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心の清さ

日曜聖書講義2020年5月17日マタイ福音書5章8節

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柔和な者

日曜聖書講義4月26日 山上の説教(4) マタイ5:5 要旨

「祝福されている、柔和な者たち(hoi praeis)。彼らは地を受け継ぐことになるからである」。

                                      千葉惠

 この第三福は人格的な徳に関わる。柔和の対義語には激情や直情径行、競争心、自己顕示などが挙げられる。黒崎幸吉先生はこう対立を説明する。「現世のいわゆる成功者たらんとする者は柔和であってはならない。彼は他人を排除、抑圧、誹謗するの勇気と大胆さを持っていなければならない。・・されど真の幸福者は柔和な者である。人に排斥され、圧迫され、誹謗され、「侮られて人に捨てられ悲哀の人にして病を知れる」[Isaiah.53:3]人である」。(Web版新約聖書註解マタイ当該箇所。なおこのWeb版はこの12年間で約34万回のアクセスがあり、1日約100件今日まで読まれ続けている)。

 身体の受動的な反応である感情(パトス)に対して良い態勢にあることが伝統的に「徳」と呼ばれる。恐れに対する勇気、欲望に対する節制、怒りに対する正義などが人格的態勢としてパトスに対して良い態勢にある。正義な者、義人は怒らないのではなく怒るべき時に怒るべき仕方で怒るべき程度の怒りが自然に湧いてくる者であり、そのうえで当事者に等しさを分配する人格的卓越性のことである。柔和な者は矜持、優劣感や競争心に対し良い態勢にあり、侮辱や誹謗中傷をスルーし寛容であり、赦すことができる態勢である。

 聖書的には柔和な者は天国への希望の故にこの世の権力欲求や悪意からの攻撃、蔑みなどに耐えることのできる態勢であり、振舞いとしては寛容に接しまた赦し敵をも愛する態勢である。イエスご自身が柔和なひとであった。彼は言う、「疲れている者たち、重荷を負っている者たちは皆、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を汝らのうえにかつぎ[繋ぎとめ]なさい。そしてわたし[の足どり]から、わたしがその心柔和であり(praus)また謙った者であることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に休息を見出すことであろう。というのも、わたしの軛は良いものでありそしてわたしの荷物は軽いものだからである」(Mat.11:28-30)。イエスの軛、荷とは何か?天の父が憐み深く、信じる者を救い出す方であることへの「アッバ父よ」と呼びかけすがる素直な幼子の信仰である。有徳な者も悪人も魂の根底に生起する悔いた砕けた魂における「信じます」と幼子のようにすがること、それがイエスと共に軛を背負って歩くことである。何の立派さも要求されず、ただ自らに偽りのない信が生起する場所・二番底即ちパウロの言う聖霊に反応する部位である「内なる人間」(Rom.7:22)から主に身をゆだねることである。荷物を運ぶとはイエスの御跡に従って歩むこと、イエスの使命を自らのものとすることである。イエスに似た者になること以上に喜ばしいことはない。イエスを長子とした神の国の相続人となるからである。

 
CC 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3894456

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「地を継ぐ」はまずアブラハムに対する神の約束に基づき地を継ぐことに見られる。「見よ、わたし[主]はこの地[カナン]を汝ら[モーセの後継者ヨシュアら]に与える。行ってこの地をとれ、わたしは汝らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに、彼らとその後の子孫にこれを与えようと誓ったのである」(Deut.申命記1:8)。アブラハムへの約束から始まり神の意志は異邦人の救いに向かう。

「信じる者に救いをもたらす神の力能」(Rom.1:15)である福音はイエスご自身が「神の子の信」のもとにご自身の使命を遂行されたことのなかに啓示されている。福音はユダヤ人にも異邦人にもただ神の子の信に生きたイエスをキリスト(神に油注がれた救い主)であるという信に生きる者に開かれている。神の子が信実であったとき、ひとはその信に対し信によって応答する。「しかしもはやわれは生きてはいない、われにおいてキリストが生きている。しかし、今われが肉において生きているところのものを、われは、われを愛し、わがためにご自身を引き渡した神の子の信によって、信において生きている。われは神の恩恵を無駄にしない。というのも、もし義が[業の]律法を介するものであるなら、キリストは空しく死んだことになるからである」(Gal.2:20-21)。相続者はもはや「業の律法」即ちモーセ律法のもとに生きたユダヤ人に限られず、誰であれ「イエスの信に基づく者」(Rom.3:25)と神が看做す者のことである。「それ故、かくして、兄弟たち、われらは肉に対し肉に即して生きる義務ある者にあらず、というのも、もし汝らが肉に即して生きるなら、汝らは死ぬばかりだからである。しかし、もし汝らが霊により身体の諸行為を死なすなら、汝らは生きるであろう。というのも、神の霊に導かれる者である限り、その者たちは神の子だからである。なぜなら、汝らは再び恐れに至る奴隷の霊を受けたのではなく、われらがそのなかで「アッバ父よ」と呼ぶ、子としての定めの霊を受けたからである。御霊自らわれらが神の子たちであることをわれらの霊と共に確証したまう。もし、われらが子であるなら、われらは相続人でもある。かたや神の相続人であり、他方キリストと共同の相続人である、いやしくもわれらが共に栄光に与るべく、共に苦難に与っているのなら」(Rom.8:12-17)。

 柔和な方であるイエスご自身の御跡に従う者、その者は祝福されている。既にその祝福は旧約聖書において先駆的に知らされている。「その咎を赦され、その罪覆われし者は祝福されている[さいわいである]。主がその罪を数えざる者は祝福されている[さいわいである]。その心に偽りなき者は祝福されている[さいわいなり]」(Ps.詩篇32.1-2,Rom.4:7-8)。十字架に至るまで従順の信を貫いたイエスは言いたまう。「わたしに躓かない者は祝福されている[さいわいである]」(Mat.11:6)。柔和な者は幼子のように恵み深いイエスと共に軛に繋がれ光のもとに歩調をあわせて歩む者である。

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悲しみの文法

山上の説教(3)マタイ5章4節、4月19日

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初めての聖書

山上の垂訓(2)登戸学寮聖書講義2020月4月12日

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権威ある祝福

2020年4月5日の礼拝 山上の説教 (1)マタイ5:1-3 千葉 惠

 序 マタイ福音書5章~7章 山上の説教の主眼

 イエスは群衆が山に登ってきたのを見て、お座りになったとき弟子たちが彼のみもとにやってきた。口を開き彼は弟子たちにこう言って、教えた。

「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである(5:1-12)。

 5章から7章は山の上での教えであるため、「山上の説教(垂訓)」と呼ばれている。「祝福されている」と訳される言葉は「幸いだ」と訳すこともできる。とはいえ神とその御座である天国との関連で語られているがゆえに、神に祝福されるのでなければ幸福であることはできないため、より直截に「祝福されている(cf.Blessed are the poor(KJV))」と訳した。これらは神に祝福される八つ(九つ(二人称含む))の心魂の態勢・状態またその働きにある者たちについて三人称で一般的に言われている。とはいえ、福音書のイエスの言葉は常に具体的な対話の状況・文脈のなかで対人論法により語られている。それ故にこの三人称表現も彼を求めて山を登ってきた寄る辺ない群衆に対して彼がもった今・ここの憐みからこれらの祝福が発せられていると考えねばならない。最後に二人称で「汝らは祝福されている」とあるから、直弟子たちだけではなく聴いている群衆も含まれている。イエスご自身はユダヤ教の伝統のなかで「イスラエルの失われた羊」に遣わされているという自覚をもち福音宣教を始められたが、この三人称の表現はユダヤ人であれ、異邦人であれ誰であれこの憐みのもとに含まれていることをも含意している(Mat.15:21-28)。語りの文脈の具体性と射程の一般性双方を捉えねばならない。

 実際、類似の宣教の文脈において「群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れみ」、「彼らに多くのことを教え始められた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。彼は彼についてくる群衆を深く憐れんでいたのである。その憐みのなかでの神の国の宣教すなわち神の国がどのようなものであるかについての「教え」とそれがもたらす知識は弱ったひとびとを救いだす力である。神の国についての明晰な理解がひとを新たにするという言葉の力を山上の説教は示している。彼は彼を求めて山に登ってきたひとびとを見捨てることは考えられず、彼の権威ある祝福はこれらを聞いたひとびとの心に直に響いたことであろう。これらの祝福が発せられた文脈が彼についてきた聴衆を励まそうとされたことそしてそれは今寄る辺ない状況で彼に従う現代人にも語り掛けられている。ひとはみな神の国に入れていただくこととの関係において、しかも神と隣人を愛することとを通じて、一切を捉え直すよう励まされている、それが山上の説教の主眼である。

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