連続講義「21世紀の宗教改革77条」第一回

今回から「21世紀の宗教改革:みなもとの信そして信のみなもと―極東発Wittenberg & Rome経由、福音への帰還」の連続講義を掲載します。「序言」は改革の理由の提示ですが、少しわかりにくいと思われますが、各条項の説明により理解が進むことを願っています。「ローマ書」がその中心箇所の誤訳が訂正され、全体が整合的なものとして明晰に理解されるとき、何が起こるかの挑戦です。合計数十回になるかもしれません。

21世紀の宗教改革「みなもとの信そして信のみなもと」―極東発 Wittenberg & Rome経由、福音への帰還―

A Religious Reformation in the 21st century ‘The Faithfulness of Source and the Source of Faithfulness’―Back to the Gospel, departing Far East via Wittenberg & Rome―.

 

モットー「みなもとの信と信のみなもと:イエス・キリスト或いは神の知恵と信」

Motto. ‘fides fontis et fons fidei : Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei’

                                                                千葉 惠

77箇条の提題 

 

序言 なぜ宗教改革か?

1「ローマ書」中心箇所の誤訳の訂正と射程

 なぜこの21世紀にあらためて宗教改革か?この77箇条の提題の提案者がだいそれたアドヴァルーンを自ら挙げたことに何か道理はあるのか?唯一その理由を挙げるとすれば、パウロ「ローマ書」の神学主張の中心箇所が二世紀の古ラテン語訳の「編集」である四世紀のヒエロニムスのVulgata版以来、「ローマ書」3章21―26節が誤訳されてきたことに求められる。とりわけ、「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者[と神が看做す]すべての者たちに明らかにされてしまっている」(3:21)に続くその理由文(3:22)は、神の前のことがらとして、「なぜなら[神の義とイエス・キリストの信のあいだに]分離がないからである」と訳されるべきであったが、例外なしに人の前のことがらとして人が持つ心的状態としての信仰をめぐって「なぜなら[信じる者すべてのあいだに]区別がないからである」と誤訳されてしまったことに求められる。これまで人々は「最も難しい」また「最も不明瞭」な個所として困惑し続けてきた箇所だけに、これが正されるとき、パウロの論旨はとりわけ明白となり、人々の間に納得が生起するそのような期待を懐く。「ローマ書」全体の言語的振る舞いをめぐる意味論的分析を遂行し、その誤訳を見つけ出したことを皮切りに、新たなテクスト分析を介して従来の幾つかの論争に統一的な解決を見出したことにより挑戦したい。

 提題者が理解する当該箇所の翻訳はこうでる。(A)「しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。なぜ[分離がない]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機の時において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである」(3:21-26)。

 神が正しい方であることはイエス・キリストに帰属した信の従順を介して明らかにされており、そこにおいて神は、業に基づく正義を知らしめたモーセの「[業の]律法」とは「分離されて」、しかしその信義に「分離がない」ご自身の根源的な正義を明らかにしている、とパウロにより報告されている。神の前では神に信じる者と看做されているあらゆる者はイエス・キリストの信を媒介にして神が義であることを知っている、そこに分離がないからである。さらに「ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまた[業の律法の義とは別に]ご自身が義であることへと至る今という好機の時」とあるように、「神はキリスト・イエスをご自身の現臨の座として差し出した(アオリスト過去時制)」その一回的全的な過去の出来事に基づき好機が到来し、その後のあらゆる現在、今・ここで神は「イエスの信に基づく者」を「義としている(現在進行形)」そしてそのことによりご自身の信に基づく義を証している。神の前の信義の分離のなさは神が嘉みする限りの神の前の人の信義の分離なさに及んでいる。

 ここでは神の人間認識と判断が「イエス・キリスト信」を媒介にして啓示されている、ただし「の」は帰属の属格でありイエス・キリストに帰属した信を意味している(従来の目的的属格でも主格的属格でもない)。神はまことの人ナザレの「イエス」が信の従順を貫いたことを嘉みしたそしてその嘉みに基づき、神はご自身の義の啓示の媒介として用いご自身の現臨の座とその彼を「差し出した」。そのさい、「イエス」は神の子でありまた人の子でもある媒介者「イエス・キリスト」という尊称を伴う固有名に変換されている。パウロはイエスが人間として行為主体であるが、神の子でも人の子でもあるこの媒介者に一つの行為を帰属させることはできないと考えた故に、「イエス・キリスト」は行為主体としては用いられず常に媒介の前置詞「において」「を介して」を用いた。そのことにより、父なる神の啓示行為が専決的なものであることを表現している。

 「ローマ書」においては「啓示される」という動詞表現は三度のみであるが、「神の義」の二つの啓示(A)義認と(B)怒りは歴史のなかで既に生起したものに基づきこの中間時のあらゆる現在に適用されるものとして現在形受動態において表現され、神の意志はそこで明白に知らされている。他方、終末における審判の啓示の肯定的であることは人の側の希望の条項に属する(1:17,1:18, 8:18)。これらの二度の現在を表す使用はその間のあらゆる現在に適用される神の前の事態を表現すべく用いられている。

 神と媒介者イエス・キリストのあいだの信義の分離のなさ故に、神は今・ここでその信を嘉みしている者に信義の分離なさを知らしめまたその者を義としている。なお啓示の差し向け相手は三人称「信じる者すべて」また「イエスの信に基づく者」であり、一般的に語られている。ここでは個々人の誰が義と看做されるかは知らされてはいず、どのような者が義と看做されるかについての神の認識をパウロは一般的に神の前のことがらとして報告している。パウロはここで神の義認があらゆる今・現在において遂行されていることを三人称で表現することにより、普遍的な仕方で事態を報告している。パウロは賛美する、「深いかな神の知恵と認識の富」(11:33)。これが5章以降9章5節まで展開される「われら」個々人の心奥における聖霊の執り成しによる媒介行為の報告との異なりである。このパウロによる神の認識と行為の一般的な報告を「ロゴス言語」或いは「普遍言語」と呼び、「われら」をめぐる聖霊の今・ここの働きの報告を「エルゴン言語」或いは「今・ここの個別言語」と呼ぶ。パウロはこの差異によりロゴスとエルゴンを判別し、相互の相補性を特徴づけている。

2五つの整合的な言語網

 提題者はパウロ「ローマ書」の意味論的分析を遂行することにより、五つの整合的な言語網を析出したがその二つは神の前の神の義の啓示の言語である。それはモーセへの十戒の授与即ち(B)「業の律法」(3:27)の啓示の言語網とイエスの信の従順を嘉みして啓示の媒介者とされた「イエス・キリスト」の(A)「信の律法」(3:27)の啓示の言語網であり、それぞれ整合的に張り巡らされている。神による啓示行為は神の前の人間を形成しており、神の前の人々の認知的な振る舞いは神にそう理解されているものの報告から形成されている。そこでは「神の前の自己完結性」すなわち神ご自身の理解網が一つの整合的な言語網として報告されている。

 もう一つはパウロが「わたしは汝ら(君たち)の肉の弱さの故に人間的なことを語る」とし、(C)人間中心的な人間認識、神認識を提示している言語網である(6:19)。これはパウロが肉の弱さへの譲歩として(C)人間中心的な即ち相対的に自律した立場から張り巡らす言語網である。これは「罪の奴隷」でも「義の奴隷」でもありうる可能存在としての人間の認識であり、「人の前の相対的自律性」の言語空間を形成する(6:19-20)。この肉の弱さに譲歩された生身の人間による神と自己の認識は神ご自身の認識を伝達する言語網とは異なる理解網において展開されている。

 神の前の人間たちの外延は人の前の人間、即ちこの時空のうちにいる生身の人間とその数において等しい(第10条「円筒形」)。そして第四のもう一つの言語網(D)は(A)と(C)を媒介する聖霊の今・ここの執り成しの働きを報告するものである。例えば「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(5:5)は今・ここのエルゴン(出来事)を伝えるものであり、もし発話の時点で聖霊が注がれていなければ偽になってしまうそのような現場の語りである。これを「エルゴン(D)言語」と呼ぶ。とは言えこの語りは一般化を許容し、それは「神の愛がわれらの心に注がれるとすれば、それは聖霊の媒介による」という条件文によるものとなる。これを「ロゴス(D)言語」と呼ぶ。

 第五の言語網は罪が(B)律法に寄生して(C)相対的に自律した人間を誘惑し、罪の奴隷とする言語網である。これらはそれぞれ固有の言語的振る舞いとそれに伴う意味を持つ整合的な言語網を形成している(7:7-25)。これら五つの言語網にはそれぞれ今・ここのエルゴン言語と普遍的なロゴス言語が見いだされる。

3パウロの方法論:ロゴスとエルゴン

 パウロはこれらの言語網を析出させる基本的な思考様式を自覚的に記述している。パウロは神とキリストそして聖霊の働きに眼差しを注ぎつつ語ったが、口述筆記された文書は「ローマ書」として後世に伝えられた。彼はこの手紙の433節すべてがそのもとに提示される方法論「ロゴスとエルゴンの相補性」をこう述べている。「わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、[神の]霊の力能において成し遂げたものごとではない何ごとかをあえて語ることはない(aor.subj.)」(15:18)。

 パウロの自覚としては彼を介して働いているキリストの言葉と働きを報告している、ただしそれ以外のものごとを「あえて語ることはない」と自らの責任のもとでの発話であるその枠の中における報告であることを認めている。従って、彼は自らの自覚としては(D)キリストによる媒介の言葉と働きを報告しているが、それは人間の肉の弱さへの譲歩として(C)相対的に自律した人間中心的な言語として理解されることを許容している。

 キリストの言葉と働きの理解を進める議論をパウロは「ローマ書」および「第一コリント書」において展開している。一方で、「ああ、神の知恵と認識の富の深さよ。ご自身の裁きはいかに窮めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。すなわち、「誰か主の叡知を知っていたのか」」と神の知恵と認識の追跡しがたさについて語られる(11:33-34)。確かに主の叡知、主の全知は窮めがたいが、他方で、われらは「誰か主の叡知を知っていたのか、誰かご自身に教えるのか、しかし、われらはキリストの叡知を持っている」、即ちキリストが神の意志と認識について叡知の発動により知っていることがらに基づき人生を遂行しており、その彼の知識の言葉と働きを介して神に対し明確なアクセスを得ていると言われる(1Cor.2:16, 2:6-7,1:30、第2条、第59条)。神の啓示行為はキリスト自身が生前に持った叡知の発動に基づき神がイエス・キリストを介して知らしめている限りにおいて知ることができる。

 今・ここに生きる生身のパウロは(C)に属しているが、それは「神に即して」(Rom.8:27)執成している聖霊の媒介により(D)を構成する要素でもある、もし神に嘉みされる場合には。従って彼のローマ書は自覚的には基本的には(D)言語((A+C(ロゴス言語)またはAviaC(聖霊の今・ここの媒介によるエルゴン言語))であるが、肉の弱さへの譲歩としてその一構成要素である(C)言語((a in C)ただし小文字aはCにおいて理解される限りのAを意味する)として析出することを許容している。さらにパウロはもう一つの構成要素である神の前における神による専決の啓示行為(A)が聖霊により「われら」個々人に執成される限りの普遍的な言語(LogosD(A+C))として(D)から析出することができるものとして語っている(ただし聖霊の今・ここの媒介は神の啓示行為であったキリストの過去の出来事がわれらの出来事であるとして執成すものでありErgonD(AviaC)は不分離である。ただしロゴス上必要な変更を加えて(A)を析出することは可能である)。なおこでは単純化のため(e)言語の分析は省略する。

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