春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十三
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十三
(録音においては、預言者的な生の八福をおえましたので、これまでのまとめを最初に語りました。途中からお聞きの方はこれまでの要約としてお聞きください。今回からモーセ律法の純化、先鋭化の話です。イエスは一挙手一投足において純化された律法を満たしつつある、その生の前提、イエスご自身の律法理解を語っています。
三・三 山上の説教の倫理学
三・三・一 天と地の透明性のシミュレーション
山上の説教は「天国」や「地獄」への言及など宗教的言明の纏まりに相違ないのであるが、イエスは倫理的主題について論じ研ぎ澄まされた良心にとって咎めとなり宥めとなって心に残る信じる者にもそうでない者にも人間一般に妥当する一つの倫理学説として読むことを可能にする議論を展開していると思われる。それはひとの心が光に照らされ一切明らかになるところでの人間の偽りなき生の一つの想定(シミレーション)が展開されていると捉えることができるからである。父と子の人格的な自己完結性を括弧にいれるとしても、そこから導出される普遍的な言明は完全な理解を可能にするものであり、一切を知り正確な審判を遂行する何らかの知性体を前にしてひとはどう振る舞うのが合理的なのかは一つの倫理的問である。
その明らかさは神の憐みと律法である。一方は自然事象を媒介にし、他方はモーセへの十戒の啓示を媒介にして明らかにされている。ここではまず律法について、イエスがいかなる見解を持つか、そしてこれに関しても彼自身はいかに受け止めているかを明らかにし、それが倫理的地平を形成すること、そしてそれが倫理から福音に移行することにより、律法が満たされることを確認したい。
三・三・二 律法遵守への尊敬と福音のリアルタイムの実践
イエスは律法への尊敬のもと自らの基本的な立場を表明する。「わたしが律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと、君たちはそう看做すことがないように。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。アーメン、君たちに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最も小さい者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるその者は天の国において大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは君たちに言う、もし君たちの義が律法学者たちとパリサイ人たちよりもいっそう優るのでなければ、君たちは天の国に入れていただくことはないであろう」(5:17-20)。
「聖書」は「旧い契約」と「新しい契約」に基づき編集されている。それは神の意志が「モーセの律法」「業(わざ)の律法」から「キリストの律法」「信の律法」への知らしめにおいて展開されたことに対応する(Rom.3:27,1Cor.9:9.21)。その展開のなかで、イエスは旧約から新約の途上において、神の意志の表れである「モーセ律法」、「業の律法」への衷心からの尊敬を表明し、終末に至るまで「律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはない」と主張する。ただし、イエスもパウロも数百の律法を愛の律法に収斂させており、愛が満たされるとき、一切の律法が満たされると解している。神への愛と隣人への愛「これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちは基づいている」(Mat.5:18,22:40)。「愛は隣人に悪を行わない。かくして愛は[業の]律法の充足である」(Rom.13:10)。イエスは預言者的生に与えられる八福に続き、旧約聖書出エジプト記において報告されている神の意志であるモーセ律法(業の律法)を純粋化、先鋭化し、新しい教えを言葉の力のみによって伝える。
ユダヤ人は自らが選ばれた民として律法を誇り、異邦人や罪人とは異なるという差別的な態度を取っていた。イエスは当時のユダヤ人の伝統的な道徳観そして死後天国か地獄に行くという世界像を自らも引き受け、議論の前提を彼らと共有することに基づく対人論法(argumentum ad hominem)により、自己義認の自己満足のうちにいるパリサイ主義者の道徳的不徹底さを、さらにはこの世もあの世もという二心に潜む偽りをモーセ律法の急進化、内面化そして純化により指摘する。その論法はまず定型句で「君たちは聞いている、昔の人々によりこう語られたのを」と切り出して、その言い伝えを引用する。伝統的な教えを提示したのち、「しかし、わたしは君たちに言う」と切り返し、それらの問題点を摘出する。ここでも一人称「わたし」が語られ、律法の純化の背後にイエス自身が満たしつつありまた最後まで満たすであろう神のみ旨・み心が開示される。「あなたのみ旨が天におけるごとく地においても成りますように」(6:10)。ここではそれは具体的に殺人、姦淫、離婚、誓い、同害報復、敵への憎しみをめぐって展開され、道徳的次元が内側から突破される。つまり彼らの立場は首尾一貫せず保持できないことが内的に論駁される、そしてそのうえで律法成就の道を知らしめる。
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十二
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十二
(録音では理論(ロゴス)と実践(エルゴン)の相補性について、水や空気、光のような恩恵の枠のなかで生きるように無矛盾な福音の枠の中で生きることの自然さと恩恵について語っています)。2024年3月6日
天の国
イエスは様々な場面で悲しむひとであり、柔和であり、義に飢えそして渇いており、憐み深く、その心によって清いひとであり、平和を造るひとであり、それ故に義の故に迫害された。これら八つの態勢にある人々が祝福されるのは、ひとえに、天国に招かれるからである。かくして、天国の住人はそれぞれ掛け替えのない個性を持ちながらも、すべてイエスに似た人々であるに相違ない。イエスのような人々が住む天国になら、他の何をおいてでも行きたいと思うことであろう。「天国は、畑に隠されている宝に似ている、或るひとがその宝を見つけると、隠したそして喜んで自分の家に戻り、そして彼が持っているあらゆる持ち物を売りそしてかの畑を買う」(Mat.13:44)。ひとはここに逃避的な宗教の嫌な臭いを嗅ぐでもあろうが、この人生を正面から引き受ける限りにおいて、最も透明な清い場所との関連でこの世界を秩序づけることは非難されることではないであろう。
天国についての思弁、妄想は旧約聖書においてはほとんど見られない。これは著しいことである。ユダヤ教の一派であるサドカイ派は復活を否定していた(Mat22:23)[i]。この不可視な世界にアクセスが可能であるとすれば、神の身許から栄光を捨ててひととなったイエスにより理解するしか確かなことは言えないであろう。それ故に、天国のことがらは信仰の問題となる。即ち、心魂の根源において自らがイエスのような人間であるかを問い、彼我の乖離において天国の清さ、完全さを知るに至る、それ以外のアクセスはないと思われる。そしてそれが最も正しい、神の国、天国に対する態度となる。旧約人はキリスト・メシヤを預言においてしか与えられてはおらず、彼らは知らされていない事柄について思弁を弄することはなかった。これは潔い態度であり、それができたのも、生けるまことの神のその都度の畏れ敬うべき顕現に心が圧倒されていたからであろう。
イエスはその伝統のなかで天の父への直截で親密な祈りを教える。「天にいますわれらの父よ、あなたの御名が聖とされますように、あなたの御国が来ますように、あなたのみ旨が成りますように、天におけるように地の上でも。われらの日用の糧を今日もわれらにお与えください、そしてわれらの負債をわれらに赦してください、われらもわれらの負債者たちを赦してしまっておりますように。われらを試みにあわせず、われらを悪からお救いください」(6:9-13)。
「平和を造る者たち」
旧約人とは異なり、彼の軛に繋がれて共に歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与えるものとなる。柔和な者はそのまま喜びと平和を造る者となる。イエスは平和を造る君であった。「祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである」。イエスは「わたしは既に世に勝っている」また「わが御国はこの世界に基づいていない」とも言った(John. 16:33,18:36)。パウロも語る、「われらの国籍は天にあり」(Phil.3:20)。平和を造る者は「神の子」と呼ばれるであろう。宝を天に持つ者はこの世界で争わず、譲ることができる。平和を造る者は信仰の存否にかかわらず、柔和であることをめぐっては誰もが同意するであろう。というのも、競争心や闘争心、支配欲の強い者は平和を造る者とはなれないからである。彼らは正義の名においてひとと争うことを辞さないからである。「主は羊飼い、わたしには何も乏しいものはない。主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(Ps.23:1-4)。
神はこの約束を守るべく、御子を地上に派遣した。平和の君イエスは驢馬(ロバ)の子に乗ってやってくる平和の君であった(Mat.21:1-11)。ゼカリアは預言する。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。預言されたまたそれを遂行するイエスの低さ故に人類は平和への希望を持つことができる。
自己完結的な一つの体に繋がる一部位
イエスと共にある平安は次第に隣人に伝わっていく。そしてキリストにある一つの体を形成していく。キリストと共にいる限り、ひとは彼を介して一つの有機的な体を構成すると考えられている。イエスは言う、「わたしは葡萄の木、君たちはその枝である」(John.15:5)。パウロは言う、「君たちはキリストの体でありまた諸部分に基づく肢体である」(1Cor12:27)その特徴はパウロによれば機能はそれぞれ異なるが同じ思いを持つということ、即ち、キリストとの関連において一切を考察するようになるということである。「われらの主イエス・キリストによってわたしは君たちに勧める、それは君たちが皆同じことを語りそして君たちのあいだに分裂がなく、君たちが同じ叡知においてまた同じ認識において秩序づけられてあるためである」(1Cor.1:10)。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、君たちわが喜びを満たせ。それは君たちが同じ愛を持つことによって、一つのことを思慮することによって、君たちが同じことを思慮する[に至る]ためである」(Phil.2:1)。それは一つの体に与かっているからである。「われらが裂くパンはキリストの体の与りではないのか。パンは一つであるがゆえに、われら大勢であるが一人である、というのもわれらは皆一つのパンに与るからである」(1Cor.10:17)。
福音の自己完結性のもとキリストへの帰一的なかかわりを持つ限り、ひとはそれぞれの個性を持ちながら同じ思いを共有し、それぞれの特徴をその一つの体の働きのために発揮する。葡萄の木であるイエスに繋がれている限り「多くの実」を結ぶとされるが、それは何よりも農夫である父なる神が喜ぶものである。それは天国における果実であり、必ずしもこの世の成功ではなく、自らの自然的な与件の能力の数十倍の実りをもたらすこともあろう。ひとは自己完結的に既に成就された完全性においてあるキリストにつらなるとき、それは彼の体の各部位として繋がる(1Cor.12:12-27)。まずわれらに求められているのは信仰により神との正しい関係にはいることである。そのとき、ひとは一つの体の一部位であり、自らの役割を知るに至る。
三人称から二人称への変換にせり出す自己言及
第八福まで三人称による祝福者の規定であったが、最後に山上の聴衆に「君たち」と二人称で呼びかけ、イエスは自らについてくるように励ます。「君たちは祝福されている、ひとびとがわがために君たちを非難しそして君たちについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における君たちの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で君たちに先立つ預言者たちを迫害したからである」。イエスに従う者たちに彼は「わがために」迫害される者となることの覚悟を求めている。八福の一般的な三人称から二人称への変換による聴衆への祝福の語りかけにおいて、この人称の変換は臨場感、現場感を伴い緊張をもたらす。
八福はイエスが自ら生き抜く心的態勢であり、彼はそれを実践しているなかで、聴衆にも新しい福音の担い手となるよう励ます。実際終末預言においてイエスはこう語る。「そのとき彼らは君たちを困窮に追いやりそして殺すであろう。そして君たちはわが名の故にあらゆる民に憎まれるであろう」(Mat.24:9)。実際三世紀後半までキリスト教徒への迫害は歴史に刻まれた。歴史の終わりまでイエスの名の故に地の塩、世の光としての役割を担う者となるようイエスの話を聞いてしまった「君たち」は励まされている。それほど神のみ旨は目覚めた者においてのみ遂行されうるものである。「祝福」の諸相において確認してきたように、イエスは旧約聖書が自らの生の預言でありまた保障であると信じている。三人称で語られた八福も実は間接的には語るイエス自身の(1)自己言及であった。それ故にこれも彼は神に祝福された者であったという信によってしか突破できないそのような祝福である。
[i] 千葉惠「聖書の死生観―旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ―」『死生学年報2022』(東洋英和女学院大学死生学研究所編 2022)。
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十一
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十一
(録音では信仰と憐みの関係を解説しています)。2024年3月3日
「憐れむ者たち」
イエスはその心によって清く、憐み深かった。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」(Mat.9:36,cf.14:14,20:34,Mak.1:41、6:34)。イエスは羊飼いのいない羊のように彷徨って他に寄る辺なく彼についてくる群衆に「腸(はらわた)(スプランクノン)」即ち心の底から身体的反応を伴い苦痛を感じた。そして彼は群衆を救いだすべく神の国について「多くを教えた」と報告されている。「祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである」。心清い者のみが憐れむ者となる。
福音書のイエスの言葉に、小さな者への憐み、愛が福音のもとに生きている証となるとされる。イエスはどのようなひとが憐み深いひとかを、競争や怒りや憎しみなどの争いに明け暮れている者たちとのコントラストにおいてこう語る。「[イエス]「わが父に祝福された者たち、天地創造のときから君たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。君たちはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したことは、わたしに為してくれたことである」。・・[イエス]「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。君たちはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらはあなたが飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」」(Mat.25:34-45)。
これら二種類の生の規準は何であろうか。人間の本来性の理解のもとにひとをそして隣人をリスペクトし、ひととして困窮している状況に出会ったとき、その状況は天の父の子としてのわれらに相応しくないという明確な認識である。「憐み(eleos)」は一般的にその当人に相応しくない困窮を蒙ったひとに向けられる感情である。アリストテレスは「憐み」を定義して言う。「憐みとは、破壊的な或いは痛ましい悪がそれに相応しくないひとに(tū anaxiū)降りかかっているように見えることに伴う一種の苦痛である、その悪しきことはそれが近づいているように見えるとき、自分や周囲の誰かが蒙ることを自ら予期するところのものである」(Rhet.II8,1385b13-15)。この人間同士の間で生じる憐みが生起する文脈は自然界のことがらであれ人間同士のことがらであれ悪しきことがそれを蒙るに相応しくないひとに降りかかっている場合に生起する感情である。その憐みの感情実質はある種の痛みを伴うとされる。
イエスが何故彼についてくる群衆を「深く憐れだ」かと言えば、人間は、本来、愛に満たされている天の父の子であり、それに値しない、相応しくない(anaxios)悲惨な現状を目にしたからであり、その憐みは痛みを伴いつつ同情、共苦、共感として抱いたのであった[i](Mat.9:36,cf.Mak.1:41,Mat.14:14)。イエスが山上の説教を生命をかけて生き抜いたのは「天の父の子」である同胞になんとか神の国の消息を伝えたかったからである。
イエスの「この小さな一人にしたことはわたしにしたことだ」という発言において明らかなことは、イエスは困窮した人々に自らを重ね合わせていたことである、少なくとも共にいるということである。ひとは一度でもこのような視点をもったことがあるかが問われる。誰か知らない人々が悲惨な状況にある人々に何か食べ物を送ったときに、「ありがとう、わたしに食べ物をくれてありがとう」と言ったり、受け止めたりしたことはあったであろうかが問われる。キリストの受け止め方が自らのものにならないということは、自らのパトス(身体的受動、感受性)が今後変わっていくかもしれないという手がかりを得たと言うこともできよう。少なくとも「叡知の刷新により変身させられよ」における変身とは態勢そしてパトスにおいてもキリストに似た者になることに他ならない(Rom.12:2)。パウロは「わたしが生きているのではない、キリストがわがうちにあって生きている」とまで言う(Gal.2:19)。ひとの心的態勢はどこまでも途上であり、イエスに似た者になるにつれて、神のみ旨を実現していくことになる。そうすると、イエスの(1)自己言及は間接的にその都度われら個々人を介することになる。栄光と悲惨、光と闇、成功と失敗、知と無知、善と悪、コントラストによりひとは憐みを知るに至り、隣人が自らと等しさにおいてあることを知る。イエスにおいてはこの憐みが癒しなどの不思議な業を実現させた、ただし相手に信がないときにはその憐みを遂行できなかったとされている(Mat.8:58,Mak.6:5)。憐みは自ら愛されたことの信を前提にしておりまた信頼関係のないところでは肯定的な力が遂行されるないからである。魔術師シモンが自らの力の誇示の為にペテロから奇跡をおこなう力を金で買おうとしたが、そのような心にはイエスの心は宿らない(Act.8:9-24)。山上の説教はイエスの清さにふさわしい。他の誰が語っても偽りになってしまうであろう。真の人間においては山上の説教を生きることが人間にふさわしい、神のみ旨がそこにあらわされているからである。
[i] Kittel,Theological Dictionary of New Testament VolII.p.477 eleos (Stuttgart 1964).
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十
録音には本稿を読んだ読者の方(『信の哲学』上巻を四度、「身代わりの愛の力能」(「方舟」61号)を七度読まれた医師の方)から適切な感想を頂きそれを紹介しました。なおヴェーダー『山上の説教』(峰重訳 日本キリスト教団出版局、2007)における山上の説教と倫理の断絶を紹介しました。ヴェーダーの説を文章でも紹介しておきます。「神支配はあらゆる報復の終焉を
もたらすものであり、そしてそれゆえに、すでに今、応報を終わらせることが適切である。この異質性は、一切結果に方向づけられていない倫理がここに現れていることと関係している。その倫理は、抑圧者がどの程度そこから利益をうるかという点は気にかけていない。一方でそれは、良い結果を伴わずに行為を動機づける。その意味でこの倫理は、効果がないゆえに不正であるという抗議に先んじている。行為はこの世におけるその目的に基づいてではなく、神支配におけるその起源に基づいて考察される。これは倫理的なもののあらゆる終局化の終焉である。・・・イエスは神の要求をまったくのところ、神観念から「今」へと突入してくる神支配から描くのである。・・このことはこの世的にも肝に銘じておくべきことのように私には思える。あまりに多くの悪事が、立派な木j的のためにすでに実行されている。この目的に方向づけられた倫理は、なおこの世の尺度へと組みいれられ得る。立派な目的にではなく、ただ善そのものに方向づけられた倫理は異物であり、異物のままなのである。問は、現代の世界において、そもそもそのような異質な倫理にどんな意味があるかということだろう」(嶺重訳 p.164-65)。山上の説教は倫理的なものの終焉ののちに位置づけられるとする異質性の主張は、本稿における「信じる者にも信じない者」にも理解できる倫理地平をイエスは明らかにしているという立場とまったく異なる主張である。本稿では「福音」の独自性は確保されるが、それとの関連で他の三つの種類のイエスの語りが展開されていることまた実践的な効力を持つことを論じました。2024年3月1日
穢れ
清さとの対比されるもの、その対義語は「穢れ」である。眼がくらむとはまさに貪欲によりわれらの生が引きずり回されることに他ならない。イエスは「汚れた霊(akatharton pneuma)」の譬えを語る(Mat.12:43)。譬えの分類からすれば、これは宗教的な観念についての事例による説明であり「例話(Beispielerzählung)」と呼ばれるであろう。悪霊の存在を認めない者も悪い人間が一層悪くなることを認めることができるなら、一つの説明として理解できよう。例話によれば霊はウィルス同様宿主を必要とする。「穢れた霊は、そのひとから出ていくと、砂漠をうろつき休む場所を探すが、見つからない。そのとき言う、「そこから出てきたわが家に戻ろう」。戻ってみるとそれは空き家になっておりまた掃除が為されており整頓されているのを見出す。そこで出かけてゆき、自分よりも悪い他の七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込み、住みつく。かのひとの最後は最初よりも一層悪くなる。この悪い時代によってもまたこのようになるであろう」(Mat.12:43-45)。
「空き家」とは心の隙間、空虚のことである。これは人生の空虚感として誰もが何らか経験していよう。空虚な油断した心に霊は自分よりも悪質な七つの悪霊を引き入れると、そのひとの内面は一層悪くなる。ひとは何か自分とは異なるものにより引き回され、自らをコントロールできないそのような感覚を持つことがある。現代人は自らうみだしたテクノロジーをもはやコントロールできず、手をこまねいてその人工的産物の特異点までまたその自然的影響による破局を待っているように見える。この七つの悪霊の話はそのような状況を思い出せば理解できる。自らと人類の心の内奥の動きを観察することが求められる。パトスと呼ばれる、自分でコントロールできずに湧いてくる感情や欲求なども、単に生理的なものというわけではなく、その背後に自らの心魂を破壊しようとする否定的、破壊的な勢力を見出すこともあろう。
パウロは心に葛藤を引き起こすように勧める。「わたしは律法は霊的なものであると知っているが、他方、わたしは肉的なものであり、罪のもとに売り渡されている。というのも、わたしが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわたしは認識していないからである。というのも、わが欲するところのもの[霊的な律法に従うこと]を為さず、憎むところのもの[死]をわたしは作りだすからである。しかし、もしわたしが欲せざるところのものを作りだすなら、律法にそれ[律法]が善きものであると同意している。しかし、今やもはや、わたしがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、わたしは知るからである。というのも、善美を欲することはわたしに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわたしは作らずに、欲せざるところの悪をわたしは為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわたしが為すなら、もはやわたしがそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す」(Rom.7:14-20)。この発見は聖霊の発見との対比において認識されることがらであろう。空虚な者は「その霊によって貧しい者」となるかがその分水嶺となる。
心の清さと空き家、即ち心の空虚さは別である。その心によって清いものは心魂の根底から純なる一なるものに思いを寄せており、二心から自由である。心から信仰のもとにあるとき、心は満たされているため空虚になることはない。幼子の信仰がそこにはある。
しかし、清さ、混じりけのなさを人生において追求することへの反論が提示されよう。「清濁併せ呑む」ことこそ大人の条件である。免疫系に見られるように異質なもの、複雑なものが自己を構成していたほうが強いのではないか。「良心の発動なぞくそくらえだ、善も悪も嘗め尽くせ」。ニーチェはこの良心の発動は「何故?」への問いのブロックとして機能すると言う。「良心からあの「ねばならない」という感情が引き起こされたのだが・・・しかしこの感情は「なぜ私は為さねばならぬか?」とは問わない。従って、あることが「~故に」とか「何故~」という問いをもってなされる場合にはすべて、人間は良心なしに行為するということになる」[i]。
確かにわれらは屁理屈をこね、良心の発動を紛らわせようとする。どこまでも良心は麻痺しうるものであり、強者は思うがままに振る舞う。良心を持ち出す人間は弱者であり、強者への怨念があるからこそ、平等を語り、社会的弱者の救済を語るのではないのか。「強者の利益こそ正義である」(プラトン)とは古来語られてきた陳腐なことであると言える。
しかし、身体においても痛みに気づかず麻痺してしまったなら、どこまで身体が破壊されているかわからないように、良心が麻痺してしまったなら、どこまで心が悪くなってしまうかわからない。われらの心が清くないから、そういう者たちが祝福されていると思われるのである。「聖性の霊」(Rom.1:4)に即して神の光に照らされるとき、或いはそうでなくとも内省により自らの過去に思いを致すとき、穢れに気付き、良心が疼く。清いイエスをより知ることにより清さへの憧れを持つに至る。この説教は霊に訴えることなくまた「善人と悪人」の判別以前、道徳以前のことがらとして光や心や肉体の痛みのような自然的事象に神の憐れみを見る。自然事象が神の支配のもとにあること、この点については、イエスはきわめて自覚的である。
信の根源性―穢れからの悔い改め―
或る時、イエスは群衆が押し寄せてきたため、ペテロに船をだすよう依頼し、船の上から説教した。そのあとペテロに漁にでるように勧めた。「二艘の舟を魚で一杯にしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモンペテロはイエスの足許にひれ伏して、「主よ私から離れてください。私は罪人です」」(Luk.5:8)。大漁であることと自らの罪、穢れの告白といかなる関係にあるのか。ここで実はペテロに漁に出るよう勧めたとき、ペテロは疑ったのであった。昼間だったからである。ガリラヤ湖では夜が漁に適しておりそして昨夜も不漁であった。この伏線のもとでの大漁であった。自ら疑ったペテロの告白は聖なる清らかな方を前にして咄嗟にでた言葉である。「主よ私から離れてください。私は罪人です」。聖なるものに触れたとき、われらは畏れに捕らわれる。同様に、子の癒しを懇願する父は言った。「おできになるなら、憐れんで助けてください」。そうするとイエスは言われた。「「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる」。その子の父はすぐに叫んだ。「信じます。信なきわれを憐み給え」(Mak.9:23-24)。
イザヤは畏れ慄きつつ神を賛美する。「聖なる、聖なる、聖なるかな万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う。・・万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。汝が畏るべき方は主、御前に慄(おのの)くべき方は主」(Isa.6:3,8:13)。ひとは疑い、多くの惑わしに捕らわれているとき、清い者ではない。ひとは信じることができない自らに不十全性、分裂そして罪を見出す。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)。イエスを介して神の意志を知り、イエスを介して一切を知る神にまみえる。神の存在を認めない者も、一切が自己完結的な明徴さにおいてある場合に、ただし一切を見通せない肉の弱さにおいてある人間には事柄そのものが次第に明らかになるという想定、シミュレーションのもとで、倫理学を構築することはありうることである。この想定も、いずれ人間も認知的に十全な者となるという一種の信により支えられている。
[i] ニーチェ『人間的あまりに人間的 Ⅱ』「漂泊者とその影」五二、中島義生訳、三一五頁(ちくま学芸文庫 一九九四)。ただし、パウロは良心の内容が「幼少時代のわれわれに、・・かつて尊敬したり恐れたりした人々が理由なく規則的に要求したものの一切」という見解には同意しないであろう。彼は「共同―証人」に神を挙げることもあり、自らの刷り込みによるものではないとする。
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その九
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その九
(録音では感情の文法そして良心の解説がなされています)2024年2月29日
「悲しんでいる者たち」
イエスは友ラザロの死にあってまたオリブ山からエルサレムの陥落の日を思い「涙を流した」(John.11:35,Luk.19:41)。「祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである」。感情の文法によれば、愛しいものを喪失するその文脈において悲しみを感じる。この喪失感を味わうことのない者は愛を知らない者である。「愛から遠ざかれば、すべてから遠ざかる」(パスカル)のであり、生きることそのものから遠ざかってしまうであろう。
「柔和な者たち」
イエスは柔和であった。「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。君たちを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を担ぎあげ、そしてわたし[の足取り]から、わたしが柔和でありその心によって低いものであることを学びなさい。そうすれば君たちは君たちの魂に安息を見出すであろう。というのもわたしの軛は善きものでありそしてわたしの荷は軽いからである」(Mat.11:28)。彼は彷徨(さまよ)うひとびとを招く、彼の善き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信・信仰のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙遜が伝わる。「祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである」。地を受け継ぐとは先祖の土地を継承することであるが、ここでは天の国を受け継ぐことを意味していよう。「測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業(しぎょう)を受けました」(Ps.16:6)。
イエスの軛に繋がれ歩調に合わせて歩むとき、天に招きいれられることであろう。その彼はこの地上で栄光を捨てひととなったその低さ、そしてそれに基づく弱小さへの憐みと柔和を生き抜いた。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿を取りご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。キリストと共に担う軛と荷とは自らが神の子であるとの信仰により柔和と謙遜のうちに歩むことである。キリストの低さと共にあることによりこの世とその比較の世界から解放された者に伝わる生の喜びと軽やかさが自由にされた生に力を与える。イエスにより誇りが取り除かれ「柔和の霊」を受け取った者は謙遜を学び自らより弱小者への憐みを抱き、義に飢え渇く者となり、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者となる(Gal.6:1,Mat.5:9)。
「義に飢え渇く者たち」
イエスは義に飢え渇く者であり、義のために迫害される者であった。「祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。・・祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである」。彼は「君たちの義がパリサイ人のそれに優らなければ天の国に入ることはできない」と律法の義・正義の厳粛さを揺るがせにせずに、その正義は愛敵に至って初めて満たされると主張した(5:20)。愛敵において「神が完全であるように、君たちは完全な者となるであろう」と語られている(5:48)。義に飢え渇く者とは正義、公正、等しさの分配の不在に苦しむ者たち、例えば、戦争や犯罪等による理不尽な死等の経験者とその加害者たちがそうである。預言者は為政者の不義な圧制のもとにありながらも、神の言葉を預かり審判と解放の希望を語るが、それ故に洗礼者ヨハネに至るまで迫害された。このような正義の実現を求めることとは別に、それとは異なる義を求める者たちがいる。彼らは敵を愛することのできない自己を見出し、その良心の咎めを感じるその霊によって貧しい者、義に飢え渇く者であり、祝福される。預言者的な義人と共に、二心や私心なく心清く、真理を求め正邪を明らかにする信念をまげない者たちの祝福が語られている。
「その心によって清らかな者たち」
第六福の「その心によって」清らかな者たちも、「その霊によって」貧しい者と同様の与格構文であり、統一的な行為主体を表現している。心の清さは心に二心、三つ心がないことであり、心が一つに秩序づけられている。「祝福されている、その心によって清らかな者たち、彼らは神を見るであろう」。イエスの復活は心の清さの結果であり、永遠の生命を得たのは彼が天の父の子の信仰に生きたその清さによるものである。復活は、再び死ぬ蘇生とは異なり、人類の歴史においては彼にのみ生起したため、再現性はなく信仰によってしか突破できないことがらである。
イエスは言う。「誰も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。君たちは、神と富とに仕えることはできない」(6:24)。「その心によって清い者」とはその心の目が光のように明るく澄んでおり、ものごとがよく見え最終的に「神を見る」者とされている。「灯をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置く者はいない。ひとが入ってくるとき光が見えるように、燭台のうえに置く。君の身体の灯は目である。目が澄んでいれば、君の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い。それだから、君のうちにある光が暗くないか吟味せよ。かくして、もし君の全身が明るく、何か暗い部分をもたないなら、灯が明るさによって君を輝かすときのように、全体を輝かすものとなるであろう」(Luk.11:33-36)。山の上にある街は隠れることがなく、周囲から仰がれる。そのように「世の光」はこの世界をよく見えるようにすることにより天と地を繋ぎ支え、導く(5:14,cf.Phil.2:12-15)。
心の清い者、清くされた者は神を見る。ヨブは悲惨のただなかで仰ぎ見る、「私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27)。清い者はその心の分裂から解放されている。「君たちのおのおのがその心から兄弟を赦さないなら、天の父も君たちに同様に赦さないであろう」(Mat.18:35)。天の父の嘉みを得るか否かは、心から隣人を赦し愛しているかにかかっている。その者は分裂がなくその心によって清くされている。
良心
かくして、清さは身体全体に行きわたる「良心」と密接な関係にある態勢である。「良心」は「共知(sun-eidēsis, con-science)」である。良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。これが共知であるからには、ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことがらが自らや隣人にも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。最終的には良心とは神に明らかなことがらが自らにも明らかになるその心の認知的座であり、神と共に知ることが良心の究極の働きとなる。「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが君たちの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11)。
山上の説教を語ることをイエスに動機づけるものは人々の「良心」の可能性への彼の信である。彼は次第に形骸化して伝承されるユダヤ教の伝統の改革者として、神の言葉に生命を取り戻し、端的に神の意志、み旨を語り掛ける。「天にいますわが父のみ旨を行う者が天の国に入れていただくことになる」(7:22)。「み旨・み心(thelēma)」とは神の人間に対する意志、人間認識であり、神が価値あると看做すものが人間にとっても価値あるものである。「君の宝があるところ、そこに君の心もある」(6:21)と語られるように、たとえひとは自ら追い求める美や善きものの価値を主張したとしても、その宝が次第に神のみ旨と合致するようにイエスは教える。彼は祈りを教える、「あなたのみ旨が成りますように、天におけるように地の上でも」(6:10)。
天の父は御子をわれらに無償で捧げている。それ故にキリストが共にいることを心から焦がれるかが問われている。心がキリストのように清くなることを宝とするかが問われている。そしてそこではものごとが良く見え、最後のところ天の父に守られ導かれていることをも知ることができ、感謝し栄光を神に帰する。この一貫性こそ神に嘉みされる。清い者は神を見るであろう。
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その八
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その八
(本日の録音では塚本虎二先生50周年記念号を昨日拝受し、無教会の流れを振り返っています)。 2024年2月28日
三・二 八福
イエスは山上の説教において彼が「天の父」と呼ぶ神に祝福される八つの心の在り方、心的態勢を天国における慰め、満ち足り、喜びとの関係において語った(5:1-12)。イエスは詩篇等旧約に展開される「祝福、幸い」を念頭に八度「アシュレーイー(祝福されている)」と山上で叫んだ。「祝福されている(アシュレーイー)、悪しき者の謀略(はかりごと)に歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に座らぬ者、・・祝福されている(アシュレーイー)、すべて彼[主]に依り恃む者たち」(Ps.1:1-2:12)。マタイは八福を「マカリオイ」とギリシャ語で彼のシャウトを伝えている。
「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。君たちは祝福されている、ひとびとがわがために君たちを非難しそして君たちについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における君たちの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で君たちに先立つ預言者たちを迫害したからである」(5:1-12)。
八福が三人称で一般的に語られるが、しかしそれはイエス自身を間接的に指示していたことを確認することができる。三人称は神に祝福されている者と聴衆とのあいだの心の在り様の差異を知らせるものであった。聴衆はそのままでは祝福の対象ではなかったのである、ただし、最後に二人称で祝福が語り掛けられる、迫害のなかでも自らについてくるようにとの励ましととともに。「君たちは祝福されている、ひとびとがわがために君たちを非難しそして君たちについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき」。イエスは自らの迫害のただなかにあって、或いは今後の厳しさの予見のなかで、その視点から八福を選びだしている。そのことをこの二人称の呼びかけは示している。
この世の何ものによっても満たされないその霊によって貧しい者(ptōkoi tōi pneumati :行為主体agentの与格)、かくして神の正義を渇き求めそして義のために迫害されながらも平和を造らずにはいられない柔和な者その心によって清らかな者そして憐み深い者たちこそ、神が嘉みし祝福する相手なのである、心にかける愛しいものを失い悲しむ者とともに。ここでは罪赦された者の祝福は挙げられてはいない。「祝福されている(アシュレーイー)、不法を赦され、罪を覆われし者たち。祝福されている(アシュレーイー)、主にその咎を数えられざる者たち、その心に偽りなき者たち」(Ps.32:1-2)。イエス自身がことさらこの祝福を挙げなかった理由としては、彼自身が罪なき者であったことが背後にあるであろう。彼自身は当然この祝福に思いを馳せつつも、彼は八つの項目を自ら律法への尊敬とその遵守のもとに、その心の態勢において神に向かう者そして隣人に対して憐みの態勢においてある者、そして神の正義を求め飢え渇き、迫害に耐え平和を造る柔和な者たちに眼差しを向けて枚挙したと思われる。八福はイエス自身のそれまでのそして発話時点からしてその後の生を暗示している。或る時イエスが高い山に登った。彼はそのとき光輝に満たされ変貌を経験したが、父なる神は「わが愛する子、その彼をわたしは嘉みした」(Mat.17:5)と祝福した。その八福を語った人は実はリアルタイムにその八つの祝福を生きる人であった。イエスは八福のもとに生きそしてそれの故に死んだ。山上の聴衆に自らに従う生が祝福であるとして励ましている。
「その霊によって貧しい者たち」
イエスはゴルゴタの丘で断末魔の苦しみのなかで一時父なる神を見失った。「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになりましたか」(Mat.27:46,Ps.22;1)。彼はそのとき自らの霊によって貧しくなっていたその状況のなかで、「わが神、わが神」と呼び求めて父なる神に縋り付いていた。それがこの祝福の差し向け相手であることを明らかにしている。「祝福されている、その霊によって貧しい者たち、天の国は彼らのものだからである」。十字架上でイエスには感知されなかったが、「神はキリストのうちにいました」こと「神は彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」ことがパウロにより報告されている(2Cor.5:19,Rom.3:26)。彼の生は自らの責任ある自由のもとにあるものであったが、同時に天の父との協同作業であったと言うことができよう。
第一福において祝福の差し向け相手が明らかにされており、イエスの言葉はこの世界に何ら頼るもののない最も低い人々に向けて語られている。それがたとえソロモン王であれ無一物であれ、その魂の根底に寄り縋る貧しい心だけを見出すとき、祝福されている、幸いだと呼びかけられる。それは天の国に入れて頂けるからだという。
ここでは「霊」は個々人が聖霊を受領する力能ある部位として心魂の最も根底に備わる「内なる人間」と呼ばれる行為主体のことであり、「心(kardia)」は聖霊が注がれる心魂の最も深い座をも含む思考や感情など心的働きの座・主体であることを押さえておく(2Cor.16, Rom.7:24)。「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)。
かくして「君の宝のあるところ、そこに君の心もある」のであるから、われらの愛するものに応じて、心の向き・関心が定まる(Mat.6:21)。パトスや行為は態勢の徴に他ならない。その内なる人間に即して自らの貧しさを自覚するとき、ひとは自らの宝を天に認識するに至り仰ぎ見る。
この状態は例えば魂の肉の一つの支配部位である「貪欲によって」経済的に貧しい者になった者とは対比される。ルカの「祝福されている、貧しい者たち」はその意味で「神に寄り縋る」が補われる必要がある、一般的に経済的に貧しい者は頼るものが富者より少ないため、天を仰ぐ機会が多いとは相対的に言えることではあるが(Luk.6:20,cf.Isa,61:1)。他方、イエスは七十人の派遣による伝道が成功したとき、「聖霊によって喜びに溢れた」(Luk.10:21)。これは、その霊によって富んでいる、そのような状態であり、当然これも祝福されている。霊によって貧しい者は天国を求めざるをえず、霊によって富んでいる者は天国の証を得ており、双方とも天国と関係づけられる限りにおいて、「天国は彼らのものだからである」。
ルターは「汝が心を寄りかからせているもの、それが汝の神だ」と言った。われらは英雄やスポーツ選手やアイドルに縋りつく。彼らに自己を投影し、彼らの成功を自らのものとする。自らの生の喜びを彼らによって満たしてもらおうとする。アリストテレスは自己に向き合わずに、次々に人々と交わることに時間を費やし、自己から逃避ばかりしている人間を「劣悪」と呼んだ。「その劣悪性の故に嫌悪されている者たちは、生きることを憎悪しまた逃避するそして自らを破壊してしまう。悪しき者たちは日常を共にすべき相手を外に求め、かえって自分自身を避けている」(EN.IX4,1166b11-14)。確かにどんなに弱くとも、われらはわれら自身と共に生きていく。そのわれらが自らの霊によって即ち根底において満たされないものを抱えるとき、眼差しは天に向かう。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。どうか、主が君を助けて足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。主は君を見守る方、君を覆う陰、君の右にいます方。昼、太陽は君を撃つことがなく、夜、月も君を撃つことがない。主がすべての災いを遠ざけて、君を見守り、君の魂を見守ってくださるように。君の出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」(Ps.121:1-8)。ひとはこうして再び立ち上がる。
パウロも励ます。「神は、「光が闇から輝きいでるであろう」と語られた方であり、その方はキリストのみ顔のうちにある神の栄光の認識の輝きに向けてわれらの心に照らしたまうた。われらはこの宝を土の器に持っている、それはその力能の卓越性がわれらからのものではなく神のものとしてあるためである。あらゆることがらにおいて圧迫されても困窮せず、途方に暮れても絶望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びず、いつもイエスの死を身体において(en tōi sōmati)持ち運ぶ、それはイエスの生命がわれらの身体において顕れるためである。というのも、常に、われら生きている者たちはイエスの故に死へと引き渡されているが、それはイエスの生命がわれらの死すべき肉において(en thnētēi sarki)顕れるためだからである」(2Cor.4:4-11)。「肉」は身体を抱えた生物における一つの生の原理である。途方にくれても、祝福された者は絶望しない。最も低いところにセーフティーネットが敷かれそこにキリストが共にいるからである。
イエスのこのような言葉にであうとき、われらにはまだ分かっていない人間の消息があるのではないか、われらがこの社会において求めている善きものとは異なる善きものがあるのではないかという思いにいたる。「ヘラクレイトスは言う、「驢馬は黄金よりも藁屑のほうを選ぶであろう」。というのも驢馬には黄金よりも食物のほうが快いのである」(EN.X5,1176a7)。この世の富、自らの人徳、名誉そして地位の所有によって自らに満足している者は飢え渇くことはない。世の豊かさに満ちている者は一つのことを欠いている、その霊によって貧しいその心を欠いている。それ故に天国の知識をも欠いていよう。
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その七
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その七
(本日の録音ではとりわけ山上の説教をめぐる一般的な解説を語りました)。2024年2月27日
第三章 山上の説教は福音である
三・一 山上の説教の歴史的位置
ナザレのイエスによる山上の説教は人類がもちえた最も理想的な道徳的生として今日に伝えられてきた。これは「いかに生きるべきか」という倫理学の問への限界的な生の描写として一つの応答であると言えよう。福音をそれ自身として析出しつつ倫理学的次元での対話が可能になるとき、信じる者にも信じない者にも一つの共通で明確な理解を提示できるであろう。以下、山上の説教は福音の宣教であり、預言者と律法の純化を介して間接的な仕方で福音を述べ伝えている、即ち(1)自己言及的な発話であることを確認しつつ、その周辺の一般的な基礎づけ、土台として倫理的次元を持つこと、またそれがいかに信仰により内側から破られまた秩序づけられるかを論じたい。三人称で語られる八福の終わりに一人称「わがため」(Mat.5:12)への言及またモーセ律法の先鋭化において一人称「わたしは言う」(Mat.5:21)の言及において主体的な預言と律法の受け止めがなされている(山上の説教からの引用は章節のみ記す)。そこにこの説教の背面がせり出しており、預言と律法はこの「わたし」により刷新され、秩序づけられている (神についてまた聖書の翻訳においてイエスについて敬語表現を用いる)。
ナザレのイエスの山上の説教(マタイ福音書5―7章:「平野の説教」(ルカ6:17-49,11-12,14章参照))はこの二千年のあいだ、人類にとって最も突き詰めた人間の偽りのない生としてひとの可能性を提示する希望の源泉ともなり、この厳格な規範と自己の落差に苦悩を引き起こす原因ともなってきた。この説教が持つ実際生活との緊張故にこそ、人々の記憶に残り思想や政治そして平和運動、司法や経済から隅々の市井の生活の現場においてまで諸々の文脈において論じられてきた。この説教は人間とはいかなるものであるかの探求を促すテクストとして聖書学や神学はもとより、倫理学、文学等において多様な論争を提供してきた。今日まで人々を印象付けて来たこの伝承の背景にはイエスの言葉(ロゴス)と働き(エルゴン)はその一言一句および一挙手一投足に侵しがたい力と権威があり、その人格と認識、教えに抗しがたい魅力、引力があるからであると思われる。イエスの「権威」(7:29)は聴衆の自己満足と自惚れの偽善を暴いていくその一連の言葉が適切でありその対極に位置付ける自らの言葉と働きに乖離がないところからおのずと生じるものである。
彼の言葉と働きは常に彼の「天の父の子」の信の根源性、「神の子の信」の根源性のもと父と子の分かちがたき人格全体から溢れ出ている(5:45, Gal.2:20)。歴史上、彼に信従する限り肯定的、創造的なるもの、聖なるものが歴史に生起する、そして人類の悪に終わりがくると信じ、そのような希望が心魂の内奥に湧きあがり、その都度心の刷新がなされてきたことが連綿と記録されている。イエスの言葉と働きには人間であることの真理のそして宇宙万物の真理の根源の理(ことわり・ロゴス)が内在していたと論じられる。パウロはそれを「福音の真理」(Gal.2:5)と呼んだ。
このあまりの尋常ならざる教えの故に、ひとは或いは遵守の困難さにまた現実生活との折り合いのつかなさに絶望に陥り、或いは無視のうちにそして何らかの逃避に向かった。この教えに対し、或る人は純化された律法の遵守が目的ではなく、遵守困難さを知らしめ福音に追いやる機能を持つ、或いは心情において善い意志を持つ限り、果実がなくとも善い木であり、その善意志だけが問われていると解し、また或る人は終末が切迫したなかで、倫理的にこの世に別れを告げ完全な妥協のない新時代への備えであると解した[i]。
或いは、ひとはこの一群の言葉を人類の一定数が記憶に留め廃棄せず受け止めて来たという事実、誰かにより語られねばならなかったものの喜ばしき伝承において、人類に絶望しない証と捉えられた。イエスの清さが輝きわたり、一切を光で満たし、心の内奥が光に照らされ、何も隠すことのできない明らかさにひとは立たされる。隠れなきこの究極の道徳を説き、信の従順の故に自らその教えを生き抜いた人がひとりおり、そこに偽りがなかったと報告されている。この澄明さが人間本性、人間とは何かの理解をめぐり、天の父のみ旨の教えと行使を介して一つの倫理学の教説とならしめている。
イエスは、光の透明性のなかで、天と地は薄い皮膜一枚に隔てられているように捉えており、その隔ての皮膜そのものが光のゆえに透明にされ、連続的な天と地を隠れなき光のもとに捉え直す。「君たちは世の光である。山の上におかれた街は隠されることができない。また、灯を灯して枡の下に置く者はいない、燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らす。このように君たちの光を人々の前に輝かせなさい、それは人々が君たちの善い働きを見て、君たちの天の父を崇めるようになるためである」(5:14-16)。そう語りうるのは「天の国は近づいたからである」(Mat.4:17)。
彼はその透明な光のなかで、王であれ無一物であれこの世のいかなるものにも満たされないその霊によって貧しい者、その心によって清らかな者、義に飢え渇く預言者的な生を純化し、彼らを祝福する。また定型句として繰り返す「君たちは昔の人々にこう語られたのを聞いた。・・しかし、わたしは言う」という切り返しにおいて、イエスはモーセを介して授けられた神の意志であるひとのあるべき振る舞いを記した律法を自ら先鋭化する(5:33,5:22,5:28,5:32,5:39,5:44)。これらの律法理解はイエスの生涯を確認するとき、彼がはからずも自らに課した生であり、彼はその預言者的また律法的な生を信の従順により十字架の低さに至るまで生きたことに気づかされる。彼は最も低い所に、祝福の安全網を自らの言動を介して敷いた。ゴルゴタの極限状況において真の人間を伝える表情とはいかなるものであろうか。苦痛のなかに目の輝きがあった。その輝きは心の清い者の祝福であったであろう。
最も低い者に救いを伝える教えは誰にもわけへだてなく適用される教えとなる。普遍的な人生の指針が一つの倫理学説の資格を持つとしたなら、また何らかのロゴスとエルゴンの相補的な検証、真理性の確認が遂行されるなら、普遍的次元において他の諸教説と分かち合いつつ独自の倫理的教説を展開していることになろう。
[i] H ヴェーダー『山上の説教』序章参照(日本キリスト教団出版局 2007)
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その六
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その六
(録音は以下の文章に解説を加えながら行われています) 2024年2月26日
二・七 有徳性が人間のパトスや行為の「尺度」である
この断言命令(「汝の格率[意欲の主観的原則]が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が意欲することができるような、そうした格率によってのみ行為せよ」(KpV.IV421))に含まれる道徳法則の普遍性と実践的な効力はアリストテレスにおける次の命題に相当すると思われる。「徳そして善き人がそれぞれのものごとの尺度であるなら、この人に現れる快が快であり、この人が喜ぶ快いものが快いものである」(EN.X5.1176a17-19)。この「尺度」は「いかに生きるべきか(pōs biōteon;)」および「最も望ましい人生は何か(tis hairetatos bios)」の問に対する、魂における態勢とパトスをめぐる普遍的な規範であると言える(Pol.VII1.1323a1)。有徳性が行為のゴールとして、人生の尺度、規範とされる。魂の働きである行為やパトスはその有徳な心魂の態勢に基礎づけられる。「快や苦」のパトスと「働き・行為(ergon)」は「ヘクシス(魂の態勢)のセーメイオン(サイン(徴)、証)である」(EN.II4.1104b3,Rhet.I.9.1367b31)。先述のように、選択できない身体的反応や「われら次第」(1113b9)と言われる選択による行為において、その人の内面的な道徳的実力が知られるという立場である。態勢の涵養が倫理学の主題となる。魂の態勢とパトスや行為の関係は有徳性を尺度として普遍的に妥当すると主張されている。
普遍的命題が普遍的に妥当適用される真理を伝えるとしても、先に見たように、理論が万人を普遍的に拘束するが、個人的には誰をも拘束しないということはありうることである。ひとは真なる理論を拒否することができるからである。それはロゴス(理論、理性)の弱さや限界によると言うべきということもできようが、むしろ心魂の全体が秩序づけられていないと言うべきであろう。ひとは虚偽や不明瞭性そして暗闇をより好むことがある。真理は不都合な真実であり、ひとはそれに眼をつむり避けるということがある。アリストテレスによれば、これはロゴスとエルゴンの相補性が機能していない状況である。というのも、認知的態勢と人格的態勢が共に軛に繋がれているなら、「欲求的叡知」が発動すると想定されているからである。どんなにコストがかかろうとも正しいことをすることに喜びを感じ、実践知が掴んでいる最善の行為選択肢を選ぶことを欲求する者は有徳な者である。
二・八 道徳法則や有徳性と幸福の関係
カントは格率を普遍的法則にならしめる義務こそ格率の道徳化を介してひとをして有徳にすると理解する。「道徳的法則は最も完全な存在者にとっては意志の神聖性の法則であるが、すべての有限な理性的存在者にとっては義務の法則であり、道徳的強制の法則である」(KpV.V82)。最高善として誰もが求める幸福は有徳性への眼差しに基礎づけられ、意志が義務と合致するところに成り立つ。その有徳性は「道徳法則の遵守と調和的に一致する、最高の世界最上善としての理性的存在者の幸福」に方向づけられる(KU. 87節)。人生全体において魂の全体性が、欠けなき満月のように「完璧な正方形」(EN.1100b21)のように秩序づけられ満ちていることを幸福と看做すことについては誰もが同意することであろう。
双方とも有徳性を幸福と同定してはいない。アリストテレスにおいては「幸福」は確かに「十全な徳に即した魂の或る実働(energeia tis)である」(1102a5)が、「諸力能のうちにない」ので「称賛よりも尊崇」の対象ではないかが問われるそのようなものである(EN.1101b12)。幸福の定義に見られる「或る実働」の「或る」には「快い・喜びを伴う」が代入される。われら次第である選択の外にある生の与件や幸運等の「外的善」(1101a15)を考慮せざるをえず、たとえ有徳性形成に資する限りでそれらは善と呼ばれるにしても、「人生全体」が幸福の射程であるとされる限り幸運や不運を避け得ない。そこに「エウダイモニア(神からの善き守護)」という語の構成からして、「神的な定め」や「神々の贈り物」(1099b10)としての祝福による支えを必要としており、神的な「祝福」を考慮せざるをえない。彼はこう言う。「善き人々と成るのは、或る人々は(2)自然によって、他の人々は(1)習慣によって、他の人々は(3)教えによってであると考えているが、自然のものごとは、(1)われら次第で内属するのではなく、(2)何か神的な諸原因故に真実に幸運な者たち(dia tinas theias aitias tois hōs alēthōs eutuchesin huparchei)に内属すること明らかである」(X10.1179b20-24)。このことは神が人間に関わるとき、自然事象例えば魂の働きに関わる自ら選択できない喜びや快、平安等のパトス等生理的変化を介して憐みをかけ幸運を授けるという仕方で善き人を形成する。神が自然を介して善き人を幸運な者にすることが明言されているが、アリストテレスは幸福のロゴスを補うものとして嘉み、喜び、快さに確認されるその都度の神的な祝福を語る[i]。
カントも『判断力批判』において「幸福」が人間存在の「絶対的価値を評価する規準」ではないとする。「というのも、・・幸福を自らの究極的意図とするなら、そのことによっては・・「いかなる価値を人間は自ら持つがゆえに、自らに対して自らの現実存在を快適なものとするのか」は全く理解されないからである」(KU.86節)。「幸福」は理性的で有限な人間が道徳法則に即して何らかの究極的目的を定立することのできる「主観的条件」である。「最高の自然的善」である快適な幸福は、「人間が「幸福であるに値すること」としての倫理性の法則と一致するという客観的条件のもとにある限りにおいて」人間存在の究極目的に結び合わされる(87節)。
この二つの要件に基づき、カントは神の存在を要請する。「究極的目的」は道徳法則を通じて課されており、幸福と倫理性の法則とを「われらは自らの理性力能の一切をもってしても、たんなる自然原因によって結合し、先に挙げた究極的目的の理念[「世界において自由を介して可能となる最高善」]に適合したものとして表象することは不可能である。かくしてこのような目的の実践的な必然性の概念は・・、われらが自らの自由を、自然の原因性以外のどのような原因性とも(手段として)結びつけない場合は、そうした目的の実現をめぐる自然的な可能性という理論的概念と一致するにはいたらない。かくしてわれらは、道徳法則に適合して究極的目的を掲げるために、何らかの道徳的世界原因(一つの世界創始者)を想定しなければならない」(87節)。アリストテレスもカントも有神論のもと「幸福」を究極的には神学的概念として捉えている。
その倫理学が神学的である影響力ある二人を取り上げたのは恣意的と思われるかもしれない。しかし、神を想定せずには、彼らにとっても人生を全体において理解することはできないとすることは、人生が幸運や不運のもとに人間の選択や努力を超えたところに営まれることを考慮する限り、道理あることである。少なくとも二人とも人間の魂の道徳的本性をめぐって客観的な普遍妥当性とパトス(欲望、感情等)を含めた「われら次第」である行為選択のあいだの統一理論を求めていたことは確認できよう。カントにおいては実践理性のもとでの断言命令の持つ普遍妥当性が格率を秩序づけ方向づけることにより実践的な効力を持つ。
これまで倫理学を構成する三つの特徴を論じつつ、カントのみならず、ナザレのイエス以前のアリストテレスにおいても倫理学が神的なものに開かれていることを確認した。ここでは「神学」の持つロギコスな超越論的な特徴を視野に入れたうえで信じる者にも信じない者にも普遍的に妥当する一つの倫理学的教説として、山上の説教という人類史上最も有名な説教を理解できるかを問う。伝統的に倫理学においては「いかに生きるべきか」、「最も望ましい人生は何か」、「幸福に値する人生」はいかなるものかが問われてきた。これらの問いは、必然的に人間とは何であるか、その心魂に生起するパトス(感情や欲求)や善悪の判断そして行為と、それらがそのもとに培われる心の様々な力能と言える「態勢(hexis, habitus)」広く言えば「人格的習性(ēthos)」の探求を促す。人間の心魂の力能の習性の学が「倫理学(ēthikē)」であった(cf.EN.II1.1103a17)。
以下、ナザレのイエスの山上の説教を認知的なものと人格的なものの綜合による倫理学的教説において捉えることにより、福音との関係を明らかにしたい。一般的な人間とはいかなるものかの探求の枠の中で、イエスの人生の教えがすべての人間に妥当する道徳的な教えとして実践的(行為遂行的)効力を持ちうるその論拠を問う。道徳性や有徳性が最高善である幸福をもたらすという倫理説を吟味しながら、山上の説教は道徳的かつ有徳に生きる実践的な力を行為主体に伝達するそのような次元において捉えうるかを問う。
[i] 千葉惠「アリストテレスの神学的倫理学―「神の贈りもの」と「徳の褒美」の祝福による媒介」『ギリシャ哲学論集』XX(ギリシャ哲学セミナー 2024)参照。
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その五
山上の説教における福音と倫理その五
2024年2月25日
(今回も種々解説を加えながら録音しています)。
二・四 跳ね返りの法則「君が量るとの量りによって量り返される」
イエスは反射性、跳ね返りの法則を端的に表現している。「君が量るその量りによって量り返される」(Mat.7:2)は「裁くな裁かれないためである」の理由として提示されているが、これは単に最後の審判という神学的次元だけではなく、「君の宝のあるところ、そこに君の心もある」(6:21)という行為の目的論的構造とともに考察するとき、道徳的次元や行為の哲学など一般的に適用されるとイエスは主張していると思われる。ひとは何であれ大切にしているもの、求めているものそのものの価値により、量られる、即ちその枠の中で応答、報いを受ける、ちょうど金銭に貪欲な者が詐欺師にだまされるように。ひとは自ら量るその量りによってブーメラン効果とでも呼ぶべき跳ね返りを受け、それがはからずも自らの魂の現在地点ないし隷属を開示する。
放埓者は放埓者相応の報いを得る。アリストテレスによれば習慣づけは本意からの自発的なものであり責任が帰属し、例えば放埓が非難されるのは「快いものどもへと人を習慣づけることは容易だから」であり、「彼らはこうした快だけを知悉しているがゆえに、これらだけを快と思っている」からである(EN.III12.1119a25, VII13.1153b35)。放埓者は欲望の欠乏充足モデルのなかに身を置き過剰な欲望を持ち、自らの偏った執着故に、多くの喜ぶべき喜びを放棄し、それが充足されないとき、必要以上に苦痛を感じる。「放埓者と呼ばれるのは、快いものを獲得できないという理由で・・必要以上に苦痛を感じることによる。・・放埓者はあらゆるものと引き換えにこれらの快を選び取る。かくして、それらを得られなければ、またそれらを単に欲望するだけなら、むしろ苦痛を感じる。なぜなら欲望は苦痛を伴うからである。快のゆえに苦しむことは不条理に思える」(III12.1118b27-1119a5)。哲学者は放埓者が自己矛盾的な存在者であることの不条理さを指摘し、維持不能性を開示する。快を求める欲望が苦痛を伴うという事態は何か愚かのように思われる。無限ループの刑に処せられているかのごとくである。光のもとにないから、その闇にとらわれているように思われる。
ロゴスとエルゴンの相補的展開のもと善悪因果応報の法則を確証できるとき、人生の行為選択における明晰さに到達することになろう。この法則が偽であると主張する場合には、即ち「悪しき先行的行為選択に対して、善き果実が得られる」と信じている場合には、自ら反証を立てることが求められる、生涯かけて。もちろん善悪因果法則を信じる者もそれを生涯かけてその真理性を証明することが求められる。ロゴスはエルゴン即ち今・ここの検証の働きにより信用される。そして、自らの主張の真理性は他者からの悪しき対応を受けた場合に、善意をもって返すことが求められる。さもなければ自己矛盾となる。ソクラテスは「もし不正を行うか、それとも不正を受けるか、そのどちらかがやむをえないとすれば、不正を行うよりも、むしろ不正を受けるほうを選びたい」(プラトンGorgias.469C)と語り、また「善き人には生きていても死んでしまってからも、悪しきことは何一つないし、その人のことは、神々によって配慮されないことはない」(Apologia.41D)。自らへの対応においても自らの不利益や損害を実践的に受容することが求められる。習慣づけとはそのようなことにより、心魂の実力を養い、そのようにして獲得される知識は節制のうちに保全される実践知である。これが倫理学の第二の特徴である。
この倫理学の第二の特徴は広く他の諸学との関連において浮彫になる特徴である。倫理学は他の諸学とは異なる独自の機能を担っている。数学や物理学のような知を求める理論学があり、工学のような制作を求める制作学(術)があり、政治学や倫理学のような善き統治や善い人生を求める実践学がある。そして倫理学の特徴として、それは単に知識や理論を求めているのではなく、最高善である幸福を目指す行為遂行力即ち生きる力、実践的効力を求めていることも同意されよう。
二・五 倫理学の第三の特徴—「幸福」は「われらの力能のうちにない」―
倫理学の第三の特徴はこれまでの特徴を踏まえ人生の最高善とされる「幸福」や「祝福」の包括的な探求を遂行することである。人間の魂の分析に従事する『ニコマコス倫理学』において、アリストテレスは人間のあらゆる営みが、他のものの故、他のものかつそれ自身の故、それ自身の故に求め、選択する三種類に分類されるという。そして人は誰もがそれを究極的に求め、他のものの追求もそれのためである、そのような「最高善」を「幸福」と呼んできたとしてその理由を挙げる。「われらは常にそれ自身の故にまた決して別のもののゆえにではなく幸福を選択している。他方、われらは崇拝(・名誉)や快楽そして叡知さらにあらゆる徳を確かにそれら自身の故に選択するが(というのもわれらは[他の]何も帰結しなくともこれらのそれぞれを選ぶであろうからである)、しかし、それらを介して将来幸福になるであろうと判断しつつ、幸福のためにも選択している」(I7,1097b1-5)。
彼はこの誰もが追求する幸福の探求を手掛けるさいに、伝統的な「大衆」や「賢者」たちの「通説」に耳を傾ける。それは人間の関心の最重大事だからであり、幸福内容の理解は「これこれ好き・~愛」(I8,1099a9)と特徴づけられるように個々人異なり、同一人においても時に異なるものであるが、その大枠においては同意が得られているからである。「恐らく、幸福を最高善と語ることは何か同意されるものに見えるが、しかし幸福が何であるかはなお一層明晰に語られるべきことが求められている」(I7,1097b22-4)。この幸福とは何であるかの一層明晰な理解のために神的な「祝福」(1098a19)が導入されたと思われる。
「幸福(eu-daimonia)」という「名称」の伝統的理解として彼は「ダイモニオンは神かそれとも神の働きかである」と語るように語源的には「よいeu」の付加のもとで神からの善き守護霊の派遣が想定されているが、彼は一般的な理解を基本とする(Rhet.II23,1398a15)。「名称においても大抵の人々により同意されている。大衆も賢者たちもそれを「幸福」と呼んでいるが、「よく生きること」、「よく(うまく)為すこと」は「幸福であること」と同じであると判断している」(EN.I4,1095a18-20)。さらによく生きることは第一義的に人間の魂に属するものであろうから、「幸福な者」は「優れた魂を持つ者」と規定される (Top.II6.112a3)。並列されることの多い「祝福された者(makarios)」の語源として、「喜ぶ・嘉みする(chairein)」が挙げられる。「われらは人格的徳と悪徳とを快いものどもと苦痛なものどもに関わるものであると立てた、またほとんどの人々は幸福が快を伴うと主張する。それ故に、彼らは喜ぶこと(chairein)に因んで「祝福された者」をも名付けた」(EN.VII11,1152b5-8,cf. mala-chairein (being exceedingly pleased) →makarios))。
倫理学の成否は「全体として善く生きること」(VI5,1140a28)の包括的な理解のもと、心魂の受動から能動、今・ここの行為の最善の選択に至るまでの道筋の理論(ロゴス)を構築できるか、さらには今・ここの魂の働き(エルゴン)が例えば受動的な個々のパトス(感情、欲求)、行為そしてそれに伴う快苦を介してそのロゴスの正しさを証するロゴスとエルゴン双方の補い合いを展開できるかにかかる。
この目的論的な構造のなかで、先の第一、第二の特徴が秩序づけられる。「いかに生きるべきか」、「最も望ましい人生は何か」、を探求する倫理学が単に認識だけではなく、人生そのものに有益なものとして、ロゴスに即して生きる力を与えるものを探求することは道理ある。幸福に至るそのような実践的な力の探求が為されなければ、倫理学の務めを放棄するものであるとさえ言えよう。先の思考実験において、デヴィルが悪魔である限りその定義上、人間を破壊することを目的にしている故に、一見知性のうえで解けているように見えても、その背後に堕落させるトリックや罠が仕掛けられているに相違ない。悪魔に身を渡すことは、自らを滅ぼすことになる。ならば、真に信頼にたる存在者を信じて身を任せることの正しさが導出されよう。信が愛を生み出すそのような力ある信が正しい信仰、信頼であるとイエスは語る。「この女性の多くの罪は赦された、その証は彼女が多く愛したからである」(Luk.7:44)。言葉と働き、理論と実践のあいだに乖離がないこと、一般に正しい行為の動機づけはどこから得られるのか、この解明なしに倫理学は完成しない。
二・六 道徳法則の普遍性
「最高善」とは目的論的体系の頂点であり、それ自身として求められ、他のものゆえに望まれることも選ばれることもないものであり、幸福(well-being)がそれであるという理解は道理あるものである。イエス自身、目的論的な人生観をもっていたことは先に確認したが、ルターの言葉「神の命令なら地獄にまで行く」は端的な信従の表明であろうが、神の命令に背くよりはそのほうが「善い」と考えていると反省的次元における捉え直しには同意されるであろう。その最高善が「幸福」と呼ばれる。それ自身善である道徳法則や有徳性はそこに到達する不可欠の要素であることも同意を得ることであろう。人間の魂の本来的な在り方として、イエスは信の根源性を説き、アリストテレスは最高善である幸福の本質的な要素としての徳の根源性を、カントは道徳的な経験の基礎に普遍的な道徳法則の根源性を説いたことは同意されよう。
カントによれば、道徳法則の普遍的な適用こそが人間本性の道徳性を保障する。その道徳法則の普遍性は客観的に妥当する先天的な規範として意志そのものを規定し、幸福に相応しい人間であるべく遵守への切迫力を持つ。「道徳法則に即して自由を使用するにさいしての究極的目的の理念は主観的に実践的な実在性をそなえている」(KU.88節)。実践的効力をもつ道徳法則の無制約的な適用は立法者、行為主体を例外化することなく包摂するが、その普遍性はその断言命令が経験に依存せず、経験を導くアプリオリ(先験的)なものであることに基づく。言わば、その普遍性は経験に汚されることのないものとして祭りあげられることにある。
カントは言う、「私は対象に関与するのではなく、対象についてのわれらの認識の仕方に、しかもこの認識の仕方がアプリオリ[観察経験以前的、先験的、ロゴス上]に可能である限りにおいてかかわる、すべての認識を「超越論的」と名付ける」(KrV.B25)。超越論的な考察とは「諸概念とのみ(bloss mit Begriffen)関わる」ことになり、「単にアプリオリな諸概念からはいかなる実在的根拠についても、いかなる因果性(Kausalität)についても、その可能性を認識することはできない」(KrV.B586/A558)。
この超越論的な議論の先駆としてアリストテレスのロギコスな議論を挙げることができる。「神学(theo-logikē)」や「天文学(kosmo-logikē)」が語尾にlogikē(形式言論構築術→logic)を持つことは偶然ではなく、観察や経験の困難なものを対象とする学はこの思考様式に依拠せざるをえない。アリストテレスによればこれは矛盾律に基づき「いかに語るべきか(pōs dei legein;)」という言葉の分析力に基づく視点から「いかにあるか(pōs echei;)」の観察経験を導くないしその論理的、形式的思考による基礎を展開する言論の技術である。アンセルムスの「理性のみ」による神の存在論証は矛盾律に基づき背理法により神が単に「理解のみに在る」のではなく、「ものごとにおいても在る」のでなければならないことを存在主張として論証している(Proslogion ch.2)。それはカント的には「超越論的」な議論と親和的である。神学的対象については言語の力によるロギコスないしアプリオリな超越論的議論は経験の基礎として不可欠である[i]。
断言命令の基礎は「汝の格率[意欲の主観的原則]が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が意欲することができるような、そうした格率によってのみ行為せよ」(KpV.IV421)である。「格率」は単に恣意的な意欲ではなく、道徳法則への善意志のもとにある道徳的な意欲として秩序づけられる。自己矛盾を含むまた自己利益追求の格率は普遍化されない。例えば格率「他人のものは自分のもの」は、他人でもある自己は自らへの適用を承認しえず普遍化を許容できない。そこでは「善意志」が発動しているが、そのロギコスな規定はこうである。「無条件に善い意志とは、悪でありえない意志であり、したがってその格率が普遍的法則とされるならば自らこれと決して矛盾対立することのできない意志である」(GMS 8 BA 81/AA 437)。かくして、理論上、主観的な判断は道徳的であるべきものとして普遍的道徳法則のもとに秩序づけられる。「善悪の概念は道徳法則より先にあるのではなく、・・道徳法則に従ってのみ規定されなければならない」(KpV.V63)。実際、イエスの新しい律法理解は善悪因果応報の「善悪」の概念を極度にシャープにする。経験的に善悪を把握するとき、そこには普遍的な道徳法則がロゴスとして既に無制約的にしかも今・ここにおいて働いている。正しい働きがなされるときは正しいロゴスに即して遂行されている。
[i] 『信の哲学』 下巻第五章参照。
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その四
山上の説教における福音と倫理その四
(今回も録音においては種々解説を加えながら話しています)。
2024年2月24日
二・三 心魂の認知(ロゴス)と働き(エルゴン)の共軛と共鳴和合
第二の倫理学の特徴は第一の特徴から必然的に問われるものである。倫理学は善悪をめぐる心魂の人格的態勢に考察の基点、視点を置くとしても、そこでは真偽に関わる認知的態勢との関係が問われる。認知的な力能、態勢と人格的なそれはいかに関わるのか、知識や認識は身体に座を持つ行為選択の欲求、動機づけとはいかに関わるかが問われている。理論的な知識とその個々の実践即ちロゴス(言葉、理論)とエルゴン(今・ここの働き)はどのように関わるのかが探求されてきた。
例えば、原爆製造のマンハッタン計画に参加したジョン・フォン・ノイマンは人間の知的好奇心を妨げるものはなにもないとして、核分裂の可能性を知識として掴んだ以上はその実験およびその実践に道徳的良心の呵責を感じる必要はないと語ったと言われている。これは、知性上の真理の知識や認識の追求は至上善であり、それ故にその追及は至上命令であるという主張である。これは得られた自然法則についての知識とその善悪をめぐる実践的応用としての最善の行為選択肢の知識は異なるものであり、理論的知識が他のあらゆる判断に優先し実践の規準になるという主張を含意している。
また、この見解に即せばデヴィル(悪魔)は倫理的問題に悩まされている人間たちに解を与え、無知の捕らわれから解放しうるかという問いにおいて、デヴィルが人間以上の知性を備えている限り可能であると語られよう。それは、さらに、人工知能AIが自ら身体に基づく欲求をもたずにも、将棋における最善手を示すように、行為における最善の行為選択肢を指示することができるかという問いと類似のものである。心なきAIが人生相談に与り、結婚相手を託宣することもあろうように、デヴィルは善悪をめぐり人の判断を教示し導くことがあるでもあろう。これは認知的なものが人格的なものに優先する、理論的な知識が最高善であり、実践的価値は知識に従属するという立場である。
ここでの一つの問いは多様な与件のもとにある個々人について「いかに生きるべきか」、「最も望ましい人生は何か」をめぐって人間一般に妥当する認知的態勢と人格的態勢を包括する普遍的な理論、行為規範を構築できるかである(EN.VIII12.1162a29, Pol.VII1.1323a1)。アリストテレスによれば、認知徳と人格徳が普遍と個のままでは倫理学は成立せず、普遍と個を媒介する個々の最善の「行為選択肢(prakton)」の知識である「実践知(phronēsis)」そしてその基礎に「経験に基づく目」と語られ「人生の盛時」即ち年齢を重ねることにより発動する「叡知(nūs)」の認知的徳が媒介者として求められる(VI11.1143ab8,14)。
「実践知」は「人間的な善に関わり、真なるロゴスを伴う行為力能上の態勢である」と規定され、「行為に関わる認知的なものの働きは、正しい欲求に一致した真理を捉えることである」(VI5.1140b20,VI2.1139a30)。人格徳において中庸に向かう正しい欲求が生起する時、「欲求的叡知(orektikos nūs)」が発動する(VI2.1139b4)。叡知に基づく実践知はその欲求が正しいことの知識を与えることにより「指令的」なものとなる(VI 10.1143a8)。
人格徳は中庸を得ており快苦に対して安定しているため、行為選択肢の知識に与りそれを保全することができる。「節制(sōphroshunē)」の語源は「実践知を保全する(sozūsan tēn phronēsin)」の合成語であることが紹介されている(VI5.1040b13)。認知徳の一つである行為選択肢の保全された知である実践知は人格徳と相互に軛で繋がれており支えあう。哲学者は言う、「実践知は人格徳と共に軛に繋がれており(suzeuktai)、人格徳も実践知と共に軛に繋がれている(suzeuktai)、いやしくも実践知の諸原理はさまざまな人格徳に即しており、人格諸徳の適正さは実践知に即している限り」(X8.1178a16-19)。実践知の「原理」、始まりは人格徳の成長による。実践知は人格徳の欲求に見られる正しさを保証する。
身体の受動反応であるパトスに善い態勢にあるとはそれぞれの徳項目において中庸に接近することであり、ロゴス(理)に与る力能を獲得していく。人は恐れと臆病のパトスが中庸に近づくにつれ、勇気の理に与る力能が増し、また快をめぐる放埓と鈍感から中庸に近づくにつれ、節制の理に与る力能が増し聴従しやすい魂の態勢になる。有徳者は適切な理(ロゴス)に「聴従している」者である(I13.1102b27)。
個別の最善の行為選択肢にかかわる実践知がそれらの個別的人格徳に関与しロゴスを与え、行為に導く。そのさい、これら態勢とパトスを肯定的に関連づけるものはロゴス(理)であり、実践知はロゴス(言表・理)上例えば節制から分離されるがエルゴン(今・ここの働き)上不分離なもの即ち「共に軛に繋がれたもの」として今・ここで働く。アリストテレスの倫理学は欲求と叡知の綜合である実践知の理の統一的な実在論のもとに構築されることになる。
認知的態勢と人格的態勢が「共に軛に繋がれている」限りにおいて、先に挙げた双方の分断と知性の優位は抵抗にあうことになろう。どんなに認知的に優れていたとしても、双方の徳・卓越性が関連付けられない限り、最善の行為選択肢について発動する「欲求的叡知」の欲求が伴わないものがあるため発動せず、実践知に至らないものがあるということを含意している。純粋に知的な計算等には優れていても、最善の行為選択肢をつかむ実践知に至らないケースは容易に想定できる。純粋に理論的な研究においても、ニュートンがりんごの果実が木から落ちるのを見て、万有引力への叡知が発動したとしても、それまでの運動論の素養なしには、気づくことはなかったであろう。認知的徳の一つである「叡知(ヌース)」は叡知対象に「ヒットするかしないか」のいずれかであり、つまり真か無知かのいずれかであり、「決して偽に陥らない」とされるが、それに至るまでの認知的、倫理的態勢の陶冶は不可欠である(Met.IX10.1051b22-26,EN.VI6.1141a3)。
人生のあらゆる段階で、偶然的な選択を除いて、最善の行為選択肢に叡知が欲求を伴いヒットしないとすれば、その知性上の認知的卓越性例えば「科学的知識」、神的なものに対する「知恵」と呼ばれるあらゆる認知的活動において妨げを受ける可能性が高まると思われる。たとえ原子爆弾の原理的構造を解明したとしても、広島、長崎に原爆が投下された行為選択をめぐっては異なる行為選択肢が開かれている(例、海上での示威投下)。また、デヴィルはその定義上、人類を破壊することを事としているいる以上、その理論にはどこか悪をしのび込ませて罠をしかけているに相違ないという想定は道理あるものである。優れた知性はその罠を見抜くであろう。イエスは言う、「さがれサタン、君は私の躓きだ。神のことを思慮せず、人間のことを思慮している」(Mat.16:23)。
アリストテレスは包括的な仕方でこの双方の良好で創造的な関係をこう語る。「真なるロゴス(理・言表)は単に知ることに対してだけではなく、人生に対してもこのうえなく有益である。というのも真なるロゴスはエルゴン(今・ここの働き)に共鳴和合することによって信用されるからである。それ故にロゴスは、理解する者たちに対して、ロゴス自らに即して生きることを促すからである」(EN.X1.1172b3-8)。このロゴスとエルゴンの共軛、共鳴和合こそが実践的効力を持つ。知性なき欲求は盲目であり、欲求なき知性は無力である。
カントならこの命題を自らの意欲の主観的原則である行為の格率を意欲の客観的原則である道徳法則に即するよう促すと翻訳するであろう。このロゴスとエルゴンの相補性が道徳法則の超越論的性格と実践的な確証を与える。ロゴスはエルゴンにより信用される。AIは人工物にすぎず、神の子は身体を抱える者として受肉し、人間の「心は燃えても、肉は弱い」(Mak.14:38)その身体を抱えた霊的存在者の現実を熟知し、愛し共に苦しんだことが報告されている。「身体の贖い」(Rom.8:23)の欲求を持ちえないAIの認知的な教示は身体の弱さを知る全知者の救いの教えとは信頼度において異なるものとなろう。AIを信用するのは、或る領域におけることとなるであろう、たとえその領域が広範であるにしても、情報処理はあっても共感、憐みなき相手であることを受け手は常に確認する必要があることになろう。ルカもナザレのイエスについて、「彼は神とその民族すべてに面してエルゴンとロゴスにおいて力ある預言者となった」と報告している(Luk.24:19)。ロゴスとエルゴンの統一理論こそ求められている。
なお、気候変動等人類の不都合な真実に目をつぶり見て見ぬふりをすることがあるように、人類は、それがたとえ万人に妥当する普遍的な真理であったとしても、その真なる理を拒否することはありうることである。端的に真理を拒否する自己欺瞞、偽りとともに、長期的には壊滅、自己破壊をもたらすことを何らか知りつつ短期的な利益の故に目先の快を選択することは個人として十分にありうることである。これも理論と実践、ロゴスとエルゴンが分離されたものとして受け止められることに起因する。その首尾一貫のなさは言っていることとやっていることの異なる偽りや偽善として論難されるところのものである。
これに関しては「目には目」の同害報復のように、法に触れるものは、法にて審判される。道徳的次元に留まるなら、善悪因果応報のつまり自らの責任ある行為の果実は「跳ね返りの法則」とでも言うべきものが適用される限り、やはり正義が遂行されることになろう。少なくとも善悪因果応報の真理性が論証される限り、知りつつ真理を拒否することに抑止力となり、真理に即することへの積極的動機付けになることであろう。善悪因果応報が何等か適用される限り、悪に留まるとすれば、偽りの悪しき果実を甘受することになるからである。ただし、「目には目を」は原理的に報復の循環を阻止できない。
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その三
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その三 (「方舟」64号に掲載したものの録音公開にあわせた章節の掲載ですが、録音では解説を加えながらの収録です)。
2024年2月21日
第二章 倫理学の三つの特徴―心魂の実力の学としての態勢の倫理学―
二・一 倫理学の持つ普遍的次元
山上の説教は「天の父」に眼差しを向けさせる疑いもなく宗教的教説であるが、信じる信じない以前に、善人悪人以前に天の父の憐みを語りかける普遍的に人間一般に適用される教えとして倫理的次元を持つと思われる。福音の宣教のなかから、そのベースにある彼の基本的な行為原則を摘出したい。
倫理学は「ひとはいかに生きるべきか(pōs biōteon)」、「最も望ましい生は何か(tis hairetatos bios)」、「幸福に値する人生は何か」について問をたててきた。人間が人間である限りに妥当する、普遍的な理解の提示がこの学に求められてきた。富者或いは弱者にのみ、有神論者或いは北半球の住人のみに適用される道徳法則は人の道としての「道徳」或いは「倫理(人格・人柄についての学的理解)」の名に値しない。人としての道徳或いは倫理は人生の基本的な教えとしてあらゆる行為に浸透しうるまたそこからあらゆる営みが遂行されるべき生の在り方、生の指針を人間本性の理解のもとに提示することが求められている。ひとは単に或る会員や民族の規則ではなく、普遍的な人生の規範と幸福を求めるそのような理性を備えた存在者だからである。或いは、人は誰もが他者に囲まれているが、そこに共通する対話や交流の足掛かりを必要としているからであると、或いは誰もが、その発動は各人異なるが「良心」を持つからであると言うこともできよう。
山上の説教は信じる者にも信じない者にも妥当する一つの倫理学説として普遍的に取り組むことのできる言葉の層を自ら保持していると思われる。代表的な哲学者たちの倫理学の三つの特徴を挙げて、この道の教えを諸倫理学説との対話のなかで、その教えの共通性や独自な特徴を浮き彫りにしつつ、一つの倫理学説として捉えることを試みる。それは単なる宗教的、神学的主張の提示ではなく、イエスの天と地の連続性の議論を理性の明晰性のもと普遍的な次元で捉る試みである。そのうえで倫理的次元の解明の助けを得て、福音がいかにその道徳的次元を内側から破る仕方で現出するか、その現場をとらえたい。
この試みは読者に緊張を強いることになろう。山上の説教は「天の父」や「天国」、「地獄」等への言及がなされ、「染みや虫が喰いそしてそこは泥棒たちが忍び込む」不十全な世界から完全な天国をめざすことが人生であるという認識が提示され、これは一般的な観察経験の外にある宗教的教説であり、信じることにより受容すべきことがらであると思われるからである(Mat.6:19)。この説教はせいぜい「神学的倫理学」、「倫理神学」のもとに分析されるべきであると思われるので、この事態は倫理学一般の理解の説明を要求するであろう。
まず倫理学が何を対象とし、どのような議論を展開しているかを三つの特徴に即し概説し、倫理学的地平を確認する。そのとき、偏見が除かれ、双方からの歩みよりを確認できるであろう。それによりイエスの教えを信じる者にも信じない者にも議論でき、共有できる一つの倫理学説として捉えることができると思われる。人間は宗教的人間(homo religiosus)であると同時に理知的人間(homo sapiens)でもあり、人間の本性に深く関わる山上の説教についての倫理学的次元での分析はイエスの言葉と行いの理解に裨益するところ大きいことであろう。倫理学は「いかに生きるべきか」の問のもとに思考が展開されるが、この当為「べき」の規範性は生きる力、即ち単に理論的な次元でそれが解明されたとしても、画餅におわるそのようなことがらであり、その理論を生きることそのものに移行させる実践的な効力の問を含意する。信仰が人の生の方向を定め促す実践的な効力を持つこともあろうが、望ましい人生とは何であるのかの理性による明晰な理解もそのような効力を持つことであろう。
この解明に向けて、まずナザレのイエス以前に属するアリストテレスとキリスト教思想のただなかで構築したカントの倫理学説を、時にイエスの対応する教えを引用しつつ確認する。続いて、双方の共通の地平において山上の説教を分析する。とりわけイエスにおける善悪因果応報ならびに互恵性の教えを考察する。イエスの他の言葉を参照することにより、教え全体の整合性の確認をその都度おこなう。さらに天と地の連続性の教えをめぐって、光の透明性がもたらす明晰性の思考実験のもとで、その都度、最善の行為選択肢が明らかである状況を考察する。イエスの教えは、自らの自覚として、一方で、神学的次元において、神のみ旨・み心の開示であり、それは神的視点からの人間の本性を明らかにしているが、他方、倫理学的次元において理性の普遍的な理解に訴えるものとして人間の取るべき最善の行為選択肢、歩むべき道の考察を促している。彼は黄金律において先行行為主体のひたすらなる善意こそが祝福された預言者的な生であるとする。その論拠を考察する。
二・二 目的論的な生における「習慣づけ」による心の態勢と働き
ここでは「倫理学」の特徴としてこの学を体系的に構築したアリストテレスに従い三点を挙げ、順に論じる。それらは第一に一つの学的な営みを形成する視点と射程、第二に行為形成に関わる知識と欲求の関係およびその背後にある普遍的な理論(ロゴス)と個々の行為(エルゴン)を動機づける実践的効力の関係、そして第三に人間にとって最高善とされる幸福を形成するものの三つである。
「倫理学」の視点として、ここでは、『ニコマコス倫理学』をとりあげ、ものごとの真偽をめぐる人間の知性的・認知的な働きそしてものごとの善悪をめぐる人間の倫理的・人格的な働きについて、「エートス(習慣づけられた態勢)」と呼ばれ人間の心魂に蓄積される態勢、実力とその働きに考察を向ける[i]。ここで「態勢(hexis)」とは「それに即しわれらがパトス[感情や欲求等身体の受動的な反応]に対し善く或いは悪くあるところのもの」である(EN.II5.1105b25)。例えば「怒ることに対して、かたや激しく或いは他方散漫に怒るならわれらは悪くあるが、もし中庸に(mesōs)怒るなら、善くある」(b26f)。パトスとその感受力能は「自然本性により(phusei)」(1106a9)生じるものであるが故に、人はそのこと自体により善人とか悪人とか、称賛や非難を受けることはない。
他方、徳は「われら次第」の責任を伴う行為の選択をめぐる心魂の或る態勢、実力である(III5.1113b9)。「選択の原理は欲求そして何かのため[目的]の理である。それ故に、[目的の理に関わる]叡知および思考なしに、さらに[欲求に関わる]人格的態勢なしに選択は存在しない。というのも善い行為とその反対の行為は思考と人柄(tū ethūs)なしにはないからである」(VI2.1139a32-34)。従って、それら自然的に生起するものに対する対応力として習慣づけられる心魂の態勢に徳や悪徳が属することになる。「快と苦[パトス]は態勢の徴である」とも「行為は態勢の徴である」とも呼ばれ、人の行為はその態勢に即して実力通りに発現するないし演じられるという意味において、心魂の働き全体がこの学の考察対象となる(EN.II4.1104b3,Rhet.I9,1367b31)。これは実際人間のあらゆる営み、行為を包括するように思える。というのも、人はそれまで培った態勢のもとに何らか認識や印象をもち、判断し、行為を遂行しており、意見や判断には真偽や善悪の信念が伴い(hepetai pistis)、その信念には納得が伴い、その納得には理(ロゴス)が伴っているからである。信なしに意見や判断はなく、納得や承認なしに信はなく、理とそれに基づく説明なしに納得や理解、知識はない(De An,III3.428a21f)。
イエスはこれらの魂の態勢と行為ないし感情の分析に同意すると思われる。イエスは言う、「善い人は善いものをいれた心の倉から善いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」(Luk.6:45)。道徳を成立させるものとして行為者はそれぞれの心の実力としての態勢を持ち、その態勢に応じて善か悪を行為するという共通性を持つ。彼は悪の跳ね返りについて言う、「口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚す。・・すべて口に入るものは、腹を通って外に出される・・しかし、口から出てくるものは、心から出てくるので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、淫行、盗み、偽証、悪口などは心から出てくるからである。これが人を汚す」(Mat.15:11-20)。心からでてくるこれらの悪行は瞬時に跳ね返り心を汚す。これは心の態勢の一つの指標として捉えることができる。
イエスは望ましい態勢についても言う、「天国のことを学んだ者は皆自らの倉[心に蓄積された態勢]から古いものと新しいものを自由に取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:51)。ここで「倉」とは各自の心魂を表しており、真偽に関わる認知的態勢・実力、善悪に関わる人格的態勢・実力がそこに蓄えられる。様々なものが例えば古い契約の律法や預言そして新しい新約の福音も蓄えられており、主人はそのつど適切な対応を選択すべく、最善の行為選択肢を実現する自らの力能を自由に用いることができる
このようにパトスや行為は心魂の態勢を開示するものとして普遍的であると言える。とはいえ、五感や感情、欲求がもつ身体の感受的力能とその発現、働きについての観察を通じた定量的な分析は、生理学等自然科学的分析に委ねられる。感覚や記憶そして経験さらには学習に基づきひとはものごとの真偽と善悪を判断しており、これも一つの心的行為であるが、行為を構成しているもの、動機づける心魂の態勢に倫理学は関心をむける。
かくして、ものごとの真理と善にかかわる卓越した心魂の態勢、実力は「徳」と呼ばれるが、倫理学は概して善き心魂の態勢である人格徳の視点からの心魂の認知的、人格的な営みをめぐって理論的な理解を形成する。
実際、アリストテレスは「エーティケー」とは「エトス(習慣、生活流儀、人柄)」また「エートス(習慣づけられた態勢、人柄、人格)」の学であるとして、こう語る。
「実際、徳・卓越性は二種類あり、それは認知的な徳(dianoētikē)と人格(倫理)的な徳(ēthikē)である。一方、認知的なものの大半は教示に基づきその生成と成長とを持つ。それ故にそれは経験と時間を必要とする。他方、人格(倫理)的な徳は習慣に基づき(ex ethūs)優れたものとなる(periginetai)が、この名称「人格(倫理)的徳(エーティケー)」も「習慣・人格的習性(tū ethūs エトス)」から少し変化して得たものである。そこから明らかに、人格的徳のいかなるものも自然本性上(phusei生得的に)われらに生起することはない。というのも、自然本性上存するもののいかなるものも現状とは別の仕方で習慣づけられることはないからである。例えば、石は自然本性上、下方に運ばれており、上方に運ばれるよう習慣づけられることはない。
・・かくして、これらの徳は自然本性上も自然に反しても生起するのではなく、かたやわれらがそれらを受容するべく生まれついてしまっており、他方、習慣づけを介して完全な者たち(teleiūmenois)になる。なお、われらに自然本性上備わるかぎりのものどもに関して、これらの力能をより先に与えられており、後にこれらを実働にもたらす。・・[生得的な知覚とは「逆に」]われらは先行して実働することによって徳を獲得する、まさに別の技術においても同様であるように。・・家を建てることにより建築家になり、キタラを奏することによりキタラ奏者になる。このように、われらは正義を行うことにより正しい者となり、節制することにより節制者となり、勇敢であることにより勇敢な者となる。だが諸ポリスにおいて生じていることもこの証となる。立法者たちは市民たちを習慣づけることによって善き者とする、あらゆる立法者の意欲はこれなのである。・・この時点で一言でまとめると、類似の実働に基づき当該の態勢(hai hexeis)が生じてくる。それ故に当該の一定性質の実働(tas energeias poias)を生み出さなければならない。というのもこれらの諸差異に即して態勢が随伴するからである」(EN.II1.1103a14-b23)。
このように人間の心魂の諸力能をめぐり、訓練と習慣づけにより最終的には人格的に有徳者となり、カトリックにおいては「聖人」となる。これが、五感のような生得的諸力能とは異なる、訓練や習慣づけにより生じる優れた態勢としての徳倫理学の根幹を形成する。ひとは、かつてできなかったことができるようになる、そのような自己の成長や堕落を認める限り、ひとは「君の宝のあるところ、そこに君の心がある」(Mat.6:21)というイエスの主張同様に、大切にしているものに心が向かうという普遍的な法則からなる目的論的な構造のもとに倫理的な次元で生活していることになる。誰もが承認できることとして、イエスは明らかにこの目的論的人生観を前提にしている、或いは共有しうる立場で語っている。
人間が訓練により獲得する人格態勢に対する懐疑が提示されてきた。ルターに代表される人間認識によれば、聖人に至るまでの有徳性の蓄積の可能性を信ぜず、「人間は蛆虫のつまった頭陀袋」であり、右手で為す善行を左手に知らせないことがあるとするなら、神がキリストにあって為し給う奇蹟である。そこでは人々はルターにならい「恩恵のみ」を強調することもあろう。これに対して、ここで直接応答に取り組むことはできないが、「わたしは君たちの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)として人間的な視点をも導入することのあるパウロに即して、神の前と人の前を分節することが許容されている限り、対応は可能である。人間中心的には相対的に独立した行為主体として、「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる中立的な存在である(Rom.6:20-23)。パウロはこの可能存在に対し、「君が君の側で持つ信仰を神の前で持て」と命じることにより、キリストの出来事を自らのそれとして受け止めよと励ます(Rom.14:22)。神の前ではモーセ律法に照らす限り誰もが罪人であり腐臭を放ってもいようが、人間的には人生経験を通じて心魂の成長が見られることが確認されるならば、また立派な人間とそうでない人間がいる限り、その懐疑的主張をも倫理的次元で吟味できるとしておこう[ii]。
[i] 千葉惠『信の哲学』上巻第二章第三節参照p.318-346 (北海道大学出版会 2018)、
千葉惠「アリストテレスの倫理的実在論―ロゴスに自ら即して生きること」「MORALIA」 第29号(東北大学倫理学研究会 2022)参照。
[ii] 『信の哲学』 上巻第三章第三、四節参照。
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二
山上の説教における福音と倫理その二
(「方舟」64号に掲載したものの録音公開にあわせた章節の掲載ですが、録音では解説を加えながらの収録です)。
2024年2月19日
一・三 譬え話
民衆には(3)譬え話が語られるが、それは聴衆には馴染の比喩や事例、物語により構成されており、それらは話者であるイエスがその語りが伝える天国への橋渡し、媒介者であることへの信頼に導くことが目指されている。それは結果的に信頼関係が醸成されない者たちは去っていくことをも含意する。
天と地を繋げるよう語りかつ働くイエス自身への信頼なしには、表面的に理解はしても承認し受け止めることのできないそのような類の言葉が展開されている。一方で、信じる者にも信じない者にも理解できる言葉の層があり、これを無視してはイエスの言葉をも理解できない。他方、彼の言葉は一対一の信頼関係においてのみ自らに語り掛けられているその独自の言葉として人格的に働くそのような状況を引き起こすものである。なぜなら、これは媒介者であるイエス自身を信じることなしには、決して彼の語る天がリアルなものとなることはないそのようなものだからである。
譬えはそれを聞く者の態度いかんにより理解されまた理解されないものである。E.Schweizerはドイツにおける譬え研究をまとめてこう語る。「イエスの譬えは教育的ないし倫理的な呼びかけをなす命題に還元されうるものではなく、自分が今やそれを理解し内的に習得することに満足すれば譬えの方はなくてもよい、というものではない」[i]。
譬えは一般的な真理や教訓を例証するものではないという考えは、話者と聴衆の一対一の関係を形成するものという理解に導く。「パン種の譬え」は家の台所をあずかる婦人たちの生活の基本であり日常繰り返していることに他ならず、イエスが自らに近づいているのに気づく。「神の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に隠した。すると全体が発酵するまでになった」(Luk.13:21,Mat.13:33-34)。イエスはそこで「三サトンの粉」という日常的でない二十五キロもの大量の粉に言及する。彼女たちは生活の基本を知らない男たちに、呆れつつ「一体どうやってこれを調理台の上で、或いは外に出てテントの前で本当にこねろと言うのだろうか。食べるのにいつまでもかかって、パンがみな固くなってしまうだろうに」と思案する。シュヴァイツァーは言う、「譬えを理解することができるのは、譬えによって自ら、そこで語られている物語へと引き込まれていくときだけなのだ、ということである。譬えはただ「その内側から」のみ理解することができる」[ii]。そこから、毎日酵母菌があんなに膨らんでいくのを見ている婦人たちのなかに天国とは大宴会が開かれる所なのか或いはそれほど生命力に満ちているのかという印象を醸成する。この連続と不連続に訝しがることが物語に引き込まれるということの一例であろう。譬えはこうして一人一人の反応を引き起こす。
二一世紀に生きる者にも同様でありもはや肉声と肉眼の現場にいることはできないが、伝承されている譬え話を今・ここで聞く。「種蒔きの譬え」において、イエスは茨や荒れ地に蒔かれた種との比較において、善き地に落ちた種は数十倍の実りをもたらすと語った。「善い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」(Mac.4:20)。主観的にはどんなに自らの成育環境が殺伐とし、不毛に思えても、自らが善き土地であり、善き環境のもとに蒔かれたことを信じることなしに、成長し豊かな人生をもたらすことはできない。
この譬えも躓きを含意しており、種蒔く人の意向により、荒地や茨の地そして善き地に蒔かれており、種蒔く人は不公平ではないかと訝しがる。ここで「善き地」とは神に憐みをかけられた地である以外になく、自ら荒地ではなく善き地であるという信のみが善き果実をもたらすことを知らされる。譬えを介して語られる天国とその語り手への信頼、信仰により受け止めるときだけ、自らの人生が展開し、肯定的な果実を生み出し、ひいては天国はパン種により発酵し膨らんでゆくそのような生命力溢れる世界であり、そこに入れていただくという希望が湧いてくる。これが真実か否か個々人に決断を迫られている。譬え話が持つ、悔い改めと新生をもたらす言葉の力とはそのような個々人における承認への切迫性である。二千年前十二人で始まったこの運動が今・ここでプラスワンの実りをもたらすかという切迫性をもって語り掛けられる。
この世界の悪、不十全性の故に、イエスは自らについて沈黙することがある。彼の使命遂行の途上においては、明らかにされないものごとがある。これは聖書学でW.Wrede以来「メシヤの秘密」と呼ばれていることに関わる。イエスは自らを「人の子」として語り、媒介の働きにおいてまことの人であることを強調し自己限定している。イエスは彼の公生涯においてメシヤと看做されることを肯わず、周囲に厳しくそう理解しないよう戒めていたという問題である。確かなことは、O.Cullmannにより説得的に論じられているように、荒野の誘惑やペテロによるメシヤであることの告白、ピラトやカヤパの尋問に対する彼の応答「それはあなたが言っていることです」に見られるように、彼はユダヤ人の政治的メシヤとなり政治的王国を建築する者と看做されることを拒否したことである(Mat.4:8-10,26:64,27:11-14,Mk.8:27,33)。クルマンはこう纏めている。「(a)イエスは称号「メシヤ」に対して極度の留保を示した。(b)彼は実際その称号をサタンの誘惑と結び付けられた特殊な観念であると看做した。(c)決定的な諸箇所で彼は「メシヤ」の代わりに「人の子」を用いたそして一方を他方と或る対立のうちに置くことさえした。(d)彼は意図的にユダヤ人のメシヤの政治的概念形成に対抗してebed Yahweh[「神の僕」:「ebedは苦しんでいる神の僕である」p.55]に関連する諸観念を据えた。これらすべての点はイエスがローマ人によって政治的メシヤとして処刑された事実の皮肉を示している」[iii]。
イエスが「メシヤ」という呼称の政治的含意に注意を払っていたことは明らかである。実際、弟子たちの逃亡は単に連累への恐れということではなくイエスに政治的メシヤを期待していたことによっても説明されよう。「わが王国はこの世界に基づいていない」(John.18:36)。
明らかなことに、神の計画がユダヤ人による政治的支配の実現をイエスに託していたとすれば、これはすべての国民に告げられるべき福音の成就とは全く異なるものとなる。イエスは自らがユダヤ人の王を目指していると誤解されることは決して認めがたいことであったであろう。それ故にこそ、多義的でもある「メシヤ」の語用を避けたのだと思われる。
それとの対比において、大祭司の「お前は神の子、メシヤか」との政治的支配者の意味での確定をもくろむ追及に対し、イエスは彼らに「人の子」と自らを呼び、ダニエルの預言が自らに適用されると公言し、(1)自己言及として引用する。「あなたたちはやがて人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗ってくるのを見る」(Mat.26:63-64,Luk.22:66-71,Dan.7:13)。所謂メシヤの秘密はイエスの自己意識の変化という類のものではなく、彼は受肉した神の子として政治的メシヤへの誘惑を受けまたゲッセマネの苦闘の祈り等に見られるように、神の意志を一つ一つ実現していった。
重要なことは、イエスはイスラエルの歴史と自らが実現しつつある信に基づく神の国の福音を競合させることは決してないことである。神は永遠の相のもとに自らの意志をイスラエルおよび人類において実現させる自らの歴史の展開において、まず一つの民族を自らの民として選び律法を与え具体的な歴史を介して鍛錬し、自らの理解する正義と罪を明確に知らしめている。イエスはその計画に即しモーセ律法が「一点一画」たりとも廃棄されることはないという尊敬を貫きつつ、彼に託された神の国の福音の成就をめざし、神の意志を遂行する。その途上の歩みと成就を福音書は報告している。かくして、イエスは古い葡萄酒と新しい葡萄酒双方の保全を自らの使命とした。それは信の従順により純化されたモーセ律法を充たすことにより遂行された。事の成就を受けてのパウロは「信の律法」と「業の律法」の二つの啓示を前提に双方を秩序づけた(Rom.3:27)。
一・四 イエスの言葉の普遍的理解
イエスの宣教の言葉は誰もが理解できる言葉であるに相違ない。さもなければ、何も伝えることも導くことも生起しない。イエスの天の父のみ旨を伝えようとする言葉はこの連続と不連続の感覚、居心地の悪さ或いは躓きを聴衆の意味理解において引き起こす。しかし、語り手であるイエス自身の言行にこそ天の消息が見いだされること、即ち彼が実は(1)自らを伝達していたことを理解するとき、ひとはのっぴきならない態度決定の前に立たされていることに気づく。(1)自己言及と(3)譬えの判別において、イエスは持つ者と持たざるものを識別していた。そこで「持っている者」が「誰であれ」と語られており、この対比は奥義の知識が授けられている弟子たちに限定されてはいない。天と地の連続性とその憐みの充溢を受け取っている者は「誰であれ」さらに善きものを受け取る。他方、心頑なで信じない者は持っているものも取り去られると語られる。両者は憐みのもとにあるか否かで判別され、憐みへの信なしには譬えを正しく理解することはできない。
天と地がある限り、そしてイエスが媒介者である限り、常に彼の言葉と働きは躓きでもあろうが、人間の数々の行為のなかで「欲すること」と「行為すること」が同時でありうる心魂の根底に生起する信のみがこれを乗り越えることができる。例えば、国家の指導者になりたいという欲求と指導者として働くことには時間差があるが、信じることは同時でありうるものである。このことは信が心魂の根源的行為であることを示している。
確かに、何であれ誰かの語りを理解することに程度の差異が生起する。「語られている物語へと引き込まれていくときだけ」とシュヴァイツァーにより注解されるが、自らの経験に照らし合わせて、パン作りの譬えを通じて天国を理解する者もいれば、ただ言葉として言われていることを理解する者もいよう。この譬えを信じイエスについていこうとする者もいれば、不条理として拒絶する者もいよう。この彼の譬えや語り掛けを真実として受け止めるか否かが、あの溢れる生命力のなかでの発話がもたらす切迫性である。
他方、物語に引き込まれていようがいまいが、最低限の理解は承認するにも拒絶するにも双方のあいだで成立しているものでなければならない。それは言葉が持つ普遍性への信頼なしには言語の学習も伝達もあり得ないからである。イエスの生涯を踏まえて、イエスがキリストであることを宣教するパウロの立場からキリストについての宣教が始まる際の聴き手と語り手の関係を確認することができる。「それでは、信じることのなかったその方にいかにひとびとは呼びかけるであろうか。聞くことのなかったその方をいかに彼らは信じるであろうか。しかし、宣教する者なしにいかに彼らは聞くのであろうか」(Rom.11:14)。この聞くことを介して誰にも共有される語句の意味を理解する段階があり、そのゴールは、「わたしは君たちのうちにキリストが形づくられるまで産みの苦しみをなす」(Gal.4:19)と語られるように、キリストが宣教の聴き手のただなかに実働することである。単なる情報の伝達ではない、言葉とその意味理解の伝達が遂行されている。不連続の認識は聞く側の不十全性、罪による、即ち語る媒介者への信においてないことを含意している。福音はその信によってのみ正しく理解されるそのような言葉である。
この最低限の普遍的な理解の企てが山上の説教を倫理的教説として読むことを可能にする。信じる者も信じない者も同様に理解できるその普遍性において倫理学は構築される。福音はわれらの外に明確に立てられていることであろう。しかしその承認或いは拒絶はその明確な理解のもとになされる備えを必要としている。これが福音と倫理の関係である。
このことはキリスト以前の例えばアリストテレスの有徳性の理解と比較することを可能にする。なによりも、天の父の憐み深さが自然を介して示されている。「茨から葡萄が、アザミからイチジクが採れるだろうか」とイエスが言うように、「ヒトがヒトを生む」複製機構の安定性はアリストテレスによれば「最も自然的なものごと」であるが、イエスにおいても憐み深い自然の創造者である神の産物として太陽や雨と同様に自然の恵みに数えられる(Mat.7:16,Aristoteles, De Anima, II4.)。春になると花々が芽吹き、蜜蜂がやってくる、この秩序ある自然の循環が恩恵であるように、ひとは外に自己完結的に明確に立てられた福音の故に、それが神の憐みの現れであると信じ、信に基づく正義・義を受け取り、その義の果実としての愛に向かう。その愛の不十全性に悔い改め、また神の憐みに立ち返る。この望むらくは螺旋的深化をもたらす循環こそ中心に恩恵が立っているから生起するものである。倫理学はその中心への志向を括弧にいれつつ、周辺を循環することの基礎となる理解を展開する普遍の言葉である。
[i] E.シュヴァイツァー『イエス・神の譬え』山内一郎監修辻学訳p.51f(教文館1997)
[ii] 同掲書 p.56
[iii] O.Cullmann, The Christology of the New Testament, p.126 (London 1959)
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その一
春の連続聖書講義として「方舟」64号に掲載した「山上の説教における福音と倫理」を何回かにわけて、それも解説を加えながら公開いたします。そのつど録音された文章をその都度掲載します。
山上の説教における福音と倫理 (その一
千葉 惠 2024年2月16日
「イエスは、毎日、宮で教えていた。祭司長や律法学者、民衆の指導者たちは彼を殺そうと謀ったが、どうすべきか術を見出さなかった。というのも、すべての民衆が彼に群がって聞いていたからである」(Luk.19:47-48)。
「パウロはアゴラで、毎日、居合わせた人々と議論した。また或るエピキュロス派やストア派の哲学者たちが彼と議論した」(Act.17:17-18)。
「人間にとっての最大の善は、毎日、徳についてまた他のものごとについて議論を交わすことである、それらについて君たちは私が自分と他人を吟味しているのを、また吟味なき生は生きるに値しないと問答するのを聞いてきた」(プラトン『ソクラテスの弁明』38a)。
序
本稿においてナザレのイエスの山上の説教(「マタイ福音書」五―七章)を秩序ある仕方で理解したい。イエスはそこで普遍的な倫理学の析出を可能とする一般的な人間事象の認識を述べている。「君が量る量りで量られる」や「木は実によって知られる」などの心魂の態勢と行為のあいだの法則的な命題は善悪因果応報の跳ね返りの法則とでも言うべきものを導出させ、他の倫理学説との対話を可能にさせる。それにより、信じられるべきものである或いは信によってしか与(あずか)ることのできない「福音」は普遍的に了解可能な自然事象および人間事象のなかで心魂の根源として他の一切の営みを秩序づけるものであることを明らかにしたい。最初にイエスの語りが「福音」のもと四つの種類に秩序ある仕方で分類される複層的なものであることを確認する。続いて、倫理学の特徴を三つあげ、イエスの語りにも対応するものを見出すことができることを指摘し、倫理学との対話を試みそして人間事象の学問的な視野のもとで彼の山上の説教を分析したい。
旧約から新約への橋渡しとなる象徴的な説教群が山上の説教として編集されている。山上の説教はユダヤ教の律法を純化したものとして最も厳しい律法が展開されていると思われるが、それが実はまず福音の宣教であり、純化された律法が福音にいかに秩序づけられることにより遵守する実践的効力を得るにいたるかを伝えている。イエスはこの橋渡しを、奇蹟にも聖霊の付与にも訴えることなく、あまりの直截さと端的性の故にひとには躓づきを与えるが、誰もが少なくとも文字的意味を理解できる言葉のみにより伝えている。この説教をそのまま自ら実践し、旧約の古い革袋を自ずと内側から破り、福音の新しい革袋に喜びと平安そして生命を注いでおり、それによって律法が遵守可能であることを身をもって証している。
無償の「贈りもの」である罪の赦しの「福音」は天の父である神とその子イエスの協同作業として自己完結的に実現されている(Rom.3:24)。新約聖書において報告されているイエスの言葉の核である「福音」はその生涯の途上においても受難と復活においても福音の自己完結性のゆえに自己言及的なものであり、八つの祝福そしてモーセ律法の純化、先鋭化双方ともにイエスの言行において十全に理解されるものとなる。すなわち、彼は(旧約)聖書へのひたすらなる尊敬において自らの生を作り上げるが、預言と律法は彼を指示しまた彼において成就されるものであり、「聖書全体」がそれ故に人類の歴史全体がイエスとの関連において理解されるものとなっている(Luk.24:27)。「家を建てる者が退けた石が隅の親石となった」その内実を倫理学との対話を通じて普遍的な仕方で確認する(Ps.118:22,Luk.20:17)。
第一章 イエスの語りの複層性
一・一 「福音」の宣教と自己言及
ナザレのイエスは「彼に群がって聞き」にくる群衆にエルサレムの神殿やシナゴーグにおいてそしてガリラヤの野原や山上において何を語り、何を教えていたのであろうか。彼はアブラハムやイサク、ヤコブのイスラエルの族長たちに導かれた歴史の帰趨について、そして神のみ旨・み心(thelēma)は、モーセに啓示された律法を介して知らされていることまたイザヤやヨナ等の預言者たちの働きを介して知らされていることを語り教えた。彼は時空の外にいて天地を創造し、永遠の現在のもとに一切を知っている全知全能の「天の父」とそのみ旨について語った(Ps.139)。彼は天の父のみ旨を知っておりそれを教えようとした(ただし、終わりの時を除く(Mak.13:32))。彼は「天の父のみ旨を行う者が天国に入れていただく」ことを直截に語った(Mat.7:21)。彼は律法と預言者を通じて聖書に伝えられる神のみ旨・意志は自らの受難と復活において実現されると語り、神の国の福音の内実は自ら自身のことであると教えた。「祝福されている、君たちの目と耳は、というのも君たちの目は見ておりまた耳は聞いているからだ。まことに私は君たちに言う、多くの預言者や義人は君たちが見ているものを見たかったが見ることができず、君たちが聞いていることを聞きたかったが聞けなかった」(Mat.13:17)。
イエスがユダヤ教の改革者として始めた宣教活動は福音・善き音信、即ち神の国の救いを伝えるものであった。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた」(Mak.1:14-15)。イエスは聖書に即し福音を「イスラエルの失われた羊たち」に伝えることにより宣教活動を始めたが、彼は人々の信に出会い、その根源性の故に異邦人に対しても伝えたことが報告されている(Mat.15:21-28)。福音は自らを介して実現されるものであり、「福音」はパウロによれば、「信じる[と神が看做す]者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:4)。聴衆には悔い改めてこの新しい教えを信じるように促した。それが彼の短い宣教活動の内実であるが、その前提にイエスは聴衆が神のみ旨を知ることができそしてそれをなんらか遂行できると考えていた。
イエスの語りは複層的であり、概して四種類に分類されよう。(1)宣教する者と宣教される者が同一であることに基づき自己言及的に語られる。(2)神の憐みは天と地の連続的なものとして光や野の百合空の鳥など自然事象の比喩を介して語られる。(3)天と地の不連続性は人間事象の不十全性、悪や罪に由来するが、地上のものごとの譬え話によりまた歴史の帰趨をめぐる自らの預言や警告、叱責により架橋が試みられる。(4)自然事象、人間事象についての一般的法則が語られるが、この次元での発言が主に福音を一般的に支える倫理的な法則性を導出させる。
福音書が報告するイエスの言葉の(1)自己言及が極めて特徴的である。神の国の福音を宣教しつつ、その媒介者である自らを語る。彼の言動そのものに神の国が何らか今・ここに現在しているそのようなものがこの自己言及である。聖書への尊敬のなかで聖書に基づく歴史の帰趨が自らに結実するその認識が語られている。「聖書全体」がイエスを預言しまたイエスにおいて成就されそしてイエスを介して理解可能なものになるとイエス自身により発言されている。
イエスはガリラヤの野辺においては信の従順の生涯の途上にある。彼はまことの人として(旧約)聖書に記されていることに基づき、神のみ旨を忖度し自らの生を最善の行為選択肢の認知と実践においてその都度構築していった。イエスは自らの生涯が聖書に即したものであるとともに、その預言と律法の成就であるという自己認識のもとに一挙手一投足を歴史に刻んでいた。聖書全体が新しく福音のもとに位置づけられる。この福音の言葉の自己言及性は福音の事象が神とイエスの協同作業であり、自己完結的なものであることに基礎づけられる。パウロが「福音に[君たちと]共に与るために、福音のためにわたしはいかなることをも為す」と語るとき、信じる者に救いをもたらす福音とは何かひとにより与(あずか)られるものであり、福音それ自身は自己完結的なものであることを含意している(1Cor.9:23,cf.1:11)。ひとは自己完結的なものに対しては、例えば修繕の要のない完璧な家があり提供されるとして、受容するか拒否するかのいずれかによってしか関わることができない。その家は清らかで争いも病も死もないと言われ招かれたたとしてひとはどうするであろうか。
福音書に報告されているイエスの言葉には理論的教説の展開は見られない。彼が語る言葉はユダヤ教の伝統のなかで言い伝えられる教説を取り上げ、それを先鋭化したものであり、また自然事象に訴えるものであり、譬え話により具体的に教える。これらはすべて天の父のみ旨がいかなるものであるかを教えるものであると同時に、それは話者であり媒介者であるイエスとの信頼関係の醸成を目的としている。それもすべて心魂の根底における「その通りです、本当です(ita est, verum est)」という承認と同意そして信頼が問われている。その意味ではどこまでもイエスと聴衆者の一対一の関係が基本である。この点について譬え話が著しい役割を発揮する。
イエスは地上の(3)譬え話により天国がどのようなものであるかを語る。イエスは、自ら語る譬えは憐まれていることの自覚のなかで聞き理解する者と聞いてもこの憐みを悟らない者を判別する機能を持つと理解している。同時に譬えは叱責や警告をも発しまた含意しており悔い改めに導く機能を有している。「イエスは弟子たちに言った。「君たちには神の国の奥義が授けられているが、外側のかの者たちにはあらゆるものごとは譬え話のなかで明らかになる」(Mak.4:10)。彼は平行箇所でこう語る、「君たちに天の国の奥義を知ることが授けられているが、かの者たちには授けられていない。というのも、誰であれ(hostis)持っている者は、その者には与えられるであろうそしていや増し与えられるが、誰であれ持っていない者には、持っているものをもその者から取り去られるであろうからである。このことの故に、わたしは彼らに譬えにおいて語る、というのも、彼らは「見るけれども見ず、また聞くけれども聞かずそして理解しない」からである」」(Mat.13:11-13)。
ここで「奥義」とはイエスがメシヤであること、そして復活の勝利により彼の言行の一切が明らかになったときに回顧的に語られている(1)自己完結的な福音への「自己言及」のことが含意されていよう。
イエスは自らの復活のあと、エマオの途上において復活の主とは気づかなかった二人の弟子と共に歩きながら、真の預言者たちについて言う。「「ああ、預言者たちが語ったすべてのことを信じることに至らない、何という、愚かでその心鈍い者たち。キリスト[メシヤ]はこれらの苦しみを忍んでそして栄光に至るはずではなかったのか」。そして、イエスはモーセとすべての預言者から始めて聖書全体において(en pasais tais graphais)、ご自分について書かれていることを説明した」(Luk.24:25-27)。この自己言及は復活の勝利を挙げたからこそ語りうるものであった。そのことは、彼が信の従順の生の途上において天と地の媒介者である預言者と律法について三人称で語っていたものごとについて、イエス自ら言葉と行いにおいて偽りなく実現した後には、自らを指示している或いは自らとの関連において理解されるものとなったことを明らかにしている。
天の父のみ旨を明らかにし語る者は実は自らについて語っている一種の自己言及であったことになるが、このような事態は先ず言葉と行いにおいて偽りのない者においてのみ語りうる言葉であったということである。「わたしについてモーセ律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は必ずすべて実現する」(Luk.24:44)という甦ったのちのイエスの発言は神の子に相応しい言葉であるが、何世紀をもかけて編集された書物が人類の歴史全体を見渡し全体として一人のひとの子にして神の子について記している。言ってみれば、人類の歴史の帰趨はイエス自身への信にかかっていると報告されている。この書物は二千年の歴史の審判を経ているが、おそらく人類史上現在にも後にも他にこのような言語使用を見出すことはできないであろう。
なお福音書記者やパウロは宣教するイエスの言葉と働きを報告することを通じて宣教している。この宣教は間接的であり、種々の事実誤認の可能性は残る(神は人間の弱い言葉を介して伝達されることを許容している、つまり神が許容し認可しなければこのような形でさえ纏められることのなかったであろう書物が「聖書」であり、この意味においてそれは「神の言葉」である)。イエスその人においては自らの使命の認識と遂行のあいだには乖離はないであろう。誰かがたとえそこに乖離がなくとも自己認識つまり神の子として聖書の預言通りの受難と復活を遂げるという自己認識に誤りがある、自己欺瞞であると主張するなら、それは復活によってのみ反駁される。復活は神の専決行為だからであり、イエスに罪がなかったことの証だからである。
甦ったキリストは聖書の預言を自己言及のもとにまとめる。「そして彼らに言った、「キリストは苦しみを受けそして死者たちのなかから三日目に復活する、そして[キリスト]自身の名においてすべての異邦人に罪の赦しへの悔い改めが、エルサレムから始めて、宣教される」と書いてある。君たちはその証人である」(Luk.24:44-48,cf.Act.17:2)。復活については数百人の証人が挙げられている(1Cor.15:6)。一切を創造し統べ治める神から派遣され永遠の生命を与える神の愛の体現者であるイエスの言動に関わる者は、宣教する者と宣教される者が同一人である彼の言葉を真理であると信じ神の子キリストであると受け入れるか否かの態度決定が常に迫られている。そこでは「信じる」の対義語は「信じない」ではなく「裏切る」となるそのようなものである。宇宙を統べ治める父と子の協同作業の外に出ることのできる者は誰もいないからである。これが彼の言葉の根源的な層である。
パウロはこの福音の包括性をこう語る。「もし神がわれらの味方なら、誰がわれらの敵であるか。そもそもご自身の子を惜しまず、われらすべてのために彼を引き渡したその方が、いかに彼と共にあらゆるものをわれらに賜わらないということがあろうか。誰が神に選ばれた者たちを告発するのか。神が義とする方である。誰が罪に定めるのか。キリストは死んだ、いやむしろ甦り、神の右にある方であり、またわれらのために執り成したまう。誰がキリストの愛からわれらを引き離すであろうか。艱難か、災害か、迫害か、飢餓か、裸か、危険か、それとも剣か。まさにこう書いてある、「あなたの故にわれらは終日死に渡されています、われらは屠られる羊として認定されました」。しかし、われらはこれらすべてにおいてわれらを愛する方を介して勝ち得て余りある。というのも、死も生命も天使も支配者も現在あるものも来るべきものも諸力も、高きものも深きものも、他のどんな被造物も、われらの主キリスト・イエスにおける神の愛からわれらを引き離しうるものは何もないとわたしは確信するからである」(Rom.8:31-38)。
偽りの預言者が現れ自らをそう主張したとして、その言動を疑い偽りと判断しそれを信ぜず無視する者は裏切ったことにはならない。そこに愛はないからである。イエスは自ら神の子であると信じ、父のみ旨に従いその言動に偽りがなく各人の罪の赦しのために生涯を捧げた。これを信じるのか裏切るのか。なぜかと言えば、父は自らの専決行為として御子と自らの信義そして愛の証に彼を甦らせたからであり、この大きな物語の外にいる、逃れうる場所を持つ者は誰もいないからである。換言すれば、各人はこの物語の登場人物であり、この物語は信の根源性のもとに語られ展開されており、受け入れない者は不信な者として裏切るそのようなものだからである。それ故にこそ福音とはあらゆる者に宣教されねばならないそのようなものである。「多くの偽預言者があらわれ、多くの者たちを惑わすであろう。不法がはびこる故に、多くの者たちの愛が冷やされるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶその者は救われるであろう。そして御国のこの福音はすべての居住地においてあらゆる異邦人に向けて証言(marturion)として宣べ伝えられるであろう、そして終わりが来る」(Mat.24:12-14)。イエスの福音の言葉はこの根源的な(1)自己言及の層を持ち、人間中心的に人間とその魂を普遍的に考察する倫理学はこの層を持つことはできない。
一・二 天と地の連続と不連続
イエスは天と地の媒介者として神の憐みと祝福を山上の聴衆に伝える。これが彼の(2)天と地の連続性の言葉である。彼は人間としてまた同胞ユダヤ民族として共有しているもののなかに、天の父のみ旨、意志を見出し、それに新たな光をあてる。彼はガリラヤの野辺の百合の花、空の鳥を愛で、生命を育む光や雨そして親子の情愛に見られる自然を介して働いている天の父の憐みと恩恵を語る。「空の鳥をよく見よ。種も蒔かず、刈入れもせず、倉に納めもしない。だが、君たちの天の父は鳥を養ってくださる。君たちは鳥たちよりも一層優れているのではないか」(6:25-26)。
この自然を介した天の父の憐みの宣教のなかでイスラエルの伝統において預言者たちとモーセにより与えられた律法に聴衆の心を向けさせる。彼は、政治的、宗教的圧制、弾圧そして貧困、病などの苦難のなか精神の輝きを失い諦めの思いに支配されていた同胞に、パレスチナの自然と伝統を正面から引き受け聴衆を新たな発見に導く。
天と地の媒介は自然事象や人間事象であり、それを明晰に伝達するのはイエスの言葉である。天と地は天来の光の比喩によりその連続体であることが伝達される。他方、イエスは(3)その不連続にも聴衆の思考を喚起する。一方で「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる」(5:45)その自然の恵みを語りつつも、地は「嵐」や地震などの自然災害に見舞われる(7:27)。一方「君たちの誰がパンを欲しがるおのが子に石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように君たちは悪い者でありながらも、自分の子には善いものを与えることを知っている」のであり、これにより憐み深い父を連想させつつも、他方、地の父は「悪い者であり」虐待し姦淫する者たちである(7:9-11,5:27)。イエスは律法の純化により地上の不十全性を知らせつつ、天に眼差しを向けさせる。「君たちにあっては地上に諸々の宝を積むことがないように、そこには染みや虫が喰いそしてそこには泥棒たちが忍び込みそして盗むところである。しかし、君たちは天に宝を積みなさい、そこには染みも虫も喰うことがなくまた泥棒たちが忍び込むこともまた盗み出すこともない。というのも、君の宝があるところ、そこに君の心もあることになるであろうからである」(6:19-20)。この不十全な悪しき世界にあって、天の父が自然と人々を育み、導いてこられた祝福に思いをよせるように聴衆を導く。連続性は憐みという天来の光により確保され、不連続性は人間の「悪さ」によって生じる。この地上の否定的なものごとに不平を言い煩うのではなく、天の父の憐みに眼差しを向けさせる。
生命の力に息吹く神のみ旨が預言者と律法の純化、先鋭化を通じて、道徳的次元を乗り越え、人間の本来的な在り方としてまた新たな生命の在り処として言葉によって伝えられる。媒介者であるイエス自身が理解されるとき、連続と不連続の緊張は解消する、ただし、あくまでも肉の弱さにおいてある者たちにおける解消であり、常にその媒介者への立ち返りが不可欠となるそのような解消である。山上の説教はイエス自身の生涯を表しており、彼自身において満たされることにより律法から福音への真っ直ぐな道を指し示している。実際八福はすべてイエスの生涯において確認されること、そして純化されたモーセ律法はイエスにおいて実現されたことを確認する。このことは基本的に連続と不連続そして一般的な自然事象、人間事象((2)(3)(4))の言葉において語られる山上の説教も間接的に或いは預言的に(1)自己言及的でありイエス自身を指示していることを含意している。
イエスの四種類の語り
本年度最後の日曜聖書講義です。山上の説教と倫理学がいかに対話可能であるかを模索してきました。福音の語り(宣教する者イエスと宣教される者が同一である自己言及)のもとにいかに憐みや祝福による天と地の連続性の語りそして「悪い者」の故に不連続のなかで譬えや警告により地から天に架橋する語りが秩序づけられるかを吟味します。さらに第四の語りの層としてイエスは善悪因果応報の一般法則を導出することを赦す事例を挙げている。例えば、「君が量るその量りによって量られる」、「木は実によって知られる」そして「宝のあるところ、そこに君の心がある」であるが、これらは一つの倫理的地平を表現しており、福音と道徳的次元がいかにかかわるかを吟味しています。
山上の説教における道徳的次元を内破し確立する福音
「山上の説教における福音と倫理」「方舟」64号を書き上げ、60年かかってようやく福音と律法(道徳的次元)、旧約と新約、イエスとパウロの関係、秩序づけができ安堵しています。春休みに連続講義として掲載いたしますが、今週は「木は実によって知られる」の一般法則の解釈として従来の三種類とは異なる第四の立場を展開しています。
山上の説教は福音である
山上の説教は福音である
2023年12月24日
本年最後の講義です。ようやく山上の説教を福音という視点から読むことができ、パウロともスムーズに関係づけられることを話しました。良いお年を。千葉惠
山上の説教―山のうえにおかれた街は隠されることができない—
山上の説教
「山のうえにおかれた街は隠されることができない」
(録音は基本的に以下の文章の朗読ですが、全体が以下の文章において改善されています。文章において補っていただければ幸甚です)。
はじめに—自然と信仰の循環を可能にする確かさ—
この夏の異常な暑さ、そしてアドヴェントの冬のひきしまった寒さの日々。歳月の移ろいのなかで四季は巡りゆく。この確かな自然法則のもとにあることの恩恵、自然の循環の恩恵を思う。それと同様に、神のキリストを介した憐み、神にはわれら一人一人が独子をたまうほどに値高き者と認識されていることの憐み、これがひとを動かし、そこに信仰生活の循環を引き起こす。神の憐みへの信仰そして信仰に基づく正義・義、さらに義の果実としての愛へさらにはその愛の不十全性の自覚のもとに悔い改め、神の憐みに立ち戻る。この信仰生活の循環も確かなものが明確に中心にあるからこそ、望むらくは中心をめぐり螺旋的に深化しつつ、繰り返すことができる。神の憐みの先行性こそ、恩恵に他ならない。
一、山上の説教の主題—天の父のみ旨—
ナザレのイエスによる山上の説教は広くは「いかに生きるべきか(pōs biōteon)」(アリストテレス)という倫理学の問への限界的な生の描写として人類がもちえた最も理想的な道徳的生として今日に伝えられてきた。この説教の故に、ひとは或いは遵守の困難さにまた現実生活との折り合いのつかなさに絶望や無視のうちにうちすごしてきた。或いは、ひとはこの印象の強い一群の言葉を記憶に留め廃棄せず受け止めて来たという事実、誰かにより語られねばならなかったものの喜ばしき伝承において、人類に絶望しない証と捉えられた。この究極の道徳を説き、信の従順の故に自らその教えを生き抜いた人がひとりおり、そこに偽りがなかったからこそ「権威」(Mat.7:29)があったと報告されている。この人は人間本性、人間とは何かの理解をめぐり、父のみ旨の行使を介してその報いとして「天の父の子となる」(5:45)ことを教えた。
このあまりの尋常ならざる教えに、或る人は純化された律法の遵守が目的ではなく、遵守困難さを知らしめ福音に追いやる機能を持つ、或いは心情において善い意志を持つ限り、果実がなくとも善い木であり、その善意志だけが問われていると解し、また或る人は終末が切迫したなかで、倫理的にこの世に別れを告げ完全な妥協のない新時代への備えと解されてきた(H ヴェーダー『山上の説教』序章参照(日本キリスト教団出版局 2007)。
ナザレのイエスは、しかしながら、揺るぎのない仕方で、文字通りのことを意味しつつ、基本的に実行可能なものとして語り、自らそれを生き抜いた思われる。さもなければ、彼は聴衆に不可能なことを要求し苦しめるだけの教説を説くこととなり、彼の偽りのない憐み深い生と相容れない。
彼はこの説教において聴衆の置かれた圧制、貧困、病、無学等の現状を正面から引き受け、宗教的、神学的な用語をほとんど用いず、奇蹟の執行も聖霊への言及もなく、道徳的次元を共有しつつ、福音を指し示す。彼は、対人論法により、天と地の媒介者として日常経験することによりイメージ喚起力の強い光や雨、野の百合空の鳥のような自然事象、そして自らの言葉を媒介として天と地の連続性を神の憐れみのもとに明らかにしていく。
イエスは、光の透明性のなかで、天と地は薄い皮膜一枚に隔てられているように捉えており、その隔ての被膜そのものが光のゆえに透明にされ、連続的な天と地を隠れなき光のもとに捉え直す。「君たちは世の光である。山の上におかれた街は隠されることができない。・・このように君たちの光を人々の前に輝かせなさい、それは人々が君たちの良い働きを見て、君たちの天の父を崇めるようになるためである」(5:14-16)。彼はその透明な光のなかで、王であれ無一物であれこの世のいかなるものにも満たされないその霊によって貧し者、その心によって清らかな者、義に飢え渇く預言者的な生を純化し、彼らを祝福する。また「君たちは昔の人々にこう語られたのを聞いた。・・しかし、私は言う」(5:33)とモーセに授けられた神と人への正しい交わりの律法を先鋭化する。これらの純化、先鋭化はイエスの生涯を確認するとき、彼がはからずも自らに課した生であり、彼はその預言者的また律法的な生を十字架まで生き抜き、最も低い所に祝福の安全網を敷いた。
二、山上の説教における信の根源性
イエスは「イスラエルの失われた羊」(15:24)に遣わされたという自覚のもとに、「群衆が飼い主のいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ」(9:36)。彼は次第に形骸化して伝承されるユダヤ教の伝統の改革者として、神の言葉に生命を取り戻し、端的に神の意志、み旨を語り掛ける。「天にいますわが父のみ旨を行う者が天の国に入れていただくことになる」(7:22)。「み旨・み心(thelēma)」とは神の人間に対する意志、人間認識であり、神が価値あると看做すものが人間にとっても価値あるものである。「君の宝があるところ、かしこに君の心もある」(6:21)と語られるように、たとえひとは自ら追い求める美や良きものの価値を主張したとしても、その宝が次第に神のみ旨と合致するようにイエスは教える。主の祈りにある、「あなたのみ旨が天におけるごとく地においても成りますように」(6:10)。
天と地はこのみ旨により、法則的に秩序づけられており、人間にとっての本来性は「まず、ご自身の御国とご自身の義を求めよ」(6:33)と父との正しい関係を形成することに成り立つ。この「求めよ」は良いものをくださる方に信頼し、「信じなさい」の平易な言い換えである。「君たち求めなさい、そして与えられるであろう、探しなさい、そして見出だすであろう、叩きなさい、そしてそれは君たちに開かれるであろう。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(7:7-8)。この現在形による命令と未来形さらに現在形による応答には、父の憐みの現前が前提されており、イエスは八福と同様に確信のもとに語ることができる。何を着ようか、食べようか、生活の煩いの前に、「まず」、神との正しい関係を持つよう求めなさい。そして神はアブラハム、イサク、ヤコブらをその信仰によって義としたように、義としてくださるであろう(cf.8:10-11,Heb.ch.11)。
旧約の信に基づく義の先駆と共に、この教えはイエス自身により実践され、その後義認の系譜として連綿と受け継がれる。父なる神は御子の信の従順の生涯を嘉みした。「神の信」に対応する御子の信の従順の生涯がひとの神への信を基礎づけ、信の本性である双方向性、互恵性を基礎づける(Rom.3:3)。「まず、ご自身の義」に示される根源的な信には信の応答のみがふさわしい。それ以外、何によって神に対面するのか。十字架上の御子の父への望である人間の罪を赦すことをかなえるべく、神は御子を血による贖いとして「差し出した」(Rom.3:24)。神は「イエス・キリストの信」(Rom.3:22)、十字架に至る御子に帰属した信を介して「君たちに御子の義をあげよう」と差し出された。われらはただ「ください、ありがとう」と言って受け取る。これが父と子の信に基礎づけられる、ひとの信の根源性である。この根源性は「信仰のみ」、「信仰+αではない」という仕方で語られることがある。ルターは「われらは乞食だ、それが本当だ」と言い憐みを求めつつ死んだと伝えられる。その彼は「信仰とはくださいと言って差し出された手である」と言う。何を疑う、求めよ、さらば与えられん。
イエスは自らの信の歩みの途上において、信の根源性による他の一切の秩序づけをこう語る。「君たちの天の父は、これらのもの[衣食住]がみな君たちに必要なことをご存知である。まず、ご自身の御国とご自身の義とを求めなさい、そうすればこれらすべてのものは君たちに加えて与えられるだろう。だから、明日のことまで思い煩うな」(6:32-34)。
神は憐み深く、道徳的態勢(心の実力、構)以前に「善人にも悪人にも」(5:45)等しく雨を降らせ、太陽を昇らせていたまう。「明日のことまで思い煩うな」(6:34)と、毎日を野の百合空の鳥を養ってくださる天の父を仰いで、子が父にパンをねだり求めるように信頼せよと教える。「君たちの誰がパンを欲しがる自分の子供に石を与えるであろうか」(7:9)。かくして神の憐れみへの信仰こそ、神との正しい関係であることをイエスは教えている。これは福音の宣教に他ならない。「福音」とはパウロによれば「信じる者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:16)。
かくしてイエスはその一挙手一投足において信の従順の成就に向かいつつ、山上の説教において旧約の道徳的次元を内側から破ってアブラハムらに先駆のある福音を打ち立て、そのもとに新たに律法を秩序づけている。旧約の古い革袋を破って新しい天の国の生命と祝福があふれ出す。モーセの「業の律法」に基づく義は旧約律法の革袋に注がれ、福音の「信の律法」の革袋に天来の新しい生命が注がれる(Rom.3:27)。イエスは言う。「人々は新しい葡萄酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けて葡萄酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい葡萄酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。
三、先行する神の憐れみへの信仰
天と地の連続性において神の憐みが先行する。イエスは人間が髪の毛を白くも黒くもできず、「思い煩いにより、寿命をわずかでも延ばすこと」(6:27)もできないのと比し、天の父は認知的、人格的に完全な方であると伝え、憐み深い父のみ旨を行うことにより、ひとも完全な者になると励ます。「わたしは君たちに言う、敵たちを愛しなさい、自分を迫害する者たちのために祈りなさい。君たちが天にいます君たちの父の子となるためである。父は悪人たちにも善人たちにも太陽を昇らせ、正しい者たちにも不正な者たちにも雨を降らせてくださる。・・そのとき、天の父が完全であるように、君たちも完全であることになろう」(5:44-48)。天の父は人間の善悪、正邪の道徳的次元以前に人類に対し分け隔てなく憐み深い。
この説教においてはその憐み深さは言葉で伝えられているが、イエスは信の従順を貫きつつあり父のみ旨を十字架上で遂行した時点において、言葉と行い双方によりイエス・キリストを介して神の憐れみ深さ、福音が最も明確に知らされるに至る。その意味において律法から福音への橋渡しの現場が山上の説教である。イエスは生の現場で自らが共にいるとして招く、「疲れた者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。君たちを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。君たちは君たちの魂に安息を見出すであろう。わが軛は負いやすくわが荷は軽いからである」(Mat.11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信であり、イエスは単に言葉のみではなく自らと共に生を歩むよう励ます。それ故に彼の実人生のただなかで信の対象は天の父のみならず、彼において顕されつつある神の憐れみへの信となる(Rom.10:9,8:39)。
四、二種類の神の義と神との共知としての良心
山上の説教では二種類の神の義が語られる。それは、信に基づく義と「君たちの義がパリサイ人のそれに優らなければ天の国に入ることはできない」(5:20)と語られる文脈における業に基づく義であり、旧約のただなかで福音が切り開かれていく。業に基づく義は旧約律法において語られ、「業の律法」即ち「モーセ律法」(Rom.3:20,27,1Cor.9:9)は神の山におけるモーセに対する神の顕現により知らされている。十戒は「君たちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである」(Exod.20:20)。そこでの行為は偶像を拝むー拝まない、姦淫するー姦淫しない、貪るー貪らない等二者択一であり、一方を選択するとき義であり、他方は罪とされ、「わたしを愛し、戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与え」、否む者には「父祖の罪を子孫に三、四代に問う」相応の報いがある。モーセ律法を介して知らされている神のみ旨は罪を犯さないようにする人生の規範、道徳訓である。これらは外的に観察可能な規範である。これは行為選択への加点と減点による裁きであり、その意味で人間にも義と罪は相対的に判別可能なものとなる。しかし、信に基づく義は端的に神の前のことがらであり、神の判断に属する。そして神の判断は御子の信の生涯に明らかにされており、そこでの信の対義語は信じないというよりむしろ裏切りであり、人は信による証を立てていく。
光が媒体を透明なものにするように、神は「隠れたことを見ている・・願う前から君たちに必要なものを知って」おり一切が明瞭なものとして眼前にある(5:6-8)。これほどの透明性のもとでは心は隠すことができず良心が神の言葉を相手にすることにより研ぎ澄まされていく。良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。
イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り信に招く。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなく、これらは神ご自身の認識であり、「神に明らかなことがらが君たちの良心・共知(sun-eidēsis, con-science)にも明らかになっていることを望む」とパウロにより共知が目指されていることがらである(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。
自らにはとりわけ厳しく、隣人にはひたすら善意のもと赦すそのような教えは良心の咎めを容易にもたらす。良心の痛みの除去は神がキリストにおいてわれらを理解しておられることを共に知るときである。この共知についてパウロは言う、「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えないためである」(Rom.6:6)。この「われら」の知識主張は聖霊の今・ここの媒介なしに理解できない。聖霊は二千年前と現在を自由に往来し、聖霊があの二千年前の過去の出来事が「われらの古き人」の死であると神が看做してい給うことを呻きを以て今・ここで執成している。「キリスト・イエスにおいて顕された神の愛からわれらを引き離すものは何もない」その信において良心の咎めは拭われる(Rom.8:39)。イエスが「この女性の多くの罪は赦された、というのも多く愛したからである」(Luk.7:47)と語るとき、罪赦されたことの徴は愛し得ることにあることを知らされており、イエスの軛に繋がれ愛敵の道に歯を食いしばって共に歩む、そこに罪赦されたことの証を得るからである。
生命にいたる狭い門から天国に入った一人の人がいる。それは罪のなかったこと故に神の子であることが判明した。その方は永遠の生命のうちに神の右の座にいて或いは各人の心魂の根底において聖霊として「神に即して」(Rom.8:27)執成していたまう。パウロ同様、キリストがわがうちに生きるのであれば、山上の説教を充たしうるそのような希望が湧いてくる(Gal.2:20)。数百ある律法は「律法の冠」である「愛」に収斂されている(Rom.13:10)。イエスは「律法の一点一画も廃棄されない」(5:18)その神の意志への尊敬のなかで、「律法全体と預言者が依拠している」愛に業の律法を集中させ、信の従順により愛の律法を成就した(5:45,17,22:40)。「敵をも愛する」隣人愛に他のすべての律法を秩序づける。彼は野の百合空の鳥に見られる神の愛を自ら生き抜き自らの信義の証である復活の生命を介して、信義と「義の果実」としての「愛」これら二つの神の義を媒介した(Phil.1:11)。そこでは「信の律法」により最も純化されたモーセの「業の律法」が秩序づけられたと言うことができる。
かくして、山上の説教はもはや審判の言葉としてではなく、希望の言葉として受け止め直される。山上の説教は信から義へ、義から愛への一本道の究極に位置することになるであろう。イエスは福音成就の途上において山上の説教を語り生き抜いていた。パウロはその十字架と復活の視点から福音と律法を秩序づけることができた。かくしてイエスとパウロは狭き真っすぐな道の途上の言葉とその生の成就の視点として調和する。倫理学の主題である「ひとはいかに生きるべきか」の当為「べし」に含意される実践的効力の問は、イエスとパウロにおいては「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)その力強い信の狭い真っすぐな道を歩むことにある。
五、旧約の善悪因果応報から新約における「贈り物」へ
天地の連続性は以上の二種類の正義の法則によって秩序づけられている。天と地を包括する法則が働いている。旧約的な文脈にある山上の説教においては、それは勧善懲悪の善悪因果応報或いは「跳ね返りの法則」と呼ばれよう。行為主体の態度如何が問われ、行為選択の法則はこうまとめられる。「もし君たちが、人々が君たちに為してくれるよう欲するものごとがあるならば、そのかぎりのすべてのものごとを君たちもまた彼らにそのように為さねばならない。というのもこれが律法であり預言者たちであるからである」(7:12)。イエスはこの「黄金律」において、聖書の律法と預言者たちは愛することに集中していたことを伝えている。これは神の憐みの先行性を人間同士の交わりに移行させる命令である。まず自分から善意を行動で示そうと励まされる。行為主体の善意の先行性が、良き跳ね返りの生起する必要不可欠な要素である。神がわれらの信による応答を待っているように、人間同士の交わりにおいても善行の先行性が信頼関係を生み、豊かな応答の好循環が生起する。黄金律は善き行為の始点たれという励ましである。
他方、跳ね返りは悪意や偽りにも生起する。「目には目を、歯には歯を」(5:38)のような同害報復をも含め、相対的な分配としての正義は因果応報として一種の跳ね返りを持つ。「悪行の報いは悪行そのものである」(アウグスティヌス)。或いは悪人は「自ら掘った穴に陥る」(Ps.7:15)。悪の行為選択はまさにその心的態勢さらにその実害において罰を受けている(cf.Rom.1:18-32)。この道を歩む者は「すべての律法を満たす義務がある」(Gal.5:6)、「律法を行う者が義とされる」(Rom.2:6)が、誰もそれを充たし得ず、すべての口が塞がれる。「業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。律法を介した神による罪の認識があるからである」(Rom.3:20)。
山上の説教において敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人前での善行により人々からの称賛と有徳を誇り、律法の形式的遵守の故に正義を主張し、その結果天国を正当な権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」(6:5,6:17)。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。パリサイ人の誇りと自己義認には背後に過剰を欲する「貪欲な狼」が支配している(7:15)。外見上の善行のご褒美には貪欲に基づく誇りが伴う余地がある。。業の律法は端的ではなく、相対的、外見的、比量的な正不正を問題とする。
同様に、自らを優越した位置におく「裁く」ことは神のみ旨ではない。それは最初の人間が「善悪を知る」木の実を食べて以来、人間が神に背き生の主人公となっている象徴として挙げることができよう。「ひとを裁くな、裁かれないためである。というのも君たちが裁くその裁きにおいて君たちは裁き返され、君たちが量るその量りにおいて君たちにも量り与えられるからである。なぜ君はきょうだいの目にある塵を見るが、自分の目にある梁に気づかないのか。・・神聖なものを犬にやってはいけない、君たちの真珠を豚に投げてやってはいけない[むしろ飼料を与えよ]、豚たちがそれらを脚で踏みつけ、向き直って君たちに突進してくることのないように」(7:1-6)。
ここで「裁く(krinein)」とは、ちょうど羊飼いが羊と山羊を「えり分ける」ように、究極的には最後の審判において栄光の主が「栄光の裁きの座」につき、義人と罪人を「右」と「左」に分ける、そのようなことがらに向かう過程である(25:31-33)。人は神の位置を占めえない。貪欲や優越感はその跳ね返りを報いとして受ける。パウロは途上の人間が「罪に定める(katakrinein)」時、それは自らに跳ね返ると言う。「すべて裁いている君、ひとよ、君には弁解の余地がない。なぜなら、君は他人を裁くそのことがらにおいて、君自身を罪に定めているからである。というのも、君、裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。裁き合うとき双方とも同じ「業の律法」のもとにあり、赦しではなく優越者として罪に定めあっている。「裁くな」においてイエスはモーセの業のそれ自身における律法の適用の否定にまで至っている。これは神において信の律法による業の律法の乗り越えを意味していよう(cf.Rom.7:4,8:2,Gal.2:19「[信の]律法により[業の]律法に死んだ」)。
「裁き」が「梁」や「塵」等様々なレヴェルで遂行されているように、誰もがそれにより隣人の行為や人格を認識し判断する規準として、ひとは普遍的に量りを持つ。ここでは「裁き」と異なる「識別すること(dokimazein)」(cf.Rom.14:22)の重要性が説かれ、「君はきょうだいの目の塵を取り除くべくはっきり見るようになる」そのような愛が両者を判別する。豚には真珠ではなく飼料を与えることが最善の行為選択肢である。ひとは誰もが自らの認識規準のもとでひとや出来事を識別、判断せざるをえないが、それは神のみ旨に即して憐みを規準にして遂行せよと命じられる。
親切と高ぶりのもとに裁きを遂行することには天と地の包括的、長期的な善悪因果応報のもとに跳ね返りがあるであろう。そこで「報い」は一つの対人論法において用いられ、功績や罰を問う因果応報と呼びうる次元で語られる。旧約律法の理解として因果応報を前提にすることは、イエス自身が理解する信に基づく正義と緊張におかれる。神の憐れみの先行性への信は根源的な双方向性のもとでの受容、応答である。これは神主導の非可逆的な関係であり、対人関係における先行性とは異なる端的な、無比較的、無非量的な憐みの「贈りもの」(Rom.3:22)であり、その応答が受領、承認としての信である。
神の憐みの前提のもとでの八福の結論において「喜べ、大いに喜べ、天における報いが大きい」と語られるとき、比較的かつ相対的な配分的正義ではなく、イエスに従う者への端的な信に基づく正義の次元における神からの祝福が語られている(5:12)。祝福される者たちは比較を絶した善の贈りものを前にして神に賛美を帰しつつも、報いを受けることを自らの功績と唱え、誇ることはないであろう。功績的ではない信に基づく正義がここでは開示されている。というのも、神の前ではこの「報い」は十字架上で「赦してやってください」というイエスの願いを父なる神が聴き届け、かなえる「贈り物」と理解すべきことがらだからである(Luk.23:34)。「報い」は第一に御子の信の従順への報いである。イエスへの信頼が神に嘉みされ、功績への顧慮を伴わない恩恵として与えられる正義とその果実がこの言葉「報い」において理解される。加点減点の善悪因果応報の旧約的領野は過ぎ去っている。無比較的、端的な善がそこにある。パウロは言う、「それでは、どこに誇りはあるか、締め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介してである」(Rom.3:27)。イエスと共なることに人生の一切が秩序づけられる。「誇る者は主において誇れ」、キリストの軛を共に担えることに誇りを見出す(2Cor.10:17)。
六、結論
彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から「柔和と低さ」が伝わり、山上の説教を少しずつ生きうるものと「変身させられ」ていくであろう(Rom.12:2)。「憐れむ者は祝福されている。憐れまれるであろうからである。その心によって清らかな者は祝福されている、神を見るであろうからである。平和を造る者は祝福されている、その者たちは神の子と呼ばれるからである」(5:7-8)。彼の軛を担ぎ主と共にペースを合わせ隣を歩みうること、それは端的な「贈りもの」であり、祝福である。
聖書の死生観(5)―何故旧約聖書には永遠の生命への希求がほとんど見られないか?
聖書の死生観(5)―何故旧約聖書には永遠の生命への希求がほとんど見られないか?
これまで、ヨブ記や詩編、イザヤ書、エゼキエル書への参照のもと幾つか箇所で永遠の生命への要求とまではいかないが希求のみられることを確認してきたが、確かにフォンラートが言うように、新約聖書と比する時、一目瞭然にその数の僅かさに驚かされる。楽園の追放から御子の派遣までの準備期間として、預言はされていてもキリストを知らない民においては、今・ここで自然や人を介して働きかける主との応答に忙殺されていたということは言えるであろう。とりわけ、詩篇14篇に見られるように、神との関わりにおいて罪を指摘し続けられるとき、確かに永遠の生命を神に要求することはおこがましいことと看做されたこともその一要因であろう。キリストの復活の生命が証する永遠の生命への求めは見られないにしても、今の充溢、時との和解としてのボエチウス的な永遠は旧約人にも知られていたと言うべきである。というのも、彼らは愛を知りまたその感情実質である喜びを知っていたからである。ボエチウスは「永遠」を必ずしも時間の持続として捉える必然性はなく、「全的な、限定なき生の同時かつ完全な把握(Aeternitas est interminabilis vitae totae simul et perfecta possessio)」と規定している。これは新天新地としての神の国の永遠の持続と矛盾するものではない。というのも神の国をボエチウス的な意味での今の充溢と理解することができるからである。放物線が接線に触れるように、来たりかつ去り行く運動の一種としての時間の流れの矢に、現在が後悔のような過去により支配されることも、また焦りや不安のように未来により支配されることもなく、時との和解としての今の充溢として捉えることができる。これは永続の一つの現世的な徴であると言える。最も現在的な感情は喜びであり、喜びがあるとき、そこには現在をそのまま肯定しており、そこに希望がわいている。いつも喜んでいる人には放物線が次々に降りてきている人であると言える。
このような意味での永遠は旧約人の経験するところであった。「いかに楽しいことでしょう。主に感謝をささげることは いと高き神よ、御名を褒め詠い、朝ごとに、あなたのまことを宣べ伝えることは 十弦の琴に合わせ 琴の調べにあわせて。主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます」(Ps.92:1-5)。キリストにより永遠の生命を受けることのない者にはこの主への賛美と感謝において、今の充溢に生きていたと言える。旧約は永遠の生命のロゴス・理論をもたなかったが、実質的には永遠の徴は十分に経験されていたと言える。
聖書の死生観(4)永遠をめぐって
聖書の死生観(4)永遠をめぐって
聖書朗読 エゼキエル書37章1-14節、ヨハネ黙示録21章1-8節 旧約聖書において永遠の生命の木から遠ざけるべく、楽園を追放されたためにか、旧約人は神に永遠の生命を要求することはなかった。今・ここにおいて働いていたまう神がリアルであり、この人生における最善の行為選択肢と民族としての祝福を求めた。それでも、人間の本性が「内なる人間」を抱える限り、神の聖霊を受容する力能を有する限り、ヨブや詩人(16編)とともに預言者たちがインスピレーションを受ける時には永遠の生命を求め、賛美する。神の厳格さが支配的であるが、キリストの預言、証としての旧約人が描かれている。人類は一つの歴史を生きている。録音では永遠と感情の文法など自由に話しています。
聖書の死生観(3)旧約から新約への展開(2)
聖書の死生観(3)旧約から新約への展開(2)
聖書の死生観(1)で提示したテクストの1.2「旧約から新約への飛躍」から3「神が生死を支配する—今・ここにおいて働く旧約の神」さらに4「何故永遠の生命への追求は旧約人にはわずかしか見られないのか」まで自由に論じました。94頁に「永遠の生命を待望するということが、ヨブや預言者等特異な状況にある個人を除いては記録されていない」と書いたが、その具体的な箇所について質問がありました。ヨブ記19章25節に「わたしは知っている わたしを贖う方はいきておられ ついに塵の上に立たれるであろう。この皮膚がそこなわれようとも この身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう」とあり、これは身体を贖う神が塵の上にたたれ、その神を仰ぎ見る日が来るという希望を表していると理解します。Scofield Study Systemの当該箇所注にはこうあります。「19:26この箇所は旧約聖書における生ける贖い主の信仰の最も崇高な諸表現の一つを含んでいる:地上へのご自身の人格的な顕われ、ご自身の故の祝福された者の復活における神的なものの人格的参与、そして義人による神の確かなヴィジョンがそれである」。なお、詩篇16:8-11にはこうあります。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府(よみ)に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、生命の道をおしえてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い右の御手から永遠の喜びをいただきます」。この箇所で詩人はインスピレーションを受け、魂の踊るような喜びを表現しています。それは永遠の生命における神の御顔を仰ぐ生活を表しています。イザヤ書65章17節に「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。はじめからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にものぼることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ」と語られています。これは永遠の生命への希望の表現と理解します。