐れみが自然に溢れ、彼は「自らキリストから離され、呪われてあることを祈った」(Rom.9:3)。パウロはかつてユダヤ教の指導者としてキリスト教徒を迫害していた。彼は旧約聖書の正義の観念に基づき新しい「この道」の者たちが誤った教えであると思い、迫害した。復活のキリストに出会い救いを見出した(Act.9)。義人アナニアはダマスコ途上で光にうたれ落馬したパウロを助けるように示され、驚いて言う。「主よ、わたしは、そのひとがエルサレムであなたの聖徒たちにどんな悪事を働いたか、大勢のひとから聞きました・・」。「行け、かれは異邦人や王たちまたイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどれほど苦しまなければならないかを(hosa dei auton huper tu onomatos mu pathein)、わたしは彼に示そう」(Act.9:13-16)。パウロはこの回心後、いまだに旧約に留まっており新約を、福音を知らない同胞に強い憐みと責任を感じた。

「わたしはキリストにおいて真実を語る、偽らない、わが良心が聖霊において共にわたしに証ししている、わが心に大きな憂いと絶えざる痛みがわがうちにあると。すなわち、わたしは肉におけるわが同族、兄弟たちのためにキリストから離され、自ら呪われてあることを祈ったのである。彼らは誰であれイスラエル人であり、子の定めと栄光と契約と律法制定と礼拝と約束は彼らのものである。父祖たちもそしてキリストも肉に即しては彼らからのものである。この方こそあらゆるものごとのうえにある神であって、永遠に褒め称えられるべき方である、アーメン」(Rom.9:1-5)。

 同胞のユダヤ人はナザレのイエスを長く預言され待ち望まれていたキリストであることを認めようとしない。そして現代までユダヤ教徒にとって神は沈黙を保っている。ユダヤ人のこの無知識はかつての自分のことであった。救いを知った今、自分は救いからもれてでも同胞を救いたいという憐みの思いに支配されている。第五福で学んだ憐みとは、誰か苦境にあるひとにたいし対極の認識に基づく落差の知識に基づき生じるものであった、しかも、その不幸にふさわしくない人格の持ち主が陥った困窮している、不運な事件に巻き込まれているそのようなひとに対する認識に基づくものであった。一般的にも、神による人間ついての認識を学んだ今、パウロは神の前での同胞の本来性と現状の落差に深い憐れみを感じずにはいられなかった。救いの喜びをなんとしても伝えたかった。痛みを伴う自分のこの思いが真実であることは聖霊が共に証してくれると主張する。その自己認識に偽りがないことが聖霊により保証されており、良心の痛みとしての発動はない。良心は聖霊と共知しており、その確かさには揺るぎはない。ただし、身体的なパトスとして「大きな憂いと絶えざる痛み」が彼を襲う。憐れみからくる憂いと痛みである。神ないし聖霊との接触による知識としての叡知の刷新は肉に例えば「記憶」として回収されるために、常に叡知の刷新が必要とされる。

 パウロ同様ひとは終わりの日までは完全には癒されることはないであろう。パトスとして否定的な過去が首をもたげることもあるであろう。そのたびに十字架を仰ぐことであろう。自らの外に確立された福音の高貴さ、高価さ代えがたさに彼は自己の救いの追求さえも塵芥と看做す。それほどおのれから解放されていたのであった。「わたしに生きることはキリスト、死ぬことも益なり」(Phil.1:21)。彼の良心と信仰は彼のこれらのパトスの底においてわれらの外(extra nos)にある救いの確かさに平安を見い出していた。

6結論

 自らの知的誠実さ、学的良心と信仰のあいだの不一致、ギャップに苦しむ者たち、いわゆる哲学者にパウロから一つの問いが投げかけられることであろう。「汝は神よりも人格なき矛盾律をより一層信じ愛するのか」と。ひとは知性から成り立っているように、身体を備えたものとしてパトスからも成り立っている。認知的な次元での信は「死者の甦りを信じる」という類の目的語を伴うが、信実な神の圧倒的な現臨の前においては目的語や信念内容の表白ではなく、ただ「信じます、信なきわれを憐れみ給へ」という端的なひれ伏しが遂行されるであろう。イエスご自身、天国から新鮮な空気がそそがれ喜びが溢れ出すパトスと天後の知識を持つに至った知性を祝福して言う。イエスは「天国のことを学んだ律法学者は自分の蔵から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:52)。古いものとは旧約のことであり、新しいものはその延長線上に打ち立てられた新約のことであるという理解がなされる。天国のことを学んだ者はきちんと心魂という自分の倉庫を管理しており、知性においても人格においても一切を天国との関連において秩序正しく考慮することができまた行為を形成することのできるひとのことである。そして山上の説教を遂行しているイエスご自身はこの新約を身にまとっていたのである。福音を彼自身の一挙手一投足を通じてこの地上に実現している。イエスは言い給う、「神の国は汝らのただなかにある」(Luk.17:21)。彼と共にあるとき、神の国がいかなるものであるかを知ることができる。福音である。喜びである。

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山上の説教における福音ーリアルタイムのイエスそのひと―

マタイ5-6章 2020年8月2日 (今回は前講がなかったため1時間弱の講義となった。時間の余裕があったためゆっくり、原稿を読まずに語った。聖書の引用はこの原稿からのものである)。

山上の説教における福音―リアルタイムのイエスそのひと―

                                                        2020.8.2

 1序 

 この前期最後の聖書講義においてこれまでの学びを振り返りながら、山上の説教は彼がそのために受肉した福音を持ち運びつつ、モーセ律法の成就の新たな道を指し示すものであったことを明らかにしたい。山上の説教の高い道徳を実現させるその道行が、福音書において報告、展開されるリアルタイムのイエスの信の生涯であったことを指し示したい。すなわち、山上の説教は、一方、良心の咎めにいたるモーセ律法の急進化により、聴衆がそのもとに育ったユダヤ教の伝統のなかで強調されたパリサイ主義的律法理解の偽りを摘出しつつ、他方、良心を癒す「神の国と神の義」を説き明かしていることを明らかにしたい。

 見取り図を描こう。神に嘉みされる、好まれる人々がどのような人であるかが八福として提示される。その喜びに基づき、神に栄光を帰すべく地の塩、世の光となるよう励まされる。これら二つの「立派な働き・業(ta kala erga)」はひとびとの模範となるものである。イエスはその立派な業の基礎は既にモーセ律法即ち業の律法において与えられていることを確認する。彼は自らを「安息日の主人」と語り、律法主義的なパリサイ人のようにとりたてて厳格にモーセ律法を順守しなかったことから、彼が[聖]書に描かれている律法と預言者を廃棄するためにきたと思われていた。しかし、彼はユダヤ人がそのもとに育てられた「(モーセ)律法の一点一画」たりとも終末まで廃れることはなく、「私は・・成就するために来た」と主張する。

 そのうえで彼は律法についての伝統的な言い伝えを急進化させる。イエスはモーセ律法を急進化させ怒り即殺人、情欲視即姦淫、敵即隣人、愛敵即無抵抗という仕方で双方を同化させる。これらの滑稽とも言えるほどの真面目さにおける偽りとの決別はひとびとにイエスないし神との共知としての良心の発動に導かれる。ひとの心は例えばカルニヴァル(人肉食)に良心の痛みをもたない部族があるように、この急進化により良心が発動するそのような知識に基礎づけられ、知識に制約されるそのようなものである。イエスは究極の良心規準を提供したと言える。それにより、彼は宗教指導者たちの、道徳的次元でも司法的次元でもまた宗教的次元でも人からも神からも褒められようとする二心、三心の偽りを指摘している。彼はそのさい対人論法を展開する。聴衆であるユダヤ人とイエスのあいだで同意されているのは、天国と地獄があること、神に律法を与えられたユダヤ人としての誇りである。聴衆が馴染みの教えはモーセ律法に基づく応報思想としての正義感である。「目には目を」「歯には歯を」の同害報復においては、等しさの分配という司法的正義が主な正義の理解である。イエスはそのユダヤ人の立場から天国や地獄における「報い」の概念も等しさの分配としての正義に基づき展開する。

これらがこの四か月の講義の流れであった。二心の排除において良心の発動が山上の説教の目的のようにさえ思われよう。しかし、この説教には既に権威ある方の教え、福音が見いだされうる。山上の説教においては良心が癒されるその福音に基づいて急進化された律法の成就の方向が示めされていたのである。

良心が宥められ心に平安を得るのは、道徳的次元とは異なる恩恵の次元に立つときのみであろう。イエスは「モーセ律法」ないし「業の律法」を急進化し道徳的次元において良心のことがらとして摘出した。神にはもう一つの正義の意志として「信の律法」がイエス・キリストの信を介して啓示されている。それは「目には目を」の比量的な正義の次元ではなく、比量や比較を絶する善である。そこでのみ聖霊と共に知る良心の平安が与えられる。

 山上の説教を理解する鍵語は「モーセ律法の急進化」「良心の発動」「偽りの摘出」そして「八福」と八福に基づく「第一に神の国と神の義とを求めよ」そしてそこから導かれる「明日のことを煩うな」の励ましである。

2 八福!もう一度

 イエスそのひとが神に八つの仕方で祝福されていることを彼の生涯の福音書の報告の様々な場面を紹介しつつ明らかにしてきた。イエスは三人称で一般的に神が好むひと、神に嘉みされるひとがいかなる者たちであるかを八つ枚挙している。「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(5:3-12)。

 マタイ5章から7章は山の上での教えであるため、「山上の説教(垂訓)」と呼ばれている。「祝福されている」と訳される言葉は「幸いだ」と訳すこともできる。とはいえ神とその御座である天国との関連で語られているがゆえに、神に祝福されるのでなければ幸福であることはできないため、より直截に「祝福されている」と訳した。これらは神に祝福される八つの心魂の態勢・状態またその働きにある者たちについて三人称で一般的に言われている。とはいえ、福音書のイエスの言葉は常に具体的な対話の状況・文脈のなかで対人論法により語られている。それ故にこの三人称表現も彼を求めて山を登ってきた寄る辺ない群衆に対して彼がもった今・ここの憐みから、通常否定的な状況と思われている悲しみなどの心の受動や苦境、そして柔和、憐れみ深さ、清らかさなどの肯定的な心の態勢そして迫害や平和を造る対人関係にこそこれらの祝福が発せられていると考えねばならない。彼ご自身が神に祝福される八福の担い手であったことが、福音書の様々な報告から確認することができる。祝福されていない者が他者を祝福することはできないであろう。

イエスご自身はユダヤ教の伝統のなかで「イスラエルの失われた羊」に遣わされているという自覚をもち福音宣教を始められたが、この三人称の表現はユダヤ人であれ、異邦人であれ誰であれこの憐みのもとに含まれていることをも含意している(Mat.15:21-28)。語りの文脈の具体性と射程の一般性双方を捉えねばならない。実際、類似の宣教の文脈において「群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れみ」、「彼らに多くのことを教え始められた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。彼は彼についてくる群衆を深く憐れんでいたのである。その憐みのなかでの神の国の宣教すなわち神の国がどのようなものであるか、天上の倫理がいかなるものであるかについての「教え」とそれがもたらす知識は弱った人々を救いだす力である。神の国についての明晰な理解がひとを新たにするという言葉の力を山上の説教は示している。彼は彼を求めて山に登ってきたひとびとを見捨てることは考えられず、彼の権威ある祝福は聴衆を励ますものであった。

 註解者たちは旧約聖書にこの八福についての先駆的記述を探しあて指摘している。たとえば『イザヤ書』61章で類似の記述に出会う。「主ヤハヴェの霊がわたしに臨んだ。ヤハヴェはわたし[イザヤ]に油を注ぎ、貧しい者に喜びの音信(おとずれ)を告げ 心傷ついた者を医(いや)すために わたしをお遣わしになったのだ。囚われた人に自由を 囚人に解放を告げ ヤハヴェの喜びの年と われらの神の復讐の日を告げ すべて悲しむ者を慰め・・衰えた心の代わりに賛美の衣を与えるためである」(Isaiah.61:1-3 関根正雄訳)。「柔和な者は地を嗣(つ)ぎ 豊かな平和を喜び楽しむことであろう」(Ps.37:11)。

イエスはご自身の使命を福音の宣教にあると心得ておられたので、このイザヤや詩篇の言葉などを自ら引き受けてその伝統のもとにそしてその伝統を超えて新しい教えを展開した。その山上での最初の福音が八福の教えである。第一の祝福は「その霊によって貧しい者たち」に与えられる。「その霊によって((i) pneumati)」(与格)はいかなる仕方で貧しい者が幸いかの説明である。例えば、「欲望によって富んでいる者」、「肉によって満たされている者」たちは直ちにはその祝福のもとにいないであろう。肉によって満たされた者は霊の渇きを感じることも、霊による満ち足りを求めることはないであろう、その空しさに襲われるというのでなければ。

 ルターは肉による満ち足りた者について言う、「彼[イエス]はユダヤ人の教えと信仰に抗して、この山上の説教を始めた。もちろん彼らだけではなく、全世界の教えと信仰に抗して彼は説教を始めたのであるが、そこにおいてはその[全世界の教えの]最善においては、もし世界がただ所有、名誉そしてその富を持ちさえするなら、そして世界がこの目的のためにだけ神に奉仕さえしているなら、この世界は豊かであるという考えにしがみついているものであった。イエスは、今や、説教を続けそして彼らが最善である、地上において最も祝福されている、すなわち、良き、静かな日々を持ちそしていかなる不快にも苦しむことがない、と看做したことがらの愚かさを示している。幾人かは詩篇73篇において述べられている。「死ぬまで彼ら[神に逆らう者]は苦しみを知らず、からだも肥えている。誰にもある労苦すら彼らにはない。誰もがかかる病も彼らには触れない」(Ps.73:4-5)。というのも、それは人間たちが求める主要なものごとであるからである、すなわち彼らは喜びと快を持ちそしていかなるトラブルも持たない。

今やキリストはそれを一新する、まさに反対のことを宣言する、そして悲しみと苦しみを持つ者たちを「祝福されている」と呼ぶ、そしてそのように一貫して、これらすべての言明は世界の思考様式とは、ちょうどそれ[その思考様式]がそれ[一つの方向]を持つことになるであろうように、反対の方向になされる。というのも世界は飢え、トラブル、不名誉、軽蔑、不正そして暴力を苦しむことを欲しないからである、そしてすべてから解放されることのできる者たちをそれは祝福されていると数えるからである」Commentary on the Sermon on the Mount by Martin Luther,p.31-2, tr.Charles A. Hay, (Philaderphia:Lutheran Publication Society 1892).

身体をもった自然的存在者の生の原理をパウロは「肉」と呼ぶ。その肉によって満ち足りている者とはこの世界で得られる金銭、健康、地位、友人、家族さらには道徳的有徳性において欠けがなく十全であるそのような者のことを言う。それに対し「その霊によって貧しい者」とはこれらのこの世のいかなるものによっても満たされず、おのれの不十全性故に滅びてしまう空しいものであると認識しており、飢え渇きのうちに神を求める者のことである。詩人は言う、「涸れた谷に鹿が水をもとめるように神よ、わが魂は汝を求める。神に、生命の神に、わが魂は渇く。いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わが糧は涙ばかり。ひとは絶え間なく言う、「汝の神はどこにいるのか」と」(Ps.43:2-4)。このような者がその霊によって貧しい者であり、神に祝福される者である。

3「汝の宝」はどこにあるのか―帰一的秩序付け―

 この世の通常の価値を逆転させる山上の説教はこのように革命的でありかつ危険でさえある。「汝の宝があるところ、そこに汝の心もあるであろう」(Mat.6:21)。ひとは、通常、宝すなわち大切にしているものを同時に多く持つであろう、われわれが価値を置くところのもの、それは健康でありまた、同時に望む職業に就くことでありさらには家庭円満であったり、多くあることであろう。しかし、そこでは「誰も二人の主人に仕えることはできない。というのも一人を憎みそして他方を愛する、或いは一方に親しみ他方を軽んじるであろうからである。汝らは神とマモン(富)に仕えることはできない」(Mat.6:24)と言われてしまう。何を着て、何を食べようかというこの世に宝を積みつつ、また永遠の生命を頂きたいというあの世にも宝を積むということは、心が二心に分裂してしまうことに他ならない。心の清さを宝とするひとは、天にのみ宝を積むひとであるか、少なくとも地上のよきものどもが天の宝により秩序づけられている人々であり、この集中なしに心の清さを獲得することはできない。この世のものごとはいかに天の国によって秩序づけられるのか。

「汝らのうち誰が思い煩いにより、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つか注意して見よ。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく、栄華をきわめたソロモンでさえ、これらの花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、汝らにはなおさらのことではないか、信わずかな者たちよ。だから、「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」思い煩うな。それはみな異邦人が切に求めているものだ。汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりも第一に、神の国と神の義とを求めよよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう」(Mat.6:28-33)。

天の父はこれら生活のことが必要であることをご存知であり、これらすべては神の国と神の義に秩序づけられる。心の眼差しは最初に神の国を仰ぎ見ることが求められている。神により正義だと看做されることに向けられる。そのナザレのイエスは自らガリラヤの野辺を歩きながら、天国について教えつつ、その一挙手一投足において神の意志をさらには神の国を持ち運んでいた。イエスは「天国のことを学んだ律法学者は自分の蔵から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:52)と言う。古いものとは旧約のことであり、新しいものはその延長線上に彼自身においてリアルタイムに打ち立てられつつある新約のことであるが、天国について学んだ者はきちんと心魂という自分の倉庫を管理しており、知性においても人格においても一切を天国との関連において秩序正しく考慮することができまた行為を形成することのできるひとのことである。

4リアルタイムに神の国を約束しているイエスの権威

イエスご自身は野の百合空の鳥の慰めの言葉により、「汝ら」と呼びかける聴衆に対し神の国と神に義とされることを約束している。律法の急進化をただ要請しているわけではない。その根拠を天の国における報いとして約束している。イエスご自身にとっての宝は福音(罪人を義とし救いだす善き報せ)を迷える羊たちに伝えることである。即ち天の父が愛であることを自らの一挙手一投足によって伝えることである。この生涯をより一般的に統一的に表現するなら、彼の宝は天の父のみ旨、意志を完全に遂行することである。彼は生命をかけて神の国を伝え、神の国の現実をこの地上で持ち運んで生きた。「神の国は汝らのただなかにあり」(Luke.17:21)。この権威なしに、ひとにあれほどの律法の成就を要求することはできない。あの世ばかりかこの世をも失わせる、ひとにそのような危険思想を植え付けるだけのこととなる。

イエスは律法を急進化させ愛に収斂させている。「「師よ、律法のうちいかなる戒めが偉大なものか」。イエスは答えて言う、「汝は汝の神、主を汝の心を尽しそして汝の魂を尽しそして汝の思考を尽して愛するであろう」。これが偉大なそして第一の戒めである。第二はこれと同様のものである、「汝は汝の隣人を、汝自身の如くに、愛するであろう」。これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちが依拠している」(Mat.22:36-40)。一切の業の律法は愛に収斂する。パウロも言う、「汝ら、互いに愛することのほか、誰にも何も負うてはならない。というのも、愛する者は他の律法を満たしているからである。なぜなら、「汝姦淫するな」、「汝殺すな」、「汝盗むな」、「汝貪るな」、そしてたとえ何か他の戒めがあるにしても、それはこの言葉「汝の隣人を汝自身のごとくに愛せよ」により包摂されているからである。愛は隣人に悪を働かぬ。かくして、愛は律法の充足である」(Rom.13:8-10)。愛が業の律法の冠である。

彼は地上においてかそれがかなわなければ天上における希望として愛を実現すること、それ以外の宝を持たなかった。換言すれば、彼は父に御言葉の受肉において派遣された者として、自らが神の子であることを信じ、「神の子の信によって」(Gal.3:30)愛に向かう信の従順の生涯を貫いた。「神の信」に対し信によって応答すること、愛に方向づけられる信それが彼の宝であった。キリストの弟子であろうとする者はその道に続く。「もはやたしは生きてはいない、われにおいてキリストが生きている。しかし、今わたしが肉において生きているところのものを、わたしはわたしを愛しそしてわがためにご自身を引き渡した神の子の信によって、信において生きている」(Gal.3:20)。またパウロは言う、「汝らはすべてキリスト・イエスにおける信を介して神の子なのである」(Gal.3:26)。

誰であれ様々な宝遍歴を経験したとして、この世の満ち足りの空しさ、薄っぺらさを経験した者には、これ以上の宝をもつことはないであろう。そこでのみ良心の咎めから解放されている。問題はこの一つを宝とするには古い自己の死を介することによってだけ、他の諸々の宝、偶像から解放されるという、この信の出来事を必要とすることである。「すべて信に基づかないものごとは罪である」(Rom.14:23)。彼はその信に基づき、愛の充溢である神の国を一挙手一投足においてこの地上に持ち運んでいたのである。

人口に膾炙した「野の百合空の鳥」というメッセージが彼のリアルタイムに実現されつつある福音に基礎づけられていたことを確認した。他方、イエスは同時に聴衆に対人論法において議論を展開していた。聴衆に馴染みのモーセ律法の枠の中で律法を急進化させつつ宗教指導者たちの偽りを摘出していた。対人論法として相手の土俵で論じており、直接に信仰を説くことも、奇跡に訴えることもなく、ただ言葉の力によりご自身が旧約の枠の中で、律法を急進化させることによってだけ整合的になる、その一挙手一投足において新たな契約を打ち立てている。

5業に基づく正義としての「報い」を乗り越えるもの

神の国と地の国の価値の逆転、さらには神の国による地の国の秩序づけ、ひいては福音と律法の関係の新たな樹立について、それを理解する一つの鍵は「報い(mistos)」という概念である。イエスは言う、「汝らの正義を人々の前で彼らに見てもらうべく為さないよう注意せよ。さもなければ、汝らは天にいます汝らの父のもとで報いを得ることはない(echete)からである。かくして、汝が憐みを施すとき、それはまさに偽善者たちが礼拝堂や街角で人々によって褒められるために為しているように、汝の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。まことに汝らに言う、彼らは彼らの報いを受け取っている。しかし、汝が憐みを施すとき、汝の憐みの施しが隠れるために、汝の右手が何を為すかを汝の左手が知ることをあらしめるな。そして隠れているものを見ている汝の父が汝に償うであろう」(Mat.6:1-4)。天において報いを得るか、この地上で報いを得るかいずれかであって、双方ということはない。それは「祈り」に関しても「断食」に関しても同様であり、ひとに見られるために大通りで祈り、断食するなら、「彼らは彼らの報いを得ている」(6:5,6:16)と言われる。そこから「汝らは汝らにおける宝を天に積め」(6:20)と命じられる。

かくして、報いは地上で既に得てしまった場合、天に積むことにはならず、天において報いや償いを得ることもない。イエスはあれかこれかを迫っている。報いはモーセ律法の応報思想の枠の中で理解する限り、正義を含意する。だから、地上で報いを得てしまえば、天国は過剰な報いとなり等しさとしての正義を得ることはない。宗教指導者たち、ひいてはわたしどもの偽善は地上でも天上でも報いを得ようとする二心であった。イエスはユダヤ人の当時の伝統的理解のなかで、誰もが持つであろう良心に訴えて、偽りを摘出している。言わば彼らの土俵で戦っている。それ故に「報い」は第一義に業の律法に基づく正義を意味しており、単に功利主義的な理解を提示しているわけではない。功利主義的に「最大多数の最大幸福」やその類の主張のもとにある快の最大化を目指すことが許容されているなら、この世の快とあの世の快双方を追求するであろう。しかし、それは正義と言う視点からブロックされており、快が報いの規準であるとは看做されていない。

天に宝を積み、そこで報いを得ることを命じるイエスご自身は或る確信のもとに権威をもって、彼についてくる者たちに未来についての約束を為している。一方モーセ律法に即して、応報の正義という観点からしてこの世界で報いをえることのない場合には天上で受けることは正義である。他方、ご自身はモーセ律法を超える権威を持つ方として、聴衆に天の報いを約束し励ましている。パウロはモーセが自らの栄光の翳りに不安を覚えたことを見逃さずに言う、「その神はわれらをして文字のではなく、御霊の新しい契約に仕える者として十全なものと為したまうた。というのも、文字は殺し、御霊は生を造るからである。しかし、たとえ、石に刻まれた文字における死の奉仕が栄光のなかに生じ、その結果イスラエルの子たちはモーセの顔の栄光の故に、それはやがて消えゆくべきものであるが、直接凝視しえざるほどのものであったとしても、霊の奉仕はいかにはるかに栄光のなかにあることになるであろうか」(2Cor.3:6-8,Ex.34:30)。

パウロはここでキリストを介した生命を与える霊の栄光と力能と神からモーセに授かった文字による栄光の程度の異なりを伝えている。十戒を示されたモーセの顔の輝きに麓にいた民は畏れを抱いたが、霊がもたらす栄光はそれに遥かに勝るものであった。その栄光ある主が明日のことを煩うな、天の父は汝らの一切の必要をご存知である、天に宝を積むとき、その報いは大きい、そのことを約束している。かくして、どうしてもこの世界における報いへの要求と自らの立派さへの誇りが残る業に基づく義よりも、天国への信に基づく義のほうがより根源的であることがわかる。

最大の報いとは何であろうか。それは各人の「宝」に応じて異なるであろう。イエスにとっては父と子の揺るぎなき愛の交わりであり、敵が友となり、支配からも支配されることからも自由な唯一のところで出来事になる友と友との揺るぎなき愛の交わりである。それは急進化された律法の理解にも基礎づけられうるものである。それはただイエスのように憐み深く、柔和な者にだけ与えられる祝福である。新約的には御子の受肉による福音の啓示の故に、何か野の百合、空の鳥のように神の憐みとケアのうちにあるとするなら、それは旧約的な報いではもはやなく、キリストにおいて示された神の憐みの聖霊を介して溢れでたものであると言える。「渇いている者は誰であれ、わたしのところに来て飲みなさい。私を信じる者は書に書いてあるとおりに、その者から生きた水が川となって流れ出るようになる」(John.7:37-38)。「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)。

6 平和の君

今学期の学びで個人的にインスピレーションであったのはイエスの柔和さとその柔和さをめぐるゼカリヤの預言である。イエスは第三福の柔和な者であった。「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を汝らのうえに繋げなさい。そしてわたし[の足取り]から、わたしが柔和でありその心によって低いものであることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。というのもわたしの軛は良きものでありそしてわたしの荷は軽いからである」(Mat.11:28)。イエスは暴れ馬のような方ではなく、イエスは驢馬の子にのってやってくる平和の君であった。その彼の軛に繋がれて歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与える者となる。平和の君だからである。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。

イエスの弟子であろうとする者はイエスの担いやすい低い軛に繋がれることである。ひとは見捨てても彼は決して見捨てることはない。誰であれ、ご自身の栄光を棄てられ、ひととなり、貧しいもの、悲しむ者、争いを好まない者、正義から不当に見放され正義に飢え渇いている者、憐み深い者、平和を造る者そして正義のために迫害される者たちとどこまでも共にいたまう方のところなら行くことができる。この世界で見失われているひとびとであればあるほど、イエスの軛につながれつまり神の子の信のもとに生きることによって、この人生を歩むことができる。

イエスの軛に繋がれ歩んでいるとき、次第にイエスの歩調に合うものとなり、次第に造り変えられていくであろう。この世界に何ら確かなものがないと思い絶望する者でも、このような八つの心の働き、状況においてある者が祝福の対象であるなら、人類にその一番低い所にセーフティネットは明確に張り巡らされていることを知るにいたる。イエスのもとにならいくことができる。

[附録] 新型コロナと「神の怒り」

人類の歴史は神の計画のうちにおかれている。今回のコロナ禍を「ローマ書」一章の視点から捉えてみる。まず天災と人災に分けることができるなら、罪は神とひとの関係であるため人災の側面についてのみ記す。ひとは自然に対し暴力的な搾取に明け暮れ、コロナウィルスに慎重に取り組むことなしに、自らの楽しみや利益を優先させ医療崩壊そして社会崩壊を引き起こすとき、勝手にせよと神は各人の裁量に引き渡しており、何ら関与されない。ところが、人類は自分の力でそれを終息させることができないほど、身勝手にウィルスをまき散らして健康弱者を窮境に陥らせている。もちろんわれわれにはゼロリスクということはありえず、いかなる理由であれ一旦感染してしまったなら、それは一種の運命共同体として身近な感染者を自らのこととして引き受けるしかないであろう。それによってのみ、われと汝の絆がつくられていくであろう。ただし、このコロナウィルスをめぐるここでの議論は聖書的には神の意志としてイエス・キリストやモーセを介して知らしめられているほど明晰に知らされているわけではないことに留意が必要である。これは歴史の渦に翻弄されている各年代の者がその時代の窮境を聖書に照らして「神の怒り」として捉える一つの視点である。悔い改めはいつの時代のいかなる状況においても求められている。

 

 

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天の父が完全であるように

「天の父が完全であるように、汝らも完全なものとなれ」

山上の説教マタイ5:33-48  2020年7月26日(録音では引用箇所が言及されないため、原稿を添付する。ただし、原稿にないものが録音では語られること、またその逆もある。「附録」 アンセルムスにおける正義と憐み両立の論証は録音されていないため原稿によりお読みいただきたい)。

1はじめに

 今回は神の完全性について考えてみたい。イエスは彼に追随してくる群衆たちにたいし彼らに馴染みのモーセ律法を手掛かりにして道徳的次元で聴衆の良心に訴えた。イエスは山上の説教においては対人論法を展開し信仰にも奇跡にも訴えることなしに、道徳的次元において議論を良心の発動の限界点にまで導いている。彼は彼らの指導者たちの気づかない二心、三つ心の癒着を指摘し心の清さのありかを教える。「汝の宝のあるところ、汝の心もまたそこにあるであろう」(Mat.6:21)。

 最も大切な宝とは何なのであろうか。道徳的にも、社会的にも宗教的にも成功することであろうか。この世もあの世もという欲張りはその心の清い者さらに憐れみ深い者と呼ばれることもないであろう。その霊によって貧しい者たちこそ神に祝福される者たちであった。この世のものによって満たされている者たち、その肉によって満足している者たちは自らの霊の渇きに気付かないであろう。言い換えれば、この世の何ものによっても満たされない者たち、この人間社会のただなかで善と悪に、真理と偽り等のあいだに何も確かなものを見出すことのできない者たちが天の父を求める。また人間と社会への失望や絶望から人間の可能性に対し諦め、この闇の世の力に圧倒され、疲れてしまった者たちが憐れみ深い羊飼いをもとめる、或いは正義に飢え渇いている者たちが正しい審判者を求める。一切を知り正義にして同時に憐れみ深い神と出会うとき、地の塩、世の光となる新たな力を得る。偽りなくつまり二心なく神を求める者、正確には「神の信」(Rom.3:3)に対し信によって応答しようとする者たちが心の清い者たちであり、後の日に神を見る者たちであった。

 神ご自身は聖なる方である。この聖性は栄光に輝く光に喩えられる。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は地をすべて覆う」(Isaiah.6:3)。誰がこの聖性に耐えられるであろうか。イザヤは言う、「ああ、何ということだ、わたしは破滅だ、というのもわたしは穢れた唇の者、穢れた唇の民のなかに住む者だからだ。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見たからだ」(6:5)。しかし、この聖性が人となり、救いの光となった。「暗闇を歩める民は大いなる光を見、死の陰の地に座したる者に光が照らした、主は民を増し加え、歓喜を大ならしめた。・・ひとりの男子(おのこ)がわれらのために生まれ、一人の子がわれらに与えられた。支配はその肩におかれ、その名を呼んで霊妙なる議士、大能の神、永遠(とこしへ)の父、平和の君と称えられん。その政事(まつりごと)と平和は増し加わり、限りなし。かつダビデの位に座してその国を治め、今よりのち永遠(とこしへ)に公平と正義とをもてこれを立てこれを保ちたまわん。万軍の主の熱心これを為し給うべし」(Isaiah.9:1-6)。柔和なイエスの正義にして憐れみ深い聖性に照らされて、ひとは新たに歩みだす。「汝の道を主にまかせよ。汝の正しさを光のように、汝のための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる」(Ps.37:6)。

2「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全なものとなれ」

 イエスは怒り即殺人、情欲視即姦淫、愛敵即無抵抗というモーセ律法の急進的理解を良心に訴えて説き勧める。最終的には彼は神が完全であるように、完全であれと命じる。人類に課される要求でこれ以上の強度の、大きな要求を想定することはできない。完全性によっていかなるものごとを理解すべきであろうか。その命令が導入される文脈は偽り、二心の拒否である。古への先人たちから「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられてきたが、その命令に心の中にざわめきを感じ取るひとは少なくないであろう。そこではこう言われている。「汝らは「汝の隣人を愛し、汝の敵を憎め」と語られたのを聞いた。しかし、わたしは汝らに言う、「汝らの敵たちを愛せよ、そして汝らを迫害する者たちのために祈れ、それは汝らが天における汝らの父の子となるためである。天の父は悪しき者たちにも善き者たちのうえにも太陽を昇らせまた正しき者たちにも不正な者たちのうえに雨を降らせる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにどんな報いがあろうか。[ローマ帝国の]取税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんなに優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全なものとなれ」(Mat.5:43-48)。

 敵は隣人となることもあろう。さらには敵が友となることもあろう。善人も悪人にも神は憐みを示している、そのことがひとの二心を摘出させ、偽りとの決別へ、完全性への命令に結実する。われらは自らのうちにひとを分け隔てする二心があることに気付くのは、例えば、敵がひどい目にあうとそこにひそやかな喜びを感じてしまう時である、たとえそのような自己をすぐに恥じるとしても。友にさえ同じような感情をいだくこともあろう。どこまでもおのれを中心にしてしか世界を受けとめることができないその自己に落胆する。完全性からほど遠い、救いから漏れている自己を見出す。それが良心の咎めである。ひとはどこで分裂が癒され、自己が自己自身との一致において良心の咎めなく生きることができるのであろうか。

イエスは最後の審判の座において、端的に、右手で為す善行を左手に知らせることのなかった清く、憐み深く、良心の咎めなき祝福された者と良心の発動が促される呪われた者たちを判別する。イエスは言う、「[イエス]「わが父に祝福された者たち(hoi eulogēmenoi)、天地創造のときから汝らのために用意されている国を受け継げ。汝らはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・正しい者たちは応えるであろう、「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したのは、わたしに為したことである」。・・[イエス]「呪われた者たち(hoi katēramenoi)、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。汝らはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらは汝が飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」(Mat.25:34-45)。

 自らの胸に手を当て、吟味反省する時、おのれの高ぶりに気付く。山上の説教はブーメランのようであり、何か否定的な思いがわきあがるところ、そこに戻ってくる。貪りの思いが起こると、「その心によって清い者は祝福されている」が響き、怒り「愚か者」と言うなら、「火の地獄に投げ込まれるであろう」と言われ、誰かの人格を否定するなら、「裁くな」と言われ、良心の痛みが発動する。イエスは畳みかけるように、人間が想定しうる究極と言える、神の完全性に倣うように命じる。神は宇宙の外側で永遠の現在のうちにいたまい、言わばタイムマシンに乗っており、宇宙の法則から歴史に至るまで一切を知っていたまう認知的に十全な方であり、人格的に恣意的な依怙贔屓することのない公正で正しい方でありしかも同時に憐み深い人格的に十全な方であった。神の意志はイエス・キリストを介してほど、個々人の誰にも知らされていないため、たとえ永遠の昔から救いに選ばれ予定されていたとしても、各人にとっては自らが神に選ばれキリストにより愛されていることを信じることは常に実質的である。

 イエスは呼びかけて言う。「疲れている者たち、重荷を負っている者たちは皆、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛を汝らのうえにかつぎ[繋ぎとめ]なさい。そしてわたし[の足どり]から、わたしがその心柔和であり(praus)また謙った者であることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に休息を見出すことであろう。というのも、わたしの軛は良いものでありそしてわたしの荷物は軽いものだからである」(Mat.11:28-30)。イエスの軛、荷とは何か?天の父が憐み深く、信じる者を救い出す方であることへの幼子の信仰である。有徳な者も悪人も魂の根底に生起する悔いた砕けた魂における「信じます」と幼子のように縋ること、それがイエスと共に軛を背負って歩くことである。そこでは何の立派さも要求されず、ただ自らに偽りのない信が生起する場所・二番底即ちパウロの言う聖霊に反応する心の内奥の「内なる人間」(Rom.7:22)から生きるとき、同じ軛に繋がれた主が肉の生全体を一なるものとして秩序づけてくださる。荷物を運ぶとはイエスの御跡に従って歩むことであり、そこではイエスの弟子でありうることが無常の光栄となる。イエスに似た者になること以上に喜ばしいことはないからである。このように神の完全性にはナザレのイエスを介して近づくことができる。

 3神の認知的十全性

 詩人は神の全知をこう語り賛美する。「主よ、汝はわたしを究め、わたしを知っておられます。座るをまた立つをも知り、汝は遠くからわが思いを悟っておられます。歩くのもまた伏すのも見分け、またわたしの道にことごとく通じておられます。わたしの舌がまだ一言も語らぬさきに、しかし、見よ、主よ、汝はすべてをご存知にいます。汝は前からも後ろからもわたしを囲み、わたしのうえにその御手を置いてくださる。その驚くべき知識はわたしにはあまりに素晴らしいものであり、それは高くて、わたしはそれに到達できません。どこへ行けばわたしは汝の霊から離れることができましょうか、またはどこに逃れれば、汝の御顔を避けることができましょうか。天に登ろうとも、汝はそこにいます。陰府(よみ)に床を設けても、視よ、汝はそこにいます。曙の翼を駆って海のはてに住むとも、そこにおいてさえ、汝の御手はわたしを導き、そして汝の右の手はわたしを捉えてくださる」(Ps.139.1-10)。

 宇宙万物の創造主にして救済主である神の如くに完全になる、認知的に十全な者となるということは、ひと各人を構成している諸層、諸次元に通暁して、正しく認識し判断できるようになることである。ひとは誰であれ何をしていても道徳的存在者として善悪を判断して生きており、ひとは何をしていても社会的存在者として経済、政治、法律などのもとで判断しつつ生活しており、ひとは何をしていても生物的存在者として栄養摂取、代謝、生殖のもとにあり生物としての自己を自己に宿るウィルスの本性にいたるまで知ることが求められ、ひとは何をしていても物理的存在者として光や重力の法則等のもとに運動しており、また形而上学的(Meta-physics 物理学を超えた学)存在者として、「ある」と「あらぬ」と「成り去りゆく」世界において存在と消滅にかかわっている。宮沢賢治はこの形而上学的存在者についてこう問う。「われやがて死なん、今日または明日、あらためてわれとは何ぞやと考える。われは幾十かの原子と分子の結合なりせば、畢竟するところ真空と異なるところあらず、われは死して後、真空に帰するや、それともあらためてわれと感じるや」(「疾中」)。

 パウロは死後の世界について、もし死者の復活がなければ、「飲めや歌えや、明日は死ぬ身だ」と主張する者たちの認識を伝える。パウロはそのような見解に「汝ら欺かれるな」と励ます(1Cor.15:32-33)。彼はイエス同様、ひとは死して真空に帰すのではなく、神の前に立たされると主張する。この尋常ならざる主張はひとつには人文、社会諸科学から生物学そして宇宙にいたるまであらゆる学問の通暁を介して、正しく吟味されることであるのかもしれない。しかし、これらすべての層が神の前に「在る」ものとして秩序づけられるとき、様々な分裂は癒され、一なる者として希望の生を生きる。ひとびとはその十全な全体の知識を持たずにも信により秩序を得、乗り越えてきたのである。信のもとにキリストの弟子でありうることを最も光栄なこととして、「艱難をも喜ぶ」(Rom.5:4)そのような秩序ある生が生み出されてきた。

 その秩序は「内なる人間」を構成する「叡知」と「霊」によって基礎づけられ、ひとびとは不思議な平安を経験してきたのである。「叡知」については「汝らこの世界に同調するな、むしろ神の意志が何であり、善とはそして喜ばれるものそしてまったきことが何であるかを汝らが識別すべく、叡知(ヌース)の刷新により変身させられよ」(Rom.12:1-2)と励まされる。神の意志に叡知がヒットすることもあろう。パウロはまた言う、「わたしは汝らについて確信している、汝ら自ら善きもので満ち、あらゆる知識を十全に備えており、互いに忠告しあう力ある者たちであると」(Rom.15:14)。彼は自ら書く生死をめぐる形而上学的なことがらを読者が「読んで理解できる」はずだと主張する(cf.2Cor.1:13)。

 われらは神の如き全知に向かう。ただし、自ら知恵ある者と誇る者がいたなら、こう警告される。「知識はひとを高ぶらせる、しかし愛は築く。もし誰かが何かを知ってしまっていると思うなら、未だ知るべき仕方で(kathōs dei gnōnai)知らなかったのである」 (1Cor.8:1 2 )。知るべき仕方とは何か。人間は神に造られた者として自然というテクストをまた人間というテクストを探求するその仕方であり、決して自らの発明に帰されることなくこれまで隠されていたロゴスの発見として、「その通り、本当だ」という同意による知識の獲得である。この信のもとにひとは正しく知識を持つにいたる。われらはこの己の認知的不十全性のなかで、自己が自己自身との一致において良心の咎めなく喜んで、平和を造る者となることを望んでいる。その希望はナザレのイエスの信の従順の生涯に基礎づけられている。

  4「いっさい誓うな」の基礎づけ

 イエスが群衆に「誓うな」とモーセ律法を急進化させるとき、その根拠はひとびとの誓いや約束など言葉の具現化力能、実行力の不十全性を指摘することによってである。ひとは己を正しい仕方で知らないからこそ、誓いを行うとイエスによって看做されている。彼は言う、「また汝らは古へのひとびとにより、「汝は偽って誓うな、汝の誓いを主に果たせ」と語られたことを聞いている(cf.Lev.19:12,Num.30:2-3,Deut.23:21)。しかし、わたしは汝らに言う、いっさい誓うな、天にかけても、というのも神の座であるから、また地にかけても、ご自身の足台であるから、さらにはエルサレムに向けても、大きな国の街であるから、汝の頭にかけても、というのも一本の髪の毛を白く或いは黒くすることもできないからである。汝らの言葉は「然り、然り、否、否」であれ、それ以上は悪しきものからでてくる」(Mat.5:31-37)。

 この誓いの禁止は十戒の第二戒「汝は汝の神ヤハヴェの御名をみだりに唱えてはならない」(Ex.20:7)と関連づけられる。「主よ、主よと言う者が皆天の国に入れていただけるわけではない、天にいますわが父の御意(みこころ)を為す者が入れていただけるであろう」(Mat.7:21)。前文の偽りの誓いで引用した当該箇所(cf.Lev.19:12,Num.30:2-3,Deut.23:21)においても、神への誓い、訴えのおざなりな言葉への警戒が語られていたが、一旦誓ったならそれを守るようにという実践の戒めに移行させられてきた。主の御名を唱えることによって免責されるわけではない。イエスはそれを急進化させ、一切誓うことのないように命じる。というのも、一方で天から地まで一切が神の支配のもとにあり神の御意が実現されるが、他方、人間が自らに頼るには神の力能との関連においてあまりに微力であることの認識が働いているからである。ひとは自分の身長を伸ばすことも髪の毛を自然に即して白くも黒くもできない。

 ひとは神との関係においておのれを知るとき、「然り、然り、否、否」しか誠実さをもって応答することができないところまで追いつめられる。それが自然に思えるとき、神とひとの関係が生きたものとして形成されているときである。自然が語り出すこと、テクストが語り出すことに耳を澄ますだけで、「その通りだ、然り(本当)だ(ita est verum est)」と心の内側からの同意が偽りなくなされることであろう。内側からの納得は双方が等しいものとなり、支配のもとでのいかなる種類の洗脳とはまったく異なる。

  5神とひとを媒介するイエス

 永遠の神と不十全な人間、この彼我の差は媒介者によってだけ橋掛けられ、近づくことが許容されるであろう。主の軛を主と共に担ぐとき、主の歩みからその柔和と謙りを受け取り、ひとは造り変えられていくことであろう。誓うなと語られるイエスご自身が共に軛を担う者に御意をなす力をそのつど与えてくださることであろう。神は善人にも悪人にも等しく雨を降らせ、太陽を昇らせたまう。敵もイエスがそのひとのために受肉し、死んだまさにそのひとのことである。「キリストがその者のために死んだそのかの者を汝の食物によって滅ぼしてはならない」(Rom.15:15)。われらが神に敵対していたときに、神は愛を示したとパウロは言う。「かくして、今や、われらは彼の血において義とされたのであるから、さらにいっそう彼を介して怒りから救われるであろう。なぜなら、もし、われらは、われらが敵であったときに、神と、ご自身の御子の死を介して、和解させられたのであるなら、さらにいっそう、われらは、和解させられた者として、彼の生命において救われるであろう」(Rom.5:9-10)。キリストに倣い迫害する者を祝福して呪わないとき、ひとは神に一歩近づくことになるであろう。

  6聖書に記される神は完全か?

 ここで一つの問いが提示されよう。旧約聖書において記されている神は完全であるのか、と。モーセ律法それ自身が急進化されうるものであるとするなら、神は真剣に人間と取り組んでいなかったのではないか。不十全な戒めを与えたのではないか。それに対しては、一つにはこう応答できよう。イエスは十戒の解釈として提示された600を超える律法に軽重の差異があることを認めている。イエスご自身は旧約のなかで新約を打ち立てようとする途上の生を今・ここで遂行している。その彼は神の律法を一つの体系のもとに捉え、軽重を明確に判別している。「ああ、なんということだ、学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばきそして憐みそして信をないがしろにしている」(Mat.23:23)。イエスは信の従順を貫いた。そしてそこにおいて公正なさばきつまり正義と憐みつまり愛が和解し両立するにいたったのである。

 さらに問われもしよう、神には「忍耐」や「寛容」そして「後悔」など時間的経過を含む人間的な特徴が帰属させられるが、一切を知りしかも正義であとされる神にとって「後悔」のような不十全な認知は神の不完全性を示すのではないか。ノアが洪水のあと祭壇を築き捧げものをすると、主はその芳(かぐわ)しい香りを嗅いで、ご自身の心のなかで語った。「わたしは人間のために大地を呪うことを二度とすまい、というのも人間の心の想いはその若年から悪しきものだからである。わたしが今回為したようなすべての生き物を打つことは再びないであろう。地の続く限り、種蒔きの時と刈入れの時、また夏と冬、そして昼と夜は止むことはないであろう」(Gen.8:20-22)。

 この疑問に対しては幾つかの応答が可能であるが、二つを挙げる。「神の賜物そして召命は変えられない」(Rom.11:29)とあるように、神ご自身のことがらとしては不変な神の意志において後悔は想定できない。しかし、神は、とりわけ、御子の受肉を介して時間的な存在者となることを引き受けており、歴史の展開のなかで不十全な人間により人間的に記述されることを許容していると思われる。それにより読者においては神の経綸の歴史的な展開をより身近なものとして理解できる。

 一千年以上かけて編集された「聖書」は「神の言葉」であるのかという問いに対しては、それが神の言葉としての神の意志と認識の記述であるかどうかはイエス・キリストにおいて神の意志が知らされているほどには、明確に知らされてはいないと応えることができよう。ただし、聖書が神とひとの関わりの歴史のなかで神についての権威ある記述として残ってきた事実は神がご自身について人間の不十全な記述によってであれ、このように記録されることを認可したと想定することは十分に許容される。

 続いて、二つ目の応答として、神話的な表象と非神話的な理論的把握のあいだに棲み分けはあっても、矛盾のないことを指摘できる。神は永遠の今において宇宙の外にいまし、同時に、とりわけ、御子の受肉を介して時間的存在者として記述されることを許容している。G.ライルは神話と理論的な議論のあいだの両立可能性を主張する。「神話はもちろんおとぎ話ではない。神話とは一つのカテゴリー[議論領域]に属する諸事実の、別のカテゴリーに適切な慣用語句における表現である。したがって、ひとつの神話を論破することは、それらの事実を否定することではなく、それらを再配置することである」([『信の哲学』上p.672)。

 一つの文脈において「最初の人間」(1Cor.15:45,Gen.2:7)アダムの土をこねての創造神話は進化の過程におけるホモサピエンスの出現として自然的な組成の言語による対応を語りうる。例えば人間の創造と自然的な事象としての人間の発生は哲学的な力能と実働の様相存在論により再配置される可能性をわたしは見る。さらに蛇の誘惑によるアダムの堕罪神話は、悪の起源が宇宙論的な善悪二元論のもとに運命論的、宿命論的に逃れ得ないものではなく、歴史のなかで外から偶然入ったものであること、そして事実上生物的な死という形でそれに支配されているが、そこから逃れ得るものであるという一般的な議論に変換可能である。その神話を基礎にパウロが神学的なカテゴリーにおいて、どれだけ人類が悪から逃れうるものであるかを福音の宣教として説得的に論証しているかが問われる。

 「神の怒り」については、神がモーセに十戒を付与したあと、アロンら流浪の民は待ちきれずに金の子牛を作り偶像崇拝に陥っていたことが範型的な事例として挙げられる。神は怒り「レビ人を用いて3千人を倒した」と報告されている(Ex.32:28,Rom.1:18-32)。他方、「ローマ書」1章においては「神の怒り」は勝手にせよという仕方で「欲望に引き渡す」ことによってまた「叡知の機能不全に引き渡す」という放任によって自らの義を知らしめている(Rom.1:24-26,28)。

 パウロによれば「神の怒り」という神話的な表象も「欲望における不潔」や「恥ずべき情欲」そして「叡知の機能不全」に「引き渡し」を受けた者たちに矛盾なく適用されるものである。例えば確信犯として神に反抗し悪行に身を染める者たちは「彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけでなく、行う者たちを是認さえしている」(Rom.1:32)と神の前にいる罪人として記されている。彼らは神の「峻厳」や「怒り」を知ることはできても、「善性」や「憐み」を知ることのできない者と神に看做されている。これが叡知の機能不全に引き渡された者たちの認知的な偏りである。

 また出エジプト記において、神の判断が「われを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代まで問うが、われを愛しわが戒めを守る者には、千代にも及ぶ慈しみを与える」と報告されていた(Ex.20:5-6)。ここに神の恣意性、依怙贔屓を見出す者もいるであろう。それに対しては幾つかの応答が可能であるが、ここでは、業の律法のなかでは、もし罪に価する罰を課すことなく、三、四代で赦されたとするなら、それは人間的には「恩赦」としての憐みの賦与以上のものではないことである。「目には目を」の業の律法のなかでそれを減免している以上のものではない。人類の歴史において掛け値なしに正義と憐れみが両立するとするなら、それは神とひとにとって完全な関係であると言えよう。例えば、恩赦は正義にもとるとひとは考えよう。また溺愛は憐れみにもとるとひとは考えよう。神の正義と憐みの完全な両立はイエス・キリストの信を介してしか実現されなかった。神は人類に信実を貫いたことにより正義であり、その信は「愛を媒介にして実働して」いるところの憐れみを伴う信であった(Gal.5:6)。

  7「信の律法」により「業の律法」に死んだ

 業の律法と信の律法はイスラエルの歴史の展開のなかでモーセという人物が選ばれ、また時が満ちて、つまり好機に、ナザレのイエスが選ばれ彼らを介して神の意志として知らしめられている。モーセ律法がなければ、われわれの罪の自覚は乏しいものとなっていたことであろう。「律法は怒りを成し遂げる」(Rom.4:15)。またパウロは石板に刻まれた文字としての業の律法は罪に利用されるが、その律法は神ご自身の意志としては聖なるものであり、罪と律法が心に働きかけ三つ巴の戦いを引き起こすとして言う。「律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である。それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ、罪が善きものを介してわれに死を成し遂げていることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである」(Rom.7:12-13)。神はイスラエルの心魂をめぐる歴史の展開に応じて、ご自身の意志を啓示している。業の律法によりいかにひとが良心にもとる自己撞着と癒着に陥っているかを明らかにする必要があった。もしイエスがモーセ律法以前に受肉して殉教の生涯を送ったとしても、自己の罪の自覚のないところではひとは真剣に子羊の贖罪を受けとめることはできなかったであろう。業の律法の啓示を介して一千年以上の神の民の訓練が遂行され、時が満ちて御子の受肉が生起した。

 良心の葛藤、痛みからの解放は業の律法に生きる限り得ることはできない。パウロはイエスの業のモーセ律法の急進化を受けて、神ご自身にとって、より根源的なイエス・キリストの信の律法によりモーセ律法のもとに生きることをもはやせず、業の律法に死んだと主張する。「しかし、今やわれらがそこに閉じ込められていたもののうちに死にそこから解放された」(Rom.7:6)。すなわちわれらは山上の説教から解放されたのである。パウロは「ガラテア書」において自らの自覚としてこの業の律法から信の律法への移行を罪の値である死からキリストにおける生への移行として語る。「われは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。われはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわれは生きてはいない、われにおいてキリストが生きている」(Gal.2:19-20)。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)。

 もはやひとは業の律法に即して生きることはない。ひとはちょうど「霊に即して」生きており、「肉に即して」生きてはいないが「肉において」生きているように、「信の律法に即して」生きており、「業の律法に即して」生きていないが「業の律法において」生きている。換言すれば、山上の説教に即して生きるのではなく、信に即して山上の説教において生きる。これが「愛を媒介にして実働する信」(Gal.5:6)の力である。「業の律法」は「信の律法」より少なく根源的であるが、神の意志である限り、天地が滅びるまで「律法の一点一画」たりとも廃棄されないと語りうる。業の律法の極が愛である以上、信に基づき愛の道を歩むであろう。罪赦されたことの証は愛しうることであった(Luk.7:47)。ひとは歯を食いしばってその信のもとに敵を愛することであろう。

 この二種類の神の義の啓示を介して、信の律法のもとに生きる以外に義とされる道のないことが知らされている。「信に基づかないすべてのものごとは罪である」(Rom.14:23)。業の律法に基づくと神に看做される者は終わりの日にその業に応じて報いを受けるが、そこでは誰も義と看做されることはないであろうからである(Rom.3:20)。「ひとよ、汝は神の裁きを逃れると思うのか。それとも汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか。汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しい裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」」(Rom.2:3-6)。かくして、ひとは悔い改めにより怒りを逃れて信の律法のもとで罪の赦しの義認に向かうことができるだけである。

[付録]アンセルムス『神はなぜ人間になったか』における正義と憐みの信に基づく両立論証

 神の子がまったきひとりの人間となり罪なしに信の従順を貫いた。そのイエスを十字架に磔ることは他の罪とは比量不能なほどの悪であるということは彼が比量不能なほどの善であったことを示している。イエスは業の律法の相対性、比較、比量の次元を突破している。神は人類に対し信(「まっすぐ rectitudo」)に基づき正義であり、その信はご自身の子を人類にたまう、その比量不能な愛、憐みを介して啓示された。アンセルムスは一つの思考実験としてイエスを殺さねば世界全体がそして神以外の一切が滅びるという想定のもとに弟子ボゾに選択を迫る。ボゾは彼を殺すか、それとも世界全ての罪を自らに担わされるかいずれかの選択において、「この行為一つを為すよりも、・・この世の一切の過去に犯された、また未来の罪をもこの身に受けたい」と応答する。

 アンセルムスは微笑みつつ、一切の罪が神に対して犯されていることに注意を向ける。従って、万物一切が神のものであるその位格(父と子)への罪は、ひとの前のいかなるものとも比較を絶する。彼は言う、「このひとの肉体的生命に加えられた罪は、神の位格以外に加えられた罪がいかに大きくまた多くとも、比較を絶する(incomparabiliter)ことがわかる」(Cur Deus Homo 『神はなぜ人間に』II14)。キリストの殺害がそれほど比較を絶する悪であるとするなら、彼が「どれほどの善」であったかも分かる。「かくして君は見る、もしこの[イエスの]生がかのものども[罪]に対し捧げられるなら、この生がいかにして一切の罪に打ち勝つであろうかを」(II14)。

 二巻十八章(II18)では、「人間の救済がどれほどの理をもって彼の死から帰結するか」が問われる。「彼以外誰一人、死をもって、いつか喪失する必然性なきもの[罪なき者に与えられる生命] を神に捧げ、或いは自ら負っていなかったもの[人類の罪]を神に完済した者はいない。彼はいかなる必然性によっても決して喪失することのなかったものを自発的に父に捧げ、自らのために負っていなかったもの[身代わりの死]を罪人たちのために完済した」(II18)。かくして、「神の憐みが、実はそれよりも偉大でまた正義なるものが考えられないほどに、偉大で正義にかなったものであることをわれらは見出した。・・父なる神が「わが独子を受け、汝の代わりに捧げよ」と言い、また子自身が「われをとり、汝を贖え」と言われた場合以上に、深い憐みを考えることができるか。・・全負債を超える値が、ふさわしい愛情とともに与えられている方にとって、彼が全負債を赦すことよりも何か正しいことはあるか」(II20)。ここに正義と憐みの両立のなかで、人類の負債一切が神の前で赦された。この両立においてこそ神の完全性は最も明白に知られるであろう。

 

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偽りとの決別(その二)―「報い」における正義と利益の位置づけ―

登戸学寮日曜聖書講義Mat.5:21-6:34(録音においては時間の関係で引用箇所を省略しているので原稿を添付する。なお、「5報いに結果として伴う利益」は省略したため、本原稿により補っていただきたい)。

偽りとの決別(その二)Mat.5:21-6:34―「報い」における正義と利益の位置づけ―

                                                         2020年7月19日

1.はじめに

 山上の説教(マタイ5~7章)を偽りという視点から考察するとき、道徳的な領域と司法的な領域さらには神の領域、これら三つの領域ないし次元のあいだのユダヤ人における癒着を摘出することができるように思われる。彼についてくる群衆たちに対し、「偽善者」や「偽預言者」を見分けるように教えている。イエスは、モーセ律法の枠のなかで先祖代々伝えられた教えを聞いて育ってきたユダヤ人に向けて、モーセ律法を急進化、先鋭化する。そのさい彼は弁証術(dialectic)と呼ばれる議論を吟味する技術を用いて、彼の論敵を論駁する「対人論法(argumentum ad hominem argument to the person)」の議論を展開し、彼らの道徳的、司法的次元ならびに神の前の次元の癒着を明らかにしている。対人論法とは、対話者双方に共有される見解を確認しつつ、自ら固有の立場を一旦棚上げし、対話相手ないし対話相手が馴染んでいる考えの土俵ないし立場に立ち、その土俵が持つ暗黙の前提を明るみにだし、彼らの気づかない思い込み、偏りや誤りを指摘する論法である。

 ユダヤ人であるイエスと群衆のあいだで同意できることとして、神の国と地上の国さらにはユダヤ人と異邦人の二分による思考方法は馴染み深いものであり双方に共有されているという前提のもとに語りかけられる。ユダヤ人は自分たちが神に選ばれ、神の意志としての律法を授けられた民であるという認識を持ちまたそれを誇りにしている。 

 山上の説教の土俵とは、ユダヤ人が伝統的にそのもとで育てられたモーセの十戒のことである。そこではイエスは自らが立つ立場である「信」を一旦棚上げにして直ちには持ち出さず、さらには信じる者への憐みのもとに遂行される癒しなどの不思議な業(所謂奇跡)を行うこともせず、ただ言葉で同胞の伝統にチャレンジしている。ユダヤ人はこの十戒のもとに六百を超える律法解釈を提供しており、それらは一括してパウロにより「モーセ律法」および「業の律法」と呼ばれる。モーセ律法を良心に訴えて先鋭化して、出エジプト以来の一千年のあいだに蓄積された偏りや隠されていたものを明らかにしていく。

 イエスとユダヤ人のあいだで同意されていることがらとして、或る心の状況や行為に対する「報い」・「報酬」が正義として与えられることである。所謂勧善懲悪の世界である。モーセの十戒の冒頭にこう神により言われていた。「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代まで問うが、わたしを愛しわが戒めを守る者には、千代にも及ぶ慈しみを与える」(Ex.20:5-6)。イエスはもっと長いスパンにおける正義を考慮し、地上における報いよりも、天国や神の国における報いが強調され、それを前提にして八福が語られていた。

2. 律法が暴き出す二心(ふたごころ)、三心(みつごころ)

 これまで学んできた八福ならびに地の塩、世の光の議論に続いて、イエスは律法をとりあげ、天地が滅びるまで律法の一点一画とも廃棄されないことを確認する。そこでイエスは言葉の力に訴え、道徳的な次元で律法を急進化、先鋭化させて良心の発動に向けて心の最も内奥に訴える議論を展開している。彼は神の義に基づく天国か地獄の審判を語る。死後の二つの世界の前提のもとで、イエスは伝承として古(いにしえ)から語り伝えられているモーセ律法を道徳的に先鋭化して、二心(ふたごころ)、或いはひとの前にも、自分の良心の前にも、神の前にもよい顔をしようとする三心(みつごころ)を暴き出している。

 ユダヤ人は動機としては名誉や自己利益のためではあるが、形式的に律法を遂行することにより、正しい人間となりさらには神の前でもあわよくば神の国を手に入れようとする。イエスが「わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」 (Mat.5:20)と言うとき、パリサイ人らは概して功利主義的であり、一切のものは自らの腹、欲望の充足、利益ために手段化されていることを含意している。イエスは論難する、「ああ、なんということだ(ouai,woe,ウーアイ)、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、内側は強奪と情欲で満ちているが[現在分詞]、杯や皿の外側を清めている。・・ああ、なんということだ、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、汝らは石灰で塗った墓に似ている。何であれ外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる穢れで満ちている。このように汝らもまた外側は人々に義人に見えるが、内側は偽善と不法で一杯である」(Mat.23.23-28)。パウロも言う、「その者たちについてわれ汝らにしばしば語ってきたが、しかし今涙ながらに言う、多くの者たちはキリストの十字架の敵である、彼らは地上のものごとを思慮することによって、その者たちの終局は滅びであり、その者たちの神は腹でありまた彼らの恥における栄光である」(Phil.3:17-19)。このようにひとの偽りが摘出されていく。神の前に立派であるかのごとく見せかけておいて、地上における自己の利益や名誉を追求する二心が偽りなのであった。

[円錐形による各人「私」が帰属する道徳的、社会的、生物的、物理的そして形而上学的地平の説明]。

3.怒り即殺人、情欲即姦淫、敵即隣人

 前回見たように、殺人と他者への怒りが同等のものとして扱われ、「審判に服することになるであろう」と言われていた。怒るたびに殺人罪として審判されるなら、この審判に耐えられる者はいないであろう。こう言われていた。「汝らは古(いにし)への者たちにより「汝、殺すなかれ、殺す者は審判に服することになるであろう」と言われたのを聞いている。しかし、自分の兄弟に怒る者はすべて審判に服することになるであろう。自分の兄弟に「馬鹿」と言う者は最高法院に服することになるであろう、「愚か者」と言う者は火の地獄に服することになるであろう」(Mat.5:17-22)。誰もが殺人は悪であるとは思っていようが、怒りや罵りも同様の審判に服することになると言われる。「火の地獄」に投げ込まれるとさえ警告されている。この真剣さに戸惑うばかりであろう。

 姦淫についても同様である。「「汝、姦淫するな」と言われたのを汝らは聞いている。しかし、私は言う、欲情をいだいて婦人を見る者はすべて、既に自分の心の中でその婦人を姦淫したのである。もし、汝の右の眼が汝を躓かせるなら、抉り出して捨ててしまえ。というのも汝の身体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれないほうがましだからである。もし汝の右手が汝を躓かせるなら、切り取って捨ててしまえ。というのも肢体の一部がなくなっても、汝の全身が地獄に落ちないほうがましだからである」(Mat.5:27-30)。これを文字通りに実行したら、ひとはすべて盲目になってしまうのではないだろうか。

 イエスもパウロも身体をもった自然的存在者としての肉の弱さを認め、「われ汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)として、人間中心的な思考を譲歩として許容している。前々回見たように、イエスは人間の肉の弱さを熟知しており、まっすぐ歩けない弱い者たちに忍耐と寛容のもとに譲歩を示しつつ、励ましている。ゲッセマネにおける信の従順を貫く苦闘の祈りのただなかにおいて、弟子たちは待ちきれず眠ってしまった。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていよ。霊は燃えるが、肉は弱いからである」(Mat.26:41)。「肉」とは土から造られた身体を持った自然的存在者の生命原理のことである。パウロは、信徒は「肉において」生きているが、「肉に即して」ではなく、「霊に即して」生きていると言う(Rom.8:1-14)。モーセ律法における離縁をめぐる譲歩も確認した(Mat.19:4-8)。しかしながら、ひとはどこまでこの譲歩の領域に居座り、この律法の先鋭化、急進化を真剣に受け止めることなく、自己中心的な態度を広げていくのであろうか。

 敵の強力な軍事力を前にして、負けまいとして軍拡に走ることは聖書的には肉の弱さへの譲歩以上のものではない。イエスによる道徳の先鋭化はその譲歩を拒否している。「「目には目を、歯には歯を」(Ex.21:23)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、「悪人に手向かうな」誰であれ、汝の右の頬を打つなら、他の頬を向けよ。汝の下着を取るべく裁判にかけることを欲する者には、その上着をもその者に引き渡せ。また誰であれ汝を強制して一マイル奉仕させる者には、彼とともに二マイル前に進め。汝に求める者には、与えよ。また汝から借りようと欲する者には背を向けるな。「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、われは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれる者を愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:38-46)。

 ここでも著しい言葉にであう。人類の誰かがこれを言ったということ、人類のなかにこれを言う者がいたという事実だけで、人類であることに希望を見出す。換言すれば、これらのイエスの議論においては、ひとはそこまで造り変えられ得るものであることが前提にされており、またときにそのような証となる事例を見出すことができることに励まされる。ひとはまだ自分の隠された力能、可能性に気付いていないのではないかと思わせる。少なくとも、そこまで突き詰めなければひとは救いを見出しえないそれほどの知性と道徳性を少なくともその可能性において備えた存在なのである。

 イエスは所謂「無抵抗主義」を基礎づけるものとして次のように言うが、それは例えば今・ここで襲われている愛するひとのために正当防衛として相手に立ち向かい自分の生命を捧げるそのような行為をさえ拒否する理由となる。「自分を愛してくれる者を愛したところで、汝らにどんな報いがあるであろうか。[ローマ帝国雇用の]取税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになるだろうか。異邦人でさえ同じことをしているではないか。だから汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全な者となれ」(Mat.5:46-48)。愛する者が暴力を振るわれているときに、生命をかけて守ったとして、それは巷間では勇敢な行為と看做されることもあろうが、聖書的には肉の弱さへの譲歩に過ぎない。友を愛し敵を憎むとき、そこに自らの二心を見出し、その偽りに良心が発動することもあろう。家族への愛、好む同士の友愛、ひとはどこまでこの人間的な思いに居座り続けるのだろうか。

 これは天の父の思いとは異なるとされる。神の想いは天が地よりも高いように、はるかに高いと言われる。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわれに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。天の父は「われらが[神に対し]敵であったとき」(Rom.5:10)、御子の受肉と信の従順の生涯を介して、父の愛を示したことのゆえに、ひとの罪の赦しが歴史のなかで恩恵として明らかにされた。そこでは神はわれらの功績にかかわらず「イエスの信に基づく者」を嘉みし、イエスの十字架における罪の赦しの出来事をその者の出来事だと看做したまう。神のこの愛の啓示の媒介となったイエスご自身が同じ肉である人間に認知的、人格的に十全である神の完全性に倣うよう命じている(cf.Ps.139)。

 神ご自身が人間に信実を貫いており、「父は悪人にも善人にも太陽を登らせ、正義な者にも不義な者にも雨を降らせてくださる」(Mat.5:45)。イエスは神の完全をもちだし、ひとの良心にチャレンジしている。イエスは命じる、「汝が祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が汝に何か反意を(ti kata sū)もっていることを思い出したなら(mnēsthēs<mimnēskō)、その供え物を祭壇の前において、まず兄弟と仲直りし、それからそれを供えよ」(Mat.5:23)。ひとを傷つける言動や小さな不和の芽に気づいたら、まずそれを取り去って良心の咎めを解消してから、供え物によってであれ神と心おきない懇ろな交わりに入るよう命じている。力点は「投獄」の恥辱を受けたくないという功利主義的なことがらにあるのではなく、誰かの反感に気づく、目覚めていること、ないし良心の発動におかれるべきである。イエスはここでも「思い出す」という仕方で良心の発動を前提にしている。

 ここまで先鋭化されると何ひとつ身動きが取れなくなるというか、もうこのような教えについていきたくないと思う者もでてくることであろう。しかし、滑稽とさえ思えるほどのこの真面目さはひとの心に深く刻まれることになるであろう。少なくとも心をともなわず形式的な仕方でモーセ律法を守っているから自分は正しい立派な人間であると語ることはできなくなる。そして当然権威をもって語るイエスの前で、自分は神に義とされると主張することはできない。この律法に照らし合わせて自らの振舞いを顧みるとき、誰もこの試験にパスする者はいないことであろう。それほどまでにイエスの要求は高い。そして天地が滅びるまで、「律法の一点一画たりとも廃棄されない」と語られている。そうであるとしたなら、これらの一点一画までも遵守する力をどこかから得るしかないであろう。イエスは、それは信であると言う。彼は「信じる者には何でもできる」(Mac.9:23)と言う。神の前とひとの前を媒介するものが神の子にして同時に人の子であるイエス・キリストに帰属した信である。

4. 律法充足の道―信における正義に伴う利益

 八福においてその心において清い者とは陰りなく全身が明るく輝いている者のことであった。それは一切を神との関係において捉えており、神との信実な関係の構築のみに関心を注いでいる人々のことであった。「信の律法」は神ご自身にとって「モーセ律法」、「業の律法」よりも根源的であり、神がキリストにあって信実でありそれ故に正義であったとき、ひとは信において応答するのかそれとも裏切るのかが問われていたのであった(Rom.3:27)。「汝が汝自身の側で持つ信を神の前で持て」(Rom.14:22)。神の圧倒的な信に対しては信でありうることだけで(その結果として)光栄であり喜びである。おのれの利益や名誉から自由になり、平和の君にただひたすら従う清い者でなければ、平和を造る者とはなれないことをこれまでに確認した。パウロはかつて同胞とともに迫害していたキリストそのひとによって救われたのち、まだキリストを拒んでいる同胞ユダヤ人のためなら、「呪われて」救いから外されることをも厭わなかった(Rom.9:1-5)。

 神は業の律法の充足に即して律法遂行者に報いを与えると報告されており、さらにイエスは彼が祝福する八福の者たちにおいて、神によって天国における報いが与えられると報告されている。地上の具体的な生活においてであれ、死後の天国においてであれ、聖書はそのような神が嘉みする者に対する報いとしての正義を主張している。ただし等しさとしての正義に続くもの、伴うものとして、「報い」や「報酬」を利益という視点から功利主義的に捉える発想もイエスに認められている。「偽善者は、断食しているのをひとに見てもらおうと、顔を見苦しくする。汝らに言う、彼らは自分たちの報いを受けてしまっている」(Mat.6:16)。イエスはさらに言う、「地上に富みを積むな。・・富は、天に積め。そこでは虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗みだすこともない。汝の富のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.6:19-21)。

 この地上における霊による貧しさ、悲しさ、柔和さ、正義の飢え渇き、憐れみ深さ、心の清らかさ、平和を造ること、そして正義のために迫害されることが祝福されるのは、天国における神のもとでの慰め、平和、さらには敵が友と友となることの喜びなどの報いを得るからである。その報いは神が与える祝福としての正義であるが、そこに利益を見ることも許容されている。これは神の正義に即した終わりの日の審判であり、同時に正義に伴う利益でもある。

 その報いへの希望を支えるものはこの地上にあっては神の国への信である。しかし、山上の説教の対人論法は信をもちださずに展開される。信と自己利益としての報いはいずれが心魂の根源性かという議論に関しては両立しがたいからである。神が信であったときに「信の律法」として求められているのは信のみだからである。たとえば、自らが救われたい、平安を得たいという欲求つまり利益への追求から信仰を持つとするなら、神を利用することを自覚している場合には神の信に対応する信ではなく、神の信ならびに自らの信仰を利用することとなる。そこでは信はそれが本来あるべき心の根源には位置づけられない。汝の宝のあるところ、心もあるとするなら、信ではなく自己の利益が宝である。そのような者は神により「イエスの信に基づく者」さらには「アブラハムの信に基づく者」と終わりの日に看做されないかもしれない(Rom.3:26,4:16)。

 他方、自らの信仰に懐疑をもち、自分は神を利用しているのではないかと疑う者がいるとしたら、それは信仰を「貪るな」という業の律法のもとに従属させることとなり、信仰を業の律法のもとで盗むか、盗まないかと同じ次元で理解することとなる。神に「信ぜよ」と命じられているとき、信仰を貪るか貪らないかという業の律法の次元で捉えるのではなく、神を信じるか裏切るかが問われているのである。信の律法は神ご自身にとって業の律法より根源的なのである。

 山上の説教においては「信」の派生語はただ一回「信少なき者たち(oligopistos)」と否定的な呼びかけにおいて用いられ、その信少なき群衆に野の百合、空の鳥を見るようにそして花や鳥のように煩うことのないように命じられる (Mat.6:30)。イエスは信に基づく義・正義をこそ自らの立場としているが、この説教においては憐みをかける群衆への呼びかけ以外に「信」について論じることをしていない。そのことはさしあたり「報い」を神の正義のみならず人間の利益という功利主義的な観点から理解することを、イエスの説教は許容していることを含意している。しかし、モーセ律法は心がともなわなくとも形式的に守ることのできるものであった。殺すとか姦淫するとかいうことは誰の目にも分かりやすいものであり、形式上自分は立派な人間であると誇る余地を残している。業の律法のもとに生きる者は形式的であれ「あらゆる律法を満たす義務がある」(Gal.5:3)と語られる。そしてその業に基づき審判されるとき、義とされないであろうことが警告されている(Rom.3:20,Gal.3:11)。

 イエスは功利主義的なユダヤ人に分かりやすい次元で議論を展開している。「ユダヤ人は徴を求める」とあるように、彼らは神を見えないものごとに対する信によってというよりも見えるところで利益を感じていたい民族であった。もちろんそれはユダヤ人に限らず、信と信の根源性に立ち返らない限り、ひとはことごとくその次元にあることであろう。パウロは言う、「ユダヤ人は徴を要求しそしてギリシャ人は知恵を探究するのであるからには、われらは、しかし、十字架に磔られたキリストを宣べ伝える、それ[十字架]はかたやユダヤ人には躓きであり、他方異邦人には愚かなものである。とはいえ、ユダヤ人にもギリシャ人にも呼び出された者たち自身にとっては、キリストは神の力能でありまた知恵である」(1Cor.1:22)。イエスの十字架に至る信の従順の生涯は神の力能と神の知恵を明らかにするものであった。

 5.報いに結果として伴う利益

 功利主義的な自らの利益という視点からの思考も一般的な分析のもとに位置付けられる。ひとの行為選択の動機は目的―手段連関のもとに三種類に判別される。(1)他のものの故に何かを為す場合、(2)他のものかつそれ自身の故に何かを為す場合、(3)何かをそれ自身の故に為す場合である。ひとは生活のためにお金を必要とするが、お金は(1)他のものの故に求められる。(2)風呂好きのひとはそれ自身かつ衛生保持のために風呂に入ることであろう。(3)神の栄光をそれ自身の故に求めるひともいようし、自らの「心魂のよくあること(well-being幸福)」を究極的善としてそれ自身の故に求めるひともいよう。神とひとのあいだに信と信が成立するのであれば、それは(3)それだけで選択されるでもあろうが、それが結果として喜びを伴うものであってもかまわない。喜びのために信実であろうとするならそれは(1)か(2)に分類されることになる。キリストの軛につながれその平安と柔和と清さのほうがこの世の成功よりはるかに良いと思えるひともいることであろう。「疲れたる者、重荷を負う者、われにきたれ。汝らを休ませてあげよう。わが軛をかつぎあげそして[わが歩みから]学べ、わたしが柔和であり謙っていることを。そうすれば汝らは汝らの魂に安息をみいだすであろう。というのもわが軛は良きものでありわが荷は軽いからである」(Mat.11:28-30)。そのひとはそのように自らの認識を位置づけた時には、(1)か(2)に属するであろう。

 「他のものの故に」という手段―目的連関を利益という視点から考察する限り、功利主義的な思考に帰属させられることになるであろう。そのことは何ら否定されてはいない。パウロは言う、「われはわが主キリスト・イエスの知識の優越の故に、あらゆるものを損失と考える、彼の故にわれ一切を失ったが、それらをわれ塵芥と看做す」(Phil.3:8)。ここで利益の対義語である「損失」という言葉が見られる。しかし、パウロの自覚としては(3)キリストと共にあること、それをそれ自身において求められる善としつつ、その結果として他のものの価値が塵芥(じんかい)に帰したということであろう。利益のために何かをすることを功利主義的であるとすれば、結果として利益を伴うことがあったとしても、それは定義上功利主義的ではない。とはいえ、時に(3)キリストと共にあることをそれ自身として求め、他の時に苦境にあって信に伴った喜びを思い出し、(2)平安のためにも共にあることを求めるということがあったとしても、神に否定されることはないであろう。この種の思考は一種の功利主義的思考と両立可能であると言える。というのも人間中心的な思考も譲歩として許容されているからである。

 6.野の百合空の鳥を見よ!

 天の父は水臭くない方であり、この世界での生存をケアしている。ただし、人生に最も重要なことはまず神の国と神の義を求めることであるとされるが。「それ故にわたしは汝らに言う、汝らが何を食べ、何を飲もうか汝らの魂によって思い煩うな、また汝らが何を着ようか汝らの身体によって思い煩うな。魂は食べ物より以上のものであり、身体は衣服より以上のものではないか。空の鳥をよく見よ。種も蒔かず、刈入れもせず、倉に納めもしない。だが、汝らの天の父は鳥を養ってくださる。汝らは鳥よりも一層優っているのではないか。汝らのうち誰が思い煩いにより、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つか注意して見よ。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく、栄華をきわめたソロモンでさえ、これらの花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、汝らにはなおさらのことではないか、信少なき者たちよ。だから、「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」思い煩うな。それはみな異邦人が切に求めているものだ。汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義とを求めよ。だから、明日のことまで思い煩うな。明日のことは明日が自ら煩う。その日の労苦はその日だけで十分である」(Mat.6:25-34)。

 イエスは群衆にガリラヤの野辺で風にそよぐ花々をそして澄み渡った乾いた空を舞う鳥たちを指さしながら、生きることの祝福を語った。明日のことを煩うな、一日の労苦はその日で十分である。この「煩うな」という命令形から父なる神を信ぜよを読み取ることは難しくない。対人論法を介して、信の根源性を間接的に説いたのであった。律法について、急進化、先鋭化させて良心の発動に向けて心の最も内奥に訴える議論は「業の律法」を離れることを、業の律法への煩いを棄てて、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である」その信に導いている。

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偽りとの決別―山上の説教における道徳的次元―

偽りとの決別―山上の説教における道徳的次元―

   登戸学寮日曜聖書講義 マタイ5:13-6, 2020年7月12日

1 はじめに

 先週まで3か月かけてマタイ5章冒頭により山上の説教の八福を学んできた。これは端的に言って、神はどのような人々を好んでいるか、どのようなひとに憐みをかけているかをめぐる、神にとって好ましいひとの心的態勢、行為そして他者との関わりの八つのリストである。イエスに従っていこうと思い、山上までついてきた人々へのイエスによる慰めと励ましという文脈において、この八つの「祝福」「さいわい」が語りかけられた。そしてイエスご自身こそ八福そのひとであり、八福のそれぞれに該当する彼の経験を主に福音書に即して確認した。神には好きな人がいるという言い方に、ひとは躓くかもしれない。神は「われヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(Rom.9:13)とあるように「欲する者を彼[神]は憐れみ、欲する者を頑なにする」(9:18)方であると一方で報告されており、他方、「神には偏り見ることはない」(Rom.2:11)と、公平に審判する方であることが報告されているが、その両立の問いは神ご自身においては「信の律法」が「業の律法」より根源的であることにより解決される。今は論じえない。ともあれ、聖書を学んでいくと、神は人間についてどのように考え、どう関わるかが分かってくる。

 イエスは八福の究極を生きた。ナザレのイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたあと、天が裂けて聖霊が鳩のようにくだり、響きわたる声がイエスを祝福している。「汝はわが愛する子、われは汝を嘉みした」(Mac.1:12)。イザヤ書の預言がマタイにより引用されている。「視よ、わたしが選んだわが子、わが魂が嘉みしたわが愛する子。わが霊をその子のうえに置こう、そして彼は異邦人に正しい裁きを伝えるであろう。彼は争わず、叫ばず、誰か大路で彼の声を聞くこともないであろう。正しい裁きを勝利にもたらすまで、彼は傷める葦を折ることなく、煙れる亜麻を消すことはないであろう。異邦人も彼の名に希望を抱くであろう」(Mat.12:18-21,Isaiah,42:1-4)。旧約以来の預言がナザレのイエスにおいて成就している。

 「弟子は師に優らず」(Mat.10:24)。ひとは彼の軛に共に繋がれることにより、彼の祝福にならうことができるだけである。しかし、いつの時代にあってもキリストの弟子として歩む者は、歴史上の展開、変遷という新たな文脈のなかで新たな課題を受け取り、キリストの苦しみの足らざるところを補う者となる。それぞれの時代の弟子たちは御跡に従いつつであう様々な苦しみをキリストの苦しみに与るものであると受けとめ、そこでの苦しみは光栄に変換される。パウロは「わたしは今汝らのために苦しみのうちにあることを喜ぶそして[キリスト]ご自身の身体、それは教会であるが、その身体のためにわが肉においてキリストの苦しみの足らざるところを満たす」と言う(Col.1:24)。

 ナザレのイエスはご自身の一挙手一投足、人生全体においてひとが経験しうる最底辺・bottomをそしてひとが経験しうる人格としての至高・the highestを明らかにした。時代状況のなかで、人間が経験しうるボトム、苦しみそのもののなかに祝福があるとするなら、ひとはどのような状況においてであれ希望のうちに忍耐することができることであろう。悲惨に対してそして人類の悪に対してひいてはその背後でひとに寄生し生物的死のみならず神の前の死を画策する罪に対して勝利があるとするなら、このような生を生きたひと以外に救いを見出すことはできないであろう。

 新約聖書は旧約聖書に基づきつつ、イエスが誰であり、何を遂行したかの記録である。そしてイエスご自身の生涯が一歩でも旧約聖書の延長線上からはずれたり、他の神々を拝したならば、宇宙を支配し導く「神はひとり」(Rom.3:28)ではなくなってしまう。イエスは信仰により狭く真っ直ぐな道を歩み抜いたのである。彼はユダヤ教の改革者として一人の預言者であり、そしてイスラエルの預言者であることに留まらず、異邦人をも含め全人類にとってもの救世主であったのである。誰か救世主がこの地上にいるとするなら、あらゆることを正確に知っておりそれに基づき正しく、公平に判断することができ、しかも同時に憐み深い存在者がいなければならない。全知でありしかも正義にして同時に憐み深い存在者がいるのでなければ、ひとはこの不公平な世において、希望をもって生きることはできないであろう。神の国の希望のうちに生き得ること、信じ得ることそれ自身大きな祝福である。山上の説教はそのような人類が経験しうる究極的なことがらのなかでの神の国の希望が展開されている。だから、二千年もひとびとはこれらの著しい言葉を記憶し、ここに立ち返りまた伝えてきたのであろう。  

2 祝福に基づく励まし―地の塩にして世の光―

 本日から山上の説教における八福の続きを学ぶ。7章終わりまでの残りの箇所を偽りという視点から学ぶとき、最も理解できるように思える。モーセ律法の伝統に立ちつつ、行い(業)を究極まで急進化させる。そこでは信仰についての語りも、不思議な業(奇跡)への訴えもなしに、さらには人格化されたサタンを持ち出すこともなしに、将来における神との関わり、神の国における祝福を前提とするだけで、相対的に自律したものとして道徳的次元における良心に訴えて教えが展開される。良心は共同の知識(con-science)として「内なる人間」(Rom.7:24)を構成する「叡知(ヌース)」という神の意志を認知する機能と関わるものであったが、それは司法的次元を突破するところで自らの偽りに対して発動する。実際、7章までにイエスが非難する「偽善者(hupokritēs)」や「悪人」という語句は十回以上見出される。道徳的次元とは、善き者と悪いものが判別される次元であり、悪人との対応の仕方を教え、偽善者とならぬよう警告を与えられる次元である。またイエスがイエスである限り、山上の説教のここかしこに慰めと励ましも見出される。それは神に祝福される者となることに他ならない。

 地の塩、世の光(5:13-16)。この二つはセットで受けとめられる必要がある。塩は、相撲において土俵を固めまた清めるものとして用いられてきた。食塩が食物の鮮度を保つように、地の塩は地上に住む人々を腐敗や惰弱から保護し、堅固にする役割を担う。今、「地の塩」と聞いてまっさきに思い出すのは医療従事者の方々である。自らの健康と生命を賭して、感染症のひとびとを助けている。また3.11のとき「福島fifty」と呼ばれた人々も原発をひいては日本を守るべく地の塩となった。そのような人々はこの世界を縁の下で支えている地の塩だと思う。ひとびとは地の塩の効き目ゆえに一歩一歩安全に保たれ大地を踏みしめて歩くことができる。多くの場合、地の塩として働く人々はあまり目立たず黙々と自らの勤めに忠実なことであろう。タラントの譬えで、自らの職務に忠実であった僕(しもべ)について主人は言う、「善かつ忠なる僕(しもべ、「僕女」しもめ)、・・汝の主人の喜びに入れ」(Mat.25:21)。後の日にただそのように呼ばれること、それがキリストの弟子の人生の目的である。

 他方、世(世界)の光は輝き、ひとびとに行く手を示しまた喜ばしい光栄ある生を明らかにする。そのひとの振舞いの背後に所謂オーラつまり後光がさすそのような特別な印象を与えることであろう。一点の翳りなき明るさは清いものに与えられる祝福であった。「汝の全身が明るく、少しも暗いところがなければ、・・全身は輝いている」(Luk.11:36)。大地に撒かれる地の塩は、その効き目が維持される限り、大地を堅固にする支え役であるのに対し、世界を照らす光は、灯し続けられる限り、それ自身明るく輝き、ひとびとの道しるべとなる。

 地の塩、世の光は、かくして、すべて神に栄光を帰すことに方向づけられている。それはナザレのイエスが双方であることによって父なる神に栄光を帰したからである。しっかり堅固な大地を踏みしめつつ、歩むべき真っ直ぐな道を照らすそのような生をイエスは歩み抜き、そして彼についてきたひとびとに命じている。「かくして汝らの光を人々の前に輝かせ。これ人々が汝らの良き働きを見て、天にいます汝らの父に栄光を帰すためなり」(Mat.5:16)。

 3 律法の一点一画

 「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄すべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画(イオタとケライア)たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。 われ汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう。汝らは古(いにし)への者たちにより「汝、殺すなかれ、殺す者は審判に服することになるであろう」と言われたのを聞いている。しかし、自分の兄弟に怒る者はすべて審判に服することになるであろう。自分の兄弟に「馬鹿」と言う者は最高法院に服することになるであろう、「愚か者」と言う者は火の地獄に服することになるであろう」(Mat.5:17-22)。

 業の律法を成就するために来たというイエスのこの発言の背後には、彼がモーセ律法を文字通りの仕方では護っていないと非難されていたことが想定される。イエスは安息日を遵守しない。「もし汝ら[パリサイ派]が「わたしが求めるものは憐みであって、生贄(いけにえ)ではない」(Hose.6:6)という言葉が何であるのかを知っていたなら、咎めなき者たちを審判しなかったであろう。というのも、人の子は安息日の主だからである」(Mat.12:1-14,cf.Luk.13:10ff,14:1ff)。このことはイエスが自らを業の律法より上位にある者であると看做していることを含意している。それは実質的には彼が「神の信」(Rom.3:3)の律法のもとに、正義を実現しつつあることを含意している。「人の子」という表現はナザレのイエスの人間性を強調するさいに用いられる。ナザレのイエス、この自分がキリストであり、業の律法を或る秩序のもとに置くと宣言している。さらに、彼は断食の戒め(Mac2:18)や清めの規定(Mac.7:1)に従わず、また神殿を破壊しようとする(Mac.14:58)。聖書学者ならびにパリサイ主義者たちはこのような発言に神を冒涜する涜神(とくしん)の罪を犯しているように思えた。さらにとりたてて文字通りに律法を遵守しているように見えないイエスの律法軽視を彼らは危険視している。イエスの実際の行動とここでのイエスの律法の一点一画も廃らないという主張は矛盾しないのであろうか。いかに調停されるのであろうか(これは次回に語られるであろう)。

4 二心―業の律法の遵守による神からの恩恵の奪取とひとからの名誉―

 これまでの講義のなかでの一つの強調点は山上の説教(5-7章)には「信」「信仰」ということが見られず、モーセの十戒、業の律法の枠のなかでイエスご自身が業の律法を急進化させていることである。それは多くのユダヤ人にとって彼らは神の意志としてモーセの十戒しか知らされていなかったため、イエスも彼らへの対人論法としてその次元に留まっているからである。また、信じる者に対する数々の不思議な業(所謂「奇跡」)は8章以降で報告されるが、山上の説教はただ言葉の力により遂行されている。

 モーセの律法即ち十戒は神の山(シナイ(ホレブ)山)において神からモーセに示された神の意志であるが、その始めに神による恩恵の注ぎが確認されている。「われは汝らをエジプトの地から、奴隷の家から導きだした汝の神、主である。汝らはわが前に他の神々を持ってはならない」(Exod.20:2-3)。恩恵の確認のもとに、各人の責任における戒めの遂行が求められる。他の神を拝むな、偶像を作るな、安息日を守れ、などこれらを遵守する者たちと遵守しない者に対する神の正反対の対応が語られる。「われを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代まで問うが、われを愛しわが戒めを守る者には、千代にも及ぶ慈しみを与える」(20:5-6)。たとえば、殺すか殺さないか、盗むか盗まないかという各人の行為、業に応じて神の恩恵と罰が与えられる。そこには「目には目を」などの法的な正義としての同害報復が見られ、それに対応するものとして恩恵は良き行為に対し付与されている。

 イエスはここにひとの肉の弱さからくる司法的な次元と道徳的な次元の癒着の可能性を見ている。さらに神権政治(theocracy)と司法的次元ならびに道徳次元これら三つの領域の癒着の可能性を見ている。その癒着を彼は「偽善」と名付ける。「見てもらおうとして、ひとの前で汝らの正義を行わないよう注意せよ。さもなければ、汝らは天の父のもとで報いを獲得するとはない。かくして、汝が施しをするとき、ちょうど偽善者たちが礼拝堂や街角で、人から褒められようとするように、自らの前でラッパを吹き鳴らしてはならない。われ汝らに言う、彼らは自分たちの報いを受け取っている。だが、汝らが施しをするとき、汝の右手が何をするかを汝の左手に知らしめてはならない、それは汝の施しが隠されているためである。隠れていることを見ている汝の父は汝に報いを与えるであろう」(Mat.6:1-4)。

 父からの報いをいただくべく右手でなす善行を左手に知らせない、そのような急進化がなされる。イエスは山上の説教においてはモーセ律法を信仰や不思議な業に訴えることなしに、道徳的次元において急進化させ捉え直す。彼の論敵は厳格に業の律法を守る、しかし形式主義的な律法主義者になりがちな聖書学者とパリサイ派であった。「パリサイ人(びと)たちのパン種に注意せよ。それは偽善である。覆われているもので知られずに済むものはない。だから、汝らが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」(Luk.12:1-3)。

 イエスは彼らに「偽善」を見出し、こう非難する。「ああ、なんということだ(ouai,woe,ウーアイ)、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、内側は強奪と情欲で満ちているが[現在分詞]、杯や皿の外側を清めている。盲目のパリサイ人たち、まず杯の内側を清めよ、それはその外側も清まるためである。ああ、なんということだ、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、汝らは石灰で塗った墓に似ている。何であれ外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる穢れで満ちている。このように汝らもまた外側は人々に義人に見えるが、内側は偽善と不法で一杯である」(Mat.23.23-28)。この「ああ、なんということだ」で始まる難詰はえんえんと七回も語られる(cf.ルカの平野の説教Luk.6:17-26)。誰がこの難詰に耐えられるであろうか。イエスは弟子と群衆に「学者とパリサイ派の者たちはモーセの座についたのである。かくして、彼らが汝らに語るならそれらのことをすべて汝らは行いそして心に留めよ、しかし彼らの業に見習ってはならない」(Mat.23:2)、「ああ、なんということだ、汝ら律法制定者たち、人々に背負いきれない重荷を担わせながら、自分たちは汝らの指一本その重荷に触れようとしない」(Luk.11:46)と警告する。

 私は何故か「偽善」という言葉をこれまで使うことができなかった。それは子供のころからパリサイ主義へのイエスの批判に触れてきて、自らが偽りであり、何をしても偽りであり偽善ではないかという思いにかられ、そこから正しい者は誰もいない、どこまでも自己追求、自己の生存を賭したとしてもそれはたかだか名誉の追求という偽善にすぎない、善と悪のあいだに差異はないという一種のニヒリズムに陥っていた。自分が偽りなのであり、他者を偽りと責めることはできないと思われた。ただし、残念ながら、ひとの他の側面、例えば自分には正しい判断には思えないようなことがらについては裁くことのあることは反省点である。謙り、心柔和な者は幸いである。ひとには気になるところとそうでないところに凸凹がある。

 しかし、イエスは異なる。彼はその心によって清いからである。彼はひとの内心をよく見抜いている。おのれの保身や自己栄光化、他者への恐れ、自己卑下そのようなものからまったく自由であった。端的に言って、山上の説教は聞く者の自らと人類の偽りを抉り出す。どこかでひとは自己と他者そして神をごまかしていることが、道徳的次元だけで明らかにされてしまう。イエスはここで信仰にも奇跡にも訴えることなく、ただ言葉で聴衆の良心に訴えている。「「目には目を、歯には歯を」(Ex.21:23)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、われは汝らに言う、「悪人に手向かうな」誰であれ、汝の右の頬を打つなら、左の頬を向けよ。・・・「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、われは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:38-39, 43-46)。

 隣人を愛し、敵を憎むことは一種の二心(ふたごころ)である。敵も隣人であることもあろうからである。ソクラテスも『国家』第一巻のなかで正義とは「友人を益し、敵を害することだ」という定義に疑義を提示している。ひとはそのような二心にどこか偽りを感じるのであろうと思う。ソクラテスのように良心が鋭敏であれば、このような正義の規定、聖書の言い伝えに疑問を感じることでもあろう。自分を特別視すること、それは生存と繁栄にプログラムされた生物にとっては抜きがたい傾向性であるが、そこに偽りを感じてしまう。しかし、聖書はその特別視を一概に否定しているわけではなく、「汝の隣人を、汝自身を[愛する]如くに、愛せよ」と言い、「われ」と「汝」のあいだの「等しさ」を主張する。ひとりひとりとのあいだに、支配からも支配されることからも自由となり相互の等しさが出来事になるとき、もはや自分を特別視していることにはならない。ひとは愛が出来事になるとき、自らの良心が宥められていることにであう。喜びがあるからである。

 しかし、悪人に手向かうなという命令はどうであろうか。所謂イエスの「無抵抗主義」である。自分に関しては、ちょうど殉教者たちが不思議な平安に満たされたときのように、可能かもしれないが、自分の愛する者がそのような状況にあるとき、看過することはできないように思われる。「われらが[神に対し]敵であったとき」(Rom.5:10)、神はわれらにモーセ律法の同害報復のように比較比量的な対応とは異なる、比較を絶する善をイエス・キリストの信を介して人類に示した。比較考量の世界では決して良心に平安を得ないのである。業に基づく正義とは別に信に基づく正義の領域が開けてくる。このことが想定されるとき、右の頬を打たれて逃げたり、愛する者のために正当防衛を試みることが完全には神の御心に適うものではないのではないかと思われてくる。神の想いはわれらの想いと異なる(Isaiah.55)。

 偽りは究極的には神の子として造られた自己に対し、あたかも自らの力で生きているかの如くに看做すことに他ならない。詩人は言う、「自らのなかで罪を犯させるべく不法が語りかける、「自分の目の前に神の畏れはない」と。というのも、それは自分に対し欺いたからである、自分の不法を見出しそしてそれを憎むに至るまで。彼の口から語られたことは不法と欺きである。彼は善を為すべくわきまえ知ることを欲しなかった」(Ps.36.1-4)。

 山上の説教においてイエスはひとが耐えうる限界状況そして為し得る限界状況を明白に提示した。それによって、ひとは何かどこまで落ちてもセーフティネットがあることを見出し、またどこまで登ってもひととしての最高の真実な在り方があることについて権威をもって語りかけられているのを知る。良心が宥められるほどに恩恵は圧倒的であり、その力によりひとはここまで高くなることができるのか、ひとは栄光を棄ててここまで低くなることができるのかをキリストの一挙手一投足において知らされる。

 ひとは人間のそして自らの不都合な真実に向き合うことを避け、また人生の苦しみに耐えられず、気晴らしや、願望をともなう思い込みに事実を歪めてしまう。イエスはひとがそのもとに創造された神との正しい関係性なしに、その生はどこまでも偽りであり空しいものであることを説き、神への立ち返りと自らが神の子であることを信じるよう促す。彼にはどこにも偽りを見出すことができない。父なる神への信にひたすら生きたからである。その心によって清い方そして憐み深い方だからである。彼についていこうと思う。「不法を赦され、罪を覆われし者は祝福されている。主にその咎を数えられざる者、その心に偽りなき者は祝福されている」(Ps.32:1-2)。

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祝福されるひと(その三)その心によって清いナザレのイエス

追記:録音を公開すると同時に、参照箇所を明瞭にするために日曜聖書講義の原稿も添付する。

祝福される人(その三)―その心によって清いナザレのイエス―

                                         2020.7.5登戸学寮日曜聖書講義

1はじめに

 「その心によって清い者」とはその心に二心(ふたごころ)がなく、心の目が光のように明るく澄んでおり、ものごとがよく見え最終的に「神を見る」者のことであった。「ともし火をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置く者はいない。ひとが入ってくるとき光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い。それだから、汝のうちにある光が暗くないか吟味せよ。かくして、もし汝の全身が明るく、何か暗い部分をもたないなら、ともし火が明るさによって汝を輝かすときのように、全体を輝かすものとなるであろう」(Luk.11:33-36)。山の上にある街は隠れることがなく、周囲を照らす。そのように「世の光」はこの世界を支え、導く(Mat.5:14,cf.Phil.2:12-15)。

清い者は心の分裂がないため、良心も宥められ喜んでいる者たちのことであった。詩人は祈る、「主よ、わがうちに清い心を創り(kardian katharan ktison en emoi)、わがうちに確かな新しい霊を起こしてください」(Ps.51.12)。新しい霊が注がれることによって清い心が創られ、心魂の根源から分裂が癒され秩序ある者として生きる。新約においてはキリストの軛に繋がれて一緒に歩む覚悟を決めることによって、根底から清められる。

 他者そして自己に嘘をつくとき、自覚していれば良心の咎めを感じる。分裂があるからである。良心とは共に知る、共通の知識(con-science)により形成されるものであった。問題は何と共に知るかである。自覚的な嘘とは別に真実であると思いこんでいる心からの嘘がある。集団で思いこむことにより、良心を鈍くさせ麻痺させることはまま起こる。他方、パウロは「われキリストにおいて真実を語る、偽らない、わが良心が聖霊において共にわれに証ししている」と語っていた (Rom.9:1-5)。パウロは自らの思いや認識が真実であると主張するさいに、神や聖霊の証に訴えて、神と共に知っていることを偽りではないことの理由とする。信じることができることそれだけで嬉しいという感情は良心の咎めがなく、清められたひとに与えられる心からの平安であり喜びである。心の平安これが聖霊を注がれたことの証である。「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)とパウロは言う。

 心の清い者、或いはより正確には清くされた者は神を見る。ヨブは苦悩の中で言う、「どうかわたしの言葉が書き留められるように・・。わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27,Handel, Messiah, ‘I know that my Redeemer lives’). 腹の底から焦がれているならば、そのひとは心の清い者に相違ない。 

2 清さvs清濁併せ呑む

 その心によって清い者とはなによりもまずイエスご自身のことである。彼がその範例であり、彼の一挙手一投足がその清さを示しているが、ここではイエスの心の清さについての福音書における報告をいくつか見る。心の清さは清濁併せ呑むということとあいいれない。政治など統治をする者にとって、人間とはそもそも欲望や競争心を持つ者であって、それらをそのまま認め、そのバランスを取ること、調整する能力こそ心の広さや太っ腹を示すものとして政治的有徳性であると数えられるかもしれない。その行きつく先はルイ14世が言ったように、「朕は国家なり」として三権(立法府、行政府、司法府)を自らの恣にすることであろう。イエスは一方では「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返せ」(Mat.22:21)という仕方で政治権力の相対的自律性を認めつつも、ご自身の使命の遂行に関して、そのような政治権力と手を握り協力したり、妥協することはなかった。パリサイ派の人々がイエスについて言う、「先生、われらは知っています、あなたは真実な方ですそして神の道を真実に教えていますそして誰にも気を遣うことがありません。というのもあなたはひとびとの顔つきを伺うことがないからです」(Mat.22:16)。

ローマ初代皇帝アウグストスとその養子ティベリウスの治世においてガリラヤなど「四地方領主」とされたヘロデ大王の子ヘロデ・アンティパスとのイエスのやりとりが報告されている。イエスは伝道に弟子たちを派遣しその成果がヘロデに伝わった。「十二人は出かけていき、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気を癒した。領主ヘロデはこれらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「[洗礼者]ヨハネが死者のなかから生き返ったのだ」と言うひともいれば、「エリヤが現れたのだ」というひともいて、さらに、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言うひともいたからである。しかし、ヘロデは言った、「ヨハネならわたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこの噂の主(ぬし)は」。そして彼はイエスに会ってみたいと思った」(Luk.9:6-9)。

 そのような状況のなかで、こう報告されている。「パリサイ派の人々が何人か近寄ってきてイエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。イエスは彼らに言った。「行って、あの狐に、「わたしは今日も明日も悪霊を追い出し、癒しを遂行しそして第三の日にわたしは[死において]全うされる。さもなければ、わたしは今日も明日も、その続く日も歩み続けねばならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことは許容されていないからだ」とわたしが言っていたと伝えよ。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、雌鶏(めんどり)が雛を羽根の下に集めるように、わたしは汝の子らを何度集めようとしたことか。だが、汝らは応じようとはしなかった。視よ、汝らの家は見捨てられる。言っておくが、汝らは「主の名によって来られる方が褒めたたえられるように」と言うときがくるまで、決してわたしを見ることはない」」(Luk.13:31-35)。

 イエスは狭い真っ直ぐな道を歩きとおした。自らの使命は信じる者に救いをもたらす福音を宣教することであり、それが父の御心であると信じぬいた。彼はこの信の従順の帰結として罪人たちの身代わりの死の道を歩み続けた。彼は「信じる者には何でもできる」(Mac.9:23)という信のもとに、二心なく秩序のもとにあり、ものがよく見えており右顧左眄することなく一途に進んだ。ヘロデはそのために用いられたことであろう。一般的に清濁併せ呑む者は、しまいには、真理と偽り、善と悪、過度と不足、そして清いものと濁ったもの、これら両極のあいだに差異を見出すことができなくなり、人生には確かなものがないというニヒリズム(虚無主義)或いは少なくともシニシズム(冷笑主義)に陥っていくことであろう。10人殺せば大悪党であり、100万人殺せば英雄となる、このような世界はものがよく見えない人間がおのれの欲望や愚かさを世界に投映している、或いは自らの混乱したパトスを吐しゃ物として世界に吐き掛け、一緒くたにしているそのような状況である。ものごとを正しく識別する心の清い者はさいわいだ。

 イエスは引き続き七十二人の弟子たちを伝道に派遣し、彼らが福音を宣教しそして癒しなどに大きな成果をあげてもどってきたのを見て、こう言う。「わたしは悪魔が稲妻のように天から落ちるのを観想した。視よ、わたしは汝らに蛇や蠍をそして敵のあらゆる力を踏みしだく権威を授けた、しかもいかなるものも汝らに不正を働くことはない。ただし、霊どもが汝らに服従するからといって喜んではならない。むしろ汝らの名が天に書き記されていることを喜べ」(Luke.10:18-20)。ここでは自分たちの伝道の成功をそれ自身として誇るなと警告されている。イエスは「邪悪で神に背いた時代の者たちは徴を欲しがる」(Mat.16:4)と警告しているが、その邪悪さが求める不思議な業(奇跡)や徴は端的に言って、他人にはできない力を見せつけ、この世で何者かでありたいという二心である。ここでは癒しなどの奇跡をなしうるおのれにうぬぼれることのないように、むしろ、天国に入れていただくことを喜ぶように、二心なき一途な神への信に喜びを見出すよう弟子たちは促され、励まされている。

 ルカはそこで報告している。「そのときイエスは聖霊によって喜びに溢れて[天に向かって]言った。「天地の主である父よ、褒めたたえます。汝はこれらのことを知恵者や学識ある者には隠して、幼子たちに顕されました。その通りです、父よ、というのも汝の御前に[汝の]嘉みしたまうものごとがこうして生起したからです。あらゆるものごとはわが父によりわたしに委ねられました。また父でなければ子が誰であるかを誰も知ることなく、そして子と子が顕そうとするその者においてでなければ父がいかなる方であるかを誰も知りません」。そして彼は弟子たちに対し向きをかえ、自らのこととして、言った。「汝らが見ているものごとを見ているその数々の目は祝福されている。というのも、わたしは汝らに言う、多くの預言者たちそして王たちは汝らが見ているものごとを見ることを欲したが見ることはなかった、そして汝らが聞いているものごとを聞くことを欲したが聞くことはなかったからである」」(Luke.10:21-24)。ここでイエスはこの伝道の成功が父と子の揺るぎない関係の証であることを喜んでいる。イエスの一挙手一投足、例えば伝道の成功をもたらしたところの学なき弟子たちの選び、選定は、父の御心に適い、そのことを喜び、神に賛美を帰している。イエスの生が父なる神に嘉みされていることを確認できるものとして、不思議なる業や栄光ある業が歴史のなかで遂行されていると位置づけられている。父なる神のみがイエスをご自身の子であるとご存知であるそのような状況のなかで、子が父を顕わにする権能を持っていることが父と子のゆるぎない関係を介して顕されていく。イエスはこの出来事がこの世界で重く見られない幼子のような者たちを介して実現されていること、すなわちこの世の権力を介せずに実現されていることを賛美した。それ故に、これらの栄光が権力者たちに憎まれ妬まれ彼に苦難の道を強いている。権力者たちに媚び諂い、彼らに奇跡をなす権能を与えることはなかったからである。

 福音とは、博識な者や立派な者たちのものではなく、モーセの業の律法を突破するものとして、他に縋ることのできない罪人を招く信の律法のことである。心魂の根源に信が生起するとき、救いの確かさのなかで平安と喜びが出来事となるまさにそのものであった。心魂の根底が偽りから、裏切りから解放されるのは、「目には目を、歯には歯を」のように常に比較考量のもとにある業のモーセ律法の遂行によってではなく、比較を絶した善が、恩恵としての罪の赦しがこの世界に実現しそしてその確かさへの信に基づき、人生の一切を秩序づけるときである。この世のものに頼るものがあればあるほど、ひとはこの根源的な信に立ち返ることが難しい。

 健全な99匹の羊を置いて或いは9999匹をおいて一匹の迷える羊を探すことは経済原則即ち肉の法則にあわないであろう。さらには司法的な等しさの分配にも適合しないであろう。宇宙の栄光である神の独り子が受肉しひととなり、旧約聖書に基づきつつも、業の律法よりも一層根源的な信の従順を貫くことにより業の律法の冠である愛を成就したその御子は他の何ものにも代えることのできない比較不能な善である。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわれに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。  

3清き者の眼差し

 もう一か所イエスの清さを示す報告を見てみよう。イエスの眼差しは憐みをたたえつつすべてを射抜くそのようなものである。彼が裏切られたときのその眼差しについてルカは見落とさず報告している。最後の晩餐において、イエスは弟子たちに「わが国」において彼らが「王座に座る」ことを予言する。異邦の王たちは民のうえで権力を奮って「恩人(euergetai, benefactors)」と呼ばれるが、弟子たちには給仕する者のほうが給仕される者「より偉大」であると言う。「上に立つ者は仕える者のようになりなさい。・・汝らはわが数々の試練のうちにおいて共に踏みとどまってくれた。まさに父がわたしに支配権を備えてくださったように、わたしもまた汝らに備える、それは汝らがわが国におけるわが食卓で食べそして飲むためであり、そして汝らは王座に座りイスラエルの十二部族を裁くことになるであろう。

 シモン、シモン、視よ、サタンは汝らを小麦のように篩にかけることを[神に]請い求めた。わたしは汝の信仰がなくならないように汝のことで祈った。汝が[ひとびとに]眼差しを向ける番になったとき汝の兄弟たちを支えよ。しかし、ペテロは言った、「主よ、わたしはあなたとともにおりますそして牢獄と死に至るまで歩みぬく覚悟はできています」。だが彼は言った、「ペテロよ、今日、鶏が鳴くまで、三度わたしを知らないと汝は否定するであろう」」。

 捕縛された夜、イエスが大祭司カヤパのもとで尋問を受けているとき、ペテロは焚き火をしているひとびとのあいだに交じりながら外からその様子を見ていた。深夜から明け方になる時刻、「一時間ほどたつと、また別のひとが、「確かにこのひとも一緒だった。ガリラヤ[方言]の者だから」と言い張った。だが、ペテロは「ひとよ、あなたが言うそのことをわたしは知らない」と言った。まだこう語っているうちに、突然、鶏が鳴いた。主は振り返りペテロをじっと見た。そしてペテロは主の言葉、「今日、鶏が鳴く前に私を三度否定するであろう」を思い出した。彼は外に飛び出し、さめざめと泣いた」(Luke 22:29-34,59-62)。ペテロはこのときの主の眼差しを生涯忘れることができなかったのであろう。時がきて彼が殉教する番になった際に、主が通常の十字架刑であったため、彼は主に申し訳なくどうか自らを逆さ磔にしてくれと言って、死んでいった。カラヴァッジョはその状況を描いている。

 そのときのイエスの眼差しを想像してみよう。鶏が鳴いたため、反射的にイエスは大祭司の館の外を見やったのであろう。そしてペテロと目があった。画家であったならそのときの情景として、かがり火に浮き彫りになる振り向きざまの悲しげなイエスの表情を描くことであろう。それと同時に憐れみの眼差しが向けられていたことであろう。そもそも最後の晩餐とはイエスにとって弟子たちとの今生の別れの宴であった。惜別の思いのなかで、二人の弟子の裏切りを予見し、二人の立ち返りを求めつつそして今後の弟子たちの苦難を予見しつつ、天上における栄光のなかでの再会と会食を予言し励ましていた。後の日に裏切りから立ち返ってから、ペテロたちが救いを求める者たちに「眼差しを向けて」支えるようイエスは励ました。このように惜別と裏切りのただなかで、イエスはペテロを「じっと(eneneblephsen)」すなわち射抜くように見入った。今日的な言い方では「やっぱり、やらかしたな」とでも言うのであろうか。これはあまりに軽い口語的な言い方であり、深い悲しみのうちに「やってしまったな」という思いで見つめたのであろう。勿論、無言である。二人のあいだに距離がなかったとしても、無言に相違ない。ペテロはいたたまれず走ってその場を去り、激しく泣いた(wept bitterly)。

 これは裏切り、言葉による裏切りである。それでも、獄舎でも死でもどこまでもついていくと言ったそのペテロが舌も乾かぬうちに裏切ったのである。イエスは裏切りを回避すべく天国におけるより偉大なものとなる励ましを与えそして鶏鳴の警告をも与えていた。恐れや戸惑いそして生存への欲求これらがペテロをして良心を麻痺させ、裏切りに向かわせた。

 イエスは、ひとは神に良きものとして造られたにもかかわらず、羊飼いのいない羊のように彷徨っているのを見て、神の子としてのひとの本来性についての彼の認識と現状のあまりの落差にはらわたから「深い憐みを抱いた」と報告されている(Mat.9:36)。この憐れみ深さは心の純一さのひとつの顕れである。 

4肉の弱さへの譲歩

 他方、イエスは人間の肉の弱さを熟知しており、まっすぐ歩けない弱い者たちに忍耐と寛容のもとに譲歩を示しつつ、励ましている。ゲッセマネにおける信の従順を貫く苦闘の祈りのただなかにおいて、弟子たちは待ちきれず眠ってしまった。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていよ。霊は燃えるが、肉は弱いからである」(Mat.26:41)。「肉」とは土から造られた身体を持った自然的存在者の生命原理のことである。パウロは、信徒は「肉において」生きているが、「肉に即して」ではなく、「霊に即して」生きていると言う(Rom.8:1-14)。言ってみれば、「わが国籍は天である」(Phil.3:20)ため、たとえば信じる者は天国に即して日本において生きている、というそのような関係に霊と肉はある。この肉の制約はこの地上にある限り引力から逃れられないように担うべき重荷であり続ける。

イエスはまたモーセ律法における離婚の規定についてこう言う。「汝らは読まなかったか、「創造主ははじめからかれらを男と女とにお造りになった」(Gen.2:24)。そして、彼は言った。「それ故、ひとは父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一つの肉となるであろう。だから、二人はもはや別々ではなく、一つの肉である。かくして、神が軛を繋いだものをひとは離してはならない」。すると彼らはイエスに言った、「ではなぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか」。イエスは言った、「汝らの心の頑なさに対して、モーセは妻を離縁することを譲歩した(epitrepo, give way)のであって、初めからそうだったわけではない」(Mat.19:4-8)。パウロも言う、「汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)そこでは肉とは「罪の奴隷」でも「義の奴隷」でもありうる可能存在者として人間中心的に描かれる。  

5肉の弱さの克服

 イエスは肉の弱さを知り、寛容であったが、それは清濁併せ飲んでいることであろうか。彼はこれらを乗り越える術を知っていた。勝利の故の寛容さである、大丈夫だ、信によってこの問題も解決できると励ましていたのである。さもなければ、肉の弱さへの譲歩は滅びへの罠を仕掛けたものとなる。その勝利とは福音であり、彼はその福音を宣教しつつ、福音をその一挙手一投足において実現している。比較を絶する信に基づく義の知らしめである。新約聖書はその福音の報告である。彼は自らの働きは神の子のそれであり、そう信じるように生命をかけて宣教した。

 ひとはどこまでイエスやパウロの譲歩に基づき、神の働きを括弧にいれて、人間中心的なまた自然中心主義的な思考を展開するのであろうか。「肉」は自然的な生の一原理であるにせよ、また神学者たちが主張するように罪性を帯びたものであるにせよ、生物的生死に関わるだけのものであり、死とともに消えゆくものである。他方、霊は生物的な死を乗り越えるものとして導入されている。これらの領域は最も共約的にはつまり肉の罪性の議論を括弧に入れた場合に可滅的なことがらと永遠の事柄に分類されよう。

 「ローマ書」八章における「キリスト・イエスにおける生命の霊の律法」による「罪と死の律法」からの解放は、七章の肉とヌース(「内なる人間」の神にかかわる認知的部位)の葛藤を前提にしている。「ローマ書」三章から六章まで福音が打ち立てられ、業の律法を新たに福音との関係において位置づけている。もちろん律法は神の意志である限り、「善」であり「霊的なもの」である。「それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然からず。むしろ、罪が善きものを介してわれに死を成し遂げることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである」(Rom.7:13)。この罪の醜悪さは良心が宿る「内なる人間」との葛藤をもたらす。生物的な死は人間の与件であり当たり前の事実であると看做してしまうことが罪に欺かれていることに他ならないとヌース(叡知)が暴きだす(7:15)。律法をつきつけられた者は叫ぶ、「惨めだ、われ、人間」(7:24)。生物的な死は「罪の賃金」(6:23)であり、「われをこの死の身体から救う者は誰か」(7:24)とは原理的に「死の身体」を抱えている人類誰もが叫ぶべきことがらであると言える。イエスは「身体を殺すが、魂を殺すことのできない者たちを恐れるな」と生物的死の乗り越えを励ます(Mat.10:28)。

かくして肉と霊は人間の生の根源的形姿に関わる。いずれかを根源的要素(stoicheia)とするかに応じて、生物的死か永遠の生命という果実を得ると想定されている。霊の思慮はこの生物的死を乗り越えるが故にこの生のただなかで生命と平和に至る。パウロは言う、「われらもまた未熟であったとき、宇宙の根源的諸要素のもとに(hupo ta stoicheia kosmū)隷属されたままであった。・・しかし、神を知らなかった時、汝らは神々ではない自然本性上のもの(tois phusei)に隷属していた。しかし今や神を知っており、いやむしろ神に知られているのに、いかに汝らは再び弱くかつ貧弱な根源的諸要素に(epi ta asthenē kai ptōcha stoicheia)逆戻りし、それらに再び新たに隷属することを欲するのか」(Gal.4:3-9,cf.Col.2:8(「宇宙(世)の根源的諸要素に即してであり、キリストに即してではない」))。

 ここで重要なことは「宇宙の根源的諸要素」が「自然本性上のもの」として提示されていることである。当然宇宙は創造の秩序のもとにあるが、彼はそれを相対的に独立した「自然本性上のもの」と理解している。さらにそれは「キリストに即した」生と対比されている。パウロはひとが「自然本性」に即して「宇宙の根源的要素」を最も心魂の基礎的なものであるとすることは、弱くかつ貧弱なものに隷属することであり、未熟者のすることであるとする。心魂の内奥はそのような時間と空間の限界のなかに成立する自然上のものではなく、彼は霊を根源的要素とするよう励ましている。これは時空のなかで観察可能なもののみに実在性を認める自然主義(naturalism)に対する挑戦的な企てである。

 パウロは「ガラテア書」において「今や神を知っており」もはや貧弱な宇宙ないし世界の根源要素に立ち帰る愚かなことはせず、霊が究極的な生命活動の構成原理であるべきとして言う、「霊の果実は愛、喜び、平和・・である。これらに対立する律法は存在しない。だが、キリスト・イエスに属する者たちは情念と欲望とともにその肉を十字架に磔(はりつけ)てしまった。もしわれらが霊によって生きようとするなら、われらは霊に適合し続けもしよう (pneumati kai stoichōmen)。互いに挑みあい、互いに妬みあって、われらは空しきものに栄光を帰すことのないものとなろう」(Gal.5:25)。ここでひとは自らの生の原理として「霊によって生きる」可能性が提示されている。それは心魂の内奥からの何らかの促しに対応する部位であり、その促しに適合し続けることが勧められている。

 さらに「ガラテア書」においてキリストの磔の死を自らのことがらとし、復活のキリストと共に新しい創造を根源的要素とする者たちとその果実に言及して言う、「われらの主イエス・キリストの十字架において以外に、われに誇ることがあってはならない、彼によって宇宙はわれにそしてわれも宇宙にたいし十字架に磔られたのである。というのも、割礼でも無割礼でもなく、新しい創造こそ何ものかだからである。そしてこの規範に適合し続けるであろう(stoichēsūsin)限りの者たち、彼らのうえにそして神のイスラエルのうえにも平和と憐れみがあるであろう」 (6:14-16)。宇宙とわれのあいだで相互に磔られた関係にあるとは宇宙の自然的原理を生の原理として適合することを「やめた」ということに他ならない。古い宇宙の法則のもとにではなく、新しい創造のもとにその法則に適合することが勧められる。

 なおわたしども生物は当然自然的な存在者であり続けることにかわりはないため、宇宙の自然的な法則は根源的な原理として位置づけられることをやめるが、新しい創造の秩序のもとに位置づけられて機能すると理解される。生の一原理としての「肉」は磔られたが、霊に従属するものとして肉は新たな位置づけを得る。キリストの軛に繋がれて生きるとき、ひとは憐み深い者となり、心の清い者となり、そして平和を造る者となる。キリストと共なる生の喜ばしさゆえに、それ以外の生をもはや望ことはないであろう。

 パウロは命じる、「恐れと慄きをもって汝の救いをまっとうせよ。なぜなら、「嘉(よみ)」の名において汝らにおける欲することそして実働することを働きたまう方は神だからである。あらゆることを呟くことまた言い争うことなしに遂行せよ。それは、曲がったそして歪んだ世代の者たちのあいだで、汝らは生命の言葉を保持しつつ、わが誇りであるキリストの日に向けて、この世界の光として輝いているが、汝らが完全でそして純一な(akeraioi)者となり、咎めなき神の子となるためである」(Phil.2:12-16)。

 

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