「21世紀の宗教改革77箇条」連続講義第三回

 6罪の贖い:「恩恵により贈りものとして義を受け取る」

 今日まで福音が業の律法の枠のなかで、例えば父なる審判者が独り子を審判されるべき最大の罪人として罰し呪ったという刑罰代受として理解されることがあった。また神は独り子を罪に囚われている人類の救済のために身代金として悪魔に捧げたと理解されることがあった。しかしながら、神はご自身の義を父と子の協働行為により歴史のなかで「あらゆる者」に福音として捧げていたのである。「あらゆる者」は神の前に生きており、一度は業の律法のもとに生き、「罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たち」(23)である、そう神に看做されている。「そのキリスト・イエスを神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」(24-26)。信義の分離のなさの根拠は、この箇所において御子の信の従順の貫徹が「ご自身の義の知らしめ」に向けて、「信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る好機」にそして「ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」これら二箇所に見られる。

 ここで「現臨の座」と訳されたものは「恩恵の座」や「宥めの供え物(犠牲)」や「贖罪の犠牲」また「会見の場」等と訳されてきた。ちょうどnaos(「住居」 a dwelling place)が目的的に礼拝のための「神の宮(temple, worship place)」と目的論的に名づけられるように、語「ヒラステーリオン」は契約の箱の「蓋」を直接には意味するが、この語は目的論的にそこで神がひとに見(まみ)える座を意味表示している。パウロはこの術語の選択において当時のキリストの贖いの伝承を利用したかもしれないが、含意は福音の報告である以上、犠牲や宥めのような旧約的な含意を持つことはない。神は人に十字架のキリストを「差し出した」時、神はご自身との会見の場として人類に提示したのである。父なる神は御子の十字架の苦難に臨在していた。子は苦しみのゆえに一時的にそのことを忘れたとしても、見失っていた父に縋り付いていたことが信の従順として嘉みされた。父と子によるあらゆる者たちの罪の贖いは神の前の福音の出来事であり、その実質である神の前の御子の信に基づく義とその証明である復活はあらゆる者が信に基づき罪の赦しの義を受け取る者であることを証している。神はあらゆる人々にそのもとに生きるべくまた永遠の生命に与るべく信の律法を無償の贈りものとして与えている。

 業の律法のもとに生きる者は誰であれ審判する者と審判される者として関わるが、信の律法のもとにおける父と子の無償の贖いの行為はひとをして業の律法から信の律法へ移行させることを、神の信義の根源性のゆえに可能にしている。「しかし今や、律法を離れて」(Rom.3:21)即ち古い革袋である業の律法とは分離されて、分離なき信義の新しい革袋に福音が注がれている。モーセの律法より、より根源的な神の意志である信の律法を御子が満たすことにより、福音を福音それ自身として把握することを可能にした。パウロによれば「贖い」とは「「キリストはわれらを律法の呪いから贖いだした」(Gal.3:13)その解放のことである。彼は「ガラテア書」においてまた言う、「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」(Gal.2:19-20)。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)。

 16世紀にルターは贖罪の行為を義人と罪人の交換としてこう説明した。「神は独り子を十字架につけて、宣告した。「汝はリンゴを食らいしアダムなり、汝は姦淫者ダビデなり、汝は拒否せるペテロなり、汝は涜神者パウロなり、汝はあらゆる罪を犯せるすべての者なり」と」(WA.40I,437.18ff)。これは代罰の印象的な表現である。しかし、信の従順を貫き神の前で義と看做され、甦らされたイエスを、神が業の律法のもとに罰しそして呪ったとすれば、それは神が罪なき者に不正を為したことになる。「神は不義ではないのか、断じて然らず」(Rom.3:5-6)。イエスは信の従順の義により業の律法の冠である愛を父と共に遂行していたのである。「愛を媒介にして働く信が力強い」(Gal.5:4)。神は明確に罪なき御子の死は罪人の罪を担う愛の身代わりの死であることを認識していたはずである。

 ルターは父と子の協働の愛の行為をこう言わねばならなかったはずである。「神は独り子が十字架につくことを嘉みし或いは認可し、「汝はリンゴを食せしアダムの身代わりなり、汝は姦淫者ダビデの身代わりなり、・・汝はあらゆる罪を犯せるすべての者の身代わりなり、あらゆる者の罪を担い抜け」と」。そこでは神がご自身の現臨の座として身代わりにイエス・キリストを差し出したのは悪魔や罪に対してではなく、業の律法のもと罪に沈む人類すべてに対してであり、イエスのことがらを自らのものとせよと人類すべての罪の贖いを伝えるためであった。

 

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