内村鑑三晩年の「哲学熱」と真理の楕円説―純福音の析出をめぐってー
第39回内村鑑三研究セミナー 2025.6.14. 立教大学12号館地下1階会議室
内村鑑三晩年の「哲学熱」と真理の楕円説―純福音の析出をめぐってー
千葉惠
要旨
内村は生涯三種類の信仰理解を提示し、「絶筆」(355号)「信仰に手段方法は何もない」において「羅馬書」連続講義時の信仰の義認「条件」説を乗り越えた。3:22は「(神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に)分離がない」と神の自己理解を訳出すべき処を四世紀Vulgata版以来「(信徒の間に)区別がない」と人が持つ心的態勢の次元において誤訳されたために正鵠をえず、福音即十字架の過去完結「原理」の神の前と純信頼「事実」の人の前に分け「ロゴス(理)とエルゴン(はたらき)」(15:18)の分節と総合に失敗した。絶筆では表現「神が人を求む」において、自己完結的な神の前の「神の知恵(理)と認識」(11:33)を理解し、「神が備え給ひし救ひの途」とは「イエス・キリスト」に帰属した「信」(3:22)であり、この「神の恩恵に応ずる人の信仰」は神に嘉され理解される限りのご自身の信義に相応しい人の信仰である。恩恵による救いの途とその途に「唯信ず」「他(ほか)に途がない」「自己を信(まか)す事」は神の前の同一の途の上りと下りである。神が御子の信の従順に罪を赦す十全な力能を見「イエスの信に基づく者を義とする」(3:26)恩恵のもとに信仰とその義認の不分離な二項一組を三人称で理論上表現している。この神の信義と人の信が楕円の二焦点を形成する。第三の信仰理解は「人が神を求める」「我ら」の「肉の弱さ」(6:19)の譲歩のもとでの聖霊による今・ここの執り成しの不分節的な働き(エルゴン)でありパウロ(5:1-9:5)にも見られる。
序 「全聖書を解し得る」鍵
内村は1914年に「聖書之鍵」と題して帰一的な聖書解釈の指針を表明している。[主張1]:「旧約は新約を似て解すべし、新約は羅馬書を似て解すべし、羅馬書は其の第三章二一節より三一節までを似て解すべし、神の黙示に由り羅馬書第三章二一節より三一節を解し得し者は全聖書を解し得るの貴き鍵を神より授けられし者なりと信ず」(『聖書の研究』「聖書之鍵」172号1914.11,『内村鑑三全集』(岩波書店)21巻:p.113。本稿では21-26節を「鍵箇所」と呼ぶ)。
この発言が残り十数年の彼の生涯を方向づけ、内村は翌年「自訳」を「信仰の強弱―羅馬書三章二一節至二八節」(21:203,175号,1915.2)にて、1921年1月からの59講60回の羅馬書講義(以下「「講義」」)にて「意訳」を提供し鍵箇所解明に努めている。最初に内村の聖書研究と信仰の特徴を彼の自然、人間理解のなかに概略的に位置づけ、その統一理論を哲学に求めたことを確認する。続いて何がこの鍵宣言をさせるにいたったかその背景と内実を探るべく聖研172号周辺の三つの文章また「神の忿怒と贖罪」(1916.4)そして数年後の「講義」を取り上げ、鍵箇所の贖罪をめぐる信仰理解の揺らぎを辿る。その上で人の前の信仰は神の前の義認の「条件」であるという理解が絶筆「三種の宗教」(1930.2)において否定されるに至るその過程を辿る。彼の信仰理解の特徴は、神と人の二元論的な哲学的枠組みのなかで、鍵箇所から引き出される神の前と人の前の分節と総合を企てるその終生の取り組みに応じて、その形を取ることを確認することになろう。
1内村の聖書研究の哲学的枠組み概観
J. Howesによれば内村は聖書研究を「天職」と定めてから37年間で「ほとんど聖書全体」の注解(「ネヘミヤ、雅歌、哀歌と五小預言者を除く」)を公にし「現在でも日本語における聖書の一人による注解として最大である」(J. Howes Japan’s Modern Prophet,p283)。内村は、他方、青年時代から「僕は天然と歴史と聖書とが人類に与えられた神の啓示の三脚であることを知って喜ぶ」とあるように、真理を証する「三つの鼎」の統一理論の形成に関心を懐いた(宮部金吾宛1886.10.6, 36:246,cf.1885.12,17:222,聖書見返しthree witnesses to the Truth1885.4.18)。手紙では三脚の秩序づけはキリストによるとされ、彼が天然と人間にロゴス(理)や聖霊の働きとして内在し「他の二つの秘密をも開く鍵」であるという。後にそれはキリスト論的宇宙観となり、「神は宇宙を以てキリストを生み給ふた」のであり、宇宙はこの「最も完全なる人」の故に「神聖」であるとされる(1910.1,17:84)。彼は「余は聖書なくして生存する事が出来ないやうに、天然なくして心霊の平衡を取って行く事ができない」(1922.3.20)と顧みるが、「福音の真理」(Gal.2:5)への健全な信仰に向けて、「神の奥義」「天然の真実」そして「人類の実験」の三つの機能の相互的な補完が生涯追究されている(11:201,1903.4)。
内村はこの鼎の統一理論を哲学的に追求したように思われる。彼はカントを愛した。「宇宙的感化を世に及ぼせし彼は・・言う、「我が上に星天の輝くあり、我が衷(うち)に道義の宿るあり」と、宇宙と道義・・彼の心は全宇宙を懐いた」(190号,1916.5)。これは天上の星々の運行にそして人の心奥の良心の発動に秩序ある理(ロゴス)が働いていることへの信の表明に他ならず、その基本的態度は「信仰は之を個人の狭き経験の上に建てずして、宇宙人類の広い深い土台の上に築くべき」というものである(「信仰の土台」30:333,1927.4)。
「所謂「見神の実験」を有たない」内村は自らの信仰が「凡人の」それであるとしてその均衡性を指摘する、「カントの所謂「天の星と心の道義と」に由ってキリストを知るを得たのである。そして凡人的であるが故に安全である」(「私の基督教」32:106,1929.5,日記1928.12.6)。彼は留学時代ヒュームによる懐疑の洗礼とその哲学的克服とともに回心を経験している。彼は後年「自分の経験においてヒュームの哲学によって自分の信仰を一度破壊され」たが、「基督信者の実験を哲学的に攻究した」カント学者ユリウス・ミューラーの『罪に関する基督教の教義』が「自分の信仰の基礎を築いた」と述べる(日記1928.7.24,cf. How I became a Christian? Ch.9,3:134)。彼が「キリストを知るを得た」と述懐するカントとの出会いはこの著述を介してであると思われる。
内村は懐疑をめぐって、ヒュームにおける信念の度合いは証拠の多寡に比例するという認知的な次元で捉えることから、魂の根底において神を見失うことによる「心霊の苦悶」であると人格的、霊的な次元で捉えるに至る。「懐疑は霊性の惰弱(よわき)より来るものであって、智能の足らざるより来るものではない」(「懐疑」12: 196,1904)。最後の病床時「今度と云ふ今度「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」を徹底的に実験した」との告白に見られるように、彼の生涯は放浪時の作品『求安録』における結語「光ほしさに泣く赤子」の見失った父を求める叫びを臨終に至るまで時に経験したと思われる(日記1930.2.6,2:249)。他方、彼は福島県勿来で山桜の花吹雪を賞美しながら義家の古歌に事寄せて、パストラルな労をとることもあった。「今日の余に此歌はない・・我が花は人である、然り彼の信仰である、而(しか)して懐疑(うたがひ)の風吹くなと我は常に心に祈るのである、然るに事実は如何にと問うに、嗚呼、千人は右に斃れ、万人は左に仆(たおる)る。「吹く風を勿来(なこそ)の関と祈るかな・・」」(34:35 1922.4.6)。
この実人生の緊張のなかで彼は眼前にまた歴史に展開される天然事象、歴史事実を虚心坦懐に受け止め探究した。内村は晩年油壷の臨海試験所を訪れ半世紀前の自らの研究と同じ「ウニとヒトデと舟虫」の研究継続を確認し、「人間は百年を費やしてウニ一つを知り尽くすことができないのである。神と天然には到底敵わない」(日記1927.7.4)と回想する。彼は科学の真理に対し、福音の真理に対すると同様に、ただ幼子の信のもとにジェネラリストとして全人格的に探求を続ける。
『羅馬書の研究』(1924)以降「哲学熱」はとりわけ盛んであり「神を発見する」ことをめざす哲学が「人間の知識」でありつつ「是れまた神の賜物」であるという認識のもとに、鍵箇所の贖罪論理解をめぐって神の前の無償の恩恵と人の前の自由で責任ある信仰がいかにかかわるかを「絶筆」にいたるまで追求した (日記1928. 6.9,1930.2.355号。1927-28年の日記に「哲学」への言及は36日ある。また「病気の一年」の1929年の日記に「家に留まりて哲学的生涯を送る。悪くない・・小児の心になりて宇宙的真理を探る」とある(1929.11.25,同7.17))。
彼の哲学は人間の知識を「神の賜物」即ち究極的には神の前の事柄としながらも、二元論を確保するものであった。[主張2]:「もし私の信ずる基督教に哲学的基礎があるとすればそれは二元論であって一元論ではない。聖書はその発端において言う、「元始に神天地を造り給へり」と。これは確かに二元的宇宙観である。神は霊であって天地は物である・・霊魂と肉体と、精神と物質と、本質を異にする両性の実在することを疑はない」(「私の基督教」1929.5.32:103)。これはシイリーにより教えられた仰瞻(ぎょうせん)の信仰を一旦括弧にいれ人間理性によるその理解の枠組みは、「真理の為に真理を愛する哲学」の名において相対的に独立したものとして遂行されるという主張である(「福音と哲学」1928.7,31:198)。
この二元論は同年の「楕円形の話」において、二つの焦点の働きにより秩序ある楕円軌道を描く真理の楕円説として具体化されている(1929.10.32:207)。楕円説の構想において「宗教は神と人である」というその二焦点が言及されるが、その働きが秩序ある楕円軌道をもたらしうるかの解明は絶筆「三種の宗教」の議論を補うことによりその輪郭が描けると思われる。筆者は鍵箇所のVulgata版以来の誤訳が聖書理解に甚大な影響を与え西欧の宗派や学派の分裂の元凶であると理解するが、内村の信仰理解の揺らぎ、変遷もそこに起因すると解する(K.Chiba,Uchimura Kanzo on Justification by faith in His Study of Romans: A Semantic Analysis of Romans 3:19-31, Living for Jesus and Japan, ed.H.Shibuya & S.Chiba (Eerdmans 2013))。
11世紀にアンセルムスは「理性のみ」にて聖書を一切引用せずに「信仰」や「霊」を語ることなく、神の子にして人の子のみが罪を贖いうることを神学的に論証した(Cur Deus Homo)。そこで彼は父と子の憐みの協働説とでも呼ぶべき贖罪論を展開するが、人間中心的な語りは「神が・・譲歩する(concedit)」ことによるとする点に至るまで、期せずして筆者の「ローマ書」の意味論的分析と完全に合致した。それは彼が「聖書の権威」に頼らず誤訳から解放されていたことによると思われる(II18)。楕円説は哲学的にはパウロの方法論である「ロゴスとエルゴン(理・言葉とその今・ここの働き)」(Rom.15:18)の相補性を萌芽的にではあるが表現できており、内村が「絶筆」において到達したパウロの鍵箇所の信仰理解が適切に楕円化されることを示したい。
以下彼の鍵宣言以降の論述に拙訳「ローマ書」(『信の哲学』下巻附録(北大出版会2018))の視点から問を立てることによって、鍵箇所のVulgata版以来の誤訳により純福音から逸脱した内村の窮境と「絶筆」において正鵠を得て解決に到達していたことを明らかにしたい。
拙訳は以下である。「21しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、22神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。23なぜ[分離がない]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、2526その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである」。この箇所はパウロによるキリストの出来事を介したあらゆる今(現在)に妥当する神の啓示行為における「神の知恵と認識」(11:33)の普遍的な報告である。「差し出した」におけるアオリスト時制は完結した全体的な出来事を表現する話者の視点(perfective aspect)により提示され、「明らかにされてしまっている」における現在完了時制はその一回的全体的な出来事に基づき現在にまで継続している持続的な視点(imperfective aspect)により提示されている。「信じる者に救いをもたらす神の力能」である福音は、信じることは今・ここで神に愛されていることを信じることである限り、現在のことがらである(Rom.1:16)。
2贖罪論の難問
[問1]、何故鍵箇所[主張1]は全聖書を解く鍵なのか?鍵宣言の背後にあった認識は何か?
彼はこの指針により神の前と人の前の関係を根源的に開示する箇所であると理解していた。鍵箇所は内村によればキリストの贖いの無償の恩恵の出来事を介した神への人の信仰によるアクセス(途)を述べており、内村はそこに暗黙の前提としてルターと共に信仰の正しさを証する聖霊の執成しを読み込んでいる。これら三者の関わりが根源的に開示される限り「全聖書を解く鍵」となるという主張は理解できる。パウロによる「すべての被造物」が「滅びへの隷属」からの解放を求め「生みの苦しみ」に呻いているとの認識に、内村は「講義」中の日記に言う、「宇宙と霊魂と聖霊とが呻きつつ、基督者の信仰を証明するといふのである、之よりも大なる問題のありやう筈もない」(Rom.8:18-22, 26:186,日記1922.2.19)。最大の問題を解決するものがあれば、それは「鍵」と呼ばれるにふさわしい 。
「贖罪と復活」(1914.11,「鍵」と同172号)において、内村はキリストの十字架と復活により既に「神の側」即ち神の行為と認識においては人類すべての義認は確立されたと主張している。[主張3a]:「神の側に在りては人類の罪は既に全く除かれ、人類は既に栄光を被(き)せられたのである、今は唯人類が神の恩恵の配興に応ずるや否や、その問題が残っているまでである、而して此の問題の解決たるや至って容易である」。同様の主張は翌年の「基督教とは何か」に見られる。[主張3b]:「キリスト教はそう[未来の道徳的完成]ではなくて過去に完成されたものを貰うことである。・・それ[シュライエルマッヘルの主張]は最もよく私の言はんとする考え即ちキリスト教は既に済んだ事であるという事を表わしている」(1915.7,21:512)。
神の前の事柄として福音は既に歴史のなかに明確に打ち立てられ一切が解決されたという。「講義」では「「神の前に」である、「人の前に」ではない、人の前には如何やうに見えてもパウロの問題とする処ではない」(26:157)と自覚的に二つの視点が判別される。これを[主張3]:「神の前での福音の過去完結性」と呼ぶ。
このキリストにおける過去完結性の伝統的な主張は少なくとも鍵箇所前半21-4節の一解釈により導かれるものであろう。鍵箇所の「自訳」はこうである。「今律法を離れて神の義は顕れて律法と預言者はその証明(あかし)をなせり、即ち凡て信ずる者に及ぶイエスキリストを信ずるに由る神の義是なり、之に区別あるなし、そは人は皆な罪を犯したれば神の榮に与るに足らず、唯イエスキリストの贖いに由りて、神の恩恵に因(よ)り、功績(いさほし)なくして義とせらるれば也」(「意訳」では「賜物として其の恩恵に由り、キリストイエスの贖いに依りて」(3:23))。この翻訳による21-4節が恩恵の賜物、無償性としての内村の純福音を含意するのであろう。[主張4a(3の帰結)]:「純福音は純恩恵である、律法の痕跡だも混(まじへ)ざる神の恩恵の宣言である」(「純福音」176号1915.3,21:227)。そこでは必然的に受け取る側にはいかなる「功績」も要求されないはずである。
他方、「講義」では[主張4b]:「他の何者をも雑(まじ)へない処の全く純なる信頼―これが徹底した信仰である、功を要しない功を条件としないただの無邪気なる信頼である」(167)とあり、[主張3] 過去完結性の帰結として導かれる対応する人の側の信仰の特徴として「純なる信頼」が挙げられる。功績ではない表現として「純信頼」が求められており、彼はそれにより律法の業との対比を強調する。このように[主張4]:「純福音と純信頼」が導かれるが、これはあくまでも人間の「徹底した」或いは「無邪気な」心的態勢を前提にした上での信仰が問われる地平である。
「贖罪と復活」では人の前の応答は「容易」であるとし[主張4]:「純福音と純信頼」は易行道と同定される。①「何人であれ」、②「信仰を以て」、③「神の此配興に応じて」、④「今、即時に、神がイエスを以て人類に下し給いしすべての福祉を己が有となすことができる」。即ち⑤「人類は今は既に救はるべき状態に於いて在る」。これら五つの要素が枚挙される。
「我が平和と歓喜」(21.111、鍵と同172号)においては、同じ文脈において人の心的態勢の記述は④「できる」⑤「べき状態」とは異なり⑥「我に人のすべて思ふところに過ぐる平和と歓喜とは有るなり」と現在形において救いの心的態勢の存在が表明されている。かくして、一方で「われ」は⑥今・ここの喜びにおいて有るが、他方でわれは福音を④「今、即時に」喜ぶことが「できる」として位置づけられることになり[主張4]は変動ある心的態勢の次元で議論されている。
「講義」では[主張3]「過去完結性」と[主張4]「純福音純信頼」の関係は「原理」と「事実」により判別される。[主張3c]:「併し何故に「人類全体」とは云はずして只「イエスを信ずる者」(3:26)と限ったのか、もちろん原理としては万人が十字架に於いて義とせられた、しかし原理は個々の場合に適用せられて初めて其値を生ずる、即ちキリストを信ずる個々の人が事実上義とせらるるのである」(26:191)。この「原理」と「事実」の判別による応答は人間的に見れば⑥「救はれている状態」と⑤「救はれるべき状態」に対応しよう。しかし神の前で救われているなら、人間は神の判断に逆らうことはできないであろうから、原理上は事実上を含意するに相違なく、人の前は肉の弱さを抱えた認知的、人格的に不十全な人間への譲歩された視点、領域にすぎない、少なくともそう反論されるであろう(cf.Rom.8:39,9:19)。
パウロにおいてイエス同様、「信仰」は変動ある人の前のつまり人間が判断する限りでの心的態勢として「成長」や「進歩」、「弱い」「強い」が帰属されるものとして念頭に置かれる場合があるが、内村もその地平で或いは「講義」まではその地平のみで信仰を捉えている、或いはそれ以外の表現を持たなかった(Phil.1:25, 2Cor.10:15,Rom.14:1,15:1)。神の端的な無償の恩恵としての福音は過去の出来事に追いやられ、人の側の信仰はその都度の今において持つ心的態勢として理解されており、二項一組を形成すべく過去完結性とそれに対応する人の信仰の間のギャップが常に問題になり、セットで見る限り「純福音」とは呼べない。
3「神の前」と「人の前」の分節と総合
[問2]このような過去完結性のもとでは神の前と人の前の記述はいかなる分節と総合をもたらすか?啓示の言語網の「過去完結性」ならぬ「神の前の自己完結性」と自由な人間中心の言語網の「人の前の相対的自律性」の確保とその関連こそ追求されねばならないのではないか?神の前を逃れられる人は誰かいるのか、ちょうどパウロが「君が君自身の側[責任ある自由のもと]で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)とキリストの出来事を自らのそれであるとせよと命じるように?誰もいないが、誰かいるとしたら人間の責任ある自由を認めるために、パウロが「私は君たちの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(6:19)と自らの身体の限界が自己の限界であると考えがちな「肉の弱さ」を顧慮して、そのもとで「罪の奴隷」でも「義の奴隷」でもありうる相対的に自律した中立的な可能存在者を譲歩として認めることによってでしかないであろう。
二元論のもと「神の前」を分節する形式的な組み合わせは三つあり、その一つ([神の前X:信仰条件説])は内村の「講義」における立場である。神の前の構成要素が[主張3]過去完結性だけであるとき、[主張4]変動する信仰の人間的認識のもとでの心的態勢としての信仰は神の前の外にあり、信じることはその受領の「条件」となる。そこではどれほどの信仰を持てば⑥⑦喜びのうちに生命が宿るのかが問われる。「受くべき唯一の資格なる信仰を抱かざる時に於いては、与へんとして待ち給う天父も遂に与うるに道がない」(26:96)。信仰は「汲器(くき)」の比喩で語られ、信仰が「神の義を受くる唯一の条件」とされる。「絶対の恩恵、何等人の功に依らず、来る者の汲(く)むに任する所の生命の泉なる「神の義」である、但し信仰てふ汲器を持ち来らざる者は此泉より生命の水を汲取るを得ない」(183)。「ピスティス(信・信仰)」をめぐる神の前と人の前の判別の不明瞭さ故に信仰が義認の「条件」とされる。
もう一つの組み合わせの可能性([神の前Y:信義不分離説])は、筆者はパウロのものと解するが、「信じる者」を「神の前」に組み入れるものである。「神の義はイエス・キリストの信を介して信じる[と神が看做す]すべての者に明らかにされている。というのも分離はないからである」(3:22拙訳)。神の認識や意志が知らされる啓示の言語網においては、ナザレの「イエスの信」(3:26)の従順の貫徹が神に嘉みされ、神はイエスを自らの義の啓示の媒介者「イエス・キリスト」として立てている。「イエス・キリストの信[帰属の属格]」は人の子にして同時に神の子でもある媒介者に帰属した信であるが、神はその信と自らの義の間に「分離はない」と看做している。、神はイエスの信の従順が信徒の罪を赦す十全な力能を見て、分離なき信義はその啓示の差し向け相手であるその「信じる者すべて」に及び「イエスの信に基づく者を義とする」(3:26)。
何故信徒が無償の恩恵の内側に組み込まれているかと言えば、神の前に生きていない者は誰もなく、また肉の弱さへの譲歩の必要のない啓示の差し向け相手においては、誰もが父と御子の信義の分離なさの故に、父は「子よ」と呼びかけ子は「はい父よ」と応答するその人格的信頼関係が見いだされるからである。そこでは人間の認知的不十全性のもとでの信仰の冒険性は問題にならない。子は信義分離なき神の義が自らにも及び義と看做されていることを知っている。神は御子の信の従順を嘉みし人類の罪を贖うに十全な力能があると看做しているからである。
この啓示行為のパウロによる報告の工夫は聖霊の媒介の働きへの言及なしに神の専決行為として啓示の差し向け相手に対し三人称(「信じるすべての者」)で一般的な表現を与え、誰が神の前で義人であるかをめぐって個々人は特定されないことにある。神の福音の啓示行為は二千年前のナザレのイエスの信の働き(エルゴン)の生涯に基づいているため、信徒の義認はその後のあらゆる現在・今において遂行される恩恵として三人称により普遍的に表現される。これは義人とはどのような人か、神の義はいかに知らされているか等を普遍的に明らかにする。これを「ロゴス言語」と呼ぶ。尚過去完結性は「万人救済」を含意するが、それは終わりの日における一つの可能性ではあるが鍵箇所における福音の啓示においては知らされてはいない。
他方、神の前の出来事は譲歩された人間中心的な言語網(Rom.5:1-9:5)に登場する一人称「われら」、二人称「君」の個々人にも聖霊の執り成しにより適用される故に、そこでは話者の今・ここでの働きの現場が問題とされている。パウロが「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている[現在完了]」(5:5)と語るとき、もし発話の時点で聖霊の働きを介した神の愛が注がれていなかったら、偽となるそのような言語である。これを「エルゴン言語」と呼ぶ。パウロは双方の言語をそれぞれ「知恵の説得的議論」と「霊と力能の論証」呼ぶ(1Cor.2:4)。
第三の可能性([神の前Z:聖霊媒介説])はパウロと内村により共有されていると理解する。これは内村が実質的には成功した人の[主張4]神に嘉みされる信仰を「純恩恵」に対応する「純信頼」と語るときに意図している立場である。肉の弱さを前提にしたうえで聖霊の呻きを伴う執り成しにより[主張3]「過去完結性」と成功した[主張4]:⑥「心に喜び充ち生命湧」く「喜びの心的態勢」が今・ここで媒介されている神の前と人の前が接続された「信仰上及び心理上の事実」である(「講義」175)。内村は「罪が赦されて義とせられし事、是は第一には聖霊みづから直接に我等の霊に囁き教へ給ふことである」と言う(26:500)。
これは今・ここのエルゴン言語と言えるが、それは「神の愛が心に注がれるなら、それは聖霊を介してである」(ロゴス言語)と条件文で普遍命題として一般的に提示されうる。これは神の側から見れば嘉みされた純な信頼をも含め神の前の事柄であるとロゴス上語りうるものである。なお人の側から見れば強弱ある人の信仰の態勢のなかで実質的には成功した視点つまり神に嘉みされ今・ここにおける聖霊の執り成しのもとにある純な信頼がその都度エルゴン上表現されている。そのような記述の視点に即して神の前と人の前双方を構成するものである。
鍵宣言から「講義」にいたる内村は第一[X]の神の前の外にある人の「条件」としての信仰と第三[Z]:「純信頼」⑥「喜びの心的態勢」の間を揺れていたと結論できる。ただ思考の方向としては[主張5]:神の前と人の前を分けず聖霊の媒介の働きを込みにして或いは期待しての理解を展開していることに見られる。
「神の義」により内村はルター主義的な今・ここの受動的義を基本的に理解する。「人の義[律法による義]の立ちがたきを明示したる後の語である故、神より人に賜ふ義であると見るが正しい」(26:167)。内村は1:17のパウロの主題提示について「神の義は信仰に依って受け、信仰に依って保ち、信仰に依って完成するものなる事を意味した」と、義認の恩恵の注ぎを前提に受動的義を基軸に聖化から栄化に至る心的態勢の成長を理解する(95)(尚内村は一可能性としてAmbrosiaster説(ex fide Dei promittentis in fidem hominis credentis)に基づいたと思われる「神が人を信ずる事より人が神を信ずる事にまで」を挙げている(94)。拙訳「神の義は彼ご自身[イエス・キリスト]において[神の]信に基づき[嘉みされる人の]信に啓示されている」)。
内村は神の前と人の前を分節せずに鍵箇所を読む。ルターは「信仰こそキリストを把握するが、・・キリストはその信仰そのもののうちに現存する」(WA.40.I228)と言い、カルヴァンも「[神の前の]義認と[人の前の]聖化を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」(Comm.Rom.ch.8:9)と言い、今・ここの信仰の働きにおいて常に聖霊の働きを受け取る。信仰は生命を受領する一つの行為である。この受動的義の理解は神の前と人の前を媒介者のゆえに分節しないことが正しいという主張である。
しかし自訳では媒介は「イエスキリストを信ずるに由る神の義」とあり、人が持つ信仰が媒介者とされている。内村はその媒介における聖霊の注ぎの現場性の証として晩年「信仰告白の必要」で「信仰は生命である」と言い、既に『求安録』においてルターに倣い「信仰も亦神の賜物なり(エペソ2:8)、余は信じて救わるるのみならず、亦信ぜせしめられて救わるる者也」と言う(32:296,2:249)。これはプロテスタントの要諦ともいえるものである。ただし、パウロにおける神の前の組み合わせ[Y:信義不分離説]と[Z:聖霊媒介説]のロゴスとエルゴンの異なりから共存できる組み合わせの語り方を捉えていなかったと言える。
「ローマ書」433節をそのもとに展開するパウロの方法論は「キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって為し遂げたこと」(15:18)だけを報告することにある(cf.11:32-3, 1Cor.2:16, 2:6-7)。確かに今・ここの働き上内村らは常に聖霊の媒介のあることを前提にすることにより神の前と人の前を分節しないよう腐心するが、霊が注がれていない状況としては例えば神の怒りにおける悪行への「引き渡し」が想定される(1:18-32)。パウロは神の啓示行為の報告とりわけ義認、神の怒りの知らしめと予定の議論においては聖霊への言及が一切なく父なる神の専決行為として報告され、また三人称を用い一般的に匿名で表現される神の前の構成員をも含め、ロゴス上肉の弱さのもとに譲歩される人の前とは分節される仕方で報告されている(1:17,1:18-32,3:21-26, 9:6-11:32)。これは真理を捉える普遍的な方法であり、イエスが「知恵はその働き(エルゴン)によって正しいとされる」と語るとき、アリストテレスと同様にロゴスとエルゴンの相補性を念頭においている (Mat.11:19 , cf.Luk.24:19,Nic.Eth.X1.1172b3-8)。
4代刑代贖こそ鍵箇所の中心という主張の諸問題
[問3]:何故内村は3:25-26節を「キリスト教の中心点」「最重要の句」として鍵箇所の鍵と主張するのか(日記1928.12.2,26:186)?鍵箇所が信義不分離の啓示の報告であるとき、「今や業の律法とは分離され」たはずの律法に基づく義例えば代罰の神の義は排除されたのではないか?
内村は「神の忿怒と贖罪」(1916.4,22:237)において25-6節が「代刑代贖(贖罪)」「代刑代罰」理論の基礎にあると解する。神の怒りに内村は侮るべからざる神の真実を見る。「神は愛である、而して愛なるが故に彼は罪に対して熱烈の忿怒を発し給ふ」(237)。神の怒りは罪の値である死を逃れる悔い改めを促す。その証拠にイエスのパリサイ人への呻きの言葉「ウー(ああ禍ひなるかな)」で始まる偽りへの七つの叱責を挙げる(Mat.22:13)。「余輩は人類の罪に対する神の忿怒を離れてキリストの十字架を考ふることは出来ない・・神は其独子の上に人類のすべての罪を置き給ふた・・キリストは茲に人類を代表して人類の受くべき罪の適当なる結果(刑罰)を己が身に受け給ふた。・・十字架は聖子の受くべき審判としては悉く不正であり、然れども神に反逆き来たりし人類の審判(刑罰)としては悉く正しくあった」(239-40)。
内村はイザヤ53章を引き[主張6a]:「キリストの十字架を人類の罪の代刑代罰として見る」。新約では鍵箇所25-6節「神はその血に由りてイエスを立て信ずる者の挽回(なだめ)の祭物(そなへもの)とし給へり」(「邦訳聖書」(26:186),cf.大正六年「改正訳」32:367)を挙げ、十字架を罪と罪人とに対する「神の態度を更(かへ)るために必要であった」と罰から赦しへの態度変更の出来事と解する。「ここに代贖と赦免と救ひとが最も明らかである」(22:241)。内村はこの二節に「神は愛である又義である」という「楕円形」なる「基督教的真理」の「心霊的宇宙」が描かれているとする。「憐憫と誠実と共に会ひ、公義と平和と互に接吻せり」(Ps.85:10)が引証され、それが「十字架上の死に由て解決され」たとする。[主張6b]:「義罰を経ざる赦免は信頼するに足らない、愛を施すに途がある、又之に与かるに途がある」とし「キリストが我らの罪の代りに十字架上に於いて罰せられたという事を」信ずると結論づける。
五年後の「講義」においては「代罰」という言葉は避けられているが、「意訳」により25-6節の解釈が補強されている。自訳では「神は予めイエスを立てて其血によりて信ずる者の宥和(なだめ)の供物となし給へり、是神の忍耐を以てする巳往(すぎこしかた)の罪の赦免に関し今の時に彼の義を彰さんため也、即ちイエスを信ずる者を義とし給う方で、ご自身も尚義たらんため也」とあるが、こう意訳されている。「神はイエスを立てて宥めの供物となし給へり(是れ信仰に由りて受けられるべきもの、其血を以て提供せられしものなり)・・是れ一には神が忍耐の中に既往の罪を見逃し給ひし事につきて其義を彰はさんため、二には、今の時に其義を彰はさんためなり。是れ神自から義たり、而して同時に亦イエスを信ずる者を義とせんがためなり」(26:186)。意訳では罪を見逃してきた律法に基づく義を恢復するべく「見逃し給ひし事につきて其義を彰はさんため」と祝福と呪いのもとにあるモーセの業に基づく義をもはや見逃さないという仕方で読む。しかしテクストは「~つきて」ではなく「見逃し故に(dia)」と福音啓示の「好機」の理由づけの一文である。さらに自訳では25節の連言「そして(kai))」が「尚」と二つの主張の結合に訳されていたが、「同時に亦」と業の律法に基づく神の義と信に基づく義認の同時性が強調され、キリストの十字架の一つの出来事のうちに二種類の義を読む。審判によるモーセ律法の神の義と信仰義認をもたらす神の愛が十字架の代罰において共存しえたという彼の主張が鍵箇所の意訳により提示されるに至る。
内村は「十字架の福音」が「福音」であるとし「キリストの十字架・・神の愛、その義、その怒り、その赦免、すべてが其[福音]の中に含まれている」と非分節的に言うとき、律法の混在を十字架に見ており純福音の析出に失敗していると言わねばならない。第17講「神の義(一)」で「全く律法を離れて信仰だけの人となったのが真の基督者である」(26:167)とあれほど律法からの解放を伝えているにかかわらず、当の神が律法の枠の中で或いはそれと共に福音を啓示していたことになる。
鍵概念は七十人訳で用いられるhilastērion である。この語は文字通りには神がモーセと会見すべく造作を命じた幕屋に置かれ、その上に犠牲の子羊の血がふりかけられる契約の箱の「蓋」を意味する。この語は「宥めの供物・犠牲(Suhne Opfel)」や「贖罪の犠牲(sacrifice of atonement)」また「恩恵の座(Gnadensthul)」(Luther)や「現臨の座(a locus of divine presence)」(C.Talbert)、「会見の場(meeting place)」(N.T.Wright)等と訳されてきた。キリストの十字架の血を罰を含む犠牲の一種として理解するか、そこにおいて神が人にまみえる福音の実現の蓋ないし座と看做すかが分かれる。
内村は「宥めの供物」を「宥め」という訳語に引きずられ、親子関係の比喩により、悪事を為した子に怒るとき、「親より子を宥めることはできない」とする。その比喩のもとで「到底神より人を宥めると云ふ事のありうる筈はない。・・人より神を宥めるのであるに相違ない」(188)と理解する。この箇所の「差し出した」の啓示の行為主体が神であることが揺るがない以上、「宥めの供物」として「差し出した」のが人間イエスであるという理解は端的に主語の取り違えとして文の有意味性を破壊する違反である。しかし、内村は人間の罪の処罰と義認双方をこの語に担わさせることにより、実質的には人より神への「宥めの供物」と共に神から人への「恩恵の座」双方を意味すると多義的に理解している。これはパウロが曖昧だったという主張を含意する。
[問4]:内村によるhilastērion の多義性の要請はパウロのこれまでの双方の判別による純福音の析出の議論をだいなしにするものではないのか?私見によれば「今や[業]の律法を離れて」、「神の義」と「イエス・キリストの信」つまり彼に帰属した「信」の間に「分離がない」そのような仕方で神の信義が神の前で「信じるすべての者」に啓示されている。(「というのも分離はないからである」(3:22)はVulgata ‘non enim est distinctio’以来人の信仰の間に「区別(差異)がない」と一様に訳されてきた)。この神の信義の分離のなさが23-26節の長い一文において「ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において」また「ご自身の義の知らしめに向けてその信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」により説明されている。実際この鍵箇所において「信」と「義」が十度も用いられている事実が示すように、神と人双方の信に基づく義が主題である。これまで司法的次元における執行を「忍耐」において「見逃していた」が、ナザレのイエスが信の従順を貫いた今という「好機」においてこの信に基づく義が業の律法とは「分離」されて、しかし「イエス・キリストの信」とは「分離がない」そのようなより根源的な神の義が啓示されている。ヒエロニムス以来の誤訳が内村をして律法からの福音の析出に失敗せしめたものと思われる。
これを指摘したうえで、内村に譲歩して、イエスから神への供物を恩恵として受け止めるには、一旦子より父への宥めとして捧げそれに父は満足しそれと同時に、父が人類の罪を処罰せざるをえず、子において罰することにより父と子双方が人類にその宥めによる和解を提供したと読み込まねばならない。[主張6]:「神は・・罰すると赦すと、罪に定ると義とすると、二つの事をキリストの十字架を以て同時に行った、即ち「神自から義たり、同時に亦イエスを信ずる者を義とせんが為なり」」(191)。これが鍵箇所中心の解釈である。
しかしテクスト(25-6)は帰結の不定法「ご自身が義であることへと至る」と共に現在分詞「イエスの信に基づく者を義とすることによって」が連言「そして(「意訳」は「同時に」)」により結びあわされている(「イエスの信に基づく者」という訳は同じ構文である「アブラハムの信に基づく者」(4:16)により裏付けられ、アブラハム「への」信仰は想定できない)。従って、この箇所では二つの主張がなされているわけではなく、「イエスの信に基づく者を義とすることによってもまた(即ち律法に基づく神の義とは別に)神自らが義であることへと至る」と訳さねばならないはずである。同時に罰と赦しの二つのことが遂行されているわけではない。神が信に基づき義であることの論証に向けて、神は人類に対しイエスの信の従順に基づき義とすることをこの「好機」に知らしめている。
内村の信仰の特徴は十字架上で神の怒りを一身に帯びたイエスを仰ぎ見る、そこに感恩の情が湧くそのような信仰である。しかし、この解釈にはただちに困難が伴う。その不条理さは、ひとつにはもしそれが茶番であれば、即ち子なるイエスに父なる神が甦らすことを予め知らせつつ罰したふりをしているならば、そのような神は偽りであろう。また、神はイエスが罪なきことを知っているはずであり、内村も「聖子の受くべき審判としては悉く不正であり」と認識しつつ、罪人の身代わりとしてイエスに真剣に怒りをぶつけ人類の一切の罪を担わせ最大の罪人として罰し、呪ったとするなら、そのような神はイエスその人に対し不義を為したことになる。神は「業の律法」「モーセ律法」に即しても「信の律法」「キリストの律法」に即しても義であり聖であるはずである(Rom.3:27,3:20,10:4,1Cor.9:9, Gal.6:2)。
[問5]:「贖い」とは「今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が君を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)、「キリストはわれらを律法の呪いから贖いだした」(Gal.3:13)その解放ではないのか?解放する神が自らの義とは「分離される」業の律法のもとに留まっていることはできず、より上位の「分離なき」義を示しうる限りにおいてその解放が可能なのではないか?
アンセルムスは「理性のみ」にて即ち誤訳された聖書を一切引用せず、父と子の協働による贖いを論証し代罰説を否定していた。彼は父と子の協働の愛による罪の贖い(買戻し(redemptio)、解放(liberatio))を展開して言う、「父なる神が「わが独子を受け、汝の代わりに捧げよ」と言い、また子自身が「われを受け取り、汝を贖え」と言われた場合以上に深い憐みを考えることができるか」(CDH.II20)。この語りに罪を担う身代わりの死の理解を父子は共有しつつ、子は父の意志に「真っすぐ(rectitudo)」の従順を貫き人類の罪を担い父はそれを罪を贖う十全な力あるものとして嘉みした、その憐みの連携が見られる。命じられているのは犠牲の捧げではなく憐みの受容である(cf.Hosea 6:6)。十字架において神は「キリストのうちにいた」のであり、その現臨の座において信の従順を貫くよう励ましていた(2Cor.5:19)。
「神の忿怒と贖罪」の代罰説は藤井武「単純なる福音」(188号1916.3)への反論であるが、藤井は正しく「実に「神の義は律法の外に顕れ」たのである、而してこの純福音のみが我等の頼むべき隠れ家である千歳の磐である」と結論づけていたことになる。二人の論争は純福音が奈辺にあるかをめぐっていた。内村のように人間の側から見れば「業の律法」と「信の律法」(3:27)を啓示した一人の神は怒りもしまた義認もしようが、鍵箇所は神の信義の分離なさに基づく業の律法からの贖い即ち解放の啓示行為についてのパウロによる報告だったのである。
パウロは「神には偏り見ることはない」(Rom.2:11)と一人の神に秩序ある二種類の正義を見る。一方、神は業の律法のもとに生きる者には業の律法を適用し、そこでは「すべての律法を為す義務がある」こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」(Gal.5:3,Rom.2:13,2:6)。だが「業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」と結論される(3:20)。他方、信の律法のもとに生きようとする者、「神の善性」に留まろうとする者には神は「イエスの信に基づいている者」かにより審判を遂行する(11:22,3:26)。
5絶筆における神の前のロゴスの析出
内村の困惑は実際、3:25-6節について「詳細は他日に譲り茲には大意を述ぶるに止めたい」と言い、「鍵」の一部3:27-31に至っては一行を与えるのみであり、夏休み明けの次講義では「ペテロ前書」を講義する事実に確認される(186,193)。彼は聖書の鍵の問を「講義」後も抱え続けることになる。ただ、1924年に単行本が刊行されたとき満足を表明している。「神の恩恵みに由り『羅馬書の研究』は近来の大成功であった」(日記1924.11.24,cf.1929.8.28)。この充足感は25-6節の講義について「自分は最善を尽くした、今日は今期最後の集会であれば仆れるも可なりとの覚悟を以て講壇に登った、而して聖霊我に加はり近頃になき気持ちの好き講演を為した」とあるように、聖霊に浸る恩恵を「講義」中何度も経験したことに基づく感謝と「聖き誇り」に由来するのであろう(1921.6.12、1929.5.27)。「聖書を正しく理解するところ、そこに聖霊が宿る」(ルター)であろうが、たとえ理論的に問題があったとして、福音が福音である限り人類はあやまちのうちにこそ憐みを受けてきたのであると思われる、真理に対し幼子である限り。
この満足表明にも拘わらず、実際には彼はその後も注解書を買い求め同じ問題を反芻し、時に予定の教義に再会し改めて無償の救いを見出し、時に信仰条件説を確認し、時に読者から「哲学熱」への「反対」を受け、「哲学を恐れ」ないよう励まし「神と人」の二元論の具体化を模索している(日記1928.5.17,5.23,7.24)。「わが旧き信仰に立ち返りて歓喜極まりなしである。エレクションである、予定である、わが信仰の真髄は是である。神に予め救いに定められずしてわが救はるる理由は一もない。・・自分に救わるるの何の資格なくして、神の至上意志によって救わるるのである」。予定の教説は「神の側」では即ち永遠の現在において時空を自由に行き来する神においては私が明日何をするかまですべてが知られてれており、個人の選択の自由が棄損されることなく恩恵の無償性、贈り物性の主張を根拠づけるものとなる(1928.5.3、「予定の教義」1904.5,12:175ff)。他方、鍵箇所のフォーブスの注解を紹介し、「神はキリストに在りて人類の罪をすべて赦し給うた。人は今は唯信ずれば救わる、但し信ぜざれば救われないと言うのである」(1928.12.2)と条件説を再提示している。
内村が恩恵の無償性と恩恵を得る為の信仰の条件性の間の矛盾緊張を理解しなかったはずがなく、その神の前と人の前の緊張の解決を哲学に求めたのだと思われる。彼は言う、「オイケンやベルグソンの方が、神学者よりも遥に有益であ」(日誌1926.9.293)。この発言は従来の聖書学や神学では解けない問を彼は少なくとも抱えていたことを示している。
「絶筆」である「三種の宗教」において、内村はこの[X]「信ぜざれば救われない」を乗り越え、実質的には御子を介した「神の恩恵」とそれに「応ずる人の信仰」の神の前におけるあらゆる現在に妥当する不可分離な[Y:不分離説]を捉えていると思われる(1930.2.355号,32:303)。
[主張7]:「基督教は最高道徳でない、贖罪教である。キリストに在りて神が人類の罪を滅ぼし給へる其事実を示せる宗教である。・・「汝ら我を仰瞻せよ。しからば救はれん」と教ふる宗教である。・・人が自から神を求むる時に彼は芸術的に又は倫理的に彼に近づかんとする。然れども神が人を求め給ふ時に人は信仰を以って神に到るより他に途がない。信仰は神が備え給ひし救いの途に自己を信(まか)す事である。信仰に手段方法は何もない、唯信ずである。・・神の恩恵に応ずる人の信仰、それが眞の基督教である」。
何であれ神が求め自ら備えているものは自己完結的である。自己完結的な神の前の現在における「神が人を求む」という神の前の視点と「人が自ら神を求むる」という人の前の視点が判別されており、もはや原理と事実や過去完結性とそれを受領しまた受領しない人の心的態勢は問題とならない。「神が人を求め給ふ」時、神がご自身の義の啓示において「神が備え給ひし救ひの途」とはイエス・キリスト即ち真の神の子にして真の人の子に帰属した「信」であり、この「神の恩恵に応ずる人の信仰」は神により理解されている限りのご自身の信義に相応しい人の信仰である。神の前の途の構成要素として恩恵により備えられた救いの途と「他に途がない」その途に「自己を信(まか)す事」はその上りと下りである同じ不可分離の途であり、恩恵と信仰の不可分離な二項一組を表現している。これは神が理解する限りの[Y]の一般的な言明(ロゴス)に他ならない。神に求められる人の信仰は[Y]「恩恵に応ずる人の信仰」のことであり、神にそのように備えられ嘉みされている「信じる者すべて」(Rom.3:22)が神の前の事柄として捉えられている。ここで信仰は何か他の目的成就の「手段方法」としての「条件」ではなく、必然の途として恩恵による救いと不分離な仕方で提示されている。なお聖研終刊号においても彼は「神の賜物は・・神の子キリストと之を信受する信仰」と言う(357号1930.4)。
「絶筆」においては、「唯信ず」により信仰は唯一つしかありえない神に備えられた応答の途であり二元論を構成する不分離な二項一組として自己充足的、自己目的的なものである。その限り、[Y:不分離説]はあらゆる今(現在)にも妥当する「神の知恵と認識」(11:32)の一般的な言明として、 強弱ある個々人がその都度持つ信仰とは分節することが許容されている。恩恵に応じる限りにおける人の唯一の途が論点であり、その信徒をも込みにして神の前[Y]の構成要素とされている。
このような状況であるとき、「「汝ら我を仰瞻せよ。しからば救はれん」と教ふる宗教」という一般的な教説の提示における命令文と「しからば」の結合は、後続文の「他に途がない」その「神が備え給ひし救いの[唯一の]途」が恩恵に応答する信仰であることを考慮する時、より厳密な必要十分条件として提示することを許容している。「汝ら我を仰瞻している場合にかつその場合に限って汝ら救はれている、また、汝ら救はれている場合にかつその場合に限って我を仰瞻している」。他方、[X:条件説]なら、「信じなければ救われない」が仮に人の前で真であるとして、「信じるならば救われる」は論理的に帰結しない。どのような信仰を持つかが問われるだろうからである。(「人間でなければ日本人ではない」が、「人間であるなら日本人である」わけではない)。
かくして「我を仰げ」の命令は必要十分な関係にある信義不分離の神の前の一般的な言明として理解しなければならない。理論的に純化された内村の仰瞻の信仰は神の前の二項一組の父と子の相互の信頼による交わりである。人生の終わりに仰瞻の対象が通常の三人称「イエス」(29:343)や「彼」ではなく「我」に変換され神の前の事柄としているところに、内村の勘が研ぎ澄まされていることを確認できる。
内村は「神と人」の二元論のもとそれを適切に分節、総合する方法を模索しており、死去半年前の真理の楕円説の構想に至ったと思われる(「楕円形の話」351号, 32:207)。晩年の「哲学熱」に対し読者から「福音は聖霊のバプテスマを受くるによりてこれを信ずるのであるからこの世の知識なる哲学の援助など借りる必要はない」との哲学への「反対」が寄せられた。読者は内村の教えに忠実であり、常に[Z:聖霊媒介説]のもとに聖書を読み、実人生を構築してきたと思われ、内村その人により梯子を外された感覚を懐いたことであろう。
彼の応答はヒュームにより「一度破壊され」た信仰を「建て直すために非常に必要であった」経験に訴えるものであり、無償性と条件性の緊張の克服を哲学的分析に託したと思われる。彼は真理の楕円説において「キリストは神であって亦人である」(32:208)と語るとき、「初めに理(ロゴス)があった、理は神に向き合っていた。理は神であった。・・その彼は人と成った」を念頭においたことであろう(John.1:1-6,cf.Rom.11:36)。万物はこの理であるキリストにより形成された。それが神の側としては「イエス・キリスト」を介した分離なき信義の一回的啓示行為に結実し、人の側ではナザレのイエスの信の従順の貫徹に結実した。
この恩恵を表現しうるものが楕円説であり、鍵箇所を楕円化すればこうなる。その「分離なき神の信義」は神に嘉みされたナザレの「イエスの信」の従順の貫徹の働きとともに二焦点を形成する。神の前の「神と人」のその分離なき二焦点は「イエスの信に基づく者」の義認を秩序ある楕円軌道において遂行している(3:21-6)。ケプラーの三法則に対応するそのロゴスとして「神の信義は神の愛故にモーセ律法の業に基づく義より根源的である」が発見されよう。楕円化を人の前に拡張すれば、真理を真理の為に愛する哲学の営みと福音の真理への愛も二焦点としてこのように楕円的に喜ばしい一つの真理探究の生を形成する、愛は喜びを伴いそして喜びは人を幼子にするからである。
結論
内村は「三種の宗教」を結論づける、「今度私が死んだとして、私は私の絶筆として此端文を遺して恥としない。私が生存(いきのこ)るならば此信仰を繰り返すまでである」(32:304)。この発言に彼の新しい手応えを見て取れる。近似の信仰理解は既に「信仰の秘訣」にも見られ、鍵箇所だけが福音の真理また信の根源性を伝えるわけではないことを示している(1909.10,16:486)。とはいえ彼が鍵箇所を自らの告別式で読むよう指示したとき、神の前の信義不分離の福音の真理は一切を秩序づけていることに思い至っていたことであろう。「宇宙万物人生悉く可なり」が最後の言葉であった(357号,1930.4)。