「21世紀の宗教改革77箇条」連続講義第二回

 これらの五種類の言語層はそれぞれ整合的なものであると主張する。神は言語使用者であり、神は人間に理解される限りの言葉において啓示行為を遂行している。「神の語りのことばはユダヤ人に信託された」(3:2)。そこではいかなる神をめぐる聖書学的、神学的解釈も「神」によるまた「神」をめぐる語りについて人称や時制、法や態等文法規則のもとで、語とそれが構成する文の言語的振る舞いの理解の枠の中で遂行される。パウロは神的な働きの個別的そして一般的な言語的振る舞いの特徴を真理の整合性規準のもとに読者に理解可能な有意味な言語網として展開している(cf.2Cor.1:13)。

それにより無償の恩恵即ち神の憐みと分離なき信義がロゴスとエルゴンの分節と総合を介して解明されることになろう。この根源的な啓示に基づき、ロゴス言語とエルゴン言語の分節と総合のもとに、福音と律法、信仰と愛、恩恵と自由、選びの教説と各自の責任ある自由の関係等をめぐる論争に一つの統一的な解決が与えられるであろう。

 

4語句の意味理解に基づく記号間の整合的な理解ならびに対応するものごととの知識

 真理の整合説はものごとに言表の指示が届く対応説の予備段階に位置する。アリストテレスは五種類の認知的卓越性、徳を挙げ、それらの知識は「魂が肯定すること或いは否定することによって真理を捉えている態勢」であるとする(Nic.Eth.VI.3.1139b15)。これらは世界にあるものごとについて魂の判断が合致している状況を示している。アリストテレスが「名前が何を意味表示するかの言表」を挙げるとき、知識を求める探求の第一段階として人為的な記号として用いられる名前や語句の意味理解を探求の基礎として位置づけている。その意味理解に基づきものごとの存在と本質が探究される(An.Post.II.10.93b.30)。ルターはその当該語の意味の把握を「文字的意味(sensus literalis)」と特徴付け「霊的な意味」と対比させている(WA4.323,cf.G.Ebeling,Die Anfange von Luthers Hermeneutik, Lutherstudien,1971、『信の哲学』上巻p.599f.)。

 アウグスティヌスは真理を記号として理解される限りの言語間の整合性において捉える予備的なものと言語により指示されるものごとについて魂が捉える二種類の次元に判別できるとして、そのうえで双方の関係についてこう言う。「君は、自分が言葉を言葉によって、記号を記号によって・・説明していることに容易に気づくはずだ。しかし私が君にできれば示して欲しいのは、これらがそれらのものの記号であるところの[記号が意味表示する]ものごとそのものなのだ」(「教師論」2:4)。彼は記号はそれがその記号であるところのものごとの記号であるとしてものごとの存在を前提にしている。言語がものごとの記号である限り、その整合性は問われる。ウィトゲンシュタインは言う、「われらが最初になにごとかを信じ始める時、われらが信じるものは一つの単独命題ではなく、命題の全体系である」。確かにひとが或る命題を信じるとき、その命題を支えている言語網を信じている。その体系が開かれている場合においてであれ、その記号同志の或る範囲の連関が真であると信じられている(L.Wittgenstein, On Certainty, ed.G.E.M Anscombe, G.H. von Wrighte, p.21, 141 (Oxford 1979))。その言語網が言語的な次元で考察される場合でも、その言語網を支えているものは対応するものごとの連関であり、ものごとに内在する理(ロゴス)の秩序正しさである。

 最も望ましいロゴスとエルゴンの相補的な関係は理(ロゴス)がものごとに内在し秩序ある働きを遂行していることに見られる。福音書記者ヨハネは永遠の現在にいまし一切のものごとの創造者である神は理である御子を介して万物を創造した、しかもその理が受肉にしたと報告している。「始めにロゴスがあったそしてロゴスは神に向き合っていたそしてロゴスは神であった。この方は始めに神に対してむきあっていた。あらゆるものは彼を介して生じたそして彼を離れて何一つ生じなかった・・その彼は人と成った」(John.1:1-6)。パウロもまた言う、「あらゆるものごとはご自身からそしてご自身を介してそしてご自身に至る」(Rom.11:36)。この発話に宇宙万物が秩序ある体系あるものとして構築されていることが想定されている(第2条)。ものごとの在り様を心が受け止め、心はそれを表現すべく言葉や文字を記号として用い人々とのやりとりを通じて交流をはかる(アリストテレス「命題論」第一章、千葉惠「アリストテレスの意味論―既知および未知なものごとを包括する―」(MORALIA 28,2021)。言葉と心とものごと、これら三つのものの関わりの一般的解明が意味論の仕事となる。パウロはそれをロゴスとエルゴンの相補性のもとに解明を企てている。

 「ローマ書」はとりわけ聖霊をも含めものごとの今・ここの働きの言語網とその働きの普遍的な展開の言語網として分析される。これはそれぞれ「霊と[神の]力能の論証」と「[神の]知恵の説得的議論」と呼ばれる(1Cor.2:4,cf.Rom.15:14)。このような言語的次元の解明に基づき、これまでの神学的理解に修正を迫ることがこの改革運動の動因である。

 

5言語的振る舞いの分析が「ローマ書」の整合的読みを保証する

 パウロ「ローマ書」の記号としての言語的振る舞いについての意味論的分析により神の前の言語網と人の前の言語網がロゴス(理論)上分節されそして判別されるが、それにより書簡の無矛盾性が証明されるにいたった。例えば、一方で「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」(2:6)と語られ、他方で「働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、その者の信仰が義と認定される」(4:4-5)と語られ、二つの主張に何らかの調整が必要なことは明らかである。神とひと双方の媒介者の理(ことわり・ロゴス)と働き・実践(エルゴン)の相補的かつ総合的な理解がパウロの議論を無矛盾なものとして析出することを可能にする。

 「ローマ書」においてはそれぞれ整合的な言語網が五層分節され張り巡らされている。神の義の二種類の啓示の報告としての神の前の言語網において、一方ではモーセを介して啓示された(B)「業の律法」に基づく神の認識や判断の報告が、他方ではイエス・キリストを介して啓示された(A)「信の律法」の言語網が分節されている。業の律法のもとでの啓示行為をめぐって、今・ここにおける働き(エルゴン)である「神の怒り」は1:18-32において神の義として啓示されている。「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡した」(1:24)と神の怒りの啓示が報告されるが、ここで語「恥ずべき」の意味は、人の前のことがらとしてご当人は恥ずかしいと思っていないであろうし、まず神により理解されており、神の前の一事象を指示している。この怒りのエルゴン(はたらき)の報告に基づく2:1-3:20における旧約聖書の関連個所への言及による論証(ロゴス)上の一般化は(B)「業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら、律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(3:20)と神の認識として展開され結論づけられている。

 信の律法のもとでの信義の分離なさの啓示をめぐって、神の信に基づく義の啓示行為はひとにおける信に基づく義に及ぶものとしてとりわけ3:21-26において報告され、その理論上の一般化はそれ以降4:25まで旧約とりわけアブラハムやダビデにおける信仰義認の事例を引用しつつ遂行されている。パウロは「ローマ書」において約60回旧約を引用するが、それは彼の主張の論拠としてすべて肯定的に引用されている。ユダヤ人にも新しい教えを説得的なものとして提示するためである。また聖霊に対する言及のない一般的な理論上の分節は「知恵ある者たち[哲学者]にも負うべき責任を持つ」(1:14)パウロによる論証上の工夫である。より根源的には、いかなる真実な思考や思考を前進させる議論もことがらそのものとしてロゴス(理)とエルゴン(その働き)の相補性のもとに展開するからである。

 冒頭で紹介した信義の分離のなさの議論において、神の前において神に信じると看做されている者はすべて神が義であることを知っている。この神の前における信と知識の関係は人の前のそれと平行的である。アリストテレスは「あらゆる判断(見解・ドクサ)には信が伴い、信には納得が伴い、納得には理(ロゴス)が伴う」と言う(De Anim.III3.428a22-3))。認知的徳はものごとの真偽に関わり、その理を伴う判断が「真理を捉えている」時、それは知識と呼ばれる。「魂が肯定したり否定したりすることにより、そこにおいて真理を捉えている態勢を数において五つあるとせよ。これらは技術知、科学的知識、実践知、叡知そして知恵である。というのも、判断と見解において偽であることがありうるからである」(Nic.Eth.VI3.1139b18)。

 パウロにも妥当する。神に遣わされるのでなければ宣教することはおきず、宣教する者がなければ聞くことはおきず、聞く者がなければ信じることは生起せず、信じる者がなければ神に呼びかけることは起きない(Rom.10:14-15)。「いかに信じなかったその方に呼びかけることが生じようか?いかに聞くことのなかったその方を信じることが生じようか?しかし遣わされることがないならば、いかにその人々は宣教するであろうか?まさにこう書いてある。「善きことども告げている足はなんと良いものであろうか」」(Rom.10:14-15)。信なしに判断はなく、納得なしに信はなく、理なしに納得はない。宣教の道理ある言葉を聞いて納得するとき、人々には信が生起し、信じたその方に呼びかける。

 そこで何らかの働きのもと不可視な対象について何らかの知識が生起することもあろう。パウロは言う、「君たちこの世界に同調するな、むしろ神の意志が何であり、善とはそして喜ばれるものそしてまったきことが何であるかを君たちが識別すべく、叡知の刷新により変身させられよ」(Rom.12:2)。ここでは「神の意志が何であるか」や「喜ばれること」そして「まったきこと」という表現により、その時々の最善の行為選択肢をめぐる知識が主題であり、これらについて知ることができると主張される。ここで変身とはキリストに似た者になることに他ならない。「わたしは君たちのうちにキリストが形づくられるに至るまで再び産みの苦しみをなす」(Gal.4:19)。キリストに似れば似るほど神の意志をより知るに至るであろう、ただ肉の弱さのゆえに、常に叡知の発動に刷新が必要とされるそのようなものであるけれども(第59条)。

 信念と行為選択をめぐる実践的知識の関係さらに信念と知識一般の関係は二人にとって同様に理解されている。理が伴う判断には信念が伴っていた。人がちょうど「泳ぐ」という概念を知っている場合に、「泳ぎ」の定義には「水」を構成要素としていると判断することは理を伴っており、知識であると言ってよい。何かを今・ここで知っていると判断する者は信念を伴い、「知識」の定義において「信念」を構成要素としていることが知られる。

 神の前の言語網においても同様であり、神が義であることの啓示即ち知らしめの差し向け相手は「信じる[と神に看做されている]者すべて」である。永遠の現在における全知の神の前において、信じることは義とされることの条件であるとは看做されてはいず、神はご自身の義を知りうると看做す者に知らしめており、信じる者はイエス・キリストの信を介して神が義であることを知っている。常に肉の弱さのもとに思考しがちなわれらは神の前の言語網に習熟する必要がある。神の非存在を信じている者が神の存在を知ることができないことは明らかである。これは神の語りを報告するうえでの言語上のまた認識上の制約或いは特徴である。神はご自身の義をそのような言語網のなかで知らしめている。

 

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